舊唐書

巻133

巻133

舊唐書

原文舊唐書

卷一百三十三

原文卷一百三十三

列傳第八十三 李晟

原文(段落全体)列傳第八十三 李晟

巻一百三十三、列傳第八十三 李晟

原文(段落全体)列傳第八十三 李晟

李晟

原文李晟

李晟、字は良器、隴右臨洮の人である。祖父は思恭、父は欽、代々隴右に居住して裨将を務めた。晟は数歳で孤となり、母に孝謹に仕え、性質は雄烈にして才あり、騎射を善くした。十八歳で軍に従い、身長六尺、勇敢にして人に絶倫であった。時に河西節度使王忠嗣が吐蕃を撃つにあたり、驍ぎょう将が城に乗って拒戦し、士卒を多く傷つけたので、忠嗣は軍中で射ることのできる者を募ってこれを射させた。晟は弓を引いて一発でこれを斃し、三軍皆大いに呼び、忠嗣は厚くこれを賞し、その背を撫でて曰く「これ万人敵なり」と。鳳翔節度使高升はその名を聞き、召して列将に補した。嘗て疊州の叛羌を高當川で撃ち、また宕州の連狂羌を罕山で撃ち、皆これを破り、累遷して左羽林大將軍同正となった。廣德の初め、鳳翔節度使孫誌直は晟を署して遊兵を総べさせ、党項羌の高玉らを撃破し、功により特進・試光祿卿を授けられ、転じて試太常卿となった。大歷の初め、李抱玉が鳳翔を鎮守し、晟を署して右軍都將とした。四年、吐蕃が霊州を囲むと、抱玉は晟に兵五千を将いて吐蕃を撃たせようとしたが、晟は辞して曰く「衆を以てすれば則ち足らず、謀を以てすれば則ち多し」と。乃ち兵千人を将いて疾く大震関を出で、臨洮に至り、定秦堡を屠り、その積聚を焚き、堡帥慕容谷鐘を虜にして還り、吐蕃はこれにより霊州の囲みを解いて去った。開府儀同三司を拝された。間もなく、左金吾衛大將軍・涇原四鎮北庭都知兵馬使を兼ね、併せて遊兵を総べた。ほどなく、節度使馬璘が吐蕃と鹽倉で戦い、兵敗れたとき、晟は率いる所部を以て横撃し、璘を乱兵の中から抜き出し、功により合川郡王に封ぜられた。璘は晟の威名を忌み、また礼を以て遇さず、京師に朝せしめると、代宗は留めて宿衛とし、右神策都將とした。德宗が即位すると、吐蕃が劍南を寇し、時に節度使崔寧が京師に朝していたので、三川は震恐し、乃ち詔して晟に神策兵を将いてこれを救わしめ、太子賓客を授けた。晟は乃ち漏天を踰え、飛越を抜き、肅寧三城を廓清し、大渡河を絶ち、首虜千余級を獲ると、虜は乃ち引き退き、これにより成都に数ヶ月留まって還った。

原文李晟,字良器,隴右臨洮人。祖思恭,父欽,代居隴右為裨將。晟生數歲而孤,事母孝謹,性雄烈,有才,善騎射。年十八從軍,身長六尺,勇敢絕倫。時河西節度使王忠嗣擊吐蕃,有驍將乘城拒鬥,頗傷士卒,忠嗣募軍中能射者射之。晟引弓一發而斃,三軍皆大呼,忠嗣厚賞之,因撫其背曰:「此萬人敵也。」鳳翔節度使高升雅聞其名,召補列將。嘗擊疊州叛羌於高當川,又擊宕州連狂羌於罕山,皆破之,累遷左羽林大將軍同正。廣德初,鳳翔節度使孫誌直署晟總遊兵,擊破党項羌高玉等,以功授特進、試光祿卿,轉試太常卿。大歷初,李抱玉鎮鳳翔,署晟為右軍都將。四年,吐蕃圍靈州,抱玉遣晟將兵五千以擊吐蕃,晟辭曰:「以眾則不足,以謀則太多。」乃請將兵千人疾出大震關,至臨洮,屠定秦堡,焚其積聚,虜堡帥慕容谷鐘而還,吐蕃因解靈州之圍而去。拜開府儀同三司。無幾,兼左金吾衛大將軍、涇原四鎮北庭都知兵馬使,並總遊兵。無何,節度使馬璘與吐蕃戰於鹽倉,兵敗,晟率所部橫擊之,拔璘出亂兵之中,以功封合川郡王。璘忌晟威名,又遇之不以禮,令朝京師,代宗留居宿衛,為右神策都將。德宗即位,吐蕃寇劍南,時節度使崔寧朝京師,三川震恐,乃詔晟將神策兵救之,授太子賓客。晟乃逾漏天,拔飛越,廓清肅寧三城,絕大渡河,獲首虜千余級,虜乃引退,因留成都數月而還。

建中二年、魏博の田悅が反し、兵を将いて臨洺・邢州を囲むと、詔して晟を以て神策先鋒都知兵馬使とし、河東節度使馬燧・昭義節度使李抱真と合兵して臨洺を救わしめた。まもなく御史中丞を兼ね加えられた。河東・昭義軍が臨洺の南で楊朝光を攻めると、晟は河東の騎将李自良・李奉国とともに雙岡で悅を撃ち、悅の兵は退き、遂に朝光を斬った。臨洺で戦うと、諸軍皆退いた。晟は兵を引き洺水を渡り、氷を乗じて済り、悅軍を横撃すると、王師は再び振い、悅を撃ちて大いにこれを破った。三年正月、また諸道軍を以て洹水で悅軍を撃破し、遂に魏州に進攻し、功により檢校左散騎常侍さんきじょうじを加えられ、実封百戸となった。間もなく、魏府左司馬を兼ねた。時に硃滔・王武俊が連兵して深・趙に在り、朝廷の賞功薄きを怒り、田悅はその間隙あるを知り、使者を遣わして援を求めると、滔と武俊はこれに応じ、遂に兵を以て康日知を趙州に囲んだ。李抱真は兵二千人を分かちて邢州を守らせると、馬燧は大いに怒り、師を班そうとした。晟は燧に謂いて曰く「初め詔を奉じて進討し、三帥斉しく進む。李尚書は邢州と趙州が境を接するを以て、兵を分かちてこれを守るは、誠に害と為さず、その精卒鋭将は皆ここに在り、令公遽かに自ら引き去らば、王事を奈何せん」と。燧は釋然として晟に謝し、燧は乃ち自ら抱真の壘に造り、これと交歓して初めの如くにした。

原文建中二年,魏博田悅反,將兵圍臨洺、邢州,詔以晟為神策先鋒都知兵馬使,與河東節度使馬燧、昭義節度使李抱真合兵救臨洺。尋加兼御史中丞。河東、昭義軍攻楊朝光於臨洺南,晟與河東騎將李自良、李奉國擊悅於雙岡,悅兵卻,遂斬朝光。戰於臨洺,諸軍皆卻。晟引兵渡洺水,乘冰而濟,橫擊悅軍,王師復振,擊悅,大破之。三年正月,復以諸道軍擊敗悅軍於洹水,遂進攻魏州,以功加檢校左散騎常侍,實封百戶。無幾,兼魏府左司馬。時硃滔、王武俊聯兵在深、趙,怒朝廷賞功薄,田悅知其可間,遣使求援,滔與武俊應之,遂以兵圍康日知於趙州。李抱真分兵二千人守邢州,馬燧大怒,欲班師。晟謂燧曰:「初奉詔進討,三帥齊進。李尚書以邢州與趙州接圵,分兵守之,誠未為害,其精卒銳將皆在於此,令公遽自引去,奈王事何?」燧釋然謝晟,燧乃自造抱真壘,與之交歡如初。

王武俊が趙州を攻めると、晟は乃ち状を献じて趙州の囲みを解くことを請い、兵を引き定州に赴き張孝忠と合勢し、范陽を図らんと欲し、德宗はこれを壮とし、晟に御史大夫を加え、禁軍將軍莫仁擢・趙光銑・杜季泚を皆これに隷せしめた。晟は魏州より軍を引きて北し、徑ち趙州に趨ると、武俊はこれを聞き、囲みを解いて去った。晟は趙州に三日留まり、孝忠の兵と合し、北に恆州を略し、硃滔の将鄭景濟を清苑に囲み、水を決してこれを灌いだ。田悅・王武俊は皆兵を遣わして来援し、白樓で戦った。賊が義武軍を犯すと、稍々退き、晟は歩騎を引いてこれを撃破し、晟の乗る馬は連ねて流矢に中った。一月余りを踰えると、城中益々急となり、滔・武俊は大いに懼れ、乃ち悉く魏博の衆を収めて来り、再び晟の軍を囲んだ。晟は内には景濟を囲み、外には滔らと拒戦し、日に数合し、正月より五月に至った。會に晟は病甚だしく、人を知らざること数たびに及んだ。軍吏が謀を合わすと、乃ち馬輿にて定州に還り、賊は敢えて逼らなかった。晟の疾が間もなく、再び師を進めんとすると、會に京城に変起こり、德宗は奉天に在り、詔して晟に難に赴かしめた。晟は詔を承けて涙を下し、即日に関輔に赴かんと欲した。義武軍は硃滔・王武俊の間に在り、晟を軽重として倚り、晟の去るを欲せず、数たび謀って晟の軍を沮止せんとした。晟は将吏に謂いて曰く「天子外に播越し、人臣は当に百舍一息し、死して後已むべし。張義武は吾が行を沮まんと欲す、吾は当に愛子を質とし、良馬を選んでその意を啖わん」と。乃ち子の憑を留めて婚と為した。義武軍に孝忠に委信される大将ありて晟に謁すと、晟は乃ち玉帯を解いてこれを遺し、因りて曰く「吾西に行かんと欲す、願わくは以て別と為さん」と。難に赴くの意を陳べると、帯を受くる者は果たして晟を徳とし、乃ち孝忠を諫めて晟を止めしめなかった。晟は軍を引きて飛狐を踰え、師を代州に次ぐことを得、詔して晟に檢校工部尚書・神策行營節度使を加え、実封二百戸とした。晟の軍令は厳肅にして、過ぐる所樵採を犯さず。河中より蒲津を由って渭北に軍し、東渭橋に壁して泚を逼った。時に劉德信が子弟軍を将いて襄城を救い、扈澗で敗れ、難を聞き、余軍を率いて先ず渭南に次ぎ、晟と軍を合した。軍に統一なく、晟はこれを制することができず、因りて德信が晟の軍に入ると、乃ちその罪を数えてこれを斬った。晟は数騎を以て馳せて德信の軍に入り、その衆を撫労すると、敢えて動く者無かった。既に德信の軍を併せると、軍益々振るった。

原文王武俊攻趙州,晟乃獻狀請解趙州之圍,欲引兵赴定州與張孝忠合勢,欲圖范陽,德宗壯之,加晟御史大夫,俾禁軍將軍莫仁擢、趙光銑、杜季泚皆隸焉。晟自魏州引軍而北,徑趨趙州,武俊聞之,解圍而去。晟留趙州三日,與孝忠兵合,北略恆州,圍硃滔將鄭景濟於清苑,決水以灌之。田悅、王武俊皆遣兵來救,戰於白樓。賊犯義武軍,稍卻,晟引步騎擊破之,晟所乘馬連中流矢。逾月,城中益急,滔、武俊大懼,乃悉收魏博之眾而來,復圍晟軍。晟內圍景濟,外與滔等拒戰,日數合,自正月至於五月。會晟病甚,不知人者數焉。軍吏合謀,乃以馬輿還定州,賊不敢逼。晟疾間,復將進師,會京城變起,德宗在奉天,詔晟赴難。晟承詔泣下,即日欲赴關輔。義武軍間於硃滔、王武俊,倚晟為輕重,不欲晟去,數謀沮止晟軍。晟謂將吏曰:「天子播越於外,人臣當百舍一息,死而後已。張義武欲沮吾行,吾當以愛子為質,選良馬以啖其意。」乃留子憑以為婚。義武軍有大將為孝忠委信者謁晟,晟乃解玉帶以遺之,因曰:「吾欲西行,願以為別。」陳赴難之意,受帶者果德晟,乃諫孝忠勿止晟。晟得引軍逾飛狐,師次代州,詔加晟檢校工部尚書、神策行營節度使,實封二百戶。晟軍令嚴肅,所過樵采無犯。自河中由蒲津而軍渭北,壁東渭橋以逼泚。時劉德信將子弟軍救襄城,敗於扈澗,聞難,率余軍先次渭南,與晟合軍。軍無統一,晟不能制,因德信入晟軍,乃數其罪斬之。晟以數騎馳入德信軍,撫勞其眾,無敢動者。既併德信軍,軍益振。

時に朔方節度使李懷光もまた河北より難に赴き、咸陽に軍し、晟が独り一面を当てて己が功を分かつことを欲せず、乃ち奏して晟と兵を合することを請う。乃ち詔して晟に軍を移して懷光軍に合せしむ。晟は詔を奉じて軍を引き陳濤斜に至る。軍壘未だ成らず、賊兵遽かに至る。晟は乃ち陣を出で、且つ懷光に言う、「賊は堅く宮苑を保ち、之を攻むるも必ずしも克たず。今其の窟穴を離れ、敢えて出でて戦を索む。此れ殆ど天の賊を以て明公に賜う所なり」と。懷光は晟の功を立てんことを恐れ、乃ち曰く、「軍を召すこと適に至り、馬未だ秣せず、士未だ飯せず、詎ぞ戦うべけんや。鋭を蓄え威を養い、時に俟って挙ぐるに如かず」と。晟は其の意を知り、遂に軍を収めて壘に入る。時に興元元年正月なり。将に合戦せんとする毎に、必ず自ら異にし、錦裘・繡帽を衣て前行し、親しく指導す。懷光望見して之を悪み、乃ち晟に謂う、「将帥は当に持重すべし。豈に自ら表飾して以て賊を啖うべけんや」と。晟曰く、「晟久しく涇原に在り、軍士頗る相畏服す。故に其の先に識らしめて以て其の心を奪わんと欲するのみ」と。懷光益々悦ばず、陰に異志有り、遷延して進まず。晟は因りて人をして懷光を説かしめて曰く、「寇賊窃に京邑を拠え、天子出でて近甸に居す。兵柄廟略、明公に属す。公は宜しく兵を観て速やかに進むべし。晟は願わくば将うる所の部を以て厳令を奉じ、公の前駆と為り、死すとも悔いず」と。懷光益々之を拒む。晟の兵は朔方軍の北に軍す。晟と懷光と城下に同く至る毎に、懷光軍は輒ち牛馬を虜掠し、吾が姓之を苦しむ。晟軍は犯す所無し。懷光軍は其の独り善きを悪み、乃ち獲る所を分かちて之に与う。晟軍敢えて受けず。

