旧唐書 馮盎

旧唐書

馮盎

馮盎は高州良徳の人である。累代にわたり本郡の大首領であった。盎は若くして武略があり、隋の開皇年間に宋康県令となった。仁寿初年、潮州・成州など五州の獠が叛き、盎は京師に馳せ至り、これを討つことを請うた。文帝は左僕射楊素に命じて盎と賊の形勢を論じさせたところ、素は言う、「蛮夷の中にこのような人物があるとは思わなかった。大いに奇とすべきである」と。ただちに盎に江・嶺の兵を発してこれを撃たせた。賊が平定されると、金紫光禄大夫を授け、さらに漢陽太守に任じた。

武徳三年、広州・新州の二州の賊帥高法澄・洗宝徹らはともに林士弘の節度を受け、隋の官吏を殺害したので、盎は兵を率いてこれを撃破した。やがて宝徹の兄の子智臣がまた新州に兵を聚め、自ら渠帥となったので、盎は急ぎ往きこれを撃った。兵が交わると、盎は兜鍪を脱ぎ捨てて大呼して言う、「お前たちは私をよく知っているか」と。賊の多くは戈を棄てて肉袒して拝し、その徒はついに潰走し、宝徹・智臣らを擒らえ、嶺外はついに平定された。ある人が盎に説いて言う、「隋の末世に崩離して以来、海内は騒動している。今、唐は運に応じたとはいえ、風教はまだ行き渡らず、南越の一隅は未だ定まるところがない。公は五嶺の二十余州を平定した。趙佗の九郡と比べられようか。今、南越王の号を上ることを請う」と。盎は言う、「私は南越に住んで、すでに五代になる。本州の牧伯は、ただ我が一門のみである。子女玉帛は、私の有するところである。人生の富貴は、私のようではおよそ難しく、常に負荷に堪えずして先業を墜すことを恐れている。本州に衣錦するだけで足りる。他に何を求めようか。越王の号は、聞くところではない」と。

四年、盎は南越の衆を率いて降り、高祖はその地を羅州・春州・白州・崖州・儋州・林州など八州とし、さらに盎に上柱国・高羅総管を授け、呉国公に封じ、まもなく越国公に改封した。その子智戴を春州刺史に任じ、智彧を東合州刺史とし、盎を耿国公に徙封した。貞観五年、盎が来朝すると、太宗は宴を賜い厚く賞賜した。まもなく羅竇の諸洞の獠が叛き、詔して盎に部落二万を率いて諸軍の先鋒となることを命じた。時に賊数万が険要に屯して拠り、攻め逼るべからざるものがあった。盎は弩を執って左右に語って言う、「この矢を尽くせば、勝負を知ることができよう」と。連続して七矢を発し、七人に中てたので、賊は退走し、そこで兵を放ってこれに乗じ、千余級を斬首した。太宗は智戴に還って慰問させ、以後賞賜は数えきれなかった。盎は奴婢一万余人を有し、居るところの地方二千里、簿領に勤め、奸状を詰擿して、甚だその情を得た。二十年に卒した。左騎衛大将軍・荊州都督を贈られた。

阿史那社爾

阿史那社爾は、突厥の処羅可汗の子である。十一歳の時、智勇をもって本蕃に称され、拓設に拝され、磧北に牙を建て、欲谷設と分かって鉄勒・紇骨・同羅などの諸部を統べた。在位十年、課斂することなく、諸首領の中にはその富貴を得られぬことを卑しむ者もあったが、社爾は言う、「部落がすでに豊かであれば、私にとっては足りる」と。諸首領はみな畏れてこれを愛した。

武徳九年、延陀・回紇などの諸部がみな叛き、欲谷設を攻め破ったので、社爾はこれを撃ったが、また延陀に敗れた。貞観二年、ついにその余衆を率いて西偏に保ち、可汗浮図に依った。後に頡利が滅び、西蕃の葉護がまた死に、奚利邲咄陸可汗兄弟が国を争うと、社爾は降ると言いふらし、兵を引いて西上し、そこで古蕃を襲い破り、その国の半ばを有し、衆十余万を得て、自ら都布可汗と称した。その諸部に謂って言う、「まず叛いて我が国を破ったのは、延陀の罪である。今、私は西方を拠有し、大いに兵馬を得た。延陀を平らげずして安楽を取るのは、先可汗を忘れることであり、不孝である。もし天が捷からしめなければ、死んでも恨みはない」と。その酋長たちはみな諫めて言う、「今、新たに西方を得たばかりで、鎮圧のために留まるべきである。もしすぐに棄て去って、遠く延陀を撃てば、ただ葉護の子孫が必ず来て国を復することを恐れるのみである」と。社爾は従わず、みずから五万余騎を率いて磧北で延陀を討ち、百余日にわたって兵を連ねた。我が行人劉善因が同娥設を立てて咥利始可汗としたのに遇い、社爾の部兵はまた久役に苦しみ、多くはこれを委ねて逃げた。延陀はそこで放ってこれを撃ち破り、また高昌国に保った。その旧兵で残っているものはわずか一万余人、また西蕃と隙を結んだ。

