卷一百三十四
馬燧
馬燧は、字を洵美といい、汝州郟城の人である。その祖先は右扶風から移り住んだ。祖父の瑉は、左玉鈐衛倉曹にまで官位が至った。父の季龍は、かつて『孫子』『呉子』に明るいことを挙げられ、倜儻として兵法をよくし、嵐州刺史・幽州経略軍使にまで官位が至った。燧は若い時、諸兄とともに書を読んでいたが、巻を捨てて嘆いて言うには、「天下に事あるべし。丈夫たるもの、代に功を立てて四海を済わすべきであり、どうしてただ一介の儒者として労苦に明け暮れることができようか」と。燧は姿形が魁偉で異なり、身長六尺二寸、沈勇にして智略多く、群書に広く通じ、特に兵法をよくした。
安禄山が反乱を起こすと、光禄卿の賈循をして范陽を守らせた。燧は循を説いて言うには、「禄山は恩に背いてまず乱を起こし、洛城を陥落させたとはいえ、必ずや滅ぼされるであろう。公はどうして代わりのない功績を立て、その逆将の向潤客・牛廷玠を誅し、その根拠を抜き去らないのか。禄山は西に関に入ることができず、そうすれば座して捕らえられるのみで、天下を定めることができるであろう」と。循はこれを良しとしながらも、計略をすぐに決断せず、事が漏れて、禄山は果たして韓朝陽を遣わして循を召し出した。朝陽が范陽に至り、循と語り、ひそかに壮士を伏せて弓の弦で絞め殺した。燧は身を脱して西山に走り、隠者の徐遇が匿った。一か月余りして、間道を行き平原に帰った。平原は守られず、また魏郡に走った。
宝応年中、沢潞節度使の李抱玉が趙城尉に奏請して任用した。この時、回紇の大軍が帰国するにあたり、東都回復の功績を恃み、強情で勝手気ままに振る舞い、通過する先々で倉庫の穀物を略奪し、供給が少しでも気に入らなければ、勝手に殺害を行った。抱玉は供応の準備を整えたが、賓客や従者は皆恐れて行こうとせず、燧は自ら進んで駅伝の主管を請け負った。回紇が到着すると、まずその渠帥に賄賂を贈り、明確に約束を交わすと、回紇は燧に旗幟を与えて目印とし、命令に違反する者は燧に命じてこれを誅殺させた。燧は死囚を取って左右の雑役に当たらせ、少しでも命令に違反すれば、すぐにこれを殺した。回紇は互いに顔を見合わせて顔色を失い、虜(回紇)がその境を通過する際、暴行や略奪を行う者はなかった。抱玉はますます彼を異才と認めた。燧はそこで抱玉を説いて言うには、「先ほど回紇と話したところ、燧はその内情を得ました。今、仆固懐恩は功績を恃んで党派を立て、李懐仙・張忠志・薛嵩・田承嗣はそれぞれ疆土を授けられていますが、皆懐恩から出ています。その子の瑒は軽薄で勇み足が多く不義です。燧が推し量るに、必ずや太原の西山を窺って乱を起こすでしょう。公は深く備えるべきです」と。間もなく、懐恩は果たして太原の都將の李竭誠と通謀し、太原を取ろうとしたが、その帥の辛雲京がこれを察知し、竭誠を斬り、城を固めて自ら守った。懐恩はその子の瑒に兵を率いさせてこれを包囲させた。初め、回紇が北帰する際、その将の安恪・石常庭に兵数百および誘い募った付き従う者数千人を率いさせて河陽を守らせ、東都で略奪した重い財貨は、すべて河陽に積み上げた。この時、懐恩は薛嵩をして相州・衛州から糧食を送らせて黄河の渡し場を絶たせた。抱玉は燧をして薛嵩のもとに赴かせて説得させると、嵩は懐恩と絶って順従した。