旧唐書 薛嵩

旧唐書

すう

薛嵩は、絳州萬泉の人である。祖父の仁貴は、高宗朝の名将で、平陽郡公に封ぜられた。父の楚玉は、范陽・平盧節度使となった。嵩は若くして門蔭により、落拓として家産を営まず、膂力があり、騎射に優れ、書を読むことを知らなかった。天下に兵乱が起こって以来、自ら軍伍に身を投じ、逆徒に身を委ねた。広徳元年、東都が平定されると、時に皇太子が天下兵馬元帥となり、仆固懐恩を派遣して東に河朔を収めた。嵩は賊のために相州を守っていたが、賊の朝義の兵が潰え、王師が到着したと聞き、惶惑して懐恩の馬前に迎え拝した。懐恩はこれを釈放し、旧職を守らせた。時に懐恩は二心を萌していた。懐恩が河朔を平定して帰還すると、嵩及び田承嗣・張忠誌・李懐仙に河北道を分治させるよう奏上した。詔により、嵩を相州刺史とし、相・衛・洺・邢等州節度観察使を充て、承嗣は魏州を鎮め、忠誌は恒州を鎮め、懐仙は幽州を鎮め、各々数州の地を占拠した。時に多事の後であり、姑く人を安んじようとしたので、嵩に重い任を委ねたのである。嵩は恩を感じて職務に奉じ、数年の間に管内はほぼ治まり、累遷して検校右僕射となった。大暦八年正月に卒した。詔により弟の崿に留後を執らせ、崿に累加して太子少師とした。大暦十年正月丁酉、昭義軍兵馬使裴誌清が率いる兵を盗んで崿を逐い、衆を挙げて田承嗣に帰順して叛いた。崿は洺州に奔り、上表して入朝を乞うたので、許された。京に至り、素服で銀臺門に待罪したが、詔により釈放された。

嵩の子の平は、十二歳で磁州刺史となった。嵩が卒すると、軍吏は河北の故事を用いようとし、平を脅して留後の事務を執らせようとした。平は偽ってこれを許し、叔父の崿に譲り、一夕にして喪を以て帰った。喪が明けると、累授して右衛将軍となり、南衙に凡そ三十年いた。宰相の杜黄裳は深くこれを器とし、汝州刺史・兼御史中丞に推薦し、治績に能ある名があった。元和七年、淮西に用兵があり、左龍武大将軍より兼御史大夫・滑州刺史・鄭滑節度観察等使を授かり、累ねて戦功があった。滑州城は西は黄河に二里の距離があり、毎年常に水害となった。平は訪ね求めて古い河道を得、衛州黎陽県の境に接していた。平は魏博節度使田弘正と共に上聞し、古い河を南北十四里に開き、旧河を決して水勢を分かち、滑人は遂に水害がなくなった。鎮に居ること六年、入朝して左金吾大将軍となった。間もなく、再び鄭滑節度観察使となった。李師道を平定すると、朝廷は東平十二州を三道に分け、淄・青・齊・登・萊の五州を平盧軍とし、平を節度・観察等使とし、なお新羅・渤海両蕃使を押させた。

長慶元年、幽鎮が叛き、杜叔良が横海全軍を統率して討伐したが勝たず、王庭湊が牛元翼を深州に囲んだ。棣州は賊に窘迫され、朝廷は平に偏師を委ねて棣州を援けさせた。平は即ち将の李叔佐を遣わし、兵五百でこれを救った。数ヶ月経つと、刺史の王稷の饋給が稍々薄くなり、兵士は怨怒し、叔佐はこれを鎮めることができず、夜潰れて帰った。なお突将の馬狼児を推して帥とし、行って青城鎮に至り、鎮将の李自勧を劫い、その衆を併せた。次いで博昌鎮に至り、またその鎮兵を劫い、合わせて七千余人を得、径ちに青州城に逼った。城中の兵士は敵わず、平は府庫並びに家財を悉くして二千の精卒を募り、逆にこれを撃ち、なお先に騎兵を以てその家族輜重を掩った。賊衆は惶惑して顧み返し、大敗した。狼児とその同悪の十数輩は身を脱して竄匿し、余党は降り、稍々後れた者は鞠場で斬られた。明日、狼児もまた擒らえられて戮せられ、脅従者は放たれて田舎に帰った。詔により右僕射を加えられ、魏国公に進封され、これにより遠近は平の威略を畏伏した。

鎮に在ること六周年、兵甲は完利し、井賦は均一であった。ここに至り入覲すると、百姓は道を遮って留まることを乞い、数日にしてようやく出ることができた。時に人は、近時の節度使で、これに比するものは稀であると思った。宝暦元年、帰朝し、進めて検校左僕射・兼戸部尚書を加えられた。一ヶ月余りして、再び検校司空・兼河中絳隰節度観察等使となった。大和二年、再び晋州・慈州を河中に隷属させ、兵三千人を増やし、平に検校司徒を加えた。河中に在ること凡そ六年、召されて太子太拝となった。明年、上疏して老を乞い、司徒を以て致仕し、一年居て卒した。冊贈して太傅とした。嵩の族子の雄は、初め嵩の属吏となり、衛州の事を知った。嵩が歿すると、特詔により衛州刺史を授かった。魏博節度使の田承嗣が誘って乱を起こさせようとしたが、雄は従わず、承嗣は刺客を遣わして盗み殺させた。

