舊唐書

巻128

巻128

舊唐書

原文舊唐書

卷一百二十八

原文卷一百二十八

列傳第七十八 段秀實 顏真卿

原文列傳第七十八 段秀實 顏真卿

段秀実

原文段秀實

段秀実は、字を成公といい、隴州汧陽の人である。祖父の達は左衛中郎であった。父の行琛は洮州司馬となり、秀実の功によって揚州大都督ととくを追贈された。秀実は性至孝であり、六歳の時、母が病に臥せると、七日間水漿を口にせず、病が少し癒えてからようやく飲食した。成長すると、沈着で思慮深く決断力があった。

原文段秀實,字成公,隴州汧陽人也。祖達,左衛中郎。父行琛,洮州司馬,以秀實贈揚州大都督。秀實性至孝,六歲,母疾,水漿不入口七日,疾有間,然後飲食。及長,沈厚有斷。

天宝四載、安西節度使馬霊察が別将に任命し、護蜜討伐に従軍して功績を挙げ、安西府別将を授けられた。七載、高仙芝が霊察に代わり、兵を挙げて怛邏斯を包囲したが、黑衣(大食)の援軍が到着し、仙芝は大敗し、軍士は離散した。夜中に都將李嗣業の声を聞き、大声で責めて言った、「軍が敗れて逃れようとするのは、丈夫のすることではない」。嗣業は大いに慚愧し、秀実と共に散兵を収集し、再び軍を成した。師が帰還すると、嗣業は仙芝に請い、秀実を判官とし、斥候府果毅を授けた。十二載、封常清が仙芝に代わり、大勃律を討ち、師は賀薩労城に駐屯し、戦って勝利した。常清が追撃しようとすると、秀実は進言した、「賊兵は弱体であり、我々を誘い出そうとしている。左右を備え、山林を捜索すべきである」。そこで伏兵を殲滅し、綏徳府折衝に改めた。粛宗が霊武で即位し、安西兵を徴発しようとすると、節度使梁宰はひそかに異心を抱いた。秀実は嗣業に言った、「天子が危急を告げているのに、臣下が平然としていることがあろうか。虚妄の説を信じるのは、明公の本意であろうか」。嗣業は宰に面会し、出兵を請い、従わせた。そこで歩騎五千を出し、嗣業に統率させて朔方に赴かせ、秀実を援軍とし、数々の戦功を挙げた。しかし秀実の父が死去し、哀哭して礼を過ぎた。嗣業が節度使に任命されると、秀実を左右の手を失ったかのように思い、起復を上表して請い、義王友とし、節度判官を兼ねさせた。

原文天寶四載,安西節度馬靈察署為別將,從討護蜜有功,授安西府別將。七載,高仙芝代靈察,舉兵圍怛邏斯,黑衣救至,仙芝大衄,軍士相失。夜中聞都將李嗣業之聲,因大呼責之曰:「軍敗而求免,非丈夫也。」嗣業甚慚,遂與秀實收合散卒,復得成軍。師還,嗣業請於仙芝,以秀實為判官,授斥候府果毅。十二載,封常清代仙芝,討大勃律,師次賀薩勞城,戰而勝。常清逐之,秀實進曰:「賊兵羸,餌我也,請備左右,搜其山林。」遂殲其伏,改綏德府折衝。肅宗即位於靈武,征安西兵節度使梁宰,宰潛懷異圖。秀實謂嗣業曰:「豈有天子告急,臣下晏然,信浮妄之說,豈明公之意耶?」嗣業遂見宰,請發兵,從之。乃出步騎五千,令嗣業統赴朔方,以秀實為援,累有戰功。而秀實父歿,哀毀過禮。嗣業既授節制,思秀實如失左右手,表請起復,為義王友,充節度判官。

安慶緒が鄴に奔ると、嗣業は諸軍と共にこれを包囲し、安西の輜重は河内に委ねられた。そこで秀実を懐州長史とし、軍州を管掌させ、節度留後を加えた。諸軍が愁思岡で進撃すると、嗣業は流れ矢に当たり、軍中で卒した。衆は安西兵馬使荔非元礼を推して後任とした。秀実は嗣業の喪を聞き、先鋒将白孝徳に書を送り、兵卒を発して嗣業の遺骸を護送し河内に送るよう命じた。秀実は将吏を率いて境で哭して待ち、私財を傾けて葬事を務めた。元礼はその義を称え、試みに光禄少卿とし、従前の通り節度判官を兼ねさせた。

原文安慶緒奔鄴,嗣業與諸軍圍之,安西輜重委於河內。乃奏秀實為懷州長史,知軍州,加節度留後。諸軍進戰於愁思岡,嗣業為流矢所中,卒於軍,眾推安西兵馬使荔非元禮代之。秀實聞嗣業之喪,乃遺先鋒將白孝德書,令發卒護嗣業喪送河內。秀實率將吏哭待於境,傾私財以奉葬事。元禮多其義,奏試光祿少卿,依前節度判官。

邙山の敗戦後、軍は翼城に移り、元礼は麾下に殺され、将佐も多く害に遭ったが、秀実のみ智謀をもって全うした。衆は白孝徳を節度使に推し、人心はやや定まった。また試みに光禄卿に遷し、孝徳の判官とした。孝徳が邠寧に鎮を改めると、秀実を試みに太常卿・支度営田二副使とするよう上奏した。大軍が西遷する際、通過地で掠奪を行った。また邠寧は食糧が乏しく、補給が困難であったため、奉天に軍を駐屯させるよう請うた。この時、官倉も枯渇し、県吏は憂慮恐れて多く逃匿し、群れをなして掠奪し、孝徳はこれを禁じられなかった。秀実はひそかに言った、「私が軍候となれば、このようにはしないだろう」。軍司馬がこの言葉を伝えると、秀実を都虞候とし、奉天行営事を権知させ、号令は厳正で統一され、軍府は安泰となった。代宗はこれを聞き、しばらく嘆賞した。兵が邠寧に帰還すると、再び都虞候とし、まもなく涇州刺史に拝した。

原文邙山之敗,軍徙翼城,元禮為麾下所殺,將佐亦多遇害,而秀實獨以智全。眾推白孝德為節度使,人心稍定。又遷試光祿卿,為孝德判官。孝德改鎮邠寧,奏秀實試太常卿、支度營田二副使。大軍西遷,所過掠奪。又以邠寧乏食,難於饋運,乃請軍於奉天。是時公廩亦竭,縣吏憂恐多逃匿,群行剽盜,孝德不能禁。秀實私曰:「使我為軍候,當不如此。」軍司馬言之,遂以秀實為都虞候,權知奉天行營事,號令嚴一,軍府安泰,代宗聞而嗟賞久之。兵還於邠寧,復為都虞候,尋拜涇州刺史。

大暦元年、馬璘が開府儀同三司を加えるよう上奏した。軍中に二十四斤の弓を引く力士が盗みを犯したが、璘はこれを赦そうとした。秀実は言った、「将帥に私的な愛憎があれば、法令は統一されず、たとえ韓信かんしん・白起が蘇生しても、よく治めることはできません」。璘はその意見を良しとし、ついに殺させた。璘が事を決するのに理に合わないことがあれば、必ず強く争い、璘が過ちを認めるまでやめなかった。璘が涇州に城を築く時、秀実が留後を掌り、帰還すると、御史中丞を加えられた。璘が詔を受けて涇州に鎮を移すと、その兵士たちはかつて四鎮・北庭から中原の難に赴き、僑居していたところを急に移されたため、労苦と怨みをかなり蓄えていた。刀斧将王童之が人心の動揺に乗じて、乱を導こうとした。ある者がその事を告げ、さらに言った、「夜の警備の厳しい時、警鼓を合図にしようとしています」。秀実は鼓を打つ者を召し、偽って時を誤ったことに怒り、戒めて言った、「毎更、籌が尽きるごとに、必ず報告に来い」。報告するたびに、数刻延ばし、四更が終わって夜が明けた。時がずれたため、童之の乱は起こせなかった。翌日、告げた者がまた言った、「今夜は草場を焼き、救火する者を期して共に乱を起こします」。秀実は厳重に警備するよう命じた。夜半に火災が発生すると、軍中に令を伝えて言った、「救火する者は斬る」。童之は外営におり、救火に入ることを請うたが、許されなかった。翌日これを斬り、その徒党十余人を捕らえて殺し、示衆して言った、「敢えて移転に遅れる者は族誅する」。そこで涇州に遷った。任地に到着すると、人煙は絶え、かつ官倉の食糧もなかった。朝廷はこれを憂い、詔を下して璘に鄭・潁二州を遙管させ、涇原軍の糧食を賄わせ、秀実を留後とし、二州はよく治まった。璘はその功績を思い、また行軍司馬を兼ね都知兵馬使とするよう上奏した。

