旧唐書
姚令言
姚令言は、河中の人である。若くして応募し、兵卒の中から身を起こし、涇原節度使馬璘に隷属した。戦功により累次して金吾大將軍同正を授けられ、衙前兵馬使となり、試太常卿・兼御史中丞に改められた。建中元年、孟暤が涇原節度留後となったが、自らは文吏の身分で進んだため、軍旅を好まず、頻りに表を上して令言が謹厳で将帥の任に堪えると推薦した。暤は間もなく朝廷に帰ったので、遂に令言を四鎮北庭行営涇原節度使・涇州刺史・兼御史大夫に拝した。
建中四年、李希烈が叛き、汝州を寇略して陥落させた。詔して哥舒曜に師を率いてこれを攻めさせ、襄城に営した。希烈の兵数万が襄城を包囲し、勢い甚だ危急であった。十月、詔して令言に本鎮の兵五万を率いて赴援させた。涇原の師団が鎮を離れるに当たり、多くは子弟を連れて来て、京師に至って厚い賞賜を得ることを望んでいたが、師団が上路に就いた時、何一つ賜わるものがなかった。時に詔して京兆尹王翃に軍士を犒労させたが、粗末な食事と野菜ばかりであり、軍士は覆して顧みず、皆憤怒し、声高に言うには、「我らは父母妻子を棄て、難に死せんとしているのに、食って飽くことができない。どうして草のような命で白刃を防ぐことができようか。国家には瓊林・大盈の庫があり、宝貨が堆積している。これを取って自ら生き延びないで、どこへ行くというのか」と。行って滻水に至り、戈を返し、大声で呼び騒ぎながら還った。令言は言った、「先に東都には厚い賞があると約束したではないか、諸君、軽率にするな。これは生き延びる良策ではない」と。衆は聞き入れず、戈を以て令言を囲んで退くことを請い、令言は急ぎこれを奏上した。上は恐れ、内庫から繒彩二十車を出して馳せ賜わらせたが、軍の声は浩浩として、令言は鎮めることができなかった。街市の住民は狼狽して走り竄り、乱兵は呼んで言うには、「逃げるな、汝らの間架税を取らないぞ」と。徳宗は普王と学士姜公輔を遣わしてこれを慰撫させようとしたが、内門を出たばかりで、賊は既に関を斬り、丹鳳楼の下に陣した。この日、徳宗は倉卒に出幸し、賊は府庫に縦入して車で運び出し、力尽きるまでやめた。
時に太尉朱泚は鎮を罷めて晋昌里の邸宅に居た。この夜、叛いた兵卒らが謀って言うには、「朱太尉は久しく宅に囚われている。もし迎えて主とすれば、大事は成るであろう」と。泚はかつて涇州を節制しており、衆はその権を失い、閑居して不満であることを知っていた。また泚が寛和であることを幸いとして、乃ち令言に騎兵を率いて晋昌里で泚を迎えることを請わせた。泚は初め躊躇し、食を与えて、徐ろに衆の意向を観た。やがて諸校が一斉に至ったので、乃ち自邸から炬火を掲げて含元殿に入り居った。既に僭号した後、乃ち令言を侍中とし、源休と共に賊の政事を知らせた。既に自ら率先して逆乱に加わり、頗る賊に心を尽くし、宗室を害し、奉天を包囲したのは、皆令言が首帥であった。群兇が宴楽し、既に酔うと、令言と源休が功を論じ、令言は自ら蕭何に比し、源休は言った、「帷幄の謀、秦の業を成すは、予の右に出る者なし。吾は蕭何に譲らず、子は曹参たるべし」と。時に賊廷に在った朝士は、これを聞いて皆笑い、源休を火迫酇侯と呼んだ。朱泚が敗れると、令言と張廷芝には尚も衆万人があり、泚に従って吐蕃に入らんとした。涇州に至り、田希鑒に投じようとしたが、希鑒は偽って礼を致して誘い、泚と共に斬首して献上した。
張光晟
