舊唐書

巻135

巻135

舊唐書

原文舊唐書

卷一百三十五

原文卷一百三十五

列傳第八十五 盧杞 白志貞 裴延齡 韋渠牟 李齊運 李實 韋執誼 王叔文 程異 皇甫抃

原文列傳第八十五 盧杞 白志貞 裴延齡 韋渠牟 李齊運 李實 韋執誼 王叔文 程異 皇甫抃

盧杞

原文盧杞

盧杞は字を子良といい、故宰相の盧懐慎の孫である。父の盧奕は、天宝の末に東台御史中丞となり、洛城が安禄山に陥落させられたとき、盧奕は職務を守って遇害した。盧杞は門蔭により、清道率府兵曹に初任した。朔方節度使の仆固懐恩が召し出して掌書記・試大理評事・監察御史としたが、病により免じられた。入朝して鴻臚丞を補し、殿中侍御史・膳部員外郎に遷り、出て忠州刺史となった。荊南に至り、節度使の衛伯玉に謁見したが、伯玉は喜ばなかった。盧杞は病を理由に移って京師に帰り、刑部員外郎・金部吏部の二郎中を歴任した。

原文盧杞,字子良,故相懷慎之孫。父奕,天寶末為東臺御史中丞;洛城為安祿山所陷,奕守司而遇害。杞以門廕,解褐清道率府兵曹。朔方節度使仆固懷恩辟為掌書記、試大理評事、監察御史,以病免。入補鴻臚丞,遷殿中侍御史、膳部員外郎,出為忠州刺史。至荊南,謁節度使衛伯玉,伯玉不悅。杞移病歸京師,歷刑部員外郎、金部吏部二郎中。

盧杞は容貌醜陋で顔色が藍のようであり、人々は皆これを鬼のごとく見た。粗末な衣服や粗悪な食物を恥じず、人々は盧懐慎の清節を受け継ぐことができると思ったが、その心までは識らなかった。頗る口辯があった。出て虢州刺史となった。建中の初め、召されて御史中丞となった。時に尚父の郭子儀が病んでおり、百官が見舞いに訪れたが、皆側室や侍女を退けなかった。盧杞が来ると聞くと、子儀は悉く退けるよう命じ、独り机に寄りかかってこれを待った。盧杞が去ると、家人がその理由を尋ねた。子儀は言った、「盧杞は形は醜いが心は険しく、左右の者がこれを見れば必ず笑うであろう。もしこの者が権力を得れば、即ち我が一族は生き残れないであろう」。糾弾顧問の地位に居るに及んで、論奏は上意に適い、御史大夫に遷った。十日にして、門下侍郎・同中書門下平章事となった。既に宰相の位に居ると、才能を忌み賢者を妬み、陰に吠えて害し、少しでも従わない者は、必ずこれを死に至らしめ、勢いを起こし威を立てて、その権力を長くしようとした。楊炎は盧杞の醜い容貌と無識を以て、同じく台司に処することを、心甚だ悦ばず、盧杞に讒せられて崖州に逐われた。徳宗が奉天に幸すると、崔寧は涙を流して時事を論じた。盧杞はこれを聞いて憎み、徳宗に讒言して、崔寧が朱泚と盟誓したので、遅滞したのだと言い、崔寧は遂に殺された。顔真卿の直言を憎み、李希烈に奉使するよう命じ、遂に賊の中で没した。初め、京兆尹の厳郢は楊炎と不和であった。盧杞は乃ち厳郢を抜擢して御史大夫とし、楊炎を傾けようとした。楊炎が既に貶死すると、心また厳郢を憎み、これを除こうと図った。宰相の張鎰は忠正で才能があり、上に委任信頼されたが、盧杞は頗るこれを憎んだ。時に朱滔・朱泚の兄弟が不和で、朱泚の判官の蔡廷玉という者が朱滔を離間した。朱滔が論奏して、これを殺すよう請うた。蔡廷玉が既に貶されると、殿中侍御史の鄭詹が吏を遣わして監送した。蔡廷玉は水に投身して死んだ。盧杞は因って奏上して言った、「恐らく朱泚は詔旨によるものと疑うであろう。三司に命じて鄭詹を審理させてください。また御史の行うことは、大夫の命を稟うものですから、併せて厳郢を審理させてください」。鄭詹は張鎰と親しく、毎度盧杞が昼寝するのを窺い、輒ち張鎰を訪ねた。盧杞はこれを知った。ある日、盧杞は仮寝して熟睡を装い、鄭詹が果たして来るのを窺った。鄭詹が張鎰と語っているところに、盧杞は急に張鎰の閣中に至った。鄭詹は急いで盧杞を避けようとした。盧杞は急に密事を言い出した。張鎰が言った、「殿中鄭侍御がここにおります」。盧杞は驚いたふりをして言った、「先ほど言ったことは、他人の聞くべきことではありません」。時に三司使が鄭詹と厳郢を審理していたが、獄が未だ決しないうちに鄭詹を殺すよう奏上し、厳郢を驩州刺史に貶した。張鎰は間もなく宰相を罷められ、出て鳳翔を鎮守した。その陰険で禍をなす様はこのようであった。李揆は旧徳があり、徳宗が再び用いることを慮り、乃ち使者として西蕃に遣わした。天下の人は扼腕痛憤しない者はなく、然しながら敢えて言う者はなかった。戸部侍郎・判度支の杜佑は、甚だ恩顧を蒙っていたが、盧杞に媒孽されて饒州刺史に貶された。

原文杞貌陋而色如藍,人皆鬼視之。不恥惡衣糲食,人以為能嗣懷慎之清節,亦未識其心。頗有口辯。出為虢州刺史。建中初,徵為御史中丞。時尚父子儀病,百官造問,皆不屏姬侍。及聞杞至,子儀悉令屏去,獨隱几以待之。杞去,家人問其故,子儀曰:「杞形陋而心險,左右見之必笑。若此人得權,即吾族無類矣。」及居糾彈顧問之地,論奏稱旨,遷御史大夫。旬日,為門下侍郎、同中書門下平章事。既居相位,忌能妒賢,迎吠陰害,小不附者,必致之於死,將起勢立威,以久其權。楊炎以杞陋貌無識,同處臺司,心甚不悅,為杞所譖,逐於崖州。德宗幸奉天,崔寧流涕論時事,杞聞惡之,譖於德宗,言寧與硃泚盟誓,故至遲回,寧遂見殺。惡顏真卿之直言,令奉使李希烈,竟歿於賊。初,京兆尹嚴郢與楊炎有隙,杞乃擢郢為御史大夫以傾炎;炎既貶死,心又惡郢,圖欲去之。宰相張鎰忠正有才,上所委信,杞頗惡之。會硃滔、硃泚弟兄不睦,有泚判官蔡廷玉者離間滔,滔論奏,請殺之。廷玉既貶,殿中侍御史鄭詹遣吏監送,廷玉投水而卒。杞因奏曰:「恐硃泚疑為詔旨,請三司按鞠詹;又御史所為,稟大夫命,並令按郢。」詹與張鎰善,每伺杞晝眠,輒詣鎰,杞知之。他日,杞假寢佯熟,伺詹果來,方與鎰語,杞遽至鎰閣中,詹趨避杞,杞遽言密事,鎰曰:「殿中鄭侍御在此。」杞佯愕曰:「向者所言,非他人所宜聞。」時三司使方按詹、郢,獄未具而奏殺詹,貶郢為驩州刺史。鎰尋罷相,出鎮鳳翔。其陰禍賊物如此。李揆舊德,慮德宗復用,乃遣使西蕃,天下無不扼腕痛憤,然無敢言者。戶部侍郎、判度支杜佑,甚承恩顧,為杞媒孽,貶饒州刺史。

初め、上(徳宗)が即位すると、崔祐甫を抜擢して宰相とし、頗る道徳と寛大を用いて、上意を弘めようとした。故に建中の初めの政声は藹然として、海内は貞観の治を想望した。盧杞が宰相となると、上に刑名を以て天下を整斉するよう諷した。初め、李希烈が梁崇義を討つことを請うた。梁崇義が誅せられて李希烈は叛き、尽く淮右・襄・鄧の郡邑を占拠した。恒州の李宝臣が死ぬと、その子の李惟岳が節鉞を求め、遂に田悦と締結して王師に抗した。これにより河北・河南は連兵して止まなかった。度支使の杜佑が諸道の軍用月費を計算すると百余万貫に上り、京師の帑蔵は数ヶ月を支えられなかった。且つ五百万貫を得れば、半年を支えることができ、則ち用兵は成功するであろう。盧杞は乃ち戸部侍郎の趙贊に判度支をさせた。趙贊もまた計略が施せず、乃ちその党の太常博士の韋都賓らと謀って括率を行い、泉貨の集まる所は富商にあるとして、銭一万貫を出す者は、一万貫を留めて業とし、余りは官が借りて軍に給するものとし、五百万貫を得ようと望んだ。上はこれを許し、兵を罷めた後に公銭で返すことを約した。勅が下ると、京兆少尹の韋禎が督責は頗る峻しく、長安ちょうあん尉の薛萃は枷を負って車に乗り、人の財貨を捜索し、その不実を疑えば、即ち鞭打ちを行った。人は冤痛に耐えず、或いは自縊して死ぬ者があり、京師は騒然として賊盗に遭ったようであった。総計して富戸の田宅奴婢などの評価は、僅かに八十八万貫に及んだ。また、僦櫃(貸倉庫)の質入れや蓄積した銭貨・貯蔵した粟麦など、一切の四分の一を借り上げ、その櫃や窖を封じた。長安はこれにより市を罷め、百姓は相率いて千万の衆で宰相を道で邀え、訴えた。盧杞は初めは慰諭したが、後には抑える術がなく、即ち疾く駆けて帰った。僦質と借商の合計は、僅かに二百万貫であった。徳宗は下民の怨みが流布していることを知り、詔して皆これを罷めた。然しながら宿師が野に在り、日々供給を須いていた。

原文初,上即位,擢崔祐甫為相,頗用道德寬大,以弘上意,故建中初政聲藹然,海內想望貞觀之理;及杞為相,諷上以刑名整齊天下。初,李希烈請討梁崇義,崇義誅而希烈叛,盡據淮右、襄、鄧之郡邑。恆州李寶臣死,其子惟嶽邀節鉞,遂與田悅締結以抗王師,由是河北、河南連兵不息。度支使杜佑計諸道用軍月費一百余萬貫,京師帑廩不支數月;且得五百萬貫,可支半歲,則用兵濟矣。杞乃以戶部侍郎趙贊判度支,贊亦無計可施,乃與其黨太常博士韋都賓等謀行括率,以為泉貨所聚,在於富商,錢出萬貫者,留萬貫為業,有余,官借以給軍,冀得五百萬貫。上許之,約以罷兵後以公錢還。敕即下,京兆少尹韋禎督責頗峻,長安尉薛萃荷校乘車,搜人財貨,意其不實,即行搒箠,人不勝冤痛,或有自縊而死者,京師囂然如被賊盜。都計富戶田宅奴婢等估,才及八十八萬貫。又以僦櫃納質積錢貨貯粟麥等,一切借四分之一,封其櫃窖,長安為之罷市,百姓相率千萬眾邀宰相於道訴之。杞初雖慰諭,後無以遏,即疾驅而歸。計僦質與借商,才二百萬貫。德宗知下民流怨,詔皆罷之,然宿師在野,日須供饋。

翌年六月、趙贊はまた間架税と除陌銭を請うた。凡そ屋は両架をもって一間とし、三等に分ける。上等は毎間二千、中等は一千、下等は五百。所由の吏が筆を執り籌を持ち、人の邸宅に入ってこれを計算する。凡そ一間を没収するごとに、杖六十、告げる者には賞銭五十貫文を与える。除陌法は、天下の公私の給与貿易において、率一貫旧算二十を、益々加算して五十とし、給与物や物々交換の場合は、銭に換算して率を以て算する。市の主人や牙子には各々印紙を与え、人が売買するごとに、自ら記入させ、翌日に合わせて計算する。市の牙子を用いずに自ら貿易する者は、その私簿を検証し、状を投じて自らその私簿を投状する。銭百を隠せば、没収する。二千ならば、杖六十。告げる者には賞銭十千を与え、その家から出す。法が既に行われると、主人や市牙がその権柄を専らにし、率多く隠して盗み、公家の入る所は、百のうち半ばを得ず、怨讟の声は騒然として天下に満ちた。十月に及んで、涇原の兵が宮闕を犯すと、乱兵が市中で呼んで言った、「汝ら商戸の僦質を奪わないぞ!汝らの間架除陌を税さないぞ!」。この時人心は悉く怨み、涇原の兵が隙に乗じて乱を謀り、奉天への奔播は、職として盧杞に由るものであった。故に天下の賢不肖を問わず、盧杞を仇敵のごとく見た。

