舊唐書

巻131

巻131

舊唐書

原文舊唐書

卷一百三十一

原文卷一百三十一

列傳第八十一 李勉 李皋

原文列傳第八十一 李勉 李皋

李勉

原文李勉

李勉、字は玄卿、鄭王元懿の曾孫なり。父の擇言は、漢・褒・相・岐の四州刺史・安德郡公となり、歴任した所は皆厳格で有能として知られた。漢州に在った時、張嘉貞が益州長史・判都督ととく事となり、性格は簡素で尊大であり、管内の刺史に対する礼は疎遠であったが、擇言を引いて同じ榻に座らせ、政務について談じたので、当時の人はこれを栄誉とした。勉は幼くして経史に勤しみ、長じて沈着雅量で清らか峻厳、虚玄(老荘の学)を宗とし、近親として陪位し、累次して開封尉を授けられた。当時は昇平の日が久しく、かつ汴州は水陸の湊合する所で、邑居は雑多で、治め難いと号されていたが、勉と連尉の盧成軌らは、共に奸を擒え伏を擿つ名声があった。

原文李勉,字玄卿,鄭王元懿曾孫也。父擇言,為漢褒相岐四州刺史、安德郡公,所歷皆以嚴干聞。在漢州,張嘉貞為益州長史、判都督事,性簡貴,待管內刺史禮隔,而引擇言同榻,坐談政理,時人榮之。勉幼勤經史,長而沉雅清峻,宗於虛玄,以近屬陪位,累授開封尉。時升平日久,且汴州水陸所湊,邑居龐雜,號為難理,勉與聯尉盧成軌等,並有擒奸擿伏之名。

至徳初年、霊武に従い、監察御史に拝された。朝廷が武を重んじるに属し、勲臣は寵を恃んで、多く礼を知らなかった。大将の管崇嗣が行在の朝堂で闕に背いて坐り、言笑自若としていたので、勉がこれを弾劾し、有司に拘束した。粛宗は特にこれを赦し、歎じて曰く、「我に李勉ありて、始めて朝廷の尊きを知るなり」と。司膳員外郎に遷る。時に関東より俘虜百余りを献じ、詔して並びに処斬せんとした。囚人のうち天を仰いで歎ずる者がいたので、勉が過ぎて問うと、対えて曰く、「某は脅迫されて官を守ったのであり、叛逆者ではございません」と。勉はこれを哀れみ、上言して曰く、「元悪未だ殄らず、点汚に遭う者は天下の半ば、皆心を澡いで帰化せんと欲しております。若し尽く之を殺せば、是れ天下を駆りて以て兇逆に資するなり」と。粛宗は急ぎ騎を奔らせて赦免させ、これにより帰化する者が日に至った。西京を克復し、累次清要の職を歴任し、四遷して河南少尹となった。累次して河東節度使王思禮・朔方河東都統李國貞の行軍司馬となり、尋いで梁州都督・山南西道観察使に遷る。勉は故吏の前密県尉王晬が勤勉で有能であるとして、南鄭令を摂行させた。俄かに詔して処死せんとしたので、勉がその故を問うと、権幸に誣いられたためであった。勉は将吏に諮って曰く、「上は方に牧宰を藉りて人の父母と為さんとし、豈に讒言を以て不辜を殺すべきや」と。即ち詔を停めて晬を拘え、表を飛ばして上聞せしめ、晬は遂に赦免された。しかし勉は結局執政に非難され、追い入られて大理少卿となった。謁見し、面を陳べて王晬に罪無きこと、政事を条挙して尽力する吏であることを述べた。粛宗はその正を守ることを嘉し、乃ち太常少卿を除した。王晬は後に推挙されて大理評事・龍門令となり、終わりに能名有り、時に人を知ると称された。

原文至德初,從至靈武,拜監察御史。屬朝廷右武,勳臣恃寵,多不知禮。大將管崇嗣於行在朝堂背闕而坐,言笑自若,勉劾之,拘於有司,肅宗特原之,歎曰:「吾有李勉,始知朝廷尊也。」遷司膳員外郎。時關東獻俘百餘,詔並處斬,囚有仰天歎者,勉過問之,對曰:「某被脅制守官,非逆者。」勉乃哀之,上言曰:「元惡未殄,遭點污者半天下,皆欲澡心歸化。若盡殺之,是驅天下以資兇逆也。」肅宗遽令奔騎宥釋,由是歸化日至。克復西京,累歷清要,四遷至河南少尹。累為河東節度王思禮、朔方河東都統李國貞行軍司馬,尋遷梁州都督、山南西道觀察使。勉以故吏前密縣尉王晬勤干,俾攝南鄭令,俄有詔處死,勉問其故,乃為權幸所誣。勉詢將吏曰:「上方藉牧宰為人父母,豈以譖言而殺不辜乎!」即停詔拘晬,飛表上聞,晬遂獲宥,而勉竟為執政所非,追入為大理少卿。謁見,面陳王晬無罪,政事條舉,盡力吏也。肅宗嘉其守正,乃除太常少卿。王晬後以推擇拜大理評事、龍門令,終有能名,時稱知人。

