旧唐書
巻一百十九 列伝第六十九 楊綰 崔祐甫 常袞
楊綰
楊綰、字は公権、華州華陰の人である。祖父の温玉は、則天朝において戸部侍郎・国子祭酒を務めた。父の侃は、開元年間に醴泉令となり、いずれも儒行をもって称された。綰は生まれつき聡明で、四歳の時、一族の子供たちの中にあって、その識見の鋭さは人に優っていた。かつて夜、親族や賓客を招いて宴を催した際、座中の物をそれぞれ四声で呼ぶことを求めると、諸賓がまだ言い出さぬうちに、綰は即座に鉄の灯樹を指して「燈盞柄曲」と言った。人々は皆これを異とした。成長すると、学を好んで倦まず、経書史籍に広く通じ、九流七略、読まぬものはなく、特に文章に巧みで、その文藻と構想は清らかで豊かであった。そして玄理を尊尚し、沈静で寡欲であり、常に独り一室に居て、左右に経書を置き、積もった塵が座席を満たしていても、淡々としていた。その光を内に含み、その才を晦ませて用い、名声を顕わそうとはせず、文章を作るたびに、自らを誇示することを恥じ、知己でなければ見せることはなかった。早くに孤児となり家は貧しかったが、母を養うことには孝行で知られ、美味な食物が欠けると、心配の色が顔に現れた。親友が禄を求めるよう勧めたので、進士に挙げられた。補任されて太子正字となった。天宝十三年、玄宗が勤政楼に臨み、博通墳典・洞曉玄経・辞藻宏麗・軍謀出衆などの挙人を試した。役人に食料を供給させ、日が暮れてやめた。辞藻宏麗科の者には別に詩・賦を一首ずつ試させた。制挙で詩賦を試すことは、ここに始まる。この時及第した者は三人で、綰がその首となり、右拾遺に超授された。
天宝の末、安禄山が反乱を起こし、粛宗が霊武において即位した。綰は賊中より危難を冒し、藪を分け食を求めて、行在所に赴いた。当時朝廷は賢才を急いでおり、綰が到着すると、衆人の心は皆喜び、起居舎人・知制誥に任じられた。司勲員外郎・職方郎中を歴任し、引き続き詔勅の起草を掌った。中書舎人に遷り、国史の編修を兼ねた。故事により、舎人で年功の深い者を「閣老」と呼び、官舎の雑料は閣老にその四分の三が帰属していた。綰は、品秩が同列であるならば、給与は均しく受けるべきであると考え、全て平等に分けた。これは当時の論評において大いに称賛された。再び礼部侍郎に遷り、上疏して貢挙の弊害を条奏した。その文は次の通りである。
国家が士を選ぶには、必ず賢良を頼りとすべきである。すなわち、孝友の徳を純粋に備え、言行が篤実で、平常時には徳を養い、行動して仁に背かず、忠信の資質を体し、謙恭の操りを履み、才能を蔵するも自ら誇らず、虚心で応ずるには必ず誠実である者を取るのである。このようであってこそ、己を率いて政に従い、人を教化し風俗を鎮めることができるのである。末世に詐りが盛んになって以来、この道は次第に衰微し、文辞を競い尚び、互いに誇り耀かし合うようになった。司馬相如は浮薄で、結局任用に耐えず、趙壹は虚誕で、ついに郷里で排斥された。それ以来、その風潮はますます盛んとなり、実行を考えず、皆空名に従い、風俗を乱し教化を損なうことは、前史に詳しく載せられている。古人が文章を鄭・衛の音楽に比べたのには、理由があったのである。近くは煬帝が始めて進士の科を設けたが、当時はまだ策試だけであった。高宗の朝に至り、劉思立が考功員外郎となり、また進士に雑文を加えること、明経に帖経を行うことを奏上した。ここから弊害が積もり、次第に習慣となった。幼くして学に就き、皆当代の詩を誦し、長じて文に博く通じても、諸家の文集を越えることはない。互いに徒党を組み、虚名を得ようとし、『六経』は開巻することもなく、『三史』は皆壁に掛けたままである。ましてや孔門の道を求め、君子の儒たることを責めることなどできようか。習いが既に深く、奔走競争が務めとなっている。才能を誇る者は少しも恥じる色がなく、勇んで進む者はただ人を凌ごうとし、誹謗を常談とし、向背を己の任務とする。名刺を投じて干謁し、要路に駆け回り、才能を露わにし己を顕わし、当代に喧伝する。古の賢良方正に、このような者があっただろうか。朝廷の公卿はこれをもって士を待遇し、家の長老はこれをもって子孫に訓戒する。彼らが淳朴に返り、礼譲を懐き、忠信を守り、廉恥を知ることを望んでも、どうして得られようか。水に譬えれば、その流れは既に濁っている。もしその源を澄まさなければ、どうして再び清くなるだろうか。今、聖徳をもって天を治め、再び天下を安んじられ、四海の内は仰ぎ望んで教化を慕い、皆首を延べ踵を挙げて、聖朝の治を思っている。この時に当たってこれを治めなければ、太平の政はまた乱れるであろう。およそ国家の大権は、士を選ぶことに先んずるものはない。古来の哲王は皆、席を側めて賢を待った。今の人材の取り方は、自ら牒を投じて挙げさせるものであり、国を治める体ではない。望むらくは古制に依り、県令が孝廉を察挙し、その郷里に孝友信義廉恥の行いがあり、経学を修め、策試に堪える才を持つ者を審かに知り、孝廉の名をもって州に推薦させることである。