原文明年六月,趙贊又請稅間架、算除陌。凡屋兩架為一間,分為三等:上等每間二千,中等一千,下等五百。所由吏秉筆執籌,入人第舍而計之。凡沒一間,杖六十,告者賞錢五十貫文。除陌法,天下公私給與貿易,率一貫舊算二十,益加算為五十,給與物或兩換者,約錢為率算之。市主人牙子各給印紙,人有買賣,隨自署記,翌日合算之。有自貿易不用市牙子者,驗其私簿,投狀自其有私簿投狀。其有隱錢百,沒入;二千,杖六十;告者賞錢十千,出於其家。法既行,主人市牙得專其柄,率多隱盜,公家所入,百不得半,怨讟之聲,囂然滿於天下。及十月,涇師犯闕,亂兵呼於市曰:「不奪汝商戶僦質矣!不稅汝間架除陌矣!」是時人心悉怨,涇師乘間謀亂,奉天之奔播,職杞之由。故天下無賢不肖,視杞如仇。

徳宗が奉天に在るとき、朱泚に攻囲され、李懐光が魏県より難に赴いた。或る者が王翃・趙贊に言った、「李懐光は累ね嘆憤して、宰相の謀議が方に乖き、度支の賦斂が煩重で、京尹が軍糧を刻薄し、乗輿が播遷したのは、三臣の罪であると言っています。今李懐光の勲業は崇重であり、聖上は必ず襟を開き誠を布き、得失を詢問されるでしょう。もしその言が入れば、豈に危うからざらんや」。王翃・趙贊が盧杞に告げると、盧杞は大いに駭き懼れ、従容として奏上して言った、「李懐光の勲業は、宗社の頼るところです。臣は聞く、賊徒は胆を破られ、皆守る心がないと。もしその兵威に因れば、一挙に賊を破ることができます。今もしその朝覲を許せば、則ち必ず宴を賜い、宴を賜えば則ち留連し、賊に京城を得させれば、則ち従容として完備し、恐らく図り難いでしょう。李懐光に乗勝して進み京城を収めさせるに如かず。破竹の勢いは、失うべからざるものです」。帝はこれを然りとし、乃ち詔して李懐光に衆を率いて便橋に屯し、期を定めて斉しく進むよう命じた。李懐光大怒し、遂に異志を謀った。徳宗は初めて盧杞に構えられたことを悟った。物議は喧騰し、咎を盧杞に帰し、乃ち新州司馬に貶し、白志貞を恩州司馬に、趙贊を播州司馬とした。

原文德宗在奉天,為硃泚攻圍,李懷光自魏縣赴難。或謂王翃、趙贊曰:「懷光累嘆憤,以為宰相謀議乖方,度支賦斂煩重,京尹刻薄軍糧,乘輿播遷,三臣之罪也。今懷光勛業崇重,聖上必開襟布誠,詢問得失,使其言入,豈不殆哉!」翃、贊白於杞,杞大駭懼,從容奏曰:「懷光勛業,宗社是賴。臣聞賊徒破膽,皆無守心。若因其兵威,可以一舉破賊;今若許其朝覲,則必賜宴,賜宴則留連,使賊得京城,則從容完備,恐難圖之。不如使懷光乘勝進收京城,破竹之勢,不可失也。」帝然之,乃詔懷光率眾屯便橋,克期齊進。懷光大怒,遂謀異志,德宗方悟為杞所構。物議喧騰,歸咎於杞,乃貶為新州司馬,白誌貞恩州司馬,趙贊為播州司馬。

赦免に遇い、吉州長史に移された。貶謫の地において人に謂って曰く、「吾必ず再び用いられん」と。是の日、上果たして杞を用いて饒州刺史と為す。給事中袁高宿直し、当に杞の制を草すべく、遂に執りて以て宰相盧翰・劉従一に謁して曰く、「杞相と為ること三年、矯誣陰賊し、忠良を排斥し、朋附する者は亥〓唾立にして青雲に至り、睚眥する者は顧盼するに已に溝壑に擠す。傲很にして徳に背き、天常を反乱し、鑾輿を播越し、天下を瘡痍せしむるは、皆杞の為す所なり。幸いに誅戮を免るるも、唯だ貶黜を示すのみ。尋いで已に稍く近地に遷り、更に大郡を授けんとす。天下の望を失わんことを恐る。惟うらくは相公の執奏するに在り。事尚ほ救うべし」と。翰・従一悦ばず、遂に命を改めて舎人に制を草せしむ。明日詔下る。袁高執奏して曰く、「盧杞政を為すに、極めて恣に兇悪なり。三軍の将校、其の肉を食わんことを願い、百辟の卿士、之を嫉むこと仇の若し」と。諫官趙需・裴佶・宇文炫・盧景亮・張薦等上疏して曰く、「伏して以うるに、吉州長史盧杞は、外に儉簡を矯め、内に奸邪を蔵す。三年権を擅にし、百揆序を失い、直を悪み正を醜し、国を乱し人を殄う。天地の神祇知る所、蛮夷華夏同しく棄つ。伏して惟うに、故事は皆上聞を得るも、杞相と為りてより、要官大臣、動もすれば月を逾えて敢えて奏聞せず、百僚惴惴として常に顛危を懼る。京邑傾淪し、皇輿播越するに及び、陛下炳然として覚悟し、遐荒に出棄し、制に曰く『忠讜上聞に壅き、朝野之が為に側目す』と。是れ由りて忠良激勸し、内外歡欣す。今復た用いて饒州刺史と為す。衆情失望し、皆謂う宜しからずと。臣聞く、君の以て万姓に臨む所以は政なり、万姓の以て君を載する所以は心なりと。倘し巨奸の寵を加うれば、必ず万姓の心を失わん。乞うらくは聖慈を回らし、遽かに新命を輟めん」と。疏奏すれども答へず。諫官又論じて曰く、「盧杞天聴を蒙蔽し、朝典を隳紊し、乱を致し国を危うくするは、職て杞に由る。公私の巨蠹と謂うべく、中外の棄物なり。再び擢用せらるるを聞くより、忠良痛骨し、士庶寒心す。臣昨者肝を瀝ぎて上聞し、死を冒して恐れず、宸睠を回らし、群情を快くせんことを冀う。今に至るまで拳拳として、未だ聖旨を奉ぜず。物議騰沸し、行路驚嗟す。人の良からざる、一に此に至る。伏して乞うらくは衆望に俯従し、永く奸臣を棄てん。幸いに誅夷を免るるは、以て恩貸を明らかにするに足る。特ちに栄寵を加うれば、恐らくは禍階を造らん。臣等諫司に忝く列し、今狂瞽を陳ず」と。給事中袁高堅く執して下さず、乃ち改めて澧州別駕を授く。翌日延英にて、上臣に謂ひて曰く、「朕杞に一小州刺史を授けんと欲す。可ならんや」と。李勉対へて曰く、「陛下杞に大郡を授くるも亦た可なり。其れ兆庶失望するを如何」と。上曰く、「衆人杞を論じて奸邪と為す。朕何ぞ知らざらんや」と。勉曰く、「盧杞奸邪なるは、天下の人皆知る。唯だ陛下知らざるのみ。此れ其れ奸邪たる所以なり」と。徳宗默然として良久し。散騎常侍さんきじょうじ李泌復た対す。上曰く、「盧杞の事、朕已に袁高の奏する所を可とす。如何」と。泌拝して言ひて曰く、「累日外人窃に議し、以て陛下を漢の桓・霊に同じくすとす。臣今親しく聖旨を承る。乃ち知る、堯・舜の迨はざるを」と。徳宗大いに悦び、之を慰勉す。杞尋いで澧州に卒す。

原文遇赦,移吉州長史。在貶所謂人曰:「吾必再入用。」是日,上果用杞為饒州刺史。給事中袁高宿直,當草杞制,遂執以謁宰相盧翰、劉從一曰:「杞作相三年,矯誣陰賊,排斥忠良,朋附者亥〓唾立至青雲,睚眥者顧盼已擠溝壑。傲很背德,反亂天常,播越鑾輿,瘡痍天下,皆杞之為也。幸免誅戮,唯示貶黜,尋已稍遷近地,更授大郡,恐失天下望,惟相公執奏之,事尚可救。」翰、從一不悅,遂改命舍人草制。明日詔下,袁高執奏曰:「盧杞為政,極恣兇惡,三軍將校,願食其肉,百辟卿士,嫉之若仇。」諫官趙需、裴佶、宇文炫、盧景亮、張薦等上疏曰:「伏以吉州長史盧杞,外矯儉簡,內藏奸邪,三年擅權,百揆失序,惡直醜正,亂國殄人,天地神祗所知,蠻夷華夏同棄。伏惟故事,皆得上聞,自杞為相,要官大臣,動逾月不敢奏聞,百僚惴惴,常懼顛危。及京邑傾淪,皇輿播越,陛下炳然覺悟,出棄遐荒,制曰:『忠讜壅於上聞,朝野為之側目。』由是忠良激勸,內外歡欣;今復用為饒州刺史,眾情失望,皆謂非宜。臣聞君之所以臨萬姓者,政也;萬姓之所以載君者,心也。倘加巨奸之寵,必失萬姓之心,乞回聖慈,遽輟新命。」疏奏不答。諫官又論曰:「盧杞蒙蔽天聽,隳紊朝典,致亂危國,職杞之由,可謂公私巨蠹,中外棄物。自聞再加擢用,忠良痛骨,士庶寒心。臣昨者瀝肝上聞,冒死不恐,冀回宸睠,用快群情;至今拳拳,未奉聖旨,物議騰沸,行路驚嗟。人之無良,一至於此。伏乞俯從眾望,永棄奸臣。幸免誅夷,足明恩貸;特加榮寵,恐造禍階。臣等忝列諫司,今陳狂瞽。」給事中袁高堅執不下,乃改授澧州別駕。翌日延英,上謂臣曰:「朕欲授杞一小州刺史,可乎?」李勉對曰:「陛下授杞大郡亦可,其如兆庶失望何?」上曰:「眾人論杞奸邪,朕何不知?」勉曰:「盧杞奸邪,天下人皆知;唯陛下不知,此所以為奸邪也!」德宗默然良久。散騎常侍李泌復對,上曰:「盧杞之事,朕已可袁高所奏,如何?」泌拜而言曰:「累日外人竊議,以陛下同漢之桓、靈;臣今親承聖旨,乃知堯、舜之不迨也!」德宗大悅,慰勉之。杞尋卒於澧州。

子元輔、字は子望、少くして清行を以て時に聞こゆ。進士に擢第し、崇文館校書郎を授かる。徳宗杞を思ひて已まず、乃ち其の後を求め、特恩を以て左拾遺を拝し、再び左司員外郎に遷り、杭・常・絳三州刺史を歴任す。課最を以て高しと為され、征せられて吏部郎中と為り、給事中に遷り、刑部侍郎に改む。兵部侍郎より出でて華州刺史・潼関防禦・鎮国軍等使と為り、復た兵部侍郎と為る。元輔祖より曾に至るまで、名節を以て史冊に著はる。元輔簡絜貞方にして、門風に綽ぎ継ぎ、清貫を歴践す。人亦た父の醜行を以て累と為さず、人士帰美す。大和三年八月卒す。時に年五十六。

原文子元輔,字子望,少以清行聞於時。進士擢第,授崇文館校書郎。德宗思杞不已,乃求其後,特恩拜左拾遺,再遷左司員外郎,歷杭、常、絳三州刺史。以課最高,征為吏部郎中,遷給事中,改刑部侍郎。自兵部侍郎出為華州刺史、潼關防禦、鎮國軍等使,復為兵部侍郎。元輔自祖至曾,以名節著於史冊。元輔簡絜貞方,綽繼門風,歷踐清貫,人亦不以父之醜行為累,人士歸美。大和三年八月卒,時年五十六。

白誌貞

原文白誌貞

白誌貞は、太原の人、本名は琇珪。胥吏より出で、節度使李光弼に事へ、小心勤恪にして、動くこと多く計数に長じ、光弼深く委信し、帳中の事、琇珪と参決す。代宗素より之を知る。光弼薨じたる後、用ひて司農少卿と為し、太卿に遷り、寺に十余年在る。徳宗嘗て召見して語らひ、腹心と為し引き、遂に用ひて神策軍使・検校左散騎常侍・兼御史大夫と為し、名を賜ひて誌貞と曰ふ。上意に伺候するに善く、言ふこと従はざる無し。

原文白誌貞者,太原人,本名琇珪。出於胥吏,事節度使李光弼,小心勤恪,動多計數,光弼深委信之,帳中之事,與琇珪參決。代宗素知之,光弼薨後,用為司農少卿,遷太卿,在寺十余年。德宗嘗召見與語,引為腹心,遂用為神策軍使、檢校左散騎常侍、兼御史大夫,賜名誌貞。善伺候上意,言無不從。

建中四年、李希烈汝州を陥す。誌貞を命じて京城召募使と為す。時に尚父子儀の端王傅吳仲孺家財巨万、国家召募急なるを以て、懼れて自ら安からず、乃ち表を上りて子弟を以て奴客を率ひ軍に従はんことを請ふ。徳宗之を嘉し、超えて五品官を授く。是れ由りて誌貞請ふ、節度・観察・団練等使並びに嘗て是の官と為りし者を令し、家より子弟甲馬を出だして軍に従はしめ、亦た其の男に官を与へんと。是の時豪家の不肖子之を幸ひ、貧にして知有る者は之を苦しむ。是より京師人心揺震し、家室を保たず。時に禁軍の募致するは、悉く誌貞に委ぬ。両軍応じて京師に赴くも、殺傷殆んど尽き、都て奏聞せず、皆京師の沽販の徒を以て其の闕を填む。其の人皆市廛に在り。涇師闕を犯すに及び、詔して誌貞を以て神策軍をして賊を拒がしむるも、人至る者無し。上寇を禦ふに以て無く、乃ち出幸を図る。時に令狐建龍武軍四百人を以て駕に従ひ奉天に至り、仍て誌貞を行在都知兵馬使と為す。李懐光至るを聞き、其の罪を暴揚せんことを恐れ、乃ち盧杞と同しく懐光の入朝を沮む。衆議喧沸し、言ふ播遷を致すは、盧杞・誌貞の罪なりと。故に杞と同く貶せられ、赦に遇ひ量りて閬州別駕に移る。貞元二年、果州刺史に遷る。宰臣李勉及び諫官表疏を論列し、誌貞と盧杞罪均しく、未だ叙用すべからずと言ふ。固く執して許さず、凡そ旬日にして方に其の詔を下す。貞元三年、潤州刺史・兼御史大夫・浙西観察使に遷る。是の年六月卒す。

