旧唐書
姚南仲
姚南仲は華州下邽の人である。乾元の初め、制科に及第し、太子校書を授けられ、高陵・昭応・万年の三県尉を歴任した。右拾遺に遷り、右補闕に転じた。大暦十三年、貞懿皇后独孤氏が崩御すると、代宗は悼惜して止まず、近城に陵墓を造営させ、朝夕目前に臨望せんことを冀った。南仲は上疏して諫めて曰く、
伏して聞く、貞懿皇后は今、城東の章敬寺の北に陵廟を起さんとすと。臣は知らず、有司の請いか、陛下の意か、陰陽家の流れの旨に希うか。臣愚かには以て、宜しからざる所と為す。謹みて疏を具して陳論し、伏して願わくは暫く天睠を留めて省察せられんことを。臣聞く、人臣は家に宅し、君上は国に宅すと。長安城は、これ陛下の皇居なり。その穿鑿興動し、陵墓をその側に建つること可けんや。これ宜しからざる一なり。夫れ葬るは蔵するなり、人の得て見ざることを欲するなり。ここを以て古の帝・前王、后妃を葬るに、丘原に憑り、郊郭を遠くせざるは莫し。今は則ち西は宮闕に臨み、南は康荘に迫る。もし近くして見るべく、死して復た生くれば、西宮にてこれを待つも可なり。もし骨肉は土に帰し、魂は之く所無くば、章敬の北、竟に何の益かあらん。これを兆庶に視せば、則ち溺愛を彰わし、これを万代に垂れれば、則ち明徳を累わす。これ宜しからざる二なり。夫れ帝王たるものは、高明に居り、幽滞を燭す。先皇が龍首に因りて望春を建てたる所以は、蓋し此れが為めなり。今もし陵を目前に起せば、宸慮を動かして傷つけ、天心一たび傷つけば、数日平らかならず。かつ匹夫隅に向かえば、満堂之が為に楽しまず。万乗楽しまざれば、人其れ歓心すべけんや。また暇日に歌を起こし、鐘を内に動かせば、此の地皆聞こゆ。これ宜しからざる三なり。伏して貞懿皇后は、坤徳天に合し、母慈下に逮す。陛下は切に軫みて旒扆に在り、久しく蓍亀を俟つ。始めには之を貞懿と謚し、終わりには之を褻近を以て待つ。臣窃かに惑う。後徳を称述し、下泉に光被する所以に非ざるなり。今国人皆曰く、「貞懿皇后の陵、城下に邇きは、主上将に日省し時に望まんとす」と。これ聖徳に損あり、貞懿に益無し。将に之を寵せんと欲して、却って之を辱しむ。これ宜しからざる四なり。凡そ此の数事、実に大猷を玷し、天下咸に知る。伏して惟う、陛下熟計して其の長きを取られんことを。陛下方に武を偃べ人を靖めんとす。一たび此に誤れば、其の傷つくこと実に多し。臣恐る、君子の是非、史官の褒貶、大明忽ち掩蝕に虧き、至徳却って堯・舜に後るるを。其れ惜しまざらんや。今指日尚遙かなり。改めて卜すること何の害かあらん。皇情の殊眷を抑え、貞懿の美号を成さんことを。
疏が奏上されると、帝は甚だ之を嘉し、緋魚袋を賜い、特に五品階を加え、史館に宣付した。
宰相常袞と善し。袞が官を貶せられると、南仲は坐して出され、海塩県令となった。浙江東・西道観察使韓滉が推官に辟し、殿中侍御史・内供奉を奏授し、支使を充てた。尋ねて征還され、左司兵部員外を歴任し、郎中に転じ、御史中丞・給事中・同州刺史・陝虢観察使に遷った。
貞元十五年、李復に代わり鄭滑節度使となった。監軍薛盈珍は勢いに恃んで軍政を奪い、南仲は数たび盈珍に讒毀され、徳宗は頗る之を疑った。十六年、盈珍は小使程務盈を遣わし馳驛して表を奉り、南仲の陰事を誣奏した。南仲の裨将曹文洽も亦た京師に奏事に入り、盈珍の表中の語を伺い知った。文洽は私に憤怒を懐き、遂に晨夜兼道して務盈を追い、長楽駅に至り之に及び、同舎に宿した。中夜に務盈を殺し、盈珍の表を厠中に沈め、乃ち自殺した。日旰くして、駅吏門を辟き、血流れて地を塗るを見、旁らに文洽の二緘を得たり。