舊唐書

巻105

巻105

舊唐書

原文舊唐書

卷一百五

原文卷一百五

列傳第五十五 宇文融 韋堅 楊慎矜 王鉷

原文列傳第五十五 宇文融 韋堅 楊慎矜 王鉷

宇文融

原文宇文融

宇文融は、京兆府萬年県の人であり、隋の礼部尚書平昌公宇文弼の玄孫である。祖父の宇文節は、貞観年間に尚書右丞となり、法令に明るく習熟し、才幹と器量をもって称えられた。時に江夏王李道宗が私事を宇文節に託したことがあったが、節はこれを奏上したので、太宗は大いに喜び、絹二百匹を賜り、さらに労って言った、「朕が左右僕射を置かなかったのは、まさに卿が省にいるからである」。永徽初年、累進して黄門侍郎・同中書門下三品となり、于志寧に代わって侍中となった。房遺愛の事件に連座して桂州に配流され、そこで死去した。父の宇文嶠は、萊州長史であった。

原文宇文融,京兆萬年人,隋禮部尚書平昌公弼之玄孫也。祖節,貞觀中為尚書右丞,明習法令,以幹局見稱。時江夏王道宗嘗以私事托於節,節遂奏之,太宗大悅,賜絹二百匹,仍勞之曰:「朕所以不置左右僕射者,正以卿在省耳。」永徽初,累遷黃門侍郎、同中書門下三品,代於誌寧為侍中。坐房遺愛事配流桂州而卒。父嶠,萊州長史。

宇文融は、開元初年に累次転任して富平県主簿となり、明察弁別に長け、吏才があった。源乾曜・孟溫が相次いで京兆尹となったが、皆彼を厚く礼遇した。やがて監察御史に任ぜられた。当時、天下の戸口が逃亡し、免役(租税・労役免除)に偽りや濫りが多いことを、朝廷は深く憂慮していた。宇文融は便宜を上奏し、偽濫を検査し、逃亡戸を捜索・把握することを請うた。玄宗はその言を容れ、宇文融を使者に任じて推問・調査させた。間もなく、偽濫や諸々の免役を多数摘発し、特に朝散大夫を加えられ、さらに兵部員外郎に昇進し、侍御史を兼ねた。宇文融はここにおいて、勧農判官十人を設置することを奏上し、皆御史を兼任させ、天下に分遣して、各地で田地を検査把握し、戸口を招き寄せた。新たに附籍した客戶(浮浪戸)に対しては、六年間の租調を免除し、軽い税のみを官に納めさせた。議論する者は、人々を煩わせ不便であると考える者が多かった。陽翟県尉の皇甫憬が上疏して言った。

原文融,開元初累轉富平主簿,明辯有吏幹,源乾曜、孟溫相次為京兆尹,皆厚禮之,俄拜監察御史。時天下戶口逃亡,免役多偽濫,朝廷深以為患。融乃陳便宜,奏請檢察偽濫,搜括逃戶。玄宗納其言,因令融充使推勾。無幾,獲偽濫及諸免役甚眾,特加朝散大夫,再遷兵部員外郎,兼侍御史。融於是奏置勸農判官十人,並攝御史,分往天下,所在檢括田疇,招攜戶口。其新附客戶,則免其六年賦調,但輕稅入官。議者頗以為擾人不便,陽翟尉皇甫憬上疏曰:

臣は聞く、智者も千慮に一失あり、愚夫も千計に一得ありと。かつ無益の事が繁ければ、不急の務も多くなる。不急の務が多ければ、役事は頻繁になる。役事が頻繁になれば、人は疲弊する。人が疲弊すれば、頼るべき生業がなくなる。それゆえ、太上(理想の君主)は徳を務め、静を本とし、その次はこれを教化し、安を上とする。ただその疆界を責め、堤防を厳しくし、山水の余剰があれば、すなわち現地とする。何ぞ必ずしも人を阡陌に集め、自ら遣わして検括・測量させ、農時を奪い、弊を受けさせんや。また、応じて出使する輩は、大体を識らず、その所以を全く知らず、ただ陛下が人を愛する深き至りを、務めて勾剝(取り立て・収奪)を計略とするものと心得ている。州県は罪を恐れ、牒に拠って即座に徴収する。逃亡した家の分は、隣保が代わりに出す。隣保が賄いきれなければ、またさらに輸納させる。急げば皆が生計を図ることもできず、緩めれば法が及ぶことを慮る。臣は逃亡がこれより一層深まることを恐れる。澄んだ流れは源にあり、沸騰を止めるは火によるが如く、慎まざるべからざるなり。今の具僚(官吏の数)は、向かって万数を超え、府庫を蚕食し、黎人(民衆)を侵害する。国には数年の儲えが絶え、家には一月の蓄えが無く、たとえ重税を課しても供給できぬ。戸口の逃亡は、これによらぬものはない。たとえ伊尹・皋陶が術を申し述べ、管仲・晏嬰が謀を陳べても、どうしてこの弊を止められようか。もしこれ(現状)を以て給しようとすれば、どうして堪えられよう。東海・南山ことごとく粟帛となすも、なお足りぬことを恐れる。ましてや田地を括り、客戶に税を課するだけで、周到に給することができようか。

原文臣聞智者千慮,或有一失,愚夫千計,亦有一得。且無益之事繁,則不急之務眾;不急之務眾,則數役;數役,則人疲;人疲,則無聊生矣。是以太上務德,以靜為本;其次化之,以安為上。但責其疆界,嚴之堤防,山水之餘,即為見地。何必聚人阡陌,親遣括量,故奪農時,遂令受弊。又應出使之輩,未識大體,所由殊不知陛下愛人至深,務以勾剝為計。州縣懼罪,據牒即征。逃亡之家,鄰保代出;鄰保不濟,又便更輸。急之則都不謀生,緩之則慮法交及。臣恐逃逸從此更深。至如澄流在源,止沸由火,不可不慎。今之具僚,向逾萬數,蠶食府庫,侵害黎人。國絕數載之儲,家無經月之畜,雖其厚稅亦不可供。戶口逃亡,莫不由此。縱使伊、臯申術,管、晏陳謀,豈息茲弊?若以此給,將何以堪!雖東海、南山盡為粟帛,亦恐不足,豈括田稅客能周給也!

左拾遺の楊相如も上書し、皆客戶を検括することが不便であると陳べた。上(玄宗)は宇文融を任用することに専念し、侍中の源乾曜及び中書舎人の陸堅は皆この事を賛成したので、皇甫憬を盈川県尉に貶した。ここにおいて諸道が括り出した客戶は凡そ八十余万、田地もこれに相当した。州県は宇文融の意を迎え、多く獲得することに務め、皆その数を虚張し、また実戸(正規の戸籍を持つ戸)を客戶とする者もあった。年末に客戶から徴収した銭は数百万に上り、宇文融はこれによって御史中丞に抜擢された。事を言う者はなおも、客戶を括ることが居人(定住民)を損なうと称したので、上は百官を尚書省に集めて議させた。公卿以下は宇文融の恩寵と権勢を恐れ、皆雷同して異なる言葉を発する者なく、ただ戸部侍郎の楊瑒のみが、客戶を括ることが居人に不利であり、籍外の田に税を徴収することは百姓を困窮疲弊させ、得るものは失うものを補わない、と建議した。間もなく、楊瑒は外職に出された。

原文左拾遺楊相如上書,鹹陳括客為不便。上方委任融,侍中源乾曜及中書舍人陸堅皆贊成其事,乃貶憬為盈川尉。於是諸道括得客戶凡八十餘萬,田亦稱是。州縣希融旨意,務於獲多,皆虛張其數,亦有以實戶為客者。歲終征得客戶錢數百萬,融由是擢拜御史中丞。言事者猶稱括客損居人,上令集百僚於尚書省議。公卿已下懼融恩勢,皆雷同不敢有異詞,唯戶部侍郎楊瑒獨建議以括客不利居人,征籍外田稅,使百姓困弊,所得不補所失。無幾,瑒出為外職。

宇文融は伝馬を駆って天下を巡歴し、事の大小にかかわらず、まず勧農使に牒で上申し、その後中書省に申告した。省司もまた宇文融の指図を待ってから決断した。宇文融の至るところ、必ず老幼を招集して上の恩命を宣布し、百姓はその心に感じ、涙を流して父母と称する者さえあった。宇文融は使いから戻り詳細に奏上したので、制を下して言った。

原文融乃馳傳巡歷天下,事無大小,先牒上勸農使而後申中書,省司亦待融指捴而後決斷。融之所至,必招集老幼宣上恩命,百姓感其心,至有流淚稱父母者。融使還具奏,乃下制曰:

人は邦(国)の本であり、本固くして邦寧し。必ず人を安んずるに在りて、初めて本を固くすることができる。永く理道(治世の道)を言うも、実に朕が心を得たり。思うに、黎庶(民衆)を康済し、華夏を寵綏(安んじ撫でる)し、上は宗廟乾坤の寄託に副い、下は宇縣(天下)の貢献の勤めに答えるため、何ぞ嘗て夜分に寝ることを止め、日旰(日が暮れる)に食を忘れざらんや。然る後に以て、眇眇たる身を以て四海の貴に当たる。長く遐邇(遠近)を想うといえども、家ごとに至り日ごとに見ることはできない。政教を宣布し、逋亡(逃亡者)を安輯するに至っては、言うに再三に念い、その勤め至れり。朕の命に副わざるは、実に恥ずる所なり。扆(天子の座する屏風)に当たりて永く懐い、静かにその緒を言う。人の流亡は自ら久しく、招諭しても還らず、上の情は下に通ぜず、衆の心は上に達せざるか。明発(夜明け)にこれを求め、その人を見んことを想う。時に括地使の宇文融が延英殿に謁見したので、朕は人は必ず土著すべきものと考え、逃亡について議し、その忠讜を嘉し、事を任ずるに堪えるとし、乃ち田戸の紀綱を授け、兼ねて郡県の厘革を委ね、便ち令して使を充てさせ、奉じて人を安んぜしめた。遂に能く我が黎元を恤れ、朕の命を克く将(行)い、夏の初めより発し、歳の終わりに及び、巡按の及ぶ所、帰首(帰順・自首)する者百万。なお制を宣布する日、老幼欣躍し、ただ令に従い、多く涙を流して朕が心を感じ、皆誠を吐いて王命を荷うと聞く。なお朕の薄徳、未だ人に信ぜられざるを恐れ、撫字安存(撫育し安んじて存させる)するに、更に良算を冀う。乃ち百司の長吏、方州の嶽牧(地方長官)に命じ、廟堂に僉議し、広く異見を徴する。群の詞は劄翰(上奏文)に盈ち、環省(回覧審議)は旬日に弥がり、広く朕の意に副わんことを庶幾し、何ぞ以て労と為さんや。衆を稽え言を考うるに、これを以て折衷と謂う。人をして必ず信ぜしめ、令の行われることを期す。凡そ爾ら司存(職務を司る者)は、遵守することを勉めよ。夫れ食は人にとって天であり、富みて後に教う。経教彜体(常道)は、前哲の至言である。故に平糴は昔の王者に行われ、義倉は近代に加えられた。九年の蓄えを存し、上中の斂(収穫)を収める所以である。豊作で物価が安ければ農は財を傷つけず、災害や饑饉の時にも菜色(飢えた顔色)の者なく、人を救い国を活かす、その利は博大である。今、流戸(流浪の民)が大いに来たり、王田(公田)は理(治)められつつある。敖庾(倉庫)の務は、寤寐(寝ても覚めても)に懐く所である。その客戶から税した銭は、宜しく均しく所在の常平倉の用に充てるべく、なお予め価値を支払い、粟麦を兼ねて貯蔵することを許す。旧来の常平銭粟と併せて、全て本道の判官に委ねて勾当処置させ、斂散を時宜に合わせ、務めて矜恤(哀れみ救済)のためとする。かつ災を分かち患を恤れむは、州党の常情であり、余りを損ない欠けを済すは、親鄰の善き貸しである。故に木鐸を以て雲に徇(巡ら)せしめ、裏胥(郷里の役人)に均しく功をさせ、夜に績み相従い、斉(整った)俗以て贍(豊か)ならしむ。今、陽和(春の温かさ)は沢を布き、丁壮は田に就く。言うに鰥煢(孤独な者)を念い、事は拯助に資する。宜しく使司に委ねて州県と商量し、農社を作ることを勧め、貧富相い恤れみ、耕耘を時に合わせさせる。なお雨沢の後、種蒔きや収穫の忙しい月ごとに、州県の常務は一切停止・減免する。時に趨ることを寇に備えるより急とし、尺璧(宝玉)を寸陰(わずかな時間)より賤しとせしめよ。是れ則ち天は虚施(無駄な施し)無く、人は遺力(残された力)無からしむ。また政は経遠(長期的な計画)に在り、功は久しく著わるに在る。今逃亡者が初めて復業し、居業(生業)未だ康らかならず、逃戸及び籍外の剰田に循(従)い、なお宜しく労徠(慰め招く)し、理は存撫(慰め安んじる)に資する。その十道の分判官は、三五年の内に、その功を就えしめ、終始有らしめよ。当道の覆屯(調査・検閲)及び推劾(推問・弾劾)を須いるものは、皆これを委ね、広く余りの使を差す必要なく、その事に専らならしめ、人を煩わせぬことを示す。政術に能有る者は、必ず賞罰を行え。既に奏上した復業帰首の者を、勾当する州県は毎季一度申告し、名簿を挟んで煩わせる必要はない。その帰首戸は、各々新たに首を出した処と本貫(本来の籍貫地)とが計会して、年齢・戸等・色役(各種の労役)を定め、欺き隠し及び両処での徴科(徴税)なからしめよ。天下に宣布して、朕の意を明らかに知らしめよ。

原文人惟邦本,本固邦寧,必在安人,方能固本。永言理道,實獲朕心。思所以康濟黎庶,寵綏華夏,上副宗廟乾坤之寄,下答宇縣貢獻之勤,何嘗不夜分輟寢,日旰忘食。然後以眇眇之身,當四海之貴。雖則長想遐邇,不可家至日見。至於宣布政教,安輯逋亡,言念再三,其勤至矣。莫副朕命,實用恧焉,當扆永懷,靜言厥緒。豈人流自久,招諭不還,上情靡通於下,眾心罔達於上。求之明發,想見其人。當屬括地使宇文融謁見於延英殿,朕以人必土著,因議逃亡,嘉其忠讜,堪任以事,乃授其田戶紀綱,兼委之郡縣厘革,便令充使,奉以安人。遂能恤我黎元,克將朕命,發自夏首,及於歲終,巡按所及,歸首百萬。仍聞宣制之日,老幼欣躍,惟令是從,多流淚以感朕心,鹹吐誠以荷王命。猶恐朕之薄德,未孚於人,撫字安存,更冀良算。遂命百司長吏,方州嶽牧,僉議廟堂,廣征異見。群詞盈於劄翰,環省彌於旬日,庶廣朕意,豈以為勞,稽眾考言,謂斯折衷。欲人必信,期於令行,凡爾司存,勉以遵守。夫食為人天,富而後教,經教彜體,前哲至言。故平糴行於昔王,義倉加於近代,所以存九年之蓄,收上中之斂。穰賤則農不傷財,災饉則時無菜色,救人活國,其利博哉!今流戶大來,王田載理,敖庾之務,寤寐所懷。其客戶所稅錢,宜均充所在常平倉用,仍許預付價值,任粟麥兼貯。並舊常平錢粟,並委本道判官勾當處置,使斂散及時,務以矜恤。且分災恤患,州黨之常情;損餘濟闕,親鄰之善貸。故木鐸雲徇,裏胥均功,夜績相從,齊俗以贍。今陽和布澤,丁壯就田,言念鰥煢,事資拯助。宜委使司與州縣商量,勸作農社,貧富相恤,耕耘以時。仍每至雨澤之後,種獲忙月,州縣常務,一切停減。使趨時急於備寇,尺璧賤於寸陰,是則天無虛施,人無遺力。又政在經遠,功惟久著,今逃亡初復,居業未康,循逃戶及籍外剩田,猶宜勞徠,理資存撫。其十道分判官,三五年內,使就厥功,令有終始。當道覆屯,及須推劾,並以委之,不須廣差餘使,示專其事,不擾於人。政術有能,必行賞罰。其已奏復業歸首,勾當州縣,每季一申,不須挾名,致有勞擾。其歸首戶,各令新首處與本貫計會年戶色役,勿欺隱及其兩處征科。宣布天下,使明知朕意。

中書令張説は平素より宇文融の為人を憎み、またその権力の重きを患え、融の奏上する事柄に、多く異議を立てて争った。融はその意を推し量り、先んじてこれを図った。中書舎人張九齢が張説に言うには、「宇文融は恩寵を受けて事を為し、弁舌巧みで言葉多く、備えざるべからず」と。張説曰く、「この狗鼠の輩、どうして事を為せようか」と。融はまもなく戸部侍郎を兼ねた。東封より還り、また密かに意見を陳べ、吏部を分けて十銓とし選事を典とし、奏上した事柄はまた張説に抑えられた。融は乃ち御史大夫崔隠甫と連名して張説を弾劾し、朝廷にその状を奏し、張説はこれにより政事を知るを罷められた。融は張説が再び用いられて己の患いとなるを恐れ、しばしば讒言してこれを毀った。上はその朋党を憎み、まもなく融を出して魏州刺史とした。俄かに汴州刺史に転じ、また上表して『禹貢』の九河の旧道を用い、稻田を開いて人を利し、併せて陸運の本銭を回易し、官がその利を収むるを請うた。役を興して止まずと雖も、事多く成らざりき。