令狐彰

令狐彰は、京兆富平の人である。遠祖は燉煌より家を徙し、代々冠冕があった。父の濞は、天宝中に鄧州録事参軍に任じ、清白を以て聞こえ、本道采訪使の宋鼎が判官に引き立てた。初め范陽県尉に任じ、幽州人の女を通じて彰を生んだ。任期が満ちると、彰を母方に留め、彰は遂に范陽で成長した。倜儻として胆気があり、書伝に渉猟し、粗く文義を知り、弓矢に優れ、策名して従軍し、安禄山に仕えた。天福中、軍功により累遷して左衛員外郎将となった。

安禄山が叛逆すると、本官のまま賊党の張通儒に随って京師に赴き、通儒は偽って城内左街使に署した。王師が二京を回復すると、通儒等に随って河朔に遁走し、また逆賊の史思明に陥り、偽って博州刺史及び滑州刺史に署され、数千の兵を統率して滑臺に戍らせられた。彰は忠義に感激し、名節を立てようと思い、潜かに帰順を謀った。時に中官の楊万定が滑州軍を監することとなり、彰は遂に勇士で水に善い者を募り、夜に河を渉らせ、万定に表奏を達し、管下の賊一将の兵馬及び州県を以て帰順することを請うた。万定はこれを聞かせた。禄山が逆を構えて以来、賊のために守る者で、州を挙げて教化に向かった者はなく、粛宗は彰の表を得て大いに悦び、賜書して慰労した。時に彰は杏園渡に移鎮し、遂に思明に疑われ、思明は親しい薛岌を遣わし精卒を統率して杏園を囲み攻撃した。彰は乃ち三軍に明示し、逆順を以て諭し、衆心は感附し、皆力を尽くして用いられた。賊兵と戦い、大いにこれを破り、囲みを潰して出で、遂に麾下の将士数百人を率いて万定に随い入朝した。粛宗は深くこれを褒め、礼甚だ優厚で、甲第一区・名馬数匹を賜い、並びに帷帳什器頗る盛んで、御史中丞を拝し、兼滑州刺史・滑毫魏博等六州節度とし、なお銀青光禄大夫を加え、滑州に鎮め、残寇を平らげることを委ねた。史朝義が滅ぶと、御史大夫に遷り、霍国公に封ぜられ、間もなく検校工部尚書を加えられた。未だ幾ばくもなく、検校右僕射とし、余は並びに元の如くであった。

彰は職に在り、風化大いに行われた。滑州は瘡痍未だ復せず、城邑は墟と化していたが、彰は身を以て下を励まし、一志農戦に励み、内には軍戎を検し、外には黎庶を牧し、法令厳酷で、人は敢えて犯さなかった。数年の間に、田疇大いに開け、庫蔵充積し、歳ごとの王税及び貢献を修めることを、暫しも欠くことがなかった。時に犬戎が辺を犯し、兵を征して防秋した。彰は属吏を遣わして部統営伍を統率させ、滑より京の西郊に至る二千余里、甲士三千人、率ね自ら糧を賚ち、過ぐる州県では、路次供擬を皆譲って受けず、閭裏を経て秋毫も犯さず、識者はこれを称えた。然れども性識猜阻で、人に意に忤うことがあると、省察を加えず、直ちに斃踣に至らせた。これがその短所である。臨終に、手疏して辞表を書き、子を誡めて忠孝を以て節を守らせ、また能ある者を挙げて自ら代わらせた。表に曰く。

臣は陛下に事えてより、藩守を備えるを得て、恩を受くること則ち重く、節を效くる未だ終わらず、長く聖朝に辞し、痛み心骨に入る。臣誠に哀懇にして、頓首頓首す。臣は性を剛拙に受け、亦能く包含す。頃に魚朝恩が亳州を掠めんとすに因り、遂に臣と怨を結ぶ。其の暴を縱るに當り、臣敢えて朝に入らず、専ら天誅を聽き、即ち奔謁せんと欲す。及て魚朝恩死し、即ち臣疾苦に屬し、又家艱に遭い、力微く眼暗く、行動人を須い、拜舞能はず、數月闕有り。替を請ひ辭退せんと欲し、即日稍く瘳ゆるを望み、康強を得んことを冀ひ、榮えて朝覲に歸らんとす。冬末より舊疾益々重く、瘡腫又生じ、氣息奄奄として、遂に殞歿を期す。一朝の天闕に遂げず、一たび龍顏を拜せず、臣の禮終わらず、忠誠展ぶる莫く、臣の大罪、下は先代に慚じ、仰ぎて聖朝に愧づ。臣誠を竭くして上に事え、大節を立つるを誓ひ、天地神明、實に臣が心を知る。心行ひに遂げず、言發する自ら痛む。當に倉糧錢絹羊馬牛畜一切已上をして、並びに先づ部署有らしめんとす。三軍の兵士、州縣の官吏等、各舊職に恭しく、祗て聖恩を待たしむ。臣伏して吏部尚書劉晏及び工部尚書李勉を見るに、知識忠貞にして、大事を委するに堪へ、伏して願くは陛下速に檢校せしめ、上聖心に副はんことを。臣が男建等、性非爲るを爲さず、行亦道に近し。今東都の私第に歸らしめ、他年臣が爲に國に報ぜしめ、下幽魂を慰めしめん。臨歿昏亂、伏して表し哀咽す。

