舊唐書

巻104

巻104

舊唐書

原文舊唐書

卷一百四

原文卷一百四

列傳第五十四 高仙芝 封常清 哥舒翰

原文列傳第五十四 高仙芝 封常清 哥舒翰

高仙芝

原文高仙芝

高仙芝は、元来高麗の人である。父の舍雞は、初め河西軍に従い、功を重ねて四鎮十将・諸衛将軍に至った。仙芝は姿容美しく、騎射に長け、勇決驍ぎょう果であった。若くして父に従い安西に至り、父の功により遊撃将軍を授けられた。二十余歳にして将軍に任じられ、父と同班の官秩となった。節度使田仁琬・蓋嘉運に仕えたが、甚だ用いられず、後に夫蒙霊察が累次抜擢した。開元の末、安西副都護・四鎮都知兵馬使となった。

原文高仙芝,本高麗人也。父舍雞,初從河西軍,累勞至四鎮十將、諸衛將軍。仙芝美姿容,善騎射,勇決驍果。少隨父至安西,以父有功授遊擊將軍。年二十餘即拜將軍,與父同班秩。事節度使田仁琬、蓋嘉運,未甚任用,後夫蒙靈察累拔擢之。開元末,為安西副都護、四鎮都知兵馬使。

小勃律国の王は吐蕃に招かれ、公主を娶らせられ、西北の二十余国は皆吐蕃に制せられ、貢献が通じなかった。後に節度使田仁琬・蓋嘉運及び霊察が累次討ったが、勝たず、玄宗は特に仙芝に勅して馬歩一万人を以て行営節度使とし、往きてこれを討たせた。当時歩軍は皆私馬を持ち、安西より行くこと十五日で撥換城に至り、また十余日で握瑟徳に至り、また十余日で疏勒に至り、また二十余日で葱嶺守捉に至り、また行くこと二十余日で播密川に至り、また二十余日で特勒満川に至った。即ち五識匿国である。仙芝は乃ち三軍に分けた。疏勒守捉使趙崇玭に三千騎を統率させて吐蕃の連雲堡に向かわせ、北谷より入らせ、撥換守捉使賈崇瓘を赤仏堂路より入らせ、仙芝は中使辺令誠と共に護密国より入り、七月十三日辰時に吐蕃連雲堡で会することを約した。堡中には兵千人あり、また城南十五里に山に因って柵を為し、兵八九千人有った。城下に婆勒川があり、水が漲って渡れなかった。仙芝は三牲を以て河を祭り、諸将に命じて兵馬を選び、人ごとに三日の乾糧を携えさせ、早く河辺に集まった。水は既に渡り難く、将士は皆狂気と思った。既に至ると、人は旗を濡らさず、馬は鞍覆いを濡らさず、既に渡って陣列を成した。仙芝は喜んで令誠に言った、「向こうで我らが半渡の時に賊が来れば、我らは敗れていたであろう。今既に渡って陣列を成したのは、天がこの賊を我に賜うたのである。」遂に山に登り挑撃し、辰より巳に至り、大いにこれを破った。夜に至って奔逐し、五千人を殺し、千人を生擒し、余は皆走散した。馬千余匹を得、軍資器械は数え切れなかった。

原文小勃律國王為吐蕃所招,妻以公主,西北二十餘國皆為吐蕃所制,貢獻不通。後節度使田仁琬、蓋嘉運並靈察累討之,不捷,玄宗特敕仙芝以馬步萬人為行營節度使往討之。時步軍皆有私馬,自安西行十五日至撥換城,又十餘日至握瑟德,又十餘日至疏勒,又二十餘日至蔥嶺守捉,又行二十餘日至播密川,又二十餘日至特勒滿川,即五識匿國也。仙芝乃分為三軍:使疏勒守捉使趙崇玭統三千騎趣吐蕃連雲堡,自北谷入;使撥換守捉使賈崇瓘自赤佛堂路入;仙芝與中使邊令誠自護密國入,約七月十三日辰時會於吐蕃連雲堡。堡中有兵千人,又城南十五里因山為柵,有兵八九千人。城下有婆勒川,水漲不可渡。仙芝以三牲祭河,命諸將選兵馬,人賫三日幹糧,早集河次。水既難渡,將士皆以為狂。既至,人不濕旗,馬不濕韉,已濟而成列矣。仙芝喜謂令誠曰:「向吾半渡賊來,吾屬敗矣,今既濟成列,是天以此賊賜我也。」遂登山挑擊,從辰至巳,大破之。至夜奔逐,殺五千人,生擒千人,餘並走散。得馬千餘匹,軍資器械不可勝數。

玄宗は術士韓履冰を遣わして日を見させたが、懼れて行きたがらず、辺令誠もまた懼れた。仙芝は令誠らに羸病尪弱の三千余人を留めてその城を守らせ、仙芝は遂に進んだ。三日で坦駒嶺に至り、直下に峭峻四十余里、仙芝はこれを推し量って言った、「阿弩越の胡が速やかに迎えれば、即ち是好心である。」また兵士が下りないことを恐れ、乃ち先に二十余騎に命じて詐りに阿弩越城の胡服を着て嶺に上り来迎えさせた。既に坦駒嶺に至ると、兵士は果たして下りようとせず、言った、「大使は我らを何処へ行かせようとするのか。」言い終わらぬうちに、その先に遣わした二十人が来迎え、言った、「阿弩越城の胡は皆好心で奉迎し、娑夷河の藤橋は既に切り払った。」仙芝は陽に喜んで号令し、兵士は尽く下った。娑夷河は即ち古の弱水であり、草芥毛髪をも浮かべられない。嶺を下ること三日、越胡は果たして来迎した。明日、阿弩越城に至り、当日に将軍席元慶・賀婁余潤に先んじて橋路を修めさせた。仙芝は明日進軍し、また元慶に一千騎を以て先に小勃律王に謂わしめた、「汝の城を取らず、また汝の橋を切らず、只汝の路を借りて通り、大勃律に向かうだけである。」城中には首領五六人あり、皆赤心を以て吐蕃に与していた。仙芝は先に元慶と約して云った、「軍が到れば、首領百姓は必ず山谷に走り入るであろう。呼びかけて取り、勅命を以て彩物等を賜う。首領が至れば、斉しくこれを縛って我を待て。」元慶が既に至ると、一に仙芝の教えた通り、諸首領を縛った。王及び公主は石窟に走り入り、捕えることができなかった。仙芝が至り、吐蕃に与する者五六人を斬った。急ぎ元慶に藤橋を切らせた。勃律までなお六十里あり、暮れに及んで、やっと切り終わった。吐蕃の兵馬が大いに至ったが、既に及ばなかった。藤橋の幅は一箭道、これを修めるのに一年を要して成った。勃律は先に吐蕃に詐られて路を借り、遂にこの橋を成した。ここに至り、仙芝は徐に自ら招諭して勃律及び公主を出降させ、併せてその国を平らげた。