九年、衆を率いて内属し、左騎衛大将軍に拝された。一年余りして、衡陽長公主をめあわせしめ、駙馬都尉を授け、苑内に屯兵を典とした。十四年、行軍総管に任じられ、高昌を平らげた。諸人はみなただちに賞を受けたが、社爾は詔旨を奉じていないとして、秋毫も取るところがなかった。別勅が降って、その後で受けた。そして取ったものは、ただ老弱故弊のみであった。軍が還ると、太宗はその廉慎を美として、高昌で得た宝刀と雑彩千段を賜い、さらに北門左屯営を検校せしめ、畢国公に封じた。十九年、太宗に従って遼を征し、駐蹕陣に至り、頻りに流矢に遭ったが、抜いてまた進んだ。その所部の兵士は、人百倍の勇気を奮い、ことごとく殊勛を獲た。師が凱旋すると、鴻臚卿を兼ねて授けられた。二十一年、昆丘道行軍大総管となり、亀茲を征した。明年、軍が西突厥に次ぐと、処密を撃ち、大いにこれを破り、余衆は悉く降った。また亀茲の大撥換城を下し、亀茲王白訶黎布失畢及び大臣那利ら百余人を虜らえて還った。太宗が崩御されたのに属し、身をもって殉葬することを請うたが、高宗は使者を遣わして先の旨を諭し、許さなかった。右衛大将軍に遷った。永徽四年、位を加えて鎮軍大将軍とした。六年に卒し、輔国大将軍・并州都督を贈られ、昭陵に陪葬した。冢を起こして葱山に象り、さらに碑を立て、謚して元といった。子の道真は、位は左屯衛大将軍に至った。

貞観初め、阿史那蘇尼失という者は、啓民可汗の母弟であり、社爾の叔祖である。その父の始畢可汗は沙鉢羅設とし、部落五万家を督し、牙を霊州の西北に直し、驍雄にして恩恵があり、甚だ種落の心を得た。頡利の政が乱れると、蘇尼失の所部のみは離反しなかった。突利が来奔すると、頡利はそこで蘇尼失を小可汗に立てた。頡利が李靖に破られると、独り騎ってこれに投じたので、蘇尼失はついにその衆を挙げて帰国し、そこで子の忠に命じて頡利を擒らえて献上させた。太宗は賞賜を優厚にした。北寧州都督・右衛大将軍に拝され、懐徳郡王に封じられた。貞観八年に卒した。

忠は頡利を擒らえた功により、左屯衛将軍に拝され、宗女の定襄県主を妻とし、忠と名を賜い、単に史氏と称した。貞観九年、右衛大将軍に遷った。永徽初年、薛国公に封じられ、累遷して右驍衛大将軍となった。歴任したところはみな清謹をもって称され、時人は金日磾に比した。上元初年に卒し、鎮軍大将軍を贈られ、昭陵に陪葬した。

子の暕は、薛国公の封を襲ぎ、垂拱年中、司僕卿の位を歴任した。

契苾何力

契苾何力は、その先祖は鉄勒別部の酋長である。父の葛は、隋の大業年間に継いで莫賀咄特勤となり、地が吐谷渾に逼り、居るところが隘狭で、また瘴癘が多いため、ついに亀茲に入り、熱海の上に居た。特勤が死ぬと、何力は時に九歳であった。降号して大俟利発となった。貞観六年に至り、その母に随って衆千余家を率いて沙州に詣で、表を奉じて内附し、太宗はその部落を甘州・涼州の二州に置いた。何力は京師に至り、左領軍将軍を授けられた。