上表を覽て、嗟悼すること久し。特ち詔を下して褒美して曰く、

中に社稷を衛ひ、外に疆事を修め、一體に合して、以て庶邦を靖むるは、其の終り有るに在りて、之を不朽と謂ふ。前代の文武通賢を觀るに、時を匡ひ難を戡へ、大化に撻ちて、時君を忘れざる有り、未だ嘗て嘉尚して流嘆せざるは無し。今忠烈の臣彰有りて、剛直形外に顯れ、純和積中に在り、本づく所は孝敬に在り、輔ふ所は才略を以てし、藩閫を統制し、王家に勞を服す。往には母老に以て、躬ら就養に於けり。闕を戀はざらんや、茲に以て年を曠くす。及て苴麻艱に在り、優諭權奪し、踴絕して足を傷ひ、淚盡きて明を喪ひ、入覲の期、良願遂げず。其の風彩を想ひ、久しく顧懷に軫み、遽かに淪沒を見るに、用ひて深く追悼す。嗟乎、疾の時方に、情を以て自ら疏にし、隱す所有ること無く、之を詞に見る。復た節を守り常にし、條上して軍簿し、良帥を擇ばんことを請ひ、中朝に命ぜんとす。乃ち遺胤を令して、爰に東洛に歸らしめ、忠を教へて國に報ぜしめ、禮を約して喪に居らしむ。古人の所謂く生は利を交へず、死は其の子を屬せずとは、夫れ豈に遠からんや。節概誠亮、高絕して鄰無く、喟然として感傷し、鑒寐に增慟す。以て東州の士大夫の王に勤め主を尊ぶの志を見る有り、其の休を嘉するを用ひ、以て範を垂るべし。史館に宣付し、式に名臣を昭す。

子に建・運・通有り。

子 建

建は、大曆四年十二月、彰遣はして朝に入らしめ、特ち兼御史中丞を加へ、滑州に歸らしむ。及て彰卒すに及び、滑の三軍情禮を逼奪せんとし、建死を守りて從はず、舉家京師に歸る。服闋し、累轉して右龍虎軍使に至る。德宗涇原の兵亂を以て、出て奉天に幸す。建方に軍中に射を教ふるに、遂に四百人を以て駕に隨ひ後殿と爲る。奏天に至り、建を行在中軍鼓角使と爲す。梁州に幸し、行在右廂兵馬使・右羽林大將軍・兼御史大夫に轉ず。興元元年六月、檢校左散騎常侍・行在都知兵馬使・左神武大將軍を加ふ。建の妻李氏は、恆帥寶臣の女なり。建惡み、將に之を棄てんとす。乃ち傭教生邢士倫と姦通すと誣ふ。建士倫を召して榜殺し、因りて其の妻を逐ふ。士倫の母聞き、痛みに勝へず、卒す。李氏按劾を奏請す。詔して三司をして之を詰めしむ。李氏及び奴婢の款證、誣へらるること頗る明白にして、建方に自首して伏す。建赦に會して坐を免る。德宗詔して曰く、「子黎元を育つるも、暴を禁むる能はず、予が責に在りて、用ひて懷に軫む。宜しく常膳五百千文を輟み、士倫母子の葬に充てしむべし。其の父既に衰耄、至りて歸する所無く、良く深く矜念す。京兆尹に委ね厚く存恤を加へしむ。」貞元四年七月、前官を以て右領軍大將軍と爲す。五年三月、專殺して不辜を以てす。德宗舊勛を念ひ、特ち之を容貸す。復た陳訴す。詞甚だ虛罔なり。遂に旋州別駕同正に貶し、貶所に卒す。貞元六年九月、右領軍大將軍を贈る。十年、揚州大都督を贈る。

子 運

運は東都留守將と爲り、賊を逐ひて郊に出づ。其の日轉運の絹を道に於て劫る者有り。杜亞運を豪家の子と爲し、意ふ其れ之を爲すと。乃ち判官穆員及び從事張弘靖をして同く其の事を鞠めしむ。員と弘靖は皆運の職牙門に在りて、必ず盜を爲さずとし、抗ひて按ぜざることを請ふ。亞聽かずして、怒りて員等を斥逐し、親事將武金をして之を鞠めしむ。金運が從者十余人を笞箠し、一人笞死し、九人は考掠に勝へずして自ら誣ふ。竟に贓狀無し。亞具さに以て聞け、運を嶺表に流さんことを請ふ。德宗侍御史李元素・刑部員外崔從質・大理司直盧士瞻の三司をして運の獄を覆按せしむ。既に竟り、運の跡盜を行はざることを明らかにす。曾て人を家に捕掠せしを以て、歸州に配流す。武金肆虐して威を作し、人を教へて款を通ぜしめ、建州に配流す。後歲餘り、齊抗劫轉運絹賊郭鵠・硃瞿曇等七人及び贓絹を捕得す。詔して杜亞をして留臺と同く之を劾めしむ。皆首伏す。然れども終に運を原せず。運歸州に死す。衆之を冤とす。

