舊唐書

巻111

巻111

舊唐書

原文舊唐書

卷一百一十一

原文卷一百一十一

列傳第六十一 崔光遠 房琯 張鎬 高適 暢璀

原文列傳第六十一 崔光遠 房琯 張鎬 高適 暢璀

崔光遠

原文崔光遠

崔光遠は、滑州霊昌の人である。もとは博陵の旧族である。祖父の敬嗣は、樗蒱と飲酒を好んだ。則天の初め、房州刺史となった。中宗が廬陵王として、房州に安置された時、官吏の多くは礼度がなかったが、敬嗣だけは親賢としてこれを待遇し、供給を豊かにしたので、中宗は深くその恩徳を感じた。帝位に即くと、益州長史に崔敬嗣という者がおり、姓名が同じであったため、官職を進擬する度に、天子の御筆で超えて任用することが数度あった。後に引見して語らせてみて、誤って寵遇していたことを知った。敬嗣を訪ねると既に死去していたので、中書令韋安石を遣わしてその子の汪に官職を授けさせた。汪は酒を嗜み職務に堪えられなかったので、暫く洛州司功を授け、後に五品に改めた。

原文崔光遠,滑州靈昌人也。本博陵舊族。祖敬嗣,好樗蒱飲酒。則天初,為房州刺史。中宗為廬陵王,安置在州,官吏多無禮度,敬嗣獨以親賢待之,供給豐贍,中宗深德之。及登位,有益州長史崔敬嗣,既同姓名,每進擬官,皆御筆超拜之者數四。後引與語,始知誤寵。訪敬嗣已卒,乃遣中書令韋安石授其子汪官。汪嗜酒不堪職任,且授洛州司功,又改五品。

光遠は即ち汪の子であり、学術はなかったが、頗る祖父の風があり、勇決で気性を任せ、身長は六尺余り、目は白黒が分明であった。若くして州県の官を歴任した。開元末に蜀しょく州唐安県令となり、楊国忠と博徒として意気投合し、累遷して左賛善大夫となった。天宝十一載、京兆尹鮮于仲通が光遠を推挙して長安ちょうあん県令とした。十四載、京兆少尹に遷った。その年、吐蕃に使いして吊祭した。十五載五月、使いから帰った。十余日後、潼関が陥落し、玄宗は蜀に幸し、詔して光遠を留め置いて京兆尹・兼御史中丞とし、西京留守采訪使を充てた。車駕が発すると、百姓が乱入して宮禁に入り、左蔵大盈庫の物を奪い、やがてこれを焼き、朝から昼にかけて火勢は次第に盛んとなり、また驢馬に乗って紫宸殿・興慶殿に上る者もいた。光遠は中官将軍辺令誠と共に号令して百姓に救火させ、また人を募って府県の官を代行させ分かって守らせ、十数人を殺してようやく鎮定した。その子の東を遣わして禄山に謁見させると、禄山は大いに喜び、偽の勅を下して本来の官職に復させた。先に禄山は既に張休をして京兆尹を代行させて十余日であったが、光遠が帰順したのを得て、張休を召し返して洛陽らくように帰らせた。八月、同羅が禄山に背き、厩馬二千を以て出奔して滻水に至った。孫孝哲・安神威がこれに従って召し返そうとしたが、得られず、神威は懼れて憂死し、府県の官吏は驚いて逃げ、獄囚は皆空になった。光遠は賊が逃げようとしていると思い、所由に命じて神威と孝哲の邸宅を守らせた。孝哲は光遠の様子を禄山に報告した。光遠は府門を閉ざし、盗賊である曳落河二人を斬り、遂に長安県令蘇震らと共に出奔した。開遠門に至り、人をやって先に門官に告げさせて言うには、「京兆尹が諸門を巡視する」と。門官は器仗を整えて迎えたが、到着すると皆これを斬った。府県の官十余人を率い、京西で百姓に号令し、召しに応じた者は百余人、夜に咸陽を過ぎ、遂に霊武に到達した。上(粛宗)はこれを喜び、抜擢して御史大夫に任じ、京兆尹を兼ね、なお光遠を渭北に遣わして帰順する人吏を召集させた。嘗て賊が涇陽県界を剽掠し、僧寺の中で牛を打ち酒を漉し、連夜酣飲しており、光遠の営から四十里の所にいた。光遠は偵察してこれを知り、馬歩二千を率いて乙夜にその場所へ急行した。賊徒は多く酔っており、光遠は百余騎を率いて弓を引き絞って要衝を扼し、分かって驍ぎょう勇の者に陌刀を持たせて呼びながら斬らせ、賊徒二千余人を殺し、馬千匹を虜獲し、その渠帥一人を捕虜とした。賊の中では光遠の勇勁を以て、常にその鋒を避けた。扈従して京に還ると、功を論じて賞を行い、制書に曰く、「節を持ち京畿を采訪・計会・招召・宣慰・処置する等使崔光遠は、家を毀ち国を成し、命を致命して前茅たり。特進と為し、礼部尚書を行い、鄴国公に封じ、実封三百戸を食すべし」と。

原文光遠即汪之子,雖無學術,頗有祖風,勇決任氣,身長六尺余,目睛白黑分明。少歷仕州縣。開元末為蜀州唐安令,與楊國忠以博徒相得,累遷至左贊善大夫。天寶十一載,京兆尹鮮于仲通舉光遠為長安令。十四載,遷京兆少尹。其載,使吐蕃吊祭。十五載五月,使回。十余日,潼關失守,玄宗幸蜀,詔留光遠為京兆尹、兼御史中丞,充西京留守采訪使。駕發,百姓亂入宮禁,取左藏大盈庫物,既而焚之,自旦及午,火勢漸盛,亦有乘驢上紫宸、興慶殿者。光遠與中官將軍邊令誠號令百姓救火,又募人攝府縣官分守之,殺十數人方定。使其息東見祿山,祿山大悅,偽敕復本官。先是祿山已令張休攝京兆尹十余日,既得光遠歸款,召休歸洛。八月,同羅背祿山,以廄馬二千出至浐水。孫孝哲、安神威從而召之,不得,神威懼而憂死,府縣官吏驚走,獄囚皆空。光遠以為賊且逃矣,命所由守神威孝哲宅。孝哲以光遠之狀報祿山。光遠閉府門,斬為盜曳落河二人,遂與長安令蘇震等同出。至開遠門,使人前謂門官曰:「尹巡諸門。」門官具器仗以迎,至則皆斬之。領府縣官十余人,於京西號令百姓,赴召者百余人,夜過咸陽,遂達靈武。上喜之,擢拜御史大夫,兼京兆尹,仍使光遠於渭北召集人吏之歸順者。嘗有賊剽掠涇陽縣界,於僧寺中椎牛釃酒,連夜酣飲,去光遠營四十里。光遠偵知之,率馬步二千乙夜趨其所。賊徒多醉,光遠領百余騎持滿扼其要,分命驍勇持陌刀呼而斬之,殺賊徒二千余人,虜馬千疋,俘其渠酋一人。賊中以光遠勇勁,常避其鋒。及扈從還京,論功行賞,制曰:「持節京畿采訪、計會、招召、宣慰、處置等使崔光遠,毀家成國,致命前茅。可特進,行禮部尚書,封鄴國公,食實封三百戶。」

乾元元年、御史大夫を兼ねた。五月、河南節度使となった。八月、張鎬に代わって汴州刺史となり、本州防禦使を兼ねた。十二月、蕭華に代わって魏州刺史となり、魏州節度使を充てた。初め、司徒しと郭子儀が賊と汲郡で戦った時、光遠は汴師千人を率いて黄河を渡り援軍した。蕭華に代わって魏州に入ると、将軍李処崟をして賊を防がせたが、賊が大挙して至り、連戦して利あらず、子儀は怒って救援せず、処崟は遂に敗れて奔還した。賊は処崟を追って城下に至り、反間の計を用いて言うには、「処崟が我を召したのに、何故出て来ないのか」と。光遠は腰斬して処崟を処刑した。処崟は善戦して勇があり、衆皆これに倚っていたが、死ぬと人々は危惧した。魏州城は禄山の反乱以来、袁知泰・能元皓らが皆これを繕修して完備し、甚だ堅峻であった。光遠は守ることができず、遂に夜に潰囲して出奔し、黄河を渡って還った。粛宗はこれを罪とせず、太子少保に除した。