張光晟は、京兆盩厔の人で、行伍の間から身を起こした。天宝末、哥舒翰が潼関で兵敗した時、大将王思礼の乗っていた馬が流れ矢に当たって斃れた。光晟は時に騎卒の中におり、下馬して、自らの馬を思礼に授けた。思礼がその姓名を問うたが、告げずに退いた。思礼は密かにその形貌を記し、常に人をして密かに求めさせた。間もなく、思礼が河東節度使となると、その偏将辛雲京が代州刺史であったが、屡々将校に讒毀され、思礼はこれを怒った。雲京は惶懼して、どうしてよいか分からなかった。光晟は時に雲京の麾下に隷属しており、機会を窺って進み出て言った、「光晟はかつて王司空に恩徳がありましたが、今まで言わなかったのは、旧恩によって賞を受けるのを恥じたからです。今、使君が憂い迫られております。光晟、命を奉じて一度司空にお目にかかり、使君の難を解かせていただきたい」と。雲京はその計を然りとし、即ち彼を太原に遣わした。乃ち思礼に謁し、旧事を言い出す前に、思礼は彼を見識り、急いで言った、「爾は豈に吾が故人にあらずや。何ぞ相見るの遅きこと此くの如きや」と。光晟は遂に潼関の事を陳べ、思礼は大いに喜び、因ってその手を執って感泣して言った、「吾が今日あるは、子の力なり。子を求むること久し、竟に此処で相遇う、何の慰かさかこれに如かん」と。命じて同じ榻に坐らせ、兄弟の契りを結んだ。光晟は遂に雲京の冤屈を述べ、思礼は言った、「雲京は比来讒言に遭い、過ちも小さからず。今、故人のために、特にこれを赦す」と。即日、光晟を兵馬使に抜擢し、田宅・縑帛を賜わること甚だ厚く、累次して特進を奏し、試太常少卿とし、心腹として委ねた。雲京が河東節度使となると、また光晟を代州刺史に奏した。
大曆末、単于都護・兼御史中丞・振武軍使に遷った。代宗は密かに彼に言った、「北蕃が縦横すること日久しい。防禦の計を思うべきである」と。光晟は命を受けると、鎮に至り、威令がよく行われた。建中元年、回紇の突董梅録が衆を率い、雑種胡らと共に京師から帰国するに当たり、車に金帛を載せ、道に相連なった。光晟はその装橐の頗る多いのに訝り、密かに駅吏に長錐でこれを刺させると、皆、車で連れ帰った京師の婦人であった。遂に突董及びその率いる徒党を悉く宴会に赴かせると偽り、酒酣の時、光晟は伏せた甲兵で皆拘え殺し、死者千余人、唯だ二人の胡を留めて帰国して復命させた。遂にその婦人を部別し、糧を与えて京に還し、その金帛を収めて軍士に賞賜した。後、回紇が使いを遣わして訴えて来たので、上は甚だ蕃情を阻むことを欲せず、右金吾将軍に召し拝した。回紇は猶怨み憤ることを止めず、また睦王傅に降とされ、間もなく太僕卿に改められ、才を負って不満で志を得なかった。
賊の泚が僭逆すると、光晟を偽の節度使兼宰相に任じた。泚の衆が頻りに敗れると、遂に精兵五千を選んで光晟に配し、九曲に営し、東渭橋から凡そ十余里であった。光晟は密かに李晟に使いを遣わし、帰順の意があった。晟が兵を進めて苑に入ると、光晟は賊の泚に速やかに西奔すべきを勧め、光晟は数千人を以て泚を城外に送り出し、因って衆を率いて回って晟に降った。晟はその誠意を以て、またその才を愛し、奏用しようと欲し、私第に帰らせ、表を上って特その罪を減ずることを請うた。大宴会がある度に、皆就坐させたが、華州節度使駱元光がこれを罵って言った、「吾は反虜と同席すること能わず」と。衣を払って還営した。晟は已むを得ず、彼を私第に拘した。後に詔があり、その状跡は原宥すべからざると言い、乃ちこれを斬った。
源休
源休は、相州臨漳の人で、京兆尹光輿の子である。休は幹局を以て、累次して監察御史・殿中侍御史・青苗使判官を授けられ、虞部員外郎に遷り、出て潭州刺史となり、入って主客郎中となり、給事中・御史中丞・左庶子に遷った。その妻は吏部侍郎王翊の女であった。小さな憤りによって離別し、妻の一族が上訴したので、御史台に下して審理させたが、休は遅滞して款状に答えず、除名され、溱州に配流された。久しくして、岳州に移された。