七年、涼州都督李大亮・将軍薛萬均とともに吐谷渾を征討した。軍は赤水川に駐屯し、萬均は騎兵を率いて先行したが、賊に攻撃され、兄弟ともに槍に当たって落馬し、徒歩で戦い、兵士の死者は十のうち六、七に及んだ。何力はこれを聞き、数百騎を率いて馳せ往き、包囲を突破して前進し、縦横に奮撃し、賊兵は敗走し、萬均兄弟はこれによって救われた。当時、吐谷渾の主は突淪川におり、何力はさらにこれを襲撃しようとしたが、萬均は前の敗戦を戒めとして、固く不可と主張した。何力は言った、「賊には城郭がなく、水草を追って生活している。もし不意を襲わなければ、鳥が驚き魚が散るように逃げ去り、一度機会を失えば、どうしてその巣窟を覆すことができようか」と。そこで自ら驍兵千余騎を選び、直ちに突淪川に入り、吐谷渾の牙帳を襲撃して破り、数千級を斬首し、駱駝・馬・牛・羊二十余万頭を獲、渾主は脱身して免れたが、その妻子を捕虜にして帰還した。詔があり、大斗抜谷で労をねぎらわれた。萬均は何力を排撃して誹謗し、自らの功績であると称した。何力は憤怒に耐えず、刀を抜いて立ち上がり、萬均を殺そうとしたが、諸将が諫めて止めた。太宗はこれを聞いてその理由を責問し、何力は萬均の敗戦と恥辱の事を言上した。太宗は怒り、その官を解いて何力に回授しようとしたが、何力は固く辞して言った、「臣の故をもって萬均を解任すれば、諸蕃がこれを聞いて、陛下が蕃を厚くし漢を軽んじていると思い、互いに誣告し、競い走ることが必ず多くなるでしょう。また夷狄は無知であり、漢臣は皆このような輩であると言う者もおり、固より安寧の術ではありません」と。太宗はやめた。まもなく北門の宿衛を命じ、屯営事を検校し、勅して臨洮県主を尚せしめた。

十四年、蔥山道副大総管となり、高昌を討って平定した。当時、何力の母の姑臧夫人と、同母弟の賀蘭州都督沙門はともに涼府にいた。十六年、詔があり、何力にその母を見舞い省みること、兼ねて部落を撫で巡ることを許した。当時、薛延陀が強盛で、契苾部落は皆これに従うことを願った。何力が到着し、これを聞いて大いに驚き言った、「主上は汝らに厚恩があり、私を任用するのも重い。どうして忍んで叛逆を図ることができようか」と。諸首領は皆言った、「可敦(母)と都督(弟)はすでに行ってしまった。どうして行かないのか」と。何力は言った、「我が弟の沙門は孝行でよく養うことができる。私は身を国に許している。終に行くことはできない」と。そこで衆は共に何力を捕らえて延陀の所に至らせ、可汗の牙帳の前に置いた。何力は箕踞(あぐらをかいて座り)して座り、佩刀を抜いて東に向かって大呼し言った、「どうして大唐の烈士が、蕃庭で辱めを受けようか。天地日月よ、願わくは我が心を知れ」と。また左耳を切り取って志が奪われないことを明らかにした。可汗は怒り、これを殺そうとしたが、その妻に抑えられて止んだ。初め、太宗は何力が延陀に行ったことを聞き、それが彼の本意でないことを明らかにしていた。ある者が言った、「人心はそれぞれその土地を楽しむものであり、何力が今延陀に入ったのは、魚が水を得たようなものです」と。太宗は言った、「そうではない。この人の心は鉄石のようであり、必ず我を背かないだろう」と。ちょうど延陀からの使者が到着し、その状況を詳しく言上した。太宗は群臣に泣いて言った、「契苾何力は結局どうなったのか」と。急ぎ兵部侍郎崔敦礼に節を持たせて延陀に入らせ、公主を降嫁することを許し、何力を求めた。これによって帰還し、右驍衛大将軍に拝された。太宗はすでに延陀に公主を許し、行く日が決まっていたが、何力は表を奉って固く不可を主張した。太宗は言った、「吾は天子に戯言なしと聞く。すでに許した以上、どうして廃することができようか」と。何力は言った、「そうです。臣はもともとその事を延ばすことを請うたのであって、全面的に停止するとは申しません。臣は聞く、六礼の内、婿は親迎すべきであると。延陀に親しく来て婦を迎えるよう告げるべきです。たとえ京邑に至ることを敢えずとも、すなわち霊州に詣でさせるべきです。漢を畏れて必ず来ることはないでしょう。親を論じても成就する日はないでしょう。すでに憂悶し、臣はまた離間させます。一年も満たずに、自ら猜忌し合うでしょう。延陀の志性は狠戾であり、もし死ねば、必ず両子が相争い、座してこれを制するは、必然の道理です」と。太宗はこれに従った。延陀は詐りがあることを恐れ、ついに霊州に至らなかった。その後、常に悒々として志を得ず、一年で死に、両子は果たして権力を争い、それぞれ主として立った。

