舊唐書

巻108

巻108

舊唐書

原文舊唐書

卷一百八

原文卷一百八

列傳第五十八 韋見素 崔圓 崔渙 杜鴻漸

原文列傳第五十八 韋見素 崔圓 崔渙 杜鴻漸

韋見素、崔圓、崔渙、杜鴻漸

原文韋見素 崔圓 崔渙 杜鴻漸

韋見素

原文韋見素

韋見素、字は會微、京兆萬年の人である。父の湊は、開元中に太原尹となった。見素は学問に通じて科挙に及第した。景龍年中、初めて官に就き相王府参軍となり、衛佐・河南府倉曹を歴任した。父の喪に服し、喪が明けると、起用されて大理寺丞となり、彭城郡公の爵位を襲封した。事に坐して坊州司馬として出された。召されて庫部員外郎となり、朝散大夫を加えられ、右司兵部二員外、左司兵部二郎中を歴任し、諫議大夫に遷った。天宝五年、江西・山南・黔中・嶺南等黜陟使を充て、風俗を観察し、長吏を弾劾糾察し、赴くところ粛然とした。使より還り、給事中に拝され、誤りを駁正し違失を糾し、台閣の旧典を大いに振るわせた。まもなく尚書工部侍郎を検校し、右丞に改めた。九載、吏部侍郎に遷り、銀青光禄大夫を加えられた。見素は仁恕の長者で、意として人に逆らわず、選挙を掌ること累年、銓叙は平允で、人士はこれを称えた。時に右相楊國忠が権勢を振るい、左相陳希烈はその権勢を畏れ、何事も唯諾するのみで、敢えて意見を述べる者なく、玄宗はこれをよく知り、聖情は悦ばなかった。天宝十三年秋、霖雨六十余日に及び、京師の家屋や垣壁は崩れ朽ち果て、凡そ十九坊が水に浸かった。天子は宰輔が職に適わぬものがあるかと、この災いの兆しを見て、楊國忠に端士を精しく求めることを命じた。時に兵部侍郎吉溫が寵遇を受けていたので、上は彼を用いようとした。國忠は吉溫が安禄山の賓佐であったことを理由に、その威権を恐れ、この事を奏上して止めさせた。國忠は中書舎人竇華・宋昱らに諮り、華・昱は見素が方正高雅で、柔和で制しやすいと述べた。上もまた相王府に仕えた経歴があり、旧恩があることを理由に、これを可とした。その年八月、武部尚書・同中書門下平章事に拝し、集賢院学士を充て、門下省事を知り、陳希烈に代わった。見素は國忠に推挙されたので、心にその恩を感じた。時に安禄山は國忠と寵を争い、両者は互いに猜疑し、見素もまた是非を論ぜず、ただ署名するのみで、ついに凶胡が逆らうに至っても、一言も措かなかった。

原文韋見素,字會微,京兆萬年人。父湊,開元中太原尹。見素學科登第。景龍中,解褐相王府參軍,歷衛佐、河南府倉曹。丁父憂,服闋,起為大理寺丞,襲爵彭城郡公。坐事出為坊州司馬。入為庫部員外郎,加朝散大夫,歷右司兵部二員外,左司兵部二郎中,遷諫議大夫。天寶五年,充江西、山南、黔中、嶺南等黜陟使,觀省風俗,彈糾長吏,所至肅然。使還,拜給事中,駁正繩違,頗振臺閣舊典。尋檢校尚書工部侍郎,改右丞。九載,遷吏部侍郎,加銀青光祿大夫。見素仁恕長者,意不忤物,及典選累年,銓敘平允,人士稱之。時右相楊國忠用事,左相陳希烈畏其權寵,凡事唯諾,無敢發明,玄宗頗知之,聖情不悅。天寶十三年秋,霖雨六十餘日,京師廬舍垣墉頹毀殆盡,凡一十九坊汙潦。天子以宰輔或未稱職,見此咎征,命楊國忠精求端士,時兵部侍郎吉溫方承寵遇,上意用之。國忠以溫祿山賓佐,懼其威權,奏寢其事。國忠訪於中書舍人竇華、宋昱等,華、昱言見素方雅,柔而易制。上亦以經事相王府,有舊恩,可之。其年八月,拜武部尚書、同中書門下平章事,充集賢院學士,知門下省事,代陳希烈。見素既為國忠引用,心德之。時祿山與國忠爭寵,兩相猜嫌,見素亦無所是非,署字而已,遂至凶胡犯順,不措一言。

