舊唐書

巻134

巻134

舊唐書

原文舊唐書

卷一百三十四

原文卷一百三十四

列傳第八十四 馬燧 渾瑊

原文列傳第八十四 馬燧 渾瑊

馬燧

原文馬燧

馬燧は、字を洵美といい、汝州郟城の人である。その祖先は右扶風から移り住んだ。祖父の瑉は、左玉鈐衛倉曹にまで官位が至った。父の季龍は、かつて『孫子』『呉子』に明るいことを挙げられ、倜儻として兵法をよくし、嵐州刺史・幽州経略軍使にまで官位が至った。燧は若い時、諸兄とともに書を読んでいたが、巻を捨てて嘆いて言うには、「天下に事あるべし。丈夫たるもの、代に功を立てて四海を済わすべきであり、どうしてただ一介の儒者として労苦に明け暮れることができようか」と。燧は姿形が魁偉で異なり、身長六尺二寸、沈勇にして智略多く、群書に広く通じ、特に兵法をよくした。

原文馬燧,字洵美,汝州郟城人,其先自右扶風徙焉。祖瑉,官至左玉鈐衛倉曹。父季龍,嘗舉明《孫》《吳》,俶儻善兵法,官至嵐州刺史、幽州經略軍使。燧少時,嘗與諸兄讀書,乃輟卷嘆曰:「天下將有事矣,丈夫當建功於代,以濟四海,安能矻矻為一儒哉!」燧姿度魁異,長六尺二寸,沈勇多智略,該涉群書,尤善兵法。

安禄山が反乱を起こすと、光禄卿の賈循をして范陽を守らせた。燧は循を説いて言うには、「禄山は恩に背いてまず乱を起こし、洛城を陥落させたとはいえ、必ずや滅ぼされるであろう。公はどうして代わりのない功績を立て、その逆将の向潤客・牛廷玠を誅し、その根拠を抜き去らないのか。禄山は西に関に入ることができず、そうすれば座して捕らえられるのみで、天下を定めることができるであろう」と。循はこれを良しとしながらも、計略をすぐに決断せず、事が漏れて、禄山は果たして韓朝陽を遣わして循を召し出した。朝陽が范陽に至り、循と語り、ひそかに壮士を伏せて弓の弦で絞め殺した。燧は身を脱して西山に走り、隠者の徐遇が匿った。一か月余りして、間道を行き平原に帰った。平原は守られず、また魏郡に走った。

原文安祿山反,俾光祿卿賈循守范陽。燧說循曰:「祿山負恩首亂,雖陷洛城,必當夷滅。公盍建不代之功,誅其逆將向潤客、牛廷玠,拔其根柢,祿山西不能入關,則坐而受擒,天下可定也。」循雖善之,計不時決,事泄,祿山果遣韓朝陽來召循。朝陽至范陽,與循語,陰伏壯士以弓弦縊殺之。燧脫身走西山,隱者徐遇匿之。逾月,間行歸平原。平原不守,復走魏郡。

宝応年中、沢潞節度使の李抱玉が趙城尉に奏請して任用した。この時、回紇の大軍が帰国するにあたり、東都回復の功績を恃み、強情で勝手気ままに振る舞い、通過する先々で倉庫の穀物を略奪し、供給が少しでも気に入らなければ、勝手に殺害を行った。抱玉は供応の準備を整えたが、賓客や従者は皆恐れて行こうとせず、燧は自ら進んで駅伝の主管を請け負った。回紇が到着すると、まずその渠帥に賄賂を贈り、明確に約束を交わすと、回紇は燧に旗幟を与えて目印とし、命令に違反する者は燧に命じてこれを誅殺させた。燧は死囚を取って左右の雑役に当たらせ、少しでも命令に違反すれば、すぐにこれを殺した。回紇は互いに顔を見合わせて顔色を失い、虜(回紇)がその境を通過する際、暴行や略奪を行う者はなかった。抱玉はますます彼を異才と認めた。燧はそこで抱玉を説いて言うには、「先ほど回紇と話したところ、燧はその内情を得ました。今、仆固懐恩は功績を恃んで党派を立て、李懐仙・張忠志・薛嵩・田承嗣はそれぞれ疆土を授けられていますが、皆懐恩から出ています。その子の瑒は軽薄で勇み足が多く不義です。燧が推し量るに、必ずや太原の西山を窺って乱を起こすでしょう。公は深く備えるべきです」と。間もなく、懐恩は果たして太原の都將の李竭誠と通謀し、太原を取ろうとしたが、その帥の辛雲京がこれを察知し、竭誠を斬り、城を固めて自ら守った。懐恩はその子の瑒に兵を率いさせてこれを包囲させた。初め、回紇が北帰する際、その将の安恪・石常庭に兵数百および誘い募った付き従う者数千人を率いさせて河陽を守らせ、東都で略奪した重い財貨は、すべて河陽に積み上げた。この時、懐恩は薛嵩をして相州・衛州から糧食を送らせて黄河の渡し場を絶たせた。抱玉は燧をして薛嵩のもとに赴かせて説得させると、嵩は懐恩と絶って順従した。抱玉は左武衛兵曹に奏請して任用した。太子通事舎人を歴任し、著作郎・営田判官に遷った。間もなく、秘書少監・兼殿中侍御史に遷り、節度判官・承務郎となり、鄭州刺史に遷った。燧はそこで農耕を奨励し督促し、その戸籍を総括し、年に一度税を課したので、州人は便利であると思った。大暦四年、懐州刺史に改めた。乱兵の後を承け、その夏は大旱魃で、人々は耕作を失った。燧はそこで教化を修めることに努め、将吏で父母のいる者には、燧は必ず彼らを訪れて敬意を表し、暴さらされた骨を収めて葬り、煩わしく苛酷なことを取り除いた。秋になると、境界内に魯の穀物が生じ、人々は大いにこれに頼った。

原文寶應中,澤潞節度使李抱玉署奏趙城尉。是時回紇大軍還國,恃復東都之功,倔強恣睢,所過或虜掠廩粟,供餼小不如意,恣行殺害。抱玉具供辦,賓介皆憚不敢行,燧自贊請主郵驛。比回紇至,則先賂其渠帥,與明要約,回紇乃授燧旗幟為識,犯令者命燧戮之。取死囚給左右廝役,小違令,輒殺之。回紇相顧失色,虜涉其境,無敢暴掠。抱玉益奇之。燧因說抱玉曰:「屬者與回紇言,燧得其情。今仆固懷恩恃功樹黨,李懷仙、張忠誌、薛嵩、田承嗣分授疆土,皆出於懷恩,其子瑒佻勇不義。以燧度之,將必窺太原西山以為亂,公宜深備之。」無何,懷恩果與太原都將李竭誠通謀,將取太原,其帥辛雲京覺之,斬竭誠,固城自守,懷恩遣其子瑒率兵圍之。初,回紇北歸,遣其將安恪、石常庭將兵數百及誘募附麗者復數千人以守河陽,東都所虜掠重貨,悉積河陽。是時,懷恩遺薛嵩自相、衛饋糧以絕河津。抱玉令燧詣薛嵩說之,嵩乃絕懷恩從順。署奏左武衛兵曹。歷太子通事舍人,遷著作郎、營田判官。無幾,遷秘書少監、兼殿中侍御史,為節度判官、承務郎,遷鄭州刺史。燧乃勸課農畝,總其戶籍,歲一稅之,州人以為便。大歷四年,改懷州刺史。乘亂兵之後,其夏大旱,人失耕稼;燧乃務修教化,將吏有父母者,燧輒造之施敬,收葬暴骨,去其煩苛。至秋,界中生〓魯谷,人頗賴之。

抱玉が鳳翔に移鎮すると、汧陽が辺境に接しているため、隴州刺史・兼御史中丞に奏請して任用した。州の西に通道があり、広さ二百余歩、上は険しい山に連なり、その山は吐蕃と相対していた。虜(吐蕃)がしばしば侵入する際、皆ここから出てきた。燧はそこで険易を巡行し、石を立てて木を植えてこれを塞ぎ、下に二つの門を設け、籬櫓を設置し、八日で工事を完了した。ちょうど抱玉が入朝する際、燧もともに同行した。しばらくして、代宗はその才能を知り、召し出して拝謁させ、商州刺史・兼御史中丞・防禦水陸運使に任じた。

原文抱玉移鎮鳳翔,以汧陽被邊,署奏隴州刺史、兼御史中丞。州西有通道,廣二百余步,上連峻山,山與吐蕃相直,虜每入寇,皆出於此。燧乃按行險易,立石種樹以塞之,下置二門,設籬櫓,八日而功畢。會抱玉入覲,與燧俱行。久之,代宗知其能,召見,拜商州刺史、兼御史中丞、防禦水陸運使。

大暦十年、河陽三城で兵乱が起こり、鎮将の常休明を追い出し、燧を検校左散騎常侍さんきじょうじ・御史大夫・河陽三城使とした。十一年五月、汴州の大将の李霊耀が反乱を起こし、州城を占拠して、運路を絶ち、節度使の地位を要求した。代宗は人を姑息することを務め、そこで霊耀を汴・宋など八州節度留後に任じた。霊耀は命令を受けなかった。そこでひそかに魏博と結び、田承嗣は兄の子の悦に兵を率いさせて霊耀を救援させ、永平軍の将の劉洽を破った。詔により燧は淮西節度使の李忠臣と合軍して霊耀を討った。忠臣は賊を恐れ、廬舎を焼いて西に走った。燧はその兵を戻すよう勧め、自ら先鋒となることを請い、田悦を撃破し、汴州に進んで迫った。忠臣は汴南を行き、燧は軍を率いて汴北を行き、また西梁固で霊耀の将の張清を破った。霊耀は鋭兵八千を選び、「餓狼軍」と号した。燧は単独で軍を率いてこれを撃破し、浚儀に進んだ。この時、河陽の兵は諸軍の冠であった。承嗣はまた悦に兵二万を率いさせて霊耀を救援させ、永平軍の将の杜如江を破り、曹州を攻略し、また李正己の遊軍を破り、劉洽・長孫全緒らの軍を撃退し、勝ちに乗って汴州から一舎(三十里)のところまで来て、方陣を組んで進んだ。忠臣は宋州・淮南・浙西の兵と合流し、戦って不利となり、燧に救援を請うた。燧は四千人を率いて奇兵としてこれを撃破し、田悦は単騎で逃げ去った。霊耀は悦の敗北を知り、翌日百騎で夜に逃げ、汴州はすべて降伏した。燧は功績を忠臣に譲った。忠臣はもともと暴戾であり、燧は汴城に入ることを望まず、そこで軍を率いて板橋に退いて駐屯した。忠臣が城に入ると、果たしてその功績を独占し、そこで会合の際に宋州刺史の李僧恵を撃ち殺した。燧は河陽に戻った。

原文大歷十年,河陽三城兵亂,逐鎮將常休明,以燧檢校左散騎常侍、御史大夫、河陽三城使。十一年五月,汴州大將李靈耀反,因據州城,絕運路,以邀節制。代宗務姑息人,因授靈耀汴、宋等八州節度留後。靈耀不受命。乃潛結魏博;田承嗣乃遣兄子悅將兵援靈耀,破永平軍將劉洽。詔燧與淮西節度使李忠臣合軍討靈耀。忠臣懼賊,焚廬舍西走。燧勸其還兵,請為前鋒,擊破田悅,進逼汴州。忠臣行汴南,燧引軍行汴北,又敗靈耀將張清於西梁固。靈耀選銳兵八千,號為「餓狼軍」;燧獨引軍擊破之,進至浚儀。是時,河陽兵冠諸軍。承嗣又遣悅將兵二萬救靈耀,破永平軍將杜如江,略曹州,又敗李正己遊軍,擊走劉洽、長孫全緒等軍,乘勝去汴州一舍,方陣而進。忠臣會宋州、淮南、浙西兵,與戰不利,請救於燧,燧引四千人為奇兵擊破之,田悅匹馬遁去。靈耀知悅敗,明日以百騎夜走,汴州悉降,燧讓功於忠臣。忠臣素暴戾,燧不欲入汴城,乃引軍退舍於板橋。忠臣入城,果專其功,因會擊殺宋州刺史李僧惠。燧還河陽。