建中(780年)の初め、楊炎が政権を執ると、京兆尹の厳郢の威名が次第に高まったため、心の中で彼を倒そうとした。郢は、すなわち王翊の甥の婿であった。源休が王氏と離縁した時、炎は風聞で休と郢に不和があると聞き、ついに休を流人から京兆少尹に抜擢し、郢の過失を探らせた。休は職務に就いて久しく、郢と親しくなったので、炎は怒り、上奏して休に本官のまま御史中丞を兼務させ、回紇への使者として派遣した。休が振武に到着すると、軍使の張光晟がすでに回紇の突董らを殺していた。皇帝は初め使者を断絶しようとし、休に帰還を命じ、太原で待機させた。久しくしてようやく派遣し、なおも休に突董・翳密施・大小梅録ら四体の屍を返還させた。突董は、すなわち武義可汗の叔父である。屍が到着すると、可汗は宰臣以下に彩服と車馬を整えて迎えさせた。その宰相の頡於思迦は大帳に座り、休らを帳外の雪の中に立たせ、突董らを殺した理由を詰問した。休は言った、「突董らは自ら張光晟と憤って闘い死んだのであり、天子の命令によるものではない」。また問うた、「使者は唐国に背き、罪を負って死すべきである。自ら死ぬことができないのか?そうでなければ、なぜ我が手を借りて彼らを殺したのか?」。殺そうとしたこと数度、その言葉は甚だ背き傲慢であり、ついに引き去らせ、供給は甚だ薄く、五十余日留め置かれて、ようやく帰還できた。可汗は使者を遣わして休に言わせた、「我が国の者は皆汝を殺そうとしている。ただ私だけがそうしない。汝の国はすでに突董らを殺した。私がまた汝を殺せば、血をもって血を洗うようなもので、汚れはますます甚だしい。私は今、水をもって血を洗う。それもまた善いことではないか!不足している我が馬の代価の絹百八十万匹は、速やかに返すべきである」。散支将軍の康赤心らを休に随行させて来朝させたが、休はついにその可汗に会うことはできなかった。まもなく赤心らを帰国させ、これに帛十万匹・金銀十万両を与え、その馬の代価を償った。休は危険を経て帰還したが、宰相の盧杞はまた復命の日に弁舌で恩寵を結ぶことを恐れ、太原に至るや、急ぎ上奏して光禄卿とした。休はその帰還使節としての褒賞が薄いことを、常日頃怨み嘆いた。
ちょうど涇原の兵が反乱し、朱泚を主として擁立した。初めはただ太尉と称し、朝官で泚に謁見する者は、皆そろって鑾駕(天子の車駕)を迎えるよう勧めて上奏したが、すでに泚の意に合わず退いた。休が到着すると、ついに人を退けてしばらくの間、言葉多く背逆し、成敗を盛んに述べ、符命を称え述べ、僭号を勧めた。泚はその言葉を喜び、休を宰相とし、度支を管掌させた。休はついに謀主となり、兵糧・軍資から、官職の遷除・補擬、内外の諮問計画に至るまで、すべて休の計画に従った。故に当時の人は言った、「源休の逆は、朱泚よりも甚だしい」。朝廷の大臣で奔竄して捕らえられなかった者の多くは、休が誘致したものであり、殺害や辱めに至るまで、職務として休が行ったことは、一つや二つではなかった。また泚に宗室を除き剪るよう勧め、人望を絶たせ、万年県の賊曹尉の楊偡にその断決を専任させ、諸王の子孫で遇害された者は数えきれなかった。泚が敗走すると、休はこれに随従して寧州に至った。泚が死ぬと、休は鳳翔に逃れたが、その部曲に殺され、首級を伝えて献上された。休の三子はともに東市で斬られ、その家は籍没された。
喬琳
