卷一百二十
郭子儀
郭子儀は華州鄭県の人である。父の敬之は、綏州・渭州・桂州・寿州・泗州の五州刺史を歴任し、子儀の貴顕により太保を追贈され、祁国公に追封された。子儀は身長六尺余り、体貌は秀傑であり、初め武挙の高等に及第して左衛長史に補され、諸軍使を累歴した。天宝八載、木剌山に横塞軍及び安北都護府を置き、子儀にその使を領することを命じ、左衛大将軍に拝された。十三載、横塞軍及び安北都護府を永清柵の北に移して城を築き、なお横塞を天徳軍と改め、子儀がその使となり、九原太守・朔方節度右兵馬使を兼ねた。
十四載、安禄山が反逆した。十一月、子儀を衛尉卿とし、霊武郡太守を兼ね、朔方節度使を充て、詔して子儀に本軍を率いて東討させた。そこで兵を挙げて単于府より出撃し、静辺軍を収め、賊将周万頃を斬り、その首を闕下に伝送した。禄山は大同軍使高秀巖を遣わして河曲を寇したが、子儀はこれを撃破し、進んで雲中・馬邑を収め、東陘を開いた。功により御史大夫を加えられた。十五載正月、賊将蔡希徳が常山郡を陥とし、顔杲卿を捕らえ、河北の郡県は皆賊の守るところとなった。二月、子儀は河東節度使李光弼とともに師を率いて井陘を下り、常山郡を抜き、賊を九門で破り、南に趙郡を攻め、賊四千を生擒したが、皆これを赦し、偽太守郭献璆を斬り、兵仗数万を獲た。師は常山に還ったが、賊将史思明が数万人を率いてその後を追い、我が行くに従い、我が止まるに止まった。子儀は驍騎五百を選んで更にこれを挑発し、三日にして行唐に至ると、賊は疲れて退いた。我が軍はこれに乗じ、沙河においてまた敗った。禄山は思明の敗北を聞き、精兵を以てこれを増強した。我が軍が恒陽に至ると、賊もまた随いて至った。子儀は堅壁を築いて自らを固め、賊が来れば守り、賊が去れば追い、昼はその兵を揚げ、夕べにはその幕舎を襲い、賊人は息をつく暇もなかった。数日後、光弼が議して言うには、「賊は怠っている、戦うことができる」と。六月、子儀・光弼は僕固懐恩・渾釈之・陳回光等を率いて嘉山に陣し、賊将史思明・蔡希徳・尹子奇等もまた陣を結んで至ったが、一戦にしてこれを敗り、斬首四万級、生擒五千人、馬五千匹を獲、思明は髪を露わし足を跣いて博陵に奔った。ここにおいて河北十余郡は皆賊の守将を斬って王師を迎えた。子儀は北に范陽を図らんとし、軍声大いに振るった。
その月、哥舒翰が賊に敗れ、潼関は守られず、玄宗は蜀に幸し、粛宗は霊武に幸した。子儀の副使杜鴻漸が朔方留後となり、車駕を迎えることを奏上した。七月、粛宗が即位し、賊が両京を占拠しているため、収復を謀り、詔して子儀に班師させた。八月、子儀は李光弼とともに歩騎五万を率いて河北より至った。当時朝廷は初めて立ち、兵衆は寡弱であり、牧馬を得たとはいえ、軍容は欠然としていた。子儀・光弼が全師を挙げて行在に赴くと、軍声は遂に振るい、興復の勢いについて、民衆に望みが生じた。詔して子儀を兵部尚書・同中書門下平章事とし、前の如く霊州大都督府長史・朔方軍節度使を依任した。粛宗は六軍を大閲し、南に関輔に向かい、彭原郡に至った。宰相房琯が兵一万人を請い、自ら統帥となって賊を討たんとした。帝は平素より琯を重んじていたので、これを許した。兵が陳濤に及ぶと、賊に敗れ、師は殆んど喪失した。正に討除の事に当たる時に、軍の半ばが殪え、ただ朔方軍を根本として倚り頼むのみとなった。十一月、賊将阿史那従礼が同羅・僕骨の五千騎を率いて塞を出、河曲九府・六胡州の部落数万を誘い、行在を迫らんとした。子儀は回紇の首領葛邏支とともに往きこれを撃破し、斬獲数万、河曲は平定された。
