旧唐書
巻一百三十 列傳第八十 王璵 李泌 崔造 関播
王璵
王璵は、若くして礼学を修め、広く祠祭の儀注を求めて時世に干渉した。開元の末、玄宗は道術を尊び、神ならざるものは宗とせず。璵は疏を抗して古今の祀典を引き、春壇を置き、青帝を国都の東郊で祀ることを請うた。玄宗は甚だ然りとし、これにより太常博士・侍御史に遷し、祠祭使を充てた。璵は専ら祀事をもって幸を希い、祠禱を行うごとに、あるいは紙銭を焚き、福祐を祈り祷ることは、巫覡に近く、これにより過分に恩遇を受けた。粛宗が即位すると、累遷して太常卿となり、祠禱のたびに多く賜賚を受けた。乾元三年七月、蒲州刺史を兼ね、蒲・同・絳等州節度使を充てた。中書令崔円が相を罷められると、乃ち璵を中書侍郎・同中書門下平章事とした。人物の時望は、元より衆に称せられず、枢務に当たるに及んで、声問は頓に減じた。璵はまた太一神壇を南郊の東に置くことを奏し、上(皇帝)が躬ら祀事を行うことを請うた。粛宗はかつて不豫(病気)であり、太卜が云うには、「崇りは山川にあり」と。璵は乃ち女巫を遣わして天下に分行させ、名山大川を祈祭させた。巫は皆盛服して駅伝に乗って行き、上は中使をしてこれを監させたが、因縁を以て姦を為し、至る所で長吏に干托し、賂遺を邀えた。一巫は盛年にして美しく、悪少年数十を自ら随え、特に蠹弊を為し、その徒と黄州の伝舎に宿った。刺史左震が朝に至ると、駅門は扃鐍(鍵)され、開くべからず、震は鎖を破って入り、女巫を階下に曳き下ろして斬り、従う悪少年は皆斃した。その贓賂数十万を閲し、震は籍を以て上聞し、仍って贓銭を以て貧民の租税に代えることを請い、その中使は発遣して京に帰らせた。粛宗は詰めることができなかった。粛宗は親ら九宮神を謁し、祠禱に慇懃であったが、皆璵の啓く所であった。歳余りして、政事を知ることを罷め、刑部尚書となった。上元二年、揚州長史・御史大夫を兼ね、淮南節度使を兗じた。粛宗の南郊の礼が畢わると、璵を使持節都督越州諸軍事・越州刺史とし、浙江東道節度觀察処置使を充て、本官のまま御史大夫を兼ね、祠祭使は旧の如くとした。入朝して太子少保となり、少師に転じた。大暦三年六月卒す。
璵は祭祀の妖妄を以て将相の位に至り、時に左道を以て進む者は、往々にしてこれ有り。広徳二年八月、道士李国禎が道術を以て見え、因って皇室の仙系を奏し、霊跡を修崇すべしと。昭応県南三十里の山頂に天華上宮露台・大地婆父・三皇・道君・太古天皇・中古伏羲媧皇等の祠堂を置き、併せて掃灑宮戸一百戸を置くことを請う。また県の東義扶谷の故湫に龍堂を置くことを請い、併せてこれを許された。時に歳は饑荒にて、人は甚だ安からず、昭応県令梁鎮が上表して曰く、
臣聞く、国は人を以て本と為し、その本を害すれば則ち国に非ず。神は人を以て主と為し、その主を虐げれば則ち神に非ず。故に昔の聖王は、理道を極めて陳べ、祀典を明らかに著す所以は、将にその人を愛してその財力を慎み用い、その神を敬して祠祭に虔恭ならんと欲するなり。故に神はその明徳を享けてこれに福を降し、人はその大賚を受けてその力を尽くし、然る後に神人相和して国家保たるるなり。一昨、蟊賊(害虫)が孽を作し、水旱が災いと為り、王畿に皆遍くすれども、臣が県は最も苦しむ。此れは則ち神の大災を御する能わざる明らかなり、又何ぞ陛下に力を有して祀典に列せられんや!