旧唐書 劉晏

旧唐書

劉晏

劉晏、字は士安、曹州南華の人である。年七歳にして神童に挙げられ、秘書省正字を授けられた。累ねて夏県令を授けられ、能吏としての名声があった。殿中侍御史を歴任し、度支郎中・杭隴華三州刺史に遷り、まもなく河南尹に遷った。時に史朝義が東都を盗み拠していたため、長水に仮の治所を置いた。入って京兆尹となり、間もなく、戸部侍郎を加えられ、御史中丞を兼ね、度支を判り、府の事務を司録張群・杜亞に委ね、大綱を総べ、議論は称職と号された。ほどなく、酷吏敬羽に陥れられ、通州刺史に貶せられた。再び入って京兆尹・戸部侍郎となり、度支を判った。時に顔真卿が文学正直をもって利州刺史に出されていたが、晏は真卿を挙げて自らに代えて戸部とし、そこで国子祭酒を加えられた。宝応二年、吏部尚書・平章事に遷り、度支塩鉄転運租庸使を領した。中官程元振と交わり通じた罪により、元振が罪を得たので、晏は相を罷められ、太子賓客となった。まもなく御史大夫を授けられ、従前の如く東都・河南・江淮・山南等道転運租庸塩鉄使を領した。時に新たに兵戈の後を承け、朝廷内外食糧に苦しみ、京師の米価は一斗に至って一千に達し、官厨には二季分の蓄積もなく、禁軍は食糧を欠き、畿県の百姓は穂を揉いでこれを供給した。晏は命を受けた後、転運を己が任務とし、凡そ経歴する所は、必ず利害の由を究めた。江淮に至り、書を以て元載に遺して曰く、

淮・泗を浮かび、汴に達し、河に入り、西に底柱・硤石・少華に沿い、楚の帆越の客は、直ちに建章・長楽に抵る、これ社稷を安んずる奇策である。晏は東朝に賓たるも、なお官に謗りあり、相公は終始故旧を重んじ、流言を信ぜず、賈誼が再び宣室に召され、弘羊が重ねて功利を興すが如く、敢えて力を悉くして知遇に答えざらんや。馬を駆って陜郊に至り、三門渠津の遺跡を見る。河陰・鞏・洛に到り、宇文愷が梁公堰を置き、黄河の水を分けて通済渠に入れたこと、大夫李傑の新堤の故事、河廟に像を飾り、凜然として生けるが如きを見る。滎郊・浚沢を渉り、遥かに淮甸を瞻み、歩を追うて探討し、昔人の用心を知る。すなわち潭・衡・桂陽には必ず積穀多く、関輔が汲々たるは、ただ兵糧によるのみ。漕運して瀟・湘・洞庭を引き、万里を幾日か、淪波に卦席し、西を指して長安に至る。三秦の人は、これに待ちて飽き、六軍の衆は、これに待ちて強し。天子に側席の憂い無く、都人は舟を泛ぐる役を見る。四方旅拒する者は以て胆を破るべく、三河流離する者はここに命を請う。相公は明主を匡戴し、富人侯とならんとす、これ今の切務にして、失うべからざるなり。僕をして瑕穢を湔洗せしめ、愚懦を率いて罄くせば、まさに経義に憑り、河堤を護ることを請い、冥々として官に勤め、水死を辞せざらん。然れども運の利病、各々四五あり。晏は京兆尹より入って計相となり、既に五年を共にす。京師三輔の百姓は、ただ税畝の傷多きを苦しむ。もし江・湖の米を来たらしめて毎年三二十万とせば、即ち頓に徭賦を減じ、皇沢を歌舞せん。これ其の利一なり。東都は残毀し、百に一も存せず。もし米運流通せば、則ち饑人皆附き、村落邑廛、ここより滋多からん。命を受くるの日、海陵の倉を引きて以て鞏・洛を食わしむるは、これ計の得る者なり。これ其の利二なり。諸将に辺に在る者あり、諸戎に王略を侵敗する者あり、或いは三江・五湖、紅粒を貢輸し、雲帆桂楫、帝郷に輸納するを聞けば、軍誌に曰く「声を先にし実を後にす、以て夷夏を震耀すべし」。これ其の利三なり。古より帝王の盛んなるは、皆書同じく文、車同じく軌と云い、日月の照らす所、率俾ならざる莫しとす。今舟車既に通じ、商賈往来し、百貨雑集し、航海梯山、聖神の輝光、漸く貞観・永徽の盛に近づかん。これ其の利四なり。疑わしむべき所は、函・陜は彫残し、東周は特に甚だし。宜陽・熊耳を過ぎ、武牢・成臯に至る、五百里の中、編戸千余のみ。居に尺椽無く、人に煙爨無く、蕭条凄惨、獣遊び鬼哭く。牛は必ず角を羸し、輿は必ず輹を説き、棧車輓漕も亦た易く求め難し。今無人の境に於て、此の労人の運を興すは、固より就き難し。これ其の病一なり。河・汴には初めあり、修せざれば則ち毀澱す。故に毎年正月に近県の丁男を発し、長茭を塞ぎ、沮淤を決し、清明桃花已後は、遠水自然に安流し、陽侯・宓妃、復た太息せず。頃に寇難に因り、総べて掏拓せず、沢は水を滅し、岸石崩れ、役夫は沙に需り、津吏は濘に旋し、千里洄上し、水無くして舟行す。これ其の病二なり。東垣・底柱、澠池・二陵、北河運処五六百里、戍卒久しく絶え、県吏空拳なり。奪攘奸宄、窟穴囊橐す。河を夾みて藪と為り、豺狼狺狺し、舟行の経る所、寇も亦た往く能う。これ其の病三なり。東は淮陰より、西は蒲阪に臨み、三千里に亘り、屯戍相望む。中軍は皆鼎司元侯、賤卒は儀同青紫、毎に食は半菽と云い、又挟纊無しと云い、輓漕の至る所、船到れば便ち留め、即ち単車の使折簡の書の能く制する所に非ざるなり。これ其の病四なり。惟だ小子其の慮を畢くし奔走し、惟だ中書其の利病を詳らかにし裁成せんことを。

