舊唐書

巻153

巻153

舊唐書

原文舊唐書

卷一百五十三

原文卷一百五十三

列傳第一百〇三 姚南仲 劉乃 袁高 段平仲 薛存誠 盧坦

原文列傳第一百〇三 姚南仲 劉乃 袁高 段平仲 薛存誠 盧坦

姚南仲

原文姚南仲

姚南仲は華州下邽の人である。乾元の初め、制科に及第し、太子校書を授けられ、高陵・昭応・万年の三県尉を歴任した。右拾遺に遷り、右補闕に転じた。大暦十三年、貞懿皇后独孤氏が崩御すると、代宗は悼惜して止まず、近城に陵墓を造営させ、朝夕目前に臨望せんことを冀った。南仲は上疏して諫めて曰く、

原文姚南仲,華州下邽人。乾元初,制科登第,授太子校書,歷高陵、昭應、萬年三縣尉。遷右拾遺,轉右補闕。大歷十三年,貞懿皇后獨孤氏崩,代宗悼惜不已,令於近城為陵墓,冀朝夕臨望於目前。南仲上疏諫曰:

伏して聞く、貞懿皇后は今、城東の章敬寺の北に陵廟を起さんとすと。臣は知らず、有司の請いか、陛下の意か、陰陽家の流れの旨に希うか。臣愚かには以て、宜しからざる所と為す。謹みて疏を具して陳論し、伏して願わくは暫く天睠を留めて省察せられんことを。臣聞く、人臣は家に宅し、君上は国に宅すと。長安ちょうあん城は、これ陛下の皇居なり。その穿鑿興動し、陵墓をその側に建つること可けんや。これ宜しからざる一なり。夫れ葬るは蔵するなり、人の得て見ざることを欲するなり。ここを以て古の帝・前王、后妃を葬るに、丘原に憑り、郊郭を遠くせざるは莫し。今は則ち西は宮闕に臨み、南は康荘に迫る。もし近くして見るべく、死して復た生くれば、西宮にてこれを待つも可なり。もし骨肉は土に帰し、魂は之く所無くば、章敬の北、竟に何の益かあらん。これを兆庶に視せば、則ち溺愛を彰わし、これを万代に垂れれば、則ち明徳を累わす。これ宜しからざる二なり。夫れ帝王たるものは、高明に居り、幽滞を燭す。先皇が龍首に因りて望春を建てたる所以は、蓋し此れが為めなり。今もし陵を目前に起せば、宸慮を動かして傷つけ、天心一たび傷つけば、数日平らかならず。かつ匹夫隅に向かえば、満堂之が為に楽しまず。万乗楽しまざれば、人其れ歓心すべけんや。また暇日に歌を起こし、鐘を内に動かせば、此の地皆聞こゆ。これ宜しからざる三なり。伏して貞懿皇后は、坤徳天に合し、母慈下に逮す。陛下は切に軫みて旒扆に在り、久しく蓍亀を俟つ。始めには之を貞懿と謚し、終わりには之を褻近を以て待つ。臣窃かに惑う。後徳を称述し、下泉に光被する所以に非ざるなり。今国人皆曰く、「貞懿皇后の陵、城下に邇きは、主上将に日省し時に望まんとす」と。これ聖徳に損あり、貞懿に益無し。将に之を寵せんと欲して、却って之を辱しむ。これ宜しからざる四なり。凡そ此の数事、実に大猷を玷し、天下咸に知る。伏して惟う、陛下熟計して其の長きを取られんことを。陛下方に武を偃べ人を靖めんとす。一たび此に誤れば、其の傷つくこと実に多し。臣恐る、君子の是非、史官の褒貶、大明忽ち掩蝕に虧き、至徳却って堯・舜に後るるを。其れ惜しまざらんや。今指日尚遙かなり。改めて卜すること何の害かあらん。皇情の殊眷を抑え、貞懿の美号を成さんことを。

原文伏聞貞懿皇后今於城東章敬寺北以起陵廟,臣不知有司之請乎,陛下之意乎,陰陽家流希旨乎?臣愚以為非所宜也。謹具疏陳論,伏願暫留天睠而省察焉。臣聞人臣宅於家,君上宅於國。長安城,是陛下皇居也,其可穿鑿興動,建陵墓於其側乎?此非宜一也。夫葬者藏也,欲人之不得見也。是以古帝前王葬后妃,莫不憑丘原,遠郊郭。今則西臨宮闕,南迫康莊,若使近而可見,死而復生,雖在西宮待之可也。如骨肉歸土,魂無不之,章敬之北,竟何所益?視之兆庶,則彰溺愛;垂之萬代,則累明德,此非所宜二也。夫帝王者,居高明,燭幽滯。先皇所以因龍首建望春,蓋為此也。今若起陵目前,動傷宸慮,天心一傷,數日不平。且匹夫向隅,滿堂為之不樂;萬乘不樂,人其可歡心乎?又暇日起歌,動鐘於內,此地皆聞,此非宜三也。伏以貞懿皇后,坤德合天,母慈逮下,陛下以切軫旒扆,久俟蓍龜。始謚之以貞懿,終待之以褻近,臣竊惑焉,非所以稱述後德,光被下泉也。今國人皆曰:「貞懿皇后之陵邇於城下者,主上將日省而時望焉。」斯有損於聖德,無益於貞懿。將欲寵之,而反辱之,此非宜四也。凡此數事,實玷大猷,天下鹹知,伏惟陛下熟計而取其長也。陛下方將偃武靖人,一誤於此,其傷實多。臣恐君子是非,史官褒貶,大明忽虧於掩蝕,至德翻後於堯、舜,不其惜哉!今指日尚遙,改卜何害?抑皇情之殊眷,成貞懿之美號。

疏が奏上されると、帝は甚だ之を嘉し、緋魚袋を賜い、特に五品階を加え、史館に宣付した。

原文疏奏,帝甚嘉之,賜緋魚袋,特加五品階,宣付史館。

宰相常袞と善し。袞が官を貶せられると、南仲は坐して出され、海塩県令となった。浙江東・西道観察使韓滉が推官に辟し、殿中侍御史・内供奉を奏授し、支使を充てた。尋ねて征還され、左司兵部員外を歴任し、郎中に転じ、御史中丞・給事中・同州刺史・陝虢観察使に遷った。