残弊の余りを以て、凶荒の歳に当たり、丁壮は素より家を出でて入仕し、羸老は方に芻を飛ばし粟を輓き、令は但だ王事を供億するに、已に命に堪えず、更に鬼道に奔走せば、何を以て聊か生きん?臣また聞く、天地の神、尊き極まる者は、地を掃いて祭り可く、精意を以て饗え可し。陛下も亦何ぞ必ずしも先王の典を廃し、俗巫の説を崇め、南畝の客を走らせ、東隣の牛を殺し、而る後に非妄の福を冀わんや。陛下は人に為りて福を祈らんと欲すれども、福未だ至らずして人已に困す!其の不可なること一なり。陛下は昔しの有道の君、至徳の后を視ず、何ぞ宮室を卑しくし、飲食を悪み、己を恭しくして万物の性を遂げざるや!陛下今神の亭育の心に違い、人の疲睏の力を竭くす、是くの如くして又何ぞ従ってその福を致さんや?此れ又不可なること二なり。又陛下の宗廟の敬は極まれり、尚お一月三祭の礼無し。今此れ独り為すとすれば、則ち宗廟の霊は、将に親疏を以て等しくし、厚薄を以て校えんとし、陛下又何を以て言わんや?此れ又不可なること三なり。又大地婆父は、祀典に文無く、言甚だ経に従わず、義取るべき無し。若し陛下大地と祖宗の廟を建てんと待たば、必ず上天より向背の責を貽らん、陛下又何を以て詞と為さんや?此れ又不可なること四なり。夫れ湫は、龍の居る所なり。龍は水を得れば則ち神、水無ければ則ち螻蟻の匹なり。故に水存すれば則ち龍在り、水竭すれば則ち龍亡ぶを知る、此れ愚智の同く知る所なり。今湫は竭きて久しく、龍安くにか存せん?陛下又祠宇を崇飾し、薦奠を豊潔にし、龍の穴を去り、生人の産を破り、人且に怨む、神何ぞ歆かんや!此れ又不可なること五なり。其の道君・三皇・五帝は、則ち両京及び都する所の処に、皆宮観祠廟を建て、時に斎醮饗祀を設け、国に彝典有り、官に常礼有り、蓋し闕失無し、何ぞ神を労し霊を役さんや?此れ又不可なること六なり。臣は先王の典礼を稽え、前聖の軌躅を観るに、休咎豊凶、災祥禍福は、必ず帝王の五事に主り、山川百神に在らず。此れ又不可なること七なり。臣伏して此の弊を察するに、頗るその由を知る。蓋し道士李国禎等は、衆を動かせば則ち人を得、工を興せば則ち利を獲、祭祀すれば則ち胙を受け、主執すれば則ち権を弄ぶを以てなり。是を以て禁中を鼓動し、天聴を熒惑し、険阻を踰越し、粢盛を負荷し、日を以て年を系ぎ、時に息むこと無し。曾て神の功力を謂わず、空しく人の膏血を竭くし止め、以て人神胥に怨ませ、災孽並びに生ぜしむ。上を罔き人を害し、左道を以て政を乱す、情を原り罪を定むれば、殺すに非ずして何ぞや!臣、昨命を受くる時、親ら聖旨を承り、務めに安緝を存し、権宜を逐うことを許さる。誠に願わくは、鄴県の巫を沈め、流弊の俗を安んじ、その興す所の両祠の土木の功・丹青の役・三六の祭・灑掃の戸を、謹みて明らかに旨を宣し、併せて権宜を以て停め畢わらんことを。人吏百姓等は、陛下の善に従うを心と為し、悪を嫉むを務めと為し、不急を蠲除し、煩苛を劃革するを知り、皆庭に喧呼し、路に抃躍し、徴する所の糧糗は、楽んで輸せざる無し。臣伏して以て国禎等は併せて中貴と交結し、狡蠹を成性と為す。臣は身を忘れて国に許すと雖も、讒構を懼れず、終に賄が豪右に及び、復た奸悪を為すを恐る。其の国禎等は見るに状に拠り推勘す、若し贓状を獲ば、伏して望むらくは臣に徴収を許し、便ち当県の郵館の本用に充てしめんことを。其の湫は既に竭くれば、更に祠堂を置くべからず、又大地に祖廟を建立すべからず、臣併せて停むることを請う。其三皇・道君・天皇・伏羲・女媧等は、既に先ず各宮廟有り、望み請うらくは本所に於いて礼に依り斎祭せんことを。