晏は累年已来、事缺け名毀れ、聖慈含育し、特ちに生全を賜う。月余家居し、遽ちに臨遣せられ、恩栄感切し、百身を殞すを思う。一水通ぜざるを見ては、願わくは鍤を荷いて先んじ往かん。一粒運ばざるを見ては、願わくは米を負いて先んじ趨らん。心を焦がし形を苦しめ、明主に報いんことを期す。丹誠未だ克たず、漕引多く虞あり、中流に屏営し、涕を掩いて状を献ず。

ここより毎歳米数十万石を運びて以て関中を済う。

又た至徳初め、国用足らざるを為し、第五琦をして諸道に塩を榷めて以て軍用を助けしめ、及び晏その任に代わり、法益々精密にして、官に遺利無し。初め、歳入銭六十万貫、季年に入る所十倍を逾え、而して人厭苦すること無し。大暦末、通計一歳征賦の入る所総一千二百万貫、而して塩利且つ半を過ぐ。累ねて吏部尚書に遷る。大暦四年六月、右僕射裴遵慶と同く本曹に赴きて事を視、勅して尚食に儲供を増置せしめ、内侍魚朝恩及び宰臣已下常朝官の咸く省に詣でて送ることを許す。八年、三銓選事を知る。十二年三月、宰臣元載を誅す。晏詔を奉じて訊鞫す。晏は載が任に居て党を樹て、天下に布くを以て、敢えて専断せず、他官を請いて事を共にせんとす。勅して御史大夫李涵・右散騎常侍蕭昕・兵部侍郎袁傪・礼部侍郎常袞・諫議大夫杜亞をして同く推さしむ。載皆款伏す。初め、晏は旨を承け、門下侍郎・同平章事王縉も亦た極法に処せんとす。晏は涵等に謂いて曰く、重刑は再覆す、国の常典、況や大臣を誅するに、覆奏せざるを得んや。又た法に首従あり、二人同刑も亦た宜しく重ねて進止を取るべしと。涵等命に従う。及び晏等覆奏す、代宗乃ち縉の罪を減じて軽きに従う。縉の生くは、晏の平反の力なり。

