舊唐書

巻119

巻119

舊唐書

原文舊唐書

卷一百一十九

原文卷一百一十九

巻一百十九 列傳第六十九 楊綰 崔祐甫 常袞

原文巻一百十九 列傳第六十九 楊綰 崔祐甫 常袞

巻一百十九 列伝第六十九 楊綰 崔祐甫 常袞

原文巻一百十九列傳第六十九 楊綰 崔祐甫 常袞

楊綰

原文楊綰

楊綰、字は公権、華州華陰の人である。祖父の温玉は、則天朝において戸部侍郎・国子祭酒を務めた。父の侃は、開元年間に醴泉令となり、いずれも儒行をもって称された。綰は生まれつき聡明で、四歳の時、一族の子供たちの中にあって、その識見の鋭さは人に優っていた。かつて夜、親族や賓客を招いて宴を催した際、座中の物をそれぞれ四声で呼ぶことを求めると、諸賓がまだ言い出さぬうちに、綰は即座に鉄の灯樹を指して「燈盞柄曲とうさんへいきょく」と言った。人々は皆これを異とした。成長すると、学を好んで倦まず、経書史籍に広く通じ、九流七略、読まぬものはなく、特に文章に巧みで、その文藻と構想は清らかで豊かであった。そして玄理を尊尚し、沈静で寡欲であり、常に独り一室に居て、左右に経書を置き、積もった塵が座席を満たしていても、淡々としていた。その光を内に含み、その才を晦ませて用い、名声を顕わそうとはせず、文章を作るたびに、自らを誇示することを恥じ、知己でなければ見せることはなかった。早くに孤児となり家は貧しかったが、母を養うことには孝行で知られ、美味な食物が欠けると、心配の色が顔に現れた。親友が禄を求めるよう勧めたので、進士に挙げられた。補任されて太子正字となった。天宝十三年、玄宗が勤政楼に臨み、博通墳典・洞曉玄経・辞藻宏麗・軍謀出衆などの挙人を試した。役人に食料を供給させ、日が暮れてやめた。辞藻宏麗科の者には別に詩・賦を一首ずつ試させた。制挙で詩賦を試すことは、ここに始まる。この時及第した者は三人で、綰がその首となり、右拾遺に超授された。

原文楊綰,字公權,華州華陰人也。祖温玉,則天朝爲戸部侍郎、國子祭酒。父侃,開元中醴泉令,皆以儒行稱。綰生聰惠,年四歳,處群從之中,敏識過人。嘗夜宴親賓,各舉坐中物以四聲呼之,諸賓未言,綰應聲指鐵燈樹曰:「燈盞柄曲。」衆咸異之。及長,好學不倦,博通經史,九流七略,無不該覽,尤工文辭,藻思淸贍。而宗尚玄理,沈靜寡欲,常獨處一室,左右經書,凝塵滿席,淡如也。含光晦用,不欲名彰,毎屬文,恥于自白,非知己不可得而見。早孤家貧,養母以孝聞,甘旨或闕,憂見于色。親友諷令干祿,舉進士。調補太子正字。天寶十三年,玄宗御勤政樓,試博通墳典、洞曉玄經、辭藻宏麗、軍謀出衆等舉人,命有司供食,既暮而罷。取辭藻宏麗外,別試詩賦各一首。制舉試詩賦,自此始也。時登科者三人,綰爲之首,超授右拾遺。

天宝の末、安禄山が反乱を起こし、粛宗が霊武において即位した。綰は賊中より危難を冒し、藪を分け食を求めて、行在所に赴いた。当時朝廷は賢才を急いでおり、綰が到着すると、衆人の心は皆喜び、起居舎人・知制誥に任じられた。司勲員外郎・職方郎中を歴任し、引き続き詔勅の起草を掌った。中書舎人に遷り、国史の編修を兼ねた。故事により、舎人で年功の深い者を「閣老」と呼び、官舎の雑料は閣老にその四分の三が帰属していた。綰は、品秩が同列であるならば、給与は均しく受けるべきであると考え、全て平等に分けた。これは当時の論評において大いに称賛された。再び礼部侍郎に遷り、上疏して貢挙の弊害を条奏した。その文は次の通りである。

原文天寶末,安祿山反,肅宗即位于靈武。綰自賊中冒難,披榛求食,以赴行在。時朝廷方急賢,及綰至,衆心咸悅,拜起居舍人、知制誥。歴司勛員外郎、職方郎中,掌誥如故。遷中書舍人,兼修國史。故事,舍人年深者謂之「閣老」,公廨雜料,歸閣老者五之四。綰以爲品秩同列,給受宜均,悉平分之,甚爲時論歸美。再遷禮部侍郎,上疎條奏貢舉之弊曰:

国家が士を選ぶには、必ず賢良を頼りとすべきである。すなわち、孝友の徳を純粋に備え、言行が篤実で、平常時には徳を養い、行動して仁に背かず、忠信の資質を体し、謙恭の操りを履み、才能を蔵するも自ら誇らず、虚心で応ずるには必ず誠実である者を取るのである。このようであってこそ、己を率いて政に従い、人を教化し風俗を鎮めることができるのである。末世に詐りが盛んになって以来、この道は次第に衰微し、文辞を競い尚び、互いに誇り耀かし合うようになった。司馬相如は浮薄で、結局任用に耐えず、趙壹は虚誕で、ついに郷里で排斥された。それ以来、その風潮はますます盛んとなり、実行を考えず、皆空名に従い、風俗を乱し教化を損なうことは、前史に詳しく載せられている。古人が文章を鄭・衛の音楽に比べたのには、理由があったのである。近くは煬帝が始めて進士の科を設けたが、当時はまだ策試だけであった。高宗の朝に至り、劉思立が考功員外郎となり、また進士に雑文を加えること、明経に帖経を行うことを奏上した。ここから弊害が積もり、次第に習慣となった。幼くして学に就き、皆当代の詩を誦し、長じて文に博く通じても、諸家の文集を越えることはない。互いに徒党を組み、虚名を得ようとし、『六経』は開巻することもなく、『三史』は皆壁に掛けたままである。ましてや孔門の道を求め、君子の儒たることを責めることなどできようか。習いが既に深く、奔走競争が務めとなっている。才能を誇る者は少しも恥じる色がなく、勇んで進む者はただ人を凌ごうとし、誹謗を常談とし、向背を己の任務とする。名刺を投じて干謁し、要路に駆け回り、才能を露わにし己を顕わし、当代に喧伝する。古の賢良方正に、このような者があっただろうか。朝廷の公卿はこれをもって士を待遇し、家の長老はこれをもって子孫に訓戒する。彼らが淳朴に返り、礼譲を懐き、忠信を守り、廉恥を知ることを望んでも、どうして得られようか。水に譬えれば、その流れは既に濁っている。もしその源を澄まさなければ、どうして再び清くなるだろうか。今、聖徳をもって天を治め、再び天下を安んじられ、四海の内は仰ぎ望んで教化を慕い、皆首を延べ踵を挙げて、聖朝の治を思っている。この時に当たってこれを治めなければ、太平の政はまた乱れるであろう。およそ国家の大権は、士を選ぶことに先んずるものはない。古来の哲王は皆、席を側めて賢を待った。今の人材の取り方は、自ら牒を投じて挙げさせるものであり、国を治める体ではない。望むらくは古制に依り、県令が孝廉を察挙し、その郷里に孝友信義廉恥の行いがあり、経学を修め、策試に堪える才を持つ者を審かに知り、孝廉の名をもって州に推薦させることである。刺史は礼をもってこれを待遇し、その通じる学問を試し、通じる者はその名を尚書省に送るべきである。県から省に至るまで、挙人に自ら牒を陳べさせることを許してはならない。近頃行われている到状・保弁・識牒などは、一切共に停止すべきである。その習う経書は、『左伝』・『公羊伝』・『穀梁伝』・『礼記』・『周礼』・『儀礼』・『尚書』・『毛詩』・『周易』の中から、一経を通じることを任じ、深い意義と奥旨を求め、諸家の義に通じることを務めさせる。試日の際は、諸司の儒学者を差し向けて対問させ、毎経につき義を十条問い、問い終わってから策を三道試す。その策は皆、古今の治体及び当時の要務を問い、実行に堪えるものを取る。経義と策が全く通じる者は上第とし、吏部に付して直ちに官を与えることを望む。経義が八条通じ、策が二道通じる者は中第とし、出身(官人資格)を与える。下第は罷めて帰らせる。明経の比試帖経は、全く古義ではなく、皆帖括を誦して僥倖を図っている。また近くに道挙があるが、これも国を治める体ではなく、明経・進士と共に停止することを請う。国子監の挙人も、この例に準ずることを請う。もし行い業績が顕著でなく、担当官が妄りに推薦した場合は、軽重に応じて貶黜を加えることを請う。数年の間に、人倫が一変し、実学に帰し、大道を識るようになることを望む。家に居る者は必ず徳業を修め、政に従う者は皆廉恥を知り、浮薄な競争は自然に止み、篤厚な風は自ら勧められるであろう。人を教える根本は、まさにここにある。この事が施行されるならば、別に条例を立てる。

