旧唐書 宇文融

旧唐書

宇文融

宇文融は、京兆府萬年県の人であり、隋の礼部尚書平昌公宇文弼の玄孫である。祖父の宇文節は、貞観年間に尚書右丞となり、法令に明るく習熟し、才幹と器量をもって称えられた。時に江夏王李道宗が私事を宇文節に託したことがあったが、節はこれを奏上したので、太宗は大いに喜び、絹二百匹を賜り、さらに労って言った、「朕が左右僕射を置かなかったのは、まさに卿が省にいるからである」。永徽初年、累進して黄門侍郎・同中書門下三品となり、于志寧に代わって侍中となった。房遺愛の事件に連座して桂州に配流され、そこで死去した。父の宇文嶠は、萊州長史であった。

宇文融は、開元初年に累次転任して富平県主簿となり、明察弁別に長け、吏才があった。源乾曜・孟溫が相次いで京兆尹となったが、皆彼を厚く礼遇した。やがて監察御史に任ぜられた。当時、天下の戸口が逃亡し、免役(租税・労役免除)に偽りや濫りが多いことを、朝廷は深く憂慮していた。宇文融は便宜を上奏し、偽濫を検査し、逃亡戸を捜索・把握することを請うた。玄宗はその言を容れ、宇文融を使者に任じて推問・調査させた。間もなく、偽濫や諸々の免役を多数摘発し、特に朝散大夫を加えられ、さらに兵部員外郎に昇進し、侍御史を兼ねた。宇文融はここにおいて、勧農判官十人を設置することを奏上し、皆御史を兼任させ、天下に分遣して、各地で田地を検査把握し、戸口を招き寄せた。新たに附籍した客戶(浮浪戸)に対しては、六年間の租調を免除し、軽い税のみを官に納めさせた。議論する者は、人々を煩わせ不便であると考える者が多かった。陽翟県尉の皇甫憬が上疏して言った。

臣は聞く、智者も千慮に一失あり、愚夫も千計に一得ありと。かつ無益の事が繁ければ、不急の務も多くなる。不急の務が多ければ、役事は頻繁になる。役事が頻繁になれば、人は疲弊する。人が疲弊すれば、頼るべき生業がなくなる。それゆえ、太上(理想の君主)は徳を務め、静を本とし、その次はこれを教化し、安を上とする。ただその疆界を責め、堤防を厳しくし、山水の余剰があれば、すなわち現地とする。何ぞ必ずしも人を阡陌に集め、自ら遣わして検括・測量させ、農時を奪い、弊を受けさせんや。また、応じて出使する輩は、大体を識らず、その所以を全く知らず、ただ陛下が人を愛する深き至りを、務めて勾剝(取り立て・収奪)を計略とするものと心得ている。州県は罪を恐れ、牒に拠って即座に徴収する。逃亡した家の分は、隣保が代わりに出す。隣保が賄いきれなければ、またさらに輸納させる。急げば皆が生計を図ることもできず、緩めれば法が及ぶことを慮る。臣は逃亡がこれより一層深まることを恐れる。澄んだ流れは源にあり、沸騰を止めるは火によるが如く、慎まざるべからざるなり。今の具僚(官吏の数)は、向かって万数を超え、府庫を蚕食し、黎人(民衆)を侵害する。国には数年の儲えが絶え、家には一月の蓄えが無く、たとえ重税を課しても供給できぬ。戸口の逃亡は、これによらぬものはない。たとえ伊尹・皋陶が術を申し述べ、管仲・晏嬰が謀を陳べても、どうしてこの弊を止められようか。もしこれ(現状)を以て給しようとすれば、どうして堪えられよう。東海・南山ことごとく粟帛となすも、なお足りぬことを恐れる。ましてや田地を括り、客戶に税を課するだけで、周到に給することができようか。

左拾遺の楊相如も上書し、皆客戶を検括することが不便であると陳べた。上(玄宗)は宇文融を任用することに専念し、侍中の源乾曜及び中書舎人の陸堅は皆この事を賛成したので、皇甫憬を盈川県尉に貶した。ここにおいて諸道が括り出した客戶は凡そ八十余万、田地もこれに相当した。州県は宇文融の意を迎え、多く獲得することに務め、皆その数を虚張し、また実戸(正規の戸籍を持つ戸)を客戶とする者もあった。年末に客戶から徴収した銭は数百万に上り、宇文融はこれによって御史中丞に抜擢された。事を言う者はなおも、客戶を括ることが居人(定住民)を損なうと称したので、上は百官を尚書省に集めて議させた。公卿以下は宇文融の恩寵と権勢を恐れ、皆雷同して異なる言葉を発する者なく、ただ戸部侍郎の楊瑒のみが、客戶を括ることが居人に不利であり、籍外の田に税を徴収することは百姓を困窮疲弊させ、得るものは失うものを補わない、と建議した。間もなく、楊瑒は外職に出された。

宇文融は伝馬を駆って天下を巡歴し、事の大小にかかわらず、まず勧農使に牒で上申し、その後中書省に申告した。省司もまた宇文融の指図を待ってから決断した。宇文融の至るところ、必ず老幼を招集して上の恩命を宣布し、百姓はその心に感じ、涙を流して父母と称する者さえあった。宇文融は使いから戻り詳細に奏上したので、制を下して言った。