一は南仲に告ぐるもの、一は表して南仲の冤を理め、且つ首として務盈を殺せることを陳う。上其の事を聞き、頗る之を駭異した。南仲は釁深からんことを慮り、遂に乞うて入朝せんとす。徳宗曰く、「盈珍軍政を擾すか」と。南仲対えて曰く、「盈珍軍政を擾さず、臣自ら陛下の法を隳すのみ。盈珍の輩の如きは所在に之あり。羊・杜復た生くとも、百姓を撫し、三軍を禦して、必ずや愷悌父母の政、師律善陣の制を成す能わざらん」と。上默然として久し。尚書右僕射を授けた。貞元十九年七月、位に終わり、年七十四、太子太保を贈られ、謚して貞と曰う。
劉迺
劉迺は字を永夷とす、洺州広平の人。高祖武幹は、武徳初め侍中を拝し、即ち中書侍郎林甫の従祖兄の子なり。父如璠は昫山丞、迺の貴きを以て、民部郎中を贈られた。迺は少くして聡穎にして学を志し、暗記して『六経』、日に数千言。及び長じ、文章清雅、当時に推重された。天宝中、進士に挙げられ、尋ねて父艱に丁り、喪に居りて孝を以て聞こえた。既に制終わり、調に従い選曹に赴く。迺は常に文部の才を選ぶこと未だ尽く善からずと為し、遂に知銓舎人宋昱に致書して曰く、
『虞書』に称す、「人を知れば則ち哲、官人を能くすれば則ち恵」と。巍巍たる唐・虞、挙げて以て難しと為す。今夫れ文部は、既に之を掄材を以て始め、之を授位を以て終う。是れ則ち人を知り官人する、斯れ重任と為す。昔、禹・稷・皐陶の衆聖に在りしも、猶お曰く載采九徳有り、考績を九載を以てす。近代の主司は、独り一二の小冢宰に委ね、言を一幅の判に察し、行を一揖の内に観る。古今の遅速、何ぞ侔からざること甚だしきや。夫れ判とは、狭詞短韻を以て、語定規有るを体と為す。亦た猶お一小冶を以て衆金を鼓するが如し。鼎と為り鏞と為らんと欲すとも、得べからざるなり。故に曰く、判の文に在りては、至って局促なる者なり。夫れ銓とは、必ず衣冠を崇くし、自ら媒耀して賢と為すを以てす。斯れ又た士の醜行、君子の病む所なり。もし文公・尼父を引きて之を銓廷に登せば、則ち図書『易象』の大訓と雖も、判体を以て之を挫かば、曾って徐・庾に及ばず。至徳有ると雖も、喋喋を以て之を取らば、曾って嗇夫に若かず。嗚呼、彼れ霄を幹き日を蔽うは、誠に巨樹なり。当に尺寸の材を求むれば、必ず椓杙に後る。龍吟武嘯は、誠に希声なり。若し尚お頬舌の感を尚ばば、必ず蛙黽に下る。観察の際、猶お悲しまざらんや。執事は慮りて亀策に過ぎ、文は雅誥に合す。豈に瑣瑣たる故事に拘り、曲折に因循せんや。誠に能く先ず政事を以て資とし、次に文学を以て征とし、退いて其の家を理むるを観、進んで其の節に臨むるを察せば、則ち厖鴻深沈の事も、亦た以て其の門戸を窺うべし。
其の年、剡県尉を補し、会稽尉に改む。宣州観察使殷日用が判官に奏し、宣慰使李季卿又た表を以て薦め、連ねて大理評事・兼監察御史を授けられた。転運使劉晏が奏して令し江西を巡覆せしめ、多く蠲免す。殿中侍御史・検校倉部員外・民部郎中に改め、並びに浙西留後を充てた。晏を佐けて賦を征するに、頗る裨益有り、晏は甚だ之を任じた。
大暦十二年、元載既に誅せられ、迺の久しく職に在るを以て、召して司門員外郎に拝す。十四年、崔祐甫政を秉る。素より迺と友善し。会うに郭子儀に尚父を加うるに、冊礼久しく廃せられ、此に至りて復た之を行わんとす。祐甫両省の官に令して冊文を撰せしむも、未だ旨に称せず。迺を召し閣に至りて之を草せしむるに、立ちて就る。詞義典裁、祐甫嘆賞すること久し。数日、擢て給事中と為し、尋ねて権知兵部侍郎に遷す。及び楊炎・盧杞相と為り、意多く正を醜とし、以て故に五歳遷らず。建中四年夏、但だ真拝するのみ。
