旧唐書
高仙芝
高仙芝は、元来高麗の人である。父の舍雞は、初め河西軍に従い、功を重ねて四鎮十将・諸衛将軍に至った。仙芝は姿容美しく、騎射に長け、勇決驍果であった。若くして父に従い安西に至り、父の功により遊撃将軍を授けられた。二十余歳にして将軍に任じられ、父と同班の官秩となった。節度使田仁琬・蓋嘉運に仕えたが、甚だ用いられず、後に夫蒙霊察が累次抜擢した。開元の末、安西副都護・四鎮都知兵馬使となった。
小勃律国の王は吐蕃に招かれ、公主を娶らせられ、西北の二十余国は皆吐蕃に制せられ、貢献が通じなかった。後に節度使田仁琬・蓋嘉運及び霊察が累次討ったが、勝たず、玄宗は特に仙芝に勅して馬歩一万人を以て行営節度使とし、往きてこれを討たせた。当時歩軍は皆私馬を持ち、安西より行くこと十五日で撥換城に至り、また十余日で握瑟徳に至り、また十余日で疏勒に至り、また二十余日で葱嶺守捉に至り、また行くこと二十余日で播密川に至り、また二十余日で特勒満川に至った。即ち五識匿国である。仙芝は乃ち三軍に分けた。疏勒守捉使趙崇玭に三千騎を統率させて吐蕃の連雲堡に向かわせ、北谷より入らせ、撥換守捉使賈崇瓘を赤仏堂路より入らせ、仙芝は中使辺令誠と共に護密国より入り、七月十三日辰時に吐蕃連雲堡で会することを約した。堡中には兵千人あり、また城南十五里に山に因って柵を為し、兵八九千人有った。城下に婆勒川があり、水が漲って渡れなかった。仙芝は三牲を以て河を祭り、諸将に命じて兵馬を選び、人ごとに三日の乾糧を携えさせ、早く河辺に集まった。水は既に渡り難く、将士は皆狂気と思った。既に至ると、人は旗を濡らさず、馬は鞍覆いを濡らさず、既に渡って陣列を成した。仙芝は喜んで令誠に言った、「向こうで我らが半渡の時に賊が来れば、我らは敗れていたであろう。今既に渡って陣列を成したのは、天がこの賊を我に賜うたのである。」遂に山に登り挑撃し、辰より巳に至り、大いにこれを破った。夜に至って奔逐し、五千人を殺し、千人を生擒し、余は皆走散した。馬千余匹を得、軍資器械は数え切れなかった。
玄宗は術士韓履冰を遣わして日を見させたが、懼れて行きたがらず、辺令誠もまた懼れた。仙芝は令誠らに羸病尪弱の三千余人を留めてその城を守らせ、仙芝は遂に進んだ。三日で坦駒嶺に至り、直下に峭峻四十余里、仙芝はこれを推し量って言った、「阿弩越の胡が速やかに迎えれば、即ち是好心である。」また兵士が下りないことを恐れ、乃ち先に二十余騎に命じて詐りに阿弩越城の胡服を着て嶺に上り来迎えさせた。既に坦駒嶺に至ると、兵士は果たして下りようとせず、言った、「大使は我らを何処へ行かせようとするのか。」言い終わらぬうちに、その先に遣わした二十人が来迎え、言った、「阿弩越城の胡は皆好心で奉迎し、娑夷河の藤橋は既に切り払った。」仙芝は陽に喜んで号令し、兵士は尽く下った。娑夷河は即ち古の弱水であり、草芥毛髪をも浮かべられない。嶺を下ること三日、越胡は果たして来迎した。明日、阿弩越城に至り、当日に将軍席元慶・賀婁余潤に先んじて橋路を修めさせた。仙芝は明日進軍し、また元慶に一千騎を以て先に小勃律王に謂わしめた、「汝の城を取らず、また汝の橋を切らず、只汝の路を借りて通り、大勃律に向かうだけである。」城中には首領五六人あり、皆赤心を以て吐蕃に与していた。仙芝は先に元慶と約して云った、「軍が到れば、首領百姓は必ず山谷に走り入るであろう。