原文建中四年,李希烈陷汝州,命誌貞為京城召募使。時尚父子儀端王傅吳仲孺家財巨萬,以國家召募有急,懼不自安,乃上表請以子弟率奴客從軍,德宗嘉之,超授五品官。由是誌貞請令節度、觀察、團練等使並嘗為是官者,令家出子弟甲馬從軍,亦與其男官。是時豪家不肖子幸之,貧而有知者苦之。自是京師人心搖震,不保家室。時禁軍募致,悉委誌貞,兩軍應赴京師,殺傷殆盡,都不奏聞,皆以京師沽販之徒以填其闕。其人皆在市廛,及涇師犯闕,詔誌貞以神策軍拒賊,無人至者,上無以禦寇,乃圖出幸。時令狐建以龍武軍四百人從駕至奉天,仍以誌貞為行在都知兵馬使。聞李懷光至,恐暴揚其罪,乃與盧杞同沮懷光入朝,眾議喧沸,言致播遷,盧杞、誌貞之罪也。故與杞同貶,遇赦量移閬州別駕。貞元二年,遷果州刺史,宰臣李勉及諫官表疏論列,言誌貞與盧杞罪均,未宜敘用,固執不許,凡旬日,方下其詔。貞元三年,遷潤州刺史、兼御史大夫、浙西觀察使。是年六月卒。

裴延齢

原文裴延齡

裴延齢は河東の人である。父の旭は和州刺史であった。延齢は乾元の末に汜水県尉となり、東都が賊に陥落したのに遭い、鄂州に寓居し、裴駰の注した『史記しき』の欠遺を綴緝し、自ら小裴と号した。後に華州刺史の董晉が辟いて防禦判官とした。黜陟使がその才能を推薦し、太常博士に調授された。盧杞が宰相となると、膳部員外郎・集賢院直学士に抜擢し、祠部郎中に改めた。崔造が宰相となると、度支の事務を改易し、延齢に東都度支院を管知させた。韓滉が度支を領すると、京に召し赴かせ、本官を守らせたが、延齢は詔命を待たず、急いで集賢院に入り視事した。宰相の延賞はその軽率さを憎み、昭応令に出し、京兆尹の鄭叔則と是非を論辨し、叔則の短所を攻訐した。時に李泌が宰相となり、叔則を厚遇した。中丞の竇参は恩寵を恃み、泌を憎んで延齢を助けた。叔則は坐して永州刺史に貶せられ、延齢は著作郎に改められた。竇参がまもなく宰相となると、太府少卿に用い、司農少卿に転じた。貞元八年、班宏が卒すると、延齢を以て本官を守らせ、権をもって度支を領せしめた。自ら殖貨の務に通ぜざるを揣り、乃ち多く鉤距を設け、度支の老吏を召して謀り、恩顧を求め、乃ち奏して云う、「天下の毎年出入する銭物は、新陳相因り、常に六七千万貫を減ぜず。ただ一庫あるのみで、差舛散失し、知るべからず。左蔵庫の中に別庫を分置せんことを請う。欠・負・耗・剩等の庫及び季庫・月庫とし、諸色の銭物を納めしむ。」と。上は皆これに従った。且つ多く名目を張りて上聴を惑わさんと欲し、その実は銭物に於いて更に増加なく、ただ簿書・人吏を虚費するのみであった。

原文裴延齡,河東人。父旭,和州刺史。延齡,乾元末為汜水縣尉,遇東都陷賊,因寓居鄂州,綴緝裴骃所註《史記》之闕遺,自號小裴。後華州刺史董晉辟為防禦判官;黜陟使薦其能,調授太常博士。盧杞為相,擢為膳部員外郎、集賢院直學士,改祠部郎中。崔造作相,改易度支之務,令延齡知東都度支院。及韓滉領度支,召赴京,守本官,延齡不待詔命,遽入集賢院視事。宰相延賞惡其輕率,出為昭應令,與京兆尹鄭叔則論辨是非,攻訐叔則之短。時李泌為相,厚於叔則;中丞竇參恃恩寵,惡泌而佑延齡。叔則坐貶為永州刺史,延齡改著作郎。竇參尋作相,用為太府少卿,轉司農少卿。貞元八年,班宏卒,以延齡守本官,權領度支。自揣不通殖貨之務,乃多設鉤距,召度支老吏與謀,以求恩顧,乃奏云:「天下每年出入錢物,新陳相因,常不減六七千萬貫,唯有一庫,差舛散失,莫可知之。請於左藏庫中分置別庫:欠、負、耗、剩等庫及季庫、月庫,納諸色錢物。」上皆從之。且欲多張名目以惑上聽,其實於錢物更無增加,唯虛費簿書、人吏耳。

その年、戸部侍郎・判度支に遷り、京兆府に令して両税青苗銭を以て草百万囲を市し苑中に送らしむることを奏請した。宰相の陸贄・趙憬が議して、「もし百万囲の草を市送すれば、即ち一府の百姓は、冬より夏に歴り、般載し了えず、百役の供應は須らく悉く停罷すべく、又農務を妨奪す。府県に量りて三二万囲を市せしめ、各側近の処に貯え、他時に要すれば即ち支用せしむることを請う。」と為した。京西に汚池卑湿の処あり、時に蘆葦これに生ずるも、数畝に過ぎず。延齢は乃ち奏して曰く、「廊馬は冬月槽櫪に在って秣飼すべく、夏中には即ち須らく牧放す。臣近く尋訪して知る、長安・咸陽両県界に陂池数百頃あり、請うこれをもって内廊牧馬の地と為さん。且つ京城を去ること十数里、苑廊の中と別なし。」と。上初めこれを信じ、宰相に言う。対えて曰く、「恐らく必ず此れ無からん。」と。上は乃ち官を差して閲視せしむるに、事皆虚妄なり。延齢は既に慚り且つ怒る。又誣って李充が百姓の為に妄りに積年の和市物価を請うたと奏し、特勅を以て折填せしめ、これを「底折銭」と謂う。嘗て奏対に因りて積年の銭帛を請い以て帑蔵を実さんとす。上曰く、「若何と為せば銭物を得べけんや。」延齢奏して曰く、「開元・天宝中、天下の戸僅かに千万、百司の公務殷繁にして、官員尚ほ或いは闕あり。兵興已来、戸口減耗大半し、今一官以て数司を兼領すべし。伏して請う、今已後より、内外百司の官闕は、未だ補置を須いず、その闕官の祿俸を収め、以て帑蔵を実せん。」と。

原文其年,遷戶部侍郎、判度支,奏請令京兆府以兩稅青苗錢市草百萬圍送苑中。宰相陸贄、趙憬議,以為:「若市送百萬圍草,即一府百姓,自冬歷夏,般載不了,百役供應,須悉停罷,又妨奪農務。請令府縣量市三二萬圍,各貯側近處,他時要即支用。」京西有汙池卑濕處,時有蘆葦生焉,亦不過數畝,延齡乃奏曰:「廊馬冬月合在槽櫪秣飼,夏中即須牧放。臣近尋訪知長安、咸陽兩縣界有陂池數百頃,請以為內廊牧馬之地;且去京城十數里,與苑廊中無別。」上初信之,言於宰相,對曰:「恐必無此。」上乃差官閱視,事皆虛妄,延齡既慚且怒。又誣奏李充為百姓妄請積年和市物價,特敕令折填,謂之「底折錢」。嘗因奏對請積年錢帛以實帑藏,上曰:「若為可得錢物?」延齡奏曰:「開元、天寶中,天下戶僅千萬,百司公務殷繁,官員尚或有闕;自兵興已來,戶口減耗大半,今一官可兼領數司。伏請自今已後,內外百司官闕,未須補置,收其闕官祿俸,以實帑藏。」

後に事に対することに因り、上延齢に謂いて曰く、「朕の居ます浴堂院殿の一栿、年多きの故を以て、損蠹あるに似たり。これを換えんと欲するも能わず。」と。対えて曰く、「宗廟の事は至重、殿栿の事は至軽。況んや陛下自ら本分の銭物有り、用いて竭きず。」と。上驚いて曰く、「本分の銭とは何ぞや。」と。対えて曰く、「これは経義の証拠なり。愚儒常材は知ること能わず。陛下正に臣に問うに合す。唯臣のみこれを知る。『礼経』に準うれば、天下の賦税は当に三分と為すべし。一分は乾豆に充て、一分は賓客に充て、一分は君の庖厨に充つ。乾豆とは、宗廟に供するなり。今陛下宗廟を奉ずるも、至敬至厳、至豊至厚と雖も、亦一分の財物に及ばず。只だ鴻臚礼賓・諸国蕃客の如き、回紇の馬価に至るまで、一分の銭物を用うるも、尚ほ贏羨甚だ多し。況んや陛下の禦膳宮厨は皆極めて簡儉、用うる所の外、百官に分賜して俸料・飧銭等に充つるも、猶ほ未だ尽くさず。此れに拠りて言えば、庖厨の余、その数尚ほ多く、皆陛下の本分なり。数十殿を修するを用うるも疑慮に合わず、何ぞ況んや一栿をや。」と。上曰く、「経義此くの如し。人総て曾てこれを言わず。」と。頷くのみ。又計料に因りて神龍寺を造るに、長さ五十尺の松木を須う。延齢奏して曰く、「臣近く同州に於いて検得一谷の木、数千条に可く、皆長さ八十尺。」と。上曰く、「人言う、開元・天宝中、側近に長さ五六十尺の木を求覓するも、未だ易からず。須らく嵐・勝州に於いて采市す。今何為ぞ近処に便りて此の木有るや。」と。延齢奏して曰く、「臣聞く、賢材・珍宝・異物は、皆処々に常に有れども、聖君に遇うれば即ち出見す。今此の木関輔に生ずるは、蓋し聖君の為なり。豈に開元・天宝に合して得る有らんや。」と。

原文後因對事,上謂延齡曰:「朕所居浴堂院殿一栿,以年多之故,似有損蠹,欲換之未能。」對曰:「宗廟事至重,殿栿事至輕。況陛下自有本分錢物,用之不竭。」上驚曰:「本分錢何也?」對曰:「此是經義證據,愚儒常材不能知,陛下正合問臣,唯臣知之。準《禮經》,天下賦稅當為三分:一分充乾豆,一分充賓客,一分充君之庖廚。乾豆者,供宗廟也。今陛下奉宗廟,雖至敬至嚴,至豐至厚,亦不能一分財物也。只如鴻臚禮賓、諸國蕃客,至於回紇馬價,用一分錢物,尚有贏羨甚多。況陛下禦膳宮廚皆極簡儉,所用外分賜百官充俸料、飧錢等,猶未能盡。據此而言,庖廚者之余,其數尚多,皆陛下本分也。用修數十殿亦不合疑慮,何況一栿。」上曰:「經義如此,人總不曾言之。」頷之而已。又因計料造神龍寺,須長五十尺松木,延齡奏曰:「臣近於同州檢得一谷木,可數千條,皆長八十尺。」上曰:「人言開元、天寶中側近求覓長五六十尺木,尚未易,須於嵐、勝州采市,如今何為近處便有此木?」延齡奏曰:「臣聞賢材、珍寶、異物,皆在處常有,但遇聖君即出見。今此木生關輔,蓋為聖君,豈開元、天寶合得有也!」

時に陸贄政を秉り、上素より礼重す。毎に延英に於いてその誕妄を極論し、財賦を掌らしむべからずとす。徳宗は以て排擯と為し、延齢を待つこと益厚し。贄上書してその失を疏して曰く、

原文時陸贄秉政,上素所禮重,每於延英極論其誕妄,不可令掌財賦。德宗以為排擯,待延齡益厚。贄上書疏其失曰:

上書が奏上されると、徳宗は喜ばず、かえって延齢を厚遇した。時に塩鉄転運使張滂・京兆尹李充・司農卿李銛は、事柄が関連していたため、皆延齢の虚偽と詐欺を証言した。徳宗は陸贄を政事知らしめることを罷め、太子賓客とした。滂・充・銛は悉く職を罷め左遷された。

