卷九十八
魏知古
魏知古は、深州陸沢の人である。性質は方正で直く、早くから才名があった。弱冠にして進士に挙げられ、累次して著作郎を授かり、国史の修撰を兼ねた。長安年間、鳳閣舎人・衛尉少卿を歴任して遷った。時に睿宗は藩邸に居り、相王府司馬を兼ねて検校した。神龍初年、吏部侍郎に抜擢され、なお従前の通り国史修撰を兼ね、まもなく銀青光禄大夫に進位した。翌年、母の喪に遭い職を去り、喪が明けて晋州刺史を授かった。睿宗が即位すると、旧臣として召されて黄門侍郎に任じられ、国史修撰を兼ねた。
臣は聞く、『穀梁伝』に曰く「古の人を君とする者は、必ず時に人の勤むる所を視る。人が力に勤むれば則ち功築は稀なり、人が財に勤むれば則ち貢賦は少なく、人が食に勤むれば則ち百事は廃す」と。『書』に曰く「益なきを作して益あるを害すること無かれ」と。また曰く「百姓を咈えて以て己の欲に従うこと無かれ」と。『礼』に曰く「季夏の月は、樹木方に盛んなり、斬伐有ること無く、土功を興して以て農を妨ぐべからず」と。また曰く「季夏に冬令を行えば、則ち風寒時ならず」と。『論語』に曰く「己を修めて以て百姓を安んず」と。これらは皆、教化を興し道理を立てる教えであり、政を為し人を養う根本である。今、陛下が公主のために観を造るのは、将に功德を樹てて以て福祐を祈らんとするものである。但し両観の地は、皆百姓の宅であり、卒然として迫逼し、その転移を命じ、老いを扶け幼を携え、投竄する所無く、椽瓦を発剔し、道路に呼嗟する。人事に乖き、天時に違い、無用の作を起こし、不急の務を崇むる。群心は揺揺たり、衆口は籍籍たり。陛下は人の父母として、何を以てか之を安んぜんとするか。且つ国には簡冊有り、君の挙ぐることは必ず記され、動けば則ち左史之を書き、言えば則ち右史之を書く。是を以て礼に非ざれば言わず、礼に非ざれば動かず。夫れ是の如くならば、則ち君の挙ぐる所、慎まざるべけんや。微臣は諫諍の位に備わり、兼ねて史筆を秉る。書いて法とせざれば、後嗣何をか観ん。臣愚、必ず以て不可と為す。伏して願わくは、人欲に俯順し、天意に仰稽し、德音を降し、明策を下し、速やかに功役を罷め、之を桑楡に収めんことを。
疏を奏上したが容れられなかった。
間もなく、また進諫して言うには、「臣は聞く、人は君を以て天と為し、君は人を以て本と為す。人安んずれば則ち政理まり、本固ければ則ち邦寧し。陛下が兇逆を翦除し、宝位に君臨して以来、蒼生は顒顒として、朝に新政有りと為す。今、風教は頽替し、日一日と甚だしく、府庫は空虚し、人力は雕弊し、造作は息まず、官員は日増す。今、諸司の試及び員外・検校等の官は、僅かに二千余人に至り、太府の布帛は以て殫き、太倉の米粟は給し難し。又、金仙・玉真等の観の造作は、咸な急務に非ず、臣先に奏請して停めしめんとすれども、竟に未だ止まず。今年は前水後旱し、五穀熟さず、若し来春に至らば、必ず甚だしく饑饉ならん。陛下は人の父母として、何の方を以てか賑恤せんとするか。饑を療し溺を拯うには、須らく其の時に及ぶべし。又、突厥は患いと為すこと、其の来ること久しく、本より礼儀無く、焉んぞ誠信有らん。今、使を遣わして来たり結婚を請うと雖も、豺狼の心、首鼠何ぞ定まらん。弱ければ則ち卑順し、強ければ則ち驕逆す。草衰え月満つるに属し、弓勁く馬肥え、中国の饑虚に乗じ、和親の際会に在り、倘や或いは亭障を窺犯せば、国家何を以てか之を防がん。臣の論ずる所は、事甚だ急切なり。伏して願わくは、特垂して詳察せられんことを。」睿宗はその切直さを嘉し、まもなく同中書門下平章事を命じた。玄宗が春宮に在った時、また左庶子を兼ねることを命じた。未だ幾ばくもなく、戸部尚書に遷り、余は従前の通りであった。翌年、侍中に抜擢された。