原文大曆元年,馬璘奏加開府儀同三司。軍中有能引二十四弓而犯盜者,璘欲免之,秀實曰:「將有私愛,則法令不一,雖韓、白復生,亦不能為理。」璘善其議,竟使殺之。璘決事有不合理者,必固爭之,得璘引過乃已。璘城涇州,秀實掌留後,歸還,加御史中丞。璘既奉詔徙鎮涇州,其士眾嘗自四鎮、北庭赴難中原,僑居驟移,頗積勞怨。刀斧將王童之因人心動搖,導以為亂。或告其事,且曰:「候嚴,警鼓為約矣。」秀實乃召鼓人,陽怒失節,且戒之曰:「每更籌盡,必來報。」每白之,輒延數刻,四更畢而曙。既差互,童之亂不能作。明日,告者復曰:「今夜將焚草場,期救火者同作亂。」秀實使嚴加警備。夜半火發,乃使令於軍中曰:「救火者斬。」童之居外營,請入救火,不許。明日斬之,捕殺其黨凡十余人以徇,曰:「敢後徙者族!」於是遷涇州。既至其理所,人煙夐絕,且無廩食。朝廷憂之,遂詔璘遙管鄭、潁二州,以贍涇原軍,俾秀實為留後,二州甚理。璘思其績用,又奏行軍司馬,兼都知兵馬使。

八年、吐蕃が来寇し、塩倉で戦い、我が軍は不利であった。璘は敵に遮られ、日暮れになっても帰還せず、敗将と潰兵は我先に道を争って入った。時に都將焦令諶ら諸将四五人が狼狽して到着した。秀実は召し出して責めて言った、「兵法に云う、将を失えば、麾下は斬られるべきである。公らは死を忘れて家を安んじようとするのか」。令諶らは恐懼し、数十回拝礼した。秀実は城中で未だ出戦していない士卒をすべて駆り出し、驍ぎょう将に統率させ、東の古原に依り、奇兵を列ねて賊に戦いを示し、かつ敗亡の兵を収集しようとした。吐蕃の衆はこれを見て、近づくことを敢えなかった。夜になって、璘はようやく帰還できた。十一年、璘が病篤く、政務を見られなくなったため、秀実に節度副使兼左廂兵馬使を摂行するよう請うた。秀実は十将張羽飛を招召将とし、兵を分けて甲冑を整え、非常事態に備えた。璘が卒すると、軍中では内で行哭して喪事に赴き、李漢惠は外で賓客を接応し、親族でない者は喪側に居ることを許さず、群れをなして離れて立つ者は捕らえて囚えた。都虞候史廷幹・裨将崔珍・張景華が乱を謀ったため、秀実は廷幹を京師に送り、珍と景華を外鎮に移し、軍中は遂に安定し、一人も殺さなかった。まもなく秀実を涇州刺史兼御史大夫、四鎮北庭行軍涇原鄭潁節度使に拝した。三四年の間、吐蕃は塞を犯すことを敢えず、清廉で倹約し、率直で平易であり、遠近に称えられた。公的な宴会でなければ、音楽を聴かず酒を飲まず、私室には妓妾もなく、余分な財産もなく、公務を退いた後は、端座して静かに思索するだけであった。徳宗が嗣位すると、就いて検校礼部尚書・張掖郡王を加えた。

原文八年,吐蕃來寇,戰於鹽倉,我軍不利。璘為寇戎所隔,逮暮未還,敗將潰兵爭道而入。時都將焦令諶與諸將四五輩狼狽而至,秀實召讓之曰:「兵法:失將,麾下當斬。公等忘其死而欲安其家耶!」令諶等恐懼,下拜數十。秀實乃悉驅城中士卒未出戰者,使驍將統之,東依古原,列奇兵示賊將戰,且以收合敗亡。蕃眾望之,不敢逼。及夜,璘方獲歸。十一年,璘疾甚,不能視事,請秀實攝節度副使兼左廂兵馬使。秀實乃以十將張羽飛為招召將,分兵按甲,以備非常。璘卒,而軍中行哭赴喪事於內,李漢惠接賓客於外,非其親不得居喪側,族談離立者捕而囚之。都虞候史廷幹、裨將崔珍張景華謀作亂,秀實乃送廷幹於京師,徙珍及景華外鎮,軍中遂定,不戮一人。尋拜秀實涇州刺史、兼御史大夫,四鎮北庭行軍涇原鄭潁節度使。三四年間,吐蕃不敢犯塞,清約率易,遠近稱之。非公會,不聽樂飲酒,私室無妓媵,無贏財,退公之後,端居靜慮而已。德宗嗣位,就加檢校禮部尚書、張掖郡王。

建中元年、宰相楊炎が元載の旧志を行おうとし、原州城を築き、陵陽渠を開鑿しようとした。詔により中使が上聞し、秀実に可否の状況を問うた。秀実は春の盛りに土木工事を起こすべきでないと考え、農閑期を待つよう請うた。炎はこれが自分の謀を阻むものとして、秀実を司農卿に除し、邠寧節度使李懐光に涇原節度使を兼ねさせ、西方開拓の事業に当たらせた。まもなく、劉文喜が叛いたため、結局城は築かれなかった。

原文建中元年,宰相楊炎欲行元載舊志,築原州城,開陵陽渠,詔中使上聞,仍問秀實可否之狀。秀實以為方春不可興土功,請俟農隙。炎以其沮己之謀,遂除司農卿,以邠寧節度李懷光兼涇原節度使,以事西拓。無何,劉文喜叛,亦不果城。

四年、朱泚が宮闕を盗み拠り、源休は泚に偽って鑾駕を迎えるよう教え、密かに逆志を助けた。泚はその将韓旻に馬歩三千を率いさせて奉天へ急行させた。時に蒼黄の中、武備がなかった。泚は秀実がかつて涇原節度使を務め、頗る士心を得ており、後に兵権を罷められてから、憤りを蓄えて久しく、必ずや同悪を肯んじるだろうと考え、召して謀議した。秀実は初め偽ってこれに従い、密かに大将劉海賓、何明禮、姚令言の判官岐霊嶽を説き、共に泚を謀殺し、兵をもって乗輿を迎えようと謀った。三人は皆、秀実が平素から奨励遇した者であり、遂に皆承諾した。韓旻が駕を追うに及んで、秀実は宗社の危険が刻一刻に迫っていると考え、人を走らせて霊嶽に諭し、密かに令言の印を盗ませた。果たせず、司農の印を倒用して符に印し、兵を追い返そうとした。旻は駱驛に至って符を得たが、軍人もまたその印文を弁別できず、惶遽して戻った。秀実は海賓らに言った、「旻が来れば、我が党は遺類無しとなろう。我は直ちに泚を搏ち殺すべきであり、果たせなければ死すとも、終にこの賊に臣と称することはできない。」乃ち海賓と約し、事急なれば継ぐべく、明礼には外で応ずるよう命じた。明日、泚が秀実を召して事を議し、源休、姚令言、李忠臣、李子平が皆座に在った。秀実は戎服を着し、泚と膝を並べ、語が僭位に至ると、秀実は勃然として起ち上がり、休の腕を執ってその象笏を奪い、奮躍して前に進み、泚の面に唾して大罵した、「狂賊よ、我は汝を万段に斬らんことを恨む、我が豈に汝の反に逐うことがあろうか。」遂にこれを撃った。泚は臂を挙げて自ら捍ぎ、かろうじてその額を中て、流血して匍匐して逃げた。兇徒は愕然として、初め敢えて動かず、海賓らが至らなかったので、秀実は乃ち言った、「我は汝の反に同ぜず、何ぞ我を殺さざる。」兇党群がって至り、遂に害に遇った。海賓、明礼、霊嶽は相次いで殺された。徳宗は奉天においてその事を聞き、その委用が至らなかったことを惜しみ、久しく涕を垂れた。

