舊唐書

巻112

巻112

舊唐書

原文舊唐書

卷一百一十二

原文卷一百一十二

列傳第六十二 李暠 李麟 李國貞 李峘 李巨

原文列傳第六十二 李暠 李麟 李國貞 李峘 李巨

李暠の族弟 斉物、斉物の子 復、暠の族弟 若水

原文○李暠族弟齊物齊物子復暠族弟若水

李麟、李国貞とその子 錡

原文李麟李國貞子锜

李峘と弟の嶧・峴

原文李峘弟嶧峴

李巨とその子 則之

原文李巨子則之

李暠

原文李暠

李暠は、淮安王 神通の玄孫、清河王 孝節の孫である。暠は幼くして孤となり、母に仕えること甚だ謹み深かった。睿宗の時、累転して衛尉少卿となった。父の喪に服して官を去り、喪中は憔悴して骨と皮ばかりとなり、家人や親しい親戚もその言笑を窺うことがなかった。開元初め、汝州刺史を授けられ、政は厳にして簡、州内は粛然とした。兄の昇、弟の暈と特に篤く睦まじく、昇らは毎月東都から暠を訪ね、往来は微行し、州人はそれと気づかず、その清廉謹慎はこのようなものであった。まもなく召されて太常少卿となり、三遷して黄門侍郎、太原尹を兼ね、なお太原以北諸軍節度使を充てた。太原の旧俗に、禅を習うことを業とする僧徒があり、死ぬと殯せず、ただ屍を近郊に送って鳥獣に飼うものがあった。このように積み重なる年、土地の人はその地を「黄坑」と号した。傍らには飢えた狗が数千匹おり、死人肉を食い、それにより幼弱を侵害し、遠近これを患い、前後の官吏も禁止できなかった。暠が官に着くと、礼法を明らかにし、再犯しないことを期し、兵を発して群狗を捕殺し、その風習は遂に改まった。久しくして太常卿に転じ、十日後、工部尚書・東都留守を拝した。

原文李暠,淮安王神通玄孫,清河王孝節孫也。暠少孤,事母甚謹。睿宗時,累轉衛尉少卿。丁憂去職,在喪柴毀,家人密親未嘗窺其言笑。開元初,授汝州刺史,為政嚴簡,州境肅然。與兄昇弟暈,尤相篤睦,昇等每月自東都省暠,往來微行,州人不之覺,其清慎如此。俄入授太常少卿,三遷黃門侍郎,兼太原尹,仍充太原已北諸軍節度使。太原舊俗,有僧徒以習禪為業,及死不殮,但以屍送近郊以飼鳥獸。如是積年,土人號其地為「黃坑」。側有餓狗千數,食死人肉,因侵害幼弱,遠近患之,前後官吏不能禁止。暠到官,申明禮憲,期不再犯,發兵捕殺群狗,其風遂革。久之,轉太常卿,旬日,拜工部尚書、東都留守。

開元二十一年正月、詔制して言う、「よしみを継ぐの義は、辺鄙に属するといえども、命を受けて出づるには、必ず親賢に在らしむ。事を当時に重んぜんと欲し、礼故に殊俗に崇ぶ、衆を選ぶの挙、宗英に出でず。工部尚書 李暠は、体に柔嘉を含み、識致明允、公族の領袖たり、朝廷の羽儀なり。金城公主既に蕃中に在り、漢庭の公卿、専対無きに非ず、遠きに懐く有り、夫れ豈に忘れんや、宜しく節を持ちて吐蕃に入る使を充て、式に準じて発遣すべし」。国信物一万匹、私覿物二千匹を以て、皆五彩を雑えてこれに遣わした。帰還するに及んで、金城公主が上言し、今年九月一日に赤嶺に碑を樹て、蕃・漢の界を定めんことを請うた。碑を樹てる日、詔して張守珪・李行袆をして吐蕃使の莽布支とともに往き観させた。既にして吐蕃はその臣を遣わし、漢使に随いて分かれて剣南及び河西・磧西に往き、歴て辺州に告げて言う、「両国和好し、侵掠相い無し」。漢使の告げることもまたこれの如くであった。暠が使を奉じて職に称うるを以て、吏部尚書に転じた。当時、吏部の告身の印と曹の印の文が同じで、行用が参雑し、区分し難かった。暠は奏請して、司勲・兵部の印文の例に準じ、「官告」の二字を加えることを請い、今日までこれを行っている。

原文開元二十一年正月,制曰:「繼好之義,雖屬邊鄙;受命以出,必在親賢。事欲重於當時,禮故崇於殊俗,選眾之舉,無出宗英。工部尚書李暠,體含柔嘉,識致明允,為公族之領袖,是朝廷之羽儀。金城公主既在蕃中,漢庭公卿非無專對,有懷於遠,夫豈能忘,宜持節充入吐蕃使,準式發遣。」以國信物一萬匹、私覿物二千匹,皆雜以五彩遣之。及還,金城公主上言,請以今年九月一日樹碑於赤嶺,定蕃、漢界。樹碑之日,詔張守珪、李行袆與吐蕃使莽布支同往觀焉。既而吐蕃遣其臣隨漢使分往劍南及河西、磧西,歷告邊州曰:「兩國和好,無相侵掠。」漢使告亦如之。以暠奉使稱職,轉吏部尚書。時吏部告身印與曹印文同,行用參雜,難以區分,暠奏請準司勛兵部印文例,加「官告」兩字,至今行之。

暠は風儀秀整、歴任した所皆威重をもって称せられ、朝廷はその宰相たるの望有りと称した。累封して武都県伯となり、まもなく太子少傅となった。病没、年六十余、益州大都督ととくを贈られた。

原文暠風儀秀整,所歷皆以威重見稱,朝廷稱其有宰相之望。累封武都縣伯,俄為太子少傅。病卒,年六十余,贈益州大都督。

族弟 斉物

原文族弟 齊物

斉物は、淮安王 神通の子、塩州刺史 鋭の孫である。斉物は学術無く、官にあっては厳整であった。開元二十四年の後、懐・陝二州刺史を歴任した。斉物は天宝初めに砥柱の険を開き、流運を通じさせ、石中に古い鉄の犁鏵を得て、「平陸」の字有り、これにより河北県を平陸県と改め、斉物に銀青光禄大夫を加え、鴻臚卿・河南尹とした。斉物は右相 李適之と善くし、適之が李林甫に構えられて貶官されると、斉物は連座して竟陵太守に謫せられた。召されて司農・鴻臚卿となった。至徳初め、太子賓客を拝し、刑部尚書・鳳翔尹・太常卿・京兆尹に遷った。政を行うに官吏の陰事を発し、察するを能とし、物に恩少なく、しかも清廉自ら飭い、人吏敢えて抵犯する者無し。晚年に太子太傅・宗正卿を兼ねた。上元二年五月卒、朝を輟むこと一日。詔して言う、「故 金紫光禄大夫・太子太傅・兼宗正卿 斉物は、宗室の珪璋、士林の楨幹、清廉独断、剛毅不群。歴践周行、中外に備経し、威名益振い、忠效弥に彰る。三たび神州を尹し、一たび会府に登り、奸を擒うるに鉤距の術を掩い、獄を恤むるに喉舌の官を正す。遂に調護儲闈を令し、再び師傅に登り、賓友に従容し、官僚を師長す。桑榆の時、壮志逾いに励み、松柏の性、晚歳常に堅し。天、慭遺せず、奄然に殂謝す、親を念い旧を感ず、深く懐に軫す。宜しく寵章を錫い、載せて営魄を光らすべし。太子太師を贈るべし」。