原文乾元元年,兼御史大夫。五月,為河南節度使。八月,代張鎬為汴州刺史,兼本州防禦使。十二月,代蕭華為魏州刺史,充魏州節度使。初,司徒郭子儀與賊戰於汲郡,光遠率汴師千人渡河援之。及代蕭華入魏州,使將軍李處崟拒賊,賊大至,連戰不利,子儀怒不救,處崟遂敗,奔還。賊逐處崟至城下,反問之曰:「處崟召我來,何為不出?」光遠乃腰斬處崟。處崟善戰有勇,眾皆倚之,及死,人用危懼。魏州城自祿山反,袁知泰、能元皓等皆繕完之,甚為堅峻。光遠不能守,遂夜潰圍而出,度河而還。肅宗不之罪,除太子少保。

襄州の将士康楚元・張嘉延が衆を率いて乱を起こし、荊・襄・澧・朗等州を陥落させたので、光遠に御史大夫を兼ねさせ、節を持ち荊襄招討とし、なお山南東道処置兵馬都使を充てた。三年、鳳翔尹に除し、本府及び秦隴観察使を充てた。先に、岐・隴の吏人郭愔らが土賊となり、州県を掠め、五つの堡を築いていたが、光遠は判官・監察御史厳侁をしてこれを召し降伏させた。光遠は官にあって樗蒱と酒を好み、晚年は戎事に親しまなかった。上元元年冬、愔らが密かに党項及び奴剌・突厥と連合し、秦・隴で韋倫を破り、監軍使を殺し、黄戍を撃った。粛宗は追い返して、李鼎に代えさせた。二年、成都尹を兼ね、剣南節度営田観察処置使を充て、なお御史大夫を兼ねた。段子璋が反乱すると、東川節度使李奐は敗走し、光遠に投じ、将の花驚定らを率いてこれを討平した。将士は剽劫をほしいままにし、婦女に金銀の臂釧があると、兵士は皆その腕を断ち切ってこれを奪い、数千人を乱殺したが、光遠はこれを禁じることができなかった。粛宗は監軍官使を遣わしてその罪を按じさせたところ、光遠は憂恚して病を成し、上元二年十月に卒した。

原文襄州將士康楚元、張嘉延率眾為亂,陷荊、襄、澧、朗等州,以光遠兼御史大夫,持節荊襄招討,仍充山南東道處置兵馬都使。三年,除鳳翔尹,充本府及秦隴觀察使。先是,岐、隴吏人郭愔等為土賊,掠州縣,為五堡,光遠使判官、監察御史嚴侁召而降之。光遠在官好蒱酒,晚年不親戎事。上元元年冬,愔等潛連黨項及奴剌、突厥敗韋倫於秦、隴,殺監軍使,擊黃戍。肅宗追還,以李鼎代之。二年,兼成都尹,充劍南節度營田觀察處置使,仍兼御史大夫。及段子璋反,東川節度使李奐敗走,投光遠,率將花驚定等討平之。將士肆其剽劫,婦女有金銀臂釧,兵士皆斷其腕以取之,亂殺數千人,光遠不能禁。肅宗遣監軍官使按其罪,光遠憂恚成疾,上元二年十月卒。

房琯

原文房琯

房琯は、河南の人で、天後朝の正議大夫・平章事房融の子である。琯は若くして学を好み、風儀は沈整であり、門蔭により弘文生に補された。性は隠遁を好み、東平の呂向と陸渾伊陽の山中で読書を事とし、凡そ十余年を過ごした。開元十二年、玄宗が岱嶽を封禅しようとした時、琯は『封禅書』一篇及び箋啓を撰して献上した。中書令張説はその才を奇とし、奏上して秘書省校書郎を授け、同州馮翊尉に補した。間もなく官を去り、県令に堪えうる挙に応じ、虢州盧氏県令を授けられた。政には恵愛多く、人々はこれを称美した。二十二年、監察御史に拝された。その年、獄を鞫するに当たらざる罪に坐し、睦州司戸に貶された。慈渓・宋城・済源県令を歴任し、所在において政を行い、多く利を興し害を除き、廨宇を繕理し、頗る能名を著した。天宝元年、主客員外郎に拝された。三年、試主客郎中に遷った。五年正月、試給事中に抜擢され、爵を漳南県男と賜った。時に玄宗は古道を企慕し、数度近甸に遊幸したので、新豊県を分けて会昌県を驪り山の下に置き、尋ねて会昌を昭応県と改め、また温泉宮を華清宮と改め、宮所に百司の廨舎を立てた。琯は雅に巧思あるを以て、使を充てて繕理させた。事未だ畢わらざるに、李適之・韋堅らと善しとする罪に坐し、宜春太守に貶された。瑯邪・鄴郡・扶風の三太守を歴任し、所至多く遺愛があった。十四年、征されて左庶子に拝され、憲部侍郎に遷った。

原文房琯,河南人,天後朝正議大夫、平章事融之子也。琯少好學,風儀沈整,以門廕補弘文生。性好隱遁,與東平呂向於陸渾伊陽山中讀書為事,凡十余歲。開元十二年,玄宗將封岱嶽,琯撰《封禪書》一篇及箋啟以獻。中書令張說奇其才,奏授秘書省校書郎,調補同州馮翊尉。無幾去官,應堪任縣令舉,授虢州盧氏令,政多惠愛,人稱美之。二十二年,拜監察御史。其年坐鞫獄不當,貶睦州司戶。歷慈溪、宋城、濟源縣令,所在為政,多興利除害,繕理廨宇,頗著能名。天寶元年,拜主客員外郎。三年,遷試主客郎中。五年正月,擢試給事中,賜爵漳南縣男。時玄宗企慕古道,數遊幸近甸,乃分新豐縣置會昌縣於驪山下,尋改會昌為昭應縣,又改溫泉宮為華清宮,於宮所立百司廨舍。以琯雅有巧思,令充使繕理。事未畢,坐與李適之、韋堅等善,貶宜春太守。歷瑯邪、鄴郡、扶風三太守,所至多有遺愛。十四年,征拜左庶子,遷憲部侍郎。

十五年六月、玄宗は慌ただしく蜀に幸し、大臣陳希烈・張倚らは恩を失ったことを恨み、時に難に赴かず。琯は張均・張垍兄弟と韋述らと結び城南十数里の山寺に行き至る。均・垍は同行し、皆城中に家あるを以て逗留して進まず、琯独り蜀路に馳す。七月、普安郡に至り謁見す。玄宗大いに悦び、即日に文部尚書・同中書門下平章事を拝し、紫金魚袋を賜う。成都に従幸し、銀青光禄大夫を加え、仍一子に官を与う。其の年八月、左相韋見素・門下侍郎崔渙らと奉使して霊武に至り、粛宗を冊立す。順化郡に至り謁見し、上皇の伝付の旨を陳べ、時に時事を言う。詞情慷慨、粛宗之が為に容を改む。時に潼関の敗将王思礼・呂崇賁・李承光らを纛下に引き、将に之を斬らんとす。琯従容に救諫し、独り承光を斬るのみ。粛宗、琯素より重名有るを以て、意を傾けて之を待ち、琯亦自ら其の才を負い、天下を以て己が任と為す。時に行在の機務、多く之を琯に決す。凡そ大事有れば、諸将預言を敢えてせず。尋で疏を抗し自ら兵を将いて寇孽を誅し、京都を収復せんことを請う。粛宗其の成功を望み、之を許す。詔して持節・招討西京兼防禦蒲潼両関兵馬節度等使を加持し、乃ち子儀・光弼らと計会して進兵す。琯自ら参佐を選ばんことを請う。乃ち御史中丞鄧景山を副とし、戸部侍郎李揖を行軍司馬と為し、中丞宋若思・起居郎知制誥賈至・右司郎中魏少遊を判官と為し、給事中劉秩を参謀と為す。既に行き、又兵部尚書王思礼をして之を副わしむ。琯三軍に分つ。楊希文を遣わし南軍を将い、宜寿より入らしむ。劉悊に中軍を将い、武功より入らしむ。李光進に北軍を将い、奉天より入らしむ。琯自ら中軍を将い、前鋒と為す。十月庚子、師便橋に次ぐ。辛丑、二軍先ず賊に咸陽県の陳濤斜に遇い、接戦し、官軍敗績す。時に琯春秋の車戦の法を用い、車二千乗を以てし、馬歩之を夾す。既に戦い、賊順風に塵を揚げ鼓噪す。牛皆震駭し、因り芻を縛し火を放ちて之を焚く。人畜撓敗し、傷殺せらるる所と為る者四万余人、存する者数千のみ。癸卯、琯又南軍を率いて即戦し、復た敗る。希文・劉悊並びに賊に降る。琯ら行在に奔赴し、肉袒して罪を請う。上並びに之を宥す。