原文四年,朱泚盜據宮闕,源休教泚偽迎鑾駕,陰濟逆誌。泚乃遣其將韓旻領馬步三千疾趨奉天。時蒼黃之中,未有武備。泚以秀實嘗為涇原節度,頗得士心,後罷兵權,以為蓄憤且久,必肯同惡,乃召與謀議。秀實初詐從之,陰說大將劉海賓、何明禮、姚令言判官岐靈嶽同謀殺泚,以兵迎乘輿。三人者,皆秀實夙所獎遇,遂皆許諾。及韓旻追駕,秀實以為宗社之危,期於頃刻,乃使人走諭靈嶽,竊令言印。不遂,乃倒用司農印印符以追兵。旻至駱驛得符,軍人亦莫辯其印文,惶遽而回。秀實謂海賓等曰:「旻之來,吾黨無遺類矣!我當直搏殺泚,不得則死,終不能向此賊稱臣。」乃與海賓約,事急為繼,而令明禮應於外。明日,泚召秀實議事,源休、姚令言、李忠臣、李子平皆在坐。秀實戎服,與泚並膝,語至僭位,秀實勃然而起,執休腕奪其象笏,奮躍而前,唾泚面大罵曰:「狂賊,吾恨不斬汝萬段,我豈逐汝反耶!」遂擊之。泚舉臂自捍,才中其顙,流血匍匐而走。兇徒愕然,初不敢動;而海賓等不至,秀實乃曰:「我不同汝反,何不殺我!」兇黨群至,遂遇害焉。海賓、明禮、靈嶽相次被殺。德宗在奉天聞其事,惜其委用不至,垂涕久之。

初め、秀実は禁兵が寡少で、非常を備えるに足りないのを見て、乃ち上疏して言った、「臣聞く、天子は万乗と曰い、諸侯は千乗と曰い、大夫は百乗と曰う、これは蓋し大をもって小を制し、十をもって一を制する所以なり。君を尊び臣を卑しむ、幹を強くし枝を弱くすの義、ここに在り。今、外には庭にせざる虜有り、内には命を梗ぐ臣有り、窃かに観るに禁兵精ならず、その数全く少なく、卒然に患難有らば、将に何をもってこれに待たん。且つ猛虎の所以に百獣畏るるは、爪牙の為なり。若しその爪牙を去らば、則ち犬彘馬牛悉く能く敵と為る。伏して願わくは少しく聖慮を留め、万一に裨益せんことを冀う。」及んで涇原の兵乱を起こし、神策六軍を召すと、遂に一人として至る者無かった。秀実は節を守って二つとせず、竟に賊に歿し、その明略義烈はかくの如し。

原文初,秀實見禁兵寡少,不足以備非常,乃上疏曰:「臣聞天子曰萬乘,諸侯日千乘,大夫曰百乘,此蓋以大制小,以十制一也。尊君卑臣,強幹弱枝之義,在於此矣。今外有不庭之虜,內有梗命之臣,竊觀禁兵不精,其數全少,卒有患難,將何待之!且猛虎所以百獸畏者,為爪牙也。若去其爪牙,則犬彘馬牛悉能為敵。伏願少留聖慮,冀裨萬一。」及涇原兵作亂,召神策六軍,遂無一人至者。秀實守節不二,竟歿於賊,其明略義烈如此。

興元元年二月、詔して曰く、「危きに見えて命を致すを忠と謂い、義に臨みて勇有るを烈と謂う。惟れ爾は臣節を励まし、殺身を憚ること無く、惟れ予は乃ち勲を嘉し式み、大典を懋かに昭す。曰く、台は徳無く、克く天に若くすること能わず、茲に殷憂を遘い、変は都邑に起こる。惟れ爾卿士、嗷然として依る所無く、逼畏の加わる所、淄澠共に混ず。故に開府儀同三司、検校礼部尚書、兼司農卿、上柱国、張掖郡王段秀実は、操行嶽の如く立ち、忠厚精至、義は色に形わり、勇には必ず仁有り。頃者嘗て涇原を鎮め、克く威恵を著わし、叛卒は訓を知り、誠を以て爾に諮る。賊泚は奸を蔵し、詐を以て爾を欺く。人臣の大節を守り、元悪の深情を見、端として国門に委し、身を挺して白刃に当たる。兇渠の首を砕かんことを誓い、以て君父の仇に敵し、死を見ること帰するが如く、虎を履みて咥えしむ。噫、天未だ禍を悔い改めず、事は垂成に乖き、雄風壮図、群盗を振駭す。昔、王蠋は死を守りて以て節を全うし、周顗は正色にして以て詞を抗す。惟れ我が信臣、前哲に愧じること無し。声は寰宇に震い、義は古今に冠たり、以て人倫を激勵し、史冊を光昭するに足る。殊等の賞無くんば、孰れか非常の功を表わさん。爰に疇庸を議し、特ちに検限を超え、之を甲令に著わし、此の風声を樹つ。太尉を贈るべく、謚して忠烈と曰い、史官に宣付し、仍って実封五百戸、庄宅各一区を賜う。長子には三品正員官を与え、諸子には並びに五品正員官を与う。仍って朝を廃すること三日、京城を収めたる後、礼を以て葬祭し、門閭を旌表すべし。朕は天子人を承け、億兆を臨馭す。一夫獲られざるも、時に予が辜、況んや誠信達せず、屡々寇戎を致し、義を抱くの臣をして兇逆に陷らしむ。危きに臨みて命を致す者有り、歿して逾よ彰る。事に因りて功を成す者有り、権めて以て道に合う。苟も社稷に利すれば、存亡一致す。酬報の典、豈に常倫に限らんや。並びに所司に委ねて其の事跡を訪わしめ、続けて条奏を具し、当に褒異を加え、其の井賦を錫すべし。雲閣に図形し、鼎彜に功を書き、以て我有服節死義の臣を彰し、不朽に伝えしむ。」徳宗は京に還り、又詔して曰く、「贈太尉秀実は、貞烈を授け、其の頽風を激し、蒼黄の中、密かに雄断を蘊む。将に国難を紡がんとし、詭りて寇兵を収め、其の兇謀を撓い、果たして吾が事を集む。身を挺して径ちに進み、奮撃して渠魁に当たり、英名凜然、千古に振るう。宜しく官を差して祭を致し、並びに門閭を旌表し、葬る所に須うる縁のもの、一切官に給すべし。仍って墓所に於いて官をして碑を立たしめ、以て徽烈を揚ぐべし。」貞元の後より累朝、凡そ赦書節文忠烈を褒獎するには、必ず秀実を以て首とす。

