舊唐書

巻115

巻115

舊唐書

原文舊唐書

卷一百一十五

原文卷一百一十五

列傳第六十五 崔器 趙國珍 崔瓘 敬括 韋元甫 魏少游 衛伯玉 李承

原文列傳第六十五 崔器 趙國珍 崔瓘 敬括 韋元甫 魏少游 衛伯玉 李承

崔器

原文崔器

崔器は深州安平の人である。曾祖父の恭禮は、体つきが豊かで大きく、酒を一斗以上も飲んだ。貞観年間に駙馬都尉に任ぜられ、神堯館陶公主を娶った。父の肅然は平陰丞であった。

原文崔器,深州安平人也。曾祖恭禮,狀貌豐碩,飲酒過鬥。貞觀中,拜駙馬都尉,尚神堯館陶公主。父肅然,平陰丞。

器は吏才があり、性質は狷介で交わりが少なく、明経に挙げられ、歴任した官職において清廉謹直であった。天宝六載、万年尉となり、一ヶ月余りで監察御史に任ぜられた。中丞宋渾が東畿采訪使となったとき、器を判官に引き立てた。宋渾が贓罪に坐って流罪となり嶺南に貶されると、器もまたそれに従って貶された。十三載、量移して京兆府司錄となり、都官員外郎に転じ、出て奉先令となった。逆胡が西京を陥落させると、器は賊に捕らわれたが、依然として奉先を守った。しばらくして、賊党の同羅が賊に叛いた際、長安ちょうあん守将の安守忠・張通儒はともに逃亡潜伏した。また渭上の義兵が起こり、一朝にして数万の徒党を集めたので、器は恐れ、受けていた賊の文牒・符・敕を一時に焼き捨て、義師を榜で召し、渭上の軍に応じようとした。渭上の軍が破れると、賊将崔乾祐が先に蒲・同を鎮めていたが、麾下の騎兵三十人に器を捕らえさせたので、器は遂に北へ霊武に逃れた。

原文器有吏才,性介而少通,舉明經,歷官清謹。天寶六載,為萬年尉,逾月拜監察御史。中丞宋渾為東畿采訪使,引器為判官;渾坐贓流貶嶺南,器亦隨貶。十三年,量移京兆府司錄,轉都官員外郎,出為奉先令。逆胡陷西京.器沒於賊,仍守奉先。居無何,屬賊黨同羅叛賊,長安守將安守忠、張通儒並亡匿。又渭上義兵起,一朝聚徒數萬,器懼,所受賊文牒符敕,一時焚之,榜召義師,欲應渭上軍。及渭上軍破,賊將崔乾祐先鎮蒲、同,使麾下騎三十人捉器,器遂北走靈武。

器は平素より呂諲と親しく、呂諲は彼を引き立てて御史中丞・兼戸部侍郎とした。肅宗に従って鳳翔に至り、礼儀使を加えられた。二京を克復すると、三司使となった。器は儀註を起草し、車駕が城に入る際、賊に陥った官人を含元殿前に立たせ、頭を露わにし足を裸足にして、胸を撫で頓首して罪を請わせ、刀杖で周囲を警護させ、扈従の群官・宰臣以下に見せしめた。東京を収めたときも、陳希烈以下数百人に西京と同じ儀式を行わせた。器の性質は陰険で禍を喜び、残忍で恩情に乏しく、上意を迎えて賊に陥った官人は律に準じて全て死刑に処すべきであると奏上した。肅宗はその議に従おうとした。三司使・梁国公李峴が執奏し、固く不可を言ったので、六等に分けて罪を定め、多くは赦免し、ただ陳希烈・達奚珣のみを独柳樹下で斬った。後に蕭華が相州の賊中から賊に仕えた官人として朝廷に帰還し、奏上して言うには、「賊に仕えた官人らは重ねて安慶緒に駆り立てられ、脅されて相州に至りましたが、初めて広平王が恩命を奉じて宣べられ、陳希烈以下を釈放されたと聞き、皆互いに顔を見合わせて『我らは国家からこのように遇されているのに、悔やんでも及ばない』と言いました。崔器の議する刑罰が重すぎると聞いて、衆心は再び動揺しました」と。肅宗は言った、「朕はほとんど崔器に誤らされるところであった」。

