舊唐書

巻099

巻099

舊唐書

原文舊唐書

卷九十九

原文卷九十九

列傳第四十九 崔日用 張嘉貞 蕭嵩 張九齡 李適之 嚴挺之

原文列傳第四十九 崔日用 張嘉貞 蕭嵩 張九齡 李適之 嚴挺之

崔日用

原文崔日用

崔日用は、滑州霊昌の人であり、その先祖は博陵から移り住んだ。進士に挙げられ、初めは芮城尉となった。大足元年、則天武后が長安ちょうあんに行幸した際、路次で陝州に滞在した。宗楚客が当時刺史であったが、日用は供頓の事を支弁し、広く珍味を求め、楚客の命と称して、従官に遍く饋った。楚客はこれを知って大いに賞嘆し、盛んに推薦した。これにより新豊尉に抜擢された。間もなく、監察御史に任ぜられた。

原文崔日用,滑州靈昌人,其先自博陵徙家焉。進士舉,初為芮城尉。大足元年,則天幸長安,路次陜州。宗楚客時為刺史,日用支供頓事,廣求珍味,稱楚客之命,遍饋從官。楚客知而大加賞嘆,盛稱薦之,由是擢為新豐尉。無幾,拜監察御史。

神龍年間、秘書監鄭普思が後宮に娘を納れ、左道を潜かに謀った。日用は急ぎ上奏してこれを弾劾した。普思は恩寵を受けていたため、中宗はこれを省みなかった。日用は朝廷で争い懇切に至り、言葉は甚だ抗直であった。普思は遂にその罪に伏した。当時、宗楚客・武三思・武延秀らが互いに朋党を為し、日用は密かに皆これに附き、驟に兵部侍郎兼修文館学士に遷った。中宗が暴崩し、韋庶人が称制すると、日用は禍が己に及ぶことを恐れた。玄宗が義挙を図ろうとしていることを知り、沙門普潤・道士王曄を通じて密かに藩邸に詣で、深く結託し、密かに翼戴を謀った。玄宗は嘗て言った、「今この挙を謀るは、直ちに親の為であり、身の為ではない」と。日用は言った、「これは孝が天を感動させたものであり、事は必ず克捷するでしょう。速やかに発することを望み、不意を衝くべきです。もし少しでも遅延すれば、あるいは変が生ずる恐れがあります」と。韋氏を討平したその夜、雍州長史事を権知せしめた。功により銀青光禄大夫・黄門侍郎を授けられ、機務に参じ、斉国公に封ぜられ、実封二百戸を食んだ。

原文神龍中,秘書監鄭普思納女後宮,潛謀左道,日用遽奏劾之。普思方承恩,中宗不之省。日用廷爭懇至,詞甚抗直,普思竟伏其罪。時宗楚客、武三思、武延秀等遞為朋黨,日用潛皆附之,驟遷兵部侍郎兼修文館學士。中宗暴崩,韋庶人稱制,日用恐禍及己。知玄宗將圖義舉,乃因沙門普潤、道士王曄密詣籓邸,深自結納,潛謀翼戴。玄宗嘗謂曰:「今謀此舉,直為親,不為身。」日用曰:「此乃孝感動天,事必克捷。望速發,出其不意,若少遲延,或恐生變。」及討平韋氏,其夜,令權知雍州長史事。以功授銀青光祿大夫、黃門侍郎,參知機務,封齊國公,食實封二百戶。

宰相となって月余り、中書侍郎薛稷と協わず、中書で忿競した。これにより雍州長史に転じ、政事を知ることを停められた。間もなく出て揚州長史となり、婺・汴二州刺史・兗州都督ととく・荊州長史を歴任した。入朝して事を奏上する際に言った、「太平公主が謀逆の期日を定めています。陛下が往昔、宮府(太子として)におられた時、討捕しようとされたのは、猶子道・臣道であり、謀を用い力を用いる必要がありました。今既に大宝に光臨なさりました。ただ一つの制を下せば、誰が従わないことがありましょうか。もし奸宄が志を得れば、則ち禍乱小さからず」と。上は言った、「誠にその通りであるが、直ちに太上皇を驚動させることを恐れる。卿は更にこれを考えよ」と。日用は言った、「臣は聞きます。天子の孝と庶人の孝は全く別であると。庶人の孝は、身を謹み用を節し、顏色に順承することである。天子の孝は、国家を安んじ、社稷を定めることである。今もし逆党が窃かに発すれば、即ち大業は全て棄てられることになり、どうして天子の孝を成し得ましょうか。伏して請う、先ず北軍を定め、次いで逆党を収めれば、即ち太上皇を驚動させません」と。玄宗はその議に従った。蕭至忠・竇懐貞を討つ際、また雍州長史を権検校せしめ、実封を加え、前を通じて満四百戸とした。間もなく吏部尚書に拝された。

原文為相月餘,與中書侍郎薛稷不協,於中書忿競,由是轉雍州長史,停知政事。尋出為揚州長史,歷婺、汴二州刺史、兗州都督、荊州長史。因入奏事,言:「太平公主謀逆有期,陛下往在宮府,欲有討捕,猶是子道臣道,須用謀用力。今既光臨大寶,但須下一制,誰敢不從?忽奸宄得志,則禍亂不小。」上曰:「誠如此,直恐驚動太上皇,卿宜更思之。」日用曰:「臣聞天子孝與庶人孝全別。庶人孝,謹身節用,承順顏色;天子孝,安國家,定社稷。今若逆黨竊發,即大業都棄,豈得成天子之孝乎!伏請先定北軍,次收逆黨,即不驚動太上皇。」玄宗從其議。及討蕭至忠、竇懷貞之際,又令權檢校雍州長史,加實封通前滿四百戶。尋拜吏部尚書。

日用は嘗て『毛詩』の『大雅』・『小雅』二十篇及び司馬相如の『封禅書』を採り、上(玄宗)の誕生日に表を上ってこれを献じ、以て規諷を申べ、並びに告成の事を述べた。手詔で答えて言った、「夫れ詩とは、天地を動かし、鬼神を感ぜしめ、人を厚くし、教を美ならしめるものである。朕が志の尚ぶところ、思うにこれと斉しくせんとし、采詩の官を庶幾うも、朕の闕を補わん。且つ古の封禅は、中に升り成を告ぐるもの。朕は菲徳を以てし、至道に明らかでない。竦然として聴けば、頗る相如の詞を壮とし、惕然として懐に載せれば、復た夷吾の語を慚ず。卿は聞に洽く見を殫くし、故きを温ねて新しきを知り、この發揮に逮ぎ、益々忠懇を彰わす。豈に蓬山の籍を討つにあらずや、心は起予を忘れず。蘭殿の祥に因りて、言は固より啓沃に深し。朕は循環して覧諷し、以て懐を慰む。今卿に衣裳一具・物五十段を賜い、以て言なきに酬いざるの信なきを示す」と。

原文日用嘗采《毛詩》、《大雅》、《小雅》二十篇及司馬相如《封禪書》,因上生日表上之,以申規諷,並述告成之事。手詔答曰:「夫詩者,動天地,感鬼神,厚於人,美於教矣。朕志之所尚,思與之齊,庶乎采詩之官,補朕之闕。且古者封禪,升中告成,朕以菲德,未明於至道。竦然以聽,頗壯相如之詞;惕然載懷,復慚夷吾之語。卿洽聞殫見,溫故知新,逮此發揮,益彰忠懇。豈非討蓬山之籍,心不忘於起予;因蘭殿之祥,言固深於啟沃,朕循環覽諷,用慰於懷。今賜卿衣裳一副、物五十段,以示無言不酬之信也。」

間もなく出て常州刺史となり、実封三百戸を削られ、汝州刺史に転じた。開元七年、口賦を差降する際、特に勅を下して言った、「唐元(先天)の際、逆党が凶を構えた。崔日用は当時密かにその事を論じ、及び戡翦に当たり、実に元謀に預かった。而るに所食の封は、後ち例により減ぜられた。功既に多し、特ち初めに食した封に準じ、二百戸を与うべし」と。十年、并へい州大都督府長史に転じた。間もなく卒した。時に年五十。吏部尚書を贈られ、諡して昭といった。後ちまた荊州大都督を贈られ、子の宗之が襲封した。

原文尋出為常州刺史,削實封三百戶,轉汝州刺史。開元七年,差降口賦,特下敕曰:「唐元之際,逆黨構凶,崔日用當時潛論其事,及於戡翦,實預元謀,而所食之封,後以例減。功既居多,特宜準初食之封,與二百戶。」十年,轉并州大都督長史。尋卒,時年五十,贈吏部尚書,謚曰昭。後又贈荊州大都督,子宗之襲。

日用は才弁人に過ぎ、事を見るに敏速であり、朝廷に事ある毎に、禍を転じて福と為し、以て富貴を取った。先天以後、再び入相を求めたが、遂に果たせなかった。常に人に謂って言った、「我が一生の行う事は、皆臨時に変を制し、必ずしも始めの謀を専ら守ることを重んじない。毎にこれを念うと、覚えず芒刺背中にあるが如し」と。

原文日用才辯過人,見事敏速,每朝廷有事,轉禍為福,以取富貴。及先天已後,復求入相,竟亦不遂。常謂人曰:「吾一生行事,皆臨時制變,不必重專守始謀。每一念之,不覺芒刺在於背也。」

崔日知

原文崔日知

日用の従父兄の日知もまた吏幹があった。景雲年中、洛州司馬となった。時に譙王重福が東都に入り乱を為すと、群臣は皆避難して逃匿したが、日知は独り人吏を督率して留守に赴き、屯営と合勢して賊を討った。重福が既に死ぬと、功により銀青光禄大夫を加えられ、累遷して京兆尹となった。贓に坐り、御史李如璧に劾せられ、左遷されて歙県丞となり、俄かにまた歴遷して殿中監となった。日知は平素より張説と友善であり、説がこれを推薦し、奏請して御史大夫を授けんとしたが、上は許さなかった。遂に左羽林懐大将軍と為し、而して河南尹崔隠甫を御史大夫とした。隠甫はこれにより説と協わなくなった。日知は俄かに太常卿に遷った。自ら歴任年久と以てし、毎に朝士が参集する時、常に尚書と同列にし、時人は「尚書裏行」と号し、遂に口実と為った。開元十六年、出て潞州大都督府長史となった。間もなく年老いて致仕し、卒した。諡して襄といった。