人は邦(国)の本であり、本固くして邦寧し。必ず人を安んずるに在りて、初めて本を固くすることができる。永く理道(治世の道)を言うも、実に朕が心を得たり。思うに、黎庶(民衆)を康済し、華夏を寵綏(安んじ撫でる)し、上は宗廟乾坤の寄託に副い、下は宇縣(天下)の貢献の勤めに答えるため、何ぞ嘗て夜分に寝ることを止め、日旰(日が暮れる)に食を忘れざらんや。然る後に以て、眇眇たる身を以て四海の貴に当たる。長く遐邇(遠近)を想うといえども、家ごとに至り日ごとに見ることはできない。政教を宣布し、逋亡(逃亡者)を安輯するに至っては、言うに再三に念い、その勤め至れり。朕の命に副わざるは、実に恥ずる所なり。扆(天子の座する屏風)に当たりて永く懐い、静かにその緒を言う。人の流亡は自ら久しく、招諭しても還らず、上の情は下に通ぜず、衆の心は上に達せざるか。明発(夜明け)にこれを求め、その人を見んことを想う。時に括地使の宇文融が延英殿に謁見したので、朕は人は必ず土著すべきものと考え、逃亡について議し、その忠讜を嘉し、事を任ずるに堪えるとし、乃ち田戸の紀綱を授け、兼ねて郡県の厘革を委ね、便ち令して使を充てさせ、奉じて人を安んぜしめた。遂に能く我が黎元を恤れ、朕の命を克く将(行)い、夏の初めより発し、歳の終わりに及び、巡按の及ぶ所、帰首(帰順・自首)する者百万。なお制を宣布する日、老幼欣躍し、ただ令に従い、多く涙を流して朕が心を感じ、皆誠を吐いて王命を荷うと聞く。なお朕の薄徳、未だ人に信ぜられざるを恐れ、撫字安存(撫育し安んじて存させる)するに、更に良算を冀う。乃ち百司の長吏、方州の嶽牧(地方長官)に命じ、廟堂に僉議し、広く異見を徴する。群の詞は劄翰(上奏文)に盈ち、環省(回覧審議)は旬日に弥がり、広く朕の意に副わんことを庶幾し、何ぞ以て労と為さんや。衆を稽え言を考うるに、これを以て折衷と謂う。人をして必ず信ぜしめ、令の行われることを期す。凡そ爾ら司存(職務を司る者)は、遵守することを勉めよ。夫れ食は人にとって天であり、富みて後に教う。経教彜体(常道)は、前哲の至言である。故に平糴は昔の王者に行われ、義倉は近代に加えられた。九年の蓄えを存し、上中の斂(収穫)を収める所以である。豊作で物価が安ければ農は財を傷つけず、災害や饑饉の時にも菜色(飢えた顔色)の者なく、人を救い国を活かす、その利は博大である。今、流戸(流浪の民)が大いに来たり、王田(公田)は理(治)められつつある。敖庾(倉庫)の務は、寤寐(寝ても覚めても)に懐く所である。その客戶から税した銭は、宜しく均しく所在の常平倉の用に充てるべく、なお予め価値を支払い、粟麦を兼ねて貯蔵することを許す。旧来の常平銭粟と併せて、全て本道の判官に委ねて勾当処置させ、斂散を時宜に合わせ、務めて矜恤(哀れみ救済)のためとする。かつ災を分かち患を恤れむは、州党の常情であり、余りを損ない欠けを済すは、親鄰の善き貸しである。故に木鐸を以て雲に徇(巡ら)せしめ、裏胥(郷里の役人)に均しく功をさせ、夜に績み相従い、斉(整った)俗以て贍(豊か)ならしむ。今、陽和(春の温かさ)は沢を布き、丁壮は田に就く。言うに鰥煢(孤独な者)を念い、事は拯助に資する。宜しく使司に委ねて州県と商量し、農社を作ることを勧め、貧富相い恤れみ、耕耘を時に合わせさせる。なお雨沢の後、種蒔きや収穫の忙しい月ごとに、州県の常務は一切停止・減免する。時に趨ることを寇に備えるより急とし、尺璧(宝玉)を寸陰(わずかな時間)より賤しとせしめよ。是れ則ち天は虚施(無駄な施し)無く、人は遺力(残された力)無からしむ。また政は経遠(長期的な計画)に在り、功は久しく著わるに在る。今逃亡者が初めて復業し、居業(生業)未だ康らかならず、逃戸及び籍外の剰田に循(従)い、なお宜しく労徠(慰め招く)し、理は存撫(慰め安んじる)に資する。その十道の分判官は、三五年の内に、その功を就えしめ、終始有らしめよ。当道の覆屯(調査・検閲)及び推劾(推問・弾劾)を須いるものは、皆これを委ね、広く余りの使を差す必要なく、その事に専らならしめ、人を煩わせぬことを示す。政術に能有る者は、必ず賞罰を行え。既に奏上した復業帰首の者を、勾当する州県は毎季一度申告し、名簿を挟んで煩わせる必要はない。その帰首戸は、各々新たに首を出した処と本貫(本来の籍貫地)とが計会して、年齢・戸等・色役(各種の労役)を定め、欺き隠し及び両処での徴科(徴税)なからしめよ。天下に宣布して、朕の意を明らかに知らしめよ。