知古が初めて黄門侍郎となった時、表を上って洹水令呂太一・蒲州司功参軍斉璟・前右内率府騎曹参軍柳澤を推薦した。吏部尚書事を知るに及び、また密県尉宋遙・左補闕袁暉・右補闕封希顔・伊闕尉陳希烈を抜擢任用した。後、皆累次して清要の職に居り、時の論は以て人を知るの鑒有りと為した。文集七巻。
盧懐慎
盧懐慎は、滑州霊昌の人である。其の先は范陽に家し、山東の著姓と為った。祖父の悊は、霊昌令と為り、因って徙った。懐慎は少より清謹で、進士に挙げられ、監察御史・吏部員外郎を歴任した。景龍年中、右御史臺中丞に遷り、上疏して時政の得失を陳べた。今、其の三篇を略載する。
其の一に曰く、
臣が聞くに、『尚書』に云う。『唐・虞は古に稽え、官を建つること惟れ百;夏・商は官倍す、亦克く用いて乂す』と。これ省官の意義である。また云う。『官は必ずしも備えず、惟れ其の才をこれす』と。また云う。『庶官を曠しうすること無かれ、天工、人其れ之に代わる』と。これは官のために人を選ぶ意義である。臣がひそかに見るに、京師の諸司の員外官は、所在に委積し、多いものは数倍から十倍余りに及び、近古以来未だかってなかったことである。官は必ずしも備えず、とあるが、これは有り余っている。人が天工に代わる、とあるが、多くは事務を処理しない。広く除拜(任命)があっても、益するところはなく、俸禄の費用は歳に巨億万に及び、ただ府庫の蔵を空しく尽くすのみである。どうして政治を致す基盤となろうか。今、倉庫は空虚で、百姓は疲弊し、黄河・渭水の漕運は、西の京師に供給し、公私の損耗は数え切れない。況んや辺境は未だ静かならず、兵革は猶お興り、費用を節し人を愛することは、まさに今日にあるべきである。官を増し費用を広げることは、どうしてその時と言えようか。もし水旱の災害が起こり、租税の収入が減れば、水衡(財政官)には朽ちた銭が貫さるるほどの蓄えはなく、京師の倉庫には溢れるほどの備蓄は欠けるであろう。あるいは国境を外に守り、兵車を遠くに出し、あるいは収穫の豊かな年がなく、救済を今行わねばならない。これらは軍国の急務である。陛下はどうしてこれを救済されようか。『書経』に云う。『人事を軽んずること無かれ、惟れ艱し;厥の位を安んずること無かれ、惟れ危うし』と。また云う。『是れを見ざるを図る』と。これらは皆、微細なことを慎む深い趣旨である。臣がひそかに見るに、員外官の中には、あるいは簪裾(高官の服装)の雅望ある者、あるいは臺閣(中央官庁)の旧人、あるいは憲章に明習した者、あるいは政要に諳閑(精通)した者で、皆一時の良幹である。多くは案牘(文書事務)を司らず、空しく禄俸を受けて屍の如くであり、その才能を滞らせてその用を伸ばさず、その位を尊んでもその力を尽くさない。周は多士と称し、漢は得人と言ったが、果たしてそうであろうか。必ずやこれとは異なるであろう。臣は望む、諸司の員外官で才能器識があり、衆人の知るところで、州牧・県宰および上佐に堪える者を、皆遷擢し、四方で力を宣べさせ、その智効を伸ばすことを。老病および事務を処理するに堪えない者は、皆廃省に従わせ、賢と不肖を明らかに区別することを。これは時を救う切なる要務である。どうして行うのが難しいと言えようか。
臣が聞くに、天の官吏が徳を逸すれば、猛火よりも烈しく;貪る人が類を敗れば、大風を取って興す。寵賂に冒され、鰥寡を侮ることが、政治の蠹であり、これに先立つものはないと知るべきである。臣がひそかに見るに、内外の官人で、憲章に従わず、公然と贓汚を犯し、万姓を侵牟し、蒸人(民衆)を劓割(切り刻む)し、審問・調査が虚偽でなく、刑罰が既に及んだ者でも、あるいは俄かに旧資に復し、残削の名を負いながら、なお牧宰の任に当たり、あるいは江・淮・嶺・磧の地に、微かに懲罰・貶降を示すだけで、財に殉じ貨を黷し、めったに悔い改めることがなく、共に治めることを委ね、河の清むのを待つようなものである。