卷一百三十三
李晟
李晟、字は良器、隴右臨洮の人である。祖父は思恭、父は欽、代々隴右に居住して裨将を務めた。晟は数歳で孤となり、母に孝謹に仕え、性質は雄烈にして才あり、騎射を善くした。十八歳で軍に従い、身長六尺、勇敢にして人に絶倫であった。時に河西節度使王忠嗣が吐蕃を撃つにあたり、驍将が城に乗って拒戦し、士卒を多く傷つけたので、忠嗣は軍中で射ることのできる者を募ってこれを射させた。晟は弓を引いて一発でこれを斃し、三軍皆大いに呼び、忠嗣は厚くこれを賞し、その背を撫でて曰く「これ万人敵なり」と。鳳翔節度使高升はその名を聞き、召して列将に補した。嘗て疊州の叛羌を高當川で撃ち、また宕州の連狂羌を罕山で撃ち、皆これを破り、累遷して左羽林大將軍同正となった。廣德の初め、鳳翔節度使孫誌直は晟を署して遊兵を総べさせ、党項羌の高玉らを撃破し、功により特進・試光祿卿を授けられ、転じて試太常卿となった。大歷の初め、李抱玉が鳳翔を鎮守し、晟を署して右軍都將とした。四年、吐蕃が霊州を囲むと、抱玉は晟に兵五千を将いて吐蕃を撃たせようとしたが、晟は辞して曰く「衆を以てすれば則ち足らず、謀を以てすれば則ち多し」と。乃ち兵千人を将いて疾く大震関を出で、臨洮に至り、定秦堡を屠り、その積聚を焚き、堡帥慕容谷鐘を虜にして還り、吐蕃はこれにより霊州の囲みを解いて去った。開府儀同三司を拝された。間もなく、左金吾衛大將軍・涇原四鎮北庭都知兵馬使を兼ね、併せて遊兵を総べた。ほどなく、節度使馬璘が吐蕃と鹽倉で戦い、兵敗れたとき、晟は率いる所部を以て横撃し、璘を乱兵の中から抜き出し、功により合川郡王に封ぜられた。璘は晟の威名を忌み、また礼を以て遇さず、京師に朝せしめると、代宗は留めて宿衛とし、右神策都將とした。德宗が即位すると、吐蕃が劍南を寇し、時に節度使崔寧が京師に朝していたので、三川は震恐し、乃ち詔して晟に神策兵を将いてこれを救わしめ、太子賓客を授けた。晟は乃ち漏天を踰え、飛越を抜き、肅寧三城を廓清し、大渡河を絶ち、首虜千余級を獲ると、虜は乃ち引き退き、これにより成都に数ヶ月留まって還った。
王武俊が趙州を攻めると、晟は乃ち状を献じて趙州の囲みを解くことを請い、兵を引き定州に赴き張孝忠と合勢し、范陽を図らんと欲し、德宗はこれを壮とし、晟に御史大夫を加え、禁軍將軍莫仁擢・趙光銑・杜季泚を皆これに隷せしめた。晟は魏州より軍を引きて北し、徑ち趙州に趨ると、武俊はこれを聞き、囲みを解いて去った。晟は趙州に三日留まり、孝忠の兵と合し、北に恆州を略し、硃滔の将鄭景濟を清苑に囲み、水を決してこれを灌いだ。田悅・王武俊は皆兵を遣わして来援し、白樓で戦った。賊が義武軍を犯すと、稍々退き、晟は歩騎を引いてこれを撃破し、晟の乗る馬は連ねて流矢に中った。一月余りを踰えると、城中益々急となり、滔・武俊は大いに懼れ、乃ち悉く魏博の衆を収めて来り、再び晟の軍を囲んだ。晟は内には景濟を囲み、外には滔らと拒戦し、日に数合し、正月より五月に至った。會に晟は病甚だしく、人を知らざること数たびに及んだ。軍吏が謀を合わすと、乃ち馬輿にて定州に還り、賊は敢えて逼らなかった。晟の疾が間もなく、再び師を進めんとすると、會に京城に変起こり、德宗は奉天に在り、詔して晟に難に赴かしめた。晟は詔を承けて涙を下し、即日に関輔に赴かんと欲した。義武軍は硃滔・王武俊の間に在り、晟を軽重として倚り、晟の去るを欲せず、数たび謀って晟の軍を沮止せんとした。晟は将吏に謂いて曰く「天子外に播越し、人臣は当に百舍一息し、死して後已むべし。張義武は吾が行を沮まんと欲す、吾は当に愛子を質とし、良馬を選んでその意を啖わん」と。乃ち子の憑を留めて婚と為した。義武軍に孝忠に委信される大将ありて晟に謁すと、晟は乃ち玉帯を解いてこれを遺し、因りて曰く「吾西に行かんと欲す、願わくは以て別と為さん」と。難に赴くの意を陳べると、帯を受くる者は果たして晟を徳とし、乃ち孝忠を諫めて晟を止めしめなかった。晟は軍を引きて飛狐を踰え、師を代州に次ぐことを得、詔して晟に檢校工部尚書・神策行營節度使を加え、実封二百戸とした。晟の軍令は厳肅にして、過ぐる所樵採を犯さず。河中より蒲津を由って渭北に軍し、東渭橋に壁して泚を逼った。時に劉德信が子弟軍を将いて襄城を救い、扈澗で敗れ、難を聞き、余軍を率いて先ず渭南に次ぎ、晟と軍を合した。軍に統一なく、晟はこれを制することができず、因りて德信が晟の軍に入ると、乃ちその罪を数えてこれを斬った。晟は数騎を以て馳せて德信の軍に入り、その衆を撫労すると、敢えて動く者無かった。既に德信の軍を併せると、軍益々振るった。
久しくして、懷光将に晟軍を沮まんと謀るも、計未だ出す所無し。時に神策軍は旧例に以て給賜諸軍より厚し。懷光奏して曰く、「賊寇未だ平らかならず、軍中の給賜、咸く宜しく均一すべし。今神策独り厚し。諸軍皆以て言と為す。臣以て之を止むる無し。惟だ陛下裁処せられんことを」と。懷光は計りて是に因りて晟をして自ら署して己が軍を侵削せしめ、以て之を撓破せんと欲す。德宗之を憂え、諸軍を以て神策に同くせんと欲するも、則ち財賦給せず、奈何すべき無し。乃ち翰林学士陸贄を遣わして懷光軍に往き宣諭せしめ、仍ち懷光と晟とをして参議して宜しき所を以て聞かしむ。贄・晟俱に會す懷光軍に於いて。懷光言う、「軍士稟賜均しからず、何を以て戦を令せん」と。贄未だ言無く、数たび晟を顧みる。晟曰く、「公は元帥と為り、弛張号令皆之を専にするを得。晟は一軍を将うるに当たり、唯だ公の指す所に従い、以て死命を效せん。衣食を増損するに至りては、公当に之を裁くべし」と。懷光默然たり、以て晟に難ずる無く、又神策軍を侵刻するを己より発するを欲せず、乃ち止む。