その月、安禄山が死んだ。朝廷は大挙を図ろうとし、詔して子儀に鳳翔に還らせた。四月、司空に進位し、関内・河東副元帥を充てた。五月、詔して子儀に師を帥いて京城に向かわせた。師は潏水の西にあり、賊将安太清・安守忠と戦ったが、王師は利あらず、その衆は大いに潰え、兵仗を尽く清渠の上に委棄した。子儀は余衆を収め合わせ、武功を保ち、闕に詣でて罪を請い、官資の降下を乞うた。そこで左僕射に降とされたが、その余は元の如くであった。九月、元帥広平王に従って蕃漢の師十五万を率いて進み長安を収復した。回紇は葉護太子を遣わして四千騎を領し、国を助けて賊を討たせた。子儀は葉護と宴狎して修好し、相与に国難を平らげることを誓い、相得ること甚だ良かった。子儀は元帥を奉じて中軍とし、賊将安守忠・李帰仁と京西香積寺の北で戦った。王師は陣を結んで横たわること三十里、賊衆十万は北に陣した。帰仁が先ず我が軍に迫ると、我が軍は乱れたが、李嗣業が奮命して馳突し、賊十余騎を擒にしてようやく定まった。回紇は奇兵を以て賊陣の後より出てこれを夾攻し、賊軍は大いに潰え、午より酉に至るまで、斬首六万級に及んだ。賊将張通儒は長安を守っていたが、帰仁等の敗北を聞き、その夜陝郡に奔った。翌日、広平王が京師に入ると、老幼百万、道を夾んで歓叫し、涕泣して言うには、「今日また官軍を見ることを図らず」と。広平王は士卒を三日休ませ、師を率いて東に向かった。粛宗は鳳翔にいて捷報を聞き、群臣賀した。帝は宗廟が焚かれたことを以て、悲咽して自ら勝えず、臣僚感泣せざるはなかった。
臣は徳薄く蝉の翼のごとく、命軽く鴻毛のごとし、累ねて国恩を蒙り、猥りに朝列に側わる。時に天地震蕩し、中原血戦す。臣は北は霊武より、先皇帝を冊立し、ついに兵を挙げて南し、岐陽において大いに捜索す。先帝は宗社を憂勤し、臣に家国を託し、陛下に副いて両京の妖賊を掃討せしむ。陛下は雄図大断、区宇を再造し、その後臣の寡劣を以てせず、文武の二柄を委ね、外には邦教を敷き、内には鼎飪を調え、ここをもって常に国家の死を許し、実に日月の明を荷う。臣は本より愚浅、言多くは詆直、このために謗を招き、上は冕旒を瀆すを慮る。陛下は高きに居りて卑きを聴き、臣の不二を察し、皇天后土、臣の私なきを察す。伏して器は満盈を忌むを以て、日増しに兢惕し、安んぞ敢えて全きを偷み、久しく賢路を妨げんや。恩を塞下に受けしより、敵を制し行間にあり、東西十年、前後百戦。天寒くして剣折れ、血を濺ぎて衣に沾う。野に宿りて魂驚き、氷を飲みて骨を傷む。跋渉難阻、死生に出没し、仗る所唯天のみ、以て今日に至る。陛下は曲げて恵奨を申し、勤労に念い及び、臣に詔書一千余首を遺し、聖旨微婉、慰諭綢繆、微臣一時の功を彰し、子孫万代の宝を成す。霊武・河北・河南・彭原・鄜坊・河東・鳳翔・両京・絳州、臣の経行する所、賜わりし手詔勅書凡そ二十巻、昧死して上進し、庶幾くば煩わしきを聴覧せん。
詔を以て答えて曰く、「朕は徳なく明ならず、大臣をして憂疑せしむ、朕が過ちなり。朕は甚だ自ら愧ず、公以て慮うること勿れ」と。代宗は子儀がかつて患難を共にし、両京を収復したことを以て、礼遇すること愈厚くした。時に史朝義がなお洛陽を占拠し、元帥雍王が軍を率いて進討した。代宗は子儀をその副としようとしたが、魚朝恩・程元振が政を乱し、裴茂・来瑱を殺したため、子儀はすでに離間され、その事はついに止み、京師に留まった。
やがて梁崇義が襄陽に拠って叛き、僕固懐恩が汾州に兵を留めて阻み、回紇・吐蕃の兵を引き入れて河西に寇す。翌年十月、吐蕃が涇州を陥とし、刺史高暉を虜にし、暉は遂に蕃軍とともに郷導となり、賊を引き入れて深く京畿に至り、奉天・武功を掠め、渭水を渡って南に進み、山に沿って東に向かう。渭北行営兵馬使呂日将が盩厔において逆戦し、辰より酉に至るまで、蕃軍数千を殺すも、その徒多く殞る。賊将たる京師に逼らんとし、君上計る所なく、急ぎ詔して子儀を関内副元帥と為し、出でて咸陽に鎮まらしむ。子儀は相州の不利より、李光弼に兵権を代わって掌らせ、及び征還して朝廷に至るも、部曲散じ去る。及び是に詔を承け、部下唯二十騎のみ、強いて民家の畜産を取って軍を助く。咸陽に至れば、蕃軍既に渭水を過ぐ。その日、天子狄を避けて陝州に幸す。子儀上狄を避けたるを聞き、雪涕して京に還るも、至れば車駕既に発つ。射生将王献忠駕に従い、沿路遂に四百騎を以て叛き、仍て豊王以下十王を逼りて賊に投ぜんとす。子儀開遠門に入り、之に遇い、豊王等の向かう所を詰め、遂に行在所に護送す。