喬琳は、太原の人である。幼くして孤貧であり学問を志し、文詞をもって称された。天宝の初め、進士に挙げられ、成武尉に補され、累ねて興平尉を授けられた。朔方節度使の郭子儀が召し出して掌書記とし、まもなく監察御史に任じられた。琳は倜儻で疏誕、談諧を好み、同僚を侮り戯れ、礼儀の規矩に乏しかった。同院の御史の畢耀は初め琳と嘲誚を往来させ、ついに隙間を生じ、公事をもって互いに告訴し、罪を得て巴州員外司戸に貶された。ついに起用されて南郭令となり、殿中侍御史に改め、山南節度使の張献誠の行軍司馬を充任した。使節が罷免されると、剣南東川節度使の鮮于叔明の判官となった。検校駕部郎中・果綿遂三州刺史・兼御史中丞に改められた。入朝して大理少卿・国子祭酒となった。出て懐州刺史となった。琳は平素より張涉と親しく、皇帝が春宮(皇太子)にあった時、涉はかつて侍読を務めた。帝位を嗣ぐと、多く政事を涉に諮問し、盛んに琳の識度と材略を称え、大用に堪えるとし、よって御史大夫・平章事に任じた。琳はもとより粗末な才能で、また高齢で耳の病があり、皇帝が顧問するたび、対答は順序を失い、論奏は時宜に合わなかった。幸いにも宰相の位に居ること凡そ八十余日、工部尚書に除かれ、政事を知ることを罷め、まもなく皇太后迎副使を加えられた。
朱泚の乱の時、奉天まで扈従し、吏部尚書に転じ、太子少師に遷った。再び梁・洋に幸し、盩厔まで従ったが、馬が疲れたと偽って遅留した。皇帝は琳が旧臣で老臣であることを以て、心から敬重し、慰諭は甚だ行き届き、御馬一匹を与えた。また老病で山の険阻を登り降りできないと懇ろに辞退したので、皇帝は悵然とし、その執る策に賜って言った、「良き図りを勉めよ。卿と決別する」。数日後、ついに髪を削って僧となり、仙遊寺に止まった。賊の泚がこれを聞き、ついに数十騎を追わせて京城に至らせ、偽りの吏部尚書とした。源休に公服を着させ、肉食を饋った。琳は辞譲したが、僧として布施を求める言葉を発した。琳は賊中の吏部を掌り、選人が前に請うて言った、「注記された某官は穩便ではありません」。琳はこれに謂って言った、「足下はこの選挙が果たして穩便だと思うか?」。官軍が京師を収復すると、極刑に処すべきところであったが、時に琳はすでに七十余歳、李晟はその衰老を憫れみ、上表して死刑を減ずるよう請うた。皇帝はその累ねて重任を経たにもかかわらず、頓に臣節を虧き、自ら逆命を受け、頗る譏諧悖慢の言を聞いたことを以て、義に背き恩を負い、固より捨てるべからず、斬ることを命じた。臨刑の際に嘆いて言った、「喬琳は七月七日に生まれ、またこの日に死ぬ。豈に命ではなかろうか!」。
張涉
張涉は、蒲州の人で、家は代々儒者である。涉は国学に依って諸生に講説し、次第に国子博士に遷り、また文を作ることができ、かつて有司に日試万言を請うたことがあり、当時張万言と呼ばれた。徳宗が春宮にあった時、涉に経を受けた。即位の夜、涉を宮中に召し入れ、庶政について訪ね、大小の事柄をすべて諮問した。翌日、詔して翰林に居らせ、恩礼は甚だ厚く、親重比ぶるものなしであった。博士より散騎常侍に遷った。皇帝はまさに宰輔に意を属し、ただ賢を択ぶのみであったので、故に次第を超えた地より人を求めた。涉は懐州刺史の喬琳を挙げて相とした。皇帝は疑わずにこれを授け、天下でこれを聞く者は皆愕然とした。数ヶ月後、琳は不称職により罷免され、皇帝はこれによって涉を疎んじた。まもなく以前の湖南都団練使の辛京杲の贓罪事件が発覚し、詔して曰く、「師を尊ぶの道は、礼に加うる所あり。故を議するの法は、恩に掩う所あり。張涉は賄賂し交通し、頗る時の聴聞を駭かす。常に親重したところ、深く嘆惜す。宜しく田里に放帰すべし」。
蔣鎮