原文齊物,淮安王神通子、鹽州刺史銳孫也。齊物無學術,在官嚴整。開元二十四年後,歷懷、陜二州刺史。齊物天寶初開砥柱之險,以通流運,於石中得古鐵犁鏵,有「平陸」字,因改河北縣為平陸縣,加齊物銀青光祿大夫,為鴻臚卿、河南尹。齊物與右相李適之善,適之為林甫所構貶官,齊物坐謫竟陵太守。入為司農、鴻臚卿。至德初,拜太子賓客,遷刑部尚書、鳳翔尹、太常卿、京兆尹。為政發官吏陰事,以察為能,於物少恩,而清廉自飭,人吏莫敢抵犯。晚年除太子太傅、兼宗正卿。上元二年五月卒,輟朝一日。詔曰:「故金紫光祿大夫、太子太傅、兼宗正卿齊物,宗室珪璋,士林楨幹,清廉獨斷,剛毅不群。歷踐周行,備經中外,威名益振,忠效彌彰。三尹神州,一登會府,擒奸掩鉤距之術,恤獄正喉舌之官。遂令調護儲闈,再登師傅,從容賓友,師長官僚。桑榆之時,壯誌逾勵;松柏之性,晚歲常堅。天不慭遺,奄然殂謝,念親感舊,深軫於懷。宜錫寵章,載光營魄。可贈太子太師。」

斉物の子 復

原文齊物子 復

子の復は、字は初陽、父の蔭により累官して江陵府司録に至った。吏道に精曉し、衛伯玉は厚く遇し、府中の事、多く以て諮問委任した。性苛刻、伯玉に信ぜられ、奏して江陵県令と為し、少尹に遷り、饒州・蘇州刺史を歴任し、皆政声著しかった。李希烈が背叛し、荊南節度使 張伯儀が数度出兵し、希烈に敗れ、朝廷これを憂えた。復が久しく江陵に在り、軍民の心を得ていることを以て、復は方や母の喪中に在ったが、起用して江陵少尹・兼御史中丞と為し、節度行軍司馬を充てた。伯儀が既に交代を受けると、復を容州刺史・兼御史中丞と為し、本管招討使を充て、検校常侍を加えた。先に西原が叛乱し、前後の経略使が反者を征討し、その人を獲れば皆官奴婢に没し、作坊の重役に配していたが、復は乃ちその親属を訪わせ、悉く帰還させた。容州に三年在り、南人は安んじて喜んだ。広州刺史・兼御史大夫・嶺南節度観察使に遷った。時に安南経略使 高正平・張応が相次いで官において卒し、その下の参佐偏裨 李元度・胡懐義らが兵を阻み、州県を黷乱し、奸贓狼藉であった。復は懐義を誘って杖殺し、元度を荒裔に流すことを奏した。また百姓を勧導し、茅屋を瓦舎に変えさせた。瓊州は久しく蛮獠の中に陥っていたが、復は累遣使してこれを諭し、因って奏して瓊州都督府を置き以て綏撫した。復は政道に明るく、所在理を称えられ、征されて宗正卿に拝し、検校工部尚書を加えられた。一年に満たず、時に華州節度使 李元諒が卒し、復を華州刺史・潼関防禦鎮国軍使と為し、なお検校戸部尚書、兼御史大夫とした。

原文子復,字初陽,以父廕累官至江陵府司錄。精曉吏道,衛伯玉厚遇之,府中之事,多以咨委。性苛刻,為伯玉所信,奏為江陵縣令,遷少尹,歷饒州、蘇州刺史,皆著政聲。李希烈背叛,荊南節度張伯儀數出兵,為希烈所敗,朝廷憂之。以復久在江陵,得軍民心,復方在母喪,起為江陵少尹、兼御史中丞,充節度行軍司馬。伯儀既受代,以復為容州刺史、兼御史中丞,充本管招討使,加檢校常侍。先時西原叛亂,前後經略使征討反者,獲其人皆沒為官奴婢,配作坊重役,復乃令訪其親屬,悉歸還之。在容州三歲,南人安悅。遷廣州刺史、兼御史大夫、嶺南節度觀察使。會安南經略使高正平、張應相次卒官,其下參佐偏裨李元度、胡懷義等阻兵,黷亂州縣,奸贓狼藉。復誘懷義杖殺之,奏元度流於荒裔。又勸導百姓,令變茅屋為瓦舍。瓊州久陷於蠻獠中,復累遣使喻之,因奏置瓊州都督府以綏撫之。復曉於政道,所在稱理,征拜宗正卿,加檢校工部尚書。未一歲,會華州節度李元諒卒,以復為華州刺史、潼關防禦鎮國軍使,仍檢校戶部尚書,兼御史大夫。

貞元十年、鄭滑節度使 李融が卒し、軍中潰乱した。復を検校兵部尚書、兼滑州刺史・義成軍節度・鄭滑観察営田等使・兼御史大夫とした。復が任に着くと、営田数百頃を置き、以て軍食を資し、民に率いず、衆皆これを悦んだ。十二年、検校左僕射を加えられた。十三年四月、官において卒し、年五十九。朝を廃すること三日、司空しくうを贈られた。賻として布帛米粟差有り。復は久しく方面を典とし、財を積むこと頗る甚だしく、時に譏られるところとなった。

原文貞元十年,鄭滑節度使李融卒,軍中潰亂,以復檢校兵部尚書,兼滑州刺史、義成軍節度、鄭滑觀察營田等使、兼御史大夫。復到任,置營田數百頃,以資軍食,不率於民,眾皆悅之。十二年,加檢校左僕射。十三年四月卒官,年五十九。廢朝三日,贈司空。賻布帛米粟有差。復久典方面,積財頗甚,為時所譏。

斉物の族弟 若水

原文齊物族弟 若水

若水は、斉物の族弟にして、累官して左金吾大将軍に至り、通事舎人を兼ねた。容貌は甚だ偉く、館中に三十年在り、旧儀を多く識り、毎に宣労し賛導するに、周旋俯仰、観るべきもの有り。建中元年八月卒す。