刺史は礼をもってこれを待遇し、その通じる学問を試し、通じる者はその名を尚書省に送るべきである。県から省に至るまで、挙人に自ら牒を陳べさせることを許してはならない。近頃行われている到状・保弁・識牒などは、一切共に停止すべきである。その習う経書は、『左伝』・『公羊伝』・『穀梁伝』・『礼記』・『周礼』・『儀礼』・『尚書』・『毛詩』・『周易』の中から、一経を通じることを任じ、深い意義と奥旨を求め、諸家の義に通じることを務めさせる。試日の際は、諸司の儒学者を差し向けて対問させ、毎経につき義を十条問い、問い終わってから策を三道試す。その策は皆、古今の治体及び当時の要務を問い、実行に堪えるものを取る。経義と策が全く通じる者は上第とし、吏部に付して直ちに官を与えることを望む。経義が八条通じ、策が二道通じる者は中第とし、出身(官人資格)を与える。下第は罷めて帰らせる。明経の比試帖経は、全く古義ではなく、皆帖括を誦して僥倖を図っている。また近くに道挙があるが、これも国を治める体ではなく、明経・進士と共に停止することを請う。国子監の挙人も、この例に準ずることを請う。もし行い業績が顕著でなく、担当官が妄りに推薦した場合は、軽重に応じて貶黜を加えることを請う。数年の間に、人倫が一変し、実学に帰し、大道を識るようになることを望む。家に居る者は必ず徳業を修め、政に従う者は皆廉恥を知り、浮薄な競争は自然に止み、篤厚な風は自ら勧められるであろう。人を教える根本は、まさにここにある。この事が施行されるならば、別に条例を立てる。
詔して左右丞・諸司侍郎・御史大夫・中丞・給事中・中書舎人に、共に議して奏聞させた。給事中李広・給事中李棲筠・尚書左丞賈至・京兆尹兼御史大夫厳武の奏上した議状は、綰と同様であった。尚書左丞賈至の議は次のように言う。
謹んで按ずるに、夏の政は忠を尚び、殷の政は敬を尚び、周の政は文を尚ぶ。然らば則ち文と忠敬とは、皆人の行いを統ぶるものなり。且つ夫れ諡号は行いを述べ、美は人文を極む。人文興れば則ち忠敬存す。是の故に前代は文を以て士を取るも、本は文行なり。辞を由りて行いを観れば、則ち辞に及ぶなり。宣父は顔子の怒りを遷さず、過ちを貳せざるを称し、之を好学と謂う。春秋を修むるに至りては、則ち游・夏の徒も一辞を措く能わず、亦明らかならずや。間者、礼部の人を取るに、斯の義に乖けり。易に曰く「人文を観て以て天下を化成す」と。関雎の義に曰く「先王是を以て夫婦を経め、孝敬を成し、人倫を厚くし、教化を美しくし、風俗を移す。蓋し王政の由りて興廃する所なり」と。故に延陵は詩を聴きて、諸侯の存亡を知る。今、学者を試みるに帖字を以て精通と為し、旨義を窮めず、豈に遷怒貳過の道を知るを得んや。文を考うる者は声病を以て是非と為し、唯だ浮艶を択ぶのみ。豈に風俗を移し天下を化するの事を知るを得んや。是を以て上は其の源を失い、下は其の流を襲い、波蕩して止まる所を知らず、先王の道、行う能わざるなり。夫れ先王の道消ゆれば、則ち小人の道長し。小人の道長ずれば、則ち乱臣賊子生ず。臣其の君を弑し、子其の父を弑するは、一朝一夕の故に非ず、其の由来する所漸し。漸とは何ぞ。忠信の淩頽、恥尚の失所、末学の馳騁、儒道の挙がらざるを謂う。四者は皆士を取るの失なり。夫れ一国の事、一人の本に系るを風と謂う。其の風を賛揚するは卿大夫に系る。卿大夫何ぞ嘗て士より出でざらんや。今、士を取るに小道を試みて、遠き者大なる者を以てせず、干禄の徒をして末術に趨馳せしむるは、是れ誘導の差なり。夫れ蝸蚓の餌を以て滄海に雑えて垂れ、呑舟の魚を望むは、亦難からずや。故に垂餌を食う者は皆小魚、科目に就く者は皆小藝なり。四民の業、士は最も風化に関わる。近代、仕に趨くこと靡然として風に向う。致して祿山一呼びて四海震蕩し、思明再乱して十年復たず。向使礼譲の道弘く、仁義の道著しからば、則ち忠臣孝子比屋に封ぜらるべく、逆節萌すを得ず、人心搖ぐを得ざるなり。且つ夏は天下有ること四百載、禹の道喪えて殷始めて興る。殷は天下有ること六百祀、湯の法棄てられて周始めて興る。周は天下有ること八百年、文・武の政廃れて秦始めて並ぶ。三代の士を選び賢を任ずるを観るに、皆実行を考う。故に風化淳一にして、運祚長遠なり。秦は儒士を坑し、二代にして亡ぶ。漢興り、三代の政を雑え、四科の挙を弘む。西京始めて経術の学を振い、東都終に名節の行を持す。至りて近戚位を窃み、強臣権を擅にし、弱主孤立し、母后専政すと雖も、社稷隕せず、終に彼の四百に及ぶ。豈に学を興し道を行い、鄕里に化を扇ぐに非ずや。厥の後、文章の道弊れ、浮侈を尚び、士を取る術異なり、一時を苟く済さんとす。魏より隋に至るまで、僅かに四百載、三光景を分かち、九州域を阻み、号を窃み位を僭し、徳義修めず。是を以て子孫速かに顛し、享国咸く促し。