臣が聞くに、明主が万姓に対しては、必ず平分をもって暢びやかにし、偏った施しをしないものである。もし罪を犯した官吏が、遠方の牧宰となれば、これは法を屈して姦を恵み、近きを恤み遠きを遺れることである。凡そ左降(左遷)された人は、めったに過ちを省みず、必ず自棄の念を抱き、悪を長じてますます深くなる。すると小州遠郡、蛮陬夷落(辺境の異民族の地)は、何の罪があって聖化を負い、独りその弊政を受けるのであろうか。昔、孟嘗は廉明であったからこそ合浦に臨み、呉隠之は清潔であったからこそ番禺に蒞んだ。郅都が朔方を鎮静し、耿恭が疎勒を輯寧した。地は遐僻であっても、必ず賢良を選び、務めて寧済を思いやることを旨とし、どうして遐荒であることを以て隔てられようか。況んや辺境の地は、夷夏が雑居し、険に負い遠きに恃み、擾し易く安んじ難く、ますます循良の吏に頼り、綏撫を託すべきである。もし任に失い、官がその才に非ず、黎庶を凌虐し、蕃部を侵剝すれば、小ならば坐して流亡を致し、大ならば起って盗賊となる。これによって言えば、凡材を用いるべきでなく、ましてや狡猾な官吏においてをやである。内外の官人で贓賄を犯し、推勘(取り調べ)によって実を得た者は、臣は望む、簪裾の跡を削り、十数年間は歯録(登用)を許さないことを。『書経』に云う。『淑匿を旌別し、幽明を黜陟す』と。即ちその意義である。もしこの道に従わず、邪を去ることに疑いがあれば、善政を行う能吏は、甄奨が偏らないこともあり、贓を担い賄を負う者は、僥倖によって即ち昇進を蒙ることもあろう。すると賞罰に章がなく、沮勸(阻止と勧奨)はどこに寄せられようか。浮競の風は転じて煽り、廉恥の行いは次第に頽れ、その源を塞がなければ、蠹となることは甚だしい。
上疏したが、採用されなかった。累遷して黄門侍郎となり、漁陽伯の爵を賜った。
臣は元より才識なく、恩栄を辱うけて、枢密に待罪し、頗る年序を積む。報国の心は、空しく自ら竭くるを知るのみ;賢を推すの志は、終に申べることを克さず。明恩を孤負し、夙夜惶懼す。臣は疾に染むること久しく、形神離れんと欲す。鳧雁の飛ぶは、未だ之を少なからずと為さず、而して犬馬の志は、終に上聞を祈り、其の鳴くや哀し、聖察を乞い求む。宋璟は立性公直にして、心を執るに貞固たり、文学は以て務めを経るに足り、識略は時に佐くるを期し、動くは直道を惟り、行うは苟も合わず、朝野の説に聞く、実に社稷の臣なり。李傑は勤苦絶倫にして、貞介独立し、公家の事は、知りて為さざる無く、時に幹るの材は、衆議推許す。李朝隠は操履堅貞にして、才識通贍たり、文を守り法を奉じ、頗る鉄石の心を懐き、上に事えて誠を竭くし、実に人臣の節を尽くす。盧従願は清貞謹慎にして、理識周密たり、終始一の若く、朝野共に知る、簡要の才は、得難し。並びに明時の重器、聖代の良臣なり。比に任使を経て、微かに愆失有り、坐する所は小なり、棄つる所は大なり、累うる所は軽し、貶する所は遠し。日月は近しと雖も、譴責傷み深し、矜録を垂れんことを望み、漸く進用を加えよ。臣窃に聞く、黄帝の以て衣裳を垂れて天下理まる所以は、風・力を任ずるなり;帝堯の以て天下に光宅する所以は、稷・禼を任ずるなり。且つ朝廷は天下の本、賢良は風化の源、人を得れば則ち庶績其れ凝り、士を失えば則ち彜倫斁ゆ。臣毎に陛下の庶政を憂労し、理道を勤め求め、群司を挙ぐるに慎み、必ず称職を期し、鵷鷺をして列を成さしめ、草沢遺るる無からしむるを見る。故に歳稔時和し、政平訟理するを得るは、比の陛下の賢を用うるの明効なり。臣は木石に非ず、早く天心を識る、瞑目遙からず、厚恩未だ報いず。黜殯の義、敢えて庶幾からざらんや、城郢の言、愚懇を布かんと思ふ。
