旧唐書 粛宗の子

旧唐書

粛宗の子

粛宗皇帝には十四人の子があった。章敬皇后が代宗皇帝を生み、宮人孫氏が越王係を生み、張氏が承天皇帝を生み、王氏が衛王佖を生み、陳婕妤が彭王僅を生み、韋妃が兗王僴を生み、張美人が涇王侹を生み、裴昭儀が襄王僙を生み、段婕妤が杞王倕を生み、崔妃が召王偲を生み、張皇后が恭懿太子佋と定王侗を生み、宮人が鄆王榮と宋王僖を生んだ。

越王

越王係は、本名を儋といい、粛宗の第二子である。天宝年間、南陽郡王に封ぜられ、特進を授けられた。至徳二年十二月、趙王に進封された。乾元二年三月、九節度の兵が河北で潰え、史思明が相州で僭号を称し、王師が未だ集まらず、朝廷は震駭した。詔して李光弼に関東の兵を握らせて子儀に代えさせた。光弼は親賢に師を統率させるよう請うた。七月、詔して曰く、

兵を握る要は、古先より重んずる所であり、帥を命ずる道は、心膂の憑り所である。これにより難を靖め兇を夷するには、必ず金革に資り、戎を総べ律を授けるには、実に親賢に仗ることを知る。蓋し邦家を底寧し、黎献を保息せんとする所以である。朕は薄徳を以て、鴻緒を纘承し、往きに元兇の暴乱に属し、中夏寧からず。上は宗社の霊に憑り、下は熊羆の力を藉り、これにより咸・洛を廓清し、この生人を拯う。頃に河朔の残妖を以て、尚お天討を稽え、蛇豕窃に城堡に依り、塗炭久しく斉氓に被る。朕は人の父母たり、寧くも閔念を忘れんや。生を好み戦を息まんと雖も、毎にその帰降を冀い、而して余孽恩に昧く、悔禍を聞くこと靡し。これがために軒後は獯鬻に親征し、周文は昆夷に役を致す。古の兵を用いるは、蓋し已むを得ざるなり。趙王係は幼より異操を稟け、夙に韜略を懐き、東平の文学を負い、任城の智勇を蘊む。性は忠孝を惟み、愛敬を以て身を立つるを持し、志は権謀を尚び、経通の遠智有り。子を知る者は父、方に維城に属する有り、能を択んで授くれば、俾く戎律を申ばしむるを克せん。且つ兇徒嘯聚し、頗る歳時を歴たり。悪既に貫盈す、理当に撲滅すべし。君親命有り、敬はざるべけんや。俾く龍豹の韜を展べ、永く梟獍の類を清まん。天下兵馬元帥を充つるべく、仍って司空・兼侍中・薊国公光弼に節度行営事を副知せしむ。応に軍司の署置に縁るは、所司式に準ぜよ。

