卷九十九
崔日用
神龍年間、秘書監鄭普思が後宮に娘を納れ、左道を潜かに謀った。日用は急ぎ上奏してこれを弾劾した。普思は恩寵を受けていたため、中宗はこれを省みなかった。日用は朝廷で争い懇切に至り、言葉は甚だ抗直であった。普思は遂にその罪に伏した。当時、宗楚客・武三思・武延秀らが互いに朋党を為し、日用は密かに皆これに附き、驟に兵部侍郎兼修文館学士に遷った。中宗が暴崩し、韋庶人が称制すると、日用は禍が己に及ぶことを恐れた。玄宗が義挙を図ろうとしていることを知り、沙門普潤・道士王曄を通じて密かに藩邸に詣で、深く結託し、密かに翼戴を謀った。玄宗は嘗て言った、「今この挙を謀るは、直ちに親の為であり、身の為ではない」と。日用は言った、「これは孝が天を感動させたものであり、事は必ず克捷するでしょう。速やかに発することを望み、不意を衝くべきです。もし少しでも遅延すれば、あるいは変が生ずる恐れがあります」と。韋氏を討平したその夜、雍州長史事を権知せしめた。功により銀青光禄大夫・黄門侍郎を授けられ、機務に参じ、斉国公に封ぜられ、実封二百戸を食んだ。
宰相となって月余り、中書侍郎薛稷と協わず、中書で忿競した。これにより雍州長史に転じ、政事を知ることを停められた。間もなく出て揚州長史となり、婺・汴二州刺史・兗州都督・荊州長史を歴任した。入朝して事を奏上する際に言った、「太平公主が謀逆の期日を定めています。陛下が往昔、宮府(太子として)におられた時、討捕しようとされたのは、猶子道・臣道であり、謀を用い力を用いる必要がありました。今既に大宝に光臨なさりました。ただ一つの制を下せば、誰が従わないことがありましょうか。もし奸宄が志を得れば、則ち禍乱小さからず」と。上は言った、「誠にその通りであるが、直ちに太上皇を驚動させることを恐れる。卿は更にこれを考えよ」と。日用は言った、「臣は聞きます。天子の孝と庶人の孝は全く別であると。庶人の孝は、身を謹み用を節し、顏色に順承することである。天子の孝は、国家を安んじ、社稷を定めることである。今もし逆党が窃かに発すれば、即ち大業は全て棄てられることになり、どうして天子の孝を成し得ましょうか。伏して請う、先ず北軍を定め、次いで逆党を収めれば、即ち太上皇を驚動させません」と。玄宗はその議に従った。蕭至忠・竇懐貞を討つ際、また雍州長史を権検校せしめ、実封を加え、前を通じて満四百戸とした。間もなく吏部尚書に拝された。
日用は嘗て『毛詩』の『大雅』・『小雅』二十篇及び司馬相如の『封禅書』を採り、上(玄宗)の誕生日に表を上ってこれを献じ、以て規諷を申べ、並びに告成の事を述べた。手詔で答えて言った、「夫れ詩とは、天地を動かし、鬼神を感ぜしめ、人を厚くし、教を美ならしめるものである。朕が志の尚ぶところ、思うにこれと斉しくせんとし、采詩の官を庶幾うも、朕の闕を補わん。且つ古の封禅は、中に升り成を告ぐるもの。朕は菲徳を以てし、至道に明らかでない。竦然として聴けば、頗る相如の詞を壮とし、惕然として懐に載せれば、復た夷吾の語を慚ず。卿は聞に洽く見を殫くし、故きを温ねて新しきを知り、この發揮に逮ぎ、益々忠懇を彰わす。豈に蓬山の籍を討つにあらずや、心は起予を忘れず。蘭殿の祥に因りて、言は固より啓沃に深し。朕は循環して覧諷し、以て懐を慰む。今卿に衣裳一具・物五十段を賜い、以て言なきに酬いざるの信なきを示す」と。
