舊唐書

巻109

巻109

舊唐書

原文舊唐書

卷一百九

原文卷一百九

列傳第五十九 馮盎 阿史那社爾 契苾何力 黑齒常之 李多祚 李嗣業 白孝德

原文列傳第五十九 馮盎 阿史那社爾 契苾何力 黑齒常之 李多祚 李嗣業 白孝德

馮盎

原文馮盎

馮盎は高州良徳の人である。累代にわたり本郡の大首領であった。盎は若くして武略があり、隋の開皇年間に宋康県令となった。仁寿初年、潮州・成州など五州の獠が叛き、盎は京師に馳せ至り、これを討つことを請うた。文帝は左僕射楊素に命じて盎と賊の形勢を論じさせたところ、素は言う、「蛮夷の中にこのような人物があるとは思わなかった。大いに奇とすべきである」と。ただちに盎に江・嶺の兵を発してこれを撃たせた。賊が平定されると、金紫光禄大夫を授け、さらに漢陽太守に任じた。

原文馮盎,高州良德人也。累代為本部大首領。盎少有武略,隋開皇中為宋康令。仁壽初,潮、成等五州獠叛,盎馳至京,請討之。文帝敕左僕射楊素與盎論賊形勢,素曰:「不意蠻夷中有此人,大可奇也。」即令盎發江、嶺兵擊之。賊平,授金紫光祿大夫,仍除漢陽太守。

武徳三年、広州・新州の二州の賊帥高法澄・洗宝徹らはともに林士弘の節度を受け、隋の官吏を殺害したので、盎は兵を率いてこれを撃破した。やがて宝徹の兄の子智臣がまた新州に兵を聚め、自ら渠帥となったので、盎は急ぎ往きこれを撃った。兵が交わると、盎は兜鍪を脱ぎ捨てて大呼して言う、「お前たちは私をよく知っているか」と。賊の多くは戈を棄てて肉袒して拝し、その徒はついに潰走し、宝徹・智臣らを擒らえ、嶺外はついに平定された。ある人が盎に説いて言う、「隋の末世に崩離して以来、海内は騒動している。今、唐は運に応じたとはいえ、風教はまだ行き渡らず、南越の一隅は未だ定まるところがない。公は五嶺の二十余州を平定した。趙佗の九郡と比べられようか。今、南越王の号を上ることを請う」と。盎は言う、「私は南越に住んで、すでに五代になる。本州の牧伯は、ただ我が一門のみである。子女玉帛は、私の有するところである。人生の富貴は、私のようではおよそ難しく、常に負荷に堪えずして先業を墜すことを恐れている。本州に衣錦するだけで足りる。他に何を求めようか。越王の号は、聞くところではない」と。

原文武德三年,廣、新二州賊帥高法澄、洗寶徹等並受林士弘節度,殺害隋官吏,盎率兵擊破之。既而寶徹兄子智臣又聚兵於新州,自為渠帥,盎趨往擊之。兵交,盎卻兜鍪大呼曰:「爾等頗識我否?」賊多棄戈肉袒而拜,其徒遂潰,擒寶徹、智臣等,嶺外遂定。或有說盎曰:「自隋季崩離,海內騷動。今唐雖應運,而風教未浹,南越一隅,未有所定。公克平五嶺二十余州,豈與趙佗九郡相比?今請上南越王之號。」盎曰:「吾居南越,於茲五代,本州牧伯,唯我一門,子女玉帛,吾之有也。人生富貴,如我殆難,常恐弗克負荷,以墜先業。本州衣錦便足,余復何求?越王之號,非所聞也。」

四年、盎は南越の衆を率いて降り、高祖こうそはその地を羅州・春州・白州・崖州・儋州・林州など八州とし、さらに盎に上柱国・高羅総管を授け、呉国公に封じ、まもなく越国公に改封した。その子智戴を春州刺史に任じ、智彧を東合州刺史とし、盎を耿国公に徙封した。貞観五年、盎が来朝すると、太宗は宴を賜い厚く賞賜した。まもなく羅竇の諸洞の獠が叛き、詔して盎に部落二万を率いて諸軍の先鋒となることを命じた。時に賊数万が険要に屯して拠り、攻め逼るべからざるものがあった。盎は弩を執って左右に語って言う、「この矢を尽くせば、勝負を知ることができよう」と。連続して七矢を発し、七人に中てたので、賊は退走し、そこで兵を放ってこれに乗じ、千余級を斬首した。太宗は智戴に還って慰問させ、以後賞賜は数えきれなかった。盎は奴婢一万余人を有し、居るところの地方二千里、簿領に勤め、奸状を詰擿して、甚だその情を得た。二十年に卒した。左騎衛大将軍・荊州都督ととくを贈られた。

原文四年,盎以南越之眾降,高祖以其地為羅、春、白、崖、儋、林等八州,仍授盎上柱國、高羅總管,封吳國公,尋改封越國公。拜其子智戴為春州刺史,智或東合州刺史,徙封盎耿國公。貞觀五年,盎來朝,太宗宴賜甚厚。俄而羅竇諸洞獠叛,詔令盎率部落二萬為諸軍先鋒。時有賊數萬屯據險要,不可攻逼。盎持弩語左右曰:「盡吾此箭,可知勝負。」連發七矢,而中七人,賊退走,因縱兵乘之,斬首千余級。太宗令智戴還慰省之,自後賞賜不可勝數。盎奴婢萬余人,所居地方二千里,勤於簿領,詰擿奸狀,甚得其情。二十年卒。贈左騎衛大將軍、荊州都督。

阿史那社爾

原文阿史那社爾

阿史那社爾は、突厥の処羅可汗の子である。十一歳の時、智勇をもって本蕃に称され、拓設に拝され、磧北に牙を建て、欲谷設と分かって鉄勒・紇骨・同羅などの諸部を統べた。在位十年、課斂することなく、諸首領の中にはその富貴を得られぬことを卑しむ者もあったが、社爾は言う、「部落がすでに豊かであれば、私にとっては足りる」と。諸首領はみな畏れてこれを愛した。

原文阿史那社爾,突厥處羅可汗子也。年十一,以智勇稱於本蕃,拜為拓設,建牙於磧北,與欲谷設分統鐵勒、紇骨、同羅等諸部。在位十年,無所課斂。諸首領或鄙其不能富貴,社爾曰:「部落既豐,於我便足。」諸首領鹹畏而愛之。

武徳九年、延陀・回紇などの諸部がみな叛き、欲谷設を攻め破ったので、社爾はこれを撃ったが、また延陀に敗れた。貞観二年、ついにその余衆を率いて西偏に保ち、可汗浮図に依った。後に頡利が滅び、西蕃の葉護がまた死に、奚利邲咄陸可汗兄弟が国を争うと、社爾は降ると言いふらし、兵を引いて西上し、そこで古蕃を襲い破り、その国の半ばを有し、衆十余万を得て、自ら都布可汗と称した。その諸部に謂って言う、「まず叛いて我が国を破ったのは、延陀の罪である。今、私は西方を拠有し、大いに兵馬を得た。延陀を平らげずして安楽を取るのは、先可汗を忘れることであり、不孝である。もし天が捷からしめなければ、死んでも恨みはない」と。その酋長たちはみな諫めて言う、「今、新たに西方を得たばかりで、鎮圧のために留まるべきである。もしすぐに棄て去って、遠く延陀を撃てば、ただ葉護の子孫が必ず来て国を復することを恐れるのみである」と。社爾は従わず、みずから五万余騎を率いて磧北で延陀を討ち、百余日にわたって兵を連ねた。我が行人劉善因が同娥設を立てて咥利始可汗としたのに遇い、社爾の部兵はまた久役に苦しみ、多くはこれを委ねて逃げた。延陀はそこで放ってこれを撃ち破り、また高昌国に保った。その旧兵で残っているものはわずか一万余人、また西蕃と隙を結んだ。