粛宗は勉を大用せんとしたが、会に李輔國が寵任され、意として勉に己に礼を降らせんとした。勉はそのために屈せず、遂に抑えられ、出て汾州・虢州刺史を歴任し、京兆尹・検校右庶子・兼御史中丞・都畿観察使に改めた。尋いで河南尹を兼ね、明年尹を罷め、中丞として西台に帰り、又江西観察使を除された。賊帥の陳莊が連ねて江西の州県を陥し、偏将の呂太一・武日升が相継いで背叛したが、勉は諸道と力を戦わせ、悉く攻め平らげた。部人のうち父が病んだ者が、蠱道を用いて木偶人を作り、勉の名位を署し、その隴に埋めた。或る者が告げたが、勉は曰く、「父の災いを禳うためなり、亦矜れむべし」と。これを赦した。大暦二年、来朝し、京兆尹・兼御史大夫に拝され、政は簡素厳粛を尚んだ。宦官の魚朝恩が観軍容使となり、仍って国子監事を知り、寵を恃み威を含み、天憲(天子の法令)を舌に在りし。前尹の黎干は心を写して事に候い、動くこと必ず媚びを求め、朝恩が監に入る毎に、府の人吏を傾けて数百人の餼(食糧)を具えて以て之を待った。勉が職に蒞ること旬月にして、朝恩が監に入ろうとした時、府吏が期に先んじて請うた。勉曰く、「軍容使は国子監事を判ず、勉は太学に候う。軍容は宜しく厚く主礼を具うべし。勉は京尹を忝くす、軍容倘い府廷を恵顧せば、豈に敢えて蔬饌を具えざらんや」と。朝恩聞いてこれを恨み、因って復た太学に至らず、勉も尋いで代を受けられた。

原文肅宗將大用勉,會李輔國寵任,意欲勉降禮於己。勉不為之屈,竟為所抑,出歷汾州、虢州刺史,改京兆尹、檢校右庶子、兼御史中丞、都畿觀察使。尋兼河南尹,明年罷尹,以中丞歸西台,又除江西觀察使。賊帥陳莊連陷江西州縣,偏將呂太一、武日升相繼背叛,勉與諸道力戰,悉攻平之。部人有父病,以蠱道為木偶人,署勉名位,瘞於其隴,或以告,曰:「為父禳災,亦可矜也。」捨之。大歷二年,來朝,拜京兆尹、兼御史大夫,政尚簡肅。宦官魚朝恩為觀軍容使,仍知國子監事,恃寵含威,天憲在舌。前尹黎干寫心候事,動必求媚,每朝恩入監,傾府人吏具數百人之餼以待之。及勉蒞職旬月,朝恩入監,府吏先期有請,勉曰:「軍容使判國子監事,勉候太學,軍容宜厚具主禮。勉忝京尹,軍容倘惠顧府廷,豈敢不具蔬饌。」朝恩聞而銜之,因不復至太學,勉亦尋受代。

四年、広州刺史・兼嶺南節度観察使を除された。番禺の賊帥馮崇道・桂州の叛将硃濟時らが洞に阻まれて乱を為し、前後累年、十余州を陥没させた。勉が至り、将の李観を遣わし容州刺史王翃と力を併せて招討し、悉く之を斬り、五嶺平らぐ。前後西域の船が海を泛び至る者は歳に才四五隻であったが、勉は性廉潔にして、船来るも皆検閲せず、故に末年には至る者四十余隻となった。官に在ること累年、器用車服に増飾無し。代わって帰るに及び、石門に至り舟を停め、悉く家人の貯える所の南貨犀象の諸物を捜し、之を江中に投じた。耆老は前朝の宋璟・盧奐・李朝隱の徒に継ぐ可しと為した。人吏闕に詣でて碑を立てんことを請い、代宗許した。十年、工部尚書に拝された。滑亳永平軍節度使令狐彰が卒し、遺表して勉を挙げて自ら代わらしめ、因って之を除した。鎮に在ること八年、旧徳清重を以て、厳しくせずして治まり、東の諸侯暴驁なる者も、亦宗敬した。

原文四年,除廣州刺史,兼嶺南節度觀察使。番禺賊帥馮崇道、桂州叛將硃濟時等阻洞為亂,前後累歲,陷沒十餘州。勉至,遣將李觀與容州刺史王翃人並力招討,悉斬之,五嶺平。前後西域舶泛海至者歲才四五,勉性廉潔,舶來都不檢閱,故末年至者四十餘。在官累年,器用車服無增飾。及代歸,至石門停舟,悉搜家人所貯南貨犀象諸物,投之江中,耆老以為可繼前朝宋璟、盧奐、李朝隱之徒。人吏詣闕請立碑,代宗許之。十年,拜工部尚書。及滑亳永平軍節度令狐彰卒,遺表舉勉自代,因除之。在鎮八年,以舊德清重,不嚴而理,東諸侯雖暴驁者,亦宗敬之。