原文玄宗使術士韓履冰往視日,懼不欲行,邊令誠亦懼。仙芝留令誠等以羸病尪弱三千餘人守其城,仙芝遂進。三日,至坦駒嶺,直下峭峻四十餘里,仙芝料之曰:「阿弩越胡若速迎,即是好心。」又恐兵士不下,乃先令二十餘騎詐作阿弩越城胡服上嶺來迎。既至坦駒嶺,兵士果不肯下,云:「大使將我欲何處去?」言未畢,其先使二十人來迎,云:「阿弩越城胡並好心奉迎,娑夷河藤橋已斫訖。」仙芝陽喜以號令,兵士盡下。娑夷河,即古之弱水也,不勝草芥毛發。下嶺三日,越胡果來迎。明日,至阿弩越城,當日令將軍席元慶、賀婁餘潤先修橋路。仙芝明日進軍,又令元慶以一千騎先謂小勃律王曰:「不取汝城,亦不斫汝橋,但借汝路過,向大勃律去。」城中有首領五六人,皆赤心為吐蕃。仙芝先約元慶云:「軍到,首領百姓必走入山谷,招呼取以敕命賜彩物等,首領至,齊縛之以待我。」元慶既至,一如仙芝之所教,縛諸首領。王及公主走入石窟,取不可得。仙芝至,斬其為吐蕃者五六人。急令元慶斫藤橋,去勃律猶六十里,及暮,才斫了,吐蕃兵馬大至,已無及矣。藤橋闊一箭道,修之一年方成。勃律先為吐蕃所詐借路,遂成此橋。至是,仙芝徐自招諭勃律及公主出降,並平其國。

天宝六載八月、仙芝は勃律王及び公主を虜らえて赤仏堂路より班師した。九月、また婆勒川連雲堡に至り、辺令誠らと相見えた。その月の末、播密川に還り、劉単に草させて告捷書を作り、中使判官王廷芳を遣わして告捷した。仙芝の軍が河西に還ると、夫蒙霊察は全く人を遣わして迎労せず、仙芝を罵って言った、「狗の腸を食らう高麗奴!狗の糞を食らう高麗奴!于闐の使者は誰が汝に奏上して得させたのか。」仙芝曰く、「中丞です。」「焉耆鎮守使は誰の辺で得たのか。」曰く、「中丞です。」「安西副都護は誰の辺で得たのか。」曰く、「中丞です。」「安西都知兵馬使は誰の辺で得たのか。」曰く、「中丞です。」霊察曰く、「これらは皆私が奏上したものである。どうして私の処分を待たずに勝手に捷書を奏上するのか!この高麗奴のこの罪に拠れば、斬刑に当たるが、只新たに大功を立てた縁故で、処置したくない。」また劉単に謂って言った、「聞くところでは汝は捷書を作ることができるという。」単は恐懼して罪を請うた。令誠は具にその状を奏上して言った、「仙芝は奇功を立てたのに、今や死を憂えることになろう。」その年六月、制して仙芝に鴻臚卿・摂御史中丞を授け、夫蒙霊察に代わって四鎮節度使とし、霊察を征して入朝させた。霊察は大いに懼れ、仙芝は毎日これに会い、趨走すること従前の如く、霊察はますます自ら安からず。将軍程千里は当時副都護であり、大将軍畢思琛は霊察の押衙であり、行官王滔・康懐順・陳奉忠らは、嘗て仙芝を霊察に構えて讒した。仙芝が既に節度の事を領すると、程千里に謂って言った、「公は面は男児の如く、心は婦人の如し、何ぞや。」また思琛に謂って言った、「この胡が敢えて来るのか!我が城東の一千石種子荘を汝が取り去ったことを、憶えているか。」対して曰く、「これは中丞が思琛の辛苦を知り見て乞い与えられたものです。」仙芝曰く、「我はその時汝が威福を振るうことを懼れたのであって、豈に汝を憐れんで与えたものか!我は言わないつもりだったが、汝が憂いを懐くことを恐れ、言ってしまえば事は無い。」また王滔らを呼び至らせ、捽り下して笞打たんとし、良久くして皆釈した。これにより軍情は懼れなかった。

原文天寶六載八月,仙芝虜勃律王及公主趣赤佛堂路班師。九月,復至婆勒川連雲堡,與邊令誠等相見。其月末,還播密川,令劉單草告捷書,遣中使判官王廷芳告捷。仙芝軍還至河西,夫蒙靈察都不使人迎勞,罵仙芝曰:「啖狗腸高麗奴!啖狗屎高麗奴!於闐使誰與汝奏得?」仙芝曰:「中丞。」「焉耆鎮守使誰邊得?」曰:「中丞。」「安西副都護使誰邊得?」曰:「中丞。」「安西都知兵馬使誰邊得?」曰:「中丞。」靈察曰:「此既皆我所奏,安得不待我處分懸奏捷書!據高麗奴此罪,合當斬,但緣新立大功,不欲處置。」又謂劉單曰:「聞爾能作捷書。」單恐懼請罪。令誠具奏其狀曰:「仙芝立奇功,今將憂死。」其年六月,制授仙芝鴻臚卿、攝御史中丞,代夫蒙靈察為四鎮節度使,征靈察入朝。靈察大懼,仙芝每日見之,趨走如故,靈察益不自安。將軍程千里時為副都護,大將軍畢思琛為靈察押衙,行官王滔、康懷順、陳奉忠等,嘗構譖仙芝於靈察。仙芝既領節度事,謂程千里曰:「公面似男兒,心如婦人,何也?」又謂思琛曰:「此胡敢來!我城東一千石種子莊被汝將去,憶之乎?」對曰:「此是中丞知思琛辛苦見乞。」仙芝曰:「吾此時懼汝作威福,豈是憐汝與之!我欲不言,恐汝懷憂,言了無事矣。」又呼王滔等至,捽下將笞,良久皆釋之,由是軍情不懼。

八載、入朝し、特進を加えられ、左金吾衛大将軍同正員を兼ね、仍って一子に五品官を与えられた。九載、兵を将いて石国を討ち、これを平らげ、その国王を獲て帰った。仙芝は性貪にして、石国より大塊の瑟瑟十余石・真金五六駱駝・名馬宝玉を獲た。初め、舍雞は仙芝を懦緩と思い、その自存できないことを恐れたが、ここに至って功を立て、家財巨万となり、頗る能く散施し、人の求める所あれば、言うこと応えざるはなかった。その載、入朝し、開府儀同三司に拝され、尋いで武威太守・河西節度使を除かれ、安思順に代わった。思順は群胡に諷して耳を切り面を捴って請留させ、監察御史裴周南がこれを奏した。制して復た思順を留め、仙芝を右羽林大将軍とした。十四載、密雲郡公に封ぜられた。

原文八載,入朝,加特進,兼左金吾衛大將軍同正員,仍與一子五品官。九載,將兵討石國,平之,獲其國王以歸。仙芝性貪,獲石國大塊瑟瑟十餘石、真金五六馲駝、名馬寶玉稱是。初,舍雞以仙芝為懦緩,恐其不能自存,至是立功,家財鉅萬,頗能散施,人有所求,言無不應。其載,入朝,拜開府儀同三司,尋除武威太守、河西節度使,代安思順。思順諷群胡割耳捴面請留,監察御史裴周南奏之,制復留思順,以仙芝為右羽林大將軍。十四載,封密雲郡公。