間もなく出て常州刺史となり、実封三百戸を削られ、汝州刺史に転じた。開元七年、口賦を差降する際、特に勅を下して言った、「唐元(先天)の際、逆党が凶を構えた。崔日用は当時密かにその事を論じ、及び戡翦に当たり、実に元謀に預かった。而るに所食の封は、後ち例により減ぜられた。功既に多し、特ち初めに食した封に準じ、二百戸を与うべし」と。十年、并州大都督府長史に転じた。間もなく卒した。時に年五十。吏部尚書を贈られ、諡して昭といった。後ちまた荊州大都督を贈られ、子の宗之が襲封した。
日用は才弁人に過ぎ、事を見るに敏速であり、朝廷に事ある毎に、禍を転じて福と為し、以て富貴を取った。先天以後、再び入相を求めたが、遂に果たせなかった。常に人に謂って言った、「我が一生の行う事は、皆臨時に変を制し、必ずしも始めの謀を専ら守ることを重んじない。毎にこれを念うと、覚えず芒刺背中にあるが如し」と。
崔日知
日用の従父兄の日知もまた吏幹があった。景雲年中、洛州司馬となった。時に譙王重福が東都に入り乱を為すと、群臣は皆避難して逃匿したが、日知は独り人吏を督率して留守に赴き、屯営と合勢して賊を討った。重福が既に死ぬと、功により銀青光禄大夫を加えられ、累遷して京兆尹となった。贓に坐り、御史李如璧に劾せられ、左遷されて歙県丞となり、俄かにまた歴遷して殿中監となった。日知は平素より張説と友善であり、説がこれを推薦し、奏請して御史大夫を授けんとしたが、上は許さなかった。遂に左羽林懐大将軍と為し、而して河南尹崔隠甫を御史大夫とした。隠甫はこれにより説と協わなくなった。日知は俄かに太常卿に遷った。自ら歴任年久と以てし、毎に朝士が参集する時、常に尚書と同列にし、時人は「尚書裏行」と号し、遂に口実と為った。開元十六年、出て潞州大都督府長史となった。間もなく年老いて致仕し、卒した。諡して襄といった。
張嘉貞
張嘉貞は、蒲州猗氏の人である。弱冠にして五経挙に応じ、平郷尉に拝され、事に坐して免ぜられ郷里に帰った。長安年中、侍御史張循憲が河東采訪使となり、嘉貞の材が憲官に堪えることを薦め、己の官秩を以てこれに授けんことを請うた。則天武后が召見し、簾を垂れてこれと語ると、嘉貞は奏して言った、「臣が草萊よりして九重に入謁するを得るは、是れ千載一遇です。咫尺の間、雲務を隔てるが如く、竟に日月を睹ず、恐らくは君臣の道に尽くさざる所あるかと」と。則天は急ぎ簾を巻かせ、語って大いに悦び、監察御史に擢拝した。累遷して中書舎人となり、秦州都督・并州長史を歴任し、政を為すに厳粛であり、甚だ人吏に畏れられた。
開元初め、事を奏上するため京師に至ると、上はその善政を聞き、数たび賞慰を加えた。嘉貞は因って奏して言った、「臣は少くして孤となり、兄弟相依って以て今に至ります。臣の弟嘉祐は、今鄯州別駕を授かっておりますが、臣と各々一方に在り、同心にして居を離れ、魂は万里に絶えます。乞う、臣の側近に移就せしめ、臣兄弟力を尽くして国に報い、死して恨み無からしめん」と。上はその友愛を嘉し、特に嘉祐を忻州刺史に改めた。