抱玉は左武衛兵曹に奏請して任用した。太子通事舎人を歴任し、著作郎・営田判官に遷った。間もなく、秘書少監・兼殿中侍御史に遷り、節度判官・承務郎となり、鄭州刺史に遷った。燧はそこで農耕を奨励し督促し、その戸籍を総括し、年に一度税を課したので、州人は便利であると思った。大暦四年、懐州刺史に改めた。乱兵の後を承け、その夏は大旱魃で、人々は耕作を失った。燧はそこで教化を修めることに努め、将吏で父母のいる者には、燧は必ず彼らを訪れて敬意を表し、暴された骨を収めて葬り、煩わしく苛酷なことを取り除いた。秋になると、境界内に魯の穀物が生じ、人々は大いにこれに頼った。
抱玉が鳳翔に移鎮すると、汧陽が辺境に接しているため、隴州刺史・兼御史中丞に奏請して任用した。州の西に通道があり、広さ二百余歩、上は険しい山に連なり、その山は吐蕃と相対していた。虜(吐蕃)がしばしば侵入する際、皆ここから出てきた。燧はそこで険易を巡行し、石を立てて木を植えてこれを塞ぎ、下に二つの門を設け、籬櫓を設置し、八日で工事を完了した。ちょうど抱玉が入朝する際、燧もともに同行した。しばらくして、代宗はその才能を知り、召し出して拝謁させ、商州刺史・兼御史中丞・防禦水陸運使に任じた。
大暦十年、河陽三城で兵乱が起こり、鎮将の常休明を追い出し、燧を検校左散騎常侍・御史大夫・河陽三城使とした。十一年五月、汴州の大将の李霊耀が反乱を起こし、州城を占拠して、運路を絶ち、節度使の地位を要求した。代宗は人を姑息することを務め、そこで霊耀を汴・宋など八州節度留後に任じた。霊耀は命令を受けなかった。そこでひそかに魏博と結び、田承嗣は兄の子の悦に兵を率いさせて霊耀を救援させ、永平軍の将の劉洽を破った。詔により燧は淮西節度使の李忠臣と合軍して霊耀を討った。忠臣は賊を恐れ、廬舎を焼いて西に走った。燧はその兵を戻すよう勧め、自ら先鋒となることを請い、田悦を撃破し、汴州に進んで迫った。忠臣は汴南を行き、燧は軍を率いて汴北を行き、また西梁固で霊耀の将の張清を破った。霊耀は鋭兵八千を選び、「餓狼軍」と号した。燧は単独で軍を率いてこれを撃破し、浚儀に進んだ。この時、河陽の兵は諸軍の冠であった。承嗣はまた悦に兵二万を率いさせて霊耀を救援させ、永平軍の将の杜如江を破り、曹州を攻略し、また李正己の遊軍を破り、劉洽・長孫全緒らの軍を撃退し、勝ちに乗って汴州から一舎(三十里)のところまで来て、方陣を組んで進んだ。忠臣は宋州・淮南・浙西の兵と合流し、戦って不利となり、燧に救援を請うた。燧は四千人を率いて奇兵としてこれを撃破し、田悦は単騎で逃げ去った。霊耀は悦の敗北を知り、翌日百騎で夜に逃げ、汴州はすべて降伏した。燧は功績を忠臣に譲った。忠臣はもともと暴戾であり、燧は汴城に入ることを望まず、そこで軍を率いて板橋に退いて駐屯した。忠臣が城に入ると、果たしてその功績を独占し、そこで会合の際に宋州刺史の李僧恵を撃ち殺した。燧は河陽に戻った。