原文器素與呂諲善,諲引為御史中丞、兼戶部侍郎。從肅宗至鳳翔,加禮儀使。克復二京,為三司使。器草儀註,駕入城,令陷賊官立於含元殿前,露頭跣足,撫膺頓首請罪,以刀杖環衛,令扈從群官宰臣已下視之。及收東京,令陳希烈已下數百人如西京之儀。器性陰刻樂禍,殘忍寡恩,希旨奏陷賊官準律並合處死。肅宗將從其議。三司使、梁國公李峴執奏,固言不可,乃六等定罪,多所原宥,唯陳希烈、達奚珣斬於獨柳樹下。後蕭華自相州賊中仕賊官歸闕,奏云:「賊中仕官等重為安慶緒所驅,脅至相州,初聞廣平王奉宣恩命,釋放陳希烈已下,皆相顧曰:『我等國家見待如此,悔恨何及。』及聞崔器議刑太重,眾心復搖。」肅宗曰:「朕幾為崔器所誤。」

呂諲は急に器を吏部侍郎・御史大夫に推薦した。上元元年七月、器は脚が腫れる病にかかり、一ヶ月余りで病が重篤となり、目を閉じると達奚珣が見え、叩頭して言うには、「大尹、自由ならざるなり」と。左右の者が尋ねると、器は答えて言うには、「達奚大尹がかつて私に冤罪を訴えたが、私はそれを許さなかった」と。このようにして三日にして器は卒した。

原文呂諲驟薦器為吏部侍郎、御史大夫。上元元年七月,器病腳腫,月余疾亟,瞑目則見達奚珣,叩頭曰:「大尹不自由。」左右問之,器答曰:「達奚大尹嘗訴冤於我,我不之許。」如是三日而器卒。

趙国珍

原文趙國珍

趙国珍は牂柯の末裔である。天宝年間、軍功によって累進して黔府都督ととくとなり、兼ねて本管経略等使を務めた。当時、南蛮の閣羅鳳が叛き、宰臣楊国忠が剣南節度を兼ね、遠くからその事務を統制したが、しばしば軍兵を失った。中書舎人張漸が、国珍に武略があり、南方の地形に詳しいことを推薦したので、楊国忠は遂に彼を用いるよう奏上した。五渓に在ること凡そ十余年、中原で兵が起こっても、ただ黔中の封境だけは憂いがなかった。代宗が践祚すると、特にこれを嘉し、召して工部尚書に任じた。大暦三年九月、病により終わり、太子太傅を追贈された。

原文趙國珍,牂柯之苗裔也。天寶中,以軍功累遷黔府都督,兼本管經略等使。時南蠻閣羅鳳叛,宰臣楊國忠兼劍南節度,遙制其務,屢喪師徒。中書舍人張漸薦國珍有武略,習知南方地形,國忠遂奏用之。在五溪凡十余年,中原興師,唯黔中封境無虞。代宗踐祚,特嘉之,召拜工部尚書。大歷三年九月,以疾終,贈太子太傅。

崔瓘

原文崔瓘

崔瓘は博陵の人である。士行をもって知られ、職に臨んで清廉謹直であった。累進して澧州刺史となり、着任すると煩わしい苛法を削除し、民を安んずることを務めとした。二年在任すると、風化が大いに行われ、流亡の民が子供を背負って来たり、戸数が数万増加した。有司がこれを上聞すると、優詔をもって特に五階を加えられ、銀青光禄大夫に至り、能政を表彰された。潭州刺史・兼御史中丞に遷り、湖南都団練観察処置使を充任した。瓘が官に着くと、政は簡素で厳粛を旨とし、礼法を恭しく守った。将吏は時艱を経て久しく法を奉じず、多くはこれを不便とした。大暦五年四月、月ごとの糧食支給の際、兵馬使臧玠と判官達奚覯が憤って争い、覯が言うには、「今幸いに事なきなり」と。玠は言う、「事あらば何ぞ逃れん」と。厳しい表情で去った。その夜、臧玠は遂に乱を構え、州城を犯し、達奚覯を殺すことを名目とした。瓘は慌てふためいて逃げ、臧玠の兵に出逢い、遂に害に遇った。代宗はこの事を聞き、長く悼み惜しんだ。

原文崔瓘,博陵人也。以士行聞,蒞職清謹。累遷至澧州刺史,下車削去煩苛,以安人為務。居二年,風化大行,流亡繈負而至,增戶數萬。有司以聞,優詔特加五階,至銀青光祿大夫,以甄能政。遷潭州刺史、兼御史中丞,充湖南都團練觀察處置使。瓘到官,政在簡肅,恭守禮法。將吏自經時艱,久不奉法,多不便之。大歷五年四月,會月給糧儲,兵馬使臧玠與判官達奚覯忿爭,覯曰:「今幸無事。」玠曰:「有事何逃?」厲色而去。是夜,玠遂構亂,犯州城,以殺達奚覯為名。瓘惶遽走,逢玠兵至,遂遇害。代宗聞其事,悼惜久之。