大暦十四年六月、検校工部尚書・太原尹・北都留守・河東節度留後となり、まもなく節度使となった。太原は前政の鮑防の百井での敗軍の後を承け、兵甲が寡弱であった。燧はそこで将吏・牧馬・雑役の者をすべて召集し、数千人を得て、すべて騎卒に補い、数か月教練して精鋭の騎兵とした。甲冑を作る者には必ず長短三等を作らせ、着る者に合わせて、進退に便利なようにした。また戦車を作り、狻猊の像で覆い、後ろに戟を並べ、行軍時には兵甲を載せ、停止時には営陣とし、あるいは険阻を塞いで突進を防ぎ、器械はすべて鋭利でなかったものはなかった。一年経つと、兵三万を陳列し、広場を開いて戦陣を習わせ、その進退坐作の勢いを教えた。

原文大歷十四年六月,檢校工部尚書、太原尹、北都留守、河東節度留後,尋為節度使。太原承前政鮑防百井敗軍之後,兵甲寡弱,燧乃悉召將吏牧馬廝役,得數千人,悉補騎卒,教之數月,為精騎。造甲者必令長短三等,稱其所衣,以便進趨。又造戰車,蒙以狻猊象,列戟於後,行則載兵甲,止則為營陣,或塞險以遏奔沖,器械無不犀利。居一年,陳兵三萬,開廣場以習戰陣,教其進退坐作之勢。

建中二年六月、京師に朝し、検校兵部尚書を加えられ、太原に還ることを命ぜられた。初め、田悦は新たに承嗣の兵を統べることを代わり、人の己に附かざるを恐れ、誠款を効すことを詐りしが、燧は上疏して其の必ず反することを明らかにし、先ず之を備うべきことを論じた。其の年、悦は果たして淄青・恆冀と謀を通じ、自ら兵三万を将いて邢州を囲み、臨洺に次ぎ、重城を築き、其の内外を絶ち、以て救兵を拒げり。邢州の将李洪・臨洺の将張伾は、皆堅守して抜かれず。昭義軍急を告ぐ。乃ち詔して燧に歩騎二万を将い、昭義節度使李抱真・神策行営兵馬使李晟と軍を合して臨洺を救わしむ。燧の軍は〓郭口より出で、兵未だ険を過ぎざるに、乃ち書を持たせて悦を諭し、且つ之に好を示す。悦は燧の之を畏るるを謂えり。十一月、師は邯鄲に次ぐ。悦、使を遣わして至る。燧は皆之を斬りて以て徇せしめ、兵を遣わして其の支軍を撃ち破り、其の将成炫之を射殺せり。悦は自ら臨洺を攻め、大将楊朝光に兵万人を将いさせ、臨洺の南双岡に於て東西に二柵を列ねて以て燧を禦がしむ。燧は乃ち李抱真・李晟を率いて進軍し、二柵の中に営す。其の夜、東柵は走りて悦に帰す。明日、燧は進軍して明山に営し、其の棄てたる柵を取って以て輜重を置く。悦、将吏に謂いて曰く、「朝光の堅柵は万人を下らず。仮令燧等尽く鋭を以て之を攻むるも、数日に比し、計らくは下す能わず、殺傷必ず甚だしからん。吾れ此に臨洺を必ず抜き、軍士を賞労して之と戦わば、必勝の術なり」と。悦は乃ち恆州李惟嶽の救兵五千を分かちて以て朝光を助けしむ。燧は軍を率いて朝光を攻む。田悦、万余人を将いて之を救う。燧は乃ち大将李自良・李奉国に命じて騎兵を将い、神策軍と双岡に於て合して之を禦がしめ、令して曰く、「悦を得て過ぎしめば、当に爾を斬らん」と。自良等、悦を撃ち却く。燧は乃ち火車を推して以て其の柵を焚かしめ、朝光及び大将盧子昌を斬り、首五千余級を斬り、八百余人を生虜す。五日を居て、進軍して臨洺に至る。田悦、軍を悉くして戦う。燧は自ら鋭兵を将いて其の沖口を扼す。凡そ百余合、士皆決死す。悦の兵大いに敗れ、首万余級を斬り、九百人を生虜し、谷三十万斛を得、器甲之に称す。悦は敗兵を収めて夜遁す。邢州の囲み亦解く。功を以て右僕射を加えらる。先だって戦うに、燧は軍中に誓いて、戦勝せば請う家財を以て賞を行わんと。既に勝ちて、尽く其の私財を出だして以て将士に頒つ。徳宗之を嘉し、詔して度支に銭五万貫を出だして賞を行わしめ、燧の家財を還す。尋いで魏博招討使を加えらる。

原文建中二年六月,朝於京師,加檢校兵部尚書,令還太原。初,田悅新代承嗣統兵,恐人不附己,詐效誠款,燧上疏明其必反,宜先備之。其年,悅果與淄青、恆冀通謀,自將兵三萬圍邢州,次臨洺,築重城,絕其內外,以拒救兵。邢州將李洪、臨洺將張伾,皆堅守不拔。昭義軍告急,乃詔燧將步騎二萬與昭義節度使李抱真、神策行營兵馬使李晟合軍救臨洺。燧軍出〓郭口,兵未過險,乃遣持書喻悅,且示之好,悅謂燧畏之。十一月,師次邯鄲,悅遣使至,燧皆斬之以徇;遣兵擊破其支軍,射殺其將成炫之。悅自攻臨洺,遣大將楊朝光將兵萬人,於臨洺南雙岡東西列二柵以禦燧。燧乃率李抱真、李晟進軍,營於二柵之中。其夜,東柵走歸悅。明日,燧進軍營明山,取其棄柵以置輜重。悅謂將吏曰:「朝光堅柵不下萬人,假令燧等盡銳攻之,比數日,計不能下,殺傷必甚。吾此必拔臨洺,賞勞軍士而與之戰,必勝之術也。」悅乃分恆州李惟嶽救兵五千以助朝光,燧率軍攻朝光,田悅將萬余人救之。燧乃令大將李自良、李奉國將騎兵合神策軍於雙岡禦之,令曰:「令悅得過,當斬爾!」自良等擊卻悅。燧乃令推火車以焚其柵,斬朝光及大將盧子昌,斬首五千余級,生虜八百余人。居五日,進軍至臨洺,田悅悉軍戰。燧自將銳兵扼其沖口,凡百余合,士皆決死,悅兵大敗,斬首萬余級,生虜九百人,得谷三十萬斛,器甲稱是。悅收敗兵夜遁,邢州圍亦解。以功加右僕射。先戰,燧誓軍中,戰勝請以家財行賞,既勝,盡出其私財以頒將士。德宗嘉之,詔度支出錢五萬貫行賞,還燧家財。尋加魏博招討使。

三年正月、田悦は淄青・恒冀に救援を求め、李納は大将衛俊に兵一万を率いさせて悦を救わしめ、李惟嶽もまた兵三千を派遣して援軍に赴かせた。悦は散卒二万余人を収集し、洹水に陣を構え、淄青軍はその東に、恒冀軍はその西に布陣し、首尾相応じた。燧は諸軍を率いて進み鄴に駐屯し、河陽の兵を増やすよう上奏して請うと、詔により河陽節度使李芃に兵を率いてこれに合流させた。軍は漳に駐屯し、悦は将王光進を遣わして兵をもって長橋を守らせ、月城を築いて堅固とし、軍は渡河できなかった。燧はそこで下流に車数百乗を用い、鉄鎖で繋ぎ、鎖を中流に渡して遮断し、土嚢を満たして水を堰き止めると、水は次第に浅くなり、諸軍はことごとく渡河した。この時軍糧は少なく、悦は深く陣を固めて戦わず、燧の軍を疲弊させようとした。燧は諸軍に十日分の糧食を持たせ、進んで倉口に駐屯し、悦と洹水を挟んで対陣した。抱真と李芃が問うた、「糧食が少ないのに深く進軍するのは、どうしてか」と。燧は言った、「糧食が少なければ速戦が有利であり、兵法は人を致すことを善しとし、人に致されぬことを善しとする。今、田悦は淄青・恒の三軍と首尾をなして、戦わぬ計略をもって我が師を疲弊させようとしている。もし軍を分けてその左右を撃てば、兵が少なく必ず破れるとは限らず、悦がかつて救援に来れば、これは前後敵を受けることになる。兵法にいう『必ず救うところを攻める』とは、彼らが固より戦わねばならぬことであり、燧は諸軍を合わせてこれを破るのである」と。燧はそこで三つの橋道を造って洹水を越え、日に日に挑戦したが、悦は出撃しようとしなかった。恒州兵は軍が少ないため、燧に併呑されることを恐れ、軍を率いて悦のもとに合流した。悦は燧が明日また挑戦すると考え、そこで伏兵一万人を潜ませ、燧を邀撃しようとした。燧はそこで諸軍に命じて夜半に皆食事を済ませ、鶏鳴前に鼓を撃ち角を吹かせ、密かに軍を洹水の傍らに進めて魏州へ直行させ、命令して言った、「賊が来ると聞いたら、そこで止まって陣を構えよ」と。また百騎に鼓角を吹かせ、皆後方に留まらせ、なお薪を抱え火を持たせ、軍がすべて出発したのを見届け、鼓角を止めてその傍らに隠れ、悦の軍がすべて渡河するのを待って、その橋を焼かせた。軍が十数里進んだ時、悦は淄青・恒州の歩騎四万余人を率いて橋を渡りその背後を襲い、風に乗って火を放ち、鬨の声を上げて進軍した。燧はそこで座り、命令を下して動かず、前方の草を除き榛棘を斬って百歩の広さとし陣を構えさせた。燧は陣を出て、勇力を募り五千余人を得て、前列に分け、賊の到来を待った。悦の軍が到着する頃には、火は止み気力は尽き、力は少し衰えていたので、そこで兵を放ってこれを撃ち、悦の軍は大敗した。この時、神策・昭義・河陽軍は少し退いたが、河東軍が既に勝利したので、諸軍は戻って戦い、合撃してまたこれを大破した。洹水まで追撃し、悦の軍は橋へ走ったが、橋は既に焼かれていた。悦の軍は混乱し、水に飛び込み、斬首二万余級、大将孫晋卿・安墨啜を殺し、生け捕り三千余人を得、溺死者は数え切れなかった。淄青軍はほとんど全滅し、死者は三十余里にわたって累々と横たわった。悦は敗残兵千余人を収めて魏州へ逃げ、城門に至ると、州将李長春は門を閉じて受け入れなかった。しばらくして追兵が来ないのを見て、夜明け頃になってようやく悦を受け入れた。悦は入城すると、長春を殺し、城を守って籠城した。数日後、李再春は博州を以て降伏し、悦の兄の昂は洺州を以て降伏し、王光進は長橋を以て降伏した。悦は符璘・李瑶に五百騎を率いさせて淄青兵を送り返し鎮に還らせたが、璘・瑶はそこで来て燧に降った。魏州は先に御河を引き込んで城南を流していたが、燧はその領口を塞がせると、河流は絶え、城中はますます恐れた。悦はそこで許士則・侯臧を遣わし、徒歩で間道を行かせて朱滔・王武俊を説き、兵を借りて救援を求めた。この時、王武俊は既に李惟嶽を殺し、その首を京師に伝え、武俊は恒冀観察都防禦使に任じられていた。時に武俊と同列の張孝忠は既に易定節度使となっており、武俊だけが防禦使であり、また趙・深の二州を割いて一鎮とし、康日知を観察使としたので、非常に怨みを抱き、かつ平素より孝忠を軽んじ、その名が下位にあることを恥じていた。時に朱滔は李惟嶽を討ち、深州を抜き、幽州に隷属することを求めたが得られず、また怨みを抱いていた。これにより滔・武俊はともに謀って悦を救うこととなった。悦は燕・趙の援けを恃み、また兵二万を出して城を背に陣を構えたが、燧はまた諸軍とともにこれを撃破した。五月、燧は同中書門下平章事を加えられた。六月、朱滔・王武俊は連合して兵五万を率いて悦を救いに来り、城下に至った。諸将は退兵を議したが、燧は固より不可とし、徳宗は朔方節度使李懐光を遣わし朔方軍歩騎一万五千人を率いて燧のもとに赴かせた。この月の晦日、懐光もまた到着した。懐光は勇猛だが謀略がなく、軍が到着した日、休息もせず、堅く朱滔らと戦うことを請うたが、王師は利あらず。悦らは水を決壊して燧らの軍に灌ぎ、燧の兵は屈し糧食は少なく、七月、燧は諸軍とともに退き魏県に駐屯した。この月、詔により燧に魏州大都督ととく府長史を加え、兼ねて魏・博・貝四州節度・観察・招討等使とした。田悦・朱滔・王武俊の軍もまた魏県に至り、官軍と河を隔てて対峙した。十一月、三盗は魏県の軍中で互いに推奨し合って王号を称した。朱滔は冀王と称し、田悦は魏王と称し、王武俊は趙王と称した。また使者を李納のもとに遣わすと、納は斉王と称した。四道は共に淮西の李希烈を推して天下兵馬元帥・太尉・建興王とし、皆偽りの官号を署し、国初の行台の制度のようであったが、名目にはかなり妖しげなものがあり、しかしまだ偽りの年号を称するには至らなかった。そして五盗は合従して社稷を傾けようと図り、両河は鼎の沸くが如く、寇盗は横行した。燧らは志は勤王にあったが、ついに患難を駆逐攘うことはできなかった。