大暦十四年六月、検校工部尚書・太原尹・北都留守・河東節度留後となり、まもなく節度使となった。太原は前政の鮑防の百井での敗軍の後を承け、兵甲が寡弱であった。燧はそこで将吏・牧馬・雑役の者をすべて召集し、数千人を得て、すべて騎卒に補い、数か月教練して精鋭の騎兵とした。甲冑を作る者には必ず長短三等を作らせ、着る者に合わせて、進退に便利なようにした。また戦車を作り、狻猊の像で覆い、後ろに戟を並べ、行軍時には兵甲を載せ、停止時には営陣とし、あるいは険阻を塞いで突進を防ぎ、器械はすべて鋭利でなかったものはなかった。一年経つと、兵三万を陳列し、広場を開いて戦陣を習わせ、その進退坐作の勢いを教えた。
四年十月、涇原の兵が関を犯し、帝は奉天に幸し、燧は軍を率いて太原に還った。議する者は言った、「燧がもし田悦の洹水での敗北に乗じ、力を合わせてこれを攻めていたなら、当時城中の敗卒は三二千人もおらず、皆傷ついて起き上がれず、日夜降伏を待っていた。燧と抱真は不和で、賊を撃つのを遷延させたために、三盗が連結するに至り、今なお禍根となっているのは、燧の責任によるものである」と。燧は太原に至り、行軍司馬王権に兵五千を率いさせて奉天に赴かせ、また子の匯および大将の子らをともに来させ、中渭橋に陣を構えさせた。帝が梁州に幸すると、権・匯は兵を率いて鎮に還った。燧は晋陽が王業の起こった地であることから、都城の東面が平易で敵を受けることを考慮し、時に天下は騒動し、北辺はしばしば警急があったので、晋水を引き汾水に架けて城の東に注ぎ、溜めて池とし、寇が来た時の守備兵を一万人節約する計略とした。また汾水を決壊して城を巡らせ、多く池沼とし、柳を植えて堤を固めた。まもなく保寧軍節度使を兼ねた。
九月十五日、燧は歩騎三万を率いて絳に駐屯し、兵を分けて夏県を収め、稷山を攻略し、龍門を攻め、その将馮萬興・任象玉を降した。燧は兵をもって絳州を攻め、十月、その外城を陥とし、その夜、偽刺史王克同と大将達奚小進は城を棄てて逃走し、その兵四千人を降した。また大将李自良・谷秀を遣わし、兵を分けて聞喜・夏県・万泉・虞郷・永楽・猗氏の六県を平定し、その将辛兟及び兵五千人を降した。谷秀は命令に背き士女を掠奪した罪で斬られ、その首をさらしものとした。
七月、燧は京師に朝した機に乗じて、渾瑊・駱元光・韓遊瑰と合軍し、長春宮に駐屯した。懐光の将徐廷光は兵六千をもって宮城を守り、防備は厳重であった。燧は長春宮が下らなければ、懐光は自ら固く守り、これを攻めれば日を費やし持久戦となり、傷むところ必ず甚だしいと推し量り、身を挺して城下に至り廷光を呼んだ。廷光は平素より燧の威名を憚り、城上にて拝礼した。燧は廷光の心が既に屈したと推し量り、徐ろにこれに謂う、「我は朝廷より来たりし者なり、西面して命を受けよ」と。廷光は再拝した。燧は乃ちこれを諭して言う、「公らは皆朔方の将士、祿山以来、先ず大功を立て、四十余年、功績最も高し、何ぞ祖父の勲功を棄て、君上に背き、族滅の計を為さんや!我に従えば、禍を免れるのみならず、富貴を図ることもできよう」と。賊徒は皆答えなかった。燧はまた言う、「我が言の誠ならざるを以てするならば、今相去ること数歩遠からず、爾は我を射るべし!」と。乃ち襟を開いてこれに示した。廷光は感泣して俯伏し、軍士もまた涙を流した。先立つこと一日、賊の焦籬堡守将尉珪は兵二千をもって堡に拠り燧に降った。廷光の東道が既に絶たれたので、乃ち衆を率いて出降した。燧は数騎をもって直ちに城に入り、これを処置すること疑わず、畏服せざる者なく、衆は大呼して曰く、「我ら輩また王人となるを得たり!」と。