原文興元元年二月,詔曰:「見危致命之謂忠,臨義有勇之謂烈。惟爾勵臣節,不憚殺身;惟予式嘉乃勛,懋昭大典。曰臺不德,罔克若天,遘茲殷憂,變起都邑。惟爾卿士,嗷然靡依,逼畏所加,淄澠共混。故開府儀同三司、檢校禮部尚書、兼司農卿、上柱國、張掖郡王段秀實,操行嶽立,忠厚精至,義形於色,勇必有仁。頃者嘗鎮涇原,克著威惠,叛卒知訓,咨爾以誠。賊泚藏奸,欺爾以詐。守人臣之大節,見元惡之深情,端委國門,挺身白刃。誓碎兇渠之首,以敵君父之仇,視死如歸,履虎致咥。噫,天未悔禍,事乖垂成,雄風壯圖,振駭群盜。昔王蠋守死以全節,周顗正色而抗詞,惟我信臣,無愧前哲。聲震寰宇,義冠古今,足以激勵人倫,光昭史冊。不有殊等之賞,孰表非常之功。爰議疇庸,特超檢限,著之甲令,樹此風聲。可贈太尉,謚曰忠烈,宣付史官,仍賜實封五百戶、莊宅各一區。長子與三品正員官,諸子並與五品正員官。仍廢朝三日,收京城之後,以禮葬祭,旌表門閭。朕承天子人,臨馭億兆,一夫不獲,時予之辜,況誠信不達,屢致寇戎,使抱義之臣陷於兇逆。有臨危致命,歿而逾彰;有因事成功,權以合道。茍利社稷,存亡一致,酬報之典,豈限常倫。並委所司訪其事跡,續具條奏,當加褒異,錫其井賦。圖形雲閣,書功鼎彜,以彰我有服節死義之臣,傳於不朽。」德宗還京,又詔曰:「贈太尉秀實,授乎貞烈,激其頹風,蒼黃之中,密蘊雄斷。將紓國難,詭收寇兵,撓其兇謀,果集吾事。挺身徑進,奮擊渠魁,英名凜然,振邁千古。宜差官致祭,並旌表門閭,緣葬所須,一切官給。仍於墓所官為立碑,以揚徽烈。」自貞元後累朝凡赦書節文褒獎忠烈,必以秀實為首。

その子伯倫は、累官して太子詹事に至る。大和二年正月奏す、「亡父贈太尉秀実は、前後の制勅に準じて所司に廟を置き碑を立てしむ。今、営造已に畢り、今月二十五日を取って升祔の礼を行わんとす。」詔して曰く、「秀実は忠しく宗社を衛い、功は廟食に配し、義風の激する所、千載凜然たり。間代の勲力、須らく等夷を異にすべし。宜しく綾絹五百疋を賜い、度支の物を以て充てよ。仍って所司に少牢を供せしめ、並びに鹵簿人夫を給し、兼ねて太常博士一人をして検校せしめよ。」尋いで伯倫に検校左散騎常侍さんきじょうじ、兼殿中監を加う。大和四年十一月、右金吾衛大将軍、兼御史大夫に遷り、街使を充てる。八年七月、検校工部尚書となり、福建等州都団練観察使を充て、入って太仆卿と為り、卒す。宰臣李石奏して曰く、「伯倫は秀実の子なり。古より身を歿して以て社稷を衛う者、秀実の賢に如くは無し。」文宗憫然として曰く、「伯倫には宜しく賻贈を加うべし。」仍って朝を輟むこと一日、以て忠臣の嗣を礼す。

原文其子伯倫,累官至太子詹事。大和二年正月奏:「亡父贈太尉秀實,準前後制敕令所司置廟立碑,今營造已畢,取今月二十五日行升祔禮。」詔曰:「秀實忠衛宗社,功配廟食,義風所激,千載凜然。間代勛力,須異等夷,宜賜綾絹五百疋,以度支物充。仍令所司供少牢,並給鹵簿人夫,兼太常博士一人檢校。」尋加伯倫檢校左散騎常侍,兼殿中監。大和四年十一月,遷右金吾衛大將軍、兼御史大夫,充街使。八年七月,檢校工部尚書,充福建等州都團練觀察使,入為太仆卿,卒。宰臣李石奏曰:「伯倫,秀實之子。自古歿身以衛社稷者,無如秀實之賢。」文宗憫然曰:「伯倫宜加賻贈。」仍輟朝一日,以禮忠臣之嗣。

顔真卿

原文顏真卿

顔真卿、字は清臣、瑯邪臨沂の人なり。五代の祖之推は、北齊の黄門侍郎。真卿は少しく学業に勤め、詞藻有り、特に書を工みす。開元中、進士に挙げられ、甲科に登る。親に事うるに孝を以て聞こゆ。四たび命ぜられて監察御史と為り、河西隴右軍試覆屯交兵使を充てる。五原に冤獄有り、久しく決せず、真卿至りて、立ちどころにこれを弁ず。天方に旱けり、獄決して乃ち雨降る、郡人これを「御史雨」と呼ぶ。又た河東朔方試覆屯交兵使を充てる。鄭延祚という者あり、母卒すること二十九年、僧舍の垣地に殯す。真卿これを劾奏す、兄弟三十年歯せられず、天下聳動す。殿中侍御史、東都畿采訪判官に遷り、侍御史、武部員外郎に転ず。楊国忠その己に附かざるを怒り、平原太守として出づ。

原文顏真卿,字清臣,瑯邪臨沂人也。五代祖之推,北齊黃門侍郎。真卿少勤學業,有詞藻,尤工書。開元中,舉進士,登甲科。事親以孝聞。四命為監察御史,充河西隴右軍試覆屯交兵使。五原有冤獄,久不決,真卿至,立辯之。天方旱,獄決乃雨,郡人呼之為「御史雨」。又充河東朔方試覆屯交兵使。有鄭延祚者,母卒二十九年,殯僧舍垣地,真卿劾奏之,兄弟三十年不齒,天下聳動。遷殿中侍御史、東都畿采訪判官,轉侍御史、武部員外郎。楊國忠怒其不附己,出為平原太守。

安禄山の叛逆の兆しは甚だ顕著であったが、真卿は霖雨を口実に、城を修築し池を浚渫し、密かに壮丁を調達し、倉庫を充実させた。そして表向きは文人を集め、外池に舟を浮かべて酒を飲み詩を賦した。ある者が安禄山に讒言すると、禄山も密かに偵察させたが、書生は憂慮するに足らぬと思った。間もなく、安禄山は果たして反乱を起こし、河北の地はことごとく陥落したが、ただ平原郡だけは城の守りが整っていた。そこで司兵参軍李平を馳せさせて奏上させた。玄宗は初めて安禄山の変を聞き、嘆息して言った、「河北二十四郡に、一人の忠臣もいないということがあろうか」。李平が来たのを得て、大いに喜び、左右の者を顧みて言った、「朕は顔真卿の容貌がどのようなものか知らないが、その行いがこのようであるとは」。安禄山は初めまだ真卿に移牒し、平原・博平の軍七千人をもって河津を防がせ、博平太守張献直を副将とするよう命じた。真卿はそこで勇士を募り、十日にして一万人を得て、録事参軍李択交にこれを統率させて選抜させ、刁万歳・和琳・徐浩・馬相如・高抗朗らを将とした。安禄山が洛陽らくようを陥落させると、留守李憕・御史中丞盧奕・判官蔣清を殺し、三人の首を段子光に持たせて河北に示しに来させた。真卿は人心が動揺するのを恐れ、諸将に向かって偽って言った、「私はこの三人を知っているが、首は皆違う」。そこで子光を腰斬にし、三つの首を密かに隠した。後日、三つの首の冠飾を取り出し、草で体を継ぎ足し、棺に納めて祭り葬り、位牌を設けて慟哭したので、人心はますます帰附した。安禄山はその将李欽湊・高邈・何千年らを派遣して土門を守らせた。真卿の従父の兄で常山太守の杲卿が長史袁履謙と謀り、欽湊・高邈を殺し、千年を捕らえて京師に送った。土門が開くと、十七郡が同日に帰順し、共に真卿を帥に推し、兵二十万余を得て、燕・趙を横断した。詔により真卿に戸部侍郎を加え、前のまま平原太守とした。

原文安祿山逆節頗著,真卿以霖雨為托,修城浚池,陰料丁壯,儲廩實,乃陽會文士,泛舟外池,飲酒賦詩。或讒於祿山,祿山亦密偵之,以為書生不足虞也。無幾,祿山果反,河朔盡陷,獨平原城守具備,乃使司兵參軍李平馳奏之。玄宗初聞祿山之變,嘆曰:「河北二十四郡,豈無一忠臣乎!」得平來,大喜,顧左右曰:「朕不識顏真卿形狀何如,所為得如此!」祿山初尚移牒真卿,令以平原、博平軍屯七千人防河津,以博平太守張獻直為副。真卿乃募勇士,旬日得萬人,遣錄事參軍李擇交統之簡閱,以刁萬歲、和琳、徐浩、馬相如、高抗朗等為將。祿山既陷洛陽,殺留守李憕、御史中丞盧奕、判官蔣清,以三首遣叚子光來徇河北。真卿恐搖人心,乃許謂諸將曰:「我識此三人,首皆非也。」遂腰斬子光,密藏三首。異日,乃取三首冠飾,草續支體,棺斂祭殯,為位慟哭,人心益附。祿山遣其將李欽溱、高邈、何千年等守土門。真卿從父兄常山太守杲卿與長史袁履謙謀殺溱、邈,擒千年送京師。土門既開,十七郡同日歸順,共推真卿為帥,得兵二十余萬,橫絕燕、趙。詔加真卿戶部侍郎,依前平原太守。