原文武德九年,延陀、回紇等諸部皆叛,攻破欲谷設,社爾擊之,復為延陀所敗。貞觀二年,遂率其余眾保於西偏,依可汗浮圖。後遇頡利滅,而西蕃葉護又死,奚利邲咄陸可汗兄弟爭國,社爾揚言降之,引兵西上,因襲破古蕃,半有其國,得眾十余萬,自稱都布可汗。謂其諸部曰:「首為背叛破我國者,延陀之罪也。今我據有西方,大得兵馬,不平延陀而取安樂,是忘先可汗,為不孝也。若天令不捷,死亦無恨。」其酋長鹹諫曰:「今新得西方,須留鎮壓。若即棄去,遠擊延陀,只恐葉護子孫必來復國。」社爾不從,親率五萬余騎討延陀於磧北,連兵百余日。遇我行人劉善因立同娥設為咥利始可汗,社爾部兵又苦久役,多委之逃。延陀因縱擊敗之,復保高昌國。其舊兵在者才萬余人,又與西蕃結隙。

九年、衆を率いて内属し、左騎衛大将軍に拝された。一年余りして、衡陽長公主を尚せしめ、駙馬都尉を授け、苑内に屯兵を典とした。十四年、行軍総管に任じられ、高昌を平らげた。諸人はみなただちに賞を受けたが、社爾は詔旨を奉じていないとして、秋毫も取るところがなかった。別勅が降って、その後で受けた。そして取ったものは、ただ老弱故弊のみであった。軍が還ると、太宗はその廉慎を美として、高昌で得た宝刀と雑彩千段を賜い、さらに北門左屯営を検校せしめ、畢国公に封じた。十九年、太宗に従って遼を征し、駐蹕陣に至り、頻りに流矢に遭ったが、抜いてまた進んだ。その所部の兵士は、人百倍の勇気を奮い、ことごとく殊勛を獲た。師が凱旋すると、鴻臚卿を兼ねて授けられた。二十一年、昆丘道行軍大総管となり、亀茲を征した。明年、軍が西突厥に次ぐと、処密を撃ち、大いにこれを破り、余衆は悉く降った。また亀茲の大撥換城を下し、亀茲王白訶黎布失畢及び大臣那利ら百余人を虜らえて還った。太宗が崩御されたのに属し、身をもって殉葬することを請うたが、高宗は使者を遣わして先の旨を諭し、許さなかった。右衛大将軍に遷った。永徽四年、位を加えて鎮軍大将軍とした。六年に卒し、輔国大将軍・并へい州都督を贈られ、昭陵に陪葬した。冢を起こして葱山に象り、さらに碑を立て、謚して元といった。子の道真は、位は左屯衛大将軍に至った。

原文九年,率眾內屬,拜左騎衛大將軍。歲餘,令尚衡陽長公主,授駙馬都尉,典屯兵於苑內。十四年,授行軍總管,以平高昌。諸人鹹即受賞,社爾以未奉詔旨,秋毫無所取。及降別敕,然後受之。及所取,唯老弱故弊而已。軍還,太宗美其廉慎,以高昌所得寶刀並雜彩千段賜之,仍令檢校北門左屯營,封畢國公。十九年,從太宗征遼,至駐蹕陣,頻遭流矢,拔而又進。其所部兵士,人百其勇,盡獲殊勛。師旋,兼授鴻臚卿。二十一年,為昆丘道行軍大總管,征龜茲。明年,軍次西突厥,擊處密,大破之,余眾悉降。又下龜茲大撥換城,虜龜茲王白訶黎布失畢及大臣那利等百余人而還。屬太宗崩,請以身殉葬,高宗遣使喻以先旨,不許。遷右衛大將軍。永徽四年,加位鎮軍大將軍。六年卒,贈輔國大將軍、并州都督,陪葬昭陵。起冢以象蔥山,仍為立碑,謚曰元。子道真,位至左屯衛大將軍。

貞観初め、阿史那蘇尼失という者は、啓民可汗の母弟であり、社爾の叔祖である。その父の始畢可汗は沙鉢羅設とし、部落五万家を督し、牙を霊州の西北に直し、驍ぎょう雄にして恩恵があり、甚だ種落の心を得た。頡利の政が乱れると、蘇尼失の所部のみは離反しなかった。突利が来奔すると、頡利はそこで蘇尼失を小可汗に立てた。頡利が李靖に破られると、独り騎ってこれに投じたので、蘇尼失はついにその衆を挙げて帰国し、そこで子の忠に命じて頡利を擒らえて献上させた。太宗は賞賜を優厚にした。北寧州都督・右衛大将軍に拝され、懐徳郡王に封じられた。貞観八年に卒した。

原文貞觀初,阿史那蘇尼失者,啟民可汗之母弟,社{人小}叔祖也。其父始畢可汗以為沙缽羅設,督部落五萬家,牙直靈州之西北,驍雄有恩惠,甚得種落之心。及頡利政亂,而蘇尼失所部獨不攜離。突利之來奔也,頡利乃立蘇尼失為小可汗。及頡利為李靖所破,獨騎而投之,蘇尼失遂舉其眾歸國,因令子忠擒頡利以獻。太宗賞賜優厚。拜北寧州都督、右衛大將軍,封懷德郡王。貞觀八年卒。

忠は頡利を擒らえた功により、左屯衛将軍に拝され、宗女の定襄県主を妻とし、忠と名を賜い、単に史氏と称した。貞観九年、右衛大将軍に遷った。永徽初年、薛国公に封じられ、累遷して右驍衛大将軍となった。歴任したところはみな清謹をもって称され、時人は金日磾に比した。上元初年に卒し、鎮軍大将軍を贈られ、昭陵に陪葬した。

原文忠以擒頡利功,拜左屯衛將軍,妻以宗女定襄縣主,賜名為忠,單稱史氏。貞觀九年,遷右衛大將軍。永徽初,封薛國公,累遷右驍衛大將軍。所歷皆以清謹見稱,時人比之金日磾。上元初卒,贈鎮軍大將軍,陪葬昭陵。

子の暕は、薛国公の封を襲ぎ、垂拱年中、司僕卿の位を歴任した。

原文子暕,襲封薛國公,垂拱中,歷位司仆卿。

契苾何力

原文契苾何力

契苾何力は、その先祖は鉄勒別部の酋長である。父の葛は、隋の大業年間に継いで莫賀咄特勤となり、地が吐谷渾に逼り、居るところが隘狭で、また瘴癘が多いため、ついに亀茲に入り、熱海の上に居た。特勤が死ぬと、何力は時に九歳であった。降号して大俟利発となった。貞観六年に至り、その母に随って衆千余家を率いて沙州に詣で、表を奉じて内附し、太宗はその部落を甘州・涼州の二州に置いた。何力は京師に至り、左領軍将軍を授けられた。

原文契苾何力,其先鐵勒別部之酋長也。父葛,隋大業中繼為莫賀咄特勒,以地逼吐谷渾,所居隘狹,又多瘴癘,遂入龜茲,居於熱海之上。特勤死,何力時年九歲。降號大俟利發。至貞觀六年,隨其母率眾千余家詣沙州,奉表內附,太宗置其部落於甘、涼二州。何力至京,授左領軍將軍。