九月、史思明が洛陽を陥とす。光弼は副元帥として兵を董て河陽を守り、王は京師を出でず。十月、詔して車駕の親征を下すも、諫官の論奏により乃ち止む。王は行くことを請うも、許されず。三年四月、越王に改封される。宝応元年四月、粛宗寝疾して弥留す。皇后張氏は中官李輔国と隙有り、皇太子の監国に因り、輔国を誅せんと謀り、人を以て粛宗の命と為して太子を召し宮に入らしむ。皇后、太子に謂いて曰く、「賊臣輔国は、久しく禁軍を典じ、四方の詔令は、皆その口より出づ。頃に制命を矯め、聖皇を逼徙せしむ。今聖体弥留し、心に怏怏を懐き、常に吾と汝とを忌む。又聞く射生内侍程元振、黄門に結托し、将に不軌を図らんとす。若しこれを誅せざれば、禍は頃刻に在り。」太子泣いて対えて曰く、「この二人は陛下の勛旧の内臣なり。今聖躬康ならず、重ねてこの事を以て聖慮を驚撓せしむるは、情に任じ難し。若し決してこの命を行わんとせば、当に外に出でて徐にこれを図らん。」后、太子と共に事を為し難きを知り、乃ち係を召してこれに謂いて曰く、「皇太子は仁恵にして、禍難を平げるに足らず。」復た輔国を除かんとする謀を告げて曰く、「汝能くこの事を行わんや。」係曰く、「能くす。」后、内謁者監段恆俊に令して越王と謀らしめ、中官に武勇有る者二百余人を召し、長生殿に於いて甲を授く。この月乙丑、皇后詔を矯めて太子を召す。程元振これを伺い知り、輔国に告ぐ。元振、兵を握りて淩霄門に候う。太子既に至るに及び、難を告ぐ。太子曰く、「必ずこの事無からん。聖恙危篤なり、吾豈に死を懼れて召しに赴かざらんや。」元振曰く、「社稷の為に計らば、行けば則ち禍及びん。」遂に兵を以て太子を護り飛龍廐に匿わしむ。丙寅の夜、元振・輔国、兵を勒して三殿の前に於い、越王及び同謀の内侍硃光輝・段恆俊等百余り人を収捕す。皇后を禁系して別殿に幽し、侍者十数人これに随う。この日、皇后・越王俱に輔国の為に害せらる。

係の子:建・逌・逾。建は、建中元年十一月、武威郡王に封ぜられ、殿中監同正員を授けられる。逌は興道郡王に封ぜられ、殿中監同正員を授けられる。逾は斉国公に封ぜられ、光禄卿同正員を授けられる。

承天皇帝

承天皇帝倓は、粛宗の第三子である。天宝年間、建寧郡王に封ぜられ、太常卿同正員を授けられる。英毅にして才略有り、射を善くす。禄山の乱、玄宗蜀に幸す。倓兄弟は親兵を典として扈従す。車駕渭を渡るに及び、百姓道を遮りて留まることを乞い太子を請う。太子これを諭して曰く、「至尊奔播す、吾左右を違離するに忍びず、吾の上に見えて奏聞するを俟てん。」倓、行宮に於いて太子に謂いて曰く、「逆胡順を犯し、四海分崩す。人情に因らざれば、何を以て興復せん。国家を有つ者は、大孝社稷を存するに若くは莫し。今至尊に従いて蜀に入らば、則ち散関已東は、皇家の所有に非ず、何を以て人情を維属せん。殿下宜しく豪傑を購募し、暫く河西に往き、戎馬を收拾し、防辺の将卒を点集すべし。十万を下らず。光弼・子儀は、全軍河朔に在り、興復を謀るは、計の上なり。」広平王も亦たこれを賛成す。ここにおいて李輔国に令して奏聞せしむ。玄宗欣然として聴納し、乃ち従官・士卒を分かちてこれを遣わす。時に敗卒胆破し、兵仗完からず。太子既に北上し、渭を渡り、一日百戦す。倓自ら驍騎数百を選び衛従し、毎に蒼黄顛沛の際には、血戦前に在り。太子或いは時を過ぎて食を得ず、倓涕泗自ら勝えず、上特にこれを憐れむ。軍士属目して倓に帰す。霊武に至り、太子即ち帝位に即く。広平既に元子たり、倓を以て天下兵馬元帥と為さんと欲す。侍臣曰く、「広平王は冢嗣にして、人君の量有り。」上曰く、「広平地当に儲貳たり、何ぞ更に元帥を仮せん。」左右曰く、「広平今未だ冊立せず、艱難の時人は特に元帥に属望す。況んや太子は従うを撫軍と曰い、守るを監国と曰う。今の元帥は、撫軍なり。広平宜しきかな。」遂に広平を元帥と為し、倓は親軍を典とし、李輔国を元帥府司馬と為す。