呼びかけて取り、勅命を以て彩物等を賜う。首領が至れば、斉しくこれを縛って我を待て。」元慶が既に至ると、一に仙芝の教えた通り、諸首領を縛った。王及び公主は石窟に走り入り、捕えることができなかった。仙芝が至り、吐蕃に与する者五六人を斬った。急ぎ元慶に藤橋を切らせた。勃律までなお六十里あり、暮れに及んで、やっと切り終わった。吐蕃の兵馬が大いに至ったが、既に及ばなかった。藤橋の幅は一箭道、これを修めるのに一年を要して成った。勃律は先に吐蕃に詐られて路を借り、遂にこの橋を成した。ここに至り、仙芝は徐に自ら招諭して勃律及び公主を出降させ、併せてその国を平らげた。
天宝六載八月、仙芝は勃律王及び公主を虜らえて赤仏堂路より班師した。九月、また婆勒川連雲堡に至り、辺令誠らと相見えた。その月の末、播密川に還り、劉単に草させて告捷書を作り、中使判官王廷芳を遣わして告捷した。仙芝の軍が河西に還ると、夫蒙霊察は全く人を遣わして迎労せず、仙芝を罵って言った、「狗の腸を食らう高麗奴!狗の糞を食らう高麗奴!于闐の使者は誰が汝に奏上して得させたのか。」仙芝曰く、「中丞です。」「焉耆鎮守使は誰の辺で得たのか。」曰く、「中丞です。」「安西副都護は誰の辺で得たのか。」曰く、「中丞です。」「安西都知兵馬使は誰の辺で得たのか。」曰く、「中丞です。」霊察曰く、「これらは皆私が奏上したものである。どうして私の処分を待たずに勝手に捷書を奏上するのか!この高麗奴のこの罪に拠れば、斬刑に当たるが、只新たに大功を立てた縁故で、処置したくない。」また劉単に謂って言った、「聞くところでは汝は捷書を作ることができるという。」単は恐懼して罪を請うた。令誠は具にその状を奏上して言った、「仙芝は奇功を立てたのに、今や死を憂えることになろう。」その年六月、制して仙芝に鴻臚卿・摂御史中丞を授け、夫蒙霊察に代わって四鎮節度使とし、霊察を征して入朝させた。霊察は大いに懼れ、仙芝は毎日これに会い、趨走すること従前の如く、霊察はますます自ら安からず。将軍程千里は当時副都護であり、大将軍畢思琛は霊察の押衙であり、行官王滔・康懐順・陳奉忠らは、嘗て仙芝を霊察に構えて讒した。仙芝が既に節度の事を領すると、程千里に謂って言った、「公は面は男児の如く、心は婦人の如し、何ぞや。」また思琛に謂って言った、「この胡が敢えて来るのか!我が城東の一千石種子荘を汝が取り去ったことを、憶えているか。」対して曰く、「これは中丞が思琛の辛苦を知り見て乞い与えられたものです。」仙芝曰く、「我はその時汝が威福を振るうことを懼れたのであって、豈に汝を憐れんで与えたものか!我は言わないつもりだったが、汝が憂いを懐くことを恐れ、言ってしまえば事は無い。」また王滔らを呼び至らせ、捽り下して笞打たんとし、良久くして皆釈した。これにより軍情は懼れなかった。
八載、入朝し、特進を加えられ、左金吾衛大将軍同正員を兼ね、仍って一子に五品官を与えられた。九載、兵を将いて石国を討ち、これを平らげ、その国王を獲て帰った。仙芝は性貪にして、石国より大塊の瑟瑟十余石・真金五六駱駝・名馬宝玉を獲た。初め、舍雞は仙芝を懦緩と思い、その自存できないことを恐れたが、ここに至って功を立て、家財巨万となり、頗る能く散施し、人の求める所あれば、言うこと応えざるはなかった。その載、入朝し、開府儀同三司に拝され、尋いで武威太守・河西節度使を除かれ、安思順に代わった。思順は群胡に諷して耳を切り面を捴って請留させ、監察御史裴周南がこれを奏した。制して復た思順を留め、仙芝を右羽林大将軍とした。十四載、密雲郡公に封ぜられた。