原文時朔方節度使李懷光亦自河北赴難,軍於咸陽,不欲晟獨當一面以分己功,乃奏請與晟兵合,乃詔晟移軍合懷光軍。晟奉詔引軍至陳濤斜,軍壘未成,賊兵遽至,晟乃出陣,且言於懷光曰:「賊堅保宮苑,攻之未必克;今離其窟穴,敢出索戰,此殆天以賊賜明公也!」懷光恐晟立功,乃曰:「召軍適至,馬未秣,士未飯,詎可戰耶?不如蓄銳養威,俟時而舉。」晟知其意,遂收軍入壘,時興元元年正月也。每將合戰,必自異,衣錦裘、繡帽前行,親自指導。懷光望見惡之,乃謂晟曰:「將帥當持重,豈宜自表飾以啖賊也!」晟曰:「晟久在涇原,軍士頗相畏服,故欲令其先識以奪其心耳。」懷光益不悅,陰有異志,遷延不進。晟因人說懷光曰:「寇賊竊據京邑,天子出居近甸,兵柄廟略,屬在明公。公宜觀兵速進,晟願以所部得奉嚴令,為公前驅,雖死不悔。」懷光益拒之。晟兵軍於朔方軍北,每晟與懷光同至城下,懷光軍輒虜驅牛馬,吾姓苦之;晟軍無所犯。懷光軍惡其獨善,乃分所獲與之,晟軍不敢受。

久しくして、懷光将に晟軍を沮まんと謀るも、計未だ出す所無し。時に神策軍は旧例に以て給賜諸軍より厚し。懷光奏して曰く、「賊寇未だ平らかならず、軍中の給賜、咸く宜しく均一すべし。今神策独り厚し。諸軍皆以て言と為す。臣以て之を止むる無し。惟だ陛下裁処せられんことを」と。懷光は計りて是に因りて晟をして自ら署して己が軍を侵削せしめ、以て之を撓破せんと欲す。德宗之を憂え、諸軍を以て神策に同くせんと欲するも、則ち財賦給せず、奈何すべき無し。乃ち翰林学士陸贄を遣わして懷光軍に往き宣諭せしめ、仍ち懷光と晟とをして参議して宜しき所を以て聞かしむ。贄・晟俱に會す懷光軍に於いて。懷光言う、「軍士稟賜均しからず、何を以て戦を令せん」と。贄未だ言無く、数たび晟を顧みる。晟曰く、「公は元帥と為り、弛張号令皆之を専にするを得。晟は一軍を将うるに当たり、唯だ公の指す所に従い、以て死命を效せん。衣食を増損するに至りては、公当に之を裁くべし」と。懷光默然たり、以て晟に難ずる無く、又神策軍を侵刻するを己より発するを欲せず、乃ち止む。

原文久之,懷光將謀沮晟軍,計未有所出。時神策軍以舊例給賜厚於諸軍,懷光奏曰:「賊寇未平,軍中給賜,咸宜均一。今神策獨厚,諸軍皆以為言,臣無以止之,惟陛下裁處。」懷光計欲因是令晟自署侵削己軍,以撓破之。德宗憂之,欲以諸軍同神策,則財賦不給,無可奈何,乃遣翰林學士陸贄往懷光軍宣諭,仍令懷光與晟參議所宜以聞。贄、晟俱會於懷光軍,懷光言曰:「軍士稟賜不均,何以令戰?」贄未有言,數顧晟。晟曰:「公為元帥,弛張號令,皆得專之。晟當將一軍,唯公所指,以效死命。至於增損衣食,公當裁之。」懷光默然,無以難晟,又不欲侵刻神策軍發於自己,乃止。

懷光は咸陽に屯し、堅壁八十余日、肯て軍を出さず。德宗之を憂え、屢たび中使を降し、収復の期を促す。懷光は卒の疲るるを托け、更に休息を請い、以て其の便に俟つ。然れども陰に硃泚と交通し、其の跡漸く露わる。晟は併せらるるを懼れ、乃ち密かに疏して軍を移して東渭橋にせんことを請い、以て賊の勢を分かたんとす。上初め之を許さず。晟は懷光の反状已に明らかなるを以て、緩急宜しく備え有るべし。蜀しょく・漢の路は壅ぐべからず。裨将趙光銑を以て洋州刺史と為し、唐良臣を利州刺史と為し、晟の子婿張彧を劍州刺史と為し、各兵五百を将いて未然を防がしめんことを請う。上初め之を納るも、未だ果たして行わず。間も無く、吐蕃兵を以てして泚を誅するを佐けんことを請う。上親しく六師を総べ、幸を移して咸陽にし、以て諸軍の進討を促さんと欲す。懷光之を聞き大いに駭き、上其の軍を奪わんことを疑い、乱を謀ること益々急なり。時に鄜坊節度李建徽・神策将楊惠元及び晟、並びに懷光と聯営す。晟は事迫れるを以て、會に中使の晟軍を過ぐる有り。晟は乃ち令を宣して云く、「詔を奉じて徙屯して渭橋にす」と。乃ち陣を結びて行き、渭橋に至る。数日を経ずして、懷光果たして建徽・惠元を劫して其の兵を併せ、建徽は遁れて免れ、惠元は懷光の害する所と為る。是の日、車駕梁州に幸す。時に変倉卒に生じ、百官扈従する者十二三、駱谷道路険阻、儲供素より無く、従官食に乏う。上嘆じて曰く、「早く李晟の言に従わば、三蜀坐して致す可きなり」と。晟の大将張少弘行在より自ら口詔を伝え、晟に尚書左僕射・同中書門下平章事を授けて、以て衆心を安んず。晟拝哭して命を受け、且つ曰く、「長安ちょうあんは宗廟の在る所、天下の本と為る。若し皆羈靮を執らば、誰か復た京師せん」と。乃ち城隍を浚い、兵甲を繕い、以て収復を図る。晟は孤軍を以て独り強寇に当たり、二賊の併せらるる所と為らんことを恐れ、乃ち卑詞厚幣を以て、偽りて誠を懷光に致し、外は推崇を示し、内は之が為に備えを為す。時に芻粟未だ集まらず、乃ち檢校戶部郎中張彧に令して京兆少尹を仮け、官吏を択びて以て渭北畿縣を賦せしむ。旬日を経ずして、芻糧皆足る。晟は乃ち大いに三軍を陳べ、之に令して曰く、「国家多難、乱逆継いで興り、属に車駕西幸し、関中主無し。予代々国恩を受け、危きを見て節に死すは、臣子の分なり。況んや当に此時に当たり、兇渠を誅滅して以て富貴を取らずんば、人豪に非ざるなり。渭橋は大川に横跨し、賊の首尾を断つ。吾公等と力を戮し王に勤め、利を択びて進み、大業を興復し、世にない功を建てん。能く我に従わんか」と。三軍泣かざる無く、曰く、「唯だ公の使う所なり」と。晟も亦歔欷して涕を流す。

原文懷光屯咸陽,堅壁八十余日,不肯出軍,德宗憂之,屢降中使,促以收復之期。懷光托以卒疲,更請休息,以伺其便,然陰與硃泚交通,其跡漸露。晟懼為所併,乃密疏請移軍東渭橋,以分賊勢。上初未之許。晟以懷光反狀已明,緩急宜有所備。蜀、漢之路,不可壅也,請以裨將趙光銑為洋州刺史,唐良臣為利州刺史,晟子婿張彧為劍州刺史,各將兵五百以防未然。上初納之,未果行。無何,吐蕃請以兵佐誅泚,上欲親總六師,移幸咸陽,以促諸軍進討。懷光聞之大駭,疑上奪其軍,謀亂益急。時鄜坊節度李建徽、神策將楊惠元及晟,並與懷光聯營,晟以事迫,會有中使過晟軍,晟乃宣令云:「奉詔徙屯渭橋。」乃結陣而行,至渭橋。不數日,懷光果劫建徽、惠元而併其兵,建徽遁免,惠元為懷光所害。是日,車駕幸梁州。時變生倉卒,百官扈從者十二三,駱谷道路險阻,儲供無素,從官乏食,上嘆曰:「早從李晟之言,三蜀可坐致也。」晟大將張少弘自行在傳口詔授晟尚書左僕射、同中書門下平章事,以安眾心。晟拜哭受命,且曰:「長安宗廟所在,為天下本,若皆執羈靮,誰復京師?」乃浚城隍,繕兵甲,以圖收復。晟以孤軍獨當強寇,恐為二賊之所併,乃卑詞厚幣,偽致誠於懷光,外示推崇,內為之備。時芻粟未集,乃令檢校戶部郎中張彧假京兆少尹,擇官吏以賦渭北畿縣。不旬日,芻糧皆足,晟乃大陳三軍,令之曰:「國家多難,亂逆繼興,屬車駕西幸,關中無主。予代受國恩,見危死節,臣子之分,況當此時,不能誅滅兇渠,以取富貴,非人豪也。渭橋橫跨大川,斷賊首尾,吾與公等戮力勤王,擇利而進,興復大業,建不世之功,能從我乎?」三軍無不泣下,曰:「唯公所使。」晟亦歔欷流涕。

是の時、硃泚窃かに京城を拠え、懷光は反噬ぜいを図り、河朔に僭偽する者三、李納は河南に虎視し、希烈は汴・鄭に鴟張す。晟は内に貨財無く、外に轉輸無く、孤軍を以て劇賊に抗す。而して鋭気衰えず、徒に忠義を以て人心に感ず。故に英豪帰向す。戴休顏は奉天の衆を率い、韓遊瑰は邠寧の師を治め、駱元光は華州の兵を以て潼関を守り、尚可孤は神策の旅を以て七盤に屯す。皆晟の節度を稟け、晟軍大いに振う。懷光は休顏・遊瑰の晟に従うを以て、益々懼る。晟又書を懷光に致し、禍福を諭し、賊を破り鑾を迎えて、以て前過を掩わしめんとす。懷光終に悟らず、軍衆漸く多く離散し、糗糧将に竭き、虜掠するも得る所無く、晟に襲わるるを懼る。三月、懷光自ら三原・富平より東に奉天に抵り、至る所焚掠し、乃ち自ら馮翊より入り河中を拠う。懷光の将孟涉・段威勇なる者は、本神策将なり。懷光の臣ならざるを悪み、既に富平に至り、軍中に陣を結び、外向して大呼して去る。懷光之を制する能わず。涉・威勇は数千人を以て晟に帰す。晟は乃ち兵を陳べて涉等の降卒を受け、乃ち奏して涉に檢校工部尚書を授け、威勇を兼ねて御史大夫と為す。

原文是時,硃泚盜據京城,懷光圖為反噬,河朔僭偽者三,李納虎視於河南,希烈鴟張於汴、鄭。晟內無貨財,外無轉輸,以孤軍而抗劇賊,而銳氣不衰,徒以忠義感於人心,故英豪歸向。戴休顏率奉天之眾,韓遊瑰治邠寧之師,駱元光以華州之兵守潼關,尚可孤以神策之旅屯七盤,皆稟晟節度,晟軍大振。懷光以休顏、遊瑰從晟,益懼。晟又致書於懷光,諭以禍福,令破賊迎鑾,以掩前過。懷光卒不悟,軍眾漸多離散,糗糧且竭,虜剽無所得,懼為晟所襲。三月,懷光自三原、富平東抵奉天,所至焚掠,乃自馮翊入據河中。懷光將孟涉、段威勇者,本神策將,惡懷光之不臣,既至富平,結陣於軍中,外向大呼而去,懷光不能制。涉、威勇以數千人歸晟,乃陳兵受涉等降卒,乃奏授涉檢校工部尚書,威勇兼御史大夫。

徳宗が山南に幸行した際、既に駱谷に入ると、渾瑊に言った、「渭橋は賊の腹地にあり、兵勢は隔絶しているが、李晟は事を成し得るか」と。渾瑊は答えて言った、「李晟は義を守り志を固くし、事に臨んでもその志を奪うことはできません。臣の計るところでは、賊を必ず破るでしょう」と。帝の心はようやく安らかになった。この月、渾瑊の歩兵の将上官望が間道を通って詔書を携えて来て、李晟に検校右僕射を加え、兼ねて河中尹・河中晉絳慈隰節度使とし、さらに実封三百戸を加増し、また京畿・渭北・鄜坊丹延節度招討使を兼ねさせた。李晟は詔を受けて涙を流した。当時、帝は西川に移幸しようとしていたが、李晟は上表して言った、「どうか梁漢に駐蹕され、億兆の民の心を繋ぎ、賊を殲滅する勢いを図られよ。もし小さきを規りて大なるを捨て、岷峨に都をなされば、即ち人心は失望し、武士も謀臣も施すところが無くなるでしょう」と。四月、詔があり李晟に京畿・渭北・鄜坊・商華兵馬副元帥を加えた。当時、京兆府司録李敬仲が京城から来、諫議大夫鄭雲逵が奉天から至った。李晟は京兆少尹張彧を副使とし、鄭雲逵を行軍司馬とし、李敬仲を節度判官として、共に軍の計画を主らせた。また、懐光の旧将唐良臣に潼関を守らせ、河中節度使を授けること、戴休顔に奉天を守らせ、鄜坊節度使を授けることを請うた。上は皆これに従った。渭橋には旧来より粟十余万斛があったが、度支が先に懐光の軍に供給して尽きようとしていた。李晟はまた上奏して言った、「近畿は兵乱に乗じているとはいえ、なお賦斂を行うことができます。もし寇賊が未だ滅びず、兵を長く駐留させて時を空費し、人が耕桑を廃し、また蓄えが無ければ、微を防ぎ勝を制する術ではありません」と。上はこれを容れた。李晟はそこで畿甸において率いて征賦を集めると、吏民は喜んで輸納し、守りはますます固くなり、これによって軍は食に乏しくなかった。

原文德宗之幸山南,既入駱谷,謂渾瑊曰:「渭橋在賊腹內,兵勢懸隔,李晟可辦事乎?」瑊對曰:「李晟秉義執誌,臨事不可奪,以臣計之,破賊必矣。」帝意始安。是月,渾瑊步將上官望自間道懷詔書加晟檢校右僕射,兼河中尹、河中晉絳慈隰節度使,益實封三百戶,又兼京畿、渭北、鄜坊丹延節度招討使。晟承詔流涕。時帝欲移幸西川,晟上表:「請駐蹕梁漢,系億兆之心,圖翦滅之勢。若規小舍大,作都岷峨,即人心失望,武士謀臣無所施矣。」四月,有詔加晟京畿、渭北、鄜坊、商華兵馬副元帥。時京兆府司錄李敬仲自京城來,諫議大夫鄭雲逵自奉天至,晟以京兆少尹張彧為副使,鄭雲逵為行軍司馬,李敬仲為節度判官,俾同主軍畫。又請以懷光舊將唐良臣保潼關,以河中節度授之;戴休顏守奉天,請以鄜坊節度授之;上皆從之。渭橋舊有粟十余萬斛,度支先饋懷光軍欲盡,晟又奏曰:「近畿雖乘兵亂,猶可賦斂,儻寇賊未滅,宿兵曠時,人廢耕桑,又無儲蓄,非防微制勝之術也。」上納之。晟乃於畿甸率聚征賦,吏民樂輸,守禦益固,由是軍不乏食。