原文若水,齊物族弟,累官至左金吾大將軍,兼通事舍人。容貌甚偉,在館三十年,多識舊儀,每宣勞贊導,周旋俯仰,有可觀者。建中元年八月卒。

李麟

原文李麟

李麟は、皇室の疏属にして、太宗の従孫なり。父は浚、開元初め十道按察使を置き、吏才を精選し、浚を以て潤州刺史・江南東道按察使と為す。転じて虢・潞二州刺史、益州大都督府長史・摂御史大夫・剣南節度按察使と為る。歴任する所に誠信を以て物に接し、良吏と称せらる。八年卒し、戸部尚書を贈られ、謚して誠と曰う。

原文李麟,皇室之疏屬,太宗之從孫也。父浚,開元初置十道按察使,精選吏才,以浚為潤州刺史、江南東道按察使。轉虢潞二州刺史,益州大都督府長史、攝御史大夫、劍南節度按察使。所歷以誠信待物,稱為良吏。八年卒,贈戶部尚書,謚曰誠。

麟は父の任により職を補し、累授して京兆府戸曹と為る。開元二十二年、宗室の異能に挙げられ、殿中侍御史に転じ、戸部・考功・吏部の三員外郎を歴任す。天宝元年、郎中に遷り、尋いで諫議大夫に改む。五載、河西・隴右・磧西等道黜陟使を充て、旨に称し、給事中に遷る。七載、兵部侍郎に遷る。同列の楊国忠権を専らにし、麟の同職を悦ばず、宰臣麟を奏して本官を以て礼部貢挙を権知せしむ。俄にして国忠御史大夫と為り、麟は本官に復す。十一載、銀青光禄大夫・国子祭酒に遷る。十四年七月、本官を以て出でて河東太守・河東道採訪使と為り、政を清簡に為し、民吏之を称す。其の年冬、禄山逆を構う。朝廷麟を儒者と以て、恐らくは禦侮の用に非ざるを、仍て将軍呂崇賁を以て代え還らしむ。復た祭酒を以て朝に帰し、渭源県男の爵を賜う。六月、玄宗蜀しょくに幸す。麟行在に奔赴す。既に成都に至り、戸部侍郎を拝し、左丞を兼ぬ。憲部尚書に遷る。至徳二年正月、同中書門下平章事を拝す。時に扈従の宰相韋見素・房琯・崔渙已に鳳翔に赴き、俄にして崔円継ぎ去る。玄宗麟を宗室の子と以て、独り之を留め、行在の百司、麟其の事を総摂す。其の年十一月、上皇に従い京に還り、勲を策し賞を行い、金紫光禄大夫・刑部尚書・同中書門下三品を加え、褒国公に進封さる。

原文麟以父任補職,累授京兆府戶曹。開元二十二年,舉宗室異能,轉殿中侍御史,歷戶部、考功、吏部三員外郎。天寶元年,遷郎中,尋改諫議大夫。五載,充河西、隴右、磧西等道黜陟使,稱旨,遷給事中。七載,遷兵部侍郎。同列楊國忠專權,不悅麟同職,宰臣奏麟以本官權知禮部貢舉。俄而國忠為御史大夫,麟復本官。十一載,遷銀青光祿大夫、國子祭酒。十四年七月,以本官出為河東太守、河東道采訪使,為政清簡,民吏稱之。其年冬,祿山構逆,朝廷以麟儒者,恐非禦侮之用,仍以將軍呂崇賁代還。復以祭酒歸朝,賜爵渭源縣男。六月,玄宗幸蜀,麟奔赴行在。既至成都,拜戶部侍郎,兼左丞。遷憲部尚書。至德二年正月,拜同中書門下平章事。時扈從宰相韋見素、房琯、崔渙已赴鳳翔,俄而崔圓繼去,玄宗以麟宗室子,獨留之,行在百司,麟總攝其事。其年十一月,從上皇還京,策勛行賞,加金紫光祿大夫、刑部尚書、同中書門下三品,進封褒國公。

時に張皇后朝政に干預し、殿中監李輔国は翊衛して肅宗に労するを以て、天下兵馬事を判じ、元帥府行軍司馬を充て、勢同朝に傾く。宰相苗晋卿・崔円已下其の威権を懼れ、心を傾けて之に事う。唯だ麟は身を正しく事を謹み、依附する所無し。輔国悦ばず。乾元元年、麟の政事を知るを罷め、太子少傅を守らしむ。二年八月卒す。時に年六十六、太子太傅を贈られ、賻として絹二百匹を賜う。葬日の詔に、京兆府に官を差し護送せしめ、官に須う所を給せしむ。麟は学を好み文能くし、嘗て皇朝已来の制集五十巻を編聚し、時に行わる。

原文時張皇后干預朝政,殿中監李輔國以翊衛肅宗之勞,判天下兵馬事,充元帥府行軍司馬,勢傾同朝。宰相苗晉卿、崔圓已下懼其威權,傾心事之,唯麟正身謹事,無所依附,輔國不悅。乾元元年,罷麟知政事,守太子少傅。二年八月卒,時年六十六,贈太子太傅,賻絹二百匹。葬日,詔京兆府差官護送,官給所須。麟好學能文,嘗編聚皇朝已來制集五十卷,行於時。

李国貞

原文李國貞

李国貞は、淮安王神通の子、淄川王孝同の曾孫なり。父は広業、剣州長史。国貞は本名を若幽と為し、性剛正にして吏才有り、安定・扶風の録事参軍を歴任し、皆称職す。乾元中累遷して長安ちょうあん令と為り、尋いで河南尹を拝す。会に史思明城に逼る。元帥李光弼東に河陽を保つ。国貞官吏を領して陜に寓す。数月、征せられて京兆尹と為る。上元初め、成都尹に改め、御史大夫を兼ね、剣南節度使を充てる。入りて殿中監と為る。二年八月、戸部尚書に遷り、御史大夫を兼ね、節を持ちて朔方・鎮西・北庭・興平・陳鄭等節度行営兵馬及び河中節度都統処置使を充て、絳に鎮し、名を国貞と賜う。既に至り、又た管内河中・晋・絳・慈・隰・沁等州観察処置等使を充て加えらる。余は並びに旧に如し。

原文李國貞,淮安王神通子、淄川王孝同之曾孫。父廣業,劍州長史。國貞本名若幽,性剛正,有吏才,歷安定、扶風錄事參軍,皆稱職。乾元中累遷長安令,尋拜河南尹。會史思明逼城,元帥李光弼東保河陽,國貞領官吏寓於陜。數月,征為京兆尹。上元初,改成都尹、兼御史大夫,充劍南節度使。入為殿中監。二年八月,遷戶部尚書、兼御史大夫,持節充朔方、鎮西、北庭、興平、陳鄭等節度行營兵馬及河中節度都統處置使,鎮於絳,賜名國貞。既至,又加充管內河中、晉、絳、慈、隰、沁等州觀察處置等使,余並如故。

