旧唐書 仆固懐恩

旧唐書

仆固懐恩

仆固懐恩は、鉄勒部落の仆骨歌濫抜延の曾孫であり、語が訛って仆固と謂う。貞観二十年、鉄勒九姓の大首領がその部落を率いて来降し、瀚海・燕然・金微・幽陵等の九都督府を夏州に分置し、別に蕃州として辺境を防禦せしめ、歌濫抜延を右武衛大将軍・金微都督に授けた。抜延は乙李啜抜を生み、乙李啜抜は懐恩を生み、世襲して都督となった。天宝年中、左領軍大将軍同正員・特進を加えられた。節度使王忠嗣・安思順に歴事し、皆善く格闘し、諸蕃の情に達し、統御の材有りとして、心腹に委ねられた。安禄山の反するに及び、郭子儀に従って高秀巌を雲中に討ち、これを破り、また薛忠義を背度山下に敗り、賊七千騎を抗し、忠義の男を生擒し、馬邑郡を襲って下した。十五載、進軍して李光弼と合勢し、史思明と常山・趙郡・沙河・嘉山に戦い、皆大いにこれを破り、懐恩の功が多かった。

粛宗が霊武に即位すると、懐恩は郭子儀に従って行在所に赴いた。時に同羅部落が西京より賊に叛き、北に朔方を寇す。子儀と懐恩はこれを撃った。懐恩の子の玢が徒を領いて賊を撃つが、兵敗れて降り、尋いでまた自ら抜けて帰る。懐恩は叱してこれを斬った。将士は慴駭し、一も百に当たらざるはなく、遂に同羅千余騎を河上に破り、その器械・駱駝・馬を尽く収めた。粛宗は朔方の衆を仗するも、蕃兵を仮りて形勢を張らんとし、乃ち懐恩と燉煌王承寀を回紇に使わし、兵を請い好を結ばしめた。回紇可汗は遂に女を承寀に妻せしめ、兼ねて公主を請い、首領を遣わして懐恩に随い入朝せしめた。二年正月、また子儀に従って馮翊・河東の二郡を下す。偽将崔乾祐を走らせ、また潼関を襲って破った。賊将安守忠・李帰仁が京より衆を率いて来援し、苦戦二日、官軍敗績す。懐恩は渭水に退き、舟楫無く、馬を抱いて渡り、存する者は僅かに半ばなり、乃ち河東の子儀に奔り帰り、その余衆を整えた。四月、子儀が鳳翔に赴くに、李帰仁が勁卒五千を以てこれを三原の北に邀え撃つ。子儀窘急し、懐恩及び王升・陳回光・渾釈之・李国貞等の五将に命じ、伏兵を白渠留運橋に置いてこれを待たしむ。賊至りて伏発し、帰仁大いに敗れて走る。また子儀に従って清渠に戦い、利あらず、鳳翔に帰る。回紇の使葉護・帝得数千騎来りて国難に赴き、南蛮・大食の卒相継いで至る。粛宗は乃ち広平王を元帥と為し、子儀を副とし、懐恩に回紇兵を領せしめてこれに従わしめ澧水に至る。賊は伏兵を営の東に置く。懐恩は回紇を引きて馳せ殺し、匹馬帰らず、賊乃ち大いに潰えた。日暮れて、懐恩は王に謂う「賊必ず城を棄てて走らん。請う、二百騎を以てこれを追い、李帰仁・田乾真・安守忠・張通儒を縛り取らん」と。王曰く「将軍戦い亦疲れたり。且く休息し、明けて後にこれを図らん」と。懐恩曰く「帰仁・守忠は天下の驍賊なり。勝を聚めて敗るるは、これ天の我に与うるなり。奈何ぞこれを縦ちて取らざるや。若し衆を得せしめば、復た我が患いと為らん。悔ゆるも及ばず。夫れ戦いは尚速きを尚ぶ。何ぞ明日を為さんや」と。王固くこれを止め、営に還るを令す。懐恩また固く請い、往きて復た返り、一夕に四五度起つ。遅明けて諜至り、守忠等果たして逃ぐ。また王に従って賊を陝西の新店に大破し、両京を収む。皆殊功を立てたり。以前後の功を以て開府儀同三司・鴻臚卿同正員・同節度副使を加えられる。十二月、豊国公に封ぜられ、食実封二百戸。

乾元元年九月、九節度を遣わして安慶緒を相州に撃たしむ。郭子儀に従って朔方行営を領し、安太清を破り、懐・衛の二州を下し、相州を囲み、愁思崗に戦う。凡そ五月を経て、常に先鋒と為り、堅敵大陣は必ずその戦いを経て、勇三軍に冠たり。尋いで都知兵馬使を充てる。李光弼が子儀に代わるに及び、懐恩またこれを副う。乾元二年、大寧郡王に進封され、御史大夫・朔方行営節度に遷る。また李光弼に従って河陽を守り、周出を破り、徐璜玉・安太清を擒え、懐州を抜く。皆鋒を摧き敵を陷し、功諸将に冠たり。その男の瑒また開府儀同三司を以て将兵をその軍に従え、毎に虜陣に深入し、勇敢を以て聞こえ、軍中「闘将」と号す。

懐恩は人と為り雄毅にして寡言、応対舒緩なり。然れども剛決にして上を犯し、始め偏裨の中に居るも、意に合わざる有れば、主将と雖も必ず詬怒す。郭子儀は帥と為り、寛厚を以て衆を容れ、素より懐恩を重んず。その麾下は皆朔方の蕃漢勁卒にして、功を恃み将を怙り、多く法に不法なるも、子儀は毎事これを優容し、行師用兵、これを倚りて事を輯む。然るに光弼は法を持して厳肅、法は下を貸さず、懐恩心に憚りて頗る叶わず。上元二年、李光弼に従って史思明と邙山に戦い、利あらず。粛宗は懐恩の功高きを以て、恩顧特に諸将に異なり、冬に至り、工部尚書を加え、李輔国及び常参官に命じて送上せしめ、太官に食を造らしめてこれを寵す。