国家は魏・晉・梁・隋の弊を革め、夏・殷・周・漢の業を承け、四隩既に宅り、九州攸に同く、覆燾亭育し、天地に徳を合わす。安んぞ皇王の士を挙ぐるの道を捨て、乱代の人を取るの術に蹤かんや。此れ公卿大夫の辱なり。楊綰の奏する所、実に正論と為す。然れども典午覆敗してより、中原版蕩し、戎狄華を乱し、衣冠遷徙し、南北分裂し、人多く僑処す。聖朝区宇を一平すと雖も、尚復因循し、版図は則ち張るも、閭井未だ設けず、士鄕士に居るもの百に一二無く、累縁官族、所在耕築し、地望は数百年の外に系り、而して身は皆東西南北の人なり。今、古制に依り鄕挙裏選せんと欲するも、猶ほ士を取るの未だ尽きざるを恐る。請う、兼ねて学校を広くし、以て訓誘を弘めん。今、京に太学有り、州県に小学有り。兵革一たび動けば、生徒流離し、儒臣師氏、祿廩向く所無し。貢士行実に称せず、胄子何ぞ嘗て講習せん。独り礼部毎歳甲乙の第を擢び、獎擢を弘むと謂う。其れ謬ならずや。祗だ浮薄の風を長じ、僥幸の路を啓くに足るのみ。其の国子博士等は、員数を加え、其の祿秩を厚くし、通儒碩生を選び、間居して其の職にせしむるを望む。十道の大郡は、量りて太学館を置き、博士をして外に出で、兼ねて郡官を領せしめ、生徒を召し置かしむ。故事に依り、桑梓を保つ者は鄕里に挙げ、流寓に在る者は庠序に推す。朝に行い、夕に其の利を見ん。此くの如くせば、則ち靑靑復た興らざるを刺さず、擾擾其の本に帰る由り。人倫の始、王化の先、是に過ぎず。
李暠等の議は綰と協い、文多く載せず。宰臣等、挙人の旧業既に成り、速やかに改め難しと奏す。其の今歳の挙人は、且つ旧挙に応ずるを許すを望み、来歳詔を奉り、仍て礼部に勅し即ち条例を具えて奏聞せしむ。代宗、進士科を廃するを以て翰林学士に問う。対えて曰く「進士行来已久し、遽かに之を廃せば、人の業を失うを恐る」と。乃ち孝廉と旧挙とを兼ねて行うことを詔す。綰又た歳貢の孝悌力田及び童子科等を奏す。其の孝悌力田は宜しく実状有るべく、童子衆に越ゆるは常科に在らず。之を歳貢に同くせば、僥幸の路を長ずるを恐る。詔して之を停む。再び吏部侍郎に遷り、歴て挙選を典め、人物を精核し、公平を以て称せらる。
時に元載政を秉る。公卿多く之に附く。綰孤立して中道に在り、淸貞自ら守り、未だ嘗て私謁せず。載、綰の雅望素より高きを以て、外に尊重を示し、心実に疎忌す。会うに魚朝恩死す。載、朝恩嘗て国子監事を判じ、太学を塵汙せしを以て、名儒を得て以て其の秩を淸むべしとし、乃ち奏して国子祭酒と為す。実に散地を以て之を処せんと欲するなり。載貪冒日甚だしく、天下の淸議亦綰に帰す。上深く之を知り、載久しく枢衡に在るを以て、未だ即ち罷遣せず。仍て綰を太常卿に遷し、礼儀使を充て、郊廟の礼久しく廃するを以て、綰を藉りて之を振起せしめ、亦以て其の效用を観んとす。是の年三月、載誅に伏す。上乃ち綰を中書侍郎・同中書門下平章事・集賢殿崇文館大学士に拝し、兼ねて国史を修めしむ。綰久しく公輔の望を積み、詔出づるに及び、朝野相賀す。綰累表して懇に譲る。上意を属する稍重く、綰敢えて辞せず。
綰素より德行を以て聞こえ、質性貞廉、車服儉樸。廟堂に居ること未だ数月ならずして、人心自ら化す。御史中丞崔寬は、剣南西川節度使寧の弟、家財に富み、別墅皇城の南に在り、池館臺榭當時第一なり。寬即日潜かに遣りて毀拆せしむ。中書令郭子儀邠州の行営に在り、綰相に拝せらるるを聞き、座内の音楽五分の四を減散す。京兆尹黎干恩を承くるを以て、毎出入するに騶馭百余り、即ち三日にして車騎を減損し、唯だ十騎を留むるのみ。其の余風望み奢を変えて儉に従う者、数うるに勝えず。其の俗を鎭め風を移すこと此の若し。
楊綰は宿痼の疾を有し、職に居ること旬日にして、中風し、優詔を以て中書省に就きて摂養せしめ、毎に延英殿に引見するに、特許して扶入を許す。時に旧弊を厘革するに、唯だ綰を瞻仰し、恩遇は二たるもの莫し。綰累ね疎を抗して位を辞し、頻りに詔を以て敦勉し、許さず。綰の疾亟まるに及んで、上は日に中使を発して第に就きて存問せしめ、尚書御醫は旦夕側に在り、上其の間有るを聞き、喜びて容色に見ゆ。数日にして薨じ、中使は門に在り、馳せて奏す上に、代宗震悼すること久しく、朝を輟むこと三日。詔して曰く:
王者の大臣に対するや、存するときは則ち其の腹心を寄せ、肢体に均しくし、軍国の重に参じ、陰陽の和を以て叙し;歿するときは則ち其の事功を誄し、命数を加え、宗廟の祭に告げ、紱冕の章を以て襚す、則ち九原に帰す可く、百辟知りて勧む。故に朝議大夫・守中書侍郎・同中書門下平章事・集賢殿崇文館大学士・監修国史・上柱国・賜紫金魚袋楊綰は、性は元和に合し、身は律度に斉しく、道は雅俗を匡し、器は宗彜に重し。寛柔敬恭、九徳に協い;文行忠信、四教を弘む。内には耳目の役無く、孝悌を以て家に伝え;外には車服の容無く、貞実を以て代に形す。西掖に宥密の地を専め、南宮に選挙の源を領す。儒術を以て国庠に首とし、礼度を以て高廟を掌り、簡廉其の質、条職休を同じくす。頃に任其の才に非るを以て、毒政に流れ、爰に清浄の輔を登し、庶幾くは至理の期に諧わんとす。道風既に朝班に穆く、儉徳已に海内に行わる。賢人の業と雖も、久しきを冀う;夫子の命、之を如何ともす末だし。方に憑依有らんとし、遽かに此れ淪謝す、屛予の嘆、震悼良く深し。懐く所従う莫く、長想何ぞ及ばん。況んや歴官に素絲の節有り、居家に匹帛の余無し、故に華袞を以て飾り、其の法賻を増し、典策に備え膺り、朝経を載賁す。司徒を贈る可し。
