卷一百三十二
李抱玉、李抱真、王虔休、盧従史、李芃、李澄、族弟の李元素
李抱玉
李抱玉は、武徳の功臣安興貴の末裔である。代々河西に居住し、名馬を養うことを得意とし、当時に称えられた。一族の従兄弟たちは、ある者は京華に移り住み、文儒を習い、士人と通婚する者もあり、次第に士風に染まった。抱玉は西州で成長し、騎射を好み、常に軍幕に従い、沈毅にして謀略があり、小心忠謹であった。
李抱真
興元の初め、検校左僕射・平章事に遷る。時に朱滔は幽薊の軍を尽くし、回紇より兵を借り、五万の衆を擁して南に向かい、朱泚に応じ、貝州を攻囲す。初め、群賊は李希烈に附き、希烈が僭偽を為すや、群賊を臣属せんとする意あり、群賊の心次第に離る。上自ら天下に奉じた罪己の詔を下し、群賊を悉く赦す。抱真は乃ち門客賈林を遣わし、大義を以て王武俊を説き、合従して朱滔を撃たんとす。武俊之を許す。時に両軍尚相疑う、抱真は乃ち数騎を以て径に武俊の営に入る。其の将去らんとするや、賓客皆之を止む。抱真は軍司馬盧玄卿を遣わし、軍を勒して部分し曰く、「僕今日の此の挙、天下の安危に係る。僕死して還らずば、軍事を領して朝命を聴くも亦唯子、士馬を奮励し東向して僕の恥を雪ぐも亦唯子」と。言い訖りて去る。武俊設備甚だ厳し、抱真曰く、「朱泚・希烈大位を僭窃し、朱滔貝州を攻囲す、此の輩皆吾が属を陵駕せんと欲す。足下既に数賊の上に自ら振るわず、九葉の天子を捨てて北面して反虜に臣すや。乃ち者聖上天下に奉じた罪己の詔は、禹・湯の主と謂う可し」と。因りて播越に言及び、武俊を把りて哭し、涕泗交下す。武俊も亦哭し、左右を感動す。因りて退きて武俊の帳中に臥し、久しく酣寝す。武俊其の疑わざるを感し、之を待つこと益恭しく、心を指し天を仰ぎて曰く、「此の身已に公に許して敵に死せん」と。遂に与に兄弟と為りて別れ、明日合戦するを約し、遂に朱滔を経城に撃ち破る。功を以て検校司空を加えられ、実封五百戸。貞元初め、京師に朝す。居ること頃く之を還鎮す。
抱真は沈断にして智計多く、嘗て天下の賢俊を招致せんと欲し、人の善を聞けば、必ず貨幣を持たせ数千里を邀えて致さしむ。至りて語るに採るべき無き者は、漸次に之を退く。時に天下事無く、乃ち大いに台榭を起こし、池沼を穿ちて以て自ら娯しむ。晩節又方士を好み、以て長生を冀う。孫季長と云う者有り、抱真の為に金丹を練り、抱真を紿して曰く、「之を服せば当に仙に昇るべし」と。遂に之を賓僚に署す。数たび参佐に謂いて曰く、「此の丹は秦皇・漢武皆得ること能わず、唯我之に遇う。他年上清に朝して、復た公輩に偶わざるべし」と。復た夢に鶴に駕して天を衝くを覚りて、木鶴を刻み道士の衣を衣て以て之に乗ずるを習う。凡そ丹二万丸を服し、腹堅くして食わず、将に死せんとするや、人を知らざること数日に及ぶ。道士牛洞玄、猪肪谷漆を以て之を下すこと殆んど尽くす。病稍間あり、季長復た曰く、「仙に上らんと垂れんとす、何ぞ自ら棄つるや」と。益々三千丸を服せしむ。頃く之に卒す。初め、抱真久しく疾み、禨祥を好み、或いは厭勝を令し、巫祝に惑わされ、官爵を降して以て之を禳除せんことを請う。是の年、凡そ七たび章を上りて司空を譲り、復た検校左僕射と為る。貞元十年卒す。時に年六十二。朝を廃すること三日、太保を贈り、布帛米粟を賻すること差有り。