その冬、涇原の兵が乱を起こし、天子は奉天に幸した。迺は病臥して私第にあり、賊の朱泚が使者を遣わして甘言で誘ったが、迺は病篤いと称した。またその偽宰相の蔣鎮に自ら来て招誘させたが、迺は暗疾を託し、灸灼を遍身に施した。鎮が再び至り、脅し取ることができないと知ると、嘆息して言うには、「鎮もかつて曹郎の列に忝くした者である。もし死ぬことができず、ここまで至ったならば、どうして自ら膻腥を辱め、さらに賢哲を汚穢しようか」と。歔欷して退いた。天子の輿駕が再び梁州に幸したと聞くと、自ら床に投じ、胸を搏って天を呼び、これにより危惙し、数日間絶食して卒した。時に年六十。徳宗が京に還り、迺の忠烈を聞き、礼部尚書を追贈した。子に伯芻あり。
伯芻は、字を素芝といい、進士第に登り、志行は修めて謹み深かった。淮南の杜佑が辟いて従事とし、府が罷ると、屏居して呉中に住んだ。久しくして、征されて右補闕に拝され、主客員外郎に遷った。友人と過ぎて飲み笑ったことで、韋執誼が密かに奏し、虔州掾曹に貶されたが、再び考功員外郎の裴垍がその応対の機捷を善しとして、考功郎中・集賢院学士に遷り、給事中に転じた。裴垍が宰相を罷め、太子賓客となったが、まもなく卒した。李吉甫が再び宰相に入ると、垍との宿嫌により、贈官を加えなかった。伯芻が上疏してこれを論じ、垍に太子少傅を贈った。伯芻の妻は、垍の従姨である。ある者が吉甫に讒言し、これが論奏の原因となった。伯芻は恐れ、急いで散地を請い、よって出て虢州刺史となった。吉甫が卒すると、裴度が抜擢して刑部侍郎とし、まもなく吏部選事を知った。元和十年、左常侍をもって致仕し、卒した。年六十一。工部尚書を贈られた。伯芻は風姿が古雅で、学に渉り、談笑を善くしたが、行動は時流に合わせ、論者はややこれを薄くした。
子の寬夫は、進士第に登り、諸府の従事を歴任した。宝暦年間、入って監察御史となった。かつて上言して言うには、「近ごろ摂祭は多く王府の官僚を差し、位望が既に軽く、厳粛な敬いを失う。伏して請う、今後太尉を摂するには、尚書省三品以上および保傅・賓詹等の官を差すこと。もし人少なければ、すなわち丞郎に通摂させること」と。まもなく左補闕に転じた。少列の陳岵が『維摩経』に注を進めて、濠州刺史を得た。寬夫は同列とともに、因って対してこれを論じ、岵が供奉の僧を介して経を進め、郡牧を図ったと言った。敬宗は怒って宰相に言うには、「陳岵は僧によって郡を得たのではない。諫官はどうしてこの言葉を得たのか。必ず推排して頭首を来させよ」と。寬夫は奏して言うには、「昨日陳岵を論じた時、発言の前後を記さず、ただ筆を握って草状したのは、すなわち微臣である。今事を論じて当たらず、臣は罪に当たる。もし推排を尋究すれば、恐らく事体を傷つけよう」と。帝はその過ちを引くことを嘉し、欣然としてこれを釈した。
寬夫の弟の端夫は、太常博士となり、韋綬の諡議を駁して名を知られた。寬夫の子に允章・煥章あり。
允章は進士第に登り、累官して翰林学士承旨・礼部侍郎に至った。咸通九年、貢挙を知り、出て鄂州観察使・検校工部尚書となり、後に東都留守に遷った。黄巢が洛陽を犯すと、允章は拒ぐことができず、賊は彼を害さなかったが、これにより家に廃された。病により卒した。
袁高
袁高は、字を公頤といい、恕己の孫である。少より慷慨し、名節を慕った。進士第に登り、累ねて使府に辟され、賛佐裨益の誉れがあった。代宗が即位すると、征されて朝に入り、累官して給事中・御史中丞に至った。建中二年、抜擢されて京畿観察使となった。事を論じて旨を失い、韶州長史に貶されたが、再び給事中に拝された。
