旧唐書 巻一百二十九 列傳第七十九 韓滉 張延賞

旧唐書

巻一百二十九 列傳第七十九 韓滉 張延賞

韓滉

韓滉は、字を太沖といい、太子少師韓休の子である。若い頃から堅固で廉直、学問を好み、父の蔭により官途につき左威衛騎曹参軍となり、出て同官主簿となった。至徳の初め、青斉節度使鄧景山が判官に辟召し、監察御史・兼北海郡司馬を授けられたが、道路が遮断されたため、山南に避難した。采訪使李承昭が奏上して判官に充て、通州長史・彭王府諮議参軍を授けられた。鄧景山が淮南に移鎮すると、また賓佐として上表したが、赴任せず、殿中侍御史に任じられ、京師に追い赴いた。先に、滉の兄の韓法が知制誥となり、王玙の官を授ける詔書の文を起草したが、虚飾の美辞を加えなかったので、玙はこれを深く恨んだ。玙が政権を執ると、諸使が滉兄弟を奏薦する者があれば、必ず閑職を授けた。玙が宰相を免ぜられると、群議はその冤屈を称え、累遷して祠部・考功・吏部の三員外郎となった。

滉は公明で潔癖、強直であり、吏道に明るく、南曹を判じること凡そ五年、簿書を詳しく究め、微細な隠れた点も遺さなかった。大暦年間、吏部郎中・給事中に改めた。時に盗賊が富平県令韋当を殺害し、県吏が賊党を捕らえたが、その名は北軍に属していた。監軍魚朝恩は彼に武才があるとして、詔を請いその罪を赦そうとしたが、滉は密かに上疏して反駁し奏上したので、賊はついに罪に伏した。尚書右丞に遷った。五年、兵部選を掌った。六年、戸部侍郎・判度支に改めた。至徳・乾元以後よりこのかた、各地で軍興が起こり、賦税に度がなく、国庫の出納は多く因循を務めていた。滉は司計を掌るや、清廉勤勉に検察し、奸悪虚妄を許さず、下僚や四方の行綱で過失を犯した者は、必ず厳しくこれを糾した。また大暦五年以後、吐蕃・戎の侵寇が稀で、連年豊作であったので、滉は穀物と布帛を蓄積し、国庫は次第に充実した。しかし苛酷な取り立てが甚だしく、案牘を覆い治め、深文を穿ち剥ぎ、人々は多く怨嗟した。

大暦十二年秋、長雨が農作物を害し、京兆尹黎幹が畿県の田畑損害を奏上したが、滉は黎幹の奏上は事実でないと主張した。そこで御史を派遣して巡視覆勘させたところ、返奏によれば諸県で凡そ三万一千一百九十五頃の損害があった。時に渭南県令劉藻は滉に曲げて阿附し、管轄内に損害はないと述べ、府及び戸部に報告した。分巡御史趙計が再び検分したところ、奏上は劉藻と合致した。代宗は奏上を覧て、水害・旱害は均しくあるべきで、渭南だけが免れるのは宜しくないと考え、御史硃敖を再び検分させたところ、渭南の損害田は三千余頃であった。帝は硃敖に言った。「県令の職は人民を養うことにあり、損害がなくても損害と称すべきであり、損害があっても問わないのは、どうして民情を憐れむ意があろうか。卿のこの行いは、職に適うと言えよう。」下して有司に訊問させたところ、劉藻・趙計はともに罪に伏し、劉藻は万州南浦員外尉に貶せられ、趙計は豊州員外司戸に貶せられた。滉が権力を弄び党を立てることは、皆この類いであった。まもなく太常卿に改めたが、議論が収まらず、また出て晋州刺史となった。数ヶ月後、蘇州刺史・浙江東西都団練観察使に任じられた。まもなく検校礼部尚書・兼御史大夫・潤州刺史・鎮軍節度使を加えられた。滉は鎮を移すや、百姓を安んじ集め、その租税を均しくし、一年を待たずして、管内は治まると称された。建中年間の冬、涇原の兵乱が起こり、徳宗が外幸すると、河・汴は騒然となった。滉は士卒を訓練し、戈甲を鍛え磨き、精強と称された。李希烈が汴州を陥落させると、滉はその精鋭の兵を選び、裨将李長栄・王棲曜に命じて宣武軍節度使劉玄佐と犄角の勢いで討襲させ、寧陵の包囲を解き、宋・汴の通路を回復したが、滉の功績が多かった。