原文與宰相常袞善,袞貶官,南仲坐出為海鹽縣令。浙江東、西道觀察使韓滉辟為推官,奏授殿中侍御史、內供奉,充支使。尋征還,歷左司兵部員外,轉郎中,遷御史中丞、給事中、同州刺史、陜虢觀察使。

貞元十五年、李復に代わり鄭滑節度使となった。監軍薛盈珍は勢いに恃んで軍政を奪い、南仲は数たび盈珍に讒毀され、徳宗は頗る之を疑った。十六年、盈珍は小使程務盈を遣わし馳驛して表を奉り、南仲の陰事を誣奏した。南仲の裨将曹文洽も亦た京師に奏事に入り、盈珍の表中の語を伺い知った。文洽は私に憤怒を懐き、遂に晨夜兼道して務盈を追い、長楽駅に至り之に及び、同舎に宿した。中夜に務盈を殺し、盈珍の表を厠中に沈め、乃ち自殺した。日旰くして、駅吏門を辟き、血流れて地を塗るを見、旁らに文洽の二緘を得たり。一は南仲に告ぐるもの、一は表して南仲の冤を理め、且つ首として務盈を殺せることを陳う。上其の事を聞き、頗る之を駭異した。南仲は釁深からんことを慮り、遂に乞うて入朝せんとす。徳宗曰く、「盈珍軍政を擾すか」と。南仲対えて曰く、「盈珍軍政を擾さず、臣自ら陛下の法を隳すのみ。盈珍の輩の如きは所在に之あり。羊・杜復た生くとも、百姓を撫し、三軍を禦して、必ずや愷悌父母の政、師律善陣の制を成す能わざらん」と。上默然として久し。尚書右僕射を授けた。貞元十九年七月、位に終わり、年七十四、太子太保を贈られ、謚して貞と曰う。

原文貞元十五年,代李復為鄭滑節度使。監軍薛盈珍恃勢奪軍政,南仲數為盈珍讒毀,德宗頗疑之。十六年,盈珍遣小使程務盈馳驛奉表,誣奏南仲陰事。南仲裨將曹文洽亦入奏事京師,伺知盈珍表中語。文洽私懷憤怒,遂晨夜兼道追務盈,至長樂驛及之,與同舍宿;中夜殺務盈,沈盈珍表於廁中,乃自殺。日旰,驛吏辟門,見血流塗地,旁得文洽二緘,一告於南仲,一表理南仲之冤,且陳首殺務盈。上聞其事,頗駭異之。南仲慮釁深,遂乞入朝。德宗曰:「盈珍擾軍政耶?」南仲對曰:「勇珍不擾軍政,臣自隳陛下法耳。如盈珍輩所在有之,雖羊、杜復生,撫百姓,禦三軍,必不能成愷悌父母之政,師律善陣之制矣。」上默然久之。授尚書右僕射。貞元十九年七月,終於位,年七十四,贈太子太保,謚曰貞。

劉迺

原文劉迺

劉迺は字を永夷とす、洺州広平の人。高祖こうそ武幹は、武徳初め侍中を拝し、即ち中書侍郎林甫の従祖兄の子なり。父如璠は昫山丞、迺の貴きを以て、民部郎中を贈られた。迺は少くして聡穎にして学を志し、暗記して『六経』、日に数千言。及び長じ、文章清雅、当時に推重された。天宝中、進士に挙げられ、尋ねて父艱に丁り、喪に居りて孝を以て聞こえた。既に制終わり、調に従い選曹に赴く。迺は常に文部の才を選ぶこと未だ尽く善からずと為し、遂に知銓舎人宋昱に致書して曰く、

原文劉迺,字永夷,洺州廣平人。高祖武幹,武德初拜侍中,即中書侍郎林甫從祖兄子也。父如璠,昫山丞,以迺貴,贈民部郎中。迺少聰穎誌學,暗記《六經》,日數千言。及長,文章清雅,為當時推重。天寶中,舉進士,尋丁父艱,居喪以孝聞。既終制,從調選曹。迺常以文部選才未為盡善,遂致書於知銓舍人宋昱曰:

『虞書』に称す、「人を知れば則ち哲、官人を能くすれば則ち恵」と。巍巍たる唐・虞、挙げて以て難しと為す。今夫れ文部は、既に之を掄材を以て始め、之を授位を以て終う。是れ則ち人を知り官人する、斯れ重任と為す。昔、禹・稷・皐陶の衆聖に在りしも、猶お曰く載采九徳有り、考績を九載を以てす。近代の主司は、独り一二の小冢宰に委ね、言を一幅の判に察し、行を一揖の内に観る。古今の遅速、何ぞ侔からざること甚だしきや。夫れ判とは、狭詞短韻を以て、語定規有るを体と為す。亦た猶お一小冶を以て衆金を鼓するが如し。鼎と為り鏞と為らんと欲すとも、得べからざるなり。故に曰く、判の文に在りては、至って局促なる者なり。夫れ銓とは、必ず衣冠を崇くし、自ら媒耀して賢と為すを以てす。斯れ又た士の醜行、君子の病む所なり。もし文公・尼父を引きて之を銓廷に登せば、則ち図書『易象』の大訓と雖も、判体を以て之を挫かば、曾って徐・庾に及ばず。至徳有ると雖も、喋喋を以て之を取らば、曾って嗇夫に若かず。嗚呼、彼れ霄を幹き日を蔽うは、誠に巨樹なり。当に尺寸の材を求むれば、必ず椓杙に後る。龍吟武嘯は、誠に希声なり。若し尚お頬舌の感を尚ばば、必ず蛙黽に下る。観察の際、猶お悲しまざらんや。執事は慮りて亀策に過ぎ、文は雅誥に合す。豈に瑣瑣たる故事に拘り、曲折に因循せんや。誠に能く先ず政事を以て資とし、次に文学を以て征とし、退いて其の家を理むるを観、進んで其の節に臨むるを察せば、則ち厖鴻深沈の事も、亦た以て其の門戸を窺うべし。