時に張良娣寵有り。倓の性忠謇なり、上に侍するに因りて屡々良娣の頗る自恣なるを言い、輔国の内外に連結し、皇嗣を傾動せんと欲すと。ここより、日を良娣・輔国の為に構えられ、「建寧は兵権を得んことを恨み、頗る異志を畜う」と云う。粛宗怒り、倓に死を賜う。既にして省悟し、これを悔ゆ。

明年の冬、広平王が両京を収復し、判官李泌を遣わして入朝し捷を献ず。泌は上と東宮の旧あり、従容として建寧の事に語及びしに、粛宗顔色を改めて泌に謂ひて曰く、「倓は艱難の時に於いて実に気力を得たり、故無くして下人の間せらるる所となり、其の兄を害せんと図る。朕は社稷の大計を以て、愛を割きて之が為にせしなり」と。泌対へて曰く、「爾の時臣は河西に在り、豈其の故を知らざらんや。広平兄弟、天倫篤く睦まじく、今に至るまで広平建寧に言及すれば、則ち嗚咽已まざるなり。陛下の言は、讒口より出づるなり」と。帝因りて泣下して曰く、「事已に此に及び、之を如何ともすべからず」と。泌因りて奏して曰く、「臣幼稚の時『黄台瓜辞』を念ふ。陛下嘗て其の説を聞かれたりや。高宗大帝に八子有り、えい宗最も幼し。天後の生める所の四子、自ら行第を為す、故に睿宗第四なり。長は孝敬皇帝と曰ひ、太子として国を監み、而して仁明孝悌なり。天后方に臨朝を図らんとす、乃ち孝敬を鴆殺し、雍王賢を立てて太子と為す。賢は毎日憂惕し、必ず保全せられざるを知り、二弟と同く父母の側に侍するも、言ふ由敢へて無し。乃ち『黄台瓜辞』を作り、楽工をして之を歌はしめ、冀くは天后之を聞きて省悟し、即ち哀湣を生ぜんとす。辞に云く、『瓜を種う黄台下、瓜熟れて子離離たり。一たび摘めば瓜をして好からしめ、再び摘めば瓜をして稀ならしめ、三たび摘むも猶尚可なり、四たび摘めば蔓を抱きて帰らん』と。而して太子賢終に天后の逐ふ所となり、黔中に死す。陛下今日の運祚有るは、已に一たび摘まるるなり、慎んで再び摘むること無かれ」と。上愕然として曰く、「公何ぞ是の言有るを得んや」と。時に広平王大功を立て、亦張皇后の忌む所となり、潜かに流言を構ふ。泌事に因りて之を諷動す。

代宗即位に及び、深く建寧の冤を思い、追贈して斉王と為す。大暦三年五月、詔して曰く、「故斉王倓は、天祚の慶を承け、鴻名の光を保つ。志を降して賢を尊び、才高く学を好み、芸文博洽にして、智略宏通なり。断は必ず来を知り、謀は皆事に先んじ、識は達せざる無く、理は至りて精を踰ゆ。乃ち寇盗横流し、鑾輿南幸す。先聖は宸扆の恋を以て、将に君親に侍せんとし、惟王は宗廟の重を以て、誓ひて家国を寧げんとす。克く朕が志に協ひ、載せて天時に符し、群議の非を立辨し、五原の計を同献す。中興の盛は、実に奇功に藉る。景命融けず、早く厚穸に従ふ。天倫の愛、震惕良く深し。涕を流して追封し、東海に胙す。頃に表飾を加ふるも、未だ哀栄に極まらず。夫れ旧邦再造の勤に参り、天下一家の業を成すに、而して存は未だ其の等を峻めず、歿は未だ其の称を尊ばず、是れ徽烈を旌し、至公を明らかにする所以に非ず。朕は眇身を以て、大寶を纘膺す、及ばずして王を譲るの礼、申さずして太弟の嗣、懐ふ所靡く殫れず、邈想逾切なり。非常の命、寵錫宜しく攸し。敬みて用ひて追謚して承天皇帝と曰ひ、興信公主第十四女張氏と冥婚せしめ、謚して恭順皇后と曰ふ。有司は式に準ひ、日を択びて冊命し、順陵に改葬し、仍りて奉天皇帝廟に祔し、同殿異室と為す」と。