懷光は咸陽に屯し、堅壁八十余日、肯て軍を出さず。德宗之を憂え、屢たび中使を降し、収復の期を促す。懷光は卒の疲るるを托け、更に休息を請い、以て其の便に俟つ。然れども陰に硃泚と交通し、其の跡漸く露わる。晟は併せらるるを懼れ、乃ち密かに疏して軍を移して東渭橋にせんことを請い、以て賊の勢を分かたんとす。上初め之を許さず。晟は懷光の反状已に明らかなるを以て、緩急宜しく備え有るべし。蜀・漢の路は壅ぐべからず。裨将趙光銑を以て洋州刺史と為し、唐良臣を利州刺史と為し、晟の子婿張彧を劍州刺史と為し、各兵五百を将いて未然を防がしめんことを請う。上初め之を納るも、未だ果たして行わず。間も無く、吐蕃兵を以てして泚を誅するを佐けんことを請う。上親しく六師を総べ、幸を移して咸陽にし、以て諸軍の進討を促さんと欲す。懷光之を聞き大いに駭き、上其の軍を奪わんことを疑い、乱を謀ること益々急なり。時に鄜坊節度李建徽・神策将楊惠元及び晟、並びに懷光と聯営す。晟は事迫れるを以て、會に中使の晟軍を過ぐる有り。晟は乃ち令を宣して云く、「詔を奉じて徙屯して渭橋にす」と。乃ち陣を結びて行き、渭橋に至る。数日を経ずして、懷光果たして建徽・惠元を劫して其の兵を併せ、建徽は遁れて免れ、惠元は懷光の害する所と為る。是の日、車駕梁州に幸す。時に変倉卒に生じ、百官扈従する者十二三、駱谷道路険阻、儲供素より無く、従官食に乏う。上嘆じて曰く、「早く李晟の言に従わば、三蜀坐して致す可きなり」と。晟の大将張少弘行在より自ら口詔を伝え、晟に尚書左僕射・同中書門下平章事を授けて、以て衆心を安んず。晟拝哭して命を受け、且つ曰く、「長安は宗廟の在る所、天下の本と為る。若し皆羈靮を執らば、誰か復た京師せん」と。乃ち城隍を浚い、兵甲を繕い、以て収復を図る。晟は孤軍を以て独り強寇に当たり、二賊の併せらるる所と為らんことを恐れ、乃ち卑詞厚幣を以て、偽りて誠を懷光に致し、外は推崇を示し、内は之が為に備えを為す。時に芻粟未だ集まらず、乃ち檢校戶部郎中張彧に令して京兆少尹を仮け、官吏を択びて以て渭北畿縣を賦せしむ。旬日を経ずして、芻糧皆足る。晟は乃ち大いに三軍を陳べ、之に令して曰く、「国家多難、乱逆継いで興り、属に車駕西幸し、関中主無し。予代々国恩を受け、危きを見て節に死すは、臣子の分なり。況んや当に此時に当たり、兇渠を誅滅して以て富貴を取らずんば、人豪に非ざるなり。渭橋は大川に横跨し、賊の首尾を断つ。吾公等と力を戮し王に勤め、利を択びて進み、大業を興復し、世にない功を建てん。能く我に従わんか」と。三軍泣かざる無く、曰く、「唯だ公の使う所なり」と。晟も亦歔欷して涕を流す。
是の時、硃泚窃かに京城を拠え、懷光は反噬を図り、河朔に僭偽する者三、李納は河南に虎視し、希烈は汴・鄭に鴟張す。晟は内に貨財無く、外に轉輸無く、孤軍を以て劇賊に抗す。而して鋭気衰えず、徒に忠義を以て人心に感ず。故に英豪帰向す。戴休顏は奉天の衆を率い、韓遊瑰は邠寧の師を治め、駱元光は華州の兵を以て潼関を守り、尚可孤は神策の旅を以て七盤に屯す。皆晟の節度を稟け、晟軍大いに振う。懷光は休顏・遊瑰の晟に従うを以て、益々懼る。晟又書を懷光に致し、禍福を諭し、賊を破り鑾を迎えて、以て前過を掩わしめんとす。懷光終に悟らず、軍衆漸く多く離散し、糗糧将に竭き、虜掠するも得る所無く、晟に襲わるるを懼る。三月、懷光自ら三原・富平より東に奉天に抵り、至る所焚掠し、乃ち自ら馮翊より入り河中を拠う。懷光の将孟涉・段威勇なる者は、本神策将なり。懷光の臣ならざるを悪み、既に富平に至り、軍中に陣を結び、外向して大呼して去る。懷光之を制する能わず。涉・威勇は数千人を以て晟に帰す。晟は乃ち兵を陳べて涉等の降卒を受け、乃ち奏して涉に檢校工部尚書を授け、威勇を兼ねて御史大夫と為す。
徳宗が山南に幸行した際、既に駱谷に入ると、渾瑊に言った、「渭橋は賊の腹地にあり、兵勢は隔絶しているが、李晟は事を成し得るか」と。渾瑊は答えて言った、「李晟は義を守り志を固くし、事に臨んでもその志を奪うことはできません。臣の計るところでは、賊を必ず破るでしょう」と。帝の心はようやく安らかになった。この月、渾瑊の歩兵の将上官望が間道を通って詔書を携えて来て、李晟に検校右僕射を加え、兼ねて河中尹・河中晉絳慈隰節度使とし、さらに実封三百戸を加増し、また京畿・渭北・鄜坊丹延節度招討使を兼ねさせた。李晟は詔を受けて涙を流した。当時、帝は西川に移幸しようとしていたが、李晟は上表して言った、「どうか梁漢に駐蹕され、億兆の民の心を繋ぎ、賊を殲滅する勢いを図られよ。もし小さきを規りて大なるを捨て、岷峨に都をなされば、即ち人心は失望し、武士も謀臣も施すところが無くなるでしょう」と。四月、詔があり李晟に京畿・渭北・鄜坊・商華兵馬副元帥を加えた。