原文《虞書》稱:「知人則哲,能官人則惠。」巍巍唐、虞,舉以為難。今夫文部,既始之以掄材,終之以授位,是則知人官人,斯為重任。昔在禹、稷、臯陶之眾聖,猶曰載采有九德,考績以九載。近代主司,獨委一二小冢宰,察言於一幅之判,觀行於一揖之內,古今遲速,何不侔之甚哉!夫判者,以狹詞短韻,語有定規為體,亦猶以一小冶而鼓眾金,雖欲為鼎為鏞,不可得也。故曰:判之在文,至局促者。夫銓者,必以崇衣冠,自媒耀為賢,斯又士之醜行,君子所病。若引文公、尼父登之於銓廷,則雖圖書《易象》之大訓,以判體挫之,曾不及徐、庾。雖有至德,以喋喋取之,曾不若嗇夫。嗚呼!彼幹霄蔽日,誠巨樹也,當求尺寸之材,必後於椓杙。龍吟武嘯,誠希聲也,若尚頰舌之感,必下於蛙黽。觀察之際,猶不悲夫!執事慮過龜策,文合雅誥,豈拘以瑣瑣故事,曲折因循哉?誠能先資以政事,次征以文學,退觀其理家,進察其臨節,則厖鴻深沈之事,亦可以窺其門戶矣!

其の年、剡県尉を補し、会稽尉に改む。宣州観察使殷日用が判官に奏し、宣慰使李季卿又た表を以て薦め、連ねて大理評事・兼監察御史を授けられた。転運使劉晏が奏して令し江西を巡覆せしめ、多く蠲免す。殿中侍御史・検校倉部員外・民部郎中に改め、並びに浙西留後を充てた。晏を佐けて賦を征するに、頗る裨益有り、晏は甚だ之を任じた。

原文其載,補剡縣尉,改會稽尉。宣州觀察使殷日用奏為判官,宣慰使李季卿又以表薦,連授大理評事、兼監察御史。轉運使劉晏奏令巡覆江西,多所蠲免。改殿中侍御史、檢校倉部員外、民部郎中,並充浙西留後。佐晏征賦,頗有裨益,晏甚任之。

大暦十二年、元載既に誅せられ、迺の久しく職に在るを以て、召して司門員外郎に拝す。十四年、崔祐甫政を秉る。素より迺と友善し。会うに郭子儀に尚父を加うるに、冊礼久しく廃せられ、此に至りて復た之を行わんとす。祐甫両省の官に令して冊文を撰せしむも、未だ旨に称せず。迺を召し閣に至りて之を草せしむるに、立ちて就る。詞義典裁、祐甫嘆賞すること久し。数日、擢て給事中と為し、尋ねて権知兵部侍郎に遷す。及び楊炎・盧杞相と為り、意多く正を醜とし、以て故に五歳遷らず。建中四年夏、但だ真拝するのみ。

原文大歷十二年,元載既誅,以迺久在職,召拜司門員外郎。十四年,崔祐甫秉政,素與迺友善。會加郭子儀尚父,以冊禮久廢,至是復行之。祐甫令兩省官撰冊文,未稱旨;召迺至閣草之,立就。詞義典裁,祐甫嘆賞久之。數日,擢為給事中,尋遷權知兵部侍郎。及楊炎、盧杞為相,意多醜正,以故五歲不遷。建中四年夏,但真拜而已。

その冬、涇原の兵が乱を起こし、天子は奉天に幸した。迺は病臥して私第にあり、賊の朱泚が使者を遣わして甘言で誘ったが、迺は病篤いと称した。またその偽宰相の蔣鎮に自ら来て招誘させたが、迺は暗疾を託し、灸灼を遍身に施した。鎮が再び至り、脅し取ることができないと知ると、嘆息して言うには、「鎮もかつて曹郎の列に忝くした者である。もし死ぬことができず、ここまで至ったならば、どうして自ら膻腥を辱め、さらに賢哲を汚穢しようか」と。歔欷して退いた。天子の輿駕が再び梁州に幸したと聞くと、自ら床に投じ、胸を搏って天を呼び、これにより危惙し、数日間絶食して卒した。時に年六十。徳宗が京に還り、迺の忠烈を聞き、礼部尚書を追贈した。子に伯芻あり。

原文其冬,涇師作亂,駕幸奉天。迺臥疾在私第,賊泚遣使以甘言誘之,乃稱疾篤。又令其偽宰相蔣鎮自來招誘,迺托喑疾,灸灼遍身。鎮再至,知不可劫脅,乃嘆息曰:「鎮亦嘗忝列曹郎,茍不能死,以至於斯,寧以自辱膻腥,復欲汙穢賢哲乎?」歔欷而退。及聞輿駕再幸梁州,乃自投於床,搏膺呼天,因是危惙,絕食數日而卒,時年六十。德宗還京,聞迺之忠烈,追贈禮部尚書。子伯芻。

伯芻は、字を素芝といい、進士第に登り、志行は修めて謹み深かった。淮南の杜佑が辟いて従事とし、府が罷ると、屏居して呉中に住んだ。久しくして、征されて右補闕に拝され、主客員外郎に遷った。友人と過ぎて飲み笑ったことで、韋執誼が密かに奏し、虔州掾曹に貶されたが、再び考功員外郎の裴垍がその応対の機捷を善しとして、考功郎中・集賢院学士に遷り、給事中に転じた。裴垍が宰相を罷め、太子賓客となったが、まもなく卒した。李吉甫が再び宰相に入ると、垍との宿嫌により、贈官を加えなかった。伯芻が上疏してこれを論じ、垍に太子少傅を贈った。伯芻の妻は、垍の従姨である。ある者が吉甫に讒言し、これが論奏の原因となった。伯芻は恐れ、急いで散地を請い、よって出て虢州刺史となった。吉甫が卒すると、裴度が抜擢して刑部侍郎とし、まもなく吏部選事を知った。元和十年、左常侍をもって致仕し、卒した。年六十一。工部尚書を贈られた。伯芻は風姿が古雅で、学に渉り、談笑を善くしたが、行動は時流に合わせ、論者はややこれを薄くした。

