卷一百一十八
元載
元載は鳳翔岐山の人である。家はもと寒微であった。父の景昇は員外官に任ぜられ、産業を治めず、常に岐州に居住した。載の母は載を連れて景昇に嫁ぎ、元氏の姓を冒した。載は幼い頃より学問を好み、文章を作ることを好み、性質は敏捷で聡明、子書や史書を広く読み、特に道書を学んだ。家は貧しく、徒歩で郷里の賦に従い、累次上京して及第しなかった。天宝初め、玄宗は道教を崇奉し、詔を下して明らかに莊・老・文・列の四子の学に通じる者を求めた。載は策問で高科に入り、邠州新平尉を授けられた。監察御史韋鎰が使を充てて黔中の選挙を監察し、載を判官に引き立て、載の名声は次第に顕著となり、大理評事に遷った。東都留守苗晉卿もまた判官に引き立て、大理司直に遷った。
初め、扈駕して陝州より還り、縉とともに上表し、河中府を以て中都と為し、秋の末に行幸し、春の初めに京に還り、以て蕃戎の侵軼の患を避けることを請うた。帝は初めこれを納れ、条奏を遣わして聞かせた。魚朝恩が誅せられて以来、志は頗る盈満し、遂に表を抗して中都の建立を請い、文は多く載せない。大略、関輔・河東等十州の戸税を以て京師に奉じ、精兵五万を創置し、管を中都に置き、以て四方を威し、言辞は多く開合を含んだ。自ら表が入り事が行われると思い、潜かに所由の吏を河中に遣わして経営させた。
節度使は涇州に寄理した。大暦八年、蕃戎が邠寧に入った後、朝議は三輔以西には襟帯の固さがなく、涇州は散地で守るに足りないと為した。載は嘗て西州刺史を為し、河西・隴右の要害を知り、上前で指画して曰く、「今、国家の西境は潘源に極まり、吐蕃の防戍は摧沙堡にあり、而して原州はその間に界する。原州は西塞の口に当たり、隴山の固さに接し、草は肥え水は甘く、旧壘が存する。吐蕃は比来その垣墉を毀ち、棄てて居住しない。その西は監牧の故地で、皆長濠巨塹があり、重複して深固である。原州は早霜ではあるが、黍稷は栽培されず、而して平涼がその東に付き、独り一県を耕せば、以て食を足すことができる。請う、京西の軍戍を原州に移し、隙に乗じてこれを築き、粟を一年貯蔵せよ。戎人の夏牧は多く青海にあり、羽書が覆至するも、既に一月を逾えている。今、運搬と築造を並行して作れば、二旬を俟たずして完了するであろう。子儀の大軍を涇に移し居らせ、以て根本と為す。兵を分けて石門・木峽・隴山の関を守らせ、北は河に抵るまで、皆連山峻嶺で、寇は越えることができない。稍々に鳴沙県・豊安軍を置き、以てその羽翼と為し、北は霊武五城を帯びて以てその形勢と為す。然る後に隴右の地を挙げて以て安西に至れば、これ西戎の脛を断つと謂い、朝廷は高枕することができるであろう。」兼ねてその地形を図して献上した。載は密かに人を遣わして隴山を逾えさせ、原州に入り、井泉を量り、徒庸を計り、車乗や畚鍤の器を皆具備させた。検校左僕射田神功がこれを沮んで曰く、「夫れ師を興し敵を料るは、老将の難しとするところである。陛下は一書生の言を信じ、挙国してこれに従おうとされるのは、誤りを聴かれたのである。」上は疑い決せず、ちょうど載が罪を得たため乃ち止んだ。
初め、六年、載は条奏して、別勅に応じて文武六品以下を授ける場合、勅が出た後は吏部・兵部に便附して甲団奏させ、検勘を許さないことを望むとし、これに従った。時に功状の奏擬は、結銜に誤りが多い。載は権を己に帰せしめようと欲し、有司が駁正することを慮った。ちょうど上封人李少良が密かに載の醜跡を聞かせた。載はこれを知り、上前に奏上し、少良ら数人は悉く公府にて斃れた。ここにおいて道路では目を以て示すのみで、敢えて載の短を議することがなかった。門庭の内では、その党与でない者は接せず、平素の交友で、道義に渉る者は悉く疏遠にし棄てた。
