卷一百三十一
李勉
李勉、字は玄卿、鄭王元懿の曾孫なり。父の擇言は、漢・褒・相・岐の四州刺史・安德郡公となり、歴任した所は皆厳格で有能として知られた。漢州に在った時、張嘉貞が益州長史・判都督事となり、性格は簡素で尊大であり、管内の刺史に対する礼は疎遠であったが、擇言を引いて同じ榻に座らせ、政務について談じたので、当時の人はこれを栄誉とした。勉は幼くして経史に勤しみ、長じて沈着雅量で清らか峻厳、虚玄(老荘の学)を宗とし、近親として陪位し、累次して開封尉を授けられた。当時は昇平の日が久しく、かつ汴州は水陸の湊合する所で、邑居は雑多で、治め難いと号されていたが、勉と連尉の盧成軌らは、共に奸を擒え伏を擿つ名声があった。
至徳初年、霊武に従い、監察御史に拝された。朝廷が武を重んじるに属し、勲臣は寵を恃んで、多く礼を知らなかった。大将の管崇嗣が行在の朝堂で闕に背いて坐り、言笑自若としていたので、勉がこれを弾劾し、有司に拘束した。粛宗は特にこれを赦し、歎じて曰く、「我に李勉ありて、始めて朝廷の尊きを知るなり」と。司膳員外郎に遷る。時に関東より俘虜百余りを献じ、詔して並びに処斬せんとした。囚人のうち天を仰いで歎ずる者がいたので、勉が過ぎて問うと、対えて曰く、「某は脅迫されて官を守ったのであり、叛逆者ではございません」と。勉はこれを哀れみ、上言して曰く、「元悪未だ殄らず、点汚に遭う者は天下の半ば、皆心を澡いで帰化せんと欲しております。若し尽く之を殺せば、是れ天下を駆りて以て兇逆に資するなり」と。粛宗は急ぎ騎を奔らせて赦免させ、これにより帰化する者が日に至った。西京を克復し、累次清要の職を歴任し、四遷して河南少尹となった。累次して河東節度使王思禮・朔方河東都統李國貞の行軍司馬となり、尋いで梁州都督・山南西道観察使に遷る。勉は故吏の前密県尉王晬が勤勉で有能であるとして、南鄭令を摂行させた。俄かに詔して処死せんとしたので、勉がその故を問うと、権幸に誣いられたためであった。勉は将吏に諮って曰く、「上は方に牧宰を藉りて人の父母と為さんとし、豈に讒言を以て不辜を殺すべきや」と。即ち詔を停めて晬を拘え、表を飛ばして上聞せしめ、晬は遂に赦免された。しかし勉は結局執政に非難され、追い入られて大理少卿となった。謁見し、面を陳べて王晬に罪無きこと、政事を条挙して尽力する吏であることを述べた。粛宗はその正を守ることを嘉し、乃ち太常少卿を除した。王晬は後に推挙されて大理評事・龍門令となり、終わりに能名有り、時に人を知ると称された。
四年、広州刺史・兼嶺南節度観察使を除された。番禺の賊帥馮崇道・桂州の叛将硃濟時らが洞に阻まれて乱を為し、前後累年、十余州を陥没させた。勉が至り、将の李観を遣わし容州刺史王翃と力を併せて招討し、悉く之を斬り、五嶺平らぐ。前後西域の船が海を泛び至る者は歳に才四五隻であったが、勉は性廉潔にして、船来るも皆検閲せず、故に末年には至る者四十余隻となった。官に在ること累年、器用車服に増飾無し。代わって帰るに及び、石門に至り舟を停め、悉く家人の貯える所の南貨犀象の諸物を捜し、之を江中に投じた。耆老は前朝の宋璟・盧奐・李朝隱の徒に継ぐ可しと為した。人吏闕に詣でて碑を立てんことを請い、代宗許した。十年、工部尚書に拝された。滑亳永平軍節度使令狐彰が卒し、遺表して勉を挙げて自ら代わらしめ、因って之を除した。鎮に在ること八年、旧徳清重を以て、厳しくせずして治まり、東の諸侯暴驁なる者も、亦宗敬した。
勉は坦率素淡、古を好み奇を尚び、清廉簡易、宗臣の表と為る。琴を鼓するに善くし、詩を属するを好み、音律を妙に知り、能く琴を自制し、又巧思有り。相位に在ること向かう二十年、禄俸は皆親党に遺し、身没して私積無し。其の大官に在りては、礼賢下士、終始尽心す。名士の李巡・張参を判官と為し、幕に卒す。三歳の内、毎に宴飲に遇うれば、必ず虚位を筵次に設け、膳を陳べ酹を執り、辞色凄惻、論者之を美す。或いは曰く、「勉梁城を失守す、亦貶す可きなり」と。