原文中書令張說素惡融之為人,又患其權重,融之所奏,多建議爭之。融揣其意,先事圖之。中書舍人張九齡言於說曰:「宇文融承恩用事,辯給多詞,不可不備也。」說曰:「此狗鼠輩,焉能為事!」融尋兼戶部侍郎。從東封還,又密陳意見,分吏部為十銓典選事,所奏又為說所抑。融乃與御史大夫崔隱甫連名劾說,廷奏其狀,說由是罷知政事。融恐說復用為己患,數譖毀之。上惡其朋黨,尋出融為魏州刺史。俄轉汴州刺史,又上表請用《禹貢》九河舊道,開稻田以利人,並回易陸運本錢,官收其利。雖興役不息,而事多不就。

十六年、復た入朝して鴻臚卿となり、戸部侍郎を兼ねた。明年、黄門侍郎に拝され、裴光庭と並びに同中書門下平章事を兼ねた。融既に相位に居り、天下を以て己が任と為さんと欲し、人に謂いて曰く、「吾をして此に数月居らしめば、庶幾くは海内に事無からしめん」と。ここにおいて宋璟を右丞相に、裴耀卿を戸部侍郎に、許景先を工部侍郎に薦め、甚だ朝廷の望みに允った。然れども性躁急にして言葉多く、また賓客故人を引き、晨夕に飲みて戯れ、ここによりて時論に譏らるる所となった。時に礼部尚書・信安王李禕は朔方節度使たり、殿中侍御史李宙これを弾劾し、駅伝を以て召し下獄せんとす。禕既に申訴して理を得、融は李宙に阿党した罪に坐し、出されて汝州刺史となり、宰相に在ること凡そ百日にして罷められた。

原文十六年,復入為鴻臚卿,兼戶部侍郎。明年,拜黃門侍郎,與裴光庭並兼同中書門下平章事。融既居相位,欲以天下為己任,謂人曰:「使吾居此數月,庶令海內無事矣。」於是薦宋璟為右丞相,裴耀卿為戶部侍郎,許景先為工部侍郎,甚允朝廷之望。然性躁急多言,又引賓客故人,晨夕飲謔,由是為時論所譏。時禮部尚書、信安王祎為朔方節度使,殿中侍御史李宙劾之,驛召將下獄。祎既申訴得理,融坐阿黨李宙,出為汝州刺史,在相凡百日而罷。

裴光庭は時に御史大夫を兼ね、また融が交遊朋党し及び男子が贓物を受けた等の事を弾劾し、昭州平楽尉に貶された。嶺外に在ること歳余、司農少卿蔣岑が融が汴州に在りて回造船脚し、巨万を隠没したことを挙奏し、給事中馮紹烈が又深く文案して其の事実を按じ、融はここにおいて巌州に配流された。地既に瘴毒に満ち、憂い憤り疾を発し、遂に広府に詣り、将に停留して未だ還らざらんとす。都督ととく耿仁忠、融に謂いて曰く、「明公は朝廷の深き譴責を負い、以て此に至る、更に故らに厳命を犯し、他境に淹留せんとす。仁忠累を見るは、誠に甘んじてする所なりと雖も、亦た朝廷明公の此に在るを知らば、必ず相容れざるを恐る」と。融遽かに還り、路に卒す。上これを聞き、その旧功を思い、台州刺史を贈った。

原文裴光庭時兼御史大夫,又彈融交遊朋黨及男受贓等事,貶昭州平樂尉。在嶺外歲餘,司農少卿蔣岑舉奏融在汴州回造船腳,隱沒鉅萬,給事中馮紹烈又深文案其事實,融於是配流巖州。地既瘴毒,憂恚發疾,遂詣廣府,將停留未還。都督耿仁忠謂融曰:「明公負朝廷深譴,以至於此,更欲故犯嚴命,淹留他境,仁忠見累,誠所甘心,亦恐朝廷知明公在此,必不相容也。」融遽還,卒於路。上聞之,思其舊功,贈臺州刺史。

韋堅

原文韋堅

韋堅は京兆万年の人。父は元珪、先天年中、銀青光禄大夫、開元初、袞州刺史。堅の姉は贈惠宣太子妃、堅の妻は又楚国公姜皎の女、堅の妹は又皇太子妃、中外栄盛、故に早くより官叙に従う。二十五年、長安ちょうあん令となり、幹済を以て聞こえた。中貴人と善くし、主意を探り候う。宇文融・楊慎矜父子が財物を勾剝して進奉を争い行い恩顧を致すを見て、堅は乃ち江淮の租賦を転運し、所在に吏を置きて督察し、以て国の倉廩を裨益し、歳に巨万を益す。玄宗能あると為す。

原文韋堅,京兆萬年人。父元珪,先天中,銀青光祿大夫,開元初,袞州刺史。堅姊為贈惠宣太子妃,堅妻又楚國公姜皎女,堅妹又為皇太子妃,中外榮盛,故早從官敘。二十五年,為長安令,以幹濟聞。與中貴人善,探候主意。見宇文融楊慎矜父子以勾剝財物爭行進奉而致恩顧,堅乃以轉運江淮租賦,所在置吏督察,以裨國之倉廩,歲益鉅萬。玄宗以為能。

天宝元年三月、陜郡太守・水陸転運使に擢げられた。西漢より隋に至るまで、運渠関門より西に長安に抵り、以て山東の租賦を通ずる有り。奏請して咸陽に於いて渭水を擁して興成堰を作り、灞・浐の水を截ちて渭に傍い東に注ぎ、関西永豊倉の下に至りて渭と合わしむ。長安の東九里長楽坡の下・浐水の上に苑墻を架し、東面に望春楼有り、楼の下に広運潭を穿ちて舟楫を通ず、二年にして成る。堅は予め東京・汴・宋に於いて小斛底船三二百只を取って潭の側に置き、其の船皆牌を署して之を表す。若し広陵郡の船は、即ち栿背上に広陵の出する錦・鏡・銅器・海味を堆積し、丹陽郡の船は、即ち京口の綾衫段、晋陵郡の船は、即ち折造官端の綾繡、会稽郡の船は、即ち銅器・羅・呉綾・絳紗、南海郡の船は、即ち玳瑁・真珠・象牙・沈香、豫よ章郡の船は、即ち名瓷・酒器・茶釜・茶鐺・茶碗、宣城郡の船は、即ち空青石・紙筆・黄連、始安郡の船は、即ち蕉葛・蚺蛇胆・翡翠。船中皆米有り、呉郡は即ち三破糯米・方丈綾。凡そ数十郡。船を駕する人皆大笠子・寛袖衫・芒屨、呉・楚の制の如し。先ず是れ、人間戯れに唱歌詞して云う、「得体都紇那や、紇囊得体や?潭裏船車鬧れ、揚州銅器多し。三郎殿に坐し、看唱『得体歌』」と。開元二十九年に至り、田同秀上言して「玄元皇帝を見る、雲う宝符有り陜州桃林県古関令尹喜の宅に」と、中使を発して求めて之を得、殊祥と為し、桃林を改めて霊宝県と為す。及び此の潭成るに及び、陜県尉崔成甫は堅が陜郡太守として新潭を鑿り成し、又揚州銅器を致すを以て、此の詞を翻出し、広く両県の官を集め、婦人をして之を唱えしめ、言う、「宝を得たり弘農の野、弘農宝を得たりや!潭裏船車鬧れ、揚州銅器多し。三郎殿に坐し、看唱『得宝歌』」と。成甫は又歌詞十首を作り、白衣缺胯緑衫、錦半臂、偏袒膊、紅羅抹額、第一船に於いて号頭と為して之を唱う。和する者婦人一百人、皆鮮服靚妝、声を斉しくして影に接ぎ、鼓笛胡部を以て之に応ず。余船洽いて進み、楼の下に至り、連檣弥亘数里、観者山積す。京城の百姓多く驛馬船墻竿を識らず、人人駭視す。