原文書奏,德宗不悅,待延齡益厚。時鹽鐵轉運使張滂、京兆尹李充、司農卿李銛,以事相關,皆證延齡矯妄。德宗罷陸贄知政事,為太子賓客;滂、充、銛悉罷職左遷。

十一年春の末、帝はしばしば苑中で狩猟を行った。時に長く旱魃が続き、人心は憂い恐れていた。延齢は急いで上疏して言うには、「陸贄・李充らは権力を失い、心中怨みを抱いております。今、衆に向かって大言を吐き、『天下は炎旱で、民衆は流亡し、度支は諸軍の糧秣を多く欠乏させている』と言い、群衆の感情を激怒させようとしています」と。後数日、帝がまた苑中に行幸した時、ちょうど神策軍の兵士が度支が厩馬の秣を欠いていると訴えた。帝は延齢の言葉を思い出し、即時に車駕を返し、詔を下して贄・充・滂・銛らを斥逐した。朝廷内外は恐れおののいた。延齢は朝廷の正直の士を謀害しようとしたが、諫議大夫陽城らが閤下に伏して切諫したため、事は一旦止んだ。贄・充らは既に貶黜されていたが、延齢は未だに恨みを晴らさず、李充の腹心の吏である張忠を捕らえ、鞭打ち拷問して苦痛を与え、彼に言わせた言葉は、「前後して官銭五十余万貫を隠し没収し、米麦もこれに相当し、その銭物は多く権勢に結託し、充の妻は常に犢車の中で金宝・繒帛を陸贄の妻に贈った」というものであった。忠は苦痛に耐えかね、延齢が教え込んだ言葉に従い、自白書に詳細に記した。忠の妻と母は光順門で投匭して冤罪を訴え、詔により御史台が推問したところ、一晩で実状を得、事は全て虚偽であったため、忠を釈放した。延齢はまた京兆府が妄りに銭穀を使い破ったと奏上し、比部に勾覆させよと請うた。比部郎中崔元がかつて陸贄によって罷免されたためである。崔元が銭穀を勾覆したが、またも関係はなかった。延齢は既に厳しく取り立てて下を剥ぎ上に付くことを功とすべく鋭意努め、毎回奏対の際には、皆勝手気ままに奇怪で虚妄なことを述べ立て、他人が敢えて言わないことを、延齢は疑わずに言い、また人が未だ聞いたことのないことも言った。徳宗はその虚妄を知っていたが、敢えて言って隠さないことを以てし、且つ外の事情を訪ね聞こうとしたため、断固として彼を用いた。延齢はこれを頼み、必ず宰相を得ると思い、特に傲慢に罵り、朝臣を誹謗中傷し、朝列の者は彼を横目で見た。病に臥せった時、度支の官物を載せて私宅に置いたが、敢えて言う者もいなかった。貞元十二年、卒去。時に年六十九。延齢が死ぬと、内外で互いに祝賀したが、唯徳宗のみは悼み惜しんで止まず、冊贈して太子少保とした。

原文十一年春暮,上數畋於苑中,時久旱,人情憂惴,延齡遽上疏曰:「陸贄、李充等失權,心懷怨望,今專大言於眾曰:『天下炎旱,人庶流亡,度支多欠闕諸軍糧草。』以激怒群情。」後數日,上又幸苑中,適會神策軍人訴度支欠廄馬芻草。上思延齡言,即時回駕,下詔斥逐贄、充、滂、銛等,朝廷中外惴恐。延齡謀害在朝正直之士,會諫議大夫陽城等伏閣切諫,事遂且止。贄、充等雖已貶黜,延齡憾之未已,乃掩捕李充腹心吏張忠,捶掠楚痛,令為之詞,雲「前後隱沒官錢五十余萬貫,米麥稱是,其錢物多結托權勢,充妻常於犢車中將金寶繒帛遺陸贄妻。」忠不勝楚毒,並依延齡教抑之辭,具於款占。忠妻、母於光順門投匭訴冤,詔御史臺推問,一宿得其實狀,事皆虛,乃釋忠。延齡又奏京兆府妄破用錢穀,請令比部勾覆,以比部郎中崔元嘗為陸贄所黜故也。及崔元勾覆錢穀,又無交涉。延齡既銳意以苛刻剝下附上為功,每奏對際,皆恣騁詭怪虛妄,他人莫敢言者,延齡言之不疑,亦人之所未嘗聞。德宗頗知其誕妄,但以其敢言無隱,且欲訪聞外事,故斷意用之。延齡恃之,謂必得宰相,尤好慢罵,毀詆朝臣,班行為之側目。及臥病,載度支官物置於私家,亦無敢言者。貞元十二年卒,時年六十九。延齡死,中外相賀,唯德宗悼惜不已,冊贈太子少保。

韋渠牟

原文韋渠牟

韋渠牟は、京兆府萬年県の人である。六代の祖は範、魏の西陽太守、後周において郿城公に封ぜられた。渠牟は幼少より聡明で悟りが早く、経史を広く閲覧した。初め道士となり、後に僧となった。興元年中、韓滉が浙西を鎮守した時、試みの秘書郎に奏授され、累転して四門博士となった。

原文韋渠牟,京兆萬年人。六代祖範,魏西陽太守,後周封郿城公。渠牟少慧悟,涉覽經史。初為道士,後為僧。興元中,韓滉鎮浙西,奏授試秘書郎,累轉四門博士。

貞元十二年四月、徳宗の誕生日に、麟徳殿に臨み、給事中徐岱・兵部郎中趙需・礼部郎中許孟容と渠牟及び道士萬参成・沙門譚延ら十二人を召し、儒・道・釈の三教を講論させた。渠牟は枝葉の言葉で遊説し、弁舌さわやかに水が注ぐが如くであった。上はその講義に素養があると思い、聞いて心を動かされた。数日後、秘書郎に転じ、詩七十韻を奏上し、十日後、右補闕・内供奉に遷り、同僚たちは初め彼を認めていなかった。延英殿で宰相と対面した後、上は多く宦官を遣わして渠牟を官舎から召し出し、同輩たちは初めて彼に注目した。年の終わりに、右諫議大夫に遷った。時に延英殿で政務を執る大臣と対面する際、昼の漏刻が通常二三刻下がる所を、渠牟が奏事する時は、漏刻が五六刻下がるのが常で、上の笑い声や親密な話し声が、往往にして外に聞こえた。渠牟は容姿や精神が軽薄で落ち着きがなく、士君子の器量はなく、志は道徳に根ざさず、衆人は彼が正道をもって上意を開悟させられないことをよく知っていた。

原文貞元十二年四月,德宗誕日,禦麟德殿,召給事中徐岱、兵部郎中趙需、禮部郎中許孟容與渠牟及道士萬參成、沙門譚延等十二人,講論儒、道、釋三教。渠牟枝詞遊說,捷口水註;上謂其講耨有素,聽之意動。數日,轉秘書郎,奏詩七十韻,旬日,遷右補闕、內供奉,僚列初不有之。在延英既對宰相,多使中貴人召渠牟於官次,同輩始註目矣。歲終,遷右諫議大夫。時延英對秉政賦之臣,晝漏率下二三刻為常,渠牟奏事,率漏下五六刻,上笑語款狎,往往外聞。渠牟形神佻躁,無士君子器,誌向不根道德,眾雅知不能以正道開悟上意。

陸贄が宰相を免ぜられた後、上は自ら庶政に親しみ、再び宰相に委任せず、廟堂は員数を備えるだけで、文書を行き交わせるのみであった。守宰・御史を除くこと、皆帝自ら選択した。しかし深宮に居て、親しみ信頼した者は裴延齢・李齊運・王紹・李實・韋執誼及び渠牟であり、皆相府の権力を傾けるほどであった。延齢・李實は、奸欺多く、甚だ国体を傷つけた。紹は何も発明するところがなかった。而して渠牟は元来名声が軽く、恩勢を張り巡らして趨向する者を招き、門庭は人で埋め尽くされた。茅山の処士崔芊が征召されて宮闕に至り、鄭隨が山人から再び補闕に至り、馮伉が醴泉令から給事中・皇太子侍読となったのは、皆渠牟が推薦延ばしたのである。上は既に偏って彼らの言うことを聞くので、浮薄な者は率いて本を背き進みを誇示し、再び器を蔵し徳を蘊むことをせず、皆奔走して請謁し、蹄を刺し甘い言葉で渠牟に付いた。居ること暫くせず、太府卿に遷り、金紫を賜り、また太常卿に転じた。貞元十七年卒去。時に年五十三。贈刑部尚書、仍って謚して忠といった。

原文陸贄免相後,上躬親庶政,不復委成宰相,廟堂備員,行文書而已。除守宰、御史,皆帝自選擇。然居深宮,所狎而取信者裴延齡、李齊運、王紹、李實、韋執誼洎渠牟,皆權傾相府。延齡、李實,奸欺多端,甚傷國體;紹無所發明;而渠牟名素輕,頗張恩勢以招趨向者,門庭填委。茅山處士崔芊征至闕下,鄭隨自山人再至補闕,馮伉自醴泉令為給事中、皇太子侍讀,皆渠牟延薦之。上既偏有所聽,浮薄率背本衒進,不復藏器蘊德,皆奔馳請謁,剚蹄甘辭以附渠牟。居無何,遷太府卿,賜金紫,又轉太常卿。貞元十七年卒,時年五十三,贈刑部尚書,仍謚曰忠。

李齊運

原文李齊運

李齊運は、蔣王惲の孫である。初め寧王府東閣祭酒に任じられ、七転して監察御史に至った。江淮都統李峘が幕府に辟召し、累転して工部郎中となり、長安県令として、職務を整えた。京兆少尹・陝府長史を歴任した。建中末、河中尹・晉絳慈隰観察使に改めた。時に李懐光が山東より甲を巻き奔難し、昼夜倍道し、河中に至った時、力疲れ、兵を休めて三日、齊運は力を傾けて犒労を設け、軍人は皆悦んだ。懐光が既に反逆し、兵を駆って還り河中を保つと、齊運は敵せず、城を棄てて走り、京兆尹を除され、御史大夫を兼ねた。時に賊は京城を占拠し、李晟は軍を東渭橋に置き、齊運は擾攘の中、工役を徴募し、版築して城塁を築き、秣を飛ばし糧を挽いて李晟に応じた。収復の際、頗る力があった。

原文李齊運者,蔣王惲之孫也。解褐寧王府東閣祭酒,七遷至監察御史。江淮都統李峘辟為幕府,累轉工部郎中,為長安縣令,職事修理。歷京兆少尹、陜府長史。建中末,改河中尹、晉絳慈隰觀察使。時李懷光自山東卷甲奔難,晝夜倍道,比至河中,力疲,休兵三日,齊運傾力犒設,軍人皆悅。懷光既反,驅兵還保河中,齊運不能敵,棄城而走,除為京兆尹,兼御史大夫。時賊據京城,李晟軍東渭橋,齊運擾攘之中,征募工役,版築城壘,飛芻輓粟以應晟。收復之際,頗有力焉。

貞元年中、蝗害と旱魃が盛んに起こった時、齊運に政術がなかったため、韓洄を以って代え、宗正卿に改め、御史大夫・閑廄宮苑使を兼ねた。検校礼部尚書に改め、殿中監を兼ねた。間もなく正しく礼部尚書に拝され、殿中監使は従前の如く兼ねた。その後十余年、宰臣が内殿で対面した後、齊運は常に次に進み、その計慮を貢ぎ、群議を決した。齊運は学術がなく、大体を知らず、ただ甘言を以って信を得たのみである。李锜を浙西観察使に推薦し、賄賂を数十万計受けた。李詞を湖州刺史に挙げたが、既に邑人がその贓犯を告げたが、上は齊運の故を以って、問わずして彼を遣わした。齊運は病に罹り、歳余も朝請できず、朝廷の除授は、往往中使を降して宅に就き諮問して決した。末には妾の衛氏を正室とし、身は礼部尚書でありながら、冕服を着けてその礼を行い、人士は嗤い誹った。貞元十二年卒去。時に年七十二。贈尚書左僕射。

原文貞元中,蝗旱方熾,齊運無政術,乃以韓洄代之,改宗正卿,兼御史大夫、閑廄宮苑使。改檢校禮部尚書,兼殿中監。尋正拜禮部尚書,兼殿中監使如故。其後十余歲,宰臣內殿對後,齊運常次進,貢其計慮,以決群議。齊運無學術,不知大體,但甘言取信而已。薦李锜為浙西觀察使,受賂數十萬計。舉李詞為湖州刺史,既而邑人告其贓犯,上以齊運故,不問而遣之。齊運被疾,歲余不能朝請,朝廷除授,往往降中人就宅咨決。末以妾衛氏為正室,身為禮部尚書,冕服以行其禮,人士嗤誚。貞元十二年卒,時年七十二,贈尚書左僕射。

李實

原文李實

李實は、道王元慶の玄孫である。蔭により仕官に入り、六転して潭州司馬に至った。洪州節度使・嗣曹王臯が判官に辟召し、蘄州刺史に遷った。臯が山南東道節度使となると、再び用いられて節度判官・検校太子賓客・員外郎となった。臯が卒去し、新たな帥が未だ至らぬ時、實が留後を務め、軍士の衣食を刻薄にしたため、軍士は怨み叛き、彼を謀殺しようとした。實は夜に城を縋り出て、京師に帰り、司農少卿に用いられ、検校工部尚書・司農卿を加えられた。

原文李實者,道王元慶玄孫。以廕入仕,六轉至潭州司馬。洪州節度使、嗣曹王臯辟為判官,遷蘄州刺史。臯為山南東道節度使,復用為節度判官、檢校太子賓客、員外郎。臯卒,新帥未至,實知留後,刻薄軍士衣食,軍士怨叛,謀殺之,實夜縋城而出,歸詣京師,用為司農少卿,加檢校工部尚書、司農卿。

