舊唐書

巻100

巻100

舊唐書

原文舊唐書

卷一百

原文卷一百

列傳第五十 尹思貞 李傑 解琬 畢構 蘇珦 鄭惟忠 王志愔 盧從願 李朝隱 裴漼 王丘

原文列傳第五十 尹思貞 李傑 解琬 畢構 蘇珦 鄭惟忠 王志愔 盧從願 李朝隱 裴漼 王丘

尹思貞

原文尹思貞

尹思貞は、京兆長安ちょうあんの人である。弱冠にして明経に挙げられ、隆州参軍に補せられた。当時、晋安県に豪族の蒲氏があり、縦横に法に背き、前後の官吏はこれを制することができなかった。州司は思貞に推按を命じ、その奸贓を万単位で摘発し、ついに論じてこれを殺した。遠近慶び称え、石に刻んでその事績を記した。これにより名を知られるようになった。累転して明堂令となり、善政をもって聞こえた。三遷して殿中少監となり、検校洺州刺史を兼ねた。時に契丹の孫万栄が乱を起こし、河朔が安らかでなかったが、思貞は綏撫に長け、境内のみが驚擾することはなかった。則天は璽書を降してこれを褒め称えた。

原文尹思貞,京兆長安人也。弱冠明經舉,補隆州參軍。時晉安縣有豪族蒲氏,縱橫不法,前後官吏莫能制。州司令思貞推按,發其奸贓萬計,竟論殺之,遠近稱慶,刻石以紀其事,由是知名。累轉明堂令,以善政聞。三遷殿中少監,檢校洺州刺史。會契丹孫萬榮作亂,河朔不安,思貞善於綏撫,境內獨無驚擾,則天降璽書褒美之。

長安年間、七遷して秋官侍郎となったが、張昌宗に逆らって罪に陥れられ、出されて定州刺史となり、転じて晋州刺史となった。まもなく再び入朝して司府少卿となった。当時、卿の侯知一もまた威厳を厳しくしたので、吏人はこれについて語って言うには、「侯卿の杖を畏れず、ただ尹卿の筆を畏る」と。その人に服せられることがこのようであった。まもなく銀青光禄大夫を加えられた。宅中で古い戟十二本を掘り出したところ、間もなく門に棨戟が加えられ、当時の人はこれを異とした。

原文長安中,七遷秋官侍郎,以忤張昌宗被構,出爲定州刺史,轉晉州刺史。尋復入爲司府少卿。時卿侯知一亦厲威嚴,吏人爲之語曰:「不畏侯卿杖,惟畏尹卿筆。」其爲人所伏若此。尋加銀青光祿大夫。於宅中掘得古戟十二,俄而門加棨戟,時人異焉。

神龍初年、大理卿となった。時に武三思が権力を擅にし、御史大夫李承嘉がこれに附会していた。壅州人の韋月将が変事を上告し、三思の謀逆を告げた。中宗は大いに怒り、これを斬るよう命じた。思貞は発生の月であるとして、固執して奏上し、刑を行うべからずとした。ついに勅があり、決杖して嶺南に配流することとなった。三思は所司に命じてこの機に乗じて非法にこれを害そうとしたが、思貞はまた固くこれを争った。承嘉は三思の意を迎え、他事にかこつけて、思貞が朝廷に入ることを許さなかった。思貞は承嘉に言うには、「公は威福を擅に作り、憲章を顧みず、奸臣に附托して、不軌を図ろうとするのか。まず忠良を除いて自ら恣にしようとするのか」と。承嘉は大いに怒り、ついに思貞を劾奏し、出されて青州刺史となった。境内には蚕が一年に四度熟するものがあった。黜陟使、衞えい州司馬の路敬潛が八月に州に至り、繭を見て嘆じて言うには、「善政によらなければ、どうしてここに至ることができようか」と。特に表してこれを推薦した。思貞は前後十三州刺史を歴任し、皆清簡をもって政を行い、奏課は連続して最上となった。

原文神龍初,爲大理卿,時武三思擅權,御史大夫李承嘉附會之。壅州人韋月將上變,告三思謀逆,中宗大怒,命斬之。思貞以發生之月,固執奏以爲不可行刑,竟有敕決杖配流嶺南。三思令所司因此非法害之,思貞又固爭之。承嘉希三思旨,托以他事,不許思貞入朝廷。謂承嘉曰:「公擅作威福,不顧憲章,附托奸臣,以圖不軌,將先除忠良以自恣耶?」承嘉大怒,遂劾奏思貞,出爲青州刺史。境內有蠶一年四熟者,黜陟使、衞州司馬路敬潛八月至州,見繭嘆曰:「非善政所致,孰能至於此乎!」特表薦之。思貞前後爲十三州刺史,皆以清簡爲政,奏課連最。

睿宗が即位すると、徴されて将作大匠となり、累封して天水郡公となった。時に左僕射竇懐貞が金仙・玉真の両観を興造し、夫匠を調発していたが、思貞は常にこれを節減した。懐貞は怒り、頻りに思貞を詰責した。思貞は言うには、「公は職は端揆に居り、任は弼諧に重し。聖明を翼賛し、大化を光宣することができず、しかるに盛んに土木を興し、害を黎元に及ぼす。豈に愧じないことがあろうか。また小人の譖を受け、軽々しく朝臣を辱しめる。今日の事、苟も免れることはできず、請う、ここより辞せん」と。衣を払って去り、門を閉じて数日に及んだ。上はこれを聞き、特に視事を命じた。その年、懐貞が誅せられると、ついに制を下して言うには、「国の副相、位は中台に亜ぐ。自ら邦直にあらざれば、孰か天憲を司らん。将作大匠尹思貞は、賢良方正、碩儒耆徳、剛にして缺を護らず、清くして知られることを畏れ、簡言は従い易く、荘色は犯し難し。先王の体要を征し、衽を敷いて必ず陳べ、佞臣の権に怙るを折り、衣を拂いて謝す。故に以て事は海内に聞こえ、名は京師に動く。鷹隼は是を撃ち、豺狼は自ら遠ざく。必ずや前弊を条理し、旧章を発揮する能わん。宜しく弄印の栄を承け、登車の志を允すに式うべし。御史大夫とすべし」と。まもなく申王府長史を兼ね、戸部尚書に遷り、工部尚書に転じた。老疾をもって累表して致仕を請い、許された。開元四年に卒した。年七十七。黄門監を贈られ、諡して簡といった。

原文睿宗即位,徵爲將作大匠,累封天水郡公。時左僕射竇懷貞興造金仙、玉真兩觀,調發夫匠,思貞常節減之。懷貞怒,頻詰責思貞,思貞曰:「公職居端揆,任重弼諧,不能翼贊聖明,光宣大化,而乃盛興土木,害及黎元,豈不愧也!又受小人之譖,輕辱朝臣,今日之事,不能茍免,請從此辭。」拂衣而去,闔門累日,上聞而特令視事。其年,懷貞伏誅,乃下制曰:「國之副相,位亞中臺,自匪邦直,孰司天憲?將作大匠尹思貞,賢良方正,碩儒耆德,剛不護缺,清而畏知,簡言易從,莊色難犯。征先王之體要,敷衽必陳;折佞臣之怙權,拂衣而謝。故以事聞海內,名動京師,鷹隼是擊,豺狼自遠。必能條理前弊,發揮舊章,宜承弄印之榮,式允登車之志。可御史大夫。」俄兼申王府長史,遷戸部尚書,轉工部尚書。以老疾累表請致仕,許之。開元四年卒,年七十七,贈黃門監,謚曰簡。

李傑

原文李傑

李傑は、本名を務光といい、相州滏陽の人である。後魏の并へい州刺史李宝の後裔で、その祖先は隴西よりここに移った。傑は若くして孝友をもって称えられ、明経に挙げられ、累遷して天官員外郎となった。明敏で吏才があり、当時の称誉を大いに得た。神龍初年、累遷して衞尉少卿となり、河東道巡察黜陟使となり、奏課は諸使の中で最も優れていた。開元初年、河南尹となった。傑は聴理に勤め、訴えがあるごとに、たとえ衢路で食事中であっても、処断を廃することはなかった。これにより官に留まる事なく、人吏はこれを愛した。先だって、河・汴の間に梁公堰があったが、年久しくして堰が破れ、江・淮の漕運が通じなかった。傑は奏上して汴・鄭の丁夫を調発してこれを浚わせ、功を省いて速やかに成し遂げ、公私ともに深く利とし、石を水濱に刊してその績を記した。

原文李傑,本名務光,相州滏陽人。後魏并州刺史寶之後也,其先自隴西徙焉。傑少以孝友著稱,舉明經,累遷天官員外郎,明敏有吏才,甚得當時之譽。神龍初,累遷衞尉少卿,爲河東道巡察黜陟使,奏課爲諸使之最。開元初,爲河南尹。傑既勤於聽理,毎有訴列,雖衢路當食,無廢處斷。由是官無留事,人吏愛之。先是,河、汴之間有梁公堰,年久堰破,江、淮漕運不通。傑奏調發汴、鄭丁夫以浚之,省功速就,公私深以爲利,刊石水濱,以紀其績。

まもなく宋璟に代わって御史大夫となった。時に皇后の妹婿である尚衣奉御長孫昕とその妹婿楊仙玉が、裏巷で傑に遇い、ついにこれを毆撃した。上は大いに怒り、昕らを斬るよう命じた。散騎常侍さんきじょうじ馬情素は、陽和の月であるとして刑を行うべからずとし、累表して陳請した。ついに勅を下して言うには、「夫れ令を作る者は近きよりして遠きに及び、罰を行う者は親しきを先にして疎しきを後にする。長孫昕・楊仙玉らは姻戚に憑恃し、恣に凶険を行い、軽々しく常憲を侮り、大臣を損辱す。情は特に容れ難し。故に斬決を命ず。今、群官ら累ねて表疏を陳べ、固より誠請あり。陽和の節は、肅殺の時にあらずと。古今を援引し、詞義懇切なり。朕の志は深諫に従い、情もまた法を惜しむ。宜しく異門の罰を寬め、枯木の斃に従うを聴くべし。即ち宜しく決殺して、以て百僚に謝すべし」と。

原文尋代宋璟爲御史大夫。時皇后妹婿尚衣奉御長孫昕與其妹婿楊仙玉因於裏巷遇傑,遂毆擊之,上大怒,令斬昕等。散騎常侍馬情素以爲陽和之月,不可行刑,累表陳請。乃下敕曰:「夫爲令者自近而及遠,行罰者先親而後疏。長孫昕、楊仙玉等憑恃姻戚,恣行凶險,輕侮常憲,損辱大臣,情特難容,故令斬決。今群官等累陳表疏,固有誠請,以陽和之節,非肅殺之時,援引古今,詞義懇切。朕志從深諫,情亦惜法,宜寬異門之罰,聽從枯木之斃。即宜決殺,以謝百僚。」

傑は明年、橋陵の造営を護った功により、武威子の爵を賜った。初め、傑が造営を護った時、侍御史王旭を判官に引き入れた。旭は貪冒して贓を受け、傑はこれを縛らんとしたが、その実を得ることができず、かえって旭に陥れられ、出されて衢州刺史となった。まもなく転じて揚州大都督ととく府長史となり、また御史に劾せられ、免官して邸に帰った。まもなく卒し、戸部尚書を贈られた。

原文傑明年以護橋陵作,賜爵武威子。初,傑護作時,引侍御史王旭爲判官。旭貪冒受贓,傑將繩之而不得其實,反爲旭所構,出爲衢州刺史。俄轉揚州大都督府長史,又爲御史所劾,免官歸第。尋卒,贈戸部尚書。

解琬

原文解琬

解琬は、魏州元城の人である。若くして幽素挙に応じ、新政尉に拝され、累転して成都丞となった。奏事が旨にかなったため、超遷して監察御史となったが、丁憂して離職した。則天は琬が辺事に識練ありとし、旧官に起復し、西域に往って夷虜を安撫せんとしたが、抗疏して固く辞した。則天はこれを嘉し、勅を下して言うには、「解琬は孝性淳至、哀情懇切、固く権奪の栄を辞し、終憂の典に就くことを乞う。足りて風俗を激揚し、名教を敦奨すべし。宜しく雅懐を遂げ、その請を允すべし。仍って服闋の後、上に赴かしむべし」と。

原文解琬,魏州元城人也。少應幽素舉,拜新政尉,累轉成都丞。因奏事稱旨,超遷監察御史,丁憂離職。則天以琬識練邊事,起復舊官,令往西域安撫夷虜,抗疏固辭。則天嘉之,下敕曰:「解琬孝性淳至,哀情懇切,固辭權奪之榮,乞就終憂之典。足可以激揚風俗,敦獎名教,宜遂雅懷,允其所請。仍令服闋後赴上。」