十一月、安禄山が范陽に拠って叛く。この日、京兆牧・栄王琬を討賊元帥とし、仙芝を副将とする。仙芝に命じて飛騎・彍騎及び朔方・河西・隴右の応赴京兵馬を率い、更に関輔の五万人を召募し、封常清に続いて潼関を出て進軍討伐させ、なお仙芝を御史大夫を兼ねさせる。十二月、軍を発し、玄宗は望春亭に臨んで慰労してこれを送り、なお監門将軍辺令誠に命じてその軍を監させ、陝州に駐屯させる。この月十一日、封常清が汜水で兵を敗る。十三日、禄山が東京を陥落させ、常清は余衆を率いて陝州に奔り、仙芝に謂う「累日血戦すれども、賊の鋒は当たるべからず。且つ潼関に兵無し、若し狂寇奔突すれば、則ち京師危うし。宜しくこの守りを棄て、急ぎ潼関を保つべし」と。常清・仙芝は乃ち現兵を率いて太原倉の銭絹を取り、将士に分け与え、余は皆これを焚く。俄にして賊騎継ぎ至り、諸軍惶駭し、甲を棄てて走り、復た隊伍無し。仙芝関に至り、守具を繕修し、又索承光に命じて善和戍を守らせる。賊騎関に至るも、既に備え有り、攻むること能わずして去る、これ仙芝の力なり。
封常清
封常清は蒲州猗氏の人なり。外祖父罪を犯して安西に流され効力し、胡城南門を守り、頗る書を読み、毎に常清を城門楼の上に坐らせ、その読書を教え、多く歴覧す。外祖父死し、常清孤貧、年三十余、夫蒙霊察が四鎮節度使となるに属し、将軍高仙芝が都知兵馬使となり、頗る材能有り、毎に出軍するに、傔従三十余人を奏し、衣服鮮明なり。常清慨然として発憤し、牒を投じて一傔に預からんことを請う。常清細痩、目類脚短くして跛び、仙芝その貌寝たるを見て、納れず。明日又牒を投ず、仙芝これに謂う「吾が奏傔は既に足れり、何ぞ煩わしく復た来る」と。常清怒り、倨りて仙芝に謂う「常清公の高義を慕い、鞭轡に事えんことを願う、媒無くして前にする所以は、何ぞ拒むことの深きや。公若し方円を以て人を取らば、則ち士大夫の望む所なり。若し貌を以て人を取らば、子羽を失うを恐る」と。仙芝猶未だ納れず。常清爾より仙芝の出入りを候い、晨夕その門を離れず、凡そ数十日、仙芝已むを得ず、傔と為すを補う。
開元末、達奚部落の背叛するに会い、黒山より北に向かい、西に碎葉に趣く、玄宗は霊察に勅して邀撃せしむ。霊察は仙芝を使わして二千騎を以て副城より北に至り綾嶺の下に至り、賊に遇いこれを撃たしむ。達奚行遠く、人馬皆疲れ、斬殺略尽す。常清は幕中に於いて潜かに捷書を作り、具に次舎井泉、賊に遇う形勢、克獲の謀略を言い、事頗る精審なり。仙芝の言わんと欲する所、周悉せざる無く、仙芝大いに駭異す。仙芝軍回り、霊察賞労す、仙芝は奴襪を去り帯刀して見ゆ。判官劉眺・独孤峻等逆らいてこれを問うて曰く「前者の捷書は誰が之を作れるか。副大使の幕下に何ぞかくの如き人有らん」と。仙芝曰く「即ち仙芝の傔人封常清なり」と。眺等仙芝に揖し、常清を命じて進み坐らせ、これと語るに旧き相識の如く、眾人方にこれを異とす。達奚を破るの功を以て、疊州地下戍主を授け、便ち判官と為す。累ねて軍功を以て鎮将・果毅・折衝を授く。
