舊唐書

巻116

巻116

舊唐書

原文舊唐書

卷一百一十六

原文卷一百一十六

列傳第六十六 肅宗代宗諸子

原文列傳第六十六 肅宗代宗諸子

粛宗の子

原文肅宗子

粛宗皇帝には十四人の子があった。章敬皇后が代宗皇帝を生み、宮人孫氏が越王係を生み、張氏が承天皇帝を生み、王氏が衛王佖を生み、陳婕妤が彭王僅を生み、韋妃が兗王僴を生み、張美人が涇王侹を生み、裴昭儀が襄王僙を生み、段婕妤が杞王倕を生み、崔妃が召王偲を生み、張皇后が恭懿太子佋と定王侗を生み、宮人が鄆王榮と宋王僖を生んだ。

原文肅宗皇帝十四子:章敬皇后生代宗皇帝,宮人孫氏生越王係,張氏生承天皇帝,王氏生衛王佖,陳婕妤生彭王僅,韋妃生兗王僴,張美人生涇王侹,裴昭儀生襄王僙,段婕妤生杞王倕,崔妃生召王偲,張皇后生恭懿太子佋、定王侗,宮人生鄆王榮、宋王僖。

越王

原文越王

越王係は、本名を儋といい、粛宗の第二子である。天宝年間、南陽郡王に封ぜられ、特進を授けられた。至徳二年十二月、趙王に進封された。乾元二年三月、九節度の兵が河北で潰え、史思明が相州で僭号を称し、王師が未だ集まらず、朝廷は震駭した。詔して李光弼に関東の兵を握らせて子儀に代えさせた。光弼は親賢に師を統率させるよう請うた。七月、詔して曰く、

原文越王係,本名儋,肅宗第二子也。天寶中,封南陽郡王,授特進。至德二年十二月,進封趙王。乾元二年三月,九節度之兵潰於河北,史思明僭號於相州,王師未集,朝廷震駭。詔以李光弼握兵關東以代子儀。光弼請以親賢統師,七月,詔曰:

兵を握る要は、古先より重んずる所であり、帥を命ずる道は、心膂の憑り所である。これにより難を靖め兇を夷するには、必ず金革に資り、戎を総べ律を授けるには、実に親賢に仗ることを知る。蓋し邦家を底寧し、黎献を保息せんとする所以である。朕は薄徳を以て、鴻緒を纘承し、往きに元兇の暴乱に属し、中夏寧からず。上は宗社の霊に憑り、下は熊羆の力を藉り、これにより咸・洛を廓清し、この生人を拯う。頃に河朔の残妖を以て、尚お天討を稽え、蛇豕窃に城堡に依り、塗炭久しく斉氓に被る。朕は人の父母たり、寧くも閔念を忘れんや。生を好み戦を息まんと雖も、毎にその帰降を冀い、而して余孽恩に昧く、悔禍を聞くこと靡し。これがために軒後は獯鬻に親征し、周文は昆夷に役を致す。古の兵を用いるは、蓋し已むを得ざるなり。趙王係は幼より異操を稟け、夙に韜略を懐き、東平の文学を負い、任城の智勇を蘊む。性は忠孝を惟み、愛敬を以て身を立つるを持し、志は権謀を尚び、経通の遠智有り。子を知る者は父、方に維城に属する有り、能を択んで授くれば、俾く戎律を申ばしむるを克せん。且つ兇徒嘯聚し、頗る歳時を歴たり。悪既に貫盈す、理当に撲滅すべし。君親命有り、敬はざるべけんや。俾く龍豹の韜を展べ、永く梟獍の類を清まん。天下兵馬元帥を充つるべく、仍って司空しくう・兼侍中・薊国公光弼に節度行営事を副知せしむ。応に軍司の署置に縁るは、所司式に準ぜよ。

原文握兵之要,古先為重;命帥之道,心膂攸憑。是知靖難夷兇,必資於金革;總戎授律,實仗於親賢。蓋將底寧邦家,保息黎獻者矣。朕以薄德,纘承鴻緒,往屬元兇暴亂,中夏不寧。上憑宗社之靈,下藉熊羆之力,由是廓清鹹、洛,拯此生人。頃以河朔殘妖,尚稽天討,蛇豕竊依於城堡,塗炭久被於齊氓,朕為人父母,寧忘閔念。雖好生息戰,每冀其歸降;而余孽昧恩,靡聞於悔禍。所以軒後親征於獯鬻,周文致役於昆夷,古之用兵,蓋非獲已。趙王係幼稟異操,夙懷韜略,負東平之文學,蘊任城之智勇。性惟忠孝,持愛敬以立身;誌尚權謀,有經通之遠智。知子者父,方有屬於維城;擇能而授,俾克申於戎律。且兇徒嘯聚,頗歷歲時,惡既貫盈,理當撲滅。君親有命,可不敬乎!俾展龍豹之韜,永清梟獍之類。可充天下兵馬元帥,仍令司空、兼侍中、薊國公光弼副知節度行營事。應緣軍司署置,所司準式。