神策軍の家族は多く朱泚に陥落していたが、李晟の家も百口が賊中にあった。左右で家のことを口にする者がいたが、李晟は涙を流して言った、「天子の乗輿がどこにあるというのに、どうして家を憂えられようか」と。朱泚はまた李晟の小吏王無忌の婿を李晟の軍に遣わし、かつ言った、「公の家は無事であり、城中から書状が届いている」と。李晟は言った、「お前は賊の間者となることを敢えてするのか」と。直ちに斬ることを命じた。当時、輸送が届かず、盛夏なのに軍士の中には裘や褐を着ている者もいたが、李晟も同じく労苦を共にし、常に大義をもって士心を奮い立たせたので、ついに離叛する者は無かった。ちょうど将吏数人が賊中から逃げて来て、朱泚の軍衆が離反し滅ぼせる様子を言ったので、士心はますます奮った。先に、賊将姚令言及び偽中丞崔宣が諜者を遣わして我が軍を覗かせたが、巡邏の騎兵に捕らえられ、李晟のもとに拘束されて送られて来た。李晟は縄を解き、食事を与えて帰らせ、戒めて言った、「崔宣に伝えよ、よく賊のために守り、諸人は力を尽くして自らを固くせよ、賊に対して不忠であってはならない」と。

原文神策軍家族多陷於泚,晟家亦百口在賊中,左右或有言及家者,晟因泣下曰:「乘輿何在,而敢恤家乎!」泚又使晟小吏王無忌之婿詣晟軍,且曰:「公家無恙,城中有書聞。」晟曰:「爾敢與賊為間!」遽命斬之。時轉輸不至,盛夏軍士或衣裘褐,晟亦同勞苦,每以大義奮激士心,卒無離叛者。會將吏數輩自賊中逃來,言泚眾攜離可滅之狀,士心益奮。先是,賊將姚令言及偽中丞崔宣咸使諜覘我軍,為邏騎所得,拘送於晟,晟解縛,食而遣之,誡之曰:「爾報崔宣,善為賊守,諸人勉力自固,勿不忠於賊也!」

五月三日、李晟は軍を率いて通化門に進み、武威を示して還った。賊は出て来ることができなかった。朝に将佐を集め、兵の向かうべきところを図った。諸将は言った、「まず外城を抜き、市街地を確保してから、北の宮闕を清めましょう」と。李晟は言った、「もしまず坊市を収めれば、巷陌は狭隘で、その間に住民がいる。もし賊が伏兵を設けて格闘すれば、百姓は騒ぎ潰走し、良策ではない。しかも賊の重兵堅甲は皆苑中にある。もし苑からその心腹を撃てば、彼らは逃走を図る暇もない。このようにすれば宮闕は安泰に保たれ、市も店を変えず、これが上策である」と。諸将は言った、「善し」と。そこで渾瑊・駱元光・尚可孤に文書を送り、期日を定めて城下に進軍することを約した。

原文五月三日,晟引軍抵通化門,耀武而還,賊不敢出。晨集將佐,圖兵所向,諸將曰:「先拔外城,既有市裏,然後北清宮闕。」晟曰:「若先收坊市,巷陌隘狹,間以居人,若賊設伏格鬥,百姓囂潰,非計也。且賊重兵堅甲,皆在苑中,若自苑擊其心腹,彼將圖走不暇,如此則宮闕保安,市不易肆,計之上也。」諸將曰:「善」。乃移書瑊、駱元光、尚可孤,克期進軍於城下。

その月二十五日の夜、李晟は東渭橋から光泰門外の米倉村に軍を移し、京城に迫った。李晟は高みに臨んで指揮し、壕と柵を設けて賊軍を待たせた。間もなく賊衆が大挙して来た。賊の驍将張庭芝・李希倩が柵に迫って戦いを求めた。李晟は諸将に言った、「私は賊が出て来ないことを恐れていたが、今死を冒して来たのは、天が我を助けているのだ」と。呉詵・康英俊・史萬頃・孟涉らに命じて兵を縦ってこれを撃たせた。当時、華州の営は北にあり兵が少なかったので、賊は力を併せてこれを攻めた。李晟は李演・孟華に精鋭の兵卒を率いて救援させた。中軍が鬨の声を上げ、李演が力戦して大いにこれを破り、勝に乗じて光泰門に入った。再び戦ってまたこれを破り、死体が地を覆い、残りの衆は白華に逃げ込んだ。夜、慟哭の声が聞こえた。

原文其月二十五日夜,晟自東渭橋移軍於光泰門外米倉村,以薄京城。晟臨高指麾,令設壕柵以候賊軍。俄而賊眾大至,賊驍將張庭芝、李希倩逼柵求戰,晟謂諸將曰:「吾恐賊不出,今冒死而來,天贊我也!」勒吳詵、康英俊、史萬頃、孟涉等縱兵擊之。時華州營在北,兵少,賊併力攻之,晟遣李演、孟華以精卒救之。中軍鼓噪,演力戰,大破之,乘勝入光泰門;再戰,又敗之,僵屍蔽地,余眾走入白華,夜聞慟哭之聲。

翌日、再び出師しようとした。諸将は西軍(渾瑊ら)が到着するのを待って、左右から挟み撃ちにすることを請うた。李晟は言った、「賊は既に傷つき敗れたのだから、勝に乗じて撲滅すべきである。もし彼らに備えさせるのを待てば、王師の利となるだろうか。西軍を待っていれば、機会を失う恐れがある」。二十八日、李晟は諸将駱元光・尚可孤、兵馬使呉詵・王佖、都虞候邢君牙・李演・史萬頃、神策将孟涉・康英俊、華州将郭審金・権文成、商州将彭元俊らを大いに集め、号令し誓師を終えると、光泰門外に兵を陳列した。そこで王佖・李演に騎軍を率いさせ、史萬頃に歩卒を率いさせて、苑の墻の神麚村に直ちに到達させた。李晟は先に夜間に人を遣わして苑の墻を二百余歩開けさせていたが、この時には賊は既に木の柵を立てていた。賊は柵に倚って抗戦した。李晟は軍士を叱って言った、「どうしてこのように賊を放っておけるものか、まず公らを斬るべきである」と。史萬頃は恐れ、先に登って柵を抜き倒して入った。王佖の騎軍が続いて進むと、賊は即ち奔り潰れた。賊将段誠諫を捕らえ、大軍は分かれて道を並べて進入し、鬨の声は雷の如く響いた。姚令言・張庭芝・李希倩はなおも官軍を力強く防いだ。李晟は決勝軍使唐良臣・兵馬使趙光銑・楊萬榮・孟日華らに歩騎を揃えて進ませた。賊軍は陣を成したがたびたび敗北した。十余合戦い、勝に乗じて追い立て、白華に至った。突然、賊騎千余りが官軍の背後から現れた。李晟は麾下の百余騎を率いてこれに向かって馳せた。左右が叫んだ、「相公が来た」と。賊はこれを聞いて驚き潰れ、官軍が追撃して斬った数は計り知れなかった。朱泚・姚令言・張庭芝にはなおも衆万人があり、相率いて遁走した。李晟は田子奇に追撃させた。その他の兇党は相率いて来降した。この日、李晟の軍は京城に入り、兵を率いて含元殿前に駐屯した。李晟は右金吾仗に宿営し、なお諸軍に号令して言った、「李晟は実に武勇に優れず、上は天子の英明な計略に憑り、下は士心に頼り、幸いにして兇徒の渠魁を殲滅し、宮禁を粛清することができたが、これらは皆三軍の力である。長安の士庶は久しく賊の支配下に陥っていた。もし少しでも驚かせれば、罪を伐ち人を弔う義に適わない。李晟と公らはそれぞれ家室があり、数年離別していた。今既に成功したのだから、相見えるのも遅くはない。五日の間は勝手に家信を通じてはならぬ。命に背く者は斬る」と。そこで京兆尹李齊運・摂長安令陳元衆・摂萬年令韋上伋を遣わして百姓に告諭させた。住民は安堵し、秋毫も犯すところが無かった。尚可孤の軍人で賊の馬を擅に取った者がおり、李晟の大将高明曜が賊の女妓一人を虜にし、司馬伷が賊の馬二匹を取ったが、李晟は皆これを直ちに斬ったので、敢えて逆らって見る者も無かった。士庶は感悦せぬ者は無く、皆涙を流して嘆息した。遠方の坊に住む者にも、一晩経ってようやく知った者もいた。二十九日、孟涉に白華に駐屯させ、尚可孤に望仙門に駐屯させ、駱元光に章敬寺に駐屯させ、李晟は自ら安国寺に駐屯した。この日、賊将李希倩ら八人を斬り、市中にさらし首にした。

原文翌日,將復出師,諸將請待西軍至,則左右夾攻。晟曰:「賊既傷敗,須乘勝撲滅,若俟其有備,豈王師之利耶!如待西軍,恐失機便。」二十八日,晟大集諸將駱元光、尚可孤,兵馬使吳詵、王佖,都虞候邢君牙、李演、史萬頃,神策將孟涉、康英俊,華州將郭審金、權文成,商州將彭元俊等,號令誓師畢,陳兵於光泰門外。乃使王佖、李演率騎軍,史萬頃領步卒,直抵苑墻神麚村。晟先是夜使人開苑墻二百余步,至是賊已樹木柵之,賊倚柵拒戰。晟叱軍士曰:「安得縱賊如此,當先斬公等!」萬頃懼,先登,拔柵而入,王佖騎軍繼進,賊即奔潰,獲賊將段誠諫,大軍分道並入,鼓噪雷動。姚令言、張庭芝、李希倩猶力捍官軍,晟令決勝軍使唐良臣、兵馬使趙光銑、楊萬榮、孟日華等步騎齊進,賊軍陣成而屢北。戰十余合,乘勝驅蹙,至於白華。忽有賊騎千余出於官軍之背,晟以麾下百余騎馳之,左右呼曰:「相公來!」賊聞之驚潰,官軍追斬,不可勝計。硃泚、姚令言、張庭芝尚有眾萬人,相率遁走,晟遣田子奇追之,其余兇黨相率來降。是日,晟軍入京城,勒兵屯於含元殿前,晟舍於右金吾仗,仍號令諸軍曰「晟實不武,上憑睿算,下賴士心,幸得殲厥兇渠,肅清宮禁,皆三軍之力也。長安士庶,久陷賊庭,若小有震驚,則非伐罪吊人之義也。晟與公等各有家室,離別數年,今已成功,相見非晚,五日內不得輒通家信,違命者斬。」乃遣京兆尹李齊運、攝長安令陳元眾、攝萬年令韋上伋告喻百姓,居人安堵,秋毫無所犯。尚可孤軍人有擅取賊馬者,晟大將高明曜虜賊女妓一人,司馬伷取賊馬二匹,晟皆立斬之,莫敢忤視。士庶無不感悅,鹹歔欷流涕,遠坊居人,亦有經宿方知者。二十九日,令孟涉屯於白華,尚可孤屯望仙門,駱元光屯章敬寺,晟自屯於安國寺。是日,斬賊將李希倩等八人,徇於市。

六月四日、李晟が賊を破った露布が梁州に届き、上はこれを見て感涙し、群臣も涙を流さぬ者なく、そこで万歳を称えて寿を上奏し、奏上して言うには、「李晟は聖なる謀略を虔しく奉じ、凶悪な賊を蕩滌いたしました。しかし古より勲功を立て、力を尽くして都邑を回復した者は、往々にしてありました。しかしながら、宗廟を驚かさず、市肆を変えず、長安人が旗鼓を識らず、安堵して当初の如きは、三代以来、未だこれ有りません」と。上は言われた、「天は李晟を生み、社稷と万民のためであって、朕のためではない」と。百官は拝賀して退いた。この日、李晟は偽りの宰相李忠臣・張光晟・蔣鎮・喬琳・洪経綸・崔宣らを斬り、また賊に屈せず臣節を守った者として程鎮之・劉乃・蔣沇・趙曄・薛岌らを上表した。

原文六月四日,晟破賊露布至梁州,上覽之感泣,群臣無不隕涕,因上壽稱萬歲,奏曰:「李晟虔奉聖謨,蕩滌兇醜。然古之樹勛,力復都邑者,往往有之;至於不驚宗廟,不易市肆,長安人不識旗鼓,安堵如初,自三代以來,未之有也。」上曰:「天生李晟,為社稷萬人,不為朕也。」百官拜賀而退。是日,晟斬偽相李忠臣、張光晟、蔣鎮、喬琳、洪經綸、崔宣等,又表守臣節不屈於賊者程鎮之、劉乃、蔣沇、趙曄、薛岌等。

李晟が初めて渭橋に駐屯した時、熒惑が歳星を守り、久しくしてようやく退いた。賓客や幕僚の中には勧めて言う者があった、「今熒惑は既に退き、皇家の利です。速やかに兵を用いるべきです」と。李晟は言った、「天子が外に在り、人臣はただ死節を尽くすべきであり、天象は玄遠である。我がどうして天道を知ろうか」と。この時に至り、参佐に謂って言った、「先に士大夫が李晟に出兵を勧めたが、敢えて拒んだのではない。軍はこれを用いることはできても、これを知らしめることはできないのである。嘗て聞くところによれば、五緯の盈縮は準がない。李晟は再び歳星を守ることを恐れ、そうなれば我が軍は戦わずして自ら潰えるであろう」と。参佐は嘆服し、皆言った、「及ぶところではありません」と。間もなく李晟は司徒しとに拝され、中書令を兼ね、実封一千戸を賜った。

原文晟初屯渭橋時,熒惑守歲,久之方退,賓介或勸曰:「今熒惑已退,皇家之利也,可速用兵。」晟曰:「天子外次,人臣但當死節,垂象玄遠,吾安知天道耶!」至是,謂參佐曰:「前者士大夫勸晟出兵,非敢拒也,且軍可用之,不可使知之。嘗聞五緯盈縮無準,晟懼復來守歲,則我軍不戰而自潰。」參佐嘆服,皆曰:「非所及也。」尋拜晟司徒,兼中書令,實封一千戶。