十三年十二月、尚書左僕射となる。時に宰臣常袞政権を専らにし、晏が久しく銓衡を掌り、時議平允なるを以て、兼ねて儲蓄を司り、職挙げ功深きを慮り、公望日に崇きを恐れ、上心属する所あるを。窃かに之を忌み、乃ち晏は朝廷の旧徳にして、宜しく百吏の師長と為すべしと奏し、外には崇重を示し、内には実に其の権を去らんとす。奏上するに及んで、晏は使務方に理むるを以て、其の任に代わる者難きに、使務・知三銓並びに旧の如しとす。李霊曜の乱に、河南節帥の拠る所は、多く法令を奉ぜず、征賦亦之に随う。州県益減ずと雖も、晏は羨余を以て相補い、人賦を加えず、所入仍旧にして、議者其の能を称す。諸道の巡院より京師に至るまで、重価を以て疾足を募り、遞を置きて相望み、四方の物価の上下、極めて遠きと雖も四五日を過ぎずして知る。故に食貨の重軽、尽く権を掌握に在り、朝廷は美利を得て天下甚だ貴く甚だ賤しきの憂い無く、其の術を得たり。凡そ任使する所は、多く後進の幹能ある者を収む。其の総領する所は、務めて急促を旨とし、利に趨く者は之に化し、遂に風を成す。当時の権勢、或いは親戚を以て托すと雖も、晏亦之に応じ、俸給の多少、命官の遅速、必ず其の志の如くす。然れども未だ嘗て親しく職事を得ず。其の領する要務は、必ず一時の選なり。故に晏没後二十余年、韓洄・元琇・裴腆・包佶・盧征・李衡財賦を継ぎて掌るも、皆晏の故吏なり。其の部吏数千里の外に居るも、教令を奉ずること目の前に在るが如く、寝興宴語するに欺紿無く、四方の動静、先づ知らざる莫く、事賀す可き有れば、必ず先ず章奏を上す。江淮の茶・橘は、晏と本道観察使各歳貢す。皆其の先至せんことを欲す。土有るの官、或いは山を封じ道を断ち、先発を禁ず。晏は厚く財力を以て之を致し、常に他司に先んず。是に由りて甚だ藩鎮の便とせざる所なり。

晏は家を理むるに儉約を以て称せられ、而して交を重んじ旧を敦くし、頗る財貨を以て天下の名士に遺す。故に人多く之を称す。諸子を善く訓え、咸に学芸有り。事に任ずること十余年、権勢の重き、宰相に隣り、要官重職、頗る其の門より出づ。既に材力有り、事を視るに敏速にして、機に乗じて滞ること無し。然れども多く任数し、権貴を挟み、恩沢を固め、口有る者は必ず利を以て之を啖う。大暦の時に当たり、事は因循を貴び、軍国の用、皆晏に仰ぎ、未だ嘗て検轄せず。