国貞既に絳に至り、軍中素より儲積無きに属し、百姓饑饉し、聚斂を為し難く、将士等の糧賜多く闕く。国貞頻りに状を以て聞くも、未だ報ぜず。軍中喧喧として怨み言う。左右以て国貞に告ぐ。国貞之を諭して曰く、「軍将何ぞ苦しむこと是の如き、已に奏聞せり、終に給する所あらん」と。信宿して軍乱れ、国貞を攻め、夜に衙城の門を焼く。国貞図る所を知らず。左右国貞に城を棄て遁去せんことを勧む。国貞曰く、「吾命を銜みて将と為り、難を靖むる能わず、安ぞ城を棄てんや」と。左右固く回避を勧む。乃ち州獄に隠れ、詐りて縲紲を負う。会に国貞の麾下賊に擒えらるるに因り、指して所在をす。遂に獄中に於て国貞を執り、将に之を害せんとす。国貞曰く、「軍中糧乏し、已に陳請有り、人賦に堪えず、予将士に負う所無きのみ」と。衆引き退く。突将王元振独り曰く、「今日の事、豈に問うを須いんや」と。刀を抽いて国貞及び二男・三大将を害す。

原文國貞既至絳,屬軍中素無儲積,百姓饑饉,難為聚斂,將士等糧賜多闕。國貞頻以狀聞,未報。軍中喧喧怨讀,左右以告國貞,國貞喻之曰:「軍將何苦如是,已為奏聞,終有所給。」信宿軍亂,攻國貞,夜燒衙城門。國貞莫知所圖,左右勸國貞棄城遁去,國貞曰:「吾銜命為將,不能靖難,安可棄城乎!」左右固勸回避,乃隱於州獄,詐負縲紲。會國貞麾下為賊所擒,因指所在,遂於獄中執國貞,將害之,國貞曰:「軍中乏糧,已有陳請,人不堪賦,予無負於將士耳。」眾引退。突將王元振獨曰:「今日之事,豈須問焉!」抽刀害國貞及二男、三大將。

国貞は風采有り、清白に法を守り、政を為すに操下を急にす。時論之を弁吏と称す。揚州大都督を追贈さる。

原文國貞有風采,清白守法,為政急於操下,時論以辨吏稱之。追贈揚州大都督。

子の錡は、父の廕により貞元中累りて湖・杭二州刺史に至る。多く宝貨を以て李斉運に賂り、是に由り潤州刺史に遷り塩鉄使を兼ね、積財を把り進奉し、以て恩沢を結ぶ。徳宗甚だ之を寵す。錡は恩に恃み驕恣し、浙西人の布衣崔善貞闕に詣で封事を上り、錡の罪状を論ず。而して徳宗は械送して錡に賜う。錡遂に善貞を坑殺す。天下切歯す。乃ち兵額を増置し、善く弓矢する者を選びて之を一営に聚め、名づけて「挽硬随身」と曰う。胡・奚の雑類にして虬須なる者を以て一将と為し、名づけて「蕃落健児」と曰う。徳宗復た潤州に鎮海軍を置き、錡を以て節度使と為し、其の塩鉄使務を罷む。錡は其の利権を罷めらるるも、且つ節度を得、反状未だ発せず。

原文子锜,以父廕貞元中累至湖、杭二州刺史。多以寶貨賂李齊運,由是遷潤州刺史兼鹽鐵使,持積財進奉,以結恩澤,德宗甚寵之。锜恃恩驕恣,有浙西人布衣崔善貞詣闕上封,論锜罪狀,而德宗械送賜锜,锜遂坑殺善貞,天下切齒。乃增置兵額,選善弓矢者聚之一營,名曰「挽硬隨身」;以胡、奚雜類虬須者為一將,名曰「蕃落健兒」。德宗復於潤州置鎮海軍,以锜為節度使,罷其鹽鐵使務。锜雖罷其利權,且得節度,反狀未發。

憲宗即位已に二年、諸道の倔強なる者朝に入る。而して錡自ら安からず、亦た朝入を請う。乃ち錡に左僕射を拝す。錡乃ち判官王淡を署して留後と為す。既にして発期を遷延す。淡と中使頻りに之を諭すも、悦ばず。遂に将士に諷して冬衣を給する日に淡を殺して之を食わしむ。監軍使乱を聞き、衙将趙錡を遣わし慰諭す。又た臠にして之を食う。復た兵を以て中使の頸に註ぐ。錡佯りて驚き救い之を解き、別館に囚う。遂に兵を称し、五剣を飾り、管内の鎮将に分授し、刺史を殺さしむ。是に於て常州刺史顔防は客の李雲の謀を用い、制を矯りて檄を蘇・杭・湖・睦等州に伝え、遂に其の鎮将李深を殺す。湖州の辛秘も亦た其の鎮将趙惟忠を殺す。而して蘇州刺史李素は鎮将姚誌安に系せられ、船舷に釘さる。生きたるまま錡に致さる。未だ至らざるに錡敗れ、免るるを得。

原文憲宗即位已二年,諸道倔強者入朝,而锜不自安,亦請入朝,乃拜锜左僕射。锜乃署判官王淡為留後。既而遷延發期,淡與中使頻喻之,不悅,遂諷將士以給冬衣日殺淡而食之。監軍使聞亂,遣衙將趙锜慰喻,又臠食之。復以兵註中使之頸,锜佯驚救解之,囚於別館。遂稱兵,飾五劍,分授管內鎮將,令殺刺史。於是常州刺史顏防用客李雲謀,矯制傳檄於蘇、杭、湖、睦等州,遂殺其鎮將李深;湖州辛秘亦殺其鎮將趙惟忠;而蘇州刺史李素為鎮將姚誌安所系,釘於船舷,生致於锜,未至而锜敗,得免。

初め、錡は宣州の富饒を以てし、並呑の意有り、兵馬使張子良・李奉仙・田少卿に兵三千を領せしめて分かち宣・池等州を略せしむ。三将夙に向順の志有り。而して錡の甥裴行立も亦た向順を思う。其の密謀多く行立に決す。乃ち戈を回らして城に趣き、幕中に於て錡を執り、縋りて之を出し、闕下に斬る。年六十七。其の「挽硬」「蕃落」の将士は、或いは井に投じ自縊し、紛紛として枕藉して死する者、勝え紀す可からず。

原文初,锜以宣州富饒,有並吞之意,遣兵馬使張子良、李奉仙、田少卿領兵三千分略宣、池等州。三將夙有向順誌,而锜甥裴行立亦思向順,其密謀多決於行立,乃回戈趣城,執锜於幕,縋而出之,斬於闕下,年六十七。其「挽硬」、「蕃落」將士,或投井自縊,紛紛枕藉而死者,不可勝紀。