十五年六月、哥舒翰が桃林で兵を敗り、潼関は守られなかった。この月、玄宗は慌ただしく出奔し、赴くところを知らなかった。楊國忠は自ら剣南節度使を兼ねていたので、成都への行幸を請うた。見素は國忠・御史大夫魏方進と共に延秋門で上(玄宗)に遇い、そのまま咸陽に扈従した。翌日、馬嵬驛に宿営した時、軍士は食を得ず、流言が不遜であった。龍武将軍陳玄禮はその乱を恐れ、飛龍馬家の李護國と謀って皇太子に請い、國忠を誅して士心を慰めることを求めた。この日、玄禮ら禁軍が行宮を囲み、楊氏をことごとく誅した。見素は逃げ走り、乱兵に傷つけられたが、衆が「韋相を傷つけるな」と叫んだ。識者がこれを救い、免れることができた。上はこれを聞き、寿王瑁に宣慰させ、薬を賜って傷を塗らせた。魏方進は乱兵に殺された。この日、朝士はただ見素一人のみであった。この夜馬嵬に宿し、上は見素の子で京兆府司録参軍の諤を御史中丞とし、置頓使を充てさせた。夜明け前に出発しようとした時、六軍の将士は言った。「國忠は反逆した。蜀しょく川へは再び行くべきでない。河・隴へ行くことを請う。」ある者は霊武・太原と言い、ある者は京師に還ると言い、議論は一致しなかった。上は剣南を望んだが、将士の心に背くことを慮り、何も言わなかった。諤は言った。「京師に還るには賊を防ぐ備えが必要です。今兵馬は数少なく、万全とは恐らく言えません。扶風に至り、徐々に去就を図るのがよろしいでしょう。」上は衆に諮り、衆はこれを然りとし、皇太子に後殿を命じた。

原文十五年六月,哥舒翰兵敗桃林,潼關不守。是月,玄宗蒼黃出幸,莫知所詣。楊國忠以身領劍南旄鉞,請幸成都。見素與國忠、御史大夫魏方進遇上於延秋門,便扈從之咸陽。翌日,次馬嵬驛,軍士不得食,流言不遜。龍武將軍陳玄禮懼其亂,乃與飛龍馬家李護國謀於皇太子,請誅國忠,以慰士心。是日,玄禮等禁軍圍行宮,盡誅楊氏。見素遁走,為亂兵所傷,眾呼曰:「勿傷韋相!」識者救之,獲免。上聞之,令壽王瑁宣慰,賜藥傅瘡。魏方進為亂兵所殺。是日,朝士獨見素一人。是夜宿馬嵬,上命見素子京兆府司錄參軍諤為御史中丞,充置頓使。淩晨將發,六軍將士曰:「國忠反叛,不可更往蜀川,請之河、隴。」或言靈武、太原,或云還京,議者不一。上意在劍南,慮違士心,無所言。諤曰:「還京須有捍賊之備。今兵馬數少,恐非萬全,不如且至扶風,徐圖去就。」上詢於眾,眾以為然,乃令皇太子後殿。

上は扶風郡に至ると、従駕する諸軍はそれぞれ去就を図り、甚だ醜い言葉を発した。陳玄礼はこれを制することができず、上はこれを聞いて憂い恐れた。時に益州から春彩十万匹が貢上されたので、その綱使の濛陽尉劉景温を監察御史とし、その彩をすべて庭に並べ、六軍の将士らを召し入れて、上は彼らに言った。「卿らは皆国の功臣で、勲労は平素より顕著である。朕の優れた賞賜も、常に軽くはなかった。逆胡が恩に背いたので、事やむを得ず回避するが、卿らが父母妻子と別れがたいことはよく知っている。朕もまた九廟に辞することもできない。」言葉を発すると涙を流した。また言った。「朕は今蜀に行幸せねばならぬ。蜀の道は険しく狭く、人が多く行けば、恐らく供給が難しい。今この彩がある。卿らは直ちに分け取り、各自去就を図るがよい。朕は子弟・中官らが相従うので、ここで卿らと訣別する。」衆は皆うつ伏せて号泣し、「死生を陛下に従います」と言った。上はしばらくして「去るも留まるも卿らの便に任せる」と言った。これより醜い言葉はようやく止んだ。七月、巴西郡に至り、見素を左相・武部尚書を兼ねさせた。数日後、蜀郡に至り、金紫光禄大夫を加えられ、豳国公に進封され、一子に五品官が与えられた。

原文上至扶風郡,從駕諸軍各圖去就,頗出醜言。陳玄禮不能制,上聞之憂懼。會益州貢春彩十萬疋,乃以其綱使濛陽尉劉景溫為監察御史,其彩悉陳於廷,召六軍將士等入,上謂之曰:「卿等皆國之功臣,勛勞素著,朕之優賞,常亦不輕。逆胡負恩,事須回避,甚知卿等不得別父母妻子,朕亦不及辭九廟。」言發涕流。又曰:「朕今須幸蜀,蜀路險狹,人若多往,恐難祗供。今有此彩,卿等即宜分取,各自圖去就。朕自有子弟、中官等相隨,便與卿等訣別。」眾咸俯伏號泣,曰:「死生從陛下。」上良久曰:「去住聽卿自便。」自是醜言方息。七月,至巴西郡,以見素兼左相、武部尚書。數日,至蜀郡,加金紫光祿大夫,進封豳國公,與一子五品官。

この月、皇太子が霊武で即位したが、道路は険阻で、音信は通じていなかった。八月、粛宗の使者が至り、初めて霊武での即位を知った。まもなく見素と宰臣の房琯に命じて伝国璽と玉冊を携え、霊武に奉使させ、詔命を宣伝し、そのまま冊礼を行わせた。出発に際し、上皇(玄宗)は見素らに言った。「皇帝は幼少より仁孝で、諸子と異なり、朕が知らぬわけがない。往年の十三年、既に位を伝える意向があったが、その年は水旱があり、左右が豊年を待つよう朕に勧めた。その後安禄山が逆を構え、四方が震動し、この心を遂げられなかった。昨馬嵬を発つ時にも処分があった。今皇帝が天命を受けたので、朕の心は頓に重荷を下ろしたようだ。卿らを遠くへ労させるが、よく輔佐せよ。多難は王を興すもので、古より皆そうである。卿らは王室に心を尽くし、宗社を念い、早く中原を定めることが、吾の望みである。」見素らは悲泣して自らを制することができなかった。そこで見素の子諤と中書舎人賈至を冊礼使判官に充てた。時に粛宗は既に順化郡に行幸していた。九月、見素らが至り、冊礼が終わると、彭原郡への行幸に従った。粛宗は東宮にいた時、平素より房琯の名声が高いと聞いていたので、虚心にこれを待った。見素は常に國忠に附いていたので、礼遇はやや薄かった。翌年、鳳翔に至った。三月、左僕射に除かれ、政事を知ることを罷められ、憲部尚書をもって致仕した。苗晉卿が代わって左相となった。