蔣鎮は、常州義興の人で、尚書左丞の蔣洌の子である。兄の蔣鍊とともに文学をもって進んだ。天宝末に賢良に挙げられ、累ねて左拾遺・司封員外郎を授かり、諫議大夫に転じた。時に戸部侍郎・判度支の韓滉が上言した、「河中の塩池に瑞塩が生じ、実に土徳の上瑞である」。皇帝は秋霖がやや多く、水潦が患いとなり、瑞を生ずるに宜しくないとして、鎮に駅馬を馳せてこれを検査施行させた。鎮は韓滉と同じく上奏し、なお上表して賀し、史館に宣付するよう請い、併せて神祠を置き、その嘉号を宝応霊慶池と賜うよう請うた。地は霖潦が一月に及び、住民の廬舎を壊すこと一つや二つではなく、塩池は潦水が流入し、その味は多く苦かった。韓滉は塩戸の減税を慮り、詐って雨は池を壊さず、池に瑞塩が生じたと上奏し、鎮はこれを庇って詐りを飾り、識者はこれを醜とした。給事中・工部侍郎に転じ、簡倹をもって当時に称された。
その妹婿の源溥は、即ち休之の弟であるが、姻戚の故を以て、休と交わりを好んだ。涇原の師の叛きに際し、鎮は潜かに逃れ、夜に鄠県の西に至り、馬が躓いて溝澗に堕ち、足を傷めて進むことができなかった。時に兄の鍊は既に源休と相率いて賊の偽官を受けて居た。鎮の僕人に逃げ帰って鍊に投ずる者があり、鎮が足を病んで鄠に在ると云った。鍊と源休はこれを聞いて大いに喜び、遂に賊の泚に言上した。泚は平素より鎮の清名を慕って居り、即ち騎兵二百を以てこれを鄠県の西に求めさせた。明日、鎮を擁して至り、偽宰相に署した。既に免れ難きを知るや、毎に憂い沮み、常に刃を懐いて自ら裁かんとし、多くは兄の鍊に救われて止んだ。数日後、復た逃れ匿れんと謀ったが、竟に性の懦弱にして畏怯なるを以て、計終に果たさず。然れども源休と泚は頻りに議し、潜み匿るる衣冠を逼脅し、大いに殺戮を加えんと欲したが、鎮は輒ち力を争って救い、全うするを得た者は甚だ衆かった。ここに至り、兄の鍊等と並びに偽職を授けられ、東市の西北街に斬られた。
初め鎮の父の洌、叔父の渙は、禄山・思明の乱に当たり、並びに偽職を授けられたが、然れども家風の修整を以て、士大夫に称せられた。鎮兄弟も亦た教義礼法を己が任と為したが、而して禄を貪り死を愛し、節を隳し身を戮せられ、天下の笑いを為した。
洪経綸
洪経綸は、建中初年に黜陟使と為った。東都に至り、訪い聞くに魏州の田悦の食糧兵は凡そ七万人、経綸は平素より時機に暗く、先ず符を以てその兵四万人を停め、農畝に帰らしめんと令した。田悦は偽りて命に順い、即ち符に依りてこれを罷めた。而して大いに罷めたる兵士を集め、これを激怒して曰く、「爾等軍旅に在りて、各々父母妻子有り、既に黜陟使に罷められて、如何にして衣食を得んや」と。遂に大いに哭した。悦は乃ち尽く家財衣服を出して厚くこれを給し、各々その部伍に還らしめ、この人より叛心を堅くし、ここに由りて職を罷められた。朱泚の反するに及び、偽りて太常少卿を授けられた。
彭偃
彭偃は、少にして俊才を負い、進取に鋭く、当塗の者に抑えられ、言色に形われた。大暦末、都官員外郎と為った。時に剣南東川観察使李叔明上言して、以て「仏・道二教は、時に益無く、請うらくは粗く澄汰を加えん。その東川の寺観は、請うらくは二等に定めん。上寺は僧二十一人を留め、上観は道士十四人を留め、降殺は七を以てし、皆精選して有道行ある者とし、余は悉く初に返らしめん。蘭若・道場の名無き者は皆廃せん」と。徳宗曰く、「叔明この奏は、天下の通制と為す可く、唯だ剣南一道に非ず」と。尚書に下して議を集めしむ。偃議を献じて曰く、