しかし関中に多難が起こると、滉はただちに管轄内に関梁を閉ざし、石頭に五つの城を築き、京口から玉山に至るまで、馬牛の境外への持ち出しを禁じた。楼船戦艦三十余艘を建造し、水軍五千人をもって海門から威武を揚げさせ、申浦に至って還った。上元県の仏寺道観四十余所を破却撤去し、塢壁を修築し、建業から京峴に至るまで、楼櫓と城壁が連なり、仏殿の材木を用いて石頭城に数十の館第を整備した。時に滉は国家多難を慮り、永嘉の渡江の事態を恐れ、備えとして、また鑾駕を迎えるため、自ら守りを厳しくしたのである。城中に深さ十丈の井戸を百近く掘り、底を江水の高さと同じくし、偏将丘涔にその工事を監督させた。丘涔は士卒に酷虐で、日に千人を役し、朝に命じて夕に完成させ、城から数十里内の先賢の丘墓を多く破壊させた。翌年正月、李長栄らの戍兵を追い返し、その親しい吏の盧復を宣州刺史・采石軍使とし、営塁を増築し、長兵器を教習させた。仏寺の銅鐘を用いて弩牙や兵器を鋳造した。陳少遊が時に揚州を鎮守し、甲士三千人をもって江辺で大閲兵を行ったが、滉もまた兵三千人をもって金山に臨み、少遊と相応じ、楼船を江中に浮かべ、金銀や綵帛を互いに贈答した。徳宗が外幸してから、京師に帰還するまで、軍用が既に繁雑で、道路もまた遮断され、関中は飢饉に加えて蝗害があり、江南・両浙から粟帛を転輸し、府庫は月を空けることがなく、朝廷はこれに頼った。

興元元年、そのまま検校吏部尚書を加えられた。数ヶ月後、また検校右僕射を加えられた。貞元元年七月、検校左僕射・同平章事に任じられ、使職はそのままとした。二年春、特に晋国公に封ぜられた。その年十一月、京師に来朝した。時に右丞元琇が度支を判じ、関輔の旱魃と凶作を理由に、江淮の租米を運送して京師に供給するよう請うた。帝は滉が浙江東西節度使であり、平素より威名が著しいことから、江淮転運使を加え、専ら運務を監督させようとした。元琇は滉の性質が剛愎で、事を共に成し難いと考え、条奏して、滉に江南の米を揚子まで督運させ(凡そ十八里)、揚子以北は全て元琇が主管するとした。滉は元琇を深く怒った。元琇は京師で銭が重く物が軽いことを痛く憂い、江東監院で現銭四十余万貫を収穫し、転送して関中に入れるよう命じた。滉は許さず、誣って奏上した。「千銭を京師に運ぶのに、費用が万銭に至り、国に有害である。」と請い、これを罷めさせようとした。帝が元琇に問うと、元琇は奏上した。「千銭の重さは、およそ一斗の米に等しい。江南から水路で京師に至るまで、千銭を運ぶ費用は三百に過ぎず、どうして万に至ろうか。」帝はこれを然りとし、中使に手詔を持たせて銭を運ぶよう命じた。滉は堅くこれに反対した。その年十二月、滉に度支諸道転運塩鉄等使を加えられたので、宿怒を逞しくし、累ねて元琇を誣奏し、雷州司戸に貶した。その責めが重かったので、朝廷を挙げて無罪とし、密かに議論する者が多かった。尚書左丞董晉が宰臣劉滋・斉映に言った。「元左丞が突然貶責を受け、罪名を知らない。刑罰が一度濫用されれば、誰が危惧しないだろうか。仮に権臣が志を逞しくするなら、相公はどうして三司に詳しく断じるよう奏請しないのか。去年関輔で戦争があり、時に蝗害と旱魃があったが、元琇は国計を総べ、日夜憂慮勤勉して、師旅を供給し、一つの賦税も増やさずに、軍国を共に救った。これは労臣と言えよう。今、流謫されるのを見ると、人心を失う恐れがある。人心が一度揺らげば、聞鶏起舞する者が出よう。ひそかに相公のため痛惜する。」劉滋・斉映はただ過ちを引き受けるのみであった。給事中袁高がまた抗疏してこれを弁明したが、滉は朋党と誣り、留めて行われなかった。

時に両河の兵は罷み、中土は寧乂なり、滉上言す、「吐蕃は河湟を盗み有つこと、日既に久し。大暦以前は、中国多難なれば、以て其の侵軼を肆にす。臣聞く、其の近年以来、兵衆漸く弱く、西は大食の強に迫られ、北は回紇の衆に病み、東は南詔の防有り、其の分鎮の外を計るに、戦兵は河・隴に在りて五六萬のみ。国家第に三数の良将を令し、十萬の衆を長駆して、涼・鄯・洮・渭に於いて並びに堅城を修め、各二萬人を置かば、足りて守禦の要に当たるべし。臣請ふ、当道の貯蓄する所の財賦を以て饋運の資と為し、以て三年の費を充てん。然る後に田を営み粟を積み、且つ耕し且つ戦ひ、河・隴二十餘州を収復せば、翹足して待つ可し」と。上甚だ其の言を納る。滉の朝に入るや、路汴州に由り、厚く劉玄佐と結び、将に其の辺事に任ず可きを薦めんとす、玄佐其の賂を納れ、因りて之を許す。及来覲す、上焉を訪問す、初め頗る命を稟く、及滉疾を以て第に帰るや、玄佐意怠り、遂に辺任を辞し、盛んに犬戎未だ衰えずと陳し、軽く進む可からずとす。滉貞元三年二月、疾を以て薨じ、遂に其の事を寢す、年六十五。上震悼すること久しく、朝を三日廃し、太傅を贈り、布帛米粟を賻すること差有り。

