旧唐書 巻九十七 列伝第四十七 劉幽求 鍾紹京 郭元振 張説

旧唐書

巻九十七 列伝第四十七 劉幽求 鍾紹京 郭元振 張説

劉幽求

劉幽求は冀州武強の人である。聖暦年間、制挙に応じて閬中尉に任ぜられたが、刺史が礼を尽くさなかったため、官を棄てて帰った。久しくして朝邑尉を授けられた。初め、桓彦範・敬暉らは張易之兄弟を誅したが、ついに武三思を殺さなかった。幽求は桓・敬に言うには、「三思がなお存命であれば、公らはついに葬る地も得られぬ。もし早く図らねば、臍を噛んでも及ばぬことを恐れる」と。桓・敬らはその言に従わず、後に果たして三思に誣告され、嶺外にて死した。

韋庶人が簒逆を行わんとした時、幽求は玄宗とひそかに謀ってこれを誅し、苑総監鍾紹京・長上果毅麻嗣宗及び太平公主の子薛崇暕らと夜に禁中に入り討ち平らげた。この夜に下した制勅百余道は、皆幽求の出でしところである。功により中書舎人に抜擢され、機務に参与することを命ぜられ、中山県男の爵を賜い、実封二百戸を食んだ。翌日、またその二子に五品官を授け、祖父・父ともに刺史を追贈された。

えい宗が即位すると、銀青光禄大夫を加えられ、尚書右丞を行い、なお政事を知り、徐国公に進封され、実封は前の分と合わせて五百戸に加えられ、物千段・奴婢二十人・宅一区・地十頃・馬四匹を賜い、金銀雑器を加えられた。景雲二年、戸部尚書に遷り、政事知を罷めた。一月余りして吏部尚書に転じ、侍中に抜擢され、璽書を降して曰く、「頃者、王室造らず、中宗厭代し、外戚専政し、奸臣国を擅にし、社稷を傾けんとし、幾くんぞ鼎を遷さんとす。朕躬と王公とは、皆禍難に及ばんとす。卿は危きを見て奮い起こし、変に在りて能く通じ、儲君を翊賛し、義士を協和し、元悪を殄殲し、凶徒を放殛す。我が国家の復存するは、まさにこれに頼る。その功甚だ茂し、朕用て嘉とす。故に卿に衡軸を委ね、卿に茅土を胙う。然れども征賦未だ広からず、寵錫なお軽し。昔、西漢封を行い、更に多戸を択び、東京賞を定め、復た大邑を増す。故に卿に実封二百戸を加賜し、旧の七百戸と兼ねる。夫れ高岸谷と為り、長河帯の如くとも、子々孫々、国を伝えて絶えざらしむ。又以て卿は躯を忘れて難に殉ず、宜しく恩栄有るべし。故に特だ卿の十死罪を免し、併せて諸れ金鉄に書き、後に伝えしむ。卿そのこの功業を保ち、永く国楨と作る、美ならずや」と。

先天元年、尚書右僕射・同中書門下三品に拝され、国史を監修した。幽求は初め自ら功が朝臣の右に在ると謂い、左僕射を志し求め、兼ねて中書令を領せんとした。俄かに竇懐貞が左僕射となり、崔湜が中書令となると、幽求は心甚だ平らかでなく、言色に形われた。湜はまた太平公主に托附し、逆乱を謀らんとした。幽求は右羽林将軍張暐とともに羽林兵をもってこれを誅することを請い、暐に密かに玄宗に奏せしめて曰く、「宰相の中に崔湜・崔羲有り、俱に太平公主の進用する所、方計を作すを見る。その事軽からず。殿下若し早く謀らざれば、必ず大患と成らん。一朝事意外に出ずれば、太上皇何を以てか安んぜん。古人云う、『断つべくして断たざれば、反ってその乱を受く』と。唯急ぎこの賊を殺すことを請う。劉幽求は已に臣と共に謀計を作り定め訖る。身を以てこの事を正し、死に赴くこと帰るが如からんことを願う。臣既に禁兵を職典す。若し殿下の命を奉ぜば、当に即時に除翦すべし」と。上深く然りと為す。暐はまたその謀を侍御史鄧光賓に泄らす。玄宗大いに懼れ、遽かにその状を列上す。睿宗幽求らを詔獄に下し、法官に推鞫せしむ。法官奏す、幽求らは疏を以て親を間う、罪死に当たると。玄宗屡々救いて免れしめ、乃ち幽求を封州に流し、暐を峰州に流す。

歳余りして、太平公主ら伏誅せらる。その日詔を下して曰く、「劉幽求は風雲玄感し、川嶽粹霊す。学は九流を綜べ、文は三変を窮む。義を以て事に臨み、精能日を貫き、忠を以て謀を成し、用いること水を投ぐるが若し。茂勛は艱難の際に立ち、嘉話は啓沃の初めに盈つ。讜直を存して顧みず、奸邪の忌む所と為る。釁萌やや露わに、譖端潜かに発つ。元宰逐われ見え、讒人多し。既に群兇を殄し、方に大化を宣べ、期に政を経始に問い、載せ賢を蘿蔔に登す。旧に依り金紫光禄大夫・守尚書左僕射・知軍国事・監修国史・上柱国・徐国公と為すべく、なお旧に依り七百戸に還封し、併せて錦衣一襲を賜う」と。

