旧唐書
巻一百 列伝第五十 尹思貞 李傑 解琬 畢構 蘇珦(子:晉) 鄭惟忠 王志愔 盧從願 李朝隱 裴漼(従祖弟:寬) 王丘
尹思貞
尹思貞は、京兆長安の人である。弱冠にして明経に挙げられ、隆州参軍に補せられた。当時、晋安県に豪族の蒲氏があり、縦横に法に背き、前後の官吏はこれを制することができなかった。州司は思貞に推按を命じ、その奸贓を万単位で摘発し、ついに論じてこれを殺した。遠近慶び称え、石に刻んでその事績を記した。これにより名を知られるようになった。累転して明堂令となり、善政をもって聞こえた。三遷して殿中少監となり、検校洺州刺史を兼ねた。時に契丹の孫万栄が乱を起こし、河朔が安らかでなかったが、思貞は綏撫に長け、境内のみが驚擾することはなかった。則天は璽書を降してこれを褒め称えた。
長安年間、七遷して秋官侍郎となったが、張昌宗に逆らって罪に陥れられ、出されて定州刺史となり、転じて晋州刺史となった。まもなく再び入朝して司府少卿となった。当時、卿の侯知一もまた威厳を厳しくしたので、吏人はこれについて語って言うには、「侯卿の杖を畏れず、ただ尹卿の筆を畏る」と。その人に服せられることがこのようであった。まもなく銀青光禄大夫を加えられた。宅中で古い戟十二本を掘り出したところ、間もなく門に棨戟が加えられ、当時の人はこれを異とした。
神龍初年、大理卿となった。時に武三思が権力を擅にし、御史大夫李承嘉がこれに附会していた。壅州人の韋月将が変事を上告し、三思の謀逆を告げた。中宗は大いに怒り、これを斬るよう命じた。思貞は発生の月であるとして、固執して奏上し、刑を行うべからずとした。ついに勅があり、決杖して嶺南に配流することとなった。三思は所司に命じてこの機に乗じて非法にこれを害そうとしたが、思貞はまた固くこれを争った。承嘉は三思の意を迎え、他事にかこつけて、思貞が朝廷に入ることを許さなかった。思貞は承嘉に言うには、「公は威福を擅に作り、憲章を顧みず、奸臣に附托して、不軌を図ろうとするのか。まず忠良を除いて自ら恣にしようとするのか」と。承嘉は大いに怒り、ついに思貞を劾奏し、出されて青州刺史となった。境内には蚕が一年に四度熟するものがあった。黜陟使、衞州司馬の路敬潛が八月に州に至り、繭を見て嘆じて言うには、「善政によらなければ、どうしてここに至ることができようか」と。特に表してこれを推薦した。思貞は前後十三州刺史を歴任し、皆清簡をもって政を行い、奏課は連続して最上となった。
睿宗が即位すると、徴されて将作大匠となり、累封して天水郡公となった。時に左僕射竇懐貞が金仙・玉真の両観を興造し、夫匠を調発していたが、思貞は常にこれを節減した。懐貞は怒り、頻りに思貞を詰責した。思貞は言うには、「公は職は端揆に居り、任は弼諧に重し。聖明を翼賛し、大化を光宣することができず、しかるに盛んに土木を興し、害を黎元に及ぼす。豈に愧じないことがあろうか。また小人の譖を受け、軽々しく朝臣を辱しめる。今日の事、苟も免れることはできず、請う、ここより辞せん」と。衣を払って去り、門を閉じて数日に及んだ。上はこれを聞き、特に視事を命じた。その年、懐貞が誅せられると、ついに制を下して言うには、「国の副相、位は中台に亜ぐ。自ら邦直にあらざれば、孰か天憲を司らん。将作大匠尹思貞は、賢良方正、碩儒耆徳、剛にして缺を護らず、清くして知られることを畏れ、簡言は従い易く、荘色は犯し難し。先王の体要を征し、衽を敷いて必ず陳べ、佞臣の権に怙るを折り、衣を拂いて謝す。故に以て事は海内に聞こえ、名は京師に動く。鷹隼は是を撃ち、豺狼は自ら遠ざく。必ずや前弊を条理し、旧章を発揮する能わん。宜しく弄印の栄を承け、登車の志を允すに式うべし。御史大夫とすべし」と。まもなく申王府長史を兼ね、戸部尚書に遷り、工部尚書に転じた。老疾をもって累表して致仕を請い、許された。開元四年に卒した。年七十七。黄門監を贈られ、諡して簡といった。
李傑
李傑は、本名を務光といい、相州滏陽の人である。後魏の并州刺史李宝の後裔で、その祖先は隴西よりここに移った。傑は若くして孝友をもって称えられ、明経に挙げられ、累遷して天官員外郎となった。明敏で吏才があり、当時の称誉を大いに得た。神龍初年、累遷して衞尉少卿となり、河東道巡察黜陟使となり、奏課は諸使の中で最も優れていた。開元初年、河南尹となった。傑は聴理に勤め、訴えがあるごとに、たとえ衢路で食事中であっても、処断を廃することはなかった。これにより官に留まる事なく、人吏はこれを愛した。先だって、河・汴の間に梁公堰があったが、年久しくして堰が破れ、江・淮の漕運が通じなかった。傑は奏上して汴・鄭の丁夫を調発してこれを浚わせ、功を省いて速やかに成し遂げ、公私ともに深く利とし、石を水濱に刊してその績を記した。
まもなく宋璟に代わって御史大夫となった。時に皇后の妹婿である尚衣奉御長孫昕とその妹婿楊仙玉が、裏巷で傑に遇い、ついにこれを毆撃した。上は大いに怒り、昕らを斬るよう命じた。散騎常侍馬情素は、陽和の月であるとして刑を行うべからずとし、累表して陳請した。ついに勅を下して言うには、「夫れ令を作る者は近きよりして遠きに及び、罰を行う者は親しきを先にして疎しきを後にする。長孫昕・楊仙玉らは姻戚に憑恃し、恣に凶険を行い、軽々しく常憲を侮り、大臣を損辱す。情は特に容れ難し。故に斬決を命ず。今、群官ら累ねて表疏を陳べ、固より誠請あり。陽和の節は、肅殺の時にあらずと。古今を援引し、詞義懇切なり。朕の志は深諫に従い、情もまた法を惜しむ。宜しく異門の罰を寬め、枯木の斃に従うを聴くべし。即ち宜しく決殺して、以て百僚に謝すべし」と。
傑は明年、橋陵の造営を護った功により、武威子の爵を賜った。初め、傑が造営を護った時、侍御史王旭を判官に引き入れた。旭は貪冒して贓を受け、傑はこれを縛らんとしたが、その実を得ることができず、かえって旭に陥れられ、出されて衢州刺史となった。まもなく転じて揚州大都督府長史となり、また御史に劾せられ、免官して邸に帰った。まもなく卒し、戸部尚書を贈られた。
解琬