十一月、安禄山が范陽に拠って叛く。この日、京兆牧・栄王琬を討賊元帥とし、仙芝を副将とする。仙芝に命じて飛騎・彍騎及び朔方・河西・隴右の応赴京兵馬を率い、更に関輔の五万人を召募し、封常清に続いて潼関を出て進軍討伐させ、なお仙芝を御史大夫を兼ねさせる。十二月、軍を発し、玄宗は望春亭に臨んで慰労してこれを送り、なお監門将軍辺令誠に命じてその軍を監させ、陝州に駐屯させる。この月十一日、封常清が汜水で兵を敗る。十三日、禄山が東京を陥落させ、常清は余衆を率いて陝州に奔り、仙芝に謂う「累日血戦すれども、賊の鋒は当たるべからず。且つ潼関に兵無し、若し狂寇奔突すれば、則ち京師危うし。宜しくこの守りを棄て、急ぎ潼関を保つべし」と。常清・仙芝は乃ち現兵を率いて太原倉の銭絹を取り、将士に分け与え、余は皆これを焚く。俄にして賊騎継ぎ至り、諸軍惶駭し、甲を棄てて走り、復た隊伍無し。仙芝関に至り、守具を繕修し、又索承光に命じて善和戍を守らせる。賊騎関に至るも、既に備え有り、攻むること能わずして去る、これ仙芝の力なり。

原文十一月,安祿山據范陽叛。是日,以京兆牧、榮王琬為討賊元帥,仙芝為副。命仙芝領飛騎、彍騎及朔方、河西、隴右應赴京兵馬,並召募關輔五萬人,繼封常清出潼關進討,仍以仙芝兼御史大夫。十二月,師發,玄宗禦望春亭慰勞遣之,仍令監門將軍邊令誠監其軍,屯於陜州。是月十一日,封常清兵敗於汜水。十三日,祿山陷東京,常清以餘眾奔陜州,謂仙芝曰:「累日血戰,賊鋒不可當。且潼關無兵,若狂寇奔突,則京師危矣。宜棄此守,急保潼關。」常清、仙芝乃率見兵取太原倉錢絹,分給將士,餘皆焚之。俄而賊騎繼至,諸軍惶駭,棄甲而走,無復隊伍。仙芝至關,繕修守具,又令索承光守善和戍。賊騎至關,已有備矣,不能攻而去,仙芝之力也。

封常清

原文封常清

封常清は蒲州猗氏の人なり。外祖父罪を犯して安西に流され効力し、胡城南門を守り、頗る書を読み、毎に常清を城門楼の上に坐らせ、その読書を教え、多く歴覧す。外祖父死し、常清孤貧、年三十余、夫蒙霊察が四鎮節度使となるに属し、将軍高仙芝が都知兵馬使となり、頗る材能有り、毎に出軍するに、傔従三十余人を奏し、衣服鮮明なり。常清慨然として発憤し、牒を投じて一傔に預からんことを請う。常清細痩、目類脚短くして跛び、仙芝その貌寝たるを見て、納れず。明日又牒を投ず、仙芝これに謂う「吾が奏傔は既に足れり、何ぞ煩わしく復た来る」と。常清怒り、倨りて仙芝に謂う「常清公の高義を慕い、鞭轡に事えんことを願う、媒無くして前にする所以は、何ぞ拒むことの深きや。公若し方円を以て人を取らば、則ち士大夫の望む所なり。若し貌を以て人を取らば、子羽を失うを恐る」と。仙芝猶未だ納れず。常清爾より仙芝の出入りを候い、晨夕その門を離れず、凡そ数十日、仙芝已むを得ず、傔と為すを補う。

原文封常清,蒲州猗氏人也。外祖犯罪流安西效力,守胡城南門,頗讀書,每坐常清於城門樓上,教其讀書,多所歷覽。外祖死,常清孤貧,年三十餘,屬夫蒙靈察為四鎮節度使,將軍高仙芝為都知兵馬使,頗有材能,每出軍,奏傔從三十餘人,衣服鮮明。常清慨然發憤,投牒請預一傔。常清細瘦目類腳短而跛,仙芝見其貌寢,不納。明日又投牒,仙芝謂曰:「吾奏傔已足,何煩復來!」常清怒,倨謂仙芝曰:「常清慕公高義,願事鞭轡,所以無媒而前,何見拒之深乎?公若方圓取人,則士大夫所望;若以貌取人,恐失之子羽矣!」仙芝猶未納。常清自爾候仙芝出入,晨夕不離其門,凡數十日,仙芝不得已,補為傔。

開元末、達奚部落の背叛するに会い、黒山より北に向かい、西に碎葉に趣く、玄宗は霊察に勅して邀撃せしむ。霊察は仙芝を使わして二千騎を以て副城より北に至り綾嶺の下に至り、賊に遇いこれを撃たしむ。達奚行遠く、人馬皆疲れ、斬殺略尽す。常清は幕中に於いて潜かに捷書を作り、具に次舎井泉、賊に遇う形勢、克獲の謀略を言い、事頗る精審なり。仙芝の言わんと欲する所、周悉せざる無く、仙芝大いに駭異す。仙芝軍回り、霊察賞労す、仙芝は奴襪を去り帯刀して見ゆ。判官劉眺・独孤峻等逆らいてこれを問うて曰く「前者の捷書は誰が之を作れるか。副大使の幕下に何ぞかくの如き人有らん」と。仙芝曰く「即ち仙芝の傔人封常清なり」と。眺等仙芝に揖し、常清を命じて進み坐らせ、これと語るに旧き相識の如く、眾人方にこれを異とす。達奚を破るの功を以て、疊州地下戍主を授け、便ち判官と為す。累ねて軍功を以て鎮将・果毅・折衝を授く。

原文開元末,會達奚部落背叛,自黑山北向,西趣碎葉,玄宗敕靈察邀擊之。靈察使仙芝以二千騎自副城向北至綾嶺下,遇賊擊之。達奚行遠,人馬皆疲,斬殺略盡。常清於幕中潛作捷書,具言次舍井泉,遇賊形勢,克獲謀略,事頗精審。仙芝所欲言,無不周悉,仙芝大駭異之。仙芝軍回,靈察賞勞,仙芝去奴襪帶刀見。判官劉眺、獨孤峻等逆問之曰:「前者捷書,誰之所作?副大使幕下何得有如此人」仙芝曰:「即仙芝傔人封常清也。」眺等揖仙芝,命常清進坐,與語如舊相識,眾人方異之。以破達奚功,授疊州地下戍主,便以為判官。累以軍功授鎮將、果毅、折沖。