李晟は百司を整備するため総理し、大将の呉詵に兵三千を率いて宝鶏に至り道を清めさせた。李晟はまた鳳翔まで出迎え護衛することを請うたが、許されなかった。七月十三日、徳宗は興元より至り、渾瑊・韓遊瑰・戴休顔がその兵を率いて扈従し、李晟と駱元光・尚可孤がその兵を率いて奉迎した。当時、元従の禁軍及び山南・隴州・鳳翔の兵衆、歩騎合わせて十余万、旌旗は連亘すること数十里に及び、都中の士庶は傾いて道を挟み歓呼した。李晟は戎服で三橋に於いて謁見し、上は馬を駐めてこれを労った。李晟は再拝稽首し、まず元凶が殄滅され、宗廟が再び清まり、宮闈ことごとく粛然たることを賀し、手を打ち舞い感涙し、跪いて言った、「臣は爪牙の任を忝くし、早く妖逆を誅することができず、至って鑾輿が再遷されました。及び城隅に師を出し、累月を経てようやく賊寇を殄滅しましたが、これ皆、臣が庸懦にして職に任じえぬ責めです。敢えて死罪を請います」と。路左に伏した。上はこれがために涙をぬぐい、給事中の斉映に旨を宣させ、左右に命じて李晟を馬前より起こさせた。この月、殿に御して大赦を行い、李晟の父の欽に太子太保を贈り、母の王氏に代国夫人を贈り、永崇里の邸宅及び涇陽の上田・延平門の林園・女楽八人を賜った。邸宅に入る日、京兆府が供帳と酒饌を供し、教坊の楽具を賜り、鼓吹を以て迎導し、宰臣と節将がこれを送り、京師はこれを栄観とした。上は李晟の勲力を思い、紀功碑を制し、皇太子にこれを書かせ、石に刊して東渭橋に立て、天地と悠久ならしめ、また太子に碑詞を書かせて李晟に賜った。

原文晟綜理以備百司,令大將吳詵將兵三千至寶雞清道,晟又請至鳳翔迎扈,不許。七月十三日,德宗至自興元,渾瑊、韓遊瑰、戴休顏以其兵扈從,晟與駱元光、尚可孤以其兵奉迎。時元從禁軍及山南、隴州、鳳翔之眾,步騎凡十余萬,旌旗連亙數十里,傾城士庶,夾道歡呼。晟以戎服謁見於三橋,上駐馬勞之。晟再拜稽首,初賀元惡殄滅,宗廟再清,宮闈鹹肅,抃舞感涕,跪而言曰:「臣忝備爪牙之任,不能早誅妖逆,至鑾輿再遷。及師於城隅,累月方殄賊寇,皆臣庸懦不任職之責,敢請死罪。」伏於路左。上為之掩涕,命給事中齊映宣旨,令左右起晟於馬前。是月,禦殿大赦,贈晟父欽太子太保,母王氏贈代國夫人,賜永崇裏第及涇陽上田、延平門之林園、女樂八人。入第之日,京兆府供帳酒饌,賜教坊樂具,鼓吹迎導,宰臣節將送之,京師以為榮觀。上思晟勛力,制紀功碑,俾皇太子書之,刊石立於東渭橋,與天地悠久,又令太子書碑詞以賜晟。

李晟は涇州が辺境に接し、しばしば戎帥を害し、数々乱階を為すことを以て、上書して命に従わぬ者を処罰することを請い、兼ねて耕すことを備えて粟を積み、西蕃を攘却することを上奏し、上は皆これに従った。詔して李晟に鳳翔尹・鳳翔隴右節度使を兼ねさせ、なお隴右涇原節度使を充て、管内諸軍及び四鎮・北庭行営兵馬副元帥を兼管させ、西平郡王に改封した。初め、帝が奉天に在った時、鳳翔軍が乱を起こし、その帥の張鎰を殺し、小将の李楚琳を立てた。この時、楚琳は朝中に在ったが、李晟は楚琳を共に鳳翔へ行かせ、これを誅さんことを請うた。上は京師を回復したばかりで、反側の者を安んじようとしていたので、許さなかった。八月、李晟は鳳翔に至り、張鎰を殺した罪を断じ、王斌ら十余人を斬った。初め、硃泚の乱の時、涇州もまたその帥の馮河清を殺し、別将の田希鑒を立てた。当時は播遷に属し、討伐に遑がなく、涇帥の職を彼に授けた。この時に至り、李晟は奏上して言った、「近頃中原の兵禍は、皆涇州より起こりました。かつその地は西戎に迫り、反覆しやすい。希鑒は凶徒であり、将校は驕逆です。もしこれを懲革しなければ、終には後患となります」と。これに従った。李晟は鳳翔に至り、辺境を巡ると称して涇州に至り、希鑒が迎謁すると、座中でこれを捕らえて誅し、併せて河清を害した石奇ら三十余人を誅し、事の次第を具して上聞した。上は言われた、「涇州の乱逆の泉藪は、李晟でなければこれを治めることはできない」と。鎮に還り、右龍武将軍の李観を涇原節度使に表し、吐蕃はこれを深く畏れた。李晟は常に言った、「河・隴の陥落は、豈に吐蕃の力でこれを取ったのであろうか。皆将帥の貪暴により、種落が携貳し、人が耕稼を得ず、展転して東に徙り、自らこれを棄てたのである。かつ土地には絲絮がなく、人は征役に苦しみ、唐を思う心、豈に已むことがあろうか」と。そこで家財を傾けて降伏者を賞し、以てこれを懐来した。降虜の浪息曩を、李晟は上奏して王に封じ、蕃使が至る毎に、李晟は必ず息曩を座に置き、錦袍・金帯を着せて寵異した。蕃人は皆互いに指さし目で示し、息曩を栄羨した。

原文晟以涇州倚邊,屢害戎帥,數為亂階,乃上書請理不用命者,兼備耕以積粟,攘卻西蕃,上皆從之。詔以晟兼鳳翔尹、鳳翔隴右節度使,仍充隴右涇原節度,兼管內諸軍及四鎮、北庭行營兵馬副元帥,改封西平郡王。初,帝在奉天,鳳翔軍亂,殺其帥張鎰,立小將李楚琳。至是楚琳在朝,晟請以楚琳俱往鳳翔,將誅之,上以初復京師,方安反側,不許。八月,晟至鳳翔,理殺張鎰之罪,斬王斌等十余人。初,硃泚亂時,涇州亦殺其帥馮河清,立別將田希鑒,方屬播遷,不遑討伐,以涇帥授之。至是,晟奏曰:「近者中原兵禍,皆起涇州,且其地逼西戎,易為反覆。希鑒兇徒,將校驕逆,若不懲革,終為後患。」從之。晟至鳳翔,托以巡邊,至涇州,希鑒迎謁,於坐執而誅之,並誅害河清者石奇等三十余人,具事以聞。上曰:「涇州亂逆泉藪,非晟莫能理之。」還鎮,表右龍武將軍李觀為涇原節度使,吐蕃深畏之。晟常曰;「河、隴之陷也,豈吐蕃力取之,皆因將帥貪暴,種落攜貳,人不得耕稼,展轉東徙,自棄之耳。且土無絲絮,人苦征役,思唐之心,豈有已乎!」乃傾家財以賞降者,以懷來之。降虜浪息曩,晟奏封王,每蕃使至,晟必置息曩於坐,衣以錦袍、金帶以寵異之。蕃人皆相指目,榮羨息曩。

蕃相の尚結贊は頗る詐謀多く、特に李晟を憎んだ。そこで共に議して言った、「唐の名将は、李晟と馬燧・渾瑊のみである。この三人を去らなければ、必ず我が憂いとなろう」と。そこで反間を行い、使者を遣わして馬燧を介して和を請わせ、既に和すれば、即ち盟を請い、再び盟を介して渾瑊を虜にし、以て馬燧を売ることにした。貞元二年九月、吐蕃は尚結贊の計を用い、大いに兵を興して隴州に入り、鳳翔に抵ったが、何も虜掠せず、且つ言った、「我を召したのに、何故牛酒を以て犒労しないのか」と。徐々に引き去り、これを持って李晟を間した。この役に、李晟は先に衙将の王佖に鋭兵三千を選ばせ、汧陽に伏兵を設け、戒めて言った、「蕃軍が城下を過ぎる時、首尾を撃つな。首尾は仮に敗れても、中軍の力は全からん。もし勢いを合わせて汝を攻めれば、必ずその弊を受ける。ただその前軍が既に過ぎ、五方旗・武豹衣を見れば、それが中軍である。その不意を突けば、奇功を建てることができよう」と。王佖は李晟の節度の如くにし、果たして結贊に遇った。出て奮撃すると、賊は皆披靡し、王佖の軍は結贊を識らなかったので、結贊は辛うじて獲免した。十月、李晟は師を出して吐蕃の摧沙堡を襲い、これを抜き、その堡使の扈屈律悉蒙らを斬った。これより結贊は数度使者を遣わして和を乞うた。十二月、李晟は京師に朝し、奏上して言った、「戎狄に信なし、許すべからず」と。宰相の韓滉もまた李晟の議を支持し、軍糧を調達して李晟に給し、将に命じてこれを撃たんことを請うた。上は兵を厭い、将帥が事を生じて功を邀うることを疑った。時に韓滉が卒し、張延賞が政を執り、李晟と隙があった。延賞はしばしば上の前で李晟を間し、久しく兵を典とさせるべからずと述べた。延賞は劉玄佐・李抱真を用い、西北の辺事を委ね、以て功を立てさせて李晟を圧えんとした。徳宗はついに延賞の言を納れ、李晟の兵権を罷めた。三年三月、冊して李晟を太尉・中書令に拝したが、奉朝請のみであった。その年の閏五月、渾瑊と尚結贊が平涼に於いて同盟したが、果たして蕃兵に劫われ、渾瑊は単騎で辛うじて免れ、将吏は皆陥没した。六月、河東節度使の馬燧を罷めて司徒とし、尚結贊の謀略はことごとく的中した。

原文蕃相尚結贊頗多詐謀,尤惡晟,乃相與議云:「唐之名將,李晟與馬燧、渾瑊耳。不去三人,必為我憂。」乃行反間,遣使因馬燧以請和,既和,即請盟,復因盟以虜瑊,因以賣燧。貞元二年九月,吐蕃用尚結贊之計,乃大興兵入隴州,抵鳳翔,無所虜掠,且曰:「召我來,何不以牛酒犒勞?」徐乃引去,持是間晟也。是役也,晟先令衙將王佖選銳兵三千,設伏於汧陽,誡之曰:「蕃軍過城下,勿擊首尾,首尾縱敗,中軍力全,若合勢攻汝,必受其弊。但俟其前軍已過,見五方旗、武豹衣,則其中軍也,突其不意,可建奇功。」佖如晟節度,果遇結贊。及出奮擊,賊皆披靡,佖軍不識結贊,故結贊僅而獲免。十月,晟出師襲吐蕃摧沙堡,拔之,斬其堡使扈屈律悉蒙等,自是結贊數遣使乞和。十二月,晟朝京師,奏曰:「戎狄無信,不可許。」宰相韓滉又扶晟議,請調軍食以給晟,命將擊之。上方厭兵,疑將帥生事邀功。會滉卒,張延賞秉政,與晟有隙,屢於上前間晟,言不可久令典兵。延賞欲用劉玄佐、李抱真,委以西北邊事,俾立功以壓晟,德宗竟納延賞之言,罷晟兵柄。三年三月,冊拜晟為太尉、中書令,奉朝請而已。其年閏五月,渾瑊與尚結贊同盟於平涼,果為蕃兵所劫,瑊單馬僅免,將吏皆陷。六月,罷河東節度使馬燧為司徒,盡中尚結贊之謀。

李晟は兵権を罷められてより、朝謁の外には、めったに人と交際しなかった。通王府長史の丁瓊という者がおり、これも張延賞に排斥され、心中怨望を抱いていたが、李晟に求めて面会し事を言い、かつ曰く、「太尉の功業は極めて大なるも、なお兵権を罷められました。古より功高き者は、保全する者無し。国家に仮に変故あらば、瓊は左右に備えんことを願います。狡兎三穴、何ぞ早くこれを図らざる」と。李晟怒りて曰く、「汝、何ぞ不祥の言を出すや」と。急ぎ瓊を捕らえて上聞に及ぼした。四年三月、詔して李晟のために五廟を立てしめ、李晟の高祖こうその芝を以て隴州刺史を贈り、曾祖の嵩を以て澤州刺史を贈り、祖の思恭を以て幽州大都督ととくを贈った。廟が成ると、官が牲牢・祭器・床帳を給し、礼官が儀を相して以て祔した。

原文晟既罷兵權,朝謁之外,罕所過從。有通王府長史丁瓊者,亦為張延賞所排,心懷怨望,乃求見晟言事,且曰:「太尉功業至大,猶罷兵權,自古功高,無有保全者。國家倘有變故,瓊願備左右,狡兔三穴,盍早圖之。」晟怒曰:「爾安得不祥之言!」遽執瓊以聞。四年三月,詔為晟立五廟,以晟高祖芝贈隴州刺史,曾祖嵩贈澤州刺史,祖思恭贈幽州大都督。廟成,官給牲牢、祭器、床帳,禮官相儀以祔焉。

五年九月、李晟は侍中の馬燧と共に延英殿で見え、上はその勲力を嘉し、詔して曰く、「昔我が列祖は、乾坤の蕩滌に乗じ、隋季の荒屯を掃い、元を体し極を禦し、人の父母となる。則ちまた熊羆の士、二心なき臣有り、左右経綸し、参翊締構し、文徳を昭かにし、武功を恢め、威は若かず、康は乂かず、用て上帝に命を端し、四方に付畀す。宇宙既に清く、日月既に貞く、王業既に成り、太階既に平らかなり。乃ちその容を図り、この閣に列ね、績効を懋かに昭かにし、儀形を式として表し、一には朝夕に忘れず、一には来裔に永く垂れんとす。君臣の義、厚きことこれより重きは莫し。貞元己巳の歳秋九月、我西宮を行き、宏閣崇構を瞻み、老臣の遺象を見るに、颙然として肅然たり、和敬色に在り、雲龍の葉応を想い、致来の艱難を感ず。往を睹て今を思えば、類を取るに遠からず。且つ功は時と並び、才は代に為りて生ず。苟くもその才を蘊め、その時に遇えば、主を尊び人を庇うは、何の代か有らざらん。中宗に在りては、則ち桓彥範等その輔戴の績を著わし、玄宗に在りては、則ち劉幽求等翼奉の勛を申べ、肅宗に在りては、則ち郭子儀氛昆を掃殄し、今に在りては則ち李晟等朕が躬を保寧す。皆力を宣べ勤めを肆にして、宗社を光復す。前烈に訂するも、夫れ豈に多謝せん。闕けて録せざるは、孰か賢を旌ぐと謂わん。況んや功を念い徳を紀するは、文祖の為す所なり、予に在りて曷ぞ敢て怠らんや。有司宜しく年代の先後を叙し、各その像を旧臣の次に図り、仍て皇太子に朕が是の命を書かしめ、壁に紀せしむべし。庶くは嘉庸を播き、式として下に昭らかにし、俾くは後來の者尚ほ清顔を揖し、元勛の不朽なるを知らしめん」と。復た皇太子に命じてその文を書かせ李晟に賜い、李晟は石に刻んで門の左に置いた。