上、これに従う。
李泌
李泌、字は長源、その先祖は遼東襄平の人、西魏の太保・八柱国司徒徒何弼の六代孫。今は京兆に居住する呉房令承休の子。幼少より聡明で、経史に広く通じ、『易象』を精しく研究し、文章をよくし、特に詩に巧みで、王佐の才を自ら任じた。張九齢・韋虚心・張廷珪はいずれも彼を重んじた。李泌は操り尚ぶところ束縛されず、常格に従って仕進することを恥じた。天宝年間、嵩山より上書して当世の務めを論じ、玄宗は召見し、翰林に侍詔せしめ、なお東宮供奉とした。楊国忠はその才弁を忌み、李泌がかつて『感遇詩』を作り、時政を諷刺したと奏上し、詔して蘄春郡に安置せしめた。そこでひそかに名山に遁れ、隠遁を習い自ら楽しんだ。天宝末、安禄山が乱を構え、粛宗が北巡し、霊武に至り即位し、使者を遣わして訪ね召した。ちょうど李泌が嵩・潁の間より危難を冒して行在所に奔赴し、彭原郡に至り謁見し、古今の成敗の機微を陳べ、甚だ上意に叶い、臥内に延致し、動くごとに顧問とした。李泌は山人と称し、固く官秩を辞し、特に入散官として寵遇し、解褐して銀青光禄大夫を拝し、枢務を掌らしめた。四言の文状・将相の遷除に至るまで、皆李泌と参議し、権は宰相を超え、なお元帥広平王軍司馬事を判じた。粛宗は毎度言う、「卿は上皇天宝中、朕が師友たり、下って広平行軍を判じ、朕父子三人、卿の道義に資る」と。その重んぜられることかくの如し。まもなく中書令崔円・幸臣李輔国にその才能を害せられ、将に李泌に不利あらんとす。李泌は懼れ、衡山に遊ぶことを乞い、優詔これを許し、三品の禄俸を与え、ついに衡岳に隠れ、粒を絶ち神に棲んだ。
数年、代宗即位し、翰林学士として召され、頗る恩遇を蒙った。元載が政を輔けるに及んで、その異己を悪み、江南道観察都団練使魏少游が参佐を求むるを奏し、李泌に才ありと称したので、検校秘書少監を拝し、江南西道判官を充て、その出でしを幸いとした。まもなく検校郎中に改め、前の如く判官とした。元載が誅せられると、馳伝して入謁し、上は見て悦んだ。また宰相常袞に忌まれ、楚州刺史として出された。謝恩に及び、恋闕の情を具に陳べると、上は平素より彼を重んじ、京師に数ヶ月留めた。澧州刺史が欠けた際、常袞は李泌の治行を盛んに陳べ、荊南が凋瘵しているので、ついに李泌を以てこれを治めしめた。詔して曰く、「荊南の都会、粤に澧陽に在り、人をして厚きに帰せしむるは、惟れ賢を以て是れ牧とす。李泌の文は以て風俗を代えるべく、政は以て惸嫠を全活すべし。爰に条を頒つことを命じ、共に理むるを期す。地は淮陽の守に薄く、渤海の功を勉め思え。検校御史中丞を以て、澧朗硤団練使を充てよ」と。その礼を重んじて遣わした。間もなく、杭州刺史に改め、治績を以て称された。
興元初、行在所に征赴し、左散騎常侍に遷る。貞元元年、陝州長史を除し、陝・虢都防禦観察使を充てた。二年六月、李泌奏す、「虢州盧氏山の冶、近く瑟瑟を出だす、献上に充てんことを請い、人の開採を禁ず」と。詔して曰く、「瑟瑟の宝、中土に無きもの、今近甸に産す、実に霊貺なり。朕は器玩を飾らず、珍奇を尚ばず、常に返朴の風を思い、躬儉の節を用いて明らかにす。その瑟瑟の出づる処は、百姓に求採を任せ、禁ずるに宜しからず」と。就いて李泌に検校礼部尚書を加う。