十一年、汴宋留後田神玉卒し、詔して勉に汴州刺史・汴宋節度使を加えた。未だ行かず、汴州の将李霊曜が兵を阻み、北に田承嗣と結び、承嗣は甥の悦をして鋭兵を将いて之を戍らしめた。詔して勉と李忠臣・馬燧らに攻討せしめ、大いに之を破り、悦は僅かに身を以て免れた。霊曜は北に走り、勉の騎将杜如江が之を擒えて献じ、代宗褒賞甚だ厚し。既にして李忠臣が代わって汴州を鎮めたが、勉は仍って旧鎮にあった。忠臣は下に遇するに貪虐にして、明年麾下に逐われ、詔して復た勉に汴宋節度使を加え、治を汴州に移し、余は並びに旧の如し。徳宗嗣位し、検校吏部尚書を加え、尋いで平章事を加えた。建中元年、検校左僕射と為し、河南汴宋滑亳河陽等道都統を充て、余は旧の如し。四年、李希烈反し、他盗を名として、衆を悉くして来たり汴州を寇す。勉は城を守ること累月、救援至らず、其の将に謂いて曰く、「希烈は兇逆残酷、若し力と較うれば、必ず多く無辜を殺す、吾れ忍びざるなり」と。遂に潜かに師をして囲みを潰えさせ、南に奔って宋州に至る。詔して司徒しと平章事を以て征す。既に朝廷に至り、素服して罪を請う。優詔して其の位を復し、勉は過ちを引いて備位するのみ。無何、盧杞が新州員外司馬より澧州刺史を除せられんとしたが、給事中袁高は杞が邪佞にして政を蠹すとし、貶謫未だ責を塞がずとして、詔を停めて表を執り、遂に澧州別駕を授けた。他日、上勉に謂いて曰く、「衆人皆盧杞の奸邪を言う、朕何ぞ知らざるや!卿其の状を知るか」と。対えて曰く、「天下皆其の奸邪を知る、独り陛下知らざる、是れ以て奸邪と為るなり」と。時人多に其の正直を称したが、然れども是より見疏んぜらる。累表して位を辞し、遂に知政事を罷め、太子太保を加えられた。貞元四年卒す、年七十二、上頗る愍悼し、冊して太傅を贈り、賻物差有り、喪葬は官に給す。

原文十一年,汴宋留後田神玉卒,詔加勉汴州刺史、汴宋節度使。未行,汴州將李靈曜阻兵,北結田承嗣,承嗣使侄悅將銳兵戍之。詔勉與李忠臣、馬燧等攻討,大破之,悅僅以身免。靈曜北走,勉騎將杜如江擒之以獻,代宗褒賞甚厚。既而李忠臣代鎮汴州,而勉仍舊鎮。忠臣遇下貪虐,明年為麾下所逐,詔復加勉汴宋節度使,移理汴州,餘並如故。德宗嗣位,加檢校吏部尚書,尋加平章事。建中元年,檢校左僕射,充河南汴宋滑亳河陽等道都統,餘如故。四年,李希烈反,以他盜為名,悉眾來寇汴州。勉城守累月,救援莫至,謂其將曰:「希烈兇逆殘酷,若與較力,必多殺無辜,吾不忍也。」遂潛師潰圍,南奔宋州。詔以司徒平章事征。既至朝廷,素服請罪,優詔復其位,勉引過備位而已。無何,盧杞自新州員外司馬除澧州刺史,給事中袁高以杞邪佞蠹政,貶未塞責,停詔執表,遂授澧州別駕。他日,上謂勉曰:「眾人皆言盧杞奸邪,朕何不知!卿知其狀乎?」對曰:「天下皆知其奸邪,獨陛下不知,所以為奸邪也。」時人多其正直,然自是見疏。累表辭位,遂罷知政事,加太了太保。貞元四年卒,年七十二,上頗愍悼之,冊贈太傅,賻物有差,喪葬官給。

勉は坦率素淡、古を好み奇を尚び、清廉簡易、宗臣の表と為る。琴を鼓するに善くし、詩を属するを好み、音律を妙に知り、能く琴を自制し、又巧思有り。相位に在ること向かう二十年、禄俸は皆親党に遺し、身没して私積無し。其の大官に在りては、礼賢下士、終始尽心す。名士の李巡・張参を判官と為し、幕に卒す。三歳の内、毎に宴飲に遇うれば、必ず虚位を筵次に設け、膳を陳べ酹を執り、辞色凄惻、論者之を美す。或いは曰く、「勉梁城を失守す、亦貶す可きなり」と。

原文勉坦率素淡,好古尚奇,清廉簡易,為宗臣之表。善鼓琴,好屬詩,妙知音律,能自制琴,又有巧思。,及在相位向二十年,祿俸皆遺親黨,身沒而無私積。其在大官,禮賢下士,終始盡心。以名士李巡、張參為判官,卒於幕,三歲之內,每遇宴飲,必設虛位於筵次,陳膳執酹,辭色心妻惻,論者美之。或曰:「勉失守梁城,亦可貶也。」

論者は言う、「そうではない。賊の凶暴な乱が始まった時、その猛々しく陰険な禍は、凶悪な勢いは当たるべからざるものであり、天はまさにその毒を厚くして罰を下したのである。況や李勉は応変の才に長けず、援軍も来ず、またその時関中はすでに騒擾し、人心はすでに動揺していた。文吏の才をもって、虎狼の隊に当たるに、その全軍を率いて宋に奔ったのは、力を量る恥ではない。坐して喪敗を受けるよりは、まさりはしないか」と。

原文議者曰:「不然。當賊烈之始亂,其慓悍陰禍,兇焰不可當,天方厚其毒而降之罰。況勉應變非長,援軍莫至,又其時關輔已俶擾矣,人心已動搖矣。以文吏之才,當虎狼之隊,其全師奔宋,非量力之恥也。與其坐受喪敗,不猶愈乎!」

李皋

原文李皋

李皋、字は子蘭、曹王李明の玄孫、嗣王李戢の子である。若くして左司御率府兵曹参そうしん軍に補せられる。天宝十一載に嗣封を受け、都水使者に任じられ、三遷して秘書少監に至り、皆同正であった。智謀多く、事に因って自ら便利を図ることを善くした。太妃鄭氏に仕えて孝行で知られた。