敬括

原文敬括

敬括は河東の人である。若くして文詞をもって称された。郷挙で進士となり、また制科に応じて登第し、再び右拾遺・内供奉・殿中侍御史に遷った。天宝末、宰臣楊国忠が己に附かない者を外すと、括は例によって果州刺史となった。累進して給事中・兵部侍郎・大理卿となった。性質は深沈温厚であった。志は簡素淡泊を尚び、職にあって名を求めることを務めず、因循するのみであった。大暦初、叛臣周智光が伏誅されると、詔して循良の吏を選んで近輔とし、括を同州刺史とした。一年余りして、入朝して御史大夫となった。遅重で下に対して誠を推し、私をもって公を害することはなく、士人はこれをかなり称えた。しかし、悠揚として声望を養い、綱紀を挙げなかったので、士人はまたこれをもって軽んじた。大暦六年三月に卒した。

原文敬括,河東人也。少以文詞稱。鄉舉進士,又應制登科,再遷右拾遺、內供奉、殿中侍御史。天寶末,宰臣楊國忠出不附己者,括以例為果州刺史。累遷給事中、兵部侍郎、大理卿。性深厚。誌尚簡淡,在職不務求名,因循而已。大歷初,叛臣周智光伏誅,詔選循良為近輔,以括為同州刺史。歲餘,入為御史大夫。遲重推誠於下,未嘗以私害公,士頗稱焉;而從容養望,不舉綱紀,士亦以此少之。大歷六年三月卒。

韋元甫

原文韋元甫

韋元甫は、若くから行いを修めて謹直で、学問と行いに敏であった。初め滑州白馬尉に任ぜられ、吏術をもって知名となった。本道の采訪使韋涉は深く彼を器とし、支使に充てるよう奏上し、同幕の判官員錫と名声を並べた。元甫は簡牘に精通し、員錫は訊覆に詳しく、韋涉は誠を推して彼らを待遇し、当時「員は推し、韋は状す」と言われた。元甫は器量があり、任地において名声があり、累進して蘇州刺史・浙江西道都団練観察等使となった。大暦初、宰臣杜鴻漸が真っ先に彼を推薦し、征されて尚書右丞となった。ちょうど淮南節度使が欠員となると、杜鴻漸はまた重寄に堪えると推薦したので、遂に揚州長史・兼御史大夫・淮南節度観察等使を授けられた。揚州において三年、政は騒がせないことを尚び、事務もおおむね処理した。大暦六年八月、病により任上で卒した。

原文韋元甫,少修謹,敏於學行。初任滑州白馬尉,以吏術知名。本道采訪使韋涉深器之,奏充支使,與同幕判官員錫齊名。元甫精於簡牘,錫詳於訊覆,涉推誠待之,時謂「員推韋狀。」元甫有器局,所蒞有聲,累遷蘇州刺史、浙江西道都團練觀察等使。大歷初,宰臣杜鴻漸首薦之,征為尚書右丞。會淮南節度使缺,鴻漸又薦堪當重寄,遂授揚州長史、兼御史大夫、淮南節度觀察等使。在揚州三年,政尚不擾,事亦粗理。大歷六年八月,以疾卒於位。

魏少遊

原文魏少遊

魏少遊は鉅鹿の人である。早くから吏幹をもって知られ、歴任して朔方水陸転運副使に至った。粛宗が霊武に幸すると、杜鴻漸らが奉迎し、少遊を留まらせて留後を掌らせ、宮室の掃除のことを備えさせた。少遊は粛宗が宮闕を遠く離れ、初めて辺境の藩鎮に至ったので、供具を豊かにしてこれを喜ばせようとした。霊武に至らんとする時、少遊は騎卒千余りを整え、干戈は日に耀き、霊武南界の鳴沙県において奉迎し、威儀を備えて軍を振るって入った。粛宗が霊武に至ると、殿宇や御幄は皆宮闈のようであり、諸王・公主は各本院を設け、飲食を進御すること、水陸の珍味を窮めていた。粛宗は言った、「我ここに至るは本より大事を成さんと欲するなり、何ぞ此れを用いんや」と。命じて有司に少しずつこれを去らせた。累遷して衛尉卿となった。乾元二年十月、朝臣の馬を率いて軍を助けることを議し、少遊は漢中郡王瑀とともにその議を沮んだ。上これを知り、渠州長史に貶した。後に京兆尹となり、中書門下及び両省五品以上、尚書省四品以上、諸司正員三品以上、諸王・駙馬の中朝周以上の親及び女婿外甥は、京兆府判官・畿令・赤県丞簿尉に任じることを得ずと請うた。勅してこれに従った。刑部侍郎に遷った。