滉は宰相の子、幼より美名有り、其の結交する所は、皆時の俊彦、公直ならざる者は之と親密せず。性節儉を執り、志は奉公に在り、衣裘茵衽は十年一易、居処は陋薄、纔かに風雨を蔽ふ。弟洄常に裏宅に於いて廊宇を増修す、滉江南より至るや、即ち命じて之を撤去せしめ、曰く「先公容れ焉、吾輩之を奉ず、常に失墜を恐る、所有摧圮するは、葺くは則ち已む、豈敢て改作して、以て儉徳を傷らんや」と。重位に居るより、愈よ清儉にして悪を嫉み、闕漏を彌縫し、知るて為さざる無く、家人産を盗むも、未だ意に在らざりき。入仕の初めより、卿相に至るまで、凡そ四十年、相継ぎて馬五匹に乗るも、皆敝帷に及ぶ。尤も書に工なり、兼ねて丹青を善くす、繪事は急務に非ざるを以て、自ら其の能を晦まし、未だ之を傳へず。『易象』及び『春秋』を好み、『春秋通例』及び『天文事序議』を著す各一卷。然れども以前輩早達なるを以て、稍く後進を薄しむ。晚年京師に至るや、丞郎卿佐に接するに頗る倨り、衆平らかならず。其の浙右に在るや、政令明察、末年は嚴急に傷つけられ、巡内婺州傍縣に其の令を犯す者有れば、誅及び鄰伍、死者数十百人。又推覆官を俾りて分ち境内を察せしめ、情疑似に渉れば、必ず極法を置き、誅殺殘忍、一判すれは即ち数十人を剿り、且つ虚日無し。令行禁止と雖も、而も冤濫相尋ぐ。議者滉を以て一方を統制し、頗る勤績を著はし、幼より名を立て貞廉、晚途政甚だ苛慘、身達せざれば則ち情を飾りて進み、其の志を得れば則ち本質遂に彰る。子群・臯。群は官考功員外郎に至る。

滉の子 臯

臯字は仲聞、夙に令名を負ひ、而して器質重厚、大臣の度有り。雲陽尉より賢良科を擢でられ、右拾遺を拝し、左補闕に転じ、累遷して起居郎・考功員外郎。俄に父艱に丁り、德宗中人を遣はして第に就き慰問せしめ、仍て令を宣して滉の事業を論譔せしむ、臯號泣して命を承け、立って数千言を草し、德宗之を嘉す。及免喪す、執政者考功郎中に擬す、御筆を加へ知制誥とす。中書舍人・御史中丞・尚書右丞・兵部侍郎に遷り、皆稱職す。京兆尹に改め、鄭鋒を倉曹と為すを奏し、專ら錢穀を掌らしむ。鋒は苛刻下を剝ぐを事とし、人皆咨怨す。又臯を勸めて府中の雜錢を搜索し、百姓の粟麥等三十萬石を折糴して進奉せしめ、以て恩寵を圖らしむ。臯其の計を納る。尋て鋒を興平縣令と為すを奏す。

及貞元十四年、春夏大旱有り、粟麥枯槁し、畿内の百姓、累ねて臯に陳訴すれども、府中の倉庫虚竭なるを以て、憂迫惶惑し、敢へて實を奏せず。會に唐安公主の女右庶子李愬に適ひ出づ、内官中使愬の家に往來す、百姓道を遮り狀を投ず、内官事を繼ぎて以て上聞す。德宗詔を下して曰く「京邑は四方の則たり、長吏は親人の寄を受く、實に邦本に系り、以て朕の憂を分つ、苟も其の才に非ざれば、是れ理を紊る。正議大夫・守京兆尹・賜紫金魚袋韓臯は、比清貫を踐み、頗る謹恪を聞く、之を尹正に委ね、公忠を效はさんことを冀ふ。乃ち者邦畿の間、粟麥稔らず、朕茲の黎庶を念ひ、方に蠲除を議す、自ら宜しく悉心し、以て勤恤に副ふべし。臯奏報實を失ひ、處理方無く、致して閭井を安からしめず、囂然として上訴す。及令して覆視せしむるに、皆虚詞に渉り、壅蔽頗る深く、罔惑斯れ甚だし。宜しく懲誡を加へ、以て守官を勖むべし。撫州司馬と可し、員外置同正員、馳驛して發遣せしむ」と。鋒も亦尋ち出でて汀州司馬と為る。臯幾も無く杭州刺史に移り、復た尚書右丞を拝す。

