舊唐書

巻098

巻098

舊唐書

原文舊唐書

卷九十八

原文卷九十八

巻九十八 列傳第四十八 魏知古 盧懷愼 源-{乾}-曜 李元紘 杜暹 韓休 裴耀卿

原文巻九十八 列傳第四十八 魏知古 盧懷愼 源-{乾}-曜 李元紘 杜暹 韓休 裴耀卿

巻九十八 列伝第四十八 魏知古 盧懐慎 源乾曜 李元紘 杜暹 韓休 裴耀卿

原文巻九十八列傳第四十八 魏知古 盧懷愼 源-{乾}-曜 李元紘 杜暹 韓休 裴耀卿

魏知古

原文魏知古

魏知古は、深州陸沢の人である。性質は方正で直く、早くから才名があった。弱冠にして進士に挙げられ、累次して著作郎を授かり、国史の修撰を兼ねた。長安ちょうあん年間、鳳閣舎人・衛尉少卿を歴任して遷った。時に睿宗は藩邸に居り、相王府司馬を兼ねて検校した。神龍初年、吏部侍郎に抜擢され、なお従前の通り国史修撰を兼ね、まもなく銀青光禄大夫に進位した。翌年、母の喪に遭い職を去り、喪が明けて晋州刺史を授かった。睿宗が即位すると、旧臣として召されて黄門侍郎に任じられ、国史修撰を兼ねた。

原文魏知古,深州陸澤人也。性方直,早有才名。弱冠舉進士,累授著作郎,兼修國史。長安中,歴遷鳳閣舍人、衞尉少卿。時睿宗居籓,兼檢校相王府司馬。神龍初,擢拜吏部侍郎,仍並依舊兼修國史,尋進位銀靑光祿大夫。明年,丁母憂去職,服闋授晉州刺史。睿宗即位,以故吏召拜黃門侍郎,兼修國史。

景雲二年、右散騎常侍さんきじょうじに遷った。睿宗の娘である金仙・玉真の二公主が入道し、詔によりそれぞれ一観を造営することとなり、季夏の盛暑に属するにもかかわらず、なお営作が止まなかった。知古が上疏して諫めて言うには、

原文景雲二年,遷右散騎常侍。睿宗女金仙、玉眞二公主入道,有制各造一觀,雖屬季夏盛暑,尚營作不止。知古上疎諫曰:

臣は聞く、『穀梁伝』に曰く「古の人を君とする者は、必ず時に人の勤むる所を視る。人が力に勤むれば則ち功築は稀なり、人が財に勤むれば則ち貢賦は少なく、人が食に勤むれば則ち百事は廃す」と。『書』に曰く「益なきを作して益あるを害すること無かれ」と。また曰く「百姓を咈えて以て己の欲に従うこと無かれ」と。『礼』に曰く「季夏の月は、樹木方に盛んなり、斬伐有ること無く、土功を興して以て農を妨ぐべからず」と。また曰く「季夏に冬令を行えば、則ち風寒時ならず」と。『論語』に曰く「己を修めて以て百姓を安んず」と。これらは皆、教化を興し道理を立てる教えであり、政を為し人を養う根本である。今、陛下が公主のために観を造るのは、将に功德を樹てて以て福祐を祈らんとするものである。但し両観の地は、皆百姓の宅であり、卒然として迫逼し、その転移を命じ、老いを扶け幼を携え、投竄する所無く、椽瓦を発剔し、道路に呼嗟する。人事に乖き、天時に違い、無用の作を起こし、不急の務を崇むる。群心は揺揺たり、衆口は籍籍たり。陛下は人の父母として、何を以てか之を安んぜんとするか。且つ国には簡冊有り、君の挙ぐることは必ず記され、動けば則ち左史之を書き、言えば則ち右史之を書く。是を以て礼に非ざれば言わず、礼に非ざれば動かず。夫れ是の如くならば、則ち君の挙ぐる所、慎まざるべけんや。微臣は諫諍の位に備わり、兼ねて史筆を秉る。書いて法とせざれば、後嗣何をか観ん。臣愚、必ず以て不可と為す。伏して願わくは、人欲に俯順し、天意に仰稽し、德音を降し、明策を下し、速やかに功役を罷め、之を桑楡に収めんことを。

原文臣聞《穀梁傳》曰:「古之君人者,必時視人之所勤:人勤於力則功築罕,人勤於財則貢賦少,人勤於食則百事廢。」《書》曰:「不作無益害有益。」又曰:「罔咈百姓以從己之欲。」《禮》曰:「季夏之月,樹木方盛,無有斬伐,不可興土功以妨農。」又曰:「季夏行冬令,則風寒不時。」《語》曰:「修己以安百姓。」此皆興化立理之教,爲政養人之本。今陛下爲公主造觀,將樹功德以祈福祐。但兩觀之地,皆百姓之宅,卒然迫逼,令其轉移,扶老攜幼,投竄無所,發剔椽瓦,呼嗟道路。乖人事,違天時,起無用之作,崇不急之務,群心搖搖,衆口籍籍。陛下爲人父母,欲何以安之?且國有簡冊,君舉必記,動則左史書之,言則右史書之。是以非禮勿言,非禮勿動。夫如是,則君之所舉,可不愼歟!微臣備位諫諍,兼秉史筆,書而不法,後嗣何觀?臣愚必以爲不可。伏願俯順人欲,仰稽天意,降德音,下明策,速罷功役,收之桑楡。

疏を奏上したが容れられなかった。

原文疎奏不納。

間もなく、また進諫して言うには、「臣は聞く、人は君を以て天と為し、君は人を以て本と為す。人安んずれば則ち政理まり、本固ければ則ち邦寧し。陛下が兇逆を翦除し、宝位に君臨して以来、蒼生は顒顒として、朝に新政有りと為す。今、風教は頽替し、日一日と甚だしく、府庫は空虚し、人力は雕弊し、造作は息まず、官員は日増す。今、諸司の試及び員外・検校等の官は、僅かに二千余人に至り、太府の布帛は以て殫き、太倉の米粟は給し難し。又、金仙・玉真等の観の造作は、咸な急務に非ず、臣先に奏請して停めしめんとすれども、竟に未だ止まず。今年は前水後旱し、五穀熟さず、若し来春に至らば、必ず甚だしく饑饉ならん。陛下は人の父母として、何の方を以てか賑恤せんとするか。饑を療し溺を拯うには、須らく其の時に及ぶべし。又、突厥は患いと為すこと、其の来ること久しく、本より礼儀無く、焉んぞ誠信有らん。今、使を遣わして来たり結婚を請うと雖も、豺狼の心、首鼠何ぞ定まらん。弱ければ則ち卑順し、強ければ則ち驕逆す。草衰え月満つるに属し、弓勁く馬肥え、中国の饑虚に乗じ、和親の際会に在り、倘や或いは亭障を窺犯せば、国家何を以てか之を防がん。臣の論ずる所は、事甚だ急切なり。伏して願わくは、特垂して詳察せられんことを。」睿宗はその切直さを嘉し、まもなく同中書門下平章事を命じた。玄宗が春宮に在った時、また左庶子を兼ねることを命じた。未だ幾ばくもなく、戸部尚書に遷り、余は従前の通りであった。翌年、侍中に抜擢された。

原文頃之,又進諫曰:「臣聞人以君爲天,君以人爲本。人安則政理,本固則邦寧。自陛下翦除兇逆,君臨寶位,蒼生颙颙,以爲朝有新政。今風教頽替,日甚一日,府庫空虚,人力雕弊,造作不息,官員日增。今諸司試及員外、檢校等官,僅至二千餘人,太府之布帛以殫,太倉之米粟難給。又金仙、玉眞等觀造作,咸非急務,臣先奏請停,竟仍未止。今歳前水後旱,五穀不熟,若至來春,必甚饑饉。陛下爲人父母,欲何方以賑恤?療饑拯溺,須及其時。又突厥爲患,其來自久,本無禮儀,焉有誠信。今雖遣使,來請結婚,豺狼之心,首鼠何定。弱則卑順,強則驕逆。屬草衰月滿,弓勁馬肥,乘中國饑虚,在和親際會,倘或窺犯亭障,國家何以防之?臣所論者,事甚急切,伏願特垂詳察。」睿宗嘉其切直,尋令同中書門下平章事。玄宗在春宮,又令兼左庶子。未幾,遷戸部尚書,餘如故。明年,擢拜侍中。

先天元年冬、上に従って渭川で畋猟し、因って詩を献じて諷して曰く、「嘗て聞く夏の太康、五弟禽荒を訓うと。我が後来たりて冬狩し、三驅礼張ること盛んなり。時に順いて鷹隼撃ち、事を講じて武功揚がる。奔走未だ去るに及ばず、翾飛豈に暇あって翔らん。非熊は渭水に従い、瑞雀は陳倉を想う。此の欲は誠に縦し難く、茲の遊は常とすべからず。子雲は『羽獵』を陳し、僖伯は漁棠を諫む。得失は斉・楚に鑒とし、仁恩は禹・湯を念う。邕熙諒に在宥し、亭毒多く傷つけず。『辛甲』今史と為り、『虞箴』遂に孔彰たり。」と。手制を下して之を褒めて曰く、「夫れ詩は、志の以て其の心懐を写す所なり、実に君主を諷諭すべし。是の故に揚雄は『羽獵』を陳し、馬卿は『上林』を賦し、爰に『風雅』より、率ね茲の道に由る。予頃に温泉に向かい、風俗を観省し、時に暇景に因り、渭を掩いて畋り、方に一面の羅を開き、式に三驅の礼を展べ、躬親校獵し、聊かに以て禽に従わんとす。豈に意図せんや卿に箴規有り、予の逮ばざるを輔くることを。自ら款誠夙に著わさずんば、其れ孰か能く此に継がんや。今、卿に物五十段を賜い、用て勸獎を申さん。」と。

原文先天元年冬,從上畋獵於渭川,因獻詩諷曰:「嘗聞夏太康,五弟訓禽荒。我後來冬狩,三驅盛禮張。順時鷹隼撃,講事武功揚。奔走未及去,翾飛豈暇翔。非熊從渭水,瑞雀想陳倉。此欲誠難縱,茲遊不可常。子雲陳《羽獵》,僖伯諫漁棠。得失鑒齊、楚,仁恩念禹、湯。邕熙諒在宥,亭毒匪多傷。《辛甲》今爲史,《虞箴》遂孔彰。」手制褒之曰:「夫詩者,誌之所以,寫其心懷,實可諷諭君主。是故揚雄陳《羽獵》,馬卿賦《上林》,爰自《風雅》,率由茲道。予頃向温泉,觀省風俗,時因暇景,掩渭而畋,方開一面之羅,式展三驅之禮,躬親校獵,聊以從禽。豈意卿有箴規,輔予不逮,自非款誠夙著,其孰能繼於此耶?今賜卿物五十段,用申勸獎。」

二年、累次して梁国公に封ぜられた。竇懐貞等が将に謀逆せんとした時、知古は独り密かに其の事を奏上した。懐貞が誅せられた後、実封二百戸・物五百段を賜った。なお以前の賞賜は猶薄いとして、また手敕を下して曰く、「魏知古は去年十月以前、屡々啓沃を申し、毎に忠誠を竭くし、姦臣謀有りて、予め其の兆を奏す。君に事うるの節、良に嘉す可し。更に実封一百戸を賜うべし。」と。其の年冬、東都に往き吏部尚書事を知ることを命じ、深く称職と為し、手制を下して曰く、「卿は宰臣を以て、往きて大選を知り、官人を委するの情、寄するに尤も切なり。遂に能く本を端にし弊を革め、私を忘れ公に徇い、正色にして行い、心を厝して撓がず。鏡已に澈すれば則ち妍媸必ず鑒み、衡已に挙げれば則ち軽重違うこと無し。朕遠く之を聞き、益用て嘉嘆す。今、卿に衣裳一具を賜い、以て懐うる所を示す。」と。