載の長子 伯和
載の長子伯和は、先に揚州兵曹参軍に貶ぜられていたが、載が罪を得たので、中使を命中して馳伝せしめ、揚州において賜死せしむ。次子仲武は祠部員外郎、次子季能は秘書省校書郎、並びに載の妻王氏に賜死す。女の資敬寺尼真一は掖庭に収む。王氏は、開元中河西節度使忠嗣の女なり、素より兇戾を以て聞こえ、恣にその子伯和らをして虐を行わしむ。伯和は父の威勢を恃み、唯だ財貨を聚斂し、音楽を徴求するを事とす。
載は相位に多年在り、権は四海に傾き、外方の珍異、皆その門に集まり、資貨は勝計すべからず。故に伯和・仲武らその志を肆にす。軽浮の士、その門に奔る者、及ばざるを恐るるが如し。名姝・異楽、禁中に無き者も之あり。兄弟各妓妾を室に貯え、倡優偎褻の戯れを、天倫同じく観て、略く愧恥無し。罪を得るに及び、行路に嗟惜する者無し。中使董秀・主書卓英倩・李待栄及び陰陽人李季連、載の故を以て、皆極法に処せらる。中官を遣わして万年県界黄台郷において載の祖及び父母の墳墓を毀ち、棺を斫ち柩を棄て、及び私廟の木主を毀つ。並びに載の大寧里・安仁里の二宅を、百司の廨宇を修するに充つ。載の籍没したる鐘乳五百両を以て、中書門下御史台五品已上・尚書省四品已上に分賜す。
附 王昂
附 李少良
李少良は、吏用を以て、早く使幕に従い、職に因りて殿中侍御史に遷る。罷められて京師に遊び、権貴に幹謁す。時に元載専政し、居る所の第宅崇侈にして、子弟縦横し、貨賄公行し、士庶皆これを嫉む。少良用いられざるを怨み、衆怒に乗じて疏を抗して上聞す。少良を禁内客省に留む。少良の友人韋頌、禁門に因りて少良を訪う。少良その言を漏らす。頌慎密ならず、遂に載の備え知る所となる。乃ち少良の狂妄を奏す。詔して御史台に下して訊鞫せしむ。是の時御史大夫缺く。載、張延賞を以てこれとなし、意を属す。少良は禁中の奏議を泄らしたるを以て、制使陸珽同じく罪に伏す。初め、韋頌及び珽俱に少良と友善し、載の子弟親党と款狎す。頌少良の微旨を得て、載の親しむ所に漏らし、遂に載に達す。載密かに珽を召してこれを問う。珽具にその状及び禁中の語を白す。載これを得て、上に前に奏す。上大いに怒り、並びに京兆府に付して決殺せしむ。珽は、国子司業善経の子なり、少く父の業を伝え、頗る経史に通ず。性浮躁にして疎なり。故に累に及ぶ。
附 郇謨
大暦中、元載権を弄び自ら恣にす。人皆これを悪む。八年七月、晉州の男子郇謨、麻を以て髪を辮い、竹筐及び葦席を持ちて東市に哭す。人その故を問うに、対えて曰く、「三十字有りて上に献ぜんと請う。若し堪えざれば、便ち竹筐を以て屍を貯え、野に棄てん」。京兆府以て聞す。上既に召見し、衣を賜い、禁内客省に館す。その献ずる三十字は、各一事を論ず。その要は「団」字・「監」字なり。団とは、諸州の団練使を罷めんことを請う。監とは、諸道の監軍使を罷めんことを請う。殿中御史楊護は職左巡に居る。郇謨市に哭するも、護聞奏せず。上蔽匿と為し、連州桂陽県丞員外置に貶す。元載寵を受け志を得て当たるや、毎に朝政を改張するは、載の手より出ず。中外共に怒り、当時に帰咎するは載に在り。故に少良は前に封事し、郇謨は後に市に哭す。凡そ百位有る者、宜しく明誡と為すべし。
王縉
王縉は、字を夏卿といい、河中の人である。幼い頃から学問を好み、兄の王維と早くから文筆で名を知られた。王縉は草沢の科挙及び文辞清麗の科挙に相次いで応じて合格し、累進して侍御史・武部員外郎に任じられた。安禄山の乱の時、太原少尹に選ばれ、李光弼と共に太原を守り、功績と謀略は人々の推すところとなり、憲部侍郎を加えられ、本官を兼ねた。時に兄の王維が賊に捕らわれ、偽りの官職を受けていたが、賊が平定された後、王維は官吏の議に付されると、王縉は自分の官職を以て王維の罪を贖うことを請い、特別に罪を一等減じられた。