原文李皋,字子蘭,曹王明玄孫,嗣王戢之子。少補左司御率府兵曹參軍。天寶十一載嗣封授都水使者,三遷至秘書少監,皆同正。多智數,善因事以自便。奉太妃鄭氏以孝聞。

上元の初め、京師は旱魃に見舞われ、米一斗が数千銭に値し、死者甚だ多かった。李皋は俸禄では養うに足らずと推し量り、急いで外官を請うたが、許されず、わざと微罪を犯し、温州長史に貶せられた。間もなく、州事を摂行した。凶作の年、州に官粟数十万斛があり、李皋は賑救を行おうとしたが、掾吏が叩頭して上旨を待つよう乞うた。李皋は言った、「人は日に二度食わねば死ぬものであり、どうして命を請う暇があろうか。もし私一身を殺して数千人の命を生かすならば、これ以上の利はない」。そこで倉を開いて全てを分け与え、専断で貸し出した罪を以て、急ぎ上奏して自らを劾した。天子はこれを聞いて賞賛し、優詔で答え、少府監を加えられた。李皋が県を巡行した時、白髪の老女が泣いているのを見て、哀れんで尋ねると、答えて言うには、「李氏の婦人で、二人の子、李鈞と李鍔がおり、官遊して二十年帰らず、貧しくて自ら養う術がない」と。時に李鈞は殿中侍御史、李鍔は京兆府法曹であり、共に文芸で科挙に及第し、当時名が重かった。李皋は言った、「『入りては孝、出でては悌、行いて余力あれば、然る後に以て文を学ぶべし』。この二人の者の如きは、どうして列位に備えることができようか」。これにより挙奏し、共に除名して歯するに足らざる者とした。処州別駕に改められ、州事を行い、良政で知られた。京に召されたが、未だ召見されず、理道について上書し、衡州刺史に任じられた。小法に坐し、潮州刺史に貶せられた。時に楊炎が道州に謫官されており、李皋の事が正しいと知り、宰相となると、再び衡州に任じた。初め、李皋が御史として覆訊を受けた時、太妃に憂いをかけることを恐れ、ついに外に出るときは素服、内に入るときは公服とし、言動容貌は平常の如くであったので、太妃はついに知らなかった。潮州に任じられた時、遷任と偽って言い、ここに至って復位したので、初めて泣いて打ち明け、かつ病気でなければ敢えて知らせなかったと言った。

原文上元初,京師旱,米斗直數千,死者甚多。皋度俸不足養,亟請外官,不允,乃故抵微法,貶溫州長史。無幾,攝行州事。歲儉,州有官粟數十萬斛,皋欲行賑救,掾吏叩頭乞候上旨,皋曰:「夫人日不再食,當死,安暇稟命!若殺我一身,活數千人命,利莫大焉。」於是開倉盡散之,以擅貸之罪,飛章自劾。天子聞而嘉之,答以優詔,就加少府監。皋行縣,見一媼垂白而泣,哀而問之,對曰:「李氏之婦,有二子:鈞、鍔,宦游二十年不歸,貧無以自給。」時鈞為殿中侍御史,鍔為京兆府法曹,俱以文藝登科,名重於時。皋曰:「『入則孝,出則悌,行有餘力,然後可以學文。』若二子者,豈可備於列位!」由是舉奏,並除名勿齒。改處州別駕,行州事,以良政聞。征至京,未召見,因上書言理道,拜衡州刺史。坐小法,貶潮州刺史。時楊炎謫官道州,知皋事直,及為相,復拜衡州。初,皋為御史覆訊,懼貽太妃憂,竟出則素服,入則公服,言貌如平常,太妃竟不知。及為潮州,詭詞謂遷,至是復位,方泣以白,且言非疾不敢有聞。

建中元年、湖南観察使に遷る。前任の辛京杲は貪婪残忍で、将軍の王國良が邵州武岡県を鎮めていたが、豪富であった。京杲は死罪を加えようとした。國良は危惧し、人の苦しむところに因り、ついに財を散じて衆を聚め、県を拠って叛いた。諸道が共に討ったが、連年して下せなかった。李皋が任命を受けた日、言った、「疲弊した民を駆り、反覆する者を誅するのは、聖朝に奉ずる道ではない」。使者を遣わして國良に書を送り言った、「将軍が敢えて大逆をなすのではない、讒嫉に遭い、誤って死を救うだけだと観る。将軍、我に遇うて、どうして速やかに降らないのか。我は将軍と共に辛京杲に陥れられ、我は既に聖朝に昭雪された。我に何の心あって刃を持って将軍を殺せようか。将軍がそうでないと思わば、我は陣術をもって将軍の陣を破り、攻法をもって将軍の城を屠るであろう。将軍の測りうる所ではない」。國良は書を捧げ、憂い且つ喜び、使者を遣わして降伏を請うたが、必ずしも決心していなかった。李皋は即日、県に赴いて降を受けようとした。途中、斥候騎兵が馳せ告げて言うには、「國良の軍中に変あり、降伏は偽りだという」。李皋は言った、「お前たちの知るところではない」。そこで麾下の兵を留め、単騎で使者と偽り、まっすぐ國良の陣中に入った。國良が使者を召し入れると、李皋は遂に軍中で大声に叫んだ、「曹王を知る者はいるか。ただ我こそがそれだ。國良、どうして速やかに降らないのか」。一軍愕然として敢えて動かなかった。ちょうど知る者が走り寄り、伝呼して言う、「その通りだ」。國良は匍匐して叩頭し、罪を請うた。李皋は手を執って兄弟の約を結び、攻守の備えを全て焼き払い、倉庫を散じて兵士に与え、農桑に復するよう命じた。詔があり、國良の罪を赦し、名を惟新と賜った。