七年、涼州都督李大亮・将軍薛萬均とともに吐谷渾を征討した。軍は赤水川に駐屯し、萬均は騎兵を率いて先行したが、賊に攻撃され、兄弟ともに槍に当たって落馬し、徒歩で戦い、兵士の死者は十のうち六、七に及んだ。何力はこれを聞き、数百騎を率いて馳せ往き、包囲を突破して前進し、縦横に奮撃し、賊兵は敗走し、萬均兄弟はこれによって救われた。当時、吐谷渾の主は突淪川におり、何力はさらにこれを襲撃しようとしたが、萬均は前の敗戦を戒めとして、固く不可と主張した。何力は言った、「賊には城郭がなく、水草を追って生活している。もし不意を襲わなければ、鳥が驚き魚が散るように逃げ去り、一度機会を失えば、どうしてその巣窟を覆すことができようか」と。そこで自ら驍兵千余騎を選び、直ちに突淪川に入り、吐谷渾の牙帳を襲撃して破り、数千級を斬首し、駱駝・馬・牛・羊二十余万頭を獲、渾主は脱身して免れたが、その妻子を捕虜にして帰還した。詔があり、大斗抜谷で労をねぎらわれた。萬均は何力を排撃して誹謗し、自らの功績であると称した。何力は憤怒に耐えず、刀を抜いて立ち上がり、萬均を殺そうとしたが、諸将が諫めて止めた。太宗はこれを聞いてその理由を責問し、何力は萬均の敗戦と恥辱の事を言上した。太宗は怒り、その官を解いて何力に回授しようとしたが、何力は固く辞して言った、「臣の故をもって萬均を解任すれば、諸蕃がこれを聞いて、陛下が蕃を厚くし漢を軽んじていると思い、互いに誣告し、競い走ることが必ず多くなるでしょう。また夷狄は無知であり、漢臣は皆このような輩であると言う者もおり、固より安寧の術ではありません」と。太宗はやめた。まもなく北門の宿衛を命じ、屯営事を検校し、勅して臨洮県主を尚めあわせしめた。

原文七年,與涼州都督李大亮、將軍薛萬均同征吐谷渾。軍次赤水川,萬均率騎先行,為賊所攻,兄弟皆中槍墮馬,徒步而鬥,兵士死者十六七。何力聞之,將數百騎馳往,突圍而前,縱橫奮擊,賊兵披靡,萬均兄弟由是獲免。時吐谷渾主在突淪川,何力復欲襲之,萬均懲其前敗,固言不可。何力曰:「賊非有城郭,逐水草以為生,若不襲其不虞,便恐鳥驚魚散,一失機會,安可傾其巢穴耶!」乃自選驍兵千余騎,直入突淪川,襲破吐谷渾牙帳,斬首數千級,獲駝馬牛羊二十余萬頭,渾主脫身以免,俘其妻子而還。有詔勞於大鬥拔谷。萬均乃排毀何力,自稱己功。何力不勝憤怒,拔刀而起,欲殺萬均,諸將勸止之。太宗聞而責問其故,何力言萬均敗恧之事,太宗怒,將解其官回授,何力固讓曰:「以臣之故而解萬均,恐諸蕃聞之,以為陛下厚蕃輕漢,轉相誣告,馳競必多。又夷狄無知,或謂漢臣皆如此輩,固非安寧之術也。」太宗乃止。尋令北門宿衛,檢校屯營事,敕尚臨洮縣主。

十四年、蔥山道副大総管となり、高昌を討って平定した。当時、何力の母の姑臧夫人と、同母弟の賀蘭州都督沙門はともに涼府にいた。十六年、詔があり、何力にその母を見舞い省みること、兼ねて部落を撫で巡ることを許した。当時、薛延陀が強盛で、契苾部落は皆これに従うことを願った。何力が到着し、これを聞いて大いに驚き言った、「主上は汝らに厚恩があり、私を任用するのも重い。どうして忍んで叛逆を図ることができようか」と。諸首領は皆言った、「可敦(母)と都督(弟)はすでに行ってしまった。どうして行かないのか」と。何力は言った、「我が弟の沙門は孝行でよく養うことができる。私は身を国に許している。終に行くことはできない」と。そこで衆は共に何力を捕らえて延陀の所に至らせ、可汗の牙帳の前に置いた。何力は箕踞(あぐらをかいて座り)して座り、佩刀を抜いて東に向かって大呼し言った、「どうして大唐の烈士が、蕃庭で辱めを受けようか。天地日月よ、願わくは我が心を知れ」と。また左耳を切り取って志が奪われないことを明らかにした。可汗は怒り、これを殺そうとしたが、その妻に抑えられて止んだ。初め、太宗は何力が延陀に行ったことを聞き、それが彼の本意でないことを明らかにしていた。ある者が言った、「人心はそれぞれその土地を楽しむものであり、何力が今延陀に入ったのは、魚が水を得たようなものです」と。太宗は言った、「そうではない。この人の心は鉄石のようであり、必ず我を背かないだろう」と。ちょうど延陀からの使者が到着し、その状況を詳しく言上した。太宗は群臣に泣いて言った、「契苾何力は結局どうなったのか」と。急ぎ兵部侍郎崔敦礼に節を持たせて延陀に入らせ、公主を降嫁することを許し、何力を求めた。これによって帰還し、右驍衛大将軍に拝された。太宗はすでに延陀に公主を許し、行く日が決まっていたが、何力は表を奉って固く不可を主張した。太宗は言った、「吾は天子に戯言なしと聞く。すでに許した以上、どうして廃することができようか」と。何力は言った、「そうです。臣はもともとその事を延ばすことを請うたのであって、全面的に停止するとは申しません。臣は聞く、六礼の内、婿は親迎すべきであると。延陀に親しく来て婦を迎えるよう告げるべきです。たとえ京邑に至ることを敢えずとも、すなわち霊州に詣でさせるべきです。漢を畏れて必ず来ることはないでしょう。親を論じても成就する日はないでしょう。すでに憂悶し、臣はまた離間させます。一年も満たずに、自ら猜忌し合うでしょう。延陀の志性は狠戾であり、もし死ねば、必ず両子が相争い、座してこれを制するは、必然の道理です」と。太宗はこれに従った。延陀は詐りがあることを恐れ、ついに霊州に至らなかった。その後、常に悒々として志を得ず、一年で死に、両子は果たして権力を争い、それぞれ主として立った。

原文十四年,為蔥山道副大總管,討平高昌。時何力母姑臧夫人、母弟賀蘭州都督沙門並在涼府。十六年,詔許何力觀省其母,兼撫巡部落。時薛延陀強盛,契苾部落皆願從之。何力至,聞而大驚曰:「主上於汝有厚恩,任我又重,何忍而圖叛逆!」諸首領皆曰:「可敦及都督已去,何故不行?」何力曰:「我弟沙門孝而能養,我以身許國,終不能去也。」於是眾共執何力至延陀所,置於可汗牙前。何力箕踞而坐,拔佩刀東向大呼曰:「豈有大唐烈士,受辱蕃庭,天地日月,願知我心!」又割左耳以明誌不奪也。可汗怒,欲殺之,為其妻所抑而止。初,太宗聞何力之延陀,明非其本意。或曰:「人心各樂其土,何力今入延陀,猶魚之得水也。」太宗曰:「不然,此人心如鐵石,必不背我。」會有使自延陀至,具言其狀,太守泣謂群臣曰:「契苾何力竟如何?」遽遣兵部侍郎崔敦禮持節入延陀,許降公主,求何力。由是還,拜右驍衛大將軍。太宗既許公主於延陀,行有日矣,何力抗表固言不可。太宗曰:「吾聞天子無戲言,既已許之,安可廢?」何力曰:「然。臣本請延緩其事,不謂總停。臣聞六禮之內,婿合親迎,宜告延陀親來迎婦,縱不敢至京邑,即當使詣靈州。畏漢必不敢來,論親未可有成日。既憂悶,臣又攜離,不盈一年,自相猜忌。延陀誌性狠戾,若死,必兩子相爭,坐而制之,必然之理。」太宗從之。延陀恐有詐,竟不至靈州。自後常悒悒不得誌,一年而死,兩子果爭權,各立為主。

太宗が遼東を征した時、何力を前軍総管とし、軍は白崖城に駐屯したが、賊に包囲され、矛が腰に当たり、傷は重く病は甚だしかった。太宗は自ら薬を塗った。賊城を抜いた時、傷つけた者である高突勃を探し求めるよう勅し、何力に付けて自ら殺させようとした。何力は奏上して言った、「犬馬でさえその主のためであり、まして人においておや。彼はその主のためであり、まして命を賭して白刃を冒して臣を刺したのは、その義勇士です。もともと面識はなく、どうして冤仇でありましょうか」と。ついにこれを赦した。二十二年、昆丘道総管となり、亀茲を撃ち、その王の訶梨布失畢および諸首領らを捕らえた。太宗が崩御すると、何力は身を殺して殉じようとしたが、高宗が諭して止めさせた。