徳宗嗣位し、事を言う者転運の罷む可きを称すること多し。初め、楊炎吏部侍郎たりし時、晏は尚書たり。各権を恃み気を使い、両相得ず。炎元載に坐して貶せられし時、晏之を快とし、朝に昌言す。炎相に入るに及び、前事を追い怒り、且つ晏と元載隙憾有り、時に人載の罪を得るは、晏力有りと為すを以てす。炎将に載の為に復讐せんとし、又時に人風に代宗独孤妃を寵し而して其の子韓王迥を愛するを言う。晏密かに啓して独孤を立てて皇后と為さんことを請う。炎因りて対し涕を流して奏言す、「祖宗の福祐に頼り、先皇と陛下賊臣の間せらるる所と為らず。然らずんば、劉晏・黎幹の輩、社稷を揺るがし、兇謀果たさる。今幹は已に伏罪す。晏猶権を領す。臣宰相として、能く此の事を正しく持せず、罪万死に当たる」と。崔祐甫奏言す、「此の事曖昧なり。陛下廓然として大赦し、虚語を究尋すべからず」と。朱泚・崔寧又傍より祐甫と与に之を救解す。寧の言頗る切なり。炎大いに怒り、故に寧を斥けて鄜坊に出鎮せしめて以て之を摧挫す。遂に晏の転運等使を罷め、尋いで忠州刺史に貶す。炎其の罪を誣構せんと欲し、庾準と晏素より隙有るを知り、挙げて荊南節度と為し、以て晏の動静を伺わしむ。準乃ち晏の朱泚に与うる書を奏し救解を祈り、言多く怨望と為す。炎又之を証成す。上然りと為す。是の月庚午、晏已に誅せられ、使い回り奏報し、晏を忠州に於て謀叛すと誣う。詔を下し其の罪を暴言す。時に年六十六、天下之を冤とす。家属嶺表に徙り、連累する者数十人。貞元五年、上悟り、方に晏の子執経を録し、太常博士を授く。少子宗経、秘書郎。執経上りて官を削り父を贈らんことを請う。特ち鄭州刺史を追贈す。

第五琦

第五琦は京兆長安の人。少くして孤となり、兄華に事え、敬順人に過ぐ。長ずるに及び、吏才有り、富国強兵の術を以て自ら任ず。天宝初め、韋堅に事え、堅敗れて官を貶せらる。累ねて須江丞に至る。時に太守賀蘭進明甚だ之を重んず。会うに安禄山反す。進明北海郡太守に遷り、琦を録事参軍と為すを奏す。禄山已に河間・信都等五郡を陥す。進明未だ戦功無し。玄宗大いに怒り、中使を遣わし刀を封じて之を促し、「地を収め得ずんば、即ち進明の首を斬れ」と曰う。進明惶懼し、出す所を知らず。琦乃ち厚く財帛を以て勇敢の士を募り、奇を出して力戦せしむるを勧め、遂に陥せらるる郡を収む。琦をして事を奏せしむ。蜀中に至り、琦謁見を得、奏言す、「方今の急は兵に在り。兵の強弱は賦に在り。賦の出す所は、江淮居多し。若し臣に職任を仮し、軍須を済ましめば、臣能く賞給の資をして、聖慮を労せしめざらしむ」と。玄宗大いに喜び、即日監察御史に拝し、江淮租庸使を勾当せしむ。尋いで殿中侍御史に拝す。尋いで山南等五道度支使を加え、卒に応じて促め辦じ、事違闕無し。司金郎中に遷り、兼ねて御史中丞と為し、使は旧の如し。是に於て塩法を創立し、山海井竈に就きて其の塩を収榷し、官吏を置き出糶す。其の旧業戸並びに浮人の業と為さんことを願う者は、其の雑徭を免じ、塩鉄使に隷す。盗煮私市は罪差有り。百姓租庸の外、横賦を得ず。人税を益さずして上用に饒す。戸部侍郎に遷り、兼ねて御史丞と為し、専ら度支を判じ、河南等道支度都勾当転運租庸塩鉄鑄錢・司農太府出納・山南東西江西淮南館驛等使を領す。