原文國之選士,必藉賢良。蓋取孝友純備,言行敦實,居常育德,動不違仁。體忠信之資,履謙恭之操,藏器則未嘗自伐,虚心而所應必誠。夫如是,故能率己從政,化人鎭俗者也。自叔葉澆詐,茲道浸微,爭尚文辭,互相矜炫。馬卿浮薄,竟不周于任用;趙壹虚誕,終取擯于鄕閭。自時厥後,其道彌盛,不思實行,皆徇空名,敗俗傷教,備載前史,古人比文章于鄭、衞,蓋有由也。近煬帝始置進士之科,當時猶試策而已。至髙宗朝,劉思立爲考功員外郎,又奏進士加雜文,明經塡帖,從此積弊,浸轉成俗。幼能就學,皆誦當代之詩;長而博文,不越諸家之集。遞相黨與,用致虚聲,《六經》則未嘗開巻,《三史》則皆同掛壁。況復徵以孔門之道,責其君子之儒者哉。祖習既深,奔競爲務。矜能者曾無愧色,勇進者但欲淩人,以毀讟爲常談,以向背爲己任。投刺干謁,驅馳于要津;露才揚己,喧騰于當代。古之賢良方正,豈有如此者乎!朝之公卿,以此待士,家之長老,以此垂訓。欲其返淳樸,懷禮讓,守忠信,識廉隅,何可得也!譬之于水,其流已濁,若不澄本,何當復淸。方今聖德禦天,再寧寰宇,四海之内,颙颙向化,皆延頸舉踵,思聖朝之理也。不以此時而理之,則太平之政又乖矣。凡國之大柄,莫先擇士。自古哲后,皆側席待賢;今之取人,令投牒自舉,非經國之體也。望請依古制,縣令察孝廉,審知其鄕閭有孝友信義廉恥之行,加以經業,才堪策試者,以孝廉爲名,薦之于州。刺史當以禮待之,試其所通之學,其通者送名于省。自縣至省,不得令舉人輒自陳牒。比來有到狀保辯識牒等,一切並停。其所習經,取《左傳》、《公羊》、《穀梁》、《禮記》、《周禮》、《儀禮》、《尚書》、《毛詩》、《周易》,任通一經,務取深義奧旨,通諸家之義。試日,差諸司有儒學者對問,毎經問義十條,問畢對策三道。其策皆問古今理體及當時要務,取堪行用者。其經義並策全通爲上第,望付吏部便與官;其經義通八、策通二爲中第,與出身;下第罷歸。其明經比試帖經,殊非古義,皆誦帖括,冀圖僥幸。並近有道舉,亦非理國之體,望請與明經、進士並停。其國子監舉人,亦請準此。如有行業不著,所由妄相推薦,請量加貶黜。所冀數年之間,人倫一變,既歸實學,當識大猷。居家者必修德業,從政者皆知廉恥,浮競自止,敦龐自勸,教人之本,實在茲焉。事若施行,即別立條例。

詔して左右丞・諸司侍郎・御史大夫・中丞・給事中・中書舎人に、共に議して奏聞させた。給事中李広・給事中李棲筠・尚書左丞賈至・京兆尹兼御史大夫厳武の奏上した議状は、綰と同様であった。尚書左丞賈至の議は次のように言う。

原文詔左右丞、諸司侍郎、御史大夫、中丞、給、舍同議奏聞。給事中李廣、給事中李棲筠、尚書左丞賈至、京兆尹兼御史大夫嚴武所奏議狀與綰同。尚書左丞至議曰:

謹んで按ずるに、夏の政は忠を尚び、殷の政は敬を尚び、周の政は文を尚ぶ。然らば則ち文と忠敬とは、皆人の行いを統ぶるものなり。且つ夫れ諡号は行いを述べ、美は人文を極む。人文興れば則ち忠敬存す。是の故に前代は文を以て士を取るも、本は文行なり。辞を由りて行いを観れば、則ち辞に及ぶなり。宣父は顔子の怒りを遷さず、過ちを貳せざるを称し、之を好学と謂う。春秋を修むるに至りては、則ち游・夏の徒も一辞を措く能わず、亦明らかならずや。間者、礼部の人を取るに、斯の義に乖けり。易に曰く「人文を観て以て天下を化成す」と。関雎の義に曰く「先王是を以て夫婦を経め、孝敬を成し、人倫を厚くし、教化を美しくし、風俗を移す。蓋し王政の由りて興廃する所なり」と。故に延陵は詩を聴きて、諸侯の存亡を知る。今、学者を試みるに帖字を以て精通と為し、旨義を窮めず、豈に遷怒貳過の道を知るを得んや。文を考うる者は声病を以て是非と為し、唯だ浮艶を択ぶのみ。豈に風俗を移し天下を化するの事を知るを得んや。是を以て上は其の源を失い、下は其の流を襲い、波蕩して止まる所を知らず、先王の道、行う能わざるなり。夫れ先王の道消ゆれば、則ち小人の道長し。小人の道長ずれば、則ち乱臣賊子生ず。臣其の君を弑しいし、子其の父を弑するは、一朝一夕の故に非ず、其の由来する所漸し。漸とは何ぞ。忠信の淩頽、恥尚の失所、末学の馳騁、儒道の挙がらざるを謂う。四者は皆士を取るの失なり。夫れ一国の事、一人の本に系るを風と謂う。其の風を賛揚するは卿大夫に系る。卿大夫何ぞ嘗て士より出でざらんや。今、士を取るに小道を試みて、遠き者大なる者を以てせず、干禄の徒をして末術に趨馳せしむるは、是れ誘導の差なり。夫れ蝸蚓の餌を以て滄海に雑えて垂れ、呑舟の魚を望むは、亦難からずや。故に垂餌を食う者は皆小魚、科目に就く者は皆小藝なり。四民の業、士は最も風化に関わる。近代、仕に趨くこと靡然として風に向う。致して祿山一呼びて四海震蕩し、思明再乱して十年復たず。向使礼譲の道弘く、仁義の道著しからば、則ち忠臣孝子比屋に封ぜらるべく、逆節萌すを得ず、人心搖ぐを得ざるなり。且つ夏は天下有ること四百載、禹の道喪えて殷始めて興る。殷は天下有ること六百祀、湯の法棄てられて周始めて興る。周は天下有ること八百年、文・武の政廃れて秦始めて並ぶ。三代の士を選び賢を任ずるを観るに、皆実行を考う。故に風化淳一にして、運祚長遠なり。秦は儒士を坑し、二代にして亡ぶ。漢興り、三代の政を雑え、四科の挙を弘む。西京始めて経術の学を振い、東都終に名節の行を持す。至りて近戚位を窃み、強臣権を擅にし、弱主孤立し、母后専政すと雖も、社稷隕せず、終に彼の四百に及ぶ。豈に学を興し道を行い、鄕里に化を扇ぐに非ずや。厥の後、文章の道弊れ、浮侈を尚び、士を取る術異なり、一時を苟く済さんとす。魏より隋に至るまで、僅かに四百載、三光景を分かち、九州域を阻み、号を窃み位を僭し、徳義修めず。是を以て子孫速かに顛し、享国咸く促し。国家は魏・晉・梁・隋の弊を革め、夏・殷・周・漢の業を承け、四隩既に宅り、九州攸に同く、覆燾亭育し、天地に徳を合わす。安んぞ皇王の士を挙ぐるの道を捨て、乱代の人を取るの術に蹤かんや。此れ公卿大夫の辱なり。楊綰の奏する所、実に正論と為す。然れども典午覆敗してより、中原版蕩し、戎狄華を乱し、衣冠遷徙し、南北分裂し、人多く僑処す。聖朝区宇を一平すと雖も、尚復因循し、版図は則ち張るも、閭井未だ設けず、士鄕士に居るもの百に一二無く、累縁官族、所在耕築し、地望は数百年の外に系り、而して身は皆東西南北の人なり。今、古制に依り鄕挙裏選せんと欲するも、猶ほ士を取るの未だ尽きざるを恐る。請う、兼ねて学校を広くし、以て訓誘を弘めん。今、京に太学有り、州県に小学有り。兵革一たび動けば、生徒流離し、儒臣師氏、祿廩向く所無し。貢士行実に称せず、胄子何ぞ嘗て講習せん。独り礼部毎歳甲乙の第を擢び、獎擢を弘むと謂う。其れ謬ならずや。祗だ浮薄の風を長じ、僥幸の路を啓くに足るのみ。其の国子博士等は、員数を加え、其の祿秩を厚くし、通儒碩生を選び、間居して其の職にせしむるを望む。十道の大郡は、量りて太学館を置き、博士をして外に出で、兼ねて郡官を領せしめ、生徒を召し置かしむ。故事に依り、桑梓を保つ者は鄕里に挙げ、流寓に在る者は庠序に推す。朝に行い、夕に其の利を見ん。此くの如くせば、則ち靑靑復た興らざるを刺さず、擾擾其の本に帰る由り。人倫の始、王化の先、是に過ぎず。