貞元十九年、京兆尹となり、卿及び兼官は従前の如し。まもなく嗣道王に封ぜられる。京尹となってより、寵を恃み強情にして、法令を顧みず、人皆側目す。二十年春夏旱魃あり、関中大いに凶作す。実は政事猛暴にして、専ら聚斂進奉に務め、以て恩顧を固くせんとし、百姓の訴うる所、一も介意せず。因りて入対す。徳宗人々の疾苦を問う。実奏して曰く「今年は旱魃なれども、穀田は甚だ良し」と。ここにより租税皆免ぜず、人窮して告ぐる無く、乃ち屋瓦木を徹し、麦苗を売りて以て賦斂に供す。優人成輔端、因りて戯れに語を作り、秦民の艱苦の状を為すに云く「秦城城池二百年、何ぞ期せんや此の如く田園を賤しむるを、一頃の麦苗五碩の米、三間の堂屋二千の銭」と。凡そ此の如き語数十篇有り。実之を聞きて怒り、輔端国政を誹謗すと言う。徳宗遽に決殺を命ず。当時言う者曰く「瞽は箴諫を誦し、其の詼諧を取りて以て諷諫を托す、優伶の旧事なり。謗木を設け、芻蕘を採るは、本より下情を達し諷議を存せんと欲するなり。輔端に罪を加うべからず」と。徳宗も亦深く悔ゆ。京師切歯して実を怒らざる無し。

原文貞元十九年,為京兆尹,卿及兼官如故。尋封嗣道王。自為京尹,恃寵強愎,不顧文法,人皆側目。二十年春夏旱,關中大歉,實為政猛暴,方務聚斂進奉,以固恩顧,百姓所訴,一不介意。因入對,德宗問人疾苦,實奏曰:「今年雖旱,谷田甚好。」由是租稅皆不免,人窮無告,乃徹屋瓦木,賣麥苗以供賦斂。優人成輔端因戲作語,為秦民艱苦之狀云:「秦城城池二百年,何期如此賤田園,一頃麥苗五碩米,三間堂屋二千錢。」凡如此語有數十篇。實聞之怒,言輔端誹謗國政,德宗遽令決殺,當時言者曰:「瞽誦箴諫,取其詼諧以托諷諫,優伶舊事也。設謗木,采芻蕘,本欲達下情,存諷議,輔端不可加罪。」德宗亦深悔,京師無不切齒以怒實。

故事、府官は台官を避く。実常に侍御史王播に道で遇う。実避けんとせず、導従常の如し。播其の従者を詰む。実怒り、播を三原令と為すを奏す。謝するの日、庭にて之を詬る。公卿百執事を陵轢し、其の喜怒に随い、誣奏遷逐する者相継ぎ、朝士畏れて之を悪む。又万年令李衆を誣奏し、虔州司馬に貶す。虞部員外郎房啓を奏して衆に代え、升黜其の意の如し。勢を怙てるの色、謷然として眉睫の間に在り。故事、吏部将に科目を奏せんとするや、奥密にして、朝官書問を通ぜず。而るに実身に選曹に詣り趙宗儒を迫り、且つ勢を以て之を恐る。前歳、権徳輿礼部侍郎たりし時、実私に士を薦むるを托す。意の如くならず、後遂に大いに二十人を録し徳輿を迫りて曰く「此に依りて之を第すべし。然らずば必ず外官に出で、悔ゆるも及ばざるべし」と。徳輿従わざれども、然れども頗る其の誣奏を懼る。

原文故事,府官避臺官。實常遇侍御史王播於道,實不肯避,導從如常。播詰其從者,實怒,奏播為三原令,謝之日,庭詬之。陵轢公卿百執事,隨其喜怒,誣奏遷逐者相繼,朝士畏而惡之。又誣奏萬年令李眾,貶虔州司馬,奏虞部員外郎房啟代眾,升黜如其意,怙勢之色,謷然在眉睫間。故事,吏部將奏科目,奧密,朝官不通書問,而實身詣選曹迫趙宗儒,且以勢恐之。前歲,權德輿為禮部侍郎,實托私薦士,不能如意,後遂大錄二十人迫德輿曰:「可依此第之;不爾,必出外官,悔無及也。」德輿雖不從,然頗懼其誣奏。

二十一年、詔有りて畿内の逋租を蠲す。実詔に違いて之を征す。百姓大いに困す。官吏多く笞罰に遭う。剝割掊斂し、銭三十万貫を聚む。胥吏或いは犯す者有れば、即ち之を按ず。乞丐するに絲髪有れば固より死す。無き者は且つ曰く「死すとも亦屈せず」と。亦杖殺す。京師貴賤共に其の暴虐を苦しむ。順宗諒陰に在りて月を踰ゆ。実府に於いて人を斃すこと十数。遂に之を逐わんと議し、乃ち通州長史に貶す。制出づ。市人皆袖に瓦石を懐て其の首に投ず。実之を知り、月営門より苑西より出づ。人々相賀す。後赦に遇い量移して虢州に至る。道に在りて卒す。

原文二十一年,有詔蠲畿內逋租,實違詔征之,百姓大困,官吏多遭笞罰,剝割掊斂,聚錢三十萬貫,胥吏或犯者,即按之。有乞丐絲發固死;無者,且曰「死亦不屈」,亦杖殺之。京帥貴賤同苦其暴虐。順宗在諒陰逾月,實斃人於府者十數,遂議逐之,乃貶通州長史。制出,市人皆袖瓦石投其首;實知之,由月營門自苑西出,人人相賀。後遇赦量移虢州,在道卒。

韋執誼

原文韋執誼

韋執誼は京兆の人なり。父浼、官卑し。執誼幼くして聰俊才有り、進士に擢第し、制策に応じて高等、右拾遺に拝され、召されて翰林に入り学士と為る。年才二十余。徳宗特に寵異し、相与に歌詩を唱和し、裴延齢・韋渠牟等と禁中に出入りし、略く顧問を備う。徳宗載誕の日、皇太子佛像を献ず。徳宗命じて執誼に画像の賛を為さしむ。上太子に令して執誼に縑帛を賜い以て之に酬ゆ。執誼東宮に至り太子に謝す。卒然として以て言を藉す無し。太子因りて曰く「学士王叔文を知るや。彼は偉才なり」と。執誼是に因りて叔文と交わり甚だ密なり。俄に母憂に丁る。服闋し、起きて南宮郎と為る。徳宗の時、召されて禁中に入る。

原文韋執誼者,京兆人。父浼,官卑。執誼幼聰俊有才,進士擢第,應制策高等,拜右拾遺,召入翰林為學士,年才二十余。德宗尤寵異,相與唱和歌詩,與裴延齡、韋渠牟等出入禁中,略備顧問。德宗載誕日,皇太子獻佛像,德宗命執誼為畫像贊,上令太子賜執誼縑帛以酬之。執誼至東宮謝太子,卒然無以藉言,太子因曰:「學士知王叔文乎?彼偉才也。」執誼因是與叔文交甚密。俄丁母憂,服闋,起為南宮郎。德宗時,召入禁中。

初め、貞元十九年、補闕張正一上書して事を言うに因り召見を得る。王仲舒・韋成季・劉伯芻・裴茝・常仲孺・呂洞等、嘗て同官として相善くし、正一召見を得たるを以て、偕いに往きて之を賀す。或る者執誼に告げて曰く「正一等上疏して君と王叔文の朋党の事を論ず」と。執誼然りと信じ、因りて召対し、奏して曰く「韋成季等朋聚して覬望す」と。徳宗金吾に令して之を伺わしむ。其の相過従飲食数度を得たり。ここに於いて成季等六七人を尽く逐う。当時其の由を測る莫し。

原文初,貞元十九年,補闕張正一因上書言事得召見,王仲舒、韋成季、劉伯芻、裴茝、常仲孺、呂洞等以嘗同官相善,以正一得召見,偕往賀之。或告執誼曰:「正一等上疏論君與王叔文朋黨事。」執誼信然之,因召對,奏曰:「韋成季等朋聚覬望。」德宗令金吾伺之,得其相過從飲食數度,於是盡逐成季等六七人,當時莫測其由。

順宗即位に及び、久しく疾有りて朝政に任ぜず。王叔文用事す。乃ち執誼を用いて宰相と為す。乃ち自ら朝議郎・吏部郎中・騎都尉緋魚袋を賜わるより、尚書左丞・同平章事を授け、仍て金紫を賜う。叔文専政せんと欲し、故に執誼を令して外に宰相と為らしめ、己自ら内に専らす。執誼既に叔文に引用せられ、敢えて情を負わざるも、然れども公議に迫られ、時時に異を立て、密かに人をして叔文に謝せしめて曰く「敢えて約に負きて異を為さず、共に国家の事を成さんと欲する故なり」と。叔文詬怒し、遂に仇怨と成る。執誼既に之に因りて位を得、亦矛盾を欲して其の跡を掩わんとす。憲宗内禅を受くるに及び、王伾・王叔文の徒党並びに逐わる。尚以て執誼は宰相杜黄裳の婿なるを以て、故に数月の後崖州司戸に貶す。初め、執誼卑官より、常に忌諱して人に嶺南州県の名を言わしめんと欲せず。郎官たりし時、嘗て同舎と職方に詣り図を観る。毎に嶺南の州に至れば、執誼遽に命じて之を去らしめ、目を閉じて視ず。相に拝せられ、還りて坐する堂を見るに、北壁に図有り。就きて省みず。七八日、試みに之を観れば、乃ち崖州の図なり。不祥と以為い、甚だ之を悪み、敢えて口に出す無し。叔文の貶に坐するに及び、果たして崖州に往く。貶所に卒す。

原文及順宗即位,久疾不任朝政,王叔文用事,乃用執誼為宰相,乃自朝議郎、吏部郎中、騎都尉賜緋魚袋,授尚書左丞、同平章事,仍賜金紫。叔文欲專政,故令執誼為宰相於外,己自專於內。執誼既為叔文引用,不敢負情,然迫於公議,時時立異,密令人謝叔文曰:「不敢負約為異,欲共成國家之事故也。」叔文詬怒,遂成仇怨;執誼既因之得位,亦欲矛盾掩其跡。及憲宗受內禪,王伾、王叔文徒黨並逐,尚以執誼是宰相杜黃裳之婿,故數月後貶崖州司戶。初,執誼自卑官,常忌諱不欲人言嶺南州縣名。為郎官時,嘗與同舍詣職方觀圖,每至嶺南州,執誼遽命去之,閉目不視。及拜相,還所坐堂,見北壁有圖,不就省,七八日,試觀之,乃崖州圖也,以為不祥,甚惡之,不敢出口。及坐叔文之貶,果往崖州,卒於貶所。

王叔文

原文王叔文

王叔文は越州山陰の人なり。棋を以て待詔と為り、粗く書を知り、理道を言うを好む。徳宗令して東宮に直らしむ。太子嘗て侍読と政道を論じ、因りて宮市の弊を言う。太子曰く「寡人上に見えんとき、当に極めて之を言わん」と。諸生其の美を称讃す。叔文独り言無し。坐を罷め、太子叔文に謂いて曰く「向に宮市を論ずるに、君独り言無きは何ぞや」と。叔文曰く「皇太子の上に事うるや、膳を視て安んずるを問うの外、合わずして輒ち外事に預かる。陛下在位歳久し。小人もし離間して、殿下人情を収取すと謂わば、則ち安んぞ能く自ら解せん」と。太子之に謝して曰く「苟も先生無くんば、安んぞ能く此の言を聞かん」と。ここによりて之を重んず。宮中の事、之に倚りて裁決す。毎に太子に対し言うときは、則ち曰く「某は相と為すべく、某は将と為すべく、幸いに異日之を用いよ」と。密かに当代知名の士にして僥幸速進を欲する者と結び、韋執誼・陸質・呂温・李景儉・韓曄・韓泰・陳諫・柳宗元・劉禹錫等十数人と、死交と定む。而して淩準・程异、又其の党に因りて以て進む。藩鎮の侯伯も亦陰に行い賂遺して交を請う者有り。

原文王叔文者,越州山陰人也。以棋待詔,粗知書,好言理道。德宗令直東宮。太子嘗與侍讀論政道,因言宮市之弊,太子曰:「寡人見上,當極言之。」諸生稱贊其美,叔文獨無言。罷坐,太子謂叔文曰:「向論宮市,君獨無言何也」?叔文曰:「皇太子之事上也,視膳問安之外,不合輒預外事。陛下在位歲久,如小人離間,謂殿下收取人情,則安能自解?」太子謝之曰:「茍無先生,安得聞此言?」由是重之,宮中之事,倚之裁決。每對太子言,則曰:「某可為相,某可為將,幸異日用之。」密結當代知名之士而欲僥幸速進者,與韋執誼、陸質、呂溫、李景儉、韓曄、韓泰、陳諫、柳宗元、劉禹錫等十數人,定為死交;而淩準,程异,又因其黨以進;籓鎮侯伯,亦有陰行賂遺請交者。