衛王

衛王佖は、粛宗第四子なり。天寶中、西平郡王に封ぜられ、殿中監同正員を授けらる。早く薨ず。寶應元年五月、追贈して衛王と為す。

彭王

彭王僅は、粛宗第五子なり。天寶中、新城郡王に封ぜられ、鴻臚卿同正員を授けらる。至德二年十二月、進めて彭王に封ぜらる。乾元二年冬、史思明再び河洛を陥し、関東兵を用ふるに、人情震懼し、群臣親王を以て遥かに兵柄を統べんことを請ふ。三年四月詔して曰く、

古の哲王、中に宅り宇を禦ふるは、内に子弟を封じ外に籓維を建つるに莫からず。故に周は百代と称し、抑も麟趾の美を聞き、漢は六官を命じ、亦犬牙の制を樹つ。歴考前載、率ね旧章に由る。朕は薄徳を以て、鴻緒を纘承す、豺狼未だ殄せず金革猶虞るるに属す。文武の藎臣に頼り、心を協へ徳を同じくし、庶くは玄昆に清からんことを克し、期に皇図を永保せんとす。且つ鉞を授け符を分つは、義已に用武に先んじ、又維城をして翰と為さしむるは、道方に建親に弘まらんとす。爾が分閫の崇を咨り、予が磐石の固を成さしめん。彭王僅等は、銀潢毓慶し、璿萼輝を分ち、忠孝は天成に稟け、文武は其の備用に称す。今三秦の地、万国来庭す、誠に宜しく皇子を列ねて以て封を建て、懿籓を崇めて以て勝を制すべし、是れ本を固むるに資り、戎に臨むに委す。彭王僅は河西節度大使を充つべく、兗王僴は北庭節度大使を充つべく、涇王侹は隴右節度大使を充つべく、杞王倕は陜西節度大使を充つべく、興王佋は鳳翔節度大使を充つべし。

僅は是の歳薨ず。子鎮は太仆卿同正員を授けられ、常山郡王に封ぜらる。

兗王

兗王僴は、粛宗第六子なり。母は韋妃、刑部尚書堅の妹なり。粛宗東宮に在り、選ばれて太子妃と為り、僴及び永和公主を生む。堅後李林甫の誣構せらるる所となり誅せらる。太子懼れ、奏請して妃と離異し、別宮に安置す。僴は天寶中潁川郡王に封ぜられ、太子詹事同正員を授けらる。至德二年十二月、進めて兗王に封ぜらる。乾元三年、北庭節度大使を領す。寶應元年薨ず。

涇王

涇王侹は、粛宗第七子なり。天寶中、東陽郡王に封ぜられ、光祿卿同正員を授けらる。至德二載十二月、進めて涇王に封ぜらる。乾元三年、隴右節度大使を領す。興元元年薨ず。

鄆王

鄆王榮は、粛宗第八子なり。天寶中、霊昌郡王に封ぜらる。早世す。寶應元年五月、追贈して鄆王と為す。

襄王

襄王李僙は、肅宗の第九子である。至徳二載十二月、襄王に封ぜられた。貞元七年正月に薨去した。

杞王

杞王李倕は、肅宗の第十子である。母は段婕妤で、貞元六年六月に昭儀を追贈された。倕は、至徳二載に封ぜられ、貞元十四年に薨去した。

召王

召王李偲は、肅宗の第十一子である。至徳二載十二月に封ぜられ、元和元年に薨去した。

恭懿太子

恭懿太子李佋は、肅宗の第十二子である。至徳二載に興王に封ぜられた。上元元年六月に薨去した。佋は、皇后張氏の生んだ子で、皇帝は特に寵愛した。後に皇后がたびたび太子を危うくし、興王を皇太子に立てようとしたが、佋が薨去したために止んだ。七月丁亥、詔して曰く、