王者の政は、人心を変ずるを上と為し、人心に因るを次と為し、変ぜず因らざるは、常を循り固きを守る者を下と為す。故に独見の明有るに非ざれば、非常の事を行う能わず。今陛下は惟新の政を以て、万代の法と為さんとす。若し旧風を革めずして、正道に帰らしめざるは、非なり。当今の道士は、名有りて実無く、時俗鮮しく重んぜず、政を乱すは猶お軽し。唯だ僧尼有りて、頗る穢雑なり。西方の教え、中国に被るより、聖を去ること日遠く、空門は五濁を行わず、比丘は但だ粗法を行う。爰に後漢より、陳・隋に至るまで、僧の廃滅するや、其れ亦た数度か。或いは坑殺に至り、殆んど遺余無し。前代の帝王、豈に僧道の善を悪むこと此の如く深きにや。蓋し其の人を乱す亦た已に甚だしきなり。且つ仏の教えを立つるは、清浄無為、若し色を以て見れば、即ち是れ邪法、開示悟入は、唯だ一門有り、以て三乗の人を、外道に比す。況んや今出家する者は皆是れ無識下劣の流、縦い其の戒行高潔なりと雖も、王者に於いては、已に用無し。況んや是れ苟も征徭を避け、殺盗淫に於いて、犯さざる所無き者に於いてをや。今叔明の心は甚だ善し。然れども臣は其の奸吏の詆欺を恐れ、而して去る者は必ずしも非に非ず、留まる者は必ずしも是に非ず、国に益無く、奸を息むる能わず。既に人心を変ぜず、亦た人心に因らず、強制力持して、遠きに致し難し。臣聞く、天人の生むるは、必ず職有らんとす。遊行浮食は、王制の禁ずる所なり。故に才ある者は爵禄を受け、不肖なる者は租征を出だす。此れ古の常道なり。今天下の僧道は、耕さずして食い、織らずして衣い、広く危言険語を作して、以て愚者を惑わす。一僧の衣食は、歳計約三万有余、五丁の出す所、此れを致す能わず。一僧を挙げて以て天下を計れば、其の費や知る可し。陛下日旰に憂勤して、将に人害を去らんとす。此れを救わずして、何を以て政を為さんや。臣伏して請う、僧道未だ五十に満たざる者は、毎年絹四匹を輸さしめ、尼及び女道士未だ五十に満たざる者は、毎年絹二匹を輸さしめ、其の雑色役は百姓と同じからしめん。才智有る者は仕に入らしめ、請うらくは俗に還りて平人と為らんことを聴かしめん。但だ役に就きて課を輸せしむるを令すれば、僧と為るも何ぞ傷けん。臣窃かに其の出す所を料るに、今の租賦の三分の一に下らざるも、然らば則ち陛下の国富み、蒼生の害除かるべし。其の年五十を過ぐる者は、請うらくは皆之を免ぜしめん。夫子曰く、「五十にして天命を知る」と。列子曰く、「班白せざれば、道を知らず」と。人の年五十に至れば、嗜欲已に衰え、縦い出家せずと雖も、心已に道に近し。況んや戒律其の情性を検するに於いてをや。臣以為うらくは、此の令既に行わるれば、僧道規避して俗に還る者は固より已に大半ならん。其の年老いて精修する者は、必ず尽く人の師と為り、則ち道・釈二教益々重く明らかならんと。
議する者は是とし、上頗る其の言を善しとした。大臣は二教の行わるること已に久しく、列聖之を奉ずるを以て、頓に擾すに宜しからず、其の甚だしきを去るべしとし、其の議行われず。
偃は才地を以て文誥を掌るに当たるべきも、躁求を以て時論に抑えられ、鬱々として志を得ず。涇原の師の乱に、駕に従うに及ばず、田家に匿れ、賊に得られた。朱泚は平素より之を知り、偃を得て甚だ喜び、偽りて中書舎人に署し、僭号の辞令は皆偃之を為した。賊敗れ、偽中丞崔宣・賊将杜如江・呉希光等十三人と共に、李晟之を収め、倶に安国寺の前に斬られた。
【賛】
史臣曰く、陰陽を肇め分ちて、爰に生死有り、修短二事、賢愚一途。故に君子は夷険の機に遇いて、其の節を易えず。小人は逆順の道を昧にして、刑に陥る。鴻毛泰山、斯れ至論と為す。令言は遠く師徒を総べて、首として叛逆を為し、光晟は初め委任に当たりて、危きに款誠を輸し、源休は士流と曰うと雖も、元悪に甚だしく、喬琳は巧みに真主に辞して、俯いて偽官に就き、蒋鎮は禄を貪り節を隳し、皆小人と曰う。経綸の徒は、言うに足らざるのみ。
賛して曰く、時に逆順を争い、命は死生に繫る。君子は節を守り、小人は刑を正す。