天宝六年、仙芝に従い小勃律を破る。十二月、仙芝夫蒙霊察に代わり安西節度使と為り、便ち常清を慶王府録事参軍と為すを奏し、節度判官を充て、紫金魚袋を賜う。尋いで朝散大夫を加え、専ら四鎮の倉庫・屯田・甲仗・支度・営田の事を知る。仙芝毎に出征討するに、常に常清に命じて留後事を知らしむ。常清才学有り、果決なり。留後を知る時、仙芝の乳母子鄭徳詮既に郎将と為る。徳詮の母宅内に在り、仙芝これを兄弟の如く視し、家事皆これに知らしむ、威望三軍を動かす。常清出でて回るや、諸将皆前へ引き、徳詮常清がその門を出づるを見、素よりこれを易しとし、後より走馬して常清を突きて去る。常清使院に至り、左右に命じて密かに引き至らしむ。厅は節度使の宅院に連なり、凡そ数重の門を経る。徳詮既に過ぎし後、命じて随いてこれを閉ざす。徳詮至り、常清席を離れてこれに謂う「常清は細微より起り、中丞の兵馬使傔に預かる。中丞再び納れず、郎将豈知らざるや。今中丞過って聴き、常清を留後使と為す。郎将何ぞ礼無く、中使に対し相凌ぐを得ん」と。因りてこれを叱して曰く「郎将は須らく暫く死して以て軍容を肅すべし」と。因りて勒回を命じ、杖六十、面地に仆し、曳き出だす。仙芝の妻及び乳母門外に於いて号哭してこれを救うも、得ず、因りてその状を仙芝に上ぐ。仙芝これを見て、驚きて曰く「既に死せり」と。及び常清を見るに、遂に一言無く、常清もまたこれを謝せず。諸大将罪有る者、二人を撃殺す、ここに於いて軍中股忄栗す。

原文天寶六年,從仙芝破小勃律。十二月,仙芝代夫蒙靈察為安西節度使,便奏常清為慶王府錄事參軍,充節度判官,賜紫金魚袋。尋加朝散大夫,專知四鎮倉庫、屯田、甲仗、支度、營田事。仙芝每出征討,常令常清知留後事。常清有才學,果決。知留後時,仙芝乳母子鄭德詮已為郎將,德銓母在宅內,仙芝視之如兄弟,家事皆令知之,威望動三軍。常清出回,諸將皆引前,德詮見常清出其門,素易之,自後走馬突常清而去。常清至使院,命左右密引至,厅連節度使宅院,凡經數重門,德詮既過,命隨後閉之。德詮至,常清離席謂之曰:「常清起自細微,預中丞兵馬使傔,中丞再不納,郎將豈不知乎?今中丞過聽,以常清為留後使,郎將何得無禮,對中使相淩!」因叱之曰:「郎將須暫死以肅軍容。」因令勒回,杖六十,面仆地,曳出。仙芝妻及乳母於門外號哭救之,不得,因以其狀上仙芝。仙芝覽之,驚曰:「已死矣!」及見常清,遂無一言,常清亦不之謝。諸大將有罪者,擊殺二人,於是軍中股忄栗。

十載、仙芝河西節度使に改まり、常清を判官と為すを奏す。王正見安西節度と為り、常清を四鎮支度営田副使・行軍司馬と為すを奏す。十一載、正見死し、乃ち常清を安西副大都護と為し、御史中丞を摂し、節を持ち安西四鎮節度・経略・支度・営田副大使を充て、節度事を知る。十三載朝に入り、御史大夫を摂し、仍ち一子に五品官を与え、第一区を賜い、亡父母皆封爵を贈らる。俄にして北庭都護程千里右金吾大将軍に入り為り、仍ち常清に命じて権りに北庭都護を知らしめ、節を持ち伊西節度等使を充てしむ。常清性勤倹、毎に出征するや或いは駅に乗るも、私馬一両匹を過ぎず、賞罰厳明なり。

原文十載,仙芝改西節度使,奏常清為判官。王正見為安西節度,奏常清為四鎮支度營田副使、行軍司馬。十一載,正見死,乃以常清為安西副大都護,攝御史中丞,持節充安西四鎮節度、經略、支度、營田副大使,知節度事。十三載入朝,攝御史大夫,仍與一子五品官,賜第一區,亡父母皆贈封爵。俄而北庭都護程千里入為右金吾大將軍,仍令常清權知北庭都護,持節充伊西節度等使。常清性勤儉,每出征或乘驛,私馬不過一兩匹,賞罰嚴明。

十四載、朝に入り、十一月、華清宮に於いて玄宗に謁す。時に禄山既に叛き、玄宗兇胡の恩に負うの状を言い、何方にか誅討すべきかと。常清奏して曰く「禄山兇徒十万を領し、径に中原を犯す。太平久しく、人は戦を知らず。然れども事に逆順有り、勢いに奇変有り。臣請う走馬して東京に赴き、府庫を開き、驍勇を募り、馬箠を挑ぎて河を渡り、日を計って逆胡の首を闕下に懸けんことを」と。玄宗方に憂うるに、その言を壮とす。翌日、常清を范陽節度と為し、俾く兵を募りて東討せしむ。その日、常清駅に乗り東京に赴きて召募し、旬日に兵六万を得、皆傭保市井の流れなり。乃ち河陽橋を斫断し、東京に於いて固守の備えを為す。十二月、禄山河を渡り、陳留を陥し、罌子谷に入り、兇威転た熾んに、先鋒葵園に至る。常清驍騎と柘羯を使わして逆戦せしめ、賊数十百人を殺す。賊の大軍継ぎ至り、常清上東門に退き入り、又戦い利あらず、賊四城門に鼓噪して入り、人吏を殺掠す。常清又都亭驛に於いて戦い、勝たず。宣仁門を退き守り、又敗る。乃ち提象門より入り、樹を倒して以てこれを礙る。谷水に至り、西に奔りて陝郡に至り、高仙芝に遇い、具に賊勢を以てこれに告ぐ。賊と争鋒するは難しと恐れ、仙芝遂に退きて潼関を守る。

原文十四載,入朝,十一月,謁玄宗於華清宮。時祿山已叛,玄宗言兇胡負恩之狀,何方誅討?常清奏曰:「祿山領兇徒十萬,徑犯中原,太平斯久,人不知戰。然事有逆順,勢有奇變,臣請走馬赴東京,開府庫,募驍勇,挑馬箠渡河,計日取逆胡之首懸於闕下。」玄宗方憂,壯其言。翌日,以常清為范陽節度,俾募兵東討。其日,常清乘驛赴東京召募,旬日得兵六萬,皆傭保市井之流。乃斫斷河陽橋,於東京為固守之備。十二月,祿山渡河,陷陳留,入罌子谷,兇威轉熾,先鋒至葵園。常清使驍騎與柘羯逆戰,殺賊數十百人。賊大軍繼至,常清退入上東門,又戰不利,賊鼓噪於四城門入,殺掠人吏。常清又戰於都亭驛,不勝。退守宣仁門,又敗。乃從提象門入,倒樹以礙之。至谷水,西奔至陜郡,遇高仙芝,具以賊勢告之。恐賊難與爭鋒,仙芝遂退守潼關。

玄宗常清の敗るるを聞き、その官爵を削り、白衣を以て仙芝の軍に効力せしむ。仙芝常清に命じて左右廂の諸軍を監巡せしむ。常清皁衣を衣て以て事に従う。監軍辺令誠毎事これを幹す。仙芝多く従わず。令誠入りて事を奏し、具に仙芝・常清の逗撓奔敗の状を言う。玄宗怒り、令誠を使わして勅を賫し軍に至り併せてこれを誅せしむ。