原文謹按夏之政尚忠,殷之政尚敬,周之政尚文,然則文與忠敬,皆統人之行也。且夫諡號述行,美極人文,人文興則忠敬存焉。是故前代以文取士,本文行也,由辭以觀行,則及辭也。宣父稱顏子不遷怒,不貳過,謂之好學。至乎修《春秋》,則游、夏之徒不能措一辭,不亦明乎!間者禮部取人,有乖斯義。《易》曰:「觀乎人文以化成天下。」《關雎》之義曰:「先王以是經夫婦,成孝敬,厚人倫,美教化,移風俗,蓋王政之所由廢興也。」故延陵聽《詩》,知諸侯之存亡。今試學者以帖字爲精通,不窮旨義,豈能知遷怒貳過之道乎?考文者以聲病爲是非,唯擇浮艷,豈能知移風易俗化天下之事乎?是以上失其源而下襲其流,波蕩不知所止,先王之道,莫能行也。夫先王之道消,則小人之道長;小人之道長,則亂臣賊子生焉。臣弒其君,子弒其父,非一朝一夕之故,其所由來者漸矣。漸者何?謂忠信之淩頽,恥尚之失所,末學之馳騁,儒道之不舉,四者皆取士之失也。夫一國之事,系一人之本謂之風。贊揚其風,系卿大夫也,卿大夫何嘗不出于士乎?今取士試之小道,而不以遠者大者,使干祿之徒,趨馳末術,是誘導之差也。夫以蝸蚓之餌雜垂滄海,而望呑舟之魚,不亦難乎!所以食垂餌者皆小魚,就科目者皆小藝。四人之業,士最關于風化。近代趨仕,靡然向風,致使祿山一呼而四海震蕩,思明再亂而十年不復。向使禮讓之道弘,仁義之道著,則忠臣孝子比屋可封,逆節不得而萌也,人心不得而搖也。且夏有天下四百載,禹之道喪而殷始興焉;殷有天下六百祀,湯之法棄而周始興焉;周有天下八百年,文、武之政廢而秦始並焉。觀三代之選士任賢,皆考實行,故能風化淳一,運祚長遠。秦坑儒士,二代而亡。漢興,雜三代之政,弘四科之舉,西京始振經術之學,東都終持名節之行。至有近戚竊位,強臣擅權,弱主孤立,母后專政,而社稷不隕,終彼四百,豈非興學行道、扇化于鄕里哉?厥後文章道弊,尚于浮侈,取士術異,茍濟一時。自魏至隋,僅四百載,三光分景,九州阻域,竊號僭位,德義不修,是以子孫速顛,享國咸促。國家革魏、晉、梁、隋之弊,承夏、殷、周、漢之業,四隩既宅,九州攸同,覆燾亭育,合德天地。安有捨皇王舉士之道,蹤亂代取人之術?此公卿大夫之辱也。楊綰所奏,實爲正論。然自典午覆敗,中原版蕩,戎狄亂華,衣冠遷徙,南北分裂,人多僑處。聖朝一平區宇,尚復因循,版圖則張,閭井未設,士居鄕士,百無一二,累縁官族,所在耕築,地望系之數百年之外,而身皆東西南北之人焉。今欲依古制鄕舉裏選,猶恐取士之未盡也,請兼廣學校,以弘訓誘。今京有太學,州縣有小學,兵革一動,生徒流離,儒臣師氏,祿廩無向。貢士不稱行實,胄子何嘗講習,獨禮部毎歳擢甲乙之第,謂弘獎擢,不其謬歟?祗足長浮薄之風,啓僥幸之路矣。其國子博士等,望加員數,厚其祿秩,選通儒碩生,間居其職。十道大郡,量置太學館,令博士出外,兼領郡官,召置生徒。依乎故事,保桑梓者鄕里舉焉,在流寓者庠序推焉。朝而行之,夕見其利。如此則靑靑不復興刺,擾擾由其歸本矣。人倫之始,王化之先,不是過也。

李暠等の議は綰と協い、文多く載せず。宰臣等、挙人の旧業既に成り、速やかに改め難しと奏す。其の今歳の挙人は、且つ旧挙に応ずるを許すを望み、来歳詔を奉り、仍て礼部に勅し即ち条例を具えて奏聞せしむ。代宗、進士科を廃するを以て翰林学士に問う。対えて曰く「進士行来已久し、遽かに之を廃せば、人の業を失うを恐る」と。乃ち孝廉と旧挙とを兼ねて行うことを詔す。綰又た歳貢の孝悌力田及び童子科等を奏す。其の孝悌力田は宜しく実状有るべく、童子衆に越ゆるは常科に在らず。之を歳貢に同くせば、僥幸の路を長ずるを恐る。詔して之を停む。再び吏部侍郎に遷り、歴て挙選を典め、人物を精核し、公平を以て称せらる。

原文李暠等議與綰協,文多不載。宰臣等奏以舉人舊業已成,難于速改,其今歳舉人,望且許應舊舉,來歳奉詔,仍敕禮部即具條例奏聞。代宗以廢進士科問翰林學士,對曰:「進士行來已久,遽廢之,恐失人業。」乃詔孝廉與舊舉兼行。綰又奏歳貢孝悌力田及童子科等,其孝悌力田,宜有實狀,童子越衆,不在常科,同之歳貢,恐長僥幸之路。詔停之。再遷吏部侍郎,歴典舉選,精核人物,以公平稱。

時に元載政を秉る。公卿多く之に附く。綰孤立して中道に在り、淸貞自ら守り、未だ嘗て私謁せず。載、綰の雅望素より高きを以て、外に尊重を示し、心実に疎忌す。会うに魚朝恩死す。載、朝恩嘗て国子監事を判じ、太学を塵汙せしを以て、名儒を得て以て其の秩を淸むべしとし、乃ち奏して国子祭酒と為す。実に散地を以て之を処せんと欲するなり。載貪冒日甚だしく、天下の淸議亦綰に帰す。上深く之を知り、載久しく枢衡に在るを以て、未だ即ち罷遣せず。仍て綰を太常卿に遷し、礼儀使を充て、郊廟の礼久しく廃するを以て、綰を藉りて之を振起せしめ、亦以て其の效用を観んとす。是の年三月、載誅に伏す。上乃ち綰を中書侍郎・同中書門下平章事・集賢殿崇文館大学士に拝し、兼ねて国史を修めしむ。綰久しく公輔の望を積み、詔出づるに及び、朝野相賀す。綰累表して懇に譲る。上意を属する稍重く、綰敢えて辞せず。

原文時元載秉政,公卿多附之,綰孤立中道,淸貞自守,未嘗私謁。載以綰雅望素髙,外示尊重,心實疎忌。會魚朝恩死,載以朝恩嘗判國子監事,塵汙太學,宜得名儒,以淸其秩,乃奏爲國子祭酒,實欲以散地處之。載貪冒日甚,天下淸議,亦歸于綰,上深知之,以載久在樞衡,未即罷遣。仍遷綰爲太常卿,充禮儀使,以郊廟禮久廢,藉綰振起之也,亦以觀其效用。是年三月,載伏誅,上乃拜綰中書侍郎、同中書門下平章事、集賢殿崇文館大學士,兼修國史。綰久積公輔之望,及詔出,朝野相賀。綰累表懇讓,上屬意稍重,綰不敢辭。

綰素より德行を以て聞こえ、質性貞廉、車服儉樸。廟堂に居ること未だ数月ならずして、人心自ら化す。御史中丞崔寬は、剣南西川節度使寧の弟、家財に富み、別墅皇城の南に在り、池館臺榭當時第一なり。寬即日潜かに遣りて毀拆せしむ。中書令郭子儀邠州の行営に在り、綰相に拝せらるるを聞き、座内の音楽五分の四を減散す。京兆尹黎干恩を承くるを以て、毎出入するに騶馭百余り、即ち三日にして車騎を減損し、唯だ十騎を留むるのみ。其の余風望み奢を変えて儉に従う者、数うるに勝えず。其の俗を鎭め風を移すこと此の若し。

原文綰素以德行著聞,質性貞廉,車服儉樸,居廟堂未數月,人心自化。御史中丞崔寬,劍南西川節度使寧之弟,家富于財,有別墅在皇城之南,池館臺榭,當時第一,寬即日潛遣毀拆。中書令郭子儀在邠州行營,聞綰拜相,座内音樂減散五分之四。京兆尹黎干以承恩,毎出入騶馭百餘,亦即三日減損車騎,唯留十騎而已。其餘望風變奢從儉者,不可勝數,其鎭俗移風若此。

楊綰は宿痼の疾を有し、職に居ること旬日にして、中風し、優詔を以て中書省に就きて摂養せしめ、毎に延英殿に引見するに、特許して扶入を許す。時に旧弊を厘革するに、唯だ綰を瞻仰し、恩遇は二たるもの莫し。綰累ね疎を抗して位を辞し、頻りに詔を以て敦勉し、許さず。綰の疾亟まるに及んで、上は日に中使を発して第に就きて存問せしめ、尚書御醫は旦夕側に在り、上其の間有るを聞き、喜びて容色に見ゆ。数日にして薨じ、中使は門に在り、馳せて奏す上に、代宗震悼すること久しく、朝を輟むこと三日。詔して曰く:

原文綰有宿痼疾,居職旬日,中風,優詔令就中書省攝養,毎引見延英殿,特許扶入。時厘革舊弊,唯綰是瞻,恩遇莫二。綰累抗疎辭位,頻詔敦勉不許。及綰疾亟,上日發中使就第存問,尚書御醫,旦夕在側,上聞其有間,喜見容色。數日而薨,中使在門,馳奏于上,代宗震悼久之,輟朝三日。詔曰:

王者の大臣に対するや、存するときは則ち其の腹心を寄せ、肢体に均しくし、軍国の重に参じ、陰陽の和を以て叙し;歿するときは則ち其の事功を誄し、命数を加え、宗廟の祭に告げ、紱冕の章を以て襚す、則ち九原に帰す可く、百辟知りて勧む。故に朝議大夫・守中書侍郎・同中書門下平章事・集賢殿崇文館大学士・監修国史・上柱国・賜紫金魚袋楊綰は、性は元和に合し、身は律度に斉しく、道は雅俗を匡し、器は宗彜に重し。寛柔敬恭、九徳に協い;文行忠信、四教を弘む。内には耳目の役無く、孝悌を以て家に伝え;外には車服の容無く、貞実を以て代に形す。西掖に宥密の地を専め、南宮に選挙の源を領す。儒術を以て国庠に首とし、礼度を以て高廟を掌り、簡廉其の質、条職休を同じくす。頃に任其の才に非るを以て、毒政に流れ、爰に清浄の輔を登し、庶幾くは至理の期に諧わんとす。道風既に朝班に穆く、儉徳已に海内に行わる。賢人の業と雖も、久しきを冀う;夫子の命、之を如何ともす末だし。方に憑依有らんとし、遽かに此れ淪謝す、屛予の嘆、震悼良く深し。懐く所従う莫く、長想何ぞ及ばん。況んや歴官に素絲の節有り、居家に匹帛の余無し、故に華袞を以て飾り、其の法賻を増し、典策に備え膺り、朝経を載賁す。司徒しとを贈る可し。