九月、史思明が洛陽らくようを陥とす。光弼は副元帥として兵を董て河陽を守り、王は京師を出でず。十月、詔して車駕の親征を下すも、諫官の論奏により乃ち止む。王は行くことを請うも、許されず。三年四月、越王に改封される。宝応元年四月、粛宗寝疾して弥留す。皇后張氏は中官李輔国と隙有り、皇太子の監国に因り、輔国を誅せんと謀り、人を以て粛宗の命と為して太子を召し宮に入らしむ。皇后、太子に謂いて曰く、「賊臣輔国は、久しく禁軍を典じ、四方の詔令は、皆その口より出づ。頃に制命を矯め、聖皇を逼徙せしむ。今聖体弥留し、心に怏怏を懐き、常に吾と汝とを忌む。又聞く射生内侍程元振、黄門に結托し、将に不軌を図らんとす。若しこれを誅せざれば、禍は頃刻に在り。」太子泣いて対えて曰く、「この二人は陛下の勛旧の内臣なり。今聖躬康ならず、重ねてこの事を以て聖慮を驚撓せしむるは、情に任じ難し。若し決してこの命を行わんとせば、当に外に出でて徐にこれを図らん。」后、太子と共に事を為し難きを知り、乃ち係を召してこれに謂いて曰く、「皇太子は仁恵にして、禍難を平げるに足らず。」復た輔国を除かんとする謀を告げて曰く、「汝能くこの事を行わんや。」係曰く、「能くす。」后、内謁者監段恆俊に令して越王と謀らしめ、中官に武勇有る者二百余人を召し、長生殿に於いて甲を授く。この月乙丑、皇后詔を矯めて太子を召す。程元振これを伺い知り、輔国に告ぐ。元振、兵を握りて淩霄門に候う。太子既に至るに及び、難を告ぐ。太子曰く、「必ずこの事無からん。聖恙危篤なり、吾豈に死を懼れて召しに赴かざらんや。」元振曰く、「社稷の為に計らば、行けば則ち禍及びん。」遂に兵を以て太子を護り飛龍廐に匿わしむ。丙寅の夜、元振・輔国、兵を勒して三殿の前に於い、越王及び同謀の内侍硃光輝・段恆俊等百余り人を収捕す。皇后を禁系して別殿に幽し、侍者十数人これに随う。この日、皇后・越王俱に輔国の為に害せらる。

原文九月,史思明陷洛陽,光弼以副元帥董兵守河陽,王不出京師。十月,下詔車駕親征,諫官論奏乃止;王請行,不許。三年四月,改封越王。寶應元年四月,肅宗寢疾彌留。皇后張氏與中官李輔國有隙,因皇太子監國,謀誅輔國,使人以肅宗命召太子入宮。皇后謂太子曰:「賊臣輔國,久典禁軍,四方詔令,皆出其口。頃矯制命,逼徙聖皇。今聖體彌留,心懷怏怏,常忌吾與汝。又聞射生內侍程元振結托黃門,將圖不軌,若不誅之,禍在頃刻。」太子泣而對曰:「此二人是陛下勛舊內臣,今聖躬不康,重以此事驚撓聖慮,情所難任。若決行此命,當出外徐圖之。」後知太子難與共事,乃召係謂之曰:「皇太子仁惠,不足以圖平禍難。」復以除輔國謀告之,曰:「汝能行此事乎?」係曰:「能。」後令內謁者監段恆俊與越王謀,召中官有武勇者二百余人,授甲於長生殿。是月乙丑,皇后矯詔召太子,程元振伺知之,告輔國。元振握兵於淩霄門候之,太子既至,以難告。太子曰:「必無此事。聖恙危篤,吾豈懼死不赴召乎?」元振曰:「為社稷計,行則禍及矣。」遂以兵護太子匿於飛龍廄。丙寅夜,元振、輔國勒兵於三殿前,收捕越王及同謀內侍硃光輝、段恆俊等百余人。禁系幽皇后於別殿,侍者十數人隨之。是日,皇后、越王俱為輔國所害

係の子:建・逌・逾。建は、建中元年十一月、武威郡王に封ぜられ、殿中監同正員を授けられる。逌は興道郡王に封ぜられ、殿中監同正員を授けられる。逾は斉国公に封ぜられ、光禄卿同正員を授けられる。

原文係子:建、逌、逾。建,建中元年十一月,封武威郡王,授殿中監同正員;逌封興道郡王,授殿中監同正員;逾封齊國公,光祿卿同正員。

承天皇帝

原文承天皇帝

承天皇帝倓は、粛宗の第三子である。天宝年間、建寧郡王に封ぜられ、太常卿同正員を授けられる。英毅にして才略有り、射を善くす。禄山の乱、玄宗蜀しょくに幸す。倓兄弟は親兵を典として扈従す。車駕渭を渡るに及び、百姓道を遮りて留まることを乞い太子を請う。太子これを諭して曰く、「至尊奔播す、吾左右を違離するに忍びず、吾の上に見えて奏聞するを俟てん。」倓、行宮に於いて太子に謂いて曰く、「逆胡順を犯し、四海分崩す。人情に因らざれば、何を以て興復せん。国家を有つ者は、大孝社稷を存するに若くは莫し。今至尊に従いて蜀に入らば、則ち散関已東は、皇家の所有に非ず、何を以て人情を維属せん。殿下宜しく豪傑を購募し、暫く河西に往き、戎馬を收拾し、防辺の将卒を点集すべし。十万を下らず。光弼・子儀は、全軍河朔に在り、興復を謀るは、計の上なり。」広平王も亦たこれを賛成す。ここにおいて李輔国に令して奏聞せしむ。玄宗欣然として聴納し、乃ち従官・士卒を分かちてこれを遣わす。時に敗卒胆破し、兵仗完からず。太子既に北上し、渭を渡り、一日百戦す。倓自ら驍ぎょう騎数百を選び衛従し、毎に蒼黄顛沛はいの際には、血戦前に在り。太子或いは時を過ぎて食を得ず、倓涕泗自ら勝えず、上特にこれを憐れむ。軍士属目して倓に帰す。霊武に至り、太子即ち帝位に即く。広平既に元子たり、倓を以て天下兵馬元帥と為さんと欲す。侍臣曰く、「広平王は冢嗣にして、人君の量有り。」上曰く、「広平地当に儲貳たり、何ぞ更に元帥を仮せん。」左右曰く、「広平今未だ冊立せず、艱難の時人は特に元帥に属望す。況んや太子は従うを撫軍と曰い、守るを監国と曰う。今の元帥は、撫軍なり。広平宜しきかな。」遂に広平を元帥と為し、倓は親軍を典とし、李輔国を元帥府司馬と為す。

