舊唐書

巻120

巻120

舊唐書

原文舊唐書

卷一百二十

原文卷一百二十

列傳第七十 郭子儀

原文列傳第七十 郭子儀

郭子儀

原文郭子儀

郭子儀は華州鄭県の人である。父の敬之は、綏州・渭州・桂州・寿州・泗州の五州刺史を歴任し、子儀の貴顕により太保を追贈され、祁国公に追封された。子儀は身長六尺余り、体貌は秀傑であり、初め武挙の高等に及第して左衛長史に補され、諸軍使を累歴した。天宝八載、木剌山に横塞軍及び安北都護府を置き、子儀にその使を領することを命じ、左衛大将軍に拝された。十三載、横塞軍及び安北都護府を永清柵の北に移して城を築き、なお横塞を天徳軍と改め、子儀がその使となり、九原太守・朔方節度右兵馬使を兼ねた。

原文郭子儀,華州鄭縣人。父敬之,歷綏、渭、桂、壽、泗五州刺史,以子儀貴,贈太保,追封祁國公。子儀長六尺餘,體貌秀傑,始以武舉高等補左衛長史,累歷諸軍使。天寶八載,於木剌山置橫塞軍及安北都護府,命子儀領其使,拜左衛大將軍。十三載,移橫塞軍及安北都護府於永清柵北築城,仍改橫塞為天德軍,子儀為之使,兼九原太守、朔方節度右兵馬使。

十四載、安禄山が反逆した。十一月、子儀を衛尉卿とし、霊武郡太守を兼ね、朔方節度使を充て、詔して子儀に本軍を率いて東討させた。そこで兵を挙げて単于府より出撃し、静辺軍を収め、賊将周万頃を斬り、その首を闕下に伝送した。禄山は大同軍使高秀巖を遣わして河曲を寇したが、子儀はこれを撃破し、進んで雲中・馬邑を収め、東陘を開いた。功により御史大夫を加えられた。十五載正月、賊将蔡希徳が常山郡を陥とし、顔杲卿を捕らえ、河北の郡県は皆賊の守るところとなった。二月、子儀は河東節度使李光弼とともに師を率いて井陘を下り、常山郡を抜き、賊を九門で破り、南に趙郡を攻め、賊四千を生擒したが、皆これを赦し、偽太守郭献璆を斬り、兵仗数万を獲た。師は常山に還ったが、賊将史思明が数万人を率いてその後を追い、我が行くに従い、我が止まるに止まった。子儀は驍ぎょう騎五百を選んで更にこれを挑発し、三日にして行唐に至ると、賊は疲れて退いた。我が軍はこれに乗じ、沙河においてまた敗った。禄山は思明の敗北を聞き、精兵を以てこれを増強した。我が軍が恒陽に至ると、賊もまた随いて至った。子儀は堅壁を築いて自らを固め、賊が来れば守り、賊が去れば追い、昼はその兵を揚げ、夕べにはその幕舎を襲い、賊人は息をつく暇もなかった。数日後、光弼が議して言うには、「賊は怠っている、戦うことができる」と。六月、子儀・光弼は僕固懐恩・渾釈之・陳回光等を率いて嘉山に陣し、賊将史思明・蔡希徳・尹子奇等もまた陣を結んで至ったが、一戦にしてこれを敗り、斬首四万級、生擒五千人、馬五千匹を獲、思明は髪を露わし足を跣いて博陵に奔った。ここにおいて河北十余郡は皆賊の守将を斬って王師を迎えた。子儀は北に范陽を図らんとし、軍声大いに振るった。

原文十四載,安祿山反。十一月,以子儀為衛尉卿,兼靈武郡太守,充朔方節度使,詔子儀以本軍東討。遂舉兵出單於府,收靜邊軍,斬賊將周萬頃,傳首闕下。祿山遣大同軍使高秀巖寇河曲,子儀擊敗之,進收雲中馬邑,開東陘,以功加御史大夫。十五載正月,賊將蔡希德陷常山郡,執顏杲卿,河北郡縣皆為賊守。二月,子儀與河東節度使李光弼率師下井陘,拔常山郡,破賊於九門,南攻趙郡,生擒賊四千,皆舍之,斬偽太守郭獻璆,獲兵仗數萬。師還常山,賊將史思明以數萬人踵其後,我行亦行,我止亦止。子儀選驍騎五百更挑之,三日至行唐,賊疲乃退,我軍乘之,又敗於沙河。祿山聞思明敗,乃以精兵益之。我軍至恆陽,賊亦隨至。子儀堅壁自固,賊來則守,賊去則追,晝揚其兵,夕襲其幕,賊人不及息。數日,光弼議曰:「賊怠矣,可以戰。」六月,子儀、光弼率僕固懷恩、渾釋之、陳回光等陣於嘉山,賊將史思明、蔡希德、尹子奇等亦結陣而至,一戰敗之,斬馘四萬級,生擒五千人,獲馬五千匹,思明露髪跣足奔於博陵。於是河北十餘郡皆斬賊守者以迎王師。子儀將北圖范陽,軍聲大振。

その月、哥舒翰が賊に敗れ、潼関は守られず、玄宗は蜀しょくに幸し、粛宗は霊武に幸した。子儀の副使杜鴻漸が朔方留後となり、車駕を迎えることを奏上した。七月、粛宗が即位し、賊が両京を占拠しているため、収復を謀り、詔して子儀に班師させた。八月、子儀は李光弼とともに歩騎五万を率いて河北より至った。当時朝廷は初めて立ち、兵衆は寡弱であり、牧馬を得たとはいえ、軍容は欠然としていた。子儀・光弼が全師を挙げて行在に赴くと、軍声は遂に振るい、興復の勢いについて、民衆に望みが生じた。詔して子儀を兵部尚書・同中書門下平章事とし、前の如く霊州大都督ととく府長史・朔方軍節度使を依任した。粛宗は六軍を大閲し、南に関輔に向かい、彭原郡に至った。宰相房琯が兵一万人を請い、自ら統帥となって賊を討たんとした。帝は平素より琯を重んじていたので、これを許した。兵が陳濤に及ぶと、賊に敗れ、師は殆んど喪失した。正に討除の事に当たる時に、軍の半ばが殪え、ただ朔方軍を根本として倚り頼むのみとなった。十一月、賊将阿史那従礼が同羅・僕骨の五千騎を率いて塞を出、河曲九府・六胡州の部落数万を誘い、行在を迫らんとした。子儀は回紇の首領葛邏支とともに往きこれを撃破し、斬獲数万、河曲は平定された。

原文是月,哥舒翰為賊所敗,潼關不守,玄宗幸蜀,肅宗幸靈武,子儀副使杜鴻漸為朔方留後,奏迎車駕。七月,肅宗即位,以賊據兩京,方謀收復,詔子儀班師。八月,子儀與李光弼率步騎五萬至自河北。時朝廷初立,兵眾寡弱,雖得牧馬,軍容缺然。及子儀、光弼全師赴行在,軍聲遂振,興復之勢,民有望焉。詔以子儀為兵部尚書、同中書門下平章事,依前靈州大都督府長史、朔方軍節度使。肅宗大閱六軍,南趨關輔,至彭原郡,宰相房琯請兵萬人,自為統帥以討賊,帝素重琯,許之。兵及陳濤,為賊所敗,喪師殆盡。方事討除,而軍半殪,唯倚朔方軍為根本。十一月,賊將阿史那從禮以同羅、僕骨五千騎出塞,誘河曲九府、六胡州部落數萬,欲迫行在。子儀與回紇首領葛邏支往擊敗之,斬獲數萬,河曲平定。

賊将崔乾祐が潼関を守った。二年三月、子儀は潼関において賊を大破し、崔乾祐は退いて蒲津を保った。当時永楽尉趙復・河東司戸韓旻・司士徐炅・宗子李蔵鋒等が、賊に陥って蒲州におり、四人は密謀して王師の至るを待ち、内応しようとした。子儀が蒲州を攻めると、趙復等は賊の城壁を守る者を斬り、門を開いて子儀を迎え入れた。乾祐は麾下数千人とともに北に安邑に走った。安邑の百姓は偽って降り、乾祐の兵が半ば入ったところで、懸門を下ろしてこれを撃った。乾祐は入らなかったので、遂に身を脱して東に走った。子儀は遂に陝郡の永豊倉を収めた。ここより潼・陝の間には寇鈔は再びなくなった。

原文賊將崔乾祐守潼關。二年三月,子儀大破賊於潼關,崔乾祐退保蒲津。時永樂尉趙復、河東司戶韓旻、司士徐炅、宗子李藏鋒等,陷賊在蒲州,四人密謀俟王師至,則為內應。及子儀攻蒲州,趙復等斬賊守陴者,開門納子儀。乾祐與麾下數千人北走安邑,安邑百姓偽降,乾祐兵入將半,下懸門擊之,乾祐未入,遂得脫身東走。子儀遂收陜郡永豐倉。自是潼、陜之間無復寇鈔。

その月、安禄山が死んだ。朝廷は大挙を図ろうとし、詔して子儀に鳳翔に還らせた。四月、司空しくうに進位し、関内・河東副元帥を充てた。五月、詔して子儀に師を帥いて京城に向かわせた。師は潏水の西にあり、賊将安太清・安守忠と戦ったが、王師は利あらず、その衆は大いに潰え、兵仗を尽く清渠の上に委棄した。子儀は余衆を収め合わせ、武功を保ち、闕に詣でて罪を請い、官資の降下を乞うた。そこで左僕射に降とされたが、その余は元の如くであった。九月、元帥広平王に従って蕃漢の師十五万を率いて進み長安ちょうあんを収復した。回紇は葉護太子を遣わして四千騎を領し、国を助けて賊を討たせた。子儀は葉護と宴狎して修好し、相与に国難を平らげることを誓い、相得ること甚だ良かった。子儀は元帥を奉じて中軍とし、賊将安守忠・李帰仁と京西香積寺の北で戦った。王師は陣を結んで横たわること三十里、賊衆十万は北に陣した。帰仁が先ず我が軍に迫ると、我が軍は乱れたが、李嗣業が奮命して馳突し、賊十余騎を擒にしてようやく定まった。回紇は奇兵を以て賊陣の後より出てこれを夾攻し、賊軍は大いに潰え、午より酉に至るまで、斬首六万級に及んだ。賊将張通儒は長安を守っていたが、帰仁等の敗北を聞き、その夜陝郡に奔った。翌日、広平王が京師に入ると、老幼百万、道を夾んで歓叫し、涕泣して言うには、「今日また官軍を見ることを図らず」と。広平王は士卒を三日休ませ、師を率いて東に向かった。粛宗は鳳翔にいて捷報を聞き、群臣賀した。帝は宗廟が焚かれたことを以て、悲咽して自ら勝えず、臣僚感泣せざるはなかった。

原文是月,安祿山死,朝廷欲圖大舉,詔子儀還鳳翔。四月,進位司空,充關內、河東副元帥。五月,詔子儀帥師趨京城。師於潏水之西,與賊將安太清、安守忠戰,王師不利,其眾大潰,盡委兵仗於清渠之上。子儀收合餘眾,保武功,詣闕請罪,乞降官資,乃降為左僕射,餘如故。九月,從元帥廣平王率蕃漢之師十五萬進收長安。回紇遣葉護太子領四千騎助國討賊,子儀與葉護宴狎修好,相與誓平國難,相得甚好。子儀奉元帥為中軍,與賊將安守忠、李歸仁戰於京西香積寺之北,王師結陣橫亙三十里,賊眾十萬陳於北。歸仁先薄我軍,我軍亂,李嗣業奮命馳突,擒賊十餘騎乃定。回紇以奇兵出賊陣之後夾攻之,賊軍大潰,自午至酉,斬首六萬級。賊將張通儒守長安,聞歸仁等敗,是夜奔陜郡。翌日,廣平王入京師,老幼百萬,夾道歡叫,涕泣而言曰:「不圖今日復見官軍。」廣平王休士三日,率師東趨。肅宗在鳳翔聞捷,群臣稱賀,帝以宗廟被焚,悲咽不自勝,臣僚無不感泣。