原文王者之于大臣也,存則寄其腹心,均于肢體,參于軍國之重,敘以陰陽之和;歿則誄其事功,加之命數,告于宗廟之祭,襚以紱冕之章,則九原可歸,百辟知勸。故朝議大夫、守中書侍郎、同中書門下平章事、集賢殿崇文館大學士、監修國史、上柱國、賜紫金魚袋楊綰,性合元和,身齊律度,道匡雅俗,器重宗彜。寬柔敬恭,協于九德;文行忠信,弘于四教。内無耳目之役,以孝悌傳于家;外無車服之容,以貞實形于代。西掖專宥密之地,南宮領選舉之源。以儒術首于國庠,以禮度掌于髙廟,簡廉其質,條職同休。頃以任非其才,毒流于政,爰登淸凈之輔,庶諧至理之期。道風既穆于朝班,儉德已行于海内。雖賢人之業,冀于可久;而夫子之命,末如之何。方有憑依,遽此淪謝,屛予之嘆,震悼良深。所懷莫從,長想何及。況歴官有素絲之節,居家無匹帛之餘,故飾以華袞,增其法賻,備膺典策,載賁朝經。可贈司徒。

又詔して文武百僚をして其の第に臨ましめ、内常侍呉承倩を遣わして会吊せしめ、絹千匹・布三百端を贈る。上深く之を惜しみ、顧みて朝臣に謂ひて曰く、「天朕をして太平を致さしめず、何ぞ我が楊綰を奪うことの速きや!俯して大斂に及び、卿等と悲悼を同じくす。」宰輔の賻贈恩遇哀栄の盛なること、近年其の比有ること無し。太常初めに諡して曰く「文貞」。詔して曰く、「徳を褒め善を勧むるは、『春秋』の旧章;行を考へ名を易ふるは、礼経の通典。範を垂れ則を作すは、格言に存す。朝議大夫・中書侍郎・同中書門下平章事・集賢殿崇文館大学士・修国史・上柱国・賜紫金魚袋・贈司徒楊綰は、道を履み貞に居り、和を含み徳を毓し、行は人紀たり、文は典謨に合す。清にして名を晦まし、自伐の善無く;約して以て儉に師ひ、矜らざるの謙有り。方冊に直書し、秩宗礼を相ひ、辞は良史と称し、学は醇儒に茂し。枢衡に委ね、茲の密命を掌り、弥く沃心の道に契ひ、累ね造膝の誠を陳ぶ。将に天下五行の和を布き、君臣一徳の運を同じくせんとす、遽かに蔵舟の嘆を軫み、未だ済川の才を展べず。素業久しくして弥く彰はれ、清風歿して尚ぶ可し。古より飾終の義は、皆美名を以て錫ふ。諡法に曰く、『忠信人を愛するを文と曰ひ、平易懈かざるを簡と曰ふ。』宜しく文簡と諡す可し。」比部郎中蘇端は、性疎狂にして、其の賢を嫉み、乃ち肆に毀黷し、其の議を異同す。上怒り、端を貶して広州員外司馬とす。

原文又詔文武百僚臨于其第,遣内常侍呉承倩會吊,贈絹千匹、布三百端。上深惜之,顧謂朝臣曰:「天不使朕致太平,何奪我楊綰之速也!俯及大斂,與卿等悲悼同之。」宰輔賻贈恩遇哀榮之盛,近年未有其比。太常初諡曰:「文貞」。詔曰:「褒德勸善,《春秋》之舊章;考行易名,禮經之通典。垂範作則,存乎格言。朝議大夫、中書侍郎、同中書門下平章事、集賢殿崇文館大學士、修國史、上柱國、賜紫金魚袋、贈司徒楊綰,履道居貞,含和毓德,行爲人紀,文合典謨。淸而晦名,無自伐之善;約以師儉,有不矜之謙。方冊直書,秩宗相禮,辭稱良史,學茂醇儒。委在樞衡,掌茲密命,彌契沃心之道,累陳造膝之誠。將以布天下五行之和,同君臣一德之運,遽軫藏舟之嘆,未展濟川之才。素業久而彌彰,淸風歿而可尚。自古飾終之義,皆錫以美名。諡法曰:『忠信愛人曰文,平易不懈曰簡。』宜諡曰文簡。」比部郎中蘇端,性疎狂,嫉其賢,乃肆毀黷,異同其議。上怒,貶端爲廣州員外司馬。

綰は儉薄を以て自ら楽み、未だ嘗て家産に留意せず、口に生計を問はず、累任清要にして、宅一区無く、得る所の俸禄は、月に随ひ分けて親故に給す。清識人に過ぎ、往哲の微言・『五経』の奥義に至るまで、先儒未だ悟らざる者、綰一覧して其の精理を究む。雅に玄言を尚び、釈道二教を宗とし、嘗て『王開先生伝』を著して以て意を見す、文多く載せず。凡そ知友と為る者は、皆一時の名流。或いは之を造る者、清談終日、未だ嘗て名利に及ばず。或いは客有りて世務を以て干らんと欲する者、綰の言必ず玄遠なるを見て、敢えて辞を発せず、内愧して退く。大歴中、徳望日を追ひて崇く、天下の雅正の士争ひて其の門に趨ひ、数千里より来る者有り。清徳を以て坐して雅俗を鎮め、時に之を楊震・邴吉・山濤・謝安の儔に比す。

原文綰儉薄自樂,未嘗留意家産,口不問生計,累任淸要,無宅一區,所得俸祿,隨月分給親故。淸識過人,至如往哲微言,《五經》奧義,先儒未悟者,綰一覽究其精理。雅尚玄言,宗釋道二教,嘗著《王開先生傳》以見意,文多不載。凡所知友,皆一時名流。或造之者,淸談終日,未嘗及名利。或有客欲以世務干者,見綰言必玄遠,不敢發辭,内愧而退。大歴中,德望日崇,天下雅正之士爭趨其門,至有數千里來者。以淸德坐鎭雅俗,時比之楊震、邴吉、山濤、謝安之儔也。

崔祐甫

原文崔祐甫

崔祐甫、字は貽孫。祖は晊、懐州長史。父は沔、黄門侍郎、諡して孝公と曰ふ。家は清儉礼法を以て、士流の則たり。祐甫進士に挙げられ、寿安尉を歴る。安禄山洛陽らくようを陥すに、士庶奔迸す、祐甫独り矢石の間に崎危し、潜かに私廟に入り、木主を負ひて竄る。起居舎人・司勲吏部員外郎を歴り、累ね拝して御史中丞・永平軍行軍司馬となり、尋で本軍京師留後を知る。性剛直にして、容受する所無く、事に遇ひて回らず。累遷して中書舎人と為る。時に中書侍郎闕け、祐甫省事す、数たび宰相常袞に侵さる、祐甫従はず;袞之を怒り、奏して吏部選を分知せしめ、毎に官を擬する有れば、袞多く駁下し、言数たび相侵す。時に朱泚上言し、隴州の将趙貴家に猫鼠同乳し、相害為さずと、以て禎祥と為す。詔して中使を遣わして以て朝に示す、袞百僚を率ひて慶賀す、祐甫独り否む。中官其の故を詰む、答えて曰く、「此れ物の常を失ふなり、吊す可く賀す可からず。」中使其の状を徴す、祐甫上奏して言ふ:

原文崔祐甫,字貽孫。祖晊,懷州長史。父沔,黃門侍郎,諡曰孝公。家以淸儉禮法,爲士流之則。祐甫舉進士,歴壽安尉。安祿山陷洛陽,士庶奔迸,祐甫獨崎危于矢石之間,潛入私廟,負木主以竄。歴起居舍人、司勛吏部員外郎,累拜御史中丞、永平軍行軍司馬,尋知本軍京師留後。性剛直,無所容受,遇事不回。累遷中書舍人。時中書侍郎闕,祐甫省事,數爲宰相常袞所侵,祐甫不從;袞怒之,奏令分知吏部選,毎有擬官,袞多駁下,言數相侵。時硃泚上言,隴州將趙貴家貓鼠同乳,不相爲害,以爲禎祥。詔遣中使以示于朝,袞率百僚慶賀,祐甫獨否。中官詰其故,答曰:「此物之失常也,可吊不可賀。」中使徵其狀,祐甫上奏言:

臣聞く、天万物を生じ、剛柔性有り、聖人之に因り、訓を垂れ則を作すと。『礼記郊特牲』に曰く、「猫を迎ふるは、其の田鼠を食ふ為なり。」然らば則ち猫の鼠を食ふは、礼典に載せ、其の害を除き人を利するを以て、微と雖も必ず録す。今此の猫鼠に対して食はざるは、仁と為すは則ち仁なり、性を失ふに無からんや!鼠の物と為るや、昼伏し夜動き、詩人之を賦して曰く、「相鼠体有り、人にして礼無し。」又曰く、「碩鼠碩鼠、我が黍を食ふ無かれ。」其の序に曰く、「貪にして人を畏るるは、大鼠の若し。」臣旋め観るに、動物と云ふと雖も、麋鹿麝兔に異なり、彼は皆時に殺獲し、国の用と為る。猫人の養育を受く、職既に修めざれば、亦何ぞ法吏の勤めて邪に触れざる、疆吏の勤めて敵を払はざるに異ならんや?又礼部式を按ずるに具に三瑞を列し、猫鼠を食はざるの目無し、茲を以て慶と称するは、臣未だ詳らかにせず。伏して国家化洽理平、天符洊至し、紛綸雑沓、史絶えず書す。今茲の猫鼠は、濫りて廁す可からず。若し劉向の『五行伝』を以て之を論ずれば、恐らく須らく憲司に命を申し、貪吏を察聽し、諸の辺候を誡め、僥巡を失は無からしむべし。猫功を致す能く、鼠害を為さず。