原文三年正月,田悅求救於淄青、恆冀,李納遣大將衛俊將兵萬人救悅,李惟嶽亦遣兵三千赴援。悅收合散卒二萬余人,壁於洹水,淄青軍其東,恆冀軍其西,首尾相應。燧率諸軍進屯於鄴,奏請益河陽兵,詔河陽節度使李芃將兵會之。軍次於漳,悅遣將王光進以兵守長橋,築月城以為固,軍不得渡。燧乃於下流以車數百乘,維以鐵鎖,鎖絕中流,實以土囊以遏水,水稍淺,諸軍畢渡。是時軍糧少,悅深壁不戰,欲老燧軍。燧令諸軍持十日糧,進次倉口,與悅夾洹水而軍。抱真與李芃問:「糧少而深入,何也?」燧曰:「糧少利速戰,兵法善於致人,不致於人。今田悅與淄青、恆三軍為首尾,計欲不戰,以老我師;若分軍擊其左右,兵少未可必破,悅且來救,是前後受敵也。兵法所謂攻其必救,彼固當戰也,燧為諸軍合而破之。」燧乃造三橋道逾洹水,日挑戰,悅不敢出。恆州兵以軍少,懼為燧所並,引軍合於悅。悅謂燧明日復挑戰,乃伏兵萬人,欲邀燧。燧乃令諸軍半夜皆食,先雞鳴時擊鼓吹角,潛師傍洹水徑趨魏州,令曰:「聞賊至,則止為陣。」又令百騎吹鼓角,皆留於後,仍抱薪持火,待軍畢發,止鼓角匿其旁,伺悅軍畢渡,焚其橋。軍行十數里,悅乃率淄青、恆州步騎四萬余人逾橋掩其後,乘風縱火,鼓噪而進。燧乃坐,申令無動,命前除草斬榛棘廣百步以為陣;燧出陣,募勇力得五千余人,分為前列,以俟賊至。比悅軍至,則火止氣乏,力少衰,乃縱兵擊之,悅軍大敗。時神策、昭義、河陽軍小卻,河東軍既勝,諸軍還鬥,合擊又大破之。迫洹水,悅軍走橋,橋已焚矣。悅軍亂,赴水,斬首二萬余級,殺大將孫晉卿、安墨啜,生獲三千余人,溺死者不可勝紀。淄青軍殆盡,死者相枕藉三十餘里。悅收敗卒千余人走魏州,至門,州將李長春閉門不納。久之,追兵不至,比明,乃納悅。悅既入,殺長春,嬰城自守。數日,李再春以博州降,悅兄昂以洺州降,王光進以長橋降。悅遣符璘、李瑤將五百騎送淄青兵還鎮,璘、瑤因來降燧。魏州先引御河入城南流,燧令塞其領口,河流絕,城中益恐。悅乃遣許士則、侯臧徒步間行說硃滔、王武俊,借兵求救。時王武俊已殺李惟嶽,傳首京師,授武俊恆冀觀察都防禦使;時武俊同列張孝忠已為易定節度使,武俊獨為防禦使,又割趙、深二州為一鎮,以康日知為觀察使,甚為怨望,且素輕孝忠,恥名在下。時硃滔討李惟嶽,拔深州,求隸幽州不得,亦怨望。由是滔、武俊同謀救悅。悅恃燕、趙之援,又出兵二萬背城而陣,燧復與諸軍擊破之。五月,加燧同中書門下平章事。六月,硃滔、王武俊聯兵五萬來救悅,至於城下。諸帥議退兵,燧固不可,德宗遣朔方節度使李懷光將朔方軍步騎萬五千人赴燧。是月晦,懷光亦至。懷光勇而無謀,軍至之日,未休息,堅請與滔等戰,王師不利。悅等決水灌燧等軍,燧兵屈糧少,七月,燧與諸軍退次魏縣。是月,詔加燧魏州大都督府長史,兼魏、博、貝四州節度、觀察、招討等使。田悅、硃滔、王武俊軍亦至魏縣,與官軍隔河對壘。十一月,三盜於魏縣軍中遞相推獎王號:硃滔稱冀王,田悅稱魏王,王武俊稱趙王;又遣使於李納,納稱齊王。四道共推淮西李希烈為天下兵馬元帥、太尉、建興王,皆偽署官號,如國初行臺之制,而名目頗有妖僻者,然未敢偽稱年號。而五盜合從圖傾社稷,兩河鼎沸,寇盜橫行;燧等雖誌在勤王,竟莫能驅攘患難。

四年十月、涇原の兵が関を犯し、帝は奉天に幸し、燧は軍を率いて太原に還った。議する者は言った、「燧がもし田悦の洹水での敗北に乗じ、力を合わせてこれを攻めていたなら、当時城中の敗卒は三二千人もおらず、皆傷ついて起き上がれず、日夜降伏を待っていた。燧と抱真は不和で、賊を撃つのを遷延させたために、三盗が連結するに至り、今なお禍根となっているのは、燧の責任によるものである」と。燧は太原に至り、行軍司馬王権に兵五千を率いさせて奉天に赴かせ、また子の匯および大将の子らをともに来させ、中渭橋に陣を構えさせた。帝が梁州に幸すると、権・匯は兵を率いて鎮に還った。燧は晋陽が王業の起こった地であることから、都城の東面が平易で敵を受けることを考慮し、時に天下は騒動し、北辺はしばしば警急があったので、晋水を引き汾水に架けて城の東に注ぎ、溜めて池とし、寇が来た時の守備兵を一万人節約する計略とした。また汾水を決壊して城を巡らせ、多く池沼とし、柳を植えて堤を固めた。まもなく保寧軍節度使を兼ねた。

原文四年十月,涇師犯關,帝幸奉天,燧引軍還太原。議者云:「燧若乘田悅洹水之敗,並力攻之,時城中敗卒無三二千人,皆夷傷未起,日夕俟降;燧與抱真不和,遷延於擊賊,乃致三盜連結,至今為梗,職燧之由。」燧至太原,遣行軍司馬王權將兵五千赴奉天,又遣男匯及大將之子與俱來,壁於中渭橋。及帝幸梁州,權、匯領兵還鎮。燧以晉陽王業所起,度都城東面平易受敵,時天下騷動,北邊數有警急,乃引晉水架汾而註城之東,瀦以為池,寇至計省守陴者萬人;又決汾水環城,多為池沼,樹柳以固堤。尋兼保寧軍節度使。

興元元年正月、検校司徒しとを加えられ、北平郡王に封ぜられた。七月、徳宗は京に還り、燧に奉誠軍及び晋・絳・慈・隰節度並びに管内諸軍行営副元帥を加え、侍中渾瑊・鎮国軍節度使駱元光とともに河中を討たせた。初め、李懐光が河中を占拠していた時、燧は使者を遣わして招諭したが、懐光の妹婿の要廷珍は晋州を守り、衙将毛朝易攵は隰州を守り、鄭抗は慈州を守っていたが、皆相次いで燧に降った。初め、王武俊は魏県から鎮に還り、偽号を去ったが、趙州を攻囲して解かず、康日知は窮迫し、趙州を棄てようとした。燧は上奏して言った、「武俊に詔して抱真とともに朱滔を撃たせ、深・趙を武俊に隷属させ、日知を晋・慈・隰節度使に改めるよう請う」と。日知が未だ到着しないうちに三州は燧に降ったので、また燧に晋・慈・隰節度使を加えた。燧はそこで三州を日知に譲るよう上表し、かつ降伏によってこれを授けるのは、後に功ある者が常例とすることになると述べた。上はこれを嘉して許した。燧はそこで使者を遣わして日知を迎え、到着すると、府庫を検録してこれを返したので、日知は喜び且つ望外であった。

原文興元元年正月,加檢校司徒,封北平郡王。七月,德宗還京,加燧奉誠軍及晉、絳、慈、隰節度並管內諸軍行營副元帥,令與侍中渾瑊、鎮國軍節度使駱元光同討河中。初,李懷光據河中,燧遣使招諭之,懷光妹婿要廷珍守晉州,衙將毛朝易攵守隰州,鄭抗守慈州,皆相次降燧。初,王武俊自魏縣還鎮,雖去偽號,而攻圍趙州不解,康日知窘蹙,欲棄趙州,燧奏曰:「可詔武俊與抱真同擊硃滔,以深、趙隸武俊,請改日知為晉、慈、隰節度使。」日知未至而三州降燧,故又加燧晉、慈、隰節度使。燧乃表讓三州於日知,且言因降而授之,恐後有功者踵以為常。上嘉而許之。燧乃遣使迎日知,既至,籍府庫而歸之,日知喜且過望。

九月十五日、燧は歩騎三万を率いて絳に駐屯し、兵を分けて夏県を収め、稷山を攻略し、龍門を攻め、その将馮萬興・任象玉を降した。燧は兵をもって絳州を攻め、十月、その外城を陥とし、その夜、偽刺史王克同と大将達奚小進は城を棄てて逃走し、その兵四千人を降した。また大将李自良・谷秀を遣わし、兵を分けて聞喜・夏県・万泉・虞郷・永楽・猗氏の六県を平定し、その将辛兟及び兵五千人を降した。谷秀は命令に背き士女を掠奪した罪で斬られ、その首をさらしものとした。

原文九月十五日,燧帥步騎三萬次於絳,分兵收夏縣,略稷山,攻龍門,降其將馮萬興、任象玉。燧以兵攻絳州,十月,拔其外城,其夜偽刺史王克同與大將達奚小進棄城走,降其眾四千人。又遣大將李自良、谷秀分兵略定聞喜、夏縣、萬泉、虞鄉、永樂、猗氏六縣,降其將辛兟及兵五千人。谷秀以犯令虜士女,斬之以徇。