原文是月,皇太子即位於靈武,道路艱澀,音驛未通。八月,肅宗使至,始知靈武即位。尋命見素與宰臣房琯賫傳國寶玉冊奉使靈武,宣傳詔命,便行冊禮。將行,上皇謂見素等曰:「皇帝自幼仁孝,與諸子有異,朕豈不知。往十三年,已有傳位之意,屬其歲水旱,左右勸朕且俟豐年。爾來便屬祿山構逆,方隅震擾,未遂此心。昨發馬嵬,亦有處分。今皇帝受命,朕心頓如釋負。勞卿等遠去,勉輔佐之。多難興王,自古皆有,卿等乃心王室,以宗社為念,早定中原,吾之望也。」見素等悲泣不自勝。仍以見素子諤及中書舍人賈至充冊禮使判官。時肅宗已回幸順化郡。九月,見素等至,冊禮畢,從幸彭原郡。肅宗在東宮,素聞房琯名重,故虛懷以待;以見素常附國忠,禮遇稍薄。明年,至鳳翔。三月,除左僕射,罷知政事,以憲部尚書致仕。苗晉卿代為左相。

初め、粛宗が鳳翔にいた時、喪乱の後で綱紀が未だ確立せず、兵吏の三銓(選抜)において、簿籍は焼失し、南曹の選人(候補者)の文書は多く偽りや濫りがあった。上は凶醜(安禄山)が未だ滅びず、且つ懐柔を示すため、到着した者に基づいて官職を擬定し、一切検覈しなかった。見素は言った。「臣は選挙を掌ること久しく、この弊害を周く知っております。今天下は未だ回復せず、欠員は多くありません。もし全く条綱がなければ、恐らく長くは続き難いでしょう。」上はこれを然りとしたが、改革する暇がなかった。京師に還ると、選人数千人が補授の場所がなく、朝廷に喧嘩訴え、これにより見素の言葉が行われた。房琯が敗軍の罪で左遷され、崔圓・崔渙らが皆政事を知ることを罷められると、上皇が命じた宰臣で、政事を知る者はなくなった。五月、見素を太子太師に遷した。十一月、粛宗が右輔(鳳翔)より京師に還り、詔して見素を蜀に入らせ太上皇を奉迎させた。十二月、上皇が京師に至り、粛宗は楼に臨んで大赦を行った。見素は上皇を奉じて蜀に幸した功により、開府儀同三司を加えられ、実封三百戸を食した。上元年中、足疾を理由に上表して致仕を請い、許された。宝応元年十二月に卒した。享年七十六。司空しくうを追贈され、諡して忠貞といった。喪事は官が給した。子に倜・諤・益・丱がいた。倜・諤は共に給事中に至り、益は刑部員外郎で終わり、丱は秘書丞で終わった。倜の子に頌がいた。

原文初,肅宗在鳳翔,喪亂之後,綱紀未立,兵吏三銓,簿籍煨燼,南曹選人,文符悉多偽濫。上以凶醜未滅,且示招懷,據到註擬,一無檢括。見素曰:「臣典選歲久,周知此弊。今寰區未復,員闕不多。若總無條綱,恐難持久。」上然之,未暇厘革。及還京,選人數千,補授無所,喧訴於朝,由是行見素之言。及房琯以敗軍左降,崔圓、崔渙等皆罷知政事,上皇所命宰臣,無知政事者。五月,遷見素太子太師。十一月,肅宗自右輔還京,詔見素入蜀奉迎太上皇。十二月,上皇至京師,肅宗禦樓大赦。見素以奉上皇幸蜀功,加開府儀同三司,食實封三百戶。上元中,以足疾上表請致仕,許之。寶應元年十二月卒,年七十六,贈司空,謚曰忠貞,喪事官給。子倜、諤、益、丱。倜、諤皆位至給事中,益終刑部員外郎,丱終秘書丞。倜子頌。

益子顗は、字を周人といい、生後一歳にして孤となり、姉に仕えて恭孝と称された。性は学を好み、特に陰陽・象緯・経略・風俗の書に精通した。議論を善くし、清い名声があった。少時に門蔭により千牛備身に補され、鄠県尉より判入等を経て、萬年尉を授かり、御史・補闕・尚書郎を歴任し、累遷して給事中・尚書左丞・戸部侍郎・中丞・吏部侍郎となった。諫垣に在った時、李約・李正辞と相次いで補益と諷諫を申し立て、大政を頗る回らせた。宰相の裴垍・李絳・崔群らは多く彼と親しく交わり、また浮名ある後進もその門に遊び、以て時に望有りと称された。及んで李逢吉が朋党を殲滅して政柄を専らにすると、顗の附麗した跡は特に密であり、頗る時人に譏られた。然れども身を処するに倹約であり、称すべき点が多い。『易蘊解』を著し、潜亢終始の義を推演し、甚だ奥旨があった。宝暦元年七月に卒し、礼部尚書を贈られた。