渾瑊はここにおいて燧に服し、参佐に私かに謂う、「予嘗て馬公の用兵は予と相遠からずと謂えども、ただ累次田悦に敗れたるを怪しみたり。今その行兵・敵を料るを見るに、吾は遠く及ばざるなり!」と。八月、燧は軍を焦籬堡に移した。その夜、賊の太原堡守将呉冏は堡を棄てて遁走し、その配下は皆降った。燧は諸軍を率いて河を渡り、兵凡そ八万、城下に陣した。この日、賊将牛名俊は懐光の首を斬り城を以て降った。その守兵なお一万六千人、賊将閻晏・孟宝・張清・呉冏ら七人を斬ってこれを徇し、懐光に脅迫され虜とされた者は皆赦した。
燧は京師に朝してより行営に還るまで、凡そ二十七日にして河中を平定した。詔書はこれを褒め称え、光禄大夫に遷し、侍中を兼ね、なお一子に五品正員官を与えた。宴賜が終わり、太原に還った。この行に際し、徳宗は燧に『宸扆』・『臺衡』の二銘を賜う。序に曰く、
朕は上古の書を覧るごとに、唐・虞の時代に至っては、君臣相得て、聖賢同時に在り、日夜孜孜として至道を講論し、或いはその鑑誡を陳べ、或いは詠歌を以て諷し、煥乎として典謨たり、百代これが式たり、啓沃の道を見る有り、理化の端を見る有り、意甚だこれを慕うも、而も能く及ばざるなり。近頃霊監節度使杜希全著書して上献し、多く規諫する所あり、聊か《君臣箴》を作り、以てその意に答う。河東等道副元帥・司徒燧固く石に勒するを請い、厥の後人に貽す。朕は文既に工ならず、義又備わらず、来裔に垂るるは、良に恧む所なり。予を起す者は商なり、之に因りて作有り、朝夕自ら儆むるに庶く、且つ後代に我が文武殿邦の臣を知らしめんか。《宸扆銘》に曰く、天は蒸人を生じ、性命は元淳なり、嗜欲交馳し、利害糾紛す。主無ければ乃ち乱る、之に君を樹つ、九域茫茫たり、万情云云たり。目は備えて睹ず、耳は遍く聞き難し、之を睹之を聞くも、矧んや又真に非ざるや。事その源を失い、道遠くして親しまず、理その要を行い、化行くこと神の如し。源を失うは何ぞ、自ら身を正さざるなり、身を正すの方、先ずその意を誠にす。爾の欲に従うこと無かれ、爾の偽を載せること無かれ、道を体し徳を崇くし、仁を本とし義に率う。必ず信なること寒暑の若く、私無きこと天地に象り、感して遂に通じ、百慮一致す。人を用いるの術、各その器に当て、短を捨て長に従い、理備わるを求めず。事多く総集し、衆才咸く遂ぐ、知りて必ず任じ、任じて貳すること無し。天下の目を以て鑑と為せば、我が鑑は斯く明らかなり、天下の心を以て謀と為せば、我が謀は則ち智なり。賢を求むるは惟だ広く、理を弁ずるは惟だ精なり、耳に逆らい心に咈うとも、必ず乃ちの誠を嘉す。旨に順い苟くも容るるも、亦その情を察し、奸諛を斥去し、忠貞を全度す。先人は言を立て、代の為に程を作る、諤諤たる者は昌え、唯唯たる者は傾く、興亡に係る、何ぞ其の軽きを云わん。天を承けて人にす、夫れ貴からずやあらんや、伊昔の哲王、夙夜祗畏す。朽を馭るるを戒と為し、隍を納るるを志と為し、神将に盈を害し、天仮易せず。四海を家と為す、夫れ富からずやあらんや、伊昔の哲王、勤倹固陋なり。土階飾ること無く、露臺構うことを罷め、奇伎淫巧を遠ざけ、珍禽怪獣を放つ。之を敬し之を慎めば、天命祐う可し。必ず行わしめんと欲すれば、人の情に順い、必ず著わさんと欲すれば、己の慮を清くし、心に億詐無く、事必ず忠恕なり。