原文日用從父兄日知,亦有吏幹。景雲中為洛州司馬。會譙王重福入東都作亂,群臣皆避難逃匿,日知獨督率人吏赴留守,與屯營合勢討賊。重福既死,以功加銀青光祿大夫,累遷京兆尹。坐贓為御史李如璧所劾,左遷歙縣丞,俄又歷遷殿中監。日知素與張說友善,說薦之,奏請授御史大夫,上不許。遂以為左羽林懷大將軍,而以河南尹崔隱甫為御史大夫,隱甫由是與說不葉。日知俄遷太常卿。自以歷任年久,每朝士參集,常與尚書同列,時人號為「尚書裏行」,遂為口實。開元十六年,出為潞州大都督府長史。尋以年老致仕,卒,謚曰襄。

張嘉貞

原文張嘉貞

張嘉貞は、蒲州猗氏の人である。弱冠にして五経挙に応じ、平郷尉に拝され、事に坐して免ぜられ郷里に帰った。長安年中、侍御史張循憲が河東采訪使となり、嘉貞の材が憲官に堪えることを薦め、己の官秩を以てこれに授けんことを請うた。則天武后が召見し、簾を垂れてこれと語ると、嘉貞は奏して言った、「臣が草萊よりして九重に入謁するを得るは、是れ千載一遇です。咫尺の間、雲務を隔てるが如く、竟に日月を睹ず、恐らくは君臣の道に尽くさざる所あるかと」と。則天は急ぎ簾を巻かせ、語って大いに悦び、監察御史に擢拝した。累遷して中書舎人となり、秦州都督・并州長史を歴任し、政を為すに厳粛であり、甚だ人吏に畏れられた。

原文張嘉貞,蒲州猗氏人也。弱冠應五經舉,拜平鄉尉,坐事免歸鄉里。長安中,侍御史張循憲為河東采訪使,薦嘉貞材堪憲官,請以己之官秩授之。則天召見,垂簾與之言,嘉貞奏曰:「以臣草萊而得入謁九重,是千載一遇也。咫尺之間,如隔雲務,竟不睹日月,恐君臣之道有所未盡。」則天遽令卷簾,與語大悅,擢拜監察御史。累遷中書舍人,歷秦州都督、并州長史,為政嚴肅,甚為人吏所畏。

開元初め、事を奏上するため京師に至ると、上はその善政を聞き、数たび賞慰を加えた。嘉貞は因って奏して言った、「臣は少くして孤となり、兄弟相依って以て今に至ります。臣の弟嘉祐は、今鄯州別駕を授かっておりますが、臣と各々一方に在り、同心にして居を離れ、魂は万里に絶えます。乞う、臣の側近に移就せしめ、臣兄弟力を尽くして国に報い、死して恨み無からしめん」と。上はその友愛を嘉し、特に嘉祐を忻州刺史に改めた。

原文開元初,因奏事至京師,上聞其善政,數加賞慰。嘉貞因奏曰:「臣少孤,兄弟相依以至今。臣弟嘉祐,今授鄯州別駕,與臣各在一方,同心離居,魂絕萬里。乞移就臣側近,臣兄弟盡力報國,死無所恨。」上嘉其友愛,特改嘉祐為忻州刺史。

時に突厥の九姓が新たに内附し、太原以北に散居していた。張嘉貞は軍を置いてこれを鎮めるよう奏請し、ここに初めて并州に天兵軍を置き、嘉貞をその使とした。六年の春、嘉貞はまた入朝した。やがてその軍中における奢侈・僭越及び贓賄(収賄)を告げる者があった。御史大夫王晙がこれに乗じて弾劾し奏上したが、取り調べて証拠はなかった。上(玄宗)は告げた者に反坐の罪を加えようとした。嘉貞は奏して言うには、「昔、天子は上で政を聴き、瞽(盲人)が賦(詩)を誦し、矇(盲人)が誦し、百工(百官)が諫め、庶人が謗(批判)し、その後で天子が斟酌したものである。今この輩に反坐させるのは、言う者の道を塞ぐことであり、そうなれば天下の事は上に達する由もない。特にこの罪を免じ、謗誦の道を広げられるよう望む」と。帝はこれに従い、遂に死刑を減ずるよう命じた。これより帝は嘉貞を忠臣と見做した。嘉貞はまたかつて奏して言うには、「今志力は正に壮んでおり、命を効する秋である。さらに三数年を経れば、すなわち衰老して為す能わなくなる。惟(願わく)は陛下、早く任使を垂れたまわんことを。死をも憚らない」と。上はその明弁なるを以て、特に重んじた。八年の春、宋璟・蘇頲が政事を知ることを罷められ、嘉貞を抜擢して中書侍郎・同中書門下平章事とした。数ヶ月後、銀青光禄大夫を加えられ、中書令に遷った。

原文時突厥九姓新來內附,散居太原以北,嘉貞奏請置軍以鎮之,於是始於并州置天兵軍,以嘉貞為使。六年春,嘉貞又入朝。俄有告其在軍奢僭及贓賄者,御史大夫王晙因而劾奏之,按驗無狀,上將加告者反坐之罪。嘉貞奏曰:「昔者天子聽政於上,瞍賦矇誦,百工諫,庶人謗,而後天子斟酌焉。今反坐此輩,是塞言者之路,則天下之事無由上達。特望免此罪,以廣謗誦之道。」從之,遂令減死,自是帝以嘉貞為忠。嘉貞又嘗奏曰:「今誌力方壯,是效命之秋,更三數年,即衰老無能為也。惟陛下早垂任使,死且不憚。」上以其明辯,尤重之。八年春,宋璟、蘇颋罷知政事,擢嘉貞為中書侍郎、同中書門下平章事。數月,加銀青光祿大夫,遷中書令。

嘉貞は判断・決断が敏速で、奏上するのに巧みであったが、性質は強情でせっかちで独断専行であり、当時の論評にかなり嗤われた。時に中書舎人苗延嗣・呂太一、考功員外郎員嘉静、殿中侍御史崔訓は、皆嘉貞が引き立てた者で、清要の位に列し、常に嘉貞の門下で共に朝政を議した。当時の人はこれについて語って言うには、「令公の四俊、苗・呂・崔・員」と。

原文嘉貞斷決敏速,善於敷奏,然性強躁自用,頗為時論所譏。時中書舍人苗延嗣、呂太一、考功員外郎員嘉靜、殿中侍御史崔訓,皆嘉貞所引,位列清要,常在嘉貞門下共議朝政,時人為之語曰:「令公四俊,苗、呂、崔、員。」

開元十年、車駕(天子の行幸)が東都(洛陽らくよう)に幸した。洛陽主簿王鈞が嘉貞のために邸宅を修築し、これによって御史の官を求めようとしたが、賄賂を受け取った事が発覚した。上は特に命じて朝堂に衆を集めて決殺させた。嘉貞は担当官に刑を急がせて口封じを図り、かえって罪を御史大夫韋抗・中丞韋虚心に帰し、二人とも貶黜させた。その冬、秘書監姜皎が罪を犯すと、嘉貞はまた王守一に附会して杖刑を奏請し、姜皎は遂に路上で死んだ。やがて広州都督裴伷先が獄に下され、上は侍臣を召してどのような罪に当たるか問うた。嘉貞はまた杖刑を請うた。兵部尚書張説が進み出て言うには、「臣は聞く、刑は大夫に上らず、と。それは君に近いからである。故に言う、『士は殺すべくも、辱しむべからず』と。臣、今秋詔を受けて辺境を巡視したが、途中で姜皎が罪により朝堂で決杖され、配流されて死んだと聞いた。姜皎の官は三品であり、また微功もある。もし犯したなら、死すべきであれば即ち殺し、流すべきであれば即ち流すべきで、決杖して朝廷で辱しめ、卒伍(兵卒)の如く扱うのは宜しくない。かつ律には八議があり、勲功ある貴人はその中にある。姜皎の事は既に過ぎ去り、追悔すべくもない。裴伷先については只、状(罪状)に基づいて流貶すべきであり、軽々しくまた決罰すべきではない」と。上はその言を然りとした。嘉貞は悦ばず、退いて張説に言うには、「何ぞ事を言うことの深きや」と。張説は言うには、「宰相というものは、時が来れば即ち為るものであり、豈に長く据わり続けられようか。もし貴臣が皆杖せられるべきなら、只恐らくは我々も行く当たり及ぶであろう。この言は裴伷先の為ではなく、天下の士君子の為である」と。初め、嘉貞が兵部員外郎であった時、張説は侍郎であった。この時には、張説の位は嘉貞の下にあり、既に何の推譲もなかったので、張説は頗る不平で、この言を以て嘉貞を激怒させた。これによって張説と不和となった。上はまた嘉貞の弟嘉祐を金吾将軍とし、兄弟並びに将相の位に居り、当時の人々に非常に畏れ憚られた。十一年、上が太原の行在所に幸した時、嘉祐の収賄汚職が発覚した。張説は嘉貞に素服で待罪するよう勧め、入謁させず、これによって外されて幽州刺史とし、張説が代わって中書令となった。嘉貞は悔しみ恨んで、人に言うには、「中書令には幸いにも二員あるというのに、何ぞ相迫ることの甚だしいや」と。明年、また戸部尚書に拝され、益州長史を兼ね、都督事を判じた。勅により嘉貞は中書省に就いて宰相と会宴したが、嘉貞は既に張説が己を排斥したことを恨み、袂を捲し勃然として罵った。源乾曜・王晙が共にこれを和解した。