原文承天皇帝倓,肅宗第三子也。天寶中,封建寧郡王,授太常卿同正員。英毅有才略,善射。祿山之亂,玄宗幸蜀,倓兄弟典親兵扈從。車駕渡渭,百姓遮道乞留太子,太子諭之曰:「至尊奔播,吾不忍違離左右,俟吾見上奏聞。」倓於行宮謂太子曰:「逆胡犯順,四海分崩,不因人情,何以興復?夫有國家者,大孝莫若存社稷。今從至尊入蜀,則散關已東,非皇家所有,何以維屬人情?殿下宜購募豪傑,暫往河西,收拾戎馬,點集防邊將卒,不下十萬人,光弼、子儀,全軍河朔,謀為興復,計之上也。」廣平王亦贊成之,於是令李輔國奏聞。玄宗欣然聽納,乃分從官、士卒以遣之。時敗卒膽破,兵仗不完,太子既北上,渡渭,一日百戰。倓自選驍騎數百衛從,每蒼黃顛沛之際,血戰在前。太子或過時不得食,倓涕泗不自勝,上尤憐之,軍士屬目歸於倓。至靈武,太子即帝位。廣平既為元子,欲以倓為天下兵馬元帥。侍臣曰:「廣平王冢嗣,有君人之量。」上曰:「廣平地當儲貳,何假更為元帥?」左右曰:「廣平今未冊立,艱難時人尤屬望於元帥。況太子從曰撫軍,守曰監國。今之元帥,撫軍也,廣平為宜。」遂以廣平為元帥,倓典親軍,李輔國為元帥府司馬。

時に張良ちょうりょう娣寵有り。倓の性忠謇なり、上に侍するに因りて屡々良娣の頗る自恣なるを言い、輔国の内外に連結し、皇嗣を傾動せんと欲すと。ここより、日を良娣・輔国の為に構えられ、「建寧は兵権を得んことを恨み、頗る異志を畜う」と云う。粛宗怒り、倓に死を賜う。既にして省悟し、これを悔ゆ。

原文時張良娣有寵,倓性忠謇,因侍上屢言良娣頗自恣,輔國連結內外,欲傾動皇嗣。自是,日為良娣、輔國所構,雲「建寧恨不得兵權,頗畜異志。」肅宗怒,賜倓死。既而省悟,悔之。

明年の冬、広平王が両京を収復し、判官李泌を遣わして入朝し捷を献ず。泌は上と東宮の旧あり、従容として建寧の事に語及びしに、粛宗顔色を改めて泌に謂ひて曰く、「倓は艱難の時に於いて実に気力を得たり、故無くして下人の間せらるる所となり、其の兄を害せんと図る。朕は社稷の大計を以て、愛を割きて之が為にせしなり」と。泌対へて曰く、「爾の時臣は河西に在り、豈其の故を知らざらんや。広平兄弟、天倫篤く睦まじく、今に至るまで広平建寧に言及すれば、則ち嗚咽已まざるなり。陛下の言は、讒口より出づるなり」と。帝因りて泣下して曰く、「事已に此に及び、之を如何ともすべからず」と。泌因りて奏して曰く、「臣幼稚の時『黄台瓜辞』を念ふ。陛下嘗て其の説を聞かれたりや。高宗大帝に八子有り、睿宗最も幼し。天後の生める所の四子、自ら行第を為す、故に睿宗第四なり。長は孝敬皇帝と曰ひ、太子として国を監み、而して仁明孝悌なり。天后方に臨朝を図らんとす、乃ち孝敬を鴆殺し、雍王賢を立てて太子と為す。賢は毎日憂惕し、必ず保全せられざるを知り、二弟と同く父母の側に侍するも、言ふ由敢へて無し。乃ち『黄台瓜辞』を作り、楽工をして之を歌はしめ、冀くは天后之を聞きて省悟し、即ち哀湣を生ぜんとす。辞に云く、『瓜を種う黄台下、瓜熟れて子離離たり。一たび摘めば瓜をして好からしめ、再び摘めば瓜をして稀ならしめ、三たび摘むも猶尚可なり、四たび摘めば蔓を抱きて帰らん』と。而して太子賢終に天后の逐ふ所となり、黔中に死す。陛下今日の運祚有るは、已に一たび摘まるるなり、慎んで再び摘むること無かれ」と。上愕然として曰く、「公何ぞ是の言有るを得んや」と。時に広平王大功を立て、亦張皇后の忌む所となり、潜かに流言を構ふ。泌事に因りて之を諷動す。

原文明年冬,廣平王收復兩京,遣判官李泌入朝獻捷。泌與上有東宮之舊,從容語及建寧事,肅宗改容謂泌曰:「倓於艱難時實得氣力,無故為下人之所間,欲圖害其兄,朕以社稷大計,割愛而為之所也。」泌對曰:「爾時臣在河西,豈不知其故。廣平兄弟,天倫篤睦,至今廣平言及建寧,則嗚咽不已。陛下之言,出於讒口也。」帝因泣下曰:「事已及此,無如之何!」泌因奏曰:「臣幼稚時念《黃臺瓜辭》,陛下嘗聞其說乎?高宗大帝有八子,睿宗最幼。天後所生四子,自為行第,故睿宗第四。長曰孝敬皇帝,為太子監國,而仁明孝悌。天後方圖臨朝,乃鴆殺孝敬,立雍王賢為太子。賢每日憂惕,知必不保全,與二弟同侍於父母之側,無由敢言。乃作《黃臺瓜辭》,令樂工歌之,冀天後聞之省悟,即生哀湣。辭云:『種瓜黃臺下,瓜熟子離離。一摘使瓜好,再摘令瓜稀,三摘猶尚可,四摘抱蔓歸。』而太子賢終為天後所逐,死於黔中。陛下有今日運祚,已一摘矣,慎無再摘。」上愕然曰:「公安得有是言!」時廣平王立大功,亦為張皇后所忌,潛構流言,泌因事諷動之。