原文天寶元年三月,擢為陜郡太守、水陸轉運使。自西漢及隋,有運渠自關門西抵長安,以通山東租賦。奏請於咸陽擁渭水作興成堰,截灞、浐水傍渭東註,至關西永豐倉下與渭合。於長安東九里長樂坡下、浐水之上架苑墻,東面有望春樓,樓下穿廣運潭以通舟楫,二年而成。堅預於東京、汴、宋取小斛底船三二百只置於潭側,其船皆署牌表之。若廣陵郡船,即於栿背上堆積廣陵所出錦、鏡、銅器、海味;丹陽郡船,即京口綾衫段;晉陵郡船,即折造官端綾繡,會稽郡船,即銅器、羅、吳綾、絳紗;南海郡船,即玳瑁、真珠、象牙、沈香;豫章郡船,即名瓷、酒器、茶釜、茶鐺、茶碗;宣城郡船,即空青石、紙筆、黃連;始安郡船,即蕉葛、蚺蛇膽、翡翠。船中皆有米,吳郡即三破糯米、方丈綾。凡數十郡。駕船人皆大笠子、寬袖衫、芒屨,如吳、楚之制。先是,人間戲唱歌詞云:「得丁紇反體都董反紇那也,紇囊得體耶?潭裏船車鬧,揚州銅器多。三郎當殿坐,看唱《得體歌》。」至開元二十九年,田同秀上言「見玄元皇帝,雲有寶符在陜州桃林縣古關令尹喜宅」,發中使求而得之,以為殊祥,改桃林為靈寶縣。及此潭成,陜縣尉崔成甫以堅為陜郡太守鑿成新潭,又致揚州銅器,翻出此詞,廣集兩縣官,使婦人唱之,言:「得寶弘農野,弘農得寶耶!潭裏船車鬧,揚州銅器多。三郎當殿坐,看唱《得寶歌》。」成甫又作歌詞十首,白衣缺胯綠衫,錦半臂,偏袒膊,紅羅抹額,於第一船作號頭唱之。和者婦人一百人,皆鮮服靚妝,齊聲接影,鼓笛胡部以應之。餘船洽進,至樓下,連檣彌亙數里,觀者山積。京城百姓多不識驛馬船墻竿,人人駭視。

堅跪いて諸郡の軽貨を上り、又百牙盤食を上り、府県進奏し、教坊楽を出だして叠奏す。玄宗歓悦し、詔を下して勅して曰く、

原文堅跪上諸郡輕貨,又上百牙盤食,府縣進奏,教坊出樂叠奏。玄宗歡悅,下詔敕曰:

古の善政者は、食を足すを貴び、富国を求めんと欲する者は、必ず先ず人を利す。朕関輔の間、尤も殷贍を資とす、比来転輸、未だ艱辛を免れず、故に此の潭を置き、以て漕運を通ず。万代の利、一朝にして成り、将に永図に允葉せんとす、豈に苟くも縱観を求むるに在らんや。其の陜郡太守韋堅は、始終検校し、夙夜勤労す。賞を以て功を懋ますは、則ち惟れ常典。宜しく特と三品に与え、仍ち一三品京官を改授し太守を兼ね、判官等並びに即ち量りて改転を与うべし。其の専知検校始末潭の所を離れざる者並びに孔目官、及び選日に至り、優に処分を与え、仍ち韋堅に委ねて名を録して奏すべし。応役の人夫等は、各傭直に酬ゆと雖も、終に役日多く、並びに今年の地税を放つ。且つ鑿を啓き功畢り、舟楫已に通ず、既に遠途に渉り、又能く先ず至る、永く言って勅励し、稍く宜しく甄奨すべし。其の押運綱各一中上考を賜い、準前録奏すべし。船夫等宜しく共に銭二千貫を賜い、以て宴楽に充つべし。外郡進上の物は、貴戚朝官に賜う。名を賜いて広運潭と曰う。

原文古之善政者,貴於足食,欲求富國者,必先利人。朕關輔之間,尤資殷贍,比來轉輸,未免艱辛,故置比潭,以通漕運。萬代之利,一朝而成,將允葉於永圖,豈茍求於縱觀。其陜郡太守韋堅,始終檢校,夙夜勤勞,賞以懋功,則惟常典。宜特與三品,仍改授一三品京官兼太守,判官等並即量與改轉。其專知檢校始末不離潭所者並孔目官,及至典選日,優與處分,仍委韋堅具名錄奏。應役人夫等,雖各酬傭直,終使役日多,並放今年地稅。且啟鑿功畢,舟楫已通,既涉遠途,又能先至,永言勸勵,稍宜甄獎。其押運綱各賜一中上考,準前錄奏。船夫等宜共賜錢二千貫,以充宴樂。外郡進上物,賜貴戚朝官。賜名廣運潭。

時に堅の姉故惠宣太子妃も亦た宝物を出だして楼上の鋪設に供し、進食竟日にして罷む。

原文時堅姊故惠宣太子妃亦出寶物供樓上鋪設,進食竟日而罷。

李林甫は韋堅が姜氏の婿であることを以て、甚だこれを親しんだ。ここに至りてその詭計を用いて進出を求めることを懼れ、恩寵を受ける日が深く、韋堅はまた李適之と善しとし、ますますこれを怒り、入朝して宰相となることを恐れ、乃ち腹心と謀ってその罪を構成した。四月、銀青光禄大夫・左散騎常侍さんきじょうじ・陝郡太守・水陸転運使に進み、勾当縁河及江淮南租庸転運処置使は並びに従前の如く、また判官の元捴・豆盧友を以て監察御史に除した。三年正月、韋堅はまた御史中丞を兼ね、韋城男に封ぜられた。九月、守刑部尚書を拝し、諸使を奪われ、楊慎矜がこれを代わった。

原文李林甫以堅姜氏婿,甚狎之。至是懼其詭計求進,承恩日深,堅又與李適之善,益怒之,恐入為相,乃與腹心構成其罪。四月,進銀青光祿大夫、左散騎常侍、陜郡太守、水陸轉運使,勾當緣河及江淮南租庸轉運處置使並如故;又以判官元捴、豆盧友除監察御史。三年正月,堅又加兼御史中丞,封韋城男。九月,拜守刑部尚書,奪諸使,以楊慎矜代之。

五載正月の望夜、韋堅は河西節度使・鴻臚卿の皇甫惟明と夜遊し、共に景龍観の道士の房を過ぎたが、林甫に発覚され、韋堅は戚里であることを以て、節将と親昵すべきでないとし、これは謀を構えて太子を立てんと規るものなりとした。玄宗はその言に惑わされ、急ぎ韋堅を縉雲太守に貶し、惟明を播川太守に貶した。まもなく使者を発して惟明を黔中において殺し、その資財を没収した。六月、また韋堅を江夏員外別駕に貶した。また韋堅が李適之と善しとすることを構成し、適之を宜春太守に貶した。七月、韋堅はまた嶺南臨封郡に長流され、韋堅の弟の将作少匠の韋蘭・鄠県令の韋冰・兵部員外郎の韋芝・韋堅の男の河南府戸曹の韋諒は並びに遠く貶された。十月に至り、監察御史の羅希奭を使わして逐ってこれを殺し、諸弟及び男の諒は並びに死んだ。韋堅の妻の姜氏は、林甫がその久しく軽賤に遭ったことを以て、特に本宗に還すことを放した。倉部員外郎の鄭章は南豊丞に貶され、殿中侍御史の鄭欽説は夜郎尉に貶され、監察御史の豆盧友は富水尉に貶され、監察御史の楊恵は巴東尉に貶され、連累する者数十人に及んだ。また勅して嗣薛王の李琄を夷陵郡員外別駕に長任とし、その母は男の任に随う、女婿の新たに巴陵太守に貶された盧幼林は合浦郡に長流された。粛宗は時に皇太子として、恐懼して上表し、新婦と離絶すと称した。七載、嗣薛王の李琄は停められ、なお夜郎郡に安置し、その母もまた男に随うことを勒せられた。韋堅が貶黜された後、林甫は所司に諷して使者を江淮・東京縁河転運使に発し、恣に韋堅の罪を求めて聞かせしめ、これにより綱典の船夫は牢獄に溢れ、郡県の征剝は止まず、隣伍は尽く裸形となり、公府に死する者あり、林甫の死して乃ち停んだ。