原文五年九月,晟與侍中馬燧見於延英殿,上嘉其勛力,詔曰:「昔我列祖,乘乾坤之蕩滌,掃隋季之荒屯,體元禦極,作人父母;則亦有熊羆之士,不二心之臣,左右經綸,參翊締構,昭文德,恢武功,威不若,康不乂,用端命於上帝,付畀四方。宇宙既清,日月既貞,王業既成,太階既平;乃圖厥容,列於斯閣,懋昭績效,式表儀形,一以不忘於朝夕,一以永垂乎來裔,君臣之義,厚莫重焉。貞元己巳歲秋九月,我行西宮,瞻宏閣崇構,見老臣遺象,颙然肅然,和敬在色,想雲龍之葉應,感致來之艱難。睹往思今,取類非遠。且功與時並,才為代生,茍蘊其才,遇其時,尊主庇人,何代不有?在中宗,則桓彥範等著其輔戴之績;在玄宗,則劉幽求等申翼奉之勛;在肅宗,則郭子儀掃殄氛昆;今則李晟等保寧朕躬。咸宣力肆勤,光復宗社。訂之前烈,夫豈多謝,闕而未錄,孰謂旌賢。況念功紀德,文祖所為也,在予曷其敢怠!有司宜敘年代先後,各圖其像於舊臣之次,仍令皇太子書朕是命,紀於壁焉。庶播嘉庸,式昭於下,俾後來者尚揖清顏,知元勛之不朽。」復命皇太子書其文以賜晟,晟刻石於門左。

初め、李晟が鳳翔に在った時、賓介に謂って曰く、「魏徴は能く直言極諫し、太宗を堯・舜の上に致した。真の忠臣なり、僕の慕う所なり」と。行軍司馬の李叔度対えて曰く、「これは搢紳儒者の事にして、勲徳の宜しくする所に非ず」と。李晟は容を斂めて曰く、「行軍、言を失えり」と。伝に『邦に道有れば、言を危くし行いを危くす』と称す。今休明の期、李晟幸いに位を将相に備うるを得たり。心に不可なる有れば、忍びて言わざるは、豈に犯して隠れ無く、知りて為さざる無き者と謂うべけんや。是非は人主の択ぶ所に在るのみ」と。叔度慚じて退く。故に李晟が相と為りては、毎に上に顧問せらるるに当たり、必ず極言して躬を匪にす。大臣の節を尽くした。性沈黙にして、未だ嘗て親しき所に泄らさず。下に臨むこと明察にして、毎に軍を理むるに、必ず曰く某は労有り、某はその事を能くすと、厮養の小善と雖も、必ず姓名を記す。特に下の朋党を為して相構うるを悪み、善を好み悪を嫉むこと、天性に出づ。嘗て恩有る者有れば、厚くこれを報いた。初め、譚元澄が嵐州刺史と為り、嘗て李晟に恩有り、後に坐して岳州に貶せられた。李晟の貴ぶに及び、上疏してこれを理め、詔して元澄に寧州刺史を贈った。元澄の三子、李晟は撫待すること勤めて至り、皆為に宦学を成就せしめ、人皆これを義とした。家を理むること以て厳と称せられ、諸子・侄は晨昏に非ざれば謁見するを得ず、言公事に及ばず、王氏の甥を己が子の如く視た。嘗て正歳に、崔氏の女帰省す、未だ階に及ばずして、李晟これを卻けて曰く、「爾に家あり、況んや姑堂に在り。婦は当に酒醴を奉じ饋に従い、以て賓客を待つべし」と。遂に視ずして家に還し遣わした。その礼に達し教を敦くするこの如し。貞元九年八月薨じ、時に年六十七。上震悼して涕を出だし、朝を五日廃し、百官をして第に就きて臨吊せしめ、京兆尹の李充に命じて喪事を監護せしめ、官葬具を給し、賵賻を加等した。大斂に及び、上自ら手書して意を致し、柩の前に送りて曰く、

原文初,晟在鳳翔,謂賓介曰:「魏征能直言極諫,致太宗於堯、舜之上,真忠臣也,仆所慕之。」行軍司馬李叔度對曰:「此搢紳儒者之事,非勛德所宜。」晟斂容曰:「行軍失言。」傳稱『邦有道,危言危行」。今休明之期,晟幸得備位將相,心有不可,忍而不言,豈可謂有犯無隱,知無不為者耶!是非在人主所擇耳。」叔度慚而退。故晟為相,每當上所顧問,必極言匪躬。盡大臣之節。性沈默,未嘗泄於所親。臨下明察,每理軍,必曰某有勞,某能其事,雖廝養小善,必記姓名。尤惡下為朋黨相構,好善嫉惡,出於天性。嘗有恩者,厚報之。初,譚元澄為嵐州刺史,嘗有恩於晟,後坐貶於岳州;比晟貴,上疏理之,詔贈元澄寧州刺史。元澄三子,晟撫待勤至,皆為成就宦學,人皆義之。理家以嚴稱,諸子侄非晨昏不得謁見,言不及公事,視王氏甥如己子。嘗正歲,崔氏女歸省,未及階,晟卻之曰:「爾有家,況姑在堂,婦當奉酒醴從饋,以待賓客。」遂不視而遣還家,其達禮敦教如此。貞元九年八月薨,時年六十七。上震悼出涕,廢朝五日,令百官就第臨吊,命京兆尹李充監護喪事,官給葬具,赗賻加等。比大斂,上手書致意,送柩前,曰:

皇帝、宮闈令の第五守進を遣わして旨を故太尉・中書令・西平郡王・贈太師の霊に致すに曰く、「天我が邦を祚し、是れ才傑を生む。陰陽の粹気を稟け、実に山嶽の降霊なり。患難を弘済し、王室を保佐す。氛昆を掃蕩し、上京を廓清す。忠誠人神に感じ、功業社稷に施す。時に匡え乱を定むるは、実に元勛に頼る。上臺を領するに及び、克く中外に諧い、帝道を訏謨し、皇猷を葉贊す。常に嘉言を竭くして、以て不迨を匡う。情親重する所、義間然無し。方に国と同休せんことを期し、永く邦翰と為らんとす。比に疾恙を嬰るも、旬時を歴ると雖も、日に冀う痊除を、重ねて相見するを期し、予の在位を弼け、終に和平を致さんことを。豈図らんや薬餌征無く、奄かに薨逝に至る。我が賢哲を喪い、我が股肱を虧く。天慭遺せず、痛惜何ぞ極まらん。嗚呼、大廈方に構えんとし、旋って棟梁を失う。巨川未だ済せず、遂に舟楫を亡う。君臣の義、追慟益々深し。遺章を循省すれば、感切倍増す。卿一門の胤嗣、朕必ず終始保持す。況んや願等の弟兄、卿の教訓を承く。朕の志義、豈に平生を忘れんや。縦え卿言わずと雖も、朕も亦信を存す。比者卿の日の在りしには、却って未だ朕が深心を見ず。今卿朕と長く乖くに方り、方に朕が誠誌を知らんことを冀う。以て念うこと無くんば、言を発して涕零る。是を用いて躬ら数行を述べ、貴ぶ所懐を書き尽くすを得しむ。紙に臨み使を遣わす、詞を飾ること能わず。魂にして知有らば、当に朕が意を体すべし。

原文皇帝遣宮闈令第五守進致旨於故太尉、中書令、西平郡王、贈太師之靈曰:「天祚我邦,是生才傑,稟陰陽之粹氣,實山嶽之降靈。弘濟患難,保佐王室:掃蕩氛昆,廓清上京。忠誠感於人神,功業施於社稷,匡時定亂,實賴元勛。洎領上臺,克諧中外,訏謨帝道,葉贊皇猷。常竭嘉言,以匡不迨,情所親重,義無間然。方期與國同休,永為邦翰。比嬰疾恙,雖歷旬時,日冀痊除,重期相見,弼予在位,終致和平。豈圖藥餌無征,奄至薨逝,喪我賢哲,虧我股肱,天不慭遺,痛惜何極,嗚呼!大廈方構,旋失棟梁;巨川未濟,遂亡舟楫。君臣之義,追慟益深,循省遺章,倍增感切。卿一門胤嗣,朕必終始保持。況願等弟兄,承卿教訓,朕之誌義,豈忘平生?縱卿不言,朕亦存信。比者卿在之日,卻未見朕深心,今卿與朕長乖,方冀知朕誠誌。無以為念,發言涕零,是用躬述數行,貴寫所懷得盡。臨紙遣使,不能飾詞,魂而有知,當體朕意。

冊して太師を贈り、謚して忠武と曰う。李晟の薨じた後、塩州を城し、塩池を復す。上宰臣に新塩を賜い、惻然として李晟を思い、乃ち塩を霊座に致すことを令した。又時に中使を李晟の第に遣わして諸子を存撫せしめ、教戒備わり至り、願等に一善有るを聞けば、上喜色に形れた。眷遇終始、李晟に比ぶる者無し。

原文冊贈太師,謚曰忠武。晟薨後,城鹽州,復鹽池,上賜宰臣新鹽,惻然思晟,乃令致鹽於靈座。又時遣中使至晟第存撫諸子,教戒備至,聞願等有一善,上喜形於色。眷遇終始,無與晟比。

元和四年、詔して曰く、「夫れ社稷を定め、生人を済し、不朽の名を存し、久しき可き業を垂るる者は、必ず殊常の寵を以て報い、親比の恩を以て待ち、国と窮まり無くするは、時に惟れ茂典なり。故に奉天定難功臣・太尉・兼中書令・上柱国・西平郡王・食実封一千五百戸・贈太師李晟は、間代の英賢、天よりの忠義、時に済うの宏算を邁し、武を経るの長材を抱き、至誠に貫かれ、一徳に協い、嘗て屯難の際に遭い、実に戡定の功を著わす。鯨鯢既に殲び、宮廟斯く復す。この勲伐を眷みれば、則ち既に褒崇す。永く天歩の夷きを言い、載せて邦傑の功を懐えば、往烈に崇を加えんことを思ひ、爰に後昆に比を協せんとす。宗親を以て睦ましめ、予が厚意を将とす。その家宜しく令して属籍に編附せしむべし。李晟は徳宗の廟庭に饗る」と。

原文元和四年,詔曰:「夫能定社稷,濟生人,存不朽之名,垂可久之業者,必報以殊常之寵,待以親比之恩,與國無窮,時惟茂典。故奉天定難功臣、太尉、兼中書令、上柱國、西平郡王、食實封一千五百戶、贈太師李晟,間代英賢,自天忠義,邁濟時之宏算,抱經武之長材,貫以至誠,協於一德,嘗遭屯難之際,實著戡定之功。鯨鯢既殲,宮廟斯復,眷茲勛伐,則既褒崇。永言天步之夷,載懷邦傑之功,思加崇於往烈,爰協比於後昆,睦以宗親,將予厚意。其家宜令編附屬籍。晟饗德宗廟庭。」

李晟十五子:侗・伷・偕は、祿無く早世す。次に願・聰・總・愻・憑・恕・憲・愬・懿・聽・惎・慇。聰・總は官卑くして卒す。而して願・愬・聽最も知名なり。

原文晟十五子:侗、伷、偕,無祿早世;次願、聰、總、愻、憑、恕、憲、愬、懿、聽、惎、慇,聰、總官卑而卒,而願、愬、聽最知名。

子 願

原文子 願

李願は幼少より謙虚で慎み深く過失が少なく、李晟が大功を立てたが、諸子はなお官位がなかったので、宰相が奏上して陳べると、徳宗は即日に李願を召して銀青光禄大夫・太子賓客・上柱國に拝した。旧制では、勲位が上柱國に至れば門戟を賜うことになっており、即座に李願に賜うことを命じ、ついに父とともに門に棨戟を並べた。九年、父の喪に服す。十二年、喪が明け、徳宗は延英殿で李願らを召見し、しばらく哀れんで言うには、「朕は宮中において、常に卿らを思い、勲功と徳行を追懐し、一日として忘れたことはない。また卿らが喪に服するに礼を得ていると聞き、朕は甚だこれを嘉する」と。各々に衣一襲・絹三千匹を賜う。李願は前の通り太子賓客に任じられ、兄弟が同日に官を拝した者は九人であった。まもなく左衛大將軍に転ず。元和元年八月、檢校禮部尚書を兼ね、夏州刺史・夏綏銀宥等州節度使となり、威令は簡素で厳粛、綏撫懐柔の術をよく得ていた。客で馬を亡くした者がおり、その旨を李願に告げると、李願はその旨を道に掲示し、金を懸けてこれを購った。三日と経たぬうちに、亡くした馬がその掲示の下に繋がれており、なお書状一通を添えてあった。「馬が群れに紛れて逸走し、直ちに告げず、罪は死に当たる。敢えて良馬一匹をもって罪を贖い、併せて亡くした馬を謹んで道に納める」と。李願は客に亡くした馬を渡し、その良馬を放った。境内は厳粛で、多くこの類いであった。徐州刺史・武寧軍節度使に転ず。鎮に到着し、青・鄆が恭順でないため、命を受けて討伐し、城邑を屠り、勝利の奏上をしばしば聞かせた。まもなく、病を得て、その弟の李愬に代わって徐帥とさせ、入朝して刑部尚書となる。病が癒え、檢校尚書左僕射を兼ね、鳳翔尹・鳳翔隴右節度使となる。しかしこれより以後は政務にやや怠り、もとの志を失い、声色のほかは、全く意に介さなかった。

原文願,幼謙謹寡過,晟立大勛,諸子猶無官,宰相奏陳,德宗即日召願拜銀青光祿大夫、太子賓客、上柱國。舊制,勛至上柱國,賜門戟,即令賜願,乃與父並列棨戟於門。九年,丁父憂。十二年,服闋,德宗召見願等於延英,憫然久之曰:「朕在宮中,常念卿等,追懷勛德,何日忘之。又聞卿等居喪得禮,朕甚嘉之。」各賜衣一襲、絹三千匹。願依前授太子賓客,兄弟同日拜官者九人。尋轉左衛大將軍。元和元年八月,檢校禮部尚書,兼夏州刺史、夏綏銀宥等州節度使,威令簡肅,甚得綏懷之術。客有亡馬者,以狀告願,願以狀榜於路,懸金以購之。不三日,所亡馬系之榜下,仍置書一緘曰:「馬逸及群,不時告,罪當死,敢以良馬一匹贖罪,並亡馬謹納於路。」願付客亡馬而縱其良馬。境內嚴肅,多如此類。轉徐州刺史、武寧軍節度。到鎮,以青、鄆不恭,奉命討伐,屠城下邑,捷奏屢聞。無何,有疾,以其弟愬代為徐帥,入為刑部尚書。疾愈,檢校尚書左僕射,兼鳳翔尹、鳳翔隴右節度使。然自是頗怠於為理,無復素誌,聲色之外,全不介懷。