子儀三千騎を以て南山に傍い、商州に至り、武関の防兵及び六軍の散卒四千人を得て、亡逸を招輯し、その軍漸く振う。蕃京城を犯し、故邠王守礼の子広武王承宏を得て、帝号を立て、百官を仮署す。子儀六軍兵馬使張知節・烏崇福・羽林軍使長孫全緒等に兵万人を将いて前鋒と為らしめ、韓公堆に営し、旗幟を盛んに張り、鼓鞞山谷を震わす。全緒禁軍の旧将王甫を遣わして長安に入らしめ、陰に少年豪侠を結びて内応と為し、一日、朱雀街に鼓を斉しく撃つと、蕃軍惶駭して去る。大将李忠義先に兵を苑中に屯し、渭北節度使王仲升朝堂を守る。子儀大軍を以て続いて進み、浐西に至る。射生将王撫自ら署して京兆尹と為り、兵二千人を聚めて京城を擾乱す、子儀撫を召して之を殺す。詔して子儀に権めて京城留守を為らしむ。
西蕃の入寇より、車駕東幸してより、天下皆程元振を咎め、諫官屡之を論ず。元振懼れ、又子儀の復た功を立てたるを以て、天子の京に還るを欲せず、帝に勧めて且つ洛陽に都して蕃冠を避けんとす、代宗之を然りとし、詔を下すこと日有り。子儀之を聞き、兵部侍郎張重光の宣慰より回るに因り、章を附して論奏して曰く。
代宗表を省み、涙を垂れて左右に謂いて曰く、「子儀の用心、真に社稷の臣なり。急ぎ京師に還るべし。」十一月、車駕陜より還り宮す、子儀地に伏して罪を請う、帝車を駐めて之を労いて曰く、「朕卿を用いること早からざるを以て、故に此に及べり。」乃ち鉄券を賜い、形を淩煙閣に図す。
この時、河北副元帥僕固懐恩はちょうど軍を汾州に駐屯させ、并州・汾州の諸県を掠めて己が領邑としていた。そこで子儀を関内河東副元帥・河中節度観察使を兼ねさせ、出鎮して河中に駐せしめた。蕃戎が既に退くと、僕固懐恩の部下は離散した。この月、懐恩の子の瑒が兵を率いて榆次にいたが、帳下の将張惟嶽に殺され、その首は京師に伝えられた。惟嶽は瑒の兵衆を率いて子儀に帰順し、懐恩は恐れてその母を棄てて霊州へ逃走した。翌年九月、子儀を太尉に任じ、北道邠寧・涇原・河西以東通和蕃及び朔方招撫観察使を充てさせ、その関内河東副元帥・中書令はもとの通りとした。子儀は懐恩が未だ誅殺されていないので、使職を譲るべきでないと考え、太尉を堅く辞して言った。「太尉の職は雄大で任は重く、私の非才がその地位に就くことをひそかに憂え、あえて上聞に及ぶ次第です。詔書を拝するも、誠懇な願いは未だお許しを賜わらず。臣が昔から抱いてきた分限により、早くから足るを知っておりましたが、今度重ねてお願い申し上げるのは、ひそかに満ち溢れることを恐れるからです。その義はまことに衷心より出ており、事は偽り飾ったものではなく、志の向かうところ、あえて言い尽くさないわけには参りません。兵乱が起こって以来、綱紀は次第に乱れ、時に躁競の徒多く、俗に廉隅をわきまえる者は少なくなりました。徳は薄いのに位は尊く、功は微かであるのに賞は厚い、実に多くの者がおり、尽く論じることはできません。臣はこれを見るたびに、深く心に留めております。昔、范宣子が譲ったので、その下の者も皆譲り、欒騕が驕奢であったので、敢えて違えなかったのです。臣は誠に薄劣ではありますが、ひそかに古人に慕い、務めて自ら率先し、浮薄な風俗を大いに変えようと、ここに勤勤懇懇として、この官を罷めることを願い、礼譲が盛んに行われるよう、臣によってもたらされることを望みます。臣の位は上相、爵は真王であり、啓沃の謀に参画し、腹心の寄託を受け、恩栄は既に極まり、功業は既に成りました。まさに骸骨を乞うて、残りの命を保つべき時です。ただ、冠たる仇敵が近くにあり、家国は未だ安らかでないため、臣子の心として、安んじて処することはできません。もし西戎がすぐに帰順し、懐恩が捕らえられれば、かつての官爵は誓って受けず、必ずや范蠡の跡を追い、留侯の跡を継ぎたいと存じます。臣の浅はかな思いは、切にここにあります。」優詔をもって許さなかった。子儀は上に謁見し、感激して涙を流し懇願して辞退したので、やっと止めた。