原文十五年六月,玄宗蒼黃幸蜀,大臣陳希烈、張倚等銜於失恩,不時赴難。琯結張均、張垍兄弟與韋述等行至城南十數里山寺,均、垍同行,皆以家在城中,逗留不進,琯獨馳蜀路。七月,至普安郡謁見,玄宗大悅,即日拜文部尚書、同中書門下平章事,賜紫金魚袋。從幸成都,加銀青光祿大夫,仍與一子官。其年八月,與左相韋見素、門下侍郎崔渙等奉使靈武,冊立肅宗。至順化郡謁見,陳上皇傳付之旨,因言時事,詞情慷慨,肅宗為之改容。時潼關敗將王思禮、呂崇賁、李承光等引於纛下,將斬之,琯從容救諫,獨斬承光而已。肅宗以琯素有重名,傾意待之,琯亦自負其才,以天下為己任。時行在機務,多決之於琯,凡有大事,諸將無敢預言。尋抗疏自請將兵以誅寇孽,收復京都,肅宗望其成功,許之。詔加持節、招討西京兼防禦蒲潼兩關兵馬節度等使,乃與子儀、光弼等計會進兵。琯請自選參佐,乃以禦中史中丞鄧景山為副,戶部侍郎李揖為行軍司馬,中丞宋若思、起居郎知制誥賈至、右司郎中魏少遊為判官,給事中劉秩為參謀。既行,又令兵部尚書王思禮副之。琯分為三軍:遣楊希文將南軍,自宜壽入;劉悊將中軍,自武功入;李光進將北軍,自奉天入。琯自將中軍,為前鋒。十月庚子,師次便橋。辛丑,二軍先遇賊於咸陽縣之陳濤斜,接戰,官軍敗績。時琯用春秋車戰之法,以車二千乘,馬步夾之。既戰,賊順風揚塵鼓噪,牛皆震駭,因縛芻縱火焚之,人畜撓敗,為所傷殺者四萬余人,存者數千而已。癸卯,琯又率南軍即戰,復敗,希文、劉悊並降於賊。琯等奔赴行在,肉袒請罪,上並宥之。

琯は賓客を好み、談論を喜ぶ。用兵は素より長とする所に非ず。而して天子其の虚声を采り、実効の成るを冀う。琯既に自ら廟勝無く、又虚名を以て将吏を択び、以て敗に至る。琯の出師、戎務一に李揖・劉秩に委ぬ。秩ら亦儒家の子、未だ嘗て軍旅の事を習わず。琯戎に臨み人に謂いて曰く「逆党の曳落河多くと雖も、豈に我が劉秩らに当たらんや」と。及賊に対壘す。琯持重して之を伺わんと欲す。中使邢延恩らの督戦の為、蒼黄として拠る所を失い、遂に敗に及ぶ。上猶之を初の如く待ち、仍散卒を収合し、更に進取を図らしむ。

原文琯好賓客,喜談論,用兵素非所長,而天子采其虛聲,冀成實效。琯既自無廟勝,又以虛名擇將吏,以至於敗。琯之出師,戎務一委於李揖、劉秩,秩等亦儒家子,未嘗習軍旅之事。琯臨戎謂人曰:「逆黨曳落河雖多,豈能當我劉秩等?」及與賊對壘,琯欲持重以伺之,為中使邢延恩等督戰,蒼黃失據,遂及於敗。上猶待之如初,仍令收合散卒,更圖進取。

会に北海太守賀蘭進明河南より至る。詔して南海太守を授け、御史大夫を摂し、嶺南節度使を充てしむ。中謝す。粛宗之に謂いて曰く「朕房琯を処分して卿と正大夫と為す。何を為して摂するや」と。進明対えて曰く「琯臣と隙有り」と。上然りと為す。進明因り奏して曰く「陛下晋朝の何を以て乱に至れるかを知るや」と。上曰く「卿説有るか」と。進明曰く「晋朝虚名を好尚し、王夷甫を任じて宰相と為し、浮華を祖習せし故、敗に至る。今陛下方に社稷を興復せんとす。当に実才を委用すべし。而るに琯性疏闊、徒に大言するのみ。宰相の器に非ず。陛下琯を待つこと至厚。臣の観る所に由れば、琯終に陛下の為に用いられず」と。上其の故を問う。進明曰く「琯昨南朝に於て聖皇の為に天下を制置し、乃ち永王を以て江南節度と為し、潁王を以て剣南節度と為し、盛王を以て淮南節度と為す。制に云う『元子に命じて北に朔方を略せしめ、諸王に命じて分かち重鎮を守らしむ』と。且つ太子出でては撫軍と為り、入りては監国と曰う。琯乃ち枝庶を以て悉く大籓を領せしめ、皇儲反って辺鄙に居す。此れ聖皇に於ては忠に似たりと雖も、陛下に於ては忠に非ず。琯此の意を立て、聖皇の諸子と為すも、但一人天下を得れば、即ち恩寵を失わずと為す。又各其の私党劉秩・李揖・劉匯・鄧景山・竇紹の徒を樹て、以て戎権を副えしむ。此を推して言えば、琯豈肯くんぞ尽く誠を陛下にせんや。臣正衙に弾劾せんと欲す。敢えず先ず聞奏せざる無し」と。上是に由り琯を悪み、詔して進明を以て河南節度・兼御史大夫と為す。

原文會北海太守賀蘭進明自河南至,詔授南海太守,攝御史大夫,充嶺南節度使。中謝,肅宗謂之曰:「朕處分房琯與卿正大夫,何為攝也?」進明對曰:「琯與臣有隙。」上以為然。進明因奏曰:「陛下知晉朝何以至亂?」上曰:「卿有說乎?」進明曰:「晉朝以好尚虛名,任王夷甫為宰相,祖習浮華,故至於敗。今陛下方興復社稷,當委用實才,而琯性疏闊,徒大言耳,非宰相器也。陛下待琯至厚,以臣觀之,琯終不為陛下用。」上問其故,進明曰:「琯昨於南朝為聖皇制置天下,乃以永王為江南節度,潁王為劍南節度,盛王為淮南節度,制雲『命元子北略朔方,命諸王分守重鎮』。且太子出為撫軍,入曰監國,琯乃以枝庶悉領大籓,皇儲反居邊鄙,此雖於聖皇似忠,於陛下非忠也。琯立此意,以為聖皇諸子,但一人得天下,即不失恩寵。又各樹其私黨劉秩、李揖、劉匯、鄧景山、竇紹之徒,以副戎權。推此而言,琯豈肯盡誠於陛下乎?臣欲正衙彈劾,不敢不先聞奏。」上由是惡琯,詔以進明為河南節度、兼御史大夫。