時に突厥の九姓が新たに内附し、太原以北に散居していた。張嘉貞は軍を置いてこれを鎮めるよう奏請し、ここに初めて并州に天兵軍を置き、嘉貞をその使とした。六年の春、嘉貞はまた入朝した。やがてその軍中における奢侈・僭越及び贓賄(収賄)を告げる者があった。御史大夫王晙がこれに乗じて弾劾し奏上したが、取り調べて証拠はなかった。上(玄宗)は告げた者に反坐の罪を加えようとした。嘉貞は奏して言うには、「昔、天子は上で政を聴き、瞽(盲人)が賦(詩)を誦し、矇(盲人)が誦し、百工(百官)が諫め、庶人が謗(批判)し、その後で天子が斟酌したものである。今この輩に反坐させるのは、言う者の道を塞ぐことであり、そうなれば天下の事は上に達する由もない。特にこの罪を免じ、謗誦の道を広げられるよう望む」と。帝はこれに従い、遂に死刑を減ずるよう命じた。これより帝は嘉貞を忠臣と見做した。嘉貞はまたかつて奏して言うには、「今志力は正に壮んでおり、命を効する秋である。さらに三数年を経れば、すなわち衰老して為す能わなくなる。惟(願わく)は陛下、早く任使を垂れたまわんことを。死をも憚らない」と。上はその明弁なるを以て、特に重んじた。八年の春、宋璟・蘇頲が政事を知ることを罷められ、嘉貞を抜擢して中書侍郎・同中書門下平章事とした。数ヶ月後、銀青光禄大夫を加えられ、中書令に遷った。
嘉貞は判断・決断が敏速で、奏上するのに巧みであったが、性質は強情でせっかちで独断専行であり、当時の論評にかなり嗤われた。時に中書舎人苗延嗣・呂太一、考功員外郎員嘉静、殿中侍御史崔訓は、皆嘉貞が引き立てた者で、清要の位に列し、常に嘉貞の門下で共に朝政を議した。当時の人はこれについて語って言うには、「令公の四俊、苗・呂・崔・員」と。
開元十年、車駕(天子の行幸)が東都(洛陽)に幸した。洛陽主簿王鈞が嘉貞のために邸宅を修築し、これによって御史の官を求めようとしたが、賄賂を受け取った事が発覚した。上は特に命じて朝堂に衆を集めて決殺させた。嘉貞は担当官に刑を急がせて口封じを図り、かえって罪を御史大夫韋抗・中丞韋虚心に帰し、二人とも貶黜させた。その冬、秘書監姜皎が罪を犯すと、嘉貞はまた王守一に附会して杖刑を奏請し、姜皎は遂に路上で死んだ。やがて広州都督裴伷先が獄に下され、上は侍臣を召してどのような罪に当たるか問うた。嘉貞はまた杖刑を請うた。兵部尚書張説が進み出て言うには、「臣は聞く、刑は大夫に上らず、と。それは君に近いからである。故に言う、『士は殺すべくも、辱しむべからず』と。臣、今秋詔を受けて辺境を巡視したが、途中で姜皎が罪により朝堂で決杖され、配流されて死んだと聞いた。姜皎の官は三品であり、また微功もある。もし犯したなら、死すべきであれば即ち殺し、流すべきであれば即ち流すべきで、決杖して朝廷で辱しめ、卒伍(兵卒)の如く扱うのは宜しくない。かつ律には八議があり、勲功ある貴人はその中にある。姜皎の事は既に過ぎ去り、追悔すべくもない。裴伷先については只、状(罪状)に基づいて流貶すべきであり、軽々しくまた決罰すべきではない」と。上はその言を然りとした。嘉貞は悦ばず、退いて張説に言うには、「何ぞ事を言うことの深きや」と。張説は言うには、「宰相というものは、時が来れば即ち為るものであり、豈に長く据わり続けられようか。もし貴臣が皆杖せられるべきなら、只恐らくは我々も行く当たり及ぶであろう。この言は裴伷先の為ではなく、天下の士君子の為である」と。初め、嘉貞が兵部員外郎であった時、張説は侍郎であった。この時には、張説の位は嘉貞の下にあり、既に何の推譲もなかったので、張説は頗る不平で、この言を以て嘉貞を激怒させた。これによって張説と不和となった。上はまた嘉貞の弟嘉祐を金吾将軍とし、兄弟並びに将相の位に居り、当時の人々に非常に畏れ憚られた。