時に陳・許の戍辺卒三千が京西より逃帰し、州境に至る。李泌は潜かに師を険隘に伏せ、左右より攻撃し、尽くこれを誅した。まもなく中書侍郎・平章事・集賢崇文館学士・修国史を拝す。初め、張延賞が大いに官員を減じ、人情諮怨す。李泌はこれを復するを請い、人の欲に従わんとし、これにより兼試額内占闕等の官を罷むるを奏し、百官の俸料を加え、閑劇に随って手力課を加置す。上はこれに従い、人人以て便りと為す。然るに竇参が旁らに奏し、遂に改易し、同品の内に在りて、月俸の多少累等せしむ。李泌はまた拾遺・補闕を罷むるを奏請す。上は従わざりしも、また人に授けず、故に諫司は惟だ韓皋・帰登のみ。李泌はなおその署の湌銭を収め、登等に中書舎人に寓食せしむるを命じた。故に時に戯れて云う、「韓諫議は左右を分つと雖も、帰拾遺は存亡を弁ぜず」と。かくの如きこと三年。貞元五年に至り、前東都防禦判官・殿中侍御史・内供奉韋綬を以て左補闕と為し、監察御史梁肅を右補闕と為す。既に復置して、人心忻然たり。順宗が春宮に在りし時、妃蕭氏の母郜国公主が外人と交通し、上はその他意あるを疑い、連坐して貶黜せらるる者数人、皇儲も亦危うし。李泌は百端奏説し、上意方に解けた。
李泌は頗る讜直の風有り、然れども神仙詭道を談じ、或いは嘗て赤松子・王喬・安期・羨門と游処せりと云う。故に代に軽んぜられ、詭道を以て容れられんと求むるも、時の君に重んぜられず。徳宗初め即位し、尤も巫祝怪誕の士を悪んだ。初め、粛宗は陰陽祠祝の説を重んじ、妖人王璵を宰相に用い、或いは巫媼に命じて駅を乗り郡県を行かしめ厭勝と為さしめた。凡そ興造功役有るものは、動もすれば禁忌に牽かれし。而して黎干は左道を用いて位尹京に至り、嘗て内に眾工を集め、珠繡を編刺して御衣と為し、既に成りてこれを焚き、以て禳禬と為し、且つ虚月無かりき。徳宗、東宮に在りし時、頗るその事を知り、即位の後、内道場に僧を集むるを罷め、巫祝の祀を除く。有司言す、宣政内廊壊る、修繕を請う。而して太卜云う、「孟冬は魁岡と為り、穿築に利あらず、他月を卜せんことを請う」と。帝曰く、「『春秋』の義、啓塞は時に従う、何ぞ魁岡の有らんや」と。卒いにこれを修せしむ。又代宗の山陵霊駕発引の時、上は号送して承天門に在り、轀輬が道に当たらず、稍々午未の間を指すを見る。その故を問うと、有司対えて曰く、「陛下の本命は午に在り、故に敢えて道に当たらざるなり」と。上は号泣して曰く、「安んぞ霊駕を枉げて身の利を謀らんや」と。卒いに命じて直ちに午に向かって行かしむ。建中末に及び、寇戎内に梗み、桑道茂に城奉天の説有り。上は稍々時日の禁忌を意とし、而して雅く李泌の鬼道に長ずるを聞く。故に外より征還し、以て大用に至らしむ。時の論以て愜えずと為さず。相位に在りては、時に随って俯仰し、称すべき足るもの無し。復た顧況輩の軽薄の流れを引き、動もすれば朝士に戯侮せられ、頗る譏誚を貽す。年六十八にして薨じ、太子太傅を贈られ、賻礼加わり有り。李泌は放曠敏弁、大言を好み、自ら中禁に出入りし、累ね権幸に忌嫉せられ、恒に智を以て免る。終に言論縦横を以て、上を悟らしめ聖主と為し、以て相位に躋る。文集二十巻有り。
泌の子 繁