厚礼は終わりを飾るためであり、易名は行いを表すためである。ましてや情は天属に鐘り、寵は褒封に及ぶ。加等の美を載せ疇し、元儲の贈りを式備する。永く軫念を懐き、彜章に惻み有り。第十二子故興王佋は、璿源に慶を毓し、若木に華を分つ。天資は純孝、神は聰明を假す。河間の書を聚むるは、幼にして楽善の旨を聞き、延陵の楽を聴くは、早く知音の妙を得たり。頃に暫く沈瘵に嬰り、殆ど旬時に積るも、資敬は益々彰れ、穎晤は逾爽なり。親を愛するの恋は、言斯須を間わず、訣を告ぐるの辞は、事先ず夢寐に符す。惟うに至性を顧み、実に深哀に切る。将に土を胙し珪を析ち、載せて籓翰を崇め、詩に対し易を聞き、爰に琢磨に就かんとす。方に成立を冀うに、豈に期せんや天の喪うことを。瑤英始めて茂るに、遽に当春に摧かれ、隙駟俄に遷り、忽ち厚夜に沈む。言を興して痛悼し、閔惜すること良く深し。宜しく寵を青宮に賁し、哀栄を玄穸に俾すべし。太子を贈ることを可とし、謚して恭懿と曰う。喪葬に応縁する所は、所司式に準じ、仍て京兆尹劉晏をして監護使を充てしむ。

詔して宰臣李揆に節を持たせて冊命させた。十一月、高陽原に葬った。その哀冊に曰く、

上元元年、太歳庚子、六月己未朔、二十六日甲申、皇第十二子、持節鳳翔等四州節度観察大使興王佋、中京内邸に薨じ、寝の西階に殯す。粤に八月丁亥、冊して皇太子を贈り、廟号を恭懿とす。冬十一月庚寅、詔して長安の高陽原に葬る、礼なり。燕隧開封し、龍辒轍を進め、祖載を陳べて位に就き、塗芻を儼として列を成す。皇帝、玉林の悶景を哀しみ、璿萼の霜に罹るを憫み、龍綍を瞻みて思を増し、雁池を懐いて永く傷む。謚を考うるは惟古に、褒崇するは式有り。爰に史司に詔し、恭しく懿徳を宣ぶ。その辞に曰く、

惟れ天唐を祚し、累葉重光し、中興宸景し、再び乾綱を紐く。本枝国を建て、磐石疆を疏く、克く龍胤を開き、実に賢王と曰う。驪源彩を孕み、日幹芳を騰す。深仁広孝、芸を蘊み章を含む。秀は童年に発し、恵は齔歯に彰る。礼を蹈み方を知り、尊を承ぎ旨に葉う。日に対して弁を流し、鳳に占いて美を擅にす。魯・衛の後塵、間・平の絶軌。胡孽初めて構え、王師未だ班せず。爰に繈褓より従い、載せて険艱を歴る。愛に中掖に備わり、名は懿籓に崇し。居常に訓を稟け、動も顔に違わず。礼は佩觿に及び、朝は分器を加う。土を胙して渥を延べ、壇に登りて帥を受く。玉質金声、文経武緯。善を楽むを宝と為し、儒を崇ぐるを貴しとす。浚哲は外に朗らかに、温文は内に深し。書を閲して誦を成し、楽を観て音を表す。五経は口に在り、六律は心に諧う。才優れ芸洽く、古を絶ち今を超ゆ。蛇豕猶お梗み、寰区未だ乂えず。慮を滌ぎ真を祈り、香を焚き偈を演ず。食は葷血を去り、心は定恵に依る。庶くは邦家に福し、俾くは兇穢を清まんとす。霧露疾に嬰り、聰明神を害す。沈{{PUA|〓}}彖始めて遘い、弥く曠く旬を盈つ。慮を止めて擾わず、言を発して倫有り。膏に在りて方に亟く、膳を問いて逾勤し。雲物は征を告げ、星辰は象を変ず。楚薬救い無く、秦医仗む莫し。霊儀窅として上賓し、徽音邈として長往す。旧邸を青社に違え、幽陵を黄壌に即く。嗚呼哀しい哉!魂気奪うれて去りて何くにか之く、精霊存して孝に思有り。君親の永隔を念い、夢寐に托して来りて辞す。桂宮を延べて震悼し、椒壸を貫いて纏悲す。遺芳を碣館に旌し、新命を儲闈に賁す。嗚呼哀しい哉!先遠候を戒め、亀を占いて吉を献ず。鶉野を指して西に臨み、鳳城を背いて右に出づ。天は惨惨として苦霧し、山は蒼蒼として曀日す。馳道を望んで長辞し、幽塗に赴いて永畢す。嗚呼哀しい哉!生れては寵王たり宸愛の鐘る所、歿しては上嗣を追う朝典斯に崇し。玉笙を洞府に昇し、銀棨を泉宮に閲す。金石誰か固く、人生終り有り。簡冊攸に記す兮徳音窮まり無し。敢えて直詞を篆美にし、庶くは永代にして風を成さん。嗚呼哀しい哉!