開元初め、尚書左右僕射を左右丞相と改め、乃ち幽求に尚書左丞相を授け、黄門監を兼ねしむ。未だ幾ばくもあらず、太子少保を除き、政事知を罷む。姚崇素よりこれを嫉忌し、乃ち奏言す、幽求は散職に郁怏し、兼ねて怨言有りと。睦州刺史に貶授し、その実封六百戸を削る。歳余りして、稍々杭州刺史に遷る。三年、桂陽郡刺史に転じ、道中憤恚して卒す。年六十一。礼部尚書を贈られ、諡して文献と曰う。睿宗廟庭に配享す。建中三年、重ねて司徒を贈る。

鍾紹京

鍾紹京は虔州贛の人である。初め司農録事と為り、書を工みて鳳閣に直り、則天の時、明堂の門額・九鼎の銘及び諸宮殿の門榜は、皆紹京の題する所なり。景龍中、苑総監と為る。玄宗の韋氏を誅するに、紹京は夜中に戸奴及び丁夫を帥いて従う。事成るに及び、その夜紹京を銀青光禄大夫・中書侍郎に拝し、機務に参与せしむ。翌日、中書令に進拝し、光禄大夫を加えられ、越国公に封ぜられ、実封五百戸を賜い、物二千段・馬十匹を賜う。紹京は既に朝に当たり用事し、情に恣に賞罰し、甚だ時人の悪む所と為る。俄かにまた疏を抗して官を譲る。睿宗薛稷の言を納れ、乃ち戸部尚書に転じ、蜀州刺史に出づ。

玄宗即位し、復た召して戸部尚書に拝し、太子詹事に遷る。時に姚崇素より紹京の為人を悪み、因りて奏す、紹京発言怨望すと。綿州刺史に左遷す。事に坐するに及び、累ねて琰川尉に貶し、その階爵及び実封を尽く削る。俄かにまた歴遷して温州別駕と為る。開元十五年、朝に入り、因りて垂泣して奏して曰く、「陛下豈に疇昔の事を記せざるや。何ぞ忍びて臣を荒外に棄て、永く闕庭を見えざらしむ。且つ当時功を立てし人、今並びに亡歿す。唯だ臣衰老独り在り。陛下豈に垂湣せざらんや」と。玄宗之が為に惘然とし、即日銀青光禄大夫・右諭徳に拝す。久しくして少詹事に転ず。年八十余にして卒す。紹京は雅に書画古跡を好み、二王及び褚遂良の書を聚めて数十百巻に至る。建中元年、重ねて太子太傅を贈る。

郭元振

郭元振は魏州貴郷の人である。進士に挙げられ、通泉尉を授けられる。任侠気を遣い、細務を意に介せず、前後その部の千余人を掠め売りて賓客に遺し、百姓これを苦しむ。則天その名を聞き、召見して語り、甚だこれを奇とす。時に吐蕃和を請う。乃ち元振に右武衛鎧曹を授け、使として吐蕃に聘せしむ。吐蕃の大将論欽陵、四鎮の兵を去り、十姓の地を分たんことを請う。朝廷元振を使わして因りてその事宜を察せしむ。元振還り、上疏して曰く、

臣聞く、利は或いは害を生じ、害も亦た利を生ずと。国家の消息し難き者は、唯だ吐蕃と默啜とのみ。今、吐蕃は和を請い、默啜は命を受く、是れ将に中国に大利せんとするなり。若しこれを図ること審らかならざれば、則ち害必ずこれに随う。今、欽陵は十姓を分裂せんと欲し、四鎮の兵を去らんとす、此れ誠に動静の機にして、軽々に挙措すべからざるなり。今若し直に其の善意を塞がんとすれば、恐らくは辺患の起こること、必ず前に甚だしからん。若し鎮は抜くべからず、兵は抽くべからずとすれば、則ち宜しく計を以てこれを緩め、事を藉りてこれを誘い、彼の和望を未だ絶えざらしむべし。然らざれば則ち其の悪意も亦た頓に生ずることを得ざるなり。且つ四鎮の患は遠く、甘・涼の患は近し、取捨の計、実に宜しく深く図るべし。今、国の外患者は、十姓・四鎮是れなり。内患者は、甘・涼・瓜・肅是れなり。関・隴の人、久しく屯戍に事え、向う三十年、力用竭きたり。脱せば甘・涼に不虞あらんや、豈に広く調発に堪えんや。夫れ国を善く為す者は、当に先ず内を料りて以て外に敵し、外を貪りて以て内を害せず、然る後に夷夏晏安し、昇平を保つべし。欽陵の云うが如く「四鎮諸部は界を接し、漢の侵竊を懼るるが故に是の請い有り」と、此れ則ち吐蕃の要する所なり。然れども青海・吐渾は蘭・鄯に密邇し、比年漢の患と為るは、実に茲の輩に在り、斯れ亦た国家の要する所なり。今宜しく欽陵に報じて云うべし、「国家は四鎮を吝しむに非ず、本より此れを置くは以て蕃国の要を扼し、蕃国の力を分かち、併兵して東侵することを得ざらしむるなり。今これを蕃に委ねば、力強くして東擾を為し易し。必ず実に東侵の意無くんば、則ち漢の吐渾諸部及び青海の故地を還し、即ち俟斤の部落も亦た吐蕃に還すべし」と。此くの如くせば、則ち欽陵の口を塞ぐに足り、而して事は未だ全く絶えざるなり。若し欽陵小に乖かば、則ち曲は彼に在り。又た西辺諸国、款附歳久しく、其の情義を論ずれば、豈に吐蕃と同日に言うべきや。今其の利害を知らず、其の情実を審らかにせず、遥かに分裂せば、亦た恐らくは彼の諸国の意を傷つけん、制馭の長算に非ざるなり。