論者は言う、「そうではない。賊の凶暴な乱が始まった時、その猛々しく陰険な禍は、凶悪な勢いは当たるべからざるものであり、天はまさにその毒を厚くして罰を下したのである。況や李勉は応変の才に長けず、援軍も来ず、またその時関中はすでに騒擾し、人心はすでに動揺していた。文吏の才をもって、虎狼の隊に当たるに、その全軍を率いて宋に奔ったのは、力を量る恥ではない。坐して喪敗を受けるよりは、まさりはしないか」と。
李皋
李皋、字は子蘭、曹王李明の玄孫、嗣王李戢の子である。若くして左司御率府兵曹参軍に補せられる。天宝十一載に嗣封を受け、都水使者に任じられ、三遷して秘書少監に至り、皆同正であった。智謀多く、事に因って自ら便利を図ることを善くした。太妃鄭氏に仕えて孝行で知られた。
上元の初め、京師は旱魃に見舞われ、米一斗が数千銭に値し、死者甚だ多かった。李皋は俸禄では養うに足らずと推し量り、急いで外官を請うたが、許されず、わざと微罪を犯し、温州長史に貶せられた。間もなく、州事を摂行した。凶作の年、州に官粟数十万斛があり、李皋は賑救を行おうとしたが、掾吏が叩頭して上旨を待つよう乞うた。李皋は言った、「人は日に二度食わねば死ぬものであり、どうして命を請う暇があろうか。もし私一身を殺して数千人の命を生かすならば、これ以上の利はない」。そこで倉を開いて全てを分け与え、専断で貸し出した罪を以て、急ぎ上奏して自らを劾した。天子はこれを聞いて賞賛し、優詔で答え、少府監を加えられた。李皋が県を巡行した時、白髪の老女が泣いているのを見て、哀れんで尋ねると、答えて言うには、「李氏の婦人で、二人の子、李鈞と李鍔がおり、官遊して二十年帰らず、貧しくて自ら養う術がない」と。時に李鈞は殿中侍御史、李鍔は京兆府法曹であり、共に文芸で科挙に及第し、当時名が重かった。李皋は言った、「『入りては孝、出でては悌、行いて余力あれば、然る後に以て文を学ぶべし』。この二人の者の如きは、どうして列位に備えることができようか」。これにより挙奏し、共に除名して歯するに足らざる者とした。処州別駕に改められ、州事を行い、良政で知られた。京に召されたが、未だ召見されず、理道について上書し、衡州刺史に任じられた。小法に坐し、潮州刺史に貶せられた。時に楊炎が道州に謫官されており、李皋の事が正しいと知り、宰相となると、再び衡州に任じた。初め、李皋が御史として覆訊を受けた時、太妃に憂いをかけることを恐れ、ついに外に出るときは素服、内に入るときは公服とし、言動容貌は平常の如くであったので、太妃はついに知らなかった。潮州に任じられた時、遷任と偽って言い、ここに至って復位したので、初めて泣いて打ち明け、かつ病気でなければ敢えて知らせなかったと言った。
徳宗が奉天に在った時、淮南節度使陳少游が塩鉄銭を強奪し、その使者包佶が財貨を携えて江を遡り、蘄口に停泊した。時に李希烈は既に汴州を屠り、また驍将杜少誠を遣わして歩騎一万余を率いて蘄・黄を寇し、江道を断たんとした。曹王皋は伊慎に七千の兵を率いさせてこれを防がせ、永安戍で遭遇した。伊慎は三つの柵を列ね、相去ること僅か四里、鼓角を中柵に列ねた。杜少誠が至ると、兵を分けてこれを囲んだが、部隊が未だ整わぬうちに、鼓を鳴らして三柵が斉に出て奮撃し、行陣を為さず、賊は乱れ、杜少誠は敗走し、首級一万を斬り、屍を封じて京観を築いた。功により銀青光禄大夫を加えられ、封戸五百を進封された。皇帝が梁州に至ると、進献が続いて届いた。曹王皋は、皇帝が外で蒙塵していることを憚り、城府に居ることを敢えず、西塞山の上流の大洲に軍を屯し、近県に軍市を設けると、商貨が悉く集まった。工部尚書を加えられた。車駕が京師に還ると、また伊慎・王鍔に兵を率いさせて安州を囲ませた。州城は□水を阻みとして堅固であり、攻めること数日にして下らなかった。李希烈は甥の劉戒虚に歩兵八千を率いさせて来援させた。