中書令張説は平素より宇文融の為人を憎み、またその権力の重きを患え、融の奏上する事柄に、多く異議を立てて争った。融はその意を推し量り、先んじてこれを図った。中書舎人張九齢が張説に言うには、「宇文融は恩寵を受けて事を為し、弁舌巧みで言葉多く、備えざるべからず」と。張説曰く、「この狗鼠の輩、どうして事を為せようか」と。融はまもなく戸部侍郎を兼ねた。東封より還り、また密かに意見を陳べ、吏部を分けて十銓とし選事を典とし、奏上した事柄はまた張説に抑えられた。融は乃ち御史大夫崔隠甫と連名して張説を弾劾し、朝廷にその状を奏し、張説はこれにより政事を知るを罷められた。融は張説が再び用いられて己の患いとなるを恐れ、しばしば讒言してこれを毀った。上はその朋党を憎み、まもなく融を出して魏州刺史とした。俄かに汴州刺史に転じ、また上表して『禹貢』の九河の旧道を用い、稻田を開いて人を利し、併せて陸運の本銭を回易し、官がその利を収むるを請うた。役を興して止まずと雖も、事多く成らざりき。

十六年、復た入朝して鴻臚卿となり、戸部侍郎を兼ねた。明年、黄門侍郎に拝され、裴光庭と並びに同中書門下平章事を兼ねた。融既に相位に居り、天下を以て己が任と為さんと欲し、人に謂いて曰く、「吾をして此に数月居らしめば、庶幾くは海内に事無からしめん」と。ここにおいて宋けいを右丞相に、裴耀卿を戸部侍郎に、許景先を工部侍郎に薦め、甚だ朝廷の望みに允った。然れども性躁急にして言葉多く、また賓客故人を引き、晨夕に飲みて戯れ、ここによりて時論に譏らるる所となった。時に礼部尚書・信安王李禕は朔方節度使たり、殿中侍御史李宙これを弾劾し、駅伝を以て召し下獄せんとす。禕既に申訴して理を得、融は李宙に阿党した罪に坐し、出されて汝州刺史となり、宰相に在ること凡そ百日にして罷められた。

裴光庭は時に御史大夫を兼ね、また融が交遊朋党し及び男子が贓物を受けた等の事を弾劾し、昭州平楽尉に貶された。嶺外に在ること歳余、司農少卿蔣岑が融が汴州に在りて回造船脚し、巨万を隠没したことを挙奏し、給事中馮紹烈が又深く文案して其の事実を按じ、融はここにおいて巌州に配流された。地既に瘴毒に満ち、憂い憤り疾を発し、遂に広府に詣り、将に停留して未だ還らざらんとす。都督耿仁忠、融に謂いて曰く、「明公は朝廷の深き譴責を負い、以て此に至る、更に故らに厳命を犯し、他境に淹留せんとす。仁忠累を見るは、誠に甘んじてする所なりと雖も、亦た朝廷明公の此に在るを知らば、必ず相容れざるを恐る」と。融遽かに還り、路に卒す。上これを聞き、その旧功を思い、台州刺史を贈った。

韋堅

韋堅は京兆万年の人。父は元珪、先天年中、銀青光禄大夫、開元初、袞州刺史。堅の姉は贈惠宣太子妃、堅の妻は又楚国公姜皎の女、堅の妹は又皇太子妃、中外栄盛、故に早くより官叙に従う。二十五年、長安令となり、幹済を以て聞こえた。中貴人と善くし、主意を探り候う。宇文融・楊慎矜父子が財物を勾剝して進奉を争い行い恩顧を致すを見て、堅は乃ち江淮の租賦を転運し、所在に吏を置きて督察し、以て国の倉廩を裨益し、歳に巨万を益す。玄宗能あると為す。

