卷一百二十四
薛嵩
嵩の子の平は、十二歳で磁州刺史となった。嵩が卒すると、軍吏は河北の故事を用いようとし、平を脅して留後の事務を執らせようとした。平は偽ってこれを許し、叔父の崿に譲り、一夕にして喪を以て帰った。喪が明けると、累授して右衛将軍となり、南衙に凡そ三十年いた。宰相の杜黄裳は深くこれを器とし、汝州刺史・兼御史中丞に推薦し、治績に能ある名があった。元和七年、淮西に用兵があり、左龍武大将軍より兼御史大夫・滑州刺史・鄭滑節度観察等使を授かり、累ねて戦功があった。滑州城は西は黄河に二里の距離があり、毎年常に水害となった。平は訪ね求めて古い河道を得、衛州黎陽県の境に接していた。平は魏博節度使田弘正と共に上聞し、古い河を南北十四里に開き、旧河を決して水勢を分かち、滑人は遂に水害がなくなった。鎮に居ること六年、入朝して左金吾大将軍となった。間もなく、再び鄭滑節度観察使となった。李師道を平定すると、朝廷は東平十二州を三道に分け、淄・青・齊・登・萊の五州を平盧軍とし、平を節度・観察等使とし、なお新羅・渤海両蕃使を押させた。
令狐彰
令狐彰は、京兆富平の人である。遠祖は燉煌より家を徙し、代々冠冕があった。父の濞は、天宝中に鄧州録事参軍に任じ、清白を以て聞こえ、本道采訪使の宋鼎が判官に引き立てた。初め范陽県尉に任じ、幽州人の女を通じて彰を生んだ。任期が満ちると、彰を母方に留め、彰は遂に范陽で成長した。倜儻として胆気があり、書伝に渉猟し、粗く文義を知り、弓矢に優れ、策名して従軍し、安禄山に仕えた。天福中、軍功により累遷して左衛員外郎将となった。
彰は職に在り、風化大いに行われた。滑州は瘡痍未だ復せず、城邑は墟と化していたが、彰は身を以て下を励まし、一志農戦に励み、内には軍戎を検し、外には黎庶を牧し、法令厳酷で、人は敢えて犯さなかった。数年の間に、田疇大いに開け、庫蔵充積し、歳ごとの王税及び貢献を修めることを、暫しも欠くことがなかった。時に犬戎が辺を犯し、兵を征して防秋した。彰は属吏を遣わして部統営伍を統率させ、滑より京の西郊に至る二千余里、甲士三千人、率ね自ら糧を賚ち、過ぐる州県では、路次供擬を皆譲って受けず、閭裏を経て秋毫も犯さず、識者はこれを称えた。然れども性識猜阻で、人に意に忤うことがあると、省察を加えず、直ちに斃踣に至らせた。これがその短所である。臨終に、手疏して辞表を書き、子を誡めて忠孝を以て節を守らせ、また能ある者を挙げて自ら代わらせた。表に曰く。
臣は陛下に事えてより、藩守を備えるを得て、恩を受くること則ち重く、節を效くる未だ終わらず、長く聖朝に辞し、痛み心骨に入る。臣誠に哀懇にして、頓首頓首す。臣は性を剛拙に受け、亦能く包含す。頃に魚朝恩が亳州を掠めんとすに因り、遂に臣と怨を結ぶ。其の暴を縱るに當り、臣敢えて朝に入らず、専ら天誅を聽き、即ち奔謁せんと欲す。及て魚朝恩死し、即ち臣疾苦に屬し、又家艱に遭い、力微く眼暗く、行動人を須い、拜舞能はず、數月闕有り。替を請ひ辭退せんと欲し、即日稍く瘳ゆるを望み、康強を得んことを冀ひ、榮えて朝覲に歸らんとす。冬末より舊疾益々重く、瘡腫又生じ、氣息奄奄として、遂に殞歿を期す。一朝の天闕に遂げず、一たび龍顏を拜せず、臣の禮終わらず、忠誠展ぶる莫く、臣の大罪、下は先代に慚じ、仰ぎて聖朝に愧づ。臣誠を竭くして上に事え、大節を立つるを誓ひ、天地神明、實に臣が心を知る。心行ひに遂げず、言發する自ら痛む。當に倉糧錢絹羊馬牛畜一切已上をして、並びに先づ部署有らしめんとす。三軍の兵士、州縣の官吏等、各舊職に恭しく、祗て聖恩を待たしむ。臣伏して吏部尚書劉晏及び工部尚書李勉を見るに、知識忠貞にして、大事を委するに堪へ、伏して願くは陛下速に檢校せしめ、上聖心に副はんことを。臣が男建等、性非爲るを爲さず、行亦道に近し。今東都の私第に歸らしめ、他年臣が爲に國に報ぜしめ、下幽魂を慰めしめん。臨歿昏亂、伏して表し哀咽す。
