旧唐書
列伝第六十七 厳武 郭英乂 崔寧 厳震 厳礪
厳武
厳武は、中書侍郎厳挺之の子である。神気は俊爽にして、聞見に敏であった。幼少より成人の風があり、書を読むも精義を究めず、渉獵するのみであった。弱冠にして門蔭により策名し、隴右節度使哥舒翰が奏して判官に充て、侍御史に遷った。至徳初め、粛宗が師を興して難を靖んずるに当たり、才傑を大いに収め、武は節を杖って行在に赴いた。宰相房琯は武が名臣の子であることを以て、平素よりこれを重んじ、この時に及んで、まっさきにその才略が称すべきことを薦め、累遷して給事中となった。長安を収めた後、武を京兆少尹・兼御史中丞とした。時に年三十二歳。史思明が兵を阻んだためその官に就かず、京師に優遊し、頗る自ら矜大した。出でて綿州刺史となり、遷って剣南東川節度使となった。入朝して太子賓客・兼御史中丞となった。
上皇が詔して剣南両川を合して一道とし、武を成都尹・兼御史大夫に拝し、剣南節度使を充てた。入朝して太子賓客となり、遷って京兆尹・兼御史大夫となった。二聖(玄宗・粛宗)の山陵に際し、武を橋道使とした。間もなく、兼御史大夫を罷め、吏部侍郎に改め、尋いで黄門侍郎に遷った。宰臣元載と深く相結び托し、その同列に引き入れられることを冀った。事未だ行われざるに、方面を求めて、再び成都尹に拝され、剣南節度等使を充てた。広徳二年、吐蕃七万余衆を破り、当狗城を抜いた。十月、塩川城を取り、検校吏部尚書を加えられ、鄭国公に封ぜられた。
前後蜀に在ること累年、志を肆にし欲を逞しくし、猛政を恣に行った。梓州刺史章彜は初め武の判官であったが、この時些細なことで意に副わず、成都に赴いて杖殺した。これにより威は一方を震わせた。蜀土は珍産に頗る饒かであったが、武は奢靡を窮極め、賞賜に度なく、或いは一言により賞して百万に至らしめた。蜀の方閭裏は征斂により殆ど匱竭に至ったが、然れども蕃虜もまた境を犯すことを敢えなかった。而して性元来狂蕩にして、事を視ること多く胸臆に率い、慈母の言といえども顧みなかった。初め剣南節度使となった時、旧相房琯が出でて管内刺史となった。琯は武に薦導の恩があったが、武は驕倨にして、琯を見るに朝礼を略んど無く、甚だ時論に貶せられた。永泰元年四月、疾を以て終わる。時に年四十歳。
郭英乂
郭英乂は、先朝の隴右節度使・左羽林軍将軍郭知運の末子である。少くより父の業により、武芸を習い知り、河・隴の間に策名し、軍功により累遷して諸衛員外将軍となった。至徳初め、粛宗が朔野に師を興すに当たり、英乂は将門の子として特に任用を見、遷って隴右節度使・兼御史中丞となった。二京を収めた後、闕下に征還され、禁兵を掌った。遷って羽林軍大将軍となり、特進を加えられた。家艱により職を去った。
朝廷方に史思明を討たんとし、将帥を選任するに当たり、乃ち英乂を起して陝州刺史とし、陝西節度・潼関防禦等使を充て、尋いで御史大夫を加えられ、兼ねて神策軍節度とした。代宗即位し、検校戸部尚書・兼御史大夫を加えられた。元帥雍王が陝より諸軍を統して賊を洛陽に討つに当たり、英乂を陝に留めて後殿とした。東都平らぎ、英乂を権らしめて東都留守とした。東都に至るや、暴を禁ずることができず、麾下の兵を縱して朔方・回紇の衆とともに都城を大掠し、鄭・汝等州に延いて、比屋蕩尽した。広徳元年、策勲して実封二百戸を加えられ、征拝されて尚書右僕射となり、定襄郡王に封ぜられた。富を恃んで驕り、京城に甲第を創起し、奢靡を窮極めた。宰臣元載と交結し、以てその権を久しからしめんとした。