原文二年,累封梁國公。竇懷貞等將謀逆也,知古獨密奏其事。及懷貞誅,賜實封二百戸、物五百段。仍以前賞猶薄,又手敕曰:「魏知古去年十月已前,屢申啓沃,毎竭忠誠,姦臣有謀,預奏其兆。事君之節,良有可嘉,可更賜實封一百戸。」其年冬,令往東都知吏部尚書事,深以爲稱職,手制曰:「卿以宰臣,往知大選,官人之委,情寄尤切。遂能端本革弊,忘私徇公,正色而行,厝心不撓。鏡已澈則妍媸必鑒,衡已舉則輕重罔違。朕遠聞之,益用嘉嘆。今賜卿衣裳一副,以示所懷。」

開元元年、官名が改易され、黄門監と改めた。二年、京に還り、上は屡々顧問有り、恩意甚だ厚く、まもなく紫微令に改めた。姚崇は深く之を忌憚し、陰かに讒毀を加え、乃ち工部尚書を除し、政事を知ることを罷めた。三年に卒す。時に年六十九。御史大夫宋璟聞いて嘆じて曰く、「叔向は古の遺直、子産は古の遺愛、能く之を兼ねる者は、其れ魏公に在らんか。」と。幽州都督ととくを贈り、謚して忠と曰う。

原文開元元年,官名改易,改爲黃門監。二年,還京,上屢有顧問,恩意甚厚,尋改紫微令。姚崇深忌憚之,陰加讒毀,乃除工部尚書,罷知政事。三年卒,時年六十九。御史大夫宋璟聞而嘆曰:「叔向古之遺直,子産古之遺愛,能兼之者,其在魏公。」贈幽州都督,謚曰忠。

知古が初めて黄門侍郎となった時、表を上って洹水令呂太一・蒲州司功参軍斉璟・前右内率府騎曹参そうしん軍柳澤を推薦した。吏部尚書事を知るに及び、また密県尉宋遙・左補闕袁暉・右補闕封希顔・伊闕尉陳希烈を抜擢任用した。後、皆累次して清要の職に居り、時の論は以て人を知るの鑒有りと為した。文集七巻。

原文知古初爲黃門侍郎,表薦洹水令呂太一、蒲州司功參軍齊璟、前右内率府騎曹參軍柳澤。及知吏部尚書事,又擢用密縣尉宋遙、左補闕袁暉、右補闕封希顏、伊闕尉陳希烈,後咸累居淸要,時論以爲有知人之鑒。文集七巻。

盧懐慎

原文盧懷愼

盧懐慎は、滑州霊昌の人である。其の先は范陽に家し、山東の著姓と為った。祖父の悊は、霊昌令と為り、因って徙った。懐慎は少より清謹で、進士に挙げられ、監察御史・吏部員外郎を歴任した。景龍年中、右御史臺中丞に遷り、上疏して時政の得失を陳べた。今、其の三篇を略載する。

原文盧懷愼,滑州靈昌人。其先家於范陽,爲山東著姓。祖悊,爲靈昌令,因徙焉。懷愼少淸謹,舉進士,歴監察御史、吏部員外郎。景龍中,遷右御史臺中丞,上疎以陳時政得失。今略載其三篇。

其の一に曰く、

原文其一曰:

臣が聞くに、孔子は言われた。『国を治めるには百年かかって、ようやく残虐を克服し殺伐を去ることができる』と。また言われた。『もし私を用いる者がいれば、一年で効果が現れ、三年で成果を挙げるであろう』と。故に『書経』には『三年で考績を行う』とあり、その功績を評価するのである。昔、子産が鄭の宰相となり、法令を改め、刑書を公布したところ、一年にして人々が歌った。『我が田畑を取り上げて五等に分け、我が衣冠を取り上げて貯蔵する。誰か子産を殺す者はないか、我はそれに加わろう』と。二年にして人々はまた歌った。『我に子弟あれば、子産これを教え、我に田畑あれば、子産これを殖やす。子産が死んだならば、誰がその跡を継ぐのか』と。ついに遺愛を残し、芳名を史策に流した。子産は賢者である。その政治を行うのに尚お数年を要して教化が成った。ましてや常材においてはなおさらである。臣がひそかに見るに、近頃の州牧・上佐および両畿の県令は、任地に着いて政令を布いても、四考(四年)を終えることは稀である。在任の長い者は一二年、短い者は三五月で、たちまちに転任・昇進し、考課の優劣を論じない。あるいは時を経ずして改まらず、早くも耳を傾けて聴き、踵を上げて望み、争ってみだりに進みを求め、廉恥を顧みない。どうして陛下のために風教を宣揚し、民の疾苦を求め、民を憐れむ暇があろうか。礼義を興し行うことができず、風俗を一つにすることができず、戸口が流散し、倉庫が空虚となる所以であり、百姓が疲弊し、日増しに甚だしくなるのは、このためである。なぜか。人は官吏が長く在任しないと知れば、その教えに従わない。官吏は転任が遠くないと知れば、またその力を尽くさず、爵禄を安んじて偸み、ただ資望を養うのみである。陛下が勤労の志をもって、宵衣旰食(朝早くから夜遅くまで政務に励む)されても、僥倖の道が開かれ、上下相い欺き、共に一時しのぎをするだけであって、どうして至公を尽くすことができようか。これが国の病である。昔、賈誼の言うところの蹠盭(足の裏が反り返る病)の病は、小さなものに過ぎない。この弊が久しく改まらなければ、臣は膏肓の病となることを恐れる。和・緩(古代の名医)であっても治療できず、ただ蹠盭のみでは済まないであろう。漢の宣帝は名実を総合的に検討し、政治を興し教化を致した。黄霸はは優れた二千石(郡太守)であったが、そのまま秩禄を増し金を賜って、その才能を表彰し、潁川から転任させなかった。これは前代の美政である。また、古く官吏となった者は子孫をその地に長く住まわせた。倉氏・瘐氏はその子孫である。『書経』に云う。『事を古に師とせずして、永代を克くす、説の聞く所に匪あらず』と。臣は望む、諸州の都督・刺史・上佐および両畿の県令などで、在任が四考以上に至らない者は、転任・昇進を許さないことを。その考課の効果が特に優れた者を察し、あるいは車や裘を賜い、あるいはそのまま禄秩を加え、あるいは使者を降して臨問し、併せて璽書をもって慰労激励することを。もし公卿に欠員があれば、これを抜擢して能を勧めることを。その政績が聞こえず、あるいは貪暴を犯した者は、免職して田舎に帰らせることを。もって聖朝の賞罰の信を示せば、万方の人は一変して道に帰するであろう。この美を致し、かの弊を革することは、反掌よりも易しい。陛下は何を惜しんで行われないのか。

原文臣聞孔子曰:「爲邦百年,可以勝殘去殺。」又曰:「茍有用我者,期月而已,三年有成。」故《書》云「三載考績」,校其功也。昔子産相鄭,更法令,布刑書,一年而人歌之曰:「取我田疇而伍之,取我衣冠而褚之,孰殺子産,吾其與之!」二年而人又歌之曰:「我有子弟,子産教之,我有田疇,子産殖之,子産而死,誰其嗣之?」終有遺愛,流芳史策。子産,賢者也,其爲政尚累年而化成,況其常材乎。臣竊見比來州牧、上佐及兩畿縣令,下車布政,罕終四考。在任多者一二年,少者三五月,遽即遷除,不論課最。或有歴時未改,便傾耳而聽,企踵而望,爭求冒進,不顧廉恥。亦何暇爲陛下宣風布化,求瘼恤人哉!禮義未能興行,風俗未能齊一,戸口所以流散,倉庫所以空虚,百姓雕弊,日更滋甚,職爲此也。何則?人知吏之不久,則不從其教;吏知遷之不遙,又不盡其力,偸安爵祿,但養資望。陛下雖勤勞之懷,宵衣旰食,然僥幸路啓,上下相蒙,共爲茍且而已,寧盡至公乎?此國之病也。昔賈誼所謂蹠盭之病,乃小小者耳。此弊久而不革,臣恐爲膏肓,雖和、緩不能療,豈蹠盭而已哉!漢宣帝綜核名實,興理致化。黃霸,良二千石也,就增秩賜金,以旌其能,而不遷於潁川,前代之美政也。又古之爲吏者長子孫,倉氏、瘐氏,即其後也。《書》云:「事不師古,以克永代,匪説攸聞。」臣望請諸州都督、刺史、上佐及兩畿縣令等,在任未經四考已上,不許遷除。察其課效尤異者,或錫以車裘,或就加祿秩,或降使臨問,並璽書慰勉。若公卿有闕,則擢以勸能。其政績無聞及犯貪暴者,免歸田裏。以明聖朝賞罰之信,則萬方之人,一變於道矣。致此之美,革彼之弊,易於反掌,陛下何惜而不行哉!

第二に曰く。

原文其二曰:

臣が聞くに、『尚書』に云う。『唐・虞は古に稽かんがえ、官を建つること惟これ百;夏・商は官倍ばいす、亦克よく用いて乂ちからす』と。これ省官の意義である。また云う。『官は必ずしも備えず、惟れ其の才をこれす』と。また云う。『庶官を曠むなしうすること無かれ、天工、人其れ之に代わる』と。これは官のために人を選ぶ意義である。臣がひそかに見るに、京師の諸司の員外官は、所在に委積し、多いものは数倍から十倍余りに及び、近古以来未だかってなかったことである。官は必ずしも備えず、とあるが、これは有り余っている。人が天工に代わる、とあるが、多くは事務を処理しない。広く除拜(任命)があっても、益するところはなく、俸禄の費用は歳に巨億万に及び、ただ府庫の蔵を空しく尽くすのみである。どうして政治を致す基盤となろうか。今、倉庫は空虚で、百姓は疲弊し、黄河・渭水の漕運は、西の京師に供給し、公私の損耗は数え切れない。況んや辺境は未だ静かならず、兵革は猶お興り、費用を節し人を愛することは、まさに今日にあるべきである。官を増し費用を広げることは、どうしてその時と言えようか。もし水旱の災害が起こり、租税の収入が減れば、水衡(財政官)には朽ちた銭が貫さるるほどの蓄えはなく、京師の倉庫には溢れるほどの備蓄は欠けるであろう。あるいは国境を外に守り、兵車を遠くに出し、あるいは収穫の豊かな年がなく、救済を今行わねばならない。これらは軍国の急務である。陛下はどうしてこれを救済されようか。『書経』に云う。『人事を軽んずること無かれ、惟れ艱かたし;厥その位を安んずること無かれ、惟れ危うし』と。また云う。『是れを見ざるを図る』と。これらは皆、微細なことを慎む深い趣旨である。臣がひそかに見るに、員外官の中には、あるいは簪裾(高官の服装)の雅望ある者、あるいは臺閣(中央官庁)の旧人、あるいは憲章に明習した者、あるいは政要に諳閑(精通)した者で、皆一時の良幹である。多くは案牘(文書事務)を司らず、空しく禄俸を受けて屍の如くであり、その才能を滞らせてその用を伸ばさず、その位を尊んでもその力を尽くさない。周は多士と称し、漢は得人と言ったが、果たしてそうであろうか。必ずやこれとは異なるであろう。臣は望む、諸司の員外官で才能器識があり、衆人の知るところで、州牧・県宰および上佐に堪える者を、皆遷擢し、四方で力を宣べさせ、その智効を伸ばすことを。老病および事務を処理するに堪えない者は、皆廃省に従わせ、賢と不肖を明らかに区別することを。これは時を救う切なる要務である。どうして行うのが難しいと言えようか。

原文臣聞《尚書》云:「唐、虞稽古,建官惟百;夏、商官倍,亦克用乂。」此省官之義也。又云:「官不必備,惟其才。」又云:「無曠庶官,天工人其代之。」此爲官擇人之義也。臣竊見京諸司員外官,所在委積,多者數餘十倍,近古以來未之有也。官不必備,此則有餘,人代天工,多不厘務。廣有除拜,無所裨益,俸祿之費,歳巨億萬,空竭府藏而已,豈致理之基哉!方今倉庫空虚,百姓雕弊,河、渭漕輓,西給京師,公私損耗,不可勝紀。況邊隅未靜,兵革猶興,節用愛人,正在今日,增官廣費,豈曰其時?倘水旱成災,租稅減入,水衡無貫朽之蓄,京瘐闕流衍之儲。或疆塲外守,兵車遠出;或收茂無歳,賑救在辰。此軍國之急務也,陛下將何以濟之乎?《書》云:「無輕人事,惟艱;無安厥位,惟危。」又云:「不見是圖。」此皆愼微之深旨也。臣竊見員外官中,或簪裾雅望,或臺閣舊人,或明習憲章,或諳閑政要,皆一時之良幹也。多不司案牘,空屍祿俸,滯其才而不申其用,尊其位而不盡其力。周稱多士,漢曰得人,豈其然歟?必有異於此矣。臣望請諸司員外官有才能器識、衆共聞知,堪爲州牧縣宰及上佐者,並請遷擢,使宣力四方,申其智效。有老病及不堪理務者,咸從廢省,使賢不肖較然殊貫。此濟時之切務也,安可謂行之艱哉?