子の繁は、幼少より聡明で機敏、才名があったが、品行道義に欠けていた。李泌が宰相であった時、夏県の処士で北平の陽城を諫議大夫に推薦したことがある。陽城は道義に直く、知己を得てからは、深くその恩を感じていた。李泌が没すると、戸部尚書裴延齢は巧みにへつらい主上に仕え、徳宗の信任を得て、ひそかに威権を弄び、朝廷中が側目していた。陽城は中正の士であり、特にこれを憤り憎んだ。ある日、その過悪をことごとく疏に記し、密かに論奏しようとしたが、繁が故人の子であるため親信できると考え、遂にその疏の草稿を示し、併せて繁に清書を請うた。繁は書き写すと、その内容をすべて記憶することができ、その夜に直ちに延齢のもとに赴き、事の次第を詳しく述べた。延齢はこれを聞くと、即時に請対し、陽城の章疏の中で論じようとした事件を、一つ一つ先に自ら弁解した。陽城の疏が入ると、徳宗は虚妄であると考え、省みなかった。李泌は右補闕・翰林学士梁粛と親しく、かつて繁に命じて自らの著した文章を持たせ、梁粛に潤色を請わせた。繁もまた自ら学術があり、梁粛は彼を厚く遇し、師事することを許し、日々その門に親しんだ。梁粛が没すると、繁はその配偶者と乱を起こし、士君子は嘆き驚かない者はなく、長年にわたり見捨てられた。後に起用されて太常博士となったが、太常卿権徳輿が上奏してこれを退け、河南府士曹掾に任じられた。その機敏さが並外れているため、李泌の故人で宰相となった者が左右で援け救い、後に累ねて郡守の地位を得たが、学問に力を入れ倦むことがなかった。随州刺史を罷免され、京師に帰ったが、長く恩寵を受けなかった。
韋処厚が宰相に入ると、繁を厚く遇した。宝暦二年六月、敬宗の誕生日に、三殿に御し、特に兵部侍郎丁公著・太常少卿陸旦と繁ら三人に詔して、浮屠(仏僧)・道士と講論させた。九月、大理少卿に任じ、さらに弘文館学士を加えられた。時に諫官・御史の章疏が相次ぎ、宰臣はやむを得ず、繁を出して亳州刺史とした。州境にはかつて群盗がおり、人家を掠奪し、貨財を奪い取っており、累代の政(為政者)が擒捕しても獲られなかった。繁は密かに機謀を設け、賊の巣窟をことごとく知り、出兵してことごとく誅斬した。時の議論は、繁を責めて、先に廉使に啓上しなかったことを、擅興の罪に及ぶものとした。朝廷は監察御史舒元輿を遣わして按問させた。元輿はもとより繁と不和であり、また初めての官職で、事を起こすのに鋭かったため、その獄辞をことごとく覆し、繁が無辜を濫殺したとして、状を奏上した。勅により京兆府で死を賜り、時に人はこれを冤罪とした。その後、元輿が禍に遭うと、人は報いがあったと考えた。
初め、李泌が江南に流放された時、柳渾・顧況と人外の交わりを結び、吟詠して自ら楽しんだ。そして柳渾が先に達したため、李泌は再び朝廷に入官することができた。
附 顧況
況の子 非熊
子の非熊は、進士第に登り、累ねて使府の佐官となり、また時に詩名があった。
崔造
崔造は、字を玄宰といい、博陵安平の人である。若くして学問に広く通じ、永泰年中、韓会・盧東美・張正則と友となり、皆上元に寄寓し、経済の略を好んで談じ、かつて王佐(帝王を補佐する者)を自ら任じ、時に人は「四夔」と号した。浙西観察使李棲筠が賓僚に引き入れ、累ねて左司員外郎に至った。劉晏と親しく、劉晏が楊炎・庾準の誣奏に遭い誅殺されると、崔造は累ねて貶められ信州長史となった。