乾元二年、本官をもって同中書門下平章事を加えられた。初め、第五琦は国用が足りず、貨幣の価値が高く物価が安いことを憂い、乾元重宝銭を鋳造し、一を以て十に当てて流通させることを請うた。宰相となって後、また重輪乾元銭を改めて鋳造し、一を以て五十に当て、乾元銭及び開元通宝銭の三種類を並行させることを請うた。やがて穀物の価格が高騰し、餓死者が道に累々と横たわり、また私鋳銭が争って起こり、朝廷内外は皆第五琦の変法の弊害とし、封事による上奏が日に日に聞こえた。乾元二年十月、忠州長史に貶ぜられ、すでに赴任の途上にある時、第五琦が黄金二百両を受け取ったと告げる者があったので、御史劉期光を遣わして追及して審理させた。第五琦は答えて言うには、「二百両の金は十三斤の重さである。宰相の身でありながら、自ら持つことはできない。もし交付・受け取りに証拠があるならば、どうか法に準じて罪を科してほしい。」と。期光はこれを第五琦が罪を認めたものと思い、急いでこれを奏上し、除名して夷州に配流し、駅伝を急がせて発遣し、なお綱領を差し立てて彼の地まで送り届けさせた。宝応初年、朗州刺史として起用され、非常に優れた政績を挙げ、入朝して太子賓客に転じた。時に吐蕃が京師を陥落させ、代宗が陝州に避難すると、関内副元帥郭子儀が第五琦を糧料使・兼御史大夫とし、関内元帥副使を充てるよう請うた。間もなく、京兆尹に改められた。車駕が都を回復すると、専ら度支を判り、兼ねて諸道の鋳銭・塩鉄転運・常平等使を務めた。累ねて扶風郡公に封ぜられた。また京兆尹を加えられ、戸部侍郎に改め、度支を判った。前後十余年にわたり財賦を管轄した。魚朝恩が誅殺されると、第五琦は彼と親しく交わっていたことを咎められて処州刺史に左遷され、饒州・湖州の二州を歴任した。入朝して太子賓客・東都留司となった。上はその才能を惜しみ、再び任用しようとして京師に召還したが、二晩のうちに卒去した。享年七十。太子少保を追贈された。

子の第五峰、峰の妻鄭氏の娘は、皆孝行で知られ、その門を旌表された。

班宏

班宏は、衛州汲県の人である。祖父の思簡は、春官員外郎であった。父の景倩は、秘書監であった。班宏は若くして進士に挙げられ、右司禦冑曹を授かり、後に薛景先の鳳翔掌書記となり、また高適の剣南観察判官となり、累ねて大理司直に拝され、監察御史を摂行した。時に青城山に妖賊の張安居が左道をもって衆を惑わし、事が発覚すると、多く大将を誣告して引き合いに出し、死を緩めようとしたが、班宏は審理して速やかにこれを誅殺したので、人心はようやく安まった。やがて郭英乂が高適の後任となると、人望を満たすため、班宏を秘書郎に任じ、兼ねて雒県令とし、病気により免官された。大暦三年、起居舎人に遷り、まもなく理匭使を兼ね、四度の転任を経て給事中となった。時に李宝臣がその任中に卒去し、子の惟嶽が喪を匿して地位を求めようとしたので、上は班宏を成徳に遣わして病を問わせ、かつこれを諭させた。惟嶽は厚く班宏に賄賂を贈ったが、全て受け取らず、帰還して報告は上意に合ったので、刑部侍郎に遷り、兼ねて京官考使となった。時に右僕射崔寧が兵部侍郎劉乃を上下と考課したが、班宏は駁して言うには、「夷狄の地を平定し難事を処理するのは、専ら節度使の統制にあり、兵士の名簿や符契は、省司が校勘するものではない。上たる者が美名を宣揚すれば、下たる者に奔走競争の道を開くことになる。上たる者がこびへつらって容認すれば、下たる者は必ず徒党を組む。」と。よってこれを削除した。劉乃はこれを知って謝して言うには、「乃は不敏ではあるが、敢えて一つの美を掠めて二つの罪を犯そうとするだろうか。」と。まもなく吏部侍郎に除せられ、汪蕃会盟使李揆の副使となった。