時に剣南節度使厳武が卒したに会い、載は英乂を以てこれに代え、兼ねて成都尹とし、剣南節度使を充てた。成都に至るや、不軌を肆に行い、忌憚する所無かった。玄宗が蜀に幸した時の旧宮は、道士観と為して置かれ、内に玄宗の鑄金真容及び乗輿侍衛の図画があった。先ず、節度使の至る毎に、皆先ず拝して後に事を視た。英乂は観の地形勝れたるを見て、乃ち入居し、その真容図画は悉く毀壊に遭った。見る者怒らざる無く、軍政苛酷なるを以て、敢えて発言する者無かった。又頗る狂蕩を恣にし、女人を聚めて驢に騎り球を撃たしめ、鈿驢鞍及び諸服用を制し、皆侈靡に装飾し、日費数万、以て笑楽と為した。未だ嘗て百姓間の事を問わず、人頗るこれを怨んだ。又西山兵馬使崔旰が衆心を得るを以て、屡々これを抑えた。旰は蜀人の怨みに因り、西山より麾下五千余衆を率いて成都を襲い、英乂は軍を出してこれを拒いだが、その衆皆叛き、反って英乂を攻めた。英乂は簡州に奔り、普州刺史韓澄が英乂の首を斬って旰に送り、併せてその妻子を屠った。
崔寧
崔寧は、衛州の人、本名は旰。儒家の子ながらも、縦横の術を喜んだ。衛州刺史茹璋が旰に符離令を授けたが、罷まった後、久しく調せず、遂に客遊して剣南に至り、軍に従って歩卒となり、鮮于仲通に事えた。又李宓に随って雲南を討ち、宓が戦いに敗れ、旰は成都に帰った。行軍司馬崔論が旰を見て、その状貌を悦び、又その宗姓を以て厚遇し、薦めて衙将とした。崔圓・裴冕に歴事した。冕が流謗に遭い、朝廷将に使を遣わして推按せんとするに、旰の部下が耳を截って冤を称え、中使がこれを奏した。旰もまた京師に赴き、司戈を授かり、司階・折衝郎将軍等の官を歴任した。
宝応初め、蜀中乱れ、山賊が県道を擁絶し、代宗これを憂えた。厳武が旰を利州刺史に薦めた。至るや、山賊遁散し、これにより知名となった。厳武が剣南節度となり、鎮に赴くに利州を過ぎ、心に旰を辟いて部将とせんと欲したが、利州は属部に非ざるを以て、旰は輒ち去り難く、旰にこれを籌せしめた。旰曰く、「節度使張献誠は忌み見られ、且つ又利を好む。誠に能く重賂をこれに加うれば、旰は大夫に従うべし」と。武が剣南に至り、献誠に奇錦珍貝を遺し、価は百金を兼ね、献誠大いに悦んだ。武乃ち献誠に書を遺して旰を求め、献誠これを然とし、旰に疾を移して郡を去らしめた。旰乃ち剣南に至り、武が奏して漢州刺史とした。久しくして、吐蕃と諸雑羌戎が西山の柘・静等州を寇陷し、詔して厳武に収復せしめた。武は旰に兵を統して西山に遣わし、旰は士卒を善く撫で、皆死命に致さんことを願った。始めて賊城に次ぐや、周囲皆石礫にして、攻具を設くる所無し。唯だ東南隅に環丈の地あり、壤土穴うるべく、諜これを知りて告ぐ。旰は昼夜地道を穿ってこれを攻め、再宿してその城を抜いた。因って地を数百里拓き、城寨を数四下した。番衆相語して曰く、「崔旰は神兵なり」と。将に更に前進せんとするに、糧尽きて師を還した。武大いに悦び、七宝の輿を装って旰を迎え入れ成都し、以て士衆に誇り、賞賚過厚であった。