十月、安慶緒は厳荘を遣わしてその全軍十万を率いて陝州に赴かせ、張通儒とともに官軍に抗した。賊は官軍の到着を聞き、その全軍を陝西に駐屯させ、山を背にして陣を布いた。子儀は大軍をもってその前面を撃ち、回紇は山に登ってその背後を衝いたが、賊が山中に潜んで軍を伏せ、戦闘が期日を過ぎたため、大軍はやや退いた。賊は兵三千人を分けて我が帰路を断ち、衆心は大いに動揺した。子儀は回紇を指揮して進撃を命じ、これをことごとく殺した。軍はその背後に駆けつけ、黄塵の中で十余りの矢を放つと、賊は驚いて顧みて言うには「回紇が来た!」と。即時に大敗し、死体が山野に満ちた。厳荘・張通儒は走って洛陽らくように帰り、ついに安慶緒とともに黄河を渡って相州を守った。子儀は広平王を奉じて東都に入り、軍を天津橋の南に陳列すると、士庶は路上で歓呼した。偽侍中陳希烈・偽中書令張垍ら三百余人は白衣で罪を請うたので、王は慰撫して帰した。この時、河東・河西・河南の賊が占拠した郡邑はすべて平定され、功により司徒しとを加えられ、代国公に封ぜられ、食邑千戸を与えられた。まもなく朝廷に入ると、天子は兵仗と戎容を遣わして灞上で迎えさせ、粛宗は労って言うには「わが家国といえども、実に卿によって再建された」と。子儀は頓首して感謝した。十二月、東都に戻り、子儀に北討の経営を命じた。乾元元年七月、賊を河上で破り、偽将安守忠を生け捕りにして献上し、ついに京師に朝し、勅により百官を長楽駅で列をなして迎えさせ、帝は望春楼に臨んでこれを待ち、中書令に進位した。九月、詔を奉じて大挙し、子儀は河東節度使李光弼・関内節度使王思礼・北庭行営節度李嗣業・襄鄧節度使魯炅・荊南節度季広琛・河南節度使崔光遠・滑濮節度許叔冀・平盧兵馬使董秦ら九節度の軍を率いて安慶緒を討った。帝は子儀と光弼がともに元勲であるため、互いに統属しがたく、ゆえに元帥を立てず、ただ中官魚朝恩を観軍容宣慰使とした。十月、子儀は杏園から黄河を渡り、衛州を包囲した。安慶緒はその驍将安雄俊・崔乾祐・薛嵩・田承嗣とともに全軍を率いて来援し、三軍に分かれた。子儀は陣を布いてこれを待ち、あらかじめ射手三千人を選んで壁内に伏せさせ、戒めて言うには「我が軍がやや退くのを待て。賊は必ず争って進むであろう。その時、城に登り鬨の声をあげ、弓弩を一斉に放ってこれを追撃せよ」と。戦いが始まると、子儀は偽って退却し、賊は果たしてこれに乗じ、塁門に及んだ時、突然鬨の声を聞き、やがて弓弩が一斉に発射され、矢が雨のように注いだので、賊徒は震駭し、子儀は軍を整えてこれを追撃し、賊軍は大敗した。この戦いで、偽鄭王安慶和を捕らえて献上し、ついに衛州を奪回した。進軍して鄴に向かい、賊と再び愁思岡で戦い、賊軍はまた敗れ、ついに連営してこれを包囲した。慶緒は薛嵩を遣わし、乗馬十匹を持たせて史思明に救援を求め、かつ禅譲の意向を伝えた。十二月、思明は将李帰仁を遣わして軍を率いて赴かせ、滏陽に営した。

原文十月,安慶緒遣嚴莊悉其眾十萬來赴陜州,與張通儒同抗官軍。賊聞官軍至,悉其眾屯於陜西,負山為陣。子儀以大軍擊其前,回紇登山乘其背,遇賊潛師於山中,與鬥過期,大軍稍卻。賊分兵三千人,絕我歸路,眾心大搖,子儀麾回紇令進,盡殺之。師馳至其後,於黃埃中發十餘箭,賊驚顧曰:「回紇來!」即時大敗,僵屍遍山澤。嚴莊、張通儒走歸洛陽,遂與安慶緒渡河保相州。子儀奉廣平王入東都,陳兵於天津橋南,士庶歡呼於路。偽侍中陳希烈、偽中書令張垍等三百餘人素服請罪,王慰撫遣之。是時,河東、河西、河南賊所盜郡邑皆平,以功加司徒,封代國公,食邑千戶。尋入朝,天子遣兵仗戎容迎於灞上,肅宗勞之曰:「雖吾之家國,實由卿再造。」子儀頓首感謝。十二月,還東都,命子儀經營北討。乾元元年七月,破賊河上,擒偽將安守忠以獻,遂朝京師,敕百僚班迎於長樂驛,帝御望春樓待之,進位中書令。九月,奉詔大舉,子儀與河東節度使李光弼、關內節度使王思禮、北庭行營節度李嗣業、襄鄧節度使魯炅、荊南節度季廣琛、河南節度使崔光遠、滑濮節度許叔冀、平盧兵馬使董秦等九節度之師討安慶緒。帝以子儀、光弼俱是元勛,難相統屬,故不立元帥。唯以中官魚朝恩為觀軍容宣慰使。十月,子儀自杏園渡河,圍衛州。安慶緒與其驍將安雄俊、崔乾祐、薛嵩、田承嗣悉其眾來援,分為三軍。子儀陣以待之,預選射者三千人伏於壁內,誡之曰:「俟吾小卻,賊必爭進,則登城鼓噪,弓弩齊發以迫之。」既戰,子儀偽遁,賊果乘之,及壘門,遽聞鼓噪,俄而弓弩齊發,矢註如雨,賊徒震駭,子儀整眾追之,賊眾大敗。是役也,獲偽鄭王安慶和以獻,遂收衛州。進軍趨鄴,與賊再戰於愁思岡,賊軍又敗,乃連營圍之。慶緒遣薛嵩以所乘馬十匹求救於史思明,且言禪代。十二月,思明遣將李歸仁率眾赴之,營於滏陽。

二年正月、史思明は自ら范陽の精兵を率いて再び魏州を陥落させ、ついに偽って燕王と称した。王師は衆こそ多かったが、軍に統帥がなく、進退の拠るところがなく、冬から春にかけて、ついに賊を破ることができず、ただ漳水を引いてその城を灌漑した。城中の食糧は尽き、子を交換して食らった。二月、思明は軍を率いて魏州から来た。李光弼・王思礼・許叔冀・魯炅の前軍が賊と鄴の南で遭遇し、これと交戦し、死傷者半ばとなり、魯炅は流れ矢に当たった。子儀は後陣にあり、まだ合戦に及ばないうちに、大風が突然起こり、砂を吹き木を抜き、天地は暗く、一歩先も物の色が判別できなかった。我が軍は潰えて南に走り、賊軍は潰えて北に走り、兵仗と輜重を棄て、路上に累積した。諸軍はそれぞれ本鎮に帰った。子儀は朔方軍をもって河陽を守り、浮橋を断ち、詔により東都留守を命じられた。三月、子儀を東都畿・山南東道・河南諸道行営元帥とした。

原文二年正月,史思明自率范陽精卒復陷魏州,乃偽稱燕王。王師雖眾,軍無統帥,進退無所承稟,自冬徂春,竟未破賊,但引漳水以灌其城,城中食盡,易子而食。二月,思明率眾自魏州來。李光弼、王思禮、許叔冀、魯炅前軍遇賊於鄴南,與之接戰,夷傷相半,魯炅中流矢。子儀為後陣,未及合戰,大風遽起,吹沙拔木,天地晦暝,跬步不辯物色。我師潰而南,賊軍潰而北,委棄兵仗輜重,累積於路。諸軍各還本鎮。子儀以朔方軍保河陽,斷浮橋,有詔令留守東都。三月,以子儀為東都畿、山南東道、河南諸道行營元帥。

中官魚朝恩は平素より子儀の功績を妬み、その不振に乗じて讒言し、まもなく召還して京師に帰した。天子は趙王係を天下兵馬元帥とし、李光弼をその副とし、陝東の軍事を委ねて子儀の任に代えた。子儀は兵権を失ったが、王室を思い、禍難が未だ平らかでないため、寝食する暇もなかった。やがて史思明が再び河洛を陥落させ、朝廷は遅くまで食事もとれず、また蕃寇が京畿に迫ることを憂慮し、三年正月、子儀に邠寧・鄜坊両鎮節度使を授け、なお京師に留め置いた。言事者は子儀が社稷の大功があり、今残党が未除であるから、散地に置くべきではないと論じ、粛宗は深くこれを然りとした。上元元年九月、子儀を諸道兵馬都統とし、管崇嗣をその副とし、英武・威遠などの禁軍及び河西・河東諸鎮の軍を率いて、邠寧・朔方・大同・横野を経て、直ちに范陽に至るよう命じた。詔が下って十日ほどで、また朝恩の離間により、事はついに行われなかった。

原文中官魚朝恩素害子儀之功,因其不振,媒孽之,尋召還京師。天子以趙王系為天下兵馬元帥,李光弼副之,委以陜東軍事,代子儀之任。子儀雖失兵柄,乃思王室,以禍難未平,不遑寢息。俄而史思明再陷河洛,朝廷旰食,復慮蕃寇逼迫京畿,三年正月,授子儀邠寧、鄜坊兩鎮節度使,仍留京師。言事者以子儀有社稷大功,今殘孽未除,不宜置之散地,肅宗深然之。上元元年九月,以子儀為諸道兵馬都統,管崇嗣副之,令率英武、威遠等禁軍及河西、河東諸鎮之師,取邠寧、朔方、大同、橫野,徑抵范陽。詔下旬日,復為朝恩所間,事竟不行。

臣は徳薄く蝉の翼のごとく、命軽く鴻毛のごとし、累ねて国恩を蒙り、猥りに朝列に側わる。時に天地震蕩し、中原血戦す。臣は北は霊武より、先皇帝を冊立し、ついに兵を挙げて南し、岐陽において大いに捜索す。先帝は宗社を憂勤し、臣に家国を託し、陛下に副いて両京の妖賊を掃討せしむ。陛下は雄図大断、区宇を再造し、その後臣の寡劣を以てせず、文武の二柄を委ね、外には邦教を敷き、内には鼎飪を調え、ここをもって常に国家の死を許し、実に日月の明を荷う。臣は本より愚浅、言多くは詆直、このために謗を招き、上は冕旒を瀆すを慮る。陛下は高きに居りて卑きを聴き、臣の不二を察し、皇天后土、臣の私なきを察す。伏して器は満盈を忌むを以て、日増しに兢惕し、安んぞ敢えて全きを偷み、久しく賢路を妨げんや。恩を塞下に受けしより、敵を制し行間にあり、東西十年、前後百戦。天寒くして剣折れ、血を濺ぎて衣に沾う。野に宿りて魂驚き、氷を飲みて骨を傷む。跋渉難阻、死生に出没し、仗る所唯天のみ、以て今日に至る。陛下は曲げて恵奨を申し、勤労に念い及び、臣に詔書一千余首を遺し、聖旨微婉、慰諭綢繆、微臣一時の功を彰し、子孫万代の宝を成す。霊武・河北・河南・彭原・鄜坊・河東・鳳翔・両京・絳州、臣の経行する所、賜わりし手詔勅書凡そ二十巻、昧死して上進し、庶幾くば煩わしきを聴覧せん。

原文臣德薄蟬翼,命輕鴻毛,累蒙國恩,猥廁朝列。會天地震蕩,中原血戰,臣北自靈武,冊先皇帝,乃舉兵而南,大搜於岐陽。先帝憂勤宗社,托臣以家國,俾副陛下掃兩京之妖昆。陛下雄圖丕斷,再造區宇,自後不以臣寡劣,委文武之二柄,外敷邦教,內調鼎飪,是以常許國家之死,實荷日月之明。臣本愚淺,言多詆直,慮此招謗,上瀆冕旒。陛下居高聽卑,察臣不貳,皇天後土,察臣無私。伏以器忌滿盈,日增兢惕,焉敢偷全,久妨賢路?自受恩塞下,制敵行間,東西十年,前後百戰。天寒劍折,濺血沾衣;野宿魂驚,飲冰傷骨。跋涉難阻,出沒死生,所仗唯天,以至今日。陛下曲申惠獎,念及勤勞,貽臣詔書一千餘首,聖旨微婉,慰諭綢繆,彰微臣一時之功,成子孫萬代之寶。自靈武、河北、河南、彭原、鄜坊、河東、鳳翔、兩京、絳州,臣所經行,賜手詔敕書凡二十卷,昧死上進,庶煩聽覽。

詔を以て答えて曰く、「朕は徳なく明ならず、大臣をして憂疑せしむ、朕が過ちなり。朕は甚だ自ら愧ず、公以て慮うること勿れ」と。代宗は子儀がかつて患難を共にし、両京を収復したことを以て、礼遇すること愈厚くした。時に史朝義がなお洛陽を占拠し、元帥雍王が軍を率いて進討した。代宗は子儀をその副としようとしたが、魚朝恩・程元振が政を乱し、裴茂・来瑱を殺したため、子儀はすでに離間され、その事はついに止み、京師に留まった。