天宝元年三月、陜郡太守・水陸転運使に擢げられた。西漢より隋に至るまで、運渠関門より西に長安に抵り、以て山東の租賦を通ずる有り。奏請して咸陽に於いて渭水を擁して興成堰を作り、灞・浐の水を截ちて渭に傍い東に注ぎ、関西永豊倉の下に至りて渭と合わしむ。長安の東九里長楽坡の下・浐水の上に苑墻を架し、東面に望春楼有り、楼の下に広運潭を穿ちて舟楫を通ず、二年にして成る。堅は予め東京・汴・宋に於いて小斛底船三二百只を取って潭の側に置き、其の船皆牌を署して之を表す。若し広陵郡の船は、即ち栿背上に広陵の出する錦・鏡・銅器・海味を堆積し、丹陽郡の船は、即ち京口の綾衫段、晋陵郡の船は、即ち折造官端の綾繡、会稽郡の船は、即ち銅器・羅・呉綾・絳紗、南海郡の船は、即ち玳瑁・真珠・象牙・沈香、豫章郡の船は、即ち名瓷・酒器・茶釜・茶鐺・茶碗、宣城郡の船は、即ち空青石・紙筆・黄連、始安郡の船は、即ち蕉葛・蚺蛇胆・翡翠。船中皆米有り、呉郡は即ち三破糯米・方丈綾。凡そ数十郡。船を駕する人皆大笠子・寛袖衫・芒屨、呉・楚の制の如し。先ず是れ、人間戯れに唱歌詞して云う、「得体都紇那や、紇囊得体や?潭裏船車鬧れ、揚州銅器多し。三郎殿に坐し、看唱『得体歌』」と。開元二十九年に至り、田同秀上言して「玄元皇帝を見る、雲う宝符有り陜州桃林県古関令尹喜の宅に」と、中使を発して求めて之を得、殊祥と為し、桃林を改めて霊宝県と為す。及び此の潭成るに及び、陜県尉崔成甫は堅が陜郡太守として新潭を鑿り成し、又揚州銅器を致すを以て、此の詞を翻出し、広く両県の官を集め、婦人をして之を唱えしめ、言う、「宝を得たり弘農の野、弘農宝を得たりや!潭裏船車鬧れ、揚州銅器多し。三郎殿に坐し、看唱『得宝歌』」と。成甫は又歌詞十首を作り、白衣缺胯緑衫、錦半臂、偏袒膊、紅羅抹額、第一船に於いて号頭と為して之を唱う。和する者婦人一百人、皆鮮服靚妝、声を斉しくして影に接ぎ、鼓笛胡部を以て之に応ず。余船洽いて進み、楼の下に至り、連檣弥亘数里、観者山積す。京城の百姓多く驛馬船墻竿を識らず、人人駭視す。

堅跪いて諸郡の軽貨を上り、又百牙盤食を上り、府県進奏し、教坊楽を出だして叠奏す。玄宗歓悦し、詔を下して勅して曰く、

古の善政者は、食を足すを貴び、富国を求めんと欲する者は、必ず先ず人を利す。朕関輔の間、尤も殷贍を資とす、比来転輸、未だ艱辛を免れず、故に此の潭を置き、以て漕運を通ず。万代の利、一朝にして成り、将に永図に允葉せんとす、豈に苟くも縱観を求むるに在らんや。其の陜郡太守韋堅は、始終検校し、夙夜勤労す。賞を以て功を懋ますは、則ち惟れ常典。宜しく特と三品に与え、仍ち一三品京官を改授し太守を兼ね、判官等並びに即ち量りて改転を与うべし。其の専知検校始末潭の所を離れざる者並びに孔目官、及び選日に至り、優に処分を与え、仍ち韋堅に委ねて名を録して奏すべし。応役の人夫等は、各傭直に酬ゆと雖も、終に役日多く、並びに今年の地税を放つ。且つ鑿を啓き功畢り、舟楫已に通ず、既に遠途に渉り、又能く先ず至る、永く言って勅励し、稍く宜しく甄奨すべし。其の押運綱各一中上考を賜い、準前録奏すべし。船夫等宜しく共に銭二千貫を賜い、以て宴楽に充つべし。外郡進上の物は、貴戚朝官に賜う。名を賜いて広運潭と曰う。

時に堅の姉故惠宣太子妃も亦た宝物を出だして楼上の鋪設に供し、進食竟日にして罷む。

李林甫は韋堅が姜氏の婿であることを以て、甚だこれを親しんだ。ここに至りてその詭計を用いて進出を求めることを懼れ、恩寵を受ける日が深く、韋堅はまた李適之と善しとし、ますますこれを怒り、入朝して宰相となることを恐れ、乃ち腹心と謀ってその罪を構成した。四月、銀青光禄大夫・左散騎常侍・陝郡太守・水陸転運使に進み、勾当縁河及江淮南租庸転運処置使は並びに従前の如く、また判官の元捴・豆盧友を以て監察御史に除した。三年正月、韋堅はまた御史中丞を兼ね、韋城男に封ぜられた。九月、守刑部尚書を拝し、諸使を奪われ、楊慎矜がこれを代わった。

五載正月の望夜、韋堅は河西節度使・鴻臚卿の皇甫惟明と夜遊し、共に景龍観の道士の房を過ぎたが、林甫に発覚され、韋堅は戚里であることを以て、節将と親昵すべきでないとし、これは謀を構えて太子を立てんと規るものなりとした。玄宗はその言に惑わされ、急ぎ韋堅を縉雲太守に貶し、惟明を播川太守に貶した。まもなく使者を発して惟明を黔中において殺し、その資財を没収した。六月、また韋堅を江夏員外別駕に貶した。また韋堅が李適之と善しとすることを構成し、適之を宜春太守に貶した。七月、韋堅はまた嶺南臨封郡に長流され、韋堅の弟の将作少匠の韋蘭・鄠県令の韋冰・兵部員外郎の韋芝・韋堅の男の河南府戸曹の韋諒は並びに遠く貶された。十月に至り、監察御史の羅希奭を使わして逐ってこれを殺し、諸弟及び男の諒は並びに死んだ。韋堅の妻の姜氏は、林甫がその久しく軽賤に遭ったことを以て、特に本宗に還すことを放した。倉部員外郎の鄭章は南豊丞に貶され、殿中侍御史の鄭欽説は夜郎尉に貶され、監察御史の豆盧友は富水尉に貶され、監察御史の楊恵は巴東尉に貶され、連累する者数十人に及んだ。また勅して嗣薛王の李琄を夷陵郡員外別駕に長任とし、その母は男の任に随う、女婿の新たに巴陵太守に貶された盧幼林は合浦郡に長流された。粛宗は時に皇太子として、恐懼して上表し、新婦と離絶すと称した。七載、嗣薛王の李琄は停められ、なお夜郎郡に安置し、その母もまた男に随うことを勒せられた。韋堅が貶黜された後、林甫は所司に諷して使者を江淮・東京縁河転運使に発し、恣に韋堅の罪を求めて聞かせしめ、これにより綱典の船夫は牢獄に溢れ、郡県の征剝は止まず、隣伍は尽く裸形となり、公府に死する者あり、林甫の死して乃ち停んだ。