朱泚の逆乱の時、崔造は建州刺史であったが、難が起こったと聞くと、檄を馳せて隣州に伝え、義兵を挙げるよう請うた。遂に管下部隊を調発し、二千人を得た。徳宗はこれを聞いて賞賛した。京師を収復すると、詔して崔造を藍田に召し寄せたが、舅の源休が逆乱に加わり誅殺されたため、上疏して罪を請い、すぐには闕に赴こうとしなかった。上は礼を知っていると考え、優詔で慰労し、吏部郎中・給事中に任じた。貞元二年正月、中書舎人齊映と共に各々本官を守り、同平章事となった。時に京畿は兵乱の後で、なお蝗害・旱魃が続き、府庫に蓄積がなかった。徳宗は崔造が敢言であるため、事を立てることができると考え、故に次を越えて登用した。
崔造は長く江外に従事し、銭穀諸使が上を欺く弊害を憎み、乃ち奏上して、天下の両税銭物は、本道観察使・本州刺史に委ねて官を選び典部し上都に送らせ、諸道の水陸運使及び度支・巡院・江淮転運使等は併せて停止し、その度支・塩鉄は尚書省本司に委ねて判らせ、その尚書省六職は宰臣に分かって判らせるとした。乃ち戸部侍郎元琇を以て諸道塩鉄・榷酒等の事を判らせ、戸部侍郎吉中孚を以て度支及び諸道両税の事を判らせ、宰臣齊映を以て兵部承旨及び雑事を判らせ、宰臣李勉を以て刑部を判らせ、宰臣劉滋を以て吏部・礼部を判らせ、崔造は戸部・工部を判った。また凶年のため、浙江東西道から入運する米は毎年七十五万石であったが、今さらに両税を折納して米百万石とし、両浙節度使韓滉に委ねて百万石を東渭橋まで運送させ、その淮南濠寿旨米・洪潭屯米は、淮南節度使杜亜に委ねて二十万石を東渭橋まで運送させた。諸道で塩鉄のある所は、旧に従って巡院を置き勾当させ、河陰の現存米及び諸道が先に度支・巡院に付して搬運中の路上にある銭物は、度支に委ねて前の通り勾当させ、その未だ本道を離れないものは、観察使に分付して発遣させ、なお中書門下に委ねて年末に諸道の課績を類例して奏聞させた。崔造は元琇と元来親厚で、使を罷めた後、塩鉄の任を彼に委ねた。しかし韓滉はちょうど転運を司っており、朝廷はその漕運に仰給していた。韓滉は司務が長く行われてきたため、急に改めることはできないと考えた。徳宗は再び韓滉を江淮転運使とし、その余は崔造の条奏した通りとした。元琇は韓滉の性質が剛直で制し難いと考え、乃ち再び奏上して、江淮転運について、江南の米は江から揚子まで凡そ十八里あり、韓滉にこれを主掌させ、揚子より以北は、元琇が主掌するとした。韓滉はこれを聞いて怒り、元琇の塩鉄司の事を掎摭して論奏した。徳宗はやむを得ず、元琇の判使を罷め、尚書右丞に転じた。その年の秋初め、江淮の漕米が大いに京師に至り、徳宗はその功を嘉し、韓滉を以て専ら度支・諸道塩鉄転運等使を領せしめ、崔造の条奏したことは皆改められた。世間の議論もまた、崔造の奏上したことは旧典を挙げたものではあるが、凶荒の年には事を集めることが難しいと考え、乃ち崔造の知政事を罷め、太子右庶子を守らせ、元琇を雷州司戸に貶めた。崔造は初め奏上するにあまりに鋭く、元琇が改官されると、憂懼して病となり、数ヶ月視事することができなかった。明年九月に卒し、五十一歳であった。
關播
關播は、字を務元といい、衛州汲の人である。天宝末、進士に挙げられた。鄧景山が淮南節度使となった時、従事に辟召し、累ねて衛佐評事を授けられ、右補闕に遷った。物理(物事の道理)を言うことを善くし、特に釈氏の学に精通した。大暦年中、神策軍使王駕鶴の妻關氏は、播が同宗であるため、深く遇した。元載はその交際を憎み、出して河南府兵曹とし、数県の職を摂行し、皆政能があった。陳少游が浙東・淮南を領すると、また判官に辟召し、検校金部員外を歴任し、滁州刺史を摂行した。李霊曜が兵を阻み、梁汴で跋扈した。少游は自ら兵を総べて淮上に鎮し、所在で盗賊が蜂起した。播は州兵を調閲し、その守備を命じた。また政は清浄簡恵であり、盗賊がなくなると、人は甚だ安んじた。楊綰・常袞が政事を知ると、播を都官員外郎に推薦した。