臯は前輩を恃み、頗る簡倨を以て自ら処す。順宗の時、王叔文の黨盛んなり、臯之を嫉み、人に謂ひて曰く「吾は新貴に事ふること能はず」と。臯の從弟曄は、叔文に幸はれ、以て之に告ぐ、因りて出でて鄂州刺史・嶽鄂蘄沔等州觀察使と為る。入りて東都留守と為る。元和八年六月、檢校吏部尚書を加へられ、兼ねて許州刺史、忠武軍節度等使を充つ。陳・許二州水潦の後を以て、臯に綾絹布葛十萬端疋を賜ひ、以て軍資宴賞を助く。理むる所は簡儉を以て稱せらる。入りて吏部尚書と為り、兼ねて太子少傅、太常卿事を判ず。元和十一年三月、皇太后王氏崩じ、臯を以て大明宮使を充つ。十五年閏正月、憲宗山陵禮儀使を充つ。三月、穆宗師保の舊を以て、檢校右僕射を加ふ。十二月、銓司科目の人を考ふるに實を失ふを以て、刑部侍郎知選事李建と一月の俸料を罰せらる。長慶元年正月、正しく尚書右僕射を拝す。二年四月、左僕射に轉じ、尚書省に赴き上事し、命中使宣賜して酒饌を賜ひ、及宰臣百僚送上するも、皆近式の如し。其の年、本官を以て東都留守と為り、行きて戲源驛に及び暴卒す、年七十九。太子太保を贈らる。大和元年、謚して貞と曰ふ。

臯は音律に通暁し、かつて琴の演奏を見て、『止息』に至り、嘆じて言うには、「妙なるかな、嵇生がこの曲を作ったのは、まさに晋と魏の間の時であろう。その音は商を主とし、商は秋の声である。秋とは、天が草木を揺り落とし厳しく殺伐とする、一年の終わりの時である。また晋は金運に乗じ、商は金の声である。これによって魏の末に晋が代わろうとすることを知ったのである。その商弦を緩めて、宮と同じ音にしたのは、臣が君を奪う意味であり、これによって司馬氏が簒奪しようとすることを知ったのである。司馬懿は魏の明帝から後嗣を託された後、かえって簒奪の心を抱き、自ら曹爽を誅殺してからは、逆節がますます露わになった。王陵が揚州都督となり、荊王彪を立てようと謀り、毋丘儉、文欽、諸葛誕が前後相継いで揚州都督となり、皆魏室を匡復しようとする謀りがあったが、いずれも懿父子に殺された。叔夜は揚州がかつての広陵の地であることから、あの四人はいずれも魏室の文武の大臣で、皆広陵で敗れ散った。『散』は魏氏が散亡することを言い、広陵から始まったのである。『止息』とは、晋は一時暴興したが、結局ここで止み息絶えるという意味である。その哀憤躁蹙、憯痛迫脅の趣旨は、ことごとくこの中にある。永嘉の乱は、その応であろう。叔夜がこれを撰したのは、後代の知音者に伝えようとしたのであり、かつ晋と魏の禍を避けるため、神鬼に託したのである。」

滉の弟 洄

洄は蔭緒によって任を受け、劉晏が塩鉄度支を管掌すると、属吏に辟召され、累官して諫議大夫・知制誥に至った。元載と親しく、載が誅殺されると、連座して邵州司戸同正員に貶された。建中元年二月、再び諫議大夫となった。先に劉晏が度支を兼領していたが、晏が罷免された後、天下の銭穀をそれぞれ尚書省に帰属させた。本司は職を廃し事を罷め、久しく綱紀がなく、ただその名を収めるだけでその任を総べる者がなく、国用の出入は統べる所がなかった。そこで洄を戸部侍郎・判度支に転じた。洄が上言して言うには、「江淮の七監は、年に銭四万五千貫を鋳造し、京師に輸送しているが、工費と運送の費用を計算すると、一貫あたり銭二千を計上し、これは元手が倍の利益である。今、商州に紅崖冶があり、銅の産出がますます多く、また洛源監があるが、久しく廃れて管理されていない。工を増やして山を穿ち銅を採り、洛源の旧監を興し、十炉を置いて鋳造することを請う。年に銭七万二千貫を産出し、工費と運送の費用を計算すると、一貫あたり銭九百となり、利益が元手を上回る。その江淮の七監は、全て罷めることを請う。」また「天下の銅鉄の冶は、これ山沢の利と言い、王者に帰すべきであり、諸侯や方嶽の所有すべきではない。今、諸道の節度都団練使が皆これを占拠しているのは、適切ではなく、総じて塩鉄使に隷属させるべきである」と述べた。いずれも従われた。

洄は楊炎と親しく、炎が罪を得ると、常に自ら安んじなかった。間もなく、兄の子の臯が上疏して炎の罪を弁明したので、徳宗は洄がやらせたと考え、まもなく蜀州刺史に貶した。興元元年三月、兵部侍郎として入朝した。六月、京兆尹となる。七月、御史大夫を加えられた。貞元二年正月、刑部侍郎劉太真が宰相盧杞に与して罪を得たので、洄が太真に代わって刑部侍郎となり、まもなく再び兵部侍郎となった。貞元七年十一月、国子祭酒となった。

