旧唐書 列伝第六十 李光弼 王思礼 邓景山 辛云京

旧唐書

列伝第六十 李光弼 王思礼 邓景山 辛云京

李光弼

李光弼は、営州柳城の人である。その祖先は、契丹の酋長であった。父の楷洛は、開元の初めに、左羽林将軍同正・朔方節度副使となり、薊国公に封ぜられ、驍勇果敢で知られた。光弼は幼い頃より節操と行いを保ち、騎射に優れ、班氏の『漢書』を読むことができた。若くして軍務に従い、厳格で毅然として大略を持ち、左衛郎より起家した。父の喪に服し、喪が明けるまで妻の部屋に入らなかった。

天宝の初め、累進して左清道率兼安北都護府・朔方都虞候となった。五載、河西節度使王忠嗣が兵馬使に補任し、赤水軍使を充てた。忠嗣は彼を非常に厚遇し、常々「光弼は必ずや我が地位につくであろう」と言った。辺境では名将と称された。八載、節度副使を充て、薊郡公に封ぜられた。十一載、単于副使都護に任ぜられた。十三載、朔方節度使安思順が副使・留後事を知ることを奏上した。思順はその才能を愛し、娘を娶らせようとしたが、光弼は病気を称して官を辞した。隴右節度使哥舒翰がこれを聞いて奏上し、京師に帰還することができた。安禄山の乱が起こり、封常清・高仙芝が戦いに敗れ、潼関で斬られた。また哥舒翰に賊を防がせることとなった。まもなく郭子儀を朔方節度使に命じ、河西の兵を収めた。玄宗は良将を求め、河北・河東のことを委ねようとし、子儀に問うたところ、子儀は光弼が閫寄(軍権委任)に堪えると推薦した。十五載正月、光弼を雲中太守とし、御史大夫を摂行させ、河東節度副使・節度事を知らせた。二月、魏郡太守・河北道采訪使に転じ、朔方兵五千を率いて郭子儀軍と合流し、東進して井陘を下り、常山郡を収めた。賊将史思明が数万の兵卒を率いて常山を救援に来たが、追撃してこれを破り、進んで槁城など十余県を収め、南進して趙郡を攻めた。三月八日、光弼は范陽長史・河北節度使を兼ね、趙郡を抜いた。禄山が反乱して以来、常山は戦場となり、死者が野を覆い、光弼はその屍に酒をそそぎ泣き、賊に幽閉されていた者を救い出し、寇難を平らげてその心を慰めることを誓った。六月、賊将蔡希徳・史思明・尹子奇と常山郡の嘉山で戦い、賊党を大破し、斬首は万を数え、生け捕りは四千に及んだ。思明は髪を振り乱し裸足で、博陵に奔った。河北で帰順するもの十余郡。

光弼は范陽が禄山の巣窟であるから、まずこれを断ち、その根本を絶たんとした。ちょうど哥舒翰が潼関を失守し、玄宗が蜀に幸し、人心が驚愕した。粛宗が霊武で兵を整え、中使劉智達を遣わして光弼・子儀を行在所に赴かせ、光弼に戸部尚書を授け、太原尹・北京留守・同中書門下平章事を兼ねさせ、景城・河間の兵卒五千を率いて太原に赴かせた。当時、節度使王承業は軍政を修めず、詔により御史崔衆が河東で兵を引き継ぐこととなった。衆は承業を侮り軽んじ、ときには甲を着け槍を持って、承業の庁事に突入して戯れ弄んだ。光弼はこれを聞いて以前から不満であった。ここに至り、衆の兵を光弼に引き継ぐこととなった。衆は麾下を率いて来たが、光弼が出迎えても、旌旗が相接しても避けなかった。光弼はその無礼を怒り、また直ちに兵を引き継がなかったので、捕らえて拘禁するよう命じた。まもなく中使が到着し、衆を御史中丞に任命する詔を持ち、その詔を懐にして衆の所在を尋ねた。光弼は言った、「衆は罪あり、拘禁しました」。中使が詔を光弼に見せると、光弼は言った、「今はただ侍御史を斬る。もし制命を宣するならば、即ち中丞を斬る。もし宰相に任ずるならば、宰相をも斬る」。中使は恐れ、遂にそれを止めて帰った。翌日、兵仗で衆を取り囲み、碑堂の下に至って斬り、三軍を威震させた。その親族に弔問させた。