代宗が即位すると、隴右節度使に任ぜられたが、赴任せず、朔方行営節度使に改められ、郭子儀の副将となった。その秋、上は中官劉清潭をして回紇の登裏可汗に援軍を請わせたが、登裏はすでに史朝義に誘われて国を挙げて塞内に入り、その兵は十万と号し、関中は騒擾した。上は殿中監楽子昂をして塞上に馳せ往きてこれを労わらせ、忻州で出会った。これより先、粛宗は寧国公主を毗伽闕可汗に降嫁させ、毗伽闕可汗はまた少子のために請婚したので、粛宗は懐恩の娘をこれに娶せた。毗伽可汗が死ぬと、少子が代わって立ち、すなわち登裏可汗である。登裏が立つと、懐恩の娘を可敦とした。この時、可汗は懐恩および懐恩の母と会見することを請い、詔してこれに従わせた。懐恩は嫌疑を恐れて敢えず、上は鉄券を賜い、手詔をもってこれを遣わし、すなわちその母をして便ち発たしめた。懐恩は回紇可汗と太原で相見え、可汗は大いに悦び、遂に朝義討伐を助けることを許諾した。ここにおいて進兵し、太原・汾・晋を経て、陝州に営を張り期を待った。十月、詔して天下兵馬元帥雍王を中軍先鋒とし、懐恩を副将とし、同中書門下平章事を加え、河東・朔方節度行営および鎮西・回紇の兵馬を率いて陝州に赴かせ、併せて諸道の節度使に一時に斉しく進むことを命じた。懐恩は回紇の左殺と先鋒となり、観軍容使魚朝恩・陝州節度使郭英乂を後殿とし、澠池より入った。陳鄭節度使李抱玉は河陽より入った。河南副元帥・雍王は陝州に留まった。懐恩らの軍は黄水に至ると、賊徒数万は堅固な柵を築いて自らを固めた。懐恩は西原の上に陣し、広く旗幟を張ってこれに対し、驍騎および回紇の兵に命じて南山に沿って東北に出させ、両軍が旗を挙げて内応し、表裏からこれを撃ち、一鼓の下にこれを抜き、賊の死者は数万に及んだ。朝義は鉄騎十万を率いて来援し、昭覚寺に陣した。賊は皆決死の覚悟で戦い、短兵相接し、互いに殺すこと甚だ多かった。官軍が急にこれを撃つも、賊の陣は動かなかった。魚朝恩は射生五百人に下馬を命じ、弓弩を乱発させ、多く賊に命中して死なせたが、陣は依然として変わらなかった。鎮西節度使馬璘は「事急なり」と言い、遂に旗を取って進み、単騎で奔り撃ち、賊の二つの牌を奪い、万衆の中に突入し、左右は披靡し、大軍はこれに乗じて入り、朝義は大敗し、斬首一万六千級、生擒四千六百人、降る者三万二千人を得た。石榴園・老君廟で転戦し、賊党はまた敗れ、人馬は蹂躙され、尚書谷に満ち、朝義は軽騎で逃走した。懐恩は進んで東京および河陽城を収め、その府庫を封じ、偽中書令許叔冀・王伷らは制を承ってこれを釈放し、皆安堵させた。

懐恩は回紇可汗を河陽に留めて営を張らせ、その子右廂兵馬使瑒・北庭朔方兵馬使高輔成に歩軍一万余を率いさせて勝に乗じて敗走を追撃させた。懐恩は常に賊を圧して進み、鄭州に至り、再戦して皆勝利した。進んで汴州に至ると、偽節度使張献誠は門を開いて降った。また滑州を抜き、衛州で朝義を追撃して破った。偽睢陽節度使田承嗣・李進超・李達盧らの兵馬四万余はまた朝義と合流し、河を拠って抵抗した。瑒は連続して船で兵を渡し、登岸してこれを攻め、賊党は悉く奔り、長駆して昌県の東に至った。朝義は魏州の兵馬を率いて来戦したが、また敗走し、達盧は来降し、賊徒は震駭した。ここにおいて相州の偽節度使薛すうは相・衛州・洺・邢・趙を以て李抱玉・高輔成・尚文悊に降った。偽恆陽節度使李宝臣は深・恆・定・易の四州を以て河東節度使辛雲京に降った。朝義は貝州に至り、また偽大将薛忠義の両節度使と合流した。瑒は臨清に至り、賊の勢いの盛んなるを懼れ、軍を駐めて変を待った。朝義は衆三万を率い攻具を併せて来攻した。瑒は高彦崇・渾日進・李光逸らに命じて三つの伏兵を設けてこれを待ち、賊が半ば渡ったところで伏兵が発し、合撃してこれを走らせた。その時回紇がまた至り、官軍は益々振るい、瑒は甲を巻き馳せてこれを追い、下博県の東南で大戦した。賊は水を背にして陣し、大軍がこれを沖撃して崩し、積屍は流れを擁して下った。朝義はまた莫州に逃走した。ここにおいて河南副元帥都知兵馬使薛兼訓・兵馬使郝廷玉・兗鄆節度使辛雲京は下博で会師し、進軍して莫州城下に至った。朝義と田承嗣は頻りに出て挑戦したが、大敗して引き返し、陣中でその偽尚書敬栄を殺した。朝義は懼れ、自ら万余の衆を分けて帰義県に投じ、承嗣に城を守らせた。ここにおいて淄青節度使侯希逸が諸将に継いで共に攻守し、凡そ月余りに及んだ。瑒は高彦崇・侯希逸・薛兼訓らと衆三万を以て帰義県で朝義に追い及び、交鋒して賊は潰走した。時に幽州節度使李懐仙が降伏の意を送ってきたので、瑒はその境に兵を頓え、懐仙に分兵して追撃させた。二年三月、朝義は平州石城県の温泉柵に至り、窮迫して長林に走り入り自縊した。懐仙は妻弟徐有済にその首を伝えて献上させた。また田承嗣の軍を降し、河北は悉く平定され、懐恩は諸将と共に班師した。