原文開元十年,車駕幸東都。有洛陽主簿王鈞為嘉貞修宅,將以求御史,因受贓事發,上特令朝堂集眾決殺之。嘉貞促所由速其刑以滅口,乃歸罪於御史大夫韋抗、中丞韋虛心,皆貶黜之。其冬,秘書監姜皎犯罪,嘉貞又附會王守一奏請杖之,皎遂死於路。俄而廣州都督裴伷先下獄,上召侍臣問當何罪,嘉貞又請杖之。兵部尚書張說進曰:「臣聞刑不上大夫,以其近於君也。故曰:『士可殺,不可辱。』臣今秋受詔巡邊,中途聞姜皎以罪於朝堂決杖,配流而死。皎官是三品,亦有微功。若其有犯,應死即殺,應流即流,不宜決杖廷辱,以卒伍待之。且律有八議,勛貴在焉。皎事已往,不可追悔。伷先只宜據狀流貶,不可輕又決罰。」上然其言。嘉貞不悅,退謂說曰:「何言事之深也?」說曰:「宰相者,時來即為,豈能長據?若貴臣盡當可杖,但恐吾等行當及之。此言非為伷先,乃為天下士君子也。」初,嘉貞為兵部員外郎,時張說為侍郎。及是,說位在嘉貞下,既無所推讓,說頗不平,因以此言激怒嘉貞,由是與說不葉。上又以嘉貞弟嘉祐為金吾將軍,兄弟並居將相之位,甚為時人之所畏憚。十一年,上幸太原行在所,嘉祐贓汙事發。張說勸嘉貞素服待罪,不得入謁,因出為幽州刺史,說遂代為中書令。嘉貞惋恨,謂人曰:「中書令幸有二員,何相迫之甚也!」明年,復拜戶部尚書,兼益州長史,判都督事。敕嘉貞就中書省與宰相會宴,嘉貞既恨張說擠己,因攘袂勃罵,源乾曜、王晙共和解之。

明年、王守一と交際した罪に坐し、左遷されて台州刺史となった。また盧従願に代わって工部尚書・定州刺史となり、北平軍事を知り、累ねて河東侯に封ぜられた。出発に際し、上自ら詩を賦し、詔して百官を上東門外で餞別させた。州に至り、恒嶽廟の中に頌を立て、嘉貞自らその文を為し、石に書かせた。その碑は白石を用いて作り、素質に黒文、非常に奇麗であった。先に、嶽祠は遠近の祈賽(祈願と賽祭)の場であり、銭数百万があった。嘉貞は頌文の功を以て自ら認め、その数万を納めた。十七年、嘉貞は病を以て東都で就医するよう請い、制(詔)はこれに従った。都に至り、目は閉じて何も見えなかった。上は医者の内直郎田休裕・郎将呂弘泰に馳伝して往き診療させるよう命じた。その秋に卒去。六十四歳。益州大都督を贈られた。諡して恭肅と言う。

原文明年,坐與王守一交往,左轉臺州刺史。復代盧從願為工部尚書、定州刺史,知北平軍事,累封河東侯。將行,上自賦詩,詔百僚於上東門外餞之。至州,於恆嶽廟中立頌,嘉貞自為其文,乃書於石,其碑用白石為之,素質黑文,甚為奇麗。先是,嶽祠為遠近祈賽,有錢數百萬,嘉貞自以為頌文之功,納其數萬。十七年,嘉貞以疾請就醫東都,制從之。至都,目瞑無所見,上令醫人內直郎田休裕、郎將呂弘泰馳傳往省療之。其秋卒,年六十四,贈益州大都督。謚曰恭肅。

嘉貞は長く清要の職を歴任したが、田園を立てなかった。定州に在った時、親しい者が田業を営むよう勧めると、嘉貞は言うには、「私は忝くも官栄を歴任し、かつて国相を任じられた。未だ死なない内に、豈に飢餓を憂えようか。もし譴責を負うようなことがあれば、たとえ富める田莊もまた用はない。近頃、朝士が広く良田を占めるのを見るが、その身が没した後は、皆無頼の子弟が酒色の資とするだけであり、甚だ謂れのないことだ」と。聞いた者は皆嘆服した。

原文嘉貞雖久歷清要,然不立田園。及在定州,所親有勸植田業者,嘉貞曰:「吾忝歷官榮,曾任國相,未死之際,豈憂饑餒?若負譴責,雖富田莊,亦無用也。比見朝士廣占良田,及身沒後,皆為無賴子弟作酒色之資,甚無謂也。」聞者皆嘆伏。

初め、嘉貞が宰相となった時、万年県主簿韓朝宗を推薦し、監察御史に抜擢した。嘉貞が卒して十数年後、韓朝宗は京兆尹となり、奏して言うには、「陛下が御位に臨まれて以来、用いられた宰相は皆礼に則って進退し、善く始め善く終わり、身は既に没しても子孫は皆朝廷に在る。ただ張嘉貞のみが晚年に一子を残し、今なお官序に登っていない」と。上もまた惘然とし、急ぎ召すよう命じ、名を延賞と賜い、特に左内率府兵曹参そうしん軍に拝した。徳宗の朝、位は宰輔に至り、独自の伝がある。

原文初,嘉貞作相,薦萬年縣主簿韓朝宗,擢為監察御史。及嘉貞卒後十數歲,朝宗為京兆尹,因奏曰:「自陛下臨御已來,所用宰相,皆進退以禮,善始令終,身雖已沒,子孫咸在朝廷。唯張嘉貞晚年一子,今猶未登官序。」上亦惘然,遽令召之,賜名延賞,特拜左內率府兵曹參軍。德宗朝,位至宰輔,自有傳。

張嘉祐

原文張嘉祐

嘉祐は幹略があり、右金吾将軍から浦陽府折衝に貶ぜられた。開元二十五年に至り、相州刺史となった。相州は開元以来、刺史が死罪や貶謫に処せられた者が十数人いた。嘉祐は尉遅迥が周末に相州総管となり、身は国難に死したことを訪ね知り、その神祠を立てて福を邀えようとした。三考(三年の考課)を経て、左金吾将軍に改まった。後に呉兢が鄴郡守となった時、また尉遅神に冕服を加えた。これ以後、郡守に患いは無かった。

原文嘉祐,有幹略,自右金吾將軍貶浦陽府折沖,至二十五年,為相州刺史。相州自開元已來,刺史死貶者十數人,嘉祐訪知尉遲迥周末為相州總管,身死國難,乃立其神祠以邀福。經三考,改左金吾將軍。後吳兢為鄴郡守,又加尉遲神冕服。自後郡守無患。

蕭嵩

原文蕭嵩

蕭嵩は、貞観初年の左僕射・宋国公蕭瑀の曾姪孫である。祖父の蕭鈞は中書舎人で、当時有名であった。嵩は美しい鬚髯を持ち、儀形は偉麗であった。初め、会稽の賀晦の娘を娶り、呉郡の陸象先と僚婿(姉妹婿同士)となった。象先は当時洛陽尉で、宰相の子であり、門望が非常に高かった。嵩はまだ仕官していなかった。宣州人の夏栄が相術があると称し、象先に言うには、「陸郎は十年の内に人臣の極位に至るが、しかし蕭郎の一門が尽く貴くなるには及ばない。官位は高くかつ長寿である」と。当時の人はこれを認めなかった。

原文蕭嵩,貞觀初左僕射、宋國公瑀之曾侄孫。祖鈞,中書舍人,有名於時。嵩美須髯,儀形偉麗。初,娶會稽賀晦女,與吳郡陸象先為僚婿。象先時為洛陽尉,宰相子,門望甚高。嵩尚未入仕,宣州人夏榮稱有相術,謂象先曰:「陸郎十年內位極人臣,然不及蕭郎一門盡貴,官位高而有壽。」時人未之許。

神龍元年、嵩は調補されて洺州参軍となった。間もなく侍中・扶陽王桓彦範が洺州刺史として出向し、これを見て推重し、殊礼をもって遇した。景雲元年、醴泉尉となった。時に陸象先は既に中書侍郎であり、引き立てて監察御史とした。象先が政事を知るに及んで、嵩はまた驟遷して殿中侍御史となった。開元初年、中書舎人となった。崔琳・王丘・齊澣と同列であったが、皆嵩が学術に乏しいとして特に異としなかった。しかし紫微令姚崇はその致遠(遠大な志)を認め、特に深く眷顧した。宋州刺史を歴任し、三遷して尚書左丞・兵部侍郎となった。

原文神龍元年,嵩調補洺州參軍。尋而侍中、扶陽王桓彥範出為洺州刺史,見之推重,待以殊禮。景雲元年,為醴泉尉。時陸象先已為中書侍郎,引為監察御史。及象先知政事,嵩又驟遷殿中侍御史。開元初,為中書舍人。與崔琳、王丘、齊澣同列,皆以嵩寡學術,未異之,而紫微令姚崇許其致遠,眷之特深。歷宋州刺史,三遷為尚書左丞、兵部侍郎。

十五年、涼州刺史・河西節度使王君㚟は、兵衆を恃み毎年吐蕃を攻撃した。吐蕃の大将悉諾邏恭祿及び燭龍莽布支が瓜州城を攻め落とし、刺史田元献及び君㚟の父王寿を捕らえ、城中の軍資及び倉糧をことごとく奪い取り、なおその城を破壊して去った。また玉門軍及び常楽県を攻め、県令賈師順が城に拠って固く守ったので、賊はついに兵を引き退いた。まもなく、君㚟はまた回紇諸部に鞏筆駅で殺され、河州・隴州は震駭した。玄宗は君㚟が勇将ではあるが謀がなく、果たして難に及んだとして、辺境の任に堪える者を選び、そこで蕭嵩を兵部尚書・河西節度使とし、涼州事を判らせた。嵩は裴寛・郭虚己・牛仙客をその幕下に置くことを請い、また建康軍使・左金吾将軍張守珪を瓜州刺史とすることを請い、州城を修築し、百姓を招集して、その旧業に復させるよう命じた。また蕭嵩に銀青光禄大夫を加えた。時に悉諾邏恭禄の威名は甚だ振るっていたが、嵩は吐蕃に反間の計を用い、彼が中国と密かに通じていると言わせ、賛普はついに彼を召し出して誅殺した。明年の秋、吐蕃が大挙して来寇し、悉末朗がまた兵を率いて瓜州を攻めたが、守珪が兵を出してこれを撃退した。隴右節度使・鄯州都督張志亮が兵を率いて青海西南の馮波谷に至り、吐蕃と戦い、これを大破した。八月、嵩はまた副将杜賓客に弩手四千人を率いさせ、吐蕃と祁連城下で戦わせた。朝から暮れまで戦い、散ってはまた合い、賊徒は大いに潰え、陣中でその副将一人を斬り、散り散りに山谷に逃げ走り、哭声が四方に響いた。戦勝の報告が届くと、玄宗は大いに喜び、蕭嵩に同中書門下三品を加え、恩顧は比べるものもなかった。