永泰元年五月、厳武が卒し、杜済が西川行軍司馬となり、軍府の事を権知した。時に郭英幹が都知兵馬使となり、郭嘉琳が都虞候となり、皆、英幹の兄の英乂を節度使に請うた。旰は時に西山都知兵馬使であり、軍衆と共に大将の王崇俊を節度使に請うた。二つの奏請が共に京師に至り、朝廷が既に英乂を除したのに会い、旰は使者を遣わして英乂に謁見させ、その事を陳べさせた。英乂が成都に至り、数日にして、王崇俊を誣殺し、また旰を召し還して成都に至らせた。英乂が将健の糧賜を減らすと、人心怨怒した。旰は西山でこれを聞き、大いに恐れ、乃ち吐蕃に備えることを託し、成都に赴かなかった。英乂は怒り、兵を出して旰を助けて吐蕃を討つと声言し、実はこれを襲おうとしたのである。旰の家は漢州にあり、英乂はこれを成都に移し、その妾媵を通じた。旰はこれを知り、深山に転入した。英乂は自ら師を率いて旰を攻め、天の大寒に値し、雪深さ数尺、英乂の士馬凍死する者数百人、衆心離叛した。旰は遂に兵を出して敵を拒ぎ、英乂はこれと接戦し、英乂の軍大敗して還り、余兵を収めて僅か千人、成都に帰るも、将卒多く逃散した。
初め、天宝中、剣南節度使鮮于仲通が嘗て一つの使院を建て、院宇甚だ華麗であった。玄宗が蜀に幸するに及び、嘗てこれに居し、因って道観と為し、兼ねて玄宗の真容を写し、これを正室に置いた。英乂は因り観に入り行香し、その竹樹を悦び、遂に奏請して仲通の旧院を軍営と為し、乃ち真容を移し去り自らこれに居した。旰はこれを聞き、将士に謂いて曰く、「英乂は反した!然らざれば、何ぞ玄宗の真容を除毀して自らこれに居するを得ん」と。乃ち兵を率いて成都を攻めた。英乂は兵を城の西門に出し、柏茂琳を前軍と為し、郭英幹を左軍と為し、郭嘉琳を後軍と為し、旰と戦うた。茂琳等の軍累敗し、軍人多く旰に投じた。旰は降将に命じて兵を統率させ英乂と転戦し、大いにこれを敗った。兵、子城に至り、英乂は単騎で簡州に奔り、普州刺史韓澄に殺された。時に邛・剣の所在兵を起こし相攻ち、剣南大いに乱れた。
永泰二年二月、乃ち黄門侍郎平章事杜鴻漸を以て兼ねて成都尹・山南西道剣南東川西川邛南等道副元帥・剣南西川節度使と為す。鴻漸が駱谷を出ると、謀者ありて曰く、「相公は車を閬州に駐め、遥かに剣南を制し、数たび牒を移して英乂の過失を述べ、旰に方略有りと言え。旰の腹心で諸州刺史を摂する者は皆奏してこれを正し、旰及び将校に疑怨せしめざらしめよ。然る後に東川節度使張献誠及び諸賊の帥と合議し、数たび兵を出して旰を攻めよ。既に数道連兵し、一年を経ずして、兵勢減耗し、旰窮すれば、必ず身を束ねて朝に帰すべし。これ上策なり」と。鴻漸は畏懦し、計疑って未だ決せず。会に旰の使至り、辞を卑くし礼を厚くし、繒錦数千匹を送る。鴻漸はその利に貪り、遂に成都に至り、日々判官杜亞・楊炎・将吏等と高会し縦観し、軍州の政事悉く旰に委ね、乃ち連表して聞き薦む。
先に、張献誠は数たび旰と戦い、献誠は屡敗し、旌節皆旰に奪われた。朝廷は鴻漸の請いに因り、成都尹を加え、兼ねて西山防禦使・西川節度行軍司馬と為し、仍って名を賜いて寧と曰う。大暦二年、鴻漸が朝に帰り、遂に寧を授けて西川節度使と為す。地険人富を恃み、乃ち財貨を厚く斂め、権貴を結び、弟の寛をして京師に留まらしむ。元載及び諸子に欲する所有れば、寛恣にこれを与う、故に寛は驟に御史知雑事・御史中丞を歴任す。寛の兄の審も亦た郎中・諫議大夫・給事中に任ず。寧は蜀に十余年、地険兵強く、侈を肆にし欲を窮め、将吏の妻妾、多くその淫汙せらるる所と為り、朝廷これを患うれども詰むる能わず。累加して尚書左僕射と為す。