貞元元年、軍は宝鼎に駐屯し、陶城において賊の騎兵を破り、先鋒将李黯がこれを追撃し、賊将徐伯文を射殺し、首級一万余を斬り、馬五百匹を獲た。この年、天下は蝗害と旱魃に見舞われ、物価は高騰し、軍は糧餉に乏しく、京師では事を論ずる者多くは懐光を赦すよう請うたが、上意は未だ決しなかった。燧は懐光の叛逆の罪が特に甚だしく、河中は京邑に密接し、反覆して保信すべからず、これを赦しては天下に示すところなく、上が左右に惑わされることを慮り、かつ兵事は尚密であるべきと考えた。六月、燧は軍を離れ数百騎を率いて京師に朝した。召見に及んで、燧は言う、「臣は武に優れぬといえども、芻糧一ヶ月分を得れば、河中を平定するに足ります」と。上はこれを許した。

原文貞元元年,軍次寶鼎,敗賊騎兵於陶城,前鋒將李黯追擊之,射殺賊將徐伯文,斬首萬餘級,獲馬五百匹。是歲,天下蝗旱,物價騰踴,軍乏糧餉,而京師言事多請扌舍懷光,上意未決。燧以懷光逆節尤甚,河中密邇京邑,反覆不可保信,舍之無以示天下,慮上為左右所惑,且兵事尚密。六月,燧乃舍軍以數百騎朝於京師。比召見,燧曰:「臣雖不武,得芻糧支一月,足以平河中。」上許之。

七月、燧は京師に朝した機に乗じて、渾瑊・駱元光・韓遊瑰と合軍し、長春宮に駐屯した。懐光の将徐廷光は兵六千をもって宮城を守り、防備は厳重であった。燧は長春宮が下らなければ、懐光は自ら固く守り、これを攻めれば日を費やし持久戦となり、傷むところ必ず甚だしいと推し量り、身を挺して城下に至り廷光を呼んだ。廷光は平素より燧の威名を憚り、城上にて拝礼した。燧は廷光の心が既に屈したと推し量り、徐ろにこれに謂う、「我は朝廷より来たりし者なり、西面して命を受けよ」と。廷光は再拝した。燧は乃ちこれを諭して言う、「公らは皆朔方の将士、祿山以来、先ず大功を立て、四十余年、功績最も高し、何ぞ祖父の勲功を棄て、君上に背き、族滅の計を為さんや!我に従えば、禍を免れるのみならず、富貴を図ることもできよう」と。賊徒は皆答えなかった。燧はまた言う、「我が言の誠ならざるを以てするならば、今相去ること数歩遠からず、爾は我を射るべし!」と。乃ち襟を開いてこれに示した。廷光は感泣して俯伏し、軍士もまた涙を流した。先立つこと一日、賊の焦籬堡守将尉珪は兵二千をもって堡に拠り燧に降った。廷光の東道が既に絶たれたので、乃ち衆を率いて出降した。燧は数騎をもって直ちに城に入り、これを処置すること疑わず、畏服せざる者なく、衆は大呼して曰く、「我ら輩また王人となるを得たり!」と。渾瑊はここにおいて燧に服し、参佐に私かに謂う、「予嘗て馬公の用兵は予と相遠からずと謂えども、ただ累次田悦に敗れたるを怪しみたり。今その行兵・敵を料るを見るに、吾は遠く及ばざるなり!」と。八月、燧は軍を焦籬堡に移した。その夜、賊の太原堡守将呉冏は堡を棄てて遁走し、その配下は皆降った。燧は諸軍を率いて河を渡り、兵凡そ八万、城下に陣した。この日、賊将牛名俊は懐光の首を斬り城を以て降った。その守兵なお一万六千人、賊将閻晏・孟宝・張清・呉冏ら七人を斬ってこれを徇し、懐光に脅迫され虜とされた者は皆赦した。

原文七月,燧因朝京師,乃與渾瑊、駱元光、韓遊瑰合軍,次於長春宮。懷光將徐廷光以兵六千守宮城,禦備甚嚴。燧度長春不下,則懷光自固,攻之曠日持久,所傷必甚,乃挺身至城下呼廷光。廷光素憚燧威名,則拜於城上。燧度廷光心已屈,乃徐謂之曰:「我來自朝廷,可西面受命。」廷光復拜。燧乃喻之曰:「公等皆朔方將士,祿山以來,首建大動,四十餘年,功伐最高,奈何棄祖父之動力,背君上,為族滅之計耶!從吾,非止免禍,富貴可圖也。」賊徒皆不對。燧又曰:「爾以吾言不誠,今相去不遠數步,爾當射我!」乃披襟示之。廷光感泣俯伏,軍士亦泣下。先一日,賊焦籬堡守將尉珪以兵二千因堡降燧;廷光東道既絕,乃率眾出降。燧以數騎徑入城,處之不疑,莫不畏服,眾大呼曰:「吾輩復得為王人矣!」渾瑊由是服燧,私謂參佐曰:「予嘗謂馬公用兵與予不相遠,但警怪累敗田悅;今觀其行兵料敵,吾不迨遠矣!」八月,燧移軍於焦籬堡。其夜,賊太原堡守將吳冏棄堡而遁,其下皆降。燧率諸軍濟河,兵凡八萬,陣於城下。是日,賊將牛名俊斬懷光首以城降。其守兵猶一萬六千人,斬賊將閻晏、孟寶、張清、吳冏等七人以徇,為懷光脅虜者皆舍之。

燧は京師に朝してより行営に還るまで、凡そ二十七日にして河中を平定した。詔書はこれを褒め称え、光禄大夫に遷し、侍中を兼ね、なお一子に五品正員官を与えた。宴賜が終わり、太原に還った。この行に際し、徳宗は燧に『宸扆』・『臺衡』の二銘を賜う。序に曰く、

原文燧自朝京師還行營,凡二十七日而河中平。詔書褒美,遷光祿大夫,兼侍中,仍與一子五品正員官。宴賜畢,還太原。是行也,德宗賜燧《宸扆》、《臺衡》二銘。序曰:

朕は上古の書を覧るごとに、唐・虞の時代に至っては、君臣相得て、聖賢同時に在り、日夜孜孜として至道を講論し、或いはその鑑誡を陳べ、或いは詠歌を以て諷し、煥乎として典謨たり、百代これが式たり、啓沃の道を見る有り、理化の端を見る有り、意甚だこれを慕うも、而も能く及ばざるなり。近頃霊監節度使杜希全著書して上献し、多く規諫する所あり、聊か《君臣箴》を作り、以てその意に答う。河東等道副元帥・司徒燧固く石に勒するを請い、厥の後人に貽す。朕は文既に工ならず、義又備わらず、来裔に垂るるは、良に恧む所なり。予を起す者は商なり、之に因りて作有り、朝夕自ら儆むるに庶く、且つ後代に我が文武殿邦の臣を知らしめんか。《宸扆銘》に曰く、天は蒸人を生じ、性命は元淳なり、嗜欲交馳し、利害糾紛す。主無ければ乃ち乱る、之に君を樹つ、九域茫茫たり、万情云云たり。目は備えて睹ず、耳は遍く聞き難し、之を睹之を聞くも、矧んや又真に非ざるや。事その源を失い、道遠くして親しまず、理その要を行い、化行くこと神の如し。源を失うは何ぞ、自ら身を正さざるなり、身を正すの方、先ずその意を誠にす。爾の欲に従うこと無かれ、爾の偽を載せること無かれ、道を体し徳を崇くし、仁を本とし義に率う。必ず信なること寒暑の若く、私無きこと天地に象り、感して遂に通じ、百慮一致す。人を用いるの術、各その器に当て、短を捨て長に従い、理備わるを求めず。事多く総集し、衆才咸く遂ぐ、知りて必ず任じ、任じて貳すること無し。天下の目を以て鑑と為せば、我が鑑は斯く明らかなり、天下の心を以て謀と為せば、我が謀は則ち智なり。賢を求むるは惟だ広く、理を弁ずるは惟だ精なり、耳に逆らい心に咈うとも、必ず乃ちの誠を嘉す。旨に順い苟くも容るるも、亦その情を察し、奸諛を斥去し、忠貞を全度す。先人は言を立て、代の為に程を作る、諤諤たる者は昌え、唯唯たる者は傾く、興亡に係る、何ぞ其の軽きを云わん。天を承けて人にす、夫れ貴からずやあらんや、伊昔の哲王、夙夜祗畏す。朽を馭るるを戒と為し、隍を納るるを志と為し、神将に盈を害し、天仮易せず。四海を家と為す、夫れ富からずやあらんや、伊昔の哲王、勤倹固陋なり。土階飾ること無く、露臺構うことを罷め、奇伎淫巧を遠ざけ、珍禽怪獣を放つ。之を敬し之を慎めば、天命祐う可し。必ず行わしめんと欲すれば、人の情に順い、必ず著わさんと欲すれば、己の慮を清くし、心に億詐無く、事必ず忠恕なり。凡そ将に為さんとする有らば、三思せざること無し、喜怒は以て節し、動静は以て時す。毫厘或いは差えば、禍害亦随う、厥の初めを慢易すれば、其の悔い何ぞ追わん。刑は長くす可からず、武は恃む可からず、威を作り力を逞うすれば、厲階斯く起る。旒を垂れて聡を蔽い、纊を黈めて耳を塞ぎ、弘大を包含して光らしむ、是れ亦美と為す。之を覆すこと天の如く、之を愛すること子の如く、仁心人を感ぜしめ、率土自ずから理まる。嗟予寡昧、丕図を嗣守し、寇戎薦興し、徳化未だ孚かず。大業兢兢たり、其れ敢えて渝えんや、物情を俯察し、典謨を仰稽し、誡を斯の言に作り、坐隅に置く。《臺衡銘》に曰く、天は台星を列ね、象を人に垂る、聖人は天に則り、亦輔臣を建つ。以て翼とし以て弼と為し、衡と為し鈞と為す、耳目の心に応ずるが如く、股肱の身に連なるが如く、是れ則ち同体なり、孰れか親に非ずと云わん。陰陽相推し、四序歳を成し、君臣相得て、万邦乂を作す。感は風雲に同じ、合は符契の若し、道を以て匡救し、規を尽くして献替す、木は必ず縄に従い、金は其れ礪を用う。帝者の盛んなる、時に陶唐惟り、乃ち疇咨を聞き、仄陋明らかに攵る。洎乎有虞、二八芳を騰す。爰に伊尹に迨り、成湯に相たり。姜牙を載生し、彼の武王を諒る。道行われざること無く、謀臧からざること無く、君聖臣賢、運泰時康なり。漢高既に興り、蕭・曹亦彰る。烈烈たる我が祖、期に膺りて昌え、群兇を剷滅し、四方を砥平す。惟だ衛及び英、封疆を啓辟し、房と杜と曰い、維綱を振理し、亦魏徵有り、忠謇昂昂たり。偉なる茲の衆材、棟と為り梁と為り、蕩蕩巍巍たり、邦家光有り。是れ道の廃興は、時主に係り、主の得失は、台輔に資ることを知る。之を経るに文を以てし、之を緯るに武を以てし、出でて方伯と為り、入りて申・甫と作り、維を絶ちて載張し、袞を闕いて斯く補う。惟だ徳是倚り、惟だ才是求め、人は知り易からず、徳も亦周し難し。傅説は板築し、夷吾は鉤を射る、之を任じて疑わず、千載休を垂る、至公に体すれば、何の鄙何の讎ぞ。哲主を追惟すれば、必ず良弼に頼る、矧んや予不徳、理術に暗し。師旅繁く起り、政刑多く失い、茲の艱屯に遘い、夙夜祗栗す。我を翊い我を戴くは、実に勛賢惟り、内に庶績を熙し、外に十連を総べ、威武載揚し、謀猷日宣なり。長城境を圧し、巨艦川を済す、徳を同じく心を同じくし、危きを扶け顛るを持す。予は爾が誠を嘉し、爾は予が理を相う、惟だ後道を失えば、亦臣の恥なり。昔よりの格言、終わりを慎むこと始めの如く、功は鼎彜に蔵れ、道は図史に冠る。伊・傅をして克く厥の美を専にせしむること無かれ、鑑を作り銘を勒し、永世是れ紀とす。