上表を覽て、嗟悼すること久し。特ち詔を下して褒美して曰く、
中に社稷を衛ひ、外に疆事を修め、一體に合して、以て庶邦を靖むるは、其の終り有るに在りて、之を不朽と謂ふ。前代の文武通賢を觀るに、時を匡ひ難を戡へ、大化に撻ちて、時君を忘れざる有り、未だ嘗て嘉尚して流嘆せざるは無し。今忠烈の臣彰有りて、剛直形外に顯れ、純和積中に在り、本づく所は孝敬に在り、輔ふ所は才略を以てし、藩閫を統制し、王家に勞を服す。往には母老に以て、躬ら就養に於けり。闕を戀はざらんや、茲に以て年を曠くす。及て苴麻艱に在り、優諭權奪し、踴絕して足を傷ひ、淚盡きて明を喪ひ、入覲の期、良願遂げず。其の風彩を想ひ、久しく顧懷に軫み、遽かに淪沒を見るに、用ひて深く追悼す。嗟乎、疾の時方に、情を以て自ら疏にし、隱す所有ること無く、之を詞に見る。復た節を守り常にし、條上して軍簿し、良帥を擇ばんことを請ひ、中朝に命ぜんとす。乃ち遺胤を令して、爰に東洛に歸らしめ、忠を教へて國に報ぜしめ、禮を約して喪に居らしむ。古人の所謂く生は利を交へず、死は其の子を屬せずとは、夫れ豈に遠からんや。節概誠亮、高絕して鄰無く、喟然として感傷し、鑒寐に增慟す。以て東州の士大夫の王に勤め主を尊ぶの志を見る有り、其の休を嘉するを用ひ、以て範を垂るべし。史館に宣付し、式に名臣を昭す。
子に建・運・通有り。
子 建
子 運
運は東都留守將と爲り、賊を逐ひて郊に出づ。其の日轉運の絹を道に於て劫る者有り。杜亞運を豪家の子と爲し、意ふ其れ之を爲すと。乃ち判官穆員及び從事張弘靖をして同く其の事を鞠めしむ。員と弘靖は皆運の職牙門に在りて、必ず盜を爲さずとし、抗ひて按ぜざることを請ふ。亞聽かずして、怒りて員等を斥逐し、親事將武金をして之を鞠めしむ。金運が從者十余人を笞箠し、一人笞死し、九人は考掠に勝へずして自ら誣ふ。竟に贓狀無し。亞具さに以て聞け、運を嶺表に流さんことを請ふ。德宗侍御史李元素・刑部員外崔從質・大理司直盧士瞻の三司をして運の獄を覆按せしむ。既に竟り、運の跡盜を行はざることを明らかにす。曾て人を家に捕掠せしを以て、歸州に配流す。武金肆虐して威を作し、人を教へて款を通ぜしめ、建州に配流す。後歲餘り、齊抗劫轉運絹賊郭鵠・硃瞿曇等七人及び贓絹を捕得す。詔して杜亞をして留臺と同く之を劾めしむ。皆首伏す。然れども終に運を原せず。運歸州に死す。衆之を冤とす。
子 通
通は、元和の中、宰相李吉甫奏して曰く、「臣伏して代宗朝滑州節度使令狐彰の臨終上表するを見るに、悉く土地兵甲を籍して朝廷に上り、諸子を遣はして表に隨ひ闕に歸らしむ。代宗彰の遺表を以て百僚に宣示す。當時位に在る者之を聞き、感嘆せざるは無し。今次子通在り。臣每に彰の河朔諸鎮と同く進みて、子に付し孫に傳ふるも、燻灼數代に及ばざるは無きに感ず。唯だ彰忠義感激し、國を奉じて家を忘れ、子を遣はして朝に入り、土地を以て先帝に歸す。貞元の中、長子建事に坐して施州に死し、幼子運亦罪無くして歸州に流る。忠義の人をして何れの所にか激勸せしめんと欲するや。今通幸ひに存し、明聖に遇ふを得たり。伏して乞ふ陛下之を召して語らしめ、用ふるに堪ふれば、望くは獎錄を垂れたまはんことを。」憲宗彰の忠を念ひ、即ち通に贊善大夫を授け、出して宿州刺史と爲す。時に淮・蔡を討つに、用ひて泗州刺史と爲す。歲中に壽州團練使・檢校御史中丞に改む。每に賊と戰ふに、必ず虜獲を虛張し、賊數人を得れば、即ち之を露布として上る。宰相武元衡笑ひて奏せず。如し敗衄有らば、即ち敢えて上聞せず。