又詔して文武百僚をして其の第に臨ましめ、内常侍呉承倩を遣わして会吊せしめ、絹千匹・布三百端を贈る。上深く之を惜しみ、顧みて朝臣に謂ひて曰く、「天朕をして太平を致さしめず、何ぞ我が楊綰を奪うことの速きや!俯して大斂に及び、卿等と悲悼を同じくす。」宰輔の賻贈恩遇哀栄の盛なること、近年其の比有ること無し。太常初めに諡して曰く「文貞」。詔して曰く、「徳を褒め善を勧むるは、『春秋』の旧章;行を考へ名を易ふるは、礼経の通典。範を垂れ則を作すは、格言に存す。朝議大夫・中書侍郎・同中書門下平章事・集賢殿崇文館大学士・修国史・上柱国・賜紫金魚袋・贈司徒楊綰は、道を履み貞に居り、和を含み徳を毓し、行は人紀たり、文は典謨に合す。清にして名を晦まし、自伐の善無く;約して以て儉に師ひ、矜らざるの謙有り。方冊に直書し、秩宗礼を相ひ、辞は良史と称し、学は醇儒に茂し。枢衡に委ね、茲の密命を掌り、弥く沃心の道に契ひ、累ね造膝の誠を陳ぶ。将に天下五行の和を布き、君臣一徳の運を同じくせんとす、遽かに蔵舟の嘆を軫み、未だ済川の才を展べず。素業久しくして弥く彰はれ、清風歿して尚ぶ可し。古より飾終の義は、皆美名を以て錫ふ。諡法に曰く、『忠信人を愛するを文と曰ひ、平易懈かざるを簡と曰ふ。』宜しく文簡と諡す可し。」比部郎中蘇端は、性疎狂にして、其の賢を嫉み、乃ち肆に毀黷し、其の議を異同す。上怒り、端を貶して広州員外司馬とす。
綰は儉薄を以て自ら楽み、未だ嘗て家産に留意せず、口に生計を問はず、累任清要にして、宅一区無く、得る所の俸禄は、月に随ひ分けて親故に給す。清識人に過ぎ、往哲の微言・『五経』の奥義に至るまで、先儒未だ悟らざる者、綰一覧して其の精理を究む。雅に玄言を尚び、釈道二教を宗とし、嘗て『王開先生伝』を著して以て意を見す、文多く載せず。凡そ知友と為る者は、皆一時の名流。或いは之を造る者、清談終日、未だ嘗て名利に及ばず。或いは客有りて世務を以て干らんと欲する者、綰の言必ず玄遠なるを見て、敢えて辞を発せず、内愧して退く。大歴中、徳望日を追ひて崇く、天下の雅正の士争ひて其の門に趨ひ、数千里より来る者有り。清徳を以て坐して雅俗を鎮め、時に之を楊震・邴吉・山濤・謝安の儔に比す。
崔祐甫
崔祐甫、字は貽孫。祖は晊、懐州長史。父は沔、黄門侍郎、諡して孝公と曰ふ。家は清儉礼法を以て、士流の則たり。祐甫進士に挙げられ、寿安尉を歴る。安禄山洛陽を陥すに、士庶奔迸す、祐甫独り矢石の間に崎危し、潜かに私廟に入り、木主を負ひて竄る。起居舎人・司勲吏部員外郎を歴り、累ね拝して御史中丞・永平軍行軍司馬となり、尋で本軍京師留後を知る。性剛直にして、容受する所無く、事に遇ひて回らず。累遷して中書舎人と為る。時に中書侍郎闕け、祐甫省事す、数たび宰相常袞に侵さる、祐甫従はず;袞之を怒り、奏して吏部選を分知せしめ、毎に官を擬する有れば、袞多く駁下し、言数たび相侵す。時に朱泚上言し、隴州の将趙貴家に猫鼠同乳し、相害為さずと、以て禎祥と為す。詔して中使を遣わして以て朝に示す、袞百僚を率ひて慶賀す、祐甫独り否む。中官其の故を詰む、答えて曰く、「此れ物の常を失ふなり、吊す可く賀す可からず。」中使其の状を徴す、祐甫上奏して言ふ:
臣聞く、天万物を生じ、剛柔性有り、聖人之に因り、訓を垂れ則を作すと。『礼記郊特牲』に曰く、「猫を迎ふるは、其の田鼠を食ふ為なり。」然らば則ち猫の鼠を食ふは、礼典に載せ、其の害を除き人を利するを以て、微と雖も必ず録す。今此の猫鼠に対して食はざるは、仁と為すは則ち仁なり、性を失ふに無からんや!鼠の物と為るや、昼伏し夜動き、詩人之を賦して曰く、「相鼠体有り、人にして礼無し。」又曰く、「碩鼠碩鼠、我が黍を食ふ無かれ。」其の序に曰く、「貪にして人を畏るるは、大鼠の若し。」臣旋め観るに、動物と云ふと雖も、麋鹿麝兔に異なり、彼は皆時に殺獲し、国の用と為る。猫人の養育を受く、職既に修めざれば、亦何ぞ法吏の勤めて邪に触れざる、疆吏の勤めて敵を払はざるに異ならんや?又礼部式を按ずるに具に三瑞を列し、猫鼠を食はざるの目無し、茲を以て慶と称するは、臣未だ詳らかにせず。伏して国家化洽理平、天符洊至し、紛綸雑沓、史絶えず書す。今茲の猫鼠は、濫りて廁す可からず。若し劉向の『五行伝』を以て之を論ずれば、恐らく須らく憲司に命を申し、貪吏を察聽し、諸の辺候を誡め、僥巡を失は無からしむべし。猫功を致す能く、鼠害を為さず。