代宗即位に及び、深く建寧の冤を思い、追贈して斉王と為す。大暦三年五月、詔して曰く、「故斉王倓は、天祚の慶を承け、鴻名の光を保つ。志を降して賢を尊び、才高く学を好み、芸文博洽にして、智略宏通なり。断は必ず来を知り、謀は皆事に先んじ、識は達せざる無く、理は至りて精を踰ゆ。乃ち寇盗横流し、鑾輿南幸す。先聖は宸扆の恋を以て、将に君親に侍せんとし、惟王は宗廟の重を以て、誓ひて家国を寧げんとす。克く朕が志に協ひ、載せて天時に符し、群議の非を立辨し、五原の計を同献す。中興の盛は、実に奇功に藉る。景命融けず、早く厚穸に従ふ。天倫の愛、震惕良く深し。涕を流して追封し、東海に胙す。頃に表飾を加ふるも、未だ哀栄に極まらず。夫れ旧邦再造の勤に参り、天下一家の業を成すに、而して存は未だ其の等を峻めず、歿は未だ其の称を尊ばず、是れ徽烈を旌し、至公を明らかにする所以に非ず。朕は眇身を以て、大寶を纘膺す、及ばずして王を譲るの礼、申さずして太弟の嗣、懐ふ所靡く殫れず、邈想逾切なり。非常の命、寵錫宜しく攸し。敬みて用ひて追謚して承天皇帝と曰ひ、興信公主第十四女張氏と冥婚せしめ、謚して恭順皇后と曰ふ。有司は式に準ひ、日を択びて冊命し、順陵に改葬し、仍りて奉天皇帝廟に祔し、同殿異室と為す」と。

原文及代宗即位,深思建寧之冤,追贈齊王。大歷三年五月,詔曰:「故齊王倓,承天祚之慶,保鴻名之光。降誌尊賢,高才好學,藝文博洽,智略宏通。斷必知來,謀皆先事,識無不達,理至逾精。乃者寇盜橫流,鑾輿南幸。先聖以宸扆之戀,將侍君親;惟王以宗廟之重,誓寧家國。克協朕誌,載符天時,立辨群議之非,同獻五原之計。中興之盛,實藉奇功。景命不融,早從厚穸,天倫之愛,震惕良深。流涕追封,胙於東海,頃加表飾,未極哀榮。夫以參舊邦再造之勤,成天下一家之業,而存未峻其等,歿未尊其稱,非所以旌徽烈,明至公也。朕以眇身,纘膺大寶,不及讓王之禮,莫申太弟之嗣,所懷靡殫,邈想逾切,非常之命,寵錫攸宜。敬用追謚曰承天皇帝,與興信公主第十四女張氏冥婚,謚曰恭順皇后。有司準式,擇日冊命,改葬於順陵,仍祔於奉天皇帝廟,同殿異室焉。」

衛王

原文衛王

衛王佖は、粛宗第四子なり。天寶中、西平郡王に封ぜられ、殿中監同正員を授けらる。早く薨ず。寶應元年五月、追贈して衛王と為す。

原文衛王佖,肅宗第四子。天寶中,封西平郡王,授殿中監同正員。早薨。寶應元年五月,追贈衛王。

彭王

原文彭王

彭王僅は、粛宗第五子なり。天寶中、新城郡王に封ぜられ、鴻臚卿同正員を授けらる。至德二年十二月、進めて彭王に封ぜらる。乾元二年冬、史思明再び河洛を陥し、関東兵を用ふるに、人情震懼し、群臣親王を以て遥かに兵柄を統べんことを請ふ。三年四月詔して曰く、

原文彭王僅,肅宗第五子。天寶中,封新城郡王,授鴻臚卿同正員。至德二年十二月,進封彭王。乾元二年冬,史思明再陷河洛,關東用兵,人情震懼,群臣請以親王遙統兵柄。三年四月詔曰:

古の哲王、中に宅り宇を禦ふるは、内に子弟を封じ外に籓維を建つるに莫からず。故に周は百代と称し、抑も麟趾の美を聞き、漢は六官を命じ、亦犬牙の制を樹つ。歴考前載、率ね旧章に由る。朕は薄徳を以て、鴻緒を纘承す、豺狼未だ殄せず金革猶虞るるに属す。文武の藎臣に頼り、心を協へ徳を同じくし、庶くは玄昆に清からんことを克し、期に皇図を永保せんとす。且つ鉞を授け符を分つは、義已に用武に先んじ、又維城をして翰と為さしむるは、道方に建親に弘まらんとす。爾が分閫の崇を咨り、予が磐石の固を成さしめん。彭王僅等は、銀潢毓慶し、璿萼輝を分ち、忠孝は天成に稟け、文武は其の備用に称す。今三秦の地、万国来庭す、誠に宜しく皇子を列ねて以て封を建て、懿籓を崇めて以て勝を制すべし、是れ本を固むるに資り、戎に臨むに委す。彭王僅は河西節度大使を充つべく、兗王僴は北庭節度大使を充つべく、涇王侹は隴右節度大使を充つべく、杞王倕は陜西節度大使を充つべく、興王佋は鳳翔節度大使を充つべし。

原文古之哲王,宅中禦宇,莫不內封子弟,外建籓維。故周稱百代,抑聞麟趾之美;漢命六官,亦樹犬牙之制。歷考前載,率由舊章。朕以薄德,纘承鴻緒,屬豺狼未殄,金革猶虞。賴文武藎臣,協心同德,庶克清於玄昆,期永保於皇圖。且授鉞分符,義已先於用武;又維城作翰,道方弘於建親。咨爾分閫之崇,成予磐石之固。彭王僅等,銀潢毓慶,璿萼分輝,忠孝稟於天成,文武稱其備用。今三秦之地,萬國來庭,誠宜列皇子以建封,崇懿籓而制勝,是資固本,委以臨戎。彭王僅可充河西節度大使,兗王僴可充北庭節度大使,涇王侹可充隴右節度大使,杞王倕可充陜西節度大使,興王佋可充鳳翔節度大使。