崔円本蜀中に相を拝し、粛宗扶風に幸し、始めて来朝謁す。琯意円才に到れば、当に即ち相を免ぜらるべしと以為い、故に円を待つ礼薄し。円厚く李輔国に結び、到後数日、頗る恩渥を承け、亦琯を憾む。琯又多に病と称し、時に朝謁せず、政事に於て簡惰す。時に議す、両京賊に陥り、車駕出でて外郊に次ぐ。天下人心惴恐す。当に主憂臣辱の際、此時琯宰相と為り、略く匪懈の意無く、但だ庶子劉秩・諫議李揖・何忌らと高談虚論し、釈氏の因果・老子の虚無を説くのみ。此の外は則ち董庭蘭の琴を弾ずるを聴き、大いに琴客を招集し筵宴す。朝官往々庭蘭に因りて以て琯を見る。是より亦大いに貨賄を招納し、奸贓頗る甚だし。顔真卿時に大夫と為り、何忌の不孝を弾す。琯既に何忌に党し、遽に酒酔いを托して朝に入るを以て、西平郡司馬に貶す。憲司又奏して董庭蘭の貨賄を招納するを弾す。琯朝に入り自ら訴う。上叱して之を出だし、因り私第に帰り、敢えて人事に預からず。諫議大夫張鎬上疏し、琯大臣、門客贓を受く、累を見すべからずと言う。二年五月、太子少師に貶し、仍て鎬を以て琯に代わり宰相と為す。其の年十一月、粛宗に従い京師に還る。十二月、大赦し、勲を策し賞を行い、琯に金紫光禄大夫を加え、清河郡公に進封す。琯既に散位に在り、朝臣多く以て言と為す。琯亦常に文武の用有りと自言し、合当に国家の駆策に当たり、冀くは任遇を蒙らんとす。又賓客を招納し、朝夕門に盈つ。其の門に遊ぶ者、又琯の言議を朝に暴揚せんとす。琯又多に疾と称す。上頗る悦ばず。乾元元年六月、詔して曰く。

原文崔圓本蜀中拜相,肅宗幸扶風,始來朝謁。琯意以為圓才到,當即免相,故待圓禮薄。圓厚結李輔國,到後數日,頗承恩渥,亦憾於琯。琯又多稱病,不時朝謁,於政事簡惰。時議以兩京陷賊,車駕出次外郊,天下人心惴恐。當主憂臣辱之際,此時琯為宰相,略無匪懈之意,但與庶子劉秩、諫議李揖、何忌等高談虛論,說釋氏因果、老子虛無而已。此外,則聽董庭蘭彈琴,大招集琴客筵宴。朝官往往因庭蘭以見琯,自是亦大招納貨賄,奸贓頗甚。顏真卿時為大夫,彈何忌不孝,琯既黨何忌,遽托以酒醉入朝,貶為西平郡司馬。憲司又奏彈董庭蘭招納貨賄,琯入朝自訴,上叱出之,因歸私第,不敢預人事。諫議大夫張鎬上疏,言琯大臣,門客受贓,不宜見累。二年五月,貶為太子少師,仍以鎬代琯為宰相。其年十一月,從肅宗還京師。十二月,大赦,策勛行賞,加琯金紫光祿大夫,進封清河郡公。琯既在散位,朝臣多以為言,琯亦常自言有文武之用,合當國家驅策,冀蒙任遇。又招納賓客,朝夕盈門,遊其門者,又將琯言議暴揚於朝。琯又多稱疾,上頗不悅。乾元元年六月,詔曰:

党を崇め名に近づくは、実に害政の本と為り、華を黜け薄を去るは、方に至公の路を啓く。房琯素より文学を表し、夙に名器を推さる。是に由り累階清貴、台衡の位に致る。而して情に率い自ら任じ、気を怙み権に恃む。虚浮簡傲なる者は進めて同人と為し、温譲謹令なる者は異路に捐つ。以て輔佐の際、謀猷弘からず。頃者時に艱難に属し、将相に擢き居む。朕永く反席を懐い、成功有るを冀う。而して我が師徒を喪い、既に制勝の任を虧く。其の親友を升し、悉く浮誕の跡を彰す。未だ時に逾えずして、遽に敗績に従う。自ら合す首めて軍令を明らかにし、以て師旅に謝すべし。猶尚其の万死を矜み、以て三孤に擢く。

原文崇黨近名,實為害政之本;黜華去薄,方啟至公之路。房琯素表文學,夙推名器,由是累階清貴,致位臺衡。而率情自任,怙氣恃權。虛浮簡傲者進為同人,溫讓謹令者捐於異路。所以輔佐之際,謀猷匪弘。頃者時屬艱難,擢居將相,朕永懷反席,冀有成功。而喪我師徒,既虧制勝之任;升其親友,悉彰浮誕之跡。曾未逾時,遽從敗績。自合首明軍令,以謝師旅,猶尚矜其萬死,擢以三孤。

あるいはその率直さのゆえに、斥けられたともいう。朕は堂案を示し、その理由を観させたところ、皆その誤りを知り、政事に疎いことを悟った。まことにこの忠誠を発揮し、国家に奉ずべきであるのに、多くは病と称し、朝謁を申し上げない。郤犨が政を執ったとき、迂遠さを病まなかったのに、周亜夫が君に仕えたとき、かえって鬱屈した思いを抱いた。また前国子祭酒の劉秩、前京兆少尹の厳武らとひそかに交結し、軽率に言論を放ち、朋党をなして不公の名があり、臣子として上に奉ずる体を損なった。どうして王国の模範となり、儲闈を訓導できようか。ただかつて台司を踏んだゆえに、法に委ねるに忍びない。況や劉秩・厳武は急に互いに推し合い、ともに虚名を求め、典章を論議せず、どうして沮止と勧奨を成し得ようか。貶官に従い、外藩を守らせるのがよい。房琯は邠州刺史とし、劉秩は閬州刺史とし、厳武は巴州刺史とせよ。散官・封はもとのままとする。ともに駅馬を馳せて任地に赴き、各々修養を増すことを望む。朕は天下を治めるに当たり、多くの士を推挙し、常に賢哲を求め、ともに太平を致すことを思う。比周の徒を深く憎み、虚偽が習俗となることを厭う。今の譴責は、まことにその罪に属する。なお房琯らが妄りに自らを標榜し、虚名を借りて延引したので、朝廷の道は皆知っているが、流俗が多く疑うことを恐れ、事を必ず詳しく言うのは、濫りでないことを人に知らせたいからである。百官の卿士よ、皆朕の思いを理解せよ。

原文或云緣其切直,遂見斥退。朕示以堂案,令觀所以,咸知乖舛,曠於政事。誠宜效茲忠懇,以奉國家,而乃多稱疾疹,莫申朝謁。郤犨為政,曾不疾其迂回;亞夫事君,翻有懷於郁怏。又與前國子祭酒劉秩、前京兆少尹嚴武等潛為交結,輕肆言談,有朋黨不公之名,違臣子奉上之體。何以儀刑王國,訓導儲闈?但以嘗踐臺司,未忍致之於理。況秩、武遽更相尚,同務虛求,不議典章,何成沮勸?宜從貶秩,俾守外籓。琯可邠州刺史,秩可閬州刺史,武可巴州刺史,散官、封如故;並即馳驛赴任,庶各增修。朕自臨禦寰區,薦延多士,常思聿求賢哲,共致雍熙。深嫉比周之徒,虛偽成俗。今茲所譴,實屬其辜。猶以琯等妄自標持,假延浮稱,雖周行具悉,恐流俗多疑,所以事必縷言,蓋欲人知不濫。凡百卿士,宜悉朕懷。

当時、邠州には長く軍旅が駐屯し、多くは武将が刺史を兼ね、法度は廃れ、州県の官舎はともに軍営となり、官吏は百姓の家屋を侵奪して住み、人々は甚だ困弊していた。房琯が任に着くと、法令を掲げて州県に恭しく守らせ、また公館を整備し、僚吏をそれぞれ官曹に帰らせ、政声は頗る高かった。二年六月、詔を下してこれを褒め称え、太子賓客に召し出された。上元元年四月、礼部尚書に改め、まもなく晋州刺史として出された。八月、漢州刺史に改められた。房琯の長子の房乗は、幼少より両目が盲目であった。房琯が漢州に着くと、財貨をもって司馬の李鋭と厚く結び、房乗が李鋭の外甥の娘の盧氏を娶った。当時の議論は、その士人の行いがないことを軽蔑した。宝応二年四月、特進・刑部尚書に任じられた。赴任の途上で病に罹り、広徳元年八月四日、閬州の僧舎で卒した。時に六十七歳。太尉を追贈された。