原文益子顗,字周人,生一歲而孤,事姊稱為恭孝。性嗜學,尤精陰陽、象緯、經略、風俗之書。善持論,有清譽。少以門廕補千牛備身,自鄠縣尉判入等,授萬年尉,歷御史、補闕、尚書郎,累遷給事中、尚書左丞、戶部侍郎、中丞、吏部侍郎。其在諫垣,與李約、李正辭叠申裨諷,頗回大政。宰相裴垍、李絳、崔群輩多與友善,而後進之有浮名者,亦遊其門,以是稱有時望。及李逢吉殲朋黨以專政柄,而顗附麗之跡尤密,頗為時人所譏。然處身儉約,有足多者。著《易蘊解》,推演潛亢終始之義,甚有奧旨。寶歷元年七月卒,贈禮部尚書。

崔圓

原文崔圓

崔圓は、清河東武城の人である。後魏の左僕射崔亮の後裔である。父の景晊は、官は大理評事に至った。圓は少孤貧であり、志尚は閎博で、兵書を好み読み、経済宇宙の心があった。開元中、詔して遺逸を搜訪し、圓は鈐謀により射策甲科に及第し、執戟を授かった。文藝を自負し、武職を得て、頗る意を得ず。蕭炅が京兆尹となり、會昌丞に推薦し、累遷して司勛員外郎となった。宰臣の楊國忠が遙かに劍南節度使を制し、圓を引き立てて補佐させ、乃ち尚書郎を奏授し、兼ねて蜀郡大都督ととく府左司馬とし、節度留後を掌らせた。天宝末、玄宗が蜀郡に幸し、特に蜀郡大都督府長史・劍南節度に遷した。圓は平素より功名を懐き、初めて国難を聞き、密かに人を遣わして國忠の深旨を探り、行幸の計有るを知り、乃ち城池を増修し、館宇を建置し、什器を儲備した。及んで乗輿が至ると、殿宇牙帳は皆あたかも宿設の如くであり、玄宗は甚だ嗟賞し、即日に中書侍郎・同中書門下平章事・劍南節度を拝し、余は元の如し。

原文崔圓,清河東武城人也。後魏左僕射亮之後。父景晊,官至大理評事。圓少孤貧,誌尚閎博,好讀兵書,有經濟宇宙之心。開元中,詔搜訪遺逸,圓以鈐謀射策甲科,授執戟。自負文藝,獲武職,頗不得意。蕭炅為京兆尹,薦為會昌丞,累遷司勛員外郎。宰臣楊國忠遙制劍南節度使,引圓佐理,乃奏授尚書郎,兼蜀郡大都督府左司馬,知節度留後。天寶末,玄宗幸蜀郡,特遷蜀郡大都督府長史、劍南節度。圓素懷功名,初聞國難,潛使人探國忠深旨,知有行幸之計,乃增修城池,建置館宇,儲備什器。及乘輿至,殿宇牙帳咸如宿設,玄宗甚嗟賞之,即日拜中書侍郎、同中書門下平章事、劍南節度,余如故。

肅宗が即位し、玄宗は圓に房琯・韋見素と共に肅宗の行在所に赴かせ、玄宗は親しく蜀に遺愛碑を製して寵した。肅宗に従って京に還り、功により中書令を拝し、趙国公に封ぜられ、実封五百戸を賜った。明年、政事を知るを罷め、太子少師に遷し、東都を留守した。時に官軍が相州に利あらず、軍が回って洛陽らくようを過ぎ、所在で剽掠した。圓は城南を棄てて襄陽に奔り、詔して階封を削除した。尋ねて起用され濟王傅となった。李光弼が用いて懐州刺史とし、太子詹事を除し、汾州刺史に改め、皆理行を以て称された。揚州大都督府長史・淮南節度觀察使を拝し、検校右僕射・兼御史大夫を加え、転じて検校左僕射知省事となった。大暦三年六月に薨じ、年六十四、三日間朝を輟め、太子太師を贈り、謚して昭襄といった。

原文肅宗即位,玄宗命圓同房琯、韋見素並赴肅宗行在所,玄宗親制遺愛碑於蜀以寵之。從肅宗還京,以功拜中書令,封趙國公,賜實封五百戶。明年,罷知政事,遷太子少師,留守東都。會官軍不利於相州,軍回過洛陽,所在剽掠。圓棄城南奔襄陽,詔削除階封。尋起為濟王傅。李光弼用為懷州刺史,除太子詹事,改汾州刺史,皆以理行稱。拜揚州大都督府長史、淮南節度觀察使,加檢校右僕射、兼御史大夫,轉檢校左僕射知省事。大曆三年六月薨,年六十四,輟朝三日,贈太子太師,謚曰昭襄。