原文建中元年,遷湖南觀察使。前使辛京杲貪殘,有將王國良鎮邵州武岡縣,豪富,京杲以死罪加之。國良危懼,因人所苦,遂散財聚眾據縣以叛,諸道同討,聯歲不能下。皋授命日,乃曰:「驅疲甿,誅反側,非所以奉聖朝事。」遣使遺國良書曰;「觀將軍非敢大逆,蓋遭讒嫉,救誤死而已。將軍遇我,何不速降?我與將軍同為辛京杲所構,我已蒙聖朝昭雪,使我何心持刃殺將軍耶!將軍以為不然,我以陣術破將軍陣,以攻法屠將軍城,非將軍所度也。」國良捧書,且憂且喜,遣使請降,亦未必決。皋即日赴縣受降,中道有候騎馳告曰:「國良軍中有變,言降是詐也。」皋曰:「非爾輩所知。」遂留麾下兵,單騎假稱使者,逕入國良壘中。國良召使者入,皋遂大叫軍中曰:「有人識曹王否?只我是。國良何不速降?」一軍愕眙不敢動。適有識者走至,傳呼曰:「是」。國良匍匐叩頭請罪。皋執手約為兄弟,盡焚攻守之備,散倉庫,給兵士,令復農桑。有詔赦國良罪,賜名惟新。

建中二年、母の喪に服す。喪を奉じて江陵に至る。時に梁崇義が反したので、起復して左衛大将軍に任じられ、再び湖南に還り、まもなく散騎常侍さんきじょうじを加えられた。李希烈が反し、江西道節度使・洪州刺史・兼御史大夫に遷る。州に至り、将吏を集めて令して言った、「かつて功有りながら未だ申し上げられざる者は、別に行を作れ。策謀及び器能ありて軍を佐けうる者は、別に行を作れ」。裨将の伊慎・李伯潛・劉旻が皆自ら申告した。李皋はその言葉と気性を察し、功有りを確かめ、悉く大将に補した。王鍔を抜擢して中軍に委ね、馬彝・許孟容を賓佐とした。甲兵を繕い、戦艦を備え、軍二万余を将いた。初め、伊慎は江西兵を率いて李希烈に従い襄州を平定したが、李希烈が反すると、李皋に任用されることを恐れ、密かに鎖甲を贈り、また伊慎の書状を偽造して往来させ、境に遺棄した。上はこれを聞き、即ち中使を遣わして伊慎を斬らせようとした。李皋は上表して赦し、自ら効力を尽くすよう請うた。賊と江を挟んで陣を成した時、中使がまた至った。李皋はそこで励まして功を以て自ら贖うよう命じ、自らの乗馬と器甲を賜い、鋒を将いて先んじるよう命じた。李皋は軍を率いてこれに続き、その功を責めた。果たして賊を大破し、数百級を斬首したので、伊慎はようやく罪を免れた。賊は蔡山に堡柵を築いた。李皋は峻険で攻め難いと推し量り、そこで西の蘄州を取ると声言し、戦艦を整え、兵を分けて南岸に沿わせ、舟師と共に江を溯上した。賊は老弱をもって柵を守らせ、軍を率いて江に沿って戦艦に随い、南北で李皋の兵と相対した。蔡山を去ること三百余里、李皋は歩兵に舟に登らせ、流れに順って東下させ、一日ならずして蔡山を抜いた。賊は還って救おうとしたが、一日隔ててようやく至り、大破した。これにより進んで蘄州を抜き、その将李良を降し、また黄州を取り、千余級を斬首した。兵勢はますます振るい、舒王が元帥となり、李皋に前軍兵馬使を加えた。

原文建中二年,丁母艱,奉喪至江陵。會梁崇義反,乃授起復左衛大將軍,復還湖南,尋加散騎常侍李希烈反,遷江西道節度使、洪州刺史、兼御史大夫。至州,集將吏而令曰:「嘗有功未申者,別為行;有策謀及器能堪佐軍者,別為行。」有裨將伊慎、李伯潛、劉旻皆自占,皋察其詞氣,驗其有功,悉補大將。擢王鍔委之中軍,以馬彝、許孟容為賓佐。繕甲兵,具戰艦,將軍二萬餘。初,伊慎將江西兵從李希烈平襄州,及反,懼皋任之,乃陰遣遺之鎖甲,又詐為慎書往復,置遺於境。上聞,即遣中使斬慎,皋表請捨令自效。會與賊夾江為陣,中使又至,皋乃勉令以功自贖,賜之以所乘馬及器甲,令將鋒而先,皋率軍繼之,責其有功,果大破賊,斬首數百級,慎方得免罪。賊樹堡柵於蔡山,皋度峻險不可攻,乃聲言西取蘄州,理戰艦,分兵傍南涯,與舟師溯江而上。賊以老弱守柵,引軍循江隨戰艦,南北與皋兵相直。去蔡山三百餘里,皋令步兵登舟,順流東下,不日拔蔡山。賊還救,間一日方至,大破之,因進拔蘄州,降其將李良,又取黃州,斬首千餘,兵益振,舒王為元帥,加皋前軍兵馬使。