原文太宗征遼東,以何力為前軍總管,軍次白崖城,為賊所圍,被矛中腰,瘡重疾甚,太宗自為傅藥。及拔賊城,敕求傷之者高突勃,付何力自殺之。何力奏言:「犬馬猶為其主,況於人乎?彼為其主,況致命冒白刃而刺臣,是其義勇士也。本不相識,豈是冤仇?」遂舍之。二十二年,為昆丘道總管,擊龜茲,獲其王訶梨布失畢及諸首領等。太宗崩,何力欲殺身以殉,高宗諭而止之。

永徽二年、処月・処密が叛き、何力を弓月道大総管として、これを討って平定し、その渠帥である処密の時健俟斤・合支賀らを生け捕りにして帰還した。顕慶二年、左驍衛大将軍に遷り、累ねて郕国公に封ぜられ、兼ねて鴻臚卿を検校した。龍朔元年、また遼東道行軍大総管となった。九月、鴨緑水に駐屯した。その地は高麗の険阻であり、莫離支の男生が精兵数万をもってこれを守り、衆は渡ることができなかった。何力が初めて到着すると、ちょうど層氷が大きく結び、急ぎ兵を渡し、鼓噪して進んだ。賊はついに大いに潰え、数十里を追撃し、三万級を斬首し、余衆は尽く降伏し、男生はただ身一つで免れた。ちょうど詔があり班師したので、帰還した。その年、九姓が叛き、何力を鉄勒道安撫大使とした。そこで精騎五百を選んで馳せ入り九姓の中に入った。賊は大いに驚き、何力はそこで言った、「国家は汝らが誤りに導かれたことを知り、翻動があったが、我に汝らの過ちを赦させ、皆自新することができる。罪は酋渠にあり、これを得ればそれでよい」と。諸姓は大いに喜び、共に偽の葉護および設・特勤ら同悪二百余人を捕らえて帰還した。何力はその罪を数え上げて誅した。乾封元年、また遼東道行軍大総管となり、兼ねて安撫大使とした。高麗は衆十五万を有し、遼水に屯し、また靺鞨数万を引きいて南蘇城を占拠した。何力は奮撃し、皆大いにこれを破った。一万余級を斬首し、勝ちに乗じて進み、凡そ七城を抜いた。そこで軍を返して鴨緑水で英国公李勣と会し、共に辱夷・大行の二城を攻め、これを破った。勣は軍を鴨緑柵に頓し、何力は蕃漢兵五十万を率いて先に平壌に臨んだ。勣がなお継いで到着し、共に平壌城を抜き、男建を捕らえ、その王を虜にして帰還した。鎮軍大将軍を授けられ、左衛大将軍を行い、涼国公に徙封され、なお右羽林軍を検校した。儀鳳二年に卒し、輔国大将軍・并州都督を贈られ、昭陵に陪葬され、謚して烈といった。

原文永徽二年,處月、處密叛,以何力為弓月道大總管,討平之,擒其渠帥處密時健俟斤、合支賀等以歸。顯慶二年,遷左驍衛大將軍,累封郕國公,兼檢校鴻臚卿。龍朔元年,又為遼東道行軍大總管。九月,次於鴨綠水,其地即高麗之險阻,莫離支男生以精兵數萬守之,眾莫能濟。何力始至,會層冰大合,趣即渡兵,鼓噪而進,賊遂大潰,追奔數十里,斬首三萬級,余眾盡降,男生僅以身免。會有詔班師,乃還。其年,九姓叛,以何力為鐵勒道安撫大使。乃簡精騎五百馳入九姓中,賊大驚,何力乃謂曰:「國家知汝被詿誤,遂有翻動,使我舍汝等過,皆可自新。罪在酋渠,得之則已。」諸姓大喜,共擒偽葉護及設、特勤等同惡二百余人以歸,何力數其罪而誅之。乾封元年,又為遼東道行軍大總管,兼安撫大使。高麗有眾十五萬,屯於遼水,又引靺鞨數萬據南蘇城。何力奮擊,皆大破之。斬首萬余級,乘勝而進,凡拔七城。乃回軍會英國公李勣於鴨綠水,共攻辱夷、大行二城,破之。勣頓軍於鴨綠柵,何力引蕃漢兵五十萬先臨平壤。勣仍繼至,共拔平壤城,執男建,虜其王還。授鎮軍大將軍,行左衛大將軍,徙封涼國公,仍檢校右羽林軍。儀鳳二年卒,贈輔國大將軍、并州都督,陪葬昭陵,謚曰烈。

三人の子があった。明・光・貞である。明は左鷹揚衛大将軍、兼ねて賀蘭都督となり、涼国公の爵を襲いだ。光は則天の時に右豹韜衛将軍となり、酷吏に殺された。貞は司膳少卿となった。

原文有三子:明、光、貞。明,左鷹揚衛大將軍,兼賀蘭都督,襲爵涼國公。光,則天時右豹韜衛將軍,為酷吏所殺。貞,司膳少卿。

黒歯常之

原文黑齒常之

黒歯常之は、百済の西部の人である。身長は七尺余りで、驍勇にして謀略があった。初め本国において、達率兼郡将に仕え、これは中国の刺史に相当する。顕慶五年、蘇定方が百済を討ち平らげると、常之は配下を率いて例に従い降伏の意を表した。時に定方は左王及び太子隆らを捕らえ、なお兵を放って掠奪させ、壮年の者は多く殺戮された。常之は恐れ、左右十余り人と共に遁れて本国に帰り、逃亡者を集め、共に任存山を守り、柵を築いて自らを固め、十日にして帰順する者は三万余人に及んだ。定方が兵を遣わしてこれを攻めると、常之は敢死の士を率いて防戦し、官軍は敗北し、遂に本国の二百余城を回復したので、定方は討つことができずに帰還した。龍朔三年、高宗は使者を遣わしてこれを招諭し、常之はその衆を尽く率いて降った。累遷して左領軍員外将軍となった。

原文黑齒常之,百濟西部人。長七尺余,驍勇有謀略。初在本蕃,仕為達率兼郡將,猶中國之刺史也。顯慶五年,蘇定方討平百濟,常之率所部隨例送降款。時定方縶左王及太子隆等,仍縱兵劫掠,丁壯者多被戮。常之恐懼,遂與左右十余人遁歸本部,鳩集亡逸,共保任存山,築柵以自固,旬日而歸附者三萬余人。定方遣兵攻之,常之領敢死之士拒戰,官軍敗績,遂復本國二百余城,定方不能討而還。龍朔三年,高宗遣使招諭之,常之盡率其眾降。累轉左領軍員外將軍。