清河の客李㟧は、年二十余りで、郡の人と共に援軍を請いに来て、真卿に言った、「公の義烈を聞き、大順を率先して唱え、河朔の諸郡は公を長城と頼りにしております。今、清河は、実に公の西隣であり、私は幸いにもそこに家を寄せ、その虚実を得て、長者(貴方)のために用いることができると知っております。今その蓄積を計算すれば、三つの平原に匹敵する富に足り、士卒は二つの平原の強さに相当します。公がこれによりこれを慰撫なされば、腹心・輔車の郡となり、他の小城は、これを動かすことは臂が指を使うが如きものです。ただ公の御意向のままに、誰が従わないことがありましょうか」。真卿は兵千人を貸した。李㟧が去ろうとする時、真卿は彼に言った、「兵を出すにあたり、あなたは何をもって私を教えられますか」。李㟧は言った、「今、朝廷が程千里に十万の兵を統率させて太行山より東下し、将に𡻳口より出でようとしているが、賊に扼せられ、兵は前に進めないと聞いております。今もし先に魏郡を討ち、袁知泰を斬り、太守司馬垂をして西南の主たらしめ、兵を分けて𡻳口の路を開き、千里の兵を出させて鄴・幽陵を討たせ、平原・清河が同志十万の兵を合わせて洛陽に進軍し、兵を分けてその要衝を制すれば、王師もまた十万を下らないと計られます。公は堅く壁を守り、挑戦して戦わず、数十日もせず、賊は必ず潰れて互いに図り合うでしょう」。真卿はこれをよしとし、そこで清河などの郡に移牒し、その大将李択交・副将平原県令范東馥・裨将和琳・徐浩らに進兵させ、清河の四千人と合流させた。そして博平が千人で来て、三郡の軍は博平に駐屯し、堂邑県の西南十里の地にあった。袁知泰はその将白嗣深・乙舒蒙らに二万人をもって来て防戦させたが、賊は大敗し、首級一万余を斬った。粛宗が霊武に幸すると、工部尚書・兼御史大夫・河北采訪招討使を授けられた。安禄山は虚に乗じて史思明・尹子奇を派遣し、河北諸郡を急攻した。饒陽・河間・景城・東安が相次いで陥落したが、ただ平原・博平・清河の三郡だけは城を守った。しかし人心は危うく動揺し、再び振るうことができなかった。

原文清河客李㟧,年二十余,與郡人來乞師,謂真卿曰:「聞公義烈,首唱大順,河朔諸郡恃公為長城。今清河,實公之西鄰也,僕幸寓家,得其虛實,知可為長者用。今計其蓄積,足以三平原之富,士卒可以二平原之強。公因而撫之,腹心輔車之郡,其他小城,運之如臂使指耳。唯公所意,誰敢不從。」真卿借兵千人。㟧將去,真卿謂之曰:「兵出也,吾子何以教我?」㟧曰:「今聞朝廷使程千里統眾十萬自太行東下,將出𡻳口,為賊所扼,兵不得前。今若先伐魏郡,斬袁知泰,太守司馬垂使為西南主;分兵開𡻳口之路,出千里之兵使討鄴、幽陵;平原、清河合同志十萬之眾徇洛陽,分兵而制其衝。計王師亦不下十萬,公當堅壁,無與挑戰,不數十日,賊必潰而相圖矣。」真卿然之,乃移牒清河等郡,遣其大將李擇交、副將平原縣令范東馥、裨將和琳、徐浩等進兵,與清河四千人合勢,而博平以千人來,三郡之師屯於博平,去堂邑縣西南十里。袁知泰遣其將白嗣深、乙舒蒙等以二萬人來拒戰,賊大敗,斬首萬余級。肅宗幸靈武,授工部尚書、兼御史大夫、河北采訪招討使。祿山乘虛遣史思明、尹子奇急攻河北諸郡,饒陽、河間、景城、東安相次陷沒,獨平原、博平、清河三郡城守,然人心危盪,不可復振。

至徳元年十月、郡を棄てて黄河を渡り、江淮・荊襄を経た。二年四月、鳳翔に朝し、憲部尚書を授けられ、間もなく御史大夫を加えられた。中書舎人兼吏部侍郎崔漪が酒気を帯びた容態で朝廷に入り、諫議大夫李何忌が列中で謹ましくなかったので、真卿はこれを弾劾した。崔漪は右庶子に、李何忌は西平郡司馬に貶された。元帥広平王が朔方の蕃漢兵二十万と号する兵を率いて長安ちょうあんを収めに来る時、出発の辞をする日、百官が朝堂で謁見した。百官が拝すると、答拝し、辞する時もまた同様であった。王は宮門の前にあっても馬に乗らず、木馬門を歩いて出てから乗った。管崇嗣は王の都虞候であったが、王より先に馬に乗ったので、真卿は状を進めてこれを弾劾した。粛宗は言った、「朕の息子が毎回出る時は、諄々と教え戒めるので、礼を失うことはない。崇嗣は老将で、足に疾があり、暫くは寛容に扱いたい。卿は再び言うな」。そして奏状を真卿に返した。天子が蒙塵していても、典法は廃されなかった。鑾輿が宮闕に還ろうとする時、左司郎中李巽を先に行かせ、宗廟の礼を陳告させた。有司が祝文を作成し、「嗣皇帝」と称した。真卿は礼儀使崔器に言った、「上皇は蜀しょくにおられる。これでよいのか」。崔器は急いで奏上して改めさせた。中旨をもって慰労され、名儒として礼体に深く通じているとされた。時に太廟が賊に毀たれたので、真卿は上奏して言った、「春秋の時、新宮に災いがあり、魯の成公は三日間哭した。今、太廟が既に盗賊に毀たれたので、野に壇を築き、皇帝が東向きに哭し、その後使者を遣わされたい」。結局従われなかった。軍国の事については、知る限りを言わないことはなかった。宰相に忌まれて、同州刺史に出され、蒲州刺史に転じた。御史唐旻に陥れられて、饒州刺史に貶された。間もなく升州刺史・浙江西道節度使に拝され、刑部尚書に徴された。李輔国が詔を偽って玄宗を西宮に移すと、真卿はまず百官を率いて上表して起居を問うた。輔国はこれを憎み、奏上して蓬州長史に貶した。

原文至德元年十月,棄郡渡河,歷江淮、荊襄。二年四月,朝於鳳翔,授憲部尚書,尋加御史大夫。中書舍人兼吏部侍郎崔漪帶酒容入朝,諫議大夫李何忌在班不肅,真卿劾之;貶漪為右庶子,何忌西平郡司馬。元帥廣平王領朔方蕃漢兵號二十萬來收長安,出辭之日,百僚致謁於朝堂。百僚拜,答拜,辭亦如之。王當闕不乘馬,步出木馬門而後乘。管崇嗣為王都虞候,先王上馬,真卿進狀彈之。肅宗曰:「朕兒子每出,諄諄教誡之,故不敢失禮。崇嗣老將,有足疾,姑欲優容之,卿勿復言。」乃以奏狀還真卿。雖天子蒙塵,典法不廢。洎鑾輿將復宮闕,遣左司郎中李巽先行,陳告宗廟之禮,有司署祝文,稱「嗣皇帝」。真卿謂禮儀使崔器曰:「上皇在蜀,可乎?」器遽奏改之。中旨宣勞,以為名儒深達禮體。時太廟為賊所毀,真卿奏曰:「春秋時,新宮災,魯成公三日哭。今太廟既為盜毀,請築壇於野,皇帝東向哭,然後遣使。」竟不能從。軍國之事,知無不言。為宰相所忌,出為同州刺史,轉蒲州刺史。為御史唐旻所構,貶饒州刺史。旋拜升州刺史、浙江西道節度使,征為刑部尚書。李輔國矯詔遷玄宗居西宮,真卿乃首率百僚上表請問起居,輔國惡之,奏貶蓬州長史。