原文玄宗聞常清敗,削其官爵,令白衣於仙芝軍效力。仙芝令常清監巡左右廂諸軍,常清衣皁衣以從事。監軍邊令誠每事幹之。仙芝多不從。令誠入奏事,具言仙芝、常清逗撓奔敗之狀。玄宗怒,遣令誠賫敕至軍並誅之。

令誠は潼関に至り、常清を駅南西街に引き出し、勅を宣して示した。常清は言う、「常清が死ななかったのは、国家の旌麾を汚すに忍びず、賊の手に受戮することを避け、逆賊を討つ効果がなく、死して初めて甘んずるからである」と。初め、常清が兵敗して関に入り、闕庭に馳せ赴かんとしたが、渭南に至った時、勅令があり潼関に戻るよう命じられたので、自ら表を草して罪を待った。この日刑に臨み、令誠に託してこれを上奏させた。その表は次のように言う。

原文令誠至潼關,引常清於驛南西街,宣敕示之。常清曰:「常清所以不死者,不忍汙國家旌麾,受戮賊手,討逆無效,死乃甘心。」初,常清兵敗入關,欲馳赴闕庭,至渭南,有敕令卻赴潼關,自草表待罪。是日臨刑,托令誠上之。其表曰:

中使駱奉仙が至り、口勅を奉宣し、臣の万死の罪を恕し、臣の一朝の効を収め、臣をして陝州に戻り、高仙芝の行営に従わしめた。斧を負う縲囚が、忽ち縛を解かれ、敗軍の将が、更に修めることを許された。臣常清は誠に歓び誠に喜び、頓首頓首する。臣は城が陥ちて以来、前後三度使を遣わして表を奉り、赤心を具述したが、竟に引対を蒙らなかった。臣が此度来たのは、苟くも生きんことを求めるのではなく、実に社稷の計を陳べ、虎狼の謀を破らんと欲するためである。闕庭に拝首し、陛下に心を吐き、逆胡の兵勢を論じ、討捍の別謀を陳べ、万死の恩に酬い、一生の寵に報いんことを冀った。豈図らんや、長安ちょうあんは日遠く、謁見する由なく、函谷関は遥かにして、陳情する暇なし。臣は『春秋』を読み、狼瞫が未だ死する所を得ずと称するのを見たが、臣は今得たのである。

原文中使駱奉仙至,奉宣口敕,恕臣萬死之罪,收臣一朝之效,令臣卻赴陜州,隨高仙芝行營,。負斧縲囚,忽焉解縛,敗軍之將,更許增修。臣常清誠歡誠喜,頓首頓首。臣自城陷已來,前後三度遣使奉表,具述赤心,竟不蒙引對。臣之此來,非求茍活,實欲陳社稷之計,破虎狼之謀。冀拜首闕庭,吐心陛下,論逆胡之兵勢,陳討捍之別謀。酬萬死之恩,以報一生之寵。豈料長安日遠,謁見無由;函谷關遙,陳情不暇!臣讀《春秋》,見狼瞫稱未獲死所,臣今獲矣。

昨者羯胡と接戦し、今月七日より交兵し、十三日に至るまで止まなかった。臣の将いる兵は、皆烏合の徒であり、素より訓習せず、周南の市人の衆を率い、漁陽の突騎の師に当たり、尚猶敵を殺して路を塞ぎ、血が野に満ちた。臣は刃下に挺身し、軍前で節に死せんとしたが、逆胡の威を長じ、王師の勢を挫くことを恐れた。是を以て馳せて日に向かい、命を天に帰さんとした。一期には陛下が臣を都市の下に斬り、以て諸将を誡めんこと、二期には陛下が臣に逆賊の勢を問い、以て諸軍を誡めんこと、三期には陛下が臣が死を惜しまぬ徒なることを知り、臣に竭露することを許さんことである。臣は今将に死して表を抗す。陛下或いは臣が失律の後、誑妄を以て辞と為すか、陛下或いは臣が忠を尽くさんと欲することを、肝胆を以て察せられんか。臣が死した後、陛下が此の賊を軽んぜず、臣の言を忘れざらんことを望む。然らば則ち社稷の復安を冀い、逆胡の敗覆を望む。臣の願う所は畢った。天を仰いで鴆を飲み、日に向かって封章す。即ち屍諫の臣と為り、死して聖朝の鬼と作らん。若し歿して知有らば、必ず草を結んで軍前にし、風を回して陣上にし、王師の旗鼓を引き、寇賊の戈鋋を平らげん。生死を以て恩に酬い、感激に任せず。臣常清は聖代を永辞する悲恋の至りに任せず。

原文昨者與羯胡接戰,自今月七日交兵,至於十三日不已。臣所將之兵,皆是烏合之徒,素未訓習。率周南市人之眾,當漁陽突騎之師,尚猶殺敵塞路,血流滿野。臣欲挺身刃下,死節軍前,恐長逆胡之威,以挫王師之勢。是以馳禦就日,將命歸天。一期陛下斬臣於都市之下,以誡諸將;二期陛下問臣以逆賊之勢,將誡諸軍;三期陛下知臣非惜死之徒,許臣竭露。臣今將死抗表,陛下或以臣失律之後,誑妄為辭;陛下或以臣欲盡所忠,肝膽見察。臣死之後,望陛下不輕此賊,無忘臣言,則冀社稷復安,逆胡敗覆,臣之所願畢矣。仰天飲鴆,向日封章,即為屍諫之臣,死作聖朝之鬼。若使歿而有知,必結草軍前。回風陣上,引王師之旗鼓,平寇賊之戈鋋。生死酬恩,不任感激,臣常清無任永辭聖代悲戀之至。

常清が既に刑せられると、その屍を蘧蒢の上に陳べた。仙芝が厅に帰ると、令誠は陌刀手百余人を索めて随い従い、言う、「大夫にも恩命有り」と。仙芝は遽かに下り、遂に常清の刑せられた所に至った。仙芝は言う、「我が退いたのは罪である、死は辞さない。然しながら我を以て兵糧及び賜物等を減截したと為すは、則ち我を誣いるのである」と。令誠に謂って言う、「上は天、下は地、兵士皆在り、足下豈知らざるや」と。その召募兵は外に排列し、素より仙芝を愛し、仙芝は呼んで之に謂って言う、「我は京中で児郎輩を召し、少許の物を得たが、装束も未だ足らず、方に君輩と賊を破り、然る後に高官重賞を取らんとした。賊勢が憑陵し、軍を引いて此に至ったのは、亦潼関を固守せんが故である。我若し実に此れ有らば、君輩は即ち実と言え。我若し実に之無くば、君輩は当に枉と言うべし」と。兵は斉に呼んで「枉」と言い、その声は地を殷にした。仙芝は又常清の屍を目し、之に謂って言う、「封二、子は微より著に至り、我は則ち子を引抜して我が判官と為し、俄に又我に代わって節度使と為り、今日又子と此に同死するは、豈命なるか」と。遂に之を斬った。