宰相鄭絪らが李錡の罪に連座すべき親族の範囲を議論したが、親疏の定めが未だ定まらなかったので、兵部郎中蔣武を召して問うて言うには、「詔勅で李錡一房を罪するというのは、大功の親族の内に当たるのか」と。蔣武が言うには、「大功とは錡の従兄弟のことで、即ち淮安王李神通の子孫にあたります。淮安王は国家に対して大功があり、その末裔の罪によって上に累を及ぼすことはできません」と。また問うて、「錡の実の兄弟は連座すべきか」と。蔣武が言うには、「錡の実の兄弟は李若幽の子です。若幽は王事のために死んだ功績があります。もし今、錡の兄弟を連座させるとすれば、若幽の功績も削除されねばならず、これもまた妥当とは思えません」と。宰相は大いに道理があると思い、故に李錡を誅する詔が下った時には、ただ元凶の一房のみに止めたのである。

原文宰相鄭絪等議锜所坐,親疏未定,乃召兵部郎中蔣武問曰:「詔罪李锜一房,當是大功內耶?」武曰:「大功是锜堂兄弟,即淮安王神通之下,淮安有大功於國,不可以孽孫而上累。」又問:「锜親兄弟從坐否?」武曰:「锜親兄弟是若幽之子,若幽有死王事之功,如令锜兄弟從坐,若幽即宜削籍,亦所未安。」宰相頗以為然,故誅锜詔下,唯止元惡一房而已。

李峘

原文李峘

李峘は、太宗の第三子吳王李恪の孫である。恪の第三子李琨が信安王李祎を生み、祎が三人の子を生んだ。峘、嶧、峴である。峘は志操と行いを修め確立し、天宝年間に南宮郎となり、諸曹を歴任して十余年を経た。父の喪に服した時は、哀哭して礼に適い、喪が明けた後、郡王の子の例によって趙国公に封ぜられた。楊国忠が政権を握ると、郎官で己に附かない者は悉く外任に出され、峘は考功郎中から出されて睢陽太守となった。間もなく弟の峴が魏郡太守として出され、兄弟は黄河を挟んで郡を治め、皆その治績で称えられた。十四載、京師に上計した。安禄山の乱に遭遇し、玄宗が蜀に幸すると、峘は行在所に奔赴し、武部侍郎を除され、御史大夫を兼ねた。やがて蜀郡太守・剣南節度采訪使に拝された。上皇が成都におられた時、健児の郭千仞が夜に謀叛を企てた。上皇は玄英楼に臨んで招諭されたが、従わなかったので、峘は六軍兵馬使陳玄礼らとこれを平定し、功により金紫光禄大夫を加えられた。当時、峴は鳳翔太守として、粛宗を輔佐し、兄弟共に勲功を尽くした。上皇に従って京に還り、戸部尚書となり、峴は御史大夫となり、京兆尹を兼ね、梁国公に封ぜられた。兄弟同時に詔書を受けて国公に封ぜられたのである。

原文李峘,太宗第三子吳王恪之孫。恪第三子琨生信安王祎,祎生三子:峘、嶧、峴。峘誌行修立,天寶中為南宮郎,歷典諸曹十余年。居父喪,哀毀得禮,服闋,以郡王子例封趙國公。楊國忠秉政,郎官不附己者悉出於外,峘自考功郎中出為睢陽太守。尋而弟峴出為魏郡太守,兄弟夾河典郡,皆以理行稱。十四載,入計京師。屬祿山之亂,玄宗幸蜀,峘奔赴行在,除武部侍郎,兼御史大夫。俄拜蜀郡太守、劍南節度采訪使。上皇在成都,健兒郭千仞夜謀亂,上皇禦玄英樓招諭,不從,峘與六軍兵馬使陳玄禮等平之,以功加金紫光祿大夫。時峴為鳳翔太守,匡翊肅宗,兄弟俱效勛力。從上皇還京,為戶部尚書,峴為御史大夫,兼京兆尹,封梁國公。兄弟同制封公。

乾元初め、御史大夫を兼ね、節を持ち淮南・江南・江西節度・宣慰・観察処置等使を都統した。二年、宋州刺史劉展が河南に兵を握り、異心を抱いていると、陽に劉展を淮南節度使に拝する一方で、密かに揚州長史鄧景山に詔して峘と図らせた。当時、劉展の徒党は正に勢い盛んで、詔を受けるや、直ちに兵を率いて淮を渡った。景山と峘は寿春でこれを防いだが、劉展に敗れた。峘は走って江を渡り、丹陽を守ったが、罪に坐して袁州司馬に貶された。宝応二年、貶所で病没し、揚州大都督を追贈され、官が駅伝の車馬を給し、柩を護って京に還した。

原文乾元初,兼御史大夫,持節都統淮南、江南、江西節度、宣慰、觀察處置等使。二年,以宋州刺史劉展握兵河南,有異志,乃陽拜展淮南節度使,而密詔揚州長史鄧景山與峘圖之。時展徒黨方強,既受詔,即以兵渡淮。景山、峘拒之壽春,為展所敗。峘走渡江,保丹陽,坐貶袁州司馬。寶應二年,病卒於貶所,追贈揚州大都督,官給遞乘,護柩還京。

初め、峘が戸部尚書、峴が吏部尚書・知政事、嶧が戸部侍郎・銀青光禄大夫であった時、兄弟は長興里の邸宅に同居し、門に三本の戟を列ねた。両国公の門は十六戟、一・三品の門は十二戟であるから、その栄耀は当時に冠たるものであった。嶧の官位は蜀州刺史で終わった。

原文初,峘為戶部尚書,峴為吏部尚書、知政事,嶧為戶部侍郎、銀青光祿大夫,兄弟同居長興裏第,門列三戟,兩國公門十六戟,一、三品門十二戟,榮耀冠時。嶧位終蜀州刺史。

李峴は、善を楽しみ士に下り、若い時から吏務の才幹があった。門蔭によって仕官し、累遷して高陵令となり、政術で知られた。特に抜擢されて万年令・河南少尹・魏郡太守となり、入朝して金吾将軍に遷り、将作監に転じ、京兆府尹に改められ、在任する所全てに名声と実績を著した。天宝十三載、六十余日雨が続き、宰臣楊国忠はその己に附かないことを憎み、雨災を京兆尹の責に帰して、長沙郡太守に出した。当時、京師では米麦の価格が高騰し、百姓が謡って言うには、「米粟の価を賤く得んと欲せば、李峴を追い返すに過ぎず」と。その政治が人心を得たのはこのようなものであった。至徳初め、朝廷は才傑を収めて寇難を清めようと務め、峴を行在所に召し、扶風太守・兼御史大夫に拝した。至徳二年十二月、制書に曰く、「銀青光禄大夫・守礼部尚書李峴は、軍に糧餉を周給し、物を開き務めを成す。光禄大夫と為し、行御史大夫と為し、京兆尹を兼ね、梁国公に封ずべし」と。乾元二年、制書に曰く、「李峴は朝廷の碩徳、宗室の藎臣なり。中書侍郎・同中書門下平章事と為すべし」と。呂諲・李揆・第五琦と同時に宰相に拝された。峴の位望は稍々高く、軍国大事について諸公は敢えて言わず、皆独り峴によって決断されたので、これによって呂諲らはこれを恨んだ。