原文時邠州久屯軍旅,多以武將兼領刺史,法度隳廢,州縣廨宇,並為軍營,官吏侵奪百姓室屋以居,人甚弊之。琯到任,舉陳令式,令州縣恭守,又緝理公館,僚吏各歸官曹,頗著政聲。二年六月,詔褒美之,征拜太子賓客。上元元年四月,改禮部尚書,尋出為晉州刺史。八月,改漢州刺史。琯長子乘,自少兩目盲。琯到漢州,乃厚結司馬李銳以財貨,乘聘銳外甥女盧氏,時議薄其無士行。寶應二年四月,拜特進、刑部尚書。在路遇疾,廣德元年八月四日,卒於閬州僧舍,時年六十七。贈太尉。

庶子の房孺復

原文孽子 孺復

房孺復は、房琯の庶子である。幼少より狡猾で聡明、七、八歳で既に文章を綴ることを粗く理解し、親族はこれを奇異とした。やや成長すると、狂放で傲慢、感情のままに欲望をほしいままにした。二十歳の時、淮南節度使の陳少遊に召し出されて従事となり、多く陰陽巫覡を招き、自分は三十を過ぎれば必ず宰相になると言いふらさせた。徳宗が奉天に幸した時、包佶が揚州で賦税を掌っていたが、陳少遊はこれを抑え奪おうとした。包佶はこれを聞いて逃げ出し、陳少遊が人を遣わして包佶を劫して戻らせようとした時、房孺復が行くことを請い、包佶が既に江南を過ぎたので帰還した。陳少遊が卒すると、浙西節度使の韓滉もまた幕下に召し入れた。その長兄の房宗偃は先に嶺下に貶官されて卒し、喪柩が揚州に着いた時、房孺復は一度も弔問しなかった。初め鄭氏を娶ったが、その妻を嫌い軽蔑し、多くの婢僕を養い、妻の保母が繰り返しこれを言うと、房孺復は先に棺桶を用意して家人を集め、保母を生きながら棺に納めた。遠近の人々は驚き怪しんだ。妻が産褥に就いて三、四日目に、急に船に乗せて出発させ、数日後、妻は風に遭って卒した。房孺復は宰相の子として、年少にして浮名があり、奸悪が甚だ露わではなかったので、累進して杭州刺史に至った。また台州刺史の崔昭の娘を娶ったが、崔氏は甚だ嫉妬深く悍ましく、一晩で房孺復の侍女二人を杖殺し、雪の中に埋めた。観察使がこれを聞き、詔を奉じて使者を発して審理させたところ事実があり、房孺復は連州司馬に貶せられ、なお崔氏と離縁することを命じられた。房孺復は久しくして辰州刺史に遷り、容州刺史・本管経略使に改められた。そこでひそかに妻と往来し、久しくして上疏して復縁を請うた。詔はこれに従った。二年余り後、また崔氏と離縁することを奏上した。その取捨が恣逸で、礼法を顧みないことはこのようなものであった。貞元十三年九月に卒した。時に四十二歳。

原文孺復,琯之孽子也。少黠慧,年七八歲,即粗解綴文,親黨奇之。稍長,狂疏傲慢,任情縱欲。年二十,淮南節度陳少遊辟為從事,多招陰陽巫覡,令揚言已過三十必為宰相。德宗幸奉天,包佶掌賦於揚州,少遊將抑奪之。佶聞而奔出,少遊方遣人劫佶令回,孺復請行,會佶已過江南,乃還。及少遊卒,浙西節度韓滉又辟入幕。其長兄宗偃先貶官嶺下而卒,及喪柩到揚州,孺復未嘗吊。初娶鄭氏,惡賤其妻,多畜婢仆,妻之保母累言之,孺復乃先具棺櫬而集家人,生斂保母,遠近驚異。及妻在產蓐三四日,遽令上船即路,數日,妻遇風而卒。孺復以宰相子,年少有浮名,而奸惡未甚露,累拜杭州刺史。又娶臺州刺史崔昭女,崔妒悍甚,一夕杖殺孺復待兒二人,埋之雪中。觀察使聞之,詔發使鞫案有實,孺復坐貶連州司馬,仍令與崔氏離異。孺復久之遷辰州刺史,改容州刺史、本管經略使。乃潛與妻往來,久而上疏請合,詔從之。二歲餘,又奏與崔氏離異,其為取舍恣逸,不顧禮法也如此。貞元十三年九月卒,時年四十二。

甥の房式

原文姪 式

房式は、房琯の甥で、進士に挙げられた。李泌が陝州を観察した時、従事として召し出された。李泌が入朝して宰相となると、累進して起居郎となり、李泌の門を出入りし、その耳目となった。李泌が卒すると、再び忠州刺史に任じられ、韋臯が上表して雲南安撫使兼御史中丞とした。韋臯が卒すると、詔により兵部郎中に任じられた。劉辟の反乱に遭遇し、房式は留められて行けなかった。性格は口達者で、また劉辟を恐れ、座中でしばしば劉辟の徳と美を称え、劉備に比した。ともに賊に陥った者たちは皆これを憎んだ。高崇文が成都に着くと、房式は王良士・崔従・盧士玖らと白衣に麻の草鞋を履き、土を口にくわえて請罪した。高崇文は寛大に礼遇し、その様子を上表し、まもなく吏部郎中に任じられた。当時、河朔の節度使劉済・王士真・張茂昭は皆兵が強壮で気性が豪壮であり、互いに長短を争い、たびたび表を奉って罪を加えることを請うた。上はその兵を止めようとし、李吉甫が房式を給事中に推薦し、河朔に命を伝えさせた。房式は諸鎮を歴訪して諷諭し、帰還して奏上したところ、旨にかなったので、陝虢観察使兼御史中丞に任じられ、河南尹に転じた。当時、鎮州で王承宗を討つにあたり、河南府に輸送車四千両を割り当てた。房式は表を奉って凶作と旱魃により、民は貧しく力が弱く、徴発が難しいと述べた。憲宗はその奏を認め、力役が免除されると、人々はこれを懐いて安んじた。翌年、宣歙池観察使に移された。元和七年七月に卒した。左散騎常侍さんきじょうじを追贈された。

原文式,琯之姪,舉進士。李泌觀察陜州,辟為從事。泌入為相,累遷起居郎,出入泌門,為其耳目。及泌卒,再除忠州刺史,韋臯表為雲南安撫使,兼御史中丞。臯卒,詔除兵部郎中。屬劉辟反,式留不得行。性便佞,又懼辟,每於座中數贊辟之德美,比之劉備,同陷於賊者皆惡之。高崇文既至成都,式與王良士、崔從、盧士玖等白衣麻蹻銜土請罪,崇文寬禮之,乃表其狀,尋除吏部郎中。時河朔節度劉濟、王士真、張茂昭皆以兵壯氣豪,相持短長,屢以表聞,叠請加罪。上欲止其兵,李吉甫薦式為給事中,將命於河朔。式歷使諸鎮諷諭之,還奏愜旨,除陜虢觀察使、兼御史中丞,轉河南尹。時討王丞宗於鎮州,配河南府饋運車四千兩,式表以兇旱,人貧力微,難以征發,憲宗可其奏,既免力役,人懷而安之。明年,移授宣歙池觀察使。元和七年七月卒,贈左散騎常侍。

張鎬

原文張鎬

張鎬は、博州の人である。風采儀容が魁偉で、度量が大きく大志があり、経史に広く通じ、王覇の大略を談ずることを好んだ。若い時、吳兢に師事し、吳兢は甚だこれを重んじた。後に京師に遊学し、一室に端座し、世務に交わらなかった。性は酒を嗜み、琴を好み、常に座右に置いた。公卿に招かれる者がいたが、張鎬は杖を執って直ちに赴き、酔うことを求めるだけであった。