原文魏少遊,鉅鹿人也。早以吏幹知名,歷職至朔方水陸轉運副使。肅宗幸靈武,杜鴻漸等奉迎,留少遊知留後,備宮室掃除之事。少遊以肅宗遠離宮闕,初至邊籓,故豐供具以悅之。將至靈武,少遊整騎卒千余,干戈耀日,於靈武南界鳴沙縣奉迎,備威儀振旅而入。肅宗至靈武,殿宇禦幄,皆象宮闈,諸王、公主各設本院,飲食進禦,窮其水陸。肅宗曰:「我至此本欲成大事,安用此為!」命有司稍去之。累遷衛尉卿。乾元二年十月,議率朝臣馬以助軍,少遊與漢中郡王瑀沮其議,上知之,貶渠州長史。後為京兆尹,請中書門下及兩省五品已上、尚書省四品已上、諸司正員三品已上、諸王、駙馬中期周已上親及女婿外甥,不得任京兆府判官、畿令、赤縣丞簿尉,敕從之。遷刑部侍郎。

大暦二年四月、出でて洪州刺史・兼御史大夫となり、江南西道都団練観察等使を充てた。四年六月、趙国公に封ぜられた。賈明観という者は、もと万年県の捕賊小胥であり、劉希暹に事え、魚朝恩の勢いを恃んで、兇忍を恣に行い、その毒は豺虺よりも甚だしかった。朝恩・希暹が既に誅せられた後、元載が権を当にし、明観の奸謀を納れてこれを容れ、特に関西に効力させた。明観が未だ城を出でざるに、百姓万衆が城外に聚まり、皆磚石を懐いてこれを待ち、投げ撃って快意を期した。載これを聞き、特に関所の吏に命じて百姓を城内に擁入させ、これによって免れることを得た。洪州において二年、少遊が観察使となり、元載の意を承けて苟くもこれを容れた。路嗣恭が少遊に代わり、州に到着するや、即日に杖殺した。識者はこれをもって魏の名を減じ、路の政を多しとした。大暦六年三月己未、官において卒した。太師を贈られた。

原文大歷二年四月,出為洪州刺史、兼御史大夫,充江南西道都團練觀察等使。四年六月,封趙國公。賈明觀者,本萬年縣捕賊小胥,事劉希暹,恃魚朝恩之勢,恣行兇忍,毒甚豺虺。朝恩、希暹既誅,元載當權,納明觀奸謀,容之,特令江西效力。明觀未出城,百姓萬眾聚於城外,皆懷磚石候之,期投擊以快意。載聞之,特令所由吏擁百姓入城內,由是獲免。在洪州二年,少遊為觀察使,承元載意茍容之。及路嗣恭代少遊,到州,即日杖殺,識者以是減魏之名,多路之政。大歷六年三月己未卒於官,贈太師。

少遊は職に居り、縁飾して務めを成し、規檢あり、人を任ずるに善く、事を集めるに果敢であった。前後四たび京尹を領し、赫々たる名は無かったが、齪齪として廉謹であり、称すべきもの足りた。

原文少遊居職,緣飾成務,有規檢,善任人,果於集事。前後四領京尹,雖無鶴赫之名,而齪齪廉謹,有足稱者。

衛伯玉

原文衛伯玉

衛伯玉は膂力あり、幼くして芸を習った。天宝中、剣を杖いて安西に至り、辺功によって累遷して員外諸衛将軍に至った。粛宗が即位し、師を興して難を靖んずると、伯玉は激憤し、功名を立てんと思い、安西より長安に帰った。初め神策軍兵馬使として出鎮した。乾元二年十月、逆賊史思明が偽将李帰仁に鉄騎三千を遣わして来犯せしめると、伯玉は数百騎をもって疆子阪においてこれを撃破し、積屍野に満ち、虜馬六百匹を得、帰仁はその党とともに東走した。功によって右羽林軍大将軍に遷り、軍事を掌った。四鎮・北庭行営節度使に転じた。俘虜百余りを闕下に献じ、詔して縛を解いてこれを赦し、伯玉を神策軍節度使に遷した。上元二年二月、史思明が衆を領して西下し長安を図ると、史朝義がその党を率いて夜に陝州を襲った。伯玉は兵をもって逆撃し、永寧において賊を大破した。賊退き、位を進めて特進とし、河東郡公に封ぜられた。