儀鳳年間、吐蕃が辺境を侵犯すると、常之は李敬玄に従ってこれを撃った。劉審礼が賊に没した時、敬玄は軍を引き上げようとしたが、泥溝に阻まれ、策がなかった。常之は夜に敢死の兵五百人を率いて賊の陣営を襲い、吐蕃の首領跋地設は軍を棄てて夜遁し、敬玄はこれによって帰還することができた。高宗はその才略を嘆き、左武衛将軍に抜擢し、兼ねて検校左羽林軍とし、金五百両、絹五百匹を賜い、なお河源軍副使を充てた。時に吐蕃の賛婆及び素和貴ら賊徒三万余人が良非川に屯した。常之は精騎三千を率いて夜に賊陣を襲い、二千級を斬り、羊馬数万を獲、賛婆らは単騎で遁走した。常之を大使に抜擢し、また物四百匹を賞賜した。常之は河源軍が賊の要衝に当たるため、兵を増やして鎮守しようとしたが、運搬の費用を恐れ、遂に遠く烽戍七十余所を置き、開墾して営田五千余頃を計り、毎年百余万石を収穫した。開耀年間、賛婆らが青海に屯すると、常之は精兵一万騎を率いてこれを襲い破り、その糧食を焼いて帰還した。常之は軍に七年あり、吐蕃は深く畏れ憚り、再び辺境の患いを為すことがなかった。嗣聖元年、左武衛大将軍に遷り、なお検校左羽林軍を兼ねた。垂拱二年、突厥が辺境を侵犯すると、常之に兵を率いてこれを防がせた。両井まで追撃し、突然賊三千余衆に出会った。常之は賊徒が争って下馬し甲を着けるのを見て、二百余騎を率い、自ら先鋒となって直ちに突撃し、賊は甲を棄てて散乱した。間もなく賊の大軍が到着した。日が暮れようとする頃、常之は木を伐らせ、陣営に烽火のように火を燃やした。時に東南から突然大風が起こり、賊は救兵が来たと疑い、狼狽して夜遁した。功により燕国公に進封された。三年、突厥が朔州に侵入すると、常之はまた大総管を充て、李多祚、王九言を副将とした。黄花堆まで追撃し、これを大破し、四十余里を追撃して賊は磧北に散走した。時に中郎将爨宝璧が上表して残賊を追撃することを請うた。詔により常之は宝璧と会し、遠くから声援することとなった。宝璧は賊を破るのは朝夕のうちと思い、功を貪って先に行き、常之と謀議することなく、遂に全軍が没した。まもなく周興らに誣告され、右鷹揚将軍趙懐節らと謀反を企てたとして獄に繋がれ、遂に自縊して死んだ。

原文儀鳳中,吐蕃犯邊,常之從李敬玄擊之。劉審禮之沒賊,敬玄欲抽軍,卻阻泥溝,而計無所出。常之夜率敢死之兵五百人進掩賊營,吐蕃首領跋地設棄軍宵遁,敬玄因此得還。高宗嘆其才略,擢授左武衛將軍,兼檢校左羽林軍,賜金五百兩、絹五百匹,仍充河源軍副使。時吐蕃贊婆及素和貴等賊徒三萬余屯於良非川。常之率精騎三千夜襲賊營,殺獲二千級,獲羊馬數萬,贊婆等單騎而遁。擢常之為大使,又賞物四百匹。常之以河源軍正當賊沖,欲加兵鎮守,恐有運轉之費,遂遠置烽戍七十余所,度開營田五千余頃,歲收百余萬石。開耀中,贊婆等屯於青海,常之率精兵一萬騎襲破之,燒其糧貯而還。常之在軍七年,吐蕃深畏憚之,不敢復為邊患。嗣聖元年,遷左武衛大將軍,仍檢校左羽林軍。垂拱二年,突厥犯邊,命常之率兵拒之。躡至兩井,忽逢賊三千余眾,常之見賊徒爭下馬著甲,遂領二百余騎,身當先鋒直沖,賊遂棄甲而散。俄頃,賊眾大至。及日將暮,常之令伐木,營中燃火如烽燧,時東南忽有大風起,賊疑有救兵相應,遂狼狽夜遁。以功進封燕國公。三年,突厥入寇朔州,常之又充大總管,以李多祚、王九言為副。追躡至黃花堆,大破之,追奔四十餘里,賊散走磧北。時有中郎將爨寶璧表請窮追余賊,制常之與寶璧會,遙為聲援。寶璧以為破賊在朝夕,貪功先行,竟不與常之謀議,遂全軍而沒。尋為周興等誣構,雲與右鷹揚將軍趙懷節等謀反繫獄,遂自縊而死。

常之はかつて乗っていた馬を兵士が傷つけたことがあり、副使牛師奨らがこれを鞭打つことを請うた。常之は言った、「どうして私の馬を傷つけたからといって官兵を処罰できようか」と。遂にこれを赦した。前後して得た賞賜の金帛などは、皆将士に分け与えた。死んだ時、人々は甚だ惜しんだ。

原文常之嘗有所乘馬為兵士所損,副使牛師獎等請鞭之。常之曰:「豈可以損私馬而決官兵乎!」竟赦之。前後所得賞賜金帛等,皆分給將士;及死,時甚惜之。

李多祚

原文李多祚

李多祚は、代々靺鞨の酋長であった。多祚は驍勇で射術に優れ、意気に感じ易かった。若くして軍功により右羽林軍大将軍の位に至り、前後して禁兵を掌握し、北門の宿衛を二十余年務めた。

原文李多祚,代為靺鞨酋長。多祚驍勇善射,意氣感激。少以軍功歷位右羽林軍大將軍,前後掌禁兵,北門宿衛二十余年。

神龍初年、張柬之が張易之兄弟を誅殺しようとした時、多祚を引き入れてその計画を図らせ、言った、「将軍は北門に幾年いるか」と。多祚は言った、「三十年です」と。柬之は言った、「将軍は鐘を鳴らし鼎に食し、金章紫綬を帯び、当代の貴寵を受け、武臣の位の極みにある。これは大帝(高宗)の恩ではないか」と。多祚は言った、「その通りです」と。また言った、「将軍は既に大帝の殊なる恩沢に感じるなら、報いることができるか。大帝の子が今東宮におられる。逆賊張易之兄弟が権力を擅にし、朝夕危うく逼迫している。宗廟社稷の重みは、将軍にかかっている。誠に恩に報いようとするなら、正に今日がその時である」と。多祚は言った、「もし王室のためなら、相公の御指図のままに、妻子の命をも顧みません」と。そこで天地の神祇を引き合いに出して誓いを立て、言葉と気持ちに感動し、義の色を顔に表した。遂に柬之らと謀を定めて易之兄弟を誅殺し、功により遼陽郡王に進封され、実封八百戸を食み、その子承訓を衛尉少卿に任じた。その年、太廟で祭祀を行うことになり、特に多祚と安国相王に命じて輦に乗り、両側から侍らせた。監察御史王覿が上疏して諫めて言った、「思うに、廟に合祀する礼は、祖を尊び先を奉ずることにあり、厳粛な儀式においては、親と徳のみを重んじることを厭うべきではない。伏して見るに、恩赦により安国相王と李多祚に輦に同乗させようとしている。しかも多祚は夷人であり、国に功績はあるが、寵爵を加えるに適するだけであって、どうして至尊に近侍させ、帝の弟と並び、我が君と共に輦に乗せることができようか。誠に恐れるのは、万方の人々がその望みに従わないことである。昔、文帝が趙談を引きいて輦に同乗させようとした時、袁盎が車前に伏して言った、『臣は聞く、天子と共に六尺の輦に乗る者は、皆天下の豪傑英傑であると。今漢は人材が乏しいとはいえ、陛下はどうして刀鋸の余り(宦官)と共に載せられようか』と。そこで斥けて下ろさせた。多祚には趙談のような欠点はないが、また卿相の重みもなく、自ら省みず、固辞することも聞かれない。はたして国に良輔が乏しく、他に人がいないというのか。史官が記すところは、後世に示される。どうして袁盎の強諫はありえ、ただ微臣だけが及ばないのか。惟うに陛下の詳しい選択を願う」と。上は覿に言った、「多祚は夷人ではあるが、その功績により、心腹として委ね、特に輦に侍らせるのだ。卿はもう言うな」と。