曹王皋は李伯潜に命じて師を分けて応山で迎撃させ、劉戒虚及び大将二名・裨将二十名を捕らえ、千余の首級を斬った。劉戒虚らを面縛して城下に至らせ、人を遣わして説得すると、賊は言った、「大将及び賓佐一二人を得て信と為し、当に降らん」。曹王皋は王鍔・馬彝に縄で城に入らせ、城中が大いに呼ぶと、遂に出て降った。李希烈はまた兵を遣わして随州を援けさせたので、曹王皋は伊慎に命じて厲郷でこれを撃ち、大いに破り、平静・白雁等の関を復した。李希烈は懼れ、兵を収めた。貞元初め、江陵尹・荊南節度等使に拝され、江漢は曹王皋を頼りとして堅固であった。間もなく、李思登が随州を以て降った。凡そ州四つ・県十七を下し、大小十余の陣に、未だ嘗て敗衄しなかった。淮西が既に平定されると、喪を護り東都に祔することを請い、皇帝は中使を遣わして弔問し、父に右僕射を贈り、母に曹国太妃を贈った。葬儀を終えて来朝し、詔により鎮に還り、東都を出て墓を拝し、見る者これを栄しとした。
以前、江陵の東北に漢水の古堤に沿った廃田二箇所があり、毎夏になれば溢れたが、曹王皋が初めてこれを塞がせ、田五千頃を広げ、一畝につき一鐘を得た。江南の廃洲を区画して廬舎とし、江に二つの橋を架け、流人が自ら占うこと二千余戸に及んだ。荊州から楽郷に至る凡そ二百里の間に、旅舎や郷聚が凡そ十数あり、大きいものは皆数百家であった。楚の風俗は軽薄で、井戸を穿たず、陂沢の水を飲んでいたが、曹王皋が初めて銭を合わせて井戸を開かせ、人々の便とした。
初め、扶風の馬彝は未だ名を知られていなかったが、曹王皋が初めてこれを辟召し、遂に正直をもって称された。漢陽王張柬之の林園が州の西にあり、公府は多くこれを借りて游宴したが、曹王皋がこれを買おうとすると、馬彝は衽を整えて言った、「張漢陽は中興の功があり、今その遺業は百代保つべきもので、王たとえこれを欲するも、どうしてその子孫に自ら売らせようとするのか」。曹王皋は謝して言った、「主吏が言葉を誤り、足下の為に恥ずかしい。足下がなければ、どうしてこの言葉を聞くことができようか」。過ちを改めて善に遷り、人を知り下を任せることを己の任とし、故に賓従将佐多く大官に至った。貞元八年三月、在位中に暴卒し、年六十、朝を廃すること三日、右僕射を贈られ、賻吊差等あり、諡して成といった。子に象古・道古・復古あり。
象古
象古は衡州刺史より安南都護となった。元和十四年、楊清に殺され、妻子と支党は焦類無かった。楊清という者は、代々南方の酋豪であり、象古の貪欲で放恣なことに属し、人心が附かず、また楊清の強さを憎み、驩州刺史より召されて牙門将としたが、鬱々として快からず。間もなく、邕管の黄家賊が叛き、詔により象古が数道の兵を発して共にこれを討たせたが、象古は楊清に命じて兵三千を率いさせて赴かせた。楊清はその子の志烈及び親しい杜士交と潜かに謀り、戈を回らし、夜に安南を襲い、数日で城は陥ち、象古は故に害に及んだ。朝廷は唐州刺史桂仲武を都護とし、且つこれを招諭させた。楊清を赦し、瓊州刺史とした。桂仲武が境に至ると、楊清は受け入れず、また部署を約束し、刑戮は憯虐で、人々は聊か生きる楽しみもなかった。桂仲武は人を遣わしてその酋豪を諭し、数ヶ月の間に、帰附が続いて至り、兵約七千余人を集め、その城を収め、楊清及びその子の志貞を斬り、その家を籍没した。志烈と杜士交は敗れ、長州の鑿溪に保ったが、間もなくその部兵を率いて来降した。
道古
李愬が蔡州に入ると、乃ち降った。
【史贊】
史臣が曰く、李勉・李皋は、天性端正にして、身を処すること廉潔、民に臨み事に蒞るに、動もすれば美声有り、宗臣の英と謂うべし。若し夫れ軍旅を治め、寇戎を禦ぐに至りては、謀は必ず臧く、戦は必ず勝つ、則ち又た勉は皋に及ばざること遠し。道古は便佞にして、奸を以て君に事え、何ぞ父子の相類せざるや。
賛に曰く、我が宗の英は、皋と勉と曰い、才は同じからずと雖も、道豈に相遠からんや。