抱真薨ずるの日、其の子殿中侍御史李緘、喪を匿して発せず。営田副使盧会昌、抱真の従甥元仲経に令して潜かに緘と謀らしむ。其の明日、将吏会集す。仲経、詐りて抱真の令と為して曰く、「吾疾甚だし、職に蒞ること能わず。今緘に令して軍事を掌らしむ。諸軍善く之を佐けよ」と。節度副使李説及び諸将吏俯首し、皆曰く「諾」と。須臾、緘盛服して出づ。衆皆之を拝す。緘乃ち府蔵を悉くして軍士に頒賞す。盧会昌仍りて詐りて抱真の表と為し、職事を緘に付するを請う。翌日、又諸将に令して連奏して緘の軍を領するを請わしむ。上已に抱真の疾病を聞き、明日請見せんとす。此の如き者凡そ三日、緘乃ち出でて中使に造る。左右皆兵を陳べ、備え甚だ厳し。中使緘に謂いて曰く、「朝廷已に相公の薨歿を知る。兵務を延貴に属するを令す。侍御宜しく帰りて喪を発し服を行え」と。緘愕然たり、出でて諸将に謂いて曰く、「詔有りて緘の事を掌るを許さず。諸公の意如何」と。将吏対する者莫し。緘懼れて退き、遽かに使印及び管鑰を以て監軍に帰す。是の日、乃ち喪を発し、一哭を畢うす。中使延貴を召し、口詔を以て視事を令し、緘を趣して東都に赴かしむ。元仲経外に逃る。延貴捕え得て之を殺す。既に罪を仲経に帰し、盧会昌坐せずして済む。緘初め乱を謀り、裨将陳栄を遣わし詐りて文書を以て成徳節度使王武俊に告げ、財帛を仮せんことを求む。武俊大怒して曰く、「吾が汝が府公と善き者は、王命に恭ならんことを冀うなり。悪を同うするに非ざるなり。今已に亡しと聞く。孰れか詐りて其の子を令して朝旨を俟たざるや。何ぞ敢えて我に告げ、況んや求むる有らんや」と。乃ち陳栄を囚え、使いを遣わして緘を譲る。
王虔休
王虔休、字は君佐、汝州梁の人なり。本名は延貴。少より書籍に渉猟し、郷里の間信義を以て之を畏慕し、尤も武芸を好む。大暦中、汝州刺史李深之を用いて将と為す。久しくして、沢潞節度李抱真名を聞き、厚く財帛を以て之を招き、累ねて兵馬使押衙を授く。建中初め、抱真兵馬を統べ諸将と河北を征討す。其の双岡・水寨営等の陣、虔休攻戦多く居り、擢でて歩軍都虞候と為し、累ねて兼御史中丞・大夫を加えられ、実封百戸を賜う。抱真卒するに及び、裨将元仲経等議りて抱真の子緘を立てんとす。軍中擾乱す。虔休正色して衆に言いて曰く、「軍州は是れ天子の軍州なり。将帥闕くれば、合せて朝命を待つべし。何ぞ乃ち云云し、妄りに異意を生ぜんや」と。軍中其の言に服従し、是れ由りて竟に潰乱を免る。朝廷知りて之を嘉し、邕王を以て昭義節度観察大使と為し、虔休に潞州左司馬を授け、前に依り兼御史大夫、留後を掌らしめ、仍りて名を虔休と賜う。号令安撫す。軍州大いに理む。二歳、潞州長史・昭義軍節度・沢潞磁邢洺観察使に遷り、尋いで検校工部尚書を加えらる。貞元十五年卒す。年六十二。朝を廃すること三日、左僕射を贈り、布帛米粟を賻す。
虔休は性恭勤にして、儉省節用し、管内の州倉庾皆糧儲を積み、軍人数歳を支うる可し。又嘗て『誕聖楽曲』を撰して進む。其の表に曰く。