代宗深く之を嘉す。袞益々祐甫を悪む。
代宗が初めて崩御したとき、西宮において哀悼の礼を行い、常袞はひとりで任用を受けたことにより、哀悼の度合いが礼の規定を超えた。例によれば、朝夕の臨御においては、皆十五声で声を上げるものだが、袞はいつも哀慟して涙を流し、あるときは中庭で引き返して泣き、顧みて慕う様子は去りがたいようであり、同列の者たちは皆快く思わなかった。やがて袞が礼司とともに群臣の喪服について議し、言うには、「『礼』を案ずるに、君主のために斬衰三年を着る。漢の文帝は権宜の制を定め、なお三十六日とした。国家において太宗が崩御したとき、遺詔もまた三十六日とし、しかるに群臣はこれを延長し、葬儀が終わってから除服し、およそ四月であった。高宗が崩御したとき、喪服の軽重を絶つことは、漢の故事のごとくであり、武太后が崩御したときもまた同様であった。玄宗・粛宗が崩御するに及んで、初めて天子の喪を二十七日に変え、しかも当時の遺詔には『天下の吏人は三日で喪服を脱ぐ』とあるが、朝廷の群臣は実際に二十七日間喪服を着てから除服したのであるから、朝臣は皇帝の制度に従うべきである。」祐甫が執して言うには、「伏して遺詔に準ずるに、朝臣と庶人の区別はなく、ただ『天下の人吏は、勅が到着した後に出て臨み、三日にして皆喪服を脱ぐ』と言うのみである。ならば朝野中外、天下でないものがあろうか。凡百の執事、誰が吏職でないものがあろうか。すなわち皇帝は二十七日とすべきであり、群臣は三日とすべきである。」袞が言うには、「賀循の注義を案ずるに、吏とは官長が任命する者をいい、すなわち今の胥吏であって、公卿百僚の例ではない。」祐甫が言うには、「『左伝』に『これを三吏に委ねる』とある。三吏とは三公である。史に循吏・良吏と称する者は、胥徒であろうか。」袞が言うには、「礼は天から降り地から出るものではなく、人情によるものである。しかも公卿大臣は、殊寵を栄えて受けているから、異なる扱いをなすべきである。今、黔首と同じ制度とし、二晩で除服するのは、お前にとって安んじられることか。」祐甫が言うには、「遺詔をどうするのか。詔旨を改めることができるなら、何を改めることができないというのか。」袞は強く諍って服せず、声色は甚だ厳しく、礼節を顧みなかった。また袞がちょうど鉤陳の前で泣いているとき、袞の従吏が彼を扶けたことがあり、祐甫は衆人に指し示して言った、「臣が君の前で泣くとき、扶ける礼があるだろうか。」袞はこれを聞き、その怒りに堪えられなかった。そこで上奏して祐甫が情に任せて礼を変え、国典を軽んじて議するものだと言い、潮州刺史に左遷するよう請うた。内議では重すぎるとし、河南少尹に改めた。
初め、粛宗のとき天下の事は殷賑を極め、宰相は三四員を減らさず、交替で直務を執った。もし休暇でそれぞれ邸宅にいるとき、詔旨の出入りがあり、大事でなければ諸々の邸宅を歴訪させたくないので、直事する者一人に同列の名を仮署して進上することを許し、遂に故事となった。このとき、中書令郭子儀・検校司空平章事朱泚は、名目上は宰臣であり、制勅に署名すべきであったが、機密の議事については、聞くことができなかった。時に徳宗が践祚して十日も経たず、口を出さない時期にあったので、袞は旧事に従い、二人の名を代署して進上した。祐甫を貶す勅が出ると、子儀と泚はともに上表して祐甫が貶謫されるべきでないことを明らかにした。上は言った、「先には貶すべきと言い、今は罪がないと言うのは、どういうことか。」二人はともに奏上して、実際に貶すべきという言葉はなかったと述べた。徳宗は大いに驚き、袞が誣罔であると言った。この日、百官は苴绖を着けて月華門に序立し、ただちに袞を河南少尹に貶し、祐甫を門下侍郎・平章事とし、両者の職を交換した。祐甫は出て昭応県に至ったが、召し還された。まもなく中書侍郎に転じ、国史を修し、なお平章事を兼ねた。
上は初めて即位し、庶務をすべて宰司に委ねた。至徳・乾元年間以来、天下は戦伐多く、啓奏は山積みし、故に官賞は紊乱した。永泰の後、四方が定まると、元載が政を執り、公道は塞がれ、官は賄賂によって成った。中書主書卓英倩・李待栄の輩が権勢を振るい、その勢いは朝列を傾け、天下の官爵は、大なるものは元載から出、小なるものは倩・栄から出た。四方から賄賂を携えて官を求める者は、道に連なり、称して遂げられずに去る者はなく、ここに綱紀は大いに乱れた。元載が敗れ、楊綰がまもなく卒すると、常袞が国政を執り、その門を杜絶し、四方からの奏請は、通るものがなく、たとえ権勢ある者も匹夫と等しかった。辞賦によって科挙に及第した者でなければ、進用されることはなかった。賄賂はやや絶えたが、しかし甄別するものはなく、故に賢愚ともに滞留した。祐甫が袞に代わると、推薦・推挙を延べ、疑滞することなく、日に十数人を除目し、宰相となって一年も経たないうちに、凡そ吏を除くこと八百員に及び、多くは允当であると称された。上はかつて言った、「卿の除目した擬官は、多く親故に関わっていると誹謗する者がいるが、どういうことか。」祐甫は奏上して言った、「臣は頻りに聖旨を奉じ、臣に庶官を進擬するよう命じられました。進擬するには必ずその才行に通暁しなければなりません。臣がもしその者と相識っていれば、初めておおよそ通暁できますが、もし平素知り聞いていなければ、どうしてその言行を知ることができましょうか。誹謗を受ける理由は、実にここにあります。」上はこれを然りとした。