天宝六年、仙芝に従い小勃律を破る。十二月、仙芝夫蒙霊察に代わり安西節度使と為り、便ち常清を慶王府録事参軍と為すを奏し、節度判官を充て、紫金魚袋を賜う。尋いで朝散大夫を加え、専ら四鎮の倉庫・屯田・甲仗・支度・営田の事を知る。仙芝毎に出征討するに、常に常清に命じて留後事を知らしむ。常清才学有り、果決なり。留後を知る時、仙芝の乳母子鄭徳詮既に郎将と為る。徳詮の母宅内に在り、仙芝これを兄弟の如く視し、家事皆これに知らしむ、威望三軍を動かす。常清出でて回るや、諸将皆前へ引き、徳詮常清がその門を出づるを見、素よりこれを易しとし、後より走馬して常清を突きて去る。常清使院に至り、左右に命じて密かに引き至らしむ。厅は節度使の宅院に連なり、凡そ数重の門を経る。徳詮既に過ぎし後、命じて随いてこれを閉ざす。徳詮至り、常清席を離れてこれに謂う「常清は細微より起り、中丞の兵馬使傔に預かる。中丞再び納れず、郎将豈知らざるや。今中丞過って聴き、常清を留後使と為す。郎将何ぞ礼無く、中使に対し相凌ぐを得ん」と。因りてこれを叱して曰く「郎将は須らく暫く死して以て軍容を肅すべし」と。因りて勒回を命じ、杖六十、面地に仆し、曳き出だす。仙芝の妻及び乳母門外に於いて号哭してこれを救うも、得ず、因りてその状を仙芝に上ぐ。仙芝これを見て、驚きて曰く「既に死せり」と。及び常清を見るに、遂に一言無く、常清もまたこれを謝せず。諸大将罪有る者、二人を撃殺す、ここに於いて軍中股忄栗す。
十載、仙芝河西節度使に改まり、常清を判官と為すを奏す。王正見安西節度と為り、常清を四鎮支度営田副使・行軍司馬と為すを奏す。十一載、正見死し、乃ち常清を安西副大都護と為し、御史中丞を摂し、節を持ち安西四鎮節度・経略・支度・営田副大使を充て、節度事を知る。十三載朝に入り、御史大夫を摂し、仍ち一子に五品官を与え、第一区を賜い、亡父母皆封爵を贈らる。俄にして北庭都護程千里右金吾大将軍に入り為り、仍ち常清に命じて権りに北庭都護を知らしめ、節を持ち伊西節度等使を充てしむ。常清性勤倹、毎に出征するや或いは駅に乗るも、私馬一両匹を過ぎず、賞罰厳明なり。
十四載、朝に入り、十一月、華清宮に於いて玄宗に謁す。時に禄山既に叛き、玄宗兇胡の恩に負うの状を言い、何方にか誅討すべきかと。常清奏して曰く「禄山兇徒十万を領し、径に中原を犯す。太平久しく、人は戦を知らず。然れども事に逆順有り、勢いに奇変有り。臣請う走馬して東京に赴き、府庫を開き、驍勇を募り、馬箠を挑ぎて河を渡り、日を計って逆胡の首を闕下に懸けんことを」と。玄宗方に憂うるに、その言を壮とす。翌日、常清を范陽節度と為し、俾く兵を募りて東討せしむ。その日、常清駅に乗り東京に赴きて召募し、旬日に兵六万を得、皆傭保市井の流れなり。乃ち河陽橋を斫断し、東京に於いて固守の備えを為す。十二月、禄山河を渡り、陳留を陥し、罌子谷に入り、兇威転た熾んに、先鋒葵園に至る。常清驍騎と柘羯を使わして逆戦せしめ、賊数十百人を殺す。賊の大軍継ぎ至り、常清上東門に退き入り、又戦い利あらず、賊四城門に鼓噪して入り、人吏を殺掠す。常清又都亭驛に於いて戦い、勝たず。宣仁門を退き守り、又敗る。乃ち提象門より入り、樹を倒して以てこれを礙る。谷水に至り、西に奔りて陝郡に至り、高仙芝に遇い、具に賊勢を以てこれに告ぐ。賊と争鋒するは難しと恐れ、仙芝遂に退きて潼関を守る。
玄宗常清の敗るるを聞き、その官爵を削り、白衣を以て仙芝の軍に効力せしむ。仙芝常清に命じて左右廂の諸軍を監巡せしむ。常清皁衣を衣て以て事に従う。監軍辺令誠毎事これを幹す。仙芝多く従わず。令誠入りて事を奏し、具に仙芝・常清の逗撓奔敗の状を言う。玄宗怒り、令誠を使わして勅を賫し軍に至り併せてこれを誅せしむ。