原文峴,樂善下士,少有吏幹。以門廕入仕,累遷高陵令,政術知名。特遷萬年令、河南少尹、魏郡太守;入為金吾將軍,遷將作監,改京兆府尹,所在皆著聲績。天寶十三載,連雨六十余日,宰臣楊國忠惡其不附己,以雨災歸咎京兆尹,乃出為長沙郡太守。時京師米麥踴貴,百姓謠曰:「欲得米粟賤,無過追李峴。」其為政得人心如此。至德初,朝廷務收才傑,以清寇難,峴召至行在,拜扶風太守、兼御史大夫。至德二年十二月,制曰:「銀青光祿大夫、守禮部尚書李峴,饋軍周給,開物成務。可光祿大夫,行御史大夫,兼京兆尹,封梁國公。」乾元二年,制曰:「李峴朝廷碩德,宗室藎臣。可中書侍郎、同中書門下平章事。」與呂諲、李揆、第五锜同拜相。峴位望稍高,軍國大事,諸公莫敢言,皆獨決於峴,由是諲等銜之。

初め、李輔国が行軍司馬を判じ、密かに官軍に命じて民間で是非を探り察させ、これを察事と称した。忠良で誣構される者が相次ぎ、追呼がある時は、諸司は敢えて抗う者なく、御史台・大理寺の重囚が獄にあって推断が未だ了わないのに、牒によって銀台に追い出され、軽重を問わず一時に釈放され、敢えて違う者はいなかった。毎日銀台門で天下の事を決し、処分を要すれば、便りに制勅と称し、禁中の符印を悉く佩いて出入りした。仮に勅があっても、輔国が押署して、その後施行された。峴が宰相となると、頭を叩いて輔国の専権乱国を論じ、上は悟り、峴の正直を賞して、事は一変した。輔国はこれによって行軍司馬を辞し、本官に帰ることを請い、察事などは共に停止され、これによって深く峴を怨んだ。

原文初,李輔國判行軍司馬,潛令官軍於人間聽察是非,謂之察事。忠良被誣構者繼有之,須有追呼,諸司莫敢抗。御史臺、大理寺重囚在獄,推斷未了,牒追就銀臺,不問輕重,一時釋放,莫敢違者。每日於銀臺門決天下事,須處分,便稱制敕,禁中符印,悉佩之出入。縱有敕,輔國押署,然後施行。及峴為相,叩頭論輔國專權亂國,上悟,賞峴正直,事並變革。輔國以此讓行軍司馬,請歸本官,察事等並停,由是深怨峴。

鳳翔七馬坊の押官が、先んじて頗る盗賊を働き、平民を劫掠し、州県は制することができなかった。天興県令で捕賊を掌る謝夷甫がこれを擒獲して決殺した。その妻が進状して夫の冤罪を訴えた。輔国は先に飛龍使であった時、その者と同党であり、そのために上訴し、詔して監察御史孫鎣に推させた。鎣は初めその事を正とした。その妻がまた訴えたので、詔して御史中丞崔伯陽・刑部侍郎李曄・大理卿権献の三司に訊問させた。三司は鎣と同じ結論であった。妻が訴えを止めなかったので、詔して侍御史毛若虚に覆審させた。若虚は罪を夷甫に帰し、また伯陽らに私情があり、刑獄を質定できなかったと言った。伯陽は怒り、人をやって若虚を召したが、言葉の調子が順わなかった。伯陽が上奏しようとすると、若虚は先に馳せ参じて粛宗に危急を告げた。上は「既に知った、卿は出て行け」と言われた。若虚が奏して言うには、「臣が出れば即ち死にます」と。上はそこで簾内に留めた。しばらくして伯陽が至ると、上がこれを問うと、伯陽は若虚が旨に順い、宦官に附会しているとかなり言った。上は怒り、叱りつけて出させた。伯陽は端州高要尉に貶され、権献は郴州桂陽尉に貶され、鳳翔尹厳向及び李曄は皆嶺下の一尉に貶され、鎣は除名されて長流播州となった。峴は数人皆その罪ではないのに、責めが重すぎると考え、これを理めようとして、遂に奏上した。「若虚は旨を希って刑を用い、国法を守らず。陛下若しこれを信じて軽重をなさば、これ御史台無きなり」と。上は峴の言葉に怒り、峴を蜀州刺史に出した。当時、右散騎常侍さんきじょうじ韓択木が入対すると、上はこれに謂って言うには、「峴は専権を欲するのか。何ぞ乃ち毛若虚を任用することは御史台無きなりと言うや。蜀州刺史に貶することを命ずる。朕自ら用法の太だ寛大なるを覚ゆ」と。択木が対えて言うには、「峴の言は直にして、専権に非ず。陛下之を寛くせば、只だ聖徳を益すのみ」と。

原文鳳翔七馬坊押官,先頗為盜,劫掠平人,州縣不能制,天興縣令知捕賊謝夷甫擒獲決殺之。其妻進狀訴夫冤。輔國先為飛龍使,黨其人,為之上訴,詔監察御史孫鎣推之。鎣初直其事。其妻又訴,詔令御史中丞崔伯陽、刑部侍郎李曄、大理卿權獻三司訊之,三司與鎣同。妻論訴不已,詔令侍御史毛若虛覆之,若虛歸罪於夷甫,又言伯陽等有情,不能質定刑獄。伯陽怒,使人召若虛,詞氣不順。伯陽欲上言之,若虛先馳謁,告急於肅宗,云:「已知,卿出去。」若虛奏曰:「臣出即死。」上因留在簾內。有頃,伯陽至,上問之,伯陽頗言若虛順旨,附會中人。上怒,叱出之。伯陽貶端州高要尉,權獻郴州桂陽尉,鳳翔尹嚴向及李曄皆貶嶺下一尉,鎣除名長流播州。峴以數人鹹非其罪,所責太重,欲理之,遂奏:「若虛希旨用刑,不守國法,陛下若信之重輕,是無御史臺。」上怒峴言,出峴為蜀州刺史。時右散騎常侍韓擇木入對,上謂之曰:「峴欲專權耶?何乃雲任毛若虛是無御史臺也?令貶蜀州刺史,朕自覺用法太寬。」擇木對曰:「峴言直,非專權。陛下寬之,祗益聖德爾。」