上深く嘉納す。懐慎は清儉にして、産業を営まず、器用服飾、金玉綺文の麗無し。得る所の禄俸は、皆時に随ひ分散し、而して家に余蓄無く、妻子匱乏す。車駕将に東都に幸せんとするに及び、四門博士張星上言す:「懐慎は忠清直道にして、終始虧かず、寵贈を加えずんば、善を勧むる無し。」乃ち制を下して其の家に物壹伯段・米粟貳伯石を賜ふ。明年、上京師に還り、因りて城南に校獵し、懐慎の別業を経て、家人方に祥斎を設くるを見、其の貧匱を憫み、絹百匹を賜ふ。仍ち中書侍郎蘇頲を遣して其の碑文と為し、上自ら書す。
懐慎の子 奐
源乾曜
開元初、邠王府の僚吏に法を犯す者有り。上左右に令して堪く王府長史と為る者を求めしむ。太常卿姜皎、乾曜の公清吏幹有るを薦む。因りて召見して語らふ。乾曜神気清爽にして、対答皆倫序有り。上甚だ之を悦び、乃ち少府少監を拝し、兼ねて邠王府長史と為す。尋いで戸部侍郎に遷り、兼ねて御史中丞と為る。幾無く、転じて尚書左丞と為る。四年冬、擢げて黄門侍郎・同紫微黄門平章事を拝す。旬日、姚元之と倶に政事を知るを罷む。
八年春、復た黄門侍郎・同中書門下三品と為り、尋いで銀青光禄大夫を加へ、侍中に遷る。久しくして、上疏して曰く「臣窃に見るに形要の家並びに京職を求め、俊乂の士多く外官に任ず。王道平に分く、此の如くに合はず。臣が三男倶に是れ京任なり。二人を出だして外官とし、以て均平の道に葉はんことを望む。」上之に従ふ。是に於て其の子河南府参軍弼を改めて絳州司功と為し、太祝絜を鄭尉と為す。因りて制を下して曰く「源弼等の父枢近に在りて、深く謙挹を惟ひ、代官の咸く列するを恐れ、時才の未だ序せざるを慮り、率先して庶僚とし、是の譲徳を崇む。既に其の職を外するを請ひ、復た資を降して以て授く。『伝』云はざる乎、『晋の範宣子譲む、其の下皆譲む。』『晋国の人は、是に於て大和す。』と。道の或は行はるる、仁豈に遠からんや。」因りて文武百僚父子兄弟三人並びに京司に任ずる者に令し、任して自ら通容せしめ、資次に依りて処分せしむ。是に由りて公卿子弟京官より出でて外なる者百余り。俄かに又上書する者有り、以て「国の執政は、其の休戚を同じくす。若し稍くも崇寵を加へずんば、何を以て其の心を尽くすを責めん。」と為す。十年十一月、勅して中書門下に実封三百戸を共に食ましむ。乾曜及び張嘉貞より始まる。
乾曜は後に東封に扈従し、尚書左丞相に拝され、なお侍中を兼ねた。乾曜は政事に在ること十年、時に張嘉貞・張説が相次いで中書令となり、乾曜は敢えて彼らと権を争わず、毎事皆これを推譲した。李元紘・杜暹が政事を知るに及んで、乾曜は遂に参議することなく、ただ唯諾して署名するのみであった。初め、乾曜は姜皎の推薦によって、遂に擢用された。皎が罪を得て、張嘉貞に排擠されるに及んでも、乾曜は竟にこれを救わず、議者はこれを以て譏った。十七年夏、侍中兼任を停める。その秋、太子少師に遷るが、祖の名が師であるため固辞し、乃ち太子少傅に拝され、安陽郡公に封ぜられた。十九年、駕が東都に幸するに当たり、乾曜は年老いて疾を病み、扈従に堪えずと辞し、因って京師に留まり疾を養った。この年冬卒す。詔して幽州大都督を贈り、上は洛陽城南門に於いて哀を挙げ、朝を輟むこと二日。
乾曜の従孫 光裕
乾曜の従孫光裕もまた令誉有り。歴職清謹にして、諸弟を撫するに友義を以てし、聞こえた。初め中書舎人となり、楊滔・劉令植等と共に『開元新格』を刪定す。刑部・戸部二侍郎、尚書左丞を歴任し、累遷して鄭州刺史となり、良吏と称された。尋いで卒す。
光裕の子 洧
光裕の子洧も亦早くより美称有り。閨門雍睦にして、士友に推され、清要の職を歴践す。天宝中、給事中・鄭州刺史・襄州刺史・本道採訪使となる。安禄山の反するに及び、既に東京を犯すと、乃ち洧を以て江陵郡大都督府長史・本道採訪防禦使・摂御史中丞とし、兵部郎中徐浩を襄州刺史・本州防禦守捉使として以てこれを禦がしむ。洧は鎮に至りて卒す。