二年、賊将史思明・蔡希徳・高秀巖・牛廷玠ら四偽帥が十余万の兵衆を率いて太原を攻め来たった。光弼は河北での苦戦を経て、精兵はことごとく朔方に赴き、麾下は皆烏合の衆で、一万人に満たなかった。思明は諸将に言った、「光弼の兵は寡弱である。指を屈して太原を取ることができ、鼓を鳴らして西進し、河隴・朔方を図れば、後顧の憂いはない」。光弼の配下の将士はこれを聞いて皆恐れ、城を修繕して待とうと議したが、光弼は言った、「城の周囲は四十里、賊が今にも到来しようとしているのに、今工事を起こせば、敵を見ずして自ら疲弊するだけである」。そこで自ら士卒と百姓を率いて外城に壕を掘って自らを固めた。塹壕を数十万作り、兵衆はその用いるところを知らなかった。賊が外から城を攻めると、光弼は即ち内側に堡塁を増築するよう命じ、環状に補った。城外で罵り戯れ侮る賊がいるのを、光弼は地道を穿つよう命じ、一晩でこれを生け捕りにした。これより賊将は歩くたびに地面を見るようになり、城に近づくことを敢えてしなくなった。強弩で石を発射して撃ち、賊の驍将・勁卒の死者は十二三に及んだ。城中の老若は皆その勤勉と知略に感服し、臆病な兵も気勢を増して皆出戦を望んだ。史思明はこれを推し量って知り、先に帰還し、蔡希徳らを留めて攻めさせた。一月余り、我が方は怒り、賊は怠ったところで、光弼は敢死の士を率いて出撃し、これを大破し、斬首七万余級、軍資・器械はことごとく放棄させた。賊が到来してから遁走するまで五十余日、光弼は小さな幕舎を設け、城の東南隅に宿し、急があれば即座に対応し、府門の前を通っても、一度も振り返らなかった。賊が退いて三日後、軍務を決裁し終えて、初めて府第に帰った。検校司徒に転じ、清夷・横野等の軍を収め、賊将李弘義を生け捕りにして帰還した。詔して言う、「銀青光禄大夫・検校司徒・兼戸部尚書・同中書門下平章事・兼御史大夫・鴻臚卿・太原尹・北京留守・河東節度副大使・薊国公光弼は、全徳を挺生し、英才が間出し、幹城として侮を禦ぎ、坐甲して辺を安んず。司空を守り、兵部尚書・中書門下平章事を兼ね、魏国公に進封し、実封八百戸を食すべし」。

乾元元年、関内節度使王思礼と共に入朝し、勅命により朝官四品以上が城外に出て迎謁した。侍中に遷り、鄭国公に改封された。二年七月、制書に曰く、「元帥の任は、実に師貞に属し、左軍の先は、まことに邦傑に資る。道を申して啓沃し、学を富ませて韜鈐に富まざれば、いずくんぞ閫を分けて翊び征を専にし、門を鑿ちて律を受くに膺からんや。諸将相に求め、まさにその人を得たり。司空・兼侍中・鄭国公光弼は、器識弘遠にして、志懐沈毅、孫・呉の略を蘊み、文武の材あり。往時艱難に属し、忠勇を備え彰わし、風雲に協して経始し、宗社を阽危に保つ。ここにより出ては長城を備え、入りては大廈を扶け、茂功は日月に懸かり、嘉績は巌廊に被る。残寇なお虞るべきに属し、総戎命あり、賢を択ぶの佐を用い、親を建つるの典を弘むるに式る。必ずや邦国を緝寧し、天人を協賛し、丹浦の師に誓い、かの緑林の盗を剿さん。朝獎を載明し、旧勛を爰に籍る。出車の命に副い、なお麾を分かつの寵を践むべし。天下兵馬元帥趙王係の副と為り、節度行営事を知らしむ。」八月、幽州大都督府長史・河北節度支度営田経略等使を兼ね、余はもと通りとした。九節度の兵と共に相州において安慶緒を囲み、陥落する日も近かった。史思明が范陽より来援し、糧道を絶たれるに属し、光弼は身を士卒に先んじ、苦戦してこれを破った。大風晦冥に属し、諸将は衆を引いて退き、所在で剽掠したが、ただ光弼の所部のみ散らなかった。東京留守崔円・河南尹蘇震は南奔して襄陽に至り、郭子儀は衆を率いて谷水に屯した。史思明は安慶緒を殺し、即ち偽位に即き、兵を河南に放った。光弼に太尉・兼中書令を加え、郭子儀に代わって朔方節度・兵馬副元帥とし、東師をこれに委ねた。左廂兵馬使張用済は子儀の寛を承け、光弼の令を懼れ、諸将と頗る異議あり、その衆を逗留せんとした。光弼は数千騎を以て出でて汜水県に次し、用済は単騎で迎謁したが、即座に轅門で斬った。諸将は慴伏し、都兵馬使仆固懐恩は期より先に至った。