聖暦初年、侍御史に遷り、使として烏質勒及び十姓部落を安撫し、皆その便宜を得た。蕃人大いに悦び、功により御史中丞に擢拝され、北庭都護・持節西域安撫使を兼ねた。琬は平素より郭元振と同官で親しく、ついに宗楚客に毀られた。これにより左遷されて滄州刺史となった。政を行うに大體を存し、甚だ人和を得た。景龍年間、右台御史大夫に遷り、持節朔方行軍大総管を兼ねた。琬は前後軍中に二十余年在り、農を務め戦を習い、利益すること多く、辺境はこれにより安らかであった。

原文聖歷初,遷侍御史,充使安撫烏質勒及十姓部落,咸得其便宜,蕃人大悅,以功擢拜御史中丞,兼北庭都護、持節西域安撫使。琬素與郭元振同官相善,遂爲宗楚客所毀,由是左遷滄州刺史。爲政務存大體,甚得人和。景龍中,遷右臺御史大夫,兼持節朔方行軍大總管。琬前後在軍二十餘載,務農習戰,多所利益,邊境安之。

景雲二年、再び朔方軍大総管となる。琬は随軍要籍官の河陽丞張冠宗・肥郷令韋景駿・普安令於処忠らを分遣して三城の兵募を校料せしめ、ここに十万を減じ、奏してこれを罷む。まもなく右武衛大将軍を授けられ、兼ねて検校晋州刺史を加えられ、爵を済南県男に賜う。年老いたことを以て骸骨を乞う、表を拝して上るや、報を待たずして去る。優詔を下して金紫光禄大夫を加え、致仕を聴し、その禄は品に準じて全給す。まもなく璽書を降してこれを労うに曰く、「卿は器局堅正にして、才識高遠、公忠はその立身を彰かにし、貞固は以て事を幹うに足る。張騫の出使に類し、魏絳の和戎に同じ。職は文武を綰き、功は方面に申べ、王家に勤め、これ国老たり。頃者、この側景を顧み、勇退を願い言う、深く馬援の能を惜しみ、未だ祁奚の請を遂げず。然れども章疏頻りに上り、雅懐奪い難し。今や屣を脱ぎて閑に帰し、衣を拂いて高く謝するを知る、固より以て頽俗を激勵し、庶僚を儀刑すべし。永く終始を言えば、まことに嘉尚すべし。宜しく善く摂養し、以て期頤を介すべし」。

原文景雲二年,復爲朔方軍大總管。琬分遣隨軍要籍官河陽丞張冠宗、肥鄕令韋景駿、普安令於處忠等校料三城兵募,於是減十萬人,奏罷之。尋授右武衞大將軍,兼檢校晉州刺史,賜爵濟南縣男。以年老乞骸骨,拜表訖,不待報而去。優詔加金紫光祿大夫,聽致仕,其祿準品全給。尋降璽書勞之曰:「卿器局堅正,才識高遠,公忠彰其立身,貞固足以幹事。類張騫之出使,同魏絳之和戎。職綰文武,功申方面,勤於王家,是爲國老。頃者,顧斯側景,願言勇退,深惜馬援之能,未遂祁奚之請。然章疏頻上,雅懷難奪。今知脫屣歸閑,拂衣高謝,固可以激勵頹俗,儀刑庶僚。永言終始,良可嘉尚。宜善攝養,以介期頤。」

未だ幾ばくもせず、吐蕃辺を寇す、再び召して左散騎常侍を拝し、吐蕃と地界を分定せしめ、兼ねて十姓降戸を処置せしむ。琬言う、吐蕃は必ず潜かに叛計を懐く、請う預め兵十万を秦・渭等州に支え厳しく防遏せんことを。その年冬、吐蕃果たして入寇し、竟に支兵の撃ち走らすところとなる。俄に又た表して致仕を請う、許さず、太子賓客に遷る。開元五年、出でて同州刺史となる。明年卒す、年八十余。

原文未幾,吐蕃寇邊,復召拜左散騎常侍,令與吐蕃分定地界,兼處置十姓降戸。琬言吐蕃必潛懷叛計,請預支兵十萬於秦、渭等州嚴加防遏。其年冬,吐蕃果入寇,竟爲支兵所擊走之。俄又表請致仕,不許,遷太子賓客。開元五年,出爲同州刺史。明年卒,年八十餘。

畢構

原文畢構

畢構は、河南偃師の人なり。父は憬、則天の時に司衛少卿たり。構は少くして進士に挙げらる。神龍初、累遷して中書舎人となる。時に敬暉ら奏して武氏諸王の降削を請う、構次いで表を読むに当たり、既に声韻朗暢にして、兼ねてその文句を分析す、左右の聴く者皆歴然として暁るべし。ここにより武三思これを悪み、出でて潤州刺史とす。累除して益州大都督府長史となる。景雲初、召して左御史大夫を拝し、転じて陜州刺史となり、銀青光禄大夫を加えられ、魏県男に封ぜらる。頃之、復た益州大都督府長史を授けられ、兼ねて剣南道按察使を充てる。歴任する州府、咸に声績著しく、蜀しょく中に在りては特に旧弊を革め、政は清厳と号せらる。睿宗聞きてこれを善しとし、璽書を下して労うに曰く、

原文畢構,河南偃師人也。父憬,則天時爲司衞少卿。構少舉進士。神龍初,累遷中書舍人。時敬暉等奏請降削武氏諸王,構次當讀表,既聲韻朗暢,兼分析其文句,左右聽者皆歷然可曉。由是武三思惡之,出爲潤州刺史。累除益州大都督府長史。景雲初,召拜左御史大夫,轉陜州刺史,加銀青光祿大夫,封魏縣男。頃之,復授益州大都督府長史,兼充劍南道按察使。所歷州府,咸著聲績,在蜀中尤革舊弊,政號清嚴。睿宗聞而善之,璽書勞曰:

我が国家は天地を創開し、黎元を再造し、四夷来王し、万邦会至す。州を置き郡を立て、職を分かち官を設く。貞観・永徽以前は、皇猷惟だ穆し;咸亨・垂拱以後は、淳風漸く替わる。征賦将に急ならんとし、調役頗る繁く、吏を選び人を挙ぐるは、浮濫に渉る。省閣台寺、公直なること罕にして、苟くも禄秩を貪り、以て歳時を度る。中外因循し、紀綱弛紊し、且つ懲革無く、弊乃ち滋く深し。官と為るは既に人を択ばず、親即ち賄なり;法と為るは又た罪に按ぜず、孽を作りて寧くか逃れん。貪残放手する者は相仍ぎ、清白潔己する者は斯く絶ゆ。蓋し賞罰挙げられず、生殺行わるること莫きに由る。更に水旱時乖い、辺隅未だ謐かならず、日一日を損し、征斂休まず、大東小東、杼軸怨みを為し、就きて更に割剥せば、何を以てか克く堪えん。昔聞く当官は、留犢還珠を以て上と為すと。今の職に従うは、車を充し駟を聯ぬるを以て能と為す。或いは富家と交結し、貧弱を抑棄し;或いは典正を矜假し、腹心を樹立す。邑屋の間、囊篋俱に委ね、或いは地に椿幹梓漆有り、或いは家に畜産資財有れば、即ち暗通せられ、並びに従いて取奪せらる。若し固吝有らば、即ち事に因りて以て繩し、粗杖大枷、動もすれば性命を傾け、冤を懐き痛みを抱きて、陳ぶるに告ぐる所無し。比来御史を差し委ねて巡察せしむるも、或いは貴要の嘱する所有り、能く権豪を避けざる無く;或いは親故官に在り、又た顔面を絶つこと罕なり。原隰に馳せ載すも、徒らに出使の名を煩わし;狐貍を安んぞ問わん、未だ埋車の節を見ず。清を揚げ濁を激すも、涇・渭分かず;悪を嫉み善を好むも、蕭・蘭別つこと莫し。官守既に其の此の若く、下人豈に聊生を以てせんや。数年已来、凋残更に甚だし。卿は孤潔独行、古人の風有り、蜀川に臨むより、弊化頓に易わる。卿が前後執奏する所を覧るに、何ぞ柱を破り奸を求むるに異ならん。諸使の中、卿に在りては最も為り。並びに能く節を尽くすこと卿の此の如くならば、百郡何をか理まざるを憂えん、万人何をか安からざるを慮らん。卿当に益々堅くすべく、後顧する無かれ。朕は卿の直道を嘉し、今に袍帯並びに衣一副を賜う。

原文我國家創開天地,再造黎元,四夷來王,萬邦會至,置州立郡,分職設官。貞觀、永徽之前,皇猷惟穆;咸亨、垂拱之後,淳風漸替。征賦將急,調役頗繁,選吏舉人,涉於浮濫。省閣臺寺,罕有公直,茍貪祿秩,以度歳時。中外因循,紀綱弛紊,且無懲革,弊乃滋深。爲官既不擇人,非親即賄;爲法又不按罪,作孽寧逃?貪殘放手者相仍,清白潔己者斯絶。蓋由賞罰不舉,生殺莫行。更以水旱時乖,邊隅未謐,日損一日,征斂不休,大東小東,杼軸爲怨,就更割剝,何以克堪!昔聞當官,以留犢還珠爲上。今之從職,以充車聯駟爲能。或交結富家,抑棄貧弱;或矜假典正,樹立腹心。邑屋之間,囊篋俱委,或地有椿幹梓漆,或家有畜產資財,即被暗通,並從取奪。若有固吝,即因事以繩,粗杖大枷,動傾性命,懷冤抱痛,無所告陳。比差御史委令巡察,或有貴要所囑,未能不避權豪;或有親故在官,又罕絶於顏面。載馳原隰,徒煩出使之名;安問狐貍,未見埋車之節。揚清激濁,涇、渭不分;嫉惡好善,蕭、蘭莫別。官守既其若此,下人豈以聊生。數年已來,雕殘更甚。卿孤潔獨行,有古人之風,自臨蜀川,弊化頓易。覽卿前後執奏,何異破柱求奸?諸使之中,在卿爲最。並能盡節似卿如此,百郡何憂乎不理,萬人何慮乎不安?卿當益堅,勿爲後顧。朕嘉卿直道,今賜袍帶並衣一副。

まもなく戸部尚書を拝し、転じて吏部尚書となり、並びに遙領して益州大都督府長史を兼ぬ。玄宗即位し、累拝して河南尹となり、遷りて戸部尚書となる。開元四年、疾に遇う、上手疏して医方を以てこれを賜う。時に議う戸部尚書を凶官と為すと、遽かに改めて太子詹事を授け、其の瘳ゆる有らんことを冀う。まもなく卒す、黄門監を贈られ、謚して景と曰う。

原文尋拜戸部尚書,轉吏部尚書,並遙領益州大都督府長史。玄宗即位,累拜河南尹,遷戸部尚書。開元四年,遇疾,上手疏醫方以賜之。時議戸部尚書爲凶官,遽改授太子詹事,冀其有瘳。尋卒,贈黃門監,謚曰景。

構、初め継母に喪する時、二妹繈褓に在り、親しく加うるに鞠養を以てし、咸く成立を得。構の卒するに及び、二妹久しく号絶し、撫育の恩を以てし、遂に三年の服を制す。その弟栩も亦た甚だ哀毀し、並びに当時に称せらる。栩は官に至りて荊州司馬。

原文構初喪繼母時,有二妹在繈褓,親加鞠養,咸得成立。及構卒,二妹號絶久之,以撫育恩,遂制三年之服。其弟栩亦甚哀毀,並爲當時所稱。栩官至荊州司馬。

蘇珦

原文蘇珦

蘇珦は、雍州藍田の人。明経に挙げられ、累授して鄠県尉となる。雍州長史李義琰召して謂いて曰く、「鄠県は本より訴訟多し、近日遂に絶ゆ、訪問するに果たして明公其の疏理を為すに由る」。因りて顧みて廳事を指して曰く、「此の座即ち明公の座なり、但だ恨むらくは遅暮の見る所に非ざるのみ」。

原文蘇珦,雍州藍田人。明經舉,累授鄠縣尉。雍州長史李義琰召而謂曰:「鄠縣本多訴訟,近日遂絶,訪問果由明公爲其疏理。」因顧指廳事曰:「此座即明公座也,但恨非遲暮所見耳。」