太宗が遼東を征した時、何力を前軍総管とし、軍は白崖城に駐屯したが、賊に包囲され、矛が腰に当たり、傷は重く病は甚だしかった。太宗は自ら薬を塗った。賊城を抜いた時、傷つけた者である高突勃を探し求めるよう勅し、何力に付けて自ら殺させようとした。何力は奏上して言った、「犬馬でさえその主のためであり、まして人においておや。彼はその主のためであり、まして命を賭して白刃を冒して臣を刺したのは、その義勇士です。もともと面識はなく、どうして冤仇でありましょうか」と。ついにこれを赦した。二十二年、昆丘道総管となり、亀茲を撃ち、その王の訶梨布失畢および諸首領らを捕らえた。太宗が崩御すると、何力は身を殺して殉じようとしたが、高宗が諭して止めさせた。

永徽二年、処月・処密が叛き、何力を弓月道大総管として、これを討って平定し、その渠帥である処密の時健俟斤・合支賀らを生け捕りにして帰還した。顕慶二年、左驍衛大将軍に遷り、累ねて郕国公に封ぜられ、兼ねて鴻臚卿を検校した。龍朔元年、また遼東道行軍大総管となった。九月、鴨緑水に駐屯した。その地は高麗の険阻であり、莫離支の男生が精兵数万をもってこれを守り、衆は渡ることができなかった。何力が初めて到着すると、ちょうど層氷が大きく結び、急ぎ兵を渡し、鼓噪して進んだ。賊はついに大いに潰え、数十里を追撃し、三万級を斬首し、余衆は尽く降伏し、男生はただ身一つで免れた。ちょうど詔があり班師したので、帰還した。その年、九姓が叛き、何力を鉄勒道安撫大使とした。そこで精騎五百を選んで馳せ入り九姓の中に入った。賊は大いに驚き、何力はそこで言った、「国家は汝らが誤りに導かれたことを知り、翻動があったが、我に汝らの過ちを赦させ、皆自新することができる。罪は酋渠にあり、これを得ればそれでよい」と。諸姓は大いに喜び、共に偽の葉護および設・特勤ら同悪二百余人を捕らえて帰還した。何力はその罪を数え上げて誅した。乾封元年、また遼東道行軍大総管となり、兼ねて安撫大使とした。高麗は衆十五万を有し、遼水に屯し、また靺鞨数万を引きいて南蘇城を占拠した。何力は奮撃し、皆大いにこれを破った。一万余級を斬首し、勝ちに乗じて進み、凡そ七城を抜いた。そこで軍を返して鴨緑水で英国公李勣と会し、共に辱夷・大行の二城を攻め、これを破った。勣は軍を鴨緑柵に頓し、何力は蕃漢兵五十万を率いて先に平壌に臨んだ。勣がなお継いで到着し、共に平壌城を抜き、男建を捕らえ、その王を虜にして帰還した。鎮軍大将軍を授けられ、左衛大将軍を行い、涼国公に徙封され、なお右羽林軍を検校した。儀鳳二年に卒し、輔国大将軍・并州都督を贈られ、昭陵に陪葬され、謚して烈といった。

三人の子があった。明・光・貞である。明は左鷹揚衛大将軍、兼ねて賀蘭都督となり、涼国公の爵を襲いだ。光は則天の時に右豹韜衛将軍となり、酷吏に殺された。貞は司膳少卿となった。

黒歯常之

黒歯常之は、百済の西部の人である。身長は七尺余りで、驍勇にして謀略があった。初め本国において、達率兼郡将に仕え、これは中国の刺史に相当する。顕慶五年、蘇定方が百済を討ち平らげると、常之は配下を率いて例に従い降伏の意を表した。時に定方は左王及び太子隆らを捕らえ、なお兵を放って掠奪させ、壮年の者は多く殺戮された。常之は恐れ、左右十余り人と共に遁れて本国に帰り、逃亡者を集め、共に任存山を守り、柵を築いて自らを固め、十日にして帰順する者は三万余人に及んだ。定方が兵を遣わしてこれを攻めると、常之は敢死の士を率いて防戦し、官軍は敗北し、遂に本国の二百余城を回復したので、定方は討つことができずに帰還した。龍朔三年、高宗は使者を遣わしてこれを招諭し、常之はその衆を尽く率いて降った。累遷して左領軍員外将軍となった。