十一年、上が太原の行在所に幸した時、嘉祐の収賄汚職が発覚した。張説は嘉貞に素服で待罪するよう勧め、入謁させず、これによって外されて幽州刺史とし、張説が代わって中書令となった。嘉貞は悔しみ恨んで、人に言うには、「中書令には幸いにも二員あるというのに、何ぞ相迫ることの甚だしいや」と。明年、また戸部尚書に拝され、益州長史を兼ね、都督事を判じた。勅により嘉貞は中書省に就いて宰相と会宴したが、嘉貞は既に張説が己を排斥したことを恨み、袂を捲し勃然として罵った。源乾曜・王晙が共にこれを和解した。
明年、王守一と交際した罪に坐し、左遷されて台州刺史となった。また盧従願に代わって工部尚書・定州刺史となり、北平軍事を知り、累ねて河東侯に封ぜられた。出発に際し、上自ら詩を賦し、詔して百官を上東門外で餞別させた。州に至り、恒嶽廟の中に頌を立て、嘉貞自らその文を為し、石に書かせた。その碑は白石を用いて作り、素質に黒文、非常に奇麗であった。先に、嶽祠は遠近の祈賽(祈願と賽祭)の場であり、銭数百万があった。嘉貞は頌文の功を以て自ら認め、その数万を納めた。十七年、嘉貞は病を以て東都で就医するよう請い、制(詔)はこれに従った。都に至り、目は閉じて何も見えなかった。上は医者の内直郎田休裕・郎将呂弘泰に馳伝して往き診療させるよう命じた。その秋に卒去。六十四歳。益州大都督を贈られた。諡して恭肅と言う。
嘉貞は長く清要の職を歴任したが、田園を立てなかった。定州に在った時、親しい者が田業を営むよう勧めると、嘉貞は言うには、「私は忝くも官栄を歴任し、かつて国相を任じられた。未だ死なない内に、豈に飢餓を憂えようか。もし譴責を負うようなことがあれば、たとえ富める田莊もまた用はない。近頃、朝士が広く良田を占めるのを見るが、その身が没した後は、皆無頼の子弟が酒色の資とするだけであり、甚だ謂れのないことだ」と。聞いた者は皆嘆服した。
初め、嘉貞が宰相となった時、万年県主簿韓朝宗を推薦し、監察御史に抜擢した。嘉貞が卒して十数年後、韓朝宗は京兆尹となり、奏して言うには、「陛下が御位に臨まれて以来、用いられた宰相は皆礼に則って進退し、善く始め善く終わり、身は既に没しても子孫は皆朝廷に在る。ただ張嘉貞のみが晚年に一子を残し、今なお官序に登っていない」と。上もまた惘然とし、急ぎ召すよう命じ、名を延賞と賜い、特に左内率府兵曹参軍に拝した。徳宗の朝、位は宰輔に至り、独自の伝がある。
張嘉祐
蕭嵩
蕭嵩は、貞観初年の左僕射・宋国公蕭瑀の曾姪孫である。祖父の蕭鈞は中書舎人で、当時有名であった。嵩は美しい鬚髯を持ち、儀形は偉麗であった。初め、会稽の賀晦の娘を娶り、呉郡の陸象先と僚婿(姉妹婿同士)となった。象先は当時洛陽尉で、宰相の子であり、門望が非常に高かった。嵩はまだ仕官していなかった。宣州人の夏栄が相術があると称し、象先に言うには、「陸郎は十年の内に人臣の極位に至るが、しかし蕭郎の一門が尽く貴くなるには及ばない。官位は高くかつ長寿である」と。当時の人はこれを認めなかった。