原文衛伯玉,有膂力,幼習藝。天寶中杖劍之安西,以邊功累遷至員外諸衛將軍。肅宗即位,興師靖難,伯玉激憤,思立功名,自安西歸長安。初為神策軍兵馬使出鎮。乾元二年十月,逆賊史思明遣偽將李歸仁鐵騎三千來犯,伯玉以數百騎於疆子阪擊破之,積屍滿野,虜馬六百匹,歸仁與其黨東走。以功遷右羽林軍大將軍,知軍事。轉四鎮、北庭行營節度使。獻俘百余人至闕下,詔解縛而赦之,遷伯玉神策軍節度。上元二年二月,史思明領眾西下圖長安,史朝義率其黨夜襲陜州。伯玉以兵逆擊,大破賊於永寧。賊退,進位特進,封河東郡公。

広徳元年冬、吐蕃が京師を寇し、乗輿は陝に幸した。伯玉に幹略あり、重寄に当たるべしとして、乃ち江陵尹・兼御史大夫を拝し、荊南節度観察等使を充てた。尋いで検校工部尚書を加えられ、城陽郡王に封ぜられた。大暦初め、母憂に服した。朝廷は王昂をもってその任に代えようとしたが、伯玉は潜かに将吏に諷して詔を受けさせず、遂に起復して本官をもって荊南節度等使とされ、時の議はこれを醜とした。大暦十一年二月入覲し、疾により京師にて卒した。

原文廣德元年冬,吐蕃寇京師,乘輿幸陜。以伯玉有幹略,可當重寄,乃拜江陵尹、兼御史大夫,充荊南節度觀察等使。尋加檢校工部尚書,封城陽郡王。大歷初,丁母憂,朝廷以王昂代其任,伯玉潛諷將吏不受詔,遂起復以本官為荊南節度等使,時議醜之。大歷十一年二月入覲,以疾卒於京師。

李承

原文李承

李承は趙郡高邑の人、吏部侍郎至遠の孫、国子司業畬の第二子である。承は幼くして孤となり、曄がこれを鞠養した。既に長ずると、兄に事えて孝をもって聞こえた。明経に挙げられ高第となり、累進して大理評事に至り、河南採訪使郭納の判官を充てた。尹子奇が汴州を囲み、賊に陥ると、承を拘して洛陽らくように送った。承は賊庭において、密かに奸謀を疏し、多く聞達を得た。両京が克復すると、例により撫州臨川尉に貶せられた。数月にして徳清令を除かれ、旬日にして監察御史を拝した。淮南節度使崔円が請うて留め判官を充てさせ、累遷して検校刑部員外郎・兼侍御史となった。円が卒すると、撫州・江州二刺史を歴任し、課績連ねて最であった。検校考功郎中兼江州刺史に遷り、征されて吏部郎中を拝した。尋いで淮南西道黜陟使となり、楚州に常豊堰を置いて海潮を禦し、屯田の瘠鹵を治め、歳収十倍と奏し、今に至るまでその利を受く。時に梁崇義が縦恣倨慢にして、朝廷将に討伐を加えんとす。李希烈これを知り揣り、上表して数えし崇義の過悪を、率先して誅討を請う。上これを悦び、毎たび朝臣に対し多く希烈の忠誠を称す。承は黜陟より回り、因ってこれを奏して曰く、「希烈将に兵を率いて討伐せば、必ず微勲あらん。但だ功を立てたる後、縦恣跋扈し、朝憲を稟けず、必ず王師を労して罪を問わんことを恐る」と。上初めこれを信ぜず。幾も無く、希烈既に崇義を平げ、果たして順ならざる跡あり。上承の言を思い、故に驟くに擢用を加う。建中二年七月、同州刺史・河中尹・晋絳都防禦観察使を拝す。九月、襄州刺史・山南東道節度観察塩鉄等使に転ず。希烈既に崇義を破り、兵を擁して襄州にあり、遂にその地を有す。朝廷命を受けざるを慮り、禁兵を以て承を送らんと欲す。承は単騎径行を請う。既に至るや、希烈承を外館に処し、万態を迫脅すれども、承は恬然として自ら安んじ、王事に誓いて死す。希烈屈する能わず、遂に闔境の所有を剽虜して去り、襄・漢これがために空し。承これを治めること一年、頗る完復を得たり。