僅は是の歳薨ず。子鎮は太仆卿同正員を授けられ、常山郡王に封ぜらる。

原文僅,是歲薨。子鎮,授太仆卿同正員,封常山郡王。

兗王

原文兗王

兗王僴は、粛宗第六子なり。母は韋妃、刑部尚書堅の妹なり。粛宗東宮に在り、選ばれて太子妃と為り、僴及び永和公主を生む。堅後李林甫の誣構せらるる所となり誅せらる。太子懼れ、奏請して妃と離異し、別宮に安置す。僴は天寶中潁川郡王に封ぜられ、太子詹事同正員を授けらる。至德二年十二月、進めて兗王に封ぜらる。乾元三年、北庭節度大使を領す。寶應元年薨ず。

原文兗王僴,肅宗第六子。母韋妃,刑部尚書堅之妹。肅宗在東宮,選為太子妃,生僴及永和公主。堅後為李林甫誣構被誅,太子懼,奏請與妃離異,於別宮安置,僴,天寶中封潁川郡王,授太子詹事同正員。至德二年十二月,進封兗王。乾元三年,領北庭節度大使。寶應元年薨。

涇王

原文涇王

涇王侹は、粛宗第七子なり。天寶中、東陽郡王に封ぜられ、光祿卿同正員を授けらる。至德二載十二月、進めて涇王に封ぜらる。乾元三年、隴右節度大使を領す。興元元年薨ず。

原文涇王侹,肅宗第七子。天寶中,封東陽郡王,授光祿卿同正員。至德二載十二月,進封涇王。乾元三年,領隴右節度大使。興元元年薨。

鄆王

原文鄆王

鄆王榮は、粛宗第八子なり。天寶中、霊昌郡王に封ぜらる。早世す。寶應元年五月、追贈して鄆王と為す。

原文鄆王榮,肅宗第八子。天寶中,封靈昌郡王。早世。寶應元年五月,追贈鄆王。

襄王

原文襄王

襄王李僙は、肅宗の第九子である。至徳二載十二月、襄王に封ぜられた。貞元七年正月に薨去した。

原文襄王僙,肅宗第九子。至德二載十二月,封襄王。貞元七年正月薨。

杞王

原文杞王

杞王李倕は、肅宗の第十子である。母は段婕妤で、貞元六年六月に昭儀を追贈された。倕は、至徳二載に封ぜられ、貞元十四年に薨去した。

原文杞王倕,肅宗第十子。母段婕妤,貞元六年六月贈為昭儀。倕,至德二載封,貞元十四年薨。

召王

原文召王

召王李偲は、肅宗の第十一子である。至徳二載十二月に封ぜられ、元和元年に薨去した。

原文召王偲,肅宗第十一子。至德二載十二月封,元和元年薨。

恭懿太子

原文恭懿太子

恭懿太子李佋は、肅宗の第十二子である。至徳二載に興王に封ぜられた。上元元年六月に薨去した。佋は、皇后張氏の生んだ子で、皇帝は特に寵愛した。後に皇后がたびたび太子を危うくし、興王を皇太子に立てようとしたが、佋が薨去したために止んだ。七月丁亥、詔して曰く、

原文恭懿太子佋,肅宗第十二子。至德二載封興王。上元元年六月薨。佋,皇后張氏所生,上尤鐘受。後屢危太子,欲以興王為儲貳,會薨而止。七月丁亥,詔曰:

厚礼は終わりを飾るためであり、易名は行いを表すためである。ましてや情は天属に鐘り、寵は褒封に及ぶ。加等の美を載せ疇し、元儲の贈りを式備する。永く軫念を懐き、彜章に惻み有り。第十二子故興王佋は、璿源に慶を毓し、若木に華を分つ。天資は純孝、神は聰明を假す。河間の書を聚むるは、幼にして楽善の旨を聞き、延陵の楽を聴くは、早く知音の妙を得たり。頃に暫く沈瘵に嬰り、殆ど旬時に積るも、資敬は益々彰れ、穎晤は逾爽なり。親を愛するの恋は、言斯須を間わず、訣を告ぐるの辞は、事先ず夢寐に符す。惟うに至性を顧み、実に深哀に切る。将に土を胙し珪を析ち、載せて籓翰を崇め、詩に対し易を聞き、爰に琢磨に就かんとす。方に成立を冀うに、豈に期せんや天の喪うことを。瑤英始めて茂るに、遽に当春に摧かれ、隙駟俄に遷り、忽ち厚夜に沈む。言を興して痛悼し、閔惜すること良く深し。宜しく寵を青宮に賁し、哀栄を玄穸に俾すべし。太子を贈ることを可とし、謚して恭懿と曰う。喪葬に応縁する所は、所司式に準じ、仍て京兆尹劉晏をして監護使を充てしむ。

原文厚禮所以飾終,易名所以表行。況情鐘天屬,寵及褒封,載疇加等之美,式備元儲之贈,永懷軫念,有惻彜章。第十二子故興王佋,毓慶璿源,分華若木,天資純孝,神假聰明。河間聚書,幼聞樂善之旨;延陵聽樂,早得知音之妙。頃以暫嬰沈瘵,殆積旬時,而資敬益彰,穎晤逾爽。愛親之戀,言不間於斯須;告訣之辭,事先符於夢寐。顧惟至性,實切深哀。將胙土析珪,載崇籓翰,聞《詩》對《易》,爰就琢磨。方冀成立,豈期天喪。瑤英始茂,遽摧於當春;隙駟俄遷,忽沈於厚夜。興言痛悼,閔惜良深。宜賁寵於青宮,俾哀榮於玄穸。可贈太子,謚曰恭懿。應緣喪葬,所司準式,仍令京兆尹劉晏充監護使。