大暦十四年に入朝し、司空・平章事に遷り、兼ねて山陵使と為り、尋いで喬琳に代わりて御史大夫・平章事と為る。寧は御史を選択するは当に大夫より出すべく、宰相に謀及すべからずと以為い、乃ち奏請して李衡・於結等数人を御史と為さんとす。楊炎は大いに怒り、その状遂に寝す。炎は又た数たび劉晏を讒毀す、寧は又たこれを解かんとす。寧は既に元載と厚く結ぶこと久しく、楊炎は又た載の門より出づ、寧は初め炎に附き、炎は此に因りて大いに怒る。
その年十月、南蛮大いに下り、吐蕃と三道合して進む。一は茂州より出で、文川及び灌口を過ぐ。一は扶・文より出で、方維・白壩を過ぐ。一は黎壩・雅より出で、邛・郲を過ぐ。戎の酋その衆を誡めて曰く、「吾は蜀川を要して東府と為し、凡そ伎巧の工は皆邏娑に送り、平歳は賦一縑のみ」と。是れ蛮の入るや、連ねて郡邑を陥し、士庶山谷に奔亡す。寧の朝に在るに属し、軍中に帥無く、徳宗は寧を促して還鎮せしむ。炎は寧の己を怨むを懼れ、蜀に入りて制し難きを謂い、徳宗に謂いて曰く、「蜀川は天下の奥壌、寧の自ら擅にその中に置くより以来、朝廷その外府を失うこと十四年なり。今寧来朝すも、尚お全師を以て蜀を守る。貨利の厚きは、適中奉給に中り、貢賦の入る所は、地無きと同し。始め寧は諸将と等夷し、独り叛乱に因りて位を得、敢えて自有せず、恩を以て柔煦育し、威令行わず。今帰すと雖も、必ず功無く、是れ徒に遣わすなり。若し功有らば、義奪うべからず。則ち西川の奥は、敗るれば固よりこれを失い、勝つも亦た国家の所有に非ず。陛下熟察せよ」と。帝曰く、「卿の策何れに従わん」と。炎曰く、「請う寧を帰さざらん。今硃泚の部する所の范陽の勁兵、近甸に戍し、促令して禁兵と雑えて往かしめば、挙げて捷からざる無し。是の役に因りて親兵を置きその腹中に内れしめ、蜀将必ず敢えて動かず。然る後に他の帥を換授し、以てその権を収め、千里の肥饒の地を得ば、是れ小禍に因りて大福を受くると也」と。帝曰く、「善し」と、即ち寧を行かしめず。乃ち禁兵四千・范陽兵五千を発し、東川に赴援せしむ。軍を出して江油より白壩に趣き、山南兵と合撃し、蛮兵敗走す。范陽軍は又た七盤に於いて撃破し、遂に新城を抜き、戎・蛮大いに敗る。凡そ斬馘六千、生擒六百、傷者は殆ど半ば、饑寒崖谷に隕る者八九万。
寧は遂に西川節度使を罷め、制を以て検校司空・同中書門下平章事・御史大夫・京畿観察使に授け、兼ねて霊州大都督・単于鎮北大都護・朔方節度等使、兼ねて鄜坊丹延都団練観察使と為す。重臣を以て北辺を綏靖するに託し、但だ鄜州に居らしむ。寧を以て節度と為すと雖も、毎道皆留後を置き、自ら奏事を得しめ、炎は悉く諷して寧の過犯を伺わしむ。杜希全は霊州に、王翃は振武に、李建徽は鄜州に、及び戴休顔・杜従政・呂希倩等は、皆炎の署置する所なり。寧が辺を巡り夏州に至るや、刺史呂希倩は寧と同力して党項を招撫し、帰降する者甚だ多し。炎はこれを悪み、因りて奏す、希倩の撫綏の功、委任に才堪えたりと。召し還して朝に帰し、右僕射知省事を除し、神武将軍の時常春を以てこれに代う。