十五年、涼州刺史・河西節度使王君㚟は、兵衆を恃み毎年吐蕃を攻撃した。吐蕃の大将悉諾邏恭祿及び燭龍莽布支が瓜州城を攻め落とし、刺史田元献及び君㚟の父王寿を捕らえ、城中の軍資及び倉糧をことごとく奪い取り、なおその城を破壊して去った。また玉門軍及び常楽県を攻め、県令賈師順が城に拠って固く守ったので、賊はついに兵を引き退いた。まもなく、君㚟はまた回紇諸部に鞏筆駅で殺され、河州・隴州は震駭した。玄宗は君㚟が勇将ではあるが謀がなく、果たして難に及んだとして、辺境の任に堪える者を選び、そこで蕭嵩を兵部尚書・河西節度使とし、涼州事を判らせた。嵩は裴寛・郭虚己・牛仙客をその幕下に置くことを請い、また建康軍使・左金吾将軍張守珪を瓜州刺史とすることを請い、州城を修築し、百姓を招集して、その旧業に復させるよう命じた。また蕭嵩に銀青光禄大夫を加えた。時に悉諾邏恭禄の威名は甚だ振るっていたが、嵩は吐蕃に反間の計を用い、彼が中国と密かに通じていると言わせ、賛普はついに彼を召し出して誅殺した。明年の秋、吐蕃が大挙して来寇し、悉末朗がまた兵を率いて瓜州を攻めたが、守珪が兵を出してこれを撃退した。隴右節度使・鄯州都督張志亮が兵を率いて青海西南の馮波谷に至り、吐蕃と戦い、これを大破した。八月、嵩はまた副将杜賓客に弩手四千人を率いさせ、吐蕃と祁連城下で戦わせた。朝から暮れまで戦い、散ってはまた合い、賊徒は大いに潰え、陣中でその副将一人を斬り、散り散りに山谷に逃げ走り、哭声が四方に響いた。戦勝の報告が届くと、玄宗は大いに喜び、蕭嵩に同中書門下三品を加え、恩顧は比べるものもなかった。
十七年、宇文融・裴光庭に宰相を授け、また蕭嵩に中書令を兼ねさせた。十四年に燕国公張説が中書令を罷めて以来、この位は四年間空いていたが、嵩がこれに就いた。常に河西節度使を帯び、遥かにこれを領した。集賢殿学士・知院事を加え、国史の修撰を兼ね、位を進めて金紫光禄大夫とした。子の蕭衡は新昌公主を娶り、嵩の夫人賀氏が入朝して拝謁すると、玄宗は親家母と呼び、礼儀は甚だ盛んであった。まもなくまた徐国公に進封された。二十一年二月、侍中裴光庭が卒した。光庭は嵩と同列数年、情は頗る協わなかったが、この時、玄宗は嵩に宰相を選ばせた。嵩は右丞韓休が長者であるとして、これを推挙した。韓休が宰相に入ると、嵩が事を挙げるたびに、休は峻直で、ついには相容れず、互いに玄宗の前で曲直を論じ、嵩は位を譲ろうとした。玄宗は嵩を厚く眷顧していたので、嵩に尚書右丞相を授け、宰相を罷めさせ、韓休を工部尚書とした。まもなくまた嵩の子蕭華を給事中とした。
二十四年、太子太師に拝された。幽州節度使張守珪が宦官牛仙童に賄賂を贈った罪に坐し、括州刺史に貶せられた時、嵩もかつて仙童に賄賂を贈っており、李林甫がこれを発覚させ、青州刺史に貶せられた。まもなくまた太子太師を追拝され、嵩はまた老齢を理由に致仕を請うた。嵩は性来、服餌を好み、宰相を罷めてからは、林園に薬草を植え、調合・錬丹して自ら楽しんだ。華は時に工部侍郎、衡は公主の婿として三品であり、嵩は白髪の身で十数年養生し、家財は豊かに蓄え、一族は栄えた。天宝八年に薨じ、年八十余、開府儀同三司を贈られた。
蕭華
時に宦官李輔国が禁兵を専ら管轄し、寵を恃んで権勢を振るい、宰相となることを求め、宰臣裴冕らに諷して己を推薦させようとしたが、蕭華はこれを頗る拒んだので、輔国は怒った。粛宗が病臥していた時、輔国は詔を偽って蕭華の相位を罷め、礼部尚書を守らせ、元載を引き立てて蕭華に代えさせた。粛宗が崩御し、代宗が諒闇にあった時、元載は輔国の意を迎え、蕭華を硤州員外司馬に貶し、蕭華は貶所で卒した。
蕭衡、蕭華の後人
蕭衡の子蕭復は、徳宗の朝に位も宰輔に至った。蕭華の子は蕭恒・蕭悟。蕭恒の子蕭俛は、大和年間に宰輔となった。蕭悟の子蕭仿は、咸通年間に宰輔となり、皆それぞれ伝がある。