神策軍使王駕鶴は禁兵を十余年掌り、その権勢は中外を傾けた。徳宗が初めて帝位に即くと、白琇珪を代わらせようとしたが、変事を生じることを恐れた。祐甫は駕鶴を召して語り、引き留めている間に、琇珪はすでに軍に赴いて事務を執った。時に李正己は徳宗の威徳を畏れ、表を奉って銭三十万貫を献上した。上はその奏を受け入れようとしたが、正己が誠信あるかどうか慮り、計略をもって引き留めて止めようとしたが、その言葉がなく、宰相に問うた。祐甫は対して言った、「正己は奸詐であり、誠に聖慮のごとくです。臣は使いの者を淄青に往かせ、便りに将士を宣慰し、正己の献じた銭を諸軍人に賜り、かつ深く聖徳を荷うようにし、また外藩に朝廷が財貨を重んじないことを知らしめたいと請います。」上は喜び、これに従った。正己は大いに慚じ、心に畏服した。祐甫は謀猷を啓沃し、多く弘益するところがあり、天下は貞観・開元の太平を再び得ることができると思った。
冬に至って病に罹り、肩輿に乗って中書省に入り、臥して旨を承けた。あるいは休暇で邸宅にいるときも、大事は必ず中使に諮問して決させた。薨去したとき年六十、上は甚だ悼惜し、三日間朝を廃し、冊贈して太傅とし、賻として布帛米粟を差等を付けて賜り、諡して文貞といった。子がなく、遺命で猶子の植を嗣とさせた。文集三十巻がある。故事では、門下侍郎に三師を贈ったことはなかったが、徳宗は祐甫が謇謇として大臣の節操があるとして、特に寵異した。朱泚の乱のとき、祐甫の妻王氏は賊中に陥った。泚はかつて祐甫と同列であったので、その人となりを雅に重んじ、王氏に繒帛菽粟を贈った。王氏はこれを受け取って緘封し、徳宗が還京したとき、その状況を具に陳べて献上した。士君子はますます祐甫の家法を重んじ、その令名を享けるのは当然であると思った。
祐甫の子 植
植は字を公修といい、祐甫の弟の廬江令嬰甫の子である。植が宰相となると、上言して伯父の胤に出継いだため、推恩が父に及ばないとし、詔して嬰甫に吏部侍郎を贈った。植は経史に潜心し、特に『易象』に精通した。累歴して清要の職にあり、給事中となり、時に職を挙げることを称された。時に皇甫鎛が宰相として度支を判じ、内外の官の俸禄を減らすよう請うた。植は勅書を封還し、極諫して止めさせた。鎛はまた諸州府の塩院両税・榷酒・塩利・匹段などの加估定数、および近年天下が納めた塩酒利の抬估分を一切徴収するよう奏上し、詔は皆これを可とした。植は抗疏して論奏し、宰臣に命じて植を召し、旨を宣して嘉諭させた。物議は鎛を罪とし、植を美とした。まもなく御史中丞に除かれ、閣に入って弾事し、頗る綱紀を振るった。
長慶の初め、中書侍郎・同中書門下平章事に拝された。穆宗はかつて侍臣に言った、「国家の貞観年間、文皇帝はみずから帝道を行い、治世は昇平に至った。神龍・景龍の間、相次いで内難があり、玄宗が平定し、興復は容易でなかったが、その名声は最も盛んで、年数も長く続いた。どのような道によってそうなったのか」。崔植が答えて言った、「前代の創業の君主は、多く民間から起こり、百姓の疾苦を知っている。大業を初めて受け継いだとき、皆よく励精して治道を考えた。太宗文皇帝は特に上聖の資質を備え、堯・舜の道に合致した。それゆえ貞観一朝、四海は安寧であった。房玄齢・杜如晦・魏徴・王珪の類が輔佐の股肱となり、君は明らかで臣は忠であり、事は治まらないことがなかった。聖賢が相遇ったので、固よりこのようであったのは当然である。玄宗は文を守り体を継ぎ、かつて天后朝の艱難危険を経ており、開元の初めに姚崇・宋璟を得て、彼らに政を委ねた。この二人は、天が生んだ俊傑であり、動くごとに必ず公を推し、朝夕孜々として、君を道に導いた。宋璟はかつて手ずから『尚書・無逸』一篇を書き、図にして献上した。玄宗はこれを内殿に置き、出入りのたびに観察し、ことごとく心に記し、常に古人の至言を嘆じて、後代は及ばないと言い、故に賢を任用し欲を戒め、心は沖漠に帰した。開元の末、『無逸図』が朽ち壊れたため、初めて山水図をもってこれに代えた。その後、座右の箴規がなくなり、また姦臣を信じて政事を行わせた。天宝の世、やや勤労に倦み、王道はここに欠けた。建中の初め、徳宗皇帝はかつて先臣の崔祐甫に開元・天宝の治乱の違いを問われ、先臣は本末を具に陳べた。臣は童丱のとき、すでにその説を聞き、古人が韋・絃をもって戒めとするのは、その益が甚だ多いことを確かに知った。陛下がすでに虚心で治道を考えられるなら、また『無逸』を元亀とされることを望む。そうすれば天下は幸いである」。穆宗はその答えを良しとした。