後賊に攻めらるるに及び、境上の城柵並びに陷り、通固州城に走り、壁を閉ぢて出でず。憲宗李文通を遣はして往き宣慰せしむ。其の將に至らんことを度り、遂に通に代へしめ、昭州司戶に貶し、撫州司馬に移す。十四年、征して右衛將軍と爲す。制下るに、給事中崔植制書を封還し、言ふ通前壽州を刺して律を失ひ、遽に獎任を加ふべからずと。憲宗宰相をして門下に宣喻せしめ、言ふ通の父國に功有り、宜しく其の子を逐棄すべからずと。制命方に行はる。歲餘り、出て淄州刺史と爲す。長慶初、入りて左衛大將軍と爲り、卒す。
田神功
弟の神玉は、曹州刺史より汴州留後を権めた。大暦十年正月、檢校兵部郎中、兼御史中丞を加えられ、汴州刺史となり、汴州節度觀察留後事並びに河陽・澤潞等の兵馬を管知し、直ちに淇門を拠り、李承昭と会して魏博の田承嗣を討った。十一年に卒し、詔して滑州の李勉に代わらせた。
侯希逸
李正己
納が少時、正己が将兵して秋を備えさせ、代宗が召見し、これを嘉し、奉禮郎より超えて殿中丞・兼侍御史に拝し、紫金魚袋を賜うた。歴て檢校倉部郎中、兼ねて父の兵を総べ、奏して淄州刺史に署す。正己が兵を将いて田承嗣を撃つに、奏して節度觀察留後に署す。まもなく青州刺史に遷り、また奏して行軍司馬に署し、兼曹州刺史・曹濮徐兗沂海留後とし、また御史大夫を加えた。
子の師古は累奏して青州刺史に至った。貞元八年、納が死ぬと、軍中では師古を以てその位に代え上請し、朝廷はこれに因り授けた。起復して右金吾大将軍同正・平盧及び青淄斉節度営田観察・海運陸運押新羅渤海両蕃使となった。成徳軍節度王武俊が師を率いて徳・棣二州に次ぎ、蛤𧊱及び三汊城を取らんとせんとした。棣州の塩池と蛤𧊱は歳に塩数十万斛を出し、棣州が淄青に隷するや、その刺史李長卿は城を以て朱滔に入り、而して蛤𧊱は納に拠られ、因って城してこれを戍り、以て塩利を専らにした。その後武俊は朱滔を敗った功を以て、徳・棣二州をこれに隷せしめ、蛤𧊱はなお納の戍るところとなった。納は初め德州の南に河を跨いで城してこれを守り、これを三汊と謂い、田緒に交わり以て魏博路を通じ、而して德州を侵掠し、武俊の患いとなった。及んで納が卒し、師古がこれを継ぐと、武俊はその年弱く初めて立ち、旧将多く死せるを以て、心頗るこれを易しとし、乃ち衆兵を率いて蛤𧊱・三汊を取るを名とし、その実は納の境を窺わんと欲した。師古は棣州の降将趙鎬にこれを拒ましめた。武俊はその子士清に兵を将いさせ先ず滴河に済わしめ、時に士清の営中に火起こり、軍驚き、これを悪み、進まず。徳宗は使いを遣わして旨を諭し、武俊は即ち罷めて還った。師古は三汊口の城を毀ち、詔旨に従った。師古は外には朝命を奉ずるも、而して嘗て侵軼の謀を畜え、亡命を招集し、必ず厚くこれを養い、朝に罪を得て逃げて師古に詣る者は、因って即ちこれを用いた。外に任使するある者は、皆その妻子を留め、或いは帰款して朝に就かんと謀り、事泄るれば、その家を族し、衆は死を畏れて敢えて異図せず。
十年、朝廷の軍が蔡州を討つと、師道は賊を遣わして河陰倉を焼き、建陵橋を断たせた。初め、師道は河南府に留邸を置き、兵士や間諜を雑然と往来させ、役人は敢えて取り調べなかった。呉元済が北進して汝州・鄭州を侵犯したのに乗じ、京郊は警報が多く、防禦兵はことごとく伊闕に駐屯していたので、師道はひそかに兵数十百人をその邸内に入れ、宮闕を焼き払い殺掠をほしいままにしようと謀った。すでに牛を煮て兵士にふるまったが、翌日出撃しようとしたとき、たまたま小将の楊進・李再興という者が留守の呂元膺のもとに赴き変事を告げたので、元膺は伊闕の兵を追い返して邸を包囲させたが、半日たっても進攻を敢えてしなかった。防禦判官の王茂元が一人を殺してから進むと、ある者はその塀を破って入った。