原文神龍初,張柬之將誅張易之兄弟,引多祚將籌其事,謂曰:「將軍在北門幾年?」曰:「三十年矣。」柬之曰:「將軍擊鐘鼎食,金章紫綬,貴寵當代,位極武臣,豈非大帝之恩乎?」曰:「然。」又曰:「將軍既感大帝殊澤,能有報乎?大帝之子見在東宮,逆豎張易之兄弟擅權,朝夕危逼。宗社之重,於將軍,誠能報恩,正屬今日。」多祚曰:「茍緣王室,惟相公所使,終不顧妻子性命。」因即引天地神祗為要誓,詞氣感動,義形於色。遂與柬之等定謀誅易之兄弟,以功進封遼陽郡王,食實封八百戶,仍拜其子承訓為衛尉少卿。其年,將有事於太廟,特令多祚與安國相王登輦夾侍。監察御史王覿上疏諫曰:「竊惟祔廟之禮,在於尊祖奉先;肅事之儀,豈厭惟親與德。伏見恩敕令安國相王與李多祚參乘,且多祚夷人,有功於國,適可加之寵爵,豈宜逼奉至尊,侍帝弟而連衡,與吾君而共輦?誠恐萬方之人,不允所望。昔文帝引趙談參乘,盎伏車前曰:『臣聞天子所共六尺輿者,皆天下豪英。今漢雖乏人,陛下獨奈何與刀鋸之余共載!』於是斥而下之。多祚雖無趙談之累,亦非卿相之重,不自循省,無聞固讓,豈國乏良輔,更無其人。史官所書,將示於後。何袁盎之強諫,獨微臣之不及。惟陛下詳擇焉。」上謂覿曰:「多祚雖是夷人,緣其有功,委以心腹,特令侍輦,卿勿復言也。」

節湣太子が武三思を殺害した時、多祚は羽林大将軍李千里らと共に兵を率いて従った。太子は多祚に先に玄武楼の下まで行くよう命じ、上(中宗)が三思を殺した意図を問うことを期待し、兵を抑えて戦わなかった。時に宮闈令楊思勖が楼上で帝に侍っており、その先鋒を防ぐことを請うた。多祚の子婿で羽林中郎将の野呼利が先軍総管であったが、思勖が刃を抜いてこれを斬ると、兵衆は大いに沮喪した。多祚は間もなく左右の者に殺され、二人の子も殺され、家は籍没された。睿宗が即位すると、詔を下して言った、「忠をもって国に報いることは、典籍が称えるところである。義に感じて身を捨てることは、名節の在るところである。故右羽林大将軍、上柱国、遼陽郡王李多祚は、三韓の貴種、百戦の余雄である。禁営の寵を受け、心は王室にあり、この誠信を仗って、翻って誅夷に陥った。かの神明に頼り、重ねて奸慝を清め、永くその美しい功績を言えば、深く褒め崇めるに合う。没後の栄誉を追うべく、生前の命を復するべきである。旧官に還し、なおその妻子を赦すべし」と。

原文節湣太子之殺武三思也,多祚與羽林大將軍李千里等率兵以從。太子令多祚先至玄武樓下,冀上問以殺三思之意,遂按兵不戰。時有宮闈令楊思勖於樓上侍帝,請拒其先鋒。多祚子婿羽林中郎將野呼利為先軍總管,思勖挺刃斬之,兵眾大沮。多祚俄為左右所殺,並殺其二子,籍沒其家。睿宗即位,下制曰:「以忠報國,典冊所稱;感義捐軀,名節斯在。故右羽林大將軍、上柱國、遼陽郡王李多祚,三韓貴種,百戰余雄。席寵禁營,乃心王室,仗茲誠信,翻陷誅夷。賴彼神明,重清奸慝,永言徽烈,深合褒崇。宜追歿後之榮,以復生前之命。可還舊官,仍宥其妻子。」

李嗣業

原文李嗣業

李嗣業は、京兆高陵の人である。身長七尺、壮勇にして並ぶ者がない。天宝初年、募集に応じて安西に至り、頻りに戦闘を経た。当時諸軍が初めて陌刀を用いたが、皆嗣業を能ある者と推した。常に隊頭となり、向かうところ必ず陥落させた。節度使馬霊察はその勇健を知り、出師する毎に、嗣業をこれに加えさせた。累遷して中郎将となった。

原文李嗣業,京兆高陵人也。身長七尺,壯勇絕倫。天寶初,隨募至安西,頻經戰鬥,於時諸軍初用陌刀,咸推嗣業為能。每為隊頭,所向必陷。節度使馬靈察知其勇健,每出師,令嗣業與焉。累遷至中郎將。

天宝七載、安西都知兵馬使高仙芝は詔を奉じて軍を総べ、専ら勃律を征し、嗣業と郎将田珍を選びて左右の陌刀将とした。時に吐蕃は十万の衆を娑勒城に聚め、山に拠り水に因り、崖谷を塹断し、木を編みて城と為す。仙芝は夜に軍を引きて信図河を渡り、奄かに城下に至る。仙芝、嗣業と田珍に謂ひて曰く、「午時に至らざるに須らく此の賊を破らん」と。嗣業は歩軍を引きて長刀を持ちて上り、山頭より櫑を抛ちて空を蔽ひて下る。嗣業は独り一旗を引きて絶險の処に先登し、諸将之に因りて斉しく上る。賊は漢軍の暴至を虞はざりしにより、遂に大潰し、溪谷を填め、水に投じて溺死する者、僅かに十の八九。遂に長駆して勃律城に至り、勃律王・吐蕃公主を擒へ、藤橋を斬ち、兵三千人を以て戍る。ここに於て拂林・大食諸胡七十二国皆国家に帰し、塞に款き朝献す、是れ嗣業の功なり。此れによりて右威衛将軍に拝す。十載、又従ひて石国を平げ、及び九国胡を破り並びに背叛の突騎施を破り、跳蕩を以て特進を加へ、本官を兼ぬ。初め、仙芝は石国王を紿して和好を約し、乃ち兵を将ひて襲ひて之を破り、其の老弱を殺し、其の丁壮を虜ひ、金宝瑟瑟駝馬等を取り、国人号哭す。因りて石国王を掠ひて東し、闕下に献ず。其の子は難を逃れて奔走し、諸胡国に告ぐ。群胡之を忿み、大食と謀を連ね、将に四鎮を攻めんと欲す。仙芝懼れ、兵二万を領して深く胡地に入り、大食と戦ふ。仙芝大敗す。夜に会し、両軍解く。仙芝の衆は大食に殺され、存する者数千に過ぎず。事窘しく、嗣業、仙芝に白して曰く、「将軍深く胡地に入り、後救兵絶つ。今大食戦勝し、諸胡知る、必ず勝に乗じて力を併せて漢に事へん。若し全軍没せば、嗣業と将軍俱に賊の虜と為らん、則ち何人か主に帰報せん。白石嶺を馳せ守るに如かず、早く奔逸の計を図らん」と。仙芝曰く、「爾は戦将なり。吾は余燼を収合し、明日復た戦ひ、一勝を期せんと欲す」と。嗣業曰く、「愚者千慮、或ひは一得有り。勢危きこと此の若くは、膠柱す可からず」と。固より行かんことを請ひ、乃ち之に従ふ。路隘く、人馬魚貫して奔る。跋汗那の兵衆先づ奔るに会ひ、人及び駝馬路を塞ぎ、過ぐることを克さず。嗣業は大棒を持ちて前駆し之を撃つ。人馬手に応じて俱に斃る。胡等遁れ、路開く。仙芝免るることを獲る。仙芝其の功を表し、驃騎左金吾大将軍を加ふ。