徳宗崩ず。既に遺詔を宣す。時に上寝疾久しく、復た庶政に関せず、深居して簾帷を施す。閹官李忠言・美人牛昭容左右に侍す。百官上議す。帷中より其の奏を可す。王伾常に上叔文に属意するを諭す。宮中諸黄門稍く之を知る。其の日、右銀台門より召され、翰林に居り、学士と為る。叔文吏部郎中韋執誼と相善し、用いて宰相と為さんことを請う。叔文王伾に因り、伾李忠言に因り、忠言牛昭容に因り、転相結構す。事翰林に下る。叔文可否を定め、中書に宣し、執誼をして外に承奏せしむ。韓泰・柳宗元・劉禹錫・陳諫・淩準・韓曄と唱和し、管と曰い、葛と曰い、伊と曰い、周と曰う。凡そ其の党僴然として自得し、天下人無しと謂う。

原文德宗崩,已宣遺詔,時上寢疾久,不復關庶政,深居施簾帷,閹官李忠言、美人牛昭容侍左右,百官上議,自帷中可其奏。王伾常諭上屬意叔文,宮中諸黃門稍稍知之。其日,召自右銀臺門,居於翰林,為學士。叔文與吏部郎中韋執誼相善,請用為宰相。叔文因王伾,伾因李忠言,忠言因牛昭容,轉相結構。事下翰林,叔文定可否,宣於中書,俾執誼承奏於外。與韓泰、柳宗元、劉禹錫、陳諫、淩準、韓曄唱和,曰管,曰葛,曰伊,曰周,凡其黨僴然自得,謂天下無人。

叔文が賤しい身分であった時、常に言うには、銭穀(財政)は国家の大本であり、これによって兵賦を増減させ、権柄を握って士人を買収することができると。叔文が初めて翰林院に入った時、蘇州司功から起居郎となり、まもなく度支・塩鉄副使を兼ねて充任され、杜佑が使(長官)を領したが、実際の事は叔文によって成された。数か月後、尚書戸部侍郎に転じ、使(塩鉄転運使)と学士の職はもとのままだった。宦官の俱文珍は彼が権力を弄ぶのを憎み、学士の職を削り去った。制書が出ると、叔文は大いに驚き、人に言うには、「叔文は時々ここに来て公事を相談する必要がある。もしこの職を帯びていなければ、内廷に入る由もない」と。王伾が彼のために論じて請うと、ようやく三、五日に一度翰林院に入ることを許されたが、結局内廷の職は削られた。叔文が初めて内廷に入った時、密かに命令を構え、その機微の形は見えず、口を飛ばして善悪や進退を論じた。人はその本質を見抜けず、奇才と信じた。そして両使(度支・塩鉄)の利権を司り、外朝に列すると、愚者も智者も共に言うには、「城狐や山鬼は、必ず夜に号し窟に住んで人に禍福をもたらすので、神として畏れられる。一旦昼間に出て路を馳せれば、必ず無能である」と。

原文叔文賤時,每言錢穀為國大本,將可以盈縮兵賦,可操柄市士。叔文初入翰林,自蘇州司功為起居郎,俄兼充度支、鹽鐵副使,以杜佑領使,其實成於叔文。數月,轉尚書戶部侍郎,領使、學士如故。內官俱文珍惡其弄權,乃削去學士之職。制出,叔文大駭,謂人曰:「叔文須時至此商量公事,若不帶此職,無由入內。」王伾為之論請,乃許三、五日一入翰林,竟削內職。叔文始入內廷,陰構密命,機形不見,因騰口善惡進退之。人未窺其本,信為奇才。及司兩使利柄,齒於外朝,愚智同曰:「城狐山鬼,必夜號窟居以禍福人,亦神而畏之;一旦晝出路馳,無能必矣。」

叔文は省署(官庁)におり、もはやその職務を挙げず、その党与を引き寄せて密かに語り、内官(宦官)の兵権を奪おうと謀り、そこで故将の範希朝を以て京西北諸鎮行営兵馬使とし、韓泰をその副とした。初め、宦官たちはまだ悟らなかったが、たまたま辺境の諸将がそれぞれ状をもって中尉に辞し、かつ今は希朝に属していると言ったので、宦官たちは初めて兵権が叔文に奪われたことを悟り、中尉は諸鎮に兵馬を入れるなと命じて止めた。希朝と韓泰はすでに奉天に至ったが、諸将は来ず、そこで帰還した。間もなく、叔文の母が死去した。その前日、叔文は翰林院に酒食を設け、諸学士と宦官の李忠言・俱文珍・劉光奇らを宴した。酒宴の中ほどで、叔文は諸人に告げて言うには、「叔文の母が病気である。近ごろ心身を尽くして国家の事に力を尽くし、好悪や難易を避けなかったのは、聖人(皇帝)の重い知遇に報いようとしたからである。もし一度この職を去れば、百の誹謗がたちまち至り、誰が叔文のために一言助けてくれようか。諸君に心を開いて察していただきたい」と。また言うには、「羊士諤が叔文を誹謗したので、杖殺しようとしたが、韋執誼が懦弱で果たせなかった。叔文は平生劉闢を知らないのに、韋臯の意を受けて三川を領することを求め、門を押し開いて直接面会し、叔文の手を取ろうとした。これぞまさしく兇人ではないか。叔文はすでに木場を掃除させ、彼を斬ろうとしたが、韋執誼が苦しく執り成して許さなかった。叔文は返す言葉がなかった。

原文叔文在省署,不復舉其職事,引其黨與竊語,謀奪內官兵柄,乃以故將範希朝統京西北諸鎮行營兵馬使,韓泰副之。初,中人尚未悟,會邊上諸將各以狀辭中尉,且言方屬希朝,中人始悟兵柄為叔文所奪,中尉乃止諸鎮無以兵馬入。希朝、韓泰已至奉天,諸將不至,乃還。無幾,叔文母死。前一日,叔文置酒饌於翰林院,宴諸學士及內官李忠言、俱文珍、劉光奇等。中飲,叔文白諸人曰:「叔文母疾病,比來盡心戮力為國家事,不避好惡難易者,欲以報聖人之重知也。若一去此職,百謗斯至,誰肯助叔文一言者,望諸君開懷見察。」又曰:「羊士諤非毀叔文,欲杖殺之,而韋執誼懦不遂。叔文生平不識劉闢,乃以韋臯意求領三川,辟排門相幹,欲執叔文手,豈非兇人耶!叔文已令掃木場,將斬之,韋執誼苦執不可。叔文無以對。

叔文は皇太子を立てることを望まなかった。順宗は既に長く病気で平癒せず、群臣は朝廷内外で太子を立てることを請うた。やがて詔が下り広陵王を太子に立てると、天下は皆喜んだ。叔文だけは憂色を帯び、その事を敢えて言わず、ただ杜甫の諸葛亮祠堂を題した詩の最後の句、「出師未だ捷からずして身先ず死す、長く英雄をして襟を涙で濡らさしむ」と吟じて、ため息をつき涙を流した。人々は皆こっそり笑った。皇太子が国政を監理すると、渝州司戸に貶され、翌年に誅殺された。

原文叔文未欲立皇太子。順宗既久疾未平,群臣中外請立太子,既而詔下立廣陵王為太子,天下皆悅;叔文獨有憂色,而不敢言其事,但吟杜甫題諸葛亮祠堂詩末句云:「出師未捷身先死,長使英雄淚滿襟。」因歔欷泣下,人皆竊笑之。皇太子監國,貶為渝州司戶,明年誅之。

王伾は杭州の人である。初め翰林侍書待詔となり、累進して正議大夫・殿中丞・皇太子侍書に至った。順宗が即位すると、左散騎常侍に遷り、以前の通り翰林待詔であった。

原文王伾,杭州人。始為翰林侍書待詔,累遷至正議大夫、殿中丞、皇太子侍書。順宗即位,遷左散騎常侍,依前翰林待詔。

伾は卑小で、叔文に及ばず、ただ賄賂を招くのみで大志がなく、容貌は醜陋で、呉語を話し、もとより太子に親しみ侮られていた。一方、叔文はやや気性を任せて自らを許し、粗く書物を知り、事を論じるのを好んだので、順宗は少し敬ったが、伾のように出入りして隔てがないほどではなかった。叔文は入るに翰林院に止まったが、伾は入って柿林院に至り、李忠言・牛昭容らに会った。しかしそれぞれに担当があった。伾は往来して伝授することを主とし、王叔文は決断を主とし、韋執誼は文誥を作り、劉禹錫・陳諫・韓曄・韓泰・柳宗元・房啓・淩準らは謀議し唱和し、外の事を採り聞いた。そして伾と叔文および諸朋党の門には、車馬が充満し、伾の門は特に盛んで、珍玩や賄賂の贈り物が年中絶えなかった。室中には扉のない大櫃があり、ただ一つの穴を開けて物を受け入れるのに足り、金宝を蔵した。その妻は時にその上に寝臥した。叔文とともに開州司馬に貶された。

原文伾阘茸,不如叔文,唯招賄賂,無大志,貌寢陋,吳語,素為太子之所褻狎;而叔文頗任氣自許,粗知書,好言事,順宗稍敬之,不得如伾出入無間。叔文入止翰林,而伾入至柿林院,見李忠言、牛昭容等。然各有所主:伾主往來傳授;王叔文主決斷;韋執誼為文誥;劉禹錫、陳諫、韓曄、韓泰、柳宗元、房啟、淩準等謀議唱和,采聽外事。而伾與叔文及諸朋黨之門,車馬填湊,而伾門尤盛,珍玩賂遺,歲時不絕。室中為無門大櫃,唯開一竅,足以受物,以藏金寶,其妻或寢臥於上。與叔文同貶開州司馬。

王叔文が最も重んじた者は、李景儉と呂温である。叔文が権力を用いていた時、景儉は東都で喪に服しており、呂温は吐蕃に使いし、半年留まり、叔文が敗れてから帰った。陸質は皇太子侍読となり、まもなく卒した。

原文王叔文最所重者,李景儉、呂溫。叔文用事時,景儉居喪於東都;呂溫使吐蕃,留半歲,叔文敗方歸。陸質為皇太子侍讀,尋卒。

伾・叔文が既に追放されると、詔してその党の韓曄を饒州司馬に、韓泰を虔州司馬に、陳諫を台州司馬に、柳宗元を永州司馬に、劉禹錫を朗州司馬に、淩準を連州司馬に、程异を郴州司馬に、韋執誼を崖州司馬に貶した。

原文伾、叔文既逐,詔貶其黨韓曄饒州司馬,韓泰虔州司馬,陳諫臺州司馬,柳宗元永州司馬,劉禹錫朗州司馬,淩準連州司馬,程异郴州司馬,韋執誼崖州司馬。

韓曄は宰相韓滉の族子(同族の子)で、俊才があり、韋執誼に依附し、累進して尚書司封郎中となった。叔文が敗れると、池州刺史に貶され、まもなく饒州司馬に改められ、量移して汀州刺史となり、また永州に転じて卒した。

原文韓曄,宰相滉之族子,有俊才,依附韋執誼,累遷尚書司封郎中。叔文敗,貶池州刺史,尋改饒州司馬,量移汀州刺史,又轉永州卒。

陳諫は叔文が敗れる時までに、既に河中少尹として出ていたが、台州司馬から量移して封州刺史となり、通州に転じて卒した。

原文陳諫至叔文敗,已出為河中少尹,自臺州司馬量移封州刺史,轉通州卒。

淩準は貞元二十年に浙東観察判官・侍御史から召し出されて入朝し、王叔文は準と旧知であったので、引用して翰林学士とし、員外郎に転じた。叔文に連坐して連州に貶された。準は史学を有し、古文を尚び、『邠志』二巻を撰した。

原文淩準,貞元二十年自浙東觀察判官、侍御史召入,王叔文與準有舊,引用為翰林學士,轉員外郎。坐叔文貶連州。準有史學,尚古文,撰《邠志》二卷。

韓泰は貞元年間に累進して戸部郎中に至り、王叔文は彼を用いて範希朝の神策行営節度行軍司馬とした。泰は最も籌画に長け、密事を決断でき、深く伾・叔文に重んじられた。連坐して貶され、虔州司馬から量移して漳州刺史となり、郴州に遷った。

原文韓泰,貞元中累遷至戶部郎中,王叔文用為範希朝神策行營節度行軍司馬。泰最有籌畫,能決陰事,深為伾、叔文之所重,坐貶,自虔州司馬量移漳州刺史,遷郴州。

柳宗元・劉禹錫はそれぞれ伝がある。

原文柳宗元、劉禹錫自有傳。

程异

原文程异

程异は京兆長安の人である。かつて父の病気に侍り、郷里で孝悌をもって称された。明経に及第し、初官として揚州海陵主簿となった。『開元礼』科に登第し、華州鄭県尉を授かった。吏職に精通し、事務の処理に滞りがなかった。杜確が同州刺史となり、河中節度使となった時、皆従って賓佐となった。