臣が師より聞くところによれば、君子は楽を理解することができるものである。故に音を審らかにして声を知り、楽を審らかにして政を知るならば、治道は備わるという。清明にして広大、終始周旋し、天地とその和を同じくし、四時とその序を合わせる。鐘鼓管磬のみに止まるものではあるまい。臣が拝見するに、開元中、天長節は甲令に著され、毎年この日には海内の県が歓楽し、万寿の無疆を称え、一人の慶事を楽しんだ。故に堯を追い舜に接し、禹を越え湯を超えることができ、周以後ではこれを論じることができない。臣はひそかに考えるに、陛下の降誕の辰に、未だ新たなる曲がない。太和はすでに六気に布かれているが、大楽は未だ八音に宣べられておらず、臣子の分として、あるいは欠けるところがあるのではないか。愚臣は頑昧をはかりかね、敢えて祖述を思い、歌い踊ることを思うごとに、寝食を忘れること久しい。ちょうど知音者に遇い、臣と楽章を論じ、微を探り奥を究め、理を窮め性を尽くしたので、臣はついに『継天誕聖楽』一曲を作った。おおよそ宮を調とし、五音の君に奉ずることを表し、土を徳とし、五運の中に居ることを知らしめる。凡そ二十五遍、二十四気に法りて一歳を成すに足る。毎遍十六拍、八元・八凱が朝に登庸することを象る。冀うところは、『雲門』『咸池』が律呂に永く伝わり、空桑・孤竹が宮懸に合わさって薦められ、滞りの声を聞かず、中和の楽が長く作られることである。九域の人をして頓に肉味を忘れさせ、四夷の俗をして皆薫風に播かしめ、唐と共に休く、終古に善を尽くすことを。臣は懇款屏営の至りに堪えず、謹んで昧死して陳献し以て聞かせる。その造れる譜は、謹んで同封して進む。
先に、太常楽工の劉玠が潞州に流落していた。虔休はこれに命じてこの曲を作らせて進上させた。今の『中和楽』はこれに始まる。
盧従史
盧従史、その先祖は元魏以来、冠冕頗る盛んであった。父の虔は、幼くして孤となり、学を好み、進士に挙げられ、御史府三院・刑部郎中・江・汝二州刺史・秘書監を歴任した。従史は若くして力を誇り、騎射を習い、沢・潞の間を遊歴し、節度使李長栄が大将に用いた。徳宗の中ごろ、節度使を命ずる毎に、必ず本軍に採訪してその帰する所の者を選ばせた。長栄が卒すると、従史は軍情に乗じ、かつ中使への迎合が巧みであったため、昭義軍節度使を授けられた。次第に狂恣で道に外れ、部将の妻妾を奪うに至り、弁舌巧みに矯妄し、従事の孔戡らは直言が用いられないとして去った。前年父の喪に遭ったが、朝旨は起復を議せず、時に王士真が卒した。従史はひそかに王承宗誅伐の計を献じて、上意を希い、これにより起用され、その成功を委ねられた。詔が下って賊を討つと、兵を出しながら逗留して進まず、ひそかに承宗と通謀し、軍士に賊の号を潜かに懐かせ、また芻粟の価を高くして度支に売り、朝廷を諷して宰相を求め、かつ諸軍が賊と通じていると誣奏し、兵は進められないと言った。上は深くこれを憂えた。
護軍中尉吐突承璀が神策兵を率いてこれと対峙した。従史はしばしばその営を訪れて博戯した。従史は貪欲で利を得ることを好んだ。承璀は宝帯・奇玩を出してこれを誇示し、その愛悦する時に与えた。従史は大いに喜び、日増しに親しくなった。上はこの事を知り、裴垍の謀を採用し、承璀に命じてその博戯に来るのを待ち、揖して語らい、幕下に壮士を伏せさせ、突然立ち上がらせて捕え出し、帳後で縛り、車中に納め、馳せて闕に赴かせた。従者は驚乱し、十数人を斬り、残りに号令してようやく定まり、かつ密詔を宣諭し、闕庭に追赴させた。都将の烏重胤は平素より忠順を懐いていたので、厳しくその軍を戒め、衆は敢えて動かなかった。夜に乗じて疾駆させ、未明に境を出たので、道路上の人も知る者はなかった。元和五年四月、制して曰く。