令誠は潼関に至り、常清を駅南西街に引き出し、勅を宣して示した。常清は言う、「常清が死ななかったのは、国家の旌麾を汚すに忍びず、賊の手に受戮することを避け、逆賊を討つ効果がなく、死して初めて甘んずるからである」と。初め、常清が兵敗して関に入り、闕庭に馳せ赴かんとしたが、渭南に至った時、勅令があり潼関に戻るよう命じられたので、自ら表を草して罪を待った。この日刑に臨み、令誠に託してこれを上奏させた。その表は次のように言う。
中使駱奉仙が至り、口勅を奉宣し、臣の万死の罪を恕し、臣の一朝の効を収め、臣をして陝州に戻り、高仙芝の行営に従わしめた。斧を負う縲囚が、忽ち縛を解かれ、敗軍の将が、更に修めることを許された。臣常清は誠に歓び誠に喜び、頓首頓首する。臣は城が陥ちて以来、前後三度使を遣わして表を奉り、赤心を具述したが、竟に引対を蒙らなかった。臣が此度来たのは、苟くも生きんことを求めるのではなく、実に社稷の計を陳べ、虎狼の謀を破らんと欲するためである。闕庭に拝首し、陛下に心を吐き、逆胡の兵勢を論じ、討捍の別謀を陳べ、万死の恩に酬い、一生の寵に報いんことを冀った。豈図らんや、長安は日遠く、謁見する由なく、函谷関は遥かにして、陳情する暇なし。臣は『春秋』を読み、狼瞫が未だ死する所を得ずと称するのを見たが、臣は今得たのである。
昨者羯胡と接戦し、今月七日より交兵し、十三日に至るまで止まなかった。臣の将いる兵は、皆烏合の徒であり、素より訓習せず、周南の市人の衆を率い、漁陽の突騎の師に当たり、尚猶敵を殺して路を塞ぎ、血が野に満ちた。臣は刃下に挺身し、軍前で節に死せんとしたが、逆胡の威を長じ、王師の勢を挫くことを恐れた。是を以て馳せて日に向かい、命を天に帰さんとした。一期には陛下が臣を都市の下に斬り、以て諸将を誡めんこと、二期には陛下が臣に逆賊の勢を問い、以て諸軍を誡めんこと、三期には陛下が臣が死を惜しまぬ徒なることを知り、臣に竭露することを許さんことである。臣は今将に死して表を抗す。陛下或いは臣が失律の後、誑妄を以て辞と為すか、陛下或いは臣が忠を尽くさんと欲することを、肝胆を以て察せられんか。臣が死した後、陛下が此の賊を軽んぜず、臣の言を忘れざらんことを望む。然らば則ち社稷の復安を冀い、逆胡の敗覆を望む。臣の願う所は畢った。天を仰いで鴆を飲み、日に向かって封章す。即ち屍諫の臣と為り、死して聖朝の鬼と作らん。若し歿して知有らば、必ず草を結んで軍前にし、風を回して陣上にし、王師の旗鼓を引き、寇賊の戈鋋を平らげん。生死を以て恩に酬い、感激に任せず。臣常清は聖代を永辞する悲恋の至りに任せず。
常清が既に刑せられると、その屍を蘧蒢の上に陳べた。仙芝が厅に帰ると、令誠は陌刀手百余人を索めて随い従い、言う、「大夫にも恩命有り」と。仙芝は遽かに下り、遂に常清の刑せられた所に至った。仙芝は言う、「我が退いたのは罪である、死は辞さない。然しながら我を以て兵糧及び賜物等を減截したと為すは、則ち我を誣いるのである」と。令誠に謂って言う、「上は天、下は地、兵士皆在り、足下豈知らざるや」と。その召募兵は外に排列し、素より仙芝を愛し、仙芝は呼んで之に謂って言う、「我は京中で児郎輩を召し、少許の物を得たが、装束も未だ足らず、方に君輩と賊を破り、然る後に高官重賞を取らんとした。賊勢が憑陵し、軍を引いて此に至ったのは、亦潼関を固守せんが故である。我若し実に此れ有らば、君輩は即ち実と言え。我若し実に之無くば、君輩は当に枉と言うべし」と。兵は斉に呼んで「枉」と言い、その声は地を殷にした。仙芝は又常清の屍を目し、之に謂って言う、「封二、子は微より著に至り、我は則ち子を引抜して我が判官と為し、俄に又我に代わって節度使と為り、今日又子と此に同死するは、豈命なるか」と。遂に之を斬った。