垂拱初、右台監察御史を拝す。時に則天将に韓・魯等諸王を誅せんとし、珦をして其の密状を按ぜしむ、珦訊問するも皆征験無し。或いは誣告して珦は韓・魯等と同情すと、則天召見して詰問す、珦抗議して回らざりき。則天悦ばずして曰く、「卿は大雅の士、朕当に別に驅使有るべし、此の獄は卿に假さず」。遂に珦をして河西に監軍せしむ。五遷して右司郎中となる。時に御史王弘義来俊臣に托附し、無罪を構陷す、朝廷之を疾む。嘗て詔を虢州に受け木を采るに、役使節をせず、丁夫多く死す、珦其の事を按奏し、弘義竟に坐して以て黜せらる。珦まもなく遷りて給事中となり、累授して左肅政台御史大夫となる。時に詔有りて白司馬阪に大像を営み、糜費巨億す、珦農を妨ぐるを以てし、上疏切諫す、則天之を納る。

原文垂拱初,拜右臺監察御史。時則天將誅韓、魯等諸王,使珦按其密狀,珦訊問皆無征驗。或誣告珦與韓、魯等同情,則天召見詰問,珦抗議不回。則天不悅,曰:「卿大雅之士,朕當別有驅使,此獄不假卿也。」遂令珦於河西監軍。五遷右司郎中。時御史王弘義托附來俊臣,構陷無罪,朝廷疾之。嘗受詔於虢州采木,役使不節,丁夫多死,珦按奏其事,弘義竟以坐黜。珦尋遷給事中,累授左肅政臺御史大夫。時有詔白司馬阪營大像,糜費巨億,珦以妨農,上疏切諫,則天納焉。

神龍初、武三思権を擅にす、韋月将三思将に逆謀有らんと告ぐ、反って三思の構うる所と為り、中宗之を斬らしむ。珦奏す時に非ざれば刑を行うべからずと、ここにより三思の旨に忤い、転じて右御史大夫と為る。まもなく出でて岐州刺史となり、復た右台大夫と為る。会に節湣太子敗る、詔して珦に其の党与を窮めしむ。時に睿宗藩に在り、得罪する者に引かる、珦因りて事状を辯析し、密奏を以て之を保持す。中宗意解け、因りて多く原免す、珦を擢て戸部尚書と為し、爵を河内郡公に賜う。まもなく太子賓客・検校詹事を授けられ、年老いて致仕す。開元三年卒す、年八十一、兗州都督を贈られ、謚して文と曰う。子の晋、亦た知名。

原文神龍初,武三思擅權,韋月將告三思將有逆謀,反爲三思所構,中宗令斬之。珦奏非時不可行刑,由是忤三思旨,轉爲右御史大夫。尋出爲岐州刺史,復爲右臺大夫。會節湣太子敗,詔珦窮其黨與。時睿宗在籓,爲得罪者所引,珦因辯析事狀,密奏以保持之。中宗意解,因是多所原免,擢珦爲戸部尚書,賜爵河內郡公。尋授太子賓客、檢校詹事,以年老致仕。開元三年卒,年八十一,贈兗州都督,謚曰文。子晉,亦知名。

珦の子 晋

原文珦子 晉

賈晉は数歳にして文を作る能くし、『八卦論』を作り、吏部侍郎房穎敘・秘書少監王紹宗これを見て賞嘆して曰く、「これ後来の王粲なり」と。弱冠にして進士に挙げられ、また大礼挙に応じ、皆上第に居る。先天中、累遷して中書舍人となり、崇文館学士を兼ねる。玄宗監国す、毎に制命有れば、皆賈晉及び賈曾に之を為さしむ。晉も亦た数たび讜言を進め、深く嘉納せらる。俄かに出でて泗州刺史と為り、父老を以て職を辞し帰り侍するを乞う、之を許す。父卒したる後、戸部侍郎を歴任し、爵を襲いて河内郡公と為る。開元十四年、吏部侍郎に遷る。時に開府宋璟尚書事を兼ね、晉及び齊澣遞に京都に於いて選事を知る。既に名を糊して判を考うるに、晉独り多く賞抜し、甚だ当時の誉を得たり。俄にして侍中裴光庭尚書事を知る。毎に官に遇いて批退すべき者は、但だ衆に対し簿を披き、硃筆を以て頭を点ずるのみ。晉遂に選院に榜して云く、「門下頭を点ずる者は、更に引いて註擬すべし」と。光庭以て己を侮るものと為し、甚だ悦ばず、遂に出でて汝州刺史と為る。三たび遷りて魏州刺史となり、銀青光禄大夫を加えられ、入りて太子左庶子と為る。二十二年卒す、年五十九。

原文晉,數歳能屬文,作《八卦論》,吏部侍郎房穎敘、秘書少監王紹宗見而賞嘆曰:「此後來王粲也。」弱冠舉進士,又應大禮舉,皆居上第。先天中,累遷中書舍人,兼崇文館學士。玄宗監國,毎有制命,皆令晉及賈曾爲之。晉亦數進讜言,深見嘉納。俄出爲泗州刺史,以父老乞辭職歸侍,許之。父卒後,歷戸部侍郎,襲爵河內郡公。開元十四年,遷吏部侍郎。時開府宋璟兼尚書事,晉及齊澣遞於京都知選事,既糊名考判,晉獨多賞拔,甚得當時之譽。俄而侍中裴光庭知尚書事,毎遇官應批退者,但對眾披簿,以硃筆點頭而已。晉遂榜選院云:「門下點頭者,更引註擬。」光庭以爲侮己,甚不悅,遂出爲汝州刺史。三遷魏州刺史,加銀青光祿大夫,入爲太子左庶子。二十二年卒,年五十九。

初め、晉は洛陽らくようの人張循之・仲之兄弟と善く友す。循之等並びに学業を以て著名なり。循之は則天の時上書して旨に忤い誅せらる。仲之は神龍中、武三思を謀殺せんとし、友人宋之愻に発せられ、獄に下りて死す。晉厚く仲の子漸を撫で、己が子の如くし、之に書記を教え、婚宦を営む。及び晉卒するに及び、漸猶子の服を制し、時人甚だ此を以て之を称す。

原文初,晉與洛陽人張循之、仲之兄弟友善,循之等並以學業著名。循之,則天時上書忤旨被誅。仲之,神龍中謀殺武三思,爲友人宋之愻所發,下獄死。晉厚撫仲之子漸,有如己子,教之書記,爲營婚宦。及晉卒,漸制猶子之服,時人甚以此稱之。

鄭惟忠

原文鄭惟忠

鄭惟忠は宋州宋城の人なり。儀鳳中、進士挙に応じ、井陘尉を授かり、転じて湯陰尉と為る。天授中、挙に応じて召見せられ、則天軒に臨みて諸挙人に問う、「何をか忠と為す」と。諸人の対する旨に称せず。惟忠対えて曰く、「臣聞く、忠とは外に君の美を揚げ、内に君の悪を匡うるものなりと」と。則天曰く、「善し」と。左司禦率府胄曹参そうしん軍を授け、累遷して水部員外郎と為る。則天長安に幸す、惟忠待制して引見せられ、則天これに謂いて曰く、「朕卿を識る、前に東都に於いて『忠臣は外に君の美を揚げ、内に君の悪を匡う』と言えり、今に至るまで忘れず」と。尋ねて朝散大夫を加え、再び遷りて鳳閣舍人と為る。

原文鄭惟忠,宋州宋城人也。儀鳳中,進士舉,授井陘尉,轉湯陰尉。天授中,應舉召見,則天臨軒問諸舉人:「何者爲忠?」諸人對不稱旨。惟忠對曰:「臣聞忠者,外揚君之美,內匡君之惡。」則天曰:「善。」授左司禦率府胄曹參軍,累遷水部員外郎。則天幸長安,惟忠待制引見,則天謂曰:「朕識卿,前於東都言『忠臣外揚君之美,內匡君之惡』,至今不忘。」尋加朝散大夫,再遷鳳閣舍人。

中宗即位し、之を甚だ敬重し、擢びて黄門侍郎に拝す。時に議有りて嶺南首領の家に兵器を畜えるを禁ぜんことを請う。惟忠曰く、「夫れ政を為すは習俗を以て革むべからず、且つ『呉都賦』に云う、『家に鶴膝有り、戸に犀渠有り』と。若し或いは之を禁めば、豈に驚擾無からんや」と。遂に寝す。間も無く、大理卿を守る。節湣太子将軍李多祚等と兵を挙げて武三思を誅せんとし、事変して伏誅す。其の詿誤して門を守る者並びに配流せらる。将に行かんとするに、韋氏の党与密奏して尽く之を誅せんことを請う。中宗推断を令す。惟忠奏して曰く、「今大獄始めて決し、人心未だ寧からず。若し改めて推せば、必ず遞いに驚恐し、則ち反側の子、自ら安んずる由無からん」と。勅して百司に議せしむ。遂に旧に依りて断じ、全うする所甚だ多し。俄かに御史大夫に拝し、節を持ちて河北道を賑給し、仍りて牧宰を黜陟す。還りて敷奏し旨に称し、銀青光禄大夫を加えられ、滎陽けいよう県男に封ぜらる。開元初め、礼部尚書と為り、転じて太子賓客と為る。十年卒す。太子少保を贈らる。

原文中宗即位,甚敬重之,擢拜黃門侍郎。時議請禁嶺南首領家畜兵器,惟忠曰:「夫爲政不可革以習俗,且《吳都賦》云:『家有鶴膝,戸有犀渠。』如或禁之,豈無驚擾耶?」遂寢。無何,守大理卿。節湣太子與將軍李多祚等舉兵誅武三思,事變伏誅。其詿誤守門者並配流,將行,有韋氏黨與密奏請盡誅之。中宗令推斷,惟忠奏曰:「今大獄始決,人心未寧,若更改推,必遞相驚恐,則反側之子,無由自安。」敕令百司議,遂依舊斷,所全者甚多。俄拜御史大夫,持節賑給河北道,仍黜陟牧宰。還,敷奏稱旨,加銀青光祿大夫,封滎陽縣男。開元初,爲禮部尚書,轉太子賓客。十年卒,贈太子少保。

王志愔

原文王志愔

王志愔は博州聊城の人なり。少くして進士に擢第す。神龍年、累除して左臺御史となり、朝散大夫を加えらる。執法剛正にして、百僚畏憚し、時人「皁雕」と呼ぶ。其の人吏を顧瞻すること、雕鶚の燕雀を視るが如きを言うなり。尋ねて大理正に遷る。嘗て奏言す、「法令は人の堤防なり。堤防立たざれば、則ち人禁むる所無し。窃かに見るに大理の官僚、多く法を奉ぜず、罪を縦するを以て寛恕と為し、文を守るを以て苛刻と為す。臣濫りに刑典を執る、実に衆に謗らるるを恐る」と。遂に表を上して著す所の『応正論』を以て志を見す。其の詞に曰く、

原文王志愔,博州聊城人也。少以進士擢第。神龍年,累除左臺御史,加朝散大夫。執法剛正,百僚畏憚,時人呼爲「皁雕」,言其顧瞻人吏,如雕鶚之視燕雀也。尋遷大理正,嘗奏言:「法令者,人之堤防,堤防不立,則人無所禁。竊見大理官僚,多不奉法,以縱罪爲寬恕,以守文爲苛刻。臣濫執刑典,實恐爲眾所謗。」遂表上所著《應正論》以見誌,其詞曰:

かつて『易経』を読み、「萃」の卦に至り、「利見大人、亨、聚以正也。六二、引吉無咎」とある。注に曰く、「萃の時に居り、体柔にして位に当たる。『坤』の中に処り、己独り正に処る。異操にして聚まる、独り正なる者は危うし、未だ体を変えて害を遠ざくる能わず。故に必ず引かれるを見て、然る後に乃ち吉にして咎無し」と。王肅曰く、「六二は九五と相応じ、倶に貞正を履む。引は迎によるなり、吉に迎えらるるが為り、何の咎か之れ有らん」と。未だ嘗て書を輟めて嘆かざるは無く曰く、「中に居り正を履むは、事の常体なり、引かれて咎無きは、道も亦た然るべし。客有りて聞きて之れを惑い、因りて僕に謂いて曰く、今主上文明にして、域中理定まり、君累ねて典憲を司どり、和同を務めず。正に処るの志は存すと雖も、引かるるの吉誰か応ぜん。之を行いて已まず、余窃かに懼る」と。僕襟を斂め階を降り揖して謝して曰く、袞職の遺闕を補い、忠讜を用いて己が任と為し、蒙を以て正を養い、引かれて吉を獲るは、此の道に応ずるなり、仁何ぞ遠からんや。昔、咎繇虞に謨し、朝に登りて士と作し、教を設けて物を理め、訓を開きて務を成す。是を以て五流に宅有り、五宅三居し、終を怙て賊は刑し、故を刑するは小無し。ここに於いて舜其の事を美して曰く、「汝五刑に明らかにして、以て五教を弼け、予の理に期し、刑は刑無きに期す。人、中に協い、是れ乃ち功、懋哉」と。故に孔子其の政を嘆じて曰く、「舜咎繇を挙ぐ、仁ならざる者遠ざく」と。此れ明辟の法を執り、大人の引かれるに応ずるに非ずや。季孫行父の君に事うるや、宝を窃むの愆を挙げ、邑を授くるの賞を黜し、善悪を明らかにして慝を糾し、僭賞を議して違を塞ぐ。虞舜の功に在りて、二十の一に居り、主司其の道を行うを得、時君以て嫌と為さず。此れ己独り正に処り、正に応じて咎無きに非ずや。棠に於いて魚を観るに、臧伯正色す。鼎を廟に賂すに、哀伯詞を抗す。言う者は其の忠を尽くすを得、聞く者は之に其の罪を加えず。故に『春秋』臧氏の正を称し、曰く、「善を積むの家には、必ず余慶有り」と。此れ異操にして聚まり、吉を引くの致す所に非ずや。魏絳理直くして、晉侯乃ち其の位を復す。邾人辞順にして、趙盾其の国を伐たず。此れ正体未だ変ぜず、吉に迎えらるる者に非ずや。夫れ上に在りて垂拱し、臣下制を守る。若し正上に応ずれば、乃ち下に吉を引く。而して中士道を聞き、若し存し若し亡し、譎正の門に交戦し、語默の境に疑いを懐き、独り正なるの引かれる莫きを懼れ、此の正の必ず亨るを忘る。籲嗟乎、己を行い身を立つるに、正に居り義を践む。其の動くや直く、其の正しきや方なり。唯だ正直なるに是れ与し、何れの往くか利あらざる所ならん。何を以て之れを明らかにせん。『坤』六二、「直方大、習わずして利無からず」。『文言』曰く、「直は其の正なり、方は其の義なり。君子敬を以て内を直くし、義を以て外を方にす。敬義立ちて徳孤ならず、直方大なれば則ち其の行う所を疑わず」と。嵇康『釈私論』を撰し、曹羲『至公篇』を著す。皆公を崇めて俗を激し、私を抑えて主に事うるを以てし、一言以て之れを蔽うべく、体正に帰するのみ。『礼記』曰く、「刑は侀なり、侀は成なり。一成して変ずべからず、故に君子心を尽くす焉」と。若し喜怒を以て刑を制し、軽重を設けて比すは、是れ則ち橋前驚馬、旨を希いて人を論じ、苑中兎を獵り、欲に従いて法を廃するなり。理違いて道に合い、物は和を貴びて同じからず。同じからざるの和、正に其の中に在り。昔、任延武威太守と為り、漢帝之に誡めて曰く、「善く上官に事え、名譽を失うこと無かれ」と。延対えて曰く、「臣聞く、忠臣は私せず、私臣は忠ならず。上下雷同するは、国家の福に非ず。善く上官に事うるは、臣敢えて詔を奉ぜず」と。任延の雅奏、漢主其の言を是とす。此れ則ち正に帰して回らず、旨に乖いて義に順い、忤るを以て忌み見らるるに非ず。斯れ亦た違いて道に合うなり。『晏子春秋』、景公梁丘據を見て曰く、「據と我と和す」と。晏子曰く、「此れ同なり。和なる者は、君甘なれば則ち臣酸く、君淡なれば則ち臣鹹し。今據や、君甘なれば亦た甘し、所謂る同なり、安んぞ和と為さん」と。是を以て塩梅を済めて羹を調うるに、乃ち平心の味に適す。可否を献じて道を論ずるに、方に政体の節を恢む。正を引いて度に遵うを俟ち、故に曰く物は和を貴びて同じからずと。劉曼山和同の義を弁ずる、旨有り哉。若し同じからざるを以て譏られ見ば、未だ敢えて誨を聞かず。客曰く、和同訓に乖くは、則ち已に之れを聞く。法を援げて成りて変ぜざる者は、豈に獄の寬憲を恤うるや。『書』に曰く、「衆を禦うるに寬を以てす」と。『伝』に曰く、「寬ければ則ち衆を得」と。若し厳を以て物を統ぶるは、寬政に異なるなり。対えて曰く、刑賞の二柄は、唯だ人主之れを操る。厚を崇め寬を任ずるは、是れ帝王の徳を謂う。慎子曰く、「力を以て法に役するは、百姓なり。死を以て法を守るは、有司なり。道を以て法を変ずるは、君上なり」と。然らば則ち人臣の操る所に匪ず。後魏遊肇の廷尉と為るや、魏帝嘗て私に肇に敕して降恕する所有り。肇執して従わずして曰く、「陛下自ら能く之れを恕す、豈に足らんや臣をして筆を曲げしむるに」と。是れ寬恕は君道なるを知り、曲従は臣節に非ざるなり。人或いは未だ斯の旨に達せず、其の務を料らず、平刑を以て峻しと為し、将に曲法を以て寬しと為さんとし、謹んで憲章を守り、深密と号す。『内律』、「釈種戒を虧く、一誅五百人、如来其の罪を救わず」。豈に佛法を残刻と謂わんや。老子『道德経』に云く、「天網恢恢、疏にして漏らさず」。豈に道教を凝峻と謂わんや。『家語』に曰く、「王者の誅に五有り、而して寢盗は預からず」と。即ち心弁言偽の流なり。『礼記』亦た四殺を陳ぶ、律を破り名を乱るの謂いなり。豈に儒家の禁を執り、孔子の深文なるや。此れ三教の法を用うる者は、以て真諦を明らかにし、玄猷を重んじ、天綱を存し、人極を立つるなり。然らば則ち乾象震曜し、天道威を明らかにす。衆を斉うるに惟だ刑を以てし、百王以て範を垂る。人を析くに法を以てし、三後ここに於いて功を成す。務むる所は憲を掌り平を決する、斯れ廷尉の職耳。『易』に曰く、「家人嗃嗃たり、咎無し。婦子嘻嘻たり、終に吝し」と。其の家に厳なれば、国に移す可し。昔、崔実理に達して『政論』を作す。仲長統曰く、「凡そ人主と為るは、宜しく『政論』一通を写し、諸れ坐側に置くべし」と。其の大抵云う、国を為る者は厳を以て平に致す、寬を以て平に致すに非ざるなりと。然らば則ち厳と称する者は必ずしも条を逾え制を越え、網を凝らし罰を重くするに非ず。隠括を施して枉を矯め、平典を用いて非を禁むるに在り。故を刑するは常有り、軽きを罰するは捨つること無し。人易く犯さず、之を防ぐに難く越ゆる故なり。但だ人慢く吏濁り、偽積み贓深く、而して曰く寬を以て之れを理めば、以て過無かるべしと。何ぞ王良を命じて駻を禦わしめ、銜策を奔踶に捨て、俞跗を請いて疾を攻めしめ、薬石を膚腠に停むるに異ならんや。適に秋駕の転逸するを見、膏肓更に深く、医人僕夫、何の功か之れ有らん。又た僕に謂いて曰く、法成りて変ずるは、唯だ帝王の命なるか。対えて曰く、何を為して其れ然らんや。昔、漢武帝の甥昭平君人を殺す。公主の子を以て、廷尉上請して論ず。左右言を為す。武帝涕を垂れて嘆じて曰く、「法令は先帝の造る所なり。親故を以て先帝の法を誣う、吾何の面目を以てか高廟に入らん。又た下万民に負う」と。乃ち其の奏を可とす。近代、隋文帝の子秦王俊并州総管と為り、奢縦を以て官を免ぜらる。僕射楊素奏言して、「王は陛下の愛子なり。請う其の過を捨てん」と。文帝曰く、「法違うべからず。若し公の意の如くせば、我は五児の父なり、兆人の父に非ず。何ぞ別に天子児の律を制せざる。我安んぞ法を虧かんや」と。卒に許さず。此れは帝王の法を操り、礼経不変の義に協う。況んや秋官職を典し、司寇事を肅するに於いてをや、而して変動すべけんや。我が皇睿哲図に登り、巌廊の上を高視す。宰衡明允列に就き、廟堂の下に輯穆す。乾坤交泰し、日月光華す。庶績其れ凝り、衆工咸く理まる。正を以て聚まるなり、僕幸いに大人を見るに利あり。其の吉を引きて、下位に正を養うを期す。中正は托す、予何ぞ懼れん。夫れ君子百行の基、出処二途のみ。出ずれば則ち名を策し質を委ね、直道を行いて以て人に事え、善を進め忠を納れ、太階を仰ぎて政を緝む。諤諤其の節、社稷の臣と為らんと思い、謇謇躬に匪ず、柱石の任に参ぜんと願う。処すれば則ち公卿に高謝し、孝友名を揚げ、是れ亦た政を為すなり。煙霞志を尚し、其の用永貞、行蔵事業、心跡斯に在り。至りては水中泛泛、天下悠悠、馭を執るを栄と為し、門を掃いて自ら媚び、塵を拝して勢を邀い、囊を括して祿を守る。従来長息し、以て深恥と為す。客乃ち逡巡して対せず、遂に以て僕を間うる無し。