当時、京兆府司録李敬仲が京城から来、諫議大夫鄭雲逵が奉天から至った。李晟は京兆少尹張彧を副使とし、鄭雲逵を行軍司馬とし、李敬仲を節度判官として、共に軍の計画を主らせた。また、懐光の旧将唐良臣に潼関を守らせ、河中節度使を授けること、戴休顔に奉天を守らせ、鄜坊節度使を授けることを請うた。上は皆これに従った。渭橋には旧来より粟十余万斛があったが、度支が先に懐光の軍に供給して尽きようとしていた。李晟はまた上奏して言った、「近畿は兵乱に乗じているとはいえ、なお賦斂を行うことができます。もし寇賊が未だ滅びず、兵を長く駐留させて時を空費し、人が耕桑を廃し、また蓄えが無ければ、微を防ぎ勝を制する術ではありません」と。上はこれを容れた。李晟はそこで畿甸において率いて征賦を集めると、吏民は喜んで輸納し、守りはますます固くなり、これによって軍は食に乏しくなかった。
神策軍の家族は多く朱泚に陥落していたが、李晟の家も百口が賊中にあった。左右で家のことを口にする者がいたが、李晟は涙を流して言った、「天子の乗輿がどこにあるというのに、どうして家を憂えられようか」と。朱泚はまた李晟の小吏王無忌の婿を李晟の軍に遣わし、かつ言った、「公の家は無事であり、城中から書状が届いている」と。李晟は言った、「お前は賊の間者となることを敢えてするのか」と。直ちに斬ることを命じた。当時、輸送が届かず、盛夏なのに軍士の中には裘や褐を着ている者もいたが、李晟も同じく労苦を共にし、常に大義をもって士心を奮い立たせたので、ついに離叛する者は無かった。ちょうど将吏数人が賊中から逃げて来て、朱泚の軍衆が離反し滅ぼせる様子を言ったので、士心はますます奮った。先に、賊将姚令言及び偽中丞崔宣が諜者を遣わして我が軍を覗かせたが、巡邏の騎兵に捕らえられ、李晟のもとに拘束されて送られて来た。李晟は縄を解き、食事を与えて帰らせ、戒めて言った、「崔宣に伝えよ、よく賊のために守り、諸人は力を尽くして自らを固くせよ、賊に対して不忠であってはならない」と。
五月三日、李晟は軍を率いて通化門に進み、武威を示して還った。賊は出て来ることができなかった。朝に将佐を集め、兵の向かうべきところを図った。諸将は言った、「まず外城を抜き、市街地を確保してから、北の宮闕を清めましょう」と。李晟は言った、「もしまず坊市を収めれば、巷陌は狭隘で、その間に住民がいる。もし賊が伏兵を設けて格闘すれば、百姓は騒ぎ潰走し、良策ではない。しかも賊の重兵堅甲は皆苑中にある。もし苑からその心腹を撃てば、彼らは逃走を図る暇もない。このようにすれば宮闕は安泰に保たれ、市も店を変えず、これが上策である」と。諸将は言った、「善し」と。そこで渾瑊・駱元光・尚可孤に文書を送り、期日を定めて城下に進軍することを約した。
その月二十五日の夜、李晟は東渭橋から光泰門外の米倉村に軍を移し、京城に迫った。李晟は高みに臨んで指揮し、壕と柵を設けて賊軍を待たせた。間もなく賊衆が大挙して来た。賊の驍将張庭芝・李希倩が柵に迫って戦いを求めた。李晟は諸将に言った、「私は賊が出て来ないことを恐れていたが、今死を冒して来たのは、天が我を助けているのだ」と。呉詵・康英俊・史萬頃・孟涉らに命じて兵を縦ってこれを撃たせた。当時、華州の営は北にあり兵が少なかったので、賊は力を併せてこれを攻めた。李晟は李演・孟華に精鋭の兵卒を率いて救援させた。中軍が鬨の声を上げ、李演が力戦して大いにこれを破り、勝に乗じて光泰門に入った。再び戦ってまたこれを破り、死体が地を覆い、残りの衆は白華に逃げ込んだ。夜、慟哭の声が聞こえた。
翌日、再び出師しようとした。諸将は西軍(渾瑊ら)が到着するのを待って、左右から挟み撃ちにすることを請うた。李晟は言った、「賊は既に傷つき敗れたのだから、勝に乗じて撲滅すべきである。もし彼らに備えさせるのを待てば、王師の利となるだろうか。西軍を待っていれば、機会を失う恐れがある」。二十八日、李晟は諸将駱元光・尚可孤、兵馬使呉詵・王佖、都虞候邢君牙・李演・史萬頃、神策将孟涉・康英俊、華州将郭審金・権文成、商州将彭元俊らを大いに集め、号令し誓師を終えると、光泰門外に兵を陳列した。そこで王佖・李演に騎軍を率いさせ、史萬頃に歩卒を率いさせて、苑の墻の神麚村に直ちに到達させた。李晟は先に夜間に人を遣わして苑の墻を二百余歩開けさせていたが、この時には賊は既に木の柵を立てていた。賊は柵に倚って抗戦した。李晟は軍士を叱って言った、「どうしてこのように賊を放っておけるものか、まず公らを斬るべきである」と。史萬頃は恐れ、先に登って柵を抜き倒して入った。王佖の騎軍が続いて進むと、賊は即ち奔り潰れた。賊将段誠諫を捕らえ、大軍は分かれて道を並べて進入し、鬨の声は雷の如く響いた。姚令言・張庭芝・李希倩はなおも官軍を力強く防いだ。李晟は決勝軍使唐良臣・兵馬使趙光銑・楊萬榮・孟日華らに歩騎を揃えて進ませた。賊軍は陣を成したがたびたび敗北した。十余合戦い、勝に乗じて追い立て、白華に至った。突然、賊騎千余りが官軍の背後から現れた。李晟は麾下の百余騎を率いてこれに向かって馳せた。左右が叫んだ、「相公が来た」と。賊はこれを聞いて驚き潰れ、官軍が追撃して斬った数は計り知れなかった。朱泚・姚令言・張庭芝にはなおも衆万人があり、相率いて遁走した。