原文伯芻,字素芝,登進士第,誌行修謹。淮南杜佑辟為從事,府罷,屏居吳中。久之,征拜右補闕,遷主客員外郎。以過從友人飲噱,為韋執誼密奏,貶虔州掾曹,復為考功員外郎裴垍善其應對機捷,遷考功郎中、集賢院學士,轉給事中。裴垍罷相,為太子賓客,未幾而卒。李吉甫復入相,與垍宿嫌,不加贈官;伯芻上疏論之,贈垍太子少傅。伯芻妻,垍從姨也。或讒於吉甫,此以論奏。伯芻懼,亟請散地,因出為虢州刺史。吉甫卒,裴度擢為刑部侍郎,俄知吏部選事。元和十年,以左常侍致仕,卒,年六十一,贈工部尚書。伯芻風姿古雅,涉學,善談笑,而動與時適,論者稍薄之。

子の寬夫は、進士第に登り、諸府の従事を歴任した。宝暦年間、入って監察御史となった。かつて上言して言うには、「近ごろ摂祭は多く王府の官僚を差し、位望が既に軽く、厳粛な敬いを失う。伏して請う、今後太尉を摂するには、尚書省三品以上および保傅・賓詹等の官を差すこと。もし人少なければ、すなわち丞郎に通摂させること」と。まもなく左補闕に転じた。少列の陳岵が『維摩経』に注を進めて、濠州刺史を得た。寬夫は同列とともに、因って対してこれを論じ、岵が供奉の僧を介して経を進め、郡牧を図ったと言った。敬宗は怒って宰相に言うには、「陳岵は僧によって郡を得たのではない。諫官はどうしてこの言葉を得たのか。必ず推排して頭首を来させよ」と。寬夫は奏して言うには、「昨日陳岵を論じた時、発言の前後を記さず、ただ筆を握って草状したのは、すなわち微臣である。今事を論じて当たらず、臣は罪に当たる。もし推排を尋究すれば、恐らく事体を傷つけよう」と。帝はその過ちを引くことを嘉し、欣然としてこれを釈した。

原文子寬夫,登進士第,歷諸府從事。寶歷中,入為監察御史。嘗上言曰:「近日攝祭多差王府官僚,位望既輕,有乖嚴敬。伏請今後攝太尉,差尚書省三品已上及保傅賓詹等官;如人少,即令丞郎通攝之。」俄轉左補闕。少列陳岵進註《維摩經》,得濠州刺史。寬夫與同列,因對論之,言岵因供奉僧進經以圖郡牧。敬宗怒謂宰相曰:「陳岵不因僧得郡,諫官安得此言,須推排頭首來。」寬夫奏曰:「昨論陳岵之時,不記發言前後,唯握筆草狀,即是微臣。今論事不當,臣合當罪。若尋究推排,恐傷事體。」帝嘉其引過,欣然釋之。

寬夫の弟の端夫は、太常博士となり、韋綬の諡議を駁して名を知られた。寬夫の子に允章・煥章あり。

原文寬夫弟端夫,為太常博士,駁韋綬謚議知名。寬夫子允章、煥章。

允章は進士第に登り、累官して翰林学士承旨・礼部侍郎に至った。咸通九年、貢挙を知り、出て鄂州観察使・検校工部尚書となり、後に東都留守に遷った。黄巢が洛陽らくようを犯すと、允章は拒ぐことができず、賊は彼を害さなかったが、これにより家に廃された。病により卒した。

原文允章登進士第,累官至翰林學士承旨、禮部侍郎。咸通九年,知貢舉,出為鄂州觀察使、檢校工部尚書,後遷東都留守。黃巢犯洛陽,允章不能拒,賊不之害,坐是廢於家。以疾卒。

袁高

原文袁高

袁高は、字を公頤といい、恕己の孫である。少より慷慨し、名節を慕った。進士第に登り、累ねて使府に辟され、賛佐裨益の誉れがあった。代宗が即位すると、征されて朝に入り、累官して給事中・御史中丞に至った。建中二年、抜擢されて京畿観察使となった。事を論じて旨を失い、韶州長史に貶されたが、再び給事中に拝された。

原文袁高,字公頤,恕己之孫。少慷慨,慕名節。登進士第,累辟使府,有贊佐裨益之譽。代宗登極,征入朝,累官至給事中、御史中丞。建中二年,擢為京畿觀察使。以論事失旨,貶韶州長史,復拜為給事中。

貞元元年、徳宗が再び吉州長史の盧杞を饒州刺史に用い、高に詔書を草させた。高は詞頭を執って宰相の盧翰・劉従一に謁し言うには、「盧杞が宰相となって三年、矯詐陰賊をなし、忠良を退斥した。朋附する者は咳唾の間に立って青雲に至り、睚眥する者は顧盼の間に既に溝壑に擠された。明徳に傲很し、天常を反易し、鑾輿を播越させ、天下に瘡痍を生じさせたは、皆な杞の為すところである。族戮を免れたのは、貶黜を示したとはいえ、尋いで既に近地に稍遷し、もしさらに大郡を授ければ、恐らく天下の望を失う。惟うに相公が執奏すれば、事は尚お救うべし」と。翰・従一は悦ばず、命を改めて舎人にこれを草させた。詔が出ると、これを執して下さず、なお上奏して言うには、「盧杞が政を為すや、窮極して兇悪なり。三軍の将校は、その肉を食わんことを願い、百辟の卿士は、これを嫉むこと讎の如し」と。遺補の陳京・趙需・裴佶・宇文炫・盧景亮・張薦等が上疏して論奏した。翌日、また上疏した。高はまた正殿で奏して云うには、「陛下が盧杞を用いて独り鈞軸を秉ること前後三年、忠良を棄斥し、下に附き上を罔い、陛下をして草莽に越在せしめたは、皆な杞の過ちである。かつ漢の時に三光が序を失い、雨旱時にあらざるも、皆な宰相が請罪し、小なる者は免官し、大なる者は刑戮せられた。杞の罪は死に合う。陛下は生を好み殺を悪む。杞の万死を赦し、ただ新州司馬に貶したが、旋って復た遷移した。今刺史を除くは、これ天下の望を失う。伏して惟うに聖意の裁択を請う」と。上はこれに謂うには、「盧杞に不逮ありしは、朕が過ちなり」と。また奏して曰く、「盧杞は奸臣、常に詭詐を懐き、不逮にあらず」と。上曰く、「朕は既に赦した」と。高曰く、「赦はその罪を赦すのであり、刺史を授くべからず。かつ赦文は黎民に至って優しい。今饒州は大郡、もし奸臣に牧と為らせれば、これ一州の蒼生、独りその弊を受く。望むらくは常参官を引いて顧問し、併せて謹厚なる中官を択び、衆に采聴せしめよ。もし億兆の人の臣の言に異ならば、臣は万死に当たる」と。ここにおいて、諫官が上前で争論し、上は良久くしてこれに謂うには、「もし盧杞に刺史を与えるのは太だ優しければ、上佐を与えるのは可か」と。曰く、「可なり」と。すなわち饒州の制を追った。翌日、使者を遣わして高を宣慰して云うには、「朕卿の言の深く理切なるを思い、まさに卿の奏する所に依るべし」と。太子少保の韋倫・太府卿の張献恭等が奏して、「袁高の奏する所は至当なり。高は陛下の一良臣なり。望むらくは優異を加えよ」と。