貞元元年、徳宗が再び吉州長史の盧杞を饒州刺史に用い、高に詔書を草させた。高は詞頭を執って宰相の盧翰・劉従一に謁し言うには、「盧杞が宰相となって三年、矯詐陰賊をなし、忠良を退斥した。朋附する者は咳唾の間に立って青雲に至り、睚眥する者は顧盼の間に既に溝壑に擠された。明徳に傲很し、天常を反易し、鑾輿を播越させ、天下に瘡痍を生じさせたは、皆な杞の為すところである。族戮を免れたのは、貶黜を示したとはいえ、尋いで既に近地に稍遷し、もしさらに大郡を授ければ、恐らく天下の望を失う。惟うに相公が執奏すれば、事は尚お救うべし」と。翰・従一は悦ばず、命を改めて舎人にこれを草させた。詔が出ると、これを執して下さず、なお上奏して言うには、「盧杞が政を為すや、窮極して兇悪なり。三軍の将校は、その肉を食わんことを願い、百辟の卿士は、これを嫉むこと讎の如し」と。遺補の陳京・趙需・裴佶・宇文炫・盧景亮・張薦等が上疏して論奏した。翌日、また上疏した。高はまた正殿で奏して云うには、「陛下が盧杞を用いて独り鈞軸を秉ること前後三年、忠良を棄斥し、下に附き上を罔い、陛下をして草莽に越在せしめたは、皆な杞の過ちである。かつ漢の時に三光が序を失い、雨旱時にあらざるも、皆な宰相が請罪し、小なる者は免官し、大なる者は刑戮せられた。杞の罪は死に合う。陛下は生を好み殺を悪む。杞の万死を赦し、ただ新州司馬に貶したが、旋って復た遷移した。今刺史を除くは、これ天下の望を失う。伏して惟うに聖意の裁択を請う」と。上はこれに謂うには、「盧杞に不逮ありしは、朕が過ちなり」と。また奏して曰く、「盧杞は奸臣、常に詭詐を懐き、不逮にあらず」と。上曰く、「朕は既に赦した」と。高曰く、「赦はその罪を赦すのであり、刺史を授くべからず。かつ赦文は黎民に至って優しい。今饒州は大郡、もし奸臣に牧と為らせれば、これ一州の蒼生、独りその弊を受く。望むらくは常参官を引いて顧問し、併せて謹厚なる中官を択び、衆に采聴せしめよ。もし億兆の人の臣の言に異ならば、臣は万死に当たる」と。ここにおいて、諫官が上前で争論し、上は良久くしてこれに謂うには、「もし盧杞に刺史を与えるのは太だ優しければ、上佐を与えるのは可か」と。曰く、「可なり」と。すなわち饒州の制を追った。翌日、使者を遣わして高を宣慰して云うには、「朕卿の言の深く理切なるを思い、まさに卿の奏する所に依るべし」と。太子少保の韋倫・太府卿の張献恭等が奏して、「袁高の奏する所は至当なり。高は陛下の一良臣なり。望むらくは優異を加えよ」と。
貞元二年、上は関輔が祿山の乱の後、百姓が貧乏し、田疇が荒穢していることを以て、諸道に耕牛を進めさせ、諸道の観察使が各々牛を選り揃えて進貢するのを待ち、京兆府に委ねて民戸を勧課し、地ありて牛なき百姓を勘責し、その地著を量り、牛を以て均しく給することを命じた。その田五十畝以下の者は、給する限りに在らず。高が上疏してこれを論じた。「聖慈の憂うる所は、切に貧下に在り。田五十畝に満たざる者は尤も貧人なり。請うらくは量りて三両家に共に牛一頭を給し、農事を済さしめよ」と。疏が奏され、これに従った。尋いで官に卒した。年六十。中外嘆惜した。憲宗の朝、宰臣の李吉甫がかつて高の忠鯁を言い、詔して礼部尚書を贈った。
段平仲