十月、僕固懐恩が吐蕃・回紇・党項の数十万を引き連れて南下し、京師は大いに恐れた。子儀は出鎮して奉天に駐した。帝は子儀を召して戎狄を防ぐ計略を問うと、子儀は言った。「臣の見るところでは、懐恩は為す能わざる者です。」帝がその理由を問うと、答えて言った。「懐恩は驍勇と称えられてはいますが、平素より士卒の心を失っており、今乱を為し得るのは、帰郷を思う者を引き連れているからに過ぎません。懐恩はもともと臣の偏将であり、その部下は皆臣の部曲です。臣の恩信はかつて彼らに及んでおりました。今臣が大将である以上、必ずや刃を向け合うに忍びないでしょう。これによって、その為す能わざるを知るのです。」虜が邠州を寇すと、子儀は涇陽にいた。子儀は長男の朔方兵馬使曜に命じて師を率いてこれを救援させ、邠寧節度使白孝徳と共に城を閉ざして守りを固めた。懐恩の前鋒が奉天に至り、城近くで挑戦すると、諸将はこれを撃つことを請うたが、子儀はこれを止めて言った。「客兵が深く侵入すれば、利は速戦にあり、鋒を争ってはならない。彼らは皆わが部曲である。緩やかにすれば自ら離反するだろう。もしこれを迫れば、それは戦いを急がせることになり、戦えば勝負は未だ知れない。敢えて戦を言う者は斬る!」堅く壁を守ってこれを待つと、果たして戦わずして退いた。子儀は涇陽から入朝し、帝は安福門に御してこれを待ち、子儀に命じて楼上で朝見の礼を行わせ、宴と賜物は盛大であった。
十一月、子儀を尚書令とした。子儀は上表して懇ろに辞して言った。「臣は薄劣にして、平素より行能に乏しく、時に逢って擾攘に遭い、みだりに駆策を蒙り、内には朝政に参画し、外には兵権を総べました。上は三光を翼戴することができず、下は群慝を糾逖することができず、功は微かであるのに賞は厚く、任は重いのに恩は深く、覆餗の憂いは、実に寤寐に満ちております。臣が先日固く太尉を辞し、余年を保つことを乞うたのは、特別なご配慮が曲がりなりにも臨み、遂にご憐憫をお許し賜わったからです。ひそかに陛下が既にその願いを知り、その心を深く察しておられると考えておりました。どうして未だ旬時を経ずして、再び寵命が及ぶなどと予想できましょう。臣の褊浅にして、また智謀に乏しい者が、どうして誤って南宮の職に就き、この大任に当たることができましょう。況や太宗が昔藩邸におられた時、嘗てこの官を践まれ、累代の聖君が相承け、空位のまま置かれなかったのです。皇太子が雍王であられた日、陛下はその兵を総べて薄伐し、関東を平定された功績により、飲至策勛の後、再びこの授けがありました。どうして臣のような末職が、敢えて大倫を乱すことができましょう。徳薄くして位尊ければ、天子の責めを逃れ難く、負乗して冠を致せば、再び神明の誅罰を速やかにします。伏して天の慈しみを乞い、新命を俯して停められますよう。」答詔して許さなかった。翌日、所司に勅して子儀に尚書省で視事させた。詔して宰相百官に送らせ、射生五百騎に戟を執らせて翼従させ、朝堂から省まで、教坊の楽を賜った。子儀は受けず、再び上表して言った。
臣が伏して考えるに、尚書令は、武徳の際、太宗がこれに任ぜられ、先日懇ろに上陳して、この職を罷めることを請うたところ、陛下は未だ明察を垂れず、務めて褒崇せんとされ、区区の微誠は、益々惶懼に用います。何となれば、太宗は極を立てられた主であり、聖徳は人に在り、その後この官を廃して以来、永代の則と為しております。陛下は文を守り体を継がれ、固より奉じてこれを行われるべきであり、どうして猥りに老臣に私し、その成式を隳し、上は陛下の徳を掩い、下は万方の非を遺すことができましょう。臣は至愚といえども、どうして軽々しく受けられましょう。況や久しく兵乱を経て、僭上の賞を受ける者多く、一人の身で、数四の官を兼ね、朱紫同じ色となり、清濁分かたず、「爛羊」の謡が、再び聖代に聞こえます。臣は頃よりその弊を見て、その源を革めんと思いましたが、逆寇が猶存するため、軽々しく議することを敢えませんでした。今、元兇は沮敗し、計日して成擒すべく、中外憂い無く、妖氛は漸く息みます。これは陛下が法を作られる際、官を審かにされる時であり、固より老臣より始めて、班列に化を及ぼすべきです。どうして軽々しくこの挙を行い、国章を乱すことができましょう。国章が上で乱れれば、則ち庶政は下で隳ち、海内の政みな乱れれば、国家またどうして永代に患い無くあり得ましょうか。陛下もし臣の言に従い、誠請を俯して察せられれば、あの栄を貪り進みを冒す者も、また各々その兼ねる官を譲り、自然と天下は文明となり、百工は式の如く敘され、太平の業は、得て復するを得ましょう。臣は誠に蒙鄙にして、古今の識昧く、志の切なる所は、実にここに在ります。