これより先、去る冬、郭子儀は懐恩に河朔平定の功あるを以て、位を懐恩に譲り、遂に河北副元帥・尚書左僕射・兼中書令・霊州大都督府長史・単于鎮北大都護・朔方節度使を授け、なお実封四百戸を加え、前の分を通じて一千戸とした。春、また太子少師を加え、朔方都知兵馬使・同節度副大使を充て、実封五百戸を食み、庄宅各一所を与え、なお一子に五品官を与えた。高輔成は太子少傅・兼御史中丞とし、河北副元帥都知兵馬使を充て、実封三百戸を加え、なお一子に五品官を与えた。高彦崇は太子賓客とし、従前のまま朔方右廂兵馬使とし、実封二百戸、庄宅各々一所を賜い、一子に五品官を与えた。

かくて詔を下し、懐恩に可汗を統率させて蕃に還らせ、自らは相州の西郭口より潞州に趣き、回紇可汗と会し、太原の北より出でた。懐恩が初めて太原に至ると、辛雲京は可汗がその子婿であることを以て、彼が戎を召すことを疑い、関を閉じて報いず、かつ可汗の相襲うことを懼れ、敢えて軍を犒わず;帰還するに及んでも、またこれと同様であった。懐恩父子は王室のために力を尽くし、城を攻め野に戦い、従わざる役なく、一挙に史朝義を滅ぼし、燕・趙・韓・魏の地を回復し、自ら功の譲る所なきと為す。ここに至り、また雲京に拒まれるに及び、懐恩は怒り、上表してその状を列挙し、軍を汾州に頓した。時に中官駱奉先が雲京に使いしたが、雲京は懐恩が可汗と約を為し、逆状既に露わなりと言い、乃ち奉先と厚く結びて歓を交わした。奉先が戻って懐恩の所に至ると、その母はしばしば奉先を譲って曰く、「爾等は我が児と兄弟と約したのに、今また雲京に親しむとは、何たる両面ぞ? 然りと雖も、前事は論ずる勿れ、今より母子兄弟初めの如くせよ。」酒酣に及び、懐恩は舞を起こし、奉先は纏頭の彩を贈った。懐恩、将にその賜を酬いんとす、奉先は遽かに発を告げ、懐恩曰く、「明日は端午、宿を請うて令節と為さん。」奉先は固く辞し、懐恩は苦しくこれを邀い、その馬を蔵するを命ず。中夜、その従者に謂いて曰く、「向者吾を責め、また吾が馬を収む、是れ将に我を害せんとす。」奉先懼れ、遂に垣を逾えて走る。懐恩驚き、遽かにその馬を追い返すを令す。奉先使いして戻り、その反状を奏す。懐恩累ねて奏して雲京・奉先の誅を請う、上は雲京に功あるを以て、手詔してこれを和解せしむ、懐恩遂に我に貳す。七月に至り、元を改めて廣德と為し、勛を冊して太保を拝し、仍として一子に三品、一子に四品の官を並びに階し、仍として実封五百戸を加う。仆固瑒に一子五品官、実封一百戸を加う。仍として鉄券を賜い、名を太廟に蔵し、像を淩煙閣に画かしむ。尋いで瑒を御史大夫・朔方行営節度と為す。

懐恩は寇難已来、一門の内に王事に死する者四十六人、女は絶域に嫁ぎ、再び両京を収め、皆回紇を導引し、強敵を摧滅したるに、人の媒孽と為り、蕃性獷戾にして、怏怏として已まず。乃ち上書して自ら功伐を叙し、曰く、