段平仲、字は秉庸、武威の人である。隋の人部尚書段達の六代孫にあたる。進士に及第した。杜佑・李復が相次いで淮南を鎮守した際、いずれも平仲を掌書記に推挙した。李復が華州・滑州に移鎮した後も、引き続き従事を務めた。朝廷に入り監察御史となった。平仲は磊落で気節を重んじ、酒を好み傲岸な言動をとった。当時、徳宗は年齢が高く、多くを自ら裁断した。このため諸々の政務が滞り、事柄が処理されないこともあり、朝廷内外は皇帝の厳格な監察を恐れて、敢えて言上する者はいなかった。平仲はかつて人に言った、「主上は聡明で神武であるが、臣下は畏れて言わず、自ら沈黙しているだけだ。もし私が一度でも召見を得れば、必ずや大いに開悟させることができよう」と。貞元十四年、京師は旱魃に見舞われ、詔により御史・郎官各一名を選び、倉を開いて救恤することとなった。平仲と考功員外郎の陳帰が使節を奉ずることとなり、辞儀の機会を得て対面し、近く御座に進み、おおよそ事の次第を述べた。上は平仲に何か含むところがあると察し、陳帰が側にいるため言わないのだと思った。奏事が終わり退出する際、平仲だけは退かず、奏上したいことがあった。上は陳帰も兼ねて留めて問いただし、声色は甚だ厳しく、他の言葉も交えた。平仲は驚き慌て、全く言葉が出ず、誤って自分の名を称してしまった。上は怒り、叱りつけて退出させた。平仲は慌てふためき、また誤って御座の障子の後ろへ向かってしまい、陳帰が階下で連呼して、ようやく出ることができた。これにより七年間罷免されたが、しかしこのため名声は高まった。
後に屯田員外郎・膳部員外郎の二官、東都留守判官に任ぜられ、累進して右司郎中に至った。元和の初め、諫議大夫に転じた。宦官の吐突承璀が招討使となり、鎮州を征討したが、功績なく帰還した。平仲は呂元膺とともに上疏して論じ、罷免・譴責を加えるよう請うた。給事中に転じた。要職近侍の地位にあって、朝廷に得失があれば、論奏しないことはなく、当時の人々はその狷直を推重した。尚書左丞に転じ、病により太子左庶子に改められて卒した。
薛存誠
薛存誠、字は資明、河東の人である。父の薛勝は文才があり、かつて『抜河賦』を作り、文辞が清らかで明瞭であり、当時に称賛された。存誠は進士に及第し、累次使府に招聘され、朝廷に入って監察御史となり、館駅を管掌した。元和の初め、王師が劉辟を討伐した際、郵伝の事務が多忙となり、上は特に宦官を館駅使に任じた。存誠は密かに上表して論奏し、公の体面を損なうと述べた。諫官もまた論奏したため、上はこれを罷免した。殿中侍御史に転じ、度支員外郎に昇進した。裴垍が宰相となると、起居郎に抜擢し、司勲員外郎・刑部郎中・兼侍御史・知雑事を経て、兵部郎中・給事中に改めた。瓊林庫使が工匠・労役者を多く占有することを奏上したが、存誠はこれらは皆奸人が名を潜り込ませて徴役を避けようとするものであり、許すべきではないと考えた。咸陽県尉の袁儋が軍鎮と争い、軍人に道理がなく、侵掠誣告をほしいままにしたため、袁儋が逆に罰を受けた。二度の勅命が相次いで下ったが、存誠はいずれもこれを留めた。上はこれを聞いて甚だ喜び、中使を遣わして嘉賞慰労させ、これにより御史中丞に抜擢任命した。
僧の鑒虚という者は、貞元年間以来、権勢ある者と交結し、賄賂を集め与え、宦官を城社(頼みの綱)として頼り、官吏は敢えて制裁できなかった。時に於頔・杜黄裳の家の私事が発覚し、連座して鑒虚が獄に下された。存誠が取り調べて数十万の奸贓を得て、獄が決し、大辟に当たるとした。朝廷内外の権力者は、更に上面前で保釈救済を求め、上は釈放を命じるよう宣したが、存誠は詔に従わなかった。翌日、また中使を御史台に遣わし、「朕はこの僧を面詰したいのであって、赦すのではない」と旨を宣した。存誠は中使に付けて奏上した、「鑒虚の罪状は既に明白です。陛下がもし召し出して赦そうとされるなら、まず臣を殺し、それからお取りください。さもなくば、臣は詔を奉じません」。上はその節操を嘉し、これに従い、鑒虚はついに笞刑に処せられて死んだ。洪州監軍の高重昌が信州刺史李位が大逆を謀ったと誣告して奏上し、李位は京師に召還された。上は仗内(宮中)で審問するよう命じた。存誠は一日に三度上表し、李位を御史台に付すよう請うた。推問調査の結果、罪状がなく、李位はついに冤罪を晴らした。