王縉の兄弟は仏教を信奉し、肉食をせず、王縉は晩年特に甚だしかった。杜鴻漸と共に財を捨てて寺を造ることに限りがなかった。妻の李氏が卒すると、道政里の邸宅を捨てて寺とし、彼女の追福を行い、その寺額を宝応寺と奏上し、僧三十人を度して住持させた。節度使・観察使が入朝する度に、必ず宝応寺に招き、財を施すよう説き勧めて、自分の修繕を助けさせた。初め、代宗は祠祀を好んだが、仏教をあまり重んじていなかった。しかし元載・杜鴻漸と王縉は僧徒に飯を施すことを喜んだ。代宗がかつて福業と報応の事について問うたので、元載らはこれに乗じて啓奏し、代宗はこれにより仏教を奉じ過ぎ、かつて百余りの僧を宮中に置き、仏像を陳列し、経行念誦させ、これを内道場と称した。その飲食は豊かで、珍奇なものを極め、出入りには厩舎の馬に乗り、度支が全て食料を供給した。西蕃が侵入する度に、必ず群僧に『仁王経』を講誦させ、虜寇を攘いだ。もし幸いにして敵が退けば、やたらに賞賜を加えた。胡僧の不空は、官は卿監に至り、国公に封ぜられ、禁中に通籍し、その勢いは公卿を動かし、権力を争い威を擅にし、日々互いに凌ぎ奪い合った。凡そ京畿の豊かな田畑と良い利益は、多く寺観に帰し、官吏は制することができなかった。僧侶の徒は、贓物や姦通、蓄乱があっても、敗れて誅戮される者が相次いだが、代宗の信心は変わらず、ついに詔して天下の官吏は僧尼を鞭打ち引きずってはならないとした。また、王縉らが財を施して寺を建て、極めて瑰麗にすることを見て、毎回応対して啓沃する際には、必ず業果を証拠とした。国家の慶祚が霊長なのは、皆福報によるものであり、業力は既に定まっているので、少しばかりの患難は問題ではないと考えた。故に安禄山・史思明が毒乱の勢い盛んな時、いずれも子の禍があった。仆固懐恩は乱を起こそうとして死に、西戎が宮闕を犯したが、撃たずして退いた。これらは皆、人事による明らかな徴ではない。帝はますますこれを信じた。公卿大臣は既に業報に掛けられているとすれば、人事は棄てて修めないので、大暦年間の刑政が日々衰微したのは、理由があるのである。
五台山に金閣寺があり、銅を鋳て瓦とし、その上に金を塗り、山谷を照耀し、費用は巨億万に及んだ。王縉が宰相の時、中書省の符牒を与え、五台山の僧数十人に郡県を分けて行かせ、徒衆を集めて講説させ、貨利を求めた。代宗は七月十五日に内道場で盂蘭盆を造り、金翠で飾り、費用は百万を費やした。また高祖以下七聖の神座を設け、幡節・龍傘・衣裳の制を備え、各々尊号を幡上に書いて識別し、内から舁き出し、寺観に陳列した。この日、儀仗を整え、百官は光順門に序立してこれを待ち、幡花を揚げ鼓舞し、道路で迎え呼んだ。毎年恒例としたが、識者はその典拠なきを嗤い、教化を損なう源は王縉に始まるのである。
楊炎
楊炎は、字を公南といい、鳳翔の人である。曾祖父の大寶は、武徳初年に龍門令となり、劉武周が晋・絳を陥落させた時、攻められても降伏せず、城が破られて害され、全節侯を追贈された。祖父の哲は、孝行に異なるものがあり、その門閭を表彰された。父の播は、進士第に登り、隠居して仕えず、玄宗が諫議大夫に徴したが、官を棄てて父母の養に就き、また孝行による禎祥があり、その門閭を表彰された。粛宗が就いて散騎常侍を加え、玄靖先生の号を賜り、名は『逸人伝』にある。