李晟は田子奇に追撃させた。その他の兇党は相率いて来降した。この日、李晟の軍は京城に入り、兵を率いて含元殿前に駐屯した。李晟は右金吾仗に宿営し、なお諸軍に号令して言った、「李晟は実に武勇に優れず、上は天子の英明な計略に憑り、下は士心に頼り、幸いにして兇徒の渠魁を殲滅し、宮禁を粛清することができたが、これらは皆三軍の力である。長安の士庶は久しく賊の支配下に陥っていた。もし少しでも驚かせれば、罪を伐ち人を弔う義に適わない。李晟と公らはそれぞれ家室があり、数年離別していた。今既に成功したのだから、相見えるのも遅くはない。五日の間は勝手に家信を通じてはならぬ。命に背く者は斬る」と。そこで京兆尹李齊運・摂長安令陳元衆・摂萬年令韋上伋を遣わして百姓に告諭させた。住民は安堵し、秋毫も犯すところが無かった。尚可孤の軍人で賊の馬を擅に取った者がおり、李晟の大将高明曜が賊の女妓一人を虜にし、司馬伷が賊の馬二匹を取ったが、李晟は皆これを直ちに斬ったので、敢えて逆らって見る者も無かった。士庶は感悦せぬ者は無く、皆涙を流して嘆息した。遠方の坊に住む者にも、一晩経ってようやく知った者もいた。二十九日、孟涉に白華に駐屯させ、尚可孤に望仙門に駐屯させ、駱元光に章敬寺に駐屯させ、李晟は自ら安国寺に駐屯した。この日、賊将李希倩ら八人を斬り、市中にさらし首にした。
六月四日、李晟が賊を破った露布が梁州に届き、上はこれを見て感涙し、群臣も涙を流さぬ者なく、そこで万歳を称えて寿を上奏し、奏上して言うには、「李晟は聖なる謀略を虔しく奉じ、凶悪な賊を蕩滌いたしました。しかし古より勲功を立て、力を尽くして都邑を回復した者は、往々にしてありました。しかしながら、宗廟を驚かさず、市肆を変えず、長安人が旗鼓を識らず、安堵して当初の如きは、三代以来、未だこれ有りません」と。上は言われた、「天は李晟を生み、社稷と万民のためであって、朕のためではない」と。百官は拝賀して退いた。この日、李晟は偽りの宰相李忠臣・張光晟・蔣鎮・喬琳・洪経綸・崔宣らを斬り、また賊に屈せず臣節を守った者として程鎮之・劉乃・蔣沇・趙曄・薛岌らを上表した。
李晟が初めて渭橋に駐屯した時、熒惑が歳星を守り、久しくしてようやく退いた。賓客や幕僚の中には勧めて言う者があった、「今熒惑は既に退き、皇家の利です。速やかに兵を用いるべきです」と。李晟は言った、「天子が外に在り、人臣はただ死節を尽くすべきであり、天象は玄遠である。我がどうして天道を知ろうか」と。この時に至り、参佐に謂って言った、「先に士大夫が李晟に出兵を勧めたが、敢えて拒んだのではない。軍はこれを用いることはできても、これを知らしめることはできないのである。嘗て聞くところによれば、五緯の盈縮は準がない。李晟は再び歳星を守ることを恐れ、そうなれば我が軍は戦わずして自ら潰えるであろう」と。参佐は嘆服し、皆言った、「及ぶところではありません」と。間もなく李晟は司徒に拝され、中書令を兼ね、実封一千戸を賜った。
李晟は百司を整備するため総理し、大将の呉詵に兵三千を率いて宝鶏に至り道を清めさせた。李晟はまた鳳翔まで出迎え護衛することを請うたが、許されなかった。七月十三日、徳宗は興元より至り、渾瑊・韓遊瑰・戴休顔がその兵を率いて扈従し、李晟と駱元光・尚可孤がその兵を率いて奉迎した。当時、元従の禁軍及び山南・隴州・鳳翔の兵衆、歩騎合わせて十余万、旌旗は連亘すること数十里に及び、都中の士庶は傾いて道を挟み歓呼した。李晟は戎服で三橋に於いて謁見し、上は馬を駐めてこれを労った。李晟は再拝稽首し、まず元凶が殄滅され、宗廟が再び清まり、宮闈ことごとく粛然たることを賀し、手を打ち舞い感涙し、跪いて言った、「臣は爪牙の任を忝くし、早く妖逆を誅することができず、至って鑾輿が再遷されました。及び城隅に師を出し、累月を経てようやく賊寇を殄滅しましたが、これ皆、臣が庸懦にして職に任じえぬ責めです。敢えて死罪を請います」と。路左に伏した。上はこれがために涙をぬぐい、給事中の斉映に旨を宣させ、左右に命じて李晟を馬前より起こさせた。この月、殿に御して大赦を行い、李晟の父の欽に太子太保を贈り、母の王氏に代国夫人を贈り、永崇里の邸宅及び涇陽の上田・延平門の林園・女楽八人を賜った。邸宅に入る日、京兆府が供帳と酒饌を供し、教坊の楽具を賜り、鼓吹を以て迎導し、宰臣と節将がこれを送り、京師はこれを栄観とした。上は李晟の勲力を思い、紀功碑を制し、皇太子にこれを書かせ、石に刊して東渭橋に立て、天地と悠久ならしめ、また太子に碑詞を書かせて李晟に賜った。