原文天寶七載,安西都知兵馬使高仙芝奉詔總軍,專征勃律,選嗣業與郎將田珍為左右陌刀將。於時吐蕃聚十萬眾於娑勒城,據山因水,塹斷崖谷,編木為城。仙芝夜引軍渡信圖河,奄至城下。仙芝謂嗣業與田珍曰:「不午時須破此賊。」嗣業引步軍持長刀上,山頭拋櫑蔽空而下,嗣業獨引一旗於絕險處先登,諸將因之齊上。賊不虞漢軍暴至,遂大潰,填溪谷,投水溺死,僅十八九。遂長驅至勃律城擒勃律王、吐蕃公主,斬藤橋,以兵三千人戍。於是拂林、大食諸胡七十二國皆歸國家,款塞朝獻,嗣業之功也。由此拜右威衛將軍。十載,又從平石國,及破九國胡並背叛突騎施,以跳蕩加特進,兼本官。初,仙芝紿石國王約為和好,乃將兵襲破之,殺其老弱,虜其丁壯,取金寶瑟瑟駝馬等,國人號哭,因掠石國王東,獻之於闕下。其子逃難奔走,告於諸胡國。群胡忿之,與大食連謀,將欲攻四鎮。仙芝懼,領兵二萬深入胡地,與大食戰,仙芝大敗。會夜,兩軍解,仙芝眾為大食所殺,存者不過數千。事窘,嗣業白仙芝曰:「將軍深入胡地,後絕救兵。今大食戰勝,諸胡知,必乘勝而並力事漢。若全軍沒,嗣業與將軍俱為賊所虜,則何人歸報主?不如馳守白石嶺,早圖奔逸之計。」仙芝曰:「爾,戰將也。吾欲收合余燼,明日復戰,期一勝耳。」嗣業曰:「愚者千慮,或有一得,勢危若此,不可膠柱。」固請行,乃從之。路隘,人馬魚貫而奔。會跋汗那兵眾先奔,人及駝馬塞路,不克過。嗣業持大棒前驅擊之,人馬應手俱斃。胡等遁,路開,仙芝獲免。仙芝表其功,加驃騎左金吾大將軍。

及禄山反す、両京陥ち、上霊武に在す。詔して嗣業を行在に赴かしむ。嗣業安西より衆を統べて万里、威令肅然たり。過ぐる郡県、秋毫も犯さず。鳳翔に至り謁見す。上曰く、「今日卿を得るは、数万の衆に勝る。事の済ふや否や、実に卿に在り」と。遂に郭子儀・仆固懐恩等と常に犄角して先鋒将と為る。嗣業は毎に大棒を持ちて沖撃し、賊衆披靡し、向ふ所敵無し。

原文及祿山反,兩京陷,上在靈武,詔嗣業赴行在。嗣業自安西統眾萬里,威令肅然,所過郡縣,秋毫不犯。至鳳翔謁見,上曰:「今日得卿,勝數萬眾,事之濟否,實在卿也。」遂與郭子儀、仆固懷恩等常犄角為先鋒將。嗣業每持大棒沖擊,賊眾披靡,所向無敵。

禄山の乱、両京未だ復せず、粛宗鳳翔に在す。至徳二年九月、嗣業は広平王に従ひて京城を収復し、賊と香積寺の北に大戦す。西は灃水に拒ぎ、東は大川に臨み、十里の間軍容断えず。嗣業時に鎮西・北庭支度行営節度使と為り、前軍と為る。朔方右行営節度使郭子儀は中軍と為り、関内行営節度王思礼は後軍と為る。戈鋌鼓鞞、山野を震曜し、賊軍を距ること数里、長陣を列べて之を待つ。賊将李帰仁初め鋭師を以て数来たりて挑戦す。我が師は矢を攅てて之を逐ふ。賊軍大いに至り、我が追騎を逼り、我が営に突入す。我が師囂乱す。嗣業、郭子儀に謂ひて曰く、「今日の事、若し身を以て寇に啖はれずんば、陣に決戦し、万死して其の一生を冀はん。然らずんば、則ち我が軍孑遺無からん」と。嗣業乃ち衣を脱ぎて徒搏し、長刀を執りて陣前に立ちて大呼す。嗣業の刀に当たる者は、人馬俱に碎け、十数人を殺し、陣容方に駐る。前軍の士は尽く長刀を執りて出で、墻の如くにして進む。嗣業先登して命を奮ひ、向ふ所摧靡す。是の時、賊先づ兵を営の東に伏せり。偵者之を知る。元帥広平王は回紇の鋭卒を分ち、令して其の伏兵を撃たしむ。賊将大敗す。嗣業は賊営の背を出で、回紇と勢を合はし、表裏夾攻す。午より酉に及び、首級六万を斬り、溝壑を填めて死する者十二三。賊帥張通儒・安守忠・李帰仁等は残卒を収合し、東走して陜郡を保つ。慶緒又た厳莊に命じ衆数万を率ひ、陜に赴きて通儒輩を助け官軍を拒がしむ。広平王・郭子儀・王思礼等の大軍は陜西に営す。嗣業は子儀と賊に新店に遇ひ、之と力戦し、数合す。我が師は初め勝ちて後に敗る。嗣業急ぎ応接す。回紇は南山より官軍の敗るるを見て、白旗を曳きて下り、径に賊の背に抵り、賊陣を穿つ。賊陣の西北角先づ陥つ。嗣業又た精騎を率ひて前撃し、表裏斉しく進む。賊衆大敗し、河北に走る。子儀遂に東都を収む。嗣業は功を以て開府儀同三司・衛尉卿を加へられ、虢国公に封ぜられ、実封二百戸を食む。

原文祿山之亂,兩京未復,肅宗在鳳翔。至德二年九月,嗣業從廣平王收復京城,與賊大戰於香積寺北,西拒灃水,東臨大川,十里間軍容不斷。嗣業時為鎮西、北庭支度行營節度使,為前軍,朔方右行營節度使郭子儀為中軍,關內行營節度王思禮為後軍。戈鋌鼓鞞,震曜山野,距賊軍數里,列長陣而待之。賊將李歸仁初以銳師數來挑戰,我師攢矢而逐之,賊軍大至,逼我追騎,突入我營,我師囂亂。嗣業謂郭子儀曰:「今日之事,若不以身啖寇,決戰於陣,萬死而冀其一生。不然,則我軍無孑遺矣。」嗣業乃脫衣徒搏,執長刀立於陣前大呼,當嗣業刀者,人馬俱碎,殺十數人,陣容方駐。前軍之士盡執長刀而出,如墻而進。嗣業先登奮命,所向摧靡。是時,賊先伏兵於營東,偵者知之,元帥廣平王分回紇銳卒,令擊其伏兵,賊將大敗。嗣業出賊營之背,與回紇合勢,表裏夾攻,自午及酉,斬首六萬級,填溝壑而死者十二三。賊帥張通儒、安守忠、李歸仁等收合殘卒,東走保陜郡。慶緒又命嚴莊率眾數萬,赴陜助通儒輩以拒官軍。廣平王、郭子儀、王思禮等大軍營於陜西。嗣業與子儀遇賊於新店,與之力戰,數合,我師初勝而後敗,嗣業逐急應接。回紇從南山望見官軍敗,曳白旗而下,徑抵賊背,穿賊陣,賊陣西北角先陷。嗣業又率精騎前擊,表裏齊進,賊眾大敗,走河北。子儀遂收東都。嗣業以功加開府儀同三司、衛尉卿,封虢國公,食實封二百戶。

乾元二年、諸将相州を囲む。是の時に堤を築き漳水を引きて城を灌ぐ。月余を経て、城抜けず。是の時、軍に統帥無く、諸将自ら全からんと図り、人闘志無し。賊毎に出でて戦ふに、嗣業は堅を被りて沖突し、鋒を履み刃を冒し、流矢に中る。数日、瘡愈えんと欲し、帳中に臥す。忽ち金鼓の声を聞き、因りて大叫す。瘡中より血出でて数升地に注ぎて卒す。上之を聞き震悼し、嗟惜すること久し。詔して曰く、「難に臨みて身を忘るるは、臣たるの大節なり。功を念ひて贈を加ふるは、国を経るの常典なり。故衛尉卿・兼懐州刺史・充北庭行営節度使・虢国公李嗣業は、操を植て沈厚にし、心を秉りて忠烈なり。幹時の勇略を懐き、戡難の遠謀有り。久しく辺陲に仕へ、備く任使を経たり。兇渠乱を構へしより、中夏寧からず。感激の誠を持ち、驍果の衆を総べ、親しく矢石に当たり、頻りに勲庸を立つ。壮節嘉す可く、将に百勝に謀らんとす。忠誠未だ遂げず、空しく九原に恨む。其の功を言念ふに、良く深く憫悼す。王事に死するは、礼に加ふる有る可し。宜しく裂土の封を贈り、以て飾終の義を広むべし。武威郡王を贈る可し。其の賻贈及び葬事に縁るは、所司常式に倍せしめ、仍って官に令して霊輿を給し、遞りて所在に還らしむ。其の子佐国を以て其の官爵を襲はしめ、実封二百戸を食ます」と。