原文嘗讀《易》至「萃,利見大人,亨,聚以正也。六二,引吉無咎。」註曰:「居萃之時,體柔當位。處《坤》之中,己獨處正。異操而聚,獨正者危,未能變體,以遠於害。故必見引,然後乃吉而無咎。」王肅曰:「六二與九五相應,俱履貞正。引由迎也,爲吉所迎,何咎之有?」未嘗不輟書而嘆曰:「居中履正,事之常體,見引無咎,道亦宜然。有客聞而惑之,因謂僕曰:今主上文明,域中理定,君累司典憲,不務和同。處正之志雖存,見引之吉誰應?行之不已,余竊懼焉。僕斂襟降階揖而謝曰:補遺闕於袞職,用忠讜爲己任,以蒙養正,見引獲吉,應此道也,仁何遠哉!昔咎繇謨虞,登朝作士,設教理物,開訓成務。是以五流有宅,五宅三居,怙終賊刑,刑故無小。於是舜美其事曰:「汝明於五刑,以弼五教,期於予理,刑期於無刑,人協於中,時乃功,懋哉!」故孔子嘆其政曰:「舜舉咎繇,不仁者遠。」此非明辟執法,大人見引之應乎?季孫行父之事君也,舉竊寶之愆,黜授邑之賞,明善惡而糾慝,議僭賞以塞違。在虞舜之功,居二十之一,主司得行其道,時君不以爲嫌,此非己獨處正,應正而無咎。觀魚於棠,臧伯正色;賂鼎在廟,哀伯抗詞。言者得盡其忠,聞之不加其罪。故《春秋》稱臧氏之正,曰:「積善之家,必有餘慶。」此非異操而聚,引吉之所致乎?魏絳理直,晉侯乃復其位;邾人辭順,趙盾不伐其國。此非正體未變,爲吉所迎者乎?夫在上垂拱,臣下守制,若正應乎上,乃引吉於下。而中士聞道,若存若亡,交戰於譎正之門,懷疑乎語默之境,懼獨正之莫引,忘此正之必亨。籲嗟乎!行己立身,居正踐義,其動也直,其正也方。維正直而是與,何往而非攸利。何以明之?《坤》六二:「直方大,不習無不利。」《文言》曰:「直其正也,方其義也,君子敬以直內,義以方外。敬義立而德不孤,直方大則不疑其所行也。」嵇康撰《釋私論》,曹羲著《至公篇》,皆以崇公激俗,抑私事主,一言可以蔽之,歸於體正而已矣。《禮記》曰:「刑者侀也,侀者成也,一成而不可變,故君子盡心焉。」若以喜怒制刑,輕重設比,是則橋前驚馬,用希旨論人,苑中獵兔,以從欲廢法。理有違而合道,物貴和而不同,不同之和,正在其中矣。昔任延爲武威太守,漢帝誡之曰:「善事上官,無失名譽。」延對曰:「臣聞忠臣不私,私臣不忠,上下雷同,非國家之福。善事上官,臣不敢奉詔。」任延雅奏,漢主是其言。此則歸正不回,乖旨順義,不以忤懷見忌,斯亦違而合道。《晏子春秋》:景公見梁丘據曰:「據與我和。」晏子曰:「此同也。和者,君甘則臣酸,君淡則臣咸。今據也,君甘亦甘,所謂同也,安得爲和?」是以濟鹽梅以調羹,乃適平心之味;獻可否而論道,方恢政體之節。俟引正而遵度,故曰物貴和而不同。劉曼山辯和同之義,有旨哉!若以不同見譏,未敢聞誨。客曰:和同乖訓,則已聞之。援法成而不變者,豈恤獄之寬憲耶?《書》曰:「禦眾以寬。」《傳》曰:「寬則得眾。」若以嚴統物,異乎寬政矣。對曰:刑賞二柄,唯人主操之,崇厚任寬,是謂帝王之德。慎子曰:「以力役法者,百姓也;以死守法者,有司也;以道變法者,君上也。」然則匪人臣所操。後魏遊肇之爲廷尉也,魏帝嘗私敕肇有所降恕,肇執而不從曰:「陛下自能恕之,豈足令臣曲筆也?」是知寬恕是君道,曲從非臣節。人或未達斯旨,不料其務,以平刑爲峻,將曲法爲寬,謹守憲章,號爲深密。《內律》:「釋種虧戒,一誅五百人,如來不救其罪。」豈謂佛法爲殘刻耶?老子《道德經》云:「天網恢恢,疏而不漏。」豈謂道教爲凝峻耶?《家語》曰:「王者之誅有五,而寢盜不預焉。」即心辯言偽之流。《禮記》亦陳四殺,破律亂名之謂。豈是儒家執禁,孔子之深文哉?此三教之用法者,所以明真諦,重玄猷,存天綱,立人極也。然則乾象震曜,天道明威。齊眾惟刑,百王所以垂範;析人以法,三後於是成功。所務掌憲決平,斯廷尉之職耳。《易》曰:「家人嗃嗃,無咎;婦子嘻嘻,終吝。」嚴於其家,可移於國。昔崔實達於理而作《政論》,仲長統曰:「凡爲人主,宜寫《政論》一通,置諸坐側。」其大抵雲爲國者以嚴致平,非以寬致平者也。然則稱嚴者不必逾條越制,凝網重罰,在於施隱括以矯枉,用平典以禁非。刑故有常,罰輕無舍,人不易犯,防之難越故也。但人慢吏濁,偽積贓深,而曰以寬理之,可以無過。何異乎命王良禦駻,舍銜策於奔踶;請俞跗攻疾,停藥石於膚腠!適見秋駕轉逸,膏肓更深,醫人僕夫,何功之有?又謂僕曰:成法而變,唯帝王之命歟?對曰:何爲其然也?昔漢武帝甥昭平君殺人,以公主子,廷尉上請論。左右爲言,武帝垂涕嘆曰:「法令者,先帝之所造也,用親故誣先帝子法,吾何面目入高廟乎?又下負萬人!」乃可其奏。近代隋文帝子秦王俊爲并州總管,以奢縱免官。僕射楊素奏言:「王,陛下愛子,請舍其過。」文帝曰:「法不可違。若如公意,我是五兒之父,非兆人之父,何不別制天子兒律乎?我安能虧法!」卒不許。此是帝王操法,協於禮經不變之義。況於秋官典職,司寇肅事,而可變動者乎!我皇睿哲登圖,高視巖廊之上;宰衡明允就列,輯穆廟堂之下。乾坤交泰,日月光華,庶績其凝,眾工咸理。聚以正也,僕幸利見大人;引其吉焉,期養正於下位。中正是托,予何懼乎?夫君子百行之基,出處二途而已。出則策名委質,行直道以事人,進善納忠,仰太階而緝政。諤諤其節,思爲社稷之臣;謇謇匪躬,願參柱石之任。處則高謝公卿,孝友揚名,是亦爲政。煙霞尚誌,其用永貞,行藏事業,心跡斯在。至如水中泛泛,天下悠悠,執馭爲榮,掃門自媚,拜塵邀勢,括囊守祿,從來長息,以爲深恥。客乃逡巡不對,遂無以間僕也。

中宗はこれを見て賞賛し、次第に駕部郎中に昇進した。

原文中宗覽而嘉之。稍遷駕部郎中。

景雲元年、累進して左御史中丞に転じ、まもなく大理少卿に昇進した。二年、詔により漢の制度に倣って刺史を置いて郡を監察し、天下の要衝たる大州に都督二十人を置き、威厳と重みのある者を選んでこれに任じたので、ついに志愔を斉州都督に任じたが、事は結局行われなかった。また斉州刺史を授け、河南道按察使を兼ねた。まもなく汴州刺史に転じ、引き続き河南道按察使を兼ねた。太極元年、また本官のまま御史中丞・内供奉を兼ねることを命じられ、特に実封一百戸を賜った。まもなく銀青光禄大夫を加えられ、戸部侍郎に任じられた。出向して魏州刺史となり、転じて揚州大都督府長史となり、いずれも本道の按察使を兼ねた。赴任地では令は行き渡り禁は守られ、奸悪狡猾な者は跡を潜め、管内は厳粛であった。久しくして召されて刑部尚書に任じられた。

原文景雲元年,累轉左御史中丞,尋遷大理少卿。二年,制依漢置刺史監郡,於天下沖要大州置都督二十人,妙選有威重者爲之,遂拜志愔齊州都督,事竟不行。又授齊州刺史,充河南道按察使。未幾,遷汴州刺史,仍舊充河南道按察使。太極元年,又令以本官兼御史中丞、內供奉,特賜實封一百戸。尋加銀青光祿大夫,拜戸部侍郎。出爲魏州刺史,轉揚州大都督府長史,俱充本道按察使。所在令行禁止,奸猾屏跡,境內肅然。久之,召拜刑部尚書。

開元九年、皇帝が東都に行幸し、京師留守を命じられた。十年、京兆の人権梁山が偽って襄王の子と称し、光帝と号し、その党類および左右屯営の押官と謀反を企てた。夜半に左屯営の兵百余りを擁して景風門・長楽門などから門を斬り破って宮城に入り、志愔を殺そうとしたので、志愔は塀を越えて賊を避けた。やがて屯営の兵は潰散し、かえって梁山ら五人を殺し、その首を東都に伝送した。志愔はこのため驚愕して卒した。

原文開元九年,上幸東都,令充京師留守。十年,有京兆人權梁山偽稱襄王男,自號光帝,與其黨及左右屯營押官謀反。夜半時擁左屯營兵百餘人自景風、長樂等門斬關入宮城,將殺志愔,志愔逾墻避賊。俄而屯營兵潰散,翻殺梁山等五人,傳首東都,志愔遂以駭卒。

盧従願

原文盧從願

盧従願は、相州臨漳の人で、後魏の度支尚書盧昶の六代の孫である。范陽から移り住み、代々山東の名族であった。明経科に及第し、絳州夏県尉に任じられ、また制挙に応じて右拾遺に任じられた。まもなく右粛政監察御史に昇進し、山南道黜陟巡撫使を兼ね、使命を奉じて旨にかなったので、殿中侍御史に任じられた。累進して中書舎人となった。

原文盧從願,相州臨漳人,後魏度支尚書昶六代孫也。自范陽徙家焉,世爲山東著姓。冠明經舉,授絳州夏縣尉,又應制舉,拜右拾遺。俄遷右肅政監察御史,充山南道黜陟巡撫使,奉使稱旨,拜殿中侍御史。累遷中書舍人。

睿宗が即位すると、吏部侍郎に任じられた。中宗の後、選司は綱紀をかなり失っており、従願は心を尽くして整理し、非常に公平妥当であると称された。名を偽り選挙を受けたり、功績の状況を虚偽で増やしたりする類の者を、ことごとくその事実を摘発することができた。選挙を掌ること六年、前後して彼に及ぶ者はいなかった。皇帝はこれを嘉し、特に一子に太子通事舎人の官を授けた。従願は上疏して恩を父に回して贈ることを乞うたので、その父の吉陽丞盧敬一を鄭州長史に追贈した。初め、高宗の時に裴行儉・馬載が吏部にあり、最も称職であった。この時、従願と李朝隠が同時に選挙を掌り、また美誉があった。当時の人は言った。「吏部には前に馬・裴あり、後に盧・李あり」と。

原文睿宗踐祚,拜吏部侍郎。中宗之後,選司頗失綱紀,從願精心條理,大稱平允。其有冒名偽選及虛增功狀之類,皆能擿發其事。典選六年,前後無及之者。上嘉之,特與一子太子通事舍人。從願上疏乞回恩贈父,乃贈其父吉陽丞敬一爲鄭州長史。初,高宗時裴行儉、馬載爲吏部,最爲稱職。及是,從願與李朝隱同時典選,亦有美譽。時人稱曰:吏部前有馬、裴,後有盧、李。

開元四年、皇帝は新たに任じられた県令をすべて召し、一時に殿庭で策試し、考課が下第の者は一切学問に帰らせた。従願は注擬(官職への推薦任命)に人材を得なかったとして、左遷されて豫よ州刺史となった。政務は厳格で簡素であり、按察使が奏上した考課は天下第一等となり、璽書を賜って労い、絹百匹を賜った。まもなく、召されて工部侍郎となり、転じて尚書左丞となった。また楊滔および吏部侍郎裴漼・礼部侍郎王丘・中書舎人劉令植とともに『開元後格』を刪定し、中書侍郎に昇進した。十一年、工部尚書に任じられ、銀青光禄大夫を加えられ、引き続き東都留守を命じられた。十三年、泰山登封に従い、また金紫光禄大夫を加えられ、韋抗に代わって刑部尚書となった。頻年にわたり京外官の考課使を充てられ、前後してみな允当であると称された。

原文開元四年,上盡召新授縣令,一時於殿庭策試,考入下第者,一切放歸學問。從願以註擬非才,左遷豫州刺史。爲政嚴簡,按察使奏課爲天下第一等,璽書勞問,賜絹百匹。無幾,入爲工部侍郎,轉尚書左丞。又與楊滔及吏部侍郎裴漼、禮部侍郎王丘、中書舍人劉令植刪定《開元後格》,遷中書侍郎。十一年,拜工部尚書,加銀青光祿大夫,仍令東都留守。十三年,從升泰山,又加金紫光祿大夫,代韋抗爲刑部尚書。頻年充校京外官考使,前後咸稱允當。

御史中丞宇文融が恩寵を受けて権勢を振るい、田戸を検出した功績により、本司の校考を上下としたが、従願はこれを抑えて与えなかった。融はこれを大いに恨みに思い、密かに従願が広く良田を占め、百余頃に及ぶと奏上した。その後、皇帝が宰相に堪えうる者を選ぼうとした時、ある者が従願を推薦したが、皇帝は「従願は広く田園を占めている。これは廉潔ではない」と言い、ついに用いることを止めた。従願はまた早朝に出仕する途中、人に射られ、従者が当たったが、賊を捕らえることがついにできなかった。当時の議論では、従願が長く選司に在ったため、抑圧された者に仇とされたのだという。

原文御史中丞宇文融承恩用事,以括獲田戸之功,本司校考爲上下,從願抑不與之。融頗以爲恨,密奏從願廣占良田,至有百餘頃。其後,上嘗擇堪爲宰相者,或薦從願,上曰:「從願廣占田園,是不廉也。」遂止不用。從願又因早朝,途中爲人所射,中其從者,捕賊竟不獲。時議從願久在選司,爲被抑者所讎。

十六年、東都留守となった。時に子の起居郎盧論が米を官に売り入れ余利を得た罪に連坐し、憲司に糾弾され、出向して絳州刺史となり、再び転じて太子賓客となった。二十年、河北で穀物が高価になったため、詔により従願を宣撫処置使とし、倉を開いて飢えた者を救済させた。使いから戻り、年老いたことを理由に表を奉って骸骨を乞うたので、吏部尚書に任じ、致仕を許し、全禄を与えた。二十五年に卒した。七十余歳。益州大都督を追贈し、諡して文といった。

原文十六年,東都留守。時坐子起居郎論糶米入官有剩利,爲憲司所糾,出爲絳州刺史,再遷太子賓客。二十年,河北谷貴,敕從願爲宣撫處置使,開倉以救饑餒。使回,以年老抗表乞骸骨,乃拜吏部尚書,聽致仕,給全祿。二十五年卒,年七十餘,贈益州大都督,謚曰文。