原文李承,趙郡高邑人,吏部侍郎至遠之孫,國子司業畬之第二子也。承幼孤,曄鞠養之。既長,事兄以孝聞。舉明經高第,累至大理評事,充河南采訪使郭納判官。尹子奇圍汴州,陷賊,拘承送洛陽。承在賊庭,密疏奸謀,多獲聞達。兩京克復,例貶撫州臨川尉。數月除德清令,旬日拜監察御史。淮南節度使崔圓請留充判官,累遷檢校刑部員外郎、兼侍御史。圓卒,歷撫州、江州二刺史,課績連最。遷檢校考功郎中兼江州刺史,征拜吏部郎中。尋為淮南西道黜陟使,奏於楚州置常豐堰以禦海潮,屯田瘠鹵,歲收十倍,至今受其利。時梁崇義縱恣倨慢,朝廷將加討伐。李希烈揣知之,上表數崇義過惡,請率先誅討。上悅之,每對朝臣多稱希烈忠誠。承自黜陟回,因奏之曰:「希烈將兵討伐,必有微勛,但恐立功之後,縱恣跋扈,不稟朝憲,必勞王師問罪。」上初未之信。無幾,希烈既平崇義,果有不順之跡,上思承言,故驟加擢用。建中二年七月,拜同州刺史、河中尹、晉絳都防禦觀察使。九月,轉襄州刺史、山南東道節度觀察鹽鐵等使。希烈既破崇義,擁兵襄州,遂有其地。朝廷慮不受命,欲以禁兵送承,承請單騎徑行。既至,希烈處承於外館,迫脅萬態,承恬然自安,誓死王事。希烈不能屈,遂剽虜闔境所有而去,襄、漢為之空。承治之一年,頗得完復。

初め、希烈は蔡州に帰りながらも、将校らを襄州に留めて当時掠め得た財帛什物等を守らせ、後に襄・漢に使いし、往来絶えず。承も亦腹心の臧叔雅をして許・蔡に往来せしめ、厚く希烈の腹心周曾・王玢・姚憺等と結ばしむ。曾等が希烈を謀殺し、衆を以て朝に帰さんと謀るは、多く承の首に謀を建つる所なり。累たび密詔を賜い褒美す。承は尋いで検校工部尚書に改められ、兼ねて潭州刺史・湖南都団練観察使となる。建中四年七月、位において卒す。年六十二。吏部尚書を贈られる。承は少くして雅望あり、その官に従うに至り、頗る貞廉才術をもって時に称せらる。

原文初,希烈雖歸蔡州,留將校等於襄州守當時所掠得財帛什物等,後使襄、漢,往來不絕。承亦使腹心臧叔雅往來許、蔡,厚結希烈腹心周曾、王玢、姚憺等。及曾等謀殺希烈,以眾歸朝,多承首建謀也。累賜密詔褒美之。承尋改檢校工部尚書,兼潭州刺史、湖南都團練觀察使。建中四年七月,卒於位,年六十二,贈吏部尚書。承少有雅望,至其從官,頗以貞廉才術見稱於時。

【賛】

原文【贊】

史臣曰く、古より酷吏濫刑、幸免する者多し。苟くも強魂祟りを為さずんば、議を沮む者は惑わん。器は深文楽禍、官に居り令終す。達奚の冤を訴うる無くんば、以てその陰責を顕すこと無からん。国珍は黔溪を守り、瓘は礼法を修め、括は誠を推して下を馭し、元甫は政を為すに寛簡、少遊は規檢して事を集め、皆称すべき者なり。伯玉は敵を破り功を立て、足って猛士と為す。丁憂して寵を冒す、終には武夫なり。承は忠愨謀議、勤労して瘁を尽くす、これに方うる者鮮し。

原文史臣曰:自古酷吏濫刑,幸免者多矣,茍無強魂為祟,沮議者惑焉。器深文樂禍,居官令終,非達奚訴冤,無以顯其陰責矣。國珍守黔溪,瓘修禮法,括推誠馭下,元甫為政寬簡,少遊規檢集事,皆可稱者。伯玉破敵立功,足為猛士,丁憂冒寵,終是武夫。承忠愨謀議,勤勞盡瘁,方之者鮮矣。

賛して曰く、崔器深文、達奚祟りを作す。七子伊何、李承最も為る。

原文贊曰:崔器深文,達奚作祟。七子伊何?李承為最。