解琬は、魏州元城の人である。若くして幽素挙に応じ、新政尉に拝され、累転して成都丞となった。奏事が旨にかなったため、超遷して監察御史となったが、丁憂して離職した。則天は琬が辺事に識練ありとし、旧官に起復し、西域に往って夷虜を安撫せんとしたが、抗疏して固く辞した。則天はこれを嘉し、勅を下して言うには、「解琬は孝性淳至、哀情懇切、固く権奪の栄を辞し、終憂の典に就くことを乞う。足りて風俗を激揚し、名教を敦奨すべし。宜しく雅懐を遂げ、その請を允すべし。仍って服闋の後、上に赴かしむべし」と。
聖暦初年、侍御史に遷り、使として烏質勒及び十姓部落を安撫し、皆その便宜を得た。蕃人大いに悦び、功により御史中丞に擢拝され、北庭都護・持節西域安撫使を兼ねた。琬は平素より郭元振と同官で親しく、ついに宗楚客に毀られた。これにより左遷されて滄州刺史となった。政を行うに大體を存し、甚だ人和を得た。景龍年間、右台御史大夫に遷り、持節朔方行軍大総管を兼ねた。琬は前後軍中に二十余年在り、農を務め戦を習い、利益すること多く、辺境はこれにより安らかであった。
景雲二年、再び朔方軍大総管となる。琬は随軍要籍官の河陽丞張冠宗・肥郷令韋景駿・普安令於処忠らを分遣して三城の兵募を校料せしめ、ここに十万を減じ、奏してこれを罷む。まもなく右武衛大将軍を授けられ、兼ねて検校晋州刺史を加えられ、爵を済南県男に賜う。年老いたことを以て骸骨を乞う、表を拝して上るや、報を待たずして去る。優詔を下して金紫光禄大夫を加え、致仕を聴し、その禄は品に準じて全給す。まもなく璽書を降してこれを労うに曰く、「卿は器局堅正にして、才識高遠、公忠はその立身を彰かにし、貞固は以て事を幹うに足る。張騫の出使に類し、魏絳の和戎に同じ。職は文武を綰き、功は方面に申べ、王家に勤め、これ国老たり。頃者、この側景を顧み、勇退を願い言う、深く馬援の能を惜しみ、未だ祁奚の請を遂げず。然れども章疏頻りに上り、雅懐奪い難し。今や屣を脱ぎて閑に帰し、衣を拂いて高く謝するを知る、固より以て頽俗を激勵し、庶僚を儀刑すべし。永く終始を言えば、まことに嘉尚すべし。宜しく善く摂養し、以て期頤を介すべし」。
未だ幾ばくもせず、吐蕃辺を寇す、再び召して左散騎常侍を拝し、吐蕃と地界を分定せしめ、兼ねて十姓降戸を処置せしむ。琬言う、吐蕃は必ず潜かに叛計を懐く、請う預め兵十万を秦・渭等州に支え厳しく防遏せんことを。その年冬、吐蕃果たして入寇し、竟に支兵の撃ち走らすところとなる。俄に又た表して致仕を請う、許さず、太子賓客に遷る。開元五年、出でて同州刺史となる。明年卒す、年八十余。
畢構
畢構は、河南偃師の人なり。父は憬、則天の時に司衛少卿たり。構は少くして進士に挙げらる。神龍初、累遷して中書舎人となる。時に敬暉ら奏して武氏諸王の降削を請う、構次いで表を読むに当たり、既に声韻朗暢にして、兼ねてその文句を分析す、左右の聴く者皆歴然として暁るべし。ここにより武三思これを悪み、出でて潤州刺史とす。累除して益州大都督府長史となる。景雲初、召して左御史大夫を拝し、転じて陜州刺史となり、銀青光禄大夫を加えられ、魏県男に封ぜらる。頃之、復た益州大都督府長史を授けられ、兼ねて剣南道按察使を充てる。歴任する州府、咸に声績著しく、蜀中に在りては特に旧弊を革め、政は清厳と号せらる。睿宗聞きてこれを善しとし、璽書を下して労うに曰く、
我が国家は天地を創開し、黎元を再造し、四夷来王し、万邦会至す。州を置き郡を立て、職を分かち官を設く。貞観・永徽以前は、皇猷惟だ穆し;咸亨・垂拱以後は、淳風漸く替わる。征賦将に急ならんとし、調役頗る繁く、吏を選び人を挙ぐるは、浮濫に渉る。省閣台寺、公直なること罕にして、苟くも禄秩を貪り、以て歳時を度る。中外因循し、紀綱弛紊し、且つ懲革無く、弊乃ち滋く深し。官と為るは既に人を択ばず、親即ち賄なり;法と為るは又た罪に按ぜず、孽を作りて寧くか逃れん。貪残放手する者は相仍ぎ、清白潔己する者は斯く絶ゆ。蓋し賞罰挙げられず、生殺行わるること莫きに由る。更に水旱時乖い、辺隅未だ謐かならず、日一日を損し、征斂休まず、大東小東、杼軸怨みを為し、就きて更に割剥せば、何を以てか克く堪えん。昔聞く当官は、留犢還珠を以て上と為すと。今の職に従うは、車を充し駟を聯ぬるを以て能と為す。或いは富家と交結し、貧弱を抑棄し;或いは典正を矜假し、腹心を樹立す。邑屋の間、囊篋俱に委ね、或いは地に椿幹梓漆有り、或いは家に畜産資財有れば、即ち暗通せられ、並びに従いて取奪せらる。若し固吝有らば、即ち事に因りて以て繩し、粗杖大枷、動もすれば性命を傾け、冤を懐き痛みを抱きて、陳ぶるに告ぐる所無し。比来御史を差し委ねて巡察せしむるも、或いは貴要の嘱する所有り、能く権豪を避けざる無く;或いは親故官に在り、又た顔面を絶つこと罕なり。原隰に馳せ載すも、徒らに出使の名を煩わし;狐貍を安んぞ問わん、未だ埋車の節を見ず。清を揚げ濁を激すも、涇・渭分かず;悪を嫉み善を好むも、蕭・蘭別つこと莫し。官守既に其の此の若く、下人豈に聊生を以てせんや。数年已来、凋残更に甚だし。卿は孤潔独行、古人の風有り、蜀川に臨むより、弊化頓に易わる。卿が前後執奏する所を覧るに、何ぞ柱を破り奸を求むるに異ならん。諸使の中、卿に在りては最も為り。並びに能く節を尽くすこと卿の此の如くならば、百郡何をか理まざるを憂えん、万人何をか安からざるを慮らん。卿当に益々堅くすべく、後顧する無かれ。朕は卿の直道を嘉し、今に袍帯並びに衣一副を賜う。
まもなく戸部尚書を拝し、転じて吏部尚書となり、並びに遙領して益州大都督府長史を兼ぬ。玄宗即位し、累拝して河南尹となり、遷りて戸部尚書となる。開元四年、疾に遇う、上手疏して医方を以てこれを賜う。時に議う戸部尚書を凶官と為すと、遽かに改めて太子詹事を授け、其の瘳ゆる有らんことを冀う。まもなく卒す、黄門監を贈られ、謚して景と曰う。
構、初め継母に喪する時、二妹繈褓に在り、親しく加うるに鞠養を以てし、咸く成立を得。構の卒するに及び、二妹久しく号絶し、撫育の恩を以てし、遂に三年の服を制す。その弟栩も亦た甚だ哀毀し、並びに当時に称せらる。栩は官に至りて荊州司馬。
蘇珦
蘇珦は、雍州藍田の人。明経に挙げられ、累授して鄠県尉となる。雍州長史李義琰召して謂いて曰く、「鄠県は本より訴訟多し、近日遂に絶ゆ、訪問するに果たして明公其の疏理を為すに由る」。因りて顧みて廳事を指して曰く、「此の座即ち明公の座なり、但だ恨むらくは遅暮の見る所に非ざるのみ」。