李晟は涇州が辺境に接し、しばしば戎帥を害し、数々乱階を為すことを以て、上書して命に従わぬ者を処罰することを請い、兼ねて耕すことを備えて粟を積み、西蕃を攘却することを上奏し、上は皆これに従った。詔して李晟に鳳翔尹・鳳翔隴右節度使を兼ねさせ、なお隴右涇原節度使を充て、管内諸軍及び四鎮・北庭行営兵馬副元帥を兼管させ、西平郡王に改封した。初め、帝が奉天に在った時、鳳翔軍が乱を起こし、その帥の張鎰を殺し、小将の李楚琳を立てた。この時、楚琳は朝中に在ったが、李晟は楚琳を共に鳳翔へ行かせ、これを誅さんことを請うた。上は京師を回復したばかりで、反側の者を安んじようとしていたので、許さなかった。八月、李晟は鳳翔に至り、張鎰を殺した罪を断じ、王斌ら十余人を斬った。初め、硃泚の乱の時、涇州もまたその帥の馮河清を殺し、別将の田希鑒を立てた。当時は播遷に属し、討伐に遑がなく、涇帥の職を彼に授けた。この時に至り、李晟は奏上して言った、「近頃中原の兵禍は、皆涇州より起こりました。かつその地は西戎に迫り、反覆しやすい。希鑒は凶徒であり、将校は驕逆です。もしこれを懲革しなければ、終には後患となります」と。これに従った。李晟は鳳翔に至り、辺境を巡ると称して涇州に至り、希鑒が迎謁すると、座中でこれを捕らえて誅し、併せて河清を害した石奇ら三十余人を誅し、事の次第を具して上聞した。上は言われた、「涇州の乱逆の泉藪は、李晟でなければこれを治めることはできない」と。鎮に還り、右龍武将軍の李観を涇原節度使に表し、吐蕃はこれを深く畏れた。李晟は常に言った、「河・隴の陥落は、豈に吐蕃の力でこれを取ったのであろうか。皆将帥の貪暴により、種落が携貳し、人が耕稼を得ず、展転して東に徙り、自らこれを棄てたのである。かつ土地には絲絮がなく、人は征役に苦しみ、唐を思う心、豈に已むことがあろうか」と。そこで家財を傾けて降伏者を賞し、以てこれを懐来した。降虜の浪息曩を、李晟は上奏して王に封じ、蕃使が至る毎に、李晟は必ず息曩を座に置き、錦袍・金帯を着せて寵異した。蕃人は皆互いに指さし目で示し、息曩を栄羨した。
李晟は兵権を罷められてより、朝謁の外には、めったに人と交際しなかった。通王府長史の丁瓊という者がおり、これも張延賞に排斥され、心中怨望を抱いていたが、李晟に求めて面会し事を言い、かつ曰く、「太尉の功業は極めて大なるも、なお兵権を罷められました。古より功高き者は、保全する者無し。国家に仮に変故あらば、瓊は左右に備えんことを願います。狡兎三穴、何ぞ早くこれを図らざる」と。李晟怒りて曰く、「汝、何ぞ不祥の言を出すや」と。急ぎ瓊を捕らえて上聞に及ぼした。四年三月、詔して李晟のために五廟を立てしめ、李晟の高祖の芝を以て隴州刺史を贈り、曾祖の嵩を以て澤州刺史を贈り、祖の思恭を以て幽州大都督を贈った。廟が成ると、官が牲牢・祭器・床帳を給し、礼官が儀を相して以て祔した。
五年九月、李晟は侍中の馬燧と共に延英殿で見え、上はその勲力を嘉し、詔して曰く、「昔我が列祖は、乾坤の蕩滌に乗じ、隋季の荒屯を掃い、元を体し極を禦し、人の父母となる。則ちまた熊羆の士、二心なき臣有り、左右経綸し、参翊締構し、文徳を昭かにし、武功を恢め、威は若かず、康は乂かず、用て上帝に命を端し、四方に付畀す。宇宙既に清く、日月既に貞く、王業既に成り、太階既に平らかなり。乃ちその容を図り、この閣に列ね、績効を懋かに昭かにし、儀形を式として表し、一には朝夕に忘れず、一には来裔に永く垂れんとす。君臣の義、厚きことこれより重きは莫し。貞元己巳の歳秋九月、我西宮を行き、宏閣崇構を瞻み、老臣の遺象を見るに、颙然として肅然たり、和敬色に在り、雲龍の葉応を想い、致来の艱難を感ず。往を睹て今を思えば、類を取るに遠からず。且つ功は時と並び、才は代に為りて生ず。苟くもその才を蘊め、その時に遇えば、主を尊び人を庇うは、何の代か有らざらん。中宗に在りては、則ち桓彥範等その輔戴の績を著わし、玄宗に在りては、則ち劉幽求等翼奉の勛を申べ、肅宗に在りては、則ち郭子儀氛昆を掃殄し、今に在りては則ち李晟等朕が躬を保寧す。皆力を宣べ勤めを肆にして、宗社を光復す。前烈に訂するも、夫れ豈に多謝せん。闕けて録せざるは、孰か賢を旌ぐと謂わん。況んや功を念い徳を紀するは、文祖の為す所なり、予に在りて曷ぞ敢て怠らんや。有司宜しく年代の先後を叙し、各その像を旧臣の次に図り、仍て皇太子に朕が是の命を書かしめ、壁に紀せしむべし。庶くは嘉庸を播き、式として下に昭らかにし、俾くは後來の者尚ほ清顔を揖し、元勛の不朽なるを知らしめん」と。復た皇太子に命じてその文を書かせ李晟に賜い、李晟は石に刻んで門の左に置いた。
初め、李晟が鳳翔に在った時、賓介に謂って曰く、「魏徴は能く直言極諫し、太宗を堯・舜の上に致した。真の忠臣なり、僕の慕う所なり」と。行軍司馬の李叔度対えて曰く、「これは搢紳儒者の事にして、勲徳の宜しくする所に非ず」と。李晟は容を斂めて曰く、「行軍、言を失えり」と。伝に『邦に道有れば、言を危くし行いを危くす』と称す。今休明の期、李晟幸いに位を将相に備うるを得たり。心に不可なる有れば、忍びて言わざるは、豈に犯して隠れ無く、知りて為さざる無き者と謂うべけんや。是非は人主の択ぶ所に在るのみ」と。叔度慚じて退く。故に李晟が相と為りては、毎に上に顧問せらるるに当たり、必ず極言して躬を匪にす。大臣の節を尽くした。性沈黙にして、未だ嘗て親しき所に泄らさず。下に臨むこと明察にして、毎に軍を理むるに、必ず曰く某は労有り、某はその事を能くすと、厮養の小善と雖も、必ず姓名を記す。特に下の朋党を為して相構うるを悪み、善を好み悪を嫉むこと、天性に出づ。嘗て恩有る者有れば、厚くこれを報いた。初め、譚元澄が嵐州刺史と為り、嘗て李晟に恩有り、後に坐して岳州に貶せられた。李晟の貴ぶに及び、上疏してこれを理め、詔して元澄に寧州刺史を贈った。元澄の三子、李晟は撫待すること勤めて至り、皆為に宦学を成就せしめ、人皆これを義とした。家を理むること以て厳と称せられ、諸子・侄は晨昏に非ざれば謁見するを得ず、言公事に及ばず、王氏の甥を己が子の如く視た。嘗て正歳に、崔氏の女帰省す、未だ階に及ばずして、李晟これを卻けて曰く、「爾に家あり、況んや姑堂に在り。婦は当に酒醴を奉じ饋に従い、以て賓客を待つべし」と。遂に視ずして家に還し遣わした。その礼に達し教を敦くするこの如し。貞元九年八月薨じ、時に年六十七。上震悼して涕を出だし、朝を五日廃し、百官をして第に就きて臨吊せしめ、京兆尹の李充に命じて喪事を監護せしめ、官葬具を給し、賵賻を加等した。大斂に及び、上自ら手書して意を致し、柩の前に送りて曰く、