楊慎矜

楊慎矜は、隋のよう帝の玄孫なり。曾祖は隋の斉王の楊暕、祖父は楊正道、大業の末、宇文化及に随って河北に至り、竇建徳に破られ、因ってその祖母の蕭皇后と共に建徳の軍に入り、建徳は突厥の処羅可汗の牙に送った。貞観の初め、李靖が頡利可汗を撃破し、胡酋の康蘇密が蕭後及び正道を帰し、尚衣奉御を授けられた。父の楊隆礼は、長安年中に天官郎中、神龍の後、洛・梁・滑・汾・懐の五州刺史を歴任し、皆清厳にして能く人吏を検察し欺隠を絶つことを以て聞こえた。景雲年中、名が玄宗の上字に犯すを以て、崇礼と改めた。開元の初め、擢て太府少卿と為り、銭帛充牣するも、丈尺の間も皆躬自省閲し、時の議は前後太府を為る者比ぶるもの無しと為した。擢て太府卿を拝し、銀青光禄大夫を加え、弘農郡公に進封された。在職二十年、公清一の如し。年九十余、戸部尚書を授けられて致仕した。時に太平久しく、御府の財物山積し、楊卿を経る者は精好ならざる無しと為し、毎歳勾剝省便して銭数百万貫を出す。

慎矜は沈毅にして材幹有り、気を任せ朋執を尚ぶ。初め、汝陽令と為り、能名有り。崇礼が太府を罷むると、玄宗はその子の父の任に委ねるに堪える者を訪ねた。宰臣は慎餘・慎矜・慎名の三人は皆勤恪清白にして父の風有りとし、而して慎矜がその最と為すを以て、因って監察御史を拝し、太府の出納を知らしめた。慎餘は先に司農丞と為り、太子舎人を除され、京倉を監した。尋いで父憂に服す。二十六年服闋し、累遷して侍御史と為り、なお太府の出納を知る。慎名は大理評事を授けられ、監察御史を摂し、都含嘉倉出納使を充て、甚だ恩顧を承けた。慎矜は諸州の納物に水漬傷破及び色下の者有る者を、皆本州に征折估銭を令し、軽貨に転市せしめ、州県の征調、歳月を絶たず。台に在ること数年、また専ら雑事を知り、風格甚だ高し。

天宝二年、権判御史中丞に遷り、京畿採訪使を充て、太府出納使を知ることは並びに従前の如し。時に右相の李林甫権を握り、慎矜は遷拝その門に由らざるを以て、懼れてその任に居ることを敢えず、固くこれを譲り、因って諫議大夫を除し、侍御史を兼ね、なお旧く太府の出納を知る。鴻臚少卿の蕭諒を以て御史中丞と為し、諒が台に至り、捴譲する所無く、頗る相能わず、竟に陝郡太守に出された。林甫は慎矜が己に屈するを以て、復た御史中丞に擢で、なお諸道鋳銭使を充て、余は従前の如し。

時に散騎常侍・陝郡太守の韋堅は御史中丞を兼ね、水陸漕運使と為り、権は宰相に傾く。侍御史の王鉷が韋堅の獄を推すに、慎矜は身を引いて中立し以て候望す、鉷これを恨み、林甫もまた憾みたり。慎矜と鉷の父の王瑨は中外の兄弟、鉷は即ち表侄、少しく相狎み、鉷が台に入り、慎矜は台端と為り、また推引有り。鉷が中丞に遷るに及び、鉷と同列と雖も、毎に王鉷と呼び、鉷は林甫と善しとするを恃み、漸くこれを平らかならず。五載、慎矜は戸部侍郎に遷り、中丞・使は従前の如し。林甫は慎矜が主恩を受くるを見て、心にこれを嫉み、また王鉷が慎矜に間有るを知り、また誘いてこれを啖い、鉷は乃ちその隙を伺いて以てこれを陥れんとす。慎矜は鉷の職田を奪い、背いて鉷を詈り、その母氏を詆し、鉷はその辱めに堪えず。慎矜は性疏快にして、素より鉷に昵し、嘗て讖書を鉷に話し、また還俗僧の史敬忠と遊処し、敬忠は学業有り。鉷は林甫と謀ってその罪を構成し、慎矜は隋家の子孫なり、心に隋室を克復せんと規り、故に異書を蓄え、兇人と来往し、而して国家の休咎を説くと云う。