賊の兵は突出して人を殺し、包囲兵は逃げ散ったので、賊は大通りで隊列を整え、妻子を袋の中に入れ、甲冑を着た兵を後衛として進み、防禦兵は追撃を敢えてしなかった。賊は長夏門を出て、郊外の別荘を転々と掠奪し、東へ伊水を渡り、嵩山に入った。元膺は国境の兵に命じて高額の賞金をかけて捕らえさせた。数か月後、山棚が市で鹿を売っていると、賊がこれに出会って奪ったので、山棚は逃げてその仲間を召集し、ある者は官軍を引き連れて谷の中で共に包囲し、ことごとく捕らえた。取り調べてその首謀者を得ると、それは中嶽寺の僧円静で、年八十余り、かつて史思明の将となり、たくましく勇猛で人に優っていた。初めに捕らえたとき、大力の者に槌を振るわせたが、その脛を折ることができなかった。円静は罵って言うには、「鼠どもめ、人の脚を折ることさえできないのに、敢えて健児と称するのか」と。そこで自ら足を置いて折らせた。刑に臨んで、言うには、「わが事を誤らせ、洛城を流血させることができなかった」と。死者は合わせて数十人に及んだ。留守の防禦将二人、都亭駅の卒五人、甘水駅の卒三人は、皆ひそかにその職位を受け、その耳目となっていたが、謀議の始めから敗れるまで、知る者はなかった。初め、師道は伊闕・陸渾の間に多くの田地を買い、合わせて十か所あり、山に住まわせて衣食を与えようとした。訾嘉珍・門察という者がおり、ひそかにこれを部署し、円静に属させ、師道の銭千万をもって嵩山の仏光寺を偽って修復し、嘉珍がひそかに挙兵するとき山中で烽火を上げ、二県の山棚の人を集めて乱を起こすことを期した。取り調べを尽くすと、嘉珍・門察は、すなわち武元衡を賊害した者であり、元膺は詳細な状況を記して上奏した。呉元済を誅した後、師道は恐れ、上表して朝廷の指示に従うことを請い、三州を割譲し長子を入朝させ宿衛につかせることを求めたので、詔はこれを許した。
師道は劉悟に兵を率いさせて魏博軍に当たらせたが、すでに敗れたので、たびたび急いで戦うよう命じた。軍が進まないので、奴を遣わして劉悟を召し計略を議させた。悟は自分を殺しに来ることを知り、病気と称して出ず、将吏を召して謀って言うには、「魏博の兵は強く、勝ちに乗じて出戦すれば、必ずわが軍を敗る。出なければ死ぬ。今天子が誅するのは、司空一人だけである。悟と公らは皆、死地に追いやられている。どうして禍を転じて福とし、その来使を殺し、兵を率いて鄆州に急行し、大功を立てて富貴を求めようか」と。皆が言うには、「善し」と。そこでその使者を迎えて斬り、師道の追牒を携え、兵を率いて鄆州に急行した。夜になって、城門に至り、師道の追牒を示して、ようやく入ることができた。兵士が続いて進み、球場に至り、内城を包囲し、火攻めにして、師道を捕らえてその首を斬り、魏博軍に送った。元和十四年二月である。その月、弘正がこれを京師に献上すると、天子は左右軍に命じて敵の左耳を献ずる儀礼のようにし、まず太廟・郊社に献じ、憲宗は興安門に臨んでこれを受け、百官が祝賀した。
初め、東軍諸道行営節度が逆賊の将夏侯澄ら合わせて四十七人を捕らえると、詔して言うには、「凶党に附し、王師に抵抗するは、国に常刑あり、ことごとく誅戮に合う。朕は、久しく汚れた風俗に居り、皆脅迫されて従ったものであり、況や討伐が始まって以来、時日は幾ばくもなく、たとえ禍を転ずる計らいがあっても、誠意を示す由縁がなかった。情状は哀れむべきであり、朕は殺すに忍びない。況や三軍の百姓、誰がわが民でないことがあろう。詔令を頒行し、罪は師道のみに止める。まさに塗炭から救い出そうとするので、その性命を生かす。誠に法を屈するが、恩を知らしめんがためである。皆特に釈放することを許し、なお魏博及び義成行営に送り返し、各々節度使に委ねて収容し駆使させよ。もし父母や血縁がなお賊中にいる者、あるいは老衰・疾病で帰還を切に願う者は、なお事情を量って優遇し放還させ、必ず互いに全うし許すようにせよ。何を疑い留め置くことがあろうか」と。澄らが行営に至ると、賊は偵察して伝え聞き、叛徒は皆朝廷の恩に感じ、これによって劉悟はその謀を実行することができた。