原文臣聞天生萬物,剛柔有性,聖人因之,垂訓作則。《禮記郊特牲》曰:「迎貓,爲其食田鼠也。」然則貓之食鼠,載在禮典,以其除害利人,雖微必録。今此貓對鼠不食,仁則仁矣,無乃失于性乎!鼠之爲物,晝伏夜動,詩人賦之曰:「相鼠有體,人而無禮。」又曰:「碩鼠碩鼠,無食我黍。」其序曰:「貪而畏人,若大鼠也。」臣旋觀之,雖云動物,異于麋鹿麝兔,彼皆以時殺獲,爲國之用。貓受人養育,職既不修,亦何異于法吏不勤觸邪,疆吏不勤扞敵?又按禮部式具列三瑞,無貓不食鼠之目,以茲稱慶,臣所未詳。伏以國家化洽理平,天符洊至,紛綸雜沓,史不絶書。今茲貓鼠,不可濫廁。若以劉向《五行傳》論之,恐須申命憲司,察聽貪吏,誡諸邊候,無失僥巡。貓能致功,鼠不爲害。

代宗深く之を嘉す。袞益々祐甫を悪む。

原文代宗深嘉之。袞益惡祐甫。

代宗が初めて崩御したとき、西宮において哀悼の礼を行い、常袞はひとりで任用を受けたことにより、哀悼の度合いが礼の規定を超えた。例によれば、朝夕の臨御においては、皆十五声で声を上げるものだが、袞はいつも哀慟して涙を流し、あるときは中庭で引き返して泣き、顧みて慕う様子は去りがたいようであり、同列の者たちは皆快く思わなかった。やがて袞が礼司とともに群臣の喪服について議し、言うには、「『礼』を案ずるに、君主のために斬衰三年を着る。漢の文帝は権宜の制を定め、なお三十六日とした。国家において太宗が崩御したとき、遺詔もまた三十六日とし、しかるに群臣はこれを延長し、葬儀が終わってから除服し、およそ四月であった。高宗が崩御したとき、喪服の軽重を絶つことは、漢の故事のごとくであり、武太后が崩御したときもまた同様であった。玄宗・粛宗が崩御するに及んで、初めて天子の喪を二十七日に変え、しかも当時の遺詔には『天下の吏人は三日で喪服を脱ぐ』とあるが、朝廷の群臣は実際に二十七日間喪服を着てから除服したのであるから、朝臣は皇帝の制度に従うべきである。」祐甫が執して言うには、「伏して遺詔に準ずるに、朝臣と庶人の区別はなく、ただ『天下の人吏は、勅が到着した後に出て臨み、三日にして皆喪服を脱ぐ』と言うのみである。ならば朝野中外、天下でないものがあろうか。凡百の執事、誰が吏職でないものがあろうか。すなわち皇帝は二十七日とすべきであり、群臣は三日とすべきである。」袞が言うには、「賀循の注義を案ずるに、吏とは官長が任命する者をいい、すなわち今の胥吏であって、公卿百僚の例ではない。」祐甫が言うには、「『左伝』に『これを三吏に委ねる』とある。三吏とは三公である。史に循吏・良吏と称する者は、胥徒であろうか。」袞が言うには、「礼は天から降り地から出るものではなく、人情によるものである。しかも公卿大臣は、殊寵を栄えて受けているから、異なる扱いをなすべきである。今、黔首と同じ制度とし、二晩で除服するのは、お前にとって安んじられることか。」祐甫が言うには、「遺詔をどうするのか。詔旨を改めることができるなら、何を改めることができないというのか。」袞は強く諍って服せず、声色は甚だ厳しく、礼節を顧みなかった。また袞がちょうど鉤陳の前で泣いているとき、袞の従吏が彼を扶けたことがあり、祐甫は衆人に指し示して言った、「臣が君の前で泣くとき、扶ける礼があるだろうか。」袞はこれを聞き、その怒りに堪えられなかった。そこで上奏して祐甫が情に任せて礼を変え、国典を軽んじて議するものだと言い、潮州刺史に左遷するよう請うた。内議では重すぎるとし、河南少尹に改めた。

原文代宗初崩,發哀于西宮,袞以獨受任遇,哀逾等禮。例,晨夕臨者,皆十五舉音,而袞輒哀慟涕泗,或中墀返哭,顧慕若不能去,同列者皆不悅。及袞與禮司議群臣喪服,曰:「案《禮》,爲君斬衰三年。漢文權制,猶三十六日。國家太宗崩,遺詔亦三十六日,而群臣延之,既葬而除,約四月也。髙宗崩,服絶輕重,如漢故事,武太后崩亦然。及玄宗、肅宗崩,始變天子喪爲二十七日,且當時遺詔雖曰:『天下吏人三日釋服』在朝群臣實服二十七日而除,則朝臣宜如皇帝之制。」祐甫執曰:「伏準遺詔,無朝臣庶人之別,但言『天下人吏,敕到後出臨,三日皆釋服』,則朝野中外,何非天下?凡百執事,誰非吏職?則皇帝宜二十七日而群臣當三日也。」袞曰:「案賀循註義,吏者謂官長所署,則今胥吏耳,非公卿百僚之例。」祐甫曰:「《左傳》云:『委之三吏。』則三公也。史稱循吏、良吏者,豈胥徒歟?」袞曰:「禮非天降地出,人情而已。且公卿大臣,榮受殊寵,故宜異數。今與黔首同制,信宿而除之,于爾安乎?」祐甫曰:「若遺詔何?詔旨可改,孰不可?」袞堅諍不服,而聲色甚厲,不爲禮節。又袞方哭于鉤陳之前,而袞從吏或扶之,祐甫指示于衆曰:「臣哭于君前,有扶禮乎?」袞聞之,不堪其怒。乃上言祐甫率情變禮,輕議國典,請謫爲潮州刺史。内議太重,改爲河南少尹。

初め、粛宗のとき天下の事は殷賑を極め、宰相は三四員を減らさず、交替で直務を執った。もし休暇でそれぞれ邸宅にいるとき、詔旨の出入りがあり、大事でなければ諸々の邸宅を歴訪させたくないので、直事する者一人に同列の名を仮署して進上することを許し、遂に故事となった。このとき、中書令郭子儀・検校司空しくう平章事朱泚は、名目上は宰臣であり、制勅に署名すべきであったが、機密の議事については、聞くことができなかった。時に徳宗が践祚して十日も経たず、口を出さない時期にあったので、袞は旧事に従い、二人の名を代署して進上した。祐甫を貶す勅が出ると、子儀と泚はともに上表して祐甫が貶謫されるべきでないことを明らかにした。上は言った、「先には貶すべきと言い、今は罪がないと言うのは、どういうことか。」二人はともに奏上して、実際に貶すべきという言葉はなかったと述べた。徳宗は大いに驚き、袞が誣罔であると言った。この日、百官は苴绖を着けて月華門に序立し、ただちに袞を河南少尹に貶し、祐甫を門下侍郎・平章事とし、両者の職を交換した。祐甫は出て昭応県に至ったが、召し還された。まもなく中書侍郎に転じ、国史を修し、なお平章事を兼ねた。

原文初,肅宗時天下事殷,而宰相不減三四員,更直掌事。若休沐各在第,有詔旨出入,非大事不欲歴抵諸第,許令直事者一人假署同列之名以進,遂爲故事。是時,中書令郭子儀、檢校司空平章事硃泚,名是宰臣,當署制敕,至于密勿之議,則莫得聞。時德宗踐祚未旬日,居不言之際,袞循舊事,代署二人之名進。貶祐甫敕出,子儀及泚皆表明祐甫不當貶謫,上曰:「向言可謫,今言非罪,何也?」二人皆奏實未嘗有可謫之言,德宗大駭,謂袞誣罔。是日,百僚苴绖序立于月華門,立貶袞爲河南少尹,以祐甫爲門下侍郎、平章事,兩換其職。祐甫出至昭應縣,徵還。尋轉中書侍郎,修國史,仍平章事。

上は初めて即位し、庶務をすべて宰司に委ねた。至徳・乾元年間以来、天下は戦伐多く、啓奏は山積みし、故に官賞は紊乱した。永泰の後、四方が定まると、元載が政を執り、公道は塞がれ、官は賄賂によって成った。中書主書卓英倩・李待栄の輩が権勢を振るい、その勢いは朝列を傾け、天下の官爵は、大なるものは元載から出、小なるものは倩・栄から出た。四方から賄賂を携えて官を求める者は、道に連なり、称して遂げられずに去る者はなく、ここに綱紀は大いに乱れた。元載が敗れ、楊綰がまもなく卒すると、常袞が国政を執り、その門を杜絶し、四方からの奏請は、通るものがなく、たとえ権勢ある者も匹夫と等しかった。辞賦によって科挙に及第した者でなければ、進用されることはなかった。賄賂はやや絶えたが、しかし甄別するものはなく、故に賢愚ともに滞留した。祐甫が袞に代わると、推薦・推挙を延べ、疑滞することなく、日に十数人を除目し、宰相となって一年も経たないうちに、凡そ吏を除くこと八百員に及び、多くは允当であると称された。上はかつて言った、「卿の除目した擬官は、多く親故に関わっていると誹謗する者がいるが、どういうことか。」祐甫は奏上して言った、「臣は頻りに聖旨を奉じ、臣に庶官を進擬するよう命じられました。進擬するには必ずその才行に通暁しなければなりません。臣がもしその者と相識っていれば、初めておおよそ通暁できますが、もし平素知り聞いていなければ、どうしてその言行を知ることができましょうか。誹謗を受ける理由は、実にここにあります。」上はこれを然りとした。