原文張鎬,博州人也。風儀魁岸,廓落有大志,涉獵經史,好談王霸大略。少時師事吳兢,兢甚重之。後遊京師,端居一室,不交世務。性嗜酒,好琴,常置座右。公卿或有邀之者,鎬仗策徑往,求醉而已。

天宝の末、楊国忠は名声を自ら高くし、天下の奇傑を捜索した。張鎬の名を聞き、召見してこれを推薦し、褐衣より左拾遺に任じた。及び安禄山が兵を阻むに及び、国忠はしばしば軍国事を鎬に諮り、鎬は贊善大夫来瑱を挙げて方面の寄せに当たるべきとす。数月にして、玄宗は蜀に幸し、鎬は山谷より徒步して扈従す。粛宗即位す、玄宗は鎬を行在所に赴かせしむ。鎬は鳳翔に至り、奏識多く弘益あり、諫議大夫に拝し、尋いで中書侍郎・同中書門下平章事に遷る。時に供奉僧が内道場に在りて晨夜に念佛し、動めくこと数百人、声禁外に聞こゆ。鎬奏して曰く、「臣聞く、天子の福を修むるは、要は含生を安養し、風化を靖一するに在り、未だ区区たる僧教を以て太平を致すを聞かず。伏して願わくは、陛下、無為を以て心と為し、小乗を以て聖慮を撓さざらんことを」と。粛宗甚だ之を然りとす。時に方に軍戎を興し、帝は将帥に注意し、鎬に文武の才あるを以て、尋いで命じて兼ねて河南節度使と為し、節を持ちて都統淮南等道諸軍事を統べしむ。鎬既に発し、会に張巡宋州の囲み急なるに遭い、倍道兼進し、檄を伝えて濠州刺史閭丘暁に兵を引き出して救わしむ。暁は素より愎戾にして、下を馭するに恩少なく、好んで独り己を任ず。及び鎬の信至るや、略く稟命無く、又兵敗れて禍己に及ぶを慮り、遂に逗留して進まず。鎬は淮口に至り、宋州既に陥つ。鎬は暁を怒り、即ち杖殺す。及び両京を収復し、鎬に銀青光禄大夫を加え、南陽郡公に封じ、詔して本軍を以て汴州に鎮し、残孽を招討せしむ。時に賊帥史思明表を上りて范陽を以て帰順せんことを請う。鎬は其の偽りを揣み知り、朝廷の之を許すを恐れ、手書を以て密表を奏して曰く、「思明は兇豎にして、逆に因りて位を窃む。兵強ければ則ち衆附き、勢奪われれば則ち人離る。不測を包蔵し、禽獣と異無し。計を以て取るべく、義を以て招くは難し。伏して望む、威権を以て之に仮さざらんことを」と。又曰く、「滑州防禦使許叔冀は、性狡にして謀多く、難に臨みて必ず変ず。望むらくは追い入れて宿衛せしめんことを」と。粛宗の計意既に定まり、表入るも省みず。鎬は人と為り簡淡にして、中要に事えず。会に宦官の范陽及び滑州より使い還る者有り、皆思明・叔冀の誠愨を言う。粛宗は鎬が事機に切ならざるを以て、遂に相位を罷め、荊州大都督ととく府長史を授く。後に思明・叔冀の偽り皆鎬の言に符す。尋いで征されて太子賓客と為り、左散騎常侍に改む。属に嗣岐王珍が誣告に遭い構逆を以て伏法す。鎬は珍の宅を買い坐累し、辰州司戸に貶せらる。

原文天寶末,楊國忠以聲名自高,搜天下奇傑。聞鎬名,召見薦之,自褐衣拜左拾遺。及祿山阻兵,國忠屢以軍國事咨於鎬,鎬舉贊善大夫來瑱可當方面之寄。數月,玄宗幸蜀,鎬自山谷徒步扈從。肅宗即位,玄宗遣鎬赴行在所。鎬至鳳翔,奏識多有弘益,拜諫議大夫,尋遷中書侍郎、同中書門下平章事。時供奉僧在內道場晨夜念佛,動數百人,聲聞禁外。鎬奏曰:「臣聞天子修福,要在安養含生,靖一風化,未聞區區僧教,以致太平。伏願陛下以無為為心,不以小乘而撓聖慮。」肅宗甚然之。時方興軍戎,帝註意將帥,以鎬有文武才,尋命兼河南節度使,持節都統淮南等道諸軍事。鎬既發,會張巡宋州圍急,倍道兼進,傳檄濠州刺史閭丘曉引兵出救。曉素愎戾,馭下少恩,好獨任己。及鎬信至,略無稟命,又慮兵敗,禍及於己,遂逗留不進。鎬至淮口,宋州已陷,鎬怒曉,即杖殺之。及收復兩京,加鎬銀青光祿大夫,封南陽郡公,詔以本軍鎮汴州,招討殘孽。時賊帥史思明表請以范陽歸順,鎬揣知其偽,恐朝廷許之,手書密表奏曰:「思明兇豎,因逆竊位,兵強則眾附,勢奪則人離。包藏不測,禽獸無異,可以計取,難以義招。伏望不以威權假之。」又曰:「滑州防禦使許叔冀,性狡多謀,臨難必變,望追入宿衛。」肅宗計意已定,表入不省。鎬為人簡淡,不事中要。會有宦官自范陽及滑州使還者,皆言思明、叔冀之誠愨。肅宗以鎬不切事機,遂罷相位,授荊州大都督府長史。後思明、叔冀之偽皆符鎬言。尋征為太子賓客,改左散騎常侍。屬嗣岐王珍被誣告構逆伏法,鎬買珍宅坐累,貶辰州司戶。

代宗即位し、恩を海内に推し、撫州刺史に拝す。洪州刺史・饒吉等七州都団練観察等使に遷り、尋いで正しく江南西道都団練観察等使を授く。広徳二年九月卒す。

原文代宗即位,推恩海內,拜撫州刺史。遷洪州刺史、饒吉等七州都團練觀察等使,尋正授江南西道都團練觀察等使。廣德二年九月卒。

鎬は入仕より凡そ三年にして、位を宰相に致す。身を居するに清廉にして、資産を営まず、謙恭に下士し、談論を善くし、多く大體を識る。故に天下具瞻し、考秩至浅と雖も、旧徳と推さるる云う。

原文鎬自入仕凡三年,致位宰相。居身清廉,不營資產,謙恭下士,善談論,多識大體,故天下具瞻,雖考秩至淺,推為舊德云。

高適

原文高適

高適は、渤海蓚の人なり。父従文、位は終に韶州長史。適は少く濩落し、生業に事えず、家貧しく、梁・宋に客し、求丐を以て取給す。天宝中、海内事干進する者は文詞に注意す。適は年五十を過ぎ、始めて詩什に留意し、数年之間に、體格漸く変じ、気質を以て自ら高しとし、毎に一篇を吟ずるに、已に好事者の称誦する所と為る。宋州刺史張九皐深く之を奇とし、有道科に薦挙す。時に右相李林甫権を擅にし、文雅に薄く、唯だ挙子を以て之を待つ。褐を解き汴州封丘尉と為るも、其の好む所に非ず、乃ち位を去り、河右に客遊す。河西節度哥舒翰見て之を異とす。表して左驍衛兵曹と為し、翰府の掌書記を充て、翰に従い朝に入り、盛んに之を上前に称す。

原文高適者,渤海蓚人也。父從文,位終韶州長史。適少濩落,不事生業,家貧,客於梁、宋,以求丐取給。天寶中,海內事干進者註意文詞。適年過五十,始留意詩什,數年之間,體格漸變,以氣質自高,每吟一篇,已爲好事者稱誦。宋州刺史張九臯深奇之,薦舉有道科。時右相李林甫擅權,薄於文雅,唯以舉子待之。解褐汴州封丘尉,非其好也,乃去位,客遊河右。河西節度哥舒翰見而異之。表爲左驍衞兵曹,充翰府掌書記,從翰入朝,盛稱之於上前。