詔して宰臣李揆に節を持たせて冊命させた。十一月、高陽原に葬った。その哀冊に曰く、

原文詔宰臣李揆持節冊命。十一月,葬於高陽原。其哀冊曰:

上元元年、太歳庚子、六月己未朔、二十六日甲申、皇第十二子、持節鳳翔等四州節度観察大使興王佋、中京内邸に薨じ、寝の西階に殯す。粤に八月丁亥、冊して皇太子を贈り、廟号を恭懿とす。冬十一月庚寅、詔して長安ちょうあんの高陽原に葬る、礼なり。燕隧開封し、龍辒轍を進め、祖載を陳べて位に就き、塗芻を儼として列を成す。皇帝、玉林の悶景を哀しみ、璿萼の霜に罹るを憫み、龍綍を瞻みて思を増し、雁池を懐いて永く傷む。謚を考うるは惟古に、褒崇するは式有り。爰に史司に詔し、恭しく懿徳を宣ぶ。その辞に曰く、

原文維上元元年,太歲庚子,六月己未朔,二十六日甲申,皇第十二子、持節鳳翔等四州節度觀察大使興王佋,薨於中京內邸,殯於寢之西階。粵八月丁亥,冊贈皇太子,廟號恭懿。冬十一月庚寅,詔葬於長安之高陽原,禮也。燕隧開封,龍辒進轍,陳祖載而就位,儼塗芻以成列。皇帝哀玉林之悶景,憫璿萼之罹霜,瞻龍綍而增思,懷雁池而永傷。考謚惟古,褒崇有式。爰詔史司,恭宣懿德。其辭曰:

惟れ天唐を祚し、累葉重光し、中興宸景し、再び乾綱を紐く。本枝国を建て、磐石疆を疏く、克く龍胤を開き、実に賢王と曰う。驪り源彩を孕み、日幹芳を騰す。深仁広孝、芸を蘊み章を含む。秀は童年に発し、恵は齔歯に彰る。礼を蹈み方を知り、尊を承ぎ旨に葉う。日に対して弁を流し、鳳に占いて美を擅にす。魯・衛の後塵、間・平の絶軌。胡孽初めて構え、王師未だ班せず。爰に繈褓より従い、載せて険艱を歴る。愛に中掖に備わり、名は懿籓に崇し。居常に訓を稟け、動も顔に違わず。礼は佩觿に及び、朝は分器を加う。土を胙して渥を延べ、壇に登りて帥を受く。玉質金声、文経武緯。善を楽むを宝と為し、儒を崇ぐるを貴しとす。浚哲は外に朗らかに、温文は内に深し。書を閲して誦を成し、楽を観て音を表す。五経は口に在り、六律は心に諧う。才優れ芸洽く、古を絶ち今を超ゆ。蛇豕猶お梗み、寰区未だ乂えず。慮を滌ぎ真を祈り、香を焚き偈を演ず。食は葷血を去り、心は定恵に依る。庶くは邦家に福し、俾くは兇穢を清まんとす。霧露疾に嬰り、聰明神を害す。沈〓彖始めて遘い、弥く曠く旬を盈つ。慮を止めて擾わず、言を発して倫有り。膏に在りて方に亟く、膳を問いて逾勤し。雲物は征を告げ、星辰は象を変ず。楚薬救い無く、秦医仗む莫し。霊儀窅として上賓し、徽音邈として長往す。旧邸を青社に違え、幽陵を黄壌に即く。嗚呼哀しい哉!魂気奪うれて去りて何くにか之く、精霊存して孝に思有り。君親の永隔を念い、夢寐に托して来りて辞す。桂宮を延べて震悼し、椒壸を貫いて纏悲す。遺芳を碣館に旌し、新命を儲闈に賁す。嗚呼哀しい哉!先遠候を戒め、亀を占いて吉を献ず。鶉野を指して西に臨み、鳳城を背いて右に出づ。天は惨惨として苦霧し、山は蒼蒼として曀日す。馳道を望んで長辞し、幽塗に赴いて永畢す。嗚呼哀しい哉!生れては寵王たり宸愛の鐘る所、歿しては上嗣を追う朝典斯に崇し。玉笙を洞府に昇し、銀棨を泉宮に閲す。金石誰か固く、人生終り有り。簡冊攸に記す兮徳音窮まり無し。敢えて直詞を篆美にし、庶くは永代にして風を成さん。嗚呼哀しい哉!

原文惟天祚唐,累葉重光,中興宸景,再紐乾綱。本枝建國,磐石疏疆,克開龍胤,實曰賢王。驪源孕彩,日幹騰芳,深仁廣孝,蘊藝含章。秀發童年,惠彰齔齒,蹈禮知方,承尊葉旨。對日流辯,占鳳擅美,魯、衛後塵,間、平絕軌。胡孽初構,王師未班,爰從繈褓,載歷險艱。愛備中掖,名崇懿籓,居常稟訓,動不違顏。禮及佩觿,朝加分器,胙土延渥,登壇受帥。玉質金聲,文經武緯,樂善為寶,崇儒是貴。浚哲外朗,溫文內深,閱書成誦,觀樂表音。《五經》在口,六律諧心,才優藝洽,絕古超今。蛇豕猶梗,寰區未乂。滌慮祈真,焚香演偈。食去葷血,心依定惠。庶福邦家,俾清兇穢。霧露嬰疾,聰明害神,沈〓彖始遘,彌曠盈旬。止慮無擾,發言有倫,在膏方亟,問膳逾勤。雲物告征,星辰變象,楚藥無救,秦醫莫仗。靈儀窅而上賓,徽音邈其長往。違舊邸於青社,即幽陵於黃壤。嗚呼哀哉!魂氣奪兮去何之,精靈存兮孝有思。念君親之永隔,托夢寐而來辭。延桂宮而震悼,貫椒壸而纏悲。旌遺芳於碣館,賁新命於儲闈。鳴呼哀哉!先遠戒候,占龜獻吉。指鶉野而西臨,背鳳城而右出。天慘慘而苦霧,山蒼蒼而曀日。望馳道而長辭,赴幽塗而永畢。嗚呼哀哉!生為寵王兮宸愛所鐘,歿追上嗣兮朝典斯崇。升玉笙於洞府,閱銀棨於泉宮。金石誰固,人生有終,簡冊攸記兮德音無窮。敢直詞於篆美,庶永代而成風。鳴呼哀哉!