則天、これに従う。

又た上言して曰く、「臣、吐蕃の百姓は徭戍に倦み久しきを揣るに、皆早く和せんことを願う。其の大将論欽陵は四鎮の境を分かち、兵を統べて専制せんと欲するが故に、款を帰するを欲せざるなり。若し国家毎歳和親の使を発し、而して欽陵常に命に従わざれば、則ち彼の蕃の人、欽陵を怨むこと日を追うて深く、国の恩を望むこと日を追うて甚だしく、設い広く醜徒を挙げんと欲すとも、固より亦た難し。斯れ亦た離間の漸にして、必ず其の上下をして俱に情阻を懐かしむるを得べし」と。則天、甚だこれを然りとす。是より数年の間、吐蕃の君臣果たして相猜貳し、因りて大将論欽陵を誅す。其の弟の贊婆及び兄の子の莽布支並びに来降す。則天、仍って元振に河源軍大使夫蒙令卿と騎を率いて以てこれを接せしむ。後に吐蕃の将麹莽布支兵を率いて入寇す。涼州都督唐休けい兵を勒してこれを破る。元振其の謀に参預し、功を以て主客郎中に拝せらる。

大足元年、涼州都督・隴右諸軍州大使に遷る。先ず是れ、涼州の封界は南北四百余里に過ぎず、既に突厥・吐蕃に逼り、二寇頻りに歳を追って奄に城下に至り、百姓これを苦しむ。元振始めて南境の破口に和戎城を置き、北界の磧中に白亭軍を置き、其の要路を控え、乃ち州境を一千五百里に拓く。是より寇虜復た更に城下に至ること無し。元振又た甘州刺史李漢通に令して屯田を開置せしめ、其の水陸の利を尽くさしむ。旧くは涼州の粟斛は数千に售ぐるに至り、漢通の収率するに及びての後、数年豊稔し、乃ち一匹の絹に粟数十斛に至り、軍糧を積みて数十年を支う。元振は風神偉壮にして、而して撫禦に善くし、涼州に在ること五年、夷夏畏慕し、令行きて禁止せられ、牛羊野に被り、路に遺物を拾わず。

神龍中、左驍衞將軍に遷り、兼ねて安西大都護を検校す。時に西突厥の首領烏質勒、部落強盛にして、塞に款きて和を通ず。元振其の牙帳に就きて軍事を計会す。時に天大雪ふり、元振は帳前に立ち、烏質勒と言議す。須臾にして、雪深く風凍え、元振未だ嘗て足を移さず。烏質勒は年老い、寒苦に勝えず、会罷えて死す。其の子の娑葛は元振の故に其の父を殺すとし、兵を勒してこれを攻めんと謀る。副使御史中丞解琬其の謀を知り、元振を勧めて夜遁せしむ。元振曰く、「吾は誠信を以て人に待つ、何の疑懼すべき所か有らん。且つ深く寇庭に在り、遁れて将に安くか適かん」と。乃ち安らかに帳中に臥す。明日、親しく虜帳に入り、これを哭すること甚だ哀しく、弔贈の礼を行ふ。娑葛乃ち其の義に感じ、復た元振と通好し、因りて使を遣わして馬五千匹及び方物を進む。制して元振を以て金山道行軍大総管と為す。

先ず是れ、娑葛は阿史那闕啜忠節と和せず、屡々相侵掠す。闕啜の兵眾寡弱にして、漸く能く支えず。元振奏して闕啜を追って入朝宿衞せしめ、其の部落を移して瓜・沙等州に入れて安置せんことを請う。制これに従う。闕啜行きて播仙城に至り、経略使・右威衞將軍周以悌と相遇う。以悌これに謂ひて曰く、「国家の以て高班厚秩を以て君を待つ所以の者は、君の統摂する部落、下に兵眾有るが故なり。今軽身して入朝せば、是れ一の老胡のみ。朝に在るの人、誰か復た喜んで見んや。唯だ官資を得難きのみに非ず、亦た性命人の在るを恐る。今、宰相に宗楚客・紀處訥有り、並びに権を専らにして事を用う。何ぞ厚く二公に貺せずして、留まりて行かざることを請わざる。仍って安西の兵を発し、並びに吐蕃を引きて以て娑葛を撃ち、阿史那獻を求めて可汗と為し、以て十姓を招き、郭虔瓘をして往きて抜汗那に甲馬を征せしめて以て軍用を助けしむ。既に讎を報じ、又た其の部落を存することを得ん。此くの如くせば、入朝して人の制を受くるに比べ、豈に復た同じからんや」と。闕啜其の言を然りとし、便ち兵を勒して于闐の坎城を攻め陥れ、金宝及び生口を獲、人を遣わして間道より賂を宗・紀に納る。元振其の謀を聞き、遽かに上疏して曰く、