代宗が即位すると、峴を征して荊南節度・江陵尹とし、江淮選補使を掌らせた。入朝して礼部尚書となり、宗正卿を兼ねた。鑾輿が陝に幸するに属し、峴は商山路より行在所に赴いた。京師に還ると、峴を黄門侍郎・同中書門下平章事に拝した。故事では、宰臣は政事堂で客を邀えないものであったが、当時は海内多事であり、宰相の元載らは中官が詔命を伝えて中書に至る者を見ると、これを引いて政事堂に昇らせ、なお榻を置いてこれを待った。峴が宰相となると、その榻を撤去させた。常参官に各々諫官・憲官に堪えうる者を挙薦することを奏請し、人数を限らなかった。

原文代宗即位,征峴為荊南節度、江陵尹,知江淮選補使。入為禮部尚書,兼宗正卿。屬鑾輿幸陜,峴由商山路赴行在。既還京師,拜峴為黃門侍郎、同中書門下平章事。故事,宰臣不於政事堂邀客,時海內多務,宰相元載等見中官傳詔命至中書者,引之升政事堂,仍置榻待之;峴為宰相,令去其榻。奏請常參官各舉堪任諫官、憲官者,不限人數。

初めて東京を収復したとき、偽官の陳希烈以下数百人を捕らえ、崔器は上意を迎えて厳しく、皆を処刑すべきと上奏した。上もまた天下を懲らしめ勧めようとし、崔器の議に従おうとした。時に李峴は三司使であり、これを諫めて言った、「事には首謀と従犯があり、情状には軽重がある。もし一概に処刑すれば、陛下の包容広大なる御心に背き、国家の維新の法にも反するであろう。かつ羯胡が常道を乱し、侵攻し占拠せざる所なく、二京は全く陥落し、天子は南巡された。人々はそれぞれその生命を顧み、士大夫の家は滅び覆った。ある者は陛下の親戚であり、ある者は勲旧の子孫である。皆を極刑に処せば、仁恕の御心に背く恐れがある。昔、明王が刑を用いるときは、その渠魁を殲滅し、脅従の者は咎めなかった。まして河北の残寇は未だ平定せず、官吏多くは陥落している。もし網を緩めて漏らせば、自ら新たにする道を開くことになる。もしことごとく誅殺すれば、かえって叛逆の徒の結束を固め、誰がさらに帰順を図ろうか。窮した獣ですら闘う、まして数万の人々をどうしようか」と。崔器・呂諲は皆、条文を守る官吏で、大義を識らず、全く融通が利かなかった。朝廷での議論は数日続き、ようやく李峴の上奏に従い、多くが命を全うした。彼の敵情を察し事を決するのは、皆この類であった。結局、宦官に排擠され、政事を知ることを罷め、太子詹事と為り、まもなく吏部尚書に遷り、江淮の挙選を知り、洪州に銓選を置いた。翌年、検校兵部尚書に改め、衢州刺史を兼ねた。永泰二年七月、病により終わり、時に五十八歳であった。

原文初收東京,受偽官陳希烈已下數百人,崔器希旨深刻,奏皆處死;上意亦欲懲勸天下,欲從器議。時峴為三司使,執之曰:「夫事有首從,情有輕重,若一概處死,恐非陛下含弘之義,又失國家惟新之典。且羯胡亂常,無不淩據,二京全陷,萬乘南巡,各顧其生,衣冠蕩覆。或陛下親戚,或勛舊子孫,皆置極法,恐乖仁恕之旨。昔者明王用刑,殲厥渠魁,脅從罔理。況河北殘寇未平,官吏多陷,茍容漏網,適開自新之路,若盡行誅,是堅叛逆之黨,誰人更圖效順?困獸猶鬥,況數萬人乎!」崔器、呂諲,皆守文之吏,不識大體,殊無變通。廷議數日,方從峴奏,全活甚眾。其料敵決事皆此類。竟為中官所擠,罷知政事,為太子詹事,尋遷吏部尚書,知江淮舉選,置銓洪州。明年,改檢校兵部尚書,兼衢州刺史。永泰二年七月以疾終,時年五十八。

李巨

原文李巨

李巨、曾祖父は虢王李鳳、高祖こうその第十四子である。李鳳の孫の李邕が虢王を嗣ぎ、李巨は即ち李邕の第二子である。剛直で鋭く果敢、書史に広く渉猟し、文を綴ることを好んだ。開元中に嗣虢王となった。天宝五載、西河太守として出向した。皇太子杜良娣の妹婿の柳勣が詔獄に陥り、李巨の母の扶余氏は吉溫の嫡母の妹であった。吉溫は京兆士曹として、柳勣の党与を推問し、徐征らが李巨の家に往来し、資財を給したことを以て、これにより罪に坐して義陽郡司馬に貶された。六載、御史中丞楊慎矜が李林甫・王鉷に陥れられて罪を得、その党与の史敬忠もまた法に伏した。李巨が史敬忠と知り合いであったことを以て、官を解かれる罪に坐し、南賓郡に安置された。また起用されて夷陵郡太守となった。安禄山が東京を陥落させたとき、玄宗は将帥を選んでおり、張垍が李巨は騎射に優れ、謀略があると進言した。玄宗は彼を京師に召し還した。楊国忠は平素より李巨と知り合いであったが、彼を忌み、人に言った、「このような小児を、どうして主上にお目通りさせられようか」と。一ヶ月余り経っても謁見できなかった。玄宗は宦官に命じて召し入れて奏事させ、大いに喜び、遂に宦官の劉奉庭に勅を宣して宰相に李巨と語らわせた。正午近くになって、ようやく退出した。楊国忠は甚だ怠慢で、劉奉庭に向かって李巨に言った、「近頃人は多く口で賊を討つと言うが、公はそうではないのか」と。李巨は言った、「どの軍将が相公と手を携えて賊を討てるか知りません」と。まもなく陳留譙郡太守・摂御史大夫・河南節度使を授けられた。翌日、李巨が官銜を称えて奉謝すると、玄宗は驚いて言った、「どうして摂とさせたのか」と。即日に詔して御史大夫を兼ねさせた。李巨は上奏して言った、「当今艱難の時、賊に欺かれる恐れがあります。もし急に臣を召すことがあれば、どうすれば信を取ることができるでしょうか」と。玄宗は木契を割いて分け与え、遂に臣に嶺南節度使何履光・黔中節度使趙国珍・南陽節度使魯炅を兼ねて統率させ、先に三節度の事を領させた。詔があり魯炅を果毅に貶し、潁川太守来瑱に御史中丞を兼ねさせて代えさせた。李巨は上奏して言った、「もし魯炅が孤城を守り抜き、その功が過ちを補うに足るならば、どう処置すべきでしょうか」と。玄宗は言った、「卿が適宜に処置せよ」と。李巨は内郷に至り、南陽に向かった。賊将の畢思琛がこれを聞き、包囲を解いて逃げた。李巨は何履光・趙国珍を促して共に南陽に至り、勅を宣して魯炅を貶し、その章服を削ぎ、軍に随って効力することを命じた。日暮れになって、恩命を以て魯炅を復位させた。