儀鳳年間、吐蕃が辺境を侵犯すると、常之は李敬玄に従ってこれを撃った。劉審礼が賊に没した時、敬玄は軍を引き上げようとしたが、泥溝に阻まれ、策がなかった。常之は夜に敢死の兵五百人を率いて賊の陣営を襲い、吐蕃の首領跋地設は軍を棄てて夜遁し、敬玄はこれによって帰還することができた。高宗はその才略を嘆き、左武衛将軍に抜擢し、兼ねて検校左羽林軍とし、金五百両、絹五百匹を賜い、なお河源軍副使を充てた。時に吐蕃の賛婆及び素和貴ら賊徒三万余人が良非川に屯した。常之は精騎三千を率いて夜に賊陣を襲い、二千級を斬り、羊馬数万を獲、賛婆らは単騎で遁走した。常之を大使に抜擢し、また物四百匹を賞賜した。常之は河源軍が賊の要衝に当たるため、兵を増やして鎮守しようとしたが、運搬の費用を恐れ、遂に遠く烽戍七十余所を置き、開墾して営田五千余頃を計り、毎年百余万石を収穫した。開耀年間、賛婆らが青海に屯すると、常之は精兵一万騎を率いてこれを襲い破り、その糧食を焼いて帰還した。常之は軍に七年あり、吐蕃は深く畏れ憚り、再び辺境の患いを為すことがなかった。嗣聖元年、左武衛大将軍に遷り、なお検校左羽林軍を兼ねた。垂拱二年、突厥が辺境を侵犯すると、常之に兵を率いてこれを防がせた。両井まで追撃し、突然賊三千余衆に出会った。常之は賊徒が争って下馬し甲を着けるのを見て、二百余騎を率い、自ら先鋒となって直ちに突撃し、賊は甲を棄てて散乱した。間もなく賊の大軍が到着した。日が暮れようとする頃、常之は木を伐らせ、陣営に烽火のように火を燃やした。時に東南から突然大風が起こり、賊は救兵が来たと疑い、狼狽して夜遁した。功により燕国公に進封された。三年、突厥が朔州に侵入すると、常之はまた大総管を充て、李多祚、王九言を副将とした。黄花堆まで追撃し、これを大破し、四十余里を追撃して賊は磧北に散走した。時に中郎将爨宝璧が上表して残賊を追撃することを請うた。詔により常之は宝璧と会し、遠くから声援することとなった。宝璧は賊を破るのは朝夕のうちと思い、功を貪って先に行き、常之と謀議することなく、遂に全軍が没した。まもなく周興らに誣告され、右鷹揚将軍趙懐節らと謀反を企てたとして獄に繋がれ、遂に自縊して死んだ。

常之はかつて乗っていた馬を兵士が傷つけたことがあり、副使牛師奨らがこれを鞭打つことを請うた。常之は言った、「どうして私の馬を傷つけたからといって官兵を処罰できようか」と。遂にこれを赦した。前後して得た賞賜の金帛などは、皆将士に分け与えた。死んだ時、人々は甚だ惜しんだ。

李多祚

李多祚は、代々靺鞨の酋長であった。多祚は驍勇で射術に優れ、意気に感じ易かった。若くして軍功により右羽林軍大将軍の位に至り、前後して禁兵を掌握し、北門の宿衛を二十余年務めた。

神龍初年、張柬之が張易之兄弟を誅殺しようとした時、多祚を引き入れてその計画を図らせ、言った、「将軍は北門に幾年いるか」と。多祚は言った、「三十年です」と。柬之は言った、「将軍は鐘を鳴らし鼎に食し、金章紫綬を帯び、当代の貴寵を受け、武臣の位の極みにある。これは大帝(高宗)の恩ではないか」と。多祚は言った、「その通りです」と。また言った、「将軍は既に大帝の殊なる恩沢に感じるなら、報いることができるか。大帝の子が今東宮におられる。逆賊張易之兄弟が権力を擅にし、朝夕危うく逼迫している。宗廟社稷の重みは、将軍にかかっている。誠に恩に報いようとするなら、正に今日がその時である」と。多祚は言った、「もし王室のためなら、相公の御指図のままに、妻子の命をも顧みません」と。そこで天地の神祇を引き合いに出して誓いを立て、言葉と気持ちに感動し、義の色を顔に表した。遂に柬之らと謀を定めて易之兄弟を誅殺し、功により遼陽郡王に進封され、実封八百戸を食み、その子承訓を衛尉少卿に任じた。その年、太廟で祭祀を行うことになり、特に多祚と安国相王に命じて輦に乗り、両側から侍らせた。監察御史王覿が上疏して諫めて言った、「思うに、廟に合祀する礼は、祖を尊び先を奉ずることにあり、厳粛な儀式においては、親と徳のみを重んじることを厭うべきではない。伏して見るに、恩赦により安国相王と李多祚に輦に同乗させようとしている。しかも多祚は夷人であり、国に功績はあるが、寵爵を加えるに適するだけであって、どうして至尊に近侍させ、帝の弟と並び、我が君と共に輦に乗せることができようか。誠に恐れるのは、万方の人々がその望みに従わないことである。昔、文帝が趙談を引きいて輦に同乗させようとした時、袁盎が車前に伏して言った、『臣は聞く、天子と共に六尺の輦に乗る者は、皆天下の豪傑英傑であると。今漢は人材が乏しいとはいえ、陛下はどうして刀鋸の余り(宦官)と共に載せられようか』と。そこで斥けて下ろさせた。多祚には趙談のような欠点はないが、また卿相の重みもなく、自ら省みず、固辞することも聞かれない。はたして国に良輔が乏しく、他に人がいないというのか。史官が記すところは、後世に示される。どうして袁盎の強諫はありえ、ただ微臣だけが及ばないのか。惟うに陛下の詳しい選択を願う」と。上は覿に言った、「多祚は夷人ではあるが、その功績により、心腹として委ね、特に輦に侍らせるのだ。卿はもう言うな」と。