李朝隠

原文李朝隱

李朝隠は、京兆三原の人である。若くして明法科に挙げられ、臨汾尉に任じられ、累進して大理丞に任じられた。神龍年間、功臣の敬暉・桓彦範が武三思に陥れられ、侍御史鄭愔に唆されて誅殺を奏請させ、詔により大理寺にその罪を結案させた。朝隠は、暉らの犯した罪は、推問窮究を経ていないので、直ちに刑名を正すことはできないと考えた。時に裴談が大理卿であり、異なる筆で斬刑を断じ、なおその家を没収したので、朝隠はこれによって旨に逆らった。中宗は嶺南の悪地に貶すことを命じたが、侍中韋巨源・中書令李嶠が奏上して言った。「朝隠は平素清正と称され、獄を断ずることもまた事柄に非常に適っています。一朝にして嶺表に遠く流せば、天下がその罪を疑う恐れがあります」と。中宗の怒りは解け、出向して聞喜令となった。

原文李朝隱,京兆三原人也。少以明法舉,拜臨汾尉,累授大理丞。神龍年,功臣敬暉、桓彥範爲武三思所構,諷侍御史鄭愔奏請誅之,敕大理結其罪。朝隱以暉等所犯,不經推窮,未可即正刑名。時裴談爲大理卿,異筆斷斬,仍籍沒其家,朝隱由是忤旨。中宗令貶嶺南惡處,侍中韋巨源、中書令李嶠奏曰:「朝隱素稱清正,斷獄亦甚當事,一朝遠徙嶺表,恐天下疑其罪。」中宗意解,出爲聞喜令。

まもなく侍御史に昇進し、三転して長安令となった。宦官の閻興貴が県にやってきて請託したので、朝隠は引きずり出すことを命じた。睿宗はこれを聞いて賞賛し、朝廷に召して朝隠を労い、言った。「卿が京県の令としてこのようにできるなら、朕はまた何を憂えようか」と。そこで詔を下して言った。「剛を吐かずして上に諂い、柔を茹まずして下を汚さないのは、君子の事である。軒端に至れば必ず縄墨に従い、車に登れば屈することないのは、正人の務めである。長安県令李朝隠は、徳義に背かず、清廉剛直をもって自らを貫き、しばしば善政を聞き、累ねて能名を著す。近ごろ品官が県に入り、儀式に背くことがあったが、遂に礼をもってこれを責め、過ちをもってこれを正すことができた。ただ宦官の流れは、多くは権勢を頼みとし、柔和寛容の時代には、必ず威権を弄ぶ。歴史上の記録を観るにつけ、常に嘆息するところである。朕は前古を規誡し、典憲を勤めて求めている。朕の意に副うことができるのは、実にこの人に頼る。昔、虞延が皇后の客を拘束し、梅陶が太子の傅を鞭打った。古に遺直と称されるが、今またこれを見る。その美行を顕彰し、重職に遷してやろうと思うが、時に戸籍を検閲する属し、政は人を養うにある。宜しく一階を加え、剛烈を表すべし。太中大夫とすべし。特に中上考を賜い、兼ねて絹百匹を賜う」と。七転して絳州刺史となり、吏部選事を兼ねて知った。

原文尋遷侍御史,三遷長安令,有宦官閭興貴詣縣請托,朝隱命拽出之。睿宗聞而嘉嘆,廷召朝隱,勞曰:「卿爲京縣令能如此,朕復何憂。」乃下制曰:「夫不吐剛而謅上、不茹柔而黷下者,君子之事也。踐霤必繩、登車無屈者,正人之務也。長安縣令李朝隱,德義不回,清強自遂,亟聞嘉政,累著能名。近者品官入縣,有乖儀式,遂能責之以禮,繩之以愆。但閹豎之流,多有憑恃,柔寬之代,必弄威權。歷觀載籍,常所嘆息。朕規誡前古,勤求典憲,能副朕意,實賴斯人。昔虞延持皇后之客,梅陶鞭太子之傅,古稱遺直,復見於今。思欲旌其美行,遷以重職,爲時屬閱戸,政在養人,宜加一階,用表剛烈。可太中大夫。特賜中上考,兼絹百匹。」七遷絳州刺史,兼知吏部選事。

開元二年、吏部侍郎に昇進し、銓叙は公平妥当で、当時大いに称賛され、璽書を降して褒め称えられ、一子に太子通事舎人の官を授けられた。四年春、県令を授けるのに適任でなかったとして、出向して滑州刺史となり、転じて同州刺史となった。皇帝が東都に行幸し、路が同州を通った時、朝隠は旨により召し出されて賞賛慰労され、衣一副・絹百匹を賜った。まもなく河南尹に昇進し、政務は非常に清廉厳格で、豪族権勢家は跡を潜めた。時に太子の舅の趙常奴が権勢を頼んで平民を侵害したので、朝隠は「これを正さずして、何をもって政と為さんか」と言い、捕らえて杖刑に処した。皇帝はこれを聞き、また詔書を降して慰労激励した。

原文開元二年,遷吏部侍郎,銓敘平允,甚爲當時所稱,降璽書褒美,授一子太子通事舍人。四年春,以授縣令非其人,出爲滑州刺史,轉同州刺史。駕幸東都,路由同州,朝隱蒙旨召見賞慰,賜衣一副、絹百匹。尋遷河南尹,政甚清嚴,豪右屏跡。時太子舅趙常奴恃勢侵害平人,朝隱曰:「此而不繩,何以爲政?」執而杖之。上聞,又降敕書慰勉之。

十年、大理卿に昇進した。時に武強令裴景仙が乞取の贓物五千匹を積み犯し、事が発覚して逃走した。皇帝は大いに怒り、衆を集めてこれを殺すことを命じた。朝隠は執奏して言った。「裴景仙は乞取の贓物に縁るもので、犯した罪は死に至らず。また景仙の曾祖父は故司空しくう裴寂であり、かつて創業に参与し、元勲の首に預かった。載初年中、家は罪なくして陥り、兄弟は皆誅夷され、ただ景仙のみが生き残り、今嫡流を継いでいる。贓物に拠れば死罪に当たらず、犯した罪に準じればなお請条(上請の条項)に入る。十代にわたり賢者を宥し、功績は実に記録すべきである。一門が祀を絶つことは、情けにおいて哀れむべきところがある。暴市の刑を寛め、投荒の役に就かせてはどうか。そうすれば旧勲に対しても妥当であります」と。手詔で許さなかった。朝隠はまた奏上して言った。

原文十年,遷大理卿。時武強令裴景仙犯乞取贓積五千匹,事發逃走。上大怒,令集眾殺之。朝隱執奏曰:「裴景仙縁是乞贓,犯不至死。又景仙曾祖故司空寂,往屬締構,首預元勛。載初年中,家陷非罪,凡有兄弟皆被誅夷,唯景仙獨存,今見承嫡。據贓未當死坐,準犯猶入請條。十代宥賢,功實宜録;一門絶祀,情或可哀。願寬暴市之刑,俾就投荒之役,則舊勛斯允。」手詔不許。朝隱又奏曰:

天より断ずる有り、極法に処す。生殺の柄は、人主専らにすべし。軽生に条有り、臣下守るべし。枉法は、理を枉げて取り、十五匹にして便ち死刑に抵る。乞取は、乞うを因りて贓と為し、数千匹にして止めて流坐に当たる。今若し乞取罪を得て、便ち斬刑に処せば、後に枉法科に当たる有らば、何の辟をか加えんと欲する。是を以て法を国の為に惜しみ、律文を守らんことを期す。敢えて法を以て人に随うに非ず、曲く仙命を矜れむに非ず。魏の苑に兎を射、漢の橋に馬を驚かし、初め皇赫を震わし、竟に廷議に従う。豈に威制する能わざらんや、而して法は常を貴ぶ。又景仙の曾祖寂は、草昧の忠節、定めて元勛と為し、位は台司に至り、恩は常数に倍す。載初の際、枉を被りて家を破られ、諸子各非辜に犯す。唯だ仙今嫡を承くを見る。若し寂の勛都て棄てられ、仙の罪特加えられば、則ち叔向の賢何ぞ称するに足らん、若敖の鬼其れ餒えざらんや。罪を捨て功を念い、天聴に垂れんことを乞う。応に敕決杖及び犯有りて配流するは、近く徳音を発し、普く殊沢を標す。杖者は既に数を減ずるを聴き、流者は仍程を給するを許す。天下颙颙として、孰か幸甚ならざらん。彼の四海を瞻れば、已に深恩を被る。豈に一人に於て、独り常典を峻にせんや。伏して臣の議を采り、仙を法に致さんことを乞う。

原文有斷自天,處之極法。生殺之柄,人主合專;輕生有條,臣下當守。枉法者,枉理而取,十五匹便抵死刑;乞取者,因乞爲贓,數千匹止當流坐。今若乞取得罪,便處斬刑,後有枉法當科,欲加何辟?所以爲國惜法,期守律文,非敢以法隨人,曲矜仙命。射兔魏苑,驚馬漢橋,初震皇赫,竟從廷議,豈威不能制,而法貴有常。又景仙曾祖寂,草昧忠節,定爲元勛,位至臺司,恩倍常數。載初之際,被枉破家,諸子各犯非辜,唯仙今見承嫡。若寂勛都棄,仙罪特加,則叔向之賢何足稱者,若敖之鬼不其餧而?舍罪念功,乞垂天聽。應敕決杖及有犯配流,近發德音,普標殊澤,杖者既聽減數,流者仍許給程。天下颙颙,孰不幸甚!瞻彼四海,已被深恩,豈於一人,獨峻常典?伏乞采臣之議,致仙於法。

乃ち制を下して曰く、「罪は大に在らず、情に本づく。罰は必ず行うに在り、重きに在らず。朕は範を垂れて訓を作し、庶幾くば動植咸若からんことを欲す。豈に厳刑を逞しくして戮し、手足措く所無からしめんや。裴景仙は幸いに緒余を藉り、令宰に超升し、我が憲法を軽んじ、我が風猷を蠹し、畏を知るの金を慎まず、詎貪無きの宝を識らんや。家は黷貨に盈ち、身は乃ち逃亡す。殊不知天孽は違うべく、自愆は難く逭う。是を以て本法に従わず、殊刑を加え、冀くは貪暴の流を懲らし、以て侵漁の路を塞がんとす。然れども其の祖父昔経綸に預かり、命を佐けて功有り、締構斯に重し。賞延の義を緬懐し、俾政寛の典に協わしむ。宜しく其の極法を捨て、以て遐荒に竄すべし。仍て杖一百を決し、嶺南の悪処に流す。」

原文乃下制曰:「罪不在大,本乎情;罰在必行,不在重。朕垂範作訓,庶動植咸若,豈嚴刑逞戮,使手足無措者哉?裴景仙幸藉緒余,超升令宰,輕我憲法,蠹我風猷,不慎畏知之金,詎識無貪之寶,家盈黷貨,身乃逃亡。殊不知天孽可違,自愆難逭,所以不從本法,加以殊刑,冀懲貪暴之流,以塞侵漁之路。然以其祖父昔預經綸,佐命有功,締構斯重,緬懷賞延之義,俾協政寬之典,宜舍其極法,以竄遐荒。仍決杖一百,流嶺南惡處。」

朝隠俄に転じて岐州刺史と為り、母憂にて官を去る。起きて揚州大都督府長史と為らんとし、疏を抗して固く辞し、制許す。朝隠は性孝友、時に年已に衰暮す。喪に在りて尤毀瘠を加う。明年、制又起きて揚州長史と為らしむ。獲已むを得ずして職に就き、復入りて大理卿と為り、累ねて金城伯に封ぜられ、崔隠甫に代わりて御史大夫と為る。朝隠は素より公直の誉有り、毎に御史大夫缺くれば、時議咸く之を許す。及び其の職に居るに、竟に糾劾する所無く、唯だ細務に煩う。時望是に由りて稍減ず。俄に転じて太常卿と為る。二十一年、広州事を兼ね判し、仍て御史大夫を摂し、嶺南采訪処置使を充つ。明年、嶺外に卒す。年七十。吏部尚書を贈り、官霊輿を給し、兼ねて家口に遞を給して郷に還し、謚して貞と曰う。

原文朝隱俄轉岐州刺史,母憂去官。起爲揚州大都督府長史,抗疏固辭,制許之。朝隱性孝友,時年已衰暮,在喪尤加毀瘠。明年,制又起爲揚州長史,不獲已而就職,復入爲大理卿,累封金城伯,代崔隱甫爲御史大夫。朝隱素有公直之譽,毎御史大夫缺,時議咸許之。及居其職,竟無所糾劾,唯煩於細務,時望由是稍減。俄轉太常卿。二十一年,兼判廣州事,仍攝御史大夫,充嶺南采訪處置使。明年,卒於嶺外,年七十,贈吏部尚書,官給靈輿,兼家口給遞還鄕,謚曰貞。