原文詔答曰:「{{red|朕不德不明,俾大臣憂疑,朕之過也。朕甚自愧,公勿以為慮。}}」代宗以子儀頃同患難,收復兩京,禮之逾厚。時史朝義尚據洛陽,元帥雍王率師進討,代宗欲以子儀副之,而魚朝恩、程元振亂政,殺裴茂、來瑱,子儀既為所間,其事遂寢,乃留京師。

やがて梁崇義が襄陽に拠って叛き、僕固懐恩が汾州に兵を留めて阻み、回紇・吐蕃の兵を引き入れて河西に寇す。翌年十月、吐蕃が涇州を陥とし、刺史高暉を虜にし、暉は遂に蕃軍とともに郷導となり、賊を引き入れて深く京畿に至り、奉天・武功を掠め、渭水を渡って南に進み、山に沿って東に向かう。渭北行営兵馬使呂日将が盩厔において逆戦し、辰より酉に至るまで、蕃軍数千を殺すも、その徒多く殞る。賊将たる京師に逼らんとし、君上計る所なく、急ぎ詔して子儀を関内副元帥と為し、出でて咸陽に鎮まらしむ。子儀は相州の不利より、李光弼に兵権を代わって掌らせ、及び征還して朝廷に至るも、部曲散じ去る。及び是に詔を承け、部下唯二十騎のみ、強いて民家の畜産を取って軍を助く。咸陽に至れば、蕃軍既に渭水を過ぐ。その日、天子狄を避けて陝州に幸す。子儀上狄を避けたるを聞き、雪涕して京に還るも、至れば車駕既に発つ。射生将王献忠駕に従い、沿路遂に四百騎を以て叛き、仍て豊王以下十王を逼りて賊に投ぜんとす。子儀開遠門に入り、之に遇い、豊王等の向かう所を詰め、遂に行在所に護送す。子儀三千騎を以て南山に傍い、商州に至り、武関の防兵及び六軍の散卒四千人を得て、亡逸を招輯し、その軍漸く振う。蕃京城を犯し、故邠王守礼の子広武王承宏を得て、帝号を立て、百官を仮署す。子儀六軍兵馬使張知節・烏崇福・羽林軍使長孫全緒等に兵万人を将いて前鋒と為らしめ、韓公堆に営し、旗幟を盛んに張り、鼓鞞山谷を震わす。全緒禁軍の旧将王甫を遣わして長安に入らしめ、陰に少年豪侠を結びて内応と為し、一日、朱雀街に鼓を斉しく撃つと、蕃軍惶駭して去る。大将李忠義先に兵を苑中に屯し、渭北節度使王仲升朝堂を守る。子儀大軍を以て続いて進み、浐西に至る。射生将王撫自ら署して京兆尹と為り、兵二千人を聚めて京城を擾乱す、子儀撫を召して之を殺す。詔して子儀に権めて京城留守を為らしむ。

原文俄而梁崇義據襄陽叛,僕固懷恩阻兵於汾州,引回紇、吐蕃之眾入寇河西。明年十月,吐蕃陷涇州,虜刺史高暉,暉遂與蕃軍為鄉導,引賊深入京畿,掠奉天、武功,濟渭而南,緣山而東。渭北行營兵馬使呂日將逆戰於盩厔,自辰至酉,殺蕃軍數千,然其徒多殞。賊將逼京師,君上計無所出,遽詔子儀為關內副元帥,出鎮咸陽。子儀自相州不利,李光弼代掌兵柄,及征還朝廷,部曲散去。及是承詔,部下唯二十騎,強取民家畜產以助軍。至咸陽,蕃軍已過渭水。其日,天子避狄幸陜州。子儀聞上避狄,雪涕還京,至則車駕已發。射生將王獻忠從駕,沿路遂以四百騎叛,仍逼豐王已下十王欲投於賊。子儀入開遠門,遇之,詰豐王等所向,遂護送行在。子儀以三千騎傍南山,至商州,得武關防兵及六軍散卒四千人,招輯亡逸,其軍漸振。蕃犯京城,得故邠王守禮子廣武王承宏,立帝號,假署百官。子儀遣六軍兵馬使張知節、烏崇福、羽林軍使長孫全緒等將兵萬人為前鋒,營於韓公堆,盛張旗幟,鼓鞞震山谷。全緒遣禁軍舊將王甫入長安,陰結少年豪俠以為內應,一日,齊擊鼓於朱雀街,蕃軍惶駭而去。大將李忠義先屯兵苑中,渭北節度使王仲升守朝堂。子儀以大軍續進,至浐西。射生將王撫自署為京兆尹,聚兵二千人,擾亂京城,子儀召撫殺之。詔子儀權京城留守。

西蕃の入寇より、車駕東幸してより、天下皆程元振を咎め、諫官屡之を論ず。元振懼れ、又子儀の復た功を立てたるを以て、天子の京に還るを欲せず、帝に勧めて且つ洛陽に都して蕃冠を避けんとす、代宗之を然りとし、詔を下すこと日有り。子儀之を聞き、兵部侍郎張重光の宣慰より回るに因り、章を附して論奏して曰く。

原文自西蕃入寇,車駕東幸,天下皆咎程元振,諫官屢論之。元振懼,又以子儀復立功,不欲天子還京,勸帝且都洛陽以避蕃冠,代宗然之,下詔有日。子儀聞之,因兵部侍郎張重光宣慰回,附章論奏曰:

臣聞く、雍州の地は、古より天府と称し、右に隴・蜀を探り、左に崤・函を扼し、前に終南・太華の険有り、後に清渭・濁河の固き有り、神明の奥、王者の都と為す所なり。地方数千里、甲を帯びる者十余万、兵強く士勇み、八方を雄視し、利有れば則ち出でて攻め、利無ければ則ち入りて守る。此れ用武の国、諸夏の同じからざる所、秦・漢之に因り、卒に帝業を成す。その後或いは之に処して泰え、之を去りて亡ぶ、前史の書する所、唯一姓に非ず。及び隋氏の季末、煬帝南遷し、河・洛丘墟と為り、兵戈乱起す。高祖こうそ義を唱え、亦先に関に入り、唯能く奸雄を翦滅し、区宇を底定す。以て太宗・高宗の盛、中宗・玄宗の明に至るまで、多くは秦川に在り、鮮しく東洛に居る。間者羯胡乱を構え、九服分崩し、河北・河南、尽く逆命に従う。然れども先帝朔方の衆を仗り、慶緒奔亡す。陛下西土の師を藉り、朝義就戮す。豈唯だ天道の順を助くるのみならんや、抑も亦地形の然らしむる所、此れ陛下の知る所、臣の飾説に非ず。近く吐蕃の淩逼に因り、鑾駕東巡す。蓋し六軍の兵は、素より精練に非ず、皆市肆屠沽の人、務めて虚名に掛かり、茍くも征賦を避け、及び戦に就くを駆れば、百に一も堪うる無し。亦潜かに貨財を輸し、因りて以て免れんことを求むる者有り。又中官掩蔽し、庶政多く荒る。遂に陛下をして振蕩安からずして、陜服に退居せしむ。斯れ委任の失所に関す、豈に秦地の良に非ざるを謂うべけんや。今道路云云、信ずるや否やを知らず、咸に陛下既に成命有り、将に洛都に幸せんとすと謂う。臣其の端を熟思すも、未だ其の利を見ず。夫れ東周の地は、久しく賊中に陷り、宮室焚焼し、十に一を存せず。百曹荒廃し、曾て尺椽無く、中間畿内、千戸に満たず。井邑榛荊、豺狼站嗥し、既に軍儲乏しく、又人力鮮し。東は鄭・汴より、徐方に達し、北は覃懷より、相土を経て、人煙断絶し、千里蕭条す。将に何を以てか万乗の牲餼を奉じ、百官の次舎を供せん。況んや其の土地狭厄、才数百里の間、東に成臯有り、南に二室有り、険恃むに足らず、適に戦場と為る。陛下奈何ぞ久安の勢を棄て、至危の策に従い、忽ちに社稷の計を忽せにし、天下の心を生ぜんとする。臣至愚と雖も、窃かに陛下の取らざる所と為す。且つ聖旨の慮る所、豈に京畿新たに剽掠に遭い、田野空虚、恐らくは糧食充たず、国用闕く有らんことを以てせざらんや、臣の見る所に依れば、深く然らずと謂う。昔衛文小国の君、諸侯の主たるのみ、懿公の狄に滅ぼさるるに遭い、始めて曹に廬し、大布の衣を衣、大帛の冠を冠し、元年革車三十乗、季年三百乗、卒に能く旧業を恢復し、無疆の休を享く。況んや明明天子、躬儉節用し、茍くも素餐の吏を黜け、冗食の官を去り、豎刁・易牙の権を抑え、蘧瑗・史䲡の直を任じ、征を薄くし力を馳せ、隠を恤み鰥に迨い、諸相に委ねて賢を簡び能に任じ、老臣に付して兵を練り侮を禦かしめば、則ち黎元自ら理まり、寇盗自ら平らぎ、中興の功、旬月に冀うべく、卜年の期、永永極まり無からん。願わくは時に邁り順動し、鑾を回して上都に至り、邦家を再造し、唯だ庶政を新たにし、宗廟を奉じて薦享を修め、陵寢を謁して孝思を崇めん、臣隕越すと雖も、死して恨む所無からん。

原文臣聞雍州之地,古稱天府,右探隴、蜀,左扼崤、函,前有終南、太華之險,後有清渭、濁河之固,神明之奧,王者所都。地方數千里,帶甲十餘萬,兵強士勇,雄視八方,有利則出攻,無利則入守。此用武之國,非諸夏所同,秦、漢因之,卒成帝業。其後或處之而泰,去之而亡,前史所書,不唯一姓。及隋氏季末,煬帝南遷,河、洛丘墟,兵戈亂起。高祖唱義,亦先入關,惟能翦滅奸雄,底定區宇。以至於太宗、高宗之盛,中宗、玄宗之明,多在秦川,鮮居東洛。間者羯胡構亂,九服分崩,河北、河南,盡從逆命。然而先帝仗朔方之眾,慶緒奔亡;陛下藉西土之師,朝義就戮。豈唯天道助順,抑亦地形使然,此陛下所知,非臣飾說。近因吐蕃淩逼,鑾駕東巡。蓋以六軍之兵,素非精練,皆市肆屠沽之人,務掛虛名,茍避征賦,及驅以就戰,百無一堪。亦有潛輸貨財,因以求免。又中官掩蔽,庶政多荒。遂令陛下振蕩不安,退居陜服。斯蓋關於委任失所,豈可謂秦地非良者哉!今道路云云,不知信否,咸謂陛下已有成命,將幸洛都。臣熟思其端,未見其利。夫以東周之地,久陷賊中,宮室焚燒,十不存一。百曹荒廢,曾無尺椽,中間畿內,不滿千戶。井邑榛荊,豺狼站嗥,既乏軍儲,又鮮人力,東至鄭、汴,達於徐方,北自覃懷,經於相土,人煙斷絕,千里蕭條。將何以奉萬乘之牲餼,供百官之次舍?矧其土地狹厄,才數百里間,東有成臯,南有二室,險不足恃,適為戰場。陛下奈何棄久安之勢,從至危之策,忽社稷之計,生天下之心。臣雖至愚,竊為陛下不取。且聖旨所慮,豈不以京畿新遭剽掠,田野空虛,恐糧食不充,國用有闕,以臣所見,深謂不然。昔衛文小國之君,諸侯之主耳,遭懿公為狄所滅,始廬於曹,衣大布之衣,冠大帛之冠,元年革車三十乘,季年三百乘,卒能恢復舊業,享無疆之休。況明明天子,躬儉節用,茍能黜素餐之吏,去冗食之官,抑豎刁、易牙之權,任蘧瑗、史䲡之直,薄征馳力,恤隱迨鰥,委諸相以簡賢任能,付老臣以練兵禦侮,則黎元自理,寇盜自平,中興之功,旬月可冀,卜年之期,永永無極矣。願時邁順動,回鑾上都,再造邦家,唯新庶政,奉宗廟以修薦享,謁陵寢以崇孝思,臣雖隕越,死無所恨。

代宗表を省み、涙を垂れて左右に謂いて曰く、「子儀の用心、真に社稷の臣なり。急ぎ京師に還るべし。」十一月、車駕陜より還り宮す、子儀地に伏して罪を請う、帝車を駐めて之を労いて曰く、「朕卿を用いること早からざるを以て、故に此に及べり。」乃ち鉄券を賜い、形を淩煙閣に図す。

原文代宗省表,垂泣謂左右曰:「子儀用心,真社稷臣也。可亟還京師。」十一月,車駕自陜還宮,子儀伏地請罪,帝駐車勞之曰:「朕用卿不早,故及於此。」乃賜鐵券,圖形淩煙閣。