楊炎は鬚眉が美しく、風骨が峻峙し、文藻が雄麗で、汧・隴の間では、小楊山人と号された。初めて官に就き、河西節度掌書記に辟召された。神烏令の李大簡がかつて酔って楊炎を辱めたことがあったが、この時、楊炎と同幕となり、左右を率いて彼を反接し、鉄棒で二百回打ち、血が地に流れ、ほとんど死にそうになった。節度使の呂崇賁はその才を愛し、責めなかった。後に副元帥李光弼が判官に奏薦したが、応じず、起居舎人に徴されて任じられたが、禄を辞して岐山の下で父母の養に就いた。父母の喪に服し、墓前に廬して、声を絶やさず号泣し、紫芝と白雀の祥瑞があり、またその門閭を表彰された。孝は三代に著しく、門に六つの闕を立てたことは、古来なかった。喪が明けて久しくしてから、司勲員外郎に起用され、兵部に改め、礼部郎中・知制誥に転じた。中書舎人に遷り、常袞と共に綸誥を掌り、常袞は除書に長け、楊炎は徳音を善くし、開元以来、詔制の美を言う者は、当時、常・楊と称された。
楊炎は賢士を好み、人材を引き立てることを己れの任務とし、人々は彼に帰した。かつて『李楷洛碑』を作り、その文辞は甚だ巧みで、文士はこれを誦しない者はなかった。吏部侍郎に遷り、国史を修めた。元載が宰相となってからは、常に朝廷の士で文学の才望ある者一人を選び抜いて厚遇し、己れの代わりとしようとした。初めは礼部郎中劉単を引き立てたが、劉単が卒すると、吏部侍郎薛邕を引き立て、薛邕が貶されると、また楊炎を引き立てた。元載は楊炎を親しく重んじ、比べる者もなかった。元載が失脚すると、連座して道州司馬に貶された。徳宗が即位し、宰相を任用することを議すると、崔祐甫が楊炎は文学の才器があると推薦し、上もまた自らその名を聞いていたので、銀青光禄大夫・門下侍郎・同平章事に拝した。楊炎は風采がよく、文学に博く、早くから時の称賛を負い、天下は一致して、賢相となることを望んだ。
初めに令式を定めた時、国家には租賦庸調の法があった。開元の中ごろ、玄宗は道徳を修め、寛仁を理本としたので、版籍の書を作らず、人戸は次第に溢れ、堤防は禁じられなかった。丁口は転死し、旧名ではなくなった。田畝は移り換わり、旧額ではなくなった。貧富は昇降し、旧第ではなくなった。戸部は徒らに空文をもってその故書を総括し、当時の実情を得ていなかった。旧制では、人丁で辺境を戍る者は、その租庸を免じ、六年で免じて帰した。玄宗は夷狄を事とし、戍る者は多く死んで帰らず、辺将は寵を恃んでこれを隠し、死を申告しないので、その貫籍の名が除かれなかった。天宝の中ごろ、王鉷が戸口使となると、聚斂に努め、丁籍がなお存するならば、丁身はどこへ行ったのか、これは課を隠して出さないだけだとして、遂に旧籍を案じ、六年を除いた外を計り、その家の三十年の租庸を積み徴収した。天下の人は苦しんで訴えるところがなく、租庸の法は久しく弊害を生じていた。至徳の後になると、天下に兵乱が起こり、初めは兵役により、これに飢饉と疫病が加わり、徴求と運輸、百の役が並び起こり、人戸は凋耗し、版図は空虚となった。軍国の用は、度支・転運の二使に仰ぎ、四方の征鎮は、また自ら節度使・都団練使に給した。賦斂を司る役所が数四あり、互いに統摂せず、ここに綱目は大いに壊れ、朝廷は諸使を覆核できず、諸使は諸州を覆核できず、四方の貢献は、悉く内庫に入った。権臣猾吏は、これに因縁して奸を行い、あるいは公に進献と托し、私に贓盗する者が動いて万万を計った。河南・山東・荊襄・剣南の重兵のあるところは、皆厚く自らを奉養し、王賦の入るところは僅かであった。吏職の名は、人に随って署置し、俸給の厚薄は、その増損による。故に科斂の名は凡そ数百に及び、廃れたものは削らず、重なるものは去らず、新旧がなお積もり、その涯を知らない。百姓は命を受けてこれを供し、膏血を絞り、親愛を売り、旬ごとに輸し月ごとに送って休息がない。吏はその苛酷に因り、千人を蚕食する。凡そ富人多丁の者は、多く官となり僧となり、色役によって免れ、貧人は入るところがなければ丁が存する。故に課は上で免れ、賦は下で増す。これにより天下は残瘁し、浮人と化し、郷に居て地に著する者は百に四五もなく、このようになってほぼ三十年に及んだ。