原文上初即位,庶務皆委宰司。自至德、乾元中,天下多戰伐,啓奏塡委,故官賞紊雜。及永泰之後,四方既定,而元載秉政,公道隘塞,官由賄成。中書主書卓英倩、李待榮輩用事,勢傾朝列,天下官爵,大者出元載,小者自倩、榮。四方賫貨賄求官者,道路相屬,靡不稱遂而去,于是綱紀大壞。及元載敗,楊綰尋卒,常袞當國,杜絶其門,四方奏請,莫有過者,雖權勢與匹夫等。非以辭賦登科者,莫得進用。雖賄賂稍絶,然無所甄異,故賢愚同滯。及祐甫代袞,薦延推舉,無復疑滯,日除十數人,作相未逾年,凡除吏幾八百員,多稱允當。上嘗謂曰:「有人謗卿所除擬官,多渉親故,何也?」祐甫奏曰:「臣頻奉聖旨,令臣進擬庶官,進擬必須諳其才行。臣若與其相識,方可粗諳,若素不知聞,何由知其言行?獲謗之由,實在于此。」上以爲然。

神策軍使王駕鶴は禁兵を十余年掌り、その権勢は中外を傾けた。徳宗が初めて帝位に即くと、白琇珪を代わらせようとしたが、変事を生じることを恐れた。祐甫は駕鶴を召して語り、引き留めている間に、琇珪はすでに軍に赴いて事務を執った。時に李正己は徳宗の威徳を畏れ、表を奉って銭三十万貫を献上した。上はその奏を受け入れようとしたが、正己が誠信あるかどうか慮り、計略をもって引き留めて止めようとしたが、その言葉がなく、宰相に問うた。祐甫は対して言った、「正己は奸詐であり、誠に聖慮のごとくです。臣は使いの者を淄青に往かせ、便りに将士を宣慰し、正己の献じた銭を諸軍人に賜り、かつ深く聖徳を荷うようにし、また外藩に朝廷が財貨を重んじないことを知らしめたいと請います。」上は喜び、これに従った。正己は大いに慚じ、心に畏服した。祐甫は謀猷を啓沃し、多く弘益するところがあり、天下は貞観・開元の太平を再び得ることができると思った。

原文神策軍使王駕鶴掌禁兵十餘年,權傾中外,德宗初登極,將令白琇珪代之,懼其生變。祐甫召駕鶴與語,留連之,琇珪已赴軍視事矣。時李正己畏懼德宗威德,乃表獻錢三十萬貫。上欲納其奏,慮正己未可誠信,以計逗留止之,未有其辭,延問宰相。祐甫對曰:「正己奸詐,誠如聖慮。臣請因使往淄靑,便令宣尉將士,因正己所獻錢錫賫諸軍人,且使深荷聖德,又令外籓知朝廷不重財貨。」上悅,從之,正己大慚,而心畏服焉。祐甫謀猷啓沃,多所弘益,天下以爲可復貞觀、開元之太平也。

冬に至って病に罹り、肩輿に乗って中書省に入り、臥して旨を承けた。あるいは休暇で邸宅にいるときも、大事は必ず中使に諮問して決させた。薨去したとき年六十、上は甚だ悼惜し、三日間朝を廃し、冊贈して太傅とし、賻として布帛米粟を差等を付けて賜り、諡して文貞といった。子がなく、遺命で猶子の植を嗣とさせた。文集三十巻がある。故事では、門下侍郎に三師を贈ったことはなかったが、徳宗は祐甫が謇謇として大臣の節操があるとして、特に寵異した。朱泚の乱のとき、祐甫の妻王氏は賊中に陥った。泚はかつて祐甫と同列であったので、その人となりを雅に重んじ、王氏に繒帛菽粟を贈った。王氏はこれを受け取って緘封し、徳宗が還京したとき、その状況を具に陳べて献上した。士君子はますます祐甫の家法を重んじ、その令名を享けるのは当然であると思った。

原文至冬被疾,肩輿入中書,臥而承旨。或休假在第,大事必令中使咨決。薨時年六十,上甚悼惜之,廢朝三日,冊贈太傅,賻布帛米粟有差,諡曰文貞。無子,遺命猶子植爲嗣。有文集三十巻。故事,門下侍郎未嘗有贈三師者,德宗以祐甫謇謇有大臣節,故特寵異之。硃泚之亂,祐甫妻王氏陷于賊中,泚以嘗與祐甫同列,雅重其爲人,乃遺王氏繒帛菽粟,王氏受而緘封之,及德宗還京,具陳其狀以獻。士君子益重祐甫家法,宜其享令名也。

祐甫の子 植

原文祐甫子 植

植は字を公修といい、祐甫の弟の廬江令嬰甫の子である。植が宰相となると、上言して伯父の胤に出継いだため、推恩が父に及ばないとし、詔して嬰甫に吏部侍郎を贈った。植は経史に潜心し、特に『易象』に精通した。累歴して清要の職にあり、給事中となり、時に職を挙げることを称された。時に皇甫鎛が宰相として度支を判じ、内外の官の俸禄を減らすよう請うた。植は勅書を封還し、極諫して止めさせた。鎛はまた諸州府の塩院両税・榷酒・塩利・匹段などの加估定数、および近年天下が納めた塩酒利の抬估分を一切徴収するよう奏上し、詔は皆これを可とした。植は抗疏して論奏し、宰臣に命じて植を召し、旨を宣して嘉諭させた。物議は鎛を罪とし、植を美とした。まもなく御史中丞に除かれ、閣に入って弾事し、頗る綱紀を振るった。

原文植字公修,祐甫弟廬江令嬰甫子。植既爲相,上言出繼伯父胤,推恩不及于父,詔贈嬰甫吏部侍郎。植潛心經史,尤精《易象》。累歴淸要,爲給事中,時稱舉職。時皇甫鎛以宰相判度支,請減内外官俸祿,植封還敕書,極諫而止。鎛復奏諸州府鹽院兩稅、榷酒、鹽利、匹段等加估定數,及近年天下所納鹽酒利擡估者一切徵收,詔皆可之。植抗疎論奏,令宰臣召植宣旨嘉諭之,物議罪鎛而美植。尋除御史中丞,入閣彈事,頗振綱紀。

長慶の初め、中書侍郎・同中書門下平章事に拝された。穆宗はかつて侍臣に言った、「国家の貞観年間、文皇帝はみずから帝道を行い、治世は昇平に至った。神龍・景龍の間、相次いで内難があり、玄宗が平定し、興復は容易でなかったが、その名声は最も盛んで、年数も長く続いた。どのような道によってそうなったのか」。崔植が答えて言った、「前代の創業の君主は、多く民間から起こり、百姓の疾苦を知っている。大業を初めて受け継いだとき、皆よく励精して治道を考えた。太宗文皇帝は特に上聖の資質を備え、堯・舜の道に合致した。それゆえ貞観一朝、四海は安寧であった。房玄齢・杜如晦・魏徴・王珪の類が輔佐の股肱となり、君は明らかで臣は忠であり、事は治まらないことがなかった。聖賢が相遇ったので、固よりこのようであったのは当然である。玄宗は文を守り体を継ぎ、かつて天后朝の艱難危険を経ており、開元の初めに姚崇・宋璟を得て、彼らに政を委ねた。この二人は、天が生んだ俊傑であり、動くごとに必ず公を推し、朝夕孜々として、君を道に導いた。宋璟はかつて手ずから『尚書・無逸』一篇を書き、図にして献上した。玄宗はこれを内殿に置き、出入りのたびに観察し、ことごとく心に記し、常に古人の至言を嘆じて、後代は及ばないと言い、故に賢を任用し欲を戒め、心は沖漠に帰した。開元の末、『無逸図』が朽ち壊れたため、初めて山水図をもってこれに代えた。その後、座右の箴規がなくなり、また姦臣を信じて政事を行わせた。天宝の世、やや勤労に倦み、王道はここに欠けた。建中の初め、徳宗皇帝はかつて先臣の崔祐甫に開元・天宝の治乱の違いを問われ、先臣は本末を具に陳べた。臣は童丱のとき、すでにその説を聞き、古人が韋・絃をもって戒めとするのは、その益が甚だ多いことを確かに知った。陛下がすでに虚心で治道を考えられるなら、また『無逸』を元亀とされることを望む。そうすれば天下は幸いである」。穆宗はその答えを良しとした。

原文長慶初,拜中書侍郎、同中書門下平章事。穆宗嘗謂侍臣曰:「國家貞觀中,文皇帝躬行帝道,治致昇平。及神龍、景龍之間,繼有内難,玄宗平定,興復不易,而聲明最盛,歴年長久,何道而然?」植對曰:「前代創業之君,多起自人間,知百姓疾苦。初承丕業,皆能厲精思理。太宗文皇帝特稟上聖之資,同符堯、舜之道,是以貞觀一朝,四海寧晏。有房玄齡、杜如晦、魏徴、王珪之屬爲輔佐股肱,君明臣忠,事無不理,聖賢相遇,固宜如此。玄宗守文繼體,嘗經天后朝艱危,開元初得姚崇、宋璟,委之爲政。此二人者,天生俊傑,動必推公,夙夜孜孜,致君于道。璟嘗手寫《尚書·無逸》一篇,爲圖以獻。玄宗置之内殿,出入觀省,咸記在心,毎嘆古人至言,後代莫及,故任賢戒欲,心歸沖漠。開元之末,因《無逸圖》朽壞,始以山水圖代之。自後既無座右箴規,又信姦臣用事,天寶之世,稍倦于勤,王道于斯缺矣。建中初,德宗皇帝嘗問先臣祐甫開元、天寶治亂之殊,先臣具陳本末。臣在童丱,即聞其説,信知古人以韋、絃作戒,其益弘多。陛下既虚心理道,亦望以《無逸》爲元龜,則天下幸甚。」穆宗善其對。