貞元初年、連年の旱魃と蝗害があり、上は賦調の徴収を急務とし、班宏を戸部侍郎に改め、度支使韓滉の副使とした。尚書に遷り、また竇参の副使となった。竇参は初め大理司直であった時、班宏はすでに刑部侍郎であったが、竇参が宰相となり、度支を管轄すると、上は班宏が長く国計を司ってきたことを考慮し、よって彼を副使とした。かつて言うには、「朕は宰相たる竇参を以て遠方を臨ませるが、諸々の事務は悉く卿に委ねる。辞するなかれ。」と。竇参は先に貴い身分であったため、常々密かに機嫌を取って言うには、「参は後から来た者であり、一朝にして尚書の上に立つのは、甚だ自ら不安である。一年の後には、この使職を返上しよう。」と。班宏は内心喜んだが、一年余り経っても、竇参は全く再び言及しなかった。班宏の性格は剛愎で、人がこのことを伝えると、かつて食言したことに怒り、公事において多く意見が合わなかった。揚子院は、塩鉄転運の物資を委蔵する所である。班宏は御史中丞徐粲を以てこれを主管させたが、すでに事務を処理せず、かつ賄賂の噂が聞こえたので、竇参は彼を代えようとしたが、班宏は固執して許さなかった。竇参はまた諸院の吏員を選んだが、一度も班宏に相談せず、班宏は竇参が任用した者の過失悪行を列挙して上奏したが、事はいつも宮中に留め置かれた。間もなく、竇参は使職の功労により吏部尚書を加えられ、一方で班宏は蕭国公に進封されたが、班宏は竇参が虚号をもって自分を寵遇したことを怨み、中傷はますます甚だしくなった。詔を奉じて営建する度に、班宏は必ず極めて壮麗にし、自ら工事の監督や労役に当たり、また権勢ある者と厚く結んで竇参を傾けようとした。

張滂は先に班宏と親しかったので、班宏は彼を推薦して司農少卿としたが、竇参が張滂に江淮の塩鉄を分掌させようとし、班宏に相談すると、班宏は張滂が悪を憎むことを考慮し、法をもって徐粲を糾弾することを懸念して、言うには、「張滂は強情で扱いにくく、用いることはできない。」と。張滂はこのことを知った。八年三月、竇参は遂に上から疎んぜられ、度支使を譲ったので、遂に班宏に専ら判らせたが、竇参は使務の全てが班宏に帰することを望まず、京兆尹薛玨に計を問うた。薛玨は言うには、「二人は仲が悪く、張滂は剛決である。もし塩鉄転運を張滂に分掌させれば、必ずや班宏を制することができる。」と。竇参はそこで張滂を戸部侍郎・塩鉄使・判転運に推薦したが、なお班宏に隷属させて彼を喜ばせた。江淮の両税は、全て班宏が主管し、巡院を設置したが、しかし班宏と張滂に共にその官を選ばせた。張滂が班宏に塩鉄の旧帳簿を請求すると、班宏はこれを与えなかった。巡院の官を任命する度に、班宏と張滂は互いに是非を争い、任用される者はなかった。張滂はそこで上奏して言うには、「班宏は臣と相いれず、巡院には多くの欠官がある。臣は財賦を掌り、国家の大計である。職務を修めなければ、罪を逃れる所はない。今、班宏がこのような状態では、どうして事を治められようか。」と。遂に分掌させることとなった。間もなく、班宏は宰相の趙憬・陸贄に言うには、「宏の職は転運であり、毎年江淮の米五十万斛を運び、前年は七十万斛を増やして太倉を満たし、幸いにも過失はなかった。今、職務を他人に移されるとは、どういうことか。」と。張滂がその場にいたので、憤然として言うには、「尚書の発言は甚だしく誤っている。もし運務が全て完遂されていたならば、朝廷は固よりこれを奪わなかったであろう。公の金銭を失い、奸吏を放任したが故である。かつ凡そ度支の胥吏たる者は、一年と経たずして、資産が巨万に累なり、奴僕・馬・邸宅が王公を僭越する。官財を盗まなければどうしてこのようになろうか。道で喧々と噂され、知らぬ者はいない。聖上は故に滂に分掌させたのである。公が先に言ったことは、上に怨みを帰するものではないか。」と。班宏は黙然として答えなかった。この日、班宏は邸宅で病気を称し、張滂が見舞いに行ったが、班宏は会わなかった。趙憬・陸贄はそこで班宏と張滂の言葉を上聞した。これにより大暦の旧例に従い、劉晏・韓滉が分掌したようにした。張滂は揚州に至って徐粲を審理し、僕妾や子・甥に至るまで逮捕し、贓物巨万を得たので、嶺表に流した。故に竇参が罪を得たのは、班宏がかなり力を及ぼしていた。官署に勤勉で、朝に入り夕方に帰り、下吏は労苦であったが一度も厭わず苦にせず、清廉で勤勉幹練であり、当時に称えられた。貞元八年七月に卒去した。享年七十三。朝を廃し、加贈され、諡して敬といった。