張九齢
張九齢、字は子寿、一名は博物。曾祖父の君政は、韶州別駕となり、始興に家を定めたので、今は曲江の人である。父の弘愈は、九齢の貴顕により、広州刺史を贈られた。九齢は幼くして聡明で、文をよくした。十三歳の時、書を携えて広州刺史王方慶に謁見し、方慶は大いに賞賛して言った、「この子は必ず遠大なところに至るだろう」。進士第に及第し、挙に応じて乙第に登り、校書郎に拝された。玄宗が東宮にあった時、天下の文藻の士を挙げ、親しく策問を加えたが、九齢の対策は高第となり、右拾遺に遷った。時に帝はまだ親郊の礼を行っておらず、九齢は上疏して言った。
伏して考えるに、天は才なる者、百神の君にして、王者の命を受くる所の由なり。古より統を継ぐの主は、必ず郊配の義あり、蓋し天命を敬ひて以て受くる所に報ずるなり。故に郊の義に於ては、則ち徳沢未だ洽はざるを以てし、年穀登らず、凡そ事の故を以てし、其の礼を闕くことなし。『孝経』に云ふ、「昔者周公、後稷を郊祀して以て天に配す」と。是れ成王幼沖にして、周公摂位に居り、猶ほ其の礼を用ふるを謂ふ、暫くも廃せざるを明らかにす。漢の丞相匡衡も亦云ふ、「帝王の事、郊祀より重きは莫し」と。董仲舒又云ふ、「郊せずして山川を祭るは、祭の序を失ひ、礼正に逆ふ、故に『春秋』之を非とす」と。臣愚かに以為へらく、匡衡・仲舒は、古の礼を知れる者にして、皆郊の祭たる所宜しく先にすべきを謂ふなり。伏して惟ふに、陛下は休なる聖緒を紹ぎ、其の命惟れ新たなり、極に御して以来、今に於て五載、既に太平の業を光し、未だ大報の礼を行はず、窃かに経伝を考ふるに、義或は通ぜず。今百穀嘉生し、鳥獸咸く若く、夷狄内附し、兵革用て寧し。将に剣を鋳て農と為し、泥金して封禅せんと欲し、以て功德の美を彰し、允かに神祇の心に答へんとす。能事畢に行はれ、光耀帝載す。況んや郊祀は常典にして、猶ほ其の儀を闕く、事天に怠る有るが若く、臣恐らくは以て訓とすべからず。伏して望む、迎日の至に以て、焚柴の礼を展べ、紫壇に升り、采席を陳べ、天位を定め、天道を明らかにせば、則ち聖朝の典則、遺る無しと謂ふべし。
九齢は才鑒を以て推され、当時吏部は抜萃選人及び応挙者を試すに、咸く九齢と右拾遺趙冬曦に令して其の等第を考へしめ、前後数四、毎に平允を称せり。開元十年、三遷して司勛員外郎と為る。時に張説は中書令たり、九齢と同姓なるを以て、昭穆を叙し、尤も親重し、常に人に謂ひて曰く、「後来の詞人、首に称すべきなり」と。九齢既に知己を欣び、亦之に依附せり。十一年、中書舍人を拝す。
初め、張説集賢院事を知り、常に九齢の学士たるに堪ふるを薦む。以て顧問に備ふ。説卒したる後、上其の言を思ひ、召して九齢を秘書少監・集賢院学士に拝し、副知院事とす。再び中書侍郎に遷る。常に密かに陳奏有り、多く納用せらる。尋ひて母喪に丁り郷里に帰る。二十一年十二月、起復して中書侍郎・同中書門下平章事を拝す。明年、中書令に遷り、国史を修むるを兼ぬ。時に范陽節度使張守珪、裨将安禄山を以て奚・契丹を討ちて敗衄し、執へて京師に送り、朝典を行はんことを請ふ。九齢奏劾して曰く、「穰苴軍を出すに、必ず莊賈を誅す。孫武戦を教ふるに、亦宮嬪を斬る。守珪軍令必ず行はる。禄山死を免すべからず」と。上特ち之を赦す。九齢奏して曰く、「禄山は狼子野心、面に逆相有り。臣請ふ、罪に因りて之を戮し、後患を絶たんことを冀ふ」と。上曰く、「卿王夷甫の石勒を知る故事を以て、誤て忠良を害すること無かれ」と。遂に帰籓に放つ。