この時、河北副元帥僕固懐恩はちょうど軍を汾州に駐屯させ、并へい州・汾州の諸県を掠めて己が領邑としていた。そこで子儀を関内河東副元帥・河中節度観察使を兼ねさせ、出鎮して河中に駐せしめた。蕃戎が既に退くと、僕固懐恩の部下は離散した。この月、懐恩の子の瑒が兵を率いて榆次にいたが、帳下の将張惟嶽に殺され、その首は京師に伝えられた。惟嶽は瑒の兵衆を率いて子儀に帰順し、懐恩は恐れてその母を棄てて霊州へ逃走した。翌年九月、子儀を太尉に任じ、北道邠寧・涇原・河西以東通和蕃及び朔方招撫観察使を充てさせ、その関内河東副元帥・中書令はもとの通りとした。子儀は懐恩が未だ誅殺されていないので、使職を譲るべきでないと考え、太尉を堅く辞して言った。「太尉の職は雄大で任は重く、私の非才がその地位に就くことをひそかに憂え、あえて上聞に及ぶ次第です。詔書を拝するも、誠懇な願いは未だお許しを賜わらず。臣が昔から抱いてきた分限により、早くから足るを知っておりましたが、今度重ねてお願い申し上げるのは、ひそかに満ち溢れることを恐れるからです。その義はまことに衷心より出ており、事は偽り飾ったものではなく、志の向かうところ、あえて言い尽くさないわけには参りません。兵乱が起こって以来、綱紀は次第に乱れ、時に躁競の徒多く、俗に廉隅をわきまえる者は少なくなりました。徳は薄いのに位は尊く、功は微かであるのに賞は厚い、実に多くの者がおり、尽く論じることはできません。臣はこれを見るたびに、深く心に留めております。昔、范宣子が譲ったので、その下の者も皆譲り、欒騕が驕奢であったので、敢えて違えなかったのです。臣は誠に薄劣ではありますが、ひそかに古人に慕い、務めて自ら率先し、浮薄な風俗を大いに変えようと、ここに勤勤懇懇として、この官を罷めることを願い、礼譲が盛んに行われるよう、臣によってもたらされることを望みます。臣の位は上相、爵は真王であり、啓沃の謀に参画し、腹心の寄託を受け、恩栄は既に極まり、功業は既に成りました。まさに骸骨を乞うて、残りの命を保つべき時です。ただ、冠たる仇敵が近くにあり、家国は未だ安らかでないため、臣子の心として、安んじて処することはできません。もし西戎がすぐに帰順し、懐恩が捕らえられれば、かつての官爵は誓って受けず、必ずや范蠡の跡を追い、留侯の跡を継ぎたいと存じます。臣の浅はかな思いは、切にここにあります。」優詔をもって許さなかった。子儀は上に謁見し、感激して涙を流し懇願して辞退したので、やっと止めた。

原文是時,河北副元帥僕固懷恩方頓軍汾州,掠并、汾諸縣以為己邑。乃以子儀兼關內河東副元帥、河中節度觀察使,出鎮河中。蕃戎既退,僕固懷恩部下離散。是月,懷恩子瑒主兵榆次,為帳下將張惟嶽所殺,傳首京師。惟嶽以瑒之眾歸於子儀,懷恩懼,棄其母而走靈州。明年九月,以子儀守太尉,充北道邠寧、涇原、河西已東通和蕃及朔方招撫觀察使,其關內河東副元帥、中書令如故。子儀以懷恩未誅,不宜讓使,堅辭太尉,曰:「太尉職雄任重,竊憂非據,輒敢上聞。伏奉詔書,未允誠懇。臣疇昔之分,早知止足,今茲累請,竊懼滿盈。義實由衷,事非矯飾,志之所至,敢不盡言。自兵亂已來,紀綱浸壞,時多躁競,俗少廉隅。德薄而位尊,功微而賞厚,實繁有眾,不可殫論。臣每見之,深以為念。昔范宣子讓,其下皆讓,欒騕為汰,不敢違也。臣誠薄劣,竊慕古人,務欲以身率先,大變浮俗,是用勤勤懇懇,願罷此官,庶禮讓興行,由臣而致也。臣位為上相,爵為真王,參啟沃之謀,受腹心之寄,恩榮已極,功業已成,尋合乞骸,保全餘齒。但以冠仇在近,家國未安,臣子之心,不敢寧處。茍西戎即敘,懷恩就擒,疇昔官爵,誓無所受,必當追蹤范蠡,繼跡留侯。臣之鄙懷,切在於此。」優詔不許。子儀見上,感泣懇讓,乃止。

十月、僕固懐恩が吐蕃・回紇・党項の数十万を引き連れて南下し、京師は大いに恐れた。子儀は出鎮して奉天に駐した。帝は子儀を召して戎狄を防ぐ計略を問うと、子儀は言った。「臣の見るところでは、懐恩は為す能わざる者です。」帝がその理由を問うと、答えて言った。「懐恩は驍勇と称えられてはいますが、平素より士卒の心を失っており、今乱を為し得るのは、帰郷を思う者を引き連れているからに過ぎません。懐恩はもともと臣の偏将であり、その部下は皆臣の部曲です。臣の恩信はかつて彼らに及んでおりました。今臣が大将である以上、必ずや刃を向け合うに忍びないでしょう。これによって、その為す能わざるを知るのです。」虜が邠州を寇すと、子儀は涇陽にいた。子儀は長男の朔方兵馬使曜に命じて師を率いてこれを救援させ、邠寧節度使白孝徳と共に城を閉ざして守りを固めた。懐恩の前鋒が奉天に至り、城近くで挑戦すると、諸将はこれを撃つことを請うたが、子儀はこれを止めて言った。「客兵が深く侵入すれば、利は速戦にあり、鋒を争ってはならない。彼らは皆わが部曲である。緩やかにすれば自ら離反するだろう。もしこれを迫れば、それは戦いを急がせることになり、戦えば勝負は未だ知れない。敢えて戦を言う者は斬る!」堅く壁を守ってこれを待つと、果たして戦わずして退いた。子儀は涇陽から入朝し、帝は安福門に御してこれを待ち、子儀に命じて楼上で朝見の礼を行わせ、宴と賜物は盛大であった。

原文十月,僕固懷恩引吐蕃、回紇、党項數十萬南下,京師大恐,子儀出鎮奉天。帝召子儀問禦戎之計,子儀曰:「以臣所見,懷恩無能為也。」帝問其故,對曰:「懷恩雖稱驍勇,素失士心,今所以能為亂者,引思歸之人耳。懷恩本臣偏將,其下皆臣之部曲,臣恩信嘗及之,今臣為大將,必不忍以鋒刃相向,以此知其無能為也。」虜寇邠州,子儀在涇陽,子儀令長男朔方兵馬使曜率師援之,與邠寧節度使白孝德閉城拒守。懷恩前鋒至奉天,近城挑戰,諸將請擊之,子儀止之曰:「夫客兵深入,利在速戰,不可爭鋒。彼皆吾之部曲,緩之自當攜貳;若迫之,是速其戰,戰則勝負未可知。敢言戰者斬!」堅壁待之,果不戰而退。子儀自涇陽入朝,帝御安福門待之,命子儀樓上行朝見之禮,宴賜隆厚。

十一月、子儀を尚書令しょうしょれいとした。子儀は上表して懇ろに辞して言った。「臣は薄劣にして、平素より行能に乏しく、時に逢って擾攘に遭い、みだりに駆策を蒙り、内には朝政に参画し、外には兵権を総べました。上は三光を翼戴することができず、下は群慝を糾逖することができず、功は微かであるのに賞は厚く、任は重いのに恩は深く、覆餗の憂いは、実に寤寐に満ちております。臣が先日固く太尉を辞し、余年を保つことを乞うたのは、特別なご配慮が曲がりなりにも臨み、遂にご憐憫をお許し賜わったからです。ひそかに陛下が既にその願いを知り、その心を深く察しておられると考えておりました。どうして未だ旬時を経ずして、再び寵命が及ぶなどと予想できましょう。臣の褊浅にして、また智謀に乏しい者が、どうして誤って南宮の職に就き、この大任に当たることができましょう。況や太宗が昔藩邸におられた時、嘗てこの官を践まれ、累代の聖君が相承け、空位のまま置かれなかったのです。皇太子が雍王であられた日、陛下はその兵を総べて薄伐し、関東を平定された功績により、飲至策勛の後、再びこの授けがありました。どうして臣のような末職が、敢えて大倫を乱すことができましょう。徳薄くして位尊ければ、天子の責めを逃れ難く、負乗して冠を致せば、再び神明の誅罰を速やかにします。伏して天の慈しみを乞い、新命を俯して停められますよう。」答詔して許さなかった。翌日、所司に勅して子儀に尚書省で視事させた。詔して宰相百官に送らせ、射生五百騎に戟を執らせて翼従させ、朝堂から省まで、教坊の楽を賜った。子儀は受けず、再び上表して言った。

原文十一月,以子儀為尚書令,上表懇辭曰:「臣以薄劣,素乏行能,逢時擾攘,猥蒙驅策,內參朝政,外總兵權。上不能翼戴三光,下不能糾逖群慝,功微賞厚,任重恩深,覆餗之憂,實盈寤寐。臣昨所以固辭太尉,乞保餘年,殊私曲臨,遂見矜許。竊謂陛下已知其願,深察其心,豈意未歷旬時,復延寵命。以臣褊淺,又寡智謀,安可謬職南宮,當茲大任?況太宗昔居籓邸,嘗踐此官,累聖相承,曠而不置。皇太子為雍王之日,陛下以其總兵薄伐,平定關東,飲至策勛,再有斯授。豈臣末職,敢亂大倫?德薄位尊,難逃天子之責;負乘致冠,復速神明之誅。伏乞天慈,俯停新命。」答詔不允。翌日,敕所司令子儀於尚書省視事。詔宰相百僚送上,遣射生五百騎執戟翼從,自朝堂至省,賜教坊樂。子儀不受,復上表曰:

臣が伏して考えるに、尚書令は、武徳の際、太宗がこれに任ぜられ、先日懇ろに上陳して、この職を罷めることを請うたところ、陛下は未だ明察を垂れず、務めて褒崇せんとされ、区区の微誠は、益々惶懼に用います。何となれば、太宗は極を立てられた主であり、聖徳は人に在り、その後この官を廃して以来、永代の則と為しております。陛下は文を守り体を継がれ、固より奉じてこれを行われるべきであり、どうして猥りに老臣に私し、その成式を隳し、上は陛下の徳を掩い、下は万方の非を遺すことができましょう。臣は至愚といえども、どうして軽々しく受けられましょう。況や久しく兵乱を経て、僭上の賞を受ける者多く、一人の身で、数四の官を兼ね、朱紫同じ色となり、清濁分かたず、「爛羊」の謡が、再び聖代に聞こえます。臣は頃よりその弊を見て、その源を革めんと思いましたが、逆寇が猶存するため、軽々しく議することを敢えませんでした。今、元兇は沮敗し、計日して成擒すべく、中外憂い無く、妖氛は漸く息みます。これは陛下が法を作られる際、官を審かにされる時であり、固より老臣より始めて、班列に化を及ぼすべきです。どうして軽々しくこの挙を行い、国章を乱すことができましょう。国章が上で乱れれば、則ち庶政は下で隳ち、海内の政みな乱れれば、国家またどうして永代に患い無くあり得ましょうか。陛下もし臣の言に従い、誠請を俯して察せられれば、あの栄を貪り進みを冒す者も、また各々その兼ねる官を譲り、自然と天下は文明となり、百工は式の如く敘され、太平の業は、得て復するを得ましょう。臣は誠に蒙鄙にして、古今の識昧く、志の切なる所は、実にここに在ります。

原文臣伏以尚書令,武德之際,太宗為之,昨瀝懇上陳,請罷斯職;而陛下未垂亮察,務欲褒崇,區區微誠,益用惶懼。何則?太宗立極之主,聖德在人,自後因廢此官,永代作則。陛下守文繼體,固當奉而行之,豈可猥私老臣,隳厥成式,上掩陛下之德,下貽萬方之非。臣雖至愚,安敢輕受?況久經兵亂,僭賞者多,一人之身,兼官數四,朱紫同色,清濁不分,「爛羊」之謠,復聞聖代。臣頃觀其弊,思革其源,以逆寇猶存,未敢輕議。今元兇沮敗,計日成擒,中外無虞,妖氛漸息。此陛下作法之際,審官之時,固合始於老臣,化及班列。豈可輕為此舉,以亂國章?國章亂於上,則庶政隳於下,海內之政皆亂,則國家又安得永代而無患哉!陛下茍能從臣之言,俯察誠請,彼貪榮冒進者,亦將各讓其所兼之官,自然天下文明,百工式敘,太平之業,可得而復也。臣誠蒙鄙,識昧古今,志之所切,實在於此。