原文朕每覽上古之書,用及唐、虞之際,君臣相得,聖賢同時,日夕孜孜,講論至道,或陳其鑒誡,或諷以詠歌,煥乎典謨,百代是式,有以見啟沃之道,理化之端,意甚慕之,而未能迨也。頃靈監節度使杜希全著書上獻,多所規諫,聊為《君臣箴》,用答其意。河東等道副元帥、司徒燧固請勒石,貽厥後人。朕以文既非工,義又非備,垂諸來裔,良所恧焉。起予者商,因之有作,庶乎朝夕自儆,且俾後代知我文武殿邦之臣歟。《宸扆銘》曰::天生蒸人,性命元淳,嗜欲交馳,利害糾紛。無主乃亂,樹之以君,九域茫茫,萬情云云。目不備睹,耳難遍聞,睹之聞之,矧又非真。事失其源,道遠莫親,理行其要,化行如神。失源維何,不自正身,正身之方,先誠其意。罔從爾欲,罔載爾偽,體道崇德,本仁率義。必信若寒暑,無私象天地,感而遂通,百慮一致。任人之術,各當其器,舍短從長,理無求備。事多總集,眾才鹹遂,知而必任,任而勿貳。以天下之目為鑒,我鑒斯明;以天下之心為謀,我謀則智。求賢惟廣,辯理惟精,逆耳咈心,必嘉乃誠。順旨茍容,亦察其情,斥去奸諛,全度忠貞。先人立言,為代作程,諤諤者昌,唯唯者傾,系以興亡,曷雲其輕。承天子人,夫豈不貴?伊昔哲王,夙夜祗畏。馭朽為戒,納隍為誌,神將害盈,天匪假易。四海為家,夫豈不富?伊昔哲王,勤儉固陋。土階罔飾,露臺罷構,遠奇伎淫巧,放珍禽怪獸。敬之慎之,天命可祐。欲令必行,順人之情,欲誠必著,清己之慮,心無億詐,事必忠恕。凡將有為,靡不三思,喜怒以節,動靜以時。毫厘或差,禍害亦隨,慢易厥初,悔其曷追。刑不可長,武不可恃,作威逞力,厲階斯起。垂旒蔽聰,黈纊塞耳,含弘光大,是亦為美。覆之如天,愛之如子,仁心感人,率土自理。嗟予寡昧,嗣守丕圖,寇戎薦興,德化未孚。大業兢兢,其敢以渝,俯察物情,仰稽典謨,作誡斯言,置於坐隅。《臺衡銘》曰::天列臺星,垂象於人,聖人則天,亦建輔臣。以翼以弼,為衡為鈞,如耳目應心,如股肱連身,是則同體,孰雲非親?陰陽相推,四序成歲,君臣相得,萬邦作乂。感同風雲,合若符契,以道匡救,盡規獻替,木必從繩,金其用礪。帝者之盛,時惟陶唐,乃聞疇咨,仄陋明易攵。洎乎有虞,二八騰芳。爰迨伊尹,相於成湯。載生姜牙,諒彼武王。道無不行,謀無不臧,君聖臣賢,運泰時康。漢高既興,蕭、曹亦彰。烈烈我祖,膺期而昌,剷滅群兇,砥平四方。惟衛及英,啟辟封疆;曰房與杜,振理維綱;亦有魏徵,忠謇昂昂。偉茲眾材,為棟為梁,蕩蕩巍巍,邦家有光。是知道之廢興,系於時主,主之得失,資於臺輔。經之以文,緯之以武,出為方伯,入作申、甫,絕維載張,闕袞斯補。惟德是倚,惟才是求,人不易知,德亦難周。傅說板築,夷吾射鉤,任之不疑,千載垂休,體於至公,何鄙何讎。追惟哲主,必賴良弼,矧予不德,暗於理術。師旅繁起,政刑多失,遘茲艱屯,夙夜祗栗。翊我戴我,實惟勛賢,內熙庶績,外總十連,威武載揚,謀猷日宣。長城壓境,巨艦濟川,同德同心,扶危持顛。予嘉爾誠,爾相予理,惟後失道,亦臣之恥。自昔格言,慎終如始,功藏鼎彜,道冠圖史。無俾伊、傅,克專厥美,作鑒勒銘,永世是紀。

燧は太原に至り、乃ち二銘を起義堂西偏に勒し、帝は額を題し、其の崇寵此の如し。

原文燧至太原,乃勒二銘於起義堂西偏,帝為題額,其崇寵如此。

二年冬、吐蕃の大将尚結贊は塩・夏二州を陥とし、各兵を留めて之を守らしめ、結贊の大軍は鳴沙に屯し、冬より春に及び、羊馬多く死に、糧餉継がず。徳宗は燧を以て綏・銀・麟勝招討使と為し、華帥駱元光・邠帥韓遊瑰及び鳳翔諸鎮の師と会して河西に進討せしむ。燧は師を出し、石州に次ぐ。結贊之を聞きて懼れ、使いを遣わして和を請い、仍ち盟会を約す、上皆許さず。又その大将論頰熱を遣わし厚礼卑辞を以て情を燧に申して和を請わしむ、燧は頻りに表を上り論奏す、上堅く許さず。三年正月、燧の軍は太原に還る。四月、燧は論頰熱と俱に朝に入り、燧は盛んに蕃情保つ可きを言い、其の盟を許すを請う、上之を然りとす。燧既に朝に入るや、結贊は遽に自ら鳴沙より蕃に還る。是の歳閏五月十五日、侍中渾瑊は蕃相尚結贊と平涼に盟す、蕃軍に劫われ、狼狽僅かに免れ、将吏六十余員を陥とす、燧の謬謀に由る也、是に坐して兵権を奪わる。六月、燧を以て司徒を守らしめ、侍中・北平王を兼ねること故の如く、仍ち妓楽を賜い、奉朝請するのみ。

原文二年冬,吐蕃大將尚結贊陷鹽、夏二州,各留兵守之,結贊大軍屯於鳴沙,自冬及春,羊馬多死,糧餉不繼。德宗以燧為綏、銀、麟勝招討使,令與華帥駱元光、邠帥韓遊瑰及鳳翔諸鎮之師會於河西進討。燧出師,次石州。結贊聞之懼,遣使請和,仍約盟會,上皆不許。又遣其大將論頰熱厚禮卑辭申情於燧請和,燧頻表論奏,上堅不許。三年正月,燧軍還太原。四月,燧與論頰熱俱入朝,燧盛言蕃情可保,請許其盟,上然之。燧既入朝,結贊遽自鳴沙還蕃。是歲閏五月十五日,侍中渾瑊與蕃相尚結贊盟於平涼,為蕃軍所劫,狼狽僅免,陷將吏六十余員,由燧之謬謀也,坐是奪兵權。六月,以燧守司徒,兼侍中、北平王如故,仍賜妓樂,奉朝請而已。

五年九月、燧は太尉李晟と召されて延英殿に見え、上其の大なる勛力有るを嘉し、皆形を淩煙閣に図り、元臣の次に列す。九年七月、燧は延英に対す。初め、上は燧の足疾を以て、朝謁せしめず、是の日、燧は冬首に入朝するを以て、拝せずして坐するを許す。時に太尉晟初めて薨ず、帝燧に謂いて曰く、「常時卿は太尉晟と同来す、今独り卿を見る、悲慟せざるを得ず。」上歔欷すること久し。燧既に退き、足疾有り、地に仆る、上親しく掖き起し、陛に及びて送る、燧頓首泣謝す。累り表を上りて骸を乞い、侍中を陳讓す、優詔許さず。貞元十一年八月薨ず、時に年七十。是に先立ち、司天頻りに奏す熒惑太白太微上将を犯すと、一月を間いて燧薨ず。朝を廃すること四日、詔して京兆尹韓臯に喪事を監護せしめ、嗣吳王献を吊祭贈赗使と為し、冊して太尉を贈り、謚して曰く莊武。子に匯・暢有り。

原文五年九月,燧與太尉李晟召見於延英殿,上嘉其有大勛力,皆圖形淩煙閣,列於元臣之次。九年七月,燧對於延英。初,上以燧足疾,不令朝謁;是日,燧以冬首入朝,敕許不拜而坐。時太尉晟初薨,帝謂燧曰:「常時卿與太尉晟同來,今獨見卿,不覺悲慟。」上歔欷久之。燧既退,足疾,仆於地,上親掖起之,送及於陛,燧頓首泣謝。累上表乞骸,陳讓侍中,優詔不許。貞元十一年八月薨,時年七十。先是,司天頻奏熒惑太白犯太微上將,間一月而燧薨。廢朝四日,詔京兆尹韓臯監護喪事,嗣吳王獻為吊祭贈赗使,冊贈太尉,謚曰莊武。子匯、暢。

暢は父の廕おんにより累遷して鴻臚少卿に至り、京師に留まった。建中三年、燧が山東で田悦を討つにあたり、時に歳は旱魃かんばつに遭い、京師では商戸に賦課を徴収し、人心は甚だ動揺した。鳳翔に留鎮していた幽州兵は多く離散して南山に入り盗賊となった。殿中丞李雲端はその党の袁封・単超俊・李誠信・冀信らと暢と親しく、飲食の集会の際に時事が危うくなると言い、暢は家人の温靖を遣わして父に書を送り、利害を詳しく陳べ、軍を返して鎮に還るべきことを述べた。燧は怒り、靖を捕らえてその状況を具に奏上し、兄の炫に命じて暢を捕らえて罪を請わせた。徳宗は燧が賊を討っている最中であるとして、その事を徹底的に追及せず、雲端ら十一人を誅し、炫に勅して暢の邸で杖三十を加えさせ、上はこの時賦課徴収の令を廃した。燧の財貨は天下に冠たるものであり、燧が卒すると、暢は旧業を継いだが、たびたび豪族や寵臣に求められて取られた。貞元末、中尉楊志廉が暢に田園第宅を献上するようほのめかすと、順宗は再び暢に賜った。初めは匯の妻に訴えられてその財産を分け、宦官らがまた強いて取り、なお指図して仏寺に施すことを命じ、暢は吝やぶさかにはできなかった。晩年には財産はことごとく尽き、身没した後、諸子は住むべき家もなく、ついに凍餒に至った。今の奉誠園の亭館は、すなわち暢の旧第である。暢はついに少府監に終わり、工部尚書を贈られた。

原文暢以父廕累遷至鴻臚少卿,留京師。建中三年,燧討田悅於山東,時歲旱,京師括率商戶,人心甚搖。鳳翔留鎮幽州兵,多離散入南山為盜。殿中丞李雲端與其黨袁封、單超俊、李誠信、冀信等與暢善,因飲食聚會,言時事將危;暢乃遣家人溫靖與父書,具陳利害,可班師還鎮。燧怒,執靖具奏其狀,令兄炫執暢請罪。德宗以燧方討賊,不竟其事,誅雲端等十一人,敕炫就第杖暢三十,上於是罷括率之令。燧貲貨甲天下,燧既卒,暢承舊業,屢為豪幸邀取。貞元末,中尉楊誌廉諷暢令獻田園第宅,順宗復賜暢。初為匯妻所訴,析其產,中貴又逼取,仍指使施於佛寺,暢不敢吝;晚年財產並盡,身歿之後,諸子無室可居,以至凍餒。今奉誠園亭館,即暢舊第也。暢終少府監,贈工部尚書。