原文十五年,涼州刺史、河西節度王君滷恃眾每歲攻擊吐蕃。吐蕃大將悉諾邏恭祿及燭龍莽布支攻陷瓜州城,執刺史田元獻及君滷父壽,盡取城中軍資及倉糧,仍毀其城而去。又攻玉門軍及常樂縣,縣令賈師順嬰城固守,賊遂引退。無何,君滷又為回紇諸部殺之於鞏筆驛,河、隴震駭。玄宗以君滷勇將無謀,果及於難,擇堪邊任者,乃以嵩為兵部尚書、河西節度使,判涼州事。嵩乃請以裴寬、郭虛己、牛仙客在其幕下,又請以建康軍使、左金吾將軍張守珪為瓜州刺史,修築州城,招輯百姓,令其復業。又加嵩銀青光祿大夫。時悉諾邏恭祿威名甚振,嵩乃縱反間於吐蕃,言其與中國潛通,贊普遂召而誅之。明年秋,吐蕃大下,悉末明復率眾攻瓜州,守珪出兵擊走之。隴右節度使、鄯州都督張誌亮引兵至青海西南馮波谷,與吐蕃接戰,大破之。八月,嵩又遣副將杜賓客率弩手四千人,與吐蕃戰於祁連城下,自晨至暮,散而復合,賊徒大潰,臨陣斬其副將一人,散走山谷,哭聲四合。露布至,玄宗大悅,乃加嵩同中書門下三品,恩顧莫比。

十七年、宇文融・裴光庭に宰相を授け、また蕭嵩に中書令を兼ねさせた。十四年に燕国公張説が中書令を罷めて以来、この位は四年間空いていたが、嵩がこれに就いた。常に河西節度使を帯び、遥かにこれを領した。集賢殿学士・知院事を加え、国史の修撰を兼ね、位を進めて金紫光禄大夫とした。子の蕭衡は新昌公主を娶り、嵩の夫人賀氏が入朝して拝謁すると、玄宗は親家母と呼び、礼儀は甚だ盛んであった。まもなくまた徐国公に進封された。二十一年二月、侍中裴光庭が卒した。光庭は嵩と同列数年、情は頗る協わなかったが、この時、玄宗は嵩に宰相を選ばせた。嵩は右丞韓休が長者であるとして、これを推挙した。韓休が宰相に入ると、嵩が事を挙げるたびに、休は峻直で、ついには相容れず、互いに玄宗の前で曲直を論じ、嵩は位を譲ろうとした。玄宗は嵩を厚く眷顧していたので、嵩に尚書右丞相を授け、宰相を罷めさせ、韓休を工部尚書とした。まもなくまた嵩の子蕭華を給事中とした。

原文十七年,授宇文融、裴光庭宰相,又加嵩兼中書令。自十四年燕國公張說罷中書令後,缺此位四年,而嵩居之。常帶河西節度,遙領之。加集賢殿學士、知院事,兼修國史,進位金紫光祿大夫。子衡,尚新昌公主,嵩夫人賀氏入覲拜席,玄宗呼為親家母,禮儀甚盛。尋又進封徐國公。二十一年二月,侍中裴光庭卒。光庭與嵩同位數年,情頗不協,及是,玄宗遣嵩擇相,嵩以右丞韓休長者,舉之。及休入相,嵩舉事,休峭直,輒不相假,互於玄宗前論曲直,因讓位。玄宗眷嵩厚,乃許嵩授尚書右丞相,令罷相,以休為工部尚書。尋又以嵩子華為給事中。

二十四年、太子太師に拝された。幽州節度使張守珪が宦官牛仙童に賄賂を贈った罪に坐し、括州刺史に貶せられた時、嵩もかつて仙童に賄賂を贈っており、李林甫がこれを発覚させ、青州刺史に貶せられた。まもなくまた太子太師を追拝され、嵩はまた老齢を理由に致仕を請うた。嵩は性来、服餌を好み、宰相を罷めてからは、林園に薬草を植え、調合・錬丹して自ら楽しんだ。華は時に工部侍郎、衡は公主の婿として三品であり、嵩は白髪の身で十数年養生し、家財は豊かに蓄え、一族は栄えた。天宝八年に薨じ、年八十余、開府儀同三司を贈られた。

原文二十四年,拜太子太師。及幽州節度使張守珪坐賂遺中官牛仙童,貶為括州刺史,嵩嘗賄仙童,李林甫發之,貶青州刺史。尋又追拜太子太師,嵩又請老。嵩性好服餌,及罷相,於林園植藥,合煉自適。華時為工部侍郎,衡以主婿三品,嵩皤然就養十餘年,家財豐贍,衣冠榮之。天寶八年薨,年八十餘,贈開府儀同三司。

蕭華

原文蕭華

子の蕭華は、天宝末に兵部侍郎に転じた。安禄山の乱の時、車駕に従うことが及ばず、賊に陥り、偽って魏州刺史に任じられた。乾元元年、郭子儀が九節度の軍を率いて河を渡り相州で安慶緒を攻めた時、華は密かに表疏を通じ、官軍が至れば内応しようと待った。賊がこれを窺い知り、華を獄に禁錮した。崔光遠が魏州を収め、械を破って華を出した。魏人は華の善政を称え、光遠のもとに赴いて留任を請うたので、朝廷は正式に魏州刺史を授けた。まもなく史思明が兵を率いて南下し、子儀は華が再び陥ることを恐れ、崔光遠に代わらせるよう上表し、華を軍中に召し寄せた。相州で兵が潰えた後、華は京師に帰り、なお偽命に汚されたとして、試みの秘書少監に降格された。華は謹厳で重厚、方正で雅やかであり、家法を十分に備え、人士に称えられた。まもなく尚書右丞に遷った。乾元二年、河中尹・河中晋絳節度使として出向した。

原文子華,天寶末轉兵部侍郎。祿山之亂,從駕不及,陷賊,偽署魏州刺史。乾元元年,郭子儀與九節度之師渡河攻安慶緒於相州,華潛通表疏,俟官軍至為內應。賊伺知之,禁錮華於獄。崔光遠收魏州,破械出華。魏人美華之惠政,詣光遠請留,朝廷正授魏州刺史。既而史思明率眾南下,子儀懼華復陷,乃表崔光遠代華,召至軍中。及相州兵潰,華歸京,仍以偽命所汙,降授試秘書少監。華謹重方雅,綽有家法,人士稱之。尋遷尚書右丞。乾元二年,出為河中尹、河中晉絳節度使。

上元元年十二月、詔書に曰く、「朕を補弼する人選は、その器を審らかにして求める。天歩未だ平らかでなく、廟謨は特に切である。必ず明らかな輔弼を資とし、時に佐けることを待つ。画一の才は、則を取るに遠からず。正議大夫・前河中尹・兼御史中丞・充本府晋絳等州節度観察等使・上柱国・嗣徐国公・賜紫金魚袋蕭華は、公輔として名を成し、家を承ぎ業を継ぎ、詞は麗則を標榜し、徳は謨明を蘊む。再び宮坊を履み、特に至行を知り、君に致す望みは美しく、相を閲するに能を求む。かつ伊陟の賢を推し、さらに漢臣の閤を啓き、日月に還り依り、陰陽を佐理せしむ。紫宸において政に参ぜしめ、皇極に中を建つるに用いん。中書侍郎・同中書門下平章事・集賢殿崇文館大学士とし、国史を監修せしむべし」。

原文上元元年十二月,制曰:「弼予之選,審象是求,天步未平,廟謨尤切。必資明表,佇以佐時,畫一之才,取則不遠。正議大夫、前河中尹、兼御史中丞、充本府晉絳等州節度觀察等使、上柱國、嗣徐國公、賜紫金魚袋蕭華,公輔成名,承家繼業,詞標麗則,德蘊謨明。再履宮坊,尤知至行,致君望美,閱相求能。且推伊陟之賢,更啟漢臣之閤,還依日月,佐理陰陽。俾參政於紫宸,用建中於皇極。可中書侍郎、同中書門下平章事、集賢殿崇文館大學士,監修國史。」

時に宦官李輔国が禁兵を専ら管轄し、寵を恃んで権勢を振るい、宰相となることを求め、宰臣裴冕らに諷して己を推薦させようとしたが、蕭華はこれを頗る拒んだので、輔国は怒った。粛宗が病臥していた時、輔国は詔を偽って蕭華の相位を罷め、礼部尚書を守らせ、元載を引き立てて蕭華に代えさせた。粛宗が崩御し、代宗が諒闇にあった時、元載は輔国の意を迎え、蕭華を硤州員外司馬に貶し、蕭華は貶所で卒した。

原文時中官李輔國專典禁兵,怙寵用事,求為宰相,諷宰臣裴冕等薦己,華頗拒之,輔國怒。肅宗方寢疾,輔國矯命罷華相位,守禮部尚書,仍引元載代華。肅宗崩,代宗在諒暗,元載希輔國旨,貶華為硤州員外司馬,卒於貶所。

蕭衡、蕭華の後人

原文蕭衡、蕭華後人

蕭衡の子蕭復は、徳宗の朝に位も宰輔に至った。蕭華の子は蕭恒・蕭悟。蕭恒の子蕭俛は、大和年間に宰輔となった。蕭悟の子蕭仿は、咸通年間に宰輔となり、皆それぞれ伝がある。

原文衡子復,德宗朝位亦至宰輔。華子恆、悟。恆子俯,大和中宰輔。悟子仿,咸通中宰輔,皆自有傳。

張九齢

原文張九齡

張九齢、字は子寿、一名は博物。曾祖父の君政は、韶州別駕となり、始興に家を定めたので、今は曲江の人である。父の弘愈は、九齢の貴顕により、広州刺史を贈られた。九齢は幼くして聡明で、文をよくした。十三歳の時、書を携えて広州刺史王方慶に謁見し、方慶は大いに賞賛して言った、「この子は必ず遠大なところに至るだろう」。進士第に及第し、挙に応じて乙第に登り、校書郎に拝された。玄宗が東宮にあった時、天下の文藻の士を挙げ、親しく策問を加えたが、九齢の対策は高第となり、右拾遺に遷った。時に帝はまだ親郊の礼を行っておらず、九齢は上疏して言った。

原文張九齡,字子壽,一名博物。曾祖君政,韶州別駕,因家於始興,今為曲江人。父弘愈,以九齡貴,贈廣州刺史。九齡幼聰敏,善屬文。年十三,以書幹廣州刺史王方慶,大嗟賞之,曰:「此子必能致遠。」登進士第,應舉登乙第,拜校書郎。玄宗在東宮,舉天下文藻之士,親加策問,九齡對策高第,遷右拾遺。時帝未行親郊之禮,九齡上疏曰:

伏して考えるに、天は才なる者、百神の君にして、王者の命を受くる所の由なり。古より統を継ぐの主は、必ず郊配の義あり、蓋し天命を敬ひて以て受くる所に報ずるなり。故に郊の義に於ては、則ち徳沢未だ洽はざるを以てし、年穀登らず、凡そ事の故を以てし、其の礼を闕くことなし。『孝経』に云ふ、「昔者周公、後稷を郊祀して以て天に配す」と。是れ成王幼沖にして、周公摂位に居り、猶ほ其の礼を用ふるを謂ふ、暫くも廃せざるを明らかにす。漢の丞相匡衡も亦云ふ、「帝王の事、郊祀より重きは莫し」と。董仲舒又云ふ、「郊せずして山川を祭るは、祭の序を失ひ、礼正に逆ふ、故に『春秋』之を非とす」と。臣愚かに以為へらく、匡衡・仲舒は、古の礼を知れる者にして、皆郊の祭たる所宜しく先にすべきを謂ふなり。伏して惟ふに、陛下は休なる聖緒を紹ぎ、其の命惟れ新たなり、極に御して以来、今に於て五載、既に太平の業を光し、未だ大報の礼を行はず、窃かに経伝を考ふるに、義或は通ぜず。今百穀嘉生し、鳥獸咸く若く、夷狄内附し、兵革用て寧し。将に剣を鋳て農と為し、泥金して封禅せんと欲し、以て功德の美を彰し、允かに神祇の心に答へんとす。能事畢に行はれ、光耀帝載す。況んや郊祀は常典にして、猶ほ其の儀を闕く、事天に怠る有るが若く、臣恐らくは以て訓とすべからず。伏して望む、迎日の至に以て、焚柴の礼を展べ、紫壇に升り、采席を陳べ、天位を定め、天道を明らかにせば、則ち聖朝の典則、遺る無しと謂ふべし。

原文伏以天才者,百神之君,而王者之所由受命也。自古繼統之主,必有郊配之義,蓋以敬天命以報所受。故於郊之義,則不以德澤未洽,年谷不登,凡事之故,而闕其禮。《孝經》云:「昔者周公郊祀後稷以配天。」斯謂成王幼沖,周公居攝,猶用其禮,明不暫廢。漢丞相匡衡亦云:「帝王之事,莫重乎郊祀。」董仲舒又云:「不郊而祭山川,失祭之序,逆於禮正,故《春秋》非之。」臣愚以為匡衡、仲舒,古之知禮者,皆謂郊之為祭所宜先也。伏惟陛下紹休聖緒,其命惟新,御極已來,於今五載,既光太平之業,未行大報之禮,竊考經傳,義或未通。今百穀嘉生,鳥獸咸若,夷狄內附,兵革用寧。將欲鑄劍為農,泥金封禪,用彰功德之美,允答神只之心。能事畢行,光耀帝載。況郊祀常典,猶闕其儀,有若怠於事天,臣恐不可以訓。伏望以迎日之至,展焚柴之禮,升紫壇,陳采席,定天位,明天道,則聖朝典則,可謂無遺矣。

九齢は才鑒を以て推され、当時吏部は抜萃選人及び応挙者を試すに、咸く九齢と右拾遺趙冬曦に令して其の等第を考へしめ、前後数四、毎に平允を称せり。開元十年、三遷して司勛員外郎と為る。時に張説は中書令たり、九齢と同姓なるを以て、昭穆を叙し、尤も親重し、常に人に謂ひて曰く、「後来の詞人、首に称すべきなり」と。九齢既に知己を欣び、亦之に依附せり。十一年、中書舍人を拝す。

原文九齡以才鑒見推,當時吏部試拔萃選人及應舉者,咸令九齡與右拾遺趙冬曦考其等第,前後數四,每稱平允。開元十年,三遷司勛員外郎。時張說為中書令,與九齡同姓,敘為昭穆,尤親重之,常謂人曰:「後來詞人稱首也。」九齡既欣知己,亦依附焉。十一年,拜中書舍人。

十三年、車駕東巡し、封禅の礼を行ふ。説自ら侍従升中の官を定め、多く両省の録事主書及び己が親しむ所の官を引きて上り、遂に特進の階を加へ、五品を超授す。初め、九齢に詔を草せしむ。九齢、説に言ひて曰く、「官爵は、天下の公器、徳望を先とし、労旧之に次ぐ。若し衣裳を顛倒せば、則ち譏謗起らん。今登封の霈沢は、千載一遇なり。清流高品は、殊恩を沐ばず。胥吏末班は、先づ章紱を加ふ。但だ制出づるの後、四方失望するを恐る。今草を進むるの際、事猶ほ改むべし、唯だ令公審かに之を籌ひ、後悔を貽すこと無かれ」と。説曰く、「事已に決せり、悠悠の談、何ぞ慮るに足らんや」と。竟に従はず。及び制出づるに及び、内外甚だ説を咎む。時に御史中丞宇文融方に田戸の事を知り、毎に奏する所有れば、説多く建議して之に違ひ、融亦此を以て説に不平たり。九齢復た説に備ふるを勧む、説又其の言に従はず。幾ばくも無く、説果たして融の劾する所と為り、政事を知るを罷めらる。九齢亦太常少卿に改め、尋ひて出でて冀州刺史と為る。九齢は母老いて郷に在るを以て、河北道里遼遠なるを以て、上疏して固より江南一州に換へんことを請ひ、数へて母の音耗を承くるを得んことを望む。優制之を許し、洪州都督に改む。俄に桂州都督に転じ、仍く嶺南道按察使を充つ。上又其の弟九章・九臯を以て嶺南道刺史と為し、歳時伏臘に、皆寧覲を得しむ。

原文十三年,車駕東巡,行封禪之禮。說自定侍從升中之官,多引兩省錄事主書及己之所親攝官而上,遂加特進階,超授五品。初,令九齡草詔,九齡言於說曰:「官爵者,天下之公器,德望為先,勞舊次焉。若顛倒衣裳,則譏謗起矣。今登封霈澤,千載一遇。清流高品,不沐殊恩。胥吏末班,先加章紱。但恐制出之後,四方失望。今進草之際,事猶可改,唯令公審籌之,無貽後悔也。」說曰:「事已決矣,悠悠之談,何足慮也!」竟不從。及制出,內外甚咎於說。時御史中丞宇文融方知田戶之事,每有所奏,說多建議違之,融亦以此不平於說。九齡復勸說為備,說又不從其言。無幾,說果為融所劾,罷知政事,九齡亦改太常少卿,尋出為冀暫刺史。九齡以母老在鄉,而河北道里遼遠,上疏固請換江南一州,望得數承母音耗,優制許之,改為洪州都督。俄轉桂州都督,仍充嶺南道按察使。上又以其弟九章、九臯為嶺南道刺史,令歲時伏臘,皆得寧覲。

初め、張説集賢院事を知り、常に九齢の学士たるに堪ふるを薦む。以て顧問に備ふ。説卒したる後、上其の言を思ひ、召して九齢を秘書少監・集賢院学士に拝し、副知院事とす。再び中書侍郎に遷る。常に密かに陳奏有り、多く納用せらる。尋ひて母喪に丁り郷里に帰る。二十一年十二月、起復して中書侍郎・同中書門下平章事を拝す。明年、中書令に遷り、国史を修むるを兼ぬ。時に范陽節度使張守珪、裨将安禄山を以て奚・契丹を討ちて敗衄し、執へて京師に送り、朝典を行はんことを請ふ。九齢奏劾して曰く、「穰苴軍を出すに、必ず莊賈を誅す。孫武戦を教ふるに、亦宮嬪を斬る。守珪軍令必ず行はる。禄山死を免すべからず」と。上特ち之を赦す。九齢奏して曰く、「禄山は狼子野心、面に逆相有り。臣請ふ、罪に因りて之を戮し、後患を絶たんことを冀ふ」と。上曰く、「卿王夷甫の石勒を知る故事を以て、誤て忠良を害すること無かれ」と。遂に帰籓に放つ。

原文初,張說知集賢院事,常薦九齡堪為學士,以備顧問。說卒後,上思其言,召拜九齡為秘書少監、集賢院學士,副知院事。再遷中書侍郎。常密有陳奏,多見納用。尋丁母喪歸鄉里。二十一年十二月,起復拜中書侍郎、同中書門下平章事。明年,遷中書令,兼修國史。時范陽節度使張守珪以裨將安祿山討奚、契丹敗衄,執送京師,請行朝典。九齡奏劾曰:「穰苴出軍,必誅莊賈;孫武教戰,亦斬宮嬪。守珪軍令必行,祿山不宜免死。」上特舍之。九齡奏曰:「祿山狼子野心,面有逆相,臣請因罪戮之,冀絕後患。」上曰:「卿勿以王夷甫知石勒故事,誤害忠良。」遂放歸籓。

二十三年、金紫光禄大夫を加へられ、累ねて始興県伯に封ぜらる。李林甫自ら学術無く、九齢の文行の上に知らるるを以て、心頗る之を忌む。乃ち牛仙客を引きて政事を知らしむ。九齢屡ひ言ひて不可とす、帝悦ばず。二十四年、尚書右丞相に遷り、政事を知るを罷む。後宰執公卿を薦引する毎に、上必ず問ふ、「風度九齢の如きを得るか」と。故事皆笏を帯に搢して、而る後に馬に乗る。九齢体羸弱にして、常に人をして之を持たしむ。因りて笏囊を設く。笏囊の設けは、九齢に始まる。

原文二十三年,加金紫光祿大夫,累封始興縣伯。李林甫自無學術,以九齡文行為上所知,心頗忌之。乃引牛仙客知政事,九齡屢言不可,帝不悅。二十四年,遷尚書右丞相,罷知政事。後宰執每薦引公卿,上必問:「風度得如九齡否?」故事皆搢笏於帶,而後乘馬,九齡體羸,常使人持之,因設笏囊。笏囊之設,自九齡始也。