垂拱初、右台監察御史を拝す。時に則天将に韓・魯等諸王を誅せんとし、珦をして其の密状を按ぜしむ、珦訊問するも皆征験無し。或いは誣告して珦は韓・魯等と同情すと、則天召見して詰問す、珦抗議して回らざりき。則天悦ばずして曰く、「卿は大雅の士、朕当に別に驅使有るべし、此の獄は卿に假さず」。遂に珦をして河西に監軍せしむ。五遷して右司郎中となる。時に御史王弘義来俊臣に托附し、無罪を構陷す、朝廷之を疾む。嘗て詔を虢州に受け木を采るに、役使節をせず、丁夫多く死す、珦其の事を按奏し、弘義竟に坐して以て黜せらる。珦まもなく遷りて給事中となり、累授して左肅政台御史大夫となる。時に詔有りて白司馬阪に大像を営み、糜費巨億す、珦農を妨ぐるを以てし、上疏切諫す、則天之を納る。
神龍初、武三思権を擅にす、韋月将三思将に逆謀有らんと告ぐ、反って三思の構うる所と為り、中宗之を斬らしむ。珦奏す時に非ざれば刑を行うべからずと、ここにより三思の旨に忤い、転じて右御史大夫と為る。まもなく出でて岐州刺史となり、復た右台大夫と為る。会に節湣太子敗る、詔して珦に其の党与を窮めしむ。時に睿宗藩に在り、得罪する者に引かる、珦因りて事状を辯析し、密奏を以て之を保持す。中宗意解け、因りて多く原免す、珦を擢て戸部尚書と為し、爵を河内郡公に賜う。まもなく太子賓客・検校詹事を授けられ、年老いて致仕す。開元三年卒す、年八十一、兗州都督を贈られ、謚して文と曰う。子の晋、亦た知名。
珦の子 晋
賈晉は数歳にして文を作る能くし、『八卦論』を作り、吏部侍郎房穎敘・秘書少監王紹宗これを見て賞嘆して曰く、「これ後来の王粲なり」と。弱冠にして進士に挙げられ、また大礼挙に応じ、皆上第に居る。先天中、累遷して中書舍人となり、崇文館学士を兼ねる。玄宗監国す、毎に制命有れば、皆賈晉及び賈曾に之を為さしむ。晉も亦た数たび讜言を進め、深く嘉納せらる。俄かに出でて泗州刺史と為り、父老を以て職を辞し帰り侍するを乞う、之を許す。父卒したる後、戸部侍郎を歴任し、爵を襲いて河内郡公と為る。開元十四年、吏部侍郎に遷る。時に開府宋璟尚書事を兼ね、晉及び齊澣遞に京都に於いて選事を知る。既に名を糊して判を考うるに、晉独り多く賞抜し、甚だ当時の誉を得たり。俄にして侍中裴光庭尚書事を知る。毎に官に遇いて批退すべき者は、但だ衆に対し簿を披き、硃筆を以て頭を点ずるのみ。晉遂に選院に榜して云く、「門下頭を点ずる者は、更に引いて註擬すべし」と。光庭以て己を侮るものと為し、甚だ悦ばず、遂に出でて汝州刺史と為る。三たび遷りて魏州刺史となり、銀青光禄大夫を加えられ、入りて太子左庶子と為る。二十二年卒す、年五十九。
初め、晉は洛陽の人張循之・仲之兄弟と善く友す。循之等並びに学業を以て著名なり。循之は則天の時上書して旨に忤い誅せらる。仲之は神龍中、武三思を謀殺せんとし、友人宋之愻に発せられ、獄に下りて死す。晉厚く仲の子漸を撫で、己が子の如くし、之に書記を教え、婚宦を営む。及び晉卒するに及び、漸猶子の服を制し、時人甚だ此を以て之を称す。
鄭惟忠
鄭惟忠は宋州宋城の人なり。儀鳳中、進士挙に応じ、井陘尉を授かり、転じて湯陰尉と為る。天授中、挙に応じて召見せられ、則天軒に臨みて諸挙人に問う、「何をか忠と為す」と。諸人の対する旨に称せず。惟忠対えて曰く、「臣聞く、忠とは外に君の美を揚げ、内に君の悪を匡うるものなりと」と。則天曰く、「善し」と。左司禦率府胄曹参軍を授け、累遷して水部員外郎と為る。則天長安に幸す、惟忠待制して引見せられ、則天これに謂いて曰く、「朕卿を識る、前に東都に於いて『忠臣は外に君の美を揚げ、内に君の悪を匡う』と言えり、今に至るまで忘れず」と。尋ねて朝散大夫を加え、再び遷りて鳳閣舍人と為る。
中宗即位し、之を甚だ敬重し、擢びて黄門侍郎に拝す。時に議有りて嶺南首領の家に兵器を畜えるを禁ぜんことを請う。惟忠曰く、「夫れ政を為すは習俗を以て革むべからず、且つ『呉都賦』に云う、『家に鶴膝有り、戸に犀渠有り』と。若し或いは之を禁めば、豈に驚擾無からんや」と。遂に寝す。間も無く、大理卿を守る。節湣太子将軍李多祚等と兵を挙げて武三思を誅せんとし、事変して伏誅す。其の詿誤して門を守る者並びに配流せらる。将に行かんとするに、韋氏の党与密奏して尽く之を誅せんことを請う。中宗推断を令す。惟忠奏して曰く、「今大獄始めて決し、人心未だ寧からず。若し改めて推せば、必ず遞いに驚恐し、則ち反側の子、自ら安んずる由無からん」と。勅して百司に議せしむ。遂に旧に依りて断じ、全うする所甚だ多し。俄かに御史大夫に拝し、節を持ちて河北道を賑給し、仍りて牧宰を黜陟す。還りて敷奏し旨に称し、銀青光禄大夫を加えられ、滎陽県男に封ぜらる。開元初め、礼部尚書と為り、転じて太子賓客と為る。十年卒す。太子少保を贈らる。
王志愔
王志愔は博州聊城の人なり。少くして進士に擢第す。神龍年、累除して左臺御史となり、朝散大夫を加えらる。執法剛正にして、百僚畏憚し、時人「皁雕」と呼ぶ。其の人吏を顧瞻すること、雕鶚の燕雀を視るが如きを言うなり。尋ねて大理正に遷る。嘗て奏言す、「法令は人の堤防なり。堤防立たざれば、則ち人禁むる所無し。窃かに見るに大理の官僚、多く法を奉ぜず、罪を縦するを以て寛恕と為し、文を守るを以て苛刻と為す。臣濫りに刑典を執る、実に衆に謗らるるを恐る」と。遂に表を上して著す所の『応正論』を以て志を見す。其の詞に曰く、