王紹

王紹は、本来太原に本家を置き、今は京兆府萬年県の人である。旧名は憲宗と同じであったが、永貞年間に改めた。若い時、顔真卿に器重され、王紹の旧名に因み、字を徳素と称し、奏上して武康尉に任じられた。蕭復が常州刺史となった時、従事として召し、包佶が租庸塩鉄使を兼ねた時も、王紹を判官とした。時に李希烈が兵を擁して阻み、江淮からの租税輸送は、行く先々で困難を極めたので、特に運路を潁水から汴水へ移した。王紹は包佶の表文を奉じて朝廷に赴いたが、折しも徳宗が西に幸行していたので、王紹は沿道の軽貨を監督し、金州・商州の路を急ぎ、行程を倍にして洋州から行在所に赴いた。徳宗は自ら労い、王紹に言った、「六軍には春服がなく、我もなお裘を着ている」。王紹は俯伏して涙を流し、奏上した、「包佶が臣に命じ、間道を進んで奉納する数はおよそ五十万です」。上は言った、「道路は遠く迂回し、経費は切迫している。卿の奏上する所は、どうして望めようか」。五日後に王紹が監督した物資が続々と到着し、上は深く頼りとした。

貞元年中、倉部員外郎となった。時に兵乱と旱魃・蝗害の後であったので、戸部に命じて欠員の官俸を収め、茶税及び諸種の名目のない銭を合わせて徴収し、水害・旱害の備えとした。王紹は倉部に任ぜられると、詔に準じて主管し、戸部郎中・兵部郎中に遷っても、皆その事務を独りで司った。抜擢されて戸部侍郎に任じられ、まもなく度支を判った。二年後、戸部尚書に遷った。徳宗の御世は長く、機務は台司によらず、竇参・陸贄以後、宰相は備位に過ぎなかった。徳宗は王紹が謹厳で秘密を守るのを以て、恩遇は特に異なり、凡そ重い事務を主管すること八年、政事の大小、多くは彼に諮問して決した。王紹は決して漏洩せず、また誇示することもなかった。順宗が即位すると、王叔文が初めてその権を奪い、兵部尚書に任じ、まもなく検校吏部尚書・東都留守を除かれた。元和初年、検校尚書右僕射・徐州刺史・武寧軍節度使に遷り、さらに濠・泗二州を隷属させた。時に張愔の後を承け、兵は驕って治め難かったが、王紹は軍政を整え、人々は甚だ安んじた。六年、召されて兵部尚書に任じられ、兼ねて戸部事を判った。九年に卒し、七十二歳、左僕射を贈られ、諡して敬といった。

李巽

李巽は、字を令叔といい、趙郡の人である。若くして苦心して学問に励み、明経で補任されて華州参軍となり、抜萃科に及第して鄠県尉に任じられた。台省を歴任し、左司郎中から出て常州刺史となった。一年余りして、召されて給事中となり、出て湖南観察使となり、政治を行うのに鋭意であった。五年、江西観察使に改め、検校散騎常侍・兼御史大夫を加えられた。李巽は下を律するに法をもってし、吏は欺くことを敢えず、しかも行動は必ずこれを察した。順宗が即位すると、入朝して兵部侍郎となった。司徒杜佑が度支塩鉄転運使を判っていたが、李巽の才幹と治績を以て、副使に奏した。杜佑が重職を辞したので、李巽は遂に度支塩鉄使を専任した。専売の法は、難しく重いと称されたが、ただ大暦年間の僕射劉晏が特にその術を得て、税収は豊かで余裕があった。李巽が使を掌ること一年、徴税による収入は、劉晏の多い年と同類であり、翌年はそれを超え、また一年後には百八十万貫を加えた。旧制では、毎年江淮の米五十万斛を河陰まで運送することになっていたが、長くその数を満たさず、ただ李巽の三年間だけは達成した。兵部尚書に遷り、翌年吏部尚書に改め、使の任は元の通りであった。