第三に曰く。

原文其三曰:

臣が聞くに、天の官吏が徳を逸すれば、猛火よりも烈しく;貪る人が類を敗れば、大風を取って興す。寵賂に冒され、鰥寡を侮ることが、政治の蠹むしばみであり、これに先立つものはないと知るべきである。臣がひそかに見るに、内外の官人で、憲章に従わず、公然と贓汚を犯し、万姓を侵牟し、蒸人(民衆)を劓割(切り刻む)し、審問・調査が虚偽でなく、刑罰が既に及んだ者でも、あるいは俄かに旧資に復し、残削の名を負いながら、なお牧宰の任に当たり、あるいは江・淮・嶺・磧の地に、微かに懲罰・貶降を示すだけで、財に殉じ貨を黷けがし、めったに悔い改めることがなく、共に治めることを委ね、河の清むのを待つようなものである。臣が聞くに、明主が万姓に対しては、必ず平分をもって暢のびやかにし、偏った施しをしないものである。もし罪を犯した官吏が、遠方の牧宰となれば、これは法を屈して姦を恵み、近きを恤あわれみ遠きを遺わすれることである。凡そ左降(左遷)された人は、めったに過ちを省みず、必ず自棄の念を抱き、悪を長じてますます深くなる。すると小州遠郡、蛮陬夷落(辺境の異民族の地)は、何の罪があって聖化を負い、独りその弊政を受けるのであろうか。昔、孟嘗は廉明であったからこそ合浦に臨み、呉隠之は清潔であったからこそ番禺に蒞んだ。郅都が朔方を鎮静し、耿恭が疎勒を輯寧した。地は遐僻であっても、必ず賢良を選び、務めて寧済を思いやることを旨とし、どうして遐荒であることを以て隔てられようか。況んや辺境の地は、夷夏が雑居し、険に負い遠きに恃み、擾みだし易く安んじ難く、ますます循良の吏に頼り、綏撫を託すべきである。もし任に失い、官がその才に非ず、黎庶を凌虐し、蕃部を侵剝すれば、小ならば坐して流亡を致し、大ならば起って盗賊となる。これによって言えば、凡材を用いるべきでなく、ましてや狡猾な官吏においてをやである。内外の官人で贓賄を犯し、推勘(取り調べ)によって実を得た者は、臣は望む、簪裾の跡を削り、十数年間は歯録(登用)を許さないことを。『書経』に云う。『淑匿を旌別し、幽明を黜陟す』と。即ちその意義である。もしこの道に従わず、邪を去ることに疑いがあれば、善政を行う能吏は、甄奨が偏らないこともあり、贓を担い賄を負う者は、僥倖によって即ち昇進を蒙ることもあろう。すると賞罰に章きまりがなく、沮勸(阻止と勧奨)はどこに寄せられようか。浮競の風は転じて煽り、廉恥の行いは次第に頽くずれ、その源を塞がなければ、蠹となることは甚だしい。

原文臣聞天吏逸德,烈於猛火;貪人敗類,取興大風。則知冒於寵賂,侮於鰥寡,爲政之蠹,莫先於茲。臣竊見内外官人,有不率憲章,公犯贓汙,侵牟萬姓,劓割蒸人,鞫按非虚,刑憲已及者,或俄復舊資,雖負殘削之名,還膺牧宰之任,或江、淮、嶺、磧,微示懲貶,而徇財黷貨,罕能悛革,委以共理,俟河之淸。臣聞明主之於萬姓也,必暢以平分,而無偏施。若犯罪之吏,作牧遐方,便是屈法惠姦,恤近遺遠矣。凡左降之人,鮮能省過,必懷自棄,長惡滋深。則小州遠郡,蠻陬夷落,何負於聖化,獨受其弊政乎!昔孟嘗廉明,方臨合浦;隱之淸絜,乃蒞番禺。郅都之鎭靜朔方,耿恭之輯寧疎勒。地則遐僻,必擇賢良,務以寧濟爲懷,豈以遐荒見隔?況邊僥之地,夷夏雜處,負險恃遠,易擾難安,彌藉循良,以寄綏撫。若委失其任,官非其才,淩虐黎庶,侵剝蕃部,小則坐致流亡,大則起爲盜賊。由此言之,不可用凡材,而況於猾吏乎!其内外官人有犯贓賄推勘得實者,臣望請削跡簪裾,十數年間不許齒録。《書》云:「旌別淑匿,黜陟幽明。」即其義也。若不循此道,去邪有疑,善政能官,甄獎或未之偏,擔贓負賄,僥幸或即蒙升,則賞罰無章,沮勸安寄?浮競之風轉扇,廉恥之行漸隤,其源不塞,爲蠹斯甚。

上疏したが、採用されなかった。累遷して黄門侍郎となり、漁陽伯の爵を賜った。

原文疎奏不納。累遷黃門侍郎,賜爵漁陽伯。

先天二年、侍中魏知古と東都で選事を分掌し、まもなく召還されて同中書門下三品となった。開元三年、黄門監に遷った。盧懐慎は紫微令姚崇と対になって枢密を掌ったが、懐慎は自ら吏道(官吏としての手腕)が姚崇に及ばないと思い、毎事これを推譲した。当時の人はこれを「伴食宰相」と呼んだ。四年、吏部尚書を兼ねた。その秋、病が篤くなり、累表して骸骨を乞うた。許された。十日にして卒した。荊州大都督を贈られ、諡して文成といった。懐慎は臨終に遺表をしたためた。

原文先天二年,與侍中魏知古於東都分掌選事,尋征還同中書門下三品。開元三年,遷黃門監。懷愼與紫微令姚崇對掌樞密,懷愼自以爲吏道不及崇,毎事皆推讓之,時人謂之「伴食宰相。」四年,兼吏部尚書。其秋,以疾篤,累表乞骸骨,許之。旬日而卒,贈荊州大都督,謚曰文成。懷愼臨終遺表曰:

臣は元より才識なく、恩栄を辱うけて、枢密に待罪し、頗る年序を積む。報国の心は、空しく自ら竭くるを知るのみ;賢を推すの志は、終に申べることを克さず。明恩を孤負し、夙夜惶懼す。臣は疾に染むること久しく、形神離れんと欲す。鳧雁の飛ぶは、未だ之を少なからずと為さず、而して犬馬の志は、終に上聞を祈り、其の鳴くや哀し、聖察を乞い求む。宋璟は立性公直にして、心を執るに貞固たり、文学は以て務めを経るに足り、識略は時に佐くるを期し、動くは直道を惟り、行うは苟も合わず、朝野の説に聞く、実に社稷の臣なり。李傑は勤苦絶倫にして、貞介独立し、公家の事は、知りて為さざる無く、時に幹るの材は、衆議推許す。李朝隠は操履堅貞にして、才識通贍たり、文を守り法を奉じ、頗る鉄石の心を懐き、上に事えて誠を竭くし、実に人臣の節を尽くす。盧従願は清貞謹慎にして、理識周密たり、終始一の若く、朝野共に知る、簡要の才は、得難し。並びに明時の重器、聖代の良臣なり。比に任使を経て、微かに愆失有り、坐する所は小なり、棄つる所は大なり、累うる所は軽し、貶する所は遠し。日月は近しと雖も、譴責傷み深し、矜録を垂れんことを望み、漸く進用を加えよ。臣窃に聞く、黄帝の以て衣裳を垂れて天下理まる所以は、風・力を任ずるなり;帝堯の以て天下に光宅する所以は、稷・禼を任ずるなり。且つ朝廷は天下の本、賢良は風化の源、人を得れば則ち庶績其れ凝り、士を失えば則ち彜倫斁ゆ。臣毎に陛下の庶政を憂労し、理道を勤め求め、群司を挙ぐるに慎み、必ず称職を期し、鵷鷺をして列を成さしめ、草沢遺るる無からしむるを見る。故に歳稔時和し、政平訟理するを得るは、比の陛下の賢を用うるの明効なり。臣は木石に非ず、早く天心を識る、瞑目遙からず、厚恩未だ報いず。黜殯の義、敢えて庶幾からざらんや、城郢の言、愚懇を布かんと思ふ。

原文臣素無才識,叨沐恩榮,待罪樞密,頗積年序。報國之心,空知自竭;推賢之誌,終未克申。孤負明恩,夙夜惶懼。臣染疾已久,形神欲離,鳧鴈之飛,未爲之少,而犬馬之誌,終祈上聞,其鳴也哀,乞求聖察。宋璟立性公直,執心貞固,文學足以經務,識略期於佐時,動惟直道,行不茍合,聞諸朝野之説,實爲社稷之臣。李傑勤苦絶倫,貞介獨立,公家之事,知無不爲,幹時之材,衆議推許。李朝隱操履堅貞,才識通贍,守文奉法,頗懷鐵石之心,事上竭誠,實盡人臣之節。盧從願淸貞謹愼,理識周密,始終若一,朝野共知,簡要之才,不可多得。並明時重器,聖代良臣。比經任使,微有愆失,所坐者小,所棄者大,所累者輕,所貶者遠。日月雖近,譴責傷深,望垂矜録,漸加進用。臣竊聞黃帝所以垂衣裳而天下理者,任風、力也;帝堯所以光宅天下者,任稷、祼也。且朝廷者天下之本,賢良者風化之源,得人則庶績其凝,失士則彜倫攸斁。臣毎見陛下憂勞庶政,勤求理道,愼舉群司,必期稱職,使鹓鷺成列,草澤無遺。故得歳稔時和,政平訟理,比陛下用賢之明效也。臣非木石,早識天心,瞑目不遙,厚恩未報。黜殯之義,敢不庶幾,城郢之言,思布愚懇。

上深く嘉納す。懐慎は清儉にして、産業を営まず、器用服飾、金玉綺文の麗無し。得る所の禄俸は、皆時に随ひ分散し、而して家に余蓄無く、妻子匱乏す。車駕将に東都に幸せんとするに及び、四門博士張星上言す:「懐慎は忠清直道にして、終始虧かず、寵贈を加えずんば、善を勧むる無し。」乃ち制を下して其の家に物壹伯段・米粟貳伯石を賜ふ。明年、上京師に還り、因りて城南に校獵し、懐慎の別業を経て、家人方に祥斎を設くるを見、其の貧匱を憫み、絹百匹を賜ふ。仍ち中書侍郎蘇頲を遣して其の碑文と為し、上自ら書す。

原文上深嘉納之。懷愼淸儉,不營産業,器用服飾,無金玉綺文之麗。所得祿俸,皆隨時分散,而家無餘蓄,妻子匱乏。及車駕將幸東都,四門博士張星上言:「懷愼忠淸直道,終始不虧,不加寵贈,無以勸善。」乃下制賜其家物壹伯段、米粟貳伯石。明年,上還京師,因校獵於城南,經懷愼別業,見家人方設祥齋,憫其貧匱,賜絹百匹。仍遣中書侍郎蘇颋爲其碑文,上自書焉。