かつて吐蕃が争い求めたのは、ただ十姓と四鎮のことであり、国家はこれを捨て与えることができず、それゆえ和を通ずることができなかった。今、吐蕃が侵擾しないのは、国家の和信を顧みて来ないのではなく、ただその国中の諸豪族および泥婆羅門などの属国が自ら離反しているからである。故に贊普はみずから南征に赴き、賊の庭で身を滅ぼし、国中大いに乱れ、嫡庶が競って立ち、将相が権を争い、自ら相屠滅した。兼ねて人畜が疲弊し、財力が困窮し、人事も天時も、ともに満足すべき状態ではない。それゆえ志を屈して、しばらく漢と和を共にしているのであり、本心から十姓・四鎮のことを忘れ去ることができるわけではない。もし国力が豊かになった後は、必ずや小事を争い、都合のよい機会を捉えて和を絶ち、その醜悪な徒党を放って、互いに侵擾し合うであろう。これは必然の計略である。今、忠節は国家の大計を論ぜず、ただ吐蕃のために郷導の主人となろうとしている。四鎮の危機は、恐らくここから始まるであろう。近ごろ默啜の侵陵に縁り、対応すべきところに四鎮の兵士を兼ねて派遣したが、歳月が久しく貧弱であり、その勢いでは忠節のために経略することはできず、突騎施を憐れんだわけではない。忠節は国家の内外の意を体せず、別に吐蕃を求めている。吐蕃が志を得れば、忠節はその掌握の中にあり、どうして再び漢に仕えることができようか。往年、吐蕃は国に対して恩も力もなかったのに、なお十姓・四鎮を争おうとした。今もし効力を尽くして恩を立てた後、あるいは于闐・疏勒の分割を請うたなら、どのような道理でこれを抑えようとするのか分からない。また、その国中の諸蛮および婆羅門などの国は今離反しているが、突然漢兵の派遣を請い、その討伐を助けようとするなら、これまたどのような言葉でこれを拒絶しようとするのか分からない。このゆえに、古の賢人は皆、夷狄が妄りに恩恵を与えることを望まなかった。その力を欲しないのではなく、後の求め請いが飽くことを知らず、ますます中国の事を増すことを恐れたからである。故に臣愚かには、吐蕃の力を用いることは、実に便利ではないと思う。また、阿史那献を請うのは、献らが並びに可汗の子孫であり、来れば十姓を招き脅すことができるからではないか。しかし、献の父元慶、叔父の仆羅、兄の俀子、並びに斛瑟羅および懐道は、皆可汗の子孫ではないか。かつて四鎮では他匐十姓が不安定であったため、元慶を冊立して可汗としたが、ついに十姓を招き脅すことができず、かえって元慶を賊に没させ、四鎮はことごとく陥落した。近年、忠節は斛瑟羅および懐道をともに可汗とすることを請うたが、これまた十姓を招き脅すことができず、かえって碎葉が数年包囲され、兵士が飢餓に陥った。また、吐蕃も近年、俀子および仆羅、並びに抜布を相次いで可汗に冊立したが、これまた十姓を招くことができず、皆自ら滅び去った。なぜか。これらの子孫は下に恵みを施す才能がなく、恩義がもともと絶えているため、人心が帰附せず、来た者が既に招き携えることができず、ただ四鎮と却って禍根を生じるだけである。則ち、可汗の子孫を冊立しても、十姓を招き脅す策は得られないことが分かる。今、献の恩義を推し量れば、その父兄よりもさらに隔たり遠く、これまで威恩を樹立していないのであれば、どうして即座に人心を懸け附かせることができようか。もし自ら兵を挙げ、力勢で取ることができるならば、十姓を招き脅すことができ、必ずしも可汗の子孫を得る必要はない。また、郭虔瓘を抜汗那に入らせ、甲冑と馬を徴収して軍用に充てようとするが、往年、虔瓘はすでに忠節とともに擅に抜汗那に入り、甲冑と馬を徴収した。臣は疏勒でこれを尋ねたが、一つの甲冑も軍に入ったとは聞かず、抜汗那の胡人は侵擾に耐えかね、南で吐蕃と結び、即座に俀子を率いて四鎮を重ねて擾乱した。また、虔瓘がかつて入った際、抜汗那の四面には賊がおらず、恣意に侵吞し、まるで無人の境を行くが如くであったが、それでもなお俀子を引き合いに出して蔽いとした。今ここには娑葛という強寇があり、虔瓘らが西行することを知れば、必ず相救いを請うであろう。胡人は内に堅固な城塁を築き、突厥は外に伺い邀撃する。必ずや虔瓘らが往年のように恣意に吞噬することができず、内外敵を受けて自ら危険な道に陥り、徒らに賊と隙を結び、四鎮を不安にさせるだけであると知る。臣愚かにはこれを推し量っても、やはり良策ではないと思う。

上疏したが、省みられなかった。

楚客らは既に闕啜の賄賂を受け取っていたので、摂御史中丞の馮嘉賓を派遣して節を持たせて闕啜を安撫させ、御史の呂守素に四鎮を処置させ、璽書を持たせて便りに元振に報じさせることを建議した。牛師獎を安西副都護に任じ、甘州・涼州以西の兵募を率いさせ、兼ねて吐蕃を征伐して娑葛を討たせた。娑葛の進馬使である娑臘が楚客の計略を知り、馳せ戻って娑葛に報告した。娑葛はその日に兵五千騎を出して安西から、五千騎を撥換から、五千騎を焉耆から、五千騎を疏勒から出撃させた。当時、元振は疏勒におり、河口の柵で動けなかった。闕啜は計舒河口で嘉賓を待ち受けていたが、娑葛の兵が掩至し、闕啜を生け捕りにし、嘉賓らを殺害した。呂守素は僻城に至り、また害された。また、牛師獎を火焼城で殺害し、ついに安西を陥落させ、四鎮への道は絶たれた。

楚客はまた、周以悌を元振に代えて衆を統率させ、元振を征召して陥れようと奏請した。阿史那献を十姓可汗とし、軍を焉耆に置いて娑葛を取らせようとした。娑葛は元振に書を遺して言った。「漢と本来悪しきことはなかった。ただ闕啜を仇としているだけである。ところが宗尚書は闕啜の金を取り、枉くも奴の部落を破ろうとし、馮中丞・牛都護が相次いで来た。奴らはどうして坐して死を受けようか。また、史献が来ようとしていると聞く。徒らに軍州を擾乱させるだけで、恐らく寧日はないであろう。大使に商量処置を乞う。」元振は娑葛の状を奏上した。楚客は怒り、元振に異図があると奏上した。元振はその子の鴻に間道を通らせてその状を奏上させ、以悌はついに罪を得て、白州に流された。再び元振を以悌に代え、娑葛の罪を赦し、十四姓可汗に冊立した。元振は奏上して、西土が未だ寧かでないので、事は安撫に資するため、逗留して敢えて京師に帰らないと称した。