裴漼

原文裴漼

裴漼は、絳州聞喜の人なり。世著姓と為る。父琰之、永徽中、同州司戸参軍と為り、時に年少、容儀美くしく、刺史李崇義初め甚だ之を軽んず。先ず是れ、州中に積年の旧案数百道有り、崇義琰之を促して之を断ぜしむ。琰之書吏数人に命じ、紙を連ね筆を進め、斯須に剖断並びに畢り、文翰俱に美くしく、且つ与奪の理を尽くす。崇義大いに驚き、謝して曰く、「公何ぞ鋒を蔵して以て鄙夫の過を成すを忍びんや」と。是に由りて大いに知名と為り、号して「霹靂手」と曰う。後永年令と為り、恵政有り、人吏石を刊して之を頌す。歴任して倉部郎中に至り、老疾を以て家に廢す。

原文裴漼,絳州聞喜人也。世爲著姓。父琰之,永徽中,爲同州司戸參軍,時年少,美容儀,刺史李崇義初甚輕之。先是,州中有積年舊案數百道,崇義促琰之使斷之,琰之命書吏數人,連紙進筆,斯須剖斷並畢,文翰俱美,且盡與奪之理。崇義大驚,謝曰:「公何忍藏鋒以成鄙夫之過!」由是大知名,號爲「霹靂手」。後爲永年令,有惠政,人吏刊石頌之。歷任倉部郎中,以老疾廢於家。

漼は色養劬労、十数年仕進を求めず。父卒したる後、大礼挙に応じ、陳留主簿に拝し、累遷して監察御史と為る。時に吏部侍郎崔湜・鄭愔贓に坐して御史李尚隠に劾せらる。漼同じく其の獄を鞫く。安楽公主及び上官昭容湜等に阿党す。漼竟に正を執りて其の罪を奏す。甚だ当時に称せらる。三遷して中書舎人と為る。

原文漼色養劬勞,十數年不求仕進。父卒後,應大禮舉,拜陳留主簿,累遷監察御史。時吏部侍郎崔湜、鄭愔坐贓爲御史李尚隱所劾,漼同鞫其獄。安樂公主及上官昭容阿黨湜等,漼竟執正奏其罪,甚爲當時所稱。三遷中書舍人。

太極元年、睿宗金仙・玉真公主の為に観及び寺等を造る。時に春旱に属し、役を興して止まず。漼上疏して諫めて曰く、

原文太極元年,睿宗爲金仙、玉真公主造觀及寺等,時屬春旱,興役不止。漼上疏諫曰:

臣謹んで案ずるに《礼記》春・秋の令に曰く、「大衆を聚むること無く、大役を起すこと無く、土功を興すべからず、農事を妨ぐるを恐る」と。若し号令度に乖き、役使時にあらざれば、則ち疾疫の危を加え、国に水旱の災有り。此れ五行の必応する所なり。今春より夏に至るまで、時雨期に愆れ、下人の心を憂え、出づる所を知らず。陛下哀矜の旨を降すと雖も、両都仍に寺観の作有り。時旱の応は、実に此れに由る。且つ春令期を告げ、東作方に始まらんとす。正に丁壮功に就くの日なるに、而して土木方に興る。臣恐らくは妨ぐる所尤多く、益す所尤少なく、耕夫蠶妾は饑寒の源たるを。故に《春秋》「荘公三十一年冬、雨らず」、《五行伝》以て「歳に三たび台を築く」と為す。「僖公二十一年夏、大旱す」、《五行伝》「時に南門を作し、人を労して役を興す」と為す。陛下毎に万方を念と為し、睿旨殷勤、国を安んじ人を済い、微を防ぎ遠きを慮う。伏して願わくは明制を下し、徳音を発し、天時に順い、人望に副い、両京の公私営造及び諸の和市木石等並びに請う且く停めば、則ち蒼生幸甚なり。農桑時に失い、戸口流散す。縦え寺観を営構すとも、豈に黎元の饑寒の弊を救わんや。

原文臣謹案《禮記》春、秋令曰:無聚大眾,無起大役,不可興土功,恐妨農事。若號令乖度,役使不時,則加疾疫之危,國有水旱之災,此五行之必應也。今自春至夏,時雨愆期,下人憂心,莫知所出。陛下雖降哀矜之旨,兩都仍有寺觀之作,時旱之應,實此之由。且春令告期,東作方始,正是丁壯就功之日,而土木方興,臣恐所妨尤多,所益尤少,耕夫蠶妾,饑寒之源。故《春秋》「莊公三十一年冬,不雨」,《五行傳》以爲「歳三築臺」;「僖公二十一年夏,大旱」,《五行傳》以「時作南門,勞人興役」。陛下毎以萬方爲念,睿旨殷勤,安國濟人,防微慮遠。伏願下明制,發德音,順天時,副人望,兩京公私營造及諸和市木石等並請且停,則蒼生幸甚。農桑失時,戸口流散,縱寺觀營構,豈救黎元饑寒之弊哉!

疏奏して報いず。尋ち転じて兵部侍郎と為り、銓叙平允を以て、一子を授けて太子通事舎人と為す。

原文疏奏不報。尋轉兵部侍郎,以銓敘平允,持授一子爲太子通事舍人。

開元五年、遷りて吏部侍郎と為り、選を典すること数年、持抜する所多し。再転して黄門侍郎と為り、韋抗に代わりて御史大夫と為る。漼は早く張説と特相善し、時に説相位に在り、数たび之を称薦す。漼又敷奏に善くし、上亦嘉重す。是に由りて擢拝して吏部尚書と為り、尋ち転じて太子賓客と為る。漼は家世儉約、既に久しく清要に居り、頗る妓妾を飾り、後庭に綺羅の賞有り。是に由りて時論に譏らる。二十四年卒す。年七十余。礼部尚書を贈り、謚して懿と曰う。

原文開元五年,遷吏部侍郎,典選數年,多所持拔。再轉黃門侍郎,代韋抗爲御史大夫。漼早與張説特相友善,時説在相位,數稱薦之。漼又善於敷奏,上亦嘉重焉。由是擢拜吏部尚書,尋轉太子賓客。漼家世儉約,既久居清要,頗飾妓妾,後庭有綺羅之賞,由是爲時論所譏。二十四年卒,年七十餘,贈禮部尚書,謚曰懿。

漼の従祖弟 寛

原文漼從祖弟 寬

漼の従祖弟寛。寛の父無晦、袁州刺史。寛は通略、文詞を以て進み、騎射・弾棋・投壺特妙なり。景雲中、潤州参軍と為り、刺史韋銑按察使と為り、之を引いて判官と為し、清幹にして剖断に善くし、銑其の才を重んじ、女を以て妻と為す。後抜萃に応じ、挙げられて河南丞と為る。再転して長安尉と為る。時に宇文融侍御史と為り、天下の田戸を括り、使して奏差し江南東道勾当租庸地税兼覆田判官と為す。転じて太常博士と為る。礼部国忌の辰に廟を享するに楽を用いんと擬し、太常に下す。寛は礼節に深く達し、特新意を建て、以て廟尊く忌卑しければ則ち登歌し、廟卑しく忌尊しければ則ち龠を去ると為す。中書令張説寛の明識を謂い、挙げて之を行う。再遷して刑部員外郎と為る。万騎将軍馬崇正昼人を殺す有り。時に開府・霍国公王毛仲恩幸用事し、将に其の獄を鬻らんとす。寛之を執して回らざる。兵部尚書蕭嵩河西節度使と為り、寛及び郭虚己を奏して判官と為し、累年専ら委任を見る。嵩中書令を加えらる。寛歴任して中書舎人・御史中丞・兵部侍郎と為る。開元二十一年冬、裴耀卿黄門侍郎を以て政事を知り、扈従して関を出で、江・淮の転運を知り、河陰に倉を置き、寛を奏して戸部侍郎と為し、其の副と為す。

原文漼從祖弟寬。寬父無晦,袁州刺史。寬通略,以文詞進,騎射、彈棋、投壺特妙。景雲中,爲潤州參軍,刺史韋銑爲按察使,引爲判官,清幹善於剖斷,銑重其才,以女妻之。後應拔萃,舉河南丞。再轉爲長安尉。時宇文融爲侍御史,括天下田戸,使奏差爲江南東道勾當租庸地稅兼覆田判官。轉太常博士。禮部擬國忌之辰享廟用樂,下太常,寬深達禮節,特建新意,以爲廟尊忌卑則登歌,廟卑忌尊則去龠。中書令張説謂寬明識,舉而行之。再遷爲刑部員外郎。有萬騎將軍馬崇正晝殺人,時開府、霍國公王毛仲恩幸用事,將鬻其獄,寬執之不回。兵部尚書蕭嵩爲河西節度使,奏寬及郭虛己爲判官,累年專見委任,嵩加中書令,寬歷中書舍人、御史中丞、兵部侍郎。開元二十一年冬,裴耀卿以黃門侍郎知政事,扈從出關,知江、淮轉運,於河陰置倉,奏寬爲戸部侍郎,爲其副。

裴寛は友愛の情に厚く、兄弟の多くは官途に達し、子や甥も名声があり、東京に邸宅を建てて同居し、八つの院が向かい合い、甥や甥たちにも休憩所があり、鼓を打って食事をし、当世の人々はこれを栄誉とした。吏部侍郎に選ばれ、玄宗が京に還ると、また蒲州刺史に改められた。州内は長く旱魃が続いていたが、境に入ると雨が大いに降り潤った。河南尹に遷り、権貴に附かず、民を慰撫することに務めたので、政務は大いに治まった。左金吾衛大將軍に改められ、一年後、太原尹に任じられ、紫金魚袋を賜った。玄宗は詩を賦して彼を送り、曰く「徳は岱雲の布くが如く、心は晋水の清きが如し」。

原文寬性友愛,弟兄多宦達,子侄亦有名稱,於東京立第同居,八院相對,甥侄皆有休憩所,擊鼓而食,當世榮之。選吏部侍郎,及玄宗還京,又改蒲州刺史。州境久旱,入境,雨乃大浹。遷河南尹,不附權貴,務於恤隱,政乃大理。改左金吾衞大將軍,一年,除太原尹,賜紫金魚袋。玄宗賦詩而餞之,曰:「德比岱雲布,心如晉水清。」

天宝初年、陳留太守に任じられ、兼ねて采訪使となった。まもなく范陽節度使李適之が入朝して御史大夫となり、裴寛を范陽節度使兼河北采訪使として彼の後任とした。その年、また御史大夫を加えられた。時に北平軍使烏承恩は蕃酋として宦官と通じていることを恃み、恣に財貨を求め賄賂を求めたが、裴寛は法によってこれを糾弾した。檀州刺史何僧が生口数十人を献上したが、裴寛はことごとく帰すよう命じたので、夷夏ともに感悦した。

原文天寶初,除陳留太守,兼采訪使。尋而范陽節度李適之入爲御史大夫,除寬范陽節度兼采訪使河北替之。其年,又加御史大夫,時北平軍使烏承恩恃以蕃酋與中貴通,恣求貨賄,寬以法按之。檀州刺史何僧獻生口數十人,寬悉命歸之,故夷夏感悅。

三載、安禄山を范陽節度使とし、裴寛を戸部尚書・兼御史大夫とした。玄宗は平素より裴寛を重んじ、日に日に恩顧を加えた。刑部尚書裴敦復が海賊を討って帰還し、賊の勢いを大いに誇張し、また功績を広く述べて請託の道を開いたので、裴寛はかつて微かにこれを奏上した。数日後、河北の将士が入奏し、盛んに裴寛が范陽で善政を行い、塞上の人々が彼を慕っていると述べたので、玄宗は久しく嘆賞した。李林甫は彼が宰相に入ることを恐れ、また裴寛が李適之と親善であることを憎んだので、裴敦復を呼び、かつての裴寛の言葉を告げた。裴敦復は気性が荒く疎らで、裴寛と平素より互いに譲らず、李林甫が自分に誠意を推していると思い、よって彼と結ぼうと願い、かつての冤罪を訴えた。先に、裴寛は親戚の名義で裴敦復に依頼し、軍功の請託を求めた。ここに至って裴敦復は憤慨してその事を暴露し、李林甫は「公は速やかに奏上すべきで、人後に落ちてはならない」と言った。まもなく裴敦復が温泉宮への行幸に扈従し、裴寛は京城で出発していなかった。裴敦復の配下の軍将程蔵曜と郎将曹鑒に出会った。曹鑒は郴州の富人、程蔵曜は嶺南の首領の子で、ともに他の事件があり、人と共に御史台に告訴に来た。裴寛はその訴状を受け取り、曹鑒らを捕らえて審問した。裴敦復の判官太常博士王悦がこれを聞き、裴寛が自分の過失を求めていると思い、夜を徹して湯所に赴いて告げた。裴敦復は大いに恐れ、装いを整えて罪を待ち、よって娘婿に五百金を持たせて貴妃の姉楊三娘に賄賂を贈らせた。楊氏は急いでこれを言上し、翌日裴寛は睢陽太守に貶された。