張延賞

張延賞は、中書令嘉貞の子である。幼くして孤となり、本名は宝符といった。開元末、玄宗が召見し、延賞の名を賜り、「賞が世に延びる」の意味を取り、特に左司禦率府兵曹参軍を授けられた。経史に広く渉猟し、政事に通達し、侍中・韓国公苗晋卿がこれを見て奇とし、娘を妻とさせた。粛宗が鳳翔に在った時、監察御史に抜擢され、緋魚袋を賜り、殿中侍御史に転じた。関内節度使王思礼が従事に請い、思礼が河東を領すると、また太原少尹となり、行軍司馬・北都副留守を兼ねた。

代宗が陜に行幸した時、給事中に除され、御史中丞・中書舎人に転じた。大暦二年、河南尹に拝され、諸道営田副使を充てた。河洛は久しく兵衝に当たり、里井は丘墟と化していたが、延賞は身を勤めて下を率い、政は簡約を尚び、河渠を疏導し、宮廟を修築し、数年の間に流亡の民が帰附し、邦畿は再び完うされ、詔書で褒め称えられた。時に河南・淮西・山南副元帥を罷め、その兵を以て東都を鎮め、延賞が東都留守を権知してこれを領したが、治績第一となり、入朝して御史大夫に拝された。初め、上封人李少良が密かに元載の陰事を聞こえ上げたが、載の与党がこれを知り、少良が狂妄であると奏上し、御史台に下して訊鞫させ、意に属する者を求めようとした。延賞はその意を受けず、まもなく揚州刺史・淮南節度観察等使として出された。時に旱魃で凶作となり、他境に逃亡する者があったが、吏がこれを拘束することがあった。延賞は言うには、「食は人の恃んで生きる所である。ここに居て坐して死ぬより、あちらに行けば生きられるなら、我が民を存えさせることができれば、またあちらを限る必要があろうか」と。そこで舟楫を整えてこれを送り、吏にその廬室を修めさせ、その逋債を免除したので、帰る者は以前より増えた。辺江の瓜洲は、舟航が湊会するが、県は江南に属していた。延賞は江を境とするよう奏請し、人々は大いに便利とした。まもなく母の喪で職を去り、喪が終わると検校礼部尚書・江陵尹・兼御史大夫・荊南節度観察使を授けられた。

数年後、検校兵部尚書・成都尹・剣南西川節度観察使に改められ、前の如く御史大夫を兼ね、まもなく就いて吏部尚書を加えられた。建中四年十一月、部将の西山兵馬使張朏が兵を率いて成都に入り乱を起こしたので、延賞は漢州鹿頭に奔り、戍将の叱幹遂らがこれを討った。その月、朏及び同悪の者を斬り、再び成都に帰った。先に兵革が屡々擾乱し、天宝末に楊国忠が南蛮に事を用いて以来、三蜀は疲弊し、車駕の遷幸に属した。その後、郭英乂が崔寧の室を淫し、ついに崔寧・楊琳の交乱を招き、崔寧が志を得ると、また極めて侈靡に走ったので、蜀土は残弊し、蕩然として制度がなかった。延賞は薄賦約事し、動くに法度に遵い、僅かに庶富に至った。建中末、車駕が山南に在った時、延賞は貢奉供億し、頗る忠力を竭くした。車駕が梁州に在った時は、剣南蜀川を根本として倚った。

貞元元年、宰相劉従一が病を患ったため、詔を下して張延賞を召し出し中書侍郎・同中書門下平章事とした。鳳翔節度使李晟と不和であり、李晟が上表して張延賞の過失悪行を論じたので、徳宗は李晟の意を重んじて違えることを憚り、張延賞が興元に至った時、左僕射に改めて任命した。初め、大暦の末、吐蕃が剣南を寇し、李晟が神策軍を率いてこれを防いだ。帰還する際、成都の官妓高氏を連れ帰った。張延賞はこれを聞いて大いに怒り、すぐに将吏に命じて追い返させた。李晟はこれを深く恨み、言葉や表情に表した。三年正月、李晟が入朝した。詔により李晟と張延賞はわだかまりを解くこととされ、徳宗は張延賞に目をかけ、用いようとした。折しも浙西観察使韓滉が来朝し、かつて李晟に恩があったため、宴会の席で李晟を説いてわだかまりを解かせ、ともに酒を飲んで大いに楽しんだ。そして李晟に上表して自分を宰相に推薦するよう請うた。李晟はこれを承諾した。そこで再び同中書門下平章事を加えられた。張延賞が国政を執り権力を握ると、李晟は自分の一子をその娘に娶わせようと請い、固く情誼を結ぼうとしたが、張延賞は拒絶して許さなかった。李晟は人に言った、「武人は気性がさっぱりしている。杯酒の間に旧悪を解けば、終に歓びを解くことができる。文士は犯し難く、外では和睦を修めても、内には怒りを蓄えている。今、婚姻を許さないのは、わだかまりが忘れられていないからだ。恐れることはないだろうか」。間もなく、張延賞は果たして李晟の兵権を罷めようと謀った。初め、吐蕃の尚結贊が兵を起こして隴州に入り、鳳翔にまで至ったが、何も掠奪せず、かつ言った、「我を召し寄せたのに、どうして牛酒を持って軍を労わらないのか」。ゆっくりと引き去り、このことを以て李晟を離間しようとした。李晟は牙将王佖に命じて精鋭兵三千を選び汧陽に伏兵を設けさせ、吐蕃を大いに破り、結贊は辛うじて免れた。この時以来、たびたび使者を遣わして和を乞うた。李晟が京師に朝すると、奏上して言った、「戎狄に信義はない。許すべきではない」。宰相韓滉もまた李晟の意見を支持し、軍糧を調達して続けるよう請うた。上は将帥が事を起こして功を求めるのではないかと考えた。折しも韓滉が卒去した。張延賞は上意を推し量り、遂にその志を行い、給事中鄭雲逵を代わりに任じるよう奏上した。上は許さず、かつ言った、「李晟には社稷の功がある。自ら代わりを挙げさせるようにせよ」。ここにおいて初めて邢君牙を用いた。李晟を太尉・兼中書令に拝し、奉朝請とするのみであった。この年五月、吐蕃は果たして約束を破って渾瑊を劫掠しようとした。李晟を太尉に冊封する際、故事によれば、臨軒で三公を冊拝するには、中書令が冊を読み、侍中が礼を奉る。もし欠員があれば、宰相がこれを代行する。張延賞はその礼を軽んじようとし、初めて兵部尚書崔漢衡に命じて中書令を代行させ冊を読ませた。当時の議論はこれを非とした。