哥舒翰
哥舒翰は、突騎施の首領たる哥舒部落の裔である。蕃人は多く部落を以て姓と称し、因って以て氏と為す。祖父の沮は左清道率。父の道元は安西副都護、世々安西に居す。翰は家財に富み、倜儻として任侠を好み、然諾を重んじ、樗蒲と酒を恣にした。四十歳の時、父の喪に遭い、三年京師に客居し、長安尉に礼せられず、慨然として発憤して節を折り、剣を仗して河西に之いた。初め節度使王倕に事え、倕が新城を攻める時、翰に経略させると、三軍震懼せざるは無かった。後に節度使王忠嗣が衙将に補した。翰は『左氏春秋伝』及び『漢書』を読むを好み、財を疏んじ気を重んじ、士多く之に帰した。忠嗣は大斗軍副使と為し、嘗て翰をして新城に於いて吐蕃を討たしめた。同列で副と為す者有り、翰の礼が倨なるを見て、用いられず、翰は怒り、之を撾殺したので、軍中股が怵した。左衛郎将に遷る。後に吐蕃が辺を寇すと、翰は苦抜海に於いて之を拒ぎ、その衆は三行し、山より差池して下る。翰は半段槍を持ってその鋒に当たり之を撃つと、三行皆敗れ、摧靡せざるは無く、是より知名となった。
天宝六載、右武衛員外将軍に擢授され、隴西節度副使・都知関西兵馬使・河源軍使を充てた。先に、吐蕃は毎に麦熟の時至れば、即ち部衆を率いて積石軍に至り之を獲取し、共に「吐蕃麦庄」と呼び、前後之を拒ぐ者無かった。是に至り、翰は王難得・楊景暉等をして潜かに兵を引いて積石軍に至らしめ、伏を設けて之を待たしめた。吐蕃は五千騎を以て至り、翰は城中に於いて驍勇を率いて馳撃し、之を殺して略尽くし、余は或いは挺走するも、伏兵邀撃し、匹馬還らざらしめた。翰に家奴有り、左軍と曰い、年十五六、亦膂力有り。翰は槍を使うに善く、賊を追いて之に及ぶと、槍を以て其の肩に搭げて之を喝す。賊驚いて顧みるに、翰従いて其の喉を刺すと、皆剔げて三五尺高くして墮ち、死せざる者無し。左車は輒ち下馬して首を斬り、率いて以て常と為した。
其の冬、玄宗は華清宮に在り、王忠嗣が劾せられた。勅して翰を召し至らしめ、語って之を悦び、遂に鴻臚卿と為し、西平郡太守を兼ね、御史中丞を摂し、忠嗣に代わって隴右節度支度営田副大使と為し、節度事を知らしめた。仍って極言して忠嗣を救い、上は起って禁中に入ると、翰は叩頭して之に随いて前に進み、言詞慷慨、声涙俱に下り、帝感して之を寬め、忠嗣を漢陽太守に貶した。朝廷之を義として壮とした。
明年、青海の上に神威軍を築くと、吐蕃至りて之を攻破した。又青海中の龍駒島に城を築くと、白龍現れたので、遂に応龍城と名付け、吐蕃は跡を屏して敢えて青海に近づかず。吐蕃は石堡城を保ち、路遠くして険しく、久しく抜けず。八載、朔方・河東の群牧十万衆を以て翰に委ねて総統させ、石堡城を攻めしめた。翰は麾下の将高秀巖・張守瑜をして進攻せしめ、旬日を経ずして之を抜いた。上其の功を録し、特進・鴻臚員外卿を拝し、一子に五品官を与え、物千匹・庄宅各一所を賜い、摂御史大夫を加えた。十一載、開府儀同三司を加えた。