手詔を以て答えて言った。「優崇の命は、功に報いる所以であり、総領の司は、政を賦するを期するものである。卿は内には台鉉に入り、外には戎旃を統べ、先朝より以来、累ねて多難を匡べ、海表に群氛を靖め、天階に庶績を凝らした。事に敏にして言寡く、敬に居りて行簡、人はその易きを難しとし、爾はその難きを易しとする。それ故に六聯を掌らしめ、百辟の首とし、時議を顧み循れば、皆これ允諧と謂う。而るに屡々封章を拝し、懇ろに譲揖を懐き、淳素の道を守り、政理の源を語り、礼の成るを待たず、曲に徳譲に従う。宜しく外に宣示し、史冊に編むべし。」内侍の魚朝恩を遣わして詔を伝えさせ、美人の盧氏ら六人、従者八人、並びに車服・帷帳・床蓐・珍玩の具を賜った。
この時、急ぎ子儀を河中より召し寄せ、涇陽に屯させたが、虜の騎兵は既に合流していた。子儀の一軍は一万余人であったが、雑虜(諸種族の軍)がこれを数重に囲んだ。子儀は李国臣・高升にその東を防がせ、魏楚玉に南を当たらせ、陳回光に西を当たらせ、朱元琮に北を当たらせた。子儀は甲騎二千を率いて左右前後に出没した。虜はこれを見て問うた、「これは誰か」と。報いて曰く、「郭令公である」と。回紇は曰く、「令公は生きているのか。僕固懷恩が言うには、天可汗(皇帝)は既に四海を棄て(崩御し)、令公もまた世を去り、中国には主が無い、故に彼に従って来たという。今令公が生きているなら、天可汗は生きているのか」と。これに報いて曰く、「皇帝は万歳無疆である」と。回紇は皆曰く、「懷恩が我らを欺いた」と。子儀はまた使者を遣わしてこれを諭して曰く、「公らは近年、万里を遠く跋渉し、兇逆を翦除し、二京を恢復した。その時、子儀は公らと艱難を共にした、何日かこれを忘れようか。今、突然旧好を棄て、一人の叛臣を助けるとは、何と愚かなことか。かつ懷恩は主に背き親を棄てた、公らにとって何の益があろうか」と。回紇は曰く、「令公は亡くなったと聞いていた。そうでなければ、どうしてここまで来ようか。令公が本当に生きているなら、どうして会うことができようか」と。子儀が出ようとすると、諸将が諫めて曰く、「戎狄の心は信じるべからず、どうか行かないでください」と。子儀は曰く、「虜には数十倍の軍勢がある。今、力では確かに敵わないが、至誠は神をも感ずる、ましてや虜の輩であろうか」と。諸将は曰く、「どうか鉄騎五百を選んで衛従させてください」と。子儀は曰く、「それは却って害となるだけだ」と。乃ち伝呼して曰く、「令公来たる!」と。虜は初め疑い、弓を引き絞り矢をつがえてこれを待った。子儀は数十騎を従えてゆっくりと出て、冑を脱ぎ彼らを労って曰く、「安らかか。長く忠義を共にしてきたのに、どうしてここまでなるのか」と。回紇は皆、武器を捨て馬を下りて揃って拝礼して曰く、「果たして我が父である」と。子儀はその首領を召し、それぞれに酒を飲ませ、羅錦を与え、初めの如く歓談した。子儀は回紇を説いて曰く、「吐蕃は本来、我が舅甥の国(唐と吐蕃は姻戚関係)であり、背くところなくして来寇するのは、親しみがないからである。もし戈を倒してこれを乗ずれば、芥を拾うが如きものだ。その羊馬は野に満ち、長さ数百里に及び、これは天の賜り物と言え、失うべきではない。今、戎(吐蕃)を逐って利を得、我と旧好を継ぎ凱旋するのは、また善いことではなかろうか」と。時に懷恩が鳴沙で急死し、群虜は統率する者なく、遂に承諾し、乃ち首領の石野那らを遣わして入朝させた。子儀は朔方兵馬使白元光を遣わして回紇と会軍させた。吐蕃はその謀りごとを知り、この夜に奔退した。回紇と元光はこれを追撃し、子儀の大軍はその後を継ぎ、霊武台西原において吐蕃十余万を大破し、首級五万を斬り、生擒一万人とし、掠められた士女四千人を収容し、牛羊駱駝馬を獲た。それは三百里の内に絶えることがなかった。子儀は涇陽より入朝し、実封二百戸を加増され、河中に還鎮した。