間もなく、再び給事中に任ぜられた。数か月後、御史中丞が欠員となり、上は存誠の以前の功績を思い、宰相に「憲を執る者として存誠に代えられる者はいない」と言い、遂に再び御史中丞とした。着任前に、急死した。憲宗は深く惜しみ、刑部侍郎を追贈した。存誠の性質は温和で、人に対して容れないものはなかったが、官に当たり事を治めるに及んでは、確固として動かず、士友はこれをもって重んじた。子に廷老がいる。
廷老は謹厳端正で父の風があり、性質は通達で鋭敏であった。宝暦年間に右拾遺となった。敬宗は放縦で、宮中に清思院新殿を造営し、銅鏡三千枚、黄白金箔十万枚を用いた。廷老は同僚と共に入閣して奏事し、「臣、伏して見るに、近日の官職任命は、往々にして中書省の進擬によらず、あるいは宣旨によって出されることがあります。伏して恐れるに、綱紀が次第に乱れ、奸邪がほしいままに行われるのではないかと」。敬宗は声を厳しくして、「他に何事を諫めるのか」と言った。舒元褒が答えて、「近日、宮中の修造が多すぎます」と言うと、上の顔色が変わり、「どこを修造しているのか」と言った。元褒は答えられず、廷老が進み出て言った、「臣らは諫官の職にありますゆえ、聞くところがあれば、即ち論奏すべきです。修造の場所は知りませんが、ただ瓦や木材の運搬が極めて多いのを見て、用いられていると知るのです。乞う、陛下、臣の言葉を罪とされませんように」。帝は「奏上したことは既に知った」と言った。まもなく史館修撰を兼ねた。
時に李逢吉が権力を握り、廷老の言論が余りに率直なことを憎んだ。鄭権は鄭注の力で広州節度使を得、鄭権は任地に着くと、公の珍宝をすべて京師に送って恩人に報いた。廷老は上疏して鄭権の罪を糾弾するよう請うた。宦官はこれにより廷老を深く恨んだ。また、李逢吉の党人である張権輿・程昔範が諫官の列にいるのは不適当であると論じ、李逢吉は大いに怒った。廷老が告休(喪に服す等)で百日を満たすと、李逢吉は廷老を臨晋県令に出した。
文宗が即位すると、朝廷に入り殿中侍御史となった。太和四年、本官のまま翰林学士を充てられ、同職の李讓夷と親しくした。廷老が内署(翰林院)に入ったのは、李讓夷が推薦引き上げたためである。廷老の性質は放逸で酒を好み、行いを慎まず、終日酣酔していた。文宗はこれを知って快く思わなかった。五年、職を罷められ、本官を守り、李讓夷もまた廷老に連座して職を罷め、職方員外郎を守った。廷老はまもなく刑部員外郎に任ぜられ、郎中に転じ、給事中に昇進した。開成三年に卒した。廷老は官に当たり職を挙げるに、虚誉を求めず、公卿の間で侃侃として議論し、甚だ正人の風格声望があった。刑部侍郎を追贈された。
子の保遜は進士に及第し、官位は給事中に至った。
保遜の子の昭緯は、乾寧年間に礼部侍郎となり、貢挙で人材を得、文章は秀麗であった。崔胤に憎まれ、磎州刺史に出され、卒した。
盧坦
盧坦、字は保衡、河南洛陽の人である。その先祖は范陽から移り住んだ。父の盧巒は鄭州刺史を追贈された。坦はかつて義成軍判官を務め、節度使李復が病篤くなると、監軍使薛盈珍は変事を憂慮し、急いで府庫を封じ、その麾下五百人を使牙(節度使の役所)に入れた。軍中は騒然とした。坦は密かに薛盈珍に促してこれを収めるよう言った。李復が卒すると、坦は喪を護って東都に帰った。後に寿安令となった。