初め、光弼が汴州に次した時、思明が衆を悉く率いて将に至らんとするを聞き、許叔冀に謂いて曰く、「大夫はこの城を浹旬守ることができれば、我必ず兵を将いて来援せん。」叔冀曰く、「諾。」光弼は東京に還り、思明は汴に至り、叔冀はこれと戦って利あらず、遂に董秦・梁浦・劉従諫と共に衆を率いて思明に降った。賊勢は甚だ熾んで、梁浦・劉従諫・田神功等を遣わして兵を将い江淮を徇わし、これに謂いて曰く、「その地を得れば、人ごとに玉帛を両船貢げ。」思明は勝に乗じて西す。光弼は衆を整えて徐行し、洛に至り、留守韋陟に謂いて曰く、「賊は鄴下の勝に乗じ、再び王畿を犯さんとす。甲を按じてその鋒を挫くべく、速戦は利あらず。洛城は禦備の所に非ず、公の計はいかん。」陟曰く、「兵を陝州に加え、退いて潼関を守り、険に拠ってこれを待てば、足りてその鋭を挫かん。」光弼曰く、「これは蓋し兵家の常勢にして、奇を用いるの策に非ず。夫れ両軍相寇うは、尺寸の間を進むを貴ぶ。今五百里を委ねて顧みざるは、これ賊勢を張るなり。若し軍を河陽に移し、北は沢潞・三城を阻んで抗し、勝てばこれを擒にし、敗れば自ら守り、表裏相応じて、賊をして敢えて西侵せしめざらしめば、これすなわち猿臂の勢いなり。夫れ朝廷の礼を弁ずるは、光弼公に如かず、軍旅の事を論ずるは、公光弼に如かず。」陟応えること無し。判官韋損曰く、「東京は帝宅なり、侍中何ぞこれを守らざる。」光弼曰く、「若し洛城を守らば、汜水・崿嶺皆人を以て守るを須い、子は兵馬判官たり、これを守ることができんや。」遂に牒を移して留守及び河南尹並びに留司官・坊市居人に、城を出でて寇を避け、その城を空うし、軍士を率いて油鉄諸物を運び、以て戦守の備えと為す。時に史思明は已に偃師に至り、光弼は軍を悉くして河陽に赴く。賊は已に洛城に至り、光弼の軍は方に石橋に至る。日暮れて、炬を秉りて徐行するを令し、賊と相随いながら、敢えて来犯せず。乙夜、河陽三城に入る。守備を排閲し、号令厳明にして、士卒と甘苦を同じくし、皆力戦を誓う。賊は光弼の威略を憚り、兵を白馬寺に頓し、南は百里を出でず、西は敢えて宮闕を犯さず、河陽の南に月城を築き、壕を掘って光弼に拒ぐ。十月、賊城を攻む。中潬城の西において逆党五千余衆を大破し、千余級を斬首し、五百余人を生擒し、溺死者は大半なり。