楊炎は奏対に因り、その弊害を懇ろに言い、乃ち両税法を作ることを請い、その名を一つにして曰く、「凡そ百役の費、一銭の斂は、先ずその数を度りて人に賦し、出を量りて入を制す。戸に主客なく、見居をもって簿とし、人に丁中なく、貧富をもって差とす。居処せずに行商する者は、在所の郡県で三十分の一を税し、居する者と均しくなるように度り、僥利なからしむ。居人の税は、秋夏二度にこれを徴し、俗に不便なものはこれを正す。その租庸雑徭は悉く省き、丁額は廃せず、出入を申報すること旧式の如し。その田畝の税は、率を大暦十四年の墾田の数をもって準とし均しくこれを徴す。夏税は六月を過ぎず、秋税は十一月を過ぎず。歳を過ぎて後、戸増えて税軽減し、及び人散じて均を失する者あれば、長吏を進退し、尚書度支をもってこれを総統せしむ。」と。徳宗は善しとしてこれを行い、詔して中外に諭した。賦を掌る者はその非利を沮み、租庸の令は四百余年、旧制は軽々しく改めるべからずと言った。上は疑わずに行い、天下はこれを便利とした。人は土断せずして地に著き、賦は加斂せずして入が増し、版籍は造らずしてその虚実を得、貪吏は誡めずして奸するところなし。ここより軽重の権は、始めて朝廷に帰した。
楊炎は時弊を救い、頗る嘉声があった。事に蒞ること数か月、崔祐甫が疾病に属し、多く視事せず、喬琳が罷免されると、楊炎は遂に独り国政を当たった。崔祐甫の制作したものは、楊炎がこれを毀した。初めに元陵の功優を減薄したので、人心は始めて悦ばなかった。また専ら恩に報い仇を復することを意とした。道州録事参軍王沼は楊炎に微恩があり、王沼を挙げて監察御史とした。元載の恩を感じ、専ら元載の旧事を行ってこれに報いようとした。初め、元載が罪を得た時、左僕射劉晏がこれを訊劾し、元載が誅されると、楊炎もまた連座して貶されたので、劉晏を深く怨んだ。劉晏は東都・河南・江淮・山南東道の転運・租庸・青苗・塩鉄使を領していたが、楊炎が宰相となって数か月、劉晏を貶めようとし、先ずその使を罷め、天下の銭穀をすべて金部・倉部に帰した。また豊州陵陽渠を開くことを献議し、京畿の人夫を発して西城に就役させたが、閭裏は騒擾し、事は竟に成らなかった。
炎既に劉晏の罪を構えて貶官せしめしに、司農卿庾準は晏と隙ありしを以て、乃ち準を用いて荊南節度使とし、諷して晏をして忠州にて叛くを誣らしめ、これを殺さしめ、妻子は嶺表に徙す。朝野これがために側目す。李正己上表して晏を殺したる罪を請い、朝廷を指斥す。炎懼れ、乃ち腹心を遣わして諸道に分かち往かしむ:裴冀は東都・河陽・魏博に、孫成は澤潞・磁邢・幽州に、盧東美は河南・淄青に、李舟は山南・湖南に、王定は淮西に。声は宣慰と称するも、意は実に説いて謗らしむるにあり。且つ「晏の罪を得たるは、昔年奸邪に附会し、独狐妃を謀りて皇后と立つるにあり、上自らこれを悪む、他の過ちに非ず」と言わしむ。或る密奏ありて「炎が五使を諸鎮に遣わすは、天下に劉晏を殺したる罪を己に帰せしむるを恐れ、過ちを上に推さんとするのみ」と。乃ち中人をして炎の辞を正己に復せしむるに、還りて報うるに信然たり。ここより徳宗炎を誅せんとする意あり、事を待って発せんとす。乃ち盧杞を擢用して門下侍郎・平章事とし、炎は中書侍郎に転じ、仍って平章事たり。二人同事として政を秉るも、杞は文学なく、儀貌寝陋し。炎これを悪みて忽にし、毎たび疾を托して他閣に息み、多く会食せず、杞もまたこれを恨みに含む。旧制、中書舎人は尚書六曹を分押し、以て奏報を平らぐ。開元初めその職を廃す。杞これを復すを請うも、炎固より以て不可とす。杞ますます怒り、又密かに中書主書の過ちを啓き、これを逐う。炎怒りて曰く、「主書は吾が局の吏なり、過ちあれば吾自らこれを治む、奈何ぞ相侵さんや」と。