朔方は、国の北門であり、西は犬戎(吐蕃)を防ぎ、北は獫狁(回紇など)を憂える。五城は三千余里を隔てている。開元・天宝の頃には、戦士十万、戦馬三万いて、ようやく一隅に敵していた。先皇帝(粛宗)が霊武で即位されて以来、戦士は陛下に従って両京を収復し、東西南北、かつて安寧の歳はなかった。中年(代宗の中期)には僕固の役(僕固懷恩の乱)があり、また消耗散逸し、人は三分の二を亡くし、天宝の頃と比べて十分の一となった。今、吐蕃は充満し、その勢いは十倍強く、河州・隴州の地を併せ持ち、羌・渾の衆を交え、毎年近郊を窺っている。朔方の十倍減じた軍をもって、吐蕃の十倍増した騎兵に当たらんとし、制勝を求めようとして、どうして容易に力を為せようか。近く内地に入り、四節度と称し、各将は万に満ち、各賊は数倍の乗り物を兼ねている。臣の統べる将士は、賊の四分之一に当たらず、所有する征馬は、賊の百分の二に当たらない。誠に固守すべきであり、戦うべきではない。また馬璘からの牒状を得たが、賊は渭水を渡って南進しようとしている。臣が堅壁すれば、恐らく畿甸(都の近郊)を犯すであろう。もし畿内を過ぎれば、則ち国人は大いに恐れ、諸道は容易に動揺する。外には吐蕃の強さがあり、中には動揺しやすい衆がいる。外を畏れ内を懼れて、どうして安んじられようか。臣は伏して考えるに、陛下には横制勝の術があり、力が不足しているわけではないが、ただ簡練(選抜訓練)が未だ精しくなく、進退が未だ一致せず、時が経てば師は老い、地が広ければ勢いは分かれることを慮る。願わくは陛下が更に讜議(正しい議論)を求め、慎んで名将を選び、これに軍を統率させ、諸道よりそれぞれ精卒を抽き出し、四、五万と成せば、則ち制勝の道は必ずある。時を失うべきではない。臣はまた、河南・河北・山南・江淮の小鎮は数千、大鎮は数万の兵がおり、月々の糧秣を空しく消耗しているだけで、かつて戦いを習わないと考える。臣はこれらを関中に抽き出して赴かせ、戦陣を教えれば、軍声は益々振るい、攻守必ず全うし、また長久之計ともなろう。臣は猥りに任遇を蒙り、ほぼ二十年になる。今、歯も髪も既に衰え、賢路を避けたい。足るを知りて誡めず(満足して退くことを咎めない)とは、神明の照覧するところである。
詔して曰く、「卿の憂いは深く虚遠(遠大)に及び、殊に朕が心を沃す。始終倚頼すべきであり、固辞することは許されない」。
旧令では一品の墳の高さは一丈八尺であったが、詔により特に十尺を加増した。群臣は順次その邸宅に赴き弔哭した。凶喪に必要なものは、全て官より給することとされた。葬送の際、上(皇帝)は安福門に御して臨哭し送り、百官は陪位して涙を落とし、諡を賜って忠武と曰い、代宗の廟庭に配饗された。
子の曜・旰・晞・昢・晤・曖・曙・映ら八人、婿七人、皆朝廷の重官であった。諸孫は数十人おり、毎回群孫が安否を問うても、全ては見分けがつかず、頷くだけであった。参佐官吏六十余人は、後に位が将相に至り、朝の位階も貴位に昇り、その姓名を石に刻んだ。今は河中府にある。人士はこれを栄誉とした。
史臣裴垍が曰く、汾陽王(郭子儀)は上に仕えて誠実に尽くし、下に臨んで寛厚であり、城邑を降すごとに、赴くところ必ず士卒の心を得た。前後、幸臣程元振・魚朝恩の讒毀に遭うこと百端、時に強兵を握り、あるいは戎敵に臨む中、詔命をもって召せば、未だ嘗て即日に応召せざるはなく、故に讒謗行う能わず。代宗が陝に幸する時、数十騎を以て賊を覘わしめ、また涇陽に在っては、胡虜の重囲の中に陥ったが、皆身を以て国に許し、未だ嘗て危亡を以て慮いを易えず、また天幸に遇い、竟に患難を免れた。田承嗣が魏州で跋扈し、傲狠無礼であったが、子儀が嘗て使者を遣わすと、承嗣は西を望んでこれを拝し、その膝を指して使者に謂いて曰く「この膝、人に屈せずすること若干歳、今公のために拝す」と。