冊して太師を贈り、謚して忠武と曰う。李晟の薨じた後、塩州を城し、塩池を復す。上宰臣に新塩を賜い、惻然として李晟を思い、乃ち塩を霊座に致すことを令した。又時に中使を李晟の第に遣わして諸子を存撫せしめ、教戒備わり至り、願等に一善有るを聞けば、上喜色に形れた。眷遇終始、李晟に比ぶる者無し。
元和四年、詔して曰く、「夫れ社稷を定め、生人を済し、不朽の名を存し、久しき可き業を垂るる者は、必ず殊常の寵を以て報い、親比の恩を以て待ち、国と窮まり無くするは、時に惟れ茂典なり。故に奉天定難功臣・太尉・兼中書令・上柱国・西平郡王・食実封一千五百戸・贈太師李晟は、間代の英賢、天よりの忠義、時に済うの宏算を邁し、武を経るの長材を抱き、至誠に貫かれ、一徳に協い、嘗て屯難の際に遭い、実に戡定の功を著わす。鯨鯢既に殲び、宮廟斯く復す。この勲伐を眷みれば、則ち既に褒崇す。永く天歩の夷きを言い、載せて邦傑の功を懐えば、往烈に崇を加えんことを思ひ、爰に後昆に比を協せんとす。宗親を以て睦ましめ、予が厚意を将とす。その家宜しく令して属籍に編附せしむべし。李晟は徳宗の廟庭に饗る」と。
李晟十五子:侗・伷・偕は、祿無く早世す。次に願・聰・總・愻・憑・恕・憲・愬・懿・聽・惎・慇。聰・總は官卑くして卒す。而して願・愬・聽最も知名なり。
子 願
子に李愬あり。
李愬は父の蔭により起家し、太常寺協律郎を授かり、衛尉少卿に遷る。李愬は早くに実母を失い、晉國夫人王氏に養育された。王氏が卒すると、李晟は本来正室ではないとして、緦麻の喪服を着るよう命じたが、号哭して忍びず、李晟はこれに感じ、ついに縗服を着ることを許した。小祥の祭の後、父の喪に服す。李愬は次弟の李憲とともに墓の傍らに廬を結んだが、徳宗は許さず、詔を下して邸に帰るよう命じた。一晩留まった後、徒跣で再び往き、上(皇帝)は奪い難いと知り、ついに喪に服し終えることを許した。喪が明け、右庶子を授かり、少府監・左庶子に転ず。出て坊・晉二州刺史となる。治績行状が殊に優れていたため、金紫光禄大夫を加えられる。再び庶子となり、累遷して太子詹事・宮苑閑廊使に至る。
李愬には籌略があり、騎射を善くした。元和十一年、兵を用いて蔡州の呉元済を討つ。七月、唐鄧節度使の高霞寓が戦いに敗れ、また袁滋を帥に命じたが、袁滋もまた功がなかった。李愬は表を上って自らを陳べ、軍前で自ら効力を尽くすことを願った。宰相の李逢吉もまた李愬の才を用いることができると考え、ついに檢校左散騎常侍を兼ね、鄧州刺史・御史大夫となり、随・唐・鄧節度使を充任する。兵士は敗北の余り、気勢が傷つき沮喪していた。李愬はその情況を推し量り、軍陣を整えず、部隊を揃えなかった。ある者が整えていないことを言うと、李愬は言う、「賊はちょうど袁尚書の寛大で容易なことを安んじている。私は彼らに備えを改めさせたくない」と。ついに三軍に告げて欺いて言うには、「天子は李愬が柔和で恥を忍ぶことを知り、故に汝らを撫養するよう命じられた。戦うことは、私の仕事ではない」と。軍衆は信じてこれを喜んだ。李愬はまたその優人や楽人を散らし、宴楽することはなく、士卒で傷ついた者は自らこれを慰撫した。賊はかつて高・袁の二帥を破り、また李愬の名位は畏れ憚るに足らない者と考え、あまりその備えを増さなかった。李愬は沈着勇敢で遠謀があり、誠意をもって士を待ったので、その卑弱な勢いを用いて、賊の不意を衝くことができた。半年ほど経ち、人を用いることができると知り、ついに蔡を襲うことを謀り、表を上って援軍を請うた。詔により河中・鄜坊の騎兵二千人を増し与えられ、これによって器械を整え補い、密かに軍事を計画した。かつて賊将の丁士良を捕らえ、召し入れて語ると、言辞気概が屈せず、李愬はこれを異とし、ついにその縛を解き、捉生将に置いた。士良はこれに感じ、ついに言う、「賊将の呉秀琳は数千の衆を総べ、急に破ることができないのは、陳光洽の謀を用いているからである。士良は光洽を擒らえて秀琳を降すことができる」と。李愬はこれに従い、果たして光洽を擒らえた。十二月、呉秀琳が文成柵の兵三千をもって降る。李愬はついに直ちにこれを新興柵に移し、ついに秀琳の衆をもって呉房県を攻め、その外城を収めた。初め、呉房を攻めようとした時、軍吏が言うには、「往亡の日です。避けることを請います」と。李愬は言う、「賊は往亡の日に我が来ないと思っている。正に撃つべきである」と。戦いとなり、勝利して帰った。賊は驍騎五百をもって李愬を追った。李愬は馬を下りて胡床に据え、衆に悉く力を尽くして戦いに赴かせ、賊将の孫忠憲を射殺して、ようやく退いた。ある者が李愬に呉房を抜くよう勧めたが、李愬は言う、「これを取れば賊は勢いを合わせてその巣穴を固めるであろう。これを留めてその力を分かつに如かず」と。