李元紘
李元紘、その先は滑州の人、世に京兆の万年に居す。本姓は丙氏。曾祖粲、隋の大業中に屯衛大将軍。関中に賊起こるに属し、煬帝は粲に令して京城以西二十四郡に往き盗賊を逐捕せしむ。粲は士衆を撫循し、甚だその心を得たり。義旗関に入るに及び、粲はその衆を率いて帰附し、宗正卿に拝され、応国公に封ぜられ、姓を李氏と賜う。高祖は之と旧有り、特ちに恩礼を蒙り、左監門大将軍に遷り、年老いたるを以て特ちに宮中に乗馬して検校するを令す。八十余歳にして卒す。諡して明と曰う。祖寛、高宗の時に太常卿となり、別に隴西郡公に封ぜらる。父道広、則天の時に汴州刺史となる。時に突厥及び契丹が河北を寇陷するに属し、兼ねて河南諸州の兵募を発し、百姓騒擾す。道広は寛猛折衷し、善政と称され、存収慰撫して、汴州のみ逃散せず。尋いで入りて殿中監・同鳳閣鸞台平章事となり、累封して金城県侯となる。卒し、秦州都督を贈られ、諡して成と曰う。
元紘の性清儉なり。既に政事を知るに及び、稍々奔競の路を抑え、務めて進まんとする者頗る之を憚る。時に初めて京司の職田を廃し、議者は関輔に屯を置き、以て倉稟を実せんことを請う。元紘建議して曰く、「軍国は同じからず、中外は制を異にす。若し人閑に役無く、地棄てて墾らず、閑人を発して棄地を耕し、饋運を省いて軍糧を実せば、ここに於いて屯田有り、其れ益と為ること多し。今百官の退く所の職田は、諸県に散在し、聚むべからず。百姓の所有する私田は、皆力自ら耕墾し、取るべからず。若し屯田を置かば、即ち須らく公私相換え、丁夫を征発すべし。征役すれば則ち業は家に於いて廃し、庸を免すれば則ち賦は国に於いて闕く。内地に屯を置くは、古未だ有らざる所、得て失を補わず、或いは恐らく未だ可ならざるべし」と。其の議遂に止む。
先ず是れより、左庶子呉兢旧に史官を任じ、『唐書』一百巻・『唐春秋』三十巻を撰す。其の書未だ成らず、丁憂して職を罷む。是に至り、上疏して其の功を終わらんことを請う。詔有りて特ちに集賢院に就きて其の書を修成せしむ。張説の致仕するに及び、又家に在りて史を修めしむ。元紘奏して曰く、「国史は、人君の善悪を記し、国政の損益を記し、一字の褒貶、千載之を称し、前賢の難くする所、事容易に非ず。今張説は家に在りて史を修め、呉兢は又集賢に在りて撰録す。遂に国の大典をして数処に散ぜしむ。且つ太宗は別に史館を置き、禁中に在り。是れ其の職を重んじ其の事を秘する所以なり。望むらくは説等を勒して史館に就き参詳撰録せしめば、則ち典冊憑る有り、旧章墜つること無からん」と。之に従い、乃ち説及び呉兢に詔して並びに史館に就き修撰せしむ。
元紘は政事に在ること累年、第宅を改めず、僕馬弊劣にして、未だ嘗て改飾せず、得る所の封物は皆親族に散ず。右丞相宋璟嘗て之を嘉嘆し、毎に人に謂いて曰く、「李侍郎は宋遙の美才を引き、劉晃の貪冒を黜け、貴く国相と為りて、家に儲積無し。雖も季文子の徳、何を以てか之に加えん」と。後に杜暹と多く異同有り、情遂に叶わず、相執奏する者有るに至る。上悦ばず、是れ由りて政事を知ることを罷め、曹州刺史として出され、疾を以て官を去る。久しくして、戸部尚書に拝され、仍ち致仕を聴す。二十一年疾瘳え、起きて太子詹事と為り、旬日にして卒す。太子少傅を贈られ、諡して文忠と曰う。
杜暹