ちょうど楚客らが誅殺され、睿宗が即位すると、征召されて太仆卿に拝され、銀青光禄大夫を加えられた。景雲二年、同中書門下三品となり、宋璟に代わって吏部尚書となった。間もなく、兵部尚書に転じ、館陶県男に封ぜられた。当時、元振の父の愛は年老いて郷里におり、就いて済州刺史に拝され、なお致仕を聴された。その冬、韋安石・張説らとともに知政事を罷免された。先天元年、朔方軍大総管となり、初めて定遠城を築き、行軍の計略を集める所とした。これは今日に至るまで頼りにされている。翌年、再び同中書門下三品となった。蕭至忠・竇懐貞らが太平公主に附いて密かに順ならざることを謀った時、玄宗が羽林兵を発してこれを誅し、睿宗が承天門に登ると、元振はみずから兵を率いて侍衞した。事が定まり功を論じ、代国公に進封され、実封四百戸を食み、物一千段を賜った。また、御史大夫を兼ねさせ、節を持って朔方道大総管とし、突厥に備えさせたが、赴任しなかった。

玄宗が驪山で講武を行った時、軍容が整わないことを理由に、纛の下に坐らせ、斬って衆に示そうとした。劉幽求・張説が馬前で諫めて言った。「元振には翊賛の大功があります。たとえ罪があっても、原宥に従うべきです。」そこでこれを赦し、新州に流した。尋ねてまたその旧功を思い、起用して饒州司馬とした。元振は功勲を恃み、怏怏として志を得ず、道中で病没した。開元十年、太子少保を追贈された。文集二十巻がある。

張説

張説、字は道済、その先祖は范陽の人である。代々河東に居住し、近ごろまた河南の洛陽に家を移した。弱冠で詔挙に応じ、対策で乙第となり、太子校書を授けられ、累転して右補闕となり、『三教珠英』の編纂に預かった。久視年間、則天が三陽宮に幸した時、夏から秋にわたり、時に都に還らず、説は上疏して諫めて言った。

陛下は万乗の兵を屯め、離宮に幸して、暑さ退き涼しさ帰るも、未だ還幸の旨を降さず。愚臣固陋にして、良策に非ざるを恐れ、請う、陛下の為に其の不可を陳べん。三陽宮は洛城を去ること一百六十里、伊水の隔たり有り、崿阪の峻しき有り、夏を過ぎ秋に渉り、水潦方に積もり、道は壊れ山は険しく、転運を通ぜず、河は広くして梁無く、咫尺千里なり。扈従の兵馬、日々資給を費やし、雨連なれば弥旬、即ち周済し難し。陛下の太倉・武庫、並びに都邑に在り、紅粟利器、山丘の若く蘊む。奈何ぞ宗廟の上都を去り、山谷の僻処に安んぜんとする。是れ猶ほ剣戟を倒に持ち、人に鐏柄を示すが如く、臣窃に陛下の取らざるを為す。夫れ禍変の生ずるは、人の忽にする所に在り、故に曰く「安楽必ず誡めよ、行う所の悔い無かれ」と。此れ止むべからざる理の一なり。宮は成りて褊小にして、万方輻湊し、城を填め郭を溢れ、並鍤する所無し。居人を排斥し、蓬宿草次し、風雨暴かに至り、庇托を知らず、孤煢老病、衢巷に流転す。陛下人を作る父母たり、将に之を若之何せんとする。此れ止むべからざる理の二なり。池亭奇巧、上心を誘掖し、巒を削り観を起し、流を竭くして海を漲らし、俯して地脈を貫き、仰いで雲路を出だし、山川の気を易え、農桑の土を奪い、木石を延べ、斧斤を運び、山谷声を連ね、春夏輟まず。陛下を勧めて此れを作らしむる者は、豈に正人ならんや。『詩』に云う「人亦労し止み、汔かに小康すべし」と。此れ止むべからざる理の三なり。御苑東西二十里、出入り往来する所、雑人甚だ多く、外に墻垣局禁無く、内に榛藂谿谷有り、猛獸の伏する所、暴慝の憑む所なり。陛下往往軽く行き、警蹕粛ならず、蒙密を歴り、嶮巇に乗じ、卒然に逸獣狂夫有りて、左右を驚かし犯さば、豈に殆からざらんや。万全疑い無しと雖も、然れども人主の動き、易うべからざるなり。『易』に曰く「患いを思い予防せよ」と。願わくは陛下万姓の為に持重せられん。此れ止むべからざる理の四なり。今国家北に胡寇辺を覷い、南に夷獠騒僥す。関西小旱、耕稼是れ憂え;安東近く平らぎ、輸漕方に始まらんとす。臣願わくは陛下時に及びて軫を旋し、深く上京に居り、人を息めて農を展べ、徳を修めて遠きを来たらしめ、不急の役を罷め、無用の費を省かん。心を澄まし懐を淡くし、惟億万年、蒼蒼たる群生、幸甚ならざる莫し。臣自ら芻議を度るに、十も一に従わず。何となれば、盤遊の娛を沮み、林沚の玩を間え、遠図を規して近適を替え、後利を要して前歓を棄て、未だ明主の心を沃かずして、已に貴臣の意に戾る。然れども臣血誠を密奏して死を愛せざるは、陛下の言責の職に負わざらんことを願うのみ。軽く天威に触れ、地に伏して罪を待つ。