かつて『易経』を読み、「萃」の卦に至り、「利見大人、亨、聚以正也。六二、引吉無咎」とある。注に曰く、「萃の時に居り、体柔にして位に当たる。『坤』の中に処り、己独り正に処る。異操にして聚まる、独り正なる者は危うし、未だ体を変えて害を遠ざくる能わず。故に必ず引かれるを見て、然る後に乃ち吉にして咎無し」と。王肅曰く、「六二は九五と相応じ、倶に貞正を履む。引は迎によるなり、吉に迎えらるるが為り、何の咎か之れ有らん」と。未だ嘗て書を輟めて嘆かざるは無く曰く、「中に居り正を履むは、事の常体なり、引かれて咎無きは、道も亦た然るべし。客有りて聞きて之れを惑い、因りて僕に謂いて曰く、今主上文明にして、域中理定まり、君累ねて典憲を司どり、和同を務めず。正に処るの志は存すと雖も、引かるるの吉誰か応ぜん。之を行いて已まず、余窃かに懼る」と。僕襟を斂め階を降り揖して謝して曰く、袞職の遺闕を補い、忠讜を用いて己が任と為し、蒙を以て正を養い、引かれて吉を獲るは、此の道に応ずるなり、仁何ぞ遠からんや。昔、咎繇虞に謨し、朝に登りて士と作し、教を設けて物を理め、訓を開きて務を成す。是を以て五流に宅有り、五宅三居し、終を怙て賊は刑し、故を刑するは小無し。ここに於いて舜其の事を美して曰く、「汝五刑に明らかにして、以て五教を弼け、予の理に期し、刑は刑無きに期す。人、中に協い、是れ乃ち功、懋哉」と。故に孔子其の政を嘆じて曰く、「舜咎繇を挙ぐ、仁ならざる者遠ざく」と。此れ明辟の法を執り、大人の引かれるに応ずるに非ずや。季孫行父の君に事うるや、宝を窃むの愆を挙げ、邑を授くるの賞を黜し、善悪を明らかにして慝を糾し、僭賞を議して違を塞ぐ。虞舜の功に在りて、二十の一に居り、主司其の道を行うを得、時君以て嫌と為さず。此れ己独り正に処り、正に応じて咎無きに非ずや。棠に於いて魚を観るに、臧伯正色す。鼎を廟に賂すに、哀伯詞を抗す。言う者は其の忠を尽くすを得、聞く者は之に其の罪を加えず。故に『春秋』臧氏の正を称し、曰く、「善を積むの家には、必ず余慶有り」と。此れ異操にして聚まり、吉を引くの致す所に非ずや。魏絳理直くして、晉侯乃ち其の位を復す。邾人辞順にして、趙盾其の国を伐たず。此れ正体未だ変ぜず、吉に迎えらるる者に非ずや。夫れ上に在りて垂拱し、臣下制を守る。若し正上に応ずれば、乃ち下に吉を引く。而して中士道を聞き、若し存し若し亡し、譎正の門に交戦し、語默の境に疑いを懐き、独り正なるの引かれる莫きを懼れ、此の正の必ず亨るを忘る。籲嗟乎、己を行い身を立つるに、正に居り義を践む。其の動くや直く、其の正しきや方なり。唯だ正直なるに是れ与し、何れの往くか利あらざる所ならん。何を以て之れを明らかにせん。『坤』六二、「直方大、習わずして利無からず」。『文言』曰く、「直は其の正なり、方は其の義なり。君子敬を以て内を直くし、義を以て外を方にす。敬義立ちて徳孤ならず、直方大なれば則ち其の行う所を疑わず」と。嵇康『釈私論』を撰し、曹羲『至公篇』を著す。皆公を崇めて俗を激し、私を抑えて主に事うるを以てし、一言以て之れを蔽うべく、体正に帰するのみ。『礼記』曰く、「刑は侀なり、侀は成なり。一成して変ずべからず、故に君子心を尽くす焉」と。若し喜怒を以て刑を制し、軽重を設けて比すは、是れ則ち橋前驚馬、旨を希いて人を論じ、苑中兎を獵り、欲に従いて法を廃するなり。理違いて道に合い、物は和を貴びて同じからず。同じからざるの和、正に其の中に在り。昔、任延武威太守と為り、漢帝之に誡めて曰く、「善く上官に事え、名譽を失うこと無かれ」と。延対えて曰く、「臣聞く、忠臣は私せず、私臣は忠ならず。上下雷同するは、国家の福に非ず。善く上官に事うるは、臣敢えて詔を奉ぜず」と。任延の雅奏、漢主其の言を是とす。此れ則ち正に帰して回らず、旨に乖いて義に順い、忤るを以て忌み見らるるに非ず。斯れ亦た違いて道に合うなり。『晏子春秋』、景公梁丘據を見て曰く、「據と我と和す」と。晏子曰く、「此れ同なり。和なる者は、君甘なれば則ち臣酸く、君淡なれば則ち臣鹹し。今據や、君甘なれば亦た甘し、所謂る同なり、安んぞ和と為さん」と。是を以て塩梅を済めて羹を調うるに、乃ち平心の味に適す。可否を献じて道を論ずるに、方に政体の節を恢む。正を引いて度に遵うを俟ち、故に曰く物は和を貴びて同じからずと。劉曼山和同の義を弁ずる、旨有り哉。若し同じからざるを以て譏られ見ば、未だ敢えて誨を聞かず。客曰く、和同訓に乖くは、則ち已に之れを聞く。法を援げて成りて変ぜざる者は、豈に獄の寬憲を恤うるや。『書』に曰く、「衆を禦うるに寬を以てす」と。『伝』に曰く、「寬ければ則ち衆を得」と。若し厳を以て物を統ぶるは、寬政に異なるなり。対えて曰く、刑賞の二柄は、唯だ人主之れを操る。厚を崇め寬を任ずるは、是れ帝王の徳を謂う。慎子曰く、「力を以て法に役するは、百姓なり。死を以て法を守るは、有司なり。道を以て法を変ずるは、君上なり」と。然らば則ち人臣の操る所に匪ず。後魏遊肇の廷尉と為るや、魏帝嘗て私に肇に敕して降恕する所有り。肇執して従わずして曰く、「陛下自ら能く之れを恕す、豈に足らんや臣をして筆を曲げしむるに」と。是れ寬恕は君道なるを知り、曲従は臣節に非ざるなり。人或いは未だ斯の旨に達せず、其の務を料らず、平刑を以て峻しと為し、将に曲法を以て寬しと為さんとし、謹んで憲章を守り、深密と号す。『内律』、「釈種戒を虧く、一誅五百人、如来其の罪を救わず」。豈に佛法を残刻と謂わんや。老子『道德経』に云く、「天網恢恢、疏にして漏らさず」。豈に道教を凝峻と謂わんや。『家語』に曰く、「王者の誅に五有り、而して寢盗は預からず」と。即ち心弁言偽の流なり。『礼記』亦た四殺を陳ぶ、律を破り名を乱るの謂いなり。豈に儒家の禁を執り、孔子の深文なるや。此れ三教の法を用うる者は、以て真諦を明らかにし、玄猷を重んじ、天綱を存し、人極を立つるなり。然らば則ち乾象震曜し、天道威を明らかにす。衆を斉うるに惟だ刑を以てし、百王以て範を垂る。人を析くに法を以てし、三後ここに於いて功を成す。務むる所は憲を掌り平を決する、斯れ廷尉の職耳。『易』に曰く、「家人嗃嗃たり、咎無し。婦子嘻嘻たり、終に吝し」と。其の家に厳なれば、国に移す可し。昔、崔実理に達して『政論』を作す。仲長統曰く、「凡そ人主と為るは、宜しく『政論』一通を写し、諸れ坐側に置くべし」と。其の大抵云う、国を為る者は厳を以て平に致す、寬を以て平に致すに非ざるなりと。然らば則ち厳と称する者は必ずしも条を逾え制を越え、網を凝らし罰を重くするに非ず。隠括を施して枉を矯め、平典を用いて非を禁むるに在り。故を刑するは常有り、軽きを罰するは捨つること無し。人易く犯さず、之を防ぐに難く越ゆる故なり。但だ人慢く吏濁り、偽積み贓深く、而して曰く寬を以て之れを理めば、以て過無かるべしと。何ぞ王良を命じて駻を禦わしめ、銜策を奔踶に捨て、俞跗を請いて疾を攻めしめ、薬石を膚腠に停むるに異ならんや。適に秋駕の転逸するを見、膏肓更に深く、医人僕夫、何の功か之れ有らん。