燧の子 継祖

原文燧子 繼祖

子の継祖は、祖父の廕により、四歳で太子舎人となり、累遷して殿中少監に至り、三十七歳で卒した。

原文子繼祖,以祖廕,四歲為太子舍人,累遷至殿中少監,年三十七卒。

燧の仲兄 炫

原文燧仲兄 炫

炫は字を弱翁といい、燧の仲兄である。若くして儒学をもって時に聞こえ、蘇門山に隠居し、辟召に応じなかった。至徳年中、李光弼が太原を鎮守するにあたり、掌書記・試大理評事・監察御史に辟し、侍御史を歴任した。常に参謀として議に加わり、光弼は甚だこれを重んじ、比部・刑部郎中を授けるよう奏した。田神功が汴州を鎮守するにあたり、節度判官・検校兵部郎中を授けるよう奏した。連州刺史に転じ、征されて吏部郎中に拝され、また閬州刺史として出向し、入朝して大理少卿となった。建中初め、潤州刺史となり、黜陟使柳載がその清白をもって聞こえ、征されて太子右庶子に拝され、左散騎常侍に遷った。弟の燧が司徒となると、親族として刑部侍郎に拝されたが、病を理由に辞し、兵部尚書を以て致仕した。貞元七年に卒し、時に七十九歳であった。

原文炫,字弱翁,燧之仲兄,少以儒學聞於時,隱居蘇門山,不應辟召。至德中,李光弼鎮太原,辟為掌書記、試大理評事、監察御史,歷侍御史。常參謀議,光弼甚重之,奏授比部、刑部郎中。田神功鎮汴州,奏授節度判官、檢校兵部郎中。轉連州刺史,征拜吏部郎中,又出為閬州刺史,入為大理少卿。建中初,為潤州刺史,黜陟使柳載以清白聞,征拜太子右庶子,遷左散騎常侍。弟燧為司徒,以親比拜刑部侍郎,以疾辭,改兵部尚書致仕。貞元七年卒,時年七十九。

燧 史臣曰

原文燧 史臣曰

史臣が曰く、燧は雄勇強力で、常に計を先にして戦い、また誓師を善くし、戦おうとする時は自ら号令し、士卒は慷慨感動せざるはなく、戦えば皆決死し、未だ敗北したことはなかった。謀略を得て兵に勝つことは、一時に冠たるものがあった。しかし力をもって田悦を擒にすることができながら取らず、蕃帥の偽りの降伏を容れて必ず盟うと保証した。平涼の会では、大臣が危うく陥り、関畿が動揺した。これを才は余りあれど心至らずという。議者はこれを惜しみ恨んだ。

原文史臣曰:燧雄勇強力,常先計後戰,又善誓師,將戰,親自號令,士無不慷慨感動,戰皆決死,未嘗折北,謀得兵勝,冠於一時。然力能擒田悅而不取,納蕃帥之偽款而保其必盟;平涼之會,大臣幾陷,關畿搖動,此謂才有余而心不至,議者惜而恨之。

渾瑊

原文渾瑊

渾瑊は臯蘭州の人である。本来は鉄勒九姓部落の渾部である。高祖こうその大俟利発渾阿貪支は、貞観年中に臯蘭州刺史となった。曾祖の元慶・祖の大寿・父の釈之は、皆代々臯蘭都督となった。大寿は、開元初めに左領衛中郎将・太子僕同正を歴任した。釈之は若くして武芸があり、朔方軍に従い、辺境で戦功を積み、累遷して開府儀同三司・試太常卿・寧朔郡王に至った。広徳年中、吐蕃と戦い、霊武で戦死した。年四十九。

原文渾瑊,臯蘭州人也,本鐵勒九姓部落之渾部也。高祖大俟利發渾阿貪支,貞觀中為臯蘭州刺史。曾祖元慶、祖大壽、父釋之,皆代為臯蘭都督。大壽,開元初歷左領衛中郎將、太子仆同正。釋之,少有武藝,從朔方軍,積戰功於邊上,累遷至開府儀同三司、試太常卿、寧朔郡王。廣德中,與吐蕃戰,沒於靈武,年四十九。

瑊は本名を進といい、十余歳にして騎射に長じ、父に従って戦い、賀魯部を破り、石保城を下し、龍駒島を収め、勇は諸軍に冠たり、累授して折衝果毅となった。後に節度使安思順が瑊に偏師を率いて葛禄部に深入りさせ、狐媚磧を経て、特羅斯山を攻略し、阿布思部を大破した。また諸軍とともに永清柵・天安軍を築城し、中郎将に遷った。

原文瑊本名曰進,年十余歲即善騎射,隨父戰伐,破賀魯部,下石保城,收龍駒島,勇冠諸軍,累授折衝果毅。後節度使安思順遣瑊提偏師深入葛祿部,經狐媚磧,略特羅斯山,大破阿布思部;又與諸軍城永清柵、天安軍,遷中郎將。

安禄山が逆を構えると、瑊は李光弼に従って河北に出師し、諸郡邑を平定した。賊将に李立節という者がおり、平素より驍ぎょう勇と称され、瑊と格闘し、陣前でこれを斬り、右驍衛将軍に遷った。やがて粛宗が霊武で即位すると、瑊は兵を統率して行在に赴き、天徳に至り、蕃軍の侵入に遇い、瑊はこれを撃破した。郭子儀に従って両京を収め、瑊は安慶緒を討ち、新郷で賊を破った。検校太僕卿に改め、武鋒軍使を充てた。また仆固懐恩に従って史朝義を討ち、前後数十戦した。朝義が平定されると、開府儀同三司・太常卿を加えられ、実封二百戸を賜った。

原文安祿山構逆,瑊從李光弼出師河北,定諸郡邑。賊將有李立節者,素稱驍勇,與瑊格鬥,臨陣斬之,遷右驍衛將軍。既而肅宗即位於靈武,瑊統兵赴行在,至天德,遇蕃軍入寇,瑊擊敗之。從郭子儀收兩京,瑊討安慶緒,破賊於新鄉。改檢校太仆卿,充武鋒軍使。又從仆固懷恩討史朝義,前後數十戰。朝義平,加開府儀同三司、太常卿,賜實封二百戶。

懐恩が乱を謀ると、その子の歊に命じて瑊とともに軍を率いて榆次を囲ませたが、朔方の将が歊を殺すと、瑊は配下を率いて郭子儀に帰順した。時に瑊の父釈之が戦死したため、また本官に復職し、朔方行営左廂兵馬使となった。子儀に従って邠州で吐蕃を討った。功により御史中丞を加えられた。軍が還り、盛秋に邠に駐屯した。時に吐蕃が大いに侵入し、奉天に至ると、瑊は漠谷で拒戦し、蕃軍を大破し、功により太子賓客を加えられ、再び奉天に屯した。華州の周智光が反すると、子儀は詔を受けてこれを討ち、瑊に馬歩一万人を率いて同州を攻め落とさせた。智光が平定されると、詔により邠・寧・慶の三州を朔方軍に隷属させ、子儀がこれを管轄した。子儀は瑊に先に兵を率いて邠州に至り、宜禄県で防秋に当たらせた。歳余りして、兼御史大夫を加えられた。

原文及懷恩謀亂,令子歊與瑊率軍圍榆次,朔方將殺歊,瑊率所部歸郭子儀。會瑊父釋之戰死,又起復本官,為朔方行營左廂兵馬使。從子儀討吐蕃於邠州。以功加御史中丞。軍還,盛秋於邠。會吐蕃大入寇,至奉天,瑊拒戰於漠谷,大破蕃軍,以功加太子賓客,復屯於奉天。華州周智光反,子儀奉詔討之,令瑊領馬步萬人攻下同州。智光平,詔以邠、寧、慶三州隸朔方軍,子儀領之;子儀令瑊先率兵至邠州,便於宜祿縣防秋。歲餘,加兼御史大夫。

大暦七年、吐蕃が大いに辺境を侵すと、瑊は涇原節度使馬璘と兵を合わせ、黄菩原で蕃賊を大破した。これより、毎年常に長武城に戍守し、盛秋に臨んだ。十一年、邠州刺史を領した。その年、吐蕃が州の方渠・懐安等の鎮に侵入したが、瑊はこれを撃退した。十二年、子儀が入朝すると、瑊に邠寧慶三州兵馬留後を執らせた。十三年、回紇が太原を侵し、鮑防の軍を破り、北に帰る際、甚だ辺境の患いとなった。瑊を石嶺関以南諸軍都知兵馬使とし、兵を率いて挟撃してこれを追い、虜騎は退却した。その年八月、検校工部尚書・単于副都護・振武軍使を加えられた。十四年、郭子儀が太尉に拝され、尚父と号し、管轄内を分けて別に三節度を置き、瑊に単于大都護を兼ねさせ、振武軍・東受降城・鎮北大都護府・綏銀麟勝等軍州節度副大使知節度使事・管内支度営田等使を充てた。その年、また崔寧を朔方節度使とし、子儀の旧管を領させ、瑊を征して左金吾衛大将軍兼左街使とした。

原文大歷七年,吐蕃大寇邊,瑊與涇原節度使馬璘會兵,大破蕃賊於黃菩原。自是,每年常戍於長武城,臨盛秋。十一年,領邠州刺史。其年,吐蕃入寇州方渠、懷安等鎮,瑊擊卻之。十二年,子儀入朝,令瑊知邠寧慶三州兵馬留後。十三年,回紇侵太原,破鮑防軍,北歸,頗為邊患。以瑊為石嶺關已南諸軍都知兵馬使,率兵掎角逐之,虜騎引退。其年八月,加檢校工部尚書、單於副都護、振武軍使。十四年,郭子儀拜太尉,號尚父,分所管內別置三節度,以瑊兼單於大都護,充振武軍、東受降城、鎮北大都護府、綏銀麟勝等軍州節度副大使知節度使事、管內支度營田等使。其年,復以崔寧為朔方節度使,領子儀舊管,征瑊為左金吾衛大將軍,兼左街使。

建中四年、李希烈が間諜を遣わし、偽って渾瑊の書状を作り李希烈と通謀していると詐称したが、渾瑊はその状況を上奏し、皇帝は特に渾瑊を保証して信任し、なお渾瑊に馬一匹と鞍轡、錦采二百匹を賜った。時に普王を荊襄等道兵馬元帥として李希烈を討たせ、大いに幕府を開き、渾瑊を検校戸部尚書・御史大夫とし、中軍都虞候を充てさせた。ちょうど涇原の兵が乱を起こし、徳宗が奉天に幸すると、三日後に、渾瑊は家族子弟を率いて京城から到着し、そこで行在都虞候・検校兵部尚書・京畿渭北節度観察使に任じられた。数日後、邠寧節度使韓遊瓌と慶州刺史論惟明が兵三千を統率し、乾陵の北を経由して、醴泉へ赴き朱泚を防ごうとした。ちょうど間諜の報告で朱泚が既に出兵したと知ると、帝は急いで韓遊瓌の兵を追い返すよう命じ、ようやく奉天に到着した時、賊軍は果たして到来した。韓遊瓌らは城東で戦い、官軍は不利となり、賊は乗勝して突進し、まさに入城せんとした。官軍と賊は城門を隔てて相持し、卯の刻から午の刻まで、殺傷は甚だ多かった。門内に草車が数乗あり、渾瑊は車を押して門を塞ぎ、これを焚いて外敵を防ぎ、火力に乗じて奮戦したので、賊はようやく退いたが、既に重囲は固く閉ざされていた。

原文建中四年,李希烈遣間諜詐為瑊書與希烈交通,瑊奏其狀,上特保證之,仍賜瑊馬一匹並鞍轡,錦采二百匹。時以普王為荊襄等道兵馬元帥討李希烈,大開府幕,以瑊檢校戶部尚書、御史大夫,充中軍都虞候。會涇師亂,德宗幸奉天,後三日,瑊率家人子弟自京城至,乃署為行在都虞候、檢校兵部尚書、京畿渭北節度觀察使。居數日,邠寧節度使韓遊瑰與慶州刺史論惟明統兵三千,自乾陵北過,赴醴泉以拒硃泚。會諜報泚已出兵,帝遽令追遊瑰兵,才至奉天,賊軍果至。遊瑰等戰於城東,王師不利,遂乘勝奔突,將入,官軍與賊隔門相持,自卯至午,殺傷頗甚。門內有草車數乘,瑊令推車塞門,焚之以外禦,乘火力戰,賊方解去,然重圍已合。賊大修攻具,以僧法堅為匠師,毀佛寺房宇以為梯櫓。是月,賊自丁未至辛未,四面攻城,晝夜矢石不絕,瑊隨機應敵,僅能自固。