凡そ将に為さんとする有らば、三思せざること無し、喜怒は以て節し、動静は以て時す。毫厘或いは差えば、禍害亦随う、厥の初めを慢易すれば、其の悔い何ぞ追わん。刑は長くす可からず、武は恃む可からず、威を作り力を逞うすれば、厲階斯く起る。旒を垂れて聡を蔽い、纊を黈めて耳を塞ぎ、弘大を包含して光らしむ、是れ亦美と為す。之を覆すこと天の如く、之を愛すること子の如く、仁心人を感ぜしめ、率土自ずから理まる。嗟予寡昧、丕図を嗣守し、寇戎薦興し、徳化未だ孚かず。大業兢兢たり、其れ敢えて渝えんや、物情を俯察し、典謨を仰稽し、誡を斯の言に作り、坐隅に置く。《臺衡銘》に曰く、天は台星を列ね、象を人に垂る、聖人は天に則り、亦輔臣を建つ。以て翼とし以て弼と為し、衡と為し鈞と為す、耳目の心に応ずるが如く、股肱の身に連なるが如く、是れ則ち同体なり、孰れか親に非ずと云わん。陰陽相推し、四序歳を成し、君臣相得て、万邦乂を作す。感は風雲に同じ、合は符契の若し、道を以て匡救し、規を尽くして献替す、木は必ず縄に従い、金は其れ礪を用う。帝者の盛んなる、時に陶唐惟り、乃ち疇咨を聞き、仄陋明らかに攵る。洎乎有虞、二八芳を騰す。爰に伊尹に迨り、成湯に相たり。姜牙を載生し、彼の武王を諒る。道行われざること無く、謀臧からざること無く、君聖臣賢、運泰時康なり。漢高既に興り、蕭・曹亦彰る。烈烈たる我が祖、期に膺りて昌え、群兇を剷滅し、四方を砥平す。惟だ衛及び英、封疆を啓辟し、房と杜と曰い、維綱を振理し、亦魏徵有り、忠謇昂昂たり。偉なる茲の衆材、棟と為り梁と為り、蕩蕩巍巍たり、邦家光有り。是れ道の廃興は、時主に係り、主の得失は、台輔に資ることを知る。之を経るに文を以てし、之を緯るに武を以てし、出でて方伯と為り、入りて申・甫と作り、維を絶ちて載張し、袞を闕いて斯く補う。惟だ徳是倚り、惟だ才是求め、人は知り易からず、徳も亦周し難し。傅説は板築し、夷吾は鉤を射る、之を任じて疑わず、千載休を垂る、至公に体すれば、何の鄙何の讎ぞ。哲主を追惟すれば、必ず良弼に頼る、矧んや予不徳、理術に暗し。師旅繁く起り、政刑多く失い、茲の艱屯に遘い、夙夜祗栗す。我を翊い我を戴くは、実に勛賢惟り、内に庶績を熙し、外に十連を総べ、威武載揚し、謀猷日宣なり。長城境を圧し、巨艦川を済す、徳を同じく心を同じくし、危きを扶け顛るを持す。予は爾が誠を嘉し、爾は予が理を相う、惟だ後道を失えば、亦臣の恥なり。昔よりの格言、終わりを慎むこと始めの如く、功は鼎彜に蔵れ、道は図史に冠る。伊・傅をして克く厥の美を専にせしむること無かれ、鑑を作り銘を勒し、永世是れ紀とす。
燧は太原に至り、乃ち二銘を起義堂西偏に勒し、帝は額を題し、其の崇寵此の如し。
五年九月、燧は太尉李晟と召されて延英殿に見え、上其の大なる勛力有るを嘉し、皆形を淩煙閣に図り、元臣の次に列す。九年七月、燧は延英に対す。初め、上は燧の足疾を以て、朝謁せしめず、是の日、燧は冬首に入朝するを以て、拝せずして坐するを許す。時に太尉晟初めて薨ず、帝燧に謂いて曰く、「常時卿は太尉晟と同来す、今独り卿を見る、悲慟せざるを得ず。」上歔欷すること久し。燧既に退き、足疾有り、地に仆る、上親しく掖き起し、陛に及びて送る、燧頓首泣謝す。累り表を上りて骸を乞い、侍中を陳讓す、優詔許さず。貞元十一年八月薨ず、時に年七十。是に先立ち、司天頻りに奏す熒惑太白太微上将を犯すと、一月を間いて燧薨ず。朝を廃すること四日、詔して京兆尹韓臯に喪事を監護せしめ、嗣吳王献を吊祭贈赗使と為し、冊して太尉を贈り、謚して曰く莊武。子に匯・暢有り。