懐慎の子 奐

原文懷愼子 奐

子奐は、早く修整し、歴任皆清白を以て聞こゆ。開元中、中書舎人・御史中丞・陜州刺史と為る。二十四年、玄宗京師に幸し、陜城頓に次ぎ、其の能政を審らかにし、庁事に題讃して去り、曰く「専城の重、分陜の雄。人多く恵愛し、性実に謙沖。亦既に物に利し、在るは匪躬に乎り。斯れ国宝と為り、家風を墜さず。」尋いで兵部侍郎を除く。天宝初、晋陵太守と為る。時に南海郡は利水陸を兼ね、環宝山積す。劉巨鱗・彭杲相替はりて太守・五府節度と為り、皆贓鉅万に坐して死す。乃ち特く奐を授けて南海太守と為す。遐方の地、貪吏跡を斂め、人用ひて之を安んず。以て開元已来四十年、広府節度清白なる者四人有りと為す:宋璟・裴伷先・李朝隠及び奐を謂ふ。中使市舶も、亦法に干せず。銀青光禄大夫を加ふ。三年を経て、入りて尚書右丞と為り、卒す。弟弈も、亦清白を伝へ、御史中丞を歴て王事に死す、『忠義伝』に見ゆ。弈の子杞は、徳宗朝位宰輔に至り、別に伝有り。

原文子奐,早修整,歴任皆以淸白聞。開元中,爲中書舍人、御史中丞、陜州刺史。二十四年,玄宗幸京師,次陜城頓,審其能政,於廳事題贊而去,曰:「專城之重,分陜之雄。人多惠愛,性實謙沖。亦既利物,在乎匪躬。斯爲國寶,不墜家風。」尋除兵部侍郎。天寶初,爲晉陵太守。時南海郡利兼水陸,環寶山積,劉巨鱗、彭杲相替爲太守、五府節度,皆坐贓鉅萬而死。乃特授奐爲南海太守。遐方之地,貪吏斂跡,人用安之。以爲自開元已來四十年,廣府節度淸白者有四:謂宋璟、裴伷先、李朝隱及奐。中使市舶,亦不幹法。加銀靑光祿大夫。經三年,入爲尚書右丞,卒。弟弈,亦傳淸白,歴御史中丞而死王事,見《忠義傳》。弈子杞,德宗朝位至宰輔,別有傳。

源乾曜

原文源乾曜

源乾曜は、相州臨漳の人なり。隋の比部侍郎師の孫なり。父直心は、高宗時に司刑太常伯と為り、事に坐して嶺南に配流されて卒す。乾曜進士を挙げ、景雲中、累遷して諫議大夫と為る。時に久しく公卿百官の三九射礼を廃す。乾曜上疏して曰く「夫れ聖王の天下を教ふるは、必ず礼を制して以て人情を正しむ。人情正しければ則ち家に孝し、国に忠なり。此の道替へず、以て理まる所以なり。故に君子三年礼を為さざれば、礼必ず壊れ;三年楽を為さざれば、楽必ず崩る。窃に古の士を択ぶは、先づ射礼を観て以て和容の義を明らかにし、一時の楽を取らざるなり。夫れ射は、正邪を別ち、徳行を観、祭祀に中り、寇戎を辟く。古の先哲の王、莫か遞襲せざるは無し。臣窃に見るに数年已来、射礼便ち廃れ、或は縁りて所司費を惜しむに、遂に大射をして虧け有らしむ。臣愚かに以為へらく、費やす所は財、全うする所は礼なり。故に孔子云ふ『爾れ其の羊を愛す、我れ其の礼を愛す。』と。今乾坤再び辟き、日月貞明す。臣大射の儀、春秋廃せられず、聖人の教、今古常に行はれんことを望む。則ち天下幸甚なり。」乾曜尋いで出でて梁州都督と為る。

原文源乾曜,相州臨漳人。隋比部侍郎師之孫也。父直心,髙宗時爲司刑太常伯,坐事配流嶺南而卒。乾曜舉進士,景雲中,累遷諫議大夫。時久廢公卿百官三九射禮,乾曜上疎曰:「夫聖王之教天下也,必制禮以正人情,人情正則孝於家,忠於國。此道不替,所以理也。所以君子三年不爲禮,禮必壞;三年不爲樂,樂必崩。竊以古之擇士,先觀射禮,以明和容之義,非取一時之樂。夫射者,別正邪,觀德行,中祭祀,辟寇戎。古先哲王,莫不遞襲。臣竊見數年已來,射禮便廢,或縁所司惜費,遂令大射有虧。臣愚以爲所費者財,所全者禮。故孔子云:『爾愛其羊,我愛其禮。』今乾坤再辟,日月貞明,臣望大射之儀,春秋不廢,聖人之教,今古常行,則天下幸甚。」乾曜尋出爲梁州都督。

開元初、邠王府の僚吏に法を犯す者有り。上左右に令して堪く王府長史と為る者を求めしむ。太常卿姜皎、乾曜の公清吏幹有るを薦む。因りて召見して語らふ。乾曜神気清爽にして、対答皆倫序有り。上甚だ之を悦び、乃ち少府少監を拝し、兼ねて邠王府長史と為す。尋いで戸部侍郎に遷り、兼ねて御史中丞と為る。幾無く、転じて尚書左丞と為る。四年冬、擢げて黄門侍郎・同紫微黄門平章事を拝す。旬日、姚元之と倶に政事を知るを罷む。

原文開元初,邠王府僚吏有犯法者,上令左右求堪爲王府長史者,太常卿姜皎薦乾曜公淸有吏幹,因召見與語。乾曜神氣淸爽,對答皆有倫序,上甚悅之,乃拜少府少監,兼邠王府長史。尋遷戸部侍郎、兼御史中丞。無幾,轉尚書左丞。四年冬,擢拜黃門侍郎、同紫微黃門平章事。旬日,與姚元之倶罷知政事。

時に東都に行幸し、乾曜を以て京兆尹と為し、仍りて京師留守と為す。乾曜の政は寛簡を存し、厳ならずして理まる。嘗て仗内の白鷹有り、因りて縱して遂に所在を失す。上京兆に令して切に之を捕へしむ。俄かに野外に於て之を獲る。其の鷹叢棘に掛かって死す。官吏罪を得るを懼れ、相顧みて色を失ふ。乾曜徐かに曰く「事邂逅有り、死も亦常の理なり。主上仁明、当に此を以て罪を置かざるべし。必ず其れ戾を獲ば、吾自ら之を当つべし、懼るるを須ひず。」遂に入り自ら失旨の罪を請ふ。上一切之を問はず。衆咸く乾曜の事に臨みて懾せず、而して能く過を引いて己に在るに伏す。京兆に在ること三年、政令一の如し。

原文時行幸東都,以乾曜爲京兆尹,仍京師留守。乾曜政存寬簡,不嚴而理。嘗有仗内白鷹,因縱遂失所在,上令京兆切捕之。俄於野外獲之,其鷹掛於叢棘而死,官吏懼得罪,相顧失色。乾曜徐曰:「事有邂逅,死亦常理,主上仁明,當不以此置罪。必其獲戾,吾自當之,不須懼也。」遂入自請失旨之罪,上一切不問之,衆咸伏乾曜臨事不懾,而能引過在己也。在京兆三年,政令如一。

八年春、復た黄門侍郎・同中書門下三品と為り、尋いで銀青光禄大夫を加へ、侍中に遷る。久しくして、上疏して曰く「臣窃に見るに形要の家並びに京職を求め、俊乂の士多く外官に任ず。王道平に分く、此の如くに合はず。臣が三男倶に是れ京任なり。二人を出だして外官とし、以て均平の道に葉はんことを望む。」上之に従ふ。是に於て其の子河南府参軍弼を改めて絳州司功と為し、太祝絜を鄭尉と為す。因りて制を下して曰く「源弼等の父枢近に在りて、深く謙挹を惟ひ、代官の咸く列するを恐れ、時才の未だ序せざるを慮り、率先して庶僚とし、是の譲徳を崇む。既に其の職を外するを請ひ、復た資を降して以て授く。『伝』云はざる乎、『晋の範宣子譲む、其の下皆譲む。』『晋国の人は、是に於て大和す。』と。道の或は行はるる、仁豈に遠からんや。」因りて文武百僚父子兄弟三人並びに京司に任ずる者に令し、任して自ら通容せしめ、資次に依りて処分せしむ。是に由りて公卿子弟京官より出でて外なる者百余り。俄かに又上書する者有り、以て「国の執政は、其の休戚を同じくす。若し稍くも崇寵を加へずんば、何を以て其の心を尽くすを責めん。」と為す。十年十一月、勅して中書門下に実封三百戸を共に食ましむ。乾曜及び張嘉貞より始まる。

原文八年春,復爲黃門侍郎、同中書門下三品,尋加銀靑光祿大夫,遷侍中。久之,上疎曰:「臣竊見形要之家並求京職,俊乂之士多任外官,王道平分,不合如此。臣三男倶是京任,望出二人與外官,以葉均平之道。」上從之,於是改其子河南府參軍弼爲絳州司功,太祝絜爲鄭尉。因下制曰:「源弼等父在樞近,深惟謙挹,恐代官之咸列,慮時才之未序,率先庶僚,崇是讓德,既請外其職,復降資以授。《傳》不云乎:『晉範宣子讓,其下皆讓。』『晉國之人,於是大和。』道之或行,仁豈云遠!」因令文武百僚父子兄弟三人並任京司者,任自通容,依資次處分,由是公卿子弟京官出外者百餘人。俄又有上書者,以爲「國之執政,同其休戚,若不稍加崇寵,何以責其盡心?」十年十一月,敕中書門下共食實封三百戸,自乾曜及張嘉貞始也。

乾曜は後に東封に扈従し、尚書左丞相に拝され、なお侍中を兼ねた。乾曜は政事に在ること十年、時に張嘉貞・張説が相次いで中書令となり、乾曜は敢えて彼らと権を争わず、毎事皆これを推譲した。李元紘・杜暹が政事を知るに及んで、乾曜は遂に参議することなく、ただ唯諾して署名するのみであった。初め、乾曜は姜皎の推薦によって、遂に擢用された。皎が罪を得て、張嘉貞に排擠されるに及んでも、乾曜は竟にこれを救わず、議者はこれを以て譏った。十七年夏、侍中兼任を停める。その秋、太子少師に遷るが、祖の名が師であるため固辞し、乃ち太子少傅に拝され、安陽郡公に封ぜられた。十九年、駕が東都に幸するに当たり、乾曜は年老いて疾を病み、扈従に堪えずと辞し、因って京師に留まり疾を養った。この年冬卒す。詔して幽州大都督を贈り、上は洛陽らくよう城南門に於いて哀を挙げ、朝を輟むこと二日。

原文乾曜後扈從東封,拜尚書左丞相,仍兼侍中。乾曜在政事十年,時張嘉貞、張説相次爲中書令,乾曜不敢與之爭權,毎事皆推讓之。及李元纮、杜暹知政事,乾曜遂無所參議,但唯諾署名而已。初,乾曜因姜皎所薦,遂擢用;及皎得罪,爲張嘉貞所擠,乾曜竟不救之,議者以此譏焉。十七年夏,停兼侍中事。其秋,遷太子少師,以祖名師,固辭,乃拜太子少傅,封安陽郡公。十九年,駕幸東都,乾曜以年老辭疾,不堪扈從,因留京養疾。是年冬卒,詔贈幽州大都督,上於洛城南門舉哀,輟朝二日。

乾曜の従孫 光裕

原文乾曜從孫 光裕

乾曜の従孫光裕もまた令誉有り。歴職清謹にして、諸弟を撫するに友義を以てし、聞こえた。初め中書舎人となり、楊滔・劉令植等と共に『開元新格』を刪定す。刑部・戸部二侍郎、尚書左丞を歴任し、累遷して鄭州刺史となり、良吏と称された。尋いで卒す。

原文乾曜從孫光裕,亦有令譽。歴職淸謹,撫諸弟以友義聞。初爲中書舍人,與楊滔、劉令植等同刪定《開元新格》。歴刑部戸部二侍郎、尚書左丞,累遷鄭州刺史,稱爲良吏。尋卒。