初め、九齢相と為り、長安尉周子諒を薦めて監察御史と為す。是に至り、子諒妄りに休咎を陳ぶるを以て、上親しく詰問を加へ、朝堂に於て決殺せしむ。九齢非其人を引くに坐し、左遷して荊州大都督府長史と為る。俄かに帰り墓を拝せんことを請ひ、因りて疾に遇ひて卒す。年六十八。贈りて荊州大都督と為し、謚して文獻と曰ふ。九齢相位に在りし時、建議して十道采訪使を復置し、又河南数州に水種稻を教へ、以て屯田を広む。屯田を置くを議し、功を費やして利無く、竟に就く能はず、之を罷む。性頗る躁急にして、動輒れ忿詈す。議者此を以て之を少くす。

原文初,九齡為相,薦長安尉周子諒為監察御史。至是,子諒以妄陳休咎,上親加詰問,令於朝堂決殺之。九齡坐引非其人,左遷荊州大都督府長史。俄請歸拜墓,因遇疾卒,年六十八,贈荊州大都督,謚曰文獻。九齡在相位時,建議復置十道采訪使,又教河南數州水種稻,以廣屯田。議置屯田,費功無利,竟不能就,罷之。性頗躁急,動輒忿詈,議者以此少之。

子拯は伊闕令。禄山の乱に賊に陥り、偽命を受けず。両京克復し、詔して太子右賛善を加ふ。弟九臯は、尚書郎より歴て唐・徐・宋・襄・広の五州刺史。九章は、吉・明・曹の三州刺史を歴、鴻臚卿。

原文子拯,伊闕令。祿山之亂陷賊,不受偽命。兩京克復,詔加太子右贊善。弟九臯,自尚書郎歷唐、徐、宋、襄、廣五州刺史。九章,歷吉、明、曹三州刺史,鴻臚卿。

九齢中書令と為りし時、天長節に百僚寿を上ぐるに、多く珍異を献ず。唯だ九齢『金鏡録』五巻を進む。前古興廃の道を言ふ。上賞異す。又中書侍郎厳挺之・尚書左丞袁仁敬・右庶子梁升卿・御史中丞盧怡と交結し善くす。挺之等才幹有り、而して交わり道終始渝らず、甚だ当時の称する所と為る。至徳初め、上皇蜀しょくに在り、九齢の先覚を思ひ、詔を下して褒贈し、曰く、「大廈を正すは柱石の力、帝業を昌ふるは輔相の臣。生ずれば則ち其の栄名を保ち、歿すれば乃ち其の盛徳を称す。節終に人望に允ならず、加贈実に国章に存す。故中書令張九齢は、維れ嶽神を降し、川を済して相と作り、開元の際、寅亮して成功す。讜言其の社稷を定め、先覚蓍策に合し、永く賢弼を懷ふ、大臣と謂ふべし。竹帛猶ほ存し、樵蘇必ず禁ず。爰に八命の秩より、更に三臺の位に進む。司徒しとを贈るべし。仍ち使を遣はして韶州に就きて祭を致せ」と。集二十巻有り。

原文九齡為中書令時,天長節百僚上壽,多獻珍異,唯九齡進《金鏡錄》五卷,言前古興廢之道,上賞異之。又與中書侍郎嚴挺之、尚書左丞袁仁敬、右庶子梁升卿、御史中丞盧怡結交友善。挺之等有才幹,而交道終始不渝,甚為當時之所稱。至德初,上皇在蜀,思九齡之先覺,下詔褒贈,曰:「正大廈者柱石之力,昌帝業者輔相之臣。生則保其榮名,歿乃稱其盛德,節終未允於人望,加贈實存乎國章。故中書令張九齡,維嶽降神,濟川作相,開元之際,寅亮成功。讜言定其社稷,先覺合於蓍策,永懷賢弼,可謂大臣。竹帛猶存,樵蘇必禁,爰從八命之秩,更進三臺之位。可贈司徒,仍遣使就韶州致祭。」有集二十卷。

張仲方

原文張仲方

九臯の曾孫仲方は、幼少より朗らかで秀でていた。子供の頃、父の友人高郢がこれを見て奇異とし、言うには、「この子は尋常ならず、必ずや国家の器とならん。我が高位を得ば、必ずやこれを振い起こさん」と。後に郢が御史大夫となると、まず仲方を御史に請うた。金州刺史を歴任した。郡人の田産が宦官に奪われた時、仲方は三度上疏して奏聞し、ついにその冤罪を理めた。入朝して度支郎中となり、李吉甫の諡を駁議したため、吉甫の党徒に憎まれ、遂州司馬として出された。次第に復州・曹州・鄭州の三郡の太守に遷った。諫議大夫となった。時に鄠県令崔発が小黄門を辱めたため、敬宗は激怒し、御史台に付して推問させた。元日の大赦に及んでも、ただ崔発のみが宥されなかった。仲方が上疏し、その大意は、「鴻恩は将に天下に布かんとすれども、御前には行われず、沛はい沢は始めて昆蟲に被るも、ただ崔発のみ遺る」と。これにより発は死を免れ、当時の論はこれを称えた。大和九年、京兆尹となり、将相で連座した者は皆大戮に処せられたが、仲方は密かに識別させておいた。やがて詔が下り収葬を許され、遺骸を認め得たのは、実に仲方の力によるものであった。この時軍人が横暴に振る舞い、仲方は柔順に処し、不称職の罪に坐して華州刺史として出され、秘書監に改められた。開成二年に卒し、七十二歳、礼部尚書を贈られ、諡して成といった。

原文九臯曾孫仲方,少朗秀。為兒童時,父友高郢見而奇之,曰;「此子非常,必為國器,吾獲高位,必振發之。」後郢為御史大夫,首請仲方為御史。歷金州刺史。郡人有田產為中人所奪,仲方三疏奏聞,竟理其冤。入為度支郎中,駁李吉甫謚,吉甫之黨惡之,出為遂州司馬。稍遷復、曹、鄭三郡守。為諫議大夫。時鄠縣令崔發因辱小黃門,敬宗赫怒,付臺推鞫。及元日大赦,獨發不得宥。仲方上疏,其略曰:「鴻恩將布於天下,而不行御前;霈澤始被於昆蟲,而獨遺崔發。」由是發得不死,時論美之。大和九年,為京兆尹,將相從累者皆大戮,仲方密令識之。旋詔下許令收葬,得認遺骸,實仲方之力也。是時軍人橫恣,仲方脂韋,坐不稱職,出為華州刺史,改秘書監。開成二年卒,年七十二,贈禮部尚書,謚曰成。

李適之

原文李適之

李適之、一名は昌、恆山王承乾の孫である。父の象は、官は懐州別駕に至った。適之は神龍初年に起家して左衛郎将に拝された。開元中、累遷して通州刺史となり、強幹をもって称された。時に給事中韓朝宗が按察使となり、特にこれを表薦し、抜擢して秦州都督に拝した。まもなく陜州刺史に転じ、入朝して河南尹となった。適之の性質は簡略で率直、苛細なことを務めず、人吏はこれを便とした。歳余にして御史大夫に拝された。開元二十七年、幽州大都督府長史を兼ね、節度事を知った。適之は祖父が罪を得て廃されたこと、父がまた則天に退けられたことを以て、葬礼に欠けるところあり、上疏して昭陵の闕内に帰葬することを請うた。ここに詔を下して承乾を追贈して恆山湣王とし、象を越州都督・郇国公とし、伯父の厥及び亡兄数人に並びに褒贈を加えた。数喪ともに京師に至り、葬礼は甚だ盛大で、なお石を墳所に刊した。まもなく刑部尚書に拝された。適之は雅に賓友を好み、酒を一斗飲んでも乱れず、夜は宴賞し、昼は公務を決し、庭に留まる事無し。

原文李適之,一名昌,恆山王承乾之孫也。父象,官至懷州別駕。適之神龍初起家拜左衛郎將。開元中,累遷通州刺史,以強幹見稱。時給事中韓朝宗為按察使,特表薦之,擢拜秦州都督。俄轉陜州刺史,入為河南尹。適之性簡率,不務苛細,人吏便之。歲餘,拜御史大夫。開元二十七年,兼幽州大都督府長史,知節度事。適之以祖得罪見廢,父又遭則天所黜,葬禮有闕,上疏請歸葬昭陵之闕內。於是下詔追贈承乾為恆山湣王,象為越州都督、郇國公,伯父厥及亡兄數人並有褒贈。數喪同至京師,葬禮甚盛,仍刊石於墳所。俄拜刑部尚書。適之雅好賓友,飲酒一斗不亂,夜則宴賞,晝決公務,庭無留事。

天宝元年、牛仙客に代わって左相となり、累封して清和県公となった。李林甫と権を争い和せず、適之の性質は疎闊で、その陰中に陥った。林甫嘗て適之に謂う、「華山に金鑛あり、これを採れば国を富ますべし、上は未だこれを知らず」と。適之は心にその言を善しとし、他日従容としてこれを奏上した。玄宗大いに悦び、林甫に顧問す。対えて曰く、「臣これを知ること久し。然れども華山は陛下の本命、王気の在る所、穿鑿すべからず、臣故に敢えて上言せざりき」と。帝は己を愛するものと為し、適之の言を疎んず。隴右節度皇甫惟明・刑部尚書韋堅・戸部尚書裴寛・京兆尹韓朝宗、悉く適之と善し、林甫は皆これを中傷し、その罪を構成して、相継いで放逐した。適之は懼れて自ら安からず、散職を求めた。五載、政事を知ることを罷め、太子少保を守った。急ぎ親故を命じて歓会し、詩を賦して曰く、「賢を避けて初めて相を罷め、聖を楽しみ且つ杯を銜む。門前の客に問う為に、今朝幾箇か来る」と。ついに韋堅らと相善し坐して、宜春太守に貶された。後に御史羅希奭が使を奉じて韋堅・盧幼臨・裴敦復・李邕らを貶所において殺すに及び、州県は希奭の到るを聞けば、惶駭せざるは無かった。希奭が宜春郡を過ぎる時、適之はその来るを聞き、仰薬して死した。