杜暹は、濮州濮陽の人である。父の承志は、則天の初年に監察御史となった。時に懷州刺史の李文暕は皇枝の近属であるため、讎人に訴えられ、承志はこれを推し出した。俄かに文暕は罪を得て、承志は坐して貶せられ、方義令を授けられた。累ねて転じて天官員外郎となった。羅織の事が起こると、承志は恐懼し、遂に疾を称して官を去り帰り、家に卒した。暹の高祖より暹に至るまで、五代同居し、暹は特に恭謹で、継母に事えて孝を以て聞こえた。初め明経に挙げられ、婺州参軍を補し、秩満して将に帰らんとするに、州吏は紙万余張を以てこれを贈ったが、暹はただ百を受け、余は悉くこれを還した。時に州僚の別れる者、見て嘆じて曰く、「昔し清吏は一大銭を受けしが、復た何の異なることがあろうか」と。俄かに鄭尉を授けられ、復た清節を以て知られしめた。華州司馬の楊孚は公直の士であり、深くこれを賞重した。尋いで孚は遷って大理正となり、暹は公事に坐して法司に下り罪を結ばんとしたが、孚は人に謂って曰く、「若しこの尉が罪を得れば、則ち公清の士は何を以て勧めようか」と。特にこれを執政に薦し、これにより擢びて大理評事を拝した。
十四年、詔して暹を同中書門下平章事とし、仍って中使を遣わしてこれを迎えしめた。及び謁見すると、また絹二百匹・馬一匹・宅一区を賜った。後に李元紘と叶わず、政事を知るを罷め、出でて荊州大都督府長史となった。また歴て魏州刺史・太原尹となった。二十年、上北都に幸し、暹を戸部尚書に拝し、便に令して扈従して京に入らしめた。行幸して東都すると、詔して暹を京留守と為した。暹は因って当番の衛士を抽き、三宮を繕修し、城隍を増峻し、躬自巡検し、未だ嘗て休懈しなかった。上聞いてこれを嘉し、敕書を賜って曰く、「卿素より清直を以てし、兼ねて勤幹たり。自ら居守を委ねられ、毎事多能にし、政は官僚を粛し、恵は黎庶に及ぶ。城隍宮室、事に随い修営し、且つ成功有り、人力を疲さず。甚だ善し甚だ善し、朕が懐を慰むるなり」と。俄かに李林甫に代わって礼部尚書となり、累ねて封ぜられて魏県侯となった。二十八年、病卒し、年六十余、詔して尚書右丞相を贈られた。
暹は家に在りて孝友し、異母弟の昱を愛撫すること甚だ厚かった。然れども素より学術無く、毎たび朝に談議するに当たり、浅近に渉った。常に公清勤倹を己が任と為し、時に亦た矯情してこれを為した。弱冠にして便た自ら誓って親友の贈遺を受けず、以てその身を終えた。及び卒すと、上甚だこれを悼惜し、中使を遣わして就き家にその喪事を視せしめ、内より絹三百匹を出して以てこれを賜った。尚書省及び故吏の賻贈する者、その子の孝友はその素約に遵い、皆拒んで受けなかった。太常は謚して「貞粛」と曰う。右司員外郎の劉同升・都官員外郎の韋廉は暹に忠孝の美有りとし、謚する所その行を尽くさずとし、建議してこれを駁した。太常博士の裴総は執して曰く、「杜尚書往つて墨縗を以て職事を受けしは、国に奉ずると云うと雖も、孝と為すべからず。請う旧に依って定めん」と。孝友また闕に詣り陳訴して上聞に達し、而して更に所司に詳定せしめ、竟に謚して貞孝と曰う。
韓休
韓休は、京兆長安の人である。伯父の大敏は、則天の初年に鳳閣舎人となった。時に梁州都督の李行褒が部人に誣告され、逆謀有りと云い、則天は大敏に命じて州に就き推究せしめた。或る者大敏に謂って曰く、「行褒は諸李の近属、太后の意はこれを除かんと欲し、忽ち若し旨を失わば、禍将に細ならず、身を謀らざるべからざるなり」と。大敏曰く、「豈に身の安を求めて人を非罪に陥れんや」と。竟に奏してこれを雪いだ。則天俄かに又御史を命じて重覆せしめ、遂にその罪を構成し、大敏は反を推して情を失うに坐し、反を知りて告げざると同じ罪とし、家に賜死した。父の大智は、官洛州司功に至った。