疏奏すれど省みられず。

長安初年、『三教珠英』を修め畢り、右史・内供奉に遷り、兼ねて考功貢挙事を知り、擢て鳳閣舎人に拝せらる。時に臨台監張易之其の弟昌宗と与に御史大夫魏元忠を構陥し、其の謀反を称し、説を引きて令し其の事を証せしむ。説御前に至り、声を揚げて元忠実に反せず、此れ是れ易之の誣構なりと。元忠是れにより誅を免れ、説は旨に忤うに坐し欽州に配流せらる。嶺外に歳余り在り。中宗即位し、召して兵部員外郎に拝し、累て工部侍郎に転ず。景龍年中、母憂に丁し職を去り、起復して黄門侍郎を授けらるるも、累表固く辞し、言甚だ切至なり、優詔方に之を許す。是の時風教紊類し、多く起復を以て栄と為すに、説は固く節を守り懇ろに辞し、竟に其の喪制を終え、大いに識者に称せらる。服終わり、復た工部侍郎と為り、俄に兵部侍郎を拝し、弘文館学士を加う。

睿宗即位し、中書侍郎に遷り、雍州長史を兼ぬ。景雲元年秋、譙王重福東都に於いて逆を構えて死す。留守枝党数百人を捕え系し、結構の状を考訊するも、時を経て決せず。睿宗説を令して往き其の獄を按ぜしむ。一宿にして重福の謀主張霊均・鄭愔等を捕獲し、尽く其の情状を得、自余枉く系禁せられたる者は、一切釈放す。睿宗之を労して曰く「卿の此の獄を按ずる、良善を枉げず、又罪人を漏らさざるを知る。卿の忠正に非ざれば、豈に能く此くの如くせんや」と。

玄宗東宮に在りし時、説は国子司業褚無量と俱に侍読と為り、深く親敬せらる。明年、同中書門下平章事に同じ、国史を監修す。是の歳二月、睿宗侍臣に謂ひて曰く「術者上言す、五日内に急兵宮に入らんと、卿等朕が為に之を備えよ」と。左右相顧みて能く対ふる莫く、説進みて曰く「此れ是れ讒人の設計にして、擬ひて東宮を揺動せんとするのみ。陛下若し太子をして国を監せしめば、則ち君臣の分定まり、自然に窺覦の路絶え、災難生ぜず」と。睿宗大いに悦び、即日制を下して皇太子に国を監せしむ。明年、又た制して皇太子に即帝位せしむ。俄に太平公主蕭至忠・崔湜等を引きて宰相と為し、説を以て己に附せざるを以て、転じて尚書左丞と為し、政事を知るを罷め、仍ち往きて東都留司せしむ。説既に太平等の陰に異計を懐くを知り、乃ち因りて使して佩刀を玄宗に献じ、請う先づ事を以て之を討たんことを、玄宗深く嘉し納る。至忠等誅せらるるに及び、征して中書令に拝し、燕国公に封じ、実封二百戸を賜う。其の冬、官名を改易し、紫微令を拝す。

則天末年より、季冬に潑寒胡戯を為し、中宗嘗て楼に御して之を観る。是に至り、蕃夷の朝に入るに因り、又た此の戯を作す。説上疏して諫めて曰く「臣聞く、韓宣魯に適き、周礼を見て嘆き;孔子斉に会し、倡優の罪を数う。列国此くの如し、況んや天朝においてをや。今外蕃請和し、使を選び朝謁す、望む所は礼楽を以て接し、兵威を以て示すに在り。戎夷と曰うと雖も、軽易すべからず、焉んぞ駒支の弁無く、由余の賢無からんを知らんや。且つ潑寒胡は典故未だ聞かず、裸体跳足、盛徳何をか観ん;水を揮い泥に投ず、容を失うこと斯に甚だし。法は魯礼に殊なり、褻は斉優に比す、恐らくは幹羽遠きを柔ぐるの義に非ず、樽俎衝を折するの礼に非ざらん」と。是より此の戯乃ち絶つ。

俄に姚崇の構うる所と為り、出でて相州刺史と為り、仍ち河北道按察使を充つ。俄に又た事に坐し左転して岳州刺史と為り、仍ち食する所の実封三百戸を停め、右羽林将軍に遷り、兼ねて幽州都督を検校す。開元七年、并州大都督府長史を検校し、天兵軍大使を兼ね、御史大夫を摂し、兼ねて国史を修め、仍ち史本を賫し軍に随ひ修撰す。八年秋、朔方大使王晙河曲の降虜阿布思等千余人を誅す。時に并州大同・横野等の軍に九姓同羅・抜曳固等の部落有り、皆震懼を懐く。説軽騎二十人を率い、旌節を持し直に其の部落に詣り、帳下に宿し、酋帥を召して以て慰撫す。副使李憲夷虜信じ難しと為し、軽く不測に渉るべからずとし、状を馳せて以て諫む。説報書して曰く「吾が肉は黄羊に非ざれば、必ず吃るを畏れず;血は野馬に非ざれば、必ず刺すを畏れず。士危きを見て命を致す、是れ吾が死に效うるの秋なり」と。是に於いて九姓義に感じ、其の心乃ち安んず。