原文貞元元年,德宗復用吉州長史盧杞為饒州刺史,令高草詔書。高執詞頭以謁宰相盧翰、劉從一曰:「盧杞作相三年,矯詐陰賊,退斥忠良。朋附者咳唾立至青雲、睚眥者顧盼已擠溝壑。傲很明德,反易天常,播越鑾輿,瘡痍天下,皆杞之為也。爰免族戮,雖示貶黜,尋已稍遷近地,若更授大郡,恐失天下之望。惟相公執奏之,事尚可救。」翰、從一不悅,改命舍人草之。詔出,執之不下,仍上奏曰:「盧杞為政,窮極兇惡。三軍將校,願食其肉;百辟卿士,嫉之若讎。」遺補陳京、趙需、裴佶、宇文炫、盧景亮、張薦等上疏論奏。次日,又上疏。高又於正殿奏云:「陛下用盧杞獨秉鈞軸,前後三年,棄斥忠良,附下罔上,使陛下越在草莽,皆杞之過。且漢時三光失序,雨旱不時,皆宰相請罪,小者免官,大者刑戮。杞罪合至死,陛下好生惡殺,赦杞萬死,唯貶新州司馬,旋復遷移。今除刺史,是失天下之望。伏惟聖意裁擇。」上謂曰:「盧杞有不逮,是朕之過。」復奏曰;「盧杞奸臣,常懷詭詐,非是不逮。」上曰:「朕已有赦。高曰:「赦乃赦其罪,不宜授刺史。且赦文至優黎民,今饒州大郡,若命奸臣作牧,是一州蒼生,獨受其弊。望引常參官顧問,並擇謹厚中官,令采聽於眾。若億兆之人異臣之言,臣當萬死。」於是,諫官爭論於上前,上良久謂曰:「若與盧杞刺史太優,與上佐可乎?」曰:「可矣!」遂追饒州制。翌日,遣使宣慰高云:「朕思卿言深理切,當依卿所奏。」太子少保韋倫、太府卿張獻恭等奏:「袁高所奏至當,高是陛下一良臣,望加優異。」

貞元二年、上は関輔が祿山の乱の後、百姓が貧乏し、田疇が荒穢していることを以て、諸道に耕牛を進めさせ、諸道の観察使が各々牛を選り揃えて進貢するのを待ち、京兆府に委ねて民戸を勧課し、地ありて牛なき百姓を勘責し、その地著を量り、牛を以て均しく給することを命じた。その田五十畝以下の者は、給する限りに在らず。高が上疏してこれを論じた。「聖慈の憂うる所は、切に貧下に在り。田五十畝に満たざる者は尤も貧人なり。請うらくは量りて三両家に共に牛一頭を給し、農事を済さしめよ」と。疏が奏され、これに従った。尋いで官に卒した。年六十。中外嘆惜した。憲宗の朝、宰臣の李吉甫がかつて高の忠鯁を言い、詔して礼部尚書を贈った。

原文貞元二年,上以關輔祿山之後,百姓貧乏,田疇荒穢,詔諸道進耕牛,待諸道觀察使各選揀牛進貢,委京兆府勸課民戶,勘責有地無牛百姓,量其地著,以牛均給之。其田五十畝已下人,不在給限。高上疏論之:「聖慈所憂,切在貧下。有田不滿五十畝者尤是貧人,請量三兩家共給牛一頭,以濟農事。」疏奏,從之。尋卒於官,年六十,中外嘆惜。憲宗朝,宰臣李吉甫嘗言高之忠鯁,詔贈禮部尚書。

段平仲

原文段平仲

段平仲、字は秉庸、武威の人である。隋の人部尚書段達の六代孫にあたる。進士に及第した。杜佑・李復が相次いで淮南を鎮守した際、いずれも平仲を掌書記に推挙した。李復が華州・滑州に移鎮した後も、引き続き従事を務めた。朝廷に入り監察御史となった。平仲は磊落で気節を重んじ、酒を好み傲岸な言動をとった。当時、徳宗は年齢が高く、多くを自ら裁断した。このため諸々の政務が滞り、事柄が処理されないこともあり、朝廷内外は皇帝の厳格な監察を恐れて、敢えて言上する者はいなかった。平仲はかつて人に言った、「主上は聡明で神武であるが、臣下は畏れて言わず、自ら沈黙しているだけだ。もし私が一度でも召見を得れば、必ずや大いに開悟させることができよう」と。貞元十四年、京師は旱魃に見舞われ、詔により御史・郎官各一名を選び、倉を開いて救恤することとなった。平仲と考功員外郎の陳帰が使節を奉ずることとなり、辞儀の機会を得て対面し、近く御座に進み、おおよそ事の次第を述べた。上は平仲に何か含むところがあると察し、陳帰が側にいるため言わないのだと思った。奏事が終わり退出する際、平仲だけは退かず、奏上したいことがあった。上は陳帰も兼ねて留めて問いただし、声色は甚だ厳しく、他の言葉も交えた。平仲は驚き慌て、全く言葉が出ず、誤って自分の名を称してしまった。上は怒り、叱りつけて退出させた。平仲は慌てふためき、また誤って御座の障子の後ろへ向かってしまい、陳帰が階下で連呼して、ようやく出ることができた。これにより七年間罷免されたが、しかしこのため名声は高まった。