初め、光弼李抱玉に謂いて曰く、「将軍我が為に南城を二日守ることができんや。」抱玉曰く、「期を過ぎばいかん。」光弼曰く、「期を過ぎて救い至らざれば、棄つるに任せよ。」抱玉命を稟け、兵を勒して南城を守る。将に陥らんとするに、抱玉賊を紿いて曰く、「吾糧尽きぬ、明日当に降らん。」賊衆大いに喜び、軍を斂めてこれを俟つ。抱玉復た繕完して設備するを得、明日、壁を堅めて戦を請う。賊怒って欺かれたるを見、急ぎこれを攻む。抱玉奇兵を出だし、表裏夾撃して、殺傷甚だ衆く、賊帥周摯軍を領して退く。光弼自ら中潬城に将す。城外に柵を置き、柵外に大いに塹を掘り、闊二丈、深さもまたかくの如し。周摯南城を捨て、力を併せて中潬を攻む。光弼は荔非元礼に命じて勁卒を羊馬城に出だして賊を拒がしむ。光弼は城の東北角に小紅旗を樹て、下って賊軍を望む。賊は衆を恃みて直ちにその城に逼り、車二乗に木鵝・蒙衝・闘楼・橦車を載せてその後に随い、兵を督して城下の塹を填め、三面各八道その兵を通し、又塹に当たって柵を開き、各一門を置く。光弼遥かに賊の城に逼るを望み、人をして荔非元礼に語らしめて曰く、「中丞賊の塹を填め柵を開き兵を通すを見て、居然顧みざるは、何ぞや。」元礼報いて曰く、「太尉は守らんと擬すか、戦わんと擬すか。」光弼曰く、「戦わん。」元礼曰く、「若し戦わんとせば、賊我が為に塹を填むるなり、また何ぞ嫌わんや。」光弼曰く、「吾智公に及ばず、公そのこれを勉めよ。」元礼は柵の開くを俟ち、その勇敢を率いて出戦し、一たび賊軍に逼り、数百歩退き走る。元礼は敵陣の堅きを料り、出処して馳突すと雖も、賊を破るに足らず、軍を収めて稍々退き、以てその寇を怠らしめてこれを攻めんとす。光弼は軍を収むるを見て、大いに怒り、人をして元礼を喚ばしめ、軍令を按ぜんと欲す。元礼曰く、「戦い正に忙し、何物を喚ぶぞ。」良久しくして、軍中に鼓噪して柵門を出だし、徒搏して斉しく進むを令す。賊大いに潰ゆ。

周摯は再び軍を整えて北城を押さえ下り、これを攻めようとした。光弼は急いで兵を率いて北城に入り、城上に登って望見して言った。「彼らは数は多いが、乱れて騒がしく、恐れるに足らない。公らに代わって日中のうちにこれを破ろう。」命じて出て戦おうとした。期日になっても決着がつかず、諸将に言った。「先ほどの戦いで、どこが最も堅くて侵し難かったか。」ある者が言った。「西北の角です。」急いで郝玉に命じて言った。「そちはそこを攻撃せよ。」玉は言った。「玉は歩卒です。騎兵五百を付けて援護してほしい。」光弼は三百を与えた。また尋ねた。「どこが最も堅いか。」答えて言った。「東南の隅です。」すぐに論惟貞に命じて配下の兵を率いてそこを攻撃させた。これに対して言った。「貞は蕃将です。歩戦の仕方を知りません。鉄騎三百を請います。」百騎を与えた。光弼はさらに賜った馬四十匹を出して分け与え、かつ命じて言った。「お前たちは我が旗を見て戦え。もし旗をゆっくり振ったら、お前たちの判断で見定めて適宜行動せよ。我が旗を連続して三度地に振り下ろしたら、万の兵が一斉に突入する。生死をかけて戦い、少しでも退く者は斬って許さない。」玉は馬を駆って賊に赴いた。一人の者が槍をかざして賊を刺し、馬の腹を貫き、数人を連続して刺した。一人の者が賊に遭遇したが、戦わずに退いた。光弼は戦わなかった者を呼び出して斬り、槍をかざした者に絹五百匹を賞した。しばらくして、郝玉が走って帰ってきた。光弼はそれを見て驚いて言った。「郝玉が退いたなら、我が事は危うい。」左右の者に命じて玉の首を取って来させた。玉は使者を見て言った。「馬が矢に当たったのであって、敢えて敗れたわけではありません。」使者が駆け戻って報告すると、光弼は馬を換えさせて遣わした。玉は馬を換えて再び入り、決死の覚悟で前進した。光弼は連続して旗を振り、三軍は旗を見て一斉に進み、その声は天地を震動させ、一太鼓で賊は大いに潰え、一万余りの首級を斬り、八千余人を生け捕りにし、軍資・器械・糧食の蓄えは数万に及んだ。陣中でその大将徐璜玉・李秦授・周摯を生け捕りにした。その大将安太清は逃れて懐州を守った。思明は周摯らの敗北を知らず、なお南城を攻めていた。光弼は捕虜をことごとく駆り立てて河辺に臨ませてこれを見せ、数十人を殺して威を示すと、残りの兵は恐れて河に飛び込み南岸に赴いたが、光弼は皆これを斬った。初め、光弼が戦おうとした時、左右の者に言った。「戦いは危険な事であり、勝敗はこれにかかっている。光弼は位は三公である。賊の手にかかって死ぬわけにはいかない。もし事がうまくいかなければ、死をもってこれに続く。」そしてこの時賊を撃つに当たり、常に短刀を靴の中に納め、決死の志を持ち、城上で西に向かって拝舞すると、三軍は感動した。賊が敗走した後、光弼は懐州を収め、思明が救援に来たので、沁水のほとりで迎え撃ち、またこれを破った。城将安太清は力を尽くして守りを固め、一月余り落ちなかった。光弼は仆固懷恩・郝玉に命じて地道から入り、その軍の合言葉を得て、城壁に登って大声で叫ぶと、我が軍も共に登り、城はついに陥落した。安太清・周摯・楊希文らを生け捕りにし、朝廷に送ると、その日に懐州は平定された。功により爵を進めて臨淮郡王とし、累次加封されて実封一千五百戸に至った。