原文天寶元年,代牛仙客為左相,累封清和縣公。與李林甫爭權不葉,適之性疏,為其陰中。林甫嘗謂適之曰:「華山有金鑛,采之可以富國,上未之知。」適之心善其言,他日從容奏之。玄宗大悅,顧問林甫,對曰:「臣知之久矣。然華山陛下本命,王氣所在,不可穿鑿,臣故不敢上言。」帝以為愛己,薄適之言疏。隴右節度皇甫惟明、刑部尚書韋堅、戶部尚書裴寬、京兆尹韓朝宗,悉與適之善,林甫皆中傷之,構成其罪,相繼放逐。適之懼不自安,求為散職。五載,罷知政事,守太子少保。遽命親故歡會,賦詩曰:「避賢初罷相,樂聖且銜杯。為問門前客,今朝幾個來?」竟坐與韋堅等相善,貶宜春太守。後御史羅希奭奉使殺韋堅、盧幼臨、裴敦復、李邕等於貶所,州縣且聞希奭到,無不惶駭。希奭過宜春郡,適之聞其來,仰藥而死。

李季卿

原文李季卿

子の季卿は、弱冠にして明経に挙げられ、頗る文詞に工みた。制挙に応じ、博学宏詞科に登り、再遷して京兆府鄠県尉となった。粛宗の朝、累遷して中書舎人となり、公事に坐して通州別駕に貶された。代宗即位し、大いに淹抑を挙げ、通州より徴されて京兆少尹となった。まもなくまた中書舎人に復し、吏部侍郎に拝された。俄かに御史大夫を兼ね、河南・江淮に奉使して宣慰し、幽滞を振い抜き、忠廉を進用し、時人はこれを称えた。銓衡に在ること数年、右散騎常侍さんきじょうじに転じた。季卿は宇量有り、性質識見博達、人と交わることを善くし、襟懐豁如たり。朝に在っては賢を進めることを務め、士はこれをもって多く之を重んじた。大暦二年に卒し、礼部尚書を贈られた。

原文子季卿,弱冠舉明經,頗工文詞。應制舉,登博學宏詞科,再遷京兆府鄠縣尉。肅宗朝,累遷中書舍人,以公事坐貶通州別駕。代宗即位,大舉淹抑,自通州徵為京兆少尹。尋復中書舍人,拜吏部侍郎。俄兼御史大夫,奉使河南、江淮宣慰,振拔幽滯,進用忠廉,時人稱之。在銓衡數年,轉右散騎常侍。季卿有宇量,性識博達,善與人交,襟懷豁如。其在朝以進賢為務,士以此多之。大曆二年卒,贈禮部尚書。

李融

原文李融

孫の融は、立性厳整、吏事を善くした。貞元十年、歴官して渭州節度使に至り卒した。

原文孫融,立性嚴整,善吏事。貞元十年,歷官至渭州節度使卒。

厳挺之

原文嚴挺之

厳挺之は、華州華陰の人である。叔父の方嶷は、景雲中に戸部郎中となった。挺之は少くして学を好み、進士に挙げられた。神龍元年、制挙に擢第し、義興尉を授かった。姚崇が常州刺史となるに遇い、その体質昂蔵、雅に吏幹有るを見て、深く器異とした。崇が再び入朝して中書令となるに及び、挺之を引いて右拾遺とした。

原文嚴挺之,華州華陰人。叔父方嶷,景雲中戶部郎中。挺之少好學,舉進士。神龍元年,制舉擢第,授義興尉。遇姚崇為常州刺史,見其體質昂藏,雅有吏幹,深器異之。及崇再入為中書令,引挺之為右拾遺。

睿宗は楽を好み、これを聴いて倦みを忘れ、玄宗もまた音律に善かった。先天二年正月の望、胡僧婆陀が夜に門を開き百千の灯を燃やすことを請う、睿宗は延喜門に御して楽を観、凡そ四日を経た。また先天元年の大酺を追って作り、睿宗は安福門楼に御して百司の酺宴を観、夜を以て昼に継ぎ、月余日に経た。挺之上疏して諫めて曰く、

原文睿宗好樂,聽之忘倦,玄宗又善音律。先天二年正月望,胡僧婆陀請夜開門燃百千燈,睿宗禦延喜門觀樂,凡經四日。又追作先天元年大酺,睿宗禦安福門樓觀百司酺宴,以夜繼晝,經月餘日。挺之上疏諫曰:

微臣はひそかに思うに、陛下は天に応じ人に順い、号令を発し、自ら大礼に臨み、広大な恩沢を明らかに布き、政務に励み、万機に心を砕かれる。天下の心を以て自らの心とし、安危の理を深く戒められることは、まさに堯・舜・禹・湯の徳教である。しかしながら、どうして自ら城門に臨み、大酺を見物され、連日連夜に及ばれるのか、臣の愚かさではひそかに理解できない。そもそも酺とは、人々の利に因り、金を出し合って歓楽をなすもので、互いに秩序を乱さず、浪費に至らないものである。かつて臣が昼間を占った故事は史冊に存し、君主の挙動は必ず記録されるのが帝王の重んずるところである。今や衣冠を路上に曝し、妓楽を夜中に並べる。鄭・衛の音を交え、倡優の楽を恣にする。陛下は淳朴に復古し、宵衣旰食して励まれるのに、細行を顧みられないのは、聖徳に適うものではないと思われる。臣はこれが一つの不可と考える。誰何が夜を警め、鼓を伐って朝を告げるのは、非常事態に備える善政である。今、陛下が深く戒慎を考えず、軽々しく動静に背き、重門の禁を弛めれば、大悪人が多く跋扈しよう。もし馬を躍らせ車を奔らせ、流言が飛び叫び声が起こり、少しでも聖聴に触れれば、宸衷を煩わすことになろう。臣はこれが二つの不可と考える。かつて一人が隅に向かえば満堂楽しまず、一物が所を失えば納隍の憂いが増すと言う。陛下は北宮に多暇を持ち、西墉に暫く臨まれる。青春の日は長く、すでに埃塵の弊が積もり、紫微の漏刻は永く、重ねて歌舞の楽を窮められる。もし役人が怠け、下民が飢え疲れても、陛下が近くを顧みられないなら、遠きをどうしようか。聖情がこれを聞けば、恐れ慎まぬはずがあろうか。臣はこれが三つの不可と考える。かつて元正の首祚には大礼が頻りに行われ、百姓は仰ぎ望み、業が天に配し、功が曠代に垂れると言った。今、陛下の恩は衆望に薄く、酺は往年を過ぎる。王公貴人は各々微旨を受け、州県坊曲は競って課税を行う。道路には嘆きの声が上がり、家産を売り払い、万人の力を損ない、百戯の資金を営む。まさにその歓びを同じくしようとして、かえってその患いを残し、さらに夜を兼ねさせれば、人々はどうして堪えられようか。臣はこれが四つの不可と考える。『書経』に「百姓に逆らって己の欲に従うな」とある。況や去夏より霖雨が続き、今は旱魃に経て、農は収成に乏しく、市には物価の高騰がある。実を損ない虚を崇め、不急の務めに弛み、方春の業を乱す。前代の聖主明王も、細微を忽せにして過患を成した例は多い。陛下はこれを倣うべきだろうか。伏して望むには、昼は歓楽し、暮れには休息を命じ、夜を兼ねることを求めれば、聖朝に益なきことを恐れる。

原文微臣竊惟陛下應天順人,發號施令,躬親大禮,昭布鴻澤,孜孜庶政,業業萬幾。蓋以天下心為心,深戒安危之理,此誠堯、舜、禹、湯之德教也。奈何親禦城門,以觀大酺,累日兼夜,臣愚竊所未諭。夫酺者,因人所利,合醵為歡,無相奪倫,不至糜弊。且臣卜其晝,史冊攸存,君舉必書,帝王重慎。今乃暴衣冠於上路,羅妓樂於中宵。雜鄭、衛之音,縱倡優之樂。陛下還淳復古,宵衣旰食,不矜細行,恐非聖德所宜。臣以為一不可也。誰何警夜,伐鼓通晨,以備非常,存之善教。今陛下不深惟戒慎,輕違動息,重門弛禁,巨猾多徒。倘有躍馬奔車,流言駭叫,一塵聽覽,有累宸衷。臣以為二不可也。且一人向隅,滿堂不樂;一物失所,納隍增慮。陛下北宮多暇,西墉暫臨。青春日長,已積埃塵之弊;紫微漏永,重窮歌舞之樂。倘令有司跛倚,下人饑倦,以陛下近猶不恤,而況於遠乎!聖情攸聞,豈不懍然只畏。臣以為三不可也。且元正首祚,大禮頻光,百姓颙颙,咸謂業盛配天,功垂曠代。今陛下恩似薄於眾望,酺即過於往年。王公貴人,各承微旨;州縣坊曲,競為課稅。籲嗟道路,貿易家產,損萬人之力,營百戲之資。適欲同其歡,而乃遺其患,復令兼夜,人何以堪?臣以為四不可也。《書》曰:「罔咈百姓,以從己之欲。」況自去夏霪霖,經今亢旱,農乏收成,市有騰貴。損其實,崇其虛,馳不急之務,擾方春之業。前代聖主明王,忽於細微而成過患多矣,陛下可效之哉?伏望晝則歡娛,暮令休息,要令兼夜,恐無益於聖朝。

上はその言を容れて止めた。

原文上納其言而止。

時に侍御史任知古は憲威を恃み、朝廷の行列で衣冠を罵ったので、挺之は深く譲り、不敬であるとして、台司に弾劾され、左遷されて万州員外参軍となった。開元年中、考功員外郎となる。二年間科挙を掌り、大いに公平と称され、登科者はたちまち半減した。考功郎中に遷り、特勅でまた考功貢挙事を知らされ、やがて給事中に遷った。時に黄門侍郎杜暹と中書侍郎李元纮が同列で相となり、和合しなかった。暹は挺之と親しく、元纮は平素より宋遙を重んじ、彼を引き立てて中書舎人とした。起居舎人張咺らと共に吏部の等第判を考課した際、遙はまた挺之と好尚を異にし、遙が元纮に言った。元纮が挺之を詰問すると、挺之は言った。「明公は国相の尊位にありながら、小人に情を溺らし、憎悪を抱かれるとは、甚だ取るに足らぬことです。」言葉も顔色も厳しかった。元纮が「小人とは誰か」と問うと、挺之は「すなわち宋遙です」と言った。これにより出されて登州刺史・太原少尹となった。殿中監王毛仲が太原・朔方・幽州に使いし、兵馬を計会したが、事は数年を隔て、ようやく太原に牒を送り器仗を求めた。挺之は勅書を帯びていないことを理由に、毛仲が寵幸久しく、変事があるのを恐れ、密かに奏上した。まもなく濮・汴二州刺史に遷った。挺之の歴任した所は皆厳正で、吏は犯すことを敢えず、大郡に臨むと、人々は重ね足して息をひそめた。