光裕の子 洧

原文光裕子 洧

光裕の子洧も亦早くより美称有り。閨門雍睦にして、士友に推され、清要の職を歴践す。天宝中、給事中・鄭州刺史・襄州刺史・本道採訪使となる。安禄山の反するに及び、既に東京を犯すと、乃ち洧を以て江陵郡大都督府長史・本道採訪防禦使・摂御史中丞とし、兵部郎中徐浩を襄州刺史・本州防禦守捉使として以てこれを禦がしむ。洧は鎮に至りて卒す。

原文光裕子洧,亦早有美稱。閨門雍睦,士友推之,歴踐淸要。天寶中,爲給事中、蔸鄭州刺史、襄州刺史、本道采訪使。及安祿山反,既犯東京,乃以洧爲江陵郡大都督府長史、本道采訪防禦使、攝御史中丞,以兵部郎中徐浩爲襄州刺史、本州防禦守捉使以禦之。洧至鎭卒。

李元紘

原文李元紘

李元紘、その先は滑州の人、世に京兆の万年に居す。本姓は丙氏。曾祖粲、隋の大業中に屯衛大将軍。関中に賊起こるに属し、煬帝は粲に令して京城以西二十四郡に往き盗賊を逐捕せしむ。粲は士衆を撫循し、甚だその心を得たり。義旗関に入るに及び、粲はその衆を率いて帰附し、宗正卿に拝され、応国公に封ぜられ、姓を李氏と賜う。高祖こうそは之と旧有り、特ちに恩礼を蒙り、左監門大将軍に遷り、年老いたるを以て特ちに宮中に乗馬して検校するを令す。八十余歳にして卒す。諡して明と曰う。祖寛、高宗の時に太常卿となり、別に隴西郡公に封ぜらる。父道広、則天の時に汴州刺史となる。時に突厥及び契丹が河北を寇陷するに属し、兼ねて河南諸州の兵募を発し、百姓騒擾す。道広は寛猛折衷し、善政と称され、存収慰撫して、汴州のみ逃散せず。尋いで入りて殿中監・同鳳閣鸞台平章事となり、累封して金城県侯となる。卒し、秦州都督を贈られ、諡して成と曰う。

原文李元紘,其先滑州人,世居京兆之萬年。本姓丙氏。曾祖粲,隋大業中屯衞大將軍。屬關中賊起,煬帝令粲往京城以西二十四郡逐捕盜賊,粲撫循士衆,甚得其心。及義旗入關,粲率其衆歸附,拜宗正卿,封應國公,賜姓李氏。髙祖與之有舊,特蒙恩禮,遷爲左監門大將軍,以年老特令乘馬於宮中檢校。年八十餘卒,謚曰明。祖寬,髙宗時爲太常卿,別封隴西郡公。父道廣,則天時爲汴州刺史。時屬突厥及契丹寇陷河北,兼發河南諸州兵募,百姓騷擾。道廣寬猛折衷,稱爲善政,存收慰撫,汴州獨不逃散。尋入爲殿中監、同鳳閣鸞臺平章事,累封金城縣侯。卒,贈秦州都督,謚曰成。

元紘は少より謹厚なり。初め涇州司兵となり、累遷して雍州司戸となる。時に太平公主が僧寺と碾磑を争う。公主は方に恩を承け事を用い、百司皆その旨意を希う。元紘は遂に断じて僧寺に還す。竇懐貞が雍州長史たり、太平の勢を大いに懼れ、促して元紘に改断を令す。元紘は判後に大いに署して曰く、「南山は或いは改移すべし、此の判は終に揺動無からん」と。竟に正を執して撓まず、懐貞之を奪う能わず。俄かに好畤県令に転じ、潤州司馬に遷り、歴る所咸に声績有り。開元初、三遷して万年県令となり、賦役平允にして、厳しくせずして治まる。俄かに擢て京兆尹と為り、尋いで詔有りて元紘に三輔を疎決せしむ。諸王公権要の家は皆渠に縁りて磑を立て、以て水田を害す。元紘は吏人に令して一切之を毀たしめ、百姓大いに其の利を得たり。又工部・兵部・吏部三侍郎を歴任す。十三年、戸部侍郎楊易・白知愼が支度を失するに坐し、皆刺史として出される。上は宰臣及び公卿已下に令して精択し戸部に堪うる者をせしむ。多く元紘を薦むる者有り、将に戸部尚書を授けんとす。時に執政其の資浅きを以て、未だ超授に宜しからずとし、中大夫を加え、戸部侍郎に拝す。元紘は因って条奏して人間の利害及び時政の得失を以て之を奏す。上大いに悦び、因って衣一副・絹二百匹を賜う。明年、擢て中書侍郎・同中書門下平章事に拝す。頃くして、銀青光禄大夫を加えられ、爵を清水男と賜う。

原文元紘少謹厚。初爲涇州司兵,累遷雍州司戸。時太平公主與僧寺爭碾硙,公主方承恩用事,百司皆希其旨意,元紘遂斷還僧寺。竇懷貞爲雍州長史,大懼太平勢,促令元紘改斷,元紘大署判後曰:「南山或可改移,此判終無搖動。」竟執正不撓,懷貞不能奪之。俄轉好畤令,遷潤州司馬,所歴咸有聲績。開元初,三遷萬年縣令,賦役平允,不嚴而理。俄擢爲京兆尹,尋有詔令元紘疎決三輔。諸王公權要之家,皆縁渠立硙,以害水田,元紘令吏人一切毀之,百姓大獲其利。又歴工部、兵部、吏部三侍郎。十三年,戸部侍郎楊〓易、白知愼坐支度失所,皆出爲刺史。上令宰臣及公卿已下精擇堪爲戸部者,多有薦元紘者,將授以戸部尚書,時執政以其資淺,未宜超授,加中大夫,拜戸部侍郎。元紘因條奏人間利害及時政得失以奏之,上大悅,因賜衣一副、絹二百匹。明年,擢拜中書侍郎、同中書門下平章事。頃之,加銀靑光祿大夫,賜爵淸水男。

元紘の性清儉なり。既に政事を知るに及び、稍々奔競の路を抑え、務めて進まんとする者頗る之を憚る。時に初めて京司の職田を廃し、議者は関輔に屯を置き、以て倉稟を実せんことを請う。元紘建議して曰く、「軍国は同じからず、中外は制を異にす。若し人閑に役無く、地棄てて墾らず、閑人を発して棄地を耕し、饋運を省いて軍糧を実せば、ここに於いて屯田有り、其れ益と為ること多し。今百官の退く所の職田は、諸県に散在し、聚むべからず。百姓の所有する私田は、皆力自ら耕墾し、取るべからず。若し屯田を置かば、即ち須らく公私相換え、丁夫を征発すべし。征役すれば則ち業は家に於いて廃し、庸を免すれば則ち賦は国に於いて闕く。内地に屯を置くは、古未だ有らざる所、得て失を補わず、或いは恐らく未だ可ならざるべし」と。其の議遂に止む。

原文元紘性淸儉。既知政事,稍抑奔競之路,務進者頗憚之。時初廢京司職田,議者請於關輔置屯,以實倉稟。元紘建議曰:「軍國不同,中外異制。若人閑無役,地棄不墾,發閑人以耕棄地,省饋運以實軍糧,於是乎有屯田,其爲益多矣。今百官所退職田,散在諸縣,不可聚也。百姓所有私田,皆力自耕墾,不可取也。若置屯田,即須公私相換,征發丁夫,征役則業廢於家,免庸則賦闕於國。内地置屯,古所未有,得不補失,或恐未可。」其議遂止。

先ず是れより、左庶子呉兢旧に史官を任じ、『唐書』一百巻・『唐春秋』三十巻を撰す。其の書未だ成らず、丁憂して職を罷む。是に至り、上疏して其の功を終わらんことを請う。詔有りて特ちに集賢院に就きて其の書を修成せしむ。張説の致仕するに及び、又家に在りて史を修めしむ。元紘奏して曰く、「国史は、人君の善悪を記し、国政の損益を記し、一字の褒貶、千載之を称し、前賢の難くする所、事容易に非ず。今張説は家に在りて史を修め、呉兢は又集賢に在りて撰録す。遂に国の大典をして数処に散ぜしむ。且つ太宗は別に史館を置き、禁中に在り。是れ其の職を重んじ其の事を秘する所以なり。望むらくは説等を勒して史館に就き参詳撰録せしめば、則ち典冊憑る有り、旧章墜つること無からん」と。之に従い、乃ち説及び呉兢に詔して並びに史館に就き修撰せしむ。

原文先是,左庶子呉兢舊任史官,撰《唐書》一百巻、《唐春秋》三十巻,其書未成,以丁憂罷職。至是,上疎請終其功,有詔特令就集賢院修成其書。及張説致仕,又令在家修史。元紘奏曰:「國史者,記人君善惡,國政損益,一字褒貶,千載稱之,前賢所難,事匪容易。今張説在家修史,呉兢又在集賢撰録,遂令國之大典,散在數處。且太宗別置史館,在於禁中,所以重其職而秘其事也。望勒説等就史館參詳撰録,則典冊有憑,舊章不墜矣。」從之,乃詔説及呉兢並就史館修撰。

元紘は政事に在ること累年、第宅を改めず、僕馬弊劣にして、未だ嘗て改飾せず、得る所の封物は皆親族に散ず。右丞相宋璟嘗て之を嘉嘆し、毎に人に謂いて曰く、「李侍郎は宋遙の美才を引き、劉晃の貪冒を黜け、貴く国相と為りて、家に儲積無し。雖も季文子の徳、何を以てか之に加えん」と。後に杜暹と多く異同有り、情遂に叶わず、相執奏する者有るに至る。上悦ばず、是れ由りて政事を知ることを罷め、曹州刺史として出され、疾を以て官を去る。久しくして、戸部尚書に拝され、仍ち致仕を聴す。二十一年疾瘳え、起きて太子詹事と為り、旬日にして卒す。太子少傅を贈られ、諡して文忠と曰う。

原文元紘在政事累年,不改第宅,僕馬弊劣,未曾改飾,所得封物,皆散之親族。右丞相宋璟嘗嘉嘆之,毎謂人曰:「李侍郎引宋遙之美才,黜劉晃之貪冒,貴爲國相,家無儲積。雖季文子之德,何以加也!」後與杜暹多所異同,情遂不叶,至有相執奏者,上不悅,由是罷知政事,出爲曹州刺史,以疾去官。久之,拜戸部尚書,仍聽致仕。二十一年疾瘳,起爲太子詹事,旬日而卒。贈太子少傅,諡曰文忠。

杜暹

原文杜暹

杜暹は、濮州濮陽の人である。父の承志は、則天の初年に監察御史となった。時に懷州刺史の李文暕は皇枝の近属であるため、讎人に訴えられ、承志はこれを推し出した。俄かに文暕は罪を得て、承志は坐して貶せられ、方義令を授けられた。累ねて転じて天官員外郎となった。羅織の事が起こると、承志は恐懼し、遂に疾を称して官を去り帰り、家に卒した。暹の高祖より暹に至るまで、五代同居し、暹は特に恭謹で、継母に事えて孝を以て聞こえた。初め明経に挙げられ、婺州参軍を補し、秩満して将に帰らんとするに、州吏は紙万余張を以てこれを贈ったが、暹はただ百を受け、余は悉くこれを還した。時に州僚の別れる者、見て嘆じて曰く、「昔し清吏は一大銭を受けしが、復た何の異なることがあろうか」と。俄かに鄭尉を授けられ、復た清節を以て知られしめた。華州司馬の楊孚は公直の士であり、深くこれを賞重した。尋いで孚は遷って大理正となり、暹は公事に坐して法司に下り罪を結ばんとしたが、孚は人に謂って曰く、「若しこの尉が罪を得れば、則ち公清の士は何を以て勧めようか」と。特にこれを執政に薦し、これにより擢びて大理評事を拝した。