德宗が即位すると、湖南の山洞中に王國良という者がおり、徒党を集めて盗賊となったので、關播を派遣してこれを宣撫させた。出発に際し、別殿で召対し、上(德宗)が政治の要諦を問うと、播は奏上して云う、「政治の根本は、有道の賢人を求めなければ、治めることができません。」上は播に云う、「朕は詔を下して賢良を求め、自ら新たに試験を閲し、また使臣を遣わして黜陟を行い、広く尋ね訪ね聞き薦めさせ、その能ある者を抜擢して用い、もって治めさせようと望んでいる。」播は奏上して曰く、「詔を下して賢人を求め黜陟し挙薦するのは、ただ名声を求める士を得るのみで、有道の賢人がどうして文書に従って挙選に応じましょうか。」上はその言葉を喜び、播に謂う、「卿はまず使いに行け、帰還した日に必ず卿と政事を論じよう。」播はまた奏上して曰く、「臣は今詔を奉じて招撫しますが、國良が命を受けなければ、臣は便宜を以て恩命を宣べ、隣境に語って速やかに出兵しこれを殲除させたいと請います。」上曰く、「卿の言は深く朕の意に合う。」使いから帰ると、兵部員外郎に改め、河中少尹に遷る。
建中初年、張鎰が河中少尹となった。鎰はまもなく宰相に入り、二年七月、播を給事中に遷す。旧例では、諸司の甲庫は皆胥吏がこれを掌り知り、弊害が久しかったが、播が初めて士人を以てこれを知らせるよう建議し、今日に至るまで適当と称えられる。刑部侍郎・奉迎皇太后副使に転ず。盧杞は播が柔和で緩やかなのを以て、その制し易きを期待し、しきりにこれを称え推薦した。まもなく吏部侍郎に遷り、刑部尚書・知刪定に転ず。上奏して、上元年間に、詔して古今の名将十人を武成王廟に選び配享させ、文宣王廟の儀の如くしたことを挙げる。播は「太公は古より大賢と称えられ、今その下で亜聖と称するのは、義に於いて不安である。また孔子の十哲は、皆当時の弟子であるが、今選ぶ名将は、年代が同じでない。義に於いて既に背き、事に於いてもまた失う。臣は名将配享の儀及び十哲の称を削除することを請う。」とし、これに従う。
建中三年十月、銀青光禄大夫・中書侍郎・同中書門下平章事・集賢殿崇文館大学士・修國史を拝す。当時政事の決断は盧杞にあり、播はただ襟を整えて容れられるのみであった。人を知る鑑識に乏しく、大言虚誕を好む者があれば、播は必ず喜んでこれを親信した。李元平・陶公達・張愻・劉承誡という者がおり、皆言談が詭妄で、大言壮語して功名を立てられると誇り、また微かな才能薄い技芸もあった。播は累次奏上して元平等は皆将相たり得ると云い、試みに閲して用いることを請うた。上もそう思われ、元平を補闕とした。時に淮西節度使李希烈が叛乱し、上は汝州が要鎮であるとして、刺史を選抜するよう命じた。播は元平を汝州刺史に推薦し、まもなく検校吏部郎中・汝州別駕を加え、州事を知らせた。元平が州に着いて十日ほどで、希烈に捕らえられ、汝州は賊に陥ち、朝廷内外これを嗤った。これにより公達等は任用されなかった。播は盧杞等と従駕して奉天に幸し、やがて杞・白志貞等は皆貶黜されたが、播はなお政事を知り、朝廷内外囂然として以て不可とし、遂に宰相を罷め、刑部尚書に改めた。大臣韋倫等が朝で泣いて曰く、「宰相が謀猷し翊贊することができず、今日に至ったのに、なお尚書であるとは、痛心すべきことだ。」