時に梁崇義の叛換に属し、徳宗は淮西節度使李希烈を以て諸軍を統率してこれを討たんと欲す。炎諫めて曰く、「希烈は始め李忠臣の子となり、親任比類無く、竟に忠臣を逐いてその位を取る。本に背くこと此の如し、豈に信ずべけんや!平常に居て尺寸の功も無く、猶お強いて法を奉ぜず。異日に賊を平げたる後、功に恃んで上に邀わば、陛下何を以てかこれを馭せん」と。初め、炎の南来するや、途に襄・漢を経て、固く崇義を勧めて入朝せしむ。崇義従う能わず、已に反側の心を懐く。尋いでまたその党李舟を使い馳せて説かしむるに、崇義固くして命を拒み、遂に叛逆を図る。皆炎の迫りて成さしむる所なり。ここに至り、徳宗は希烈の兵勢を仮りて以て崇義を討たしめ、然る後に別に希烈を図らんと欲す。炎また固く言うて不可とす。上平らかならず、乃ち曰く、「朕すでにこれを許せり、食言すべからず」と。遂に希烈を以て諸軍を統率せしむ。
時に徳宗嘗て宰相に群臣の中大任に堪うる者を訪う。盧杞は張鎰・厳郢を薦め、炎は崔昭・趙恵伯を挙ぐ。上は炎の論議疎闊なるを以て、遂に炎の相を罷め、左僕射とす。後数日、中謝し、延英に対す。及び出で、馳せ帰り、中書に至らず。盧杞ここよりますます怒る。杞尋いで厳郢を引いて御史大夫とす。初め、郢は京兆尹たりしとき、炎に附せず、炎これを怒り、御史張著に諷して郢を弾劾せしめ、郢は兼ねたる御史中丞を罷めらる。炎また夙に源休が郢と隙あるを聞き、乃ち休を流人より抜きて京兆尹とし、郢の過ちを伺わしむ。休官に蒞みて後、郢と友善す。炎大いに怒る。張光晟まさに回紇の酋帥を殺すを謀議するとき、炎は乃ち休を入回紇使とし、休幾虜に殺されんとす。郢尋いで度田不実に坐し、改めて大理卿と為る。時人これを惜しむ。ここに至り、杞は群情の欲する所に因り、又郢が炎と隙あるを知るが故に、引いて薦むるなり。
楊炎は早くから文才があり、また志操を励ましたが、中書舎人となってからは元載に附会し、当時の評判はすでに軽んじられていた。後に元載に連座して官を貶され、憤り怨むことますます甚だしく、帰朝して政権を得ると、些細な恨みでも必ず仇を討ち、険悪で害をなす性質が心に付きまとい、ただその愛憎のみに従い、公道を顧みず、ついに敗北に至った。趙恵伯もまた楊炎に連座して費州多田尉に貶され、まもなく殺害された。
黎幹
附 劉忠翼
忠翼は宦官である。本名は清潭といい、董秀とともに代宗に寵愛された。天憲を口にし、その勢いは日月を回らすほどで、貪饕に賄賂を受け、財産は巨万に及んだ。大暦年中、徳宗が東宮に居たとき、黎幹および清潭はかつて奸謀を企て動揺させようとした。この時、積もる前罪を以て誅殺された。
庾準
史臣曰
史臣が曰く、仲尼は云う、富と貴とは人の欲する所なり、道を以て得ざれば処さず、と。この道に反する者は小人である。元載は李輔国に諂って進身し、時の権力を弄んで地位を固め、衆怒は犯し難く、悪を長じて悔い改めず、家は亡びて誅罰は妻子に及び、身は死して災いは先祖に及んだ。王縉は奸邪に附会し、ついに顛覆に至った。楊炎は崔祐甫の規矩を壊し、段秀実の直を怒り、恩に酬い怨みに報い、私を以て公を害した。三人はいずれも文章を著わしたが、德行には大いに背いていた。「その徳を常にせざれば、あるいはこれに羞を受く」とは、大易の義である。富貴をその道を以てせざるは、小人の事であるか。庾準の奸佞を見よ、王縉の再起に遭い、楊炎の意に殉じて、曲げて劉晏の冤罪を致した。悪を積んで善終を得た者は、その余殃に在るであろうか。
贊
贊して曰く、元載・王縉・楊炎・庾準は、互いに附会し合った。左伝に言う、貪人は類を敗る、と。