原文段平仲,字秉庸,武威人。隋人部尚書段達六代孫也。登進士第。杜佑、李復相繼鎮淮南,皆表平仲為掌書記。復移鎮華州、滑州,仍為從事。入朝為監察御史。平仲磊落尚氣節,嗜酒傲言。時德宗春秋高,多自聽斷。由是庶務壅隔,事或不理,中外畏上嚴察,無敢言者。平仲嘗謂人曰:「主上聰明神武,臣下畏懼不言,自循默耳。如平仲一得召見,必當大有開悟。」貞元十四年,京師旱,詔擇御史、郎官各一人,發廩賑恤。平仲與考功員外陳歸當奉使,因辭得對,乃入近禦座,粗陳本事。上察平仲意有所蓄,以歸在側不言。及奏事畢退,平仲獨不退,欲有奏啟;上因兼留歸問之,聲色甚厲,雜以他語。平仲錯愕,都不得言因誤稱其名。上怒,叱出之。平仲蒼黃,又誤趨禦障後,歸下階連呼,乃得出。由是坐廢七年,然亦因此名顯。

後に屯田員外郎・膳部員外郎の二官、東都留守判官に任ぜられ、累進して右司郎中に至った。元和の初め、諫議大夫に転じた。宦官の吐突承璀が招討使となり、鎮州を征討したが、功績なく帰還した。平仲は呂元膺とともに上疏して論じ、罷免・譴責を加えるよう請うた。給事中に転じた。要職近侍の地位にあって、朝廷に得失があれば、論奏しないことはなく、当時の人々はその狷直を推重した。尚書左丞に転じ、病により太子左庶子に改められて卒した。

原文後除屯田膳部二員外郎、東都留守判官,累拜右司郎中。元和初,遷諫議大夫。內官吐突承璀為招討使,征鎮州,無功而還。平仲與呂元膺抗疏論列,請加黜責。轉給事中。自在要近,朝廷有得失,未嘗不論奏,時人推其狷直。轉尚書左丞,以疾改太子左庶子卒。

薛存誠

原文薛存誠

薛存誠、字は資明、河東の人である。父の薛勝は文才があり、かつて『抜河賦』を作り、文辞が清らかで明瞭であり、当時に称賛された。存誠は進士に及第し、累次使府に招聘され、朝廷に入って監察御史となり、館駅を管掌した。元和の初め、王師が劉辟を討伐した際、郵伝の事務が多忙となり、上は特に宦官を館駅使に任じた。存誠は密かに上表して論奏し、公の体面を損なうと述べた。諫官もまた論奏したため、上はこれを罷免した。殿中侍御史に転じ、度支員外郎に昇進した。裴垍が宰相となると、起居郎に抜擢し、司勲員外郎・刑部郎中・兼侍御史・知雑事を経て、兵部郎中・給事中に改めた。瓊林庫使が工匠・労役者を多く占有することを奏上したが、存誠はこれらは皆奸人が名を潜り込ませて徴役を避けようとするものであり、許すべきではないと考えた。咸陽県尉の袁儋が軍鎮と争い、軍人に道理がなく、侵掠誣告をほしいままにしたため、袁儋が逆に罰を受けた。二度の勅命が相次いで下ったが、存誠はいずれもこれを留めた。上はこれを聞いて甚だ喜び、中使を遣わして嘉賞慰労させ、これにより御史中丞に抜擢任命した。

原文薛存誠,字資明,河東人。父勝,能文,嘗作《拔河賦》,詞致瀏亮,為時所稱。存誠進士擢第,累辟使府,入朝為監察御史,知館驛。元和初,王師討劉辟,郵傳多事,上特令中官為館驛使。存誠密表論奏,以為有傷公體。會諫官亦論奏,上乃罷之。轉殿中侍御史,遷度支員外郎。裴垍作相,用為起居郎,轉司勛員外、刑部郎中、兼侍御史、知雜事,改兵部郎中、給事中。瓊林庫使奏占工徒太廣,存誠以為此皆奸人竄名,以避征役,不可許。咸陽縣尉袁儋與軍鎮相競,軍人無理,遂肆侵誣,儋反受罰。二敕繼至,存誠皆執之。上聞甚悅,命中使嘉慰之,由是擢拜御史中丞。

僧の鑒虚という者は、貞元年間以来、権勢ある者と交結し、賄賂を集め与え、宦官を城社(頼みの綱)として頼り、官吏は敢えて制裁できなかった。時に於頔・杜黄裳の家の私事が発覚し、連座して鑒虚が獄に下された。存誠が取り調べて数十万の奸贓を得て、獄が決し、大辟に当たるとした。朝廷内外の権力者は、更に上面前で保釈救済を求め、上は釈放を命じるよう宣したが、存誠は詔に従わなかった。翌日、また中使を御史台に遣わし、「朕はこの僧を面詰したいのであって、赦すのではない」と旨を宣した。存誠は中使に付けて奏上した、「鑒虚の罪状は既に明白です。陛下がもし召し出して赦そうとされるなら、まず臣を殺し、それからお取りください。さもなくば、臣は詔を奉じません」。上はその節操を嘉し、これに従い、鑒虚はついに笞刑に処せられて死んだ。洪州監軍の高重昌が信州刺史李位が大逆を謀ったと誣告して奏上し、李位は京師に召還された。上は仗内(宮中)で審問するよう命じた。存誠は一日に三度上表し、李位を御史台に付すよう請うた。推問調査の結果、罪状がなく、李位はついに冤罪を晴らした。

原文僧鑒虛者,自貞元中交結權倖,招懷賂遺,倚中人為城社,吏不敢繩。會於頔、杜黃裳家私事發,連逮鑒虛下獄。存誠案鞫得奸贓數十萬,獄成,當大辟。中外權要,更於上前保救,上宣令釋放,存誠不奉詔。明日,又令中使詣臺宣旨曰:「朕要此僧面詰之,非赦之也。」存誠附中使奏曰:「鑒虛罪款已具,陛下若召而赦之,請先殺臣,然後可取。不然,臣期不奉詔。」上嘉其有守,從之,鑒虛竟笞死。洪州監軍高重昌誣奏信州刺史李位謀大逆,追赴京師。上令付仗內鞫問。存誠一日三表,請付位於御史臺。及推案無狀,位竟得雪。