又た僕に謂いて曰く、法成りて変ずるは、唯だ帝王の命なるか。対えて曰く、何を為して其れ然らんや。昔、漢武帝の甥昭平君人を殺す。公主の子を以て、廷尉上請して論ず。左右言を為す。武帝涕を垂れて嘆じて曰く、「法令は先帝の造る所なり。親故を以て先帝の法を誣う、吾何の面目を以てか高廟に入らん。又た下万民に負う」と。乃ち其の奏を可とす。近代、隋文帝の子秦王俊并州総管と為り、奢縦を以て官を免ぜらる。僕射楊素奏言して、「王は陛下の愛子なり。請う其の過を捨てん」と。文帝曰く、「法違うべからず。若し公の意の如くせば、我は五児の父なり、兆人の父に非ず。何ぞ別に天子児の律を制せざる。我安んぞ法を虧かんや」と。卒に許さず。此れは帝王の法を操り、礼経不変の義に協う。況んや秋官職を典し、司寇事を肅するに於いてをや、而して変動すべけんや。我が皇睿哲図に登り、巌廊の上を高視す。宰衡明允列に就き、廟堂の下に輯穆す。乾坤交泰し、日月光華す。庶績其れ凝り、衆工咸く理まる。正を以て聚まるなり、僕幸いに大人を見るに利あり。其の吉を引きて、下位に正を養うを期す。中正は托す、予何ぞ懼れん。夫れ君子百行の基、出処二途のみ。出ずれば則ち名を策し質を委ね、直道を行いて以て人に事え、善を進め忠を納れ、太階を仰ぎて政を緝む。諤諤其の節、社稷の臣と為らんと思い、謇謇躬に匪ず、柱石の任に参ぜんと願う。処すれば則ち公卿に高謝し、孝友名を揚げ、是れ亦た政を為すなり。煙霞志を尚し、其の用永貞、行蔵事業、心跡斯に在り。至りては水中泛泛、天下悠悠、馭を執るを栄と為し、門を掃いて自ら媚び、塵を拝して勢を邀い、囊を括して祿を守る。従来長息し、以て深恥と為す。客乃ち逡巡して対せず、遂に以て僕を間うる無し。
中宗はこれを見て賞賛し、次第に駕部郎中に昇進した。
景雲元年、累進して左御史中丞に転じ、まもなく大理少卿に昇進した。二年、詔により漢の制度に倣って刺史を置いて郡を監察し、天下の要衝たる大州に都督二十人を置き、威厳と重みのある者を選んでこれに任じたので、ついに志愔を斉州都督に任じたが、事は結局行われなかった。また斉州刺史を授け、河南道按察使を兼ねた。まもなく汴州刺史に転じ、引き続き河南道按察使を兼ねた。太極元年、また本官のまま御史中丞・内供奉を兼ねることを命じられ、特に実封一百戸を賜った。まもなく銀青光禄大夫を加えられ、戸部侍郎に任じられた。出向して魏州刺史となり、転じて揚州大都督府長史となり、いずれも本道の按察使を兼ねた。赴任地では令は行き渡り禁は守られ、奸悪狡猾な者は跡を潜め、管内は厳粛であった。久しくして召されて刑部尚書に任じられた。
開元九年、皇帝が東都に行幸し、京師留守を命じられた。十年、京兆の人権梁山が偽って襄王の子と称し、光帝と号し、その党類および左右屯営の押官と謀反を企てた。夜半に左屯営の兵百余りを擁して景風門・長楽門などから門を斬り破って宮城に入り、志愔を殺そうとしたので、志愔は塀を越えて賊を避けた。やがて屯営の兵は潰散し、かえって梁山ら五人を殺し、その首を東都に伝送した。志愔はこのため驚愕して卒した。
盧従願
盧従願は、相州臨漳の人で、後魏の度支尚書盧昶の六代の孫である。范陽から移り住み、代々山東の名族であった。明経科に及第し、絳州夏県尉に任じられ、また制挙に応じて右拾遺に任じられた。まもなく右粛政監察御史に昇進し、山南道黜陟巡撫使を兼ね、使命を奉じて旨にかなったので、殿中侍御史に任じられた。累進して中書舎人となった。
睿宗が即位すると、吏部侍郎に任じられた。中宗の後、選司は綱紀をかなり失っており、従願は心を尽くして整理し、非常に公平妥当であると称された。名を偽り選挙を受けたり、功績の状況を虚偽で増やしたりする類の者を、ことごとくその事実を摘発することができた。選挙を掌ること六年、前後して彼に及ぶ者はいなかった。皇帝はこれを嘉し、特に一子に太子通事舎人の官を授けた。従願は上疏して恩を父に回して贈ることを乞うたので、その父の吉陽丞盧敬一を鄭州長史に追贈した。初め、高宗の時に裴行儉・馬載が吏部にあり、最も称職であった。この時、従願と李朝隠が同時に選挙を掌り、また美誉があった。当時の人は言った。「吏部には前に馬・裴あり、後に盧・李あり」と。
開元四年、皇帝は新たに任じられた県令をすべて召し、一時に殿庭で策試し、考課が下第の者は一切学問に帰らせた。従願は注擬(官職への推薦任命)に人材を得なかったとして、左遷されて豫州刺史となった。政務は厳格で簡素であり、按察使が奏上した考課は天下第一等となり、璽書を賜って労い、絹百匹を賜った。まもなく、召されて工部侍郎となり、転じて尚書左丞となった。また楊滔および吏部侍郎裴漼・礼部侍郎王丘・中書舎人劉令植とともに『開元後格』を刪定し、中書侍郎に昇進した。十一年、工部尚書に任じられ、銀青光禄大夫を加えられ、引き続き東都留守を命じられた。十三年、泰山登封に従い、また金紫光禄大夫を加えられ、韋抗に代わって刑部尚書となった。頻年にわたり京外官の考課使を充てられ、前後してみな允当であると称された。
御史中丞宇文融が恩寵を受けて権勢を振るい、田戸を検出した功績により、本司の校考を上下としたが、従願はこれを抑えて与えなかった。融はこれを大いに恨みに思い、密かに従願が広く良田を占め、百余頃に及ぶと奏上した。その後、皇帝が宰相に堪えうる者を選ぼうとした時、ある者が従願を推薦したが、皇帝は「従願は広く田園を占めている。これは廉潔ではない」と言い、ついに用いることを止めた。従願はまた早朝に出仕する途中、人に射られ、従者が当たったが、賊を捕らえることがついにできなかった。当時の議論では、従願が長く選司に在ったため、抑圧された者に仇とされたのだという。
十六年、東都留守となった。時に子の起居郎盧論が米を官に売り入れ余利を得た罪に連坐し、憲司に糾弾され、出向して絳州刺史となり、再び転じて太子賓客となった。二十年、河北で穀物が高価になったため、詔により従願を宣撫処置使とし、倉を開いて飢えた者を救済させた。使いから戻り、年老いたことを理由に表を奉って骸骨を乞うたので、吏部尚書に任じ、致仕を許し、全禄を与えた。二十五年に卒した。七十余歳。益州大都督を追贈し、諡して文といった。
李朝隠