賊は大いに攻具を修造し、僧法堅を匠師とし、仏寺の房宇を毀して梯櫓とした。この月、賊は丁未から辛未まで、四面から城を攻め、昼夜を分かたず矢石が絶えず、渾瑊は機に応じて敵に対処し、辛うじて自らを固守するのみであった。

原文十一月,靈武節度使杜希全、鹽州刺史戴休顏、夏州刺史常春合兵六千人赴難。將至,上議其所向,宰相盧杞、白誌貞以漠谷路為便。瑊曰:「漠谷險隘,必為賊所邀,不若取乾陵北過,附柏城而行,便取城東北雞子堆下營,與城中掎角相應,且分賊勢,硃泚必不更於陵寢往來。」杞曰:「漠谷路近,若慮逆賊邀擊,即出兵應接,若取乾陵路,恐驚陵寢。」瑊曰:「今硃泚圍城,斬伐柏城,以夜繼晝,驚動已多。今城中危急,佇望救軍,唯希全等率行赴難,安危是賴,所系非輕,制置不宜差跌。但令希全等於雞子堆下營,固守善地,賊泚可以計破也。」盧杞等曰:「陛下以順討逆,不可自驚陵寢。」白誌貞從而贊之,上從杞議。希全等進至漠谷,果為賊軍邀擊,奪據水口,乘高以大弩、巨石左右夾擊,殺傷頗甚;城中出兵應援,亦為賊挫銳而退。希全等各歸還本鎮,賊攻城逾急,壕塹環之。旬日,復偏攻東北角,矢石亂入,晝夜如雨,城中死傷者甚眾。重圍救絕,芻粟俱盡,城中伺賊休息,輒遣人城外捃拾樵采以進禦。人心危蹙,上與瑊對泣。賊泚北據乾陵,下瞰城內,身衣黃衣,蔽以翟扇,前後左右,皆硃紫閹官,宴賜拜舞,紛紜旁午。城中動息,賊俯窺之,慢辭戲侮,以為破在漏刻之頃,時令騎將環城招公卿、士庶,責以不識天命。十五日,賊造雲橋成,闊數十丈,以巨輪為腳,推之使前,施濕氈生牛革,多懸水囊以為障,直指城東北隅,兩旁構木為廬,冒以牛革,回環相屬,負土運薪於其下,以填壕塹,矢石不能傷。城中恟懼,相顧失色。上召瑊勉諭之,令賫空名告身自御史大夫、實封五百已下者千余軸,募諸軍突將敢死之士以當之;兼賜瑊御筆一管,當戰勝,量其功伐,即署其名授之,不足者,筆書其身,因命以位。仍謂瑊曰:「朕便與卿別,更不用對來,縱有急切,令馬承倩在卿處,但令附奏。」瑊俯伏嗚咽,上亦悲慟不自勝,撫瑊背而遣之。前一日,瑊與防城使侯仲莊揣雲橋來路,先鑿地道,下可深丈余,上積馬糞,深五六尺。次二日,即令爇火,次一日復下柴薪夜燒之,平明,火焰高於城壘。是時,北風正急,賊乃隨風推橋以薄城下,賊三千余人相繼而登。城上士卒皆久寒餒,又少甲胄,瑊但感激誠厲之。以饑弱之眾,當劇賊之鋒,雖力戰應敵,人憂不濟,公卿已下,仰首祝天。賊徒至地道所,橋腳偏陷,不能進。須臾,風回焰轉,雲橋焚為灰燼,賊焚死者數千,城中歡噪振地。時瑊中流矢,遽自拔之,血流沾沫,格鬥不已,初不言瘡痛,以激士心。是日,上先授瑊二子官,余授將校有差。賊又別造雲橋,周以重鐵,方就,而朔方節度使李懷光自魏縣行營赴難,先遣兵馬使張韶入奏。韶至奉天,與賊填塹者相雜,臨城忽大呼,謂城上曰:「我李懷光使也,懷光自河北領大軍至矣。」即繩引而登。城中得懷光表,歡聲振動,賊眾不之測,乃令舁韶巡於城上。翌日,懷光大軍次醴泉,是夜,賊解圍而去。

興元元年正月、瑊を行在都知兵馬使とする。二月、実封五百戸を賜う。この月、徳宗は山南に移幸す。時に懐光叛逆し、二賊連結し、寇盗縦横す。瑊は諸軍を分布し、以て翼衛と為し、纔に谷口に入るや、而して懐光の追騎遽かに至る。瑊は侯仲荘に後軍をして之を撃敗せしむ。三月、検校左僕射・同中書門下平章事を加え、兼ねて霊州都督・霊塩豊夏等州・定遠西城天徳軍節度等使とし、仍く朔方邠寧振武等道兼永平軍奉天行営兵馬副元帥を充てる。上、臨軒して鉞を授く。漢の韓信かんしんを拝する故事を用う。この月、瑊は諸軍を将いて京畿に赴く。賊将韓旻・張廷芝・宋帰朝等、我が師を武功に於て拒ぐ。瑊は吐蕃将論莽羅の衆と共に賊を武亭川に於て大破し、首級万余を斬る。瑊は便ち奉天に赴き李晟に応接し、京城西面に抗す。五月、李晟は東渭橋より京城に抵り賊を攻む。瑊も亦た韓遊瓌・戴休顔と西面諸軍を会合す。晟の賊を破るの日、瑊も亦た進みて咸陽を収む。尋で硃泚・姚令言の奔敗するを聞き、諸軍に命じて分道邀撃せしむ。其の衆離潰し、相率いて来降す。勁騎三千を選び急ぎ泚を涇州に追う。賊将泚を誅し、首を伝えて来献す。六月、瑊に侍中を加う。京城を収むるの功を論じ、実封を加う。李晟一千戸、瑊八百戸、韓遊瓌・戴休顔四百戸、駱元光・尚可孤五百戸。七月、徳宗還宮す。瑊を以て本官を守らしめ、兼ねて河中尹・河中絳慈隰節度使とし、仍く河中同陝虢節度及び管内諸軍行営兵馬副元帥を充て、咸寧郡王に改封す。九月、瑊に大寧裏の甲第・女楽五人を賜う。第に入るの日、宰臣・節将之を送る。一に李晟の第に入るの儀の如し。李懐光未だ平らかならざるを以て、又た朔方行営兵馬副元帥を加え、河東節度使馬燧と会兵して進討せしむ。貞元元年八月、河中平る。功を以て検校司空しくうを加え、一子に五品正員官を与う。是の冬の望、皇帝親しく昊天上帝を郊祀す。瑊入朝して陪祀を畢え、還りて河中を鎮す。

原文興元元年正月,以瑊為行在都知兵馬使。二月,賜實封五百戶。是月,德宗移幸山南。時懷光叛逆,二賊連結,寇盜縱橫,瑊分布諸軍,以為翼衛,才入谷口,而懷光追騎遽至,瑊令侯仲莊以後軍擊敗之。三月,加檢校左僕射、同中書門下平章事,兼靈州都督、靈鹽豐夏等州、定遠西城天德軍節度等使,仍充朔方邠寧振武等道兼永平軍奉天行營兵馬副元帥,上臨軒授鉞,用漢拜韓信故事。是月,瑊將諸軍赴京畿,賊將韓旻、張廷芝、宋歸朝等拒我師於武功,瑊與吐蕃將論莽羅之眾大破賊於武亭川,斬首萬余級。瑊便赴奉天應接李晟,抗京城西面。五月,李晟自東渭橋抵京城攻賊,瑊亦與韓遊瑰、戴休顏西面諸軍會合。晟破賊之日,瑊亦進收咸陽。尋聞硃泚、姚令言奔敗,命諸軍分道邀擊,其眾離潰,相率來降。選勁騎三千急追泚至涇州,賊將誅泚,傳首來獻。六月,加瑊侍中。論收京城之功,加實封李晟一千戶,瑊八百戶,韓遊瑰、戴休顏四百戶,駱元光、尚可孤五百戶。七月,德宗還宮,以瑊守本官,兼河中尹、河中絳慈隰節度使,仍充河中同陜虢節度及管內諸軍行營兵馬副元帥,改封咸寧郡王。九月,賜瑊大寧裏甲第、女樂五人,入第之日,宰臣、節將送之,一如李晟入第之儀。以李懷光未平,又加朔方行營兵馬副元帥,與河東節度使馬燧會兵進討。貞元元年八月,河中平,以功加檢校司空,與一子五品正員官。是冬望,皇帝親郊昊天上帝,瑊入朝陪祀畢,還鎮河中。

三年、吐蕃入寇し、鳳翔に至る。李晟に邀撃せられ、又た其の摧沙堡を襲破せらる。吐蕃深く之を恨む。尚結贊入寇し、我が塩・夏二州を陥れ、兵を以て之を守る。長駆して京師を犯さんと欲し、而して瑊と李晟・馬燧を畏れ、陰計を以て之を図らんと欲す。乃ち卑詞遜礼を以て馬燧に告げ、重ねて盟誓を立てば、則ち蕃軍引き去らんと請う。徳宗許さず。馬燧自ら入朝して之を言う。上乃ち崔翰をして蕃に入り結贊に報ぜしめ、我が塩・夏を還せば、則ち同盟を許さんと言わしむ。結贊、翰に謂いて曰く、「清水の会、同盟人少なし。是を以て和好軽慢にして成らず。今蕃相及び元帥已下凡そ二十一人盟に赴く。霊州節度使杜希全・涇原節度使李観皆和善守信、境外之を重んず。此時須らく預盟を請うべし」と。翰、清水に於て盟を約し、且つ先ず我が塩・夏二州を帰せんとす。結贊曰く、「清水は吉地に非ず。原州土梨樹に於て会盟せんことを請う」と。又た盟を畢えて二州を帰さんことを請う。翰帰り、備えて其の事を奏す。神策将馬有麟奏して曰く、「土梨樹の地多く険し。恐らくは蕃軍隠伏して利あらず。平涼に於けるに如かず。其の地坦平にして、且つ涇州に近し。之に就くは便なり」と。乃ち平涼川に於て盟を定む。初め、結贊は李観・杜希全の預盟を請い、之を執らんと欲し、径に京師を犯せんとす。詔を以て之に報じて曰く、「杜希全は職霊州に在り、境を出づるべからず。李観は又た已に官を改む。今侍中渾瑊を遣わして盟会使を充てん」と。五月、瑊は咸陽より入朝す。詔して平涼盟会使を授け、兵部尚書崔漢衡之を副え、司勲郎中鄭叔矩を判官と為す。瑊は兵二万を統べ、又た詔して華州節度使駱元光に本鎮の兵を以て瑊に従わしむ。閏月十五日、瑊は結贊と平涼に会す。初め、兵三千を以て壇の東西に列ね、散手四百人を壇下に至らしめ、各遊軍を遣わして相覘伺わしむるを約す。是の時、蕃軍の精騎数万壇の西に列なり、蕃の遊軍我が軍の中を貫穿す。瑊の将梁奉貞、六十騎を率いて遊軍と為り、纔に壇の所に至るや、蕃軍に執らる。結贊又た瑊に謂いて曰く、「侍中已下に衣冠剣珮を具せしめんことを請う」と。瑊は監軍宋鳳朝・崔漢衡等と幕次に入り、坦として他慮無し。結贊鼓を伐って三通せしむるを命ず。其の衆呼噪して至る。瑊遽かに幕後より出で、偶々他馬を得て、跨りて奔馳す。追騎雲の如く合し、流矢雨の如く集るも傷つかず。会に瑊の将辛栄、数百人を以て入り北阜を拠り、賊と血戦す。追騎方に止む。瑊僅かに免る。辛栄の兵尽き矢窮まり、力屈して降る。宋鳳朝・瑊の判官鄭弇、追兵に殺さる。崔漢衡・中官俱文珍・劉延・李清朝、漢衡の判官鄭叔矩・瑊の判官路泌・袁同直、大将軍扶余準・馬寧・神策将孟日華・李至言・楽演明・範澄・馬弇等六十余人、皆賊に陥る。尚結贊原州に至り、坐を帳中に列ね、陥蕃の将吏を召して之を譲り、因りて怒りて瑊に曰く、「武功の捷は、吐蕃の力なり。涇州・霊州を以て相報いんことを許すも、竟に其の言を食い、我を負うこと深し。挙国同じく怨む。本より是の盟を劫うるは、志すところ瑊を擒うるに在り。吾已に金枷を為りて瑊を待ち、将に贊普に献ぜんとす。既に之を失う。虚しく君等を致すを何せん」と。乃ち俱文珍・馬寧・馬弇を放ちて朝に帰らしむ。七月、瑊は奉天より入朝し、素服して罪を待つ。詔して之を釈して後に見る。俄にして吐蕃京畿に入寇す。瑊は奉天を鎮す。十月、河中に還る。四年七月、邠・寧・慶副元帥を加う。十二年二月、検校司徒を加え、兼ねて中書令とし、諸使・副元帥は旧に如し。十五年十二月二日、鎮にて薨ず。朝を廃すること五日、群臣延英に於て奉慰す。詔して太師を贈り、謚して忠武と曰い、賻として絹布四千匹・米粟三千石を賜う。及び喪車将に至らんとし、又た為に朝を廃す。応に喪事に縁る所は、所司式に準じて支給し、京兆尹に監護を命ず。葬の日、絹五百匹を賜う。