手詔を以て答えて言った。「優崇の命は、功に報いる所以であり、総領の司は、政を賦するを期するものである。卿は内には台鉉に入り、外には戎旃を統べ、先朝より以来、累ねて多難を匡べ、海表に群氛を靖め、天階に庶績を凝らした。事に敏にして言寡く、敬に居りて行簡、人はその易きを難しとし、爾はその難きを易しとする。それ故に六聯を掌らしめ、百辟の首とし、時議を顧み循れば、皆これ允諧と謂う。而るに屡々封章を拝し、懇ろに譲揖を懐き、淳素の道を守り、政理の源を語り、礼の成るを待たず、曲に徳譲に従う。宜しく外に宣示し、史冊に編むべし。」内侍の魚朝恩を遣わして詔を伝えさせ、美人の盧氏ら六人、従者八人、並びに車服・帷帳・床蓐・珍玩の具を賜った。

原文手詔答曰:「{{red|優崇之命,所以報功;總領之司,期於賦政。卿入居臺鉉,出統戎旃,爰自先朝,累匡多難,靖群氛於海表,凝庶績於天階。敏事而寡言,居敬而行簡,人難其易,爾易其難。所以命掌六聯,首茲百辟,顧循時議,僉謂允諧。而屢拜封章,懇懷讓揖,守淳素之道,語政理之源,無待禮成,曲從德讓。宜宣示於外,編之史冊。}}」遣內侍魚朝恩傳詔,賜美人盧氏等六人、從者八人,並車服、帷帳、床蓐、珍玩之具。

時に蕃虜(異民族)がしばしば京畿(都の近郊)を侵し、蒲州・陝州を内陸の地とみなして頼り、常に重兵を置いてこれを鎮守していた。永泰元年五月、子儀を河南道節度行営の都統とし、出鎮して河中に駐屯させた。八月、僕固懷恩が吐蕃・回紇・党項・羌・渾・奴剌、山賊の任敷・鄭庭・郝德・劉開元ら三十余万を誘い南進させ、先に数万人を発して同州を掠め、期して華陰より藍田に向かい、南路を扼せんとし、懷恩は重兵を率いてその後を継いだ。回紇・吐蕃は涇州・邠州・鳳翔の数道より京畿を侵し、奉天・醴泉を掠めた。京師は震恐し、天子は親征の詔を下し、李忠臣に東渭橋に屯させ、李光進に雲陽に屯させ、馬璘・郝廷玉に便橋に屯させ、駱奉先・李日越に盩啡に屯させ、李抱玉に鳳翔に屯させた。周智光は同州に屯し、杜冕は坊州に屯し、天子は禁軍を苑内に屯させた。京城の壮丁は、皆団結(民兵組織)することを命じた。城の二門の一つを塞いだ。魚朝恩が士庶(官人・庶民)の私馬を徴発し、重兵で城門を扼し、市民は穴や隙間から逃げ去り、人情は危迫した。

原文時蕃虜屢寇京畿,倚蒲、陜為內地,常以重兵鎮之。永泰元年五月,以子儀都統河南道節度行營,出鎮河中。八月,僕固懷恩誘吐蕃、回紇、党項、羌、渾、奴剌,山賊任敷、鄭庭、郝德、劉開元等三十餘萬南下,先發數萬人掠同州,期自華陰趨藍田,以扼南路,懷恩率重兵繼其後。回紇、吐蕃自涇、邠、鳳翔數道寇京畿,掠奉天、醴泉。京師震恐,天子下詔親征,命李忠臣屯東渭橋,李光進屯雲陽,馬璘、郝廷玉屯便橋,駱奉先、李日越屯盩啡,李抱玉屯鳳翔。周智光屯同州,杜冕屯坊州,天子以禁軍屯苑內。京城壯丁,並令團結。城二門塞其一。魚朝恩括士庶私馬,重兵捉城門,市民由竇穴而遁去,人情危迫。

この時、急ぎ子儀を河中より召し寄せ、涇陽に屯させたが、虜の騎兵は既に合流していた。子儀の一軍は一万余人であったが、雑虜(諸種族の軍)がこれを数重に囲んだ。子儀は李国臣・高升にその東を防がせ、魏楚玉に南を当たらせ、陳回光に西を当たらせ、朱元琮に北を当たらせた。子儀は甲騎二千を率いて左右前後に出没した。虜はこれを見て問うた、「これは誰か」と。報いて曰く、「郭令公である」と。回紇は曰く、「令公は生きているのか。僕固懷恩が言うには、天可汗(皇帝)は既に四海を棄て(崩御し)、令公もまた世を去り、中国には主が無い、故に彼に従って来たという。今令公が生きているなら、天可汗は生きているのか」と。これに報いて曰く、「皇帝は万歳無疆である」と。回紇は皆曰く、「懷恩が我らを欺いた」と。子儀はまた使者を遣わしてこれを諭して曰く、「公らは近年、万里を遠く跋渉し、兇逆を翦除し、二京を恢復した。その時、子儀は公らと艱難を共にした、何日かこれを忘れようか。今、突然旧好を棄て、一人の叛臣を助けるとは、何と愚かなことか。かつ懷恩は主に背き親を棄てた、公らにとって何の益があろうか」と。回紇は曰く、「令公は亡くなったと聞いていた。そうでなければ、どうしてここまで来ようか。令公が本当に生きているなら、どうして会うことができようか」と。子儀が出ようとすると、諸将が諫めて曰く、「戎狄の心は信じるべからず、どうか行かないでください」と。子儀は曰く、「虜には数十倍の軍勢がある。今、力では確かに敵わないが、至誠は神をも感ずる、ましてや虜の輩であろうか」と。諸将は曰く、「どうか鉄騎五百を選んで衛従させてください」と。子儀は曰く、「それは却って害となるだけだ」と。乃ち伝呼して曰く、「令公来たる!」と。虜は初め疑い、弓を引き絞り矢をつがえてこれを待った。子儀は数十騎を従えてゆっくりと出て、冑を脱ぎ彼らを労って曰く、「安らかか。長く忠義を共にしてきたのに、どうしてここまでなるのか」と。回紇は皆、武器を捨て馬を下りて揃って拝礼して曰く、「果たして我が父である」と。子儀はその首領を召し、それぞれに酒を飲ませ、羅錦を与え、初めの如く歓談した。子儀は回紇を説いて曰く、「吐蕃は本来、我が舅甥の国(唐と吐蕃は姻戚関係)であり、背くところなくして来寇するのは、親しみがないからである。もし戈を倒してこれを乗ずれば、芥を拾うが如きものだ。その羊馬は野に満ち、長さ数百里に及び、これは天の賜り物と言え、失うべきではない。今、戎(吐蕃)を逐って利を得、我と旧好を継ぎ凱旋するのは、また善いことではなかろうか」と。時に懷恩が鳴沙で急死し、群虜は統率する者なく、遂に承諾し、乃ち首領の石野那らを遣わして入朝させた。子儀は朔方兵馬使白元光を遣わして回紇と会軍させた。吐蕃はその謀りごとを知り、この夜に奔退した。回紇と元光はこれを追撃し、子儀の大軍はその後を継ぎ、霊武台西原において吐蕃十余万を大破し、首級五万を斬り、生擒一万人とし、掠められた士女四千人を収容し、牛羊駱駝馬を獲た。それは三百里の内に絶えることがなかった。子儀は涇陽より入朝し、実封二百戸を加増され、河中に還鎮した。

原文是時,急召子儀自河中至,屯於涇陽,而虜騎已合。子儀一軍萬餘人,而雜虜圍之數重。子儀使李國臣、高升拒其東,魏楚玉當其南,陳回光當其西,朱元琮當其北。子儀率甲騎二千出沒於左右前後,虜見而問:「此誰也?」報曰:「郭令公也。」回紇曰:「令公存乎?僕固懷恩言天可汗已棄四海,令公亦謝世,中國無主,故從其來。今令公存,天可汗存乎?」報之曰:「皇帝萬歲無疆。」回紇皆曰:「懷恩欺我。」子儀又使諭之曰:「公等頃年遠涉萬里,翦除兇逆,恢復二京。是時子儀與公等周旋艱難,何日忘之。今忽棄舊好,助一叛臣,何其愚也!且懷恩背主棄親,於公等何有?」回紇曰:「謂令公亡矣,不然,何以至此。令公誠存,安得而見之?」子儀將出,諸將諫曰:「戎狄之心,不可信也,請無往。」子儀曰:「虜有數十倍之眾,今力固不敵,且至誠感神,況虜輩乎!」諸將曰:「請選鐵騎五百衛從。」子儀曰:「適足以為害也。」乃傳呼曰:「令公來!」虜初疑,持滿註矢以待之。子儀以數十騎徐出,免胄而勞之曰:「安乎?久同忠義,何至於是?」回紇皆舍兵下馬齊拜曰:「果吾父也。」子儀召其首領,各飲之酒,與之羅錦,歡言如初。子儀說回紇曰:「吐蕃本吾舅甥之國,無負而至,是無親也。若倒戈乘之,如拾地芥耳。其羊馬滿野,長數百里,是謂天賜,不可失也。今能逐戎以利舉,與我繼好而凱旋,不亦善乎!」會懷恩暴死於鳴沙,群虜無所統攝,遂許諾,乃遣首領石野那等入朝。子儀遣朔方兵馬使白元光與回紇會軍。吐蕃知其謀,是夜奔退。回紇與元光追之,子儀大軍繼其後,大破吐蕃十餘萬於靈武臺西原,斬首五萬,生擒萬人,收其所掠士女四千人,獲牛羊駝馬,三百里內不絕。子儀自涇陽入朝,加實封二百戶,還鎮河中。

朔方は、国の北門であり、西は犬戎(吐蕃)を防ぎ、北は獫狁(回紇など)を憂える。五城は三千余里を隔てている。開元・天宝の頃には、戦士十万、戦馬三万いて、ようやく一隅に敵していた。先皇帝(粛宗)が霊武で即位されて以来、戦士は陛下に従って両京を収復し、東西南北、かつて安寧の歳はなかった。中年(代宗の中期)には僕固の役(僕固懷恩の乱)があり、また消耗散逸し、人は三分の二を亡くし、天宝の頃と比べて十分の一となった。今、吐蕃は充満し、その勢いは十倍強く、河州・隴州の地を併せ持ち、羌・渾の衆を交え、毎年近郊を窺っている。朔方の十倍減じた軍をもって、吐蕃の十倍増した騎兵に当たらんとし、制勝を求めようとして、どうして容易に力を為せようか。近く内地に入り、四節度と称し、各将は万に満ち、各賊は数倍の乗り物を兼ねている。臣の統べる将士は、賊の四分之一に当たらず、所有する征馬は、賊の百分の二に当たらない。誠に固守すべきであり、戦うべきではない。また馬璘からの牒状を得たが、賊は渭水を渡って南進しようとしている。臣が堅壁すれば、恐らく畿甸(都の近郊)を犯すであろう。もし畿内を過ぎれば、則ち国人は大いに恐れ、諸道は容易に動揺する。外には吐蕃の強さがあり、中には動揺しやすい衆がいる。外を畏れ内を懼れて、どうして安んじられようか。臣は伏して考えるに、陛下には横制勝の術があり、力が不足しているわけではないが、ただ簡練(選抜訓練)が未だ精しくなく、進退が未だ一致せず、時が経てば師は老い、地が広ければ勢いは分かれることを慮る。願わくは陛下が更に讜議(正しい議論)を求め、慎んで名将を選び、これに軍を統率させ、諸道よりそれぞれ精卒を抽き出し、四、五万と成せば、則ち制勝の道は必ずある。時を失うべきではない。臣はまた、河南・河北・山南・江淮の小鎮は数千、大鎮は数万の兵がおり、月々の糧秣を空しく消耗しているだけで、かつて戦いを習わないと考える。臣はこれらを関中に抽き出して赴かせ、戦陣を教えれば、軍声は益々振るい、攻守必ず全うし、また長久之計ともなろう。臣は猥りに任遇を蒙り、ほぼ二十年になる。今、歯も髪も既に衰え、賢路を避けたい。足るを知りて誡めず(満足して退くことを咎めない)とは、神明の照覧するところである。