節湣太子が武三思を殺害した時、多祚は羽林大将軍李千里らと共に兵を率いて従った。太子は多祚に先に玄武楼の下まで行くよう命じ、上(中宗)が三思を殺した意図を問うことを期待し、兵を抑えて戦わなかった。時に宮闈令楊思勖が楼上で帝に侍っており、その先鋒を防ぐことを請うた。多祚の子婿で羽林中郎将の野呼利が先軍総管であったが、思勖が刃を抜いてこれを斬ると、兵衆は大いに沮喪した。多祚は間もなく左右の者に殺され、二人の子も殺され、家は籍没された。えい宗が即位すると、詔を下して言った、「忠をもって国に報いることは、典籍が称えるところである。義に感じて身を捨てることは、名節の在るところである。故右羽林大将軍、上柱国、遼陽郡王李多祚は、三韓の貴種、百戦の余雄である。禁営の寵を受け、心は王室にあり、この誠信を仗って、翻って誅夷に陥った。かの神明に頼り、重ねて奸慝を清め、永くその美しい功績を言えば、深く褒め崇めるに合う。没後の栄誉を追うべく、生前の命を復するべきである。旧官に還し、なおその妻子を赦すべし」と。

李嗣業

李嗣業は、京兆高陵の人である。身長七尺、壮勇にして並ぶ者がない。天宝初年、募集に応じて安西に至り、頻りに戦闘を経た。当時諸軍が初めて陌刀を用いたが、皆嗣業を能ある者と推した。常に隊頭となり、向かうところ必ず陥落させた。節度使馬霊察はその勇健を知り、出師する毎に、嗣業をこれに加えさせた。累遷して中郎将となった。

天宝七載、安西都知兵馬使高仙芝は詔を奉じて軍を総べ、専ら勃律を征し、嗣業と郎将田珍を選びて左右の陌刀将とした。時に吐蕃は十万の衆を娑勒城に聚め、山に拠り水に因り、崖谷を塹断し、木を編みて城と為す。仙芝は夜に軍を引きて信図河を渡り、奄かに城下に至る。仙芝、嗣業と田珍に謂ひて曰く、「午時に至らざるに須らく此の賊を破らん」と。嗣業は歩軍を引きて長刀を持ちて上り、山頭より櫑を抛ちて空を蔽ひて下る。嗣業は独り一旗を引きて絶險の処に先登し、諸将之に因りて斉しく上る。賊は漢軍の暴至を虞はざりしにより、遂に大潰し、溪谷を填め、水に投じて溺死する者、僅かに十の八九。遂に長駆して勃律城に至り、勃律王・吐蕃公主を擒へ、藤橋を斬ち、兵三千人を以て戍る。ここに於て拂林・大食諸胡七十二国皆国家に帰し、塞に款き朝献す、是れ嗣業の功なり。此れによりて右威衛将軍に拝す。十載、又従ひて石国を平げ、及び九国胡を破り並びに背叛の突騎施を破り、跳蕩を以て特進を加へ、本官を兼ぬ。初め、仙芝は石国王を紿して和好を約し、乃ち兵を将ひて襲ひて之を破り、其の老弱を殺し、其の丁壮を虜ひ、金宝瑟瑟駝馬等を取り、国人号哭す。因りて石国王を掠ひて東し、闕下に献ず。其の子は難を逃れて奔走し、諸胡国に告ぐ。群胡之を忿み、大食と謀を連ね、将に四鎮を攻めんと欲す。仙芝懼れ、兵二万を領して深く胡地に入り、大食と戦ふ。仙芝大敗す。夜に会し、両軍解く。仙芝の衆は大食に殺され、存する者数千に過ぎず。事窘しく、嗣業、仙芝に白して曰く、「将軍深く胡地に入り、後救兵絶つ。今大食戦勝し、諸胡知る、必ず勝に乗じて力を併せて漢に事へん。若し全軍没せば、嗣業と将軍俱に賊の虜と為らん、則ち何人か主に帰報せん。白石嶺を馳せ守るに如かず、早く奔逸の計を図らん」と。仙芝曰く、「爾は戦将なり。吾は余燼を収合し、明日復た戦ひ、一勝を期せんと欲す」と。嗣業曰く、「愚者千慮、或ひは一得有り。勢危きこと此の若くは、膠柱す可からず」と。固より行かんことを請ひ、乃ち之に従ふ。路隘く、人馬魚貫して奔る。跋汗那の兵衆先づ奔るに会ひ、人及び駝馬路を塞ぎ、過ぐることを克さず。嗣業は大棒を持ちて前駆し之を撃つ。人馬手に応じて俱に斃る。胡等遁れ、路開く。仙芝免るることを獲る。仙芝其の功を表し、驃騎左金吾大将軍を加ふ。