広徳元年八月二十三日、開府儀同三司・尚書左僕射・兼中書令・朔方節度副大使・河北副元帥・上柱国・大寧郡王臣下懐恩、肝を刺し血を滴らし、謹んで頓首頓首して宝応聖文神武皇帝陛下に上書す。臣下の家はもと蕃夷にあり、代々辺塞に住み、祖父の代より早く国恩を浴びる。臣下は弱冠に至らぬ年より、すなわち上皇の駆策を蒙り、死生を出入し、疆場に力を尽くし、先帝の功に報いることを忝くし、時に特進を授けられる。禄山の乱を起こすに及び、王師を大いに振るい、臣下は累ねて偏裨を任じ、決死して靖難し、上は社稷を安んじ、下は生霊を拯わんとし、皇天の威神を仗り、狂胡の醜類を滅ぼす。思いがけず、思明継いで逆をなし、また東周を拠り、宸極安からず、海内沸騰す。臣下は大行皇帝の委任を謬って承け、兵権を授かり、国仇を誓って雪ぎ、時難を匡さんとす。闔門忠烈、皆身を殺さんことを願い、野戦攻城、皆士卒に先んず。兄弟は陣敵に死し、子侄は軍前に没し、九族の親、十に一を存せず、縱ひ在る者ありとも、瘡痍身に遍し。況や陛下潜龍の時、親しく師旅を統べ、臣下は麾下に事えて忝くし、陛下は臣下の愚誠を知る。大行皇帝宮館を捐てざる時、臣下は頻りに微効を立て、累ねて官賞を沾い、遂に輔国等の讒害に遭い、幾らか家を破らんとし、便ち兵権を奪われ、年を踰えて宿衛す。臣下は内省疚しきこと無しと雖も、終に讒佞の傾危を懼れ、日を継ぎ時を継ぎ、命は秋葉に懸かり、将に骨を泉壤に帰し、永く明時に謝せんとす。幸いに陛下の龍天衢に躍るに遇い、鴻業を継纘し、臣下の謗を負うを知り、臣下の丹心を察し、遂に独見の明を開き、衆多の口を杜絶し、特臣下を汧・隴に抜き、再び臣下を朔方に任ず。誠に遊魂骸を返し、枯骨再び肉と為らんことを謂い、臣下をして駑蹇の力を竭くし、錐刀の功を效せしめ、上は陛下再造の恩に答え、下は微臣犬馬の志を展ばさんとす。去年秋末、回紇義に伏して来たり、士庶知らず、悉く皆驚駭す。陛下は臣下と其の姻婭とを以て、太原に至り祗迎せしめ、一切の事宜、臣下に逐便処置を許す。遂に可汗と計議し、道を分かちて兵を用い、洛陽を克復し、幽・薊を平蕩す。惟だ神策兵馬のみ、軍を頓して独り陳留に住す。可汗時に洛陽に在り、即ち朝恩の猜阻に被り、流議を要と為し、已に蕃情を失う。臣下自ら賊を平げて却回し、天恩また餞送を令す。臣下は遂に家産を罄竭し、国の為に周旋し、外蕃を発遣し、貴く上道を図らんとす。行きて山北に至り、奉先・雲京に共生の異見を被り、妄りに加諸を為し、城を閉じて出で祗迎せず、仍ひ潜行窃盗を令す。蕃夷怨怒し、早く相仇せんと欲し、臣下は遂に彌縫し、方に界を出づるを得たり。其の祖餞事了るに及び、回りて太原に至る。臣下は鼎司に忝く跡し、又重寄を承く。奉先・雲京曾て礼数無く、関を閉じて出で相看ず。臣下は遂に汾州を過ぎ、士馬を休息し、凡そ数日を経、一介の知聞を遣わさず。自ら行事乗疏を以て、臣下の先に論奏有らんことを恐れ、遂に乃ち其の謗黷を構え、妄りに異端を起こし、軍城を扇動し、以て設備と為す。又臣下潞府より過ぐる日、抱玉の回紇を祗迎するを見る。庶事心を用い、懇に家資公用に罄ると称し、又臣下に馬兼銀器四事を与う。臣下は回紇の処に絹を得て、便ち抱玉に二千匹を与えて以て答贈に充つ。今抱玉に共相組織せられ、此の往来の貺を将て、便ち結托の私と為し、貴く厚誣に在り、務め相傾奪せんとす。陛下明察を垂れず、流言を采聽し、忠直の臣をして枉く讒邪の党に陷らしめんと欲す。臣下は実に天地を欺かず、神明に負かず、夙夜三思す、臣下の罪六つ有り。往年同羅背叛し、河曲騒然たり。数軍を経略し、兵囲解けず。臣下は老母を顧みず、走りて霊州に投ず。先帝は臣下の忠誠を嘉し、遂に兵を遣わして叛を討たしめ、河曲清泰を得せしめ、賊徒奔亡す。是れ臣下の国に忠ならざる、其の罪一なり。臣下の男玢嘗て同羅に虜将せられ、蓋し亦制己に由らず、旋って逆を棄て順に帰し、却りて来たり臣下に投ず。臣下は之を斬りて以て士衆を令す。且つ臣下は骨肉の重きを愛せずして、忠義の誠に殉ず。是れ臣下の国に忠ならざる、其の罪二なり。臣下に二女有り、俱に遠蕃に聘せられ、国の為に和親し、合従して難を討ち、致して賊徒殄滅せしむ。寰宇清平す。是れ臣下の国に忠ならざる、其の罪三なり。臣下及び男瑒、危亡を顧みず、身先ず行陣し、父子命を效し、志は邦家を寧んぜんとす。是れ臣下の国に忠ならざる、其の罪四なり。陛下は臣下に副元帥の権を委ね、臣下をして河北を指麾せしむ。其の新附の節度使、皆強兵を握る。臣下の撫綏、悉く反側を安んじ、州県既に定まり、賦税時を以てす。是れ臣下の国に忠ならざる、其の罪五なり。臣下は回紇を葉和し、凶徒を戡定し、天下削平し、蕃夷国に帰し、之をして永く鄰好と為らしむ。義は急難に著しく、万姓安寧し、干戈止息し、二聖の山陵事畢り、陛下忠孝両全す。是れ臣下の国に忠ならざる、其の罪六なり。臣下は既に六罪を負う、誠に万誅に合す。頸を轅門に延べて、以て斧鑕を待つ。此を過ぎ以往、更に他違無し。陛下若し此を以て臣下を誅せば、何ぞ伍子胥の呉を存するに異ならん、卒に屍を江上に浮かべ、大夫種の越を覇するに、終に剣を稽山に賜わる。唯だ恨みを九泉に吞み、冤を千古に銜むべく、復た何をか訴えん!復た何をか訴えん!且つ葵藿尚ほ陽を仰ぐことを解し、犬馬猶ほ主を恋うる能くす。臣下は恩に忝く至り重く、委任軽からず。夙夜天顔を奉ぜんと思い、豈に暫くも心魏闕を離れんや。誠に忠を以て罪を獲んことを恐れ、亀鏡遙かならず。頃者来瑱誅せられ、朝廷其の罪を示さず、天下の忠義、此より生じて疑う。況や来瑱の功業素より高く、人の忌む所多し。聖衷の独断を審らかにせず、復た奸臣の権を弄するを為さんや?臣下は朝に入らんと欲すれども、斯の禍に罹らんことを恐る。諸道の節度使皆懼る、臣下独り敢えて然るに非ず。近く詔を追いて数人を聞く、並びに皆至らず。実に中官の讒口を畏れ、又陛下の損傷を懼る。豈に唯だ是れ臣下の忠ならざるのみならん、只だ回邪側に在るが為なり。且つ臣下前後駱奉先の詞情を奏する所、実を摭はざるに非ず。陛下竟に処置無く、寵用彌深し。皆類を同じくして相従うに由り、致して聖聡を蒙蔽せしむ。人皆死を懼る、誰か復た敢えて言わん!臣下の義君臣に切に、志は社稷を憂う。若し極諫無くば、聖朝に負う有り。敢えて愚忠を肆にして、以て鼎鑊を幹かん。況ん今西に犬戎背乱有り、東に呉・越庭にせず、均・房群盗縦横し、鄜・坊稽胡草擾す。陛下外禦を思わずして、乃ち内に忠良を忌む。何を以てか車書を混一し、而して梯航贐を納れしめん?天下至って大なり、豈に暫くも軽くすべけんや。伏して承るに四方敷奏の人、引対の時、陛下皆云く驃騎と商量すと、曾て宰臣の可否を委ねず。或いは稽留すること数月、放ちて帰還せず。遠近の心、転た疑阻を加う。且つ臣下の朔方の将士、功效最高し。先帝中興の主人と為り、是れ陛下蒙塵の故吏、曾て別に優獎を加えず、却って嫉妒の謗詞を信ず。子儀先に已に猜され、臣下今又毀黷に遭う。弓蔵れ鳥尽き、兔死して犬烹らる。臣下昔は非と謂えども、今方に実を知る。且つ臣下軍を汾上に息め、關鍵大いに開く。馬を収め羊を放ち、曾て守備無く、兵を数郡に分かち、貴く般糧を免れ、農桑を勧課し、務めて黎庶を安んず。何の状跡か有りて、而して異端に渉らん。陛下必ず矯詞を信ぜば、何ぞ鹿を指して馬と為すに殊ならん?陛下倘し邪佞を斥逐し、忠良に親附し、狐疑を蠲削し、政化を敷陳し、君臣二無く、天下心に帰せしめば、則ち辺を窺うの戎、患いと為すに足らず、命を梗むるの寇、将に復た何をか憂えん、武を偃げ文を修むる、其の則ち遠からず。陛下若し愚懇を納れず、且つ因循を貴ばば、臣下は実に家を保つことを敢えず、陛下豈に国を安んずることを能くせん!忠言は行いに利し、良薬は病を愈す。伏して惟うに陛下之を図らんことを。臣下今戎事已に安んじ、糧儲且つ継がんとす。深く願わくは一たび闕下に至り、心肝を披露し、再び聖顔を睹、万死恨み無からんことを。臣下は公然進発せんと欲すれども、慮うらくは将士留連せんことを恐る。臣下は今便ち晋・絳等州を巡ると托け、彼に於いて遷延し且つ住まん。謹んで押衙開府儀同三司・試太常卿張休臧を遣わし、先ず書を進め兼ねて口奏事す。伏して惟うに陛下臣下此の書を覧め、臣下の誠懇を知り、特に聖断を垂れ、近臣を議せず、臣下を初めの如く待ち、浮謗入らず、臣下当に王命に死節し、誓って国恩に酬いんことを。仍ひ請う一介の専使を遣わして絳州に至り臣下を問わしめんことを。臣下は即ち便ち之と同行し、冀わくは蹈舞軒陛を獲んことを。鄙臣の愚慮、死亡を顧みず、軽く天威に触れ、戦汗地無し。