徳宗が奉天に在った時、淮南節度使陳少游が塩鉄銭を強奪し、その使者包佶が財貨を携えて江を遡り、蘄口に停泊した。時に李希烈は既に汴州を屠り、また驍ぎょう将杜少誠を遣わして歩騎一万余を率いて蘄・黄を寇し、江道を断たんとした。曹王皋は伊慎に七千の兵を率いさせてこれを防がせ、永安戍で遭遇した。伊慎は三つの柵を列ね、相去ること僅か四里、鼓角を中柵に列ねた。杜少誠が至ると、兵を分けてこれを囲んだが、部隊が未だ整わぬうちに、鼓を鳴らして三柵が斉に出て奮撃し、行陣を為さず、賊は乱れ、杜少誠は敗走し、首級一万を斬り、屍を封じて京観を築いた。功により銀青光禄大夫を加えられ、封戸五百を進封された。皇帝が梁州に至ると、進献が続いて届いた。曹王皋は、皇帝が外で蒙塵していることを憚り、城府に居ることを敢えず、西塞山の上流の大洲に軍を屯し、近県に軍市を設けると、商貨が悉く集まった。工部尚書を加えられた。車駕が京師に還ると、また伊慎・王鍔に兵を率いさせて安州を囲ませた。州城は□水を阻みとして堅固であり、攻めること数日にして下らなかった。李希烈は甥の劉戒虚に歩兵八千を率いさせて来援させた。曹王皋は李伯潜に命じて師を分けて応山で迎撃させ、劉戒虚及び大将二名・裨将二十名を捕らえ、千余の首級を斬った。劉戒虚らを面縛して城下に至らせ、人を遣わして説得すると、賊は言った、「大将及び賓佐一二人を得て信と為し、当に降らん」。曹王皋は王鍔・馬彝に縄で城に入らせ、城中が大いに呼ぶと、遂に出て降った。李希烈はまた兵を遣わして随州を援けさせたので、曹王皋は伊慎に命じて厲郷でこれを撃ち、大いに破り、平静・白雁等の関を復した。李希烈は懼れ、兵を収めた。貞元初め、江陵尹・荊南節度等使に拝され、江漢は曹王皋を頼りとして堅固であった。間もなく、李思登が随州を以て降った。凡そ州四つ・県十七を下し、大小十余の陣に、未だ嘗て敗衄しなかった。淮西が既に平定されると、喪を護り東都に祔することを請い、皇帝は中使を遣わして弔問し、父に右僕射を贈り、母に曹国太妃を贈った。葬儀を終えて来朝し、詔により鎮に還り、東都を出て墓を拝し、見る者これを栄しとした。

原文德宗居奉天,淮南節度陳少游強取鹽鐵錢,其使包佶以財幣溯江,次於蘄口。時希烈已屠汴州,又遣驍將杜少誠將步騎萬餘來寇蘄、黃,將絕江道。皋遣伊慎將七千眾御之,遇於永安戍。慎列三柵,相去才四里,列鼓角中柵。少誠至,分兵圍之,部隊未嚴,聲鼓而三柵齊出奮擊,不為行陣,賊亂,少誠敗走,斬首萬級,封屍為京觀。以功加銀青光祿大夫,進封五百戶。上至梁州,進獻繼至。皋以上蒙塵於外,不敢居城府,乃於西塞山上游大洲屯軍,從近縣為軍市,商貨畢至。加工部尚書。駕還京師,又遣伊慎、王鍔將兵圍安州,州城阻□水為固,攻之累日不下。希烈遣甥劉戒虛將步八千來援。皋命李伯潛分師迎擊於應山,獲戒虛及大將二、裨將二十,斬首千餘。面縛戒虛等之城下,乃使人說之,賊曰:「得大將及賓佐一二人為信,當降。」皋乃使王鍔、馬彝繩城而入,城中大呼,乃出降。希烈又遣兵援隨州,皋令伊慎擊於厲鄉,大破之,復平靜、白雁等關。希烈懼,乃戢兵。貞元初,拜江陵尹、荊南節度等使,江漢倚皋為固。未幾,李思登以隨州降。凡下州四、縣十七,大小十餘陣,未嘗敗衄。淮西既平,請護喪祔東都,上遣中使吊,贈父右僕射,母曹國太妃。葬畢來朝,詔還鎮,出東都以拜墓,觀者榮之。

以前、江陵の東北に漢水の古堤に沿った廃田二箇所があり、毎夏になれば溢れたが、曹王皋が初めてこれを塞がせ、田五千頃を広げ、一畝につき一鐘を得た。江南の廃洲を区画して廬舎とし、江に二つの橋を架け、流人が自ら占うこと二千余戸に及んだ。荊州から楽郷に至る凡そ二百里の間に、旅舎や郷聚が凡そ十数あり、大きいものは皆数百家であった。楚の風俗は軽薄で、井戸を穿たず、陂沢の水を飲んでいたが、曹王皋が初めて銭を合わせて井戸を開かせ、人々の便とした。

原文先,江陵東北有廢田傍漢古堤二處,每夏則溢,皋始命塞之,廣田五千頃,畝得一鐘。規江南廢洲為廬捨,架江為二橋,流人自占二千餘戶。自荊至樂鄉凡二百里,旅舍鄉聚凡十數,大者皆數百家。楚俗佻薄,不穿井,飲陂澤,皋始命合錢開井以便人。