張延賞は奏議して官員の削減を請い、言った、「政を行う根本は、必ずまず官を命ずることにある。旧制では官員が多くしかも費用がかさむ。州県が疲弊しているのは、このことに起因する。臣が荊南・剣南におりました時、管轄する州県で官員が欠けている所は、少なくとも十数年は下らず、吏部は補任したことがなかったが、ただ一官に仮に摂行させただけで、公事もまた治まった。このことから言えば、員数を減らすことに疑いはない。官員を減らし、その禄俸を収め、幕職の戦士に資し、劉玄佐に河湟を回復させれば、軍用に不足はないでしょう」。上はこれをよしとした。初め、韓滉が入朝し、汴州に至った時、劉玄佐と深く結び、辺境の任に委ねることができると推薦しようとした。劉玄佐もまた自ら力を尽くそうとし、初めは命を受けた。韓滉が卒去すると、劉玄佐は病を理由に辞退した。上は中官を遣わして慰労させ、臥床したまま命を受けた。張延賞は用いることができないと知り、李抱真を用いるよう奏上した。李抱真もまた辞退して行かなかった。当時、李抱真の判官陳曇が京師で事を奏上していた。張延賞は陳曇に李抱真を勧めさせたが、結局拒絶された。これは張延賞が怨みを抱いて李晟の兵権を罷めたためであり、これによって武臣が附かなかったのである。官員削減を建議した後、世間の議論は穏やかでなかった。張延賞は恐れ、官を量って留め、詔を下して言った、「諸州府で停減および留保された官は、ともに事務を処理すべきである。その中で先に考課が満了し、あるいは職掌を充たした者で、停減に遇い公務に欠ける恐れがある者は、長吏に委ねて、停減すべき官の中から考課の浅い者で清廉で有能な者を選び、欠けた官を埋めるために留め、差し摂えた後奏聞せよ。ただ才能に堪える者を取るだけで、資格や序列に限らない。もし当州の官が少なければ、隣州の官を以て充てることを任せる。州県の各種の部送については、旧例に準じて当州の官および本土に寄寓する客で資産があり有能な者を差遣する」。官員削減により人が多く、路上では怨み嘆く声が、日に日に上聞に達した。侍中馬燧は官員削減が甚だしいと奏上し、実行は難しいと恐れた。太子少保韋倫および常参官らがそれぞれ上疏して官員削減が怨みを招くとし、ともに復旧を請うた。浙西観察使白誌貞もまた上疏して論じた。当時、張延賞は病が重く、私邸にいた。李泌が初めて宰相となり、群情を採り上げた。これによって官員は悉く復旧した。