代宗が位を嗣ぐと、利州刺史に拝され、戸部侍郎に遷り、荊南節度使に除されたが、赴任せずに罷められ、尚書左丞に除された。車駕が陝より還ろうとする時、真卿は皇帝が先に五陵・九廟を謁してから宮に還るよう請うた。宰相元載が真卿に言った、「公の見解は立派ではあるが、時宜に合わないのはどうしようもない」。真卿は怒って前に進み出て言った、「用いるか捨てるかは相公次第である。言う者に何の罪があろうか。しかし朝廷の事柄は、相公が再び破壊することなど耐えられようか」。元載は深くこれを恨んだ。間もなく検校刑部尚書知省事に改められ、累進して魯郡公に封ぜられた。時に元載は私党を引用し、朝臣がその短を論奏するのを恐れて、請うた、「百官で凡そ事を論じようとする者は、皆先ず長官に申し出、長官が宰相に申し出て、その後で上聞するように」。真卿は上疏して言った、

原文代宗嗣位,拜利州刺史,遷戶部侍郎,除荊南節度使,未行而罷,除尚書左丞。車駕自陜將還,真卿請皇帝先謁五陵、九廟而後還宮。宰相元載謂真卿曰:「公所見雖美,其如不合事宜何?」真卿怒,前曰:「用舍在相公耳,言者何罪?然朝廷之事,豈堪相公再破除耶!」載深銜之。旋改檢校刑部尚書知省事,累進封魯郡公。時元載引用私黨,懼朝臣論奏其短,乃請:百官凡欲論事,皆先白長官,長官白宰相,然後上聞。真卿上疏曰:

御史中丞李進らが宰相の言葉を伝え、奉進止を称して言うには、「諸司の官人の奏事が甚だ多いため、朕は省覧することを憚らないが、奏上する多くは讒毀を挟んでいる。今後より事を論ずる者は、諸司の官人は皆まず長官に申し出、長官は宰相に申し出、宰相が可否を定めてから、それより奏聞せしめること。」臣はこの言葉を聞いて以来、朝野囂然として、人心もまた多く衰退している。何となれば、諸司の長官は皆達官であり、言葉は皆天子に専達するものである。郎官・御史は、陛下の腹心耳目の臣である。故にその天下に出使するに、事の巨細得失を問わず、皆訪察を命じ、帰還の日に奏聞するのであり、これをもって四目を明らかにし、四聡を達せしめるのである。今陛下自ら耳目を屏い、聡明ならしめずと欲するならば、天下は何を述べようか。『詩』に云う、「営営たる青蠅、棘に止まる。讒言極まり無く、四国を交乱す」と。その能く白を変じて黒とし、黒を変じて白とするが故である。詩人はこれを深く悪む、故に曰く、「彼の讒人を取り、豺虎に投げ与えよ。豺虎も食わず、有北に投げ与えよ」と。すなわち夏の伯明、楚の無極、漢の江充は、皆讒人であり、誰がこれを悪まないであろうか。陛下がこれを悪まれるのは、君人の体を深く得ているのである。陛下は何ぞ深く聴察を回らせず、その言葉が虚誣な者は、すなわち讒人であるゆえ、これを誅殛し、その言葉が虚でない者は、すなわち正人であるゆえ、これを奨励されないのか。陛下がこれを捨てて行わず、衆人をして皆陛下が明察できず、聴覧に倦み、これを以て辞とし、その諫諍を拒むと謂わしめるのは、臣窃かに陛下のため痛惜する。

原文御史中丞李進等傳宰相語,稱奉進止:「緣諸司官奏事頗多,朕不憚省覽,但所奏多挾讒毀;自今論事者,諸司官皆須先白長官,長官白宰相,宰相定可否,然後奏聞者。」臣自聞此語已來,朝野囂然,人心亦多衰退。何則?諸司長官皆達官也,言皆專達於天子也。郎官、御史者,陛下腹心耳目之臣也。故其出使天下,事無巨細得失,皆令訪察,回日奏聞,所以明四目、達四聰也。今陛下欲自屏耳目,使不聰明,則天下何述焉。《詩》云:「營營青蠅,止於棘。讒言罔極,交亂四國。」以其能變白為黑,變黑為白也。詩人深惡之,故曰:「取彼讒人,投畀豺虎。豺虎不食,投畀有北。」則夏之伯明、楚之無極、漢之江充,皆讒人也,孰不惡之?陛下惡之,深得君人之體矣。陛下何不深回聽察,其言虛誣者,則讒人也,因誅殛之;其言不虛者,則正人也,因獎勵之。陛下舍此不為,使眾人皆謂陛下不能明察,倦於聽覽,以此為辭,拒其諫諍,臣竊為陛下痛惜之。

臣は聞く、太宗は聴覧に勤め、庶政は以て理まる、故に『司門式』を著して云う、「門籍無き人有りて急奏する者は、皆監門司と仗家に令して引奏せしめ、関礙を許さず」と。これをもって壅蔽を防ぐのである。並びに立仗馬二匹を置き、乗騎するに便あれば往かしむ、これをもって天下を平治する、正にこの道を用いるのである。天宝以後、李林甫の威権日々に盛んとなり、群臣がまず宰相に諮らずして輒ち奏事する者を、なお他故を托して中傷し、なお敢えて明らかに百司を約し、まず宰相に白せしめることを令せず。また閹官袁思藝が日に詔を宣して中書に至り、玄宗の動静は必ず林甫に告げ、先意して奏請し、玄宗は驚喜して神の如し。これにより権柄恩寵日々に甚だしく、道路以て目する。上意は下に宣せず、下情は上に達せず、これにより漸く潼関の禍を致すに至る、皆権臣が主を誤り、太宗の法を遵ばざるが故である。陵夷して今日に至り、天下の蔽は、尽く聖躬に萃まる、豈に陛下が招致したるものか。蓋しその来たる所の者は漸しきなり。艱難の初めより、百姓未だ彫弊せず、太平の理は、立ちて便ち致すべし。李輔国の権を用いるに属し、宰相専政し、互いに姑息し、敢えて直言する者無し。大いに三司を開き、反側を安ぜず、逆賊散落し、将士は北走して党項し、士賊を合集し、今に至るまで患いと為す。偽将更に相驚恐し、思明の危懼に因り、扇動して却って反す。また今相州敗散し、東都陷没し、先帝はこれにより憂勤し、損寿に至る、臣毎にこれを思うに、心骨を痛切す。

原文臣聞太宗勤於聽覽,庶政以理,故著《司門式》云:「其有無門籍人,有急奏者,皆令監門司與仗家引奏,不許關礙。」所以防壅蔽也。並置立仗馬二匹,須有乘騎便往,所以平治天下,正用此道也。天寶已後,李林甫威權日盛,群臣不先諮宰相輒奏事者,仍托以他故中傷,猶不敢明約百司,令先白宰相。又閹官袁思藝日宣詔至中書,玄宗動靜,必告林甫,先意奏請,玄宗驚喜若神。以此權柄恩寵日甚,道路以目。上意不下宣,下情不上達,所以漸致潼關之禍,皆權臣誤主,不遵太宗之法故也。陵夷至於今日,天下之蔽,盡萃於聖躬,豈陛下招致之乎?蓋其所從來者漸矣。自艱難之初,百姓尚未彫弊,太平之理,立可便致。屬李輔國用權,宰相專政,遞相姑息,莫肯直言。大開三司,不安反側,逆賊散落,將士北走党項,合集士賊,至今為患。偽將更相驚恐,因思明危懼,扇動卻反。又今相州敗散,東都陷沒,先帝由此憂勤,至於損壽,臣每思之,痛切心骨。