原文杜暹,濮州濮陽人也。父承誌,則天初爲監察御史。時懷州刺史李文暕以皇枝近屬,爲讎人所告,承誌推出之。俄而文暕得罪,承誌坐貶,授方義令。累轉天官員外郎。既羅織事起,承誌恐懼,遂稱疾去官而歸,卒於家。自暹髙祖至暹,五代同居,暹尤恭謹,事繼母以孝聞。初舉明經,補婺州參軍,秩滿將歸,州吏以紙萬餘張以贈之,暹惟受一百,餘悉還之。時州僚別者,見而嘆曰:「昔淸吏受一大錢,復何異也!」俄授鄭尉,復以淸節見知。華州司馬楊孚,公直士也,深賞重之。尋而孚遷大理正,暹坐公事下法司結罪,孚謂人曰:「若此尉得罪,則公淸之士何以勸矣?」特薦之於執政,由是擢拜大理評事。

開元四年、監察御史に遷り、仍って磧西に往きて屯を覆す。会に安西副都護の郭虔瓘と西突厥可汗の史献・鎮守使の劉遐慶等が叶わず、更に相い執って奏し、詔して暹にその事実を按ぜしめた。時に暹は既に涼州に回り至り、詔を承けて復た磧西に往き、因って突厥騎施に入り、以て虔瓘等の犯状を究めんとした。蕃人は金を賫して以て遺わんとしたが、暹は固く辞して受けず。左右曰く、「公遠く絶域に使いし、蕃人の情を失うべからず」と。暹は已むを得ずこれを受け、幕下に埋め、既に去って境を出でて、乃ち牒を移して令してこれを収取せしめた。蕃人大いに驚き、磧を度ってこれを追ったが、及ばずして止んだ。暹は累ねて遷って給事中となり、継母の憂いに丁して職を去った。十二年、安西都護の張孝嵩が遷って太原尹となると、或る者が暹を薦めて安西に往き使わしめんとした。蕃人はその清慎に伏し、深くこれを思慕したので、乃ち情を奪いて擢びて黄門侍郎を拝し、安西副大都護を兼ねた。暹は単騎で職に赴いた。明年、于闐王の尉遅眺が陰に突厥及び諸蕃国と結び図って叛乱を謀ったが、暹は密かにその謀を知り、兵を発して捕らえてこれを斬り、並びにその党与五十余人を誅し、更に君長を立て、于闐は遂に安んじた。暹は功を以て特に光禄大夫を加えられた。暹は安西に在ること四年、将士を綏撫し、勤苦を憚らず、甚だ夷夏の心を得た。

原文開元四年,遷監察御史,仍往磧西覆屯。會安西副都護郭虔瓘與西突厥可汗史獻、鎭守使劉遐慶等不葉,更相執奏,詔暹按其事實。時暹已回至涼州,承詔復往磧西,因入突厥騎施,以究虔賫等犯狀。蕃人賫金以遺,暹固辭不受。左右曰:「公遠使絶域,不可失蕃人情。」暹不得已受之,埋幕下,既去出境,乃移牒令收取之。蕃人大驚,度磧追之,不及而止。暹累遷給事中,丁繼母憂去職。十二年,安西都護張孝嵩遷爲太原尹,或薦暹往使安西,蕃人伏其淸愼,深思慕之,乃奪情擢拜黃門侍郎,兼安西副大都護。暹單騎赴職。明年,於闐王尉遲眺陰結突厥及諸蕃國圖爲叛亂,暹密知其謀,發兵捕而斬之,並誅其黨與五十餘人,更立君長,於闐遂安。暹以功特加光祿大夫。暹在安西四年,綏撫將士,不憚勤苦,甚得夷夏之心。

十四年、詔して暹を同中書門下平章事とし、仍って中使を遣わしてこれを迎えしめた。及び謁見すると、また絹二百匹・馬一匹・宅一区を賜った。後に李元紘と叶わず、政事を知るを罷め、出でて荊州大都督府長史となった。また歴て魏州刺史・太原尹となった。二十年、上北都に幸し、暹を戸部尚書に拝し、便に令して扈従して京に入らしめた。行幸して東都すると、詔して暹を京留守と為した。暹は因って当番の衛士を抽き、三宮を繕修し、城隍を増峻し、躬自巡検し、未だ嘗て休懈しなかった。上聞いてこれを嘉し、敕書を賜って曰く、「卿素より清直を以てし、兼ねて勤幹たり。自ら居守を委ねられ、毎事多能にし、政は官僚を粛し、恵は黎庶に及ぶ。城隍宮室、事に随い修営し、且つ成功有り、人力を疲さず。甚だ善し甚だ善し、朕が懐を慰むるなり」と。俄かに李林甫に代わって礼部尚書となり、累ねて封ぜられて魏県侯となった。二十八年、病卒し、年六十余、詔して尚書右丞相を贈られた。

原文十四年,詔暹同中書門下平章事,仍遣中使往迎之。及謁見,又賜絹二百匹、馬一匹、宅一區。後與李元紘不葉,罷知政事,出爲荊州大都督府長史。又歴魏州刺史、太原尹。二十年,上幸北都,拜暹爲戸部尚書,便令扈從入京。行幸東都,詔暹爲京留守。暹因抽當番衞士,繕修三宮,增峻城隍,躬自巡檢,未嘗休懈。上聞而嘉之,賜敕書曰:「卿素以淸直,兼之勤幹。自委居守,毎事多能,政肅官僚,惠及黎庶。城隍宮室,隨事修營,且有成功,不疲人力。甚善甚善,慰朕懷也。」俄代李林甫爲禮部尚書,累封魏縣侯。二十八年,病卒,年六十餘,詔贈尚書右丞相。

暹は家に在りて孝友し、異母弟の昱を愛撫すること甚だ厚かった。然れども素より学術無く、毎たび朝に談議するに当たり、浅近に渉った。常に公清勤倹を己が任と為し、時に亦た矯情してこれを為した。弱冠にして便た自ら誓って親友の贈遺を受けず、以てその身を終えた。及び卒すと、上甚だこれを悼惜し、中使を遣わして就き家にその喪事を視せしめ、内より絹三百匹を出して以てこれを賜った。尚書省及び故吏の賻贈する者、その子の孝友はその素約に遵い、皆拒んで受けなかった。太常は謚して「貞粛」と曰う。右司員外郎の劉同升・都官員外郎の韋廉は暹に忠孝の美有りとし、謚する所その行を尽くさずとし、建議してこれを駁した。太常博士の裴総は執して曰く、「杜尚書往つて墨縗を以て職事を受けしは、国に奉ずると云うと雖も、孝と為すべからず。請う旧に依って定めん」と。孝友また闕に詣り陳訴して上聞に達し、而して更に所司に詳定せしめ、竟に謚して貞孝と曰う。

原文暹在家孝友,愛撫異母弟昱甚厚。然素無學術,毎當朝談議,渉於淺近。常以公淸勤儉爲己任,時亦矯情爲之。弱冠便自誓不受親友贈遺,以終其身。及卒,上甚悼惜之,遣中使就家視其喪事,内出絹三百匹以賜之。尚書省及故吏賻贈者,其子孝友遵其素約,皆拒而不受。太常謚曰「貞肅」。右司員外郎劉同升、都官員外郎韋廉以暹有忠孝之美,所謚不盡其行,建議駁之。太常博士裴總執曰:「杜尚書往以墨缞受職事,雖云奉國,不得爲孝。請依舊爲定。」孝友又詣闕陳訴上聞,而更令所司詳定,竟謚曰貞孝。

韓休

原文韓休

韓休は、京兆長安の人である。伯父の大敏は、則天の初年に鳳閣舎人となった。時に梁州都督の李行褒が部人に誣告され、逆謀有りと云い、則天は大敏に命じて州に就き推究せしめた。或る者大敏に謂って曰く、「行褒は諸李の近属、太后の意はこれを除かんと欲し、忽ち若し旨を失わば、禍将に細ならず、身を謀らざるべからざるなり」と。大敏曰く、「豈に身の安を求めて人を非罪に陥れんや」と。竟に奏してこれを雪いだ。則天俄かに又御史を命じて重覆せしめ、遂にその罪を構成し、大敏は反を推して情を失うに坐し、反を知りて告げざると同じ罪とし、家に賜死した。父の大智は、官洛州司功に至った。

原文韓休,京兆長安人。伯父大敏,則天初爲鳳閣舍人。時梁州都督李行褒爲部人誣告,云有逆謀,則天令大敏就州推究。或謂大敏曰:「行褒諸李近屬,太后意欲除之,忽若失旨,禍將不細,不可不爲身謀也。」大敏曰:「豈有求身之安而陷人非罪!」竟奏雪之。則天俄又命御史重覆,遂構成其罪,大敏坐推反失情,與知反不告同罪,賜死於家。父大智,官至洛州司功。

休は早くより詞学有り、初め制挙に応じ、累ねて桃林丞を授けられた。又賢良に挙げられた。玄宗時に春宮に在り、親しく国政を問うと、休の対策は校書郎の趙冬曦と並びて乙第となり、擢びて左補闕を授けられた。尋いで主爵員外郎を判じ、歴て遷って中書舎人・礼部侍郎となり、制誥を知るを兼ね、出でて虢州刺史となった。時に虢州は地を以て両京の間に在り、駕が京及び東都に在るに当たり、並びに近州と為り、常に支税の草を被りて以て閑厩に納められた。休は奏請して余州に均配せんとし、中書令の張説これを駁して曰く、「若し独り虢州を免せば、即ち当に他郡に移すべく、牧守私恵を為さんと欲するも、国体固より依るべからず」と。又符を下してこれを許さず。休復た将に執奏せんとす、僚吏曰く、「更に奏すれば必ず執政の意に忤わん」と。休曰く、「刺史と為りて百姓の弊を救わずんば、何を以て政を為さん!必ず上に忤いて罪を得るとも、甘心する所なり」と。竟に執奏して免せしめられた。歳余りして、母の艱に以て職を去り、固く誠を陳して礼を終わらんことを乞う、制許した。服闋し、工部侍郎を除し、仍って制誥を知り、尚書右丞に遷った。

原文休早有詞學,初應制舉,累授桃林丞。又舉賢良。玄宗時在春宮,親問國政,休對策與校書郎趙冬曦並爲乙第,擢授左補闕。尋判主爵員外郎,歴遷中書舍人、禮部侍郎,兼知制誥,出爲虢州刺史。時虢州以地在兩京之間,駕在京及東都,並爲近州,常被支稅草以納閑廄。休奏請均配餘州,中書令張説駁之曰:「若獨免虢州,即當移向他郡,牧守欲爲私惠,國體固不可依。」又下符不許之。休復將執奏,僚吏曰:「更奏必忤執政之意。」休曰:「爲刺史不能救百姓之弊,何以爲政!必以忤上得罪,所甘心也。」竟執奏獲免。歳餘,以母艱去職,固陳誠乞終禮,制許之。服闋,除工部侍郎,仍知制誥,遷尚書右丞。

開元二十一年、侍中の裴光庭卒す、上は蕭嵩に令して朝賢を挙げ光庭の才に代わらしめんとし、嵩は盛んに休の志行を称し、遂に黄門侍郎・同中書門下平章事を拝した。休の性方直にして、進趨を務めず、及び拝せられ、甚だ当時の望に允った。俄かに万年尉の李美玉が罪を得、上は特に令してこれを嶺外に流さんとし、休進みて曰く、「美玉は卑位、犯す所又巨害に非ず、今朝廷に大姦有り、尚お去ること能わず、豈に大を捨てて小を取るを得んや!臣竊に見るに金吾大将軍の程伯献は、恩寵に依恃し、所在貪冒し、第宅輿馬、僭擬過縦す。臣請う先ず伯献を出し而して後ち美玉を罪せん」と。上初めこれを許さず、休固く争って曰く、「美玉微細なれども猶お容れず、伯献巨猾豈に問わざるを得んや!陛下若し伯献を出さずんば、臣即ち敢えて詔を奉じて美玉を流さず」と。上その切直を以て、これに従った。初め、蕭嵩は休の柔和にして制し易きを以て、故にこれを薦引した。休既に政事を知るや、多く嵩を折正したので、遂に休と叶わず。宋璟これを聞きて曰く、「韓休の乃ち能く是くの如くすを謂わざりき、仁者の勇なり」と。