貞元三年七月に薨去した。六十一歳であった。三日間朝を廃し、太保を追贈し、賻礼を一等加え、諡して成肅といった。

張延賞の子 張弘靖

子の弘靖は、字を元理といい、風雅で篤厚、信義があり正直であった。若くして門蔭により河南府参軍に授かり、藍田尉に補任された。東都留守杜亜が召し出して従事とし、監察御史裏行に改めるよう奏上し、殿中侍御史・内供奉に転じた。留守の将令狐運が賊を郊外に追い出した日、道で転運の絹を奪う者があった。杜亜は令狐運が豪家の子であるため、彼がやったものと考え、判官穆員および張弘靖に命じてともにこの事を審理させた。穆員と張弘靖はともに、令狐運の職は牙門にあり、必ずや盗みを働くはずがないとして、堅く取り調べないよう請うた。杜亜は聞き入れず、遂に獄事を上聞し、なお穆員および張弘靖を幕府から追い出した。詔を下して三司使に雑治させた。後、果たして河南界で賊を得た。間もなく、徳陽公主が降嫁し、邸宅を造営するのに張弘靖の家廟を侵そうとした。張弘靖は表を奉って陳情し、祖先の徳を詳しく述べた。徳宗はこれを慰撫し、廟を毀たせなかった。また賦を献じて二京の制を称美した。徳宗はその文を嘉し、監察御史に抜擢して授けた。殿中侍御史・礼部員外郎に転じ、兵部郎中・知制誥・中書舎人・知東都選事に遷り、工部侍郎に拝し、戸部侍郎・陜州観察・河中節度使に転じ、刑部尚書・同中書門下平章事に拝した。

呉少陽が死ぬと、その子の元済が勝手に留務を主宰したので、憲宗は怒り、詔を下してこれを誅せんとした。弘靖はまず弔贈使を命じ、その不恭を待って、それから兵を加えるよう請うた。憲宗はその議に従った。まもなく中書侍郎平章事を加えられた。盗賊が宰相の武元衡を殺し、京師では賊を捜索したが得られなかった。時に王承宗の邸中に鎮卒の張晏ら数人がおり、行いが無状であったので、人々は多く彼らを怪しみ、詔して御史の陳中師に付してこれを推按させたところ、皆罪を附会して、京中で言われた通りにした。弘靖はその不直を疑い、しきりに上(憲宗)の前でこれを言ったが、憲宗は聞き入れず、ついに張晏らを殺した。後に田弘正が鄆に入り、簿書を調べると、元衡を殺した者もあったが、ただ事が曖昧で、互いに説があり、ついにその実を得なかった。また張晏を殺した後、憲宗はついに承宗を討伐しようとした。弘靖は、戎事を並び興すのは、成し遂げる者が少ないとし、元済を併せて攻め、淮西が平定するのを待って、それから河朔に全軍を向けるのがよいと言った。憲宗はすでに北討を始めており、これを止めようとはしなかったが、その言葉に重ねて逆らうこともなかった。弘靖は終に用いられないと知り、自ら陳して政事を罷めることを請うた。まもなく検校吏部尚書・同中書門下平章事となり、太原節度使を充てた。赴任する前に、果たして詔を下して承宗を誅するとなった。弘靖は、しきりに諫めて行われないので、自ら効を尽くすべきであるとして、軍実を大いに閲し、自ら承宗を討つことを請うた。詔は出軍を許したが、自ら往くことは許さなかった。まもなく魏博・澤潞が悉く承宗に敗れたので、詔してその前言を賞した。弘靖はただちに間道より使者を発して懇ろに承宗を諭し、承宗もこれにより款附した。間もなく召されて吏部尚書に任じられ、検校右僕射・宣武軍節度使に遷った。これは韓弘が入覲した後のことであった。弘靖は政を寛緩に用い、弘に代わって治めた。まもなく劉総が累次帰闕を求めて、かつ弘靖に代わってくれるよう請うたので、制して検校司空平章事を加え、幽州・盧龍等軍節度使を充てた。

弘靖が幽州に入った時、薊人は老幼男女を問わず、皆道を挟んで見物した。河朔の軍帥は寒暑を冒し、多く士卒と同様であり、蓋を張り安輿に乗る別はなかった。弘靖は久しく富貴にあり、また風土を知らず、燕に入る時、肩輿に乗って三軍の中を行き、薊人は大いに驚いた。弘靖は、禄山・思明の乱が幽州から始まったので、事の初めにその俗を尽く革めようとし、ついに禄山の墓を発き、その棺柩を毀ったので、人々は特に失望した。従事に韋雍・張宗厚ら数人がおり、また軽佻放肆で酒を嗜み、常に夜飲して酔って帰り、燭火が満街に満ち、前後で呵叱し、薊人の慣れないことであった。また雍らは吏卒を詬責し、多く「反虜」と呼び、軍士に言うには、「今天下に事無し、汝輩は二石の力弓を挽くよりは、一丁の字を識るに如かず」と。軍中では意気を以て自ら負い、深くこれを恨んだ。劉総が帰朝するに当たり、銭百万貫を軍士に賜ったが、弘靖は二十万貫を留めて軍府の雑用に充てた。薊人はその憤りに耐えず、ついに相率いて叛き、弘靖を薊門館に囚え、韋雍・張宗厚ら数人を捕らえ、皆殺した。続いて張徹という者がおり、遠くより使いから帰ったが、軍人はその過ち無きを以て、害を加えようとせず、館中に引いて置こうとした。徹はその心を知らず、ついに弘靖の所在を求め、軍人を大いに罵ったので、また乱兵に殺された。明日、吏卒は少しずつ自ら悔い、悉く館に詣で、弘靖を帥とするよう請い、心を改めてこれに事えんと願った。凡そ三度請うたが、弘靖は終に対しなかった。軍人はついに相語って言うには、「相公言無し、是れ吾曹を赦さざる必ずや、軍中豈に一日帥無きを得んや」と。ついに朱洄を取って兵馬留後とした。朝廷は既に洄の子の克融を幽州節度使に除したので、弘靖を撫州刺史に貶した。間もなく、太子賓客・少保・少師に遷った。長慶四年六月に卒し、年六十五。