原文五載正月望夜,堅與河西節度、鴻臚卿皇甫惟明夜遊,同過景龍觀道士房,為林甫所發,以堅戚裏,不合與節將狎暱,是構謀規立太子。玄宗惑其言,遽貶堅為縉雲太守,惟明為播川太守。尋發使殺惟明於黔中,籍其資財。六月,又貶堅為江夏員外別駕。又構堅與李適之善,貶適之為宜春太守。七月,堅又長流嶺南臨封郡,堅弟將作少匠蘭、鄠縣令冰、兵部員外郎芝、堅男河南府戶曹諒並遠貶。至十月,使監察御史羅希奭逐而殺之,諸弟及男諒並死。堅妻姜氏,林甫以其久遭輕賤,特放還本宗。倉部員外郎鄭章貶南豐丞,殿中侍御史鄭欽說貶夜郎尉,監察御史豆盧友貶富水尉,監察御史楊惠貶巴東尉,連累者數十人。又敕嗣薛王琄夷陵郡員外別駕長任,其母隨男任;女婿新貶巴陵太守盧幼林長流合浦郡。肅宗時為皇太子,恐懼上表,稱與新婦離絕。七載,嗣薛王琄停,仍於夜郎郡安置,其母亦勒隨男。堅貶黜後,林甫諷所司發使於江淮、東京緣河轉運使,恣求堅之罪以聞,因之綱典船夫溢於牢獄,郡縣征剝不止,鄰伍盡成裸形,死於公府,林甫死乃停。

楊慎矜

原文楊慎矜

楊慎矜は、隋の煬帝の玄孫なり。曾祖は隋の斉王の楊暕、祖父は楊正道、大業の末、宇文化及に随って河北に至り、竇建徳に破られ、因ってその祖母の蕭皇后と共に建徳の軍に入り、建徳は突厥の処羅可汗の牙に送った。貞観の初め、李靖が頡利可汗を撃破し、胡酋の康蘇密が蕭後及び正道を帰し、尚衣奉御を授けられた。父の楊隆礼は、長安年中に天官郎中、神龍の後、洛・梁・滑・汾・懐の五州刺史を歴任し、皆清厳にして能く人吏を検察し欺隠を絶つことを以て聞こえた。景雲年中、名が玄宗の上字に犯すを以て、崇礼と改めた。開元の初め、擢て太府少卿と為り、銭帛充牣するも、丈尺の間も皆躬自省閲し、時の議は前後太府を為る者比ぶるもの無しと為した。擢て太府卿を拝し、銀青光禄大夫を加え、弘農郡公に進封された。在職二十年、公清一の如し。年九十余、戸部尚書を授けられて致仕した。時に太平久しく、御府の財物山積し、楊卿を経る者は精好ならざる無しと為し、毎歳勾剝省便して銭数百万貫を出す。

原文楊慎矜,隋煬帝玄孫也。曾祖隋齊王暕,祖正道,大業末,隨宇文化及至河北,為竇建德所破,因與其祖母蕭皇后入於建德軍,建德送於突厥處羅可汗牙。貞觀初,李靖擊破頡利可汗,胡酋康蘇密以蕭後及正道歸,授尚衣奉禦。父隆禮,長安中天官郎中,神龍後,歷洛、梁、滑、汾、懷五州刺史,皆以清嚴能檢察人吏絕於欺隱聞。景雲中,以名犯玄宗上字,改為崇禮。開元初,擢為太府少卿,雖錢帛充牣,丈尺間皆躬自省閱,時議以為前後為太府者無與為比。擢拜太府卿,加銀青光祿大夫,進封弘農郡公。在職二十年,公清如一。年九十餘,授戶部尚書致仕。時太平且久,禦府財物山積,以為經楊卿者無不精好,每歲勾剝省便出錢數百萬貫。

慎矜は沈毅にして材幹有り、気を任せ朋執を尚ぶ。初め、汝陽令と為り、能名有り。崇礼が太府を罷むると、玄宗はその子の父の任に委ねるに堪える者を訪ねた。宰臣は慎餘・慎矜・慎名の三人は皆勤恪清白にして父の風有りとし、而して慎矜がその最と為すを以て、因って監察御史を拝し、太府の出納を知らしめた。慎餘は先に司農丞と為り、太子舎人を除され、京倉を監した。尋いで父憂に服す。二十六年服闋し、累遷して侍御史と為り、なお太府の出納を知る。慎名は大理評事を授けられ、監察御史を摂し、都含嘉倉出納使を充て、甚だ恩顧を承けた。慎矜は諸州の納物に水漬傷破及び色下の者有る者を、皆本州に征折估銭を令し、軽貨に転市せしめ、州県の征調、歳月を絶たず。台に在ること数年、また専ら雑事を知り、風格甚だ高し。

原文慎矜沈毅有材幹,任氣尚朋執。初,為汝陽令,有能名。崇禮罷太府,玄宗訪其子堪委其父任者。宰臣以慎餘、慎矜,慎名三人皆勤恪清白有父風,而慎矜為其最,因拜監察御史,知太府出納。慎餘先為司農丞,除太子舍人,監京倉。尋丁父憂。二十六年服闋,累遷侍御史,仍知太府出納。慎名授大理評事,攝監察御史,充都含嘉倉出納使,甚承恩顧。慎矜於諸州納物者有水漬傷破及色下者,皆令本州征折估錢,轉市輕貨,州縣征調,不絕於歲月矣。在臺數年,又專知雜事,風格甚高。

天宝二年、権判御史中丞に遷り、京畿採訪使を充て、太府出納使を知ることは並びに従前の如し。時に右相の李林甫権を握り、慎矜は遷拝その門に由らざるを以て、懼れてその任に居ることを敢えず、固くこれを譲り、因って諫議大夫を除し、侍御史を兼ね、なお旧く太府の出納を知る。鴻臚少卿の蕭諒を以て御史中丞と為し、諒が台に至り、捴譲する所無く、頗る相能わず、竟に陝郡太守に出された。林甫は慎矜が己に屈するを以て、復た御史中丞に擢で、なお諸道鋳銭使を充て、余は従前の如し。

原文天寶二年,遷權判御史中丞,充京畿采訪使,知太府出納使並如故。時右相李林甫握權,慎矜以遷拜不由其門,懼不敢居其任,固讓之,因除諫議大夫,兼侍御史,仍依舊知太府出納。以鴻臚少卿蕭諒為御史中丞,諒至臺,無所捴讓,頗不相能,竟出為陜郡太守。林甫以慎矜屈於己,復擢為御史中丞,仍充諸道鑄錢使,餘如故。

時に散騎常侍・陝郡太守の韋堅は御史中丞を兼ね、水陸漕運使と為り、権は宰相に傾く。侍御史の王鉷が韋堅の獄を推すに、慎矜は身を引いて中立し以て候望す、鉷これを恨み、林甫もまた憾みたり。慎矜と鉷の父の王瑨は中外の兄弟、鉷は即ち表侄、少しく相狎み、鉷が台に入り、慎矜は台端と為り、また推引有り。鉷が中丞に遷るに及び、鉷と同列と雖も、毎に王鉷と呼び、鉷は林甫と善しとするを恃み、漸くこれを平らかならず。五載、慎矜は戸部侍郎に遷り、中丞・使は従前の如し。林甫は慎矜が主恩を受くるを見て、心にこれを嫉み、また王鉷が慎矜に間有るを知り、また誘いてこれを啖い、鉷は乃ちその隙を伺いて以てこれを陥れんとす。慎矜は鉷の職田を奪い、背いて鉷を詈り、その母氏を詆し、鉷はその辱めに堪えず。慎矜は性疏快にして、素より鉷に昵し、嘗て讖書を鉷に話し、また還俗僧の史敬忠と遊処し、敬忠は学業有り。鉷は林甫と謀ってその罪を構成し、慎矜は隋家の子孫なり、心に隋室を克復せんと規り、故に異書を蓄え、兇人と来往し、而して国家の休咎を説くと云う。

原文時散騎常侍、陜郡太守韋堅兼御史中丞,為水陸漕運使,權傾宰相。侍御史王鉷推堅獄,慎矜引身中立以候望,鉷恨之,林甫亦憾焉。慎矜與鉷父瑨中外兄弟,鉷即表侄,少相狎,鉷入臺,慎矜為臺端,亦有推引。及鉷遷中丞,雖與鉷同列,每呼為王鉷,鉷恃與林甫善,漸不平之。五載,慎矜遷戶部侍郎,中丞、使如故。林甫見慎矜受主恩,心嫉之,又知王鉷於慎矜有間,又誘而啖之,鉷乃伺其隙以陷之。慎矜奪鉷職田,背詈鉷,詆其母氏,鉷不堪其辱。慎矜性疏快,素昵於鉷,嘗話讖書於鉷,又與還俗僧史敬忠遊處,敬忠有學業。鉷於林甫構成其罪,雲慎矜是隋家子孫,心規克復隋室,故蓄異書,與兇人來往,而說國家休咎。