子 通

通は、元和の中、宰相李吉甫奏して曰く、「臣伏して代宗朝滑州節度使令狐彰の臨終上表するを見るに、悉く土地兵甲を籍して朝廷に上り、諸子を遣はして表に隨ひ闕に歸らしむ。代宗彰の遺表を以て百僚に宣示す。當時位に在る者之を聞き、感嘆せざるは無し。今次子通在り。臣每に彰の河朔諸鎮と同く進みて、子に付し孫に傳ふるも、燻灼數代に及ばざるは無きに感ず。唯だ彰忠義感激し、國を奉じて家を忘れ、子を遣はして朝に入り、土地を以て先帝に歸す。貞元の中、長子建事に坐して施州に死し、幼子運亦罪無くして歸州に流る。忠義の人をして何れの所にか激勸せしめんと欲するや。今通幸ひに存し、明聖に遇ふを得たり。伏して乞ふ陛下之を召して語らしめ、用ふるに堪ふれば、望くは獎錄を垂れたまはんことを。」憲宗彰の忠を念ひ、即ち通に贊善大夫を授け、出して宿州刺史と爲す。時に淮・蔡を討つに、用ひて泗州刺史と爲す。歲中に壽州團練使・檢校御史中丞に改む。每に賊と戰ふに、必ず虜獲を虛張し、賊數人を得れば、即ち之を露布として上る。宰相武元衡笑ひて奏せず。如し敗衄有らば、即ち敢えて上聞せず。後賊に攻めらるるに及び、境上の城柵並びに陷り、通固州城に走り、壁を閉ぢて出でず。憲宗李文通を遣はして往き宣慰せしむ。其の將に至らんことを度り、遂に通に代へしめ、昭州司戶に貶し、撫州司馬に移す。十四年、征して右衛將軍と爲す。制下るに、給事中崔植制書を封還し、言ふ通前壽州を刺して律を失ひ、遽に獎任を加ふべからずと。憲宗宰相をして門下に宣喻せしめ、言ふ通の父國に功有り、宜しく其の子を逐棄すべからずと。制命方に行はる。歲餘り、出て淄州刺史と爲す。長慶初、入りて左衛大將軍と爲り、卒す。

田神功

田神功は冀州の人である。家は元より微賤であった。天宝の末、県の裏胥となり、時に河朔に兵が興り、幽・薊に従事した。上元元年、平盧節度都知兵馬使、兼鴻臚卿となり、鄭州において賊四千余衆を破り、逆賊の大将四人を生擒し、牛馬器械は数えきれなかった。まもなく鄧景山に引きいれられ、揚州に至り、百姓商人の資産を大いに掠め、郡内の家々を発掘してほぼ遍く略奪し、商胡・波斯で殺された者は数千人に及んだ。二年二月、逆賊劉展を生擒し、闕下に送った。展を擒らえた功により、累遷して檢校工部尚書、兼御史大夫、汴宋等八州節度使となった。大暦三年三月、京師に朝し、馬十匹、金銀器五十件、繒彩一万匹を献じた。時に郭子儀が入朝し、宰臣等を私第に宴することを請うと、神功もその請いを効し、またこれを許された。まもなく檢校右僕射を加えられ、尚書省に赴いて視事し、特詔して宰臣以下百官に送らせ、さらに知省事を加えて寵遇された。神功は忠朴幹勇、当時に称された。八年冬、再び闕廷に覲し、疾に罹り、二宿して終わった。上は悼惜し、楽を徹し、朝を三日廃した。司徒を贈り、賻として絹一千匹、布五百端を賜う。特許して百官に喪を吊わせ、霊座に屏風茵褥を賜い、また千僧の斎を賜って追福せしめ、至徳以来、将帥で三事を兼ねざる者、哀栄は比類なかった。

弟の神玉は、曹州刺史より汴州留後を権めた。大暦十年正月、檢校兵部郎中、兼御史中丞を加えられ、汴州刺史となり、汴州節度觀察留後事並びに河陽・澤潞等の兵馬を管知し、直ちに淇門を拠り、李承昭と会して魏博の田承嗣を討った。十一年に卒し、詔して滑州の李勉に代わらせた。

侯希逸

侯希逸は平盧の人である。少より武芸を習った。天宝の末、安禄山が反し、その腹心の徐帰道を平盧節度に署した。希逸は時に平盧の裨将であり、兵を率いて安東都護の王玄誌とともに帰道を襲殺し、使者をして聞かせると、詔して玄誌を平盧節度使とした。乾元元年冬、玄誌が病卒すると、軍人が共に推し立てて希逸を平盧軍使とし、朝廷はこれにより節度使を授けた。既に数たび賊に迫られ、希逸は将士を率励し、累ねて賊徒の向潤客・李懷仙等を破った。既に歳月を淹び、かつ救援なく、また奚虜に侵されたため、希逸はその軍二万余人を抜き、行きつつ戦い、遂に青州に達した。田神功・能元皓と兗州で会し、青州は遂に希逸に陥ち、詔して就いて希逸に平盧・淄青節度使を加えた。これより今に至るまで、淄青節度は皆平盧の名を帯びている。

希逸が初めて淄青を領したとき、甚だ声稱が著しく、兵を治め農を務め、遠近これを美とした。宝応元年、諸節度とともに史朝義を討襲し、これを平らげ、檢校工部尚書を加えられ、実封を賜い、図形を淩煙閣にした。私艱により職を去った。大暦十一年九月、起復して檢校尚書右僕射・上柱國となり、淮陽郡王に封ぜられた。後漸く縱恣となり、政事怠惰で、特に釈教を崇奉し、かつ畋遊を好み、功を興して寺宇を創り、軍州これを苦しめた。永泰元年、巫者とともに城外に夜宿したため、軍士は門を閉じて入れず。希逸は朝廷に奔帰し、檢校右僕射に拝され、久しくして知省事を加えられ、司空に遷った。詔が出て卒し、朝を三日廃し、太保を贈られた。