原文三載,以安祿山爲范陽節度,寬爲戸部尚書、兼御史大夫。玄宗素重寬,日加恩顧。刑部尚書裴敦復討海賊回,頗張賊勢,又廣敘功以開請托之路,寬嘗幾微奏之。居數日,有河北將士入奏,盛言寬在范陽能政,塞上思之,玄宗嗟賞久之。李林甫懼其入相,又惡寬與李適之善,乃呼裴敦復,且以寬之語告之。敦復使氣性疏,與寬素不相下,以爲林甫推誠於己,因願結之,且訴其冤。先是,寬以親故名囑敦復,求請軍功。至是敦復氣憤發其事,林甫曰:「公宜速奏,無後於人。」尋而敦復扈從幸溫泉宮,寬在京城未發。遇有敦復下軍將程藏曜、郎將曹鑒。鑒,郴州富人;藏曜,嶺南首領之子。皆有他事,與人詣臺告訴,寬受其狀,捕鑒等鞫之。敦復判官太常博士王悅聞之,謂寬求其過,連夜詣湯所以告。敦復大懼,促裝待罪,因令子婿以五百金賂於貴妃姊楊三娘。楊氏遽爲言之,明日貶寬爲睢陽太守。

裴寛は清廉簡素をもって政務を行ったので、赴任した地の人々は皆彼を愛した。当時、宰相となることを期待された。韋堅が禍を構えた時、裴寛はまた親戚の連座で安陸別駕員外置に貶された。李林甫は羅希奭を南方に派遣して李適之を殺させ、迂回して安陸を通り過ぎ、怖がらせて死なせようとした。裴寛は頭を叩いて祈願したので、羅希奭は宿泊せずに通り過ぎた。裴寛はまた死を恐れ、上表して僧となることを請うたが、詔は許さなかった。しかし仏典を崇信し、常に僧徒と往来し、香を焚いて礼懺し、老いてますます篤かった。累遷して東海太守・襄州采訪使・銀青光禄大夫となり、馮翊太守に転じ、入朝して礼部尚書に任じられた。十四載に卒去、七十五歳。詔して太子少傅を追贈し、賻として帛一百五十段・粟一百五十石を賜った。兄弟八人、皆明経に及第し、台省に入り郡を治めた者は五人。

原文寬以清簡爲政,故所蒞人皆愛之。當時望爲宰輔。及韋堅構禍,寬又以親累貶爲安陸別駕員外置。林甫使羅希奭南殺李適之,紆路至安陸過,擬怖死之。寬叩頭祈請,希奭不宿而過。寬又懼死,上表請爲僧,詔不許。然崇信釋典,常與僧徒往來,焚香禮懺,老而彌篤。累遷東海太守、襄州采訪使、銀青光祿大夫,轉馮翊太守,入拜禮部尚書。十四載卒,年七十五。詔贈太子少傅,賻帛一百五十段、粟一百五十石。兄弟八人,皆明經及第,入臺省、典郡者五人。

裴寛の没後、弟の裴珣が河内郡太守となった。安禄山が反乱を起こすと、父の喪に服していたため、朝廷に投じようとしたが、母に累が及ぶことを恐れ、河東節度使に赴いて誠意を訴えて退いた。後に母の喪に服している時、また史思明に陥り、偽りの官職を授けられて任用されたが、弟の裴朗に密かに上表文を奉じて上京させた。代宗の時、左司郎中・兼侍御史・河東道租庸判官となった。

原文寬歿之後,弟珣爲河內郡太守。安祿山反,以執父喪,將投闕庭,恐累其母,乃詣河東節度訴誠而退。後在母憂,又陷史思明,授其偽官委任,使弟朗密奉表疏至上京。代宗時,爲左司郎中、兼侍御史、河東道租庸判官。

王丘

原文王丘

王丘は、光禄卿王同皎の従兄の子である。父は王同晊、左庶子。王丘は十一歳の時、童子挙に及第し、当時は類い皆経典を誦読することを課業としていたが、王丘のみは文章を綴ることで抜擢され、これによって知名となった。弱冠にして、また制挙に応じ、奉礼郎に任じられた。王丘は神気が清らかで古風であり、志操行いは修め清潔で、特に詞賦を善くし、族人の左庶子王方慶や御史大夫魏元忠が皆称賛推薦した。長安年間、偃師主簿から抜擢されて及第し、監察御史に任じられた。

原文王丘,光祿卿同皎從兄子也。父同晊,左庶子。丘年十一,童子舉擢第,時類皆以誦經爲課,丘獨以屬文見擢,由是知名。弱冠,又應制舉,拜奉禮郎。丘神氣清古,而誌行修潔,尤善詞賦,族人左庶子方慶及御史大夫魏元忠皆稱薦之。長安中,自偃師主簿擢第,拜監察御史。

開元初年、累遷して考功員外郎となった。先に、考功の挙人は請託が大いに行われ、士を取ることに頗る濫りがあり、毎年数百人に至っていたが、王丘は一切その実材を核実し、登科者は僅かに百人を満たすのみであった。議者は則天武后以後数十年、王丘の如き者は無く、その後は席豫・厳挺之がこれに次ぐとした。三遷して紫微舎人となり、知制誥の勤めによって朝散大夫を加えられ、再転して吏部侍郎となった。選挙を掌ること累年、甚だ平允であると称された。山陰尉孫逖・桃林尉張鏡微・湖城尉張晋明・進士王泠然を抜擢任用し、皆一時の俊秀と称された。俄かに尚書左丞に換えられた。

原文開元初,累遷考功員外郎。先是,考功舉人,請托大行,取士頗濫,毎年至數百人,丘一切核其實材,登科者僅滿百人。議者以爲自則天已後凡數十年,無如丘者,其後席豫、嚴挺之爲其次焉。三遷紫微舍人,以知制誥之勤,加朝散大夫,再轉吏部侍郎。典選累年,甚稱平允。擢用山陰尉孫逖、桃林尉張鏡微、湖城尉張晉明、進士王泠然,皆稱一時之秀。俄換尚書左丞。

十一年、黄門侍郎に任じられた。その年、山東が旱魃と凶作に見舞われ、朝議で朝臣を刺史として選び貧民を撫でることにし、制に曰く「昔、咎繇が禹に言うに『人を知るにあり、人を安んずるにあり』と。これ皆邦本を念い存し、帝載に光を添え、乾乾として夕べに惕み、一日も忘れざるなり。而るに長吏或いは称せず、蒼生或いは未だ寧からず、深く循良の吏を思い、以て過弊を矯め、仍て諸侯の選を重んずるは、故に朝廷より始む」。ここにおいて王丘を以て懐州刺史とし、また中書侍郎崔沔ら数人を皆山東諸州刺史とした。任に至って、皆称すべきところ無かったが、唯だ王丘のみ在職清廉厳格で、人吏甚だ畏れ慕った。俄かにまた吏部選事を分掌し、入朝して尚書左丞となり、父の喪に服して職を去り、服喪が終わると、右散騎常侍に任じられ、仍って知制誥を兼ねた。

原文十一年,拜黃門侍郎。其年,山東旱儉,朝議選朝臣爲刺史以撫貧民,制曰:「昔咎繇與禹言曰:『在知人,在安人。』此皆念存邦本,光於帝載,乾乾夕惕,無忘一日。而長吏或不稱,蒼生或未寧,深思循良,以矯過弊,仍重諸侯之選,故自朝廷始之。」於是以丘爲懷州刺史,又以中書侍郎崔沔等數人皆爲山東諸州刺史。至任,皆無可稱,唯丘在職清嚴,人吏甚畏慕之。俄又分知吏部選事,入爲尚書左丞,丁父憂去職,服闋,拜右散騎常侍,仍知制誥。

二十一年、侍中裴光庭が病没すると、中書令蕭嵩は王丘と旧知であり、王丘を推挙して政事を知らせようとしたが、王丘は知って固く辞し、且つ盛んに尚書右丞韓休を推挙したので、蕭嵩はよってこれを奏上した。韓休が宰相となると、遂に王丘を推挙して崔琳に代わる御史大夫とした。王丘は既に言葉に訥であり、上奏する多くは旨に称わなかった。俄かに太子賓客に転じ、父の爵位宿預男を襲い、まもなく病気により礼部尚書に任じられ、仍って致仕を聴された。

原文二十一年,侍中裴光庭病卒,中書令蕭嵩與丘有舊,將薦丘知政事,丘知而固辭,且盛推尚書右丞韓休,嵩因而奏之。及休作相,遂薦丘代崔琳爲御史大夫。丘既訥於言詞,敷奏多不稱旨。俄轉太子賓客,襲父爵宿預男,尋以疾拜禮部尚書,仍聽致仕。

王丘は要職を歴任したが、固く清儉を守り、未だかつて人の饋遺を受けず、邸宅や車馬は、敝陋と称された。致仕の後、薬餌すら殆ど給せられなかった。上聞いて嘉嘆し、制を下して曰く「王丘は夙に良材を負い、累ねて茂秩に昇り、比来疾疹に縁り、優閑を以て仮す。その家道屡空、医薬靡給するを聞く。久しく此れに従宦して、遂に余資無し。操を持すること斯くの若きは、古人何ぞ遠からんや!且つ優賢の義は、方冊に先んずる所、周急の宜は、沮勸の攸に在り。その俸禄一事已上、並びに宜しく全給すべく、式に殊常の沢を表し、以て貞白の吏を旌せん」。天宝二年に卒去、荊州大都督を追贈された。

原文丘雖歷要職,固守清儉,未嘗受人饋遺,第宅輿馬,稱爲敝陋。致仕之後,藥餌殆將不給。上聞而嘉嘆,下制曰:「王丘夙負良材,累升茂秩,比縁疾疹,假以優閑。聞其家道屢空,醫藥靡給,久此從宦,遂無余資。持操若斯,古人何遠!且優賢之義,方冊所先,周急之宜,沮勸攸在。其俸祿一事已上,並宜全給,式表殊常之澤,用旌貞白之吏。」天寶二年卒,贈荊州大都督。

史臣曰く

原文史臣曰

史臣曰く、唐の興りしより、年所を綿歴し、骨鯁清廉の士、忠を懐き義を抱くの臣、台省の間、肩を駕し武を接す。但だ時に夷険有り、道に汚隆有り、用いらるると用いられざるとのみ。睿宗・玄宗の世、李傑・畢構・蘇珦・鄭惟忠・王志愔・盧従願・裴漼・王丘の如きは並びに位は亜台を歴し、名徳兼ねて著る。尹思貞・李朝隠の李承嘉・竇懐貞を折り、閭興貴・趙常奴を辱しむるは、詩人の所謂強禦を畏れざる者なり。解琬は朔野に兵を総べ、敵を料ること神の如く、功遂げて身退き、止足を知ること深し、これ亦た足りて多とするに足るなり。

原文史臣曰:有唐之興,綿歷年所,骨鯁清廉之士,懷忠抱義之臣,臺省之間,駕肩接武。但時有夷險,道有汙隆,用與不用而已。睿、玄之世,若李傑、畢構、蘇珦、鄭惟忠、王志愔、盧從願、裴漼、王丘並位歷亞臺,名德兼著。如尹思貞、李朝隱折李承嘉、竇懷貞,辱閭興貴、趙常奴,詩人所謂不畏強禦者也。解琬總兵朔野,料敵如神,功遂身退,深知止足,茲亦有足多也。

賛

原文(段落全体)贊曰:尚書亞臺,京尹方伯。我朝重官,云誰稱職?傑、構、珦、忠,能竭其力。愔、願、漼、丘,聿修厥德。貞蔑大僚,隱繩貴戚。琬馳令名,燕、蜀之北。

賛に曰く、尚書は亜臺、京尹は方伯。我が朝の重官、誰か職に称うるを云わん。傑・構・珦・忠、能く其の力を竭くす。愔・願・漼・丘、聿に厥の徳を修む。貞は大僚を蔑し、隠は貴戚を繩す。琬は令名を馳せ、燕・蜀の北にあり。

原文(段落全体)贊曰:尚書亞臺,京尹方伯。我朝重官,云誰稱職?傑、構、珦、忠,能竭其力。愔、願、漼、丘,聿修厥德。貞蔑大僚,隱繩貴戚。琬馳令名,燕、蜀之北。