時に天宝六載十一月、玄宗は華清宮に在り、林甫は人をして之を発せしむ。玄宗震怒し、之を尚書省に繫ぎ、詔して刑部尚書蕭隠之・大理卿李道邃・少卿楊璹・侍御史楊釗・殿中侍御史盧鉉に同じく之を鞫せしむ。又京兆士曹吉温をして東京に往きて慎矜の兄少府少監慎餘・弟洛陽らくよう令慎名等を収め雑訊せしむ。又温をして汝州に於いて史敬忠を捕え獲せしめ、便ち行在所に赴かしむ。先ず盧鉉をして太府少卿張瑄を会昌駅に収め、繫ぎて之を推せしむ。瑄は肯へて答弁せず。鉉は百端拷訊して得ず、乃ち不良に命じて瑄を枷し、手力をもって其の足を絆ぎ、木をもって其の足間を按じ、枷柄を前に敝き、其の身を挽きて長さ数尺に校し、腰細くして絶えんと欲し、眼鼻皆血出づ。之を「驢駒抜撅」と謂ふ。瑄竟に肯へて答へず。又鉉と御史崔器をして城に入り慎矜の宅を捜索せしむ。得る所無く、其の小妻韓珠団を拷す。乃ち豎櫃の上に一の暗函を作り讖書等を盛る。鉉は袖中より出して之を納れ、詬して慎矜に示す。慎矜曰く、「他日見えず、今乃ち来る、是れ命なり。吾死すなり。」と。及て温、敬忠を以て戯水駅東十余里に至り、証説せしむ。「若し温湯に至らば、即ち首陳を求むるも得べからず。」と。温湯を去ること十余里、敬忠は桑樹の下に於いて紙筆を乞ひ具に之を吐く。比て慎矜を見るに、敬忠之を証す。慎矜皆実を引く。二十五日、詔して楊慎矜・慎餘・慎名並びに自尽を賜ふ。史敬忠は重杖一百を決す。鮮于賁・範滔並びに重杖を決し、遠郡に配流す。慎矜の外甥前通事舍人辛景湊は杖を決し配流す。義陽郡司馬・嗣虢王巨は敬忠と相識り、官を解き南賓郡に安置す。太府少卿張瑄は六十を決し、嶺南臨封郡に長流す。亦流所に於いて死す。慎矜兄弟並びに史敬忠の庄宅官収め、男女を以て嶺南諸郡に配流す。其の張瑄・万俟承暉・鮮于賁等は此に準じて配流す。乃ち監察御史顔真卿をして勅を東京に送らしめ、殿中侍御史崔寓は慎名を引き、河南法曹張万頃に勅を宣示せしむ。慎名、慎矜の自尽を賜ふを見て、初め尚ほ膺を撫づ。及て慎餘及び身皆爾なるを聞き、遂に止む。及て勅を宣了す。慎名曰く、「今聖恩を奉ずるに、敢へて晷き刻を稽留せず。但だ寡姊老年なるを以て、数行の書を作りて之に別れんことを請ふ。」と。寓は真卿に揖す。真卿之を許す。慎名は神色変はらず、房中に入り書を作りて曰く、「謀運に拙くして、静退すること能はず。兄弟並びに命を終へ、唯だ姊尚ほ存す。老年孤煢、何を以てか此れに堪へん。」と。書後に又数条の事あり。又宅中に一の板池を作り、池中の魚一々皆之を放つ。遂に縊れて死す。監察御史平冽は勅を賫して大理寺に至る。慎餘は死を聞き、合掌して天を指して縊る。

原文時天寶六載十一月,玄宗在華清宮,林甫令人發之。玄宗震怒,系之於尚書省,詔刑部尚書蕭隱之、大理卿李道邃、少卿楊璹、侍御史楊釗、殿中侍御史盧鉉同鞫之;又使京兆士曹吉溫往東京收慎矜兄少府少監慎餘、弟洛陽令慎名等雜訊之;又令溫於汝州捕史敬忠獲之,便赴行在所。先令盧鉉收太府少卿張瑄於會昌驛,系而推之,瑄不肯答辯。鉉百端拷訊不得,乃令不良枷瑄,以手力絆其足,以木按其足間,〓敝其枷柄向前,挽其身長校數尺,腰細欲絕,眼鼻皆血出,謂之「驢駒拔撅」,瑄竟不肯答。又使鉉與御史崔器入城搜慎矜宅,無所得,拷其小妻韓珠團,乃在豎櫃上作一暗函盛讖書等,鉉於袖中出而納之,詬以示慎矜。慎矜曰:「他日不見,今乃來,是命也。吾死也。」及溫以敬忠至戲水驛東十餘里,使證說之:「若至溫湯,即求首陳不可得矣。」去溫湯十餘里,敬忠乞紙筆於桑樹下具吐之。比見慎矜,敬忠證之,慎矜皆引實。二十五日,詔楊慎矜、慎餘、慎名並賜自盡;史敬忠決重杖一百;鮮于賁、範滔並決重杖,配流遠郡;慎矜外甥前通事舍人辛景湊決杖配流。義陽郡司馬、嗣虢王巨與敬忠相識,解官於南賓郡安置;太府少卿張瑄決六十,長流嶺南臨封郡,亦死於流所。慎矜兄弟並史敬忠莊宅官收,以男女配流嶺南諸郡;其張瑄、万俟承暉、鮮于賁等準此配流。乃使臨察御史顏真卿送敕至東京,殿中侍御史崔寓引慎名,令河南法曹張萬頃宣敕示之。慎名見慎矜賜自盡,初尚撫膺,及聞慎餘及身皆爾,遂止。及宣敕了,慎名曰:「今奉聖恩,不敢稽留晷刻,但以寡姊老年,請作數行書以別之。」寓揖真卿,真卿許之。慎名神色不變,入房中作書曰:「拙於謀運,不能靜退。兄弟並命,唯姊尚存,老年孤煢,何以堪此!」書後又數條事。又宅中作一板池,池中魚一皆放之,遂縊而死。監察御史平冽賫敕至大理寺,慎餘聞死,合掌指天而縊。

初め、慎矜、温湯に至り、正に食らふ。忽ち一の鬼物を見る。長さ丈余、硃衣冠幘、門扇の後に立ち。慎矜之を叱す。良久しく滅せず。熱羹を以て之に投ずるに乃ち滅す。幾ばくも無く、獄に下りて死す。兄弟甚だ友愛し、寡姊を事ふること母の如し。皆偉き儀形にして、風韻高朗、客を愛し飲を喜ぶ。籍甚だ時に於いてす。慎名嘗て鏡を覧み、其の須面の神彩、人に過ぐる有るを見て、鏡を覆ひ嘆惋して曰く、「吾兄弟三人、尽く長さ六尺余り。此の如き貌・此の如き材有りて、容れられ当代に全からんことを期す、難きかな。何ぞ我をして少しく体弱からしめざるや。」と。竟に其の言の如し。

原文初,慎矜至溫湯,正食,忽見一鬼物長丈餘,硃衣冠幘,立於門扇後,慎矜叱之,良久不滅,以熱羹投之乃滅。無何,下獄死。兄弟甚友愛,事寡姊如母,皆偉儀形,風韻高朗,愛客喜飲,籍甚於時。慎名嘗覽鏡,見其須面神彩,有過於人,覆鏡嘆惋曰:「吾兄弟三人,盡長六尺餘,有如此貌、如此材而見容當代以期全,難矣!何不使我少體弱耶?」竟如其言。

王鉷

原文王鉷

王鉷は、太原祁の人なり。祖は方翼、夏州都督、時に名将たり。臣・瑨・珣を生む。臣・瑨は開元初め並びに中書舍人を歴任す。珣は兵部侍郎・秘書監なり。鉷は即ち瑨の孽子なり。開元十年、鄠県尉・京兆尹稻田判官と為る。二十四年、再び監察御史に遷る。二十九年、累ねて戸部員外郎を除き、常に御史を兼ぬ。天宝二年、京和市和糴使を充て、戸部郎中に遷る。三載、長安令柳升は賄に以て敗る。初め、韓朝宗は京兆尹と為り、升を引いて京令と為す。朝宗又終南山下に於いて茍家觜の為に山居を買ひ、以て世乱を避けんと欲す。玄宗怒り、勅して鉷に之を推せしむ。朝宗は高平太守より貶められて呉興別駕と為る。又鉷に長春宮使を加ふ。四載、勾戸口色役使を加へ、又御史中丞に遷り、兼ねて京畿采訪使を充てる。五載、又京畿・関内道黜陟使と為り、又兼ねて関内采訪使を充てる。

原文王鉷,太原祁人也。祖方翼,夏州都督,為時名將,生〓臣、瑨、珣。〓臣、瑨,開元初並歷中書舍人。珣,兵部侍郎、秘書監。鉷,即瑨之孽子。開元十年,為鄠縣尉、京兆尹稻田判官。二十四年,再遷監察御史。二十九年,累除戶部員外郎,常兼御史。天寶二年,充京和市和糴使,遷戶部郎中。三載,長安令柳升以賄敗。初,韓朝宗為京兆尹,引升為京令。朝宗又於終南山下為茍家觜買山居,欲以避世亂。玄宗怒,敕鉷推之,朝宗自高平太守貶為吳興別駕。又加鉷長春宮使。四載,加勾戶口色役使,又遷御史中丞,兼充京畿采訪使。五載,又為京畿、關內道黜陟使,又兼充關內采訪使。