初め、九齢相と為り、長安尉周子諒を薦めて監察御史と為す。是に至り、子諒妄りに休咎を陳ぶるを以て、上親しく詰問を加へ、朝堂に於て決殺せしむ。九齢非其人を引くに坐し、左遷して荊州大都督府長史と為る。俄かに帰り墓を拝せんことを請ひ、因りて疾に遇ひて卒す。年六十八。贈りて荊州大都督と為し、謚して文獻と曰ふ。九齢相位に在りし時、建議して十道采訪使を復置し、又河南数州に水種稻を教へ、以て屯田を広む。屯田を置くを議し、功を費やして利無く、竟に就く能はず、之を罷む。性頗る躁急にして、動輒れ忿詈す。議者此を以て之を少くす。
子拯は伊闕令。禄山の乱に賊に陥り、偽命を受けず。両京克復し、詔して太子右賛善を加ふ。弟九臯は、尚書郎より歴て唐・徐・宋・襄・広の五州刺史。九章は、吉・明・曹の三州刺史を歴、鴻臚卿。
九齢中書令と為りし時、天長節に百僚寿を上ぐるに、多く珍異を献ず。唯だ九齢『金鏡録』五巻を進む。前古興廃の道を言ふ。上賞異す。又中書侍郎厳挺之・尚書左丞袁仁敬・右庶子梁升卿・御史中丞盧怡と交結し善くす。挺之等才幹有り、而して交わり道終始渝らず、甚だ当時の称する所と為る。至徳初め、上皇蜀に在り、九齢の先覚を思ひ、詔を下して褒贈し、曰く、「大廈を正すは柱石の力、帝業を昌ふるは輔相の臣。生ずれば則ち其の栄名を保ち、歿すれば乃ち其の盛徳を称す。節終に人望に允ならず、加贈実に国章に存す。故中書令張九齢は、維れ嶽神を降し、川を済して相と作り、開元の際、寅亮して成功す。讜言其の社稷を定め、先覚蓍策に合し、永く賢弼を懷ふ、大臣と謂ふべし。竹帛猶ほ存し、樵蘇必ず禁ず。爰に八命の秩より、更に三臺の位に進む。司徒を贈るべし。仍ち使を遣はして韶州に就きて祭を致せ」と。集二十巻有り。
張仲方
李適之
李適之、一名は昌、恆山王承乾の孫である。父の象は、官は懐州別駕に至った。適之は神龍初年に起家して左衛郎将に拝された。開元中、累遷して通州刺史となり、強幹をもって称された。時に給事中韓朝宗が按察使となり、特にこれを表薦し、抜擢して秦州都督に拝した。まもなく陜州刺史に転じ、入朝して河南尹となった。適之の性質は簡略で率直、苛細なことを務めず、人吏はこれを便とした。歳余にして御史大夫に拝された。開元二十七年、幽州大都督府長史を兼ね、節度事を知った。適之は祖父が罪を得て廃されたこと、父がまた則天に退けられたことを以て、葬礼に欠けるところあり、上疏して昭陵の闕内に帰葬することを請うた。ここに詔を下して承乾を追贈して恆山湣王とし、象を越州都督・郇国公とし、伯父の厥及び亡兄数人に並びに褒贈を加えた。数喪ともに京師に至り、葬礼は甚だ盛大で、なお石を墳所に刊した。まもなく刑部尚書に拝された。適之は雅に賓友を好み、酒を一斗飲んでも乱れず、夜は宴賞し、昼は公務を決し、庭に留まる事無し。
李季卿
李融
孫の融は、立性厳整、吏事を善くした。貞元十年、歴官して渭州節度使に至り卒した。
厳挺之