長慶二年二月、檢校司空しくうを兼ね、汴州刺史・宣武軍節度使となる。先に、張弘靖が汴帥であった時、厚く賞与して兵士の心を安んじていた。李願が至った時には、府庫はすでに尽きており、李願はその奢侈を恣にし、門内数百口が官の供給に頼り、軍政を顧みず、賞与は張弘靖の時には及ばなかったが、威刑をもって下を統御した。また妻の弟の竇緩に親兵を率いさせたが、竇緩もまた驕傲で財貨を貪り、これによって衆情は怨みを募らせた。この年の七月四日の夜、牙将の李臣則・薛誌忠・秦鄰ら三人が宿直し、突如として竇緩の帳中に突入し、竇緩の首を斬って示衆した。李願は変事があると聞き、左右数人とともに髪を振るい走り、子城の北楼に登り、縄で懸垂して降り、水門から出た。夜明け頃までに、十数里を行き、野人(百姓)が驢を追っているのに出会い、奪って乗り、鄭州に至ることができた。李願の妻の竇氏は乱兵の手に死に、子三人は隠れて害を免れ、僕妾は軍士に捕らえられた。城中は三日間大いに掠奪し、ついにその牙将の李〓を留後として立て、旌節を求めたが、一月余りして、ようやくこれを誅した。李願は坐して随州刺史に貶せられた。朝廷は李晟の勲功を思い、ついに罪を加えず、入朝して左金吾衛大將軍となる。長慶四年六月、再び檢校司空を兼ね、河中尹となり、河中・晉・絳・慈・隰節度使を充任する。河中の政もまた岐・梁のようであった。これに加えて李願は権幸に結び付き、厚く賄賂を贈り、賦税の収入は尽きるに従い、軍府は寂然としてしまい、急病で終わったことに頼った。そうでなければ、蒲の人々には必ず変事があったであろう。寶應元年六月卒す。司徒を贈られる。

原文長慶二年二月,檢校司空,兼汴州刺史、宣武軍節度使。先是,張弘靖為汴帥,以厚賞安士心。及願至,帑藏已竭,而願恣其奢侈,門內數百口,仰給官司,不恤軍政,賞賚不及弘靖時,而以威刑馭下。又令妻弟竇緩將親兵,緩亦驕傲黷貨,以是群情聚怨。是歲七月四日夜,牙將李臣則、薛誌忠、秦鄰等三人宿直,突入竇緩帳中,斬緩首以徇。願聞有變,與左右數人露發而走,登子城北樓,懸縋而下,由水竇而出。比曉,行十數里,遇野人驅驢,奪而乘之,得至鄭州。願妻竇氏死於亂兵之手,子三人匿而獲免,仆妾為軍士所俘。城中大掠三日,乃立其牙將李〓為留後,以邀旄鉞,月余,方誅之。願坐貶隨州刺史。朝廷念晟之勛,終不加罪,入為左金吾衛大將軍。長慶四年六月,復檢校司空,兼河中尹,充河中、晉、絳、慈、隰節度使。河中之政,亦如岐、梁。加以願結托權幸,厚行賂遺,賦入隨盡,軍府蕭然,賴遽疾終,不爾,蒲人必有更變。寶應元年六月卒,贈司徒。

子に李愬あり。

原文子 愬

李愬は父の蔭により起家し、太常寺協律郎を授かり、衛尉少卿に遷る。李愬は早くに実母を失い、晉國夫人王氏に養育された。王氏が卒すると、李晟は本来正室ではないとして、緦麻の喪服を着るよう命じたが、号哭して忍びず、李晟はこれに感じ、ついに縗服を着ることを許した。小祥の祭の後、父の喪に服す。李愬は次弟の李憲とともに墓の傍らに廬を結んだが、徳宗は許さず、詔を下して邸に帰るよう命じた。一晩留まった後、徒跣で再び往き、上(皇帝)は奪い難いと知り、ついに喪に服し終えることを許した。喪が明け、右庶子を授かり、少府監・左庶子に転ず。出て坊・晉二州刺史となる。治績行状が殊に優れていたため、金紫光禄大夫を加えられる。再び庶子となり、累遷して太子詹事・宮苑閑廊使に至る。

原文愬以父廕起家,授太常寺協律郎,遷衛尉少卿。愬早喪所出,保養於晉國夫人王氏,及卒,晟以本非正室,令服緦,號哭不忍,晟感之,因許服缞。既練,丁父憂,愬與仲弟憲廬於墓側,德宗不許,詔令歸第。居一宿,徒跣復往,上知不可奪,遂許終制。服闋,授右庶子,轉少府監、左庶子。出為坊、晉二州刺史。以理行殊異,加金紫光祿大夫。復為庶子,累遷至太子詹事,宮苑閑廊使。

李愬には籌略があり、騎射を善くした。元和十一年、兵を用いて蔡州の呉元済を討つ。七月、唐鄧節度使の高霞寓が戦いに敗れ、また袁滋を帥に命じたが、袁滋もまた功がなかった。李愬は表を上って自らを陳べ、軍前で自ら効力を尽くすことを願った。宰相の李逢吉もまた李愬の才を用いることができると考え、ついに檢校左散騎常侍を兼ね、鄧州刺史・御史大夫となり、随・唐・鄧節度使を充任する。兵士は敗北の余り、気勢が傷つき沮喪していた。李愬はその情況を推し量り、軍陣を整えず、部隊を揃えなかった。ある者が整えていないことを言うと、李愬は言う、「賊はちょうど袁尚書の寛大で容易なことを安んじている。私は彼らに備えを改めさせたくない」と。ついに三軍に告げて欺いて言うには、「天子は李愬が柔和で恥を忍ぶことを知り、故に汝らを撫養するよう命じられた。戦うことは、私の仕事ではない」と。軍衆は信じてこれを喜んだ。李愬はまたその優人や楽人を散らし、宴楽することはなく、士卒で傷ついた者は自らこれを慰撫した。賊はかつて高・袁の二帥を破り、また李愬の名位は畏れ憚るに足らない者と考え、あまりその備えを増さなかった。李愬は沈着勇敢で遠謀があり、誠意をもって士を待ったので、その卑弱な勢いを用いて、賊の不意を衝くことができた。半年ほど経ち、人を用いることができると知り、ついに蔡を襲うことを謀り、表を上って援軍を請うた。詔により河中・鄜坊の騎兵二千人を増し与えられ、これによって器械を整え補い、密かに軍事を計画した。かつて賊将の丁士良を捕らえ、召し入れて語ると、言辞気概が屈せず、李愬はこれを異とし、ついにその縛を解き、捉生将に置いた。士良はこれに感じ、ついに言う、「賊将の呉秀琳は数千の衆を総べ、急に破ることができないのは、陳光洽の謀を用いているからである。士良は光洽を擒らえて秀琳を降すことができる」と。李愬はこれに従い、果たして光洽を擒らえた。十二月、呉秀琳が文成柵の兵三千をもって降る。李愬はついに直ちにこれを新興柵に移し、ついに秀琳の衆をもって呉房県を攻め、その外城を収めた。初め、呉房を攻めようとした時、軍吏が言うには、「往亡の日です。避けることを請います」と。李愬は言う、「賊は往亡の日に我が来ないと思っている。正に撃つべきである」と。戦いとなり、勝利して帰った。賊は驍騎五百をもって李愬を追った。李愬は馬を下りて胡床に据え、衆に悉く力を尽くして戦いに赴かせ、賊将の孫忠憲を射殺して、ようやく退いた。ある者が李愬に呉房を抜くよう勧めたが、李愬は言う、「これを取れば賊は勢いを合わせてその巣穴を固めるであろう。これを留めてその力を分かつに如かず」と。

原文愬有籌略,善騎射。元和十一年,用兵討蔡州吳元濟。七月,唐鄧節度使高霞寓戰敗,又命袁滋為帥,滋亦無功。愬抗表自陳,願於軍前自效。宰相李逢吉亦以愬才可用,遂檢校左散騎常侍,兼鄧州刺史、御史大夫,充隨、唐、鄧節度使。兵士摧敗之余,氣勢傷沮,愬揣知其情,乃不肅軍陣,不齊部伍。或以不肅為言,愬曰:「賊方安袁尚書之寬易,吾不欲使其改備。」乃紿告三軍曰;「天子知愬柔而忍恥,故令撫養爾輩。戰者,非吾事也。」軍眾信而樂之。愬又散其優樂,未嘗宴樂,士卒傷痍者,親自撫之。賊以嘗敗高、袁二帥,又以愬名位非所畏憚者,不甚增其備。愬沈勇長算,推誠待士,故能用其卑弱之勢,出賊不意。居半歲,知人可用,乃謀襲蔡,表請濟師。詔河中、鄜坊騎兵二千人益之,由是完緝器械,陰計戎事。嘗獲賊將丁士良,召入與語,辭氣不撓,愬異之,因釋其縛,置為捉生將。士良感之,乃曰:「賊將吳秀琳總眾數千,不可遽破者,用陳光洽之謀也。士良能擒光洽以降秀琳。」愬從之,果擒光洽。十二月,吳秀琳以文成柵兵三千降。醖乃徑徙之新興柵,遂以秀琳之眾攻吳房縣,收其外城。初,將攻吳房,軍吏曰:「往亡日,請避之。」愬曰:「賊以往亡謂吾不來,正可擊也。」及戰,勝捷而歸。賊以驍騎五百追愬,愬下馬據胡床,令眾悉力赴戰,射殺賊將孫忠憲,乃退。或勸愬遂拔吳房,愬曰:「取之則合勢而固其穴,不如留之以分其力。」

初めに、呉秀琳が降伏した際、李愬は単騎で柵の下に至り彼と語り、自らその縛を解き、衙将に任じた。秀琳は恩を感じ、必ず報いようと期し、李愬に言うには、「もし賊を破らんと欲せば、李祐を得るを須う。某は能く為すこと無し」と。李祐は、賊の騎将にして、胆略有り、興橋柵を守り、常に官軍を侮り易くし、往来備え難し。李愬はその将史用誠を召して誡めて曰く、「今、李祐は衆を率いて張柴にて麦を獲る。汝は三百騎を以て傍らの林中に伏せ、又、前にて旆を揺らし、将に麦を焚かんとするを示せ。李祐は平素我が軍を易しとす、必ず軽んじて来たり逐う。汝は軽騎を以て之を搏てば、必ず李祐を獲ん」と。用誠等、其の料の如くにして、果たして李祐を擒えて還る。官軍は常に李祐に苦しめられ、皆殺すを請うたが、李愬は聴かず、縛を解き客礼を以て之に接す。李愬は隙を乗じて常に李祐及び李忠義を召し、人を屏いて語り、或いは夜分に至る。忠義も亦た降将なり、本名は憲、李愬が招致せし者なり。軍中多く李愬を諫むるも、李愬は益々李祐を寵す。始めて敢死者三千人を募りて突将と為し、李愬自ら教習す。李愬、呉元済を襲わんとす、会うに雨水有り、五月より七月に至るまで止まず、溝塍潰溢し、師を出すべからず。軍吏皆、李祐を殺さざるを以て言い、簡翰日々に至り、且つ賊の諜者を得て其の事を具に言うと云う。李愬、之を止むる術無く、乃ち李祐を抱きて泣きて曰く、「豈に天意此の賊を平げんと欲せざるか、何ぞ爾が一身衆口に奪わるるや」と。李愬は又、諸軍先に謗りを以て聞こえさせば、則ち李祐を全うすること能わざるを慮り、乃ち械にて京師に送り、先ず表して釈放を請い、且つ言うには、「必ず李祐を殺さば、則ち以て成功する者無からん」と。李祐の京に至るに及び、詔して釈放し李愬に還す。乃ち散兵馬使に任じ、佩刀せしめて巡警せしめ、帳中に出入りせしむるに、少しも猜閑無し。又、六院兵馬使に改む。旧軍令に、賊の諜者を匿う者は其の家を屠ると有りしを、李愬は其の令を除き、因って厚く之を遇す。諜者は反って情を以て李愬に告ぐ。李愬は益々賊中の虚実を知る。

原文初,吳秀琳之降,愬單騎至柵下與之語,親釋其縛,署為衙將。秀琳感恩,期於效報,謂愬曰:「若欲破賊,須得李祐,某無能為也。」祐者,賊之騎將,有膽略,守興橋柵,常侮易官軍,去來不可備。愬召其將史用誠誡之曰:「今祐以眾獲麥於張柴,爾可以三百騎伏旁林中,又使搖旆於前,示將焚麥者。祐素易我軍,必輕而來逐,爾以輕騎搏之,必獲祐。」用誠等如其料,果擒祐而還。官軍常苦祐,皆請殺之,愬不聽,解縛而客禮之。愬乘間常召祐及李忠義,屏人而語,或至夜分。忠義,亦降將也,本名憲,愬致之。軍中多諫愬,愬益寵祐。始募敢死者三千人以為突將,醖自教習之。愬將襲元濟,會雨水,自五月至七月不止,溝塍潰溢,不可出師。軍吏鹹以不殺祐為言,簡翰日至,且言得賊諜者具言其事。愬無以止之,乃持祐泣曰:「豈天意不欲平此賊,何爾一身見奪於眾口!」愬又慮諸軍先以謗聞,則不能全祐,乃械送京師,先表請釋,且言:「必殺祐,則無以成功者。」比祐至京,詔釋以還愬,乃署為散兵馬使,令佩刀巡警,出入帳中,略無猜閑。又改為六院兵馬使。舊軍令,有舍賊諜者屠其家,愬除其令,因使厚之,諜反以情告愬,愬益知賊中虛實。

陳許節度使李光顔は勇諸軍に冠たり、賊は悉く精卒を以て光顔に抗す。是れ由りて李愬は其の無備に乗じ、十月、蔡州を襲わんとす。其の月七日、判官鄭澥をして師期を裴度に告げしむ。十日夜、李祐に突将三千を率いしめて先鋒と為し、李忠義之を副え、李愬自ら中軍三千を帥い、田進誠に後軍三千を以て殿として行かしむ。初め文成柵を出で、衆、向かう所を請う。李愬曰く、「東六十里に止まる」と。賊境に至り、張柴砦と曰う。其の戍卒を尽く殺し、軍士に少しく休息せしめ、羈靮甲冑を繕い、刃を発し弓を彀い、復た旆を建てて出づ。是の日、陰晦雨雪し、大風旗旆を裂き、馬は慄して躍る能わず、士卒は寒さに苦しみ、戈を抱きて僵仆する者道路相望む。其の川沢梁逕の険夷、張柴より已東は、師人は未だ嘗て其の境を蹈まず、皆、身を不測に投ずると謂う。初め張柴に至りし時、諸将、止まる所を請う。李愬曰く、「蔡州に入りて呉元済を取るなり」と。諸将は色を失う。監軍使は哭きて言うには、「果たして李祐の計中に落つ」と。李愬は聴かず、促して進軍を令す。皆、必ず生還せずと謂うも、然れども已に李愬の令に従い、敢えて身の計を為す者無し。李愬、道を分かち五百人をして洄曲路の橋を断たしむ。其の夜、凍死者十二三。又、五百人を分かちて朗山路を断たしむ。張柴より七十里を行き、懸瓠城に至るに比し、夜半、雪愈甚だし。城の近くに鵝鴨池有り、李愬、驚き撃たしめて、以て其の声を雑えしむ。賊は呉房・朗山の固きを恃み、晏然として一人として知る者無し。李祐・李忠義、墉に坎を穿ちて先登し、敢えて鋭き者之に従う。守門の卒を尽く殺して其の門に登り、柝を撃つ者を留む。黎明、雪亦止む。李愬入り、元済の外宅に止まる。蔡の吏、元済に告げて曰く、「城已に陥ちたり」と。元済曰く、「是れ洄曲の子弟帰りて寒衣を求むるのみ」と。俄かに李愬軍の号令将士するに「常侍伝語す」と云うを聞く。乃ち曰く、「何ぞ常侍の此に至るを得んや」と。遂に左右を駆り率いて子城に乗りて拒捍す。田進誠、兵を以て環らして之を攻む。李愬、元済なお董重質の来り救わんことを望むを計り、乃ち重質の家を訪ねて安恤せしめ、其の家人をして書を持たしめて重質を召さしむ。重質、単騎にして李愬に帰す。白衣にて泥首す。李愬、客礼を以て之を待つ。田進誠、子城南門を焚く。元済、城上にて罪を請う。進誠、梯を以て之を下す。乃ち檻車にて京師に送る。其の申・光二州及び諸鎮の兵尚二万余人、相次いで来降す。