時に右相李林甫は権を怙り事を用ふ。誌謀東儲に利あらず、以て己に附かざる者を除かんとす。而して鉷は吏幹有り、之に倚りて転た深く、以て己用と為す。既に戸口色役使と為り、時に勅有りて百姓に一年の復を給す。鉷は即ち其の脚錢を征するを奏し、広く其の数を張り、又軽貨を市し、乃ち放たざるに甚だし。輸納物に浸漬する者有れば、折估皆本郡に下して征納せしむ。又勅して本郡の高戸を租庸脚士と為し、皆其の家産を破り、弥年完了せず。恣に行ひ割剥し、以て時に媚び、人用ひて嗟怨す。古制、天子六宮、皆品秩高下有り、其の俸物因りて等差有り。唐法は周・隋に沿ひ、妃嬪宮官、位に尊卑有り、亦其の品に随ひて給授し、以て衣服鉛粉の費を供し、以て宸極に奉ず。玄宗在位多載、妃禦承恩多く賞賜し、頻りに左右蔵に於いて之を取るを欲せず。鉷は旨意を探り、歳に錢寶百億万を進め、便ち内庫に貯へ、以て主恩の錫賫を恣にす。鉷云く、「此れは常年の額外の物、征稅の物に非ず。」と。玄宗は鉷に富国の術有りと為し、王用に利し、益々之を厚く待つ。嫡母憂に丁し、旧職に起復し、使は故の如くせしむ。

原文時右相李林甫怙權用事。誌謀不利於東儲,以除不附己者,而鉷有吏幹,倚之轉深,以為己用。既為戶口色役使,時有敕給百姓一年復。鉷即奏征其腳錢,廣張其數,又市輕貨,乃甚於不放。輸納物者有浸漬,折估皆下本郡征納。又敕本郡高戶為租庸腳士,皆破其家產,彌年不了。恣行割剝,以媚於時,人用嗟怨。古制,天子六宮,皆有品秩高下,其俸物因有等差。唐法沿於周、隋,妃嬪宮官,位有尊卑,亦隨其品而給授,以供衣服鉛粉之費,以奉於宸極。玄宗在位多載,妃禦承恩多賞賜,不欲頻於左右藏取之。鉷探旨意,歲進錢寶百億萬,便貯於內庫,以恣主恩錫賫。鉷云:「此是常年額外物,非征稅物。」玄宗以為鉷有富國之術,利於王用,益厚待之。丁嫡母憂,起復舊職,使如故。

七載、又検察内作事を加へ、戸部侍郎に遷り、仍として御史中丞を兼ね、紫金魚袋を賜ふ。八載、兼ねて閑廄使及び苑内営田五坊宮苑等使・隴右群牧都支度営田使を充て、余並びに故の如し。太白山人李渾、金星洞に於いて老人を見たりと言ひ、云ふ玉版石記符有り、聖上長生久視すと。玄宗は鉷をして山洞に入りて求めて之を得しむ。因りて尊号を上る。鉷に銀青光禄大夫・都知総監及び栽接等使を加ふ。九載五月、京兆尹を兼ね、使並びに故の如し。

原文七載,又加檢察內作事,遷戶部侍郎,仍兼御史中丞,賜紫金魚袋。八載,兼充閑廄使及苑內營田五坊宮苑等使、隴右群牧都支度營田使,餘並如故。太白山人李渾言於金星洞見老人,雲有玉版石記符,聖上長生久視。玄宗令鉷入山洞求而得之。因上尊號,加鉷銀青光祿大夫、都知總監及栽接等使。九載五月,兼京兆尹,使並如故。

鉷の威権はますます盛んとなり、二十余りの使職を兼ね、邸宅の近くに使院を設け、文書が山積みとなり、下級官吏が一字の押印を求めても、数日を経ても果たせなかった。中使による賜物は門に絶えることがなく、たとえ晋公李林甫でさえもこれを畏れて避けた。林甫の子岫は将作監となり、禁中に供奉していた。鉷の子準は衛尉少卿で、やはり闘鶏の供奉をしており、しばしば岫をからかい、岫は常に彼にへりくだった。万年尉韋黄裳と長安尉賈季鄰は常に役所の庁事に数百縄の銭を蓄え、名高い娼妓や珍しい料理を常に準備し、準がどこへ行くかを待ち構えていた。また、邸宅の傍らに自ら歓楽を追う場所を設けていた。鉷は弟の戸部郎中銲とともに、術士の任海川を招いてその門を遊歴させ、その相命を問い、王となる相があるかと尋ねた。海川は震え恐れ、ひそかに身を隠して出てこなかった。鉷は事が漏れることを恐れ、彼を追わせ、馮翊郡ひょうよくぐんに至って捕らえ、別の事をでっち上げて杖殺した。定安公主の子韋会は王府司馬を務め、これを聞き、私邸で話したところ、侍女が下男に話してしまった。あるいは会に恨みを持つ者がおり、鉷に告げた。鉷は賈季鄰を遣わして長安の獄に収監させ、夜に入って絞殺し、翌朝に屍をその家に運び還した。会は皇帝の外甥であり、同母兄の王繇は永穆公主を娶っていたが、息をひそめて敢えて言わなかった。

原文鉷威權轉盛,兼二十餘使,近宅為使院,文案堆積,胥吏求押一字,即累日不遂。中使賜遺,不絕於門,雖晉公林甫亦畏避之。林甫子岫為將作監,供奉禁中;鉷子準衛尉少卿,亦鬥雞供奉,每謔岫,岫常下之。萬年尉韋黃裳、長安尉賈季鄰常於廳事貯錢數百繩,名倡珍饌,常有備擬,以候準所適。又於宅側自有追歡之所。鉷與弟戶部郎中銲,召術士任海川遊其門,問其相命,言有王否。海川震懼,潛匿不出。鉷懼泄其事,令逐之,至馮翊郡,得,誣以他事杖殺之。定安公主男韋會任王府司馬,聞之,話於私庭,乃被侍兒說於傭保者。或有憾於會,告於鉷,鉷遣賈季鄰收於長安獄,入夜縊之,明辰載屍還其家。會皇堂外甥,同產兄王繇尚永穆公主,而惕息不敢言。