ある日、また宰臣に言った、「前史は漢文帝が十家の財産を惜しんで露台をやめたと称えている。また、身には弋綈を衣とし、履は革舄を履き、上書の囊を集めて殿帷としたという。なんと倹約すぎることか。本当にこのようなことがあったのか」。崔植が答えて言った、「良史の記すところは、必ず妄言ではない。漢が興り、亡秦の残酷な後、項氏の戦争の余波を受け、海内は凋弊し、生民の力は尽きた。漢文は仁明の主で、代邸から起こり、稼穡の艱難を知っていた。それゆえ即位の後、みずから倹約を行った。景帝がこれを継いでも、なおこの風を遵った。これによって海内の黔首は、皆その生を楽しみ、家は給し戸は足りた。武帝に至って、公私ともに殷富となり、それによって師を出して征伐し、威は四方に行き渡り、銭は貫が朽ちるほど、穀は紅く腐るほどになった。上は侈靡に務め、資用はまた尽き、末年には舟車六畜にまで税をかけ、人は聊生せず、戸口は半減した。そこで哀痛の詔を下し、丞相を富人侯に封じた。これらは皆、漢史の明らかな証拠であり、事実として用いられる。かつ耕蚕の勧めは、人の力から出るものである。用いることに度がなければ、どうして富強に至ることができようか。武帝が嗣位した初め、物力は阜殷で、前代に比べるものがない。固より文帝の倹約によるものである」。上は言った、「卿の言は甚だ良い。ただ行うことが難しいことを憂うるのみである」。
憲宗皇帝は群盗を削平し、河朔三鎮は再び提封に入った。長慶の初め、幽州節度使劉総は表を奉り、幽・薊七州を献上し、朝廷に帥を命じるよう請うた。劉総はなお部将が乱を構えることを恐れ、その豪鋭なる者を籍に載せて先に京師に送った。当時、朱克融はその籍の中にいた。崔植と同列の杜元穎はもとより兵を知らず、かつ遠慮がなかった。朱克融らは京師で羈旅窮餓し、日ごとに中書に詣でて官を乞うたが、まったく意に介さなかった。張弘靖が鎮に赴くとき、朱克融らに従って還るよう命じた。数ヶ月も経たないうちに、朱克融は張弘靖を囚え、賓佐を害し、王廷湊と結び、国家は再び河朔を失った。これは崔植兄弟の由によるものである。そこで知政事を罷め、刑部尚書を守り、華州刺史として出された。大和三年正月に卒した。享年五十八。崔植は器量謹厚であったが、物を開き務めを成す才能はなく、異方で師を喪ったため、天下は特にその失策を咎めた。
崔植の再従兄に崔倰がいる。
崔倰、字は徳長。祖父の崔濤は、大理卿孝公崔沔の弟である。崔濤は崔儀甫を生み、大理丞で終わり、これが崔倰の父である。門蔭によって太廟斎郎から調授され、太平・東陽の二主簿となった。李衡が湖南・江西を廉察したとき、賓佐に辟し、事に坐して沈黙廃棄された。久しくして、また選によって宣州録事参軍に授けられた。観察使崔衍はその才を奇とし、章服を加えるよう奏上したが、崔倰は辞して受けなかった。李巽が江西を鎮めたとき、副使に奏し、監察裏行を得、また李巽に従って使を領し、河陰院塩鉄留後となった。入朝して侍御史となり、まもなく膳部員外に改め、転運判官を充てた。入朝して膳部郎中となり、荊襄十道両税使を充て、金紫を賜った。蘇州刺史に遷り、治行は第一であった。潭州刺史・湖南都団練観察使に転じた。湖南の旧法では、豊年でも貿易は境外に出さず、隣部が災荒にあっても相恤わなかった。崔倰が至ると、属吏に言った、「これは人情ではない。閉糴すべきでなく、民を重ねて困らせるものである」。これより商賈は流通した。入朝して戸部侍郎・判度支となった。
当時、崔倰の再従弟の崔植が宰相であった。崔倰の性格は剛褊で、その権寵を恃み、与奪は任情であった。当時、朝廷は王承元が帰国したため、田弘正に命じて鎮州に移鎮させた。田弘正の行に際し、魏卒二千を帳下とし、また常山の人は久しく朝化を隔てていたため、人情は変擾しやすいとして、累表して魏卒を留めて綱紀とし、その糧賜は度支に歳給を請うた。穆宗は宰臣に議を下した。崔倰は固く言って、魏・鎮にはそれぞれ鎮兵があり、朝廷には例として支給するものはない。事例となることを恐れ、従うべきではないと言った。田弘正は已むを得ず、魏卒を還藩させた。数日も経たないうちに鎮州は乱れ、田弘正は遇害した。穆宗は失徳し、崔倰の党は方に盛んで、人は敢えてその罪を糾そうとしなかった。度支を領することを罷め、検校礼部尚書となり、鳳翔節度等使として出された。一年も経たないうちに、河南尹に召された。当時七十歳で、抗疏して致仕を請い、詔により戸部尚書として帰第した。翌年暴卒し、一日朝を輟め、太子少保を贈られ、諡して粛といった。崔倰は官に居て清厳であり、至る所必ず治まった。しかし性格は介急で、僚属を礼節をもって扱わず、己の廉を恃み、贓汚の者を見れば仇の如くであった。