燧の子 継祖
子の継祖は、祖父の廕により、四歳で太子舎人となり、累遷して殿中少監に至り、三十七歳で卒した。
燧の仲兄 炫
炫は字を弱翁といい、燧の仲兄である。若くして儒学をもって時に聞こえ、蘇門山に隠居し、辟召に応じなかった。至徳年中、李光弼が太原を鎮守するにあたり、掌書記・試大理評事・監察御史に辟し、侍御史を歴任した。常に参謀として議に加わり、光弼は甚だこれを重んじ、比部・刑部郎中を授けるよう奏した。田神功が汴州を鎮守するにあたり、節度判官・検校兵部郎中を授けるよう奏した。連州刺史に転じ、征されて吏部郎中に拝され、また閬州刺史として出向し、入朝して大理少卿となった。建中初め、潤州刺史となり、黜陟使柳載がその清白をもって聞こえ、征されて太子右庶子に拝され、左散騎常侍に遷った。弟の燧が司徒となると、親族として刑部侍郎に拝されたが、病を理由に辞し、兵部尚書を以て致仕した。貞元七年に卒し、時に七十九歳であった。
燧 史臣曰
史臣が曰く、燧は雄勇強力で、常に計を先にして戦い、また誓師を善くし、戦おうとする時は自ら号令し、士卒は慷慨感動せざるはなく、戦えば皆決死し、未だ敗北したことはなかった。謀略を得て兵に勝つことは、一時に冠たるものがあった。しかし力をもって田悦を擒にすることができながら取らず、蕃帥の偽りの降伏を容れて必ず盟うと保証した。平涼の会では、大臣が危うく陥り、関畿が動揺した。これを才は余りあれど心至らずという。議者はこれを惜しみ恨んだ。
渾瑊
渾瑊は臯蘭州の人である。本来は鉄勒九姓部落の渾部である。高祖の大俟利発渾阿貪支は、貞観年中に臯蘭州刺史となった。曾祖の元慶・祖の大寿・父の釈之は、皆代々臯蘭都督となった。大寿は、開元初めに左領衛中郎将・太子僕同正を歴任した。釈之は若くして武芸があり、朔方軍に従い、辺境で戦功を積み、累遷して開府儀同三司・試太常卿・寧朔郡王に至った。広徳年中、吐蕃と戦い、霊武で戦死した。年四十九。
瑊は本名を進といい、十余歳にして騎射に長じ、父に従って戦い、賀魯部を破り、石保城を下し、龍駒島を収め、勇は諸軍に冠たり、累授して折衝果毅となった。後に節度使安思順が瑊に偏師を率いて葛禄部に深入りさせ、狐媚磧を経て、特羅斯山を攻略し、阿布思部を大破した。また諸軍とともに永清柵・天安軍を築城し、中郎将に遷った。
安禄山が逆を構えると、瑊は李光弼に従って河北に出師し、諸郡邑を平定した。賊将に李立節という者がおり、平素より驍勇と称され、瑊と格闘し、陣前でこれを斬り、右驍衛将軍に遷った。やがて粛宗が霊武で即位すると、瑊は兵を統率して行在に赴き、天徳に至り、蕃軍の侵入に遇い、瑊はこれを撃破した。郭子儀に従って両京を収め、瑊は安慶緒を討ち、新郷で賊を破った。検校太僕卿に改め、武鋒軍使を充てた。また仆固懐恩に従って史朝義を討ち、前後数十戦した。朝義が平定されると、開府儀同三司・太常卿を加えられ、実封二百戸を賜った。