時に天宝六載十一月、玄宗は華清宮に在り、林甫は人をして之を発せしむ。玄宗震怒し、之を尚書省に繫ぎ、詔して刑部尚書蕭隠之・大理卿李道邃・少卿楊璹・侍御史楊釗・殿中侍御史盧鉉に同じく之を鞫せしむ。又京兆士曹吉温をして東京に往きて慎矜の兄少府少監慎餘・弟洛陽令慎名等を収め雑訊せしむ。又温をして汝州に於いて史敬忠を捕え獲せしめ、便ち行在所に赴かしむ。先ず盧鉉をして太府少卿張瑄を会昌駅に収め、繫ぎて之を推せしむ。瑄は肯へて答弁せず。鉉は百端拷訊して得ず、乃ち不良に命じて瑄を枷し、手力をもって其の足を絆ぎ、木をもって其の足間を按じ、枷柄を前に敝き、其の身を挽きて長さ数尺に校し、腰細くして絶えんと欲し、眼鼻皆血出づ。之を「驢駒抜撅」と謂ふ。瑄竟に肯へて答へず。又鉉と御史崔器をして城に入り慎矜の宅を捜索せしむ。得る所無く、其の小妻韓珠団を拷す。乃ち豎櫃の上に一の暗函を作り讖書等を盛る。鉉は袖中より出して之を納れ、詬して慎矜に示す。慎矜曰く、「他日見えず、今乃ち来る、是れ命なり。吾死すなり。」と。及て温、敬忠を以て戯水駅東十余里に至り、証説せしむ。「若し温湯に至らば、即ち首陳を求むるも得べからず。」と。温湯を去ること十余里、敬忠は桑樹の下に於いて紙筆を乞ひ具に之を吐く。比て慎矜を見るに、敬忠之を証す。慎矜皆実を引く。二十五日、詔して楊慎矜・慎餘・慎名並びに自尽を賜ふ。史敬忠は重杖一百を決す。鮮于賁・範滔並びに重杖を決し、遠郡に配流す。慎矜の外甥前通事舍人辛景湊は杖を決し配流す。義陽郡司馬・嗣虢王巨は敬忠と相識り、官を解き南賓郡に安置す。太府少卿張瑄は六十を決し、嶺南臨封郡に長流す。亦流所に於いて死す。慎矜兄弟並びに史敬忠の庄宅官収め、男女を以て嶺南諸郡に配流す。其の張瑄・万俟承暉・鮮于賁等は此に準じて配流す。乃ち監察御史顔真卿をして勅を東京に送らしめ、殿中侍御史崔寓は慎名を引き、河南法曹張万頃に勅を宣示せしむ。慎名、慎矜の自尽を賜ふを見て、初め尚ほ膺を撫づ。及て慎餘及び身皆爾なるを聞き、遂に止む。及て勅を宣了す。慎名曰く、「今聖恩を奉ずるに、敢へて晷刻を稽留せず。但だ寡姊老年なるを以て、数行の書を作りて之に別れんことを請ふ。」と。寓は真卿に揖す。真卿之を許す。慎名は神色変はらず、房中に入り書を作りて曰く、「謀運に拙くして、静退すること能はず。兄弟並びに命を終へ、唯だ姊尚ほ存す。老年孤煢、何を以てか此れに堪へん。」と。書後に又数条の事あり。又宅中に一の板池を作り、池中の魚一々皆之を放つ。遂に縊れて死す。監察御史平冽は勅を賫して大理寺に至る。慎餘は死を聞き、合掌して天を指して縊る。

初め、慎矜、温湯に至り、正に食らふ。忽ち一の鬼物を見る。長さ丈余、硃衣冠幘、門扇の後に立ち。慎矜之を叱す。良久しく滅せず。熱羹を以て之に投ずるに乃ち滅す。幾ばくも無く、獄に下りて死す。兄弟甚だ友愛し、寡姊を事ふること母の如し。皆偉き儀形にして、風韻高朗、客を愛し飲を喜ぶ。籍甚だ時に於いてす。慎名嘗て鏡を覧み、其の須面の神彩、人に過ぐる有るを見て、鏡を覆ひ嘆惋して曰く、「吾兄弟三人、尽く長さ六尺余り。此の如き貌・此の如き材有りて、容れられ当代に全からんことを期す、難きかな。何ぞ我をして少しく体弱からしめざるや。」と。竟に其の言の如し。

王鉷

王鉷は、太原祁の人なり。祖は方翼、夏州都督、時に名将たり。臣・瑨・珣を生む。臣・瑨は開元初め並びに中書舍人を歴任す。珣は兵部侍郎・秘書監なり。鉷は即ち瑨の孽子なり。開元十年、鄠県尉・京兆尹稻田判官と為る。二十四年、再び監察御史に遷る。二十九年、累ねて戸部員外郎を除き、常に御史を兼ぬ。天宝二年、京和市和糴使を充て、戸部郎中に遷る。三載、長安令柳升は賄に以て敗る。初め、韓朝宗は京兆尹と為り、升を引いて京令と為す。朝宗又終南山下に於いて茍家觜の為に山居を買ひ、以て世乱を避けんと欲す。玄宗怒り、勅して鉷に之を推せしむ。朝宗は高平太守より貶められて呉興別駕と為る。又鉷に長春宮使を加ふ。四載、勾戸口色役使を加へ、又御史中丞に遷り、兼ねて京畿采訪使を充てる。五載、又京畿・関内道黜陟使と為り、又兼ねて関内采訪使を充てる。