九年四月、胡賊の康待賓が徒党を率いて反乱を起こし、長泉県を占拠し、自ら葉護と称し、蘭池等六州を攻め落とした。詔して王晙に兵を率いて討伐させ、また張説に経略を知らしめることを命じた。当時、叛胡は党項と連合し、銀城・連谷を攻め、倉糧を占拠しようとした。張説は馬歩一万を統率して合河関より出撃し、これを大いに破った。駱駝堰まで追撃すると、胡及び党項は自ら相殺し合った。夜の闇に阻まれて、胡は西に逃れて鉄建山に入り、残党は潰散した。張説は党項を招集し、その居住と生業を回復させた。副使の史献はこれに乗じて党項を誅殺し、その翻動の計略を絶つよう請うたが、張説は言った、「先王の道は、亡びるものを推し、存するものを固くする。もしことごとく誅殺すれば、これは天道に逆らうことである」と。そこで麟州を設置して、党項の余燼を安置するよう上奏した。その年、兵部尚書・同中書門下三品に任じられ、引き続き国史の編修にあたった。

翌年、また詔勅で張説を朔方軍節度大使とし、五城を巡視し、兵馬を処置させた。当時、康待賓の残党で慶州方渠の降胡である康願子が自ら可汗を称し、兵を挙げて反乱を起こし、監牧の馬を掠奪しようと謀り、西に黄河を渡って塞外に出ようとした。張説は進軍して討伐しこれを捕らえ、その家族を木盤山で捕獲し、都に送って斬首した。その徒党は悉く平定され、男女三千余人を捕獲した。ここにおいて河曲六州の残胡五万余口を許州・汝州・唐州・鄧州・仙州・豫州等に移配し、初めて河南の逆方千里の地を空しくした。張説は賊討伐の功により、また実封二百戸を賜った。これ以前より、辺境の鎮兵は常に六十余万であったが、張説は当時強寇がないとして、多くの兵士を必要とせず、二十余万を罷めるよう上奏した。玄宗は大いに疑いを抱いたが、張説は上奏して言った、「臣は久しく疆場におり、辺境の事情を詳しく知っております。軍将はただ自衛と雑使による私利を営むのみです。もし敵を防ぎ勝利を制するには、多くの閑冗を擁して農務を妨げる必要はありません。陛下もし疑われるならば、臣は一族百口をもって保証いたします。陛下の英明をもってすれば、四夷は畏服し、必ずや兵を減じて寇を招くことを慮るには及びません」と。上はこれに従った。

当時、番上する衛士は次第に貧弱となり、逃亡してほとんどいなくなっていた。張説はまた献策し、これらを一切罷め、別に強壮な者を召募して宿衛させ、色役を選ばず、優れた条例を定めれば、逃亡者は必ず争って応募してくるだろうと請うた。上はこれに従った。十日間で精兵十三万人を得て、諸衛に配属し、交代で上下させて京師を充実させた。これが後の彍騎である。

この年、玄宗は京に還ろうとしたが、そのまま并州に幸した。張説は進言して言った、「太原は国家の王業の起こった地であります。陛下が行幸され、威を振るい武を耀かし、併せて碑を建てて徳を記し、永く思う意を表されますように。もしそのまま京に入られるならば、河東を経由されます。そこには漢の武帝が脽上で後土を祀った祭祀があり、この礼は久しく欠けており、歴代誰も行うことができませんでした。願わくは陛下がこの墜ちた典を継ぎ、三農のために穀を祈られ、これこそが万姓の福であります」と。上はその言葉に従った。後土を祀る礼が終わると、張説は張嘉貞に代わって中書令となった。夏四月、玄宗自ら詔を下して言った、「動くこと直道を思い、累ねて献替の誠を聞く。言うこと諛わず、自ら謀猷の体を得る。政令は必ずその増損を待ち、図書はまたその刊削を藉る。才望兼ねて著しく、理をもって褒め昇進させるに合う。考課は中上である」と。

張説はまた真っ先に封禅の議を建てた。十三年、詔を受けて右散騎常侍徐堅・太常少卿韋縚等とともに東封の儀註を撰した。旧儀で不便なものは、張説が多く裁正し、その言葉は『礼志』にある。玄宗はまもなく張説及び礼官学士等を召して集仙殿で宴を賜い、張説に言った、「今卿等の賢才とここに同宴するに、宜しく名を改めて集賢殿とすべきである」と。そこで制を下して麗正書院を集賢殿書院と改め、張説に集賢院学士を授け、院事を知らせた。

東封を行おうとする時、張説を右丞相兼中書令とし、源乾曜を左丞相兼侍中とした。これは岱宗の功を勒成し、以て宰相が王化の達成を補佐することを明らかにするためである。張説はまた『封禅壇頌』を撰して聖徳を記した。初め、源乾曜は本意として封禅を望まなかったが、張説がその事を賛成したため、これによって甚だ互いに不和となった。登山の際、張説は親しい者を引き連れて供奉官及び主事等を兼務させて従って登らせ、階を加えて五品に超入させたが、その他の官は多く登ることができなかった。また従軍した兵士には、勲位を加えるのみで、賜物を与えなかった。これによって内外から甚だ怨まれた。以前、御史中丞宇文融が献策し、天下の逃戸及び籍外の剩田を調査し、十道の勧農使を置き、分かれて検査させるよう請うた。張説はその人を煩わせて不便であると嫌い、数度建議してこれに反対した。東封から還ると、融はまた密かに吏部を分けて十銓を置き、融と礼部尚書蘇颋等が選事を分掌するよう上奏した。融等が奏請する度に、ことごとく張説によって抑えられたため、銓綜が秩序を失った。融はそこで御史大夫崔隠甫・中丞李林甫とともに張説が術士を引き入れ夜に祈祷を行い、賄賂を受け取ったなどの状を奏弾した。詔して宰臣源乾曜・刑部尚書韋抗・大理少卿胡珪・御史大夫崔隠甫に尚書省で審問させた。張説の兄で左庶子の張光が朝堂に詣でて耳を切り冤罪を訴えた。当時、中書主事張観・左衛長史範堯臣はともに張説の勢力に依り頼み、詐りて賄賂を受け取り、また私的に僧の王慶則を度して往来し、張説のために吉凶を占わせていたが、隠甫等によって審問され罪を認めた。張説は二晩経った後、玄宗は宦官の高力士に様子を見させた。戻って奏上して言うには、「張説は草の上に坐り、瓦器の中で食事をし、蓬髪垢面で、自らを罰し憂懼すること甚だしい」と。玄宗はこれを哀れんだ。力士が奏上して言うには、「張説はかつて侍読を務め、また国に功があります」と。玄宗はその奏を認め、これによって中書令を兼ねることを停め、張観及び王慶則は杖刑に処せられて死に、連坐して遷貶された者は十余人であった。隠甫及び融等は張説が再び任用され己の患いとなることを恐れ、また密かに奏上してこれを誹謗した。翌年、詔して張説を致仕させ、引き続き家で史書の編修をさせた。