初め李希烈を平定し、呉少誠が陳仙奇を殺した時、皇帝は襄・鄧が要害であることを以て、三年、襄州刺史・山南東道節度等使を除し、汝・随を割いて隷属させた。兵を練り糧を積み、回鶻の馬を市って騎兵を増やし、堂々と大いに狩りをして兵士を教え、呉少誠はこれを憚った。性格は勤倹で、人の疾苦を知り、監司を設け、よく下の意見を参聴し、将吏の短長を掌握し、賞罰は必ず信を取った。赴任地では常に物価を平らかにし、高ければこれを売り出し、将吏の廩俸に給し、豪家がその利を擅にすることはできなかった。常に心を運らし巧思を凝らして戦艦を造り、二輪を挟んでこれを踏み、翔風が浪を鼓するが如く、速さは帆席を掛けたようで、造るものは省易で且つ久しく堅固であった。また欹器を造り、内中に進上した。人に物を贈る時は、常に自ら秤量した。官に署する匹帛には皆印を押し、吏の私利を絶った。

原文初平希烈,吳少誠殺陳仙奇,上以襄、鄧要厄,三年,除襄州刺史、山南東道節度等使,割汝、隨隸焉。練兵積糧,市回鶻馬益騎兵,堂大畋以教士,少誠憚之。性勤儉,知人疾苦,設監司,能參聽下,持將吏短長,賞罰必信。所至常平物價,貴則出賣之,給將吏廩俸,豪家不得擅其利。常運心巧思為戰艦,挾二輪蹈之,翔風鼓浪,疾若掛帆席,所造省易而久固。又造欹器,進入內中。每遺人物,常自秤量。署之官匹帛皆印之,絕吏之私。

初め、扶風の馬彝は未だ名を知られていなかったが、曹王皋が初めてこれを辟召し、遂に正直をもって称された。漢陽王張柬之の林園が州の西にあり、公府は多くこれを借りて游宴したが、曹王皋がこれを買おうとすると、馬彝は衽を整えて言った、「張漢陽は中興の功があり、今その遺業は百代保つべきもので、王たとえこれを欲するも、どうしてその子孫に自ら売らせようとするのか」。曹王皋は謝して言った、「主吏が言葉を誤り、足下の為に恥ずかしい。足下がなければ、どうしてこの言葉を聞くことができようか」。過ちを改めて善に遷り、人を知り下を任せることを己の任とし、故に賓従将佐多く大官に至った。貞元八年三月、在位中に暴卒し、年六十、朝を廃すること三日、右僕射を贈られ、賻吊差等あり、諡して成といった。子に象古・道古・復古あり。

原文初,扶風馬彝未知名,皋始辟之,卒以正直稱。漢陽王張柬之有林園在州西,公府多假之游宴,皋將買之,彝斂衽而言曰:「張漢陽有中興功,今遺業當百代保之,王縱欲之,奈何令其子孫自鬻焉!」皋謝曰:「主吏失詞,為足下羞;微足下,安得聞此言!」以改過遷善、知人任下為己任,故賓從將佐多至大官。貞元八年三月,暴卒於位,年六十,廢朝三日,贈右僕射,賻吊有差,謚曰成。子象古、道古、復古。

象古

原文象古

象古は衡州刺史より安南都護となった。元和十四年、楊清に殺され、妻子と支党は焦類無かった。楊清という者は、代々南方の酋豪であり、象古の貪欲で放恣なことに属し、人心が附かず、また楊清の強さを憎み、驩州刺史より召されて牙門将としたが、鬱々として快からず。間もなく、邕管の黄家賊が叛き、詔により象古が数道の兵を発して共にこれを討たせたが、象古は楊清に命じて兵三千を率いさせて赴かせた。楊清はその子の志烈及び親しい杜士交と潜かに謀り、戈を回らし、夜に安南を襲い、数日で城は陥ち、象古は故に害に及んだ。朝廷は唐州刺史桂仲武を都護とし、且つこれを招諭させた。楊清を赦し、瓊州刺史とした。桂仲武が境に至ると、楊清は受け入れず、また部署を約束し、刑戮は憯虐で、人々は聊か生きる楽しみもなかった。桂仲武は人を遣わしてその酋豪を諭し、数ヶ月の間に、帰附が続いて至り、兵約七千余人を集め、その城を収め、楊清及びその子の志貞を斬り、その家を籍没した。志烈と杜士交は敗れ、長州の鑿溪に保ったが、間もなくその部兵を率いて来降した。

原文象古自衡州刺史為安南都護。元和十四年,為楊清所殺,妻子支黨無焦類焉。楊清者,代為南方酋豪,屬象古貪縱,人心不附,又惡清之強,自驩州刺史召為牙門將,郁郁不快。無何,邕管黃家賊叛,詔象古發兵數道共討之,像古命清領兵三千赴焉。清與其子志烈及所親杜士交潛謀回戈,夜襲安南,數日城陷,像古故及於害。朝廷命唐州刺史桂仲武為都護,且招諭之。赦清,以為瓊州刺史。仲武至境,清不納,復約束部署,刑戮憯虐,人無聊生。仲武使人諭其酋豪,數月間,歸附繼至,約兵七千餘人,收其城,斬清及其子志貞,籍沒其家。志烈與士交敗,保於長州之鑿溪,尋以所部兵來降。