及禄山反す、両京陥ち、上霊武に在す。詔して嗣業を行在に赴かしむ。嗣業安西より衆を統べて万里、威令肅然たり。過ぐる郡県、秋毫も犯さず。鳳翔に至り謁見す。上曰く、「今日卿を得るは、数万の衆に勝る。事の済ふや否や、実に卿に在り」と。遂に郭子儀・仆固懐恩等と常に犄角して先鋒将と為る。嗣業は毎に大棒を持ちて沖撃し、賊衆披靡し、向ふ所敵無し。

禄山の乱、両京未だ復せず、粛宗鳳翔に在す。至徳二年九月、嗣業は広平王に従ひて京城を収復し、賊と香積寺の北に大戦す。西は灃水に拒ぎ、東は大川に臨み、十里の間軍容断えず。嗣業時に鎮西・北庭支度行営節度使と為り、前軍と為る。朔方右行営節度使郭子儀は中軍と為り、関内行営節度王思礼は後軍と為る。戈鋌鼓鞞、山野を震曜し、賊軍を距ること数里、長陣を列べて之を待つ。賊将李帰仁初め鋭師を以て数来たりて挑戦す。我が師は矢を攅てて之を逐ふ。賊軍大いに至り、我が追騎を逼り、我が営に突入す。我が師囂乱す。嗣業、郭子儀に謂ひて曰く、「今日の事、若し身を以て寇に啖はれずんば、陣に決戦し、万死して其の一生を冀はん。然らずんば、則ち我が軍孑遺無からん」と。嗣業乃ち衣を脱ぎて徒搏し、長刀を執りて陣前に立ちて大呼す。嗣業の刀に当たる者は、人馬俱に碎け、十数人を殺し、陣容方に駐る。前軍の士は尽く長刀を執りて出で、墻の如くにして進む。嗣業先登して命を奮ひ、向ふ所摧靡す。是の時、賊先づ兵を営の東に伏せり。偵者之を知る。元帥広平王は回紇の鋭卒を分ち、令して其の伏兵を撃たしむ。賊将大敗す。嗣業は賊営の背を出で、回紇と勢を合はし、表裏夾攻す。午より酉に及び、首級六万を斬り、溝壑を填めて死する者十二三。賊帥張通儒・安守忠・李帰仁等は残卒を収合し、東走して陜郡を保つ。慶緒又た厳莊に命じ衆数万を率ひ、陜に赴きて通儒輩を助け官軍を拒がしむ。広平王・郭子儀・王思礼等の大軍は陜西に営す。嗣業は子儀と賊に新店に遇ひ、之と力戦し、数合す。我が師は初め勝ちて後に敗る。嗣業急ぎ応接す。回紇は南山より官軍の敗るるを見て、白旗を曳きて下り、径に賊の背に抵り、賊陣を穿つ。賊陣の西北角先づ陥つ。嗣業又た精騎を率ひて前撃し、表裏斉しく進む。賊衆大敗し、河北に走る。子儀遂に東都を収む。嗣業は功を以て開府儀同三司・衛尉卿を加へられ、虢国公に封ぜられ、実封二百戸を食む。

乾元二年、諸将相州を囲む。是の時に堤を築き漳水を引きて城を灌ぐ。月余を経て、城抜けず。是の時、軍に統帥無く、諸将自ら全からんと図り、人闘志無し。賊毎に出でて戦ふに、嗣業は堅を被りて沖突し、鋒を履み刃を冒し、流矢に中る。数日、瘡愈えんと欲し、帳中に臥す。忽ち金鼓の声を聞き、因りて大叫す。瘡中より血出でて数升地に注ぎて卒す。上之を聞き震悼し、嗟惜すること久し。詔して曰く、「難に臨みて身を忘るるは、臣たるの大節なり。功を念ひて贈を加ふるは、国を経るの常典なり。故衛尉卿・兼懐州刺史・充北庭行営節度使・虢国公李嗣業は、操を植て沈厚にし、心を秉りて忠烈なり。幹時の勇略を懐き、戡難の遠謀有り。久しく辺陲に仕へ、備く任使を経たり。兇渠乱を構へしより、中夏寧からず。感激の誠を持ち、驍果の衆を総べ、親しく矢石に当たり、頻りに勲庸を立つ。壮節嘉す可く、将に百勝に謀らんとす。忠誠未だ遂げず、空しく九原に恨む。其の功を言念ふに、良く深く憫悼す。王事に死するは、礼に加ふる有る可し。宜しく裂土の封を贈り、以て飾終の義を広むべし。武威郡王を贈る可し。其の賻贈及び葬事に縁るは、所司常式に倍せしめ、仍って官に令して霊輿を給し、遞りて所在に還らしむ。其の子佐国を以て其の官爵を襲はしめ、実封二百戸を食ます」と。