哥舒翰は平素より安禄山・安思順と不仲であり、上(玄宗)は毎度和解させて兄弟の契りを結ばせた。その冬、禄山・思順・翰が共に来朝すると、上は内侍高力士及び中貴人をして京城東の駙馬崔惠童の池亭にて宴会をさせた。翰の母尉遅氏は、于闐の族である。禄山は思順が翰を憎んでいるのを以て、かつてこれを恨んでいたが、この時ふと翰に言うには、「我が父は胡、母は突厥なり。公の父は突厥、母は胡なり。公と族類同じきに、何ぞ親しまざるや」と。翰これに応えて曰く、「古人雲う、野狐窟に向かいて嗥くは、不祥なりと。その本を忘るるを以てなり。敢えて心を尽くさざらんや」と。禄山はこれを胡を讒るものと思い、大いに怒り、翰を罵って曰く、「突厥敢えてかくの如くせんや」と。翰応えんとしたが、高力士が翰に目配せしたので、翰は遂に止めた。
十二載、涼國公に進封され、実封三百戸を食み、河西節度使を加えられ、まもなく西平郡王に封ぜられた。時に楊國忠は禄山と不和があり、頻りにその反状を奏上したので、厚く翰を賞して親しく結びつけようとした。十三載、太子太保に拝され、さらに実封三百戸を加えられ、また御史大夫を兼ねた。
翰は酒を好み、頗る声色に恣にした。土門軍に至り、浴室に入り、風疾にかかり、卒倒して久しくしてようやく蘇生した。そこで京に入り、家にて病を養った。
安禄山の反するに及んで、上は封常清・高仙芝が敗北したのを以て、翰を召し入れ、皇太子先鋒兵馬元帥に拝し、田良丘を御史中丞とし、行軍司馬を充て、王思禮・鉗耳大福・李承光・蘇法鼎・管崇嗣及び蕃将の火拔帰仁・李武定・渾萼・契苾寧等を裨将とし、河隴・朔方の兵及び蕃兵と高仙芝の旧卒を合わせて二十万とし、潼関にて賊を防がせた。上は勤政楼に御してこれを労い送り、百官は郊外に出て餞別した。十五載、翰に尚書左僕射・同中書門下平章事を加えた。
翰が潼関に至ると、ある者が翰を勧めて曰く、「禄山は兵を阻み、楊國忠を誅するを名とす。公若し兵三万を留めて関を守らしめ、精鋭を悉くして回らせ國忠を誅せば、これ漢の七國を挫くの計なり。公以て如何」と。翰は心にこれを許したが、発しなかった。ある客がその謀を國忠に漏らしたので、國忠は大いに懼れ、奏上して曰く、「兵法に『安きを忘れず危うきを思う』とあり。今潼関の兵衆盛んなりと雖も、後殿無し。万一利あらずば、京師恐れなからんや。請う監牧の小児三千人を選び苑中に訓練せしめん」と。詔してこれに従い、遂に剣南軍将の李福・劉光庭を遣わして分統させた。また一万人を召募することを奏上し、灞上に屯させ、その腹心の杜乾運にこれを将わせた。翰は図られんことを慮り、乃ち上表して乾運の兵を潼関に隷属させることを請い、遂に乾運を召して潼関に赴き事を計らせ、因ってこれを斬った。ここより、翰は心自ら安からず。また平素より風疾があり、この時に至って頗る甚だしく、軍中の務めは再び躬親せず、政を行軍司馬田良丘に委ねた。良丘はまた敢えて専断せず、教令一ならず、頗る部伍無し。その将の王思禮・李承光はまた先後を争って和せず、人に闘志無し。