崔渙

原文崔渙

崔渙は、祖父の玄暐は、神龍の功臣で、博陵郡王に封ぜられた。父の璩は、文学で知名で、位は礼部侍郎に至った。渙は少時より士行を以て聞こえ、経籍を博綜し、特に談論を善くし、累遷して尚書司門員外郎となった。天宝末、楊國忠が己に附さぬ者を出し、渙は出されて劍州刺史となった。天宝十五載七月、玄宗が蜀に幸し、渙は路に迎謁し、抗詞忠懇で、皆理体を究め、玄宗は之を嘉し、渙を得るの遅きを以てとした。宰臣の房琯又之を推薦し、即日に黄門侍郎・同中書門下平章事を拝し、成都府に扈従した。

原文崔渙,祖玄暐,神龍功臣,封博陵郡王。父璩,文學知名,位至禮部侍郎。渙少以士行聞,博綜經籍,尤善談論,累遷尚書司門員外郎。天寶末,楊國忠出不附己者,渙出為劍州刺史。天寶十五載七月,玄宗幸蜀,渙迎謁於路,抗詞忠懇,皆究理體,玄宗嘉之,以為得渙晚。宰臣房琯又薦之,即日拜黃門侍郎、同中書門下平章事,扈從成都府。

肅宗が霊武に即位した。八月、左相韋見素・同平章事房琯・崔圓と共に冊を齎して行在所に赴いた。時に未だ京師を回復せず、挙選の路絶え、詔して渙を江淮宣諭選補使に充て、以て遺逸を収めさせた。聴受に惑い、下吏に売られ、濫進する者少なからず、不称職を以て聞こえた。乃ち政事を知るを罷め、左散騎常侍さんきじょうじを除し、兼ねて余杭太守・江東采訪防禦使とした。旋いて正議大夫・太子賓客を授かった。乾元三年正月、転じて大理卿となった。再び遷り吏部侍郎・検校工部尚書・集賢院待詔となった。性は簡淡を尚び、世務に交わらず、頗る時望の帰するところとなった。御史大夫に遷し、税地青苗銭物使を加えられた。時に此の銭を以て京の百官の料を充給し、渙は属吏が中に希い、下估を以て使料とし、上估を以て百官料とした。其の時、皇城副留守の張清が之を発し、詔して有司に下し訊鞫せしめ、渙は対する言葉無く、是に坐して道州刺史に貶せられた。大暦三年十二月壬寅、疾を以て終わった。

原文肅宗靈武即位。八月,與左相韋見素、同平章事房琯、崔圓同賫冊赴行在。時未復京師,舉選路絕,詔渙充江淮宣諭選補使,以收遺逸。惑於聽受,為下吏所鬻,濫進者非一,以不稱職聞。乃罷知政事,除左散騎常侍,兼余杭太守、江東采訪防禦使。旋授正議大夫、太子賓客。乾元三年正月,轉大理卿。再遷吏部侍郎、檢校工部尚書、集賢院待詔。性尚簡淡,不交世務,頗為時望所歸。遷御史大夫,加稅地青苗錢物使。時以此錢充給京百官料,渙為屬吏希中,以下估為使料,上估為百官料。其時為皇城副留守張清發之,詔下有司訊鞫,渙無詞以對,坐是貶道州刺史。大曆三年十二月壬寅,以疾終。

子の縱は、初め蔭補により協律郎となり、三遷して監察御史となった。詔して令長を臺省より択び、藍田令を除し、寛明勤幹で、徳化大いに行き、県人は之が為に碑を立てて徳を頌した。転じて京兆府司録となり、累遷して金部員外郎となった。父が道州刺史に貶せられたを以て、官を棄てて養い就いた。父の憂に服し、喪が終わり、六遷して大理卿・兼御史中丞・汴西水陸運両税塩鉄等使となった。田悦が連敗し、魏州に走り、城を嬰して自守し、諸道の兵之を囲み、屡々食に乏しく、詔して縱を兼ねて魏州四節度糧料使とし、軍儲稍々給した。徳宗が奉天に幸し、四方兵を握る者、未だ至る者無し。縱は先ず之を知り、密かに李懐光に告げて奔命を勧め、懐光之に従った。縱は乃ち悉く軍財を斂めて懐光と俱に来り、調給具備した。懐光の兵士は久しく河外に戦い、及び河中に次ぎ、遷延せんとす。縱の貨幣は先に已に河を渡り、縱は衆に謂いて曰く、「若し済らば、悉く以て分賜せん」と。衆之を利し、乃ち西す。奉天に至り、右庶子を加えられ、使を充てた。間も無く、京兆尹・兼御史大夫を拝した。数え懐光の剛愎反覆を奏し、宜しく陰に之を備うべしと。及んで行幸梁州、左右或いは之を短じて曰く、「縱は素より懐光に善し、今来らざるべし」と。上曰く、「他人は縱を知らず、吾其の心を保つべし」と。数日を経ず、縱至り、御史大夫を拝した。嘗て其の大體を議し、細事に親しまず、獄訴儀制は、皆之を僚吏に付した。