李正己

李正己は高麗の人である。本名は懷玉、平盧に生まれた。乾元元年、平盧節度使王玄誌が卒すると、時に敕を以て使者を遣わし来たりて存問するがあり、懷玉は玄誌の子が節度となることを恐れ、遂にこれを殺し、軍人と共に推し立てて侯希逸を軍帥とした。希逸の母は即ち懷玉の姑である。後、希逸とともに青州に至り、累ねて折衝將軍に至り、驍健で勇力があった。宝応中、衆軍が史朝義を討ち、鄭州に至った。回紇はまさに強暴で恣横であり、諸節度は皆これに下ったが、正己は時に軍候であり、独り気をもってこれを呑まんと欲した。そこでこれと角逐し、衆軍は集まって観、約して曰く「後るる者はこれを批せ」と。既に逐いて先んじ、正己はその領を擒らえてその背を批つと、回紇は尿液ともに下り、衆軍は呼笑し、虜は慚じ、これにより暴を為さざるを得なかった。

節度使の侯希逸は即ちその外兄であり、用いて兵馬使とした。正己は沈毅で衆心を得、希逸は事に因ってその職を解いたが、軍中は皆その非罪を言い、廃すべからざるとした。時に軍人が希逸を逐い、希逸が奔走すると、遂に正己を帥に立て、朝廷はこれにより平盧淄青節度觀察使・海運押新羅渤海兩蕃使・檢校工部尚書・兼御史大夫・青州刺史を授け、今の名を賜った。まもなく檢校尚書右僕射を加えられ、饒陽郡王に封ぜられた。大暦十一年十月、檢校司空・同中書門下平章事となった。十三年、属籍に入ることを請い、従われた。政を為すに厳酷で、所在偶語を敢えてせず。初め淄・青・齊・海・登・萊・沂・蜜・德・棣等の州の地を有し、田承嗣・令狐彰・薛嵩・李寶臣・梁崇義と更に相影響した。大暦中、薛嵩が死に、及び李霊曜の乱に、諸道共にその地を攻め、得た者を己が邑とし、正己はまた曹・濮・徐・兗・鄆を得、合わせて十五州とし、内に同列を視て、貨市して渤海の名馬を求め、歳々絶えず。法令斉一で、賦税均軽、最も強大と称された。嘗て田承嗣を攻め、威は鄰辞に震うた。歴て檢校司空・左僕射・兼御史大夫、平章事・太子太保・司徒を加えられた。

後、青州より徙って鄆州に居し、子の納及び腹心の将にその地を分理させた。建中以後、朝廷を畏懼し、多く自ら安からず。汴州を築かんと聞き、乃ち兵を移して済陰に屯し、昼夜教習して備えとした。河南騒然とし、天下憂いとし、羽檄馳走し、兵を征して備えを益した。また徐州に兵を増し、以て江淮を扼し、ここにおいて運輸これがために改道した。未幾、疽を発して卒し、時に年四十九。子の納が擅に兵政を総べ、これを秘して数月、乃ち喪を発した。納は兵を阻み、興元元年四月、帰順し、方って正己に太尉を贈った。

納が少時、正己が将兵して秋を備えさせ、代宗が召見し、これを嘉し、奉禮郎より超えて殿中丞・兼侍御史に拝し、紫金魚袋を賜うた。歴て檢校倉部郎中、兼ねて父の兵を総べ、奏して淄州刺史に署す。正己が兵を将いて田承嗣を撃つに、奏して節度觀察留後に署す。まもなく青州刺史に遷り、また奏して行軍司馬に署し、兼曹州刺史・曹濮徐兗沂海留後とし、また御史大夫を加えた。

建中初年、李正己・田悦・梁崇義・張惟嶽が皆反した。二年、正己が卒し、李納は喪を秘して父の衆を統べ、なお乱を繰り返した。まもなく田悦と濮陽で会し、大将衛俊に兵一千を率いさせて悦を救わしめたが、河東節度使馬燧に洹水で敗れ、殺傷殆ど尽きた。詔して諸軍にこれを誅せしめ、納の従叔父李洧は徐州を以て、李士真は德州を以て、及び棣州の李長卿は皆州を以て帰順した。納は彭城の険厄を恃み、また洧の宗に背くを怒り、乃ち兵を悉くしてこれを囲んだ。詔して宣武軍節度劉洽に諸軍とこれを救わしめ、城下で納の兵を大破した。後に兵を濮陽に将いておると、洽はその城外を攻め破った。納は城上より洽を見て、涕泣して罪を悔い、判官房説を遣わしてその弟李経・男子成務を以て京師に朝せしめ、洽に因り従順せんことを請わしめた。時に中使宋鳳朝これを見て、納の計窮まるを謂い、これを誅破して己が功とせんと欲し、捨つることなからんことを奏請し、上は乃ち説等を械して禁中に繋いだ。納は遂に鄆州に帰り、再び李希烈・朱滔・王武俊・田悦と合謀して皆反し、偽りに斉王と称し、百官を建置した。及んで興元の罪己の詔が降ると、納は乃ち順に效し、詔して検校工部尚書・平盧軍節度・淄青等州観察使を加えられた。間もなく、検校右僕射・同中書門下平章事となった。時に希烈が陳州を囲むと、納は兵を遣わして諸軍と奮撃し、これを大破し、因って囲みを解かしめた。検校司空を加えられ、五百戸を封ぜられた。貞元初年、鄆州を大都督府に昇格し、長史に改めて授けられた。年三十四、位に薨じ、朝を三日廃し、贈賻差等あり。