邪をもって衆を蓄えれば、自ら覆車を招く。奸をもって君に事えれば、用いるべきは鉞である。故に楚人の変を告げ、韓信は患いを事前に解かれ、蜀土の災を征し、鐘会は禍を部下に生ず。況んや害は楚・蜀より深く、功は鐘・韓に非ず、この厲階を構え、公議に布く。私を懐き徳に背き、厳科に置くべし。法を屈して恩を申し、尚お寛典に従う。前昭義軍節度副大使・知節度事盧従史は、裨将より抜擢され、大藩に居りながら、報国の誠を思わず、常に身を殉ずる計を設く。比年家禍に遭い、曾て戚容無く、人倫を棄て行い、孝道を損ない大性を欠く。常山の乱に属し、朝制未だ行わず、固より師を興すことを願い、苟くも復位を求む。期を刻して效用を請い、身を以て先んずることを請い、指日に投誠し、独り致すと誓う。懐撫を示し、信誠を推す。衆論を排してその苴麻を解き、中心を決してその鈇鉞を授け、重任を委ね、専征を命ず。章奏の陳ぶる所、事違う者無く、恩光は是を貸す、朕何ぞ愛せんや。然るに利を冒し奸を蓄え、政を隳し度を敗り、師既に出でて、敵を保ちて交通し、邪計以て行い、戎に臨んで向背す。諸侯尽力して応ぜず、遺寇遊魂にして是に托す。臣節既に喪えば、恩豈に生成を念わんや。台位を求めれば、礼頓に忠敬を虧く。その醜行を肆にし、凶威を熾んにし、軍中を逼脅し、賊号を潜かに施し、麾下を陵污し、実に皇風を玷う。貨をもって藩身とし、虐をもって衆を用い、士庶怨みて恤わず、将校労して図らず。陶鈞に稟り、事ここに行う、天地に視れば、負うこと何ぞ多き、且つ覆載の仁を辜んじ、寧くんぞ神鬼の責を逭れんや。況んや頃年上請し、山東に就食し、及び師を旋遣せしむるに、時に恭命せず、その衆を動かし、その心を生ぜんと覬い、劉濟の忠正の辞に頼り、邪豎の遅回の計を絶たしむ。加うるに遍く鄰境を毀り、密かに事情を疏し、反覆百端、高下萬變、心恥愧無く、事満盈に至る。朕は始終を念い、含貸に務む、期する所は過ちを悔いむるに在り、豈に逾凶を謂わんや。而して昭義軍は忠節夙に彰れ、義声昭著、その衆怒を発し、一心に葉い、大悪を顧みて容れず、幸いに全軀して自ら免る。大戮に従うべく、以て彝章を正すべし。尚お以て曾て方隅に列し、嘗て任使を経たるを惜しみ、君臣の体を思い、中外の情を抑え、魑魅の郷に投ぜしめ、以て人神の憤を解かしむ。驩州司馬に貶すべし。嗚呼、奸は事験により、自ら棄絶の門を開く。禍は実に己が招く、豈に恢疏の網を漏らさんや。凡百多士、宜しく朕が懐を諒とすべし。
子の継宗ら四人は並びに嶺外に貶された。
李芃
李芃、字は茂初、趙郡の人である。初めて上邽主簿に任じられ、三遷して試大理評事、監察御史を摂り、山南東道観察支使となった。厳武が京兆尹となった時、挙げられて長安尉となった。李勉が江西観察使となった時、秘書郎・兼監察御史に署奏され、判官となった。永泰初め、転じて兼殿中侍御史となった。