朱泚の乱のとき、皇帝は急遽行幸し、百官諸王で知る者は少なかった。崔寧は数日後に賊中から来て、皇帝は初め大いに喜んだ。寧はひそかに親しい者に言った、「聖上は聡明英邁で、善に従うことは規を転ずるが如し、ただ盧杞に惑わされてここに至ったのみである」と。杞はこれを聞き、ひそかに王翃と図り、彼を陥れようと謀った。初め、涇原の兵が乱を起こした夜、寧は翃及び御史大夫於頎とともに延平門を出て西に向かい、数度下馬して便液をし、そのたびにしばらく時間を要した。翃らが促しても、進もうとしなかった。また賊兵に追いつかれることを恐れ、翃は大声で言った、「ここまで来た以上、顧みる必要はない」と。奉天に至り、翃は事の次第をことごとく上聞した。ちょうど朱泚が反間を行い、偽って柳渾を宰相に任じ、崔寧を中書令に任命した。寧の朔方掌書記康湛は当時盩厔尉であったが、翃は湛に迫って寧が朱泚に与えた書状を作らせ、寧が自ら弁明するすべがないようにし、翃は遂にこれを献上した。杞はこれに乗じて誣奏して言った、「崔寧は初めより葵藿の日に向かう心がなく、城中で朱泚と堅く盟約を結んだと聞き、それゆえ百官より後れたのである。今事は果たして験があった。凶徒を外に逼り、奸臣内に謀らしめれば、則ち大事は去る」と。そして俯伏して歔欷し言った、「臣は宰相の位を備えながら、危うきを支えず、顛るを扶けず、まさに万死に当たり、伏して斧鉞を待つ」と。皇帝は左右に命じてこれを扶け起こさせた。帰った後、間もなく中人が寧を幕後に引き入れ、二力士が後ろから絞め殺した。時に年六十一。初め、寧を誅殺しようとし、朝堂に召して、江淮宣慰を命ずると言った。まもなく翰林学士陸贄に命じて寧を誅する制を草させた。贄は寧が泚に与えた書状を求め、これによって事状を生かそうとした。また乱言して、その書状は既に失われたと言った。寧が罪を得た後、その家を籍没したが、内外がその冤罪を称えたので、その家を赦し、資産を返還した。貞元十二年六月、寧の旧将、夏・綏・銀節度使韓潭が、新たに加えられた礼部尚書の恩制をもって寧の罪を雪ぐことを奏請した。詔してこれに従い、その家に収葬することを任せた。
初め、寧が入朝したとき、弟の寛を留めて成都を守らせた。瀘州の楊子琳が隙に乗じて精騎数千を率いて成都に突入し、城を占拠して守った。寛は屡々戦って力尽き、子琳の威勢は大いに盛んであった。寧の妾任氏は魁偉で果敢剛毅であり、その家財十万を出して勇士を募り、二日の間に千人を得て、隊伍将校を設け、自ら兵を指揮して、子琳を脅迫した。子琳は恐れ、城内の糧食が尽きたので、城を抜けて自ら潰走した。子琳は平素より妖術を持ち、その夜大雨を起こし、舟を庭まで引き寄せ、それに乗って逃げた。
崔密、密の子崔繪
寧の末弟密、密の子繪、父子ともに文雅をもって称えられ、使府の従事を歴任した。繪は四子を生んだ。蠡、黯、確、顔、皆進士に擢第した。
崔蠡