李霊曜が汴州を拠り、公私の財賦を一切遏絶したが、独り子儀の封幣がその境を経るは、敢えて留める者なく、必ず兵を以て衛送した。その豺虎に服せられること此の如し。麾下の老将、李懐光の輩数十人、皆王侯の重貴なるも、子儀が頤指して進退すれば、僕隷の如し。幕府の盛なること、近代比ぶるなし。初め李光弼と斉名し、威略は及ばざるも、寛厚人を得ること之に過ぎた。歳に入る官俸二十四万貫、私利は其の中に在らず。その宅は親仁里に在り、里の四分の一を居し、中に永巷を通じ、家人三千、出入り相いする者その居を知らず。前後賜わる良田美器、名園甲館、声色珍玩、堆積羨溢、紀すに勝えず。代宗は名を呼ばず、大臣と称した。天下その身を以て安危と為すこと殆ど二十年。中書令の考を校するに二十有四。権天下に傾きて朝忌まず、功一代を蓋いて主疑わず、侈人欲に窮まりて君子之を罪せず。富貴寿考、繁衍安泰、哀栄終始、人道の盛なること、此に缺くる無し。ただ讒怒を以て、判官戸部郎中張譚を誣奏し杖殺したこと、物議薄しと為す。
子 曜
曜は子儀の長子。性質孝友廉謹。子儀薨じ、出征して外に在り、曜を留めて家を治めしむ、少長千人、皆その所を得たり。諸弟池館を飾り争い、その車服を盛んにす。曜は儉樸を以て自ら処す。累遷して太子賓客に至る。建中初め、子儀兵柄を罷められ、乃ち遍く諸子に官を加え、曜を以て太子少保と為す。子儀曜遺命に遵い、四朝の賜う名馬珍玩、悉く皆上献し、徳宗復た之を賜う。曜乃ち諸昆弟に散ず。子儀薨じた後、楊炎・盧杞相次いで政を秉り、奸諂用事し、勲族を忌むこと尤も甚だし。子儀の婿太僕卿趙縦・少府少監李洞清・光禄卿王宰、皆人に告訐せらるる細過有りを以て、相次いで貶黜せらる。曜家大いに恐れ、宰相張鎰の力を頼みて庇護せらる。奸人その危懼を幸い、多く田宅奴婢を論奪す。曜敢えて訴えず。徳宗微かに之を知り、詔して曰く「尚父子儀、大勛力有り、皇家を保乂し、嘗て山河を以て誓い、之を金石に琢つ、十世の宥、其れ忘るべけんや。其の家前時人と市を為し、子儀身歿し、名誣構せらるるを以て、論奪せんと欲す。有司理を為すこと無きべし」と。詔下りて方に已む。曜喪に居りて礼を得、儒家の子の若く、服闋けずして寝疾す。或いは其の葱薤を茹うるを勧む。曜竟に口に属さず。建中四年三月卒す。太子太傅を贈らる。
子 晞
初め、晞の兄曜父の代国公を襲ぎ、実封二千戸。及び曜卒す。詔して曰く「故尚父・太尉中書令・汾陽王、功上玄に格り、道下土に光り、其の善慶を積み、裕を垂れて窮まり無し。嫡長雲え殂すと雖も、支宗斯に盛んに、汾陽の旧邑、盍ぞ丕承有らざらん。其の男前左散騎常侍・駙馬都尉・食実封五百戸曖、夙に義方を稟け、忠に居り孝を履み、銀榜に儷崇し、美章を攄え、先封を継ぎ撫ず、允に復を聴くに宜し。曖の兄検校工部尚書・守太子賓客・趙国公晞、並びに弟右金吾将軍・祁国公・食実封二百五十戸曙、太子左諭徳映等、並びに休するに令名有り、其の先業を保つ。推恩の典を允すべく、以て延嗣の誠を明らかにすべし。其の実封二千戸、宜しく式に準じて半減し、余り分襲すべし。曖代国公を襲ぐべく、仍って前に襲ぐ三百戸を通ず。晞二百五十戸。曙五十戸、前に通ず三百七十戸。映二百三十五戸」と。尋いで又詔す、尚父子儀の男晞・曖・映・曙四人の襲ぐ実封、各五十戸を減じ、以て郭曜の男鉾・郭晤の男鐇に賜い、各一百戸を襲がしむ。
晞行在に至り、復た検校工部尚書・太子詹事と為す。駕に従い京に還り、太子賓客に改む。晞の子鋼、朔方節度使杜希全の賓佐と為り、希全鋼を以て豊州刺史を摂せしむ。晞鋼の幼弱を以て、辺職に任せざるを恐れ、貞元七年、晞上章し鋼の官を罷めんことを請う。徳宗中使を遣わし之を召す。鋼他事を以て摂せらるると疑い、乃ち単騎して吐蕃に走入る。蕃将鋼の独り叛するを見て納れず、之を筏の上に置き、黄河に流して帰らしむ。杜希全之を得て、送り京師に赴かしむ。鋼に自尽を賜う。晞亦た子に坐して免官せらる。明年、復た太子賓客を授かる。貞元十年卒す。兵部尚書を贈らる。晞の次子鈞。鈞の子承嘏別に伝有り。
子 曖