白孝德

白孝德は安西の胡人である。驍勇で悍猛、胆力があった。乾元年中、李光弼に仕えて偏裨となった。史思明が河陽を攻めたとき、驍将劉龍仙に鉄騎五千を率いさせて城に臨み、挑戦させた。龍仙は捷勇を恃み、右足を挙げて馬の鬣の上に載せ、光弼を罵った。光弼は城に登って望み、諸将を顧みて言った、「誰か取れる者はあるか」。仆固懷恩が行くことを請うたが、光弼は言った、「これは大将のなすべきことではない」。次々に選んでいったところ、左右が言った、「白孝德が可です」。光弼はそこで孝德を招き寄せて前に出させ、問うた、「できるか」。答えて言った、「できます」。光弼が問うた、「どれだけの兵を要するか」。孝德は言った、「ただ独りで往くのみです」。光弼はこれを壮とした。最後に欲するものを問うと、答えて言った、「願わくは五十騎を選んで軍門にて継ぎとさせ、兼ねて大軍に鼓噪させて気勢を増すことを請う。他に用いるものはありません」。光弼はその背を撫でて遣わした。孝德は二矛を挟み、馬を策って流れを截って渡った。半ば渡ったとき、懷恩が賀して言った、「勝ちました」。光弼は言った、「まだ及ばないのに、どうして勝つと知るのか」。懷恩は言った、「その轡を攬ねて便辟なるを見れば、万全たるべきです」。龍仙は彼が独りで来たのを見て、甚だ易しとし、足を鬣から降ろさなかった。やや近づき、動かんとしたとき、孝德は手を振ってこれに示し、動かさないようにさせた。龍仙はこれを測りかね、そこで止まった。孝德は呼んで言った、「侍中(李光弼)が余に辞を致すよう使わされたのであって、他意はない」。龍仙は十歩離れてこれと言葉を交わし、初めのように罵った。孝德は馬を休めて便を伺い、そこで目を瞋らせて言った、「賊、我を知るか」。龍仙は言った、「誰だ」。答えて言った、「我は国の大将白孝德である」。龍仙は言った、「何という豚狗か」。孝德は声を発して実に啖い、矛を持ち馬を躍らせてこれと搏った。城上で鼓噪し、五十騎が継いで進んだ。龍仙は矢を発する暇もなく、堤の上を環って走った。孝德は追い及んで、首を斬り、これを携えて帰った。賊徒は大いに駭いた。その後、戦功を累ねて安西北庭行営節度・鄜坊邠寧節度使に至り、歴任して検校刑部尚書となり、昌化郡王に封ぜられた。家難により職を去り、服闋して旧官に復した。

大暦十四年九月、太子少傅に転じ、まもなく卒した。時に年六十六、太子太保を贈られた。

【贊】

史臣曰く、歴代の武臣、壮勇にして衆に抜きん出る者はあれども、節行をもって俗を励ます者は少ない。ましてや蛮夷の人においてをや。馮盎のごときは智勇にして節を守り、阿史那社尒は廉慎にして足るを知り、蘇尼失は恩恵あり、史忠は清謹なり。およそ兵を用いて吐蕃・吐谷渾を破るは勇なり。心は鉄石のごとしは忠なり。万均の官を解かざるは恕なり。延陀の親を阻むは智なり。高突勃の死を捨つるは識なり。大功を立て、顕位に居り、夙夜懈らざる者は、何力にこれあり。常之は私馬をもって官兵を恕し、将士と均しく賞賜するは、古の名将も以て加うるなし。多祚は身を忘れて国に許し、孝德は壮勇にして功を立てるは、皆な三軍の傑なり。豈に九夷の陋たるべきや。嗣業は力を以て中興を賛し、終に王事に歿す。倫び擬うべからざるなり。

贊して曰く、君子の居る所、九夷も陋しからず。壮なるかな嗣業、孰かその右に出でんや。