原文時侍御史任知古恃憲威,於朝行詬詈衣冠,挺之深讓之,以為不敬,乃為臺司所劾,左遷萬州員外參軍。開元中,為考功員外郎。典舉二年,大稱平允,登科者頓減二分之一。遷考功郎中,特敕又令知考功貢舉事,稍遷給事中。時黃門侍郎杜暹、中書侍郎李元纮同列為相,不葉。暹與挺之善,元纮素重宋遙,引為中書舍人。及與起居舍人張咺等同考吏部等第判,遙復與挺之好尚不同,遙言於元纮。元纮詰譙挺之,挺之曰:「明公位尊國相,情溺小人,乃有憎惡,甚為不取也。」詞色俱厲。元纮曰:「小人為誰?」挺之曰:「即宋遙也。」因出為登州刺史、太原少尹。殿中監王毛仲使太原、朔方、幽州,計會兵馬,事隔數年,乃牒太原索器仗。挺之以不挾敕,毛仲寵幸久,恐有變故,密奏之。尋遷濮、汴二州刺史。挺之所歷皆嚴整,吏不敢犯,及蒞大郡,人乃重足側息。

二十年、毛仲が罪を得て賜死すると、玄宗は昔の奏上を思い出し、挺之を刑部侍郎に抜擢し、深く恩遇され、太府卿に改めた。張九齢と親しくし、九齢が宰相に入ると、挺之を用いて尚書左丞とし、吏部選を掌らせ、陸景融に兵部選を掌らせた。皆一時の精選であった。時に侍中裴耀卿・礼部尚書李林甫が九齢と共に相位にあり、九齢は詞学で進み、翰林に入って詔勅の草案を視、また中書令となり、大いに恩顧を受けた。耀卿は九齢と平素より親しく、林甫は巧みで密かであり、九齢が恩遇を受けているのを知り、うまく事えて、意はまだ付き合わなかった。林甫は蕭炅を引き立てて戸部侍郎としたが、かつて挺之と共に慶弔に行き、客次に『礼記』があった。蕭炅がそれを読んで「蒸嘗伏獵」と言った。炅は早くから官に就き、学術がなく、「伏臘」の意味を知らず、誤って読んだのである。挺之が戯れて問うと、炅は初めの通り答えた。挺之は九齢に告げて言った。「省中に『伏獵侍郎』がいるとは。」これにより炅は岐州刺史に出され、林甫は深く恨んだ。九齢はかつて挺之を引き立てて共に相位に就けようとし、彼に言った。「李尚書(林甫)は深く聖恩を受けておられる。足下は一度その門を訪れて親しくすべきだ。」挺之は平素より気概に富み、その人となりを軽んじ、三年間、公事でなければついに私的にその門を訪れず、これによりますます林甫に嫉まれた。やがて挺之が蔚州刺史王元琰を嘱託した時、林甫が人を使って禁中で詰問させ、これにより九齢は宰相を罷められ、挺之は洺州刺史に出され、二十九年、絳郡太守に移った。

原文二十年,毛仲得罪賜死,玄宗思曩日之奏,擢為刑部侍郎,深見恩遇,改太府卿。與張九齡相善,九齡入相,用挺之為尚書左丞,知吏部選,陸景融知兵部選,皆為一時精選。時侍中裴耀卿、禮部尚書李林甫與九齡同在相位,九齡以詞學進,入視草翰林,又為中書令,甚承恩顧。耀卿與九齡素善,林甫巧密,知九齡方承恩遇,善事之,意未相與。林甫引蕭炅為戶部侍郎,嘗與挺之同行慶吊,客次有《禮記》,蕭炅讀之曰:「蒸嘗伏獵。」炅早從官,無學術,不識「伏臘」之意,誤讀之。挺之戲問,炅對如初。挺之白九齡曰:「省中豈有『伏獵侍郎。』」由是出為岐州刺史,林甫深恨之。九齡嘗欲引挺之同居相位,謂之曰:「李尚書深承聖恩,足下宜一造門款狎。」挺之素負氣,薄其為人,三年,非公事竟不私造其門,以此彌為林甫所嫉。及挺之囑蔚州刺史王元琰,林甫使人詰於禁中,以此九齡罷相,挺之出為洺州刺史,二十九年,移絳郡太守。

天宝元年、玄宗はかつて林甫に言った。「厳挺之はどこにいるのか。この人もまた進用に堪える。」林甫はそこでその弟損之を召し寄せ門下で旧交を述べ、「そなたに員外郎を授けよう」と言い、そこで彼に言った。「聖人は賢兄を極めて深くご覧になっている。一計を案じ、都に入って対見する必要がある。大用があるだろう。」損之に絳郡からの一状を取らせ、「少し中風の気があるので、京に入り医師に就きたい」と書かせた。林甫はその状を奏上して言った。「挺之は年が高く、近ごろ中風を患っており、しばらく閑官を授けて医師に就かせるべきです。」玄宗はしばらく嘆息した。林甫は奏上して員外詹事を授けさせ、すぐに東京で養疾させた。

原文天寶元年,玄宗嘗謂林甫曰:「嚴挺之何在?此人亦堪進用。」林甫乃召其弟損之至門敘故,云「當授子員外郎」,因謂之曰:「聖人視賢兄極深,要須作一計,入城對見,當有大用。」令損之取絳郡一狀,云:「有少風氣,請入京就醫。」林甫將狀奏云:「挺之年高,近患風,且須授閑官就醫。」玄宗嘆叱久之。林甫奏授員外詹事,便令東京養疾。

挺之は平素より仏典に帰心し、僧恵義に師事した。東都に至ると、鬱々として志を得ず、病となった。自ら墓誌を作って言った。「天宝元年、厳挺之は絳郡太守より上疏して陳乞し、天恩が請いを允され、養疾して閑居することを許され、兼ねて太子詹事を授かった。前後二十五官を歴任し、毎度聖恩を蒙り、しばしば奨抜されたが、駆策に尽くさず、駑鈍の身で何の階梯をもって鴻恩に答えようか。春秋七十、展用する所なく、人士に悲しまれる。その年九月、病に臥し、ついに洛陽某裏の私第で没す。十一月、大照和尚の塔の次ぎの西原に葬る。礼なり。忠を尽くして君に事え、国史に叨載し、拙を勉めて仕え、人謡に布く。陵谷は以て自ら紀すべく、文章何を用いて飾らん。遺文は薄葬し、時服を以て斂う。」挺之は裴寛と共に仏を奉じた。開元末、恵義が卒すると、挺之は縗麻を服して龕所まで送った。寛は河南尹であった時、僧普寂が卒すると、寛は妻子と共に縗绖を服し、次を設けて哭臨し、妻子は喪を送って嵩山まで行った。故に挺之の誌文に「大照塔の側に葬る」とあるのは、その霊祐を祈ったのである。挺之は平素より交際を重んじ、許与があり、旧交で先に没した者の妻子を厚く撫で、孤女数十人を嫁がせ、当時の人に重んじられた。

原文挺之素歸心釋典,事僧惠義。及至東都,郁郁不得志,成疾。自為墓誌曰:「天寶元年,嚴挺之自絳郡太守抗疏陳乞,天恩允請,許養疾歸閑,兼授太子詹事。前後歷任二十五官,每承聖恩,嘗忝獎擢,不盡驅策,駑蹇何階,仰答鴻造?春秋七十,無所展用,為人士所悲。其年九月,寢疾,終於洛陽某裏之私第。十一月,葬於大照和尚塔次西原,禮也。盡忠事君,叨載國史,勉拙從仕,或布人謠。陵谷可以自紀,文章焉用為飾。遺文薄葬,斂以時服。」挺之與裴寬皆奉佛。開元末,惠義卒,挺之服缞麻送於龕所。寬為河南尹,僧普寂卒,寬與妻子皆服缞绖,設次哭臨,妻子送喪至嵩山。故挺之誌文云「葬於大照塔側」,祈其靈祐也。挺之素重交結,有許與,凡舊交先歿者,厚撫其妻子,凡嫁孤女數十人,時人重之。

子の武は、広徳年中に黄門侍郎・成都尹・剣南節度使となった。

原文子武,廣德中黃門侍郎、成都尹、劍南節度使。

史臣曰く

原文史臣曰

史臣が曰く、崔日用は武三思に附会して高位を取る。韋氏討伐に預かり、遂に重権を握る。自ら言う、「吾が一生の行ひ、皆臨時に制変し、必ずしも始めの謀を専ら守るに及ばず」と。信ずるかな。夫れ死を守りて善道を為す者と、同年に語るべからざるなり。張嘉貞は田園を立てざるも、勢利に急なるを奈何せん、近習と朋比し、姜皎・伷先を杖つ。中立の士に非ず。蕭嵩は位中書令に極まり、異政聞こえず、破虜の勲を樹つ。真に致遠の器なり。九齢は文学政事、咸に称する所あり、一時の選なり。適之は下に臨むに簡なるも、公に在りて克く勤む。惜しむかな、其の死を得ざるを。挺之は才略器識、諸公に下らず、権門に近づくを恥じ、人の悪む所となり、台輔に登らず、宮僚に養疾す。富貴天に在り、窮達命有りと雖も、彼の林甫なる者は、誠に豺虎に投ぐべし。

原文史臣曰:崔日用附會三思,以取高位,預討韋氏,遂握重權。自言「吾一生行事,皆臨時制變,不必專守始謀」,信矣。與夫守死善道者,不可同年而語也。張嘉貞雖不立田園,奈急於勢利,朋比近習,杖姜皎、伷先,非中立之士也。蕭嵩位極中令,異政無聞,樹破虜之勛,真致遠之器。九齡文學政事,咸有所稱,一時之選也。適之臨下雖簡,在公克勤,惜乎不得其死也!挺之才略器識,不下諸公,恥近權門,為人所惡,不登臺輔,養疾宮僚。雖富貴在天,窮達有命,彼林甫者,誠可投畀豺虎也。

賛に曰く、開元の代、多士盈庭す。日用は守り無く、嘉貞は名に近し。嵩・齢・適・挺、各々度程有り。大位俱に極まり、半ばは徳馨に慚づ。

原文贊曰:開元之代,多士盈庭。日用無守,嘉貞近名。嵩、齡、適、挺,各有度程。大位俱極,半慚德馨。