微臣はひそかに思うに、陛下は天に応じ人に順い、号令を発し、自ら大礼に臨み、広大な恩沢を明らかに布き、政務に励み、万機に心を砕かれる。天下の心を以て自らの心とし、安危の理を深く戒められることは、まさに堯・舜・禹・湯の徳教である。しかしながら、どうして自ら城門に臨み、大酺を見物され、連日連夜に及ばれるのか、臣の愚かさではひそかに理解できない。そもそも酺とは、人々の利に因り、金を出し合って歓楽をなすもので、互いに秩序を乱さず、浪費に至らないものである。かつて臣が昼間を占った故事は史冊に存し、君主の挙動は必ず記録されるのが帝王の重んずるところである。今や衣冠を路上に曝し、妓楽を夜中に並べる。鄭・衛の音を交え、倡優の楽を恣にする。陛下は淳朴に復古し、宵衣旰食して励まれるのに、細行を顧みられないのは、聖徳に適うものではないと思われる。臣はこれが一つの不可と考える。誰何が夜を警め、鼓を伐って朝を告げるのは、非常事態に備える善政である。今、陛下が深く戒慎を考えず、軽々しく動静に背き、重門の禁を弛めれば、大悪人が多く跋扈しよう。もし馬を躍らせ車を奔らせ、流言が飛び叫び声が起こり、少しでも聖聴に触れれば、宸衷を煩わすことになろう。臣はこれが二つの不可と考える。かつて一人が隅に向かえば満堂楽しまず、一物が所を失えば納隍の憂いが増すと言う。陛下は北宮に多暇を持ち、西墉に暫く臨まれる。青春の日は長く、すでに埃塵の弊が積もり、紫微の漏刻は永く、重ねて歌舞の楽を窮められる。もし役人が怠け、下民が飢え疲れても、陛下が近くを顧みられないなら、遠きをどうしようか。聖情がこれを聞けば、恐れ慎まぬはずがあろうか。臣はこれが三つの不可と考える。かつて元正の首祚には大礼が頻りに行われ、百姓は仰ぎ望み、業が天に配し、功が曠代に垂れると言った。今、陛下の恩は衆望に薄く、酺は往年を過ぎる。王公貴人は各々微旨を受け、州県坊曲は競って課税を行う。道路には嘆きの声が上がり、家産を売り払い、万人の力を損ない、百戯の資金を営む。まさにその歓びを同じくしようとして、かえってその患いを残し、さらに夜を兼ねさせれば、人々はどうして堪えられようか。臣はこれが四つの不可と考える。『書経』に「百姓に逆らって己の欲に従うな」とある。況や去夏より霖雨が続き、今は旱魃に経て、農は収成に乏しく、市には物価の高騰がある。実を損ない虚を崇め、不急の務めに弛み、方春の業を乱す。前代の聖主明王も、細微を忽せにして過患を成した例は多い。陛下はこれを倣うべきだろうか。伏して望むには、昼は歓楽し、暮れには休息を命じ、夜を兼ねることを求めれば、聖朝に益なきことを恐れる。
上はその言を容れて止めた。
子の武は、広徳年中に黄門侍郎・成都尹・剣南節度使となった。
史臣曰く
史臣が曰く、崔日用は武三思に附会して高位を取る。韋氏討伐に預かり、遂に重権を握る。自ら言う、「吾が一生の行ひ、皆臨時に制変し、必ずしも始めの謀を専ら守るに及ばず」と。信ずるかな。夫れ死を守りて善道を為す者と、同年に語るべからざるなり。張嘉貞は田園を立てざるも、勢利に急なるを奈何せん、近習と朋比し、姜皎・伷先を杖つ。中立の士に非ず。蕭嵩は位中書令に極まり、異政聞こえず、破虜の勲を樹つ。真に致遠の器なり。九齢は文学政事、咸に称する所あり、一時の選なり。適之は下に臨むに簡なるも、公に在りて克く勤む。惜しむかな、其の死を得ざるを。挺之は才略器識、諸公に下らず、権門に近づくを恥じ、人の悪む所となり、台輔に登らず、宮僚に養疾す。富貴天に在り、窮達命有りと雖も、彼の林甫なる者は、誠に豺虎に投ぐべし。
賛に曰く、開元の代、多士盈庭す。日用は守り無く、嘉貞は名に近し。嵩・齢・適・挺、各々度程有り。大位俱に極まり、半ばは徳馨に慚づ。