原文陳許節度使李光顏勇冠諸軍,賊悉以精卒抗光顏。由是愬乘其無備,十月,將襲蔡州。其月七日,使判官鄭澥告師期於裴度。十日夜,以李祐率突將三千為先鋒,李忠義副之,愬自帥中軍三千,田進誠以後軍三千殿而行。初出文成柵,眾請所向,愬曰:「東六十里止。」至賊境,曰張柴砦,盡殺其戍卒,令軍士少息,繕羈靮甲胄,發刃彀弓,復建旆而出。是日,陰晦雨雪,大風裂旗旆,馬栗而不能躍,士卒苦寒,抱戈僵仆者道路相望。其川澤梁逕險夷,張柴已東,師人未嘗蹈其境,皆謂投身不測。初至張柴,諸將請所止,愬曰:「入蔡州取吳元濟也。」諸將失色。監軍使哭而言曰:「果落李祐計中!」愬不聽,促令進軍,皆謂必不生還,然已從愬之令,無敢為身計者。醖道分五百人斷洄曲路橋,其夜凍死者十二三。又分五百人斷朗山路。自張柴行七十里,比至懸瓠城,夜半,雪愈甚。近城有鵝鴨池,愬令驚擊之,以雜其聲。賊恃吳房、朗山之固,晏然無一人知者。李祐、李忠義坎墉而先登,敢銳者從之,盡殺守門卒而登其門,留擊柝者。黎明,雪亦止,愬入,止元濟外宅。蔡吏告元濟曰:「城已陷矣。」元濟曰:「是洄曲子弟歸求寒衣耳。」俄聞愬軍號令將士云:「常侍傳語。」乃曰:「何常侍得至於此?」遂驅率左右乘子城拒捍。田進誠以兵環而攻之。愬計元濟猶望董重質來救,乃令訪重質家安恤之,使其家人持書召重質。重質單騎而歸愬,白衣泥首,愬以客禮待之。田進誠焚子城南門,元濟城上請罪,進誠梯而下之,乃檻送京師。其申、光二州及諸鎮兵尚二萬余人,相次來降。

元済の就擒より以来、李愬一人も戮さず。其の元済に執事し帳下厨廄の間に在りし者は、皆其の職を復し、之をして疑わざらしむ。乃ち兵を屯めて鞠場にて裴度を待つ。翌日、度至る。李愬、櫜鞬を具えて度の馬首に候う。度将に之を避けんとす。李愬曰く、「此の方、上下等威の分を知らず久し。公に因りて以て之を示さんことを請う」と。度、宰相の礼を以て李愬の迎謁を受く。衆皆聳観す。明日、李愬の軍、文成柵に還る。十一月、詔して李愬を以て検校尚書左僕射、兼ねて襄州刺史・山南東道節度・襄鄧随唐復郢均房等州観察等使・上柱国と為し、涼国公に封じ、食邑三千戸、食実封五百戸、一子を五品正員とす。

原文自元濟就擒,愬不戮一人,其為元濟執事帳下廚廄之間者,皆復其職,使之不疑。乃屯兵鞠場以待裴度。翌日,度至,愬具櫜鞬候度馬首。度將避之,愬曰:「此方不識上下等威之分久矣,請公因以示之。」度以宰相禮受愬迎謁,眾皆聳觀。明日,愬軍還於文成柵。十一月,詔以愬檢校尚書左僕射,兼襄州刺史、山南東道節度、襄鄧隨唐復郢均房等州觀察等使、上柱國,封涼國公,食邑三千戶,食實封五百戶,一子五品正員。

憲宗、隴右の故地を復せんと意有り。元和十三年五月、李愬を鳳翔隴右節度使に授く。仍て詔して路を闕下に由らしむ。李愬未だ発せず、李師道の再叛に属す。詔して田弘正・義成・宣武等の軍をして之を討たしむ。乃ち李愬を移して徐州刺史・武寧軍節度使と為し、其の兄の願に代わらしむ。兄弟、岐・徐二鎮を交換す。旬日の間に再び父兄の任を践む。李愬、徐方に至り、兵を理むるに方略有り。時に蔡の将董重質、春州司戸に貶せらる。李愬、表を上りて重質を恕し賜わり、軍前に駆使に堪うるを請う。即ち詔して征還し武寧軍に送らしむ。李愬乃ち牙将に任ず。李愬、賊を金郷に破る。凡そ十一戦、賊将五十を擒え、俘斬万計。淄青平ぐ。将に燕・趙に事有らんとす。元和十五年九月、李愬を以て検校左僕射・同中書門下平章事・潞州大都督府長史・昭義節度使と為し、仍て興寧裏の第を賜う。十月、王承宗卒す。魏博の田弘正、鎮州に移任す。李愬、潞州に至り、四月、魏州大都督府長史・魏博節度使に遷る。長慶元年、幽・鎮復た乱る。李愬之を聞き、素服を以て三軍に令して曰く、「魏人の富庶にして能く聖化を通知する所以は、田公の故なり。天子其の仁にして人を愛するを以てし、鎮・冀を理めしむ。且つ田公は魏より出づ。師を撫すること七年、一旦鎮人の道無きや、敢えて茲に残害し、魏を以て人無きと為す。若し父兄子弟田公の恩を食む者は、其れ何を以てか報いん」と。衆皆慟哭す。又、玉帯・宝剣を牛元翼に与え、使者を遣わして之に謂いて曰く、「吾が先人は常に此の剣を以て大勲を立て、吾又此の剣を以て蔡寇を平ぐ。今、鎮人叛逆す。公此を以て之を翦らん」と。元翼、命を承けて感激し、乃ち剣及び帯を以て軍中に令し、報えて曰く、「願わくは衆を以て従い、其の死力を竭さん」と。方に制置せんとす、会うに疾発作して、軍を治むる能わず。人紀律に違い、功遂に成ること無し。朝廷、田布を以て之に代え、太子少保を除き、東都に帰す。是の年十月、洛陽らくように卒す。時に年四十九。穆宗之を聞き震悼し、賻賵を加等し、太尉を贈る。

原文憲宗有意復隴右故地,元和十三年五月,授愬鳳翔隴右節度使,仍詔路由闕下。愬未發,屬李師道再叛,詔田弘正、義成、宣武等軍討之,乃移愬為徐州刺史、武寧軍節度使,代其兄願。兄弟交換岐、徐二鎮,旬日間再踐父兄之任。愬至徐方,理兵有方略。時蔡將董重質貶春州司戶,愬上表請恕重質賜之,堪於軍前驅使,即詔征還送武寧軍,愬乃署為牙將。愬破賊金鄉,凡十一戰,擒賊將五十,俘斬萬計。淄青平,將有事燕、趙。元和十五年九月,以愬檢校左僕射、同中書門下平章事、潞州大都督府長史、昭義節度使,仍賜興寧裏第。十月,王承宗卒,魏博田弘正移任鎮州。愬至潞州,四月,遷魏州大都督府長史、魏博節度使。長慶元年,幽、鎮復亂,愬聞之,素服以令三軍曰:「魏人所以富庶而能通知聖化者,由田公故也。天子以其仁而愛人,使理鎮、冀。且田公出於魏,撫師七年,一旦鎮人不道,敢茲殘害,以魏為無人也。若父兄子弟食田公恩者,其何以報?」眾皆慟哭。又以玉帶、寶劍與牛元翼,遣使謂之曰:「吾先人常以此劍立大勛,吾又以此劍平蔡寇,今鎮人叛逆,公以此翦之。」元翼承命感激,乃以劍及帶令於軍中,報之曰:「願以眾從,竭其死力」。方有制置,會疾作,不能治軍,人違紀律,功遂無成。朝廷以田布代之,除太子少保,歸東都。是年十月,卒於洛陽,時年四十九。穆宗聞之震悼,赗賻加等,贈太尉。

初め、李晟が京城を克復した時、市は肆を改めず、及び李愬が淮蔡を平定するに及び、またその美を踵いだ。父子相次いで大勲を建て、兄弟皆兵符を領するも、功業は李愬に及ばず、近代比類するものなし。加之、行い己に常あり、儉にして礼に違わず、兄弟は父の勲寵に席し、率ね仆馬第宅を以て相矜るも、唯だ李愬は六たび大鎮に遷り、処する所は先人の旧宅一院のみ。晩歳、取士に忽せにし、辟請に其人を得ず、吏をして縁りて奸を為さしめ、軍政粛まらず、物論稍く減じ、惜しむかな。

原文始,晟克復京城,市不改肆;及愬平淮蔡,復踵其美。父子仍建大勛,雖昆仲皆領兵符,而功業不侔於愬,近代無以比倫。加以行己有常,儉不違禮,弟兄席父勛寵,率以仆馬第宅相矜,唯愬六遷大鎮,所處先人舊宅一院而已。晚歲忽於取士,辟請不得其人,至使吏緣為奸,軍政不肅,物論稍減,惜哉!

子 李聴

原文子 聽

李聴は七歳にして廕を以て太常寺協律郎に授けられ、常に公署に入る。吏胥之を小とし、敬を致さず、李聴之を鞭ちて血を見せしむ。父の李晟之を奇とす。後に吐突承璀に従い王承宗を討ち、神策行営兵馬使と為る。時に昭義の盧従史は両端を持し、賊を討う心無く、承璀は李聴の計を用い、従史を擒えて献ず。左驍衛将軍・兼御史中丞に転ず。出でて安州刺史と為り、鄂嶽観察使柳公綽に従い呉元済を討つ。軍中の動静、悉く李聴の謀を用い、軍声遂に振う。元和年中、李師道を討ち、李聴は楚州刺史と為り、淮南の師を統ぶ。鄆人は素より淮軍を易し、李聴潜かに訓練し、其の不意に出で、海州に趨り、険要に拠り、沐陽の兵を破り、朐山の戍を降し、懐仁・東海両城風に望みて乞降し、山東平ぐ。元和十四年五月、功を以て検校左散騎常侍・夏州刺史・夏綏銀宥節度使に授く。十五年六月、霊州大都督府長史・霊塩節度使に改む。境内に光禄渠有り、廃塞歳久しく、屯田を起こして転輸に代えんと欲し、李聴復た旧渠を開決し、田千余頃を溉ぎ、今に至るまで之に頼る。就いて検校工部尚書を加う。

原文聽七歲以廕授太常寺協律郎,常入公署,吏胥小之,不為致敬,聽令鞭之見血,父晟奇之。後隨吐突承璀討王承宗,為神策行營兵馬使。時昭義盧從史持兩端,無心討賊,承璀用聽計,擒從史以獻。轉左驍衛將軍、兼御史中丞。出為安州刺史,隨鄂嶽觀察使柳公綽討吳元濟,軍中動靜,悉用聽謀,軍聲遂振。元和中,討李師道,聽為楚州刺史,統淮南之師。鄆人素易淮軍,聽潛訓練,出其不意,趨海州,據險要,破沐陽兵,降朐山戍,懷仁、東海兩城望風乞降,山東平。元和十四年五月,以功授檢校左散騎常侍、夏州刺史、夏綏銀宥節度使。十五年六月,改靈州大都督府長史、靈鹽節度使。境內有光祿渠,廢塞歲久,欲起屯田以代轉輸,聽復開決舊渠,溉田千余頃,至今賴之。就加檢校工部尚書。

初め、李聴が羽林将軍たりし時、名馬有り。穆宗東宮に在り、近侍をして李聴に諷めて之を献ぜしむ。李聴は職親軍を総ぶるを以て、敢えて従わず。即位の始め、幽・冀廷せず、太原は二鎮と境を接し、方に帥を易えんと議す。宰臣進みて擬すも、上皆允さず、宰臣に謂いて曰く、「李聴が羽林将軍たりし時、朕に馬を与えず、是必ず任す可し」と。長慶二年二月、検校兵部尚書・太原尹・北京留守・河東節度使に授け、裴度に代わる。四年七月、滑州刺史・義成軍節度使に転ず。大和二年、李同捷を討つ。時に魏博行営将丌誌沼潜かに滄・鎮と結び、擅に戈を回して其の帥史憲誠を攻む。詔して李聴に師を帥いて之を援げしむ。大いに其の叛卒を破り、誌沼は鎮州に奔り、王庭湊に殺さる。李聴遂に凱旋し、功を以て涼国公に封ぜられ、一子に五品官を授く。王庭湊再び朝旨に違う。詔して李聴に全師を以て貝州に屯せしむ。路魏州に由る。史憲誠は李聴の襲見を懼れ、衷甲して郊迎す。候吏密かに白くして呼ぶ。乃ち兵士に令して刃を匣み弓を櫜め、野外に休ます。魏人遂に安んず。後に憲誠入覲せんと欲し、其の府庫を竭くす。魏人之を怨み、憲誠を殺し、衙軍其の大将何進滔を立てる。詔して李聴に魏博節度使を兼領せしめ、兵を将いて北渡せしむ。魏人李聴を納れず、城に乗りて拒守す。乃ち兵を館陶に屯す。魏兵遽かに襲う。李聴備え為さず、其の軍大いに敗れ、復た部伍無く、昼夜奔走し、僅かに免るるを得る。師を喪うこと過半し、輜車兵仗並びに皆委棄す。御史中丞温造・殿中侍御史崔蠡之を弾して曰く、