九月、帝は回紇が近くの塞に迫り、また懐恩が辛雲京と不和であることを以て、その悔過を望み、誠心を以てこれに接しようとした。その信じないことを恐れ、詔して黄門侍郎裴遵慶を召し、汾州に使いして旨を諭させ、かつその去就を察させた。遵慶が到るや、懐恩はその足を抱き号泣して訴え、遵慶は聖恩の優厚なるを宣べ、入朝を勧めたので、懐恩は承諾した。副将范志誠がこれを説いて曰く、「公は讒言によって交わりを構えられ、功高くして賞せられざるを懼れ、嫌隙すでに成る。いかんぞ測り難き朝に入らんや。公は来瑱・李光弼の事を見ざるか。功成りて容れられず、二臣は走って誅せられた」と。懐恩はこれを然りとした。翌日、また懼死を以て辞とし、一子を入朝せしめることを許すと、志誠はまた不可とした。遵慶は復命した。御史大夫王翊が回紇より使いして還るや、懐恩は可汗と往来することを恐れ、その事の泄れるを止めた。そこで子の瑒に命じて衆を率い雲京を攻めさせた。雲京は出戦し、瑒は大敗して引き返し、進んで榆次を囲んだので、朝廷はこれを憂えた。先に、尚書右丞顔真卿が詔を奉じて懐恩に赴くことを請うたので、帝は真卿を刑部尚書・兼御史大夫として往き宣慰させようとした。真卿曰く、「臣が往きて行くを請うたのは、その時なり。今方に命を受けしも、事益あること無からん」と。帝がその故を問うと、対えて曰く、「懐恩が兵を阻むは、その反側明らかなり。頃に陛下が狄を避けて陝郊に在りし時、臣は方に『春秋』の義を以て責め、寡君が郊に塵を蒙る、敢えて官守を問わざらんやと云えり。当の時は、懐恩来朝して賊を討つを助けば、その辞順なり。今陛下は犬戎を攘い去り、すなわち京邑に宮す。懐恩進んでは王を勤めず、退いては衆を釈かず、その辞曲なり。必ず来らざるべし。かつ懐恩の反するを明らかにする者は、独り辛雲京・李抱玉・駱奉先・魚朝恩の四人のみ。外の朝臣は、皆その枉れるを言う。然れども懐恩の将士は、皆子儀の部曲なり。恩信その心を結ぶ。陛下何ぞ子儀を以てこれに代え、逆順禍福を諭さざる。必ず相率いて帰らん」と。帝はこれに従った。子儀が河中に至ると、仆固瑒はすでに朔方兵馬使張惟嶽ら四人にその首を斬られ、闕下に献ぜられた。懐恩これを聞き、麾下数百騎を率い、その母を棄て、河を渡り北に走って霊武に至った。余衆は子儀の到るを聞き、甲を束ねて来奔し、帰する者数万。懐恩は霊武に至り、亡命を嘯聚し、その衆また振るった。帝はその勲旧を思い、功臣を罪せんと欲せず、その家を厚く撫したが、懐恩は終に従わなかった。その母は月余りにして竟に寿終した。また遥かに太師・兼中書令・大寧王を授け、余は並びに停めた。