間もなく、再び給事中に任ぜられた。数か月後、御史中丞が欠員となり、上は存誠の以前の功績を思い、宰相に「憲を執る者として存誠に代えられる者はいない」と言い、遂に再び御史中丞とした。着任前に、急死した。憲宗は深く惜しみ、刑部侍郎を追贈した。存誠の性質は温和で、人に対して容れないものはなかったが、官に当たり事を治めるに及んでは、確固として動かず、士友はこれをもって重んじた。子に廷老がいる。

原文未幾,再授給事中。數月,中丞闕,上思存誠前效,謂宰相持憲無以易存誠,遂復為御史中丞。未視事,暴卒。憲宗深惜之,贈刑部侍郎。存誠性和易,於人無所不容,及當官禦事,即確乎不拔,士友以是稱重之。子廷老。

廷老は謹厳端正で父の風があり、性質は通達で鋭敏であった。宝暦年間に右拾遺となった。敬宗は放縦で、宮中に清思院新殿を造営し、銅鏡三千枚、黄白金箔十万枚を用いた。廷老は同僚と共に入閣して奏事し、「臣、伏して見るに、近日の官職任命は、往々にして中書省の進擬によらず、あるいは宣旨によって出されることがあります。伏して恐れるに、綱紀が次第に乱れ、奸邪がほしいままに行われるのではないかと」。敬宗は声を厳しくして、「他に何事を諫めるのか」と言った。舒元褒が答えて、「近日、宮中の修造が多すぎます」と言うと、上の顔色が変わり、「どこを修造しているのか」と言った。元褒は答えられず、廷老が進み出て言った、「臣らは諫官の職にありますゆえ、聞くところがあれば、即ち論奏すべきです。修造の場所は知りませんが、ただ瓦や木材の運搬が極めて多いのを見て、用いられていると知るのです。乞う、陛下、臣の言葉を罪とされませんように」。帝は「奏上したことは既に知った」と言った。まもなく史館修撰を兼ねた。

原文廷老謹正有父風,而性通銳。寶歷中為右拾遺。敬宗荒恣,宮中造清思院新殿,用銅鏡三千片、黃白金薄十萬番。廷老與同僚入閣奏事曰:「臣伏見近日除拜,往往不由中書進擬,或是宣出。伏恐綱紀漸壞,奸邪恣行。」敬宗厲聲曰:「更諫何事?」舒元褒對曰:「近日宮中修造太多。」上色變曰:「何處修造?」元褒不能對,廷老進曰:「臣等職是諫官,凡有所聞,即合論奏。莫知修造之所,但見運瓦木絕多,即知有用。乞陛下勿罪臣言。」帝曰:「所奏已知。」尋加史館修撰。

時に李逢吉が権力を握り、廷老の言論が余りに率直なことを憎んだ。鄭権は鄭注の力で広州節度使を得、鄭権は任地に着くと、公の珍宝をすべて京師に送って恩人に報いた。廷老は上疏して鄭権の罪を糾弾するよう請うた。宦官はこれにより廷老を深く恨んだ。また、李逢吉の党人である張権輿・程昔範が諫官の列にいるのは不適当であると論じ、李逢吉は大いに怒った。廷老が告休(喪に服す等)で百日を満たすと、李逢吉は廷老を臨晋県令に出した。

原文時李逢吉秉權,惡廷老言太切直。鄭權因鄭註得廣州節度,權至鎮,盡以公家珍寶赴京師以酬恩地。廷老上疏請按權罪,中人由是切齒。又論逢吉黨人張權輿、程昔範不宜居諫列,逢吉大怒。廷老告滿十旬,逢吉乃出廷老為臨晉縣令。

文宗が即位すると、朝廷に入り殿中侍御史となった。太和四年、本官のまま翰林学士を充てられ、同職の李讓夷と親しくした。廷老が内署(翰林院)に入ったのは、李讓夷が推薦引き上げたためである。廷老の性質は放逸で酒を好み、行いを慎まず、終日酣酔していた。文宗はこれを知って快く思わなかった。五年、職を罷められ、本官を守り、李讓夷もまた廷老に連座して職を罷め、職方員外郎を守った。廷老はまもなく刑部員外郎に任ぜられ、郎中に転じ、給事中に昇進した。開成三年に卒した。廷老は官に当たり職を挙げるに、虚誉を求めず、公卿の間で侃侃として議論し、甚だ正人の風格声望があった。刑部侍郎を追贈された。

原文文宗即位,入為殿中侍御史。太和四年,以本官充翰林學士,與同職李讓夷相善。廷老之入內署,讓夷薦挈之。廷老性放逸嗜酒,不持檢操,終日酣醉,文宗知之不悅。五年,罷職,守本官,讓夷亦坐廷老罷職,守職方員外郎。廷老尋拜刑部員外郎,轉郎中,遷給事中。開成三年卒。廷老當官舉職,不求虛譽,侃侃於公卿之間,甚有正人風望。贈刑部侍郎。

子の保遜は進士に及第し、官位は給事中に至った。

原文子保遜,登進士第,位亦至給事中。

保遜の子の昭緯は、乾寧年間に礼部侍郎となり、貢挙で人材を得、文章は秀麗であった。崔胤に憎まれ、磎州刺史に出され、卒した。

原文保遜子昭緯,乾寧中為禮部侍郎,貢舉得人,文章秀麗。為崔胤所惡,出為磎州刺史,卒。

盧坦

原文盧坦

盧坦、字は保衡、河南洛陽の人である。その先祖は范陽から移り住んだ。父の盧巒は鄭州刺史を追贈された。坦はかつて義成軍判官を務め、節度使李復が病篤くなると、監軍使薛盈珍は変事を憂慮し、急いで府庫を封じ、その麾下五百人を使牙(節度使の役所)に入れた。軍中は騒然とした。坦は密かに薛盈珍に促してこれを収めるよう言った。李復が卒すると、坦は喪を護って東都に帰った。後に寿安令となった。

原文盧坦,字保衡,河南洛陽人,其先自范陽徙焉。父巒,贈鄭州刺史。坦嘗為義成軍判官,節度使李復疾篤,監軍使薛盈珍慮變,遽封府庫,入其麾下五百人於使牙,軍中恟々;坦密言於盈珍促收之。及復卒,坦護喪歸東都。後為壽安令。