道古

原文道古

道古は進士第に登り、司門員外郎に遷った。便佞で巧みに宦達し、早く朝籍に昇り、常に酒肴や囲碁・博戯を以て公卿の門を游し、賭けの際には、毎に偽って勝たずとし厚く償ったので、故に当時虚名があり、利を嗜む者は皆これと狎んだ。処・随・唐・睦の四州刺史を歴任し、黔中観察使より鄂・岳・沔・蘄・安・黄団練観察使となり、時に元和十一年であった。初め、柳公綽が鎮に在って功が無いことを以て、議してこれを代えようとしたが、裴度が言った、「道古は曹王皋の子であり、曹王皋は嘗て江漢の兵を以て李希烈の乱を遏え、威恵は今に至るまで人に在り、その子を再用すれば必ず能くその美を継ぐであろう」。憲宗はこれを然りとし、故にこの授けがあった。鎮に赴くに当たり、倍道を行い、数騎を以て径ちに安州城に入った。時に柳公綽は全く道古の至るを意にせず、惶駭して出で、家財多く奪われた。十二年、道古は申州を攻め、その羅城を克ち、乃ち進んで中城を囲んで逼った。城中の守卒が夜に婦人を帥いて城に登り呼び、懸門を窃かに開き、その衆を分け出したので、道古の衆は驚乱し、虜に殺された。初め、李聴が安州を守り、未だ嘗て退衄しなかった。道古が至ると、誣って李聴を奏し、移し去らせ、乃ち自ら兵を帥いて穆陵に出た。士卒は驕惰で、賜給多く欠け、その度支の供軍銭を、道古は半ば以て権倖に奉じ、半ば以て己に没し、人皆怨怒し、力戦しようとしなかった。賊もまた道古を易しとし、羸兵を以てこれに当てたので、故に道古は前後再び申州の外城を攻め破ったが、抜くことができなかった。

原文道古登進士第,遷司門員外郎。便佞巧宦,早升朝籍,常以酒餚棋博游公卿門,角賭之際,每偽為不勝而厚償之,故當時有虛名,而嗜利者悉與之狎。歷處、隨、唐、睦四州刺史,由黔中觀察為鄂、岳、沔、蘄、安、黃團練觀察使,時元和十一年也。初,以柳公綽在鎮無功,議將代之,裴度言:「道古嗣曹王皋之子,皋嘗以江漢兵遏希烈之亂,威惠至今在人,復用其子必能繼美。」憲宗然之,故有此授。及赴鎮,倍道而行,以數騎徑入安州城。時公綽殊未意道古至,惶駭而出,家財多為所奪。十二年,道古攻申州,克其羅城,乃進圍逼其中城。城中守卒夜帥婦人登城而呼,懸門竊發,分出其眾,道古之眾驚亂,為虜所殺。初,李聽守安州,未嘗退衄。及道古至,誣奏聽,移去之,乃自帥兵出穆陵。士卒驕惰,賜給多闕,其度支供軍錢,道古半以奉權倖,半以沒己,人皆怨怒,不肯力戰。賊亦易道古,以羸兵抵之,故道古前後再攻破申州外城而不能拔。

李愬が蔡州に入ると、乃ち降った。

原文至李愬入蔡州,乃降。

元和十三年、宗正卿として入朝した。道古が鄂州に在った日、貪暴をもって聞こえ、終に罪を得ることを懼れ、乃ち山人柳泌を薦めて上に媚びた。後また左金吾衛将軍となった。憲宗の末年は頗る方士を信じ、服食に鋭く、詔して天下に奇士を搜訪させた。宰相皇甫鎛が方に諛媚して寵を固めようとしていた時、道古が柳泌に道術があると言い、皇甫鎛がこれを進めることができ、翰林に待詔した。憲宗は服餌過当し、暴に狂躁の疾を成し、以て棄代に至った。穆宗が東宮に在った時、その事を扼腕し、喪に居ると、皆竄逐誅戮した。皇甫鎛が既に貶責されると、道古に循州司馬を授け、終に丹薬を服し、血を嘔いて卒した。

原文元和十三年,入為宗正卿。道古在鄂州日,以貪暴聞,懼終得罪,乃薦山人柳泌以媚於上。後又為左金吾衛將軍。憲宗季年頗信方士,銳於服食,詔天下搜訪奇士。宰相皇甫鎛方諛媚固寵,道古言柳泌有道術,鎛得進之,待詔翰林。憲宗服餌過當,暴成狂躁之疾,以至棄代。穆宗在東宮,扼腕於其事,及居喪,皆竄逐誅之。鎛既貶責,授道古循州司馬,終以服丹藥,歐血而卒。

【史贊】

原文【史贊】

史臣が曰く、李勉・李皋は、天性端正にして、身を処すること廉潔、民に臨み事に蒞るに、動もすれば美声有り、宗臣の英と謂うべし。若し夫れ軍旅を治め、寇戎を禦ぐに至りては、謀は必ず臧く、戦は必ず勝つ、則ち又た勉は皋に及ばざること遠し。道古は便佞にして、奸を以て君に事え、何ぞ父子の相類せざるや。

原文史臣曰:李勉、李皋,稟性端莊,處身廉潔,臨民蒞事,動有美聲,可謂宗臣之英也。若夫治軍旅,禦寇戎,謀必臧,戰必勝,則又勉不及皋遠矣。道古便佞,奸以事君,何父子之不相類也。

賛に曰く、我が宗の英は、皋と勉と曰い、才は同じからずと雖も、道豈に相遠からんや。

原文贊曰:我宗之英,曰皋與勉,才雖不同,道豈相遠。