今、天下の兵戈未だ戢まず、瘡痏未だ平らかならず、陛下は豈に日に讜言を聞かずして視聴を広め、忠讜の路を頓に隔てんと欲するや。臣窃かに聞く、陛下が陜州に在し給いし時、奏事する者は貴賤を限らず、務めて聞見を広めしは、乃ち堯・舜の事なり。凡そ百の臣庶、太宗の理を以て、足を翹ぎょうげて待つべしと為す。臣また聞く、君子は進み難く退き易し、これより言えば、朝廷は不諱の路を開くも、なお言わざるを恐る、況んや厭怠を懐き、宰相に進止を宣せしめ、御史台に条目を作らせ、直進を令せざらしむるや。これより人人敢えて奏事せず、すなわち陛下の聞見は、只だ三数人に在るのみ。天下の士は、方に口を鉗み舌を結び、陛下後に人無く奏事するを見て、必ず朝廷に事を論ずる無しと謂わん、豈に懼れて敢えて進まず、すなわち林甫・国忠復た起るを知らんや。凡そ百の臣庶、危殆の期を以て、また足を翹げて至ると為す。今の日の事の如きは、曠古未だ有らず、李林甫・楊国忠と雖もなお公然と此の如くせず。今陛下早く覚悟せず、漸く孤立を成し、後縱え悔ゆるも及ぶ無からん。臣は実に大臣に忤る者は、罪不測に在るを知る、陛下に孤負するに忍びず、懇迫の至りに任えず。

原文今天下兵戈未戢,瘡痏未平,陛下豈得不日聞讜言以廣視聽,而欲頓隔忠讜之路乎!臣竊聞陛下在陜州時,奏事者不限貴賤,務廣聞見,乃堯、舜之事也。凡百臣庶以為太宗之理,可翹足而待也。臣又聞君子難進易退,由此言之,朝廷開不諱之路,猶恐不言,況懷厭怠,令宰相宣進止,使御史臺作條目,不令直進。從此人人不敢奏事,則陛下聞見,只在三數人耳。天下之士,方鉗口結舌,陛下後見無人奏事,必謂朝廷無事可論,豈知懼不敢進,即林甫、國忠復起矣。凡百臣庶,以為危殆之期,又翹足而至也。如今日之事,曠古未有,雖李林甫、楊國忠猶不敢公然如此。今陛下不早覺悟,漸成孤立,後縱悔之無及矣!臣實知忤大臣者,罪在不測,不忍孤負陛下,無任懇迫之至。

その激切、此の如し。ここにおいて中人争って内本を写し外に布く。

原文其激切如此。於是中人爭寫內本布於外。

後に太廟の祭を摂し、祭器修まらざるを以て朝に言う、載は誹謗を坐し、硤州別駕・撫州湖州刺史に貶せらる。元載誅せらる、刑部尚書を拝す。代宗崩ず、礼儀使と為る。また高祖こうそより以下七聖の謚号繁多なるを以て、乃ち上議して初謚を取りて定めんことを請う。袁傪諂言を以てこれを排し、遂に罷む。楊炎相と為り、これを悪み、太子少傅に改め、礼儀使は旧の如し、外は崇寵を示すも、実はその権を去るなり。

原文後攝祭太廟,以祭器不修言於朝,載坐以誹謗,貶硤州別駕、撫州湖州刺史。元載伏誅,拜刑部尚書。代宗崩,為禮儀使。又以高祖已下七聖謚號繁多,乃上議請取初謚為定。袁傪以諂言排之,遂罷。楊炎為相,惡之,改太子少傅,禮儀使如舊,外示崇寵,實去其權也。

盧杞権を専らにし、これを忌み、太子太師に改め、礼儀使を罷め、真卿に諭して曰く、「方面の任、何れの処か便なる」と。真卿、杞を中書に候いて曰く、「真卿は褊性を以て小人に憎まれ、竄逐一に非ず。今已に羸老す、幸いに相公の庇いをこうむる。相公の先中丞の首を伝えて平原に至る、面上の血真卿敢えて衣を以て拭わず、舌を以てこれを舐めし、相公は忍びて相容れざるや」と。杞矍然として下拝すも、而して怒心を含む。会に李希烈汝州を陷る、杞乃ち奏して曰く、「顏真卿は四方の信ずる所、これに諭せしめば、師旅を労せずして可なり」と。上これに従う、朝廷色を失う、李勉これを聞き、一元老を失い、朝廷に羞を貽すと以為い、乃ち密表を遣わして留めんことを請う。また路に逆らい遣わすも、及ばず。

原文盧杞專權,忌之,改太子太師,罷禮儀使,諭於真卿曰:「方面之任,何處為便?」真卿候杞於中書曰:「真卿以褊性為小人所憎,竄逐非一。今已羸老,幸相公庇之。相公先中丞傳首至平原,面上血真卿不敢衣拭,以舌舐之,相公忍不相容乎?」杞矍然下拜,而含怒心。會李希烈陷汝州,杞乃奏曰:「顏真卿四方所信,使諭之,可不勞師旅。」上從之,朝廷失色,李勉聞之,以為失一元老,貽朝廷羞,乃密表請留。又遣逆於路,不及。

初めて希烈に会い、詔の趣旨を宣べようとしたところ、希烈の養子千余人が刃を露わにして争って前に迫り真卿を脅し、その肉を食おうとした。諸将が群がり囲んで罵り、刃を挙げて彼を狙ったが、真卿は動じなかった。希烈は急いで身をもってこれを蔽い、手を振ってその衆を退けさせ、それから真卿を揖して館舎に就かせた。そこで章表を作ることを強要し、己の罪を雪がせ、兵馬を罷めさせようと願わせた。たびたび真卿の兄の子の峴と従吏合わせて数輩を京師に遣わした。上は皆返答しなかった。諸子への手紙ごとに、家廟を厳かに奉り、諸々の孤児を憐れむようにとのみ命じた。希烈は逆党を大いに宴し、真卿を召して座らせ、俳優が朝政を罵り貶めるのを戯れとして見せた。真卿は怒って言った、「相公は人臣である。どうしてこの輩にこのようなことをさせようとするのか」と。衣を払って立ち上がると、希烈は恥じ、また叱って止めさせた。時に朱滔、王武俊、田悦、李納の使者が座にいて、真卿を見て希烈に言った、「太師の名声と徳は久しく聞いています。相公が大号を建てようとされるのに、太師が来られたのは、天命による正位ではないでしょうか。宰相を求めようとするなら、誰が太師より先でしょうか」と。真卿は厳しい顔色で彼らを叱って言った、「これは何たる宰相か。君らは顔杲卿を聞いたことがあるか。あれは我が兄である。禄山が反した時、真っ先に義兵を挙げ、害された時には、罵りの言葉が口から絶えなかった。我は今生八十に近く、官は太師に至り、我が兄の節を守り、死して後やむ。どうして汝らの誘惑や脅迫を受けることがあろうか」と。諸賊は再び口を開くことができなかった。希烈はそこで真卿を拘束し、甲士十人に守らせ、庭に一丈四方の穴を掘り、「顔を坑う」と言ったが、真卿は怡然として意に介さなかった。後に張伯儀が安州で敗北すると、希烈は伯儀の旌節と首級を持たせて真卿に見せびらかせた。真卿は慟哭して地に投じた。後にその大将の周曾らが汝州を襲おうと謀り、それに乗じて兵を返して希烈を殺し、真卿を奉じて節度としようとした。事が漏れ、希烈は周曾らを殺し、そこで真卿を龍興寺に送った。真卿は必ず死ぬと覚悟し、そこで遺表を作り、自ら墓誌と祭文を書き、常に寝室の西壁の下を指して言った、「我が殯の所である」と。希烈が汴州を陥落させ、偽りの号を僭称すると、人を遣わして真卿に儀礼を問わせた。真卿は言った、「老夫は耄い。かつて国礼を掌ったが、覚えているのは諸侯の朝覲の礼だけである」と。