佋が薨去した時は八歳であった。薨去した夜、肅宗と張後はともに佋が平昔の如く、拝辞して涙を流して去る夢を見た。帝はちょうど寝疾にあり、追念過深く、故に特に儲闈の贈りをもって寵した。上の病は累月してようやく平癒した。

定王

定王李侗は、肅宗の第十三子である。これも張後の生んだ子で、佋の同母弟である。至徳二載、定王に封ぜられた。宝応初年に薨去し、時に年は甚だ幼かった。

宋王

宋王の僖は、粛宗の第十四子である。初め淮陽王に封ぜられ、早世したため、追封して宋王とした。

代宗の子

代宗皇帝に二十子あり。睿真皇后沈氏は徳宗皇帝を生み、崔妃は昭靖太子を生み、獨孤皇后は韓王の迥を生む。その余の十七王は、旧史に母氏の出を載せず。

昭靖太子の邈は、代宗の第二子である。宝応元年、鄭王に封ぜられる。大暦の初め、皇太子に代わって天下兵馬元帥となる。王は書を好み、儒行をもって聞こえた。大暦九年に薨じ、三日間朝を廃し、これにより元帥の職を罷む。上はその才の早世を惜しみ、冊して昭靖太子を贈り、万年県の界に葬る。

均王の遐は、代宗の第三子である。早世し、貞元八年に追封される。

睦王の述は、代宗の第四子である。大暦九年の冬、田承嗣が河朔に謀叛を企てた。時に鄭王は長じて兵師を統べていたが、不幸にも薨落し、諸王は皆幼く、多くは封建されていなかった。大臣が奏議して親王を封じ、戎師を分領させて天下を威圧することを請うた。十年二月、詔して曰く、

虞・夏の制には諸子を疏封し、漢・魏以来は十連に律を授く。これを用いて珪を錫し瑞を班ち、盤石に疆を開き、信を通邑の紀綱と為し、中都の屏翰と為す。然れども旌鉞の寄せは推択に難く、親に因る任は各々その命を膺く。第四子の述・第五子の逾・第六子の連・第七子の迥・第八子の遘・第十三子の造・第十四子の暹・第十五子の運・第十六子の遇・第十七子の遹・第十八子の通・第十九子の逵・第二十子の逸らは、並びに敏茂純懿にして衷誠に稟り、温良孝恭にして進対に形れ、動は皆義に合い、居るには必ず常あり。以て衆を理め人を靖め、封を撫し化を宣べ、而して列城の賦を総べ、閫を分つ謀を繕い、公家に克く勤め、王室を允に輔くるべし。今は則ち茅社の寵を均しくし、槐庭の儀を盛んにし、鉞を授け車に登らしめ、茲に朝典を嗣がしむ。維城の固きは、爾其れ懋れよ。述は睦王に封ぜられ、嶺南節度支度営田・五府経略観察処置等大使を充てよ。逾は郴王に封ぜられ、渭北鄜・坊等州節度大使を充てよ。連は恩王に封ぜられよ。韓王の迥は汴・宋等節度観察処置等大使を充てよ。遘は鄜王に封ぜられよ。造は忻王に封ぜられ、昭義軍節度観察処置等大使を充てよ。暹は韶王に封ぜられ、運は嘉王に封ぜられ、遇は端王に封ぜられ、遹は循王に封ぜられ、通は恭王に封ぜられ、逵は原王に封ぜられ、逸は雅王に封ぜられよ。仍て並びに開府儀同三司に封ぜらるべし。