この秋、郷導となり、吐蕃十万を誘って涇・邠州に寇し、来瑱の墓を祭り、自ら序して「俱に放逐に遭う」と云う。奉天・醴泉を寇し、郭子儀がこれを拒んで退けた。永泰元年、帝は天下の兵を徴してこれを防がせた。懐恩はまた諸蕃を糾合し、衆号二十万、南に京師を犯さんとし、吐蕃の衆を遣わし北道より先ず醴泉・奉天を寇せしめ、任敷・鄭庭・郝徳をして東道より奉先・同州を寇せしめ、羌・渾・奴剌の衆をして西道より盩厔うちつ・鳳翔を寇せしめた。朝廷大いに駭き、詔して郭子儀を遣わし涇陽に屯せしめ、渾日進・白元光を奉天に、李光時進を雲陽に、馬璘・郝廷玉を中渭橋に、董秦を東渭橋に、駱奉先・李日越を盩厔に、李抱玉を鳳翔に、周智光・杜冕を同州に屯せしめた。帝みずから六軍を率い、魚朝恩を苑中に屯せしめ、詔を下して親征した。懐恩は回紇及び朔方の衆を領いて進み、鳴沙県に行き至り、疾に遇い舁られて帰った。九月九日、霊武にて死す。部曲は郷法にて焚きて葬った。張韶が代わってその衆を領したが、徐璜玉に殺され、璜玉がその衆を領したが、また范志誠に殺され、志誠がその衆を領した。回紇は進んで涇陽を寇したが、諸軍は堅壁して戦わず。吐蕃は二十余日相持し、また懐恩の死を聞き、回紇と長を争い、自ら疑貳し、敢えて先に進まず、遂に大いに居人を掠め、舎宇を焼き、男女数万を駆り去り、過ぐる所禾穀を践みて殆ど尽きたり。回紇はすなわち子儀に詣でて降り、吐蕃を撃って以て自ら効せんことを請うた。子儀は兵を分けてこれに随い、涇州界にて吐蕃を大破した。任敷はまた敗走し、羌・渾は多く李抱玉に降った。

懐恩は命に逆らい三年、再び順を犯し、諸蕃の衆を連ね、国の大患となり、士は甲を解かず、糧は尽きて軍に饋す。適幸いに天亡す。しかるに上はその悪を隠し、前後制を下すも、未だその反を言わず。懐恩の死するに及び、群臣以て聞く。上はこれがために憫然として黙し、「懐恩は反せず、左右に誤らる」と曰う。その寛仁かくの如し。閏十月、懐恩の甥名臣、千余騎を領いて来降す。

梁崇義

梁崇義は長安の人。升斗を以て市に役を給し、膂力有り、金を巻き鉤を舒ぶことを能くす。後に羽林射生となり、来瑱に従って襄陽に在り。沈黙寡言、衆これを悦び、累遷して偏裨となる。瑱が京師に朝するや、諸将を分かち遣わし福昌・南陽を戍らしむ。来瑱誅せられ、戍者は皆潰れて帰る。崇義は時に南陽に在り、帰師を統べて径ちに襄州に入り、同列の李昭・薛南陽と相譲って長たらんとし、決せず。諸将請うて曰く、「兵は梁卿これを主とせざれば不可なり」と。遂に崇義を推して帥とす。宝応二年三月、崇義は昭と南陽を殺し、以て衆心を脅かす。朝廷はこれに因りその節度を授く。襄州は薦ねて兵禍を履むを以て、法を屈し含容し、姑く人の息むを務む。歴て御史中丞・大夫・尚書となる。遂に田承嗣・李正己・薛嵩・李宝臣と輔車の勢を為し、襄・漢七州の地を奄有し、帯甲二万、連結根固く、未だ朝覲せず。然れども群凶の中、地最も褊く、兵最も少なく、法令最も理あり、礼貌最も恭し。その地は東南の衝に跨り、数たび王命の宣洽する所なるを以て、故にその人化を知る。親しくする者嘗てその来朝を勧む。崇義曰く、「吾が本帥来公は大勛庸有り。上元中に閹豎の讒讟を以て、逡巡して召に稽り、代宗の嗣位するに及び、駕を俟たずして行き、旋って誅族を見る。今吾は釁盈ちて事久し。之を如何にして上に見えん」と。

建中元年、淮西節度使李希烈数たび師を興して崇義を討たんことを請う。崇義懼れ、軍旅の事を加えて厳にす。流人郭昔その変を為すを告ぐ。崇義これを聞き、昔を請い罪し、坐して決杖配流せしむ。命じて金部員外郎李舟に旨を諭させてこれを安んぜしむ。初め、劉文喜難を作す。舟嘗てその城に入り利害を説く。文喜これを拘う。会に帳下文喜を殺して降る。四方の反側する者これを聞き、舟必ず能く軍を覆し将を殺すと謂い、是を以て皆悪む。舟の至るに及び、またその入覲を勧め、言頗る切直なり。崇義ますます悦ばず。二年春、五使を発して諸道に宣諭す。而して舟また荊・襄に如く。崇義変有るを慮り、境を拒んで納れず、上言して「軍中疑懼す、他の使を換え請う」と。これにより益々安からず、凶謀日深し。賓僚或いは忠言を以て沮勸するも、多く傷害に遭う。