初めに、呉秀琳が降伏した際、李愬は単騎で柵の下に至り彼と語り、自らその縛を解き、衙将に任じた。秀琳は恩を感じ、必ず報いようと期し、李愬に言うには、「もし賊を破らんと欲せば、李祐を得るを須う。某は能く為すこと無し」と。李祐は、賊の騎将にして、胆略有り、興橋柵を守り、常に官軍を侮り易くし、往来備え難し。李愬はその将史用誠を召して誡めて曰く、「今、李祐は衆を率いて張柴にて麦を獲る。汝は三百騎を以て傍らの林中に伏せ、又、前にて旆を揺らし、将に麦を焚かんとするを示せ。李祐は平素我が軍を易しとす、必ず軽んじて来たり逐う。汝は軽騎を以て之を搏てば、必ず李祐を獲ん」と。用誠等、其の料の如くにして、果たして李祐を擒えて還る。官軍は常に李祐に苦しめられ、皆殺すを請うたが、李愬は聴かず、縛を解き客礼を以て之に接す。李愬は隙を乗じて常に李祐及び李忠義を召し、人を屏いて語り、或いは夜分に至る。忠義も亦た降将なり、本名は憲、李愬が招致せし者なり。軍中多く李愬を諫むるも、李愬は益々李祐を寵す。始めて敢死者三千人を募りて突将と為し、李愬自ら教習す。李愬、呉元済を襲わんとす、会うに雨水有り、五月より七月に至るまで止まず、溝塍潰溢し、師を出すべからず。軍吏皆、李祐を殺さざるを以て言い、簡翰日々に至り、且つ賊の諜者を得て其の事を具に言うと云う。李愬、之を止むる術無く、乃ち李祐を抱きて泣きて曰く、「豈に天意此の賊を平げんと欲せざるか、何ぞ爾が一身衆口に奪わるるや」と。李愬は又、諸軍先に謗りを以て聞こえさせば、則ち李祐を全うすること能わざるを慮り、乃ち械にて京師に送り、先ず表して釈放を請い、且つ言うには、「必ず李祐を殺さば、則ち以て成功する者無からん」と。李祐の京に至るに及び、詔して釈放し李愬に還す。乃ち散兵馬使に任じ、佩刀せしめて巡警せしめ、帳中に出入りせしむるに、少しも猜閑無し。又、六院兵馬使に改む。旧軍令に、賊の諜者を匿う者は其の家を屠ると有りしを、李愬は其の令を除き、因って厚く之を遇す。諜者は反って情を以て李愬に告ぐ。李愬は益々賊中の虚実を知る。
陳許節度使李光顔は勇諸軍に冠たり、賊は悉く精卒を以て光顔に抗す。是れ由りて李愬は其の無備に乗じ、十月、蔡州を襲わんとす。其の月七日、判官鄭澥をして師期を裴度に告げしむ。十日夜、李祐に突将三千を率いしめて先鋒と為し、李忠義之を副え、李愬自ら中軍三千を帥い、田進誠に後軍三千を以て殿として行かしむ。初め文成柵を出で、衆、向かう所を請う。李愬曰く、「東六十里に止まる」と。賊境に至り、張柴砦と曰う。其の戍卒を尽く殺し、軍士に少しく休息せしめ、羈靮甲冑を繕い、刃を発し弓を彀い、復た旆を建てて出づ。是の日、陰晦雨雪し、大風旗旆を裂き、馬は慄して躍る能わず、士卒は寒さに苦しみ、戈を抱きて僵仆する者道路相望む。其の川沢梁逕の険夷、張柴より已東は、師人は未だ嘗て其の境を蹈まず、皆、身を不測に投ずると謂う。初め張柴に至りし時、諸将、止まる所を請う。李愬曰く、「蔡州に入りて呉元済を取るなり」と。諸将は色を失う。監軍使は哭きて言うには、「果たして李祐の計中に落つ」と。李愬は聴かず、促して進軍を令す。皆、必ず生還せずと謂うも、然れども已に李愬の令に従い、敢えて身の計を為す者無し。李愬、道を分かち五百人をして洄曲路の橋を断たしむ。其の夜、凍死者十二三。又、五百人を分かちて朗山路を断たしむ。張柴より七十里を行き、懸瓠城に至るに比し、夜半、雪愈甚だし。城の近くに鵝鴨池有り、李愬、驚き撃たしめて、以て其の声を雑えしむ。賊は呉房・朗山の固きを恃み、晏然として一人として知る者無し。李祐・李忠義、墉に坎を穿ちて先登し、敢えて鋭き者之に従う。守門の卒を尽く殺して其の門に登り、柝を撃つ者を留む。黎明、雪亦止む。李愬入り、元済の外宅に止まる。蔡の吏、元済に告げて曰く、「城已に陥ちたり」と。元済曰く、「是れ洄曲の子弟帰りて寒衣を求むるのみ」と。俄かに李愬軍の号令将士するに「常侍伝語す」と云うを聞く。乃ち曰く、「何ぞ常侍の此に至るを得んや」と。遂に左右を駆り率いて子城に乗りて拒捍す。田進誠、兵を以て環らして之を攻む。李愬、元済なお董重質の来り救わんことを望むを計り、乃ち重質の家を訪ねて安恤せしめ、其の家人をして書を持たしめて重質を召さしむ。重質、単騎にして李愬に帰す。白衣にて泥首す。李愬、客礼を以て之を待つ。田進誠、子城南門を焚く。元済、城上にて罪を請う。進誠、梯を以て之を下す。乃ち檻車にて京師に送る。其の申・光二州及び諸鎮の兵尚二万余人、相次いで来降す。
元済の就擒より以来、李愬一人も戮さず。其の元済に執事し帳下厨廄の間に在りし者は、皆其の職を復し、之をして疑わざらしむ。乃ち兵を屯めて鞠場にて裴度を待つ。翌日、度至る。李愬、櫜鞬を具えて度の馬首に候う。度将に之を避けんとす。李愬曰く、「此の方、上下等威の分を知らず久し。公に因りて以て之を示さんことを請う」と。度、宰相の礼を以て李愬の迎謁を受く。衆皆聳観す。明日、李愬の軍、文成柵に還る。十一月、詔して李愬を以て検校尚書左僕射、兼ねて襄州刺史・山南東道節度・襄鄧随唐復郢均房等州観察等使・上柱国と為し、涼国公に封じ、食邑三千戸、食実封五百戸、一子を五品正員とす。