原文子縱,初以廕補協律郎,三遷為監察御史。詔擇令長於臺省,除藍田令,寬明勤幹,德化大行,縣人為之立碑頌德。轉京兆府司錄,累遷金部員外郎。以父貶道州刺史,棄官就養。丁父憂,終制,六遷大理卿、兼御史中丞、汴西水陸運兩稅鹽鐵等使。田悅連敗,走魏州,嬰城自守,諸道兵圍之,屢乏食,詔縱兼魏州四節度糧料使,軍儲稍給。德宗幸奉天,四方握兵,未有至者。縱先知之,潛告李懷光勸令奔命,懷光從之。縱乃悉斂軍財與懷光俱來,調給具備。懷光兵士久戰河外,及次河中,將遷延。縱之貨幣先已渡河,縱謂眾曰:「若濟,悉以分賜。」眾利之,乃西。至奉天,加右庶子,充使。無幾,拜京兆尹、兼御史大夫。數奏懷光剛愎反覆,宜陰備之。及行幸梁州,左右或短之曰:「縱素善懷光,今不來矣。」上曰:「他人不知縱,吾可保其心。」不數日,縱至,拜御史大夫。嘗議其大體,不親細事,獄訴儀制,皆付之僚吏。

貞元元年、親しく南郊に祠り、大礼使となった。兵旱の後に属し、賦入尚だ少なく、縱は文物を裁定し、倹にして礼に中った。間も無く、萬年丞の源邃が京兆尹李齊運に抑え捽られて死に至り、縱が劾奏するも行われず。数月して、吏部侍郎を除し、尋ねて検校礼部尚書・東畿唐汝鄧都觀察使・河南尹となった。是の時兵革甫めて定まり、民耗は六七に及び、縱は心を悉くして瘼を求め、理め簡易であった。先ず、戍辺の師で洛陽よりする者は、儲餼を編戸に取り辦わせた。縱は始めて官備とし、人に征せず、五家を相保たせ、自ら占告発斂せしめ、以て胥吏の私を絶った。又伊・洛の水を引いて裏闬を通じ、都中の灌溉済まざるを十一二とし、人甚だ之を安んじた。徴されて太常卿を拝した。貞元七年六月官に卒し、年六十二、謚して忠といい、吏部尚書を贈られた。

原文貞元元年,親祠南郊,為大禮使。屬兵旱之後,賦入尚少,縱裁定文物,儉而中禮。無何,萬年丞源邃為京兆尹李齊運所抑捽至死,縱劾奏不行。數月,除吏部侍郎,尋檢校禮部尚書、東畿唐汝鄧都觀察使、河南尹。是時兵革甫定,民耗六七,縱悉心求瘼,為理簡易。先是,戍邊之師由洛陽者,儲餼取辦於編戶。縱始官備,不征於人,令五家相保,俾自占告發斂,以絕胥吏之私。又引伊、洛水以通裏闬,都中灌溉濟不逮為十一二,人甚安之。徵拜太常卿。貞元七年六月卒官,年六十二,謚曰忠,贈吏部尚書。

縱は孝悌であり、修飭自立し、父が元載に排抑されたを以て、退居すること十余年、外府に左宦し、載の罪を得るに及び、聞達を求めず。初め、渙に寵妾の鄭氏有り、縱は母として之に事えた。鄭氏の性は剛戾で、縱を以て理に待たず、大僚と雖も、毎たび笞詬を加えた。縱は妻子を率いて顔を候い、敬順懈まず、時に以て難しと為した。

原文縱孝悌,修飭自立,以父為元載排抑,居退十餘年,左宦外府,訖載得罪,不求聞達。初,渙有寵妾鄭氏,縱以母事之。鄭氏性剛戾,待縱不以理,雖為大僚,每加笞詬。縱率妻子候顏,敬順不懈,時以為難。

杜鴻漸

原文杜鴻漸

杜鴻漸は、故相杜暹の族子である。祖父は慎行、益州長史。父は鵬挙、官は王友に至る。鴻漸は聡明で学問を好み、進士に挙げられ、初めて王府参軍に任じられた。天宝の末、累遷して大理司直、朔方留後・支度副使となる。

原文杜鴻漸,故相暹之族子。祖慎行,益州長史。父鵬舉,官至王友。鴻漸敏悟好學,舉進士,解褐王府參軍。天寶末,累遷大理司直,朔方留後、支度副使。

粛宗が北に幸して平涼に至り、どこに向かうべきか知らなかった。鴻漸は六城水運使魏少遊・節度判官崔漪・支度判官盧簡金・関内塩池判官李涵と謀って言うには、「今、胡羯が常を乱し、二京は陥落し、主上は巴蜀はしょくに南幸し、皇太子は平涼で兵を治めている。しかし平涼は散地であり、兵を集める場所ではない。必ずや制勝を期するならば、朔方でなければならない。もし殿下を奉じて、十日ほどの間に西は河・隴を収め、回紇はちょうど強盛で、国と通好しているので、北は勁騎を征し、南は諸城を集め、大兵を一挙すれば、二京を回復することができよう。社稷の恥を雪ぎ、上は明主に報い、下は蒼生を安んずることも、臣子の用心であり、国家の大計である」と。鴻漸は即日に草箋を作って兵馬招集の勢いを詳しく述べ、軍資・器械・倉儲・庫物の数を記録し、李涵に持たせて平涼に赴かせた。粛宗は大いに喜んだ。鴻漸は粛宗が平涼を発つと知り、北界の白草頓で迎えて謁見し、諸使及び兵士を労い、進言して言うには、「朔方は天下の勁兵であり、霊州は用武の地である。今、回紇は和を請い、吐蕃は内附し、天下の郡邑は人皆堅守して、制命を待っている。その中で賊に占拠されている所も、やがて日を経ず回復されることを望んでいる。殿下が軍戎を整え、長駆一挙すれば、逆胡は滅ぼすに足りない」と。粛宗はこれを認めた。霊武に至ると、鴻漸は裴冕らとともに皇帝の位に即くことを勧め、中外の望みに帰するため、五度上表して、ようやく従わせた。鴻漸はもとより帝王の陳布の儀・君臣の朝見の礼に習熟していたので、旧儀を採り集め、綿蕝を用いてその事を行った。城南に壇壝を設け、前日に儀注の草案を奏上した。粛宗は言うには、「聖君が遠方におられ、寇逆が未だ平定されていないので、壇場はやめるべきである」と。その他のことはその奏を認めた。粛宗が即位すると、兵部郎中を授け、中書舎人の事を知り、まもなく武部侍郎に転じた。至徳二年、御史大夫を兼ね、河西節度使・涼州都督となる。両京が平定されると、荊州大都督府長史・荊南節度使に遷った。