時に群凶は自ら疑阻し、朝廷は大信を仗して、来たりて之を安んじ、以て天下に示さんと欲す。仍て崇義に同平章事を加え、其の妻子悉く封賞を加え、且つ鉄券を賜ひて之に誓ひ、兼ねて其の裨将藺杲を鄧州刺史に授け、御史張著を遣はして手詔を齎し之を征す。崇義益々恐怖し、持満して命を受からしむ。藺杲詔書を奉ずるも、又敢て発せず、馳せて崇義に詣り命を請ふ。崇義益々疑懼し、著に対し号哭し、詔を受けず。是に由りて四方の兵を征し、希烈をして統撃せしむ。崇義乃ち兵を発して江陵を攻め、以て黔・嶺を通じ、四望に及び、大敗して帰り、遂に襄・鄧に屯す。希烈先づ千余人を発して臨漢を守らしむ。崇義之を屠り、遺噍無し。既にして希烈大軍を統べて漢に縁りて上る。崇義将翟暉・杜少誠をして蛮水に迎戦せしむ。希烈大いに之を破る。復た涑口に合し、又之を破る。二将降を求め、希烈之を受け、本兵を統べて襄陽に入り号令し、以て百姓を安んず。崇義親兵老小を領して壁を閉ぢ、将守者関を斬り争ひ出で、止む可からず。其の年八月、崇義其の妻と井に投じて死し、首を闕下に伝ふ。其の親戚希烈皆之を戮す。嘗に臨漢の役に従へる者三千人を選び、悉く之を斬る。

李懷光

李懷光は渤海靺鞨の人なり。本姓は茹、其の先幽州に徙る。父常は朔方の列将たり。戦功を以て姓氏を賜ひ、更に名づけて嘉慶とす。懷光少くより軍に従ひ、武藝壮勇を以て称せらる。朔方節度使郭子儀之を礼すること益厚し。上元中、累遷して太僕・太常卿を試み、右衙兵将を主り、功労を積みて開府儀同三司に至り、朔方軍都虞候と為る。永泰初、実封三百戸。大暦六年、御史中丞を兼ね、一年を間へ、御史大夫を兼ね、軍都虞候に加へらる。性清勤厳猛にして、敢て誅殺し、親戚と雖も法を犯せば、皆撓避せず。子儀性寛厚にして、軍事に親しまず、紀綱を懷光に任す。軍中特に之を畏れ、亦理と称せらる。十二年、母憂に因りて職を罷む。明年、本官を起復し、仍て邠・寧・慶三州都将を兼ぬ。德宗即位し、子儀の節度副元帥を罷め、其の所部を分ちて諸将に隷す。遂に懷光を以て起復し検校刑部尚書、兼河中尹・邠州刺史・邠寧慶晉降慈隰節度支度営田観察押諸蕃部落等使と為す。先づ是に、懷光頻歳師を率ひて長武を城し以て軍士を処す。城は原首に据り、涇水に臨み、通道を俯瞰す。吐蕃是より自ら敢て南侵せず、西辺の要防と為る。建中初、涇原四鎮節度使段秀實、宰相楊炎に悪まれて、司農卿に徴さる。上将原州を復城せんとす。乃ち懷光をして涇州刺史・涇原四鎮北庭節度使を兼ねしむ。時に懷光私怨を挟み、親しく朔方の旧将温儒雅等数人を誅殺す。涇州の軍士皆之を畏る。劉文喜衆の欲せざるに因り、遂に城を以て叛く。詔して朱泚と懷光に将兵して之を討平せしむ。検校太子少師を加ふ。二年、検校左僕射に遷り、兼霊州大都督・単于鎮北大都護・朔方節度支度営田観察塩池押諸蕃部落六城水運使、実封四百戸。邠寧節度等使は故の如し。

時に馬燧・李抱真諸軍同じく魏城を討てど未だ抜かず、硃滔・王武俊皆反し、兵を連ねて悦を救ふ。三年、詔して懷光を遣はし朔方兵歩騎一万五千を統べて同じく田悦を討たしむ。懷光勇にして謀無く、魏城に至るの日、営壘未だ設けず、因りて滔等と愜山に大戦し、滔等に敗らる。復た悦に決水せしめられて之を灌がしめらる。諸軍利あらず、因りて燧等と軍を魏県に退く。尋で同平章事を加へ、益々実封二百戸。是より滔等と相持して戦はず。明年十月、涇原の卒叛き、上奉天に居す。朱泚既に大号を僭し、中使を遣はして馳せ告げて河北諸帥にす。懷光軍を率ひて奔命す。時に泥淖に属す。懷光軍士を奮厲し、道蒲津より河を渡り、泚の騎兵を醴泉に敗り、直ちに奉天に赴く。前数日、先づ裨将張韶を遣はし表を封じ蠟丸に随ひ賊に攻城せしめ、間を乗じて塹を踰え、城上の人に呼びて曰く「朔方軍使なり」と。乃ち繩を以て引き上り城に入る。堞に登るに比し、身に数十矢を中つ。時に上重囲の中に在り、守拒益急なり。既に懷光の軍至るを知り、張韶をして城上に号令せしむ。人心乃ち安んず。懷光又泚の兵を魯店に敗る。泚乃ち兵を解き還り走りて城に入る。