原文程异,京兆長安人。嘗侍父疾,鄉里以孝悌稱。明經及第,釋褐揚州海陵主簿。登《開元禮》科,授華州鄭縣尉。精於吏職,剖判無滯。杜確刺同州,帥河中,皆從為賓佐。

貞元末、監察御史に抜擢され、虞部員外郎に遷り、塩鉄転運・揚子院留後を充任した。当時王叔文が権力を用い、抜け道を通って利を放つ者は皆彼に附き、异もまた引用された。叔文が敗れると、連坐して岳州刺史に貶され、郴州司馬に改められた。元和初年、塩鉄使李巽が异が銭穀に通達していることを推薦し、瑕を棄てて録用するよう請うたので、侍御史に抜擢され、再び揚子留後となり、累進して検校兵部郎中・淮南等五道両税使となった。异は自ら前非を悔い、己を励み節を尽くし、江淮の銭穀の弊害を多く革め除いた。入朝して太府少卿・太卿となり、衛尉卿に転じ、御史中丞を兼ね、塩鉄転運副使を充任した。

原文貞元末,擢授監察御史,遷虞部員外郎,充鹽鐵轉運、揚子院留後。時王叔文用事,由逕放利者皆附之,异亦被引用。叔文敗,坐貶岳州刺史,改郴州司馬。元和初,鹽鐵使李巽薦異曉達錢穀,請棄瑕錄用,擢為侍御史,復為揚子留後,累檢校兵部郎中、淮南等五道兩稅使。异自悔前非,厲己竭節,江淮錢穀之弊,多所鏟革。入為太府少卿、太卿,轉衛尉卿,兼御史中丞,充鹽鐵轉運副使。

時に淮西に用兵し、国用足らず、程异は江表に使して征賦を調べ、且つ土有る者に諷して饒羨を以て入貢せしむ、至れば則ち下を剝さず、財を浚わず、経費以て贏ち、人頗る之を便とす。ここにより専ら塩鉄転運使を領し、兼ねて御史大夫とす。十三年九月、工部侍郎に転じ、同中書門下平章事とし、使を領すること旧の如し。議者、异の錢穀吏より起り、一旦位百僚に冠たるを以て、人情大いに不可と為す。异自ら叨に據るを知り、謙遜を以て自ら牧し、月余日、敢えて印を知り筆を秉せず。异、西北辺の軍政理まらざるを知り、巡辺使を置くを建議し、上誰か使い得べき者かと問う、异自ら行かんことを請う。議未だ決せず、疾無くして卒す、元和十四年四月なり。左僕射を贈り、謚して恭と曰う。异性廉約にして、官第に歿し、家に余財無く、人士之を多し。

原文時淮西用兵,國用不足,异使江表以調征賦,且諷有土者以饒羨入貢,至則不剝下,不浚財,經費以贏,人頗便之。由是專領鹽鐵轉運使、兼御史大夫。十三年九月,轉工部侍郎、同中書門下平章事,領使如故。議者以異起錢穀吏,一旦位冠百僚,人情大為不可。異自知叨據,以謙遜自牧,月餘日,不敢知印秉筆。异知西北邊軍政不理,建議置巡邊使,上問誰可使者,异請自行。議未決,無疾而卒,元和十四年四月也。贈左僕射,謚曰恭。异性廉約,歿官第,家無餘財,人士多之。

皇甫鎛

原文皇甫鎛

皇甫鎛は、安定朝那人なり。祖は鄰幾、汝州刺史。父は愉、常州刺史。鎛は貞元初め進士第に登り、賢良文学制科に登り、監察御史を授かる。母憂に丁し、喪を免れ、喪に居る時薄遊したるに坐し、詹事府司直を除く。吏部員外郎に転じ、南曹を判じ、凡そ三年、頗る奸吏を鈐制す。吏部郎中に改め、三遷して司農卿、兼ねて御史中丞とし、金紫を賜い、度支を判じ、俄に戸部侍郎を拝す。時に方に淮西を討ち、饋運に切なるに、鎛は勾剝厳急にして、儲供辦集し、益々寵遇を承け、兼ねて御史大夫を加う。

原文皇甫鎛,安定朝那人。祖鄰幾,汝州刺史。父愉,常州刺史。鎛貞元初登進士第,登賢良文學制科,授監察御史。丁母憂,免喪,坐居喪時薄遊,除詹事府司直。轉吏部員外郎、判南曹,凡三年,頗鈐制奸吏。改吏部郎中,三遷司農卿、兼御史中丞,賜金紫,判度支,俄拜戶部侍郎。時方討淮西,切於饋運,鎛勾剝嚴急,儲供辦集,益承寵遇,加兼御史大夫。

十三年、塩鉄使程异と同日に本官を以て同平章事とし、使を領すること旧の如し。鎛は吏才有りと雖も、素より公望無く、特ちに聚斂を以て上に媚び、刻削を以て恩を希う。詔書既に下り、物情駭異し、賈販の無識に至るまで、亦相嗤誚す。宰相崔群・裴度は物議を以て上聞す、憲宗怒りて聴かず。度は上疏して知政事を罷むるを乞い、因りて之を論じて曰く、

原文十三年,與鹽鐵使程异同日以本官同平章事,領使如故。 鎛雖有吏才,素無公望,特以聚斂媚上,刻削希恩。詔書既下,物情駭異,至於賈販無識,亦相嗤誚。宰相崔群、裴度以物議上聞,憲宗怒而不聽。度上疏乞罷知政事,因論之曰:

臣日昨延英に於いて陳乞し、伏して聖旨を奉るも、未だ愚衷を遂げず。窃かに上古の明王聖帝、理を致し化を興すは、元首に由ると雖も、亦た股肱に在り。ここをもって堯・舜の道を述ぶれば、則ち稷・契・臯・夔を言い、太宗・玄宗の徳を紀すれば、則ち房・杜・姚・宋を言う。古より今に至るまで、輔弼を任ぜずして能く独り天下を理むる者無し。況んや今天下、十年已前に異なり、方に文武を駆駕し、寇乱を廓清し、昇平の業を建つるに、十已に八九を得たり。然れども華夏の安否は、朝廷に係り、朝廷の軽重は、宰相に在り。臣が駑鈍の如きは、夙夜戦兢し、常に上に聖君有りと雖も、下に賢臣無ければ、日月の明を増し、天地の徳を広むる能わずと為す。遂に毎事皆聖心を労せしむ、所以に賊を平げ人を安んずる、力を用いること此の如きは、実に臣輩の職に称せざるに由る。方に陛下の物議を博く采り、人望を旁に求め、之を輔弼に致し、之を化成に責むるを期す;而るに乃ち忽ち微人を取り、重地に列す、始めは則ち殿庭の班列、相与に驚駭し、次では則ち街衢の市肆、相与に笑呼す。伏して計るに遠近流聞し、京師と異なる無からん。何ぞや?天子は堂の如く、宰臣は陛の如し、陛高ければ則ち堂高く、陛卑しければ則ち堂高きを得ず、宰臣人を失えば、則ち天子尊きを得ず。伏して以て陛下は睿哲文明、唯だ授く所に在り、凡そ閲視する所、洞達して遺れ無し。所以に比来宰相を選任するに、縦え道物に周からず、才時を済えずと雖も、公望の帰する所、皆取るべき有り。況んや皇甫鎛は財賦を掌るより以来、唯だ割剝を事とし、苛を以て察と為し、刻を以て明と為す。京北・京西の城鎮及び百司並びに遠近の州府、応に是れ度支に仰給するの処、苦口切歯せざる無く、願わくは其の肉を食わんとす;猶お臣等の毎に勸誡を加え、或いは奏論を為すに頼り、庶事の中に、抑えて通済せしむ。比者淮西諸軍の糧料、破る所の五成の錢、其の実は只に一成・兩成を与うるのみ、士卒怨怒し、皆叛離せんと欲す。臣行営に到り、方に慰喻し、直に其の遷延して進まず、軍に供する漸く難しきを、倶に能く前行せば、必ず優賞有らんとし、此を以て約定し、然る後に切に供軍官を勒し、且つ九月一日の兩成已上の錢を支え、倶に努力を容れ、方に将に小安せんとす、然らずんば必ず潰散有らん。今旧兵悉く淄青に向かい討伐す、忽ち此人の相に入るを聞けば、則ち必ず相与に驚擾し、以て更に前時の事有らんと為し、則ち告訴の憂無からん。侵刻少なからずと雖も、然れども漏落亦多し、所以に兵を罷めたる後、経費の錢數一千三十萬貫、此事猶お可なり。直ちに性狡詐を惟り、言誠実ならず、朝三暮四、天下共に知る、唯だ能く上聖聰を惑わす、奸邪の極まるを見るに足る。程异は人品凡俗と雖も、然れども心事和平にして、之を煩劇に処するは、或いは亦た力を得たり、但し之を相位に昇せば、便ち公卿の上に在り、実に亦た宜しからず。皇甫镈の如きは、天下の人、怨み骨髓に入る、陛下今日之を股肱に収め、臺鼎に列す、切に恐らくは不可ならん、伏して惟うに之を図らん。倘し陛下臣の懇款を納れ、速やかに移易を賜い、以て天下の望に副わば、則ち天下幸甚なり。伏して聞く李翛疾病し、亦た入来を求むと、浙西観察使の如きは、且つ与うるも亦た得たりと。臣一言口より出ずれば、必ず天威に犯すを知る、但だ言行せば、甘心して戾を獲ん。今者臣若し退かずんば、天下の人臣の恩寵に負う有りと謂わん;今退毀未だ許さず、言又聴かず、火の心を焼くが若く、箭の體を攢うが若し。臣自ら惜しむに足らず、惜しむは陛下今日の事勢なり。何ぞや?淮西蕩定し、河北咸寧に、承宗手を斂め地を削ぎ、程權身を束ねて闕に赴き、韓弘疾に輿して賊を討つ、此れ豈に京師の気力能く其の命を制するに非ず、只だ朝廷の処置能く其の心を服するなり。今既に中興を開き、区夏を再造す、陛下何ぞ忍びて却って自ら破除し、億万の衆をして心を離れしめ、四方の諸侯をして體を解せしめんや?凡そ百の君子、皆慟哭せんと欲す。況んや陛下臣を任ずるの意、豈に常人に比せん;臣の陛下に事うるの心、敢えて衆士に同ぜんや?所以に昧死して重ねて封を以て聞す、如し観るに足らざれば、臣当に領を引いて責を受けん。陛下一の市肆の商徒を引き、臣と同列せしむ、臣に在りて亦た何の損か有らん、陛下実に傷つく所有り、憤懣惶恐の至りに勝えず。

原文臣日昨於延英陳乞,伏奉聖旨,未遂愚衷。竊以上古明王聖帝,致理興化,雖由元首,亦在股肱。所以述堯、舜之道,則言稷、契、臯、夔;紀太宗、玄宗之德,則言房、杜、姚、宋。自古至今,未有不任輔弼而能獨理天下者。況今天下,異於十年已前,方驅駕文武,廓清寇亂,建升平之業,十已得八九。然華夏安否,系於朝廷,朝廷輕重,在於宰相。如臣駑鈍,夙夜戰兢,常以為上有聖君,下無賢臣,不能增日月之明,廣天地之德。遂使每事皆勞聖心,所以平賊安人,費力如此,實由臣輩不稱所職。方期陛下博采物議,旁求人望,致之輔弼,責之化成;而乃忽取微人,列於重地,始則殿庭班列,相與驚駭,次則街衢市肆,相與笑呼。伏計遠近流聞,與京師無異。何者?天子如堂,宰臣如陛,陛高則堂高,陛卑則堂不得高矣,宰臣失人,則天子不得尊矣。伏以陛下睿哲文明,唯在所授,凡所閱視,洞達無遺。所以比來選任宰相,縱道不周物,才不濟時,公望所歸,皆有可取。況皇甫鎛自掌財賦,唯事割剝,以苛為察,以刻為明。自京北、京西城鎮及百司並遠近州府,應是仰給度支之處,無不苦口切齒,願食其肉;猶賴臣等每加勸誡,或為奏論,庶事之中,抑令通濟。比者淮西諸軍糧料,所破五成錢,其實只與一成、兩成,士卒怨怒,皆欲離叛。臣到行營,方且慰喻,直其遷延不進,供軍漸難,俱能前行,必有優賞,以此約定,然後切勒供軍官,且支九月一日兩成已上錢,俱容努力,方將小安,不然必有潰散。今舊兵悉向淄青討伐,忽聞此人入相,則必相與驚擾,以為更有前時之事,則無告訴之憂。雖侵刻不少,然漏落亦多,所以罷兵之後,經費錢數一千三十萬貫,此事猶可。直以性惟狡詐,言不誠實,朝三暮四,天下共知,惟能上惑聖聰,足見奸邪之極。程异雖人品凡俗,然心事和平,處之煩劇,或亦得力,但升之相位,便在公卿之上,實亦非宜。如皇甫镈,天下之人,怨入骨髓,陛下今日收為股肱,列在臺鼎,切恐不可,伏惟圖之。倘陛下納臣懇款,速賜移易,以副天下之望,則天下幸甚。伏聞李翛疾病,亦求入來,如浙西觀察使,且與亦得。臣知一言出口,必犯天威,但使言行,甘心獲戾。今者臣若不退,天下之人謂臣有負恩寵;今退毀未許,言又不聽,如火燒心,若箭攢體。臣自無足惜,惜陛下今日事勢。何者?淮西蕩定,河北咸寧,承宗斂手削地,程權束身赴闕,韓弘輿疾討賊,此豈京師氣力能制其命,祗是朝廷處置能服其心。今既開中興,再造區夏,陛下何忍卻自破除,使億萬之眾離心,四方諸侯解體?凡百君子,皆欲慟哭。況陛下任臣之意,豈比常人;臣事陛下之心,敢同眾士?所以昧死重封以聞,如不足觀,臣當引領受責。陛下引一市肆商徒,與臣同列,在臣亦有何損,陛下實有所傷,不勝憤懣惶恐之至。