初め、張説が宰相であった時、玄宗は吐蕃を討伐しようと考えたが、張説は密かに上奏して和を通じさせ、以て辺境を安んずるよう許すよう申し上げた。玄宗は従わなかった。瓜州が失陥し、王掞が死ぬと、張説は巂州の闘羊を手に入れ、上表してこれを献じ、以て諷諭を述べた。その表には、「臣聞く、勇士は鶏冠を戴き、武夫は鹖冠を戴く。情を推し類を挙ぐれば、この闘羊を得たり。遠く越巂に生まれ、剛決の性を蓄え、敵には強を避けず、戦には死を顧みず。微物と雖も、志は挫くべからず。伏して惟うに、陛下は六郡に良家を選び、四方に猛士を求められ、鳥は才を遁れず、獣は伎を蔵さず。もし奇を霊圃に效い、力を天場で角すること蒙らば、却って鼓怒して気を作し、前に躑躅して奮撃す。趹すること奔雲の交触の若く、碎くこと転石の相叩くが如し。骨を裂き勝を賭け、血を濺ぎ雄を争う。敢毅これを見て冠を沖き、鷙狠これを聞きて節を撃つ。冀らくは将に明主の駿骨を市い、怒蛙を揖するの意を少しく助けんとす。若し羊能く言わば、必ずや『若し闘い解けざれば、立って死者有らん』と言わん。頼む所は至仁残ること無く、力を量り取って勧むるに在り。臣は足を損じ、未だ地に履くに堪えず。謹みて男を遣わし、金明門に詣で奉進す」と。玄宗は深くその意を悟り、絹及び雑彩一千匹を賜った。

十七年、また尚書左丞相・集賢院学士に任じられ、まもなく源乾曜に代わって尚書左丞相となった。職務に就く日、上は所司に命じて供帳を設け、音楽を奏でさせ、内より酒食を出し、自ら詩一篇を制して以てその事を叙した。まもなく謁陵の儀註を修めた功により、開府儀同三司を加えられた。当時、長子の張均は中書舎人、次子の張垍は寧親公主を娶り駙馬都尉に任じられ、また特に張説の兄で慶王傅の張光に銀青光禄大夫を授けた。当時の栄寵は、これに比べるものはなかった。

十八年、病に罹り、玄宗は毎日中使をして病状を問わしめ、また自ら薬方を書き賜うた。十二月に薨去、時に年六十四。上は久しく悲しみ悼み、直ちに光順門にて哀悼の礼を行い、これにより十九年の元正朝会を罷め、詔して曰く、

艱難を広く救い、その功に参じた者は時の傑物なり。礼楽を経緯し、その道を賛えた者は人の師表なり。仰ぎ見て百事が正しく治まり、過ぎ去って千載に範を遺す。三台・鼎鼐の位は、今に黼黻の文彩を垂れ、徽章・寵命は、後世に芳しい誉れを伝う。故開府儀同三司・尚書左丞相・集賢院學士知院事・上柱國・燕國公張説は、星辰の精が降り、雲龍が契りを合わせた。その沖虚純粋の質を体し、玄妙な道理を極めて解き明かす。汲み取っても測り知れず、仰ぎ見ればますます高い。精微な義理は現象を超えた微妙を探り、優れた文辞は天下の人心を動かす。昔、春宮に侍して誦読を奉じ、歳月に親しみ交わった。春のごとく包容する声は、叩けばことごとく応じ、泉源のごとき智は、開けば直ちに豊かに潤した。命を受けて国を興し、則ち天の道を通じ、用いて民を和らげ、則ち朝政はただ允当であった。大政を司り六官の綱紀を総べ、宰相として万邦の模範となった。今まさに風俗を正し広め、上古の初めに本を返さんとし、徳を高め仁を振るい、中寿の福に至らんとしたが、ああ、天はこれを許さず、既にこの文を喪う。宣室にての余談は、今なお耳に冷然とあり、王殿に遺された草稿は、あたかもその跡を留めているかのようだ。忠賢を思いやれば、まことに深く震え悼む。これにより朕は玉座に几を撫で、楽を臨んで懸架を撤け、杯を挙げる儀を罷め、往きて贈る礼に従う。太師を贈るべく、物五百段を賜う。

初め玄宗が東宮に在った時、張説は既に礼遇を受けていた。太平公主が権力を用いるに及び、皇太子の地位は甚だ危うかったが、張説は独りその党を排し、太子に国事を監させよと請い、深