李朝隠は、京兆三原の人である。若くして明法科に挙げられ、臨汾尉に任じられ、累進して大理丞に任じられた。神龍年間、功臣の敬暉・桓彦範が武三思に陥れられ、侍御史鄭愔に唆されて誅殺を奏請させ、詔により大理寺にその罪を結案させた。朝隠は、暉らの犯した罪は、推問窮究を経ていないので、直ちに刑名を正すことはできないと考えた。時に裴談が大理卿であり、異なる筆で斬刑を断じ、なおその家を没収したので、朝隠はこれによって旨に逆らった。中宗は嶺南の悪地に貶すことを命じたが、侍中韋巨源・中書令李嶠が奏上して言った。「朝隠は平素清正と称され、獄を断ずることもまた事柄に非常に適っています。一朝にして嶺表に遠く流せば、天下がその罪を疑う恐れがあります」と。中宗の怒りは解け、出向して聞喜令となった。
まもなく侍御史に昇進し、三転して長安令となった。宦官の閻興貴が県にやってきて請託したので、朝隠は引きずり出すことを命じた。睿宗はこれを聞いて賞賛し、朝廷に召して朝隠を労い、言った。「卿が京県の令としてこのようにできるなら、朕はまた何を憂えようか」と。そこで詔を下して言った。「剛を吐かずして上に諂い、柔を茹まずして下を汚さないのは、君子の事である。軒端に至れば必ず縄墨に従い、車に登れば屈することないのは、正人の務めである。長安県令李朝隠は、徳義に背かず、清廉剛直をもって自らを貫き、しばしば善政を聞き、累ねて能名を著す。近ごろ品官が県に入り、儀式に背くことがあったが、遂に礼をもってこれを責め、過ちをもってこれを正すことができた。ただ宦官の流れは、多くは権勢を頼みとし、柔和寛容の時代には、必ず威権を弄ぶ。歴史上の記録を観るにつけ、常に嘆息するところである。朕は前古を規誡し、典憲を勤めて求めている。朕の意に副うことができるのは、実にこの人に頼る。昔、虞延が皇后の客を拘束し、梅陶が太子の傅を鞭打った。古に遺直と称されるが、今またこれを見る。その美行を顕彰し、重職に遷してやろうと思うが、時に戸籍を検閲する属し、政は人を養うにある。宜しく一階を加え、剛烈を表すべし。太中大夫とすべし。特に中上考を賜い、兼ねて絹百匹を賜う」と。七転して絳州刺史となり、吏部選事を兼ねて知った。
開元二年、吏部侍郎に昇進し、銓叙は公平妥当で、当時大いに称賛され、璽書を降して褒め称えられ、一子に太子通事舎人の官を授けられた。四年春、県令を授けるのに適任でなかったとして、出向して滑州刺史となり、転じて同州刺史となった。皇帝が東都に行幸し、路が同州を通った時、朝隠は旨により召し出されて賞賛慰労され、衣一副・絹百匹を賜った。まもなく河南尹に昇進し、政務は非常に清廉厳格で、豪族権勢家は跡を潜めた。時に太子の舅の趙常奴が権勢を頼んで平民を侵害したので、朝隠は「これを正さずして、何をもって政と為さんか」と言い、捕らえて杖刑に処した。皇帝はこれを聞き、また詔書を降して慰労激励した。
十年、大理卿に昇進した。時に武強令裴景仙が乞取の贓物五千匹を積み犯し、事が発覚して逃走した。皇帝は大いに怒り、衆を集めてこれを殺すことを命じた。朝隠は執奏して言った。「裴景仙は乞取の贓物に縁るもので、犯した罪は死に至らず。また景仙の曾祖父は故司空裴寂であり、かつて創業に参与し、元勲の首に預かった。載初年中、家は罪なくして陥り、兄弟は皆誅夷され、ただ景仙のみが生き残り、今嫡流を継いでいる。贓物に拠れば死罪に当たらず、犯した罪に準じればなお請条(上請の条項)に入る。十代にわたり賢者を宥し、功績は実に記録すべきである。一門が祀を絶つことは、情けにおいて哀れむべきところがある。暴市の刑を寛め、投荒の役に就かせてはどうか。そうすれば旧勲に対しても妥当であります」と。手詔で許さなかった。朝隠はまた奏上して言った。
天より断ずる有り、極法に処す。生殺の柄は、人主専らにすべし。軽生に条有り、臣下守るべし。枉法は、理を枉げて取り、十五匹にして便ち死刑に抵る。乞取は、乞うを因りて贓と為し、数千匹にして止めて流坐に当たる。今若し乞取罪を得て、便ち斬刑に処せば、後に枉法科に当たる有らば、何の辟をか加えんと欲する。是を以て法を国の為に惜しみ、律文を守らんことを期す。敢えて法を以て人に随うに非ず、曲く仙命を矜れむに非ず。魏の苑に兎を射、漢の橋に馬を驚かし、初め皇赫を震わし、竟に廷議に従う。豈に威制する能わざらんや、而して法は常を貴ぶ。又景仙の曾祖寂は、草昧の忠節、定めて元勛と為し、位は台司に至り、恩は常数に倍す。載初の際、枉を被りて家を破られ、諸子各非辜に犯す。唯だ仙今嫡を承くを見る。若し寂の勛都て棄てられ、仙の罪特加えられば、則ち叔向の賢何ぞ称するに足らん、若敖の鬼其れ餒えざらんや。罪を捨て功を念い、天聴に垂れんことを乞う。応に敕決杖及び犯有りて配流するは、近く徳音を発し、普く殊沢を標す。杖者は既に数を減ずるを聴き、流者は仍程を給するを許す。天下颙颙として、孰か幸甚ならざらん。彼の四海を瞻れば、已に深恩を被る。豈に一人に於て、独り常典を峻にせんや。伏して臣の議を采り、仙を法に致さんことを乞う。
乃ち制を下して曰く、「罪は大に在らず、情に本づく。罰は必ず行うに在り、重きに在らず。朕は範を垂れて訓を作し、庶幾くば動植咸若からんことを欲す。豈に厳刑を逞しくして戮し、手足措く所無からしめんや。裴景仙は幸いに緒余を藉り、令宰に超升し、我が憲法を軽んじ、我が風猷を蠹し、畏を知るの金を慎まず、詎貪無きの宝を識らんや。家は黷貨に盈ち、身は乃ち逃亡す。殊不知天孽は違うべく、自愆は難く逭う。是を以て本法に従わず、殊刑を加え、冀くは貪暴の流を懲らし、以て侵漁の路を塞がんとす。然れども其の祖父昔経綸に預かり、命を佐けて功有り、締構斯に重し。賞延の義を緬懐し、俾政寛の典に協わしむ。宜しく其の極法を捨て、以て遐荒に竄すべし。仍て杖一百を決し、嶺南の悪処に流す。」
朝隠俄に転じて岐州刺史と為り、母憂にて官を去る。起きて揚州大都督府長史と為らんとし、疏を抗して固く辞し、制許す。朝隠は性孝友、時に年已に衰暮す。喪に在りて尤毀瘠を加う。明年、制又起きて揚州長史と為らしむ。獲已むを得ずして職に就き、復入りて大理卿と為り、累ねて金城伯に封ぜられ、崔隠甫に代わりて御史大夫と為る。朝隠は素より公直の誉有り、毎に御史大夫缺くれば、時議咸く之を許す。及び其の職に居るに、竟に糾劾する所無く、唯だ細務に煩う。時望是に由りて稍減ず。俄に転じて太常卿と為る。二十一年、広州事を兼ね判し、仍て御史大夫を摂し、嶺南采訪処置使を充つ。明年、嶺外に卒す。年七十。吏部尚書を贈り、官霊輿を給し、兼ねて家口に遞を給して郷に還し、謚して貞と曰う。