原文乾元二年,諸將同圍相州。是時築堤引漳水灌城,經月余,城不拔。是時,軍無統帥,諸將自圖全,人無鬥志。賊每出戰,嗣業被堅沖突,履鋒冒刃,為流矢所中。數日,瘡欲愈,臥於帳中,忽聞金鼓之聲,因而大叫,瘡中血出數升注地而卒。上聞之震悼,嗟惜久之,詔曰:「臨難忘身,為臣之大節;念功加贈,經國之常典。故衛尉卿、兼懷州刺史、充北庭行營節度使、虢國公李嗣業,植操沈厚,秉心忠烈,懷幹時之勇略,有戡難之遠謀。久仕邊陲,備經任使。自兇渠構亂,中夏不寧,持感激之誠,總驍果之眾,親當矢石,頻立勛庸。壯節可嘉,將謀於百勝;忠誠未遂,空恨於九原。言念其功,良深憫悼。死於王事,禮有可加,宜贈裂土之封,用廣飾終之義。可贈武威郡王。其賻贈及緣葬事,所司倍於常式,仍令官給靈輿,遞還所在。以其子佐國襲其官爵,食實封二百戶。」

白孝德

原文白孝德

白孝德は安西の胡人である。驍勇で悍猛、胆力があった。乾元年中、李光弼に仕えて偏裨となった。史思明が河陽を攻めたとき、驍将劉龍仙に鉄騎五千を率いさせて城に臨み、挑戦させた。龍仙は捷勇を恃み、右足を挙げて馬の鬣の上に載せ、光弼を罵った。光弼は城に登って望み、諸将を顧みて言った、「誰か取れる者はあるか」。仆固懷恩が行くことを請うたが、光弼は言った、「これは大将のなすべきことではない」。次々に選んでいったところ、左右が言った、「白孝德が可です」。光弼はそこで孝德を招き寄せて前に出させ、問うた、「できるか」。答えて言った、「できます」。光弼が問うた、「どれだけの兵を要するか」。孝德は言った、「ただ独りで往くのみです」。光弼はこれを壮とした。最後に欲するものを問うと、答えて言った、「願わくは五十騎を選んで軍門にて継ぎとさせ、兼ねて大軍に鼓噪させて気勢を増すことを請う。他に用いるものはありません」。光弼はその背を撫でて遣わした。孝德は二矛を挟み、馬を策って流れを截って渡った。半ば渡ったとき、懷恩が賀して言った、「勝ちました」。光弼は言った、「まだ及ばないのに、どうして勝つと知るのか」。懷恩は言った、「その轡を攬ねて便辟なるを見れば、万全たるべきです」。龍仙は彼が独りで来たのを見て、甚だ易しとし、足を鬣から降ろさなかった。やや近づき、動かんとしたとき、孝德は手を振ってこれに示し、動かさないようにさせた。龍仙はこれを測りかね、そこで止まった。孝德は呼んで言った、「侍中(李光弼)が余に辞を致すよう使わされたのであって、他意はない」。龍仙は十歩離れてこれと言葉を交わし、初めのように罵った。孝德は馬を休めて便を伺い、そこで目を瞋らせて言った、「賊、我を知るか」。龍仙は言った、「誰だ」。答えて言った、「我は国の大将白孝德である」。龍仙は言った、「何という豚狗か」。孝德は声を発して実に啖い、矛を持ち馬を躍らせてこれと搏った。城上で鼓噪し、五十騎が継いで進んだ。龍仙は矢を発する暇もなく、堤の上を環って走った。孝德は追い及んで、首を斬り、これを携えて帰った。賊徒は大いに駭いた。その後、戦功を累ねて安西北庭行営節度・鄜坊邠寧節度使に至り、歴任して検校刑部尚書となり、昌化郡王に封ぜられた。家難により職を去り、服闋して旧官に復した。

原文白孝德,安西胡人也,驍悍有膽力。乾元中,事李光弼為偏裨。史思明攻河陽,使驍將劉龍仙率鐵騎五千臨城挑戰。龍仙捷勇自恃,舉右足加馬鬣上,嫚罵光弼。光弼登城望,顧諸將曰:「孰可取者?」仆固懷恩請行,光弼曰:「此非大將所為。」歷選其次,左右曰:「白孝德可。」光弼乃招孝德前,問曰:「可乎?」曰:「可。」光弼問:「所要幾何兵?」孝德曰:「可獨往耳。」光弼壯之。終問所欲,對曰:「願選五十騎於軍門為繼,兼請大軍鼓噪以增氣勢,他無所用。」光弼撫其背以遣之。孝德挾二矛,策馬截流而渡。半濟,懷恩賀曰:「克矣。」光弼曰:「未及,何知其克?」懷恩曰:「觀其攬轡便辟,可萬全者。」龍仙見其獨來,甚易之,足不降鬣。稍近,將動,孝德搖手示之,若使其不動,龍仙不之測,乃止。孝德呼曰:「侍中使余致辭,非他也。」龍仙去十步與之言,褻罵如初。孝德息馬伺便,因瞋目曰:「賊識我乎?」龍仙曰:「誰耶?」曰:「我,國之大將白孝德也。」龍仙曰:「是何豬狗!」孝德發聲寔啖,持矛躍馬而搏之。城上鼓噪,五十騎繼進。龍仙矢不暇發,環走堤上。孝德追及,斬首,攜之而歸,賊徒大駭。其後,累戰功至安西北庭行營節度、鄜坊邠寧節度使,歷檢校刑部尚書,封昌化郡王。以家難去職,服闋復舊官。

大暦十四年九月、太子少傅に転じ、まもなく卒した。時に年六十六、太子太保を贈られた。

原文大歷十四年九月,轉太子少傅,尋卒,時年六十六,贈太子太保。

【贊】

原文【贊】

史臣曰く、歴代の武臣、壮勇にして衆に抜きん出る者はあれども、節行をもって俗を励ます者は少ない。ましてや蛮夷の人においてをや。馮盎のごときは智勇にして節を守り、阿史那社尒は廉慎にして足るを知り、蘇尼失は恩恵あり、史忠は清謹なり。およそ兵を用いて吐蕃・吐谷渾を破るは勇なり。心は鉄石のごとしは忠なり。万均の官を解かざるは恕なり。延陀の親を阻むは智なり。高突勃の死を捨つるは識なり。大功を立て、顕位に居り、夙夜懈らざる者は、何力にこれあり。常之は私馬をもって官兵を恕し、将士と均しく賞賜するは、古の名将も以て加うるなし。多祚は身を忘れて国に許し、孝德は壮勇にして功を立てるは、皆な三軍の傑なり。豈に九夷の陋たるべきや。嗣業は力を以て中興を賛し、終に王事に歿す。倫び擬うべからざるなり。

原文史臣曰:歷代武臣,壯勇出眾者有諸,節行勵俗者鮮矣,矧蠻夷之人乎!如馮盎智勇守節,社尒廉慎知足,蘇尼失恩惠,史忠清謹。凡用兵破吐蕃、谷渾,勇也;心如鐵石,忠也;不解萬均官,恕也;阻延陀之親,智也;舍高突勃之死,識也。立大功,居顯位,夙夜匪懈者,何力有焉。常之以私馬恕官兵,與將士均賞賜,古之名將,無以加焉。多祚忘身許國,孝德壯勇立功,皆三軍之傑也,豈九夷之陋哉!嗣業力贊中興,終歿王事,未可倫而擬也。

贊して曰く、君子の居る所、九夷も陋しからず。壮なるかな嗣業、孰かその右に出でんや。

原文贊曰:君子之居,九夷無陋。壯哉嗣業,孰出其右!