洧は、正己の従父兄である。正己は彼を用いて徐州刺史とした。正己が死ぬと、子の納が宋州を犯したので、洧はその州を以て帰順し、御史大夫を加えられ、潮陽郡王に封ぜられ、実封二百戸を食み、招諭使を充てられた。初め、洧は巡官を摂行する崔程を遣わして表を奉じて京師に至らせ、口頭で奏上し、併せて宰相に申し上げるよう命じた。「徐州は恐らく独りで賊を防ぐことはできず、もし徐・海・沂三州節度都団練使を得れば、必ずや功を立てましょう。況んや海・沂両州も、共に賊の納に占拠されており、国家の州県ではありません。その刺史の王涉・馬万通らは、洧は平素より彼らと約束しており、もし詔命があれば、必ず成功することを望みます。」程は突然外から朝廷に到着し、宰相は皆同じであると思い、先ずその言葉を張鎰に申し上げた。鎰が盧杞に言うと、杞は程が先に己に申し上げなかったことを怒り、故に洧の請うところは行われず、杞が公を妨げ私を害することは、皆この類いであった。李納が兵を遣わして徐州を攻めるに及んで、劉洽が諸将と共にこれを撃退したが、賊の勢いは未だ衰えず、始めて洧に徐・海・沂都団練観察使を加え、間もなく密州を加えた。当時、海州・密州は共に賊に占拠されており、洧の命を受けなかった。間もなく洧に検校戸部尚書を加えた。未だ幾ばくもせず、背中に疽が発し、稍々平癒したので、乃ち大いに糜餅を具え、市で僧に飯を施した。洧は平肩輿に乗って自らその場に臨んだところ、市人が歓呼したので、洧は驚き、背中の疽が潰れて卒した。左僕射を贈られた。
史臣が曰く、安禄山・史思明の乱離以来、河朔は割拠し、外こそ朝旨を尊ぶが、内には奸謀を蓄えている。薛嵩の祖父は国の名将であったが、身をもって賊廷に濡れ足し、既に国恩を浴びながら、尚お家法を存し、土を守り職を奉じて、終身一心であり、果たして令名ある人を得て、余慶を全うすることができた。彰は喪に服して礼に循い、士子の風があり、衆を馭するに権謀を以てし、将軍の業を著わした。中外に善政を施し、終始令名を保ち、成功に居らず、老いを告げて致仕した。これに比べる者は少ない。背逆して国に帰し、兵を治め民を牧し、上表して誠を推し、賢を挙げて己に代えさせた。時に善く始め善く終わる者と称された。建は遺訓を志し禀り、令名を全うしたが、功業を終わりまで保つことができなかった。惜しいことである。神功は忠勇にして、竟に勲名を著わし、希逸は荒狂にして、自ら茅土を失った。師道の祖父・兄弟は、青・鄆を盗み拠り、計を得れば潜かに凶逆を図り、勢いを失えば偽って朝旨を奉じ、向背は情に任せ、数十年に及んだ。或る人が問うて曰く、師古の前には、三帥あって滅びず、師道が継いで立つと、数年で亡んだのは、何故か。答えて曰く、納と師古は自ら奸謀を運らし、躬ら戎事に臨んだ。朝廷は盧杞を用い、私を以て公を妨げ、懐光が忠を変じて逆とするに至らしめた。李納父子は、その苟延たるに宜しい。憲宗が朝に当たり、裴度が相となると、君臣の道合い、中外の情通じ、師道は外は諸奴を任じ、内は群婢に聴き、軍民は携貳し、家族は滅亡した。亦た宜ならずや。仮息すること数年は、猶お多きと為す。何ぞ疑わんところあらんや。
賛して曰く、田神功は勇にして能く勲を立て、令狐彰は死して節を失わず。薛平は家世を振るい以て顕揚し、師道は臧獲を任ずれば則ち亡滅す。