原文李巨,曾祖父虢王鳳,高祖之第十四子也。鳳孫邕,嗣虢王,巨即邕之第二子也。剛銳果決,頗涉獵書史,好屬文。開元中為嗣虢王。天寶五載,出為西河太守。皇太子杜良娣之妹婿柳勣陷詔獄,巨母扶余氏,吉溫嫡母之妹也,溫為京兆士曹,推勣之黨,以徐征等往來巨家,資給之,由是坐貶義陽郡司馬。六載,御史中丞楊慎矜為李林甫、王鉷構陷得罪,其黨史敬忠亦伏法。以巨與敬忠相識,坐解官,於南賓郡安置。又起為夷陵郡太守。及祿山陷東京,玄宗方擇將帥,張垍言巨善騎射,有謀略,玄宗追至京師。楊國忠素與巨相識,忌之,謂人曰:「如此小兒,豈得令見人主!」經月余日不得見。玄宗使中官召入奏事,玄宗大悅,遂令中官劉奉庭宣敕令宰相與巨語,幾亭午,方出。國忠頗怠,對奉庭謂巨曰:「比來人多口打賊,公不爾乎?」巨曰:「不知若個軍將能與相公手打賊乎?」尋授陳留譙郡太守、攝御史大夫、河南節度使。翌日,巨稱官銜奉謝,玄宗驚曰:「何得令攝?」即日詔兼御史大夫。巨奏曰:「方今艱難,恐為賊所詐,如忽召臣,不知何以取信?」玄宗劈木契分授之,遂以臣兼統嶺南節度使何履光、黔中節度使趙國珍、南陽節度使魯炅,先領三節度事。有詔貶炅為果毅,以潁川太守來瑱兼御史中丞代之。巨奏曰:「若炅能存孤城,其功足以補過,則何以處之?」玄宗曰:「卿隨宜處置之。」巨至內鄉,趣南陽,賊將畢思琛聞之,解圍走。巨趣何履光、趙國珍同至南陽,宣敕貶炅,削其章服,令隨軍效力。至日晚,以恩命令炅復位。

至徳二年、太子少傅となった。十月、西京を収復し、留守・兼御史大夫となった。三年夏四月、太子少師・兼河南尹を加えられ、東京留守を充て、尚書省事を判じ、東畿采訪等使を充てた。都市の橋梁で出入りの車牛などに税をかけ、国用に供したが、かなり着服し、士庶の怨嗟を買った。後に妃の張氏と不和となった。張氏は即ち皇后の従父妹である。宗正卿の李遵が彼を陥れ、その犯した贓賄を暴き、遂州刺史に貶された。折しも剣南東川節度兵馬使・梓州刺史の段子璋が反逆し、兵を率いて綿州の節度使李奐を襲撃し、路は遂州を通った。李巨は慌てて属郡の礼を修めてこれを迎え、段子璋に殺された。

原文至德二年,為太子少傅。十月,收西京,為留守、兼御史大夫。三年夏四月,加太子少師、兼河南尹,充東京留守,判尚書省事,充東畿采訪等使。於城市橋梁稅出入車牛等錢以供國用,頗有幹沒,士庶怨讟。後與妃張氏不睦,張氏即皇后從父妹也。宗正卿李遵構之,發其所犯贓賄,貶為遂州刺史。屬劍南東川節度兵馬使、梓州刺史段子璋反,以眾襲節度使李奐於綿州,路經遂州,巨蒼黃修屬郡禮迎之,為子璋所殺。

子の李則之は、宗室として官を歴任し、学を好み、五十余歳になっても毎度経書を執って太学に赴き講義を受けた。嗣曹王の李臯が荊南より来朝し、彼を称賛推薦した。貞元二年、睦王府長史より左金吾衛大将軍に遷り、従父甥の竇申が交遊に無遠慮で親族に累が及んだことを以て、昭州司馬に貶された。

原文子則之,以宗室歷官,好學,年五十余,每執經詣太學聽受。嗣曹王臯自荊南來朝,稱薦之,貞元二年,自睦王府長史遷左金吾衛大將軍,以從父甥竇申追遊無閑親累,貶昭州司馬。

【贊】

原文【贊】

史臣曰く、李暠は孝友で清く慎み深く、官に在って称賛される所があった。李斉物は貞廉で整い厳しく、また節度使として権謀に長けた。李国貞は清白で法を守り、皆、李神通の曾孫・玄孫であり、宗室の優れた者である。李錡が逆を為したが、その親族に累が及ばなかったのは、前人の積んだ徳が顕われたのであり、当朝の法の用い方が明らかであったからである。しかし李暠は人の陰私を暴き、李斉物は財を積んで議論を起こし、李国貞は下を操るのに急であった。これらは一寸の短所である。李麟は行いを整え、李峘は善良に循い、身を顧みず事を立て、終始瑕瑾がなかった。皆、宗室の英傑である。李峴の剛正な才略は、称えるに足るものがある。初めは楊国忠に憎まれ、終には魚朝恩の勢いを阻んだ。群邪の中にあって、独り正しい心を堅く保った。これは吐かざる(柔を吐かざる)ものである。東都の命を生かした。これは茹わざる(剛を茹わざる)ものである。ほとんど仲山甫の道に近いと言えよう。李巨は剛直で鋭く果敢な点もまた嘉すべきであったが、終には贓賄に貪り残虐であり、まことに痛むべきことである。

原文史臣曰:暠孝友清慎,居官有稱;齊物貞廉整肅,復節制權謀;國貞清白守法,皆神通之曾玄,宗室之翹楚。锜之為逆,不累其親,前人之積德彰矣,當朝之用法明矣。然暠發人陰私,齊物積財興議,國貞急於操下,皆尺之短也。麟修整,峘循良,匪躬立事,始終無玷者,皆宗室之英也。峴之剛正才略,有足可稱。初為國忠所憎,終沮朝恩之勢。處群邪之內,堅獨正之心,是不吐也;活東都之命,是不茹也。庶幾乎仲山甫之道焉!巨以剛銳果決,亦可嘉焉,終以贓賄貪殘,良可痛也。

贊して曰く、宗室の賢良、枝葉茂盛なり。最も尤なる者は誰ぞ。李峴独り正を守る。

原文贊曰:宗室賢良,枝葉茂盛。最尤者誰?峴獨守正。