時に河南尹は賦税の徴収期限が迫っていたが、県民は機織が未完成であると訴えた。盧坦は十日間の延期を請うたが、府は許さなかった。坦は戸ごとにただ織り上げて納めるよう命じ、期限を顧みるなと言い、違反してもせいぜい県令の俸給を罰するだけだと述べた。織り上がって納品すると、坦もまた罰を受け、これによって名を知られるようになった。累進して庫部員外郎、兼侍御史、知雑事に至った。李錡が反乱を起こした際、有司は錡の祖父と父の廟墓を破壊するよう請うた。坦はかつて錡の従事を務めていたので、上奏して言うには、「淮安王李神通は草創の時期に功績があった。かつて古の父子兄弟は、罪が互いに及ばないものであり、ましてや錡の故に五代の祖先まで累が及ぶことがあろうか」と。そこで破壊されなかった。これにより神通の墓に五戸を賜い、清掃に備えさせた。武元衡が宰相となると、坦を中丞とし、李元素を大夫とし、坦に命じて東都に分司させたが、間もなく本庁に帰った。裴均が僕射となった時、朝班で定位置を越えていたので、坦は退くよう請うたが、均は受け入れなかった。坦は言う、「姚南仲が僕射であった時、例はこのようであった」と。均は言う、「南仲とは何者か」と。坦は言う、「南仲は正を守り、権勢に媚びる者と交わらなかった人物である」と。間もなく右庶子に左遷され、当時の人々はその責を均に帰した。一ヶ月余りで、宣歙池観察使として出向した。三年後、召されて刑部侍郎、塩鉄転運使となり、戸部侍郎、判度支に改めた。

原文時河南尹征賦限窮,而縣人訴以機織未就;坦請延十日,府不許。坦令戶人但織而輸,勿顧限也,違之不過罰令俸耳。既成而輸,坦亦坐罰,由是知名。累遷至庫部員外郎、兼侍御史、知雜事。會李锜反,有司請毀锜祖父廟墓。坦常為锜從事,乃上言曰:「淮安王神通有功於草昧。且古之父子兄弟,罪不相及,況以锜故累五代祖乎?」乃不毀。因賜神通墓五戶,以備灑掃。及武元衡為宰相,以坦為中丞,李元素為大夫,命坦分司東都,未幾歸臺。裴均為僕射,在班逾位,坦請退之,均不受。坦曰:「姚南仲為僕射,例如此。」均曰:「南仲何人?」坦曰:「南仲是守正而不交權幸者也。」尋罷為右庶子,時人歸咎於均。旬月,出為宣歙池觀察使。三年,入為刑部侍郎、鹽鐵轉運使,改戶部侍郎、判度支。

元和八年、西受降城が黄河の流路変更により浸水して損壊した。宰相李吉甫は兵を天徳故城に移すよう請うた。盧坦と李絳は協議し、次のように考えた。「西城は張仁願が築いたもので、匈奴に対する上策である。城は磧口に位置し、虜の要衝にあり、良質の水と豊かな草に恵まれ、辺防に有利である。今、黄河の決壊は、せいぜい二、三里後退するに過ぎない。どうして万代にわたる安泰永続の策を捨てて、一時の経費節減の謀に従おうとするのか。ましてや天徳故城は僻地の痩せた土地にあり、その北は山に倚り、黄河とは遠く隔たっている。烽火による警備も連絡が取れない。虜の突然の侵入があっても、情勢を知る由もなく、これは理由なく国境を二百里も縮めることであり、利益にはならない」。城使周懷義が利害を奏上したが、その議は坦の意見と同じであった。結局、この件は実行されなかった。間もなく、剣南東川節度使として出向した。任地で数年を経た後、閏月の軍吏の糧食料を徴収して行営の軍費に充てるよう請うたが、多くの人がこれを非難した。貞元十二年九月に卒去。享年六十九。礼部尚書を追贈された。

原文元和八年,西受降城為河徙浸毀,宰相李吉甫請移兵於天德故城。坦與李絳葉議,以為:「西城張仁願所築,制匈奴上策。城當磧口,居虜要沖,美水豐草,邊防所利。今河流之決,不過退就二三里,奈何舍萬代安永之策,徇一時省費之謀?況天德故城僻處確瘠,其北枕山,與河絕遠,烽候警備,不相統接。虜之唐突,勢無由知,是無故而蹙國二百里,非所利也。」及城使周懷義奏利害,與坦議同。事竟不行。未幾,出為劍南東川節度使。在鎮累年,後請收閏月軍吏糧料,以助軍行營,人多非之。貞元十二年九月卒,年六十九,贈禮部尚書。

史臣が曰く

原文史臣曰

史臣が曰く:古の諫臣には、言論によって死んだ者がある。その次に、衣の裾を引き、欄干を折るような諫言をしても、その節操を改めなかった者も、また難しいことである。袁高が盧杞を執拗に諫めたこと、薛存誠が鑒虚を誅殺したことは、古人の遺風がある。崔戎(平仲)の逆鱗に触れる気概は、その誤りを正したのであろうか。何文洽が奏章を奪って府の憤りを晴らしたこと、李源(永夷)が盗泉の水を飲まずに絶食したことは、節義の士である。姚南仲の非礼な葬儀についての言論、盧坦の西城に関する議論は、思慮が深いものであった。この数子のような人物がいるのに、世に君子がいないというのは、まさにひどい誣告である。

原文史臣曰:古之諍臣,有死於言者。其次,引裾折檻,不改其操,亦難矣哉!袁高之執盧杞,存誠之戮鑒虛,有古人之遺風焉!平仲觸鱗之氣,糾其謬歟?文洽奪章,以攄府憤;永夷絕食,不飲盜泉,節義之士也。南仲非葬之言,盧坦西城之議,量之深也。如數子,道為時無君子,乃是厚誣。

賛して曰く:霊草は佞人を指し、諫臣は過失を正す。袁高と薛存誠のみが、人の中の屈軼(霊草)である。温造(寛夫)は雀の如く躍り、李渤(廷老)は鴻の如く高く飛翔した。姚南仲、盧坦の啓奏は、君子の言である。

原文贊曰:靈草指佞,諫臣匡失。惟袁與薛,人中屈軼。寬夫雀躍,廷老鴻軒。姚、盧啟奏,君子之言。