原文肅宗北幸,至平涼,未知所適。鴻漸與六城水運使魏少遊、節度判官崔漪、支度判官盧簡金、關內鹽池判官李涵謀曰:「今胡羯亂常,二京陷沒,主上南幸於巴蜀,皇太子理兵於平涼。然平涼散地,非聚兵之處,必欲制勝,非朔方不可。若奉殿下,旬日之間,西收河、隴,回紇方強,與國通好,北征勁騎,南集諸城,大兵一舉,可復二京。雪社稷之恥,上報明主,下安蒼生,亦臣子之用心,國家之大計也。」鴻漸即日草箋具陳兵馬招集之勢,錄軍資、器械、倉儲、庫物之數,令李涵賫赴平涼,肅宗大悅。鴻漸知肅宗發平涼,於北界白草頓迎謁,因勞諸使及兵士,進言曰:「朔方天下勁兵,靈州用武之處。今回紇請和,吐蕃內附,天下郡邑,人皆堅守,以待制命。其中雖為賊所據,亦望不日收復,殿下整理軍戎,長驅一舉,則逆胡不足滅也。」肅宗然之。及至靈武,鴻漸與裴冕等勸即皇帝位,以歸中外之望,五上表,乃從。鴻漸素習帝王陳布之儀,君臣朝見之禮,遂采摭舊儀,綿蕝其事。城南設壇壝,先一日具儀註草奏。肅宗曰:「聖君在遠,寇逆未平,宜罷壇場。」余可其奏。肅宗即位,授兵部郎中,知中書舍人事,尋轉武部侍郎。至德二年,兼御史大夫,為河西節度使、涼州都督。兩京平,遷荊州大都督府長史、荊南節度使。

襄州の大将康楚元・張嘉延が管轄する兵を盗み、襄州城を占拠して叛き、刺史王政は遁走した。嘉延は南に荊州を襲撃し、鴻漸はこれを聞いて城を棄てて遁走した。澧・朗・硤・帰等の州は鴻漸が出奔したと聞き、皆惶駭して、ひそかに山谷に逃げ隠れた。一年余りして、尚書右丞・吏部侍郎・太常卿に召され、礼儀使を充てた。二聖が晏駕すると、鴻漸は儀制を監護し、山陵が終わると、光禄大夫を加えられ、衛国公に封ぜられた。広徳二年、代宗が郊廟を享けんとすると、鴻漸を兵部侍郎・同中書門下平章事に拝し、まもなく中書侍郎に転じた。

原文襄州大將康楚元、張嘉延盜所管兵,據襄州城叛,刺史王政遁走。嘉延南襲荊州,鴻漸聞之,棄城而遁。澧、朗、硤、歸等州聞鴻漸出奔,皆惶駭,潛竄山谷。歲餘,徵拜尚書右丞、吏部侍郎、太常卿,充禮儀使。二聖晏駕,鴻漸監護儀制,山陵畢,加光祿大夫,封衛國公。廣德二年,代宗將享郊廟,拜鴻漸兵部侍郎、同中書門下平章事,尋轉中書侍郎。

永泰元年十月、剣南西川兵馬使崔旰が節度使郭英乂を殺し、成都を占拠して、自ら留後と称した。邛州衙将柏貞節・瀘州衙将楊子琳・剣州衙将李昌巙らが兵を起こして旰を討ち、西蜀は大乱した。翌年二月、鴻漸に宰相として山・剣副元帥・剣南西川節度使を兼充させ、蜀の乱を平定させた。鴻漸は心に遠大な計画がなく、志気は怯懦で、また浮屠道を酷く好み、軍戎を喜ばなかった。成都に到着すると、旰の雄武を恐れ、もはや罪を問わず、剣南の節制を表して旰に譲った。当時、西戎が辺境を侵し、関中は多事であったので、鴻漸は孤軍で険地に陥り、兵威は振るわず、代宗はやむを得ずこれに従った。そこで旰を剣南西川行軍司馬とし、柏貞節を邛州刺史とし、楊子琳を瀘州刺史とし、それぞれ兵を罷めさせた。まもなく入覲を請い、さらに崔旰を西川兵馬留後と表した。大暦二年、詔して旰を成都尹・剣南西川節度使とし、鴻漸を召し還して京に帰らせた。鴻漸はなおも旰を率いてともに入覲し、代宗はこれを嘉した。後に政事を知り、門下侍郎に転じ、山南副元帥を譲った。三年八月、王縉に代わって東都留守となり、河南・淮西・山南東道副元帥を充て、平章事はもとのままとした。病気により表を上って骸骨を乞うたので、従い、ついにその任に就かなかった。四年十一月に卒し、太尉を贈られ、諡して文憲といった。朝を三日間停め、物五百疋、粟五百石を賜った。