懐恩が乱を謀ると、その子の歊に命じて瑊とともに軍を率いて榆次を囲ませたが、朔方の将が歊を殺すと、瑊は配下を率いて郭子儀に帰順した。時に瑊の父釈之が戦死したため、また本官に復職し、朔方行営左廂兵馬使となった。子儀に従って邠州で吐蕃を討った。功により御史中丞を加えられた。軍が還り、盛秋に邠に駐屯した。時に吐蕃が大いに侵入し、奉天に至ると、瑊は漠谷で拒戦し、蕃軍を大破し、功により太子賓客を加えられ、再び奉天に屯した。華州の周智光が反すると、子儀は詔を受けてこれを討ち、瑊に馬歩一万人を率いて同州を攻め落とさせた。智光が平定されると、詔により邠・寧・慶の三州を朔方軍に隷属させ、子儀がこれを管轄した。子儀は瑊に先に兵を率いて邠州に至り、宜禄県で防秋に当たらせた。歳余りして、兼御史大夫を加えられた。
建中四年、李希烈が間諜を遣わし、偽って渾瑊の書状を作り李希烈と通謀していると詐称したが、渾瑊はその状況を上奏し、皇帝は特に渾瑊を保証して信任し、なお渾瑊に馬一匹と鞍轡、錦采二百匹を賜った。時に普王を荊襄等道兵馬元帥として李希烈を討たせ、大いに幕府を開き、渾瑊を検校戸部尚書・御史大夫とし、中軍都虞候を充てさせた。ちょうど涇原の兵が乱を起こし、徳宗が奉天に幸すると、三日後に、渾瑊は家族子弟を率いて京城から到着し、そこで行在都虞候・検校兵部尚書・京畿渭北節度観察使に任じられた。数日後、邠寧節度使韓遊瓌と慶州刺史論惟明が兵三千を統率し、乾陵の北を経由して、醴泉へ赴き朱泚を防ごうとした。ちょうど間諜の報告で朱泚が既に出兵したと知ると、帝は急いで韓遊瓌の兵を追い返すよう命じ、ようやく奉天に到着した時、賊軍は果たして到来した。韓遊瓌らは城東で戦い、官軍は不利となり、賊は乗勝して突進し、まさに入城せんとした。官軍と賊は城門を隔てて相持し、卯の刻から午の刻まで、殺傷は甚だ多かった。門内に草車が数乗あり、渾瑊は車を押して門を塞ぎ、これを焚いて外敵を防ぎ、火力に乗じて奮戦したので、賊はようやく退いたが、既に重囲は固く閉ざされていた。
賊は大いに攻具を修造し、僧法堅を匠師とし、仏寺の房宇を毀して梯櫓とした。この月、賊は丁未から辛未まで、四面から城を攻め、昼夜を分かたず矢石が絶えず、渾瑊は機に応じて敵に対処し、辛うじて自らを固守するのみであった。
瑊は忠勤謹慎、功高くして伐らず、藩方に在りて歳時の貢奉は必ず躬親して閲視す。毎に頒錫有るも、遠地に居ると雖も、帝前に在るが如し。位将相に極まるも、謙抑を忘れず。物論之を金日磾に方う。故に深く徳宗に委信せられ、猜間入る能わず。君子之を多し。子に練・鎬・鐬有り。
瑊について、史臣が曰く。
史臣が曰く、馬司徒(馬燧)の方略、渾咸寧(渾瑊)の忠藎は、それぞれ節義を奮い起こし、時の名臣となった。しかし元城の軍は田悦に失策し、平涼の会盟は吐蕃に陥りかけた。これもまた術の至らぬところがあったのである。遥かに建中の乱を思うに、四海は波濤が沸き立ち、賊の朱泚がひそかに発動した時、宗廟の祭祀は糸のようにつながるばかりであった。もし忠臣が命を尽くして、危きを化して安んじなければ、李氏の宗社は傾いていたであろう。
賛。
賛して曰く、北平(馬燧)の勲功は、難を排し紛れを解く。咸寧(渾瑊)は義に蹈み、感慨をもって君を匡う。再び基構を隆盛にし、よく昏き気を殄滅す。天を回らし日を捧ぐるは、実に将軍に頼る。