時に宣州・饒州の民、方清・陳莊が徒党を集めて山洞に拠り、西は江路を遮断し、商旅を掠めて乱を為した。芃は秋浦に州を置き、その要地を守ってその謀を破ることを請うた。李勉はその計を然とし、これを聞かせると、代宗はこれを嘉し、宣州の秋浦・青陽、饒州の至徳をもって池州を置いた。芃は事を行うことを摂り、間もなく、侍御史を兼ねた。居ること暫くして、魏少游が勉に代わって使となると、再び署して奏し、検校虞部員外郎とし、金紫を賜い、都団練副使とした。ほどなく、江州刺史を摂り、州人はこれを便とした。母憂に遭い、喪が免れると、永平軍節度李勉が署して奏し、検校工部郎中・兼侍御史とし、判官とし、間もなく陳州刺史を摂った。その年のうちに、李霊曜が汴州で反するに遭い、勉は芃に亳州防禦使を兼ねさせ、軍事に練達し、兵備は甚だ粛然とした。また陳州・潁州の運路を開き、漕運を通じた。
徳宗が位を嗣ぐと、検校太常少卿・兼御史中丞・河陽三城鎮遏使を授かった。撫慰労苦は備わり至り、資糧の善きものは必ず軍士に先んじた。一年を隔てて、節度使路嗣恭の副と為り、検校左庶子・河陽三城懐州節度観察使を加えられ、東畿汜水等五県をこれに隷属させた。時に河南・河北は大軍を連ね、詔して神策軍・汝州・陝州の師を益す。芃は進んで新郷・共城を収め、遂に衛州を包囲した。明年、詔して河東節度馬燧等諸軍とともに田悦を洹水で破り、功により検校兵部尚書を加えられ、累ねて開郡王に封ぜられ、実封一百戸を賜った。悦を魏州に包囲し、将の符璘が精騎五百を率いて夜降したので、芃は耳を開いて営を納れた。明日、璘を招討使に帰した。上が奉天に居ると、軍を収めて還った。
李澄
李澄は、遼東襄平の人、隋の蒲山公寛の後なり、京兆に住む。父の鎬は、清江太守、澄のために工部尚書を贈られた。澄は武芸を以て偏将と為り、累ねて試将作監を除かれ、江淮都統李峘に隷属した。建中初め、検校太子賓客・兼御史中丞を以て永平軍節度使李勉に隷属した。勉が汴州に治を移すに及んで、乃ち澄を滑州刺史と為すことを奏した。四年冬、李希烈が汴州を陥とすと、勉は行在に奔り帰り、澄は遂に城を以て希烈に降り、偽りに尚書令を署し、滑州永平軍節度使を兼ねた。
李元素
李元素、字は大朴、蒲山公密の孫なり。侍御史に任ず。時に杜亜が東都留守と為り、大将令狐運を悪む。盗が洛城の北に発するに会い、運は適にその部下と北郊に畋す。亜はその盗たるを意とし、遂にこれを執り訊み、逮系する者四十余人。監察御史楊寧その事を按ずるも、亜は直からずと為し、密かに表してこれを陳ぶ。寧は遂に罪を得たり。亜は将にその宿怒を逞うし、且つ賊を得て功と為さんとし、上表して運が盗たる状を指し明かす。上は信じて疑わず。宰臣は獄大なるを以て審にすべきを以て、奏してこれを覆すことを請う。命して元素に就いて決せしむ。亜は路に迎えて獄成るを以て告ぐ。元素これを験すること五日、その囚を尽く釈して還す。亜は大いに驚き、且つ怒り、親しく追送し、馬上にこれを責むるも、元素答えず。亜は遂に上疏し、又ち元素を誣う。元素還り奏す。言未だ畢らざるに、上怒りて曰く、「出でて命を俟て」と。元素曰く、「臣未だ詞を尽くさず」と。上又た曰く、「且く去れ」と。元素復た奏して曰く、「一出すれば復た陛下を見ること得ず。乞うらくは詞を尽くすことを容れよ」と。上の意稍く緩み、元素尽く運の冤状明白なるを言う。上乃ち寤りて曰く、「卿に非ざれば、孰か能くこれを弁せんや」と。後数月、竟にその真賊を得たり。元素ここにおいて時に器重せられ、給事中に遷る。時に美官缺くるも、必ず元素を指す。尚書右丞に遷る。数月、鄭滑節度盧群卒す。遂に命して元素に御史大夫を兼ねさせ、鄭滑を鎮めしむ。就いて検校工部尚書を加う。鎮に在りて理を称す。