佋が薨去した時は八歳であった。薨去した夜、肅宗と張後はともに佋が平昔の如く、拝辞して涙を流して去る夢を見た。帝はちょうど寝疾にあり、追念過深く、故に特に儲闈の贈りをもって寵した。上の病は累月してようやく平癒した。

原文佋薨時年八歲。既薨之夕,肅宗、張後俱夢佋有如平昔,拜辭流涕而去。帝方寢疾,追念過深,故特以儲闈之贈寵之。上疾累月方平。

定王

原文定王

定王李侗は、肅宗の第十三子である。これも張後の生んだ子で、佋の同母弟である。至徳二載、定王に封ぜられた。宝応初年に薨去し、時に年は甚だ幼かった。

原文定王侗,肅宗第十三子。亦張後所生,佋之母弟。至德二載,封定王。寶應初薨,時年甚幼。

宋王

原文宋王

宋王の僖は、粛宗の第十四子である。初め淮陽王に封ぜられ、早世したため、追封して宋王とした。

原文宋王僖,肅宗第十四子。初封淮陽王,早夭,追封宋王。

代宗の子

原文代宗子

代宗皇帝に二十子あり。睿真皇后沈氏は徳宗皇帝を生み、崔妃は昭靖太子を生み、獨孤皇后は韓王の迥を生む。その余の十七王は、旧史に母氏の出を載せず。

原文代宗皇帝二十子:睿真皇后沈氏生德宗皇帝,崔妃生昭靖太子,獨孤皇后生韓王迥;余十七王,舊史不載母氏所出。

昭靖太子の邈は、代宗の第二子である。宝応元年、鄭王に封ぜられる。大暦の初め、皇太子に代わって天下兵馬元帥となる。王は書を好み、儒行をもって聞こえた。大暦九年に薨じ、三日間朝を廃し、これにより元帥の職を罷む。上はその才の早世を惜しみ、冊して昭靖太子を贈り、万年県の界に葬る。

原文昭靖太子邈,代宗第二子。寶應元年,封鄭王。大歷初,代皇太子為天下兵馬元帥。王好讀書,以儒行聞。大歷九年薨,廢朝三日,由是罷元帥之職。上惜其才早夭,冊贈昭靖太子,葬於萬年縣界。

均王の遐は、代宗の第三子である。早世し、貞元八年に追封される。

原文均王遐,代宗第三子。早夭,貞元八年追封。

睦王の述は、代宗の第四子である。大暦九年の冬、田承嗣が河朔に謀叛を企てた。時に鄭王は長じて兵師を統べていたが、不幸にも薨落し、諸王は皆幼く、多くは封建されていなかった。大臣が奏議して親王を封じ、戎師を分領させて天下を威圧することを請うた。十年二月、詔して曰く、

原文睦王述,代宗第四子。大歷九年冬,田承嗣謀亂河朔,時鄭王居長,典兵師,不幸薨落,諸王皆幼,多未封建。大臣奏議請封親王,分領戎師,以威天下。十年二月,詔曰:

虞・夏の制には諸子を疏封し、漢・魏以来は十連に律を授く。これを用いて珪を錫し瑞を班ち、盤石に疆を開き、信を通邑の紀綱と為し、中都の屏翰と為す。然れども旌鉞の寄せは推択に難く、親に因る任は各々その命を膺く。第四子の述・第五子の逾・第六子の連・第七子の迥・第八子の遘・第十三子の造・第十四子の暹・第十五子の運・第十六子の遇・第十七子の遹・第十八子の通・第十九子の逵・第二十子の逸らは、並びに敏茂純懿にして衷誠に稟り、温良孝恭にして進対に形れ、動は皆義に合い、居るには必ず常あり。以て衆を理め人を靖め、封を撫し化を宣べ、而して列城の賦を総べ、閫を分つ謀を繕い、公家に克く勤め、王室を允に輔くるべし。今は則ち茅社の寵を均しくし、槐庭の儀を盛んにし、鉞を授け車に登らしめ、茲に朝典を嗣がしむ。維城の固きは、爾其れ懋れよ。述は睦王に封ぜられ、嶺南節度支度営田・五府経略観察処置等大使を充てよ。逾は郴王に封ぜられ、渭北鄜・坊等州節度大使を充てよ。連は恩王に封ぜられよ。韓王の迥は汴・宋等節度観察処置等大使を充てよ。遘は鄜王に封ぜられよ。造は忻王に封ぜられ、昭義軍節度観察処置等大使を充てよ。暹は韶王に封ぜられ、運は嘉王に封ぜられ、遇は端王に封ぜられ、遹は循王に封ぜられ、通は恭王に封ぜられ、逵は原王に封ぜられ、逸は雅王に封ぜられよ。仍て並びに開府儀同三司に封ぜらるべし。

原文虞、夏之制,諸子疏封;漢、魏以還,十連授律。是用錫珪班瑞,盤石開疆,信通邑之紀綱,為中都之屏翰。然則旌鉞之寄,推擇攸難,因親之任,各膺其命。第四子述、第五子逾、第六子連、第七子迥、第八子遘、第十三子造、第十四子暹、第十五子運、第十六子遇、第十七子遹、第十八子通、第十九子逵、第二十子逸等,並敏茂純懿,稟於衷誠,溫良孝恭,形於進對,動皆合義,居必有常。可以理眾靖人,撫封宣化,而總列城之賦,繕分閫之謀,克勤公家,允輔王室。今則均茅社之寵,盛槐庭之儀,授鉞登車,嗣茲朝典,維城之固,爾其懋哉。述可封睦王,充嶺南節度支度營田、五府經略觀察處置等大使;逾可封郴王,充渭北鄜、坊等州節度大使;連可封恩王;韓王迥可汴、宋等節度觀察處置等大使;遘可封鄜王;造可封忻王,充昭義軍節度觀察處置等大使;暹可封韶王,運可封嘉王,遇可封端王,遹可封循王,通可封恭王,逵可封原王,逸可封雅王:仍並可封開府儀同三司。