禄山の乱、翰を征して賊を討たしむ。適を左拾遺に拝し、転じて監察御史と為し、仍て翰を佐けて潼関を守る。及び翰兵敗るるや、適は駱谷より西馳し、行在に奔赴し、河池郡に及び、玄宗に謁見し、因りて潼関敗亡の勢を陳べて曰く、「僕射哥舒翰は忠義感激す、臣頗る之を知る、然れども疾病沈頓し、智力将に竭きんとす。監軍李大宜は将士と香火を約し、倡婦に箜篌琵琶を弾ぜしめて以て相娯楽し、樗蒱飲酒し、軍務を恤みず。蕃渾及び秦・隴の武士は、盛夏五六月赤日の中に在りて、倉米飯を食らうも尚ほ足らず、其の勇戦を欲するは、安んぞ得可けんや。故に敵を望みて散亡し、陣に臨みて翻動する者有り、万全の地、一朝にして失う。南陽の軍は、魯炅・何履光・趙国珍各皆節を持ち、監軍等数人更相に用事す。寧ぞ是有らん、戦いて能く必勝せんや。臣は楊国忠と争うも、終に見納れられず。陛下此に因りて巴山・剣閣の険を履み、西に蜀中に幸し、其の蠆毒を避くるは、未だ恥と為すに足らず」と。玄宗之を嘉し、尋いで侍御史に遷す。成都に至り、八月、制して曰く、「侍御史高適は、節を立て貞峻、躬を植え高朗、感激して経済の略を懐き、紛綸として文雅の才を贍す。長策遠図、大體と云う可く、讜言義色、実に忠臣と謂う可し。宜しく糾逖の任を回らし、諷諭の職を超えしむべし。諫議大夫と為す可く、緋魚袋を賜う」と。適は気を負いて敢えて言い、権幸之を憚る。

原文祿山之亂,征翰討賊,拜適左拾遺,轉監察御史,仍佐翰守潼關。及翰兵敗,適自駱谷西馳,奔赴行在,及河池郡,謁見玄宗,因陳潼關敗亡之勢曰:「僕射哥舒翰忠義感激,臣頗知之,然疾病沈頓,智力將竭。監軍李大宜與將士約爲香火,使倡婦彈箜篌琵琶以相娛樂,樗蒱飲酒,不恤軍務。蕃渾及秦、隴武士,盛夏五六月於赤日之中,食倉米飯且猶不足,欲其勇戰,安可得乎?故有望敵散亡,臨陣翻動,萬全之地,一朝而失。南陽之軍,魯炅、何履光、趙國珍各皆持節,監軍等數人更相用事,寧有是,戰而能必勝哉?臣與楊國忠爭,終不見納。陛下因此履巴山、劍閣之險,西幸蜀中,避其蠆毒,未足爲恥也。」玄宗嘉之,尋遷侍御史。至成都,八月,制曰:「侍御史高適,立節貞峻,植躬高朗,感激懷經濟之略,紛綸贍文雅之才。長策遠圖,可雲大體;讜言義色,實謂忠臣。宜回糾逖之任,俾超諷諭之職,可諫議大夫,賜緋魚袋。」適負氣敢言,權幸憚之。

二年、永王璘江東に起兵し、揚州を拠らんと欲す。初め、上皇諸王を分鎮せしむ。適は切に諫めて不可とす。是に及び永王叛く。粛宗其の論諫素より有るを聞き、召して之に謀る。適自ら因りて江東の利害を陳べ、永王必ず敗るることを言う。上其の対を奇とし、適を以て兼ねて御史大夫・揚州大都督府長史・淮南節度使と為す。詔して江東節度来瑱と本部兵を率いて江淮の乱を平げしめ、安州に会わしむ。師将に渡らんとして永王敗る。乃ち季広琛を歴陽に招く。兵罷み、李輔国は適の敢言を悪み、上前に短じて、乃ち左授して太子少詹事と為す。未幾、蜀中乱れ、出でて蜀州刺史と為り、彭州に遷る。剣南は玄宗還京の後、梓・益二州に各一節度を置き、百姓労敝す。適自ら因りて西山三城を出でて戍を置き、之を論じて曰く、

原文二年,永王璘起兵於江東,欲據揚州。初,上皇以諸王分鎮,適切諫不可。及是永王叛,肅宗聞其論諫有素,召而謀之。適自因陳江東利害,永王必敗。上奇其對,以適兼御史大夫、揚州大都督府長史、淮南節度使。詔與江東節度來瑱率本部兵平江淮之亂,會於安州。師將渡而永王敗,乃招季廣琛於歷陽。兵罷,李輔國惡適敢言,短於上前,乃左授太子少詹事。未幾,蜀中亂,出爲蜀州刺史,遷彭州。劍南自玄宗還京後,於梓、益二州各置一節度,百姓勞敝,適自因出西山三城置戍,論之曰:

剣南は東西両川と称するも、実は一道である。邛関・黎・雅より南蛮に接し、茂州より西は羌中を経て平戎数城に至り、吐蕃に接する。辺境の小郡は、それぞれ軍備を整え、みな剣南に給される。その糧運と戍守は、全蜀の力を以てし、山南を兼ねてこれを補佐するも、なお挙げられない。今、梓・遂・果・閬等八州を分かち東川節度と為し、歳月の計は、西川これを参ずるを得ない。而して嘉・陵は近ごろ夷獠に陥落され、今は小定するも、瘡痍未だ平らかならず。また一年以来、耕織ことごとく廃し、衣食の業は、皆成都に貿易する。則ちその人を得て役すること明らかに不可なり。今、税賦を課し得るは、成都・彭・蜀・漢の四州である。また四州は残弊し、他十州の重役に当たる。その終久に於いて、また至艱ならずや。また利を言う者は穿鑿万端、皆これを百姓より取り、応差科する者は、朝より暮れに至るまで、案牘千重。官吏相承し、罪譴を懼れ、或いはこれを鄰保に責め、或いは杖罰を以てこれを威す。督促已まず、逋逃益々滋し、流亡無からんと欲するも、理として得べからず。比日、関中米貴く、衣冠士庶、頗るまた城を出で、山南・剣南、道路相望み、村坊市肆、蜀人と雑居し、その升合斗儲、皆蜀人に求む。且つ田土疆界は、蓋しまた涯有り、賦税差科は、乃ち涯無し。蜀人の為に計る、また難ならずや。

原文劍南雖名東西兩川,其實一道。自邛關、黎、雅,界於南蠻也;茂州而西,經羌中至平戎數城,界於吐蕃也。臨邊小郡,各舉軍戎,並取給於劍南。其運糧戍,以全蜀之力,兼山南佐之,而猶不舉。今梓、遂、果閬等八州分爲東川節度,歲月之計,西川不可得而參也。而嘉、陵比爲夷獠所陷,今雖小定,瘡痍未平。又一年已來,耕織都廢,而衣食之業,皆貿易於成都,則其人不可得而役明矣。今可稅賦者,成都、彭、蜀、漢州。又以四州殘敝,當他十州之重役,其於終久,不亦至艱?又言利者穿鑿萬端,皆取之百姓;應差科者,自朝至暮,案牘千重。官吏相承,懼於罪譴,或責之於鄰保,或威之以杖罰。督促不已,逋逃益滋,欲無流亡,理不可得。比日關中米貴,而衣冠士庶,頗亦出城,山南、劍南,道路相望,村坊市肆,與蜀人雜居,其升合鬥儲,皆求於蜀人矣。且田士疆界,蓋亦有涯;賦稅差科,乃無涯矣。爲蜀人之計,不亦難哉!