貞元四年、回紇が和親を請うたので、咸安公主を以て可汗に降嫁させ、播に本官のまま検校右僕射・兼御史大夫を加え、節を持って咸安公主を送り及び可汗を冊立する使を充てさせ、奉使往来するに当たり、皆清廉倹約で謹慎し、蕃人はこれを喜んだ。使いから帰ると、兵部尚書に遷るが、固く疾を辞し、官を罷めることを請い、太子少師に改めて致仕する。播が致仕した後は、僮僕車騎を減らし、門を閉ざして静を守り、外事に煩わされず、士君子はこれを重んじた。貞元十三年正月卒す、時に七十九歳、一日朝を廃し、太子太保を贈る。
附 李元平
李元平は、宗室の子である。初め湖南観察使蕭復の判官となり、試大理評事を試みる。性疎傲にして、敢えて大言し、兵を論ずることを好み、天下の賢士大夫でその意に適う者はなく、この故に人は多く怒りを懐いた。關播はこれを特に重んじ、将帥たり得ると称した。時に希烈が反叛し、朝廷は汝州が賊と接壤し、刺史韋光裔が懦弱で職に堪えないとして、播は盛んに元平を称え、特に召見し、左補闕を超抜し、数日も経たぬうちに、検校吏部郎中に抜擢し、汝州別駕を兼ね、州事を知らせた。既に任地に着くと、工人を募って城郭を修繕させたが、希烈は勇士を遣わして応募させ、役務に服して築板し、合わせて数百人が入り込んだが、元平はこれを覚えなかった。希烈は偽将李克誠に数百騎を率いて突如その城に至らせ、先に応募して役務に服していた者が内で応じ、元平を縛って馳せ去った。希烈に会うと、汚れた地面に遺棄された。希烈はその鬚なく眇小なのを見て、克誠に戯れて謂う、「お前に李元平を取らせたのに、どうして元平の子供を連れて来たのか。」因って罵って曰く、「盲宰相がお前を以て我に対抗させたとは、どうして我を浅く見るのか。」偽って御史中丞に任じた。播は元平が用いられたと聞き、なお人を欺いて曰く、「李生の功業は成就した。」必ずや希烈を覆して功を立てられると言うのである。暫くして、希烈はこれを宰相に用いたが、ある者が告げて二心があるというので、一指を断って自ら誓った。希烈が死ぬと、ある人の言に賊中で微かに謀慮があったとし、死を赦して珍州に流す。赦に会って剡中に帰ることができたが、浙東観察使皇甫政がその到着を表して聞かせ、上怒を発せしめ、また賀州に流されて死す。
史臣曰く
史臣曰く、蒸嘗礿祀は、前王が先を奉るために制す。怪力乱神は、宣聖が鄙んで語らざる所。凡そ左道と云うは、固より旧章有り。王璵は鬼神を仮託し、遂に将相に至り、既に天に代わる位に処し、爰に乱政の源を滋す。李国禎は妖人として衆を疑わしめ、妄りにその祀典を恢めしむ。梁鎮は正士として疏を抗し、方にその上心を悟らしむ。李泌は進むべきを見て退く難きを知り、足る高率智弁の士たり。相位に居て鬼神を談ずるは、乃ち狂妄浮薄の跡を見る。《王制》に云う、「左道を執りて以て政を乱る者は、殺す。」畏るる無きか。彭偃の醜行は、当時に棄てられ、竟に非辜に陥る、諒に素履に由る。劉造は臣として礼を得たりと雖も、事に蒞るは能うるに非ず。關播は位に居て容れられるを取るも、人を挙げて事を敗る。皆国器に非ず、咸に台司を歴る、人を失う者は亡び、国其れ危うきかな。
賛
賛して曰く、璵・泌・造・播、俱に相材に非ず。国禎は左道、梁生は直なるかな。