原文初,聽為羽林將軍,有名馬,穆宗在東宮,令近侍諷聽獻之,聽以職總親軍,不敢從。及即位之始,幽、冀不廷,太原與二鎮接境,方議易帥,宰臣進擬,上皆不允,謂宰臣曰:「李聽為羽林將軍,不與朕馬,是必可任。」長慶二年二月,授檢校兵部尚書、太原尹、北京留守、河東節度使,代裴度。四年七月,轉滑州刺史、義成軍節度使。大和二年,討李同捷。時魏博行營將丌誌沼潛結滄、鎮,擅回戈攻其帥史憲誠。詔聽帥師援之,大破其叛卒,誌沼奔鎮州,為王庭湊所殺,聽遂凱旋,以功封涼國公,授一子五品官。王庭湊再違朝旨,詔聽以全師屯貝州。路由魏州,史憲誠懼聽見襲,衷甲郊迎,候吏密白呼,乃令兵士匣刃櫜弓,休於野外,魏人遂安。後憲誠欲入覲,竭其府庫,魏人怨之,殺憲誠,衙軍立其大將何進滔。詔聽兼領魏博節度使,將兵北渡,魏人不納聽,乘城拒守,乃屯兵館陶。魏兵遽襲,聽不為備,其軍大敗,無復部伍,晝夜奔走,僅而獲免,喪師過半,輜車兵仗並皆委棄。御史中丞溫造、殿中侍御史崔蠡彈之曰:

臣聞く、賞罰立たずんば、以て天下を示す無く、是非一貫せずんば、能く大中を建つること莫しと。窃に見るに、義成軍節度使李聴、昨者其の承藉を資とし、統戎を委ね、憲誠に代えしめ、雄鎮に付す。二万の虎貔の旅を総べ、位極めて寵栄たり。両藩節制の権を兼ね、心報效無し。況んや陛下神算を授け、天威を仮し、魏に入るの期、克日先ず定まれり。而るに李聴は旄を擁して観望し、甲を按じて遷延し、人心を熒惑し、軍政を逗撓す。遂に憲誠を屠戮に陷らしめ、乱衆に其の奸兇を肆わしめ、六郡を垂成に失い、危巣を已に覆えるに固くす。貝州を委ねて守らず、焼劫遺す無く、浅口を望みて疾駆し、狼狽して道に就く。自ら苟免を図り、苞羞を吝しまず、朝章を蔑棄し、児戯に同じ。魏州の乱、職たる李聴の由り。其の負恩を論ずれば、万死猶お幸いなり。伏して以うるに、封常清は河南に失律し、関門に斬らる。高霞寓は唐鄧に破傷し、遐裔に投ぜらる。渾鎬は易定を節制し、将に戦わんとして兵力支えず。袁滋は西川に逗留し、進まんと欲して兇渠尚在り。或いは親しく矢石に当たり、或いは躬ら艱危を歴し、勢賊鋒に屈し、竟に朝典を申す。未だ嘗て法を貸さず、必ず皇威を震う。今李聴の罪状夙に聞こえ、中外憤惋す。之を常清等の輩に比すれば、万々之に過ぐ。若し陛下猶お含弘を示し、極法を置かずんば、臣等恐らくは憲章地に墜ち、天下心を寒からんと。伏して法に付せんことを請う。

原文臣聞賞罰不立,無以示天下;是非一貫,莫能建大中。竊見義成軍節度使李聽,昨者資其承藉,委以統戎,俾代憲誠,付之雄鎮。總二萬虎貔之旅,位極寵榮;兼兩籓節制之權,心無報效。況陛下授以神算,假以天威,入魏之期,克日先定。而聽擁旄觀望,按甲遷延,熒惑人心,逗撓軍政。遂使憲誠陷於屠戮,亂眾肆其奸兇,失六郡於垂成,固危巢於已覆。委貝州而不守,燒劫無遺;望淺口而疾驅,狼狽就道。自圖茍免,不吝苞羞,蔑棄朝章,有同兒戲。魏州之亂,職聽之由,論其負恩,萬死猶幸。伏以封常清河南失律,斬於關門;高霞寓唐鄧破傷,投諸遐裔;渾鎬節制易定,將戰而兵力不支;袁滋逗留西川,欲進而兇渠尚在。或親當矢石,或躬歷艱危,勢屈賊鋒,竟申朝典,未曾貸法,必震皇威。今李聽罪狀夙聞,中外憤惋,比之常清等輩,萬萬過之。若陛下猶示含弘,不置極法,臣等恐憲章墜地,天下寒心。伏請付法。

上之を罪せず、兵柄を罷め、太子少師と為す。

原文上不之罪,罷兵柄,為太子少師。

李聴頗る権幸に賂遺して以て援と為す。居ること無き何く、復た検校司徒、起てて邠寧節度使と為る。邠州の衙廳、相伝えて修葺するに利あらずとし、以て隳壊に至る。李聴曰く、「帥臣兇門を鑿ちて出づ、豈に巫祝に拘りて公署を隳さんや」と。遂に之を葺わしむ。卒に変異無し。大和六年、武寧軍節度使に転ず。時に李聴に蒼頭有りて徐州の将と為り、李聴の至らんことを欲せず。李聴先ず親吏をして徐人を慰労せしむ。蒼頭に殺さる。李聴進むことを敢えず、固より疾を以て辞し、用いて太子太保と為す。七年、出でて鳳翔を守る。時人之を栄しむ。九年、陳許節度に改む。未だ鎮に至らず、復た太子太保分司を除く。開成元年、出でて河中尹・河中晉慈隰節度使と為る。四年、疾を以て代を求め、太子太保を除く。是の歳十月卒す。時に年六十一。司徒を贈る。

原文聽頗賂遺權幸以為援,居無何,復檢校司徒,起為邠寧節度使。邠州衙廳,相傳不利葺修,以至隳環,聽曰:「帥臣鑿兇門而出,豈有拘於巫祝而隳公署耶!」遂命葺之,卒無變異。大和六年,轉武寧軍節度使。時聽有蒼頭為徐州將,不欲聽至,聽先使親吏慰勞徐人,為蒼頭所殺。聽不敢進,固以疾辭,用為太子太保。七年,出守鳳翔,時人榮之。九年,改陳許節度,未至鎮,復除太子太保分司。開成元年,出為河中尹、河中晉慈隰節度使。四年,以疾求代,除太子太保。是歲十月卒,時年六十一,贈司徒。

李聴十たび節旌を領し、至らざる所三鎮。官に蒞ること苛細、将迎遺賂を好み、故に聚斂に急にして、侈欲を窮め極む。位は一品に至り、竟に牖下に終わる。西平(李晟)の遺徳に非ざれば、焉んぞ能く此に及ばんや。

原文聽十領節旌,所不至者三鎮。蒞官苛細,好將迎遺賂,故急於聚斂,窮極侈欲。位至一品,竟終牖下,非西平之遺德,焉能及此乎!

子 李憲

原文子 憲

李憲は李晟の第五子。李晟十子、李憲・李愬最も仁孝。長じて儒術を好み、礼法を以て修整し、起家して太原府参軍・醴泉県尉。于頔襄陽に鎮し、辟いて従事と為す。時に呉少誠淮西に拠り、独り于頔の威を憚る。当時咸に李憲の謀画之を致すとす。元和八年、田弘正魏博を以て朝旨に奉じ、李憲を辟いて従事と為し、衛州刺史に授け、絳州に遷る。至る所理行を以て称せらる。入りて宗正少卿と為り、光禄卿に遷る。穆宗即位し、太和公主を以て回鶻に降嫁せしむ。金吾大将軍胡証を充てて送公主使とし、李憲を命じて之を副わしむ。使い還りて《入蕃道里記》を献ず。検校左散騎常侍兼太府卿に遷る。出でて洪州刺史・江西観察使と為る。大行二年、嶺南節度使に転ず。李憲は勲伐の家と雖も、然れども累ね事任を歴し、皆吏能を以て擢用せられ、履む所の官秩、政績流聞す。性本より明恕、尤も律学に精しく、屡々冤獄を詳決し、無罪の者数百人を活かす。能を以て官に入り、官敗事無く、士君子之を多しとす。大和三年八月卒す。時に年五十六。

原文憲,晟第五子。晟十子,憲、愬最仁孝。及長,好儒術,以禮法修整,起家太原府參軍、醴泉縣尉。於頔鎮襄陽,辟為從事。時吳少誠據淮西,獨憚頔之威,當時鹹以憲謀畫致之。元和八年,田弘正以魏博奉朝旨,辟憲為從事,授衛州刺史,遷絳州,所至以理行稱。入為宗正少卿,遷光祿卿。穆宗即位,以太和公主降回鶻,命金吾大將軍胡證充送公主使,命憲副之。使還,獻《入蕃道里記》,遷檢校左散騎常侍,兼太府卿。出為洪州刺史、江西觀察使。大行二年,轉嶺南節度使。憲雖勛伐之家,然累歷事任,皆以吏能擢用,所履官秩,政績流聞。性本明恕,尤精律學,屢詳決冤獄,活無罪者數百人。以能入官,官無敗事,士君子多之。大和三年八月卒,時年五十六。

子 李憑

原文子 憑

李憑は累ね諸衛大将軍を歴し、李恕は太子洗馬、並びに廕を以て官を授けられ、累遷して少卿監に至る。

原文憑累歷諸衛大將軍,恕太子洗馬,並以廕授官,累遷至少卿監。

子 李惎

原文子 惎

李惎は累進して右龍武大將軍に至ったが、酒色に沈湎し、豪奢を恣にし、積もった負債は数千万に及んだ。その子が回鶻から一万余貫の金を借りて返さず、回鶻に訴えられたので、文宗は怒り、李惎を定州司法参軍に貶した。

原文惎累官至右龍武大將軍,沈湎酒色,恣為豪侈,積債至數千萬。其子貸回鶻錢一萬余貫不償,為回鶻所訴,文宗怒,貶惎為定州司法參軍。

甥 王佖

原文甥 王佖

王佖は李晟の甥である。雄武にして騎射に長け、李晟が河西・河北に出師して以来、王佖は従わぬ戦役はなかった。硃泚の乱の時、李晟が賊を光泰門で攻めたが、賊の鋒はなお鋭かった。王佖は兵馬使李演と共に苑の塀を越えて血戦し、賊の前鋒を破ったので、諸軍の士気はようやく奮った。論功により神策将となった。吐蕃が涇原を寇した時、王佖は伏兵を以て尚結贊を撃ち、ほとんど捕らえんとした。これにより、吐蕃に深く畏れられた。李晟が王佖を遇する恩寵は李願・李愬と変わらず、給与は彼らを上回った。李晟が張延賞に媒孽されて兵権を罷められると、王佖も将帥に用いられず、入朝して左衛上將軍となった。元和年中、李願・李愬ら兄弟が方鎮に在った時、王佖は検校工部尚書・霊州大都督府長史・朔方霊塩節度使となった。先に、吐蕃は河畔に烏蘭橋を完成させようとし、先ず材木を貯蔵していたが、朔方節度使は毎度人を遣わして密かにこれを運び出し、河流に投棄したので、ついに完成できなかった。この時、蕃人は王佖が貪欲で無謀であることを知り、先ず厚く賄賂を贈り、その後工事を併せて橋を完成させ、更に月城を築いてこれを囲んで守った。これより朔方は寇を防ぐ暇がなく、辺境では今日に至るまでこれを恨んでいる。長慶三年四月に卒した。

原文王佖,晟之甥。雄武善騎射,自晟河西、河北出師,佖無役不從。硃泚之亂,晟攻賊於光泰門,賊鋒尚勁,佖與兵馬使李演逾苑墻血戰,敗賊前鋒,諸軍方振,論功為神策將。吐蕃之寇涇原,佖伏卒擊尚結贊,幾獲,由是深為吐蕃所畏。晟視佖恩寵與願、愬不殊,給與過之。晟既為張延賞媒孽罷兵權,亦不用佖為將帥,入為左衛上將軍。元和中,願、愬醖兄弟在方鎮,佖檢校工部尚書、靈州大都督府長史、朔方靈鹽節度使。先是,吐蕃欲成烏蘭橋於河壖,先貯材木,朔方節度使每遣人潛載之,委於河流,終莫能成。至是,蕃人知佖貪而無謀,先厚遺之,然後併役成橋,仍築月城圍守之。自是朔方禦寇不暇,邊上至今為恨。長慶三年四月卒。

史臣が曰く、西平郡王李晟は器量偉大で材能雄渾、人望ありて畏れられ、身を立てて主に事え、磊落として将帥の風あり、義を見て勇むことができ、諫言を受け容れて疑わず、事君に忠なり、応変に長け、誠に一代の賢将である。恒山の役を観れば、立ち談の間に二帥の遺恨を解き、涇原の師の乱では、号哭して奉天の危急に赴いた。これ忠義ならずや。白華への進軍に際し、平涼の会が必ず詐りなることを知り、星変を理由とする異議を退け、渭橋の軍を移した。これ応変ならずや。帯を解いて孝忠の心を結び、婚を請うて延賞の怨みを解き、悪を嫉んで楚琳の任を請うことを止め、乱を懲らしめて希鑒を誅した。これ決断に明らかなりと言わずや。然るに徳宗皇帝は聴断明らかならず、人君の度量なく、功臣をして讒慝の口に困じさせ、奸人に衡石の権を執らしめた。丁瓊の言は、誠に嘆息に堪える。渭橋の石を刻むことに汲々とし、煙閣の銘を賜うことに区区たるも、また何の心ぞ。善を行って慶を遺し、諸子皆才あり、元和中の賊を平ぐる功は、李聴・李愬がその半を占む。父子兄弟、皆功名を以て始終す。道家の忌む所の談、李氏は善を以て勝てり。

原文史臣曰:西平器偉材雄,人望而畏,出身事主,落落有將帥之風,見義能勇,聽受不疑,忠於事君,長於應變,誠一代之賢將也。觀恒山之役,立談釋二帥之憾;涇師之亂,號哭赴奉天之危,可不為忠義乎!對白華之進軍,知平涼之必詐,沮星變之議,移渭橋之軍,可不為應變乎!解帶結孝忠之心,請婚釋延賞之怨,嫉惡有楚琳之請,懲亂行希鑒之誅,可不為明於決斷乎!而德宗皇帝聽斷不明,無人君之量,俾功臣困讒慝之口,奸人秉衡石之權,丁瓊之言,誠堪太息。雖齪齪刻渭橋之石,區區賜煙閣之銘,亦何心哉!作善遺慶,諸子俱才,元和平賊之功,聽、愬居其半。父子昆弟,皆以功名始終,道家所忌之談,李氏以善勝矣。

賛

原文(段落全体)贊曰:桓桓太師,義勇天資。運鐘禍亂,力拯顛危。愬事章武,誅蔡平齊。淩煙畫圖,父子為宜。

賛して曰く、桓桓たる太師、義勇天資。運は禍乱に鐘し、力を顛危を拯う。愬は章武に事え、蔡を誅し斉を平ぐ。淩煙に図を画き、父子宜しきかな。

原文(段落全体)贊曰:桓桓太師,義勇天資。運鐘禍亂,力拯顛危。愬事章武,誅蔡平齊。淩煙畫圖,父子為宜。