曖の子 郭釗
郭釗は、姿形が立派で、身長七尺、口が四角く下顎が豊かで、沈黙寡言であった。母は升平長公主である。代宗朝、釗は外孫として恩寵が格別で、初官は太常寺奉礼郎であった。徳宗朝、累官して太子右庶子に至った。元和初年、左金吾衛大将軍となり、左街使を兼ねた。九年十一月、検校工部尚書、邠州刺史を兼ね、邠寧節度使を務めた。数年後、検校戸部尚書となり、入朝して司農卿となった。釗は、大功を立てた家の後裔であり、后妃の縁戚に連なるが、謙和に人と接し、恭しく慎み深く自らを律し、家にあっても民を治めても、驕り怠る色がなく、奢侈の過ちもなく、士君子はこれを重んじた。十五年正月、憲宗が病臥して十日余り、権力を握る宦官たちが廃立を議論し、紛糾して決まらなかった。穆宗は東宮にあって、心配のあまり人を遣わして釗に計を問うと、釗は言った、「殿下は皇太子であられる。ただ朝夕の食事を看視し、謹んで守って待たれるがよい。何を憂えられようか」。今に至るまで、釗が元舅としての本分を得ていたと称えられる。
曖の子 郭鏦
釗の子 郭仲文
仲文は、大和の末に殿中少監となった。開成の初め、詔して仲文に父の太原郡公を襲封させようとしたが、制書が上ると、給事中封敕が奏上して言うには、「伏して制書を準拠しますに、贈司徒郭釗の嫡男仲文が太原郡公を襲封するという件であります。臣が近く訪ねて知ったところでは、郭釗の妻沈氏は、公主の娘であり、代宗皇帝の外孫で、男子仲辞があり、既に選ばれて主(公主)を娶っております。仲文は偽って嫡子を称えるべきではありません。もし仲文が嫡子を継ぐならば、すなわち沈氏は別室に退かねばならず、仲辞は貴主を娶るにふさわしくなくなります。伏して考えるに、郭仲文は、尚父(郭)子儀の孫、太皇太后の甥であり、戚里の勛門として比類するものはありませんが、婚姻と嫡庶のことは、朝野ともに知るところであり、宗を奪って配するのは、実に風教を汚すものです。かつ仲文と仲辞は既に同母ではありませんから、襲封と尚主は並行して行うことはできません。伏して請う、台に付して勘当させてください。」詔して言うには、「万年県尉仲辞に襲封させる。」仲文は取り下げられたが、太皇太后の甥であるため、罪に問わなかった。まもなく仲辞を銀青光禄大夫・検校中少監・駙馬都尉とし、太原郡公を襲封させ、饒陽公主を娶らせた。また仲辞の兄で詹事府丞の仲恭は、銀青光禄大夫とし、金堂公主を娶らせた。
母弟 幼明
幼明は、尚父(郭)子儀の母弟である。性質は謹み深く過ちがなく、武芸は巧みでないが、賓客を喜んで飲宴し、家にいて衆を統御すること、皆その歓心を得た。子儀の勲業により、累ねて大卿監を歴任し、大暦八年に卒し、太子太傅を贈られた。
李元忠は、本姓は曹、名は令忠といい、功により姓名を賜った。時に昕の使者は回紇を経て諸蕃部を歴て、ようやく朝廷に達した。また袁光庭という者がおり、伊州刺史となり、隴右諸郡が皆陥落したが、光庭は伊州を堅守し、吐蕃がこれを攻めること累年、兵尽き食竭き、光庭は先ずその妻子を刃にかけ、自ら焼死した。昕の使者によってこれを知り、工部尚書を贈った。
【史評】
史臣が曰く、天宝の末、盗賊が幽陵より起こり、万乗は播遷し、両都は覆没した。天は土徳に祚し、実に汾陽(郭子儀)を生んだ。河朔より班師し、関西に寇を殄滅し、身をもって豺虎を払い、手をもって荊榛を披く。七八年の間、その勤め至るものあり、王室を再造し、勲は一代に高し。国威が再び振るうに及んで、群小は讒言を肆にし、位重くして懇ろに辞し、寵を失っても怨みなし。不幸にして危うきに臨んで君父を邀えず、憾みを挟んで仇讐に報いず、晏然として忠を効し、死すとも二心なし、誠に大雅の君子、社稷の純臣である。秦・漢以来、勲力の盛んなるもの、比倫するものなし。而して晞・曖は縗粗の中にあって、身を虎口より抜き、難に赴いて奉天に至る、忠孝の門に嗣あると謂うべし。
賛して曰く、猗歟たるかな汾陽、功は昊蒼を扶く。仁を秉り義に蹈み、心は鉄の如く腸は石の如し。四朝静乱し、五福其れ昌なり。臣たるの節、敢えて忠良に告ぐ。