原文朔方,國之北門,西禦犬戎,北虞獫狁,五城相去三千餘里。開元、天寶中,戰士十萬,戰馬三萬,才敵一隅。自先皇帝龍飛靈武,戰士從陛下收復兩京,東西南北,曾無寧歲。中年以僕固之役,又經耗散,人亡三分之二,比於天寶中有十分之一。今吐蕃充斥,勢強十倍,兼河、隴之地,雜羌、渾之眾,每歲來窺近郊。以朔方減十倍之軍,當吐蕃加十倍之騎,欲求制勝,豈易為力!入近內地,稱四節度,每將盈萬,每賊兼乘數四。臣所統將士,不當賊四分之一,所有征馬,不當賊百分之二,誠合固守,不宜與戰。又得馬璘牒,賊擬涉渭而南。臣若堅壁,恐犯畿甸;若過畿內,則國人大恐,諸道易搖。外有吐蕃之強,中有易搖之眾,外畏內懼,將何以安?臣伏以陛下橫制勝之術,力非不足,但慮簡練未精,進退未一,時淹師老,地闊勢分。願陛下更詢讜議,慎擇名將,俾之統軍,於諸道各抽精卒,成四五萬,則制勝之道必矣,未可失時。臣又料河南、河北、山南、江淮小鎮數千,大鎮數萬,空耗月餼,曾不習戰。臣請抽赴關中,教之戰陣,則軍聲益振,攻守必全,亦長久之計也。臣猥蒙任遇,垂二十年,今齒發已衰,願避賢路,止足不誡,神明所鑒。

詔して曰く、「卿の憂いは深く虚遠(遠大)に及び、殊に朕が心を沃うるおす。始終倚頼すべきであり、固辞することは許されない」。

原文詔曰:「{{red|卿憂深虛遠,殊沃朕心,始終倚賴,未可執辭也。}}」

徳宗が即位し、詔して朝に還ることを命じ、冢宰を摂行させ、山陵使を充て、「尚父」の号を賜り、位を進めて太尉・中書令とし、実封を通計二千戸に増やし、一千五百人分の糧食、二百匹分の馬の草料を与え、領する諸使及び副元帥の職は全て罷免した。諸子弟・女婿で官に拜せられた者は十余人に及んだ。建中二年夏、子儀は病が甚だしく、徳宗は舒王誼に詔を伝えて見舞わせた。門に及んで、郭氏の子弟が外で迎え拝したが、王は拝礼に答えなかった。子儀は臥して起き上がれず、手を以て頭を叩き恩に謝するのみであった。六月十四日に薨去した。時に八十五歳。徳宗はこれを聞いて震悼し、五日間朝を廃し、詔して曰く、

原文德宗即位,詔還朝,攝冢宰,充山陵使,賜號「尚父」,進位太尉、中書令,增實封通計二千戶,給一千五百人糧,二百匹馬草料,所領諸使副元帥並罷。諸子弟女婿拜官者十餘人。建中二年夏,子儀病甚,德宗令舒王誼傳詔省問。及門,郭氏子弟迎拜於外,王不答拜;子儀臥不能興,以手叩頭謝恩而已。六月十四日薨,時年八十五,德宗聞之震悼,廢朝五日,詔曰:

旧令では一品の墳の高さは一丈八尺であったが、詔により特に十尺を加増した。群臣は順次その邸宅に赴き弔哭した。凶喪に必要なものは、全て官より給することとされた。葬送の際、上(皇帝)は安福門に御して臨哭し送り、百官は陪位して涙を落とし、諡を賜って忠武と曰い、代宗の廟庭に配饗された。

原文舊令一品墳高丈八,而詔特加十尺。群臣以次赴宅吊哭。兇喪所須,並令官給。及葬,上御安福門臨哭送之,百僚陪位隕泣,賜謚曰忠武,配饗代宗廟庭。

子の曜・旰・晞・昢・晤・曖・曙・映ら八人、婿七人、皆朝廷の重官であった。諸孫は数十人おり、毎回群孫が安否を問うても、全ては見分けがつかず、頷くだけであった。参佐官吏六十余人は、後に位が将相に至り、朝の位階も貴位に昇り、その姓名を石に刻んだ。今は河中府にある。人士はこれを栄誉とした。

原文子曜、旰、晞、昢、晤、曖、曙、映等八人,婿七人,皆朝廷重官。諸孫數十人,每群孫問安,不盡辨,頷之而已。參佐官吏六十餘人,後位至將相,升朝秩貴位,勒其姓名於石,今在河中府。人士榮之。

史臣裴垍が曰く、汾陽王(郭子儀)は上に仕えて誠実に尽くし、下に臨んで寛厚であり、城邑を降すごとに、赴くところ必ず士卒の心を得た。前後、幸臣程元振・魚朝恩の讒毀に遭うこと百端、時に強兵を握り、あるいは戎敵に臨む中、詔命をもって召せば、未だ嘗て即日に応召せざるはなく、故に讒謗行う能わず。代宗が陝に幸する時、数十騎を以て賊を覘わしめ、また涇陽に在っては、胡虜の重囲の中に陥ったが、皆身を以て国に許し、未だ嘗て危亡を以て慮いを易えず、また天幸に遇い、竟に患難を免れた。田承嗣が魏州で跋扈し、傲狠無礼であったが、子儀が嘗て使者を遣わすと、承嗣は西を望んでこれを拝し、その膝を指して使者に謂いて曰く「この膝、人に屈せずすること若干歳、今公のために拝す」と。李霊曜が汴州を拠り、公私の財賦を一切遏絶したが、独り子儀の封幣がその境を経るは、敢えて留める者なく、必ず兵を以て衛送した。その豺虎に服せられること此の如し。麾下の老将、李懐光の輩数十人、皆王侯の重貴なるも、子儀が頤指して進退すれば、僕隷の如し。幕府の盛なること、近代比ぶるなし。初め李光弼と斉名し、威略は及ばざるも、寛厚人を得ること之に過ぎた。歳に入る官俸二十四万貫、私利は其の中に在らず。その宅は親仁里に在り、里の四分の一を居し、中に永巷を通じ、家人三千、出入り相いする者その居を知らず。前後賜わる良田美器、名園甲館、声色珍玩、堆積羨溢、紀すに勝えず。代宗は名を呼ばず、大臣と称した。天下その身を以て安危と為すこと殆ど二十年。中書令の考を校するに二十有四。権天下に傾きて朝忌まず、功一代を蓋いて主疑わず、侈人欲に窮まりて君子之を罪せず。富貴寿考、繁衍安泰、哀栄終始、人道の盛なること、此に缺くる無し。ただ讒怒を以て、判官戸部郎中張譚を誣奏し杖殺したこと、物議薄しと為す。

原文史臣裴垍曰:汾陽事上誠藎,臨下寬厚,每降城下邑,所至之處,必得士心。前後遭罹幸臣程元振、魚朝恩譖毀百端,時方握強兵,或方臨戎敵,詔命徵之,未嘗不即日應召,故讒謗不能行。代宗幸陜時,令以數十騎覘賊,及在涇陽,又陷於胡虜重圍之中,皆以身許國,未嘗以危亡易慮,亦遇天幸,竟免患難。田承嗣方跋扈魏州,傲狠無禮,子儀嘗遣使至,承嗣西望拜之,指其膝謂使者曰:「茲膝不屈於人若干歲矣,今為公拜。」李靈曜據汴州,公私財賦一皆遏絕,獨子儀封幣經其境,莫敢留之,必持兵衛送。其為豺虎所服如此。麾下老將若李懷光輩數十人,皆王侯重貴,子儀頤指進退,如僕隸焉。幕府之盛,近代無比。始與李光弼齊名,雖威略不逮,而寬厚得人過之。歲入官俸二十四萬貫,私利不在焉。其宅在親仁里,居其里四分之一,中通永巷,家人三千,相出入者不知其居。前後賜良田美器,名園甲館,聲色珍玩,堆積羨溢,不可勝紀。代宗不名,呼為大臣。天下以其身為安危者殆二十年。校中書令考二十有四。權傾天下而朝不忌,功蓋一代而主不疑,侈窮人欲而君子不之罪。富貴壽考,繁衍安泰,哀榮終始,人道之盛,此無缺焉。唯以讒怒,誣奏判官戶部郎中張譚杖殺之,物議為薄。

子 曜

原文子 曜

曜は子儀の長子。性質孝友廉謹。子儀薨じ、出征して外に在り、曜を留めて家を治めしむ、少長千人、皆その所を得たり。諸弟池館を飾り争い、その車服を盛んにす。曜は儉樸を以て自ら処す。累遷して太子賓客に至る。建中初め、子儀兵柄を罷められ、乃ち遍く諸子に官を加え、曜を以て太子少保と為す。子儀曜遺命に遵い、四朝の賜う名馬珍玩、悉く皆上献し、徳宗復た之を賜う。曜乃ち諸昆弟に散ず。子儀薨じた後、楊炎・盧杞相次いで政を秉り、奸諂用事し、勲族を忌むこと尤も甚だし。子儀の婿太僕卿趙縦・少府少監李洞清・光禄卿王宰、皆人に告訐せらるる細過有りを以て、相次いで貶黜せらる。曜家大いに恐れ、宰相張鎰の力を頼みて庇護せらる。奸人その危懼を幸い、多く田宅奴婢を論奪す。曜敢えて訴えず。徳宗微かに之を知り、詔して曰く「尚父子儀、大勛力有り、皇家を保乂し、嘗て山河を以て誓い、之を金石に琢つ、十世の宥、其れ忘るべけんや。其の家前時人と市を為し、子儀身歿し、名誣構せらるるを以て、論奪せんと欲す。有司理を為すこと無きべし」と。詔下りて方に已む。曜喪に居りて礼を得、儒家の子の若く、服闋けずして寝疾す。或いは其の葱薤を茹うるを勧む。曜竟に口に属さず。建中四年三月卒す。太子太傅を贈らる。

原文曜,子儀長子。性孝友廉謹。子儀薨,出征於外,留曜治家,少長千人,皆得其所。諸弟爭飾池館,盛其車服,曜以儉樸自處。累遷至太子賓客。建中初,子儀罷兵柄,乃遍加諸子官,以曜為太子少保。子儀曜遵遺命,四朝所賜名馬珍玩,悉皆上獻,德宗復賜之,曜乃散諸昆弟。子儀薨後,楊炎、盧杞相次秉政,奸諂用事,尤忌勛族。子儀之婿太僕卿趙縱、少府少監李洞清、光祿卿王宰,皆以有人告訐細過,相次貶黜。曜家大恐,賴宰相張鎰力為庇護。奸人幸其危懼,多論奪田宅奴婢,曜不敢訴。德宗微知之,詔曰:「{{red|尚父子儀,有大勛力,保乂皇家,嘗誓以山河,琢之金石,十世之宥,其可忘也!其家前時與人為市,以子儀身歿,名被誣構,欲論奪之,有司無得為理。}}」詔下方已。曜居喪得禮,若儒家子,服未闋寢疾,或勸其茹蔥薤,曜竟不屬口。建中四年三月卒,贈太子太傅。

子 晞

原文子 晞

晞は子儀の第三子。少より騎射に善く、常に父に従い征伐す。初め戦功を以て左賛善大夫を授かり、広平王に従い両京を収復し、晞香積寺・陝西に力戦し、皆奇兵を出して克捷し、功を以て銀青光禄大夫・鴻臚卿を加う。後、河中軍乱し、節度使李国貞・荔非元礼を絳に殺す。詔して子儀を以て河東関内副元帥と為し、絳州に鎮せしむ。時四方擾叛し、多く戎帥を逐う。子儀絳に至り、其の元悪を誅す。其の党頗る自ら安からず、謀りて翻変せんと欲す。晞其の謀を知り、親兵四千を選び、甲を伏せて以て之を防ぎ、常に弓を把り夜を警め、寐ざること凡そ七十日、叛将竟に発するを敢えず。功を以て殿中監を拝す。広徳二年、僕固懐恩吐蕃・回紇を誘いて入寇せしむ。晞に御史中丞を加え、朔方軍を領して邠州を援けしめ、馬璘と勢を合し、大いに蕃軍を破る。其の年冬、懐恩虜を誘いて再び邠州を寇し、涇北に陣す。子儀晞に令し歩卒五千・騎軍五百を率い、西南より出で掩撃せしむ。晞兵寡く敵せずとし、持して戦わず、晡晚に至り、其の半済に乗じて之を撃ち、大いに獯虜を破り、首五千級を斬る。是時連戦皆捷し、詔して御史大夫を加う。子儀固く譲りて受けず。永泰二年、検校左散騎常侍さんきじょうじ。大暦七年、開府儀同三司を加う。十二年、母憂に丁す。服除け、検校工部尚書を加え、秘書省事を判ず。建中二年、父喪に丁し、服を把り京城に在り。朱泚逆を構え、人就きて第に問訊し、兵を掌らしめんと欲す。晞瘖を佯り、口を噤して言わず。泚兵を以て之を脅すも、晞終に語らず。賊其の用いるべからざるを知り、乃ち止む。晞潜かに奉天に奔り、僅かにして獲免す。