原文開元二十一年,侍中裴光庭卒,上令蕭嵩舉朝賢以代光庭才,嵩盛稱休誌行,遂拜黃門侍郎、同中書門下平章事。休性方直,不務進趨,及拜,甚允當時之望。俄有萬年尉李美玉得罪,上特令流之嶺外,休進曰:「美玉卑位,所犯又非巨害,今朝廷有大姦,尚不能去,豈得舍大而取小也!臣竊見金吾大將軍程伯獻,依恃恩寵,所在貪冒,第宅輿馬,僭擬過縱。臣請先出伯獻而後罪美玉。」上初不許之,休固爭曰:「美玉微細猶不容,伯獻巨猾豈得不問!陛下若不出伯獻,臣即不敢奉詔流美玉。」上以其切直,從之。初,蕭嵩以休柔和易制,故薦引之。休既知政事,多折正嵩,遂與休不葉。宋璟聞之曰:「不謂韓休乃能如是,仁者之勇也。」

その年の夏、銀青光禄大夫を加えられた。十二月、工部尚書に転じ、政事を知るを罷めた。二十四年、太子少師に遷り、宜陽子に封ぜられた。二十七年病卒し、年六十八、揚州大都督を贈られ、謚して文忠と曰う。宝応元年、重ねて太子太師を贈られた。

原文其年夏,加銀靑光祿大夫。十二月,轉工部尚書,罷知政事。二十四年,遷太子少師,封宜陽子。二十七年病卒,年六十八,贈揚州大都督,謚曰文忠。寶應元年,重贈太子太師。

子の洽・洪・汯・滉は皆学問を尊び、風韻高雅であった。洽は天宝初めに殿中侍御史となり卒した。洪は司庫員外郎となった。洽の弟渾は大理司直に任ぜられた。御史大夫王鉷が法を犯し、その家を没収した際、洽の兄浩は万年主簿として、その資財を捕らえるにあたり、隠匿したことがあり、京兆尹鮮于仲通に発覚され、循州に配流された。洪・汯も連座して貶職された。後に赦令に遇い、洪は量移されて華州長史となった。安禄山の反乱に属し、西京が陥落すると、洪は賊に陥り、賊より官を授けられ、任用されようとしたが、洪は浩および汯・滉・渾と共に山谷に奔り、行在に投じようとした。谷口に至り、洪・浩・渾および洪の子四人は共に賊に捕らえられ、通衢で命を絶った。洪は交友を重んじ、当時名声が高く、見る者は涙をぬぐい、粛宗はその重臣の子でありながら、忠をもって死すことができたと聞き、太常卿を追贈した。浩には吏部郎中を、渾には太常少卿を追贈した。汯は上元年間に諫議大夫となった。滉・洄は別に伝がある。

原文子洽、洪、汯、滉,皆有學尚,風韻髙雅。洽,天寶初爲殿中侍御史卒。洪,爲司庫員外郎。洽弟渾,除大理司直。御史大夫王鉷犯法,籍沒其家,洽兄浩爲萬年主簿,捕其資財,有所容隱,爲京兆尹鮮于仲通所發,配流循州。洪、汯並坐貶職。後遇赦,量移洪爲華州長史。屬安祿山反,西京失守,洪陷於賊,賊授官,將見委任,洪與浩及汯、滉、渾同奔山谷,以投行在。至谷口,洪、浩、渾及洪子四人並爲賊所擒,並命於通衢。洪重交友,籍甚於時,見者掩涕,肅宗聞其重臣子,能以忠而死,贈太常卿。浩贈吏部郎中,渾贈太常少卿。汯,上元中爲諫議大夫。滉、洄,別有傳。

裴耀卿

原文裴耀卿

裴耀卿は、戸部尚書を追贈された守眞の子である。幼少より聡敏で、数歳にして文を作ることを解し、童子挙に及第した。弱冠にして秘書正字に任ぜられ、まもなく相王府典簽を補った。時に睿宗が藩王であったが、彼を非常に重んじ、掾の丘悦・文学の韋利器と交代で府中に直し、顧問に備えさせ、府中では学直と称された。睿宗が即位すると、国子主簿に任ぜられた。開元初年、累遷して長安令となった。長安には旧来、配戸和市の法があり、百姓はこれを苦しんでいた。耀卿が官に着くと、一切を蓄えのある家から出させ、あらかじめその代価を与え、よって奸佞の弊がなくなり、公私ともに非常に便利となった。在職二年、寛厳適中であった。去官する際、県人は非常に思い慕った。十三年、済州刺史となった。その年、車駕が東巡し、州は大路に当たり、道里は長く、戸口は寡弱であったが、耀卿は自ら条理を整え、科配を適切に行った。時に大駕が歴訪した十余州の中で、耀卿は知頓の最上と称された。また宣・冀二州刺史を歴任し、いずれも善政があり、入朝して戸部侍郎となった。

原文裴耀卿,贈戸部尚書守眞子也。少聰敏,數歳解屬文,童子舉。弱冠拜秘書正字,俄補相王府典簽。時睿宗在蕃,甚重之,令與掾丘悅、文學韋利器更直府中,以備顧問,府中稱爲學直。及睿宗升極,拜國子主簿。開元初,累遷長安令。長安舊有配戸和市之法,百姓苦之。耀卿到官,一切令出儲蓄之家,預給其直,遂無姦僦之弊,公私甚以爲便。在職二年,寬猛得中。及去官,縣人甚思詠之。十三年,爲濟州刺史。其年,車駕東巡,州當大路,道里綿長,而戸口寡弱,耀卿躬自條理,科配得所。時大駕所歴凡十餘州,耀卿稱爲知頓之最。又歴宣、冀二州刺史,皆有善政,入爲戸部侍郎。

二十年、礼部尚書・信安王李祎が詔を受けて契丹を討つにあたり、詔により耀卿を副使とした。まもなくまた耀卿に絹二十万匹を持たせて功績のある奚の官人に分賜し、部落において給付するよう命じた。耀卿は人に言った、「夷虜は貪残で、利を見て義を忘れる。今、財帛を持ち、寇の境に深入りするのは、備えをせざるを得ない」と。そこで期日より先に行かせ、分道互進させ、一朝にして給付を全て完了させた。時に突厥及び室韋が果たして兵を率いて険阻な地で待ち伏せ、襲撃を謀ったが、到着した時には既に耀卿は還っていた。

原文二十年,禮部尚書、信安王祎受詔討契丹,詔以耀卿爲副。俄又令耀卿賫絹二十萬匹分賜立功奚官,就部落以給之。耀卿謂人曰:「夷虜貪殘,見利忘義,今賫持財帛,深入寇境,不可不爲備也。」乃令先期而往,分道互進,一朝而給付並畢。時突厥及室韋果勒兵邀險,謀劫襲之,比至而耀卿已還。

その冬、京兆尹に遷った。明年の秋、霖雨が農作物を害し、京城では穀物が高騰した。上将に東都に幸するにあたり、独り耀卿を召して人を救う術を問うと、耀卿は答えて言った。

原文其冬,遷京兆尹。明年秋,霖雨害稼,京城穀貴。上將幸東都,獨召耀卿問救人之術,耀卿對曰:

臣は聞く、前代の聖王も時に憂害があり、改めて恵沢を施し、国を活かし人を済わし、これにより蒼生は徳を仰ぎ、史冊に美を書かれたと。伏して考えるに、陛下の仁聖は極めて深く、庶政を憂い勤められ、少しでも飢乏があれば、情を降して哀れみ憐れみ、自ら支計を親しくし、その危急を救われる。上玄が降りて鑑みられ、さらに福祚を延ばされるであろう。これは小災によって聖徳が増輝する所以である。今、既に大駕が東巡され、百官が扈従する。太倉及び三輔に先に積貯したものは、且つ現存するものに従って重臣を発し分道して賑給すれば、計算上一二年を支えることができる。東都からさらに漕運を広げ、関輔を充実させる。少し充実するのを待って、車駕が西還されれば、事は成らざるはない。臣は考えるに、国家の帝業は本来京師にあり、万国が朝宗し、百代不易の地である。ただ秦中の地は狭く、収粟多くなく、もし水旱に遇えば、直ちに匱乏する。往時の貞観・永徽の際は、禄稟の数少なく、毎年の転運は一二十万石を超えず、用いるに足り、これにより車駕は久しく安居を得た。今、国用は漸く広く、漕運は前の数倍であるが、支給に猶及ばない。陛下が数度東都に幸されるのは、貯積に就くためであり、国の大計として、労苦を憚らず、ただ人を憂うるがために行われるのであって、故に往かざることを欲するのではない。もしさらに陜運を広げ、粟を支えて京に入れ、倉稩に常に三二年の糧があれば、水旱を憂うることはない。今天下の輸丁は約四百万人、毎丁が百文を支出し、五十文を営窖等の用に充て、司農及び河南府・陜州に貯納してその費用に充てる。租米はそれぞれ遠近に随い、任せて自ら陸送の費用を出して東都に送納させる。都から陜に至る河路は艱険で、陸送を用いる以上、広く致す由もない。もし河漕を開通し、陸を水に変えれば、支えるに余裕があり、動けば万計に盈つ。且つ河南の租船は水を待って進み、呉人は河漕に不便であるため、所在で停留し、日月が経つにつれ、隠盗が生ずる。臣は望む、流れに沿って順次倉を置くことを。

原文臣聞前代聖王,亦時有憂害,更施惠澤,活國濟人,由是蒼生仰德,史冊書美。伏以陛下仁聖至深,憂勤庶政,小有饑乏,降情哀矜,躬親支計,救其危急。上玄降鑒,當更延福祚,是因有小災而增輝聖德也。今既大駕東巡,百司扈從,太倉及三輔先所積貯,且隨見在發重臣分道賑給,計可支一二年。從東都更廣漕運,以實關輔。待稍充實,車駕西還,即事無不濟。臣以國家帝業,本在京師,萬國朝宗,百代不易之所。但爲秦中地狹,收粟不多,倘遇水旱,便即匱乏。往者貞觀、永徽之際,祿稟數少,毎年轉運不過一二十萬石,所用便足,以此車駕久得安居。今國用漸廣,漕運數倍於前,支猶不給。陛下數幸東都,以就貯積,爲國大計,不憚劬勞,只爲憂人而行,豈是故欲不往。若能更廣陜運,支粟入京,倉稟常有三二年糧,即無憂水旱。今天下輸丁約有四百萬人,毎丁支出錢百文,五十文充營窖等用,貯納司農及河南府、陜州以充其費。租米則各隨遠近,任自出腳送納東都。從都至陜,河路艱險,既用陸腳,無由廣致。若能開通河漕,變陸爲水,則所支有餘,動盈萬計。且河南租船候水始進,呉人不便河漕,由是所在停留,日月既淹,遂生隱盜。臣望沿流相次置倉。

上はその言を深く然りとした。まもなく黄門侍郎・同中書門下平章事に任ぜられ、転運使を充てた。語は『食貨志』にある。凡そ三年、七百万石を運び、脚銭三十万貫を省いた。ある者が耀卿に省いた脚銭を進上して功利を明らかにするよう勧めた。耀卿は言った、「これは公卿の盈縮の利であって、これをもって寵を求めるべきではない」と。そこで奏上して所司の和市・和糴等の銭に充てた。

原文上深然其言。尋拜黃門侍郎、同中書門下平章事,充轉運使,語在《食貨志》。凡三年,運七百萬石,省腳錢三十萬貫。或説耀卿請進所省腳錢,以明功利。耀卿曰:「此蓋公卿盈縮之利耳,不可以之求寵也。」乃奏充所司和市、和糴等錢。

明年、侍中に遷った。二十四年、尚書左丞相に任ぜられ、政事を知ることを罷め、累封して趙城侯となった。時に夷州刺史楊浚が贓を犯して処死とされ、詔令により杖六十、古州に配流とされた。耀卿は上疏して諫めて言った。

原文明年,遷侍中。二十四年,拜尚書左丞相,罷知政事,累封趙城侯。時夷州刺史楊浚犯贓處死,詔令杖六十,配流古州。耀卿上疎諫曰:

伏して考えるに、聖恩は天が覆う如く、仁は庶類を育み、凡そ死罪に属する者も、市朝に屍をさらすことを欲せず、その性命を全うし、流竄するのみである。これにより政は刑措を致し、獄に冤人なく、曠古以来、この美はなかった。臣愚かには、生を全うし死を免れることは、誠に至化であり、恥ありて且つ格つき、将来を訓えるものであると考える。もし未だ安からざる点があれば、敢えて緘默しない。臣は考えるに、刺史・県令は諸吏と稍々異なり、人の父母として、風化の瞻る所であり、一旦その本部の長官となれば、即ち終身敬意を致すに合う。決杖は五刑の末であり、只ち抶撲徒隸の間に施されるもので、官蔭が稍々高ければ、即ち鞭撻を免れる。今、決杖をもって死を贖うのは、誠に既に優れた処置ではあるが、体を解きて笞を受けることは、事頗る辱めである。法が死に至るのは天下共通であり、刑が辱めに至るのは或いは恥ずべきことである。況んや本州刺史は百姓が崇める所であり、一朝その人吏に対し、背脊に杖を加え、屈挫拘執されるのを見れば、人は或いは哀れみ憐れみ、免死の恩を忘れ、且つ傷心の痛みがあり、恐らくは官長を敬い風俗を勧める意に非ざるであろう。又、雑犯死罪には杖刑がなく、奏報して三覆し、然る後に行決する。今は時を選ばず覆さず、決杖して便ち発する。倘や獄が未だ尽きず、又は暑熱に耐えず、杖により或いは死すれば、即ちその処分を促し、時に順うことを得ない。生かそうとして、却ってその命を夭折させ、又恐らくは聖明の寬宥の意に非ざるであろう。前後頻りに州県におり、或いは雑犯により人を決する際、毎に大暑盛夏の時には決杖により多く死に、秋冬以後には全うする者がある。伏して望む、凡そ刺史・県令がその本部において決杖し、且つ夏暑生長の時に定める杖刑は、並びに乞う停減することを。即ち陛下の好生の徳に副い、死者に皆再生の恩があるであろう。

原文伏以聖恩天覆,仁育庶類,凡死罪之屬,不欲屍諸市朝,全其性命,流竄而已。所以政致刑措,獄無冤人,曠古以來,未有斯美。臣愚以爲全生免死,誠爲至化,有恥且格,爲訓將來。茍有未安,不敢緘默。臣以爲刺史、縣令,與諸吏稍別,人之父母,風化所瞻,一爲本部長官,即合終身致敬。決杖者,五刑之末,只施於抶撲徒隸之間,官廕稍髙,即免鞭撻。令決杖贖死,誠則已優,解體受笞,事頗爲辱。法至於死,天下共之,刑至於辱,或有所恥。況本州刺史,百姓所崇,一朝對其人吏,背脊加杖,屈挫拘執,人或哀憐,忘其免死之恩,且有傷心之痛,恐非敬官長勸風俗之意。又雜犯死罪,無杖刑,奏報三覆,然後行決。今非時不覆,決杖便發,倘獄或未盡,又暑熱不耐,因杖或死,即是促其處分,不得順時。將欲生之,卻夭其命,又恐非聖明寬宥之意。前後頻在州縣,或縁雜犯決人,毎大暑盛夏之時,決杖多死,秋冬已後,至有全者。伏望凡刺史、縣令於本部決杖及夏暑生長之時,所定杖刑,並乞停減。即副陛下好生之德,於死者皆有再生之恩。

間もなく特進の蓋嘉運が突騎施を破り功を立てて帰還すると、詔して河西・隴右両節度使を加え、なお吐蕃を経略することを命じた。嘉運は恩寵を受けるや、日夜酒宴にふけり、時を定めず軍に赴いた。耀卿は密かに上疏して言うには、「伏して見るに蓋嘉運は功を立て賊を破り、さらに両軍を委ねられ、勇果の才をもって、戦勝の勢いを承けています。吐蕃の小醜は、殲滅するに足りません。しかし臣が近ごろ彼と同班となり、その挙措を観察しますに、精勁勇烈で誠実さは確かにありますが、言葉の調子は誇り高く、恐らく事を成し難いでしょう。莫敖が蒲騷の役で敗れたのは、挙趾がやや高かったからであり、『春秋』はこれを懲戒として記しています。彼に驕敵の色があることを恐れ、臣はひそかに憂えています。秋に入って辺境を防ぐには、日月がやや迫っており、人吏と接対するには、その宜しきを識る必要があります。今、辺境の軍を慰撫しようとしており、出発の日を言わず、もし事に臨んで初めて赴けば、人吏は彼を識らず、一時の決断にはなりますが、恐らくは制勝の万全の道とはなりません。況や兵は未だ訓練せず、礼法を知らず、人は未だ恵みを懐かず、士は未だ心を同じくせず、一時に命を忘れさせ、少選の間に厳刑を畏れさせようと求め、威圧によって進ませ、それによって功を立てたとしても、恐らくは師を律をもって出し、久長の義には叶わないでしょう。また万の人の性命は、将軍の決断にかかっており、已むを得ずこれを行い、兇門を穿って即ち路に就くものです。今、朝夕酒宴にふけり、優渥さが余っているのは、恐らくも人を愛し国を憂うるの意ではなく、察しないわけにはいきません。もし交代ができないのであれば、速やかに進路につかせ、なお聖恩を乞い、厳命をもって励まされることを望みます」。疏が奏上されると、上は嘉運を促して軍に赴かせたが、ついに功なくして帰還した。

原文俄而特進蓋嘉運破突騎施立功還,詔加河西、隴右兩節度使,仍令經略吐蕃。嘉運既承恩寵,日夕酣宴,不時赴軍。耀卿密上疎曰:「伏見蓋嘉運立功破賊,更委兩軍,以勇果之才,承戰勝之勢,吐蕃小醜,不足殲夷。然臣近日與其同班,觀其舉措,精勁勇烈,誠則有餘,言氣矜誇,恐難成事。莫敖敗於蒲騷之役,舉趾稍髙,《春秋》書之爲懲誡。恐其有驕敵之色,臣竊憂之。入秋防邊,日月稍逼,接對人吏,須識其宜。今將撫邊軍,未言發日,若臨事始去,人吏未識,雖決在一時,恐將非制勝萬全之道。況兵未訓練,不知禮法,人未懷惠,士未同心,求其忘性命於一時,憚嚴刑於少選,縱威逼而進,因而立功,恐非師出以律,久長之義。又萬人性命,決在將軍,不得已而行之,鑿兇門而即路。今酣宴朝夕,優渥有餘,亦恐非愛人憂國之意,不可不察。若不可回換,即望速遣進途,仍乞聖恩,勗以嚴命。」疎奏,上乃促嘉運赴軍,竟以無功而還。

天宝元年、尚書右僕射に改められ、まもなく左僕射に転じた。一年で薨去し、六十三歳、太子太傅を追贈され、諡して文献といった。子の綜は吏部郎中となった。綜の子は佶である。

原文天寶元年,改爲尚書右僕射,尋轉左僕射。一歳薨,年六十三,贈太子太傅,謚曰文獻。子綜,吏部郎中。綜子佶。

耀卿の孫、佶。

原文耀卿孫 佶

佶は字を弘正といい、幼くして文を作ることができた。弱冠にして進士に挙げられ、校書郎を補し、判に入って高等となり、藍田尉を授けられた。時に詔があり畿内諸県に命じて奉天城を築かせたが、時に厳郢が京兆尹であり、政は峻暴を尚び、これに朝旨が甚だ迫っていたため、尹の命令は風霆の如く急であった。本曹の尉韋重規はその室が妊娠中で病気であったが、郢の暴を畏れ、事を以て免れることを敢えてしなかった。佶は代わりを請い、役事に過ちなく、当時これを義とした。徳宗が南狩すると、佶は行在所に詣で、拾遺に拝され、補闕に転じた。李懷光が河中で叛くと、朝廷は含垢を以て意としようとしたが、佶は抗議して討伐を請い、上は深くこれを器とし、前席して慰勉した。三たび遷って吏部員外郎となり、駕部郎中・兵部郎中を歴任し、諫議大夫に遷った。時に黔中観察使韋士宗が惨酷に下を馭し、夷獠に逐われたので、佶を以てこれに代えさせると、酋渠は自ら化した。その後、瘴毒に侵され、堅く入覲を請い、同州刺史に拝された。征入されて中書舎人となり、尚書右丞に遷った。時に兵部尚書李巽が塩鉄使を兼ね、使局を本行に置こうとし、経構が半ばに及んだが、佶が拝命すると、堅く執って不可とし、遂に撤去させた。巽は恩を恃んで強かったが、時に佶の操守を重んじ、就いて吏部侍郎に拝した。疾を以て国子祭酒に除かれ、まもなく工部尚書に遷り致仕した。元和八年に卒し、六十二歳、吏部尚書を追贈された。佶は清勁温敏で、凡そ交わりを定めた者は、時に第一流と称された。鄭餘慶と特に相善くし、佶の歿後、餘慶は朋友の服を行い、搢紳はこれを美とした。

原文佶,字弘正,幼能屬文。弱冠舉進士,補校書郎,判入髙等,授藍田尉。時有詔命畿内諸縣城奉天,時嚴郢爲京兆,政尚峻暴,加以朝旨甚迫,尹正之命,急如風霆。本曹尉韋重規其室方娠而疾,畏郢之暴,不敢以事故免。佶因請代,役無愆程,當時義之。德宗南狩,佶詣行在,拜拾遺,轉補闕。李懷光以河中叛,朝廷欲以含垢爲意,佶抗議請討,上深器之,前席慰勉。三遷吏部員外,歴駕部兵部郎中,遷諫議大夫。會黔中觀察使韋士宗慘酷馭下,爲夷獠所逐,俾佶代之,酋渠自化。其後爲瘴毒所侵,堅請入覲,拜同州刺史。征入爲中書舍人,遷尚書右丞。時兵部尚書李巽兼鹽鐵使,將以使局置於本行,經構已半,會佶拜命,堅執以爲不可,遂令徹之。巽恃恩而強,時重佶之有守,就拜吏部侍郎。以疾除國子祭酒,尋遷工部尚書致仕。元和八年卒,年六十二,贈吏部尚書。佶淸勁温敏,凡所定交,時稱爲第一流。與鄭餘慶特相友善,佶歿後,餘慶行朋友之服,搢紳美之。

史臣が曰く。

原文史臣曰

史臣が曰く、魏知古、盧懷愼、源乾曜、李元紘、杜暹、韓休、裴耀卿は、皆器能を蘊え、咸に宰輔の位に居た。或いは心に啓沃を存し、或いは志に薦賢に在り、或いは愛子を出して外官とし、或いは屯田を関輔に止め、或いは蕃人の賂を受けず、或いは堅く伯献の姦を劾し、或いは広く漕渠を開いて国用を充てた。これらは皆事を立て功を立て、嘉尚するに足る者である。盧、李、杜の三君子は、また清白を以て簡書に美を垂れ、公孫弘の流れである。乾曜は職機密に当たり、是非する所なく、祿を保ち身を保ち、彼の相たるを用いんや。

原文史臣曰:魏知古、盧懷愼、源乾曜、李元紘、杜暹、韓休、裴耀卿,悉蘊器能,咸居宰輔。或心存啓沃,或志在薦賢,或出愛子爲外官,或止屯田於關輔,或不受蕃人之賂,或堅劾伯獻之姦,或廣漕渠以充國用:此皆立事立功,有足嘉尚者也。盧、李、杜三君子,又以淸白垂美簡書,公孫弘之流也。乾曜職當機密,無所是非,持祿保身,焉用彼相?

賛。

原文贊

賛して曰く、盧、魏、乾曜は、違を弼け賢を進む。裴、韓、李、杜は、財を遠ざけ姦を劾す。簡書に事を書して汗し、清風肅然たり。万歳の後、その名刊せられず。

原文贊曰:盧、魏、乾曜,弼違進賢。裴、韓、李、杜,遠財劾姦。汗簡書事,淸風肅然。萬歳之後,其名不刊。