時に右相李林甫は権を怙り事を用ふ。誌謀東儲に利あらず、以て己に附かざる者を除かんとす。而して鉷は吏幹有り、之に倚りて転た深く、以て己用と為す。既に戸口色役使と為り、時に勅有りて百姓に一年の復を給す。鉷は即ち其の脚錢を征するを奏し、広く其の数を張り、又軽貨を市し、乃ち放たざるに甚だし。輸納物に浸漬する者有れば、折估皆本郡に下して征納せしむ。又勅して本郡の高戸を租庸脚士と為し、皆其の家産を破り、弥年完了せず。恣に行ひ割剥し、以て時に媚び、人用ひて嗟怨す。古制、天子六宮、皆品秩高下有り、其の俸物因りて等差有り。唐法は周・隋に沿ひ、妃嬪宮官、位に尊卑有り、亦其の品に随ひて給授し、以て衣服鉛粉の費を供し、以て宸極に奉ず。玄宗在位多載、妃禦承恩多く賞賜し、頻りに左右蔵に於いて之を取るを欲せず。鉷は旨意を探り、歳に錢寶百億万を進め、便ち内庫に貯へ、以て主恩の錫賫を恣にす。鉷云く、「此れは常年の額外の物、征稅の物に非ず。」と。玄宗は鉷に富国の術有りと為し、王用に利し、益々之を厚く待つ。嫡母憂に丁し、旧職に起復し、使は故の如くせしむ。

七載、又検察内作事を加へ、戸部侍郎に遷り、仍として御史中丞を兼ね、紫金魚袋を賜ふ。八載、兼ねて閑廄使及び苑内営田五坊宮苑等使・隴右群牧都支度営田使を充て、余並びに故の如し。太白山人李渾、金星洞に於いて老人を見たりと言ひ、云ふ玉版石記符有り、聖上長生久視すと。玄宗は鉷をして山洞に入りて求めて之を得しむ。因りて尊号を上る。鉷に銀青光禄大夫・都知総監及び栽接等使を加ふ。九載五月、京兆尹を兼ね、使並びに故の如し。

鉷の威権はますます盛んとなり、二十余りの使職を兼ね、邸宅の近くに使院を設け、文書が山積みとなり、下級官吏が一字の押印を求めても、数日を経ても果たせなかった。中使による賜物は門に絶えることがなく、たとえ晋公李林甫でさえもこれを畏れて避けた。林甫の子岫は将作監となり、禁中に供奉していた。鉷の子準は衛尉少卿で、やはり闘鶏の供奉をしており、しばしば岫をからかい、岫は常に彼にへりくだった。万年尉韋黄裳と長安尉賈季鄰は常に役所の庁事に数百縄の銭を蓄え、名高い娼妓や珍しい料理を常に準備し、準がどこへ行くかを待ち構えていた。また、邸宅の傍らに自ら歓楽を追う場所を設けていた。鉷は弟の戸部郎中銲とともに、術士の任海川を招いてその門を遊歴させ、その相命を問い、王となる相があるかと尋ねた。海川は震え恐れ、ひそかに身を隠して出てこなかった。鉷は事が漏れることを恐れ、彼を追わせ、馮翊郡に至って捕らえ、別の事をでっち上げて杖殺した。定安公主の子韋会は王府司馬を務め、これを聞き、私邸で話したところ、侍女が下男に話してしまった。あるいは会に恨みを持つ者がおり、鉷に告げた。鉷は賈季鄰を遣わして長安の獄に収監させ、夜に入って絞殺し、翌朝に屍をその家に運び還した。会は皇帝の外甥であり、同母兄の王繇は永穆公主を娶っていたが、息をひそめて敢えて言わなかった。