原文永泰元年十月,劍南西川兵馬使崔旰殺節度使郭英乂,據成都,自稱留後。邛州衙將柏貞節、瀘州衙將楊子琳、劍州衙將李昌巙等興兵討旰,西蜀大亂。明年二月,命鴻漸以宰相兼充山、劍副元帥、劍南西川節度使,以平蜀亂。鴻漸心無遠圖,志氣怯懦,又酷好浮圖道,不喜軍戎。既至成都,懼旰雄武,不復問罪,乃以劍南節制表讓於旰。時西戎寇邊,關中多事,鴻漸孤軍陷險,兵威不振,代宗不獲已,從之。仍以旰為劍南西川行軍司馬,柏貞節為邛州刺史,楊子琳為瀘州刺史,各罷兵。尋請入覲,仍表崔旰為西川兵馬留後。大曆二年,詔以旰為成都尹、劍南西川節度使,召鴻漸還京。鴻漸仍率旰同入覲,代宗嘉之。後知政事,轉門下侍郎,讓山南副元帥。三年八月,代王縉為東都留守,充河南、淮西、山南東道副元帥,平章事如故。以疾上表乞骸骨,從之,竟不之任。四年十一月卒,贈太尉,謚曰文憲。輟朝三日,賜物五百疋,粟五百石。

鴻漸は晚年、退静を楽しみ、私第は長興里にあり、館宇は華靡で、賓僚が宴集した。鴻漸は悠然として詩を賦して言うには、「常に禅理を追うことを願う、安んぞ化源を挹せん」と。朝士の多くがこれに属和した。休致して後に病むと、僧に命じて頂髪を剃らせ、死ぬと、遺命してその子に胡法に依って塔葬させ、封樹をせず、緇流に類せんことを冀い、物議はこれを哂った。

原文鴻漸晚年樂於退靜,私第在長興裏,館宇華靡,賓僚宴集。鴻漸悠然賦詩曰:「常願追禪理,安能挹化源。」朝士多屬和之。及休致後病,令僧剃頂發,及卒,遺命其子依胡法塔葬,不為封樹,冀類緇流,物議哂之。

【賛】

原文【贊】

史臣が言う。禄山の狂悖はすでに明らかであり、玄宗の寵任に疑いはなかった。見素は国の危うきを知り、廟算を陳べ、直言極諫したが、君は従わず、ただ一人正しく難に犯しても、人は咎めず、生を出で死に入り、善く始めて終わりを全うする者は少ない。当時の論は、見素が国忠に取容したとして、大政を匡める言がなかったという。しかも国忠は内戚を恃み、重権を弄び、林甫の奸豪を沮ぎ、その大位を取った。見素のような孤直さでは、どうして取容を許されようか。禍胎はすでに成り、政柄は久しく紊れていた。見素が相に入って余年、言は従わず難が起こった。たとえ周・孔の才があっても、匡救することができただろうか。諤は才弁あり、顗は倹約で、雅に積善の慶に符した。円は文を守る士であり、侮を禦ぐ才ではない。渙は才を行聞に兼ね、命は時に会した。発言して上く主の意を沃し、たちまち顕栄を致した。官に当たってはたびたび吏に欺かれ、ついに竄逐に及んだ。いわゆる道に適うことはできても、権に与かることはできなかった。忠を国に尽くし、官に能くし、孝を家に尽くし、この三つを備えても、誰がこれを継ぐことができようか。鴻漸には社を衛う功があったが、幹城の責を負う者ではなかった。時に崔旰を任じたことを非とするが、そうではない。旰は南は貞節を拒ぎ、北は献誠を破った。懐来をもってすべきであり、力をもって制すべきではなかった。ついに帰国を致したのは、豈に臧謀ではなかったか。もし向かって討てば、ただちに劇賊となったであろう。しかし仏に事えて僥倖を求め、朋勢に依って取容したのは、君子の道ではない。

原文史臣曰:祿山狂悖已顯,玄宗寵任無疑,見素知國危,陳廟算,直言極諫,而君不從,獨正犯難,而人不咎,出生入死,善始令終者鮮矣。時論以見素取容於國忠,無言匡大政。且國忠恃內戚,弄重權,沮林甫奸豪,取其大位,若見素之孤直,豈許取容?蓋禍胎已成,政柄久紊,見素入相余年,言不從而難作,雖有周、孔之才,其能匡救者乎?諤才辯,顗儉約,雅符積善之慶矣。圓守文之士,非禦侮之才。渙才兼行聞,命與時會。發言上沃主意,遽致顯榮;當官屢為吏欺,終及竄逐。所謂可與適道,未可與權。縱忠於國,能於官,孝於家,三者備矣,孰能繼之?鴻漸有衛社之功,非幹城之責,時以任崔旰為非,則不然矣。且旰南拒貞節,北敗獻誠,宜以懷來,未可力制,終致歸國,豈非臧謀?向討之,即為劇賊矣。然事佛僥福,朋勢取容,非君子之道焉。

賛して言う。玄宗は徳を失い、禄山は逆を肆う。見素は節を竭くし、諸公は力を協う。

原文贊曰:玄宗失德,祿山肆逆。見素竭節,諸公協力。