李巽は吏職に精通していたが、これは天性のものであろう。私宅にいても、案牘簿書を置き、公署のように検査した。人吏に過失があれば、些細なことでも容赦せず、千里の外にいても、その恐れ慄く様は李巽の前にいるようであった。初め、程異が王叔文に附いて貶謫されたが、李巽はその吏才と明弁を知り、奏上して用いたので、憲宗はその請いを違えなかった。程異は簿籍を検査するのに、李巽よりもさらに精通し、故に課税の成績が増加したのは、程異の助力によるものでもあった。李巽が吏部尚書の時、臥病したが、郎官が相次いで見舞いに来ると、李巽は初め自分の病を言わず、彼らと考課を論じ、功利を商議し、その夕方に卒した。しかし性質は強情で狡猾悪辣、猜疑心と苛酷さが甚だしく、徳宗の怒りに乗じて、竇参を謀殺したので、世論はこれを冤罪とした。初め、竇参が宰相の時、李巽を快く思わず、左司郎中から出して常州刺史とし、なおその出発を促した。数ヶ月も経たぬうちに、竇参は郴州司馬に貶された。久しくして、李巽は給事中から湖南観察使となったが、郴州はその管轄郡であった。宣武軍節度使劉士寧は父の任を擅襲したので、世論は認めず、朝廷は已むなくこれを授けた。竇参が貶された時、劉士寧は絹数千匹を竇参に賄賂したことがあった。李巽は湖南でその事を詳しく奏上し、竇参が藩鎮と交通したと述べたので、徳宗は怒り、遂に竇参に死を賜い、議論する者はこれを冤罪とした。李巽が江西を廉察した時、喜怒の情に従い、無罪で殺戮された者が多かった。元和四年四月に卒し、時に七十一歳、尚書左僕射を贈られた。

史臣曰

史臣が言う。歴代、利権を操って国策を立てる者は、下を損なって上を益し、人を危うくして自ら安んじ、法を変えて権力を弄び、怨みを集めて禍いを構える、皆そういう者がいた。劉晏のように、滞りを通じさせ、才能を任用し、その国を富ませて民を労せず、家を倹約して衆に利する者は。或る人が問うた、鄭の子産は吏が欺くことができず、宓子賤は吏が欺くに忍びず、西門豹は吏が欺くことを敢えなかった。この三人は、古の賢人であり、吏は皆その欺くことができず、忍びず、敢えなかったのである。劉晏の吏は、遠近を問わず自ら欺かないのは何故か。答えて言う、その才能を任用して適材を得たからである。劉晏が没して後、旧吏が二十余年も財賦を継いで掌ったのは、まさにこれではなかったか。『史記』貨殖列伝に言う、「平糶して物を斉え、関市に乏しきことなきは、国を治むるの道なり」。劉晏が天下を治めて、甚だ貴い物も甚だ賤しい物もなく、広く治国を論ずる者は、どうして及ぶことができようか。顔真卿の才を挙げたのは忠であり、王縉の罪を減じたのは正であり、忠正の道が、再び人に現れた。嗚呼、林に秀でた木は、風必ずこれを摧く。常袞は前に忌まれ、楊炎は後に冤罪を蒙った。長く嘆息すべきである。時に口ある者を利で餌とすることを讒るが、もし讒言の口を塞がずして、どうして重権を保持できようか。即ちその才を展べ、その国を救うことはできない。これがその術であるならば、また何を讒ろうか。第五琦は急な事態に応じて速やかに処理し、民に賦税を加えずして国を豊饒にした。これもほぼ及ぶところである。しかし銭を鋳造し法を変えて、物価が高騰し身を危うくした。何と浅はかなことであろうか。凡そ国に利する者は、農商以外には為すべきではない。韓宏・李滂は権力を争って党派を立て、皆人を喜ばせる者ではない。王紹の謹密で事を幹ぶること、李巽の明察で精しく弁えることも、また十分に称えられる。

賛して言う。財を豊かにする忠良、劉晏の道が長じている。第五琦・韓宏・李滂・李巽、皆利によって顕われた。