十載、太原県公に封ぜられ、また殿中監を兼ねた。十一載四月、銲は故鴻臚少卿邢璹の子糸宰(縡)と多年にわたり親密な関係にあり、縡はひそかに逆謀を企て、右龍武軍の万騎を引き入れ、十一月に龍武将軍を殺害し、諸城門と市街を焼き、数百人を分けて楊国忠および右相李林甫・左相陳希烈らを殺すことを計画した。期日の二日前に事が発覚し、玄宗は朝廷に臨み、鉷を召し出し、玉案の前で訴状を鉷に渡した。鉷は囲碁を好み、縡は碁が上手であった。鉷は銲を通じて彼と交際していたため、この時、銲が縡のいる金城坊にいると思い、密かに彼を召した。日が暮れてから、ようやく捕賊官に捕らえさせた。万年尉薛栄光・長安尉賈季鄰らが捕らえに行き、化度寺の門で銲に出会った。季鄰は鉷に引き立てられて赤尉となっていた。銲は彼に言った、「私は邢縡とは旧知であり、縡が今謀反したが、事が急で妄りに私を引き合いに出す恐れがある。どうか足下はその言葉を受け取らないでほしい。」栄先らが縡の門に至ると、縡ら十余人が弓と刃物を持って突出し、栄先らは遂に格闘した。季鄰は銲の言葉を鉷に報告した。鉷は肘で彼を突いて言った、「我が弟がどうして彼らと謀りごとをすることがあろうか!」鉷は国忠とともに縡を追討した。縡の部下が言った、「太夫人を傷つけるな。」国忠は剣南節度使であり、随身官が国忠に報告した、「賊には合言葉がある。戦ってはならない。」しばらくして、驃騎大将軍・内侍高力士が飛龍小児の甲騎四百人を率いて討伐し、縡は乱兵に斬られ、その党で弓の名手の韋瑶らを捕らえて献上した。国忠はこれを玄宗に報告した。玄宗は鉷を深く任じていたため、必ずや彼はこのことを知らないだろうと考え、鉷と銲は別母兄弟であり、鉷が銲の富貴を嫉んで、故意に鉷を陥れようとしたのだろうとし、遂に特に銲を許して問わず、しかし鉷に罪を請わせようと考えた。上は密かに国忠にそれとなく勧めさせた。国忠は上意を漏らすことを敢えず、鉷にほのめかして言った、「そもそも主上は大夫を深く眷顧しておられる。今日、大夫は慈愛を断ち切って家門を存続させるため、ただ強く上疏して郎中(銲)の罪を請うべきです。郎中も必ずしも極刑には至らず、大夫は必ず生き残れましょう。どうして共に命を絶たれましょうか!」鉷はうつむいてしばらくして言った、「小弟は先人の余愛を受けており、平素からしばしば処分を受けてきた。義として彼を見捨てて自分だけ生き延びることを謀ることはできぬ。」そして上奏文を進めた。十二日、鉷が入朝すると、左相陳希烈が言葉で彼を侮辱し、鉷はこれを恨み、憤って訴える言葉と気勢がかなり高かった。鉷が朝から戻り、中書侍郎庁で上表文を作り、人に進状させたが、門司はもはや受け取らなかった。しばらくして、勅により希烈がこれを推問することとなった。鉷は上表文を宰相に見せた。林甫は言った、「大夫は遅すぎた。」そして許さなかった。やがて銲が到着した。国忠が尋ねた、「大夫は知っているか?」銲はまだ答えなかった。侍御史裴冕は銲が国忠を引き合いに出すことを恐れ、冕は彼を叱り罵って言った、「足下は臣として不忠、弟として不義である。聖上は大夫の故をもって、足下を戸部郎中とし、さらに五品を加えられた。恩も厚いというものだ。大夫はどうして縡のことを知っていようか?」国忠は驚いて、銲に言った、「実際に知っているなら、隠してはならない。知らないなら、妄りに引き合いに出してはならない。」銲はようやく言った、「七兄(鉷)は知らない。」季鄰がその罪を証言した。日暮れになって、上奏された。銲は朝堂で杖刑により死に決し、鉷には三衛厨で自尽を賜った。翌日、資聖寺の廊下に移された。裴冕が国忠に言い、邸宅に帰して仮に収殮させ、また妻と娘に墓所まで送らせることを請うた。国忠は義としてこれを許し、鉷の判官斉奇に営護させた。男子の準は除名され、嶺南承化郡に長流され、備は長流珠崖郡とされ、故駅に至って殺された。妻薛氏および未婚の娘はともに流罪となった。初め、鉷は御史中丞・戸部侍郎楊慎矜と親しく、かつ情誼厚く、大いに引き立てられたが、貴盛になって権力を争うようになると、鉷は李林甫に附き、その誘いに乗って慎矜の一家を陥れた。五年を経て鉷は遂に一族を滅ぼすに至った。これは天の道であろうか!

【贊】

史臣が言う。奸佞の輩は、ただ人を悦ばすことを事とし、聚斂の臣は、物を害さないものはない。禍を招き怨みを買い、国を敗り身を喪うことは、まれにこの道によらないものはない。人君たる者、中智以下の者は、心も利によって動き、言葉は甘く聞こえることを求め、志は聖明を慕うといえども、情は嗜欲に勝つことができず、ただ賢い補佐があっても、どうすることもできない。それゆえ礼経はこれを蓄えるなと戒めるのである。宇文融・韋堅・楊慎矜・王鉷は、皆開元の幸いなる人であり、あるいは戸口を調査して媚びを取り、あるいは漕運によって恩を受け、あるいは財貨を聚めて権力を得、あるいは下から剥ぎ取って寵愛を獲た。勢いを負って自らを用い、人は敢えて違う者はいなかった。張説・李林甫は手に大権を握り、主君の恩顧を受けながらも、なお凌ぎ斥けられ、身を下げてこれに従った。他の者はなおさら知ることができる。しかし天の道は盈ちることを憎み、器が満てば覆る。終わりには善からずとも、その弊害はすでに多く、まことに痛むべきことである。宋璟・裴耀卿・許景先は重任を得たが、融の推薦によるものであり、これも鳳凰の一毛と言えよう。玄宗は聖哲の資質を持ち、高明の位に処しながら、この累を免れず、あるいはこの恥辱を受けた。後の帝王は、深く鑑みることができぬであろうか。

贊して言う。財は人を領域することができるが、聚まれば民は散る。いかんぞ帝王、志して余剰を求めん。融・堅・矜・鉷、利に因り便に乗ず。僥倖をもって寵栄を得んとし、後患を招くは宜なるかな。