蠡は字を越卿といい、元和五年に擢第し、累次使府に辟召された。宝暦年間、入朝して監察御史となった。大和初年、侍御史となり、三転して戸部郎中となり、出て汝州刺史となった。開成初年、司勲郎中として召され、まもなく本官のまま知制誥となった。翌年、正しく中書舎人に任ぜられた。三年、権知礼部貢挙となった。四年、礼部侍郎に任ぜられ、戸部に転じた。国忌日に僧斎を設け、百官が行香することは、経典に根拠がないと上疏して論じた。詔して言った、「朕は郊廟の礼をもって、祖宗を厳かに奉じ、物を備え誠を尽くし、庶幾く昭格せんことを期す。恭しく惟うに忌日の感は、所謂終身の憂いである。而るに近代以来、釈・老に帰依し、二教を徴して食を設け、百辟を会して行香す。将に聖霊を助け、冥く福祚を資けんとす。皇王の術に異なり、頗る教義の宗に乖く。昨崔蠡の奏論を得て、遂に本末を討尋せしむるに、礼文令式、曾て該明せず、習俗因循、雅に整革すべし。両京・天下州府、国忌日をもって寺観に斎を設け香を焚くことは、今以後、並びに停罷すべし」と。蠡はまもなく華州刺史・鎮国軍等使となり、再び方鎮を歴任した。子に蕘。
崔蕘
蕘は字を野夫という。大中二年、進士に擢第し、累官して尚書郎・知制誥に至った。正しく中書舎人・戸部侍郎に任ぜられた。乾符年間、尚書右丞より吏部侍郎に遷った。蕘は文詞に優れ、談論を善くしたが、事を治めるのは簡略で大雑把であり、銓管はその長ずるところではなかった。出て陝州観察使となり、器量風韻をもって自ら高しとし、細事を屑とせず、権は下僕に移った。時に河南では寇盗蜂起し、王仙芝が漢南で乱を起こし、朝綱振わず、而るに蕘は清貴を恃み、人の疾苦を恤れまなかった。百姓が旱害を訴えると、蕘は庭の樹を指して言った、「これに尚葉あり、何の旱ぞや」と。そしてこれを笞ち、吏民は怨みを結んだ。やがて軍人に逐われ、飢渇甚だしく、民家に投じて水を求めたが、民は小便を飲ませた。初め軍人に俘えられ、その髭髪を切り、拝礼してようやく免れた。失守の罪で端州司馬に貶せられ、再び入朝して左散騎常侍となり、卒した。
子に居敬・居儉。居敬は終に尚書郎、居儉は中興の時に終に戸部尚書となった。
崔黯
黯は字を直卿といい、大和二年、進士に擢第した。開成初年、青州従事となった。入朝して監察御史となり、郊廟の祭器が虔しからぬことを奏し、有司に勅するよう請うた。文宗は宰臣に言った、「宗廟の事は、朕自らその礼を奉ずるに合うが、ただ千乗万騎、動くごとに国用を費やし、毎に有司の事を行う日には、衣冠を被って坐して旦を俟つ。比来聞くに主者が虔しからず、祭器労敝す、神に事え潔斎するの義に非ず。卿宜しく有司を厳しく勅し、吾が此の意を道え」と。黯は条奏を具えて上聞した。まもなく員外郎に遷った。会昌年間、諫議大夫となった。
崔確、崔顔
確は字を嶽卿といい、顔は字を希卿といい、位は皆尚書郎に至った。
厳震
厳震は字を遐聞といい、梓州塩亭の人である。代々農家で、財をもって郷里に雄たった。至徳・乾元以後、震は屡々家財を出して辺軍を助け、州長史・王府諮議参軍を授けられた。東川節度判官韋収が震の才能を節度使厳武に推薦したので、遂に合州長史を授けられた。厳武が西川に移ると、押衙に任じ、恒王府司馬に改めた。厳武は宗姓の故をもって、軍府の事を多く彼に委ね、また歴試して衛尉・太常少卿となった。厳武が卒すると、罷めて帰った。東川節度使がまた奏して渝州刺史とし、病により免ぜられた。山南西道節度使がまた奏して鳳州刺史とし、侍御史を加えられ、母憂により罷めた。本官に起復し、なお興・鳳両州団練使を充て、累次加えて開府儀同三司・兼御史中丞となった。政は清厳で、利を興し害を除き、遠近に称美された。建中初年、司勲郎中韋楨が山・劍黜陟使となり、震の理行を山南第一として推薦し、特賜に上下考を賜り、鄖国公に封ぜられた。鳳州に十四年在任し、善政を変えなかった。