今、吐蕃と境を接する城堡にして蜀人を疲弊せしむるは、平戎以西の数城に過ぎない。窮山の頂に邈として在り、険絶の末に垂れ、束馬の路に糧を運び、無人の郷に甲を坐す。戎狄を以てこれを言えば、戎狄を利するに足らず、国家を以てこれを言えば、土宇を広むるに足らず。奈何ぞ険阻弾丸の地を以て、全蜀太平の人を困せんや。恐らくは今日の急務に非ざるなり。国家若し已に戍するの地を廃すべからず、已に鎮するの兵を収むべからずとせば、当に宜しく東川を却停し、力を併せて事に従うべし。なお狼狽を恐るるに、安んぞ成都・彭・漢・蜀の四州に仰がんや。聖朝の関東を洗蕩し逆乱を掃清せんとするの意に乖れるを慮る。倘し蜀人復た擾れば、豈に陛下の憂を貽さざらんや。昔、公孫弘は西南夷・臨海を罷め、専ら朔方に事えんことを願い、賈捐之は珠崖を棄てて以て中土を寧んぜんことを請う。讜言政本、一朝一夕に非ず。臣愚、東川節度を罷め、一剣南と為し、西山不急の城を稍々減削せんことを望む。則ち事窮頓無く、庶くは倒懸を免れん。陛下若し微臣の陳ぶる所、万一に裨益有りと為さば、宰相に下して廷議せしめ、公忠の大臣を降してその損益を定め、剣南節度と終始処置せしめよ。

原文今所界吐蕃城堡而疲於蜀人,不過平戎以西數城矣。邈在窮山之巔,垂於險絕之末,運糧於束馬之路,坐甲於無人之鄉。以戎狄言之,不足以利戎狄;以國家言之,不足以廣土宇。奈何以險阻彈丸之地,而困於全蜀太平之人哉?恐非今日之急務也。國家若將已戍之地不可廢,已鎮之兵不可收,當宜卻停東川,並力從事,猶恐狼狽,安可仰於成都、彭、漢、蜀四州哉!慮乖聖朝洗蕩關東掃清逆亂之意也。倘蜀人復擾,豈不貽陛下之憂?昔公孫弘願罷西南夷、臨海,專事朔方,賈捐之請棄珠崖以寧中土,讜言政本,匪一朝一夕。臣愚望罷東川節度,以一劍南,西山不急之城,稍以減削,則事無窮頓,庶免倒懸。陛下若以微臣所陳有裨萬一,下宰相廷議,降公忠大臣定其損益,與劍南節度終始處置。

疏を奏すれども納れられず。

原文疏奏不納。

後に梓州副使段子璋反し、兵を以て東川節度使李奐を攻む。適、州兵を率いて西川節度使崔光遠に従い子璋を攻め、これを斬る。西川牙将花驚定なる者は、勇を恃み、子璋を誅するや、大いに東蜀を掠る。天子、光遠の軍を戢むること能わざるを怒り、乃ちこれを罷め、適を以て光遠に代わり成都尹・剣南西川節度使と為す。代宗即位し、吐蕃隴右を陥し、漸く京畿に逼る。適、蜀に於いて兵を練り、吐蕃の南境に臨み以てこれを牽制す。師出でて功無く、松・維等州は尋いで蕃兵の陥す所と為る。代宗、黄門侍郎厳武を以て代え還し、用いて刑部侍郎と為し、散騎常侍に転じ、銀青光禄大夫を加え、渤海県侯に進封し、食邑七百戸。永泰元年正月卒す。礼部尚書を贈り、謚して忠と曰う。

原文後梓州副使段子璋反,以兵攻東川節度使李奐,適率州兵從西川節度使崔光遠攻於璋,斬之。西川牙將花驚定者,恃勇,既誅子璋,大掠東蜀。天子怒光遠不能戢軍,乃罷之,以適代光遠爲成都尹、劍南西川節度使。代宗即位,吐蕃陷隴右,漸逼京畿。適練兵於蜀,臨吐蕃南境以牽制之,師出無功,而松、維等州尋爲蕃兵所陷。代宗以黃門侍郎嚴武代還,用爲刑部侍郎,轉散騎常侍,加銀青光祿大夫,進封渤海縣侯,食邑七百戶。永泰元年正月卒,贈禮部尚書,謚曰忠。

適は王覇の大略を言うを喜び、功名を務め、節義を尚ぶ。時に逢いて多難、安危を以て己が任と為す。然れども言その術を過ぎ、大臣の軽ぶる所と為る。累ねて藩牧と為り、政は寛簡を存し、吏民これを便とす。文集二十巻有り。その『賀蘭進明に与うる書』は、疾く梁・宋を救い、以て諸軍を親しませ、『許叔冀に与うる書』は、綢繆として継好し、他憾を釈せしめ、同じく梁・宋を援けしめ、『淮を未だ過ぎざるに先だち将校に与うる書』は、永王を絶たしめ、各おの自白を求めしむ。君子以て義にして変を知ると為す。而して唐已来、詩人の達する者は、唯適のみ。

原文適喜言王霸大略,務功名,尚節義。逢時多難,以安危爲己任,然言過其術,爲大臣所輕。累爲籓牧,政存寬簡,吏民便之。有文集二十卷。其《與賀蘭進明書》,令疾救梁、宋,以親諸軍;《與許叔冀書》,綢繆繼好,使釋他憾,同援梁、宋;《未過淮先與將校書》,使絶永王,各求自白,君子以爲義而知變。而有唐已來,詩人之達者,唯適而已。

暢璀

原文暢璀

暢璀は、河東の人である。郷挙して進士となる。天宝末、安禄山に奏せられて河北海運判官と為る。三遷して大理評事、副元帥郭子儀に辟せられて従事と為る。至徳初、粛宗即位し、大いに俊傑を収む。或いは璀を薦む。召見してこれを悦び、諫議大夫に拝す。累転して吏部侍郎。広徳二年十二月、散騎常侍・河中尹、兼御史大夫と為る。永泰元年、復た左常侍と為り、裴冕と並びに集賢院待制。大暦五年、兼ねて太常卿を判じ、戸部尚書に遷る。十年七月卒す。太子太師を贈る。

原文暢璀,河東人也。鄉舉進士。天寶末,安祿山奏為河北海運判官。三遷大理評事,副元帥郭子儀辟為從事。至德初,肅宗即位,大收俊傑,或薦璀,召見悅之,拜諫議大夫。累轉吏部侍郎。廣德二年十二月,為散騎常侍、河中尹,兼御史大夫。永泰元年,復為左常侍,與裴冕並集賢院待制。大歷五年,兼判太常卿,遷戶部尚書。十年七月卒,贈太子太師。

璀は廓落として口才有り、王覇の略を談ずるを好む。職に居りては属吏に責めて成さしむ。齪齪として過無きのみ。

原文璀廓落有口才,好談王霸之略,居職責成屬吏。齪齪無過而已。

史臣曰く

原文史臣曰

史臣曰く:禄山両京を寇陷す。儒生士子、脅従せられ、苟且を懐く者多し。逆を去り順に效し、家を毀ち国為す者少なし。光遠の如きは勇決任気、権変に会して以て功を立て、房琯は文学身を致し、節義を全うして以て寇を避く。阽危の時、顛沛はいの際、称すべき者有り。然れども光遠は重藩に居り軍政を掌り、琯は相位に登り将権を奪い、浮薄の徒を聚め、軍旅の事を敗る。機を知らずして固く位し、竟に徳無くして自ら危うし。孺復は兇狂、式之は便佞、令終を得る者は幸いなり。鎬は直躬位に居り、重徳時を鎮む。その人と為るや鮮なり。適は詩人を以て戎帥と為り、険難の際、名節虧けず。君子なるかな。璀は第を擢で官に居り、分を守り過無し。また何ぞ咎めん。

原文史臣曰:祿山寇陷兩京,儒生士子,被脅從、懷茍且者多矣;去逆效順,毀家為國者少焉。如光遠勇決任氣,會權變以立功;房琯文學致身,全節義以避寇。阽危之時,顛沛之際,有足稱者。然光遠居重籓,掌軍政,琯登相位,奪將權,聚浮薄之徒,敗軍旅之事,不知機而固位,竟無德以自危。孺復兇狂,式之便佞,獲令終者幸焉。鎬直躬居位,重德鎮時,其為人也鮮矣。適以詩人為戎帥,險難之際,名節不虧,君子哉!璀擢第居官,守分無過,又何咎焉。

賛に曰く:光遠・房琯は始め有り終り有り。張鎬は国器、適・璀は儒風。

原文贊曰:光遠、房琯,有始有終。張鎬國器,適、璀儒風。