この時、皇子で勝衣する者は尽く王爵を加えられ、閣を出ず。徳宗の朝、述は諸王の長となる。時に命を分かち中使をして天下に周行せしめ、沈太后を求訪し、詔して睦王を奉迎太后使と為し、工部尚書の喬琳を副えしむ。貞元七年に薨ず。

丹王の逾は、代宗の第五子である。大暦十年、郴王に封ぜられ、渭北鄜坊節度大使を領す。建中四年、丹王に改封。元和十五年薨ず。

恩王の連は、代宗の第六子である。大暦十年に封ぜられ、元和十二年薨ず。

韓王の迥は、代宗の第七子である。母の寵により、生まれながらにして封を受け、沖幼ながらも、恩は鄭王に次ぐ。宝応元年、韓王に封ぜられる。貞元十二年薨ず。時に年四十七。

簡王の遘は、代宗の第八子である。大暦十年、鄜王に封ぜられ、建中四年、簡王に改封。元和四年薨ず。

益王の乃は、代宗の第九子である。大暦四年に封ぜられる。

隋王の迅は、代宗の第十子である。大暦十年に封ぜられ、興元元年薨ず。

荊王の選は、代宗の第十一子、早世す。建中二年正月、追封して荊王と為し、開府儀同三司を贈る。

蜀王溯は、代宗の第十二子である。大暦十四年に封ぜられ、本名は遂であったが、建中二年に今の名に改めた。

忻王造は、代宗の第十三子である。大暦十年に封ぜられ、なお昭義軍節度観察大使を領した。元和六年に薨去した。

韶王暹は、代宗の第十四子である。大暦十年に封ぜられ、貞元十二年に薨去した。

嘉王運は、代宗の第十五子である。大暦十年に封ぜられ、貞元十七年に薨去した。

端王遇は、代宗の第十六子である。大暦十年に封ぜられ、貞元七年に薨去した。

循王遹は、代宗の第十七子である。大暦十年に封ぜられた。

恭王通は、代宗の第十八子である。大暦十年に封ぜられた。

原王逵は、代宗の第十九子である。大暦十年に封ぜられ、大和六年に薨去した。

雅王逸は、代宗の第二十子である。大暦十年に封ぜられ、貞元十五年薨去した。

【論】

史臣が曰く、艶妻は国を破り、孽子は宗を敗る。前代の英傑の君も、率いてこの累に免れざるは、何ぞや。まことに愛悪は義断によるにあらず、毀誉は情移に逐うて遽し。申生・孝己の仁といえども、ついに君父の愛を回らす能わず、悲しいかな。孝宣皇帝は屯剣の運に当たり、忠義の心を収め、愛子の刑を行うを忍び、終に奸閹の罪を宥す。大雅の君子、これがために痛心す。張后ついに兇を以て終わる、固よりその宜なるかな。

賛に曰く、床簀の愛、人情惑い易し。義を以て情を制するは、哲王の令徳なり。李侯は主を悟らしめ、韻は金石に諧う。褒謚は建寧に建てらる、まことに太息に堪えたり。