元和の初め、召されて御史大夫に拝された。貞元の中頃よりその位は欠け、久しく適任の人を得難かったが、この時に至り元素は名望によって召し拝され、朝廷内外は聳動して聞いた。ところがその位に居るに及んで、何一つ修め挙げる所なく、ただ相となることを求めるばかりであった。久しくして次第に志を得ず、客を見れば必ず言うには、「某の官が散官であるからといって疎遠にしないでくれ」と。属官を見れば必ず先に拝し、脂韋の輩が列をなして、大いに人情を失った。李錡が江南に乱を起こすと、遂に元素を浙西道節度観察処置等使に授けた。数か月して交代を受け、入朝して国子祭酒に拝され、まもなく太常卿に遷り、戸部尚書・判度支に転じた。
元素は幼くして孤となり、長姉に奉じて友敬の情を人に優って加え、その姉が歿すると、深く悲しみ病に罹り、上疏して懇ろに辞し、許された。数か月して、妻を出したことにより免官された。初め、元素は再び妻の王氏を娶った。これは石泉公方慶の孫で、性質柔弱であり、元素が郎官の時に娶り、甚だ礼重したが、貴くなるに及んで、僕妾の情に溺れ、遂にこれを薄くした。かつまた子がなく、前妻の子は既に成長し、良からず、元素は病臥して昏惑し、讒言を聴いて遂にこれを出し、給与は厚くなかった。妻の一族が上訴したので、詔して曰く、「李元素は病中に上表し、懇切に披陳して云う、『妻王氏は礼義に甚だ背き、願わくは離絶せん』と。初めは平素醜行あるかと謂い、顕言し難く、その大官の家なるを以て、自ら処置せしめた。訪い聞くに、曾て妻の一族に告げ報いず、また明らかな過失も書き記すべきものなし。蓋し中情和せず、遂にここに至ったのである。王命を以て脅し、当日に遣り帰し、給送の間、また甚だ単薄である。ただ王氏辱しめを受けたるのみならず、実に朝廷の情も悉く驚く。かくの如く家を理むるは、まさに懲責に合う。官を停むべく、なお王氏に銭物を与え、奏を通じて数五千貫に満たすべし」と。元和五年に卒し、陝州大都督を贈られた。
【贊】
史臣曰く、李抱玉・李抱真は、武勇の材を以て、忠義の行いを兼ね、有唐の良将なり。かつまた農隙に潞人の射を教え、数騎を以て武俊の営に入るが如きは、奇謀なくして、誰かかくの如くならん。惜しいかな服食して仙を求め、薬に誤らる。王虔休は僭命に与せず、足るに嘉すべきあり。盧従史は動くこと多く奸を懐き、自ら伊戚を貽す。芃は則ち老いて足るを知り、澄は則ち過ちて改図す。元素が御史たりし時は、徳を執りて回らず。大夫に居る日は、その心甚だ短し。因縁七出(七去)に縁り、益々醜声を露わし、善少なく悪多く、また何ぞ算うるに足らん。
贊して曰く、抱玉・抱真、我が朝の良将。虔休の心、また多く尚ぶべし。史は奸謀を懐き、芃は禄を将って譲る。澄は却行に迷い、素は一響に貪る。吾誰とか欺かん、豈に忠諒の如からんや。