十載、太原県公に封ぜられ、また殿中監を兼ねた。十一載四月、銲は故鴻臚少卿邢璹の子糸宰(縡)と多年にわたり親密な関係にあり、縡はひそかに逆謀を企て、右龍武軍の万騎を引き入れ、十一月に龍武将軍を殺害し、諸城門と市街を焼き、数百人を分けて楊国忠および右相李林甫・左相陳希烈らを殺すことを計画した。期日の二日前に事が発覚し、玄宗は朝廷に臨み、鉷を召し出し、玉案の前で訴状を鉷に渡した。鉷は囲碁を好み、縡は碁が上手であった。鉷は銲を通じて彼と交際していたため、この時、銲が縡のいる金城坊にいると思い、密かに彼を召した。日が暮れてから、ようやく捕賊官に捕らえさせた。万年尉薛栄光・長安尉賈季鄰らが捕らえに行き、化度寺の門で銲に出会った。季鄰は鉷に引き立てられて赤尉となっていた。銲は彼に言った、「私は邢縡とは旧知であり、縡が今謀反したが、事が急で妄りに私を引き合いに出す恐れがある。どうか足下はその言葉を受け取らないでほしい。」栄先らが縡の門に至ると、縡ら十余人が弓と刃物を持って突出し、栄先らは遂に格闘した。季鄰は銲の言葉を鉷に報告した。鉷は肘で彼を突いて言った、「我が弟がどうして彼らと謀りごとをすることがあろうか!」鉷は国忠とともに縡を追討した。縡の部下が言った、「太夫人を傷つけるな。」国忠は剣南節度使であり、随身官が国忠に報告した、「賊には合言葉がある。戦ってはならない。」しばらくして、驃騎大将軍・内侍高力士が飛龍小児の甲騎四百人を率いて討伐し、縡は乱兵に斬られ、その党で弓の名手の韋瑶らを捕らえて献上した。国忠はこれを玄宗に報告した。玄宗は鉷を深く任じていたため、必ずや彼はこのことを知らないだろうと考え、鉷と銲は別母兄弟であり、鉷が銲の富貴を嫉んで、故意に鉷を陥れようとしたのだろうとし、遂に特に銲を許して問わず、しかし鉷に罪を請わせようと考えた。上は密かに国忠にそれとなく勧めさせた。国忠は上意を漏らすことを敢えず、鉷にほのめかして言った、「そもそも主上は大夫を深く眷顧しておられる。今日、大夫は慈愛を断ち切って家門を存続させるため、ただ強く上疏して郎中(銲)の罪を請うべきです。郎中も必ずしも極刑には至らず、大夫は必ず生き残れましょう。どうして共に命を絶たれましょうか!」鉷はうつむいてしばらくして言った、「小弟は先人の余愛を受けており、平素からしばしば処分を受けてきた。義として彼を見捨てて自分だけ生き延びることを謀ることはできぬ。」そして上奏文を進めた。十二日、鉷が入朝すると、左相陳希烈が言葉で彼を侮辱し、鉷はこれを恨み、憤って訴える言葉と気勢がかなり高かった。鉷が朝から戻り、中書侍郎庁で上表文を作り、人に進状させたが、門司はもはや受け取らなかった。しばらくして、勅により希烈がこれを推問することとなった。鉷は上表文を宰相に見せた。林甫は言った、「大夫は遅すぎた。」そして許さなかった。やがて銲が到着した。国忠が尋ねた、「大夫は知っているか?」銲はまだ答えなかった。侍御史裴冕は銲が国忠を引き合いに出すことを恐れ、冕は彼を叱り罵って言った、「足下は臣として不忠、弟として不義である。聖上は大夫の故をもって、足下を戸部郎中とし、さらに五品を加えられた。恩も厚いというものだ。大夫はどうして縡のことを知っていようか?」国忠は驚いて、銲に言った、「実際に知っているなら、隠してはならない。知らないなら、妄りに引き合いに出してはならない。」銲はようやく言った、「七兄(鉷)は知らない。」季鄰がその罪を証言した。日暮れになって、上奏された。銲は朝堂で杖刑により死に決し、鉷には三衛厨で自尽を賜った。翌日、資聖寺の廊下に移された。裴冕が国忠に言い、邸宅に帰して仮に収殮させ、また妻と娘に墓所まで送らせることを請うた。国忠は義としてこれを許し、鉷の判官斉奇に営護させた。男子の準は除名され、嶺南承化郡に長流され、備は長流珠崖郡とされ、故駅に至って殺された。妻薛氏および未婚の娘はともに流罪となった。初め、鉷は御史中丞・戸部侍郎楊慎矜と親しく、かつ情誼厚く、大いに引き立てられたが、貴盛になって権力を争うようになると、鉷は李林甫に附き、その誘いに乗って慎矜の一家を陥れた。五年を経て鉷は遂に一族を滅ぼすに至った。これは天の道であろうか!

原文十載,封太原縣公,又兼殿中監。十一載四月,銲與故鴻臚少卿邢璹子糸宰情密累年,縡潛構逆謀,引右龍武軍萬騎刻取十一月殺龍武將軍,因燒諸城門及市,分數百人殺楊國忠及右相李林甫、左相陳希烈等。先期二日事發,玄宗臨朝,召鉷,上於玉案前過狀與鉷。鉷好弈棋,縡善棋,鉷因銲與之交故,至是意銲在縡處金城坊,密召之,日晏,始令捕賊官捕之。萬年尉薛榮光、長安尉賈季鄰等捕之,逢銲於化度寺門。季鄰為鉷所引用,為赤尉,銲謂之曰:「我與邢縡故舊,縡今反,恐事急妄相引,請足下勿受其言。」榮先等至縡門,縡等十餘人持弓刃突出,榮先等遂與格戰。季鄰以銲語白鉷,鉷肐謂之曰:「我弟何得與之有謀乎!」鉷與國忠共討逐縡,縡下人曰:「勿損太夫人。」國忠為劍南節度使,有隨身官以白國忠曰:「賊有號,不可戰。」須臾,驃騎大將軍、內侍高力士領飛龍小兒甲騎四百人討之,縡為亂兵所斬,擒其黨善射人韋瑤等以獻。國忠以白玄宗,玄宗以鉷委任深,必不與之知情,鉷與銲別生,嫉其富貴,故欲陷鉷耳,遂特原銲不問,然意欲鉷請罪之。上密令國忠諷之,國忠不敢泄上意,諷鉷曰:「且主上眷大夫深,今日大夫須割慈存門戶,但抗疏請罪郎中。郎中亦未必至極刑,大夫必存,何如並命!」鉷俯首久曰:「小弟先人餘愛,平昔頻有處分,義不欲舍之而謀存。」乃進狀。十二日,鉷入朝,左相陳希烈言語侵之,鉷恨之,憤訴言氣頗高。鉷朝回,於中書侍郎廳修表,令人進狀,門司已不納矣。須臾,敕希烈推之。鉷以表示宰相,林甫曰:「大夫後之矣。」遂不許。俄銲至,國忠問:「大夫知否?」銲未及應。侍御史裴冕恐銲引之,冕叱詈之曰:「足下為臣不忠,為弟不義。聖上以大夫之故,以足下為戶部郎中,又加五品,恩亦厚矣。大夫豈知縡事乎?」國忠愕然,謂銲曰:「實知,即不可隱;不知,亦不可妄引。」銲方曰:「七兄不知。」季鄰證其罪。及日暮,奏之。銲決杖死於朝堂,賜鉷自盡於三衛廚。明日,移於資聖寺廊下,裴冕言於國忠,令歸宅權斂之,又請令妻、女送墓所,國忠義而許之,令鉷判官齊奇營護之。男準除名,長流嶺南承化郡,備長流珠崖郡,至故驛殺之;妻薛氏及在室女並流。初,鉷與御史中丞、戶部侍郎楊慎矜親,且情厚,頗為汲引,及貴盛爭權,鉷附於李林甫,為所誘,陷慎矜家。經五年而鉷至赤族,豈天道歟!

【贊】

原文【贊】

史臣が言う。奸佞の輩は、ただ人を悦ばすことを事とし、聚斂の臣は、物を害さないものはない。禍を招き怨みを買い、国を敗り身を喪うことは、まれにこの道によらないものはない。人君たる者、中智以下の者は、心も利によって動き、言葉は甘く聞こえることを求め、志は聖明を慕うといえども、情は嗜欲に勝つことができず、ただ賢い補佐があっても、どうすることもできない。それゆえ礼経はこれを蓄えるなと戒めるのである。宇文融・韋堅・楊慎矜・王鉷は、皆開元の幸いなる人であり、あるいは戸口を調査して媚びを取り、あるいは漕運によって恩を受け、あるいは財貨を聚めて権力を得、あるいは下から剥ぎ取って寵愛を獲た。勢いを負って自らを用い、人は敢えて違う者はいなかった。張説・李林甫は手に大権を握り、主君の恩顧を受けながらも、なお凌ぎ斥けられ、身を下げてこれに従った。他の者はなおさら知ることができる。しかし天の道は盈ちることを憎み、器が満てば覆る。終わりには善からずとも、その弊害はすでに多く、まことに痛むべきことである。宋璟・裴耀卿・許景先は重任を得たが、融の推薦によるものであり、これも鳳凰の一毛と言えよう。玄宗は聖哲の資質を持ち、高明の位に処しながら、この累を免れず、あるいはこの恥辱を受けた。後の帝王は、深く鑑みることができぬであろうか。

原文史臣曰:夫奸佞之輩,惟事悅人;聚斂之臣,無非害物。賈禍招怨,敗國喪身,罕不由斯道也。君人者,中智已降,亦心緣利動,言為甘聞,誌雖慕於聖明,情不勝於嗜欲,徒有賢佐,無如之何,所以禮經戒其勿畜。宇文融、韋堅、楊慎矜、王鉷,皆開元之幸人也,或以括戶取媚,或以漕運承恩,或以聚貨得權,或以剝下獲寵,負勢自用,人莫敢違。張說、李林甫手握大權,承主恩顧,尚遭淩擯,以身下之,他人即可知也。然天道惡盈,器滿則覆,終雖不令,其弊已多,良可痛也。宋璟、裴耀卿、許景先獲居重任,因融薦之,此亦有鳳之一毛也。玄宗以聖哲之姿,處高明之位,未免此累,或承之羞,後之帝王,得不深鑒!

贊して言う。財は人を領域することができるが、聚まれば民は散る。いかんぞ帝王、志して余剰を求めん。融・堅・矜・鉷、利に因り便に乗ず。僥倖をもって寵栄を得んとし、後患を招くは宜なるかな。

原文贊曰:財能域人,聚則民散。如何帝王,誌求餘羨。融、堅、矜、鉷,因利乘便。以僥寵榮,宜招後患。