休は早くより詞学有り、初め制挙に応じ、累ねて桃林丞を授けられた。又賢良に挙げられた。玄宗時に春宮に在り、親しく国政を問うと、休の対策は校書郎の趙冬曦と並びて乙第となり、擢びて左補闕を授けられた。尋いで主爵員外郎を判じ、歴て遷って中書舎人・礼部侍郎となり、制誥を知るを兼ね、出でて虢州刺史となった。時に虢州は地を以て両京の間に在り、駕が京及び東都に在るに当たり、並びに近州と為り、常に支税の草を被りて以て閑厩に納められた。休は奏請して余州に均配せんとし、中書令の張説これを駁して曰く、「若し独り虢州を免せば、即ち当に他郡に移すべく、牧守私恵を為さんと欲するも、国体固より依るべからず」と。又符を下してこれを許さず。休復た将に執奏せんとす、僚吏曰く、「更に奏すれば必ず執政の意に忤わん」と。休曰く、「刺史と為りて百姓の弊を救わずんば、何を以て政を為さん!必ず上に忤いて罪を得るとも、甘心する所なり」と。竟に執奏して免せしめられた。歳余りして、母の艱に以て職を去り、固く誠を陳して礼を終わらんことを乞う、制許した。服闋し、工部侍郎を除し、仍って制誥を知り、尚書右丞に遷った。
開元二十一年、侍中の裴光庭卒す、上は蕭嵩に令して朝賢を挙げ光庭の才に代わらしめんとし、嵩は盛んに休の志行を称し、遂に黄門侍郎・同中書門下平章事を拝した。休の性方直にして、進趨を務めず、及び拝せられ、甚だ当時の望に允った。俄かに万年尉の李美玉が罪を得、上は特に令してこれを嶺外に流さんとし、休進みて曰く、「美玉は卑位、犯す所又巨害に非ず、今朝廷に大姦有り、尚お去ること能わず、豈に大を捨てて小を取るを得んや!臣竊に見るに金吾大将軍の程伯献は、恩寵に依恃し、所在貪冒し、第宅輿馬、僭擬過縦す。臣請う先ず伯献を出し而して後ち美玉を罪せん」と。上初めこれを許さず、休固く争って曰く、「美玉微細なれども猶お容れず、伯献巨猾豈に問わざるを得んや!陛下若し伯献を出さずんば、臣即ち敢えて詔を奉じて美玉を流さず」と。上その切直を以て、これに従った。初め、蕭嵩は休の柔和にして制し易きを以て、故にこれを薦引した。休既に政事を知るや、多く嵩を折正したので、遂に休と叶わず。宋璟これを聞きて曰く、「韓休の乃ち能く是くの如くすを謂わざりき、仁者の勇なり」と。
裴耀卿
二十年、礼部尚書・信安王李祎が詔を受けて契丹を討つにあたり、詔により耀卿を副使とした。まもなくまた耀卿に絹二十万匹を持たせて功績のある奚の官人に分賜し、部落において給付するよう命じた。耀卿は人に言った、「夷虜は貪残で、利を見て義を忘れる。今、財帛を持ち、寇の境に深入りするのは、備えをせざるを得ない」と。そこで期日より先に行かせ、分道互進させ、一朝にして給付を全て完了させた。時に突厥及び室韋が果たして兵を率いて険阻な地で待ち伏せ、襲撃を謀ったが、到着した時には既に耀卿は還っていた。
その冬、京兆尹に遷った。明年の秋、霖雨が農作物を害し、京城では穀物が高騰した。上将に東都に幸するにあたり、独り耀卿を召して人を救う術を問うと、耀卿は答えて言った。
明年、侍中に遷った。二十四年、尚書左丞相に任ぜられ、政事を知ることを罷め、累封して趙城侯となった。時に夷州刺史楊浚が贓を犯して処死とされ、詔令により杖六十、古州に配流とされた。耀卿は上疏して諫めて言った。
伏して考えるに、聖恩は天が覆う如く、仁は庶類を育み、凡そ死罪に属する者も、市朝に屍をさらすことを欲せず、その性命を全うし、流竄するのみである。これにより政は刑措を致し、獄に冤人なく、曠古以来、この美はなかった。臣愚かには、生を全うし死を免れることは、誠に至化であり、恥ありて且つ格つき、将来を訓えるものであると考える。もし未だ安からざる点があれば、敢えて緘默しない。臣は考えるに、刺史・県令は諸吏と稍々異なり、人の父母として、風化の瞻る所であり、一旦その本部の長官となれば、即ち終身敬意を致すに合う。決杖は五刑の末であり、只ち抶撲徒隸の間に施されるもので、官蔭が稍々高ければ、即ち鞭撻を免れる。