原文常清既刑,陳其屍於蘧蒢上。仙芝歸至厅,令誠索陌刀手百餘人隨而從之,曰:「大夫亦有恩命。」仙芝遽下,遂至常清所刑處。仙芝曰:「我退,罪也,死不辭;然以我為減截兵糧及賜物等,則誣我也。」謂令誠曰:「上是天,下是地,兵士皆在,足下豈不知乎!」其召募兵排列在外,素愛仙芝,仙芝呼謂之曰:「我於京中召兒郎輩,雖得少許物,裝束亦未能足,方與君輩破賊,然後取高官重賞。不謂賊勢憑陵,引軍至此,亦欲固守潼關故也。我若實有此,君輩即言實;我若實無之,君輩當言枉。」兵齊呼曰:「枉」,其聲殷地。仙芝又目常清之屍,謂之曰:「封二,子從微至著,我則引拔子為我判官,俄又代我為節度使,今日又與子同死於此,豈命也夫!」遂斬之。

哥舒翰

原文哥舒翰

哥舒翰は、突騎施の首領たる哥舒部落の裔である。蕃人は多く部落を以て姓と称し、因って以て氏と為す。祖父の沮は左清道率。父の道元は安西副都護、世々安西に居す。翰は家財に富み、倜儻として任侠を好み、然諾を重んじ、樗蒲と酒を恣にした。四十歳の時、父の喪に遭い、三年京師に客居し、長安尉に礼せられず、慨然として発憤して節を折り、剣を仗して河西に之いた。初め節度使王倕に事え、倕が新城を攻める時、翰に経略させると、三軍震懼せざるは無かった。後に節度使王忠嗣が衙将に補した。翰は『左氏春秋伝』及び『漢書かんじょ』を読むを好み、財を疏んじ気を重んじ、士多く之に帰した。忠嗣は大斗軍副使と為し、嘗て翰をして新城に於いて吐蕃を討たしめた。同列で副と為す者有り、翰の礼が倨なるを見て、用いられず、翰は怒り、之を撾殺したので、軍中股が怵した。左衛郎将に遷る。後に吐蕃が辺を寇すと、翰は苦抜海に於いて之を拒ぎ、その衆は三行し、山より差池して下る。翰は半段槍を持ってその鋒に当たり之を撃つと、三行皆敗れ、摧靡せざるは無く、是より知名となった。

原文哥舒翰,突騎施首領哥舒部落之裔也。蕃人多以部落稱姓,因以為氏。祖沮,左清道率。父道元,安西副都護,世居安西。翰家富於財,倜儻任俠,好然諾,縱蒲酒。年四十,遭父喪,三年客居京師,為長安尉不禮,慨然發憤折節,仗劍之河西。初事節度使王倕,倕攻新城,使翰經略,三軍無不震懾。後節度使王忠嗣補為衙將。翰好讀《左氏春秋傳》及《漢書》,疏財重氣,士多歸之。忠嗣以為大鬥軍副使,嘗使翰討吐蕃於新城,有同列為副者,見翰禮倨,不為用,翰怒,撾殺之,軍中股怵。遷左衛郎將。後吐蕃寇邊,翰拒之於苦拔海,其眾三行,從山差池而下,翰持半段槍當其鋒擊之,三行皆敗,無不摧靡,由是知名。

天宝六載、右武衛員外将軍に擢授され、隴西節度副使・都知関西兵馬使・河源軍使を充てた。先に、吐蕃は毎に麦熟の時至れば、即ち部衆を率いて積石軍に至り之を獲取し、共に「吐蕃麦庄」と呼び、前後之を拒ぐ者無かった。是に至り、翰は王難得・楊景暉等をして潜かに兵を引いて積石軍に至らしめ、伏を設けて之を待たしめた。吐蕃は五千騎を以て至り、翰は城中に於いて驍勇を率いて馳撃し、之を殺して略尽くし、余は或いは挺走するも、伏兵邀撃し、匹馬還らざらしめた。翰に家奴有り、左軍と曰い、年十五六、亦膂力有り。翰は槍を使うに善く、賊を追いて之に及ぶと、槍を以て其の肩に搭げて之を喝す。賊驚いて顧みるに、翰従いて其の喉を刺すと、皆剔げて三五尺高くして墮ち、死せざる者無し。左車は輒ち下馬して首を斬り、率いて以て常と為した。

原文天寶六載,擢授右武衛員外將軍,充隴西節度副使、都知關西兵馬使、河源軍使。先是,吐蕃每至麥熟時,即率部眾至積石軍獲取之,共呼為「吐蕃麥莊」,前後無敢拒之者。至是,翰使王難得、楊景暉等潛引兵至積石軍,設伏以待之。吐蕃以五千騎至,翰於城中率驍勇馳擊,殺之略盡,餘或挺走,伏兵邀擊,匹馬不還。翰有家奴曰左軍,年十五六,亦有膂力。翰善使槍,追賊及之,以槍搭其肩而喝之,賊驚顧,翰從而刺其喉,皆剔高三五尺而墮,無不死者。左車輒下馬斬首,率以為常。

其の冬、玄宗は華清宮に在り、王忠嗣が劾せられた。勅して翰を召し至らしめ、語って之を悦び、遂に鴻臚卿と為し、西平郡太守を兼ね、御史中丞を摂し、忠嗣に代わって隴右節度支度営田副大使と為し、節度事を知らしめた。仍って極言して忠嗣を救い、上は起って禁中に入ると、翰は叩頭して之に随いて前に進み、言詞慷慨、声涙俱に下り、帝感して之を寬め、忠嗣を漢陽太守に貶した。朝廷之を義として壮とした。

原文其冬,玄宗在華清宮,王忠嗣被劾。敕召翰至,與語悅之,遂以為鴻臚卿,兼西平郡太守,攝御史中丞,代忠嗣為隴右節度支度營田副大使,知節度事。仍極言救忠嗣,上起入禁中,翰叩頭隨之而前,言詞慷慨,聲淚俱下,帝感而寬之,貶忠嗣為漢陽太守,朝廷義而壯之。

明年、青海の上に神威軍を築くと、吐蕃至りて之を攻破した。又青海中の龍駒島に城を築くと、白龍現れたので、遂に応龍城と名付け、吐蕃は跡を屏して敢えて青海に近づかず。吐蕃は石堡城を保ち、路遠くして険しく、久しく抜けず。八載、朔方・河東の群牧十万衆を以て翰に委ねて総統させ、石堡城を攻めしめた。翰は麾下の将高秀巖・張守瑜をして進攻せしめ、旬日を経ずして之を抜いた。上其の功を録し、特進・鴻臚員外卿を拝し、一子に五品官を与え、物千匹・庄宅各一所を賜い、摂御史大夫を加えた。十一載、開府儀同三司を加えた。

原文明年,築神威軍於青海上,吐蕃至,攻破之;又築城於青海中龍駒島,有白龍見,遂名為應龍城,吐蕃屏跡不敢近青海。吐蕃保石堡城,路遠而險,久不拔。八載,以朔方、河東群牧十萬眾委翰總統攻石堡城。翰使麾下將高秀巖、張守瑜進攻,不旬日而拔之。上錄其功,拜特進、鴻臚員外卿,與一子五品官,賜物千匹、莊宅各一所,加攝御史大夫。十一載,加開府儀同三司。