原文晞,子儀第三子。少善騎射,常從父征伐。初以戰功授左贊善大夫,從廣平王收復兩京,晞力戰於香積寺、陜西,皆出奇兵克捷,以功加銀青光祿大夫、鴻臚卿。後河中軍亂,殺節度使李國貞、荔非元禮於絳,詔以子儀為河東關內副元帥,鎮絳州,時四方擾叛,多逐戎帥,子儀至絳,誅其元惡,其黨頗不自安,欲謀翻變。晞知其謀,選親兵四千,伏甲以防之,常持弓警夜,不寐者凡七十日,叛將竟不敢發,以功拜殿中監。廣德二年,僕固懷恩誘吐蕃、回紇入寇。加晞御史中丞,領朔方軍以援邠州,與馬璘合勢,大破蕃軍。其年冬,懷恩誘虜再寇邠州,陣於涇北,子儀令晞率步卒五千、騎軍五百,出西南掩擊之。晞以兵寡不敵,持而不戰,及至晡晚,乘其半濟而擊之,大破獯虜,斬首五千級。是時連戰皆捷,詔加御史大夫,子儀固讓不受。永泰二年,檢校左散騎常侍。大歷七年,加開府儀同三司。十二年,丁母憂;服除,加檢校工部尚書,判秘書省事。建中二年,丁父喪,持服京城。朱泚構逆,遣人就第問訊,欲令掌兵,晞佯瘖,噤口不言,泚以兵脅之,晞終不語,賊知其不可用,乃止。晞潛奔奉天,僅而獲免。

初め、晞の兄曜父の代国公を襲ぎ、実封二千戸。及び曜卒す。詔して曰く「故尚父・太尉中書令・汾陽王、功上玄に格り、道下土に光り、其の善慶を積み、裕を垂れて窮まり無し。嫡長雲え殂すと雖も、支宗斯に盛んに、汾陽の旧邑、盍ぞ丕承有らざらん。其の男前左散騎常侍・駙馬都尉・食実封五百戸曖、夙に義方を稟け、忠に居り孝を履み、銀榜に儷崇し、美章を攄え、先封を継ぎ撫ず、允に復を聴くに宜し。曖の兄検校工部尚書・守太子賓客・趙国公晞、並びに弟右金吾将軍・祁国公・食実封二百五十戸曙、太子左諭徳映等、並びに休するに令名有り、其の先業を保つ。推恩の典を允すべく、以て延嗣の誠を明らかにすべし。其の実封二千戸、宜しく式に準じて半減し、余り分襲すべし。曖代国公を襲ぐべく、仍って前に襲ぐ三百戸を通ず。晞二百五十戸。曙五十戸、前に通ず三百七十戸。映二百三十五戸」と。尋いで又詔す、尚父子儀の男晞・曖・映・曙四人の襲ぐ実封、各五十戸を減じ、以て郭曜の男鉾・郭晤の男鐇に賜い、各一百戸を襲がしむ。

原文初,晞兄曜襲父代國公,實封二千戶,及曜卒,詔曰:「{{red|故尚父、太尉中書令、汾陽王,功格上玄,道光下土,積其善慶,垂裕無窮。雖嫡長雲殂,支宗斯盛,汾陽舊邑,盍有丕承。其男前左散騎常侍、駙馬都尉、食實封五百戶曖,夙稟義方,居忠履孝,儷崇銀榜,攄美金章,繼撫先封,允宜聽復。曖兄檢校工部尚書、守太子賓客、趙國公晞,並弟右金吾將軍、祁國公、食實封二百五十戶曙,太子左諭德映等,並休有令名,保其先業,宜允推恩之典,以明延嗣之誠。其實封二千戶,宜準式減半,餘可分襲。曖可襲代國公,仍通前襲三百戶;晞可二百五十戶;曙可五十戶,通前三百七十戶;映可二百三十五戶。}}」尋又詔尚父子儀男晞、曖、映、曙四人所襲實封,各減五十戶,以賜郭曜男鉾、郭晤男鐇,各襲一百戶。

晞行在に至り、復た検校工部尚書・太子詹事と為す。駕に従い京に還り、太子賓客に改む。晞の子鋼、朔方節度使杜希全の賓佐と為り、希全鋼を以て豊州刺史を摂せしむ。晞鋼の幼弱を以て、辺職に任せざるを恐れ、貞元七年、晞上章し鋼の官を罷めんことを請う。徳宗中使を遣わし之を召す。鋼他事を以て摂せらるると疑い、乃ち単騎して吐蕃に走入る。蕃将鋼の独り叛するを見て納れず、之を筏の上に置き、黄河に流して帰らしむ。杜希全之を得て、送り京師に赴かしむ。鋼に自尽を賜う。晞亦た子に坐して免官せらる。明年、復た太子賓客を授かる。貞元十年卒す。兵部尚書を贈らる。晞の次子鈞。鈞の子承嘏別に伝有り。

原文晞至行在,復檢校工部尚書、太子詹事;從駕還京,改太子賓客。晞子鋼為朔方節度使杜希全賓佐,希全以鋼攝豐州刺史。晞以鋼幼弱,恐不任邊職,貞元七年,晞上章請罷鋼官。德宗遣中使召之,鋼疑以他事見攝,乃單騎走入吐蕃。蕃將見鋼獨叛,不納,置之筏上,流入黃河令歸,杜希全得之,送赴京師,賜鋼自盡,晞亦坐子免官。明年,復授太子賓客。貞元十年卒,贈兵部尚書。晞次子鈞。鈞子承嘏別有傳。

子 曖

原文子 曖

郭曖は、子儀の第六子である。十余歳の時に、代宗の第四女升平公主を娶る。この時、升平の年齢もまた曖とほぼ同じであった。大暦年間、恩寵は戚里の中で最も厚く、歳時の賜物や珍玩は数え切れないほどであった。大暦十三年、詔があり、白渠の支流にある水車(碾硙)を撤去し、民の田畑への灌漑を妨げないようにせよと命じた。升平公主には脂粉硙が二輪、郭子儀には私硙が二輪あったが、担当官は撤去をためらった。公主が代宗に訴えると、帝は公主に言った、「朕がこの詔を出すのは、天下の民のためである。お前は朕の意を理解しないのか。率先して範を示すがよい」。公主は即日撤去を命じた。これにより、権勢ある家の碾硙八十余所がすべて撤去された。曖は検校左散騎常侍となった。建中末年、公主が事を起こして禁中に留め置かれると、曖も出入りを許されなかった。やがて朱泚の乱が起こり、天子が奉天に行幸したことを知らず、賊に迫られて偽官に任じられようとしたが、曖は喪中で病と称して辞退した。その後、兄の晞、弟の曙および升平公主とともに奉天に奔った。徳宗は喜び、以前の過ちを許し、以前のように遇し、銀青光禄大夫・検校左散騎常侍に復した。車駕に従って山南に至り、太常卿同正員に改めた。

原文曖,子儀第六子。年十餘歲,尚代宗第四女升平公主,時升平年亦與暖相類。大歷中,恩寵冠於戚里,歲時錫賚珍玩,不可勝紀。大歷十三年,有詔毀除白渠水支流碾硙,以妨民溉田。升平有脂粉硙兩輪,郭子儀私硙兩輪,所司未敢毀徹。公主見代宗訴之,帝謂公主曰:「吾行此詔,蓋為蒼生,爾豈不識我意耶?可為眾率先。」公主即日命毀。由是勢門碾硙八十餘所,皆毀之。曖檢校左散騎常侍。建中末,公主坐事,留之禁中,曖亦不令出入。既而朱泚之亂,不知車駕幸奉天,為賊所逼,欲授偽官,曖辭以居喪被疾。既而與兄晞、弟曙及升平公主皆奔奉天,德宗喜,並釋前咎,待之如初,復銀青光祿大夫、檢校左散騎常侍。從駕至山南,改太常卿同正員。

貞元年間、帝は皇孫広陵郡王のために曖の娘を妃に迎えた。曖は、貞元十六年七月に卒去し、尚書左僕射を追贈された。升平公主は、元和五年十月に薨去し、虢国大長公主を追贈され、懿と諡された。広陵王が即位して憲宗皇帝となると、妃は穆宗皇帝を生んだ。元和十五年、穆宗が即位し、郭妃を皇太后と尊び、詔して言った、「遠きを追い終わりを飾るは、先王の善き典である。まして仁を積み義を重ね、その事はすでに生前に顕れ、祥瑞が会し慶事が伝わり、福は遂に天下に流れた。盛徳を輝かせ、美しい称号を挙げるのは、尊尊親親の道がここにあるからである。皇太后の父、贈尚書左僕射郭曖は、崇高な家柄をよく受け継ぎ、王家に功労があり、孝友は生まれながらの知性に基づき、英華は職務の上で発揮され、誠実な一徳を実践し、三朝に仕えた。建中末年、大難に遭遇した際には、力を尽くして車駕を護衛し、身を顧みず戦いに赴き、忠貞の節操は国史に明らかである。才高く声望が和らぎ、これにより沁水の祥瑞を担い、徳厚く光を流し、塗山の福祚を開いた。ここに朕、小子は大業を継ぐを得たが、定申の命をまだ広げず、敢えて褒め記す恩に縁り、維師の位を継がせ、礼を煩わせぬようにする。太傅を贈るべし」。曖の子に釗、鏦、銛がいる。

原文貞元中,帝為皇孫廣陵郡王納曖女為妃。曖,貞元十六年七月卒,贈尚書左僕射。升平公主,元和五年十月薨,贈虢國大長公主,謚曰懿。廣陵王即位,為憲宗皇帝,妃生穆宗皇帝。元和十五年,穆宗即位,尊郭妃為皇太后,詔曰:「{{red|追遠飾終,先王令典。況積仁累義,事已顯於身前;祥會慶傳,福遂流於天下。式光盛德,爰舉徽章,尊尊親親,於是乎在。皇太后父贈尚書左僕射曖,克荷崇構,有勞王家,孝友本於生知,英華發於事任,實修一德,歷仕三朝。建中末年,屬有大難,畢力扈駕,忘軀即戎,忠貞之節,國史明備。才高望洽,是膺沁水之祥;德厚流光,乃啟塗山之祚。肆予小子,獲纘大業,未展定申之命,敢緣褒紀之恩,俾繼維師,用不縟禮。可贈太傅。}}」曖子釗、鏦、銛。

郭曙は、代宗朝に累進して司農卿となり、父の喪に服した。建中三年冬、舒王誼が淮西・山南諸道大元帥となると、曙を検校左庶子とし、元帥府都押牙とした。京城の乱に際し、山南への行幸に従い、太府卿に転じた。車駕に従って還京し、左金吾衛大将軍に任ぜられた。貞元末年に卒去した。

原文曙,代宗朝累歷司農卿,居父憂。建中三年冬,舒王誼為淮西、山南諸大元帥,以曙檢校左庶子,為元帥府都押牙。京城亂,從幸山南,轉太府卿。隨駕還京,拜左金吾衛大將軍。貞元末卒。

曖の子 郭釗

原文曖子 釗

郭釗は、姿形が立派で、身長七尺、口が四角く下顎が豊かで、沈黙寡言であった。母は升平長公主である。代宗朝、釗は外孫として恩寵が格別で、初官は太常寺奉礼郎であった。徳宗朝、累官して太子右庶子に至った。元和初年、左金吾衛大将軍となり、左街使を兼ねた。九年十一月、検校工部尚書、邠州刺史を兼ね、邠寧節度使を務めた。数年後、検校戸部尚書となり、入朝して司農卿となった。釗は、大功を立てた家の後裔であり、后妃の縁戚に連なるが、謙和に人と接し、恭しく慎み深く自らを律し、家にあっても民を治めても、驕り怠る色がなく、奢侈の過ちもなく、士君子はこれを重んじた。十五年正月、憲宗が病臥して十日余り、権力を握る宦官たちが廃立を議論し、紛糾して決まらなかった。穆宗は東宮にあって、心配のあまり人を遣わして釗に計を問うと、釗は言った、「殿下は皇太子であられる。ただ朝夕の食事を看視し、謹んで守って待たれるがよい。何を憂えられようか」。今に至るまで、釗が元舅としての本分を得ていたと称えられる。

原文釗,偉姿儀,身長七尺,方口豐下,沈默寡言。母升平長公主。代宗朝,釗為外孫,恩寵逾等,起家為太常寺奉禮郎。德宗朝,累官至太子右庶子。元和初,為左金吾衛大將軍,充左街使。九年十一月,檢校工部尚書,兼邠州刺史,充邠寧節度使。數歲,檢校戶部尚書,入為司農卿。釗,大勛之後,姻聯戚里,而謙和接物,恭慎自持,居家臨民,無驕怠之色,無奢侈之失,士君子重之。十五年正月,憲宗寢疾彌旬,諸中貴人秉權者欲議廢立,紛紛未定。穆宗在東宮,心甚憂之,遣人問計於釗,釗曰:「殿下身為皇太子,但旦夕視膳,謹守以俟,又何慮乎!」迄今稱釗得元舅之體。