時に憲宗は世道漸く平らかなるを以て、恣に娛樂を欲し、池臺館宇、稍く崇飾を増し、而して異・鎛は上旨を探知し、数たび羨餘を貢ぎて、以て経構に備え、故に帝は独り物議を排して之を相たり;裴度の疏を見て、以て朋黨と為し、竟に省覽せず。鎛は公議の不可なるを知り、益すに巧媚を以て自ら固め、内外官の俸銭を減じて奏し、以て国用を贍ふ;勅下るや、給事中崔祐詔書を封還し、其の事方に罷む。時に内より積年の庫物を出して度支に付し価を估せしむるに、例皆陳朽す、鎛は尽く善価を以て之を買ひ、以て辺軍に給す。羅縠繒彩、風に触れて断裂し、手に随ひて散壞す、軍士怨怒し、皆聚りて之を焚く。裴度事を奏し、因りて辺軍の賜を焚くの意を言ふ、鎛因りて其の足を引きて奏して曰く、「此の靴は乃ち内庫の出づる者、臣は俸二千を以て之を買ひ、堅韌にして久しく服すべし、言ふ所の用ふべからざるは、皆詐なり。」帝然りと為す、是より鎛益すに忌憚無し。裴度は用兵叛を伐つ功有り、鎛心に之を嫉み、宰相李逢吉・令狐楚と勢を合せて度を擠み出だして太原に鎮せしむ。崔群は公望有り、搢紳の重んずる所と為り、屡く時政の弊を言ふ、鎛之を悪み、因りて憲宗の尊号を議し、乃ち奏して曰く、「昨群臣徽号を上るを議す、崔群は陛下に於て『孝徳』の両字を惜しむ。」憲宗怒り、群を黜して湖南観察使と為す。又金吾将軍李道古と与に奸謀を恊へ、方士柳泌・僧大通を薦引し、言ふ長生を致す可しと。中尉吐突承璀の恩寵二に莫く、鎛厚く賂して其の歓心を結び、故に相位に及ぶ。

原文時憲宗以世道漸平,欲肆意娛樂,池臺館宇,稍增崇飾,而异、鎛探知上旨,數貢羨餘,以備經構,故帝獨排物議相之;見裴度疏,以為朋黨,竟不省覽。鎛知公議不可,益以巧媚自固,奏減內外官俸錢以贍國用;敕下,給事中崔祐封還詔書,其事方罷。時內出積年庫物付度支估價,例皆陳朽,鎛盡以善價買之,以給邊軍。羅縠繒彩,觸風斷裂,隨手散壞,軍士怨怒,皆聚而焚之。裴度奏事,因言邊軍焚賜之意,鎛因引其足奏曰:「此靴乃內庫出者,臣以俸二千買之,堅韌可以久服,所言不可用,皆詐也。」帝以為然,由是鎛益無忌憚。裴度有用兵伐叛之功,鎛心嫉之,與宰相李逢吉、令狐楚合勢擠度出鎮太原。崔群有公望,為搢紳所重,屢言時政之弊,鎛惡之,因議憲宗尊號,乃奏曰:「昨群臣議上徽號,崔群於陛下惜『孝德』兩字。」憲宗怒,黜群為湖南觀察使。又與金吾將軍李道古恊為奸謀,薦引方士柳泌、僧大通,言可致長生。中尉吐突承璀恩寵莫二,鎛厚賂結其歡心,故及相位。

穆宗東宮に在り、備く鎛の奸邪を聞き、及び諒闇に居り、政を聴くの日、詔して、「皇甫鎛の器は本より凡近、性は惟だ険狹、行ふ所顧ふ所無く、文は観る可き無し、早く朝倫を践むと雖も、而して素より公望に乖く。邦計を掌るより、軍興に属し当たり、下を剥くを以て公に徇ひ、既に衆怒を鼓し;跡を矯むるを以て孤立と為し、用て人言を塞ぐ。洎て臺司に塵す、益す時政を蠹し、経国の大體を知らず、辺を安んずるの遠圖を慮はず、三軍は多く凍餒の憂ひ有り、百姓は深く雕瘵の弊有り。事は皆罔蔽し、言は悉く虚誣す、遠近咸く知り、朝野同じく怨む。而して又恣に方士を求めて、上を惑はし先朝、潜かに奸人に通じ、罪は捨て難きに在り。加ふるに竄殛を合せ、以て刑章を正し、遐荒に黜けしむるも、尚ほ寛典を存す。」又詔して曰く、「山人柳泌は輒ち左道を懷き、上を惑はし先朝、固より牧人を求め、貴く衆を疑はんと欲し、自ら虚誕なるを知り、仍便ち奔逃す。僧大通は醫方精ならず、藥術皆妄り。既に禍釁を延ぶるも、俱に是れ奸邪、邦国固より常刑有り、人神の宜く共に棄つる所、宜く京兆府に付して重杖一頓を決し処死すべし。」

原文穆宗在東宮,備聞鎛之奸邪,及居諒闇,聽政之日,詔:「皇甫鎛器本凡近,性惟險狹,行靡所顧,文無可觀,雖早踐朝倫,而素乖公望。自掌邦計,屬當軍興,以剝下為徇公,既鼓眾怒;以矯跡為孤立,用塞人言。洎塵臺司,益蠹時政,不知經國之大體,不慮安邊之遠圖,三軍多凍餒之憂,百姓深雕瘵之弊。事皆罔蔽,言悉虛誣,遠近咸知,朝野同怨。而又恣求方士,上惑先朝,潛通奸人,罪在難舍。合加竄殛,以正刑章,俾黜遐荒,尚存寬典。」又詔曰:「山人柳泌輒懷左道,上惑先朝,固求牧人,貴欲疑眾,自知虛誕,仍便奔逃。僧大通醫方不精,藥術皆妄。既延禍釁,俱是奸邪,邦國固有常刑,人神所宜共棄,宜付京兆府決重杖一頓處死。」

柳泌は本と曰く楊仁力、少く醫術を習ひ、言多く誕妄なり。李道古は奸回巧宦、泌と密謀を為して進を求め、之を皇甫镈に言ふ、因りて征し禁中に入る。自ら霊藥を致す能ふと雲ひ、言ふ、「天臺山は霊草多し、君仙の會する所、臣嘗て之を知る、而して力致す能はず。願くは天臺の長吏と為り、因りて之を求めん。」徒步を起して臺州刺史と為し、仍て金紫を賜ふ。諫官論奏して曰く、「列聖も亦た方士を好む者有り、亦た官號を与ふ、未だ嘗て政を賦し民に臨ましむること無し。」憲宗曰く、「一郡の力を煩はして神仙長年を致さば、臣子の君父に於て何ぞ愛しむこと有らんや!」是より言ふ者有るを敢へて取らず。裴潾は極言を以て黜けらる。泌天臺に到り、吏民を山谷の間に驅役し、聲言して藥を采り、鞭笞躁急なり。歳余り一無所得、詐發して罪を獲んことを懼れ、舉家山谷に入る。浙東観察使追捕し、京師に送る、镈と李道古懇に保証して、必ず能く霊藥を致す可し、乃ち詔を待つて翰林院にす。憲宗泌の藥を服し、日に益す煩躁、喜怒常無く、内官罪無きを懼れて戮を見んとす、遂に弒逆を為す。大通は自ら雲ふ壽一百五十歳、久しく藥力を得たりと。又た田佐元と云ふ者有り、鳳翔虢の人、自ら奇術有りと言ひ、能く瓦礫を變じて金と為す、白衣のまま虢縣令を授く。初め、柳泌京兆府に繫がる、獄吏之を叱して曰く、「何ぞ苦しんで此の虚矯を為すや?」泌曰く、「吾本と此の心無し、是れ李道古の我を教ふ、且つ雲ふ壽四百歳と。」府吏防虞周密にし、其の隱化を恐る;及び衣を解きて誅に就くに、一も變異無く、但だ灸灼の瘢痕身に浹るのみ。镈は貶所に卒す。

原文柳泌本曰楊仁力,少習醫術,言多誕妄。李道古奸回巧宦,與泌密謀求進,言之於皇甫镈,因征入禁中。自雲能致靈藥,言:「天臺山多靈草,君仙所會,臣嘗知之,而力不能致。願為天臺長吏,因以求之。」起徒步為臺州刺史,仍賜金紫。諫官論奏曰:「列聖亦有好方士者,亦與官號,未嘗令賦政臨民。」憲宗曰:「煩一郡之力而致神仙長年,臣子於君父何愛焉!」由是莫取有言者。裴潾以極言被黜。泌到天臺,驅役吏民於山谷間,聲言采藥,鞭笞躁急。歲余一無所得,懼詐發獲罪,舉家入山谷。浙東觀察使追捕,送於京師,镈與李道古懇保證之,必能可致靈藥,乃待詔翰林院。憲宗服泌藥,日益煩躁,喜怒不常,內官懼非罪見戮,遂為弒逆。大通自雲壽一百五十歲,久得藥力。又有田佐元者,鳳翔虢人,自言有奇術,能變瓦礫為金,白衣授虢縣令。初,柳泌系京兆府,獄吏叱之曰:「何苦作此虛矯?」泌曰:「吾本無此心,是李道古教我,且雲壽四百歲。」府吏防虞周密,恐其隱化;及解衣就誅,一無變異,但灸灼之瘢痕浹身而已。镈卒於貶所。

镈の弟鏞は、端士なり。亦た進士擢第し、累ね宣歙・鳳翔の使府に從事し、入りて殿中侍御史と為り、轉じて比部員外郎・河南縣令・都官郎中・河南少尹と為る。時に镈は宰相と為り、度支を領し、恩寵殊に異なり。鏞其の太だ盛んなるを悪み、每たび弟兄宴語するに、即ち極めて之を言ふ、镈頗る悅ばず。乃ち分司を求めて、右庶子を除く。及び镈罪を獲るに、朝廷素より鏞に先見の明有るを知り、之を罪せず、征して國子祭酒と為し、改めて太子賓客・秘書監と為す。開成初め、太子少保分司を除き、卒す年四十九。鏞は文を能くし、尤も詩什に工なり、樂道自ら怡し、世務を屑せず、當時の名士皆之と交はる。集十八卷有り、『性言』十四篇を著す。

原文镈弟鏞,端士也。亦進士擢第,累歷宣歙、鳳翔使府從事,入為殿中侍御史,轉比部員外郎、河南縣令、都官郎中、河南少尹。時镈為宰相,領度支,恩寵殊異。鏞惡其太盛,每弟兄宴語,即極言之,镈頗不悅。乃求為分司,除右庶子。及镈獲罪,朝廷素知鏞有先見之明,不之罪,征為國子祭酒,改太子賓客、秘書監。開成初,除太子少保分司,卒年四十九。鏞能文,尤工詩什,樂道自怡,不屑世務,當時名士皆與之交。有集十八卷,著《性言》十四篇。

【贊】

原文【贊】

史臣曰く、奸邪正を害することは、古より之れ有り;而して矯誕忌憚無く、賢を妒み善を傷つくるは、延齡・皇甫の甚だしきが如き未だ有らざるなり。臣每たび陸丞相の延齡を論ずる疏を讀むに、未だ嘗て泣下衿を沾さざること無し、其の正を守り忠を效す、宗社の大計を為す、端士益友に非ざれば、安くんぞ能く感激して難を犯すこと此の如くせんや?異なる哉德宗の人主と為るや、忠良を用ひず、讒慝是れ崇く、乃ち身を播き國を屯し、幾くんぞ將に覆滅せんとす、尚ほ獨り延齡の是を保ち、盧杞の非を悟らず、悲しき夫!執誼・叔文は、時に乘じて僻多く、而して六合を斡運し、萬幾を斟酌せんと欲す;劉・柳の諸生は、臭を逐ひ利を市ひ、何ぞ狂妄の甚だしきや!章武は雄材睿斷、厲階を翦削す;群・度を逐ひて異・镈を相するに洎りては、蓋し季年の妖惑なり、夫れ何をか言はんや!

原文史臣曰:奸邪害正,自古有之;而矯誕無忌,妒賢傷善,未有如延齡、皇甫之甚也。臣每讀陸丞相論延齡疏,未嘗不泣下沾衿,其守正效忠,為宗社大計,非端士益友,安能感激犯難如此?異哉德宗之為人主也,忠良不用,讒慝是崇,乃至身播國屯,幾將覆滅,尚獨保延齡之是,不悟盧杞之非,悲夫!執誼、叔文,乘時多僻,而欲斡運六合,斟酌萬幾;劉、柳諸生,逐臭市利,何狂妄之甚也!章武雄材睿斷,翦削厲階;洎逐群、度而相異、镈,蓋季年之妖惑也,夫何言哉!

贊して曰く、貞元の風は、佞を好み忠を悪む。齡・镈は善を害し、國の蠹蟲と為る。裴・陸は獻替し、惡を嫉むこと風の如し。天聽諶ならず、吾道斯に窮す。

原文贊曰:貞元之風,好佞惡忠。齡、镈害善,為國蠹蟲。裴、陸獻替,嫉惡如風。天聽匪諶,吾道斯窮。