哥舒翰は平素より安禄山・安思順と不仲であり、上(玄宗)は毎度和解させて兄弟の契りを結ばせた。その冬、禄山・思順・翰が共に来朝すると、上は内侍高力士及び中貴人をして京城東の駙馬崔惠童の池亭にて宴会をさせた。翰の母尉遅氏は、于闐の族である。禄山は思順が翰を憎んでいるのを以て、かつてこれを恨んでいたが、この時ふと翰に言うには、「我が父は胡、母は突厥なり。公の父は突厥、母は胡なり。公と族類同じきに、何ぞ親しまざるや」と。翰これに応えて曰く、「古人雲う、野狐窟に向かいて嗥くは、不祥なりと。その本を忘るるを以てなり。敢えて心を尽くさざらんや」と。禄山はこれを胡を讒るものと思い、大いに怒り、翰を罵って曰く、「突厥敢えてかくの如くせんや」と。翰応えんとしたが、高力士が翰に目配せしたので、翰は遂に止めた。

原文翰素與祿山、思順不協,上每和解之為兄弟。其冬,祿山、思順、翰並來朝,上使內侍高力士及中貴人於京城東駙馬崔惠童池亭宴會。翰母尉遲氏,於闐之族也。祿山以思順惡翰,嘗銜之,至是忽謂翰曰:「我父是胡,母是突厥;公父是突厥,母是胡。與公族類同,何不相親乎?」翰應之曰:「古人雲,野狐向窟嗥,不祥,以其忘本也。敢不盡心焉!」祿山以為譏其胡也,大怒,罵翰曰:「突厥敢如此耶!」翰欲應之,高力士目翰,翰遂止。

十二載、涼國公に進封され、実封三百戸を食み、河西節度使を加えられ、まもなく西平郡王に封ぜられた。時に楊國忠は禄山と不和があり、頻りにその反状を奏上したので、厚く翰を賞して親しく結びつけようとした。十三載、太子太保に拝され、さらに実封三百戸を加えられ、また御史大夫を兼ねた。

原文十二載,進封涼國公,食實封三百戶,加河西節度使,尋封西平郡王。時楊國忠有隙於祿山,頻奏其反狀,故厚賞翰以親結之。十三載,拜太子太保,更加實封三百戶,又兼御史大夫。

翰は酒を好み、頗る声色に恣にした。土門軍に至り、浴室に入り、風疾にかかり、卒倒して久しくしてようやく蘇生した。そこで京に入り、家にて病を養った。

原文翰好飲酒,頗恣聲色。至土門軍,入浴室,遘風疾,絕倒良久乃蘇。因入京,廢疾於家。

安禄山の反するに及んで、上は封常清・高仙芝が敗北したのを以て、翰を召し入れ、皇太子先鋒兵馬元帥に拝し、田良丘を御史中丞とし、行軍司馬を充て、王思禮・鉗耳大福・李承光・蘇法鼎・管崇嗣及び蕃将の火拔帰仁・李武定・渾萼・契苾寧等を裨将とし、河隴・朔方の兵及び蕃兵と高仙芝の旧卒を合わせて二十万とし、潼関にて賊を防がせた。上は勤政楼に御してこれを労い送り、百官は郊外に出て餞別した。十五載、翰に尚書左僕射・同中書門下平章事を加えた。

原文及安祿山反,上以封常清、高仙芝喪敗,召翰入,拜為皇太子先鋒兵馬元帥,以田良丘為御史中丞,充行軍司馬,以王思禮、鉗耳大福、李承光、蘇法鼎、管崇嗣及蕃將火拔歸仁、李武定、渾萼、契苾寧等為裨將,河隴、朔方兵及蕃兵與高仙芝舊卒共二十萬,拒賊於潼關。上御勤政樓勞遣之,百僚出餞於郊。十五載,加翰尚書左僕射、同中書門下平章事。

翰が潼関に至ると、ある者が翰を勧めて曰く、「禄山は兵を阻み、楊國忠を誅するを名とす。公若し兵三万を留めて関を守らしめ、精鋭を悉くして回らせ國忠を誅せば、これ漢の七國を挫くの計なり。公以て如何」と。翰は心にこれを許したが、発しなかった。ある客がその謀を國忠に漏らしたので、國忠は大いに懼れ、奏上して曰く、「兵法に『安きを忘れず危うきを思う』とあり。今潼関の兵衆盛んなりと雖も、後殿無し。万一利あらずば、京師恐れなからんや。請う監牧の小児三千人を選び苑中に訓練せしめん」と。詔してこれに従い、遂に剣南軍将の李福・劉光庭を遣わして分統させた。また一万人を召募することを奏上し、灞上に屯させ、その腹心の杜乾運にこれを将わせた。翰は図られんことを慮り、乃ち上表して乾運の兵を潼関に隷属させることを請い、遂に乾運を召して潼関に赴き事を計らせ、因ってこれを斬った。ここより、翰は心自ら安からず。また平素より風疾があり、この時に至って頗る甚だしく、軍中の務めは再び躬親せず、政を行軍司馬田良丘に委ねた。良丘はまた敢えて専断せず、教令一ならず、頗る部伍無し。その将の王思禮・李承光はまた先後を争って和せず、人に闘志無し。

原文翰至潼關,或勸翰曰:「祿山阻兵,以誅楊國忠為名,公若留兵三萬守關,悉以精銳回誅國忠,此漢挫七國之計也,公以為何如?」翰心許之,未發。有客泄其謀於國忠,國忠大懼,及奏曰:「兵法『安不忘危』,今潼關兵眾雖盛,而無後殿,萬一不利,京師得無恐乎!請選監牧小兒三千人訓練於苑中。」詔從之,遂遣劍南軍將李福、劉光庭分統焉。又奏召募一萬人,屯於灞上,令其腹心杜乾運將之。翰慮為所圖,乃上表請乾運兵隸於潼關,遂召乾運赴潼關計事,因斬之。自是,翰心不自安。又素有風疾,至是頗甚,軍中之務,不復躬親,委政於行軍司馬田良丘。良丘復不敢專斷,教令不一,頗無部伍。其將王思禮、李承光又爭長不葉,人無鬥志。

先に、翰は数度奏上して、禄山は河朔を窃むと雖も人心を得ず、持重してこれを疲弊させることを請い、彼自ら離心すれば、これに因ってこれを翦滅すべく、兵を傷つけずしてこの寇を擒にすべしと。賊将の崔乾祐は陝郡にて鋒を潜め鋭を蓄えていたが、覘者が「賊は全く備え無し」と奏上したので、上はこれを然りとし、衆を悉くして速やかにこれを討たしめよと命じた。翰は奏上して曰く、「賊は既に始めて逆を為し、禄山は久しく兵を用いるに習い、必ずや肯て備え無からん。これは陰計なり。且つ賊兵遠来し、利は速戦に在り。今王師自らその地に戦い、利は堅守に在り、軽く出づるに利無し。若し軽く関を出でば、これその算に入るなり。乞う更に事勢を観察せん」と。楊國忠はその己を謀るを恐れ、屡々出兵を促すよう奏上した。上は久しく太平に処り、軍事に練れず、既に國忠に眩惑され、中使相継いて督責した。翰は已むを得ず、師を率いて関を出た。