先に、翰は数度奏上して、禄山は河朔を窃むと雖も人心を得ず、持重してこれを疲弊させることを請い、彼自ら離心すれば、これに因ってこれを翦滅すべく、兵を傷つけずしてこの寇を擒にすべしと。賊将の崔乾祐は陝郡にて鋒を潜め鋭を蓄えていたが、覘者が「賊は全く備え無し」と奏上したので、上はこれを然りとし、衆を悉くして速やかにこれを討たしめよと命じた。翰は奏上して曰く、「賊は既に始めて逆を為し、禄山は久しく兵を用いるに習い、必ずや肯て備え無からん。これは陰計なり。且つ賊兵遠来し、利は速戦に在り。今王師自らその地に戦い、利は堅守に在り、軽く出づるに利無し。若し軽く関を出でば、これその算に入るなり。乞う更に事勢を観察せん」と。楊國忠はその己を謀るを恐れ、屡々出兵を促すよう奏上した。上は久しく太平に処り、軍事に練れず、既に國忠に眩惑され、中使相継いて督責した。翰は已むを得ず、師を率いて関を出た。
六月四日、霊宝県の西原に駐屯した。八日、賊と交戦し、官軍は南は険峭に迫り、北は黄河に臨んだ。崔乾祐は数千人を以て先んじて険要を占めた。翰及び良丘は船を浮かべて中流にて進退を観、乾祐の兵少なしと謂い、これを軽んじ、遂に将士を促して進むを令し、路を争って擁塞し、再び隊伍無し。午後、東風急なり。乾祐は草車数十乗を以て火を放ってこれを焚き、煙焰天に亘った。将士は面を掩い、目を開くを得ず、因って兇徒に乗ぜられ、王師自ら相排擠し、河に墜ちた。その後軍は前軍の陥敗するを見て、悉く潰え、河に填委し、死者数万人、号叫の声天地に振るい、器械を縛り、槍を楫として北岸に投じ、十に一二を存せず。軍既に敗れ、翰は数百騎と馳せて西に帰らんとしたが、火拔帰仁に捕らえられ賊に降った。禄山これに謂いて曰く、「汝常に我を軽んず、今日如何」と。翰懼れ、俯伏して称して曰く、「肉眼陛下を識らず、遂にここに至る。陛下は撥乱の主なり。今天下未だ平らかならず、李光弼は土門に在り、来填は河南に在り、魯炅は南陽に在り。但だ臣を留めよ。臣は尺書を以てこれを招かば、日に平らかならん」と。禄山大いに喜び、遂に偽って翰を司空に署した。書を作りて光弼等を招かしむるに、諸将の報書は皆翰の死節せざるを譲った。禄山事諧わざるを知り、遂に翰を苑中に閉じ、潜かにこれを殺した。
翰の潼関を守るや、天下の兵権を主とし、志を肆にして怨を報い、戸部尚書安思順が禄山と潜かに通ずると誣奏し、偽って人をして禄山が思順に遺す書を作らせ、関門にてこれを擒えて献上させた。その年の三月、思順及び弟の太僕卿元貞は坐して誅せられ、その家属は嶺外に徙され、天下これを冤とした。
【贊】
史臣曰く、大盗梗を作し、禄山常を乱る。詞は國忠を誅せんと欲すと雖も、志は則ち社稷を危うくせんと謀る。時に承平日久しく、金革の道消え、封常清・高仙芝相次いで教えざるの兵を率い、市人の衆を募り、以て逆寇に抗す。律を失い師を喪う。哥舒翰は家にて病を養い、起きて専ら兵柄を握り、二十万の衆を以て賊を関門に拒ぐ。軍中の務め親しまず、委任またその人に非ず。羯賊に遇うに及んで、旋って敗亡を致し、天子これを以て播遷し、自身これを以て拘執せらる。これ皆帥を命ずるにその人を得ざるなり。『礼』に曰く、「大夫は衆に死す」と。又曰く、「人の軍師を謀る者は敗るれば則ちこれに死す」と。翰は賊庭に署を受け、視息を苟延す。忠義の道、即ち知るべし。豈に顔杲卿に愧じざらんや。抑またこれを聞く、古の将を命ずる者は、轂を推してこれに謂いて曰く、「閫外の事は、将軍これを裁す」と。楊國忠の奏事、辺令誠の戎を護るを観るに、また軍政に掣肘する者なり。偏に三帥を責むべからず、伊人を尤めざるべからず。後の君子、深く鑒とすべからずや。
贊して曰く、羯賊順を犯し、戎車行を啓く。委任所を失い、封・高敗亡す。虔劉圻甸し、僭窃衣裳す。醜い哉舒翰、能く王に死せず。