建中三年、賈耽に代わり梁州刺史・兼御史大夫・山南西道節度觀察等使となった。朱泚が京城を窃拠し、李懐光が咸陽に軍を頓すと、またこれと連結した。泚は腹心の穆庭光・宋瑗らに白書を持たせて震を誘い同叛させようとしたが、震は衆を集めて庭光らを斬った。時に李懐光は賊と連なり、徳宗は山南に幸を移そうとした。震は既に順動を聞き、吏を遣わして表を馳せて奉天に往き駕を迎えさせ、また大将張用誠に命じて兵五千を率い盩厔以東まで出て迎護させた。上はこれを聞いて喜んだ。既にして用誠は賊に誘われ、背逆を謀らんとしたので、朝廷はこれを憂えた。時に震はまた牙将馬勛に表を持たせて迎候させた。上は臨軒して勛を召しこれと語り、勛は対えて言う、「臣は計日して山南に至り節度使の符を取って用誠を召し、もし召しを受けざれば、臣はその首を斬って復命いたします」と。上は喜んで言う、「卿は何日に当たって至るか」と。勛は日時を定めて奏し、帝はこれを勉労した。勛は既に震の符を得ると、壮丁五人を請うて偕に行った。既に駱谷を出ると、用誠は勛が未だその謀を知らざるを以て、数百騎を以て勛を迎え、勛とともに伝舎に至った。用誠の左右は森然たり。勛は先ず草を聚めて駅外に火を発し、軍士は争って火に附した。勛は乃ち従容として懐中の符を出して示し言う、「大夫、君を召す」と。用誠は惶懼して起ち走らんとしたが、壮士が背後よりその手を縛ってこれを擒にした。用誠の子が後に居り、刀を引いて勛を斬らんとするを虞れず、勛の左右急ぎその臂を承け、刀下ること甚だしからず、微かに勛の首を傷つけた。遂にその子を格殺し、用誠を地に仆した。壮士はその腹を跨ぎ、刃を以てその喉に擬えて言う、「声を出せば即ち死す」と。勛は即ちその営に至ると、軍士は既に甲を被り兵を執っていた。勛は大言して言う、「汝らの父母妻子は皆梁州に在り、一朝これを棄て、用誠に従い反逆せんと欲するは、何の利かある。ただ汝が族を滅ぼすのみ。大夫は我を使わして張用誠を取らしむ、汝輩を問わず、何を為さんと欲するか」と。衆は皆詟服した。ここにおいて用誠を縛って州に送り、震は杖殺し、その副将を抜擢し、衆を率いさせて駕を迎えさせた。勛は薬を以て首を封じ行在に馳せ赴いた。約に半日を愆り、上は頗るこれを憂えたが、勛の至るに及んで、上は喜び顔色を動かした。翌日、車駕は奉天を発し、駱谷に入るに及び、李懐光が数百騎を遣わして来襲したが、山南の兵のこれを撃つに頼りて退き、輿駕に警急の患無し。尋いで震に検校戸部尚書を加え、実封二百戸を賜う。
三月、徳宗は梁州に至った。山南の地は貧しく、糧食の供給難しく、宰臣は幸を成都府に移すを議して請うた。震は奏して言う、「山南の地は京畿に接し、李晟は方に収復を図らんとし、六軍の声援を藉る。もし西川に幸すれば、則ち晟の収復の期を見ざるべし。願わくは陛下その宜しきを徐に思し召されたし」と。議未だ決せず、李晟の表至り、車駕の駐蹕を梁・洋に請い、以て収復を図らんとし、群議乃ち止む。