今、決杖をもって死を贖うのは、誠に既に優れた処置ではあるが、体を解きて笞を受けることは、事頗る辱めである。法が死に至るのは天下共通であり、刑が辱めに至るのは或いは恥ずべきことである。況んや本州刺史は百姓が崇める所であり、一朝その人吏に対し、背脊に杖を加え、屈挫拘執されるのを見れば、人は或いは哀れみ憐れみ、免死の恩を忘れ、且つ傷心の痛みがあり、恐らくは官長を敬い風俗を勧める意に非ざるであろう。又、雑犯死罪には杖刑がなく、奏報して三覆し、然る後に行決する。今は時を選ばず覆さず、決杖して便ち発する。倘や獄が未だ尽きず、又は暑熱に耐えず、杖により或いは死すれば、即ちその処分を促し、時に順うことを得ない。生かそうとして、却ってその命を夭折させ、又恐らくは聖明の寬宥の意に非ざるであろう。前後頻りに州県におり、或いは雑犯により人を決する際、毎に大暑盛夏の時には決杖により多く死に、秋冬以後には全うする者がある。伏して望む、凡そ刺史・県令がその本部において決杖し、且つ夏暑生長の時に定める杖刑は、並びに乞う停減することを。即ち陛下の好生の徳に副い、死者に皆再生の恩があるであろう。
間もなく特進の蓋嘉運が突騎施を破り功を立てて帰還すると、詔して河西・隴右両節度使を加え、なお吐蕃を経略することを命じた。嘉運は恩寵を受けるや、日夜酒宴にふけり、時を定めず軍に赴いた。耀卿は密かに上疏して言うには、「伏して見るに蓋嘉運は功を立て賊を破り、さらに両軍を委ねられ、勇果の才をもって、戦勝の勢いを承けています。吐蕃の小醜は、殲滅するに足りません。しかし臣が近ごろ彼と同班となり、その挙措を観察しますに、精勁勇烈で誠実さは確かにありますが、言葉の調子は誇り高く、恐らく事を成し難いでしょう。莫敖が蒲騷の役で敗れたのは、挙趾がやや高かったからであり、『春秋』はこれを懲戒として記しています。彼に驕敵の色があることを恐れ、臣はひそかに憂えています。秋に入って辺境を防ぐには、日月がやや迫っており、人吏と接対するには、その宜しきを識る必要があります。今、辺境の軍を慰撫しようとしており、出発の日を言わず、もし事に臨んで初めて赴けば、人吏は彼を識らず、一時の決断にはなりますが、恐らくは制勝の万全の道とはなりません。況や兵は未だ訓練せず、礼法を知らず、人は未だ恵みを懐かず、士は未だ心を同じくせず、一時に命を忘れさせ、少選の間に厳刑を畏れさせようと求め、威圧によって進ませ、それによって功を立てたとしても、恐らくは師を律をもって出し、久長の義には叶わないでしょう。また万の人の性命は、将軍の決断にかかっており、已むを得ずこれを行い、兇門を穿って即ち路に就くものです。今、朝夕酒宴にふけり、優渥さが余っているのは、恐らくも人を愛し国を憂うるの意ではなく、察しないわけにはいきません。もし交代ができないのであれば、速やかに進路につかせ、なお聖恩を乞い、厳命をもって励まされることを望みます」。疏が奏上されると、上は嘉運を促して軍に赴かせたが、ついに功なくして帰還した。
耀卿の孫、佶。
史臣が曰く。
史臣が曰く、魏知古、盧懷愼、源乾曜、李元紘、杜暹、韓休、裴耀卿は、皆器能を蘊え、咸に宰輔の位に居た。或いは心に啓沃を存し、或いは志に薦賢に在り、或いは愛子を出して外官とし、或いは屯田を関輔に止め、或いは蕃人の賂を受けず、或いは堅く伯献の姦を劾し、或いは広く漕渠を開いて国用を充てた。これらは皆事を立て功を立て、嘉尚するに足る者である。盧、李、杜の三君子は、また清白を以て簡書に美を垂れ、公孫弘の流れである。乾曜は職機密に当たり、是非する所なく、祿を保ち身を保ち、彼の相たるを用いんや。
賛。
賛して曰く、盧、魏、乾曜は、違を弼け賢を進む。裴、韓、李、杜は、財を遠ざけ姦を劾す。簡書に事を書して汗し、清風肅然たり。万歳の後、その名刊せられず。