原文三年,吐蕃入寇,至鳳翔,為李晟邀擊之,又襲破其摧沙堡,吐蕃深恨之。尚結贊入寇,陷我鹽、夏二州,以兵守之。欲長驅犯京師,而畏瑊與李晟、馬燧,欲陰計圖之。乃卑詞遜禮告馬燧,請重立盟誓,則蕃軍引去,德宗不許。馬燧自入朝言之,上乃令崔翰入蕃報結贊,言還我鹽、夏,則許同盟。結贊謂翰曰:「清水之會,同盟人少,是以和好輕慢不成;今蕃相及元帥已下凡二十一人赴盟,靈州節度使杜希全、涇原節度使李觀皆和善守信,境外重之,此時須請預盟。」翰約盟於清水,且先歸我鹽、夏二州,結贊曰:「清水非吉地,請會盟於原州土梨樹。」又請盟畢歸二州。翰歸,備奏其事,神策將馬有麟奏曰:「土梨樹地多險,恐蕃軍隱伏不利,不如於平涼,其地坦平,且近涇州,就之為便。」乃定盟於平涼川。初,結贊請李觀、杜希全預盟,欲執之,徑犯京師。詔報之曰:「杜希全職在靈州,不可出境,李觀又已改官;今遣侍中渾瑊充盟會使。」五月,瑊自咸陽入朝,詔授平涼盟會使,兵部尚書崔漢衡副之,司勛郎中鄭叔矩為判官。瑊統兵二萬,又詔華州節度使駱元光以本鎮兵從瑊。閏月十五日,瑊與結贊會平涼。初,約以兵三千列於壇之東西,散手四百人至壇下,各遣遊軍相覘伺。是時,蕃軍精騎數萬列於壇西,蕃之遊軍貫穿我軍之中。瑊將梁奉貞率六十騎為遊軍,才至壇所,為蕃軍所執。結贊又謂瑊曰:「請侍中已下具衣冠劍珮。」瑊與監軍宋鳳朝、崔漢衡等入幕次,坦無他慮。結贊命伐鼓三通,其眾呼噪而至。瑊遽出自幕後,偶得他馬,跨而奔馳,追騎雲合,流矢雨集而不傷。會瑊將辛榮以數百人入據北阜,與賊血戰,追騎方止,瑊僅得免,辛榮兵盡矢窮,力屈而降。宋鳳朝、瑊判官鄭弇,為追兵所殺;崔漢衡、中官俱文珍、劉延、李清朝,漢衡判官鄭叔矩、瑊判官路泌、袁同直,大將軍扶余準、馬寧、神策將孟日華、李至言、樂演明、範澄、馬弇等六十余人,皆陷於賊。尚結贊至原州,列坐帳中,召陷蕃將吏讓之,因怒瑊曰:「武功之捷,吐蕃之力,許以涇州、靈州相報,竟食其言,負我深矣,舉國同怨。本劫是盟,誌在擒瑊。吾已為金枷待瑊,將獻贊普;既已失之,虛致君等何為?」乃放俱文珍、馬寧、馬弇歸朝。七月,瑊自奉天入朝,素服待罪,詔釋之而後見。俄而吐蕃入寇京畿,瑊鎮奉天。十月,還河中。四年七月,加邠、寧、慶副元帥。十二年二月,加檢校司徒,兼中書令,諸使、副元帥如故。十五年十二月二日,薨於鎮。廢朝五日,群臣於延英奉慰。詔贈太師,謚曰忠武,賻絹布四千匹、米粟三千石。及喪車將至,又為廢朝。應緣喪事,所司準式支給,命京兆尹監護。葬日,賜絹五百匹。

瑊は忠勤謹慎、功高くして伐らず、藩方に在りて歳時の貢奉は必ず躬親して閲視す。毎に頒錫有るも、遠地に居ると雖も、帝前に在るが如し。位将相に極まるも、謙抑を忘れず。物論之を金日磾に方う。故に深く徳宗に委信せられ、猜間入る能わず。君子之を多し。子に練・鎬・鐬有り。

原文瑊忠勤謹慎,功高不伐,在籓方歲時貢奉,必躬親閱視;每有頒錫,雖居遠地,如在帝前。位極將相,無忘謙抑,物論方之金日磾,故深為德宗委信,猜間不能入,君子多之。子練、鎬、鐬。

瑊第二子 鎬

原文瑊第二子 鎬

鎬は、瑊の第二子である。性質は謙虚で慎み深く、多く士大夫と交遊した。延州刺史・唐州刺史を歴任し、軍政や吏職において称すべきところがあった。元和年間の中ごろ、諸道が軍を出して王承宗を討つに当たり、義武軍節度使任迪簡が病んで軍を統率できなくなったので、鎬が父の威名を頼りとし、鎮定させるに足ると考え、鎬を検校右散騎常侍に任じ、義武軍節度副使を充任させた。九月六日、検校工部尚書を加えられ、迪簡に代わって節度使となった。鎬は兵を治め卒を練り、かなり威望があったが、隙を観て鋭気を養い、必勝を期するということができなかった。鎮州と定州は九十里離れており、元和十一年の冬、鎬は全軍を率いて賊の境に迫って軍を置き、賊の堡塁から三十里のところにいた。鎬は謀慮が周到でなく、ただ兵鋒を誇示するだけで、制御する術がなかったので、賊は兵を分けて潜かに定州の界内に侵入し、焼き払い、略奪し、人を駆り立てた。鎬は怒り、賊の堡塁を攻撃したが、交鋒して敗れ、兵士はほぼ半数を失い、残りの兵は定州に帰還したが、乱は抑えきれず、朝廷は陳楚を任じて代わらせた。楚は乱を聞き、駆けつけて定州に入った。鎬は乱兵に掠奪され、裸にされるに至った。楚が既に整頓した後、乱兵のところから衣服を徴収して鎬に返し、ようやく朝廷に帰ることができ、罪に坐して韶州刺史に貶された。後、代州刺史韓重華が、鎬の供軍銭絹十余万貫匹を収得したと上奏し、再び循州刺史に貶された。一年余りして卒した。

原文鎬,瑊第二子。性謙謹,多與士大夫遊。歷延、唐二州刺史,軍政吏職,有可稱者。及元和中,諸道出師討王承宗,屬義武軍節度使任迪簡病不能軍,以鎬藉父威名,足以鎮定,乃以鎬檢校右散騎常侍,充義武軍節度副使。九月六日,加檢校工部尚書,代迪簡為節度使。鎬治兵練卒,頗有威望,然不能觀釁養銳,以期必勝。鎮、定相去九十里,元和十一年冬,鎬率全師壓賊境而軍,距賊壘三十里。鎬謀慮不周,但耀兵鋒,無所控制,賊乃分兵潛入定州界焚燒驅掠。鎬怒,進攻賊壘,交鋒而敗,師徒殆喪其半,余眾還定州,亂不可遏,朝廷乃除陳楚代之。楚聞亂,馳入定州。鎬為亂兵所劫,以至裸露。楚既整戢,於亂兵處率斂衣服還鎬,方得歸朝,坐貶韶州刺史。後代州刺史韓重華奏收得鎬供軍錢絹十余萬貫匹,再貶循州刺史。歲余卒。

瑊の第三子は鐬である。

原文瑊第三子 鐬

鐬は、瑊の第三子で、蔭により起家して諸衛参軍となり、諸衛将軍を歴任した。元和初年、出て豊州刺史・天徳軍使となったが、贓罪に坐して袁州司戸に貶された。憲宗は咸寧(渾瑊)の勲功を思い、先例に比べて軽く処した。五年、征されて袁王傅となり、再び金紫を賜り、殿中監に遷った。開成初年、宰相が寿州刺史に擬したが、文宗は言った、「鐬は勲臣の子弟である。どうして民を治めさせることを委ねられようか。仲尼に言がある、『邑を多く与えるに如かず』と。今、朕はその先人の功を思い、富ませてやるのがよい」。宰臣は言った、「鐬は常に名郡を歴任し、政能があった」。そこでこれに従った。三年、入朝して右金吾衛大將軍・知街事となり、諸衛大將軍を歴任し、卒した。

原文鐬,瑊第三子,以廕起家為諸衛參軍,歷諸衛將軍。元和初,出為豐州刺史、天德軍使,坐贓貶袁州司戶,憲宗思咸寧之勛,比例從輕。五年,征為袁王傅,復賜金紫,遷殿中監。開成初,宰相擬壽州刺史,文宗曰:「鐬,勛臣子弟,豈可委以牧民?仲尼有言,『不如多與之邑』,今我念其先人之功,與之致富可也。」宰臣曰:「鐬常歷名郡,有政能。」乃從之。三年,入為右金吾衛大將軍、知街事,歷諸衛大將軍,卒。

瑊について、史臣が曰く。

原文瑊 史臣曰

史臣が曰く、馬司徒(馬燧)の方略、渾咸寧(渾瑊)の忠藎は、それぞれ節義を奮い起こし、時の名臣となった。しかし元城の軍は田悦に失策し、平涼の会盟は吐蕃に陥りかけた。これもまた術の至らぬところがあったのである。遥かに建中の乱を思うに、四海は波濤が沸き立ち、賊の朱泚がひそかに発動した時、宗廟の祭祀は糸のようにつながるばかりであった。もし忠臣が命を尽くして、危きを化して安んじなければ、李氏の宗社は傾いていたであろう。

原文史臣曰:馬司徒之方略,渾咸寧之忠藎,各奮節義,為時名臣。然元城之師,失策於田悅;平涼之會,幾陷於吐蕃,此亦術有所不至也。緬思建中之亂,四海波騰,賊泚竊發之辰,宗祀不絕如線,茍非忠臣致命,化危為安,則李氏之宗社傾矣。

賛。

原文贊

賛して曰く、北平(馬燧)の勲功は、難を排し紛れを解く。咸寧(渾瑊)は義に蹈み、感慨をもって君を匡う。再び基構を隆盛にし、よく昏き気を殄滅す。天を回らし日を捧ぐるは、実に将軍に頼る。

原文贊曰:北平之勛,排難解紛。咸寧蹈義,感慨匡君。再隆基構,克殄昏氛。回天捧日,實賴將軍。