時に河南尹は賦税の徴収期限が迫っていたが、県民は機織が未完成であると訴えた。盧坦は十日間の延期を請うたが、府は許さなかった。坦は戸ごとにただ織り上げて納めるよう命じ、期限を顧みるなと言い、違反してもせいぜい県令の俸給を罰するだけだと述べた。織り上がって納品すると、坦もまた罰を受け、これによって名を知られるようになった。累進して庫部員外郎、兼侍御史、知雑事に至った。李錡が反乱を起こした際、有司は錡の祖父と父の廟墓を破壊するよう請うた。坦はかつて錡の従事を務めていたので、上奏して言うには、「淮安王李神通は草創の時期に功績があった。かつて古の父子兄弟は、罪が互いに及ばないものであり、ましてや錡の故に五代の祖先まで累が及ぶことがあろうか」と。そこで破壊されなかった。これにより神通の墓に五戸を賜い、清掃に備えさせた。武元衡が宰相となると、坦を中丞とし、李元素を大夫とし、坦に命じて東都に分司させたが、間もなく本庁に帰った。裴均が僕射となった時、朝班で定位置を越えていたので、坦は退くよう請うたが、均は受け入れなかった。坦は言う、「姚南仲が僕射であった時、例はこのようであった」と。均は言う、「南仲とは何者か」と。坦は言う、「南仲は正を守り、権勢に媚びる者と交わらなかった人物である」と。間もなく右庶子に左遷され、当時の人々はその責を均に帰した。一ヶ月余りで、宣歙池観察使として出向した。三年後、召されて刑部侍郎、塩鉄転運使となり、戸部侍郎、判度支に改めた。
元和八年、西受降城が黄河の流路変更により浸水して損壊した。宰相李吉甫は兵を天徳故城に移すよう請うた。盧坦と李絳は協議し、次のように考えた。「西城は張仁願が築いたもので、匈奴に対する上策である。城は磧口に位置し、虜の要衝にあり、良質の水と豊かな草に恵まれ、辺防に有利である。今、黄河の決壊は、せいぜい二、三里後退するに過ぎない。どうして万代にわたる安泰永続の策を捨てて、一時の経費節減の謀に従おうとするのか。ましてや天徳故城は僻地の痩せた土地にあり、その北は山に倚り、黄河とは遠く隔たっている。烽火による警備も連絡が取れない。虜の突然の侵入があっても、情勢を知る由もなく、これは理由なく国境を二百里も縮めることであり、利益にはならない」。城使周懷義が利害を奏上したが、その議は坦の意見と同じであった。結局、この件は実行されなかった。間もなく、剣南東川節度使として出向した。任地で数年を経た後、閏月の軍吏の糧食料を徴収して行営の軍費に充てるよう請うたが、多くの人がこれを非難した。貞元十二年九月に卒去。享年六十九。礼部尚書を追贈された。
史臣が曰く
史臣が曰く:古の諫臣には、言論によって死んだ者がある。その次に、衣の裾を引き、欄干を折るような諫言をしても、その節操を改めなかった者も、また難しいことである。袁高が盧杞を執拗に諫めたこと、薛存誠が鑒虚を誅殺したことは、古人の遺風がある。崔戎(平仲)の逆鱗に触れる気概は、その誤りを正したのであろうか。何文洽が奏章を奪って府の憤りを晴らしたこと、李源(永夷)が盗泉の水を飲まずに絶食したことは、節義の士である。姚南仲の非礼な葬儀についての言論、盧坦の西城に関する議論は、思慮が深いものであった。この数子のような人物がいるのに、世に君子がいないというのは、まさにひどい誣告である。
賛して曰く:霊草は佞人を指し、諫臣は過失を正す。袁高と薛存誠のみが、人の中の屈軼(霊草)である。温造(寛夫)は雀の如く躍り、李渤(廷老)は鴻の如く高く飛翔した。姚南仲、盧坦の啓奏は、君子の言である。