観軍容使魚朝恩はしばしば賊を滅ぼせる状況を言上し、朝廷の命令で光弼に東都を速やかに収めるよう命じた。光弼はたびたび上表して言った。「賊の勢いはなお鋭く、時機を待って動くことを請い、軽々しく進むべきではありません。」仆固懷恩はまた光弼の功績を妬み、ひそかに朝恩に付き従い、賊は滅ぼせると言った。これにより中使が督戦し、光弼はやむを得ず、進軍して北邙山の下に陣を布いた。賊は精鋭をことごとく繰り出して戦い、光弼は敗北し、軍資・器械はすべて賊の所有となった。この時李抱玉もまた河陽を放棄し、光弼は河を渡って聞喜を守った。朝廷の命令では、懷恩の意見の相違が敗北を招いたとして、優詔を下してこれを召し還した。光弼は河中から朝廷に入り、表を捧げて罪を請うと、詔でこれを許した。光弼は太尉を固辞したので、開府儀同三司・侍中・河南尹・行営節度使を加えられた。まもなくまた太尉に任じられ、河南・淮南・山南東道・荊南等副元帥を充て、侍中はもとのままとし、出鎮して臨淮に赴いた。史朝義は邙山の勝利に乗じて、申・光など十三州を侵し、自ら精騎を率いて李岑を宋州に包囲した。将士は皆恐れ、南の揚州を守ることを請うたが、光弼は直ちに徐州に赴いてこれを鎮め、田神功を遣わしてこれを撃破させた。浙東の賊の首領袁晁が郡県を攻め略奪し、浙東は大いに乱れた。光弼は兵を分けて討伐し、江左を平定して、人心はようやく安まった。

初め、光弼が臨淮に止まろうとした時、道中で病を抱えながら進んだ。監軍使は袁晁が江淮をかき乱していることから、光弼の兵が少ないので、潤州を守ってその鋒を避けるよう請うた。光弼は言った。「朝廷は安危を我に託している。今賊は強いが、我が軍の多寡を測り知れない。もし不意を突けば、自ずから退くだろう。」そこで直ちに泗州に向かった。光弼が河南に至る前、田神功が劉展を平定した後、揚州府に逗留し、尚衡と殷仲卿が兗州・鄆州で争い、来瑱が襄陽で軍を率いて抵抗し、朝廷はこれを憂えた。光弼が軽騎で徐州に至ると、史朝義は退走し、田神功は急いで河南に帰り、尚衡・殷仲卿・来瑱は皆その威名を恐れ、相次いで朝廷に赴いた。宝応元年、進封して臨淮王とし、鉄券を賜り、その像を凌煙閣に描かせた。

広徳初め、吐蕃が京畿に侵入すると、代宗は詔を下して天下の兵を徴発した。光弼は程元振と折り合いが悪く、遅延して来なかった。十月、西戎が京師を犯すと、代宗は陜州に避難した。朝廷は光弼を頼みの援軍としていたが、嫌疑が生じるのを恐れ、たびたび詔を下してその母を尋ねさせた。吐蕃が退くと、光弼を東都留守に任じて、その去就を察しようとした。光弼はこれを窺い知り、長らく詔を待ったが来ないことを理由に辞し、かつ徐州に帰り、江淮の租税を収めて自らを養おうとした。代宗が京に還ると、二年正月、中使を遣わして慰労の意を伝えさせた。光弼の母は河中におり、密詔で子儀に輿に乗せて京師に帰らせた。その弟の光進は、李輔国と共に禁兵を掌り、心膂として委ねられていた。この時、光進を太子太保・兼御史大夫・涼国公・渭北節度使とし、上は彼をますます厚く遇した。