元和の初め、王承宗が兵を阻んだ時、劉総の父の済は征討の術を備えて陳べ、自ら先んずることを請うた。出軍すると、累次城邑を抜いた。総は父を継いだ後、先志を述べんと願い、かつ河朔の旧風を尽く変えようとした。長慶の初め、累表して入朝を求め、かつ分割して治める地を請い、それから帰朝しようとした。その意は、幽・涿・営州を一道として、弘靖にこれを治めさせ、瀛州を一道として、盧士玫に治めさせ、平・薊・媯・檀を一道として、薛平に治めさせようということであった。なお軍中の宿将を籍し、尽く闕下に薦め、朝廷の昇獎を望み、幽・薊の人をして、皆美爵禄を希う意あらしめんとした。疏が上ると、穆宗は速やかに范陽を得んと欲し、宰臣の崔植・杜元穎もまた遠大な経略を為さず、ただ弘靖の授けられたるを重んじてその事局を省こうとした。ただ瀛・莫の両州のみ観察使を置くことを許し、他の郡県は悉く弘靖に統べさせた。時に総の薦めた将校は俱に京師の旅舎中にあり、久しく問わず、朱克融らは僅かに衣を借り食を乞い、日々中書に詣でて官を求め、その困窮に耐えなかった。弘靖を除するに及んで、命じて悉く本軍に還らせた。克融らは復帰を得たが、皆深く觖望を懐き、その後ついに叛乱を為すこととなった。初め、総は平・薊・媯・檀を薛平に請うたのは、分裂の中でも特に上策であったが、朝廷はこれを行えず、ついに後患を致し、人は今に至るまでこれを惜しむ。

子に文規・景初・嗣慶・次宗あり。

弘靖の子 文規

文規は、拾遺・補闕・吏部員外郎を歴任した。開成三年十一月、右丞の韋温が文規を弾劾した:長慶中、父の弘靖が幽州に陥った時、文規は京師に徘徊し、難に赴くことを求めず、南宮を塵汙すべからず、と。ついに安州刺史に出された。累遷して右散騎常侍・兼御史中丞・桂管都防禦観察使となった。

弘靖の子 景初

景初は、使府に職を歴任し、官は殿中侍御史に止まった。

弘靖の子 嗣慶

嗣慶は、位は河南少尹に終わった。

弘靖の子 次宗

次宗は最も文学があり、古を稽え履行した。開成中、起居舎人となった。文宗は故事を復し、毎入閣するに、左右史が筆を執りて螭頭の下に立ち、宰相の奏事を備録することを得た。宰臣が既に退くと、上は左右史を召して更に奏した是非を質証したので、開成の政事は史氏に詳しく、次宗は特に職を奉じたと称された。礼部員外郎に改められたが、兄の文規が韋温に省に入れられず出官したので、次宗は堅く省秩を辞し、国子博士兼史館修撰に改められた。舒州刺史に出され、卒した。

文規の子 彦遠

文規の子の彦遠は、大中の初めに左補闕より尚書祠部員外郎となった。景初の子は天保、嗣慶の子は彦修、次宗の子は曼容。延賞の東都旧第は思順里にあり、亭館の麗は都城に甲たり、子孫五代、加工すること無く、時に「三相張氏」と号したという。

史臣曰く

史臣曰く、君民足れば則ち国富み、将相和すれば則ち国安し、この道に反する者は人を得る者に非ざるなり。滉は元琇を殺し、瑞塩を奏し、幹運の能を逞しうして、貞純の士に非ず、下を刻み上を罔し、以て己が功と為す。幸いに多事の朝に逢い、例として姑息の地に在り、幸いにして免るるを得、余に称すべきなし。延賞は私を以て公を害し、李晟の兵柄を罷め、武臣をして其の力を陳べしめず、直を悪み正を醜し、柳渾の相位を擠し、賢者をして其の才を進めしめず。象恭僝功、皆四凶の跡なり、蔭を以て世を継ぎ、才を以て身を進むと雖も、非道を蹈む者は、実に小人なるかな。延賞は歴て名藩を典とし、皆善政と称せらる、及び大位に登り、乃ち飾情を彰す。皋は大僚に叠り処るも、徒に旧徳を称するのみ、弘靖は辺事を軽傲し、軍資を欺減し、洄は元載・楊炎に附き、継いて累貶に及ぶ、俱に守正中立の者に非ず。『書』に云う、「世祿の家は、鮮く礼に由る能くす」と。其れ是れに非ずや。

賛に曰く、韓滉は下を刻み、延賞は公を害す。皋・洄は世を継ぎ、弘靖は戎を興す。