穆宗が即位し、皇太后を南内に冊立し、外戚を推し崇めると、釗を司農卿を兼ねさせた。間もなく、検校戸部尚書、河陽三城懐節度使を務めた。その年のうちに、河中尹・河中晉絳慈隰節度使に転じた。釗は藩鎮を歴任したが、汾陽王の子孫として、才能により選抜任用され、単に后族の勢力に頼るだけでなく、赴任地では簡約で屈せず、その風俗はおのずから治まった。敬宗が即位し、郭太后を太皇太后と尊ぶと、釗を召し出して兵部尚書、兼検校尚書左僕射とした。翌年、梓州刺史・剣南東川節度使として出向した。文宗が即位し、司空を加えられた。大和三年冬、南蛮が巂州を陥落させ、西川に寇した。杜元穎が防禦を誤り、蛮軍は成都府の外城を陥落させた。朝廷は帥を任命する暇がなく、釗に西川節度使を兼領させた。蛮軍はすでに樟州を寇していたが、諸道の援軍は未だ至らず、川軍は寡弱で戦わせることはできなかった。釗は蛮の首領泬巔に書を送り、侵寇の意を責めると、泬巔は言った、「杜元穎が疆埸を守らず、しばしば我が領域を侵したので、これに報いるのである」。釗と和好を修めて退いた。朝廷はこれを嘉し、成都尹・剣南西川節度使を授けた。南詔と盟約を結び、国境を侵さなかった。病気を理由に代役を求めた。四年、入朝して太常卿・検校司徒となった。十二月、赴任の途中で卒去し、詔により司徒を追贈された。子に仲文、仲辞がいる。

原文穆宗即位,冊皇太后南內,推崇外氏,以釗兼司農卿。未幾,檢校戶部尚書,充河陽三城懷節度使。歲中,換河中尹、河中晉絳慈隰節度使。釗歷踐籓鎮,以汾陽胄胤,材能選用,不獨憑椒房之勢,所蒞簡約不撓,其俗自理。敬宗即位,尊郭太后為太皇太后,征釗為兵部尚書,兼檢校尚書左僕射。明年,出為梓州刺史、劍南東川節度使。文宗即位,加司空。大和三年冬,南蠻陷巂州,遂寇西川,杜元穎失於控禦,蠻軍陷成都府外城。朝廷未暇除帥,乃以釗兼領西川節度。蠻軍已寇樟州,諸道援軍未至,川軍寡弱,不可令戰。釗致書於蠻首領泬巔,責以侵寇之意,泬巔曰:「杜元穎不守疆埸,屢侵吾圉,以是修報也。」與釗修好而退。朝廷嘉之,授成都尹、劍南西川節度使。與南詔立約,疆陲不擾。以疾求代。四年,入為太常卿、檢校司徒。十二月,在道卒,詔贈司徒。子仲文、仲辭。

曖の子 郭鏦

原文曖子 鏦

郭鏦は、母は升平長公主であり、大暦・貞元の間、恩礼は諸公主の中で最も厚かった。順宗が東宮にあった時、娘の徳陽郡主を鏦に嫁がせた。当時、鏦と公主はまだ冠年(二十歳)に達しておらず、郡主は特に徳宗の寵愛を受けたので、鏦の貴寵は一時を輝かせた。順宗が即位し、徳陽を漢陽公主に改封した。鏦は累官して衛尉卿・駙馬都尉となり、殿中監に改めた。穆宗が即位し、鏦は叔舅として、右金吾衛大将軍・兼御史大夫に改め、左街使を務めた。城南に汾陽王の別荘があり、林泉の趣は比類なく、穆宗はしばしば遊幸し、酒宴を設けて大いに楽しんだ後、鏦に甚だ厚く賜物を与えた。まもなく検校工部尚書を加えられ、兼太子詹事、閑廄宮苑使を務めた。貴い地位に安らかにあって三十余年、后族の寵愛、国舅の恩遇は、近代以来、これに比べるものはなかった。しかし鏦は恭しく遜り慎み深く、富貴を以て人に驕ることなく、士の賢不肖を問わず礼をもって接したので、朝廷内外で称えられた。長慶二年十月に卒去し、尚書左僕射を追贈され、弟の銛が鏦に代わって太子詹事、閑廄宮苑使となった。

原文鏦,母升平長公主,大歷、貞元之間,恩禮冠諸主。順宗在東宮,以女德陽郡主尚鏦,時鏦與公主年未及冠,郡主尤為德宗之所鐘愛,故鏦之貴寵,焜燿一時。順宗即位,改封德陽為漢陽公主。鏦累官至衛尉卿、駙馬都尉,改殿中監。穆宗即位,鏦為叔舅,改右金吾衛大將軍、兼御史大夫,充左街使。城南有汾陽王別墅,林泉之致,莫之與比,穆宗常遊幸之,置酒極歡而罷,賜钅從甚厚。俄加檢校工部尚書,兼太子詹事,充閑廄宮苑使。從容貴位三十餘年,而椒房之寵,國舅之恩,近代已來,無有其比。而鏦恭遜虔恪,不以富貴驕人,士無賢不肖,接之以禮,由是中外稱之。長慶二年十月卒,贈尚書左僕射,仍以其弟銛代鏦為太子詹事,充閑廄宮苑使。

釗の子 郭仲文

原文釗子 仲文

仲文は、大和の末に殿中少監となった。開成の初め、詔して仲文に父の太原郡公を襲封させようとしたが、制書が上ると、給事中封敕が奏上して言うには、「伏して制書を準拠しますに、贈司徒郭釗の嫡男仲文が太原郡公を襲封するという件であります。臣が近く訪ねて知ったところでは、郭釗の妻沈氏は、公主の娘であり、代宗皇帝の外孫で、男子仲辞があり、既に選ばれて主(公主)を娶っております。仲文は偽って嫡子を称えるべきではありません。もし仲文が嫡子を継ぐならば、すなわち沈氏は別室に退かねばならず、仲辞は貴主を娶るにふさわしくなくなります。伏して考えるに、郭仲文は、尚父(郭)子儀の孫、太皇太后の甥であり、戚里の勛門として比類するものはありませんが、婚姻と嫡庶のことは、朝野ともに知るところであり、宗を奪って配するのは、実に風教を汚すものです。かつ仲文と仲辞は既に同母ではありませんから、襲封と尚主は並行して行うことはできません。伏して請う、台に付して勘当させてください。」詔して言うには、「万年県尉仲辞に襲封させる。」仲文は取り下げられたが、太皇太后の甥であるため、罪に問わなかった。まもなく仲辞を銀青光禄大夫・検校中少監・駙馬都尉とし、太原郡公を襲封させ、饒陽公主を娶らせた。また仲辞の兄で詹事府丞の仲恭は、銀青光禄大夫とし、金堂公主を娶らせた。

原文仲文,大和末為殿中少監。開成初,詔仲文襲父太原郡公,制上,給事中封敕奏曰:「伏準制書,贈司徒郭釗嫡男仲文襲封太原郡公者,臣近訪知郭釗妻沈氏,公主之女,代宗皇帝外孫,有男仲辭,已選尚主。仲文不合假冒,自稱嫡子。若仲文承嫡,即沈氏須黜居別室,仲辭不合配尚貴主。伏以郭仲文,尚父子儀之孫,太皇太后之侄,戚里勛門,無與儔比,婚姻嫡庶,朝野具知,奪宗之配,實玷風教。且仲文、仲辭既非同出,襲封尚主,不可並行。伏請付臺勘當。」詔曰:「{{red|以萬年縣尉仲辭襲封。}}」仲文落下,以太皇太后侄,不之罪。尋以仲辭為銀青光祿大夫、檢校中少監、駙馬都尉,襲封太原郡公,尚饒陽公主。又仲辭兄詹事府丞仲恭,為銀青光祿大夫,尚金堂公主。

母弟 幼明

原文母弟 幼明

幼明は、尚父(郭)子儀の母弟である。性質は謹み深く過ちがなく、武芸は巧みでないが、賓客を喜んで飲宴し、家にいて衆を統御すること、皆その歓心を得た。子儀の勲業により、累ねて大卿監を歴任し、大暦八年に卒し、太子太傅を贈られた。

原文幼明,尚父子儀之母弟也。性謹願無過,不工武藝,喜賓客飲宴,居家禦眾,皆得其歡心。以子儀勛業,累歷大卿監,大歷八年卒,贈太子太傅。

子の昕は、粛宗の末に四鎮留後となった。関・隴が吐蕃に陥落して以来、虜に阻隔され、その四鎮・北庭の使額は、李嗣業・荔非元礼が皆遙領していた。昕は阻隔されて十五年、建中二年に、伊西北庭節度使李元忠とともに使者を朝廷に遣わし、徳宗はこれを嘉した。詔して言うには、「四鎮・二庭は、西夏五十七蕃十姓部落を統任し、国朝以来、相次いで職を奉じた。関・隴を失守して以来、東西阻絶し、忠義の徒は、泣血して相守り、封略を慎み固くし、朝法を奉じて尊び、皆候伯守将が交わって修め共に治めたことによるものである。伊西北庭節度使李元忠は、北庭大都護とすべし。四鎮節度留後郭昕は、安西大都護・四鎮節度使とすべし。その将吏以下は官を叙し、七資を超えることを可とする。」

原文子昕,肅宗末為四鎮留後。自關、隴陷蕃,為虜所隔,其四鎮、北庭使額,李嗣業、荔非元禮皆遙領之。昕阻隔十五年,建中二年,與伊西北庭節度使李元忠俱遣使於朝,德宗嘉之。詔曰:「{{red|四鎮、二庭,統任西夏五十七蕃十姓部落,國朝以來,相次率職。自關、隴失守,東西阻絕,忠義之徒,泣血相守,慎固封略,奉尊朝法,皆候伯守將交修共理之所致也。伊西北庭節度使李元忠,可北庭大都護;四鎮節度留後郭昕,可安西大都護、四鎮節度使。其將吏已下敘官,可超七資。}}」

李元忠は、本姓は曹、名は令忠といい、功により姓名を賜った。時に昕の使者は回紇を経て諸蕃部を歴て、ようやく朝廷に達した。また袁光庭という者がおり、伊州刺史となり、隴右諸郡が皆陥落したが、光庭は伊州を堅守し、吐蕃がこれを攻めること累年、兵尽き食竭き、光庭は先ずその妻子を刃にかけ、自ら焼死した。昕の使者によってこれを知り、工部尚書を贈った。

原文李元忠,本姓曹,名令忠,以功賜姓名。時昕使自回紇歷諸蕃部,方達於朝。又有袁光庭者,為伊州刺史,隴右諸郡皆陷,光庭堅守伊州,吐蕃攻之累年,兵盡食竭,光庭先刃其妻子,自焚而死。因昕使知之,贈工部尚書。

【史評】

原文【史評】

史臣が曰く、天宝の末、盗賊が幽陵より起こり、万乗は播遷し、両都は覆没した。天は土徳に祚し、実に汾陽(郭子儀)を生んだ。河朔より班師し、関西に寇を殄滅し、身をもって豺虎を払い、手をもって荊榛を披く。七八年の間、その勤め至るものあり、王室を再造し、勲は一代に高し。国威が再び振るうに及んで、群小は讒言を肆にし、位重くして懇ろに辞し、寵を失っても怨みなし。不幸にして危うきに臨んで君父を邀えず、憾みを挟んで仇讐に報いず、晏然として忠を効し、死すとも二心なし、誠に大雅の君子、社稷の純臣である。秦・漢以来、勲力の盛んなるもの、比倫するものなし。而して晞・曖は縗粗の中にあって、身を虎口より抜き、難に赴いて奉天に至る、忠孝の門に嗣あると謂うべし。

原文史臣曰:天寶之季,盜起幽陵,萬乘播遷,兩都覆沒。天祚土德,實生汾陽。自河朔班師,關西殄寇,身扞豺虎,手披荊榛。七八年間,其勤至矣,再造王室,勛高一代。及國威復振,群小肆讒,位重懇辭,失寵無怨。不幸危而邀君父,不挾憾以報仇讎,晏然效忠,有死無二,誠大雅君子,社稷純臣。自秦、漢已還,勛力之盛,無與倫比。而晞、曖於缞粗之中,拔身虎口,赴難奉天,可謂忠孝之門有嗣矣。

賛して曰く、猗歟たるかな汾陽、功は昊蒼を扶く。仁を秉り義に蹈み、心は鉄の如く腸は石の如し。四朝静乱し、五福其れ昌なり。臣たるの節、敢えて忠良に告ぐ。

原文贊曰:猗歟汾陽,功扶昊蒼。秉仁蹈義,鐵心石腸。四朝靜亂,五福其昌。為臣之節,敢告忠良。