子の師古は累奏して青州刺史に至った。貞元八年、納が死ぬと、軍中では師古を以てその位に代え上請し、朝廷はこれに因り授けた。起復して右金吾大将軍同正・平盧及び青淄斉節度営田観察・海運陸運押新羅渤海両蕃使となった。成徳軍節度王武俊が師を率いて徳・棣二州に次ぎ、蛤𧊱及び三汊城を取らんとせんとした。棣州の塩池と蛤𧊱は歳に塩数十万斛を出し、棣州が淄青に隷するや、その刺史李長卿は城を以て朱滔に入り、而して蛤𧊱は納に拠られ、因って城してこれを戍り、以て塩利を専らにした。その後武俊は朱滔を敗った功を以て、徳・棣二州をこれに隷せしめ、蛤𧊱はなお納の戍るところとなった。納は初め德州の南に河を跨いで城してこれを守り、これを三汊と謂い、田緒に交わり以て魏博路を通じ、而して德州を侵掠し、武俊の患いとなった。及んで納が卒し、師古がこれを継ぐと、武俊はその年弱く初めて立ち、旧将多く死せるを以て、心頗るこれを易しとし、乃ち衆兵を率いて蛤𧊱・三汊を取るを名とし、その実は納の境を窺わんと欲した。師古は棣州の降将趙鎬にこれを拒ましめた。武俊はその子士清に兵を将いさせ先ず滴河に済わしめ、時に士清の営中に火起こり、軍驚き、これを悪み、進まず。徳宗は使いを遣わして旨を諭し、武俊は即ち罷めて還った。師古は三汊口の城を毀ち、詔旨に従った。師古は外には朝命を奉ずるも、而して嘗て侵軼の謀を畜え、亡命を招集し、必ず厚くこれを養い、朝に罪を得て逃げて師古に詣る者は、因って即ちこれを用いた。外に任使するある者は、皆その妻子を留め、或いは帰款して朝に就かんと謀り、事泄るれば、その家を族し、衆は死を畏れて敢えて異図せず。

貞元十年五月、師古は服闋し、検校礼部尚書を加えられた。十二年正月、検校尚書右僕射となった。十一月、師古は母憂に丁し、起復して左金吾上将軍同正となった。十五年正月、師古・杜佑・李欒の妾媵並びに国夫人となった。十六年六月、淮南節度使杜佑と同制にて中書門下平章事を加えられた。及んで徳宗の遺詔が下り、告哀使未だ至らざるに、義成軍節度使李元素は師古と隣道なるを以て、遺詔を録して師古に報じ、以て外なきを示した。師古は遂に将士を集め、元素の使者を引いて謂いて曰く「師古近く邸吏の状を得て、具に聖躬の万福を承く。李元素豈に反せんと欲するや、乃ち忽ち偽りに遺詔を録して寄す。師古三代国恩を受け、位将相を兼ね、賊を見ては討たざるべからず」と。遂に元素の使者を杖ち、遽かに出でて後ち元素を討つを名とし、冀くは国喪に因りて州県を侵さんとす。俄かに順宗の即位を聞き、師古は乃ち兵を罷めた。後に累官して検校司徒・兼侍中に至った。卒して太傅を贈られた。

師道は師古の異母弟である。その母は張忠志の女。師道は時に密州の事を知り、師古が死ぬと、その奴は喪を発せず、潜かに使いをして師道を密州より迎えてこれを奉じた。朝命久しく未だ至らず、師道は将吏に謀り、或いは四境に兵を加えんと欲するも、その判官高沐固くこれを止めた。乃ち両税を進め、塩法を守り、官員を申し、判官崔承寵・孔目官林英を相継いで奏事せしめることを請うた。時に杜黄裳相と作り、その未だ定まらざるに乗じ、計を以てこれを分削せんと欲し、憲宗は蜀川方に擾るを以て、師道に兵を加うる能わず。元和元年七月、遂に建王審に遥かに節度を領せしめ、師道に検校左散騎常侍・兼御史大夫を授け、権知鄆州事とし、淄青節度留後を棄てしめた。十月、検校工部尚書を加えられ、兼鄆州大都督府長史、平盧軍及び淄青節度副大使を充て、節度事を知り、管内支度営田観察処置・陸運海運押新羅渤海両蕃等使を管した。李正己より師道に至るまで、窃かに鄆・曹等十二州を有すること六十年なり。衆の己に附かざるを懼れ、皆厳法を以てこれを制した。大将で兵を持ち外に鎮する者は、皆その妻子を質とし、或いは帰款して朝に就かんと謀り、事泄るれば、その家少長無く皆殺した。以て故にその衆を劫し、父子兄弟相伝えた。五年七月、検校尚書右僕射となった。