裴漼
裴漼は、絳州聞喜の人なり。世著姓と為る。父琰之、永徽中、同州司戸参軍と為り、時に年少、容儀美くしく、刺史李崇義初め甚だ之を軽んず。先ず是れ、州中に積年の旧案数百道有り、崇義琰之を促して之を断ぜしむ。琰之書吏数人に命じ、紙を連ね筆を進め、斯須に剖断並びに畢り、文翰俱に美くしく、且つ与奪の理を尽くす。崇義大いに驚き、謝して曰く、「公何ぞ鋒を蔵して以て鄙夫の過を成すを忍びんや」と。是に由りて大いに知名と為り、号して「霹靂手」と曰う。後永年令と為り、恵政有り、人吏石を刊して之を頌す。歴任して倉部郎中に至り、老疾を以て家に廢す。
漼は色養劬労、十数年仕進を求めず。父卒したる後、大礼挙に応じ、陳留主簿に拝し、累遷して監察御史と為る。時に吏部侍郎崔湜・鄭愔贓に坐して御史李尚隠に劾せらる。漼同じく其の獄を鞫く。安楽公主及び上官昭容湜等に阿党す。漼竟に正を執りて其の罪を奏す。甚だ当時に称せらる。三遷して中書舎人と為る。
太極元年、睿宗金仙・玉真公主の為に観及び寺等を造る。時に春旱に属し、役を興して止まず。漼上疏して諫めて曰く、
臣謹んで案ずるに《礼記》春・秋の令に曰く、「大衆を聚むること無く、大役を起すこと無く、土功を興すべからず、農事を妨ぐるを恐る」と。若し号令度に乖き、役使時にあらざれば、則ち疾疫の危を加え、国に水旱の災有り。此れ五行の必応する所なり。今春より夏に至るまで、時雨期に愆れ、下人の心を憂え、出づる所を知らず。陛下哀矜の旨を降すと雖も、両都仍に寺観の作有り。時旱の応は、実に此れに由る。且つ春令期を告げ、東作方に始まらんとす。正に丁壮功に就くの日なるに、而して土木方に興る。臣恐らくは妨ぐる所尤多く、益す所尤少なく、耕夫蠶妾は饑寒の源たるを。故に《春秋》「荘公三十一年冬、雨らず」、《五行伝》以て「歳に三たび台を築く」と為す。「僖公二十一年夏、大旱す」、《五行伝》「時に南門を作し、人を労して役を興す」と為す。陛下毎に万方を念と為し、睿旨殷勤、国を安んじ人を済い、微を防ぎ遠きを慮う。伏して願わくは明制を下し、徳音を発し、天時に順い、人望に副い、両京の公私営造及び諸の和市木石等並びに請う且く停めば、則ち蒼生幸甚なり。農桑時に失い、戸口流散す。縦え寺観を営構すとも、豈に黎元の饑寒の弊を救わんや。
疏奏して報いず。尋ち転じて兵部侍郎と為り、銓叙平允を以て、一子を授けて太子通事舎人と為す。
開元五年、遷りて吏部侍郎と為り、選を典すること数年、持抜する所多し。再転して黄門侍郎と為り、韋抗に代わりて御史大夫と為る。漼は早く張説と特相善し、時に説相位に在り、数たび之を称薦す。漼又敷奏に善くし、上亦嘉重す。是に由りて擢拝して吏部尚書と為り、尋ち転じて太子賓客と為る。漼は家世儉約、既に久しく清要に居り、頗る妓妾を飾り、後庭に綺羅の賞有り。是に由りて時論に譏らる。二十四年卒す。年七十余。礼部尚書を贈り、謚して懿と曰う。
漼の従祖弟 寛
漼の従祖弟寛。寛の父無晦、袁州刺史。寛は通略、文詞を以て進み、騎射・弾棋・投壺特妙なり。景雲中、潤州参軍と為り、刺史韋銑按察使と為り、之を引いて判官と為し、清幹にして剖断に善くし、銑其の才を重んじ、女を以て妻と為す。後抜萃に応じ、挙げられて河南丞と為る。再転して長安尉と為る。時に宇文融侍御史と為り、天下の田戸を括り、使して奏差し江南東道勾当租庸地税兼覆田判官と為す。転じて太常博士と為る。礼部国忌の辰に廟を享するに楽を用いんと擬し、太常に下す。寛は礼節に深く達し、特新意を建て、以て廟尊く忌卑しければ則ち登歌し、廟卑しく忌尊しければ則ち龠を去ると為す。中書令張説寛の明識を謂い、挙げて之を行う。再遷して刑部員外郎と為る。万騎将軍馬崇正昼人を殺す有り。時に開府・霍国公王毛仲恩幸用事し、将に其の獄を鬻らんとす。寛之を執して回らざる。兵部尚書蕭嵩河西節度使と為り、寛及び郭虚己を奏して判官と為し、累年専ら委任を見る。嵩中書令を加えらる。寛歴任して中書舎人・御史中丞・兵部侍郎と為る。開元二十一年冬、裴耀卿黄門侍郎を以て政事を知り、扈従して関を出で、江・淮の転運を知り、河陰に倉を置き、寛を奏して戸部侍郎と為し、其の副と為す。
裴寛は友愛の情に厚く、兄弟の多くは官途に達し、子や甥も名声があり、東京に邸宅を建てて同居し、八つの院が向かい合い、甥や甥たちにも休憩所があり、鼓を打って食事をし、当世の人々はこれを栄誉とした。吏部侍郎に選ばれ、玄宗が京に還ると、また蒲州刺史に改められた。州内は長く旱魃が続いていたが、境に入ると雨が大いに降り潤った。河南尹に遷り、権貴に附かず、民を慰撫することに務めたので、政務は大いに治まった。左金吾衛大將軍に改められ、一年後、太原尹に任じられ、紫金魚袋を賜った。玄宗は詩を賦して彼を送り、曰く「徳は岱雲の布くが如く、心は晋水の清きが如し」。
天宝初年、陳留太守に任じられ、兼ねて采訪使となった。まもなく范陽節度使李適之が入朝して御史大夫となり、裴寛を范陽節度使兼河北采訪使として彼の後任とした。その年、また御史大夫を加えられた。時に北平軍使烏承恩は蕃酋として宦官と通じていることを恃み、恣に財貨を求め賄賂を求めたが、裴寛は法によってこれを糾弾した。檀州刺史何僧が生口数十人を献上したが、裴寛はことごとく帰すよう命じたので、夷夏ともに感悦した。