この時、皇子で勝衣する者は尽く王爵を加えられ、閣を出ず。徳宗の朝、述は諸王の長となる。時に命を分かち中使をして天下に周行せしめ、沈太后を求訪し、詔して睦王を奉迎太后使と為し、工部尚書の喬琳を副えしむ。貞元七年に薨ず。

原文是時,皇子勝衣者盡加王爵,不出閣。德宗朝,述為諸王之長。時分命中使周行天下,求訪沈太后,詔以睦王為奉迎太后使,以工部尚書喬琳副之。貞元七年薨。

丹王の逾は、代宗の第五子である。大暦十年、郴王に封ぜられ、渭北鄜坊節度大使を領す。建中四年、丹王に改封。元和十五年薨ず。

原文丹王逾,代宗第五子。大歷十年,封郴王,領渭北鄜坊節度大使。建中四年,改丹王。元和十五年薨。

恩王の連は、代宗の第六子である。大暦十年に封ぜられ、元和十二年薨ず。

原文恩王連,代宗第六子。大歷十年封,元和十二年薨。

韓王の迥は、代宗の第七子である。母の寵により、生まれながらにして封を受け、沖幼ながらも、恩は鄭王に次ぐ。宝応元年、韓王に封ぜられる。貞元十二年薨ず。時に年四十七。

原文韓王迥,代宗第七子。以母寵,既生而受封,雖沖幼,恩在鄭王之亞。寶應元年,封韓王。貞元十二年薨,時年四十七。

簡王の遘は、代宗の第八子である。大暦十年、鄜王に封ぜられ、建中四年、簡王に改封。元和四年薨ず。

原文簡王遘,代宗第八子。大歷十年,封鄜王,建中四年,改封簡王。元和四年薨。

益王の乃は、代宗の第九子である。大暦四年に封ぜられる。

原文益王乃,代宗第九子。大歷四年封。

隋王の迅は、代宗の第十子である。大暦十年に封ぜられ、興元元年薨ず。

原文隋王迅,代宗第十子。大歷十年封,興元元年薨。

荊王の選は、代宗の第十一子、早世す。建中二年正月、追封して荊王と為し、開府儀同三司を贈る。

原文荊王選,代宗第十一子,早世。建中二年正月,追封荊王,贈開府儀同三司。

蜀王溯は、代宗の第十二子である。大暦十四年に封ぜられ、本名は遂であったが、建中二年に今の名に改めた。

原文蜀王溯,代宗第十二子。大歷十四年封。本名遂,建中二年改今名。

忻王造は、代宗の第十三子である。大暦十年に封ぜられ、なお昭義軍節度観察大使を領した。元和六年に薨去した。

原文忻王造,代宗第十三子。大歷十年封,仍領昭義軍節度觀察大使。元和六年薨。

韶王暹は、代宗の第十四子である。大暦十年に封ぜられ、貞元十二年に薨去した。

原文韶王暹,代宗第十四子。大歷十年封,貞元十二年薨。

嘉王運は、代宗の第十五子である。大暦十年に封ぜられ、貞元十七年に薨去した。

原文嘉王運,代宗第十五子。大歷十年封,貞元十七年薨。

端王遇は、代宗の第十六子である。大暦十年に封ぜられ、貞元七年に薨去した。

原文端王遇,代宗第十六子。大歷十年封,貞元七年薨。

循王遹は、代宗の第十七子である。大暦十年に封ぜられた。

原文循王遹,代宗第十七子。大歷十年封。

恭王通は、代宗の第十八子である。大暦十年に封ぜられた。

原文恭王通,代宗第十八子。大歷十年封。

原王逵は、代宗の第十九子である。大暦十年に封ぜられ、大和六年に薨去した。

原文原王逵,代宗第十九子。大歷十年封。大和六年薨。

雅王逸は、代宗の第二十子である。大暦十年に封ぜられ、貞元十五年薨去した。

原文雅王逸,代宗第二十子。大歷十年封,貞元十五年薨。

【論】

原文【論】

史臣が曰く、艶妻は国を破り、孽子は宗を敗る。前代の英傑の君も、率いてこの累に免れざるは、何ぞや。まことに愛悪は義断によるにあらず、毀誉は情移に逐うて遽し。申生・孝己の仁といえども、ついに君父の愛を回らす能わず、悲しいかな。孝宣皇帝は屯剣の運に当たり、忠義の心を収め、愛子の刑を行うを忍び、終に奸閹の罪を宥す。大雅の君子、これがために痛心す。張后ついに兇を以て終わる、固よりその宜なるかな。

原文史臣曰:艷妻破國,孽子敗宗。前代英傑之君,率不免於斯累者,何也?良以愛惡不由於義斷,毀譽遽逐於情移。雖申生孝己之仁,卒不能回君父之愛,悲哉!孝宣皇帝當屯剝之運,收忠義之心,忍行愛子之刑,終宥奸閹之罪,大雅君子,為之痛心。張後卒以兇終,固其宜矣。

賛に曰く、床簀の愛、人情惑い易し。義を以て情を制するは、哲王の令徳なり。李侯は主を悟らしめ、韻は金石に諧う。褒謚は建寧に建てらる、まことに太息に堪えたり。

原文贊曰:床簀之愛,人情易惑。以義制情,哲王令德。李侯悟主,韻諧金石。褒謚建寧,良堪太息。