十年、朝廷の軍が蔡州を討つと、師道は賊を遣わして河陰倉を焼き、建陵橋を断たせた。初め、師道は河南府に留邸を置き、兵士や間諜を雑然と往来させ、役人は敢えて取り調べなかった。呉元済が北進して汝州・鄭州を侵犯したのに乗じ、京郊は警報が多く、防禦兵はことごとく伊闕に駐屯していたので、師道はひそかに兵数十百人をその邸内に入れ、宮闕を焼き払い殺掠をほしいままにしようと謀った。すでに牛を煮て兵士にふるまったが、翌日出撃しようとしたとき、たまたま小将の楊進・李再興という者が留守の呂元膺のもとに赴き変事を告げたので、元膺は伊闕の兵を追い返して邸を包囲させたが、半日たっても進攻を敢えてしなかった。防禦判官の王茂元が一人を殺してから進むと、ある者はその塀を破って入った。賊の兵は突出して人を殺し、包囲兵は逃げ散ったので、賊は大通りで隊列を整え、妻子を袋の中に入れ、甲冑を着た兵を後衛として進み、防禦兵は追撃を敢えてしなかった。賊は長夏門を出て、郊外の別荘を転々と掠奪し、東へ伊水を渡り、嵩山に入った。元膺は国境の兵に命じて高額の賞金をかけて捕らえさせた。数か月後、山棚が市で鹿を売っていると、賊がこれに出会って奪ったので、山棚は逃げてその仲間を召集し、ある者は官軍を引き連れて谷の中で共に包囲し、ことごとく捕らえた。取り調べてその首謀者を得ると、それは中嶽寺の僧円静で、年八十余り、かつて史思明の将となり、たくましく勇猛で人に優っていた。初めに捕らえたとき、大力の者に槌を振るわせたが、その脛を折ることができなかった。円静は罵って言うには、「鼠どもめ、人の脚を折ることさえできないのに、敢えて健児と称するのか」と。そこで自ら足を置いて折らせた。刑に臨んで、言うには、「わが事を誤らせ、洛城を流血させることができなかった」と。死者は合わせて数十人に及んだ。留守の防禦将二人、都亭駅の卒五人、甘水駅の卒三人は、皆ひそかにその職位を受け、その耳目となっていたが、謀議の始めから敗れるまで、知る者はなかった。初め、師道は伊闕・陸渾の間に多くの田地を買い、合わせて十か所あり、山に住まわせて衣食を与えようとした。訾嘉珍・門察という者がおり、ひそかにこれを部署し、円静に属させ、師道の銭千万をもって嵩山の仏光寺を偽って修復し、嘉珍がひそかに挙兵するとき山中で烽火を上げ、二県の山棚の人を集めて乱を起こすことを期した。取り調べを尽くすと、嘉珍・門察は、すなわち武元衡を賊害した者であり、元膺は詳細な状況を記して上奏した。呉元済を誅した後、師道は恐れ、上表して朝廷の指示に従うことを請い、三州を割譲し長子を入朝させ宿衛につかせることを求めたので、詔はこれを許した。

師道は見識が暗く、政事はすべて群婢が決めた。婢に蒲大姊・袁七娘と号する者がおり、謀議の主となり、言うには、「先の司徒(李正己)以来、この十二州があるのに、どうして一日も苦しみなくしてこれを割譲できようか。今、境内の兵士は数十万人おり、三州を献上しなくても、兵を出して攻めてくるだけであり、力戦することができる。戦に勝たなければ、その時に割地を議しても遅くはない」と。師道はこれに従って中止し、上表して軍情が和合しないと言ったので、詔して諸軍に討伐させた。十年十二月、武寧軍節度使李願が将の王智興を遣わして師道の兵九千を撃破し、二千余級を斬首し、牛馬四千を捕獲し、ついに平陰に至った。十一年十一月、師道に司空を加え、なお給事中柳公綽を遣わして慰撫し、かつその様子を観察させ、寛容に扱おうとした。師道はかりそめに恭順を装う言葉を用い、悪を長くして悔い改めなかった。十三年七月、滄州節度使鄭権が斉州福城県で淄青の賊を破り、五百余級を斬首した。十月、徐州節度使李愬・兵馬使李祐が兗州魚台県で賊三千余人を破った。魏博節度使田弘正が本軍を率いて陽劉から黄河を渡り、鄆州から九十里の地点に営を下ろし、再び戦って賊三万余人を破り、三千人を生け捕りにし、収めた兵器は数えきれなかった。陳許節度使李光顔が濮陽県界で賊を破り、鬥門城・杜莊柵を奪取した。田弘正がまた故東阿県界で賊五万を破った。諸軍が四方から合流し、累次城柵を陥落させた。

師道は劉悟に兵を率いさせて魏博軍に当たらせたが、すでに敗れたので、たびたび急いで戦うよう命じた。軍が進まないので、奴を遣わして劉悟を召し計略を議させた。悟は自分を殺しに来ることを知り、病気と称して出ず、将吏を召して謀って言うには、「魏博の兵は強く、勝ちに乗じて出戦すれば、必ずわが軍を敗る。出なければ死ぬ。今天子が誅するのは、司空一人だけである。悟と公らは皆、死地に追いやられている。どうして禍を転じて福とし、その来使を殺し、兵を率いて鄆州に急行し、大功を立てて富貴を求めようか」と。皆が言うには、「善し」と。そこでその使者を迎えて斬り、師道の追牒を携え、兵を率いて鄆州に急行した。夜になって、城門に至り、師道の追牒を示して、ようやく入ることができた。兵士が続いて進み、球場に至り、内城を包囲し、火攻めにして、師道を捕らえてその首を斬り、魏博軍に送った。元和十四年二月である。その月、弘正がこれを京師に献上すると、天子は左右軍に命じて敵の左耳を献ずる儀礼のようにし、まず太廟・郊社に献じ、憲宗は興安門に臨んでこれを受け、百官が祝賀した。

初め、東軍諸道行営節度が逆賊の将夏侯澄ら合わせて四十七人を捕らえると、詔して言うには、「凶党に附し、王師に抵抗するは、国に常刑あり、ことごとく誅戮に合う。朕は、久しく汚れた風俗に居り、皆脅迫されて従ったものであり、況や討伐が始まって以来、時日は幾ばくもなく、たとえ禍を転ずる計らいがあっても、誠意を示す由縁がなかった。情状は哀れむべきであり、朕は殺すに忍びない。況や三軍の百姓、誰がわが民でないことがあろう。詔令を頒行し、罪は師道のみに止める。まさに塗炭から救い出そうとするので、その性命を生かす。誠に法を屈するが、恩を知らしめんがためである。皆特に釈放することを許し、なお魏博及び義成行営に送り返し、各々節度使に委ねて収容し駆使させよ。もし父母や血縁がなお賊中にいる者、あるいは老衰・疾病で帰還を切に願う者は、なお事情を量って優遇し放還させ、必ず互いに全うし許すようにせよ。何を疑い留め置くことがあろうか」と。澄らが行営に至ると、賊は偵察して伝え聞き、叛徒は皆朝廷の恩に感じ、これによって劉悟はその謀を実行することができた。