梁・漢の間は、刀耕火耨、民は穭を採るを事とし、節察十五郡と雖も、賦額は中原の三数県に敵せず。安・史の後より、多くは山賊の剽掠に為り、戸口流散すること大半なり。六師の駐蹕に及び、震は法を設け勸課し、財賦を鳩聚して以て行在に給し、民煩わしきに至らず、供億闕くること無し。その年六月、京城を収復し、車駕将に京師に還らんとす。位を進めて検校尚書左僕射と為す。詔して曰く、「朕寇難に遭罹し、梁・岷に播越し、蒸庶は供億に煩い、武旅は扞衛に勤む。凡百の執事、各厥の司に奉り、是の邦を眷み、我が興運を復す。宜しく崇大を加え、以て将来を示すべし。宜しく梁州を改めて興元府と為し、官名品制は京兆・河南府に同じくすべし。鄭県は赤に昇し、諸県は畿に昇す。見任の州県官は、考満の日に放選し、百姓は復を給すること一年。洋州は宜しく望に昇すべし。見任の州県官は、考満に減選すること両選。山南西道の将士は、並びに甄叙すべし」と。震を以て興元尹と為し、実封二百戸を賜う。
貞元元年十一月、徳宗は南郊に親しく昊天上帝を祀り、震は入朝して陪祭した。十一年二月、同平章事を加う。貞元十五年六月卒す。時に年七十六。朝を廃すること三日。冊して太保を贈り、賻に布帛米粟差有り。及び喪将に至らんとす、百官を令して以て次に宅に赴き吊哭せしむ。
厳礪
厳礪は、震の宗人なり。性軽躁にして、奸謀多く、便佞を以て軍に在り、歴職して山南東道節度都虞候・興州刺史・兼監察御史に至る。貞元十五年、厳震卒す。礪を以て権りに府事を留め、兼ねて遺表して礪を薦め才委任に堪うとす。七月、超授して興元尹・兼御史大夫・山南西道節度・支度営田・觀察使と為す。詔下るや、諫官御史は除拜当たらずと以為う。是の日、諫議・給事・補闕・拾遺並びに門下省に帰り共に議す。礪は資歴甚だ浅く、人望素より軽く、遽かに節旄を領するは、恐らく允当ならざるべしと。既に雑話を兼ね、論を発して喧然たり。拾遺李繁独り奏して云う、「昨厳礪を除拜す。衆以て当たらずと為す。諫議大夫苗拯云う、『已に三度表論す、未だ聴允を見ず』と。給事中許孟容曰く、『誠に此の如くならば、職を曠らさざるなり』と」と。又云う、「李元素・陳京・王舒並びに拯及び孟容の言議を見る」と。上は三司使を遣わしてこれを詰む。拯の状に云う、「実に衆中に言う、曾て論奏すと、三度とは言わず」と。繁これを証して已まず。孟容ら又云う、「拯実に両度と言う」と。拯は衆状に依るを請う。翌日、拯を貶して万州刺史と為し、李繁を播州参軍と為し、並びに同正とす。礪は在位に貪残にして、士民その苦に堪えず。素より鳳州刺史馬勛を悪み、誣奏して貶して賀州司戸と為す。情を縦し志を肆う、皆此の類なり。
元和四年三月卒す。卒後のち、御史元稹は両川に奉使して按察し、礪の在任日の贓罪数十万を糾劾す。詔してその贓を征す。死を以てす、その罪を恕す。
【贊】
史臣曰く、人を爵するは朝に於いて、衆とこれを共にす。人を刑するは市に於いて、衆とこれを棄つ。崔寧を縊し、厳礪を除く、時の君の政知るべく、輔相の才見るべし。武は父の風を稟けず、母の誨に違う。凡そ人子と為る者、戒めざるを得んや。周・孔の才と雖も、称するに足らず、況んや狂夫をや。英乂は政を失い、その死や宜なるかな。厳震は功を立て、その道や顕かなり。
贊して曰く、英乂は政を失い、崔寧は身を廃す。武は士子と為り、震は純臣を作す。