子の崔巌は進士第に登り、襄陽掌書記・監察御史に辟され、方正高雅で父の風があった。
常袞
常袞は京兆の人である。父の常無為は三原県丞で、常袞の累贈により僕射となった。常袞は天宝末に進士に挙げられ、太子正字を歴任し、累授して補闕・起居郎となった。宝応二年、翰林学士・考功員外郎中・知制誥に選ばれ、前のまま翰林学士となった。永泰元年、中書舎人に遷った。常袞の文章は俊抜で、当時に推重され、楊炎とともに舎人となり、当時常・楊と称された。性格は清直孤潔で、妄りに交遊しなかった。内侍の魚朝恩が権寵を恃み、国子監事を兼領したとき、常袞は上疏して不可とした。当時朝廷は多事で、西北の辺虜が連なって寇盗となり、常袞は累上章してその利害を陳べ、代宗は甚だ顧遇し、集賢院学士を加えた。大暦元年、礼部侍郎に遷り、なお学士であった。当時、中官の劉忠翼は内外に権を傾け、涇原節度使の馬璘はまた累ねて功勲を著し、恩寵は二つとなく、それぞれ親戚が貢部に干渉し、また両館生となることを求めたが、常袞は皆理を執り、人は皆これを畏れた。
元載が罪を得たとき、常袞に劉晏・李涵らと共にこれを審問させ、獄事が終わると、袞を門下侍郎・同平章事、太淸宮太微宮使、崇文館弘文館大學士に拝し、楊綰と共に枢務を掌らせた。代宗は特に綰を信頼し重用した。綰は寛大で融通がきき、多くを許容したが、袞は甚だしく苛細に務め、清儉の称を求め、綰の道とは異なっていた。先だって、百官の俸料は寡少で薄かったので、綰と袞はこれを加えるよう奏請した。時に韓滉が度支を判じており、袞と滉は各々私懐を騁せ、加える俸料の厚薄は己に由った。時に少列は各々月俸を三十五千と定めていたが、滉は司業の張參を怒り、唯三十千を給するのみとし、袞は少詹事の趙期を憎んで、遂に二十五千を給した。太子洗馬は、実は司経局の長官であり、文学がその次官である。袞に親戚で文学を任じている者がおり、これには十二千を給したが、洗馬には十千を給した。その軽重を情に任せ、時政に通じないことは、多くこの類いであった。
間もなく、楊綰が卒すると、袞が独り政を執った。故事では、毎日内厨の食を出して宰相に賜い、饌は十数人分食べられるほどであったが、袞は特にこれを罷めるよう請い、今に至るまで便ち故事となった。又、故に堂封を譲ろうとしたが、同列が不可として止めた。議する者は、厚禄重賜は賢を優遇し国政を崇めるためのものであり、能わなければ位を辞すべきで、禄食を辞すべきではない、と考えた。政事堂には後門があり、これは宰相が時に中書舍人院に至り、政事を諮問して自ら広めるためであったが、袞は又その門を塞ぎ絶ち、尊大を示し、互いに往来しなくなった。既に元載が政を執った時に公道が梗澀し、賄賂・朋党が大いに行われ、財勢なき者は仕官の因由無きことを懲りて、袞は一切これを杜絶した。中外の百司の奏請は、皆執って与えず、権は匹夫と等しく、特に文辞により科第に登らなかった者を排擯した。売官の路を窒ぐことはしたが、政事は大いに壅滞した。
代宗は既に平素より楊綰を重んじ、政事をこれに委ねようとした。綰は間もなく卒し、袞は綰と志尚が元より異なり、嫉んでこれを怒った。有司が綰に文貞と諡することを議すると、袞は微かに比部郎中の蘇端を諷してこれを駁させ、綰を毀ること過甚で、端は坐して官を黜せられた。時に中書侍郎が既におらず、舍人の崔祐甫が省事を領していたが、袞は同中書門下平章事として兼ねて中書省を総べ得ると考え、遂に中書の胥吏・省事の去就及びその案牘を管綜し、祐甫はこれに平らげず、累ねて忿競に至った。遂に祐甫に吏部選事を分知させ、擬する官も多く駁下された。時に袞の散官は尚だ朝議大夫であり、又封爵もなかったので、郭子儀が入朝に因ってこれを奏し、遂に特に銀青光禄大夫を加え、河内郡公に封じられた。代宗が崩ずると、祐甫と喪服の軽重を争論し、代わる代わる署奏した。初め祐甫を河南少尹に換え、再び潮州刺史に貶した。楊炎が相に入り、平素より袞と善かったので、建中元年、福建観察使に遷した。四年正月に卒し、時に年五十五。久しくして、左僕射を贈られた。文集六十巻がある。
史臣曰く。
史臣曰く、善人国を為すこと百年にして、即ち残を勝ち殺しを去るべし。楊綰が相に入ること数日にして、遽かに風を移し俗を易うるに致す。周公・召公・伊尹・傅説、蕭何・張良・房玄齢・杜如晦、歴代相を為すの顕者、斯の道を蔑聞す。嘗て諸集を読み、善を賞するは多く美を溢し、罪を書するは多く悪を溢す。楊綰が相を拝するの麻、官を贈るの制、諡を改むるの詔の如きは、則ち当時に筆を秉る者愧色無し。昔、趙文子士七十を薦む、古より美談と為す。崔祐甫吏八百を除く、人言を間う無し。物を開き務を成すの才、私を滅し公に徇うの道知るべし。噫、公権余旬日にして薨じ、貽孫期年に満たずして逝く。邃古已来、理世少なくして乱世多し、其の義茲に在り。常袞の輩は、云うに足らぬのみ。
賛して曰く。
賛して曰く、公権は儒道、貽孫は相才。命や永からず、時や哀しむべし。