光弼は軍を統御するに厳粛で、天下はその威名に服し、号令を発するたびに、諸将は仰ぎ見ることができなかった。そして朝恩の害を恐れて朝廷に入ることを敢えてせず、田神功らも皆命令を受けず、そのため恥じ病となり、衙将の孫珍を遣わして遺表を奉って自らを陳述した。広徳二年七月、徐州で薨去した。時に五十七歳。三日間朝を停め、太保を追贈し、諡して武穆といった。光弼は病が重くなると、将吏が後事を尋ねたが、言った。「我は長く軍中におり、養うことができなかった。すでに不孝の子である。また何を言おうか。」そこで封じた絹と布をそれぞれ三千匹、銭三千貫文を取り出して将士に分け与えた。部下が喪の柩を護って京師に還った。代宗は中官開府の魚朝恩を遣わしてその母を私第で弔問させ、また京兆尹の第五琦に命じて喪事を監護させた。十一月、三原に葬り、詔で宰臣百官に命じて延平門外で送葬させた。母の李氏には、数十本のひげがあり、長さ五六寸で、子の貴さにより、韓国太夫人に封ぜられ、二人の子は皆一品の節度使となった。光弼は十年の間に三度朝廷に入り、弟の光進と京師にいて、光弼とは異母ではあったが、性質も孝悌に厚く、二つの旌旗が門に立ち、鼎の味を楽しみながら養いを受け、豪邸を並べて開き、往来して歓を追い、一時の栄華を極めた。

王思禮

王思禮は、営州城傍の高麗人である。父の虔威は、朔方軍の将となり、戦いに習熟していることで知られた。思禮は若くして軍旅に習い、節度使王忠嗣に従って河西に至り、哥舒翰と対になって押衙となった。

及んで翰が隴右節度使となると、思禮は中郎周泌とともに翰の押衙となり、石堡城を抜いた功績により、右金吾衛将軍に任ぜられ、関西兵馬使を充て、河源軍使を兼ねた。

十一載、雲麾将軍を加えられた。十二載、翰が九曲を征討した際、思禮は期日に遅れ、斬ろうとしたが、続いて命じてこれを釈放させた。思禮はゆるやかに言うことには、「斬るなら斬れ、しかし何を呼ぶのか」と。諸将は皆その雄々しさを称えた。

十三年、吐蕃の蘇毗王が塞に款したので、詔して翰を磨環川に至らせて応接させた。思禮は馬から落ちて足を損じ、翰は中使李大宜に言うことには、「思禮は既に足を損じた、さらにどこへ行かせようとするのか」と。

十四載六月、金城太守を加えられた。禄山が反すると、哥舒翰が元帥となり、思禮に開府儀同三司を加え、太常卿同正員を兼ねさせ、元帥府馬軍都将を充てることを奏上し、何事も思禮と独り決した。

十五載二月、思禮は翰に白状して安思順の父元貞を謀殺することを図り、紙隔ての上で密かに翰に語り、表を抗して楊国忠を誅殺することを請うたが、翰は応じなかった。さらに三十騎でこれを劫略し、横たえて潼関に来て殺すことを請うたが、翰は言うことには、「これはすなわち翰が反するのであって、どうして禄山の事に関わるのか」と。

六月、潼関が失陥すると、思禮は西に行在に赴き、安化郡に至った。思禮は呂崇賁・李承光とともに纛の下に引き出され、堅守できなかったことを責められ、ともに軍令に従った。

ある者がこれを救い、後の効を収めることができると言ったので、遂に承光を斬り、思禮と崇賁を釈放し、房琯を副使とした。便橋の戦いもまた利あらず、関内節度使に任ぜられた。

まもなく武功を守ることを遣わされた。賊将安守忠および李帰仁・安泰清が来戦し、思禮はその衆を率いて扶風に退守した。賊兵は分かれて大和関に至り、鳳翔より五十里のところに去った。

王師は大いに驚き、鳳翔は戒厳し、中官および朝官は皆その妻子を出したが、上は左右巡御史虞候に命じてその名を書かせ、やっと止んだ。

遂に司徒郭子儀に命じて朔方の衆を率いてこれを撃たせ、退却させた。至徳二年九月、思禮は元帥広平王に従って西京を収め、既に賊を破ると、思礼は兵を率いて先に景清宮に入った。

また子儀に従って陝城・曲沃・新店で戦い、賊軍は相次いで敗れ、東京を収めた。思禮はまた絳郡で賊六千余衆を破り、器械は山のように積み、牛馬は万を数えた。戸部尚書・霍国公に遷り、実封三百戸を食した。