原文先是,翰數奏祿山雖竊河朔,而不得人心,請持重以弊之,彼自離心,因而翦滅之,可不傷兵擒茲寇矣。賊將崔乾祐於陜郡潛鋒蓄銳,而覘者奏雲「賊殊無備」,上然之,命悉眾速討之。翰奏曰:「賊既始為AT逆,祿山久習用兵,必不肯無備,是陰計也。且賊兵遠來,利在速戰。今王師自戰其地,利在堅守,不利輕出;若輕出關,是入其算。乞更觀事勢。」楊國忠恐其謀己,屢奏使出兵。上久處太平,不練軍事,既為國忠眩惑,中使相繼督責。翰不得已,引師出關。

六月四日、霊宝県の西原に駐屯した。八日、賊と交戦し、官軍は南は険峭に迫り、北は黄河に臨んだ。崔乾祐は数千人を以て先んじて険要を占めた。翰及び良丘は船を浮かべて中流にて進退を観、乾祐の兵少なしと謂い、これを軽んじ、遂に将士を促して進むを令し、路を争って擁塞し、再び隊伍無し。午後、東風急なり。乾祐は草車数十乗を以て火を放ってこれを焚き、煙焰天に亘った。将士は面を掩い、目を開くを得ず、因って兇徒に乗ぜられ、王師自ら相排擠し、河に墜ちた。その後軍は前軍の陥敗するを見て、悉く潰え、河に填委し、死者数万人、号叫の声天地に振るい、器械を縛り、槍を楫として北岸に投じ、十に一二を存せず。軍既に敗れ、翰は数百騎と馳せて西に帰らんとしたが、火拔帰仁に捕らえられ賊に降った。禄山これに謂いて曰く、「汝常に我を軽んず、今日如何」と。翰懼れ、俯伏して称して曰く、「肉眼陛下を識らず、遂にここに至る。陛下は撥乱の主なり。今天下未だ平らかならず、李光弼は土門に在り、来填は河南に在り、魯炅は南陽に在り。但だ臣を留めよ。臣は尺書を以てこれを招かば、日に平らかならん」と。禄山大いに喜び、遂に偽って翰を司空しくうに署した。書を作りて光弼等を招かしむるに、諸将の報書は皆翰の死節せざるを譲った。禄山事諧わざるを知り、遂に翰を苑中に閉じ、潜かにこれを殺した。

原文六月四日,次於靈寶縣之西原。八日,與賊交戰,官軍南迫險峭,北臨黃河;崔乾祐以數千人先據險要。翰及良丘浮船中流以觀進退,謂乾祐兵少,輕之,遂促將士令進,爭路擁塞,無復隊伍。午後,東風急,乾祐以草車數十乘縱火焚之,煙焰亙天。將士掩面,開目不得,因為兇徒所乘,王師自相排擠,墜於河。其後者見前軍陷敗,悉潰,填委於河,死者數萬人,號叫之聲振天地,縛器械,以槍為楫,投北岸,十不存一二。軍既敗,翰與數百騎馳而西歸,為火拔歸仁執降於賊。祿山謂之曰:「汝常輕我,今日如何?」翰懼,俯伏稱:「肉眼不識陛下,遂至於此。陛下為撥亂主,今天下未平,李光弼在土門,來填在河南,魯炅在南陽,但留臣,臣以尺書招之,不日平矣。」祿山大喜,遂偽署翰司空。作書招光弼等,諸將報書皆讓翰不死節。祿山知事不諧,遂閉翰於苑中,潛殺之。

翰の潼関を守るや、天下の兵権を主とし、志を肆にして怨を報い、戸部尚書安思順が禄山と潜かに通ずると誣奏し、偽って人をして禄山が思順に遺す書を作らせ、関門にてこれを擒えて献上させた。その年の三月、思順及び弟の太僕卿元貞は坐して誅せられ、その家属は嶺外に徙され、天下これを冤とした。

原文翰之守潼關也,主天下兵權,肆誌報怨,誣奏戶部尚書安思順與祿山潛通,偽令人為祿山遺思順書,於關門擒之以獻。其年三月,思順及弟太仆卿元貞坐誅,徙其家屬於嶺外,天下冤之。

【贊】

原文【贊】

史臣曰く、大盗梗を作し、禄山常を乱る。詞は國忠を誅せんと欲すと雖も、志は則ち社稷を危うくせんと謀る。時に承平日久しく、金革の道消え、封常清・高仙芝相次いで教えざるの兵を率い、市人の衆を募り、以て逆寇に抗す。律を失い師を喪う。哥舒翰は家にて病を養い、起きて専ら兵柄を握り、二十万の衆を以て賊を関門に拒ぐ。軍中の務め親しまず、委任またその人に非ず。羯賊に遇うに及んで、旋って敗亡を致し、天子これを以て播遷し、自身これを以て拘執せらる。これ皆帥を命ずるにその人を得ざるなり。『礼』に曰く、「大夫は衆に死す」と。又曰く、「人の軍師を謀る者は敗るれば則ちこれに死す」と。翰は賊庭に署を受け、視息を苟延す。忠義の道、即ち知るべし。豈に顔杲卿に愧じざらんや。抑またこれを聞く、古の将を命ずる者は、轂を推してこれに謂いて曰く、「閫外の事は、将軍これを裁す」と。楊國忠の奏事、辺令誠の戎を護るを観るに、また軍政に掣肘する者なり。偏に三帥を責むべからず、伊人を尤めざるべからず。後の君子、深く鑒とすべからずや。

原文史臣曰:大盜作梗,祿山亂常,詞雖欲誅國忠,誌則謀危社稷。於時承平日久,金革道消,封常清、高仙芝相次率不教之兵,募市人之眾,以抗AT寇,失律喪師。哥舒翰廢疾於家,起專兵柄,二十萬眾拒賊關門,軍中之務不親,委任又非其所。及遇羯賊,旋致敗亡,天子以之播遷,自身以之拘執,此皆命帥而不得其人也。《禮》曰:「大夫死眾。」又曰:「謀人之軍師敗則死之。」翰受署賊庭,茍延視息,忠義之道,即可知也,豈不愧於顏杲卿乎!抑又聞之,古之命將者,推轂而謂之曰:「閫外之事,將軍裁之。」觀楊國忠之奏事,邊令誠之護戎,又掣肘於軍政者也,未可偏責三帥,不尤伊人。後之君子,得不深鑒!

贊して曰く、羯賊順を犯し、戎車行を啓く。委任所を失い、封・高敗亡す。虔劉圻甸し、僭窃衣裳す。醜い哉舒翰、能く王に死せず。

原文贊曰:羯賊犯順,戎車啟行。委任失所,封、高敗亡。虔劉圻甸,僭竊衣裳。醜哉舒翰,不能死王。