師道の妻魏氏及び幼い男子はともに掖庭に配された。従弟の師賢・師智は春州に流罪とされ、甥の弘巽は雷州に流罪とされた。詔してその十二州を三つの節度に分け、馬総・薛平・王遂にそれぞれ鎮守させた。なお宰相の崔群に命じて碑を撰しその功績を記させた。国家は天宝末の安禄山が初めて両河で乱を起こして以来、宝応元年に王師が史朝義を平定するまで、その将の薛嵩・李懐仙・田承嗣・李宝臣らが偽の任命を受けて州郡を分領し、朝廷は兵事を厭い、仆固懐恩の請いに乗じて、そのまま官爵を加えた。侯希逸が軍人に追い出され、李正己がまた斉・魯の地を占拠すると、やがて互いに固く結びつき、婚姻で結びつき、職貢を納めず、法令を及ぼさず、常態となった。なお皆その子を副大使に任命し、父が死んで子が立つときは、三軍の請願として上奏し、また大将に殺されて自立する者もあった。安・史の乱以後、貞元に至るまで、朝廷は多く寛容に務め、たびたび世襲を聞くと、それによってこれを授けた。この故に六十余年、両河は反覆する風俗と称された。憲宗は人を知りよく任じ、乱の跡を削平し、両河は再び王土となった。師道の妻魏氏は、元和十五年出家して尼となった。

洧は、正己の従父兄である。正己は彼を用いて徐州刺史とした。正己が死ぬと、子の納が宋州を犯したので、洧はその州を以て帰順し、御史大夫を加えられ、潮陽郡王に封ぜられ、実封二百戸を食み、招諭使を充てられた。初め、洧は巡官を摂行する崔程を遣わして表を奉じて京師に至らせ、口頭で奏上し、併せて宰相に申し上げるよう命じた。「徐州は恐らく独りで賊を防ぐことはできず、もし徐・海・沂三州節度都団練使を得れば、必ずや功を立てましょう。況んや海・沂両州も、共に賊の納に占拠されており、国家の州県ではありません。その刺史の王涉・馬万通らは、洧は平素より彼らと約束しており、もし詔命があれば、必ず成功することを望みます。」程は突然外から朝廷に到着し、宰相は皆同じであると思い、先ずその言葉を張鎰に申し上げた。鎰が盧杞に言うと、杞は程が先に己に申し上げなかったことを怒り、故に洧の請うところは行われず、杞が公を妨げ私を害することは、皆この類いであった。李納が兵を遣わして徐州を攻めるに及んで、劉洽が諸将と共にこれを撃退したが、賊の勢いは未だ衰えず、始めて洧に徐・海・沂都団練観察使を加え、間もなく密州を加えた。当時、海州・密州は共に賊に占拠されており、洧の命を受けなかった。間もなく洧に検校戸部尚書を加えた。未だ幾ばくもせず、背中に疽が発し、稍々平癒したので、乃ち大いに糜餅を具え、市で僧に飯を施した。洧は平肩輿に乗って自らその場に臨んだところ、市人が歓呼したので、洧は驚き、背中の疽が潰れて卒した。左僕射を贈られた。

史臣が曰く、安禄山・史思明の乱離以来、河朔は割拠し、外こそ朝旨を尊ぶが、内には奸謀を蓄えている。薛嵩の祖父は国の名将であったが、身をもって賊廷に濡れ足し、既に国恩を浴びながら、尚お家法を存し、土を守り職を奉じて、終身一心であり、果たして令名ある人を得て、余慶を全うすることができた。彰は喪に服して礼に循い、士子の風があり、衆を馭するに権謀を以てし、将軍の業を著わした。中外に善政を施し、終始令名を保ち、成功に居らず、老いを告げて致仕した。これに比べる者は少ない。背逆して国に帰し、兵を治め民を牧し、上表して誠を推し、賢を挙げて己に代えさせた。時に善く始め善く終わる者と称された。建は遺訓を志し禀り、令名を全うしたが、功業を終わりまで保つことができなかった。惜しいことである。神功は忠勇にして、竟に勲名を著わし、希逸は荒狂にして、自ら茅土を失った。師道の祖父・兄弟は、青・鄆を盗み拠り、計を得れば潜かに凶逆を図り、勢いを失えば偽って朝旨を奉じ、向背は情に任せ、数十年に及んだ。或る人が問うて曰く、師古の前には、三帥あって滅びず、師道が継いで立つと、数年で亡んだのは、何故か。答えて曰く、納と師古は自ら奸謀を運らし、躬ら戎事に臨んだ。朝廷は盧杞を用い、私を以て公を妨げ、懐光が忠を変じて逆とするに至らしめた。李納父子は、その苟延たるに宜しい。憲宗が朝に当たり、裴度が相となると、君臣の道合い、中外の情通じ、師道は外は諸奴を任じ、内は群婢に聴き、軍民は携貳し、家族は滅亡した。亦た宜ならずや。仮息すること数年は、猶お多きと為す。何ぞ疑わんところあらんや。

賛して曰く、田神功は勇にして能く勲を立て、令狐彰は死して節を失わず。薛平は家世を振るい以て顕揚し、師道は臧獲を任ずれば則ち亡滅す。