懷光性粗厲疏愎にして、道に縁りて数へて盧杞・趙贊・白志貞等の奸佞を言ひ、且つ曰く「天下の乱は、皆此輩なり。吾上に見えんとき、当に誅すを請はん」と。杞等微かに之を知り、懼ること甚だし。因りて上を説きて懷光をして乗勝して泚を逐ひ、京師を収復せしめ、奉天に至るを許す可からずと令す。德宗之に従ふ。懷光軍を咸陽に屯し、数へて表を上りて杞等の罪悪を暴揚す。上已むを得ず杞・趙贊・白志貞を貶して以て之を慰安す。又中使翟文秀を疏み、上之を信任す。又之を殺す。懷光既に進軍を敢へず、遷延自ら疑ひ、因りて乱を謀る。初め、詔して崔漢衡を遣はして吐蕃に使せしめ、兵を出して京城収復を佐けしむ。蕃相尚結贊曰く「蕃法、進軍は統兵大臣を以て信と為す。今制書を奉ずるも、懷光の名署無し。故に敢て前らざるなり」と。上之を聞き、翰林学士陸贄を遣はして懷光に詣らしめ蕃軍を用ふるを議す。懷光堅く執りて不可と云ふこと三、制に署するを肯はぜず、詞慢にして、且つ贄に謂ひて曰く「爾何の能くする所かある」と。興元元年二月、詔して太尉を加へ、兼ねて鉄券を賜ひ、李升及び中使鄧鳴鶴を遣はして券を齎し旨を諭す。懷光怒ること甚だしく、券を地に投げて曰く「凡人臣反すれば、則ち鉄券を賜ふ。今懷光に授くるは、是れ反さしむるなり」と。詞気益悖り、衆之が為に懼る。時に懷光の部将韓遊瑰、兵を掌りて奉天に在り。懷光乃ち遊瑰と書し、変を為さしむるを約し令す。遊瑰密かに之を奏す。翌日、懷光又使して之を趣す。遊瑰復た奏聞す。数日、懷光又遊瑰を趣す使を為すも、門者の捕ふる所と為る。懷光且つ宣言して曰く「吾今朱泚と連和せん。車駕当に引避すべし」と。是に由りて上遽に梁州に幸す。時に李晟既に軍を東渭橋に移す。懷光復た李建徽・楊惠元等の軍を劫し、好畤に移す。其の下頗る携貳多し。先づ朱泚甚だ之を畏る。至るに是に因りて之を臣とせんと欲す。懷光虜劫して得る所無く、益々疑懼自ら安からず。二旬居りて、乃ち兵を駆りて部隊に分ち、涇陽・三原・富平を掠め、同州より河中に往く。神策将孟涉・段威勇、三原より兵三千余人を擁して奔りて李晟に帰す。懷光之を遏むること能はず。韓遊瑰、懷光の留後張昕を殺し、邠州を以て順に従ふ。戴休顔、奉天より軍に令して曰く「懷光已に反せり」と。乃ち城守を令して表を馳せて以て聞かしむ。上是に於て遊瑰・休顔に節度使を授く。乃ち懷光の太子太保を除き、其の余の官を罷む。其の管する所は本軍に委ねて一人功高く望崇き者を択びて之を統しむ。皆詔に奉ぜず。四月、懷光河中に至り、遂に同・絳等州を偷有し、兵を按じて観望す。

李晟が既に京師を収復すると、上は給事中孔巢父と中使啖守盈に詔を持たせてこれを征し、懐光は喪服を着て命を受けた。

昔の功績を思い懐かしむことは仁の大なるものなり、滅びたものを興し絶えたものを継ぐことは義の弘大なるものなり。昔、蔡叔が一族を滅ぼしたとき、周公はその子を東土に封じ、韓信が法紀を犯したとき、漢の後王はその妻子を弓高に爵位を授けた。侯君集が景化に従わなかったとき、我が太宗はその子孫を存続させて祭祀を主たることを許した。先王の道を詳しく考うるに、烈祖の訓戒に至るまで、皆刑をもって徳を助け、人をして方に向かわしむ。則ち斧鉞の誅、甲兵の伐は、蓋し已むを得ずして用いるなり。往年、盗臣が窃かに発し、国歩多虞、朕は近郊に狩り、期を指して薄伐し、将に昆陽の旅を振い、以て涿鹿の功を興さんとす。征師未だ諸侯に達せず、衛士且つ七萃に疲る。而して李懷光、三軍夙に駕し、千里勤王す。上は雷霆の威を仮り、下は虎狼の衆を逐う。功を議うこと方に始まり、節を守ること終わり靡かず、潜かに禍胎を構え、朝命に拒み違い、同を棄てて異に即き、順を捨てて逆に效す。臣と為ること此に至り、法に在りて必ず誅すべし。猶お綏懐を示し、庶幾くは其れ牽復せんことを。而して梟音益々厲しく、狶突遷る莫く、大戮の加うる所、曾て噍類無し。自ら伊戚を貽すと雖も、衆と之を棄つ。而して言う、爾の労を念う、何ぞ及ばんことを嗟かん。其の前効猶お在るを以て、孤魂帰する無きを、之を懐いて怳然たり、是を用いて悽軫す。予は大恵を布陳し、冀くは以て化成し、太和を保合し、期す刑措に在らんと欲す。宜しく懷光の外孫燕八八を以て、姓を李氏に賜い、名を承緒とし、左衛率府胄曹参軍を授け、懷光の後を承けしむべし。仍て銭一千貫を賜い、任せて懷光の墓側に於いて莊園を置立せしめ、懷光の妻王氏を侍養し、並びに四時の享奠の礼を備えしむ。嗚呼!朕実に徳無く、兆人に臨む。辜を泣き罪を宥すは、素誠の志す所なり。爾其れ姓を保ち氏を受け、力を宣べて家を承け、勉めて乃ち考の建国の庸を紹ぎ、爾の父の王命に違うが若く無かれ。

初めに、李懐光が誅殺された時、その子の李琟・李瑗等は皆死に、唯だ妻の王氏のみが存命であったので、上は特にその死罪を赦した。及んで此の時に至り、又た李懐光の旧勲を思い、その後嗣が絶えることを哀れみ、乃ち李承緒をしてこれを継がしめた。

史臣曰く、僕固懐恩・李懐光は、皆勇力を以て王家に労ありしも、臣として終わりを全うせず、遂に反噬を行い、その罪大なり。然れども辛雲京・駱奉先・盧杞・白志貞の輩は、彼の二逆を致し、時君に憂いを貽せり、亦国の讒賊と謂うべし。梁崇義は既に令しき始め無く、又善き終わり無く、妻と共に泉に投じ、何ぞその咎を塞がん。

賛に曰く、臣の君に事ふるは、死有りて二無し。懷恩・懷光、凶終一致す。崇義は奸多く、國家の棄つる所なり。迷ひて歸るを亡くし、自ら其の斃るるを速にす。