原文初見希烈,欲宣詔旨,希烈養子千余人露刃爭前迫真卿,將食其肉。諸將叢繞慢罵,舉刃以擬之,真卿不動。希烈遽以身蔽之,而麾其眾,眾退,乃揖真卿就館舍。因逼為章表,令雪己,願罷兵馬。累遣真卿兄子峴與從吏凡數輩繼來京師。上皆不報。每於諸子書,令嚴奉家廟,恤諸孤而已。希烈大宴逆黨,召真卿坐,使觀倡優斥黷朝政為戲,真卿怒曰:「相公,人臣也,奈何使此曹如是乎?」拂衣而起,希烈慚,亦呵止。時朱滔、王武俊、田悅、李納使在坐,目真卿謂希烈曰:「聞太師名德久矣,相公欲建大號,而太師至,非天命正位?欲求宰相,孰先太師乎?」真卿正色叱之曰:「是何宰相耶!君等聞顏杲卿無?是吾兄也。祿山反,首舉義兵,及被害,詬罵不絕於口。吾今生向八十,官至太師,守吾兄之節,死而後已,豈受汝輩誘脅耶!」諸賊不敢復出口。希烈乃拘真卿,令甲士十人守,掘方丈坎於庭,曰「坑顏」,真卿怡然不介意。後張伯儀敗績於安州,希烈令賚伯儀旌節首級誇示真卿,真卿慟哭投地。後其大將周曾等謀襲汝州,因回兵殺希烈,奉真卿為節度。事泄,希烈殺曾等,遂送真卿於龍興寺。真卿度必死,乃作遺表,自為墓誌、祭文,常指寢室西壁下云:「吾殯所也。」希烈既陷汴州,僭偽號,使人問儀於真卿,真卿曰:「老夫耄矣,曾掌國禮,所記者諸侯朝覲禮耳。」

興元元年、王師が再び勢いを盛り返すと、逆賊は蔡州で変事が起こることを憂慮し、そこでその将の辛景臻と安華を真卿の所に遣わし、庭中に柴を積み、油を注ぎかけ、かつ逆賊の言葉を伝えて言った、「節を屈することができないなら、自ら焼け」と。真卿はそこで身を投げて火に赴こうとした。景臻らは急いでこれを止め、また希烈に報告した。徳宗が宮闕に復帰すると、希烈の弟の希倩が朱泚の党中にいて、例によって誅殺された。希烈はこれを聞いて怒った。興元元年八月三日、ついに宦官の奴隷と景臻らに真卿を殺させた。まず言った、「勅がある」と。真卿が拝すると、奴隷は言った、「卿に死を賜うべきである」と。真卿は言った、「老臣に不埒なことがあり、罪は死に当たる。しかし、使いの者が何日に長安から来たのか知らない」と。奴隷は言った、「大梁から来た」と。真卿は罵って言った、「それは逆賊である。何たる勅か」と。ついに絞め殺した。七十七歳であった。

原文興元元年,王師復振,逆賊慮變起蔡州,乃遣其將辛景臻、安華至真卿所,積柴庭中,沃之以油,且傳逆詞曰:「不能屈節,當自燒。」真卿乃投身赴火,景臻等遽止之,復告希烈。德宗復宮闕,希烈弟希倩在朱泚黨中,例伏誅。希烈聞之怒。興元元年八月三日,乃使閹奴與景臻等殺真卿。先曰:「有敕」。真卿拜,奴曰:「宜賜卿死。」真卿曰:「老臣無狀,罪當死,然不知使人何日從長安來?」奴曰:「從大梁來。」真卿罵曰:「乃逆賊耳,何敕耶!」遂縊殺之,年七十七。

淮、泗が平定された後、貞元元年、陳仙奇が真卿の喪を護送して京師に帰らせた。徳宗は異常に痛み悼んだ。五日間朝を廃し、諡して文忠といった。また詔を下して言った、「君臣の義は、生きている時にはその功績を記録し、亡くなればその礼を厚くする。ましてや才が匡国に優れ、忠が身を滅ぼすに至った者においてはなおさらである。朕は自ら嘆き、寤寐に労する。故光禄大夫、守太子太師、上柱国、魯郡公顔真卿は、器質は天の資、公忠は傑出し、四朝に出入りし、堅貞一志であった。賊臣が擾乱するに当たり、存諭を委ねられたが、累年にわたって拘束脅迫され、死んでも撓まず、その盛んな節を考えると、実に生きているようである。朕はこの禍を招き、慚悼して及ばない。嘉命を崇め、かつ爾の嗣を延ばす。司徒しとを贈ることができる。なお布帛五百端を賜う。男の頵、碩らが喪制を終えたら、所司に奏して官秩を超えて授けさせよ」と。貞元六年十一月の南郊の祭りの際、赦書の節文により真卿の一子に五品の正員官を授けたので、故に頵は録用された。文宗は詔して言った、「朕は国史を覧むごとに、忠烈の臣を見て、未だ嘗て久しく嗟嘆せずにはおらず、報いる方法を考えた。聞くところによれば、従覧、弘式は実に杲卿、真卿の孫であるという。永く九原を思うに、既に作すことはできないが、その嗣続を旌ることは、諒らかに典彜に協う。考績がすでに宦途に深い者は、中台に列せしめよ。官次がまだ縉紳に列せられない者は、左輔を佐けしめよ。天下が再び義風を新たにすることを願う」と。真卿の曾孫の弘式を同州参軍とした。

原文及淮、泗平,貞元元年,陳仙奇使護送真卿喪歸京師。德宗痛悼異常。廢朝五日,謚曰文忠。復下詔曰:「君臣之義,生錄其功,歿厚其禮,況才優匡國,忠至滅身。朕自興嘆,勞於寤寐。故光祿大夫、守太子太師、上柱國、魯郡公顏真卿,器質天資,公忠傑出,出入四朝,堅貞一誌。屬賊臣擾亂,委以存諭,拘肋累歲,死而不撓,稽其盛節,實謂猶生。朕致貽斯禍,慚悼靡及,式崇嘉命,兼延爾嗣。可贈司徒,仍賜布帛五百端。男頵、碩等喪制終,所司奏超授官秩。」貞元六年十一月南郊,赦書節文授真卿一子五品正員官,故頵得錄用。文宗詔曰:「朕每覽國史,見忠烈之臣,未嘗不嗟嘆久之,思有以報。如聞從覽、弘式,實杲卿、真卿之孫。永惟九原,既不可作,旌其嗣續,諒協典彜。考績已深於宦途者,命列於中臺;官次未齒於縉紳者,俾佐於左輔。庶使天下再新義風。」以真卿曾孫弘式為同州參軍。

史臣が言う。先軫が冑を免れ、子路が纓を結んだことを思うごとに、その忠は云うといえども、道について聞いたことはない。成公(段秀実)が家に孝、軍に能、国に忠であることは、武の英である。もし楊炎が権を弄ばなければ、彼を将として任用し、その才を展べさせたならば、どうして朱泚の禍があろうか。清臣(顔真卿)が学に富み、その正を守り、その節を全うすることは、文の傑である。もし盧杞が直を悪しみ憎まなければ、彼を相として任用し、その道を行わせたならば、どうして希烈の叛があろうか。国は賢を得れば安らぎ、賢を失えば危うくなる。徳宗は内に奸邪を信じ、外に良善を斥けたので、危亡に幾すんでいた。宜なるかな。噫、「仁を以て己が任と為す、亦た重からずや。死して後已む、亦た遠からずや」。二君は道を守って身を没し、時に垂訓を為し、希代の士であり、文武の道を光らせたのである。

原文史臣曰:每思先軫免冑,子路結纓,雖云其忠,未聞於道。如成公孝於家,能於軍,忠於國,是武之英也;茍無楊炎弄權,若任之為將,遂展其才,豈有朱泚之禍焉!如清臣富於學,守其正,全其節,昌文之傑也;茍無盧杞惡直,若任之為相,遂行其道,豈有希烈之叛焉!夫國得賢則安,失賢則危。德宗內信奸邪,外斥良善,幾致危亡,宜哉。噫,「仁以為己任,不亦重乎;死而後已,不亦遠乎!」二君守道歿身,為時垂訓,希代之士也,光文武之道焉。

贊

原文贊

贊に言う。古より皆死す。正を得るを順と為す。二公云い亡び、万代に垂訓す。

原文贊曰:自古皆死,得正為順。二公云亡,萬代垂訓。