初め、李晟が京城を克復した時、市は肆を改めず、及び李愬が淮蔡を平定するに及び、またその美を踵いだ。父子相次いで大勲を建て、兄弟皆兵符を領するも、功業は李愬に及ばず、近代比類するものなし。加之、行い己に常あり、儉にして礼に違わず、兄弟は父の勲寵に席し、率ね仆馬第宅を以て相矜るも、唯だ李愬は六たび大鎮に遷り、処する所は先人の旧宅一院のみ。晩歳、取士に忽せにし、辟請に其人を得ず、吏をして縁りて奸を為さしめ、軍政粛まらず、物論稍く減じ、惜しむかな。
子 李聴
李聴は七歳にして廕を以て太常寺協律郎に授けられ、常に公署に入る。吏胥之を小とし、敬を致さず、李聴之を鞭ちて血を見せしむ。父の李晟之を奇とす。後に吐突承璀に従い王承宗を討ち、神策行営兵馬使と為る。時に昭義の盧従史は両端を持し、賊を討う心無く、承璀は李聴の計を用い、従史を擒えて献ず。左驍衛将軍・兼御史中丞に転ず。出でて安州刺史と為り、鄂嶽観察使柳公綽に従い呉元済を討つ。軍中の動静、悉く李聴の謀を用い、軍声遂に振う。元和年中、李師道を討ち、李聴は楚州刺史と為り、淮南の師を統ぶ。鄆人は素より淮軍を易し、李聴潜かに訓練し、其の不意に出で、海州に趨り、険要に拠り、沐陽の兵を破り、朐山の戍を降し、懐仁・東海両城風に望みて乞降し、山東平ぐ。元和十四年五月、功を以て検校左散騎常侍・夏州刺史・夏綏銀宥節度使に授く。十五年六月、霊州大都督府長史・霊塩節度使に改む。境内に光禄渠有り、廃塞歳久しく、屯田を起こして転輸に代えんと欲し、李聴復た旧渠を開決し、田千余頃を溉ぎ、今に至るまで之に頼る。就いて検校工部尚書を加う。
臣聞く、賞罰立たずんば、以て天下を示す無く、是非一貫せずんば、能く大中を建つること莫しと。窃に見るに、義成軍節度使李聴、昨者其の承藉を資とし、統戎を委ね、憲誠に代えしめ、雄鎮に付す。二万の虎貔の旅を総べ、位極めて寵栄たり。両藩節制の権を兼ね、心報效無し。況んや陛下神算を授け、天威を仮し、魏に入るの期、克日先ず定まれり。而るに李聴は旄を擁して観望し、甲を按じて遷延し、人心を熒惑し、軍政を逗撓す。遂に憲誠を屠戮に陷らしめ、乱衆に其の奸兇を肆わしめ、六郡を垂成に失い、危巣を已に覆えるに固くす。貝州を委ねて守らず、焼劫遺す無く、浅口を望みて疾駆し、狼狽して道に就く。自ら苟免を図り、苞羞を吝しまず、朝章を蔑棄し、児戯に同じ。魏州の乱、職たる李聴の由り。其の負恩を論ずれば、万死猶お幸いなり。伏して以うるに、封常清は河南に失律し、関門に斬らる。高霞寓は唐鄧に破傷し、遐裔に投ぜらる。渾鎬は易定を節制し、将に戦わんとして兵力支えず。袁滋は西川に逗留し、進まんと欲して兇渠尚在り。或いは親しく矢石に当たり、或いは躬ら艱危を歴し、勢賊鋒に屈し、竟に朝典を申す。未だ嘗て法を貸さず、必ず皇威を震う。今李聴の罪状夙に聞こえ、中外憤惋す。之を常清等の輩に比すれば、万々之に過ぐ。若し陛下猶お含弘を示し、極法を置かずんば、臣等恐らくは憲章地に墜ち、天下心を寒からんと。伏して法に付せんことを請う。
上之を罪せず、兵柄を罷め、太子少師と為す。
李聴十たび節旌を領し、至らざる所三鎮。官に蒞ること苛細、将迎遺賂を好み、故に聚斂に急にして、侈欲を窮め極む。位は一品に至り、竟に牖下に終わる。西平(李晟)の遺徳に非ざれば、焉んぞ能く此に及ばんや。
子 李憲
子 李憑
李憑は累ね諸衛大将軍を歴し、李恕は太子洗馬、並びに廕を以て官を授けられ、累遷して少卿監に至る。
子 李惎
李惎は累進して右龍武大將軍に至ったが、酒色に沈湎し、豪奢を恣にし、積もった負債は数千万に及んだ。その子が回鶻から一万余貫の金を借りて返さず、回鶻に訴えられたので、文宗は怒り、李惎を定州司法参軍に貶した。
甥 王佖
史臣が曰く、西平郡王李晟は器量偉大で材能雄渾、人望ありて畏れられ、身を立てて主に事え、磊落として将帥の風あり、義を見て勇むことができ、諫言を受け容れて疑わず、事君に忠なり、応変に長け、誠に一代の賢将である。恒山の役を観れば、立ち談の間に二帥の遺恨を解き、涇原の師の乱では、号哭して奉天の危急に赴いた。これ忠義ならずや。白華への進軍に際し、平涼の会が必ず詐りなることを知り、星変を理由とする異議を退け、渭橋の軍を移した。これ応変ならずや。帯を解いて孝忠の心を結び、婚を請うて延賞の怨みを解き、悪を嫉んで楚琳の任を請うことを止め、乱を懲らしめて希鑒を誅した。これ決断に明らかなりと言わずや。然るに徳宗皇帝は聴断明らかならず、人君の度量なく、功臣をして讒慝の口に困じさせ、奸人に衡石の権を執らしめた。丁瓊の言は、誠に嘆息に堪える。渭橋の石を刻むことに汲々とし、煙閣の銘を賜うことに区区たるも、また何の心ぞ。善を行って慶を遺し、諸子皆才あり、元和中の賊を平ぐる功は、李聴・李愬がその半を占む。父子兄弟、皆功名を以て始終す。道家の忌む所の談、李氏は善を以て勝てり。
賛
賛して曰く、桓桓たる太師、義勇天資。運は禍乱に鐘し、力を顛危を拯う。愬は章武に事え、蔡を誅し斉を平ぐ。淩煙に図を画き、父子宜しきかな。