三載、安禄山を范陽節度使とし、裴寛を戸部尚書・兼御史大夫とした。玄宗は平素より裴寛を重んじ、日に日に恩顧を加えた。刑部尚書裴敦復が海賊を討って帰還し、賊の勢いを大いに誇張し、また功績を広く述べて請託の道を開いたので、裴寛はかつて微かにこれを奏上した。数日後、河北の将士が入奏し、盛んに裴寛が范陽で善政を行い、塞上の人々が彼を慕っていると述べたので、玄宗は久しく嘆賞した。李林甫は彼が宰相に入ることを恐れ、また裴寛が李適之と親善であることを憎んだので、裴敦復を呼び、かつての裴寛の言葉を告げた。裴敦復は気性が荒く疎らで、裴寛と平素より互いに譲らず、李林甫が自分に誠意を推していると思い、よって彼と結ぼうと願い、かつての冤罪を訴えた。先に、裴寛は親戚の名義で裴敦復に依頼し、軍功の請託を求めた。ここに至って裴敦復は憤慨してその事を暴露し、李林甫は「公は速やかに奏上すべきで、人後に落ちてはならない」と言った。まもなく裴敦復が温泉宮への行幸に扈従し、裴寛は京城で出発していなかった。裴敦復の配下の軍将程蔵曜と郎将曹鑒に出会った。曹鑒は郴州の富人、程蔵曜は嶺南の首領の子で、ともに他の事件があり、人と共に御史台に告訴に来た。裴寛はその訴状を受け取り、曹鑒らを捕らえて審問した。裴敦復の判官太常博士王悦がこれを聞き、裴寛が自分の過失を求めていると思い、夜を徹して湯所に赴いて告げた。裴敦復は大いに恐れ、装いを整えて罪を待ち、よって娘婿に五百金を持たせて貴妃の姉楊三娘に賄賂を贈らせた。楊氏は急いでこれを言上し、翌日裴寛は睢陽太守に貶された。
裴寛は清廉簡素をもって政務を行ったので、赴任した地の人々は皆彼を愛した。当時、宰相となることを期待された。韋堅が禍を構えた時、裴寛はまた親戚の連座で安陸別駕員外置に貶された。李林甫は羅希奭を南方に派遣して李適之を殺させ、迂回して安陸を通り過ぎ、怖がらせて死なせようとした。裴寛は頭を叩いて祈願したので、羅希奭は宿泊せずに通り過ぎた。裴寛はまた死を恐れ、上表して僧となることを請うたが、詔は許さなかった。しかし仏典を崇信し、常に僧徒と往来し、香を焚いて礼懺し、老いてますます篤かった。累遷して東海太守・襄州采訪使・銀青光禄大夫となり、馮翊太守に転じ、入朝して礼部尚書に任じられた。十四載に卒去、七十五歳。詔して太子少傅を追贈し、賻として帛一百五十段・粟一百五十石を賜った。兄弟八人、皆明経に及第し、台省に入り郡を治めた者は五人。
裴寛の没後、弟の裴珣が河内郡太守となった。安禄山が反乱を起こすと、父の喪に服していたため、朝廷に投じようとしたが、母に累が及ぶことを恐れ、河東節度使に赴いて誠意を訴えて退いた。後に母の喪に服している時、また史思明に陥り、偽りの官職を授けられて任用されたが、弟の裴朗に密かに上表文を奉じて上京させた。代宗の時、左司郎中・兼侍御史・河東道租庸判官となった。
王丘
王丘は、光禄卿王同皎の従兄の子である。父は王同晊、左庶子。王丘は十一歳の時、童子挙に及第し、当時は類い皆経典を誦読することを課業としていたが、王丘のみは文章を綴ることで抜擢され、これによって知名となった。弱冠にして、また制挙に応じ、奉礼郎に任じられた。王丘は神気が清らかで古風であり、志操行いは修め清潔で、特に詞賦を善くし、族人の左庶子王方慶や御史大夫魏元忠が皆称賛推薦した。長安年間、偃師主簿から抜擢されて及第し、監察御史に任じられた。
開元初年、累遷して考功員外郎となった。先に、考功の挙人は請託が大いに行われ、士を取ることに頗る濫りがあり、毎年数百人に至っていたが、王丘は一切その実材を核実し、登科者は僅かに百人を満たすのみであった。議者は則天武后以後数十年、王丘の如き者は無く、その後は席豫・厳挺之がこれに次ぐとした。三遷して紫微舎人となり、知制誥の勤めによって朝散大夫を加えられ、再転して吏部侍郎となった。選挙を掌ること累年、甚だ平允であると称された。山陰尉孫逖・桃林尉張鏡微・湖城尉張晋明・進士王泠然を抜擢任用し、皆一時の俊秀と称された。俄かに尚書左丞に換えられた。
十一年、黄門侍郎に任じられた。その年、山東が旱魃と凶作に見舞われ、朝議で朝臣を刺史として選び貧民を撫でることにし、制に曰く「昔、咎繇が禹に言うに『人を知るにあり、人を安んずるにあり』と。これ皆邦本を念い存し、帝載に光を添え、乾乾として夕べに惕み、一日も忘れざるなり。而るに長吏或いは称せず、蒼生或いは未だ寧からず、深く循良の吏を思い、以て過弊を矯め、仍て諸侯の選を重んずるは、故に朝廷より始む」。ここにおいて王丘を以て懐州刺史とし、また中書侍郎崔沔ら数人を皆山東諸州刺史とした。任に至って、皆称すべきところ無かったが、唯だ王丘のみ在職清廉厳格で、人吏甚だ畏れ慕った。俄かにまた吏部選事を分掌し、入朝して尚書左丞となり、父の喪に服して職を去り、服喪が終わると、右散騎常侍に任じられ、仍って知制誥を兼ねた。
二十一年、侍中裴光庭が病没すると、中書令蕭嵩は王丘と旧知であり、王丘を推挙して政事を知らせようとしたが、王丘は知って固く辞し、且つ盛んに尚書右丞韓休を推挙したので、蕭嵩はよってこれを奏上した。韓休が宰相となると、遂に王丘を推挙して崔琳に代わる御史大夫とした。王丘は既に言葉に訥であり、上奏する多くは旨に称わなかった。俄かに太子賓客に転じ、父の爵位宿預男を襲い、まもなく病気により礼部尚書に任じられ、仍って致仕を聴された。
王丘は要職を歴任したが、固く清儉を守り、未だかつて人の饋遺を受けず、邸宅や車馬は、敝陋と称された。致仕の後、薬餌すら殆ど給せられなかった。上聞いて嘉嘆し、制を下して曰く「王丘は夙に良材を負い、累ねて茂秩に昇り、比来疾疹に縁り、優閑を以て仮す。その家道屡空、医薬靡給するを聞く。久しく此れに従宦して、遂に余資無し。操を持すること斯くの若きは、古人何ぞ遠からんや!且つ優賢の義は、方冊に先んずる所、周急の宜は、沮勸の攸に在り。その俸禄一事已上、並びに宜しく全給すべく、式に殊常の沢を表し、以て貞白の吏を旌せん」。天宝二年に卒去、荊州大都督を追贈された。
史臣曰く
史臣曰く、唐の興りしより、年所を綿歴し、骨鯁清廉の士、忠を懐き義を抱くの臣、台省の間、肩を駕し武を接す。但だ時に夷険有り、道に汚隆有り、用いらるると用いられざるとのみ。睿宗・玄宗の世、李傑・畢構・蘇珦・鄭惟忠・王志愔・盧従願・裴漼・王丘の如きは並びに位は亜台を歴し、名徳兼ねて著る。尹思貞・李朝隠の李承嘉・竇懐貞を折り、閭興貴・趙常奴を辱しむるは、詩人の所謂強禦を畏れざる者なり。解琬は朔野に兵を総べ、敵を料ること神の如く、功遂げて身退き、止足を知ること深し、これ亦た足りて多とするに足るなり。
賛
賛に曰く、尚書は亜臺、京尹は方伯。我が朝の重官、誰か職に称うるを云わん。傑・構・珦・忠、能く其の力を竭くす。愔・願・漼・丘、聿に厥の徳を修む。貞は大僚を蔑し、隠は貴戚を繩す。琬は令名を馳せ、燕・蜀の北にあり。