ある日、また宰臣に言った、「前史は漢文帝が十家の財産を惜しんで露台をやめたと称えている。また、身には弋綈を衣とし、履は革舄を履き、上書の囊を集めて殿帷としたという。なんと倹約すぎることか。本当にこのようなことがあったのか」。崔植が答えて言った、「良史の記すところは、必ず妄言ではない。漢が興り、亡秦の残酷な後、項氏の戦争の余波を受け、海内は凋弊し、生民の力は尽きた。漢文は仁明の主で、代邸から起こり、稼穡の艱難を知っていた。それゆえ即位の後、みずから倹約を行った。景帝がこれを継いでも、なおこの風を遵った。これによって海内の黔首は、皆その生を楽しみ、家は給し戸は足りた。武帝に至って、公私ともに殷富となり、それによって師を出して征伐し、威は四方に行き渡り、銭は貫が朽ちるほど、穀は紅く腐るほどになった。上は侈靡に務め、資用はまた尽き、末年には舟車六畜にまで税をかけ、人は聊生せず、戸口は半減した。そこで哀痛の詔を下し、丞相を富人侯に封じた。これらは皆、漢史の明らかな証拠であり、事実として用いられる。かつ耕蚕の勧めは、人の力から出るものである。用いることに度がなければ、どうして富強に至ることができようか。武帝が嗣位した初め、物力は阜殷で、前代に比べるものがない。固より文帝の倹約によるものである」。上は言った、「卿の言は甚だ良い。ただ行うことが難しいことを憂うるのみである」。

原文他日,復謂宰臣曰:「前史稱漢文帝惜十家之産而罷露臺。又云身衣弋綈,履革舄,集上書囊以爲殿帷,何太儉也!信有此乎?」植對曰:「良史所記,必非妄言。漢興,承亡秦殘酷之後,項氏戰爭之餘,海内雕弊,生人力竭。漢文仁明之主,起自代邸,知稼穡之艱難,是以即位之後,躬行儉約。繼以景帝,猶遵此風。由是海内黔首,咸樂其生,家給戸足。迨至武帝,公私殷富,用能出師征伐,威行四方,錢至貫朽,穀至紅腐。上務侈靡,資用復竭,末年稅及舟車六畜,人不聊生,戸口減半,乃下哀痛之詔,封丞相爲富人侯。皆漢史明征,用爲事實。且耕蠶之勸,出自人力,用既無度,何由以至富強!據武帝嗣位之初,物力阜殷,前代無比,固當因文帝儉約之致也。」上曰:「卿言甚善,患行之爲難耳。」

憲宗皇帝は群盗を削平し、河朔三鎮は再び提封に入った。長慶の初め、幽州節度使劉総は表を奉り、幽・薊七州を献上し、朝廷に帥を命じるよう請うた。劉総はなお部将が乱を構えることを恐れ、その豪鋭なる者を籍に載せて先に京師に送った。当時、朱克融はその籍の中にいた。崔植と同列の杜元穎はもとより兵を知らず、かつ遠慮がなかった。朱克融らは京師で羈旅窮餓し、日ごとに中書に詣でて官を乞うたが、まったく意に介さなかった。張弘靖が鎮に赴くとき、朱克融らに従って還るよう命じた。数ヶ月も経たないうちに、朱克融は張弘靖を囚え、賓佐を害し、王廷湊と結び、国家は再び河朔を失った。これは崔植兄弟の由によるものである。そこで知政事を罷め、刑部尚書を守り、華州刺史として出された。大和三年正月に卒した。享年五十八。崔植は器量謹厚であったが、物を開き務めを成す才能はなく、異方で師を喪ったため、天下は特にその失策を咎めた。

原文憲宗皇帝削平群盜,河朔三鎭復入提封。長慶初,幽州節度使劉總表以幽、薊七州上獻,請朝廷命帥。總仍懼部將構亂,乃籍其豪鋭者先送京師。時硃克融在籍中。植與同列杜元潁素不知兵,且無遠慮。克融等在京羈旅窮餓,日詣中書乞官,殊不介意。及張弘靖赴鎭,令克融等從還。不數月,克融囚弘靖,害賓佐,結王廷湊,國家復失河朔,職植兄弟之由。乃罷知政事,守刑部尚書,出爲華州刺史。大和三年正月卒,年五十八。植雖器量謹厚,而無開物成務之才,及喪師異方,天下尤其失策。

崔植の再従兄に崔倰がいる。

原文植再從兄 倰

崔倰、字は徳長。祖父の崔濤は、大理卿孝公崔沔の弟である。崔濤は崔儀甫を生み、大理丞で終わり、これが崔倰の父である。門蔭によって太廟斎郎から調授され、太平・東陽の二主簿となった。李衡が湖南・江西を廉察したとき、賓佐に辟し、事に坐して沈黙廃棄された。久しくして、また選によって宣州録事参軍に授けられた。観察使崔衍はその才を奇とし、章服を加えるよう奏上したが、崔倰は辞して受けなかった。李巽が江西を鎮めたとき、副使に奏し、監察裏行を得、また李巽に従って使を領し、河陰院塩鉄留後となった。入朝して侍御史となり、まもなく膳部員外に改め、転運判官を充てた。入朝して膳部郎中となり、荊襄十道両税使を充て、金紫を賜った。蘇州刺史に遷り、治行は第一であった。潭州刺史・湖南都団練観察使に転じた。湖南の旧法では、豊年でも貿易は境外に出さず、隣部が災荒にあっても相恤わなかった。崔倰が至ると、属吏に言った、「これは人情ではない。閉糴すべきでなく、民を重ねて困らせるものである」。これより商賈は流通した。入朝して戸部侍郎・判度支となった。

原文倰,字德長。祖濤,大理卿孝公沔之弟也。濤生儀甫,終大理丞,即俊之父。以門廕由太廟齋郎調授太平、東陽二主簿。李衡廉察湖南、江西,辟爲賓佐,坐事沈廢。久之,復以選授宣州録事參軍。觀察使崔衍奇其才,奏加章服,倰辭而不受。李巽鎭江西,奏爲副使,得監察裏行,又從巽領使,爲河陰院鹽鐵留後。入爲侍御史,尋改膳部員外,充轉運判官。入爲膳部郎中,充荊襄十道兩稅使,賜金紫。遷蘇州刺史,理行爲第一。轉潭州刺史、湖南都團練觀察使。湖南舊法,豐年貿易不出境,鄰部災荒不相恤。 倰至,謂屬吏曰:「此非人情也,無宜閉糶,重困于民也。」自是商賈通流。入爲戸部侍郎、判度支。

当時、崔倰の再従弟の崔植が宰相であった。崔倰の性格は剛褊で、その権寵を恃み、与奪は任情であった。当時、朝廷は王承元が帰国したため、田弘正に命じて鎮州に移鎮させた。田弘正の行に際し、魏卒二千を帳下とし、また常山の人は久しく朝化を隔てていたため、人情は変擾しやすいとして、累表して魏卒を留めて綱紀とし、その糧賜は度支に歳給を請うた。穆宗は宰臣に議を下した。崔倰は固く言って、魏・鎮にはそれぞれ鎮兵があり、朝廷には例として支給するものはない。事例となることを恐れ、従うべきではないと言った。田弘正は已むを得ず、魏卒を還藩させた。数日も経たないうちに鎮州は乱れ、田弘正は遇害した。穆宗は失徳し、崔倰の党は方に盛んで、人は敢えてその罪を糾そうとしなかった。度支を領することを罷め、検校礼部尚書となり、鳳翔節度等使として出された。一年も経たないうちに、河南尹に召された。当時七十歳で、抗疏して致仕を請い、詔により戸部尚書として帰第した。翌年暴卒し、一日朝を輟め、太子少保を贈られ、諡して粛といった。崔倰は官に居て清厳であり、至る所必ず治まった。しかし性格は介急で、僚属を礼節をもって扱わず、己の廉を恃み、贓汚の者を見れば仇の如くであった。

原文時 倰再從弟植爲宰相, 倰性剛褊,恃其權寵,與奪任情。時朝廷以王承元歸國,命田弘正移帥鎭州。弘正之行,以魏卒二千爲帳下,又以常山之人久隔朝化,人情易爲變擾,累表請留魏卒爲綱紀,其糧賜請度支歳給。穆宗下宰臣議, 倰固言魏、鎭各有鎭兵,朝廷無例支給,恐爲事例,不可聽從。弘正不獲已,遣魏卒還籓,不數日而鎭州亂,弘正遇害。穆宗失德, 倰黨方盛,人不敢糾其罪。罷領度支,檢校禮部尚書,出爲鳳翔節度等使。不期歳,召爲河南尹,時年七十,抗疎致仕,詔以戸部尚書歸第。明年暴卒,輟朝一日,贈太子少保,諡曰肅。 倰居官淸嚴,所至必理,然性介急,待僚屬不以禮節,恃己之廉,見贓汙者如仇焉。

子の崔巌は進士第に登り、襄陽掌書記・監察御史に辟され、方正高雅で父の風があった。

原文子巖,登進士第,辟襄陽掌書記、監察御史,方雅有父風。

常袞

原文常袞

常袞は京兆の人である。父の常無為は三原県丞で、常袞の累贈により僕射となった。常袞は天宝末に進士に挙げられ、太子正字を歴任し、累授して補闕・起居郎となった。宝応二年、翰林学士・考功員外郎中・知制誥に選ばれ、前のまま翰林学士となった。永泰元年、中書舎人に遷った。常袞の文章は俊抜で、当時に推重され、楊炎とともに舎人となり、当時常・楊と称された。性格は清直孤潔で、妄りに交遊しなかった。内侍の魚朝恩が権寵を恃み、国子監事を兼領したとき、常袞は上疏して不可とした。当時朝廷は多事で、西北の辺虜が連なって寇盗となり、常袞は累上章してその利害を陳べ、代宗は甚だ顧遇し、集賢院学士を加えた。大暦元年、礼部侍郎に遷り、なお学士であった。当時、中官の劉忠翼は内外に権を傾け、涇原節度使の馬璘はまた累ねて功勲を著し、恩寵は二つとなく、それぞれ親戚が貢部に干渉し、また両館生となることを求めたが、常袞は皆理を執り、人は皆これを畏れた。

原文常袞,京兆人也。父無爲,三原縣丞,以袞累贈僕射。袞,天寶末舉進士,歴太子正字,累授補闕、起居郎。寶應二年,選爲翰林學士、考功員外郎中、知制誥,依前翰林學士。永泰元年,遷中書舍人。袞文章俊拔,當時推重,與楊炎同爲舍人,時稱爲常、楊。性淸直孤潔,不妄交遊。内侍魚朝恩恃權寵,兼領國子監事,袞上疎以爲不可。時朝廷多事,西北邊虜,連爲寇盜,袞累上章陳其利害,代宗甚顧遇之,加集賢院學士。大歴元年,遷禮部侍郎,仍爲學士。時中官劉忠翼權傾内外,涇原節度馬璘又累著功勛,恩寵莫二,各有親戚干貢部及求爲兩館生,袞皆執理,人皆畏之。

元載が罪を得たとき、常袞に劉晏・李涵らと共にこれを審問させ、獄事が終わると、袞を門下侍郎・同平章事、太淸宮太微宮使、崇文館弘文館大學士に拝し、楊綰と共に枢務を掌らせた。代宗は特に綰を信頼し重用した。綰は寛大で融通がきき、多くを許容したが、袞は甚だしく苛細に務め、清儉の称を求め、綰の道とは異なっていた。先だって、百官の俸料は寡少で薄かったので、綰と袞はこれを加えるよう奏請した。時に韓滉が度支を判じており、袞と滉は各々私懐を騁せ、加える俸料の厚薄は己に由った。時に少列は各々月俸を三十五千と定めていたが、滉は司業の張參を怒り、唯三十千を給するのみとし、袞は少詹事の趙期を憎んで、遂に二十五千を給した。太子洗馬は、実は司経局の長官であり、文学がその次官である。袞に親戚で文学を任じている者がおり、これには十二千を給したが、洗馬には十千を給した。その軽重を情に任せ、時政に通じないことは、多くこの類いであった。

原文元載之得罪,令袞與劉晏、李涵等鞫之,獄竟,拜袞門下侍郎、同平章事,太淸、太微宮使,崇文、弘文館大學士,與楊綰同掌樞務。代宗尤信重綰。綰弘通多可,袞頗務苛細,求淸儉之稱,與綰之道不同。先是,百官俸料寡薄,綰與袞奏請加之。時韓滉判度支,袞與滉各騁私懷,所加俸料,厚薄由己。時少列各定月俸爲三十五千,滉怒司業張參,唯止給三十千;袞惡少詹事趙期,遂給二十五千。太子洗馬,實司經局長官,文學爲之貳。袞有親戚任文學者給十二千,而給洗馬十千。其輕重任情,不通時政,多如此類。

間もなく、楊綰が卒すると、袞が独り政を執った。故事では、毎日内厨の食を出して宰相に賜い、饌は十数人分食べられるほどであったが、袞は特にこれを罷めるよう請い、今に至るまで便ち故事となった。又、故に堂封を譲ろうとしたが、同列が不可として止めた。議する者は、厚禄重賜は賢を優遇し国政を崇めるためのものであり、能わなければ位を辞すべきで、禄食を辞すべきではない、と考えた。政事堂には後門があり、これは宰相が時に中書舍人院に至り、政事を諮問して自ら広めるためであったが、袞は又その門を塞ぎ絶ち、尊大を示し、互いに往来しなくなった。既に元載が政を執った時に公道が梗澀し、賄賂・朋党が大いに行われ、財勢なき者は仕官の因由無きことを懲りて、袞は一切これを杜絶した。中外の百司の奏請は、皆執って与えず、権は匹夫と等しく、特に文辞により科第に登らなかった者を排擯した。売官の路を窒ぐことはしたが、政事は大いに壅滞した。

原文無幾,楊綰卒,袞獨當政。故事,毎日出内廚食以賜宰相,饌可食十數人,袞特請罷之,迄今便爲故事。又將故讓堂封,同列以爲不可而止。議者以爲厚祿重賜,所以優賢崇國政也,不能,當辭位,不宜辭祿食。政事堂有後門,蓋宰相時到中書舍人院,咨訪政事,以自廣也,袞又塞絶其門,以示尊大,不相往來。既懲元載爲政時公道梗澀,賄賂朋黨大行,不以財勢者無因入仕。袞一切杜絶之。中外百司奏請,皆執不與,權與匹夫等,尤排擯非文辭登科第者。雖窒賣官之路,政事大致壅滯。

代宗は既に平素より楊綰を重んじ、政事をこれに委ねようとした。綰は間もなく卒し、袞は綰と志尚が元より異なり、嫉んでこれを怒った。有司が綰に文貞と諡することを議すると、袞は微かに比部郎中の蘇端を諷してこれを駁させ、綰を毀ること過甚で、端は坐して官を黜せられた。時に中書侍郎が既におらず、舍人の崔祐甫が省事を領していたが、袞は同中書門下平章事として兼ねて中書省を総べ得ると考え、遂に中書の胥吏・省事の去就及びその案牘を管綜し、祐甫はこれに平らげず、累ねて忿競に至った。遂に祐甫に吏部選事を分知させ、擬する官も多く駁下された。時に袞の散官は尚だ朝議大夫であり、又封爵もなかったので、郭子儀が入朝に因ってこれを奏し、遂に特に銀青光禄大夫を加え、河内郡公に封じられた。代宗が崩ずると、祐甫と喪服の軽重を争論し、代わる代わる署奏した。初め祐甫を河南少尹に換え、再び潮州刺史に貶した。楊炎が相に入り、平素より袞と善かったので、建中元年、福建観察使に遷した。四年正月に卒し、時に年五十五。久しくして、左僕射を贈られた。文集六十巻がある。

原文代宗既素重楊綰,欲以政事委之。綰尋卒,袞與綰誌尚素異,嫉而怒之。有司議諡綰爲文貞,袞微諷比部郎中蘇端令駁之,毀綰過甚,端坐黜官。時既無中書侍郎,舍人崔祐甫領省事,袞以爲同中書門下平章事兼得總中書省,遂管綜中書胥吏、省事去就及其案牘,祐甫不能平之,累至忿競。遂令祐甫分知吏部選事,所擬官又多駁下。時袞散官尚朝議,又無封爵,郭子儀因入朝奏之,遂特加銀靑光祿大夫,封河内郡公。及代宗崩,與祐甫爭論喪服輕重,代相署奏。初換祐甫河南少尹,再貶爲潮州刺史。楊炎入相,素與袞善,建中元年,遷福建觀察使。四年正月卒,時年五十五。久之。贈左僕射。有文集六十巻。

史臣曰く。

原文史臣曰

史臣曰く、善人国を為すこと百年にして、即ち残を勝ち殺しを去るべし。楊綰が相に入ること数日にして、遽かに風を移し俗を易うるに致す。周公・召公・伊尹・傅説、蕭何しょうか・張良ちょうりょう・房玄齢・杜如晦、歴代相を為すの顕者、斯の道を蔑聞す。嘗て諸集を読み、善を賞するは多く美を溢し、罪を書するは多く悪を溢す。楊綰が相を拝するの麻、官を贈るの制、諡を改むるの詔の如きは、則ち当時に筆を秉る者愧色無し。昔、趙文子士七十を薦む、古より美談と為す。崔祐甫吏八百を除く、人言を間う無し。物を開き務を成すの才、私を滅し公に徇うの道知るべし。噫、公権余旬日にして薨じ、貽孫期年に満たずして逝く。邃古已来、理世少なくして乱世多し、其の義茲に在り。常袞の輩は、云うに足らぬのみ。

原文史臣曰:善人爲邦百年,即可勝殘去殺,楊綰入相數日,遽致移風易俗。周、召、伊、傅,蕭、張、房、杜,歴代爲相之顯者,蔑聞斯道也。嘗讀諸集,賞善多溢美,書罪多溢惡;如楊綰拜相之麻,贈官之制,改諡之詔,則當時秉筆者無愧色矣。昔趙文子薦士七十,古爲美談;崔祐甫除吏八百,人無間言。開物成務之才,滅私徇公之道可知也。噫!公權餘旬日而薨,貽孫未期年而逝,邃古已來,理世少而亂世多,其義在茲矣。常袞之輩,不足云爾。

賛して曰く。

原文贊

賛して曰く、公権は儒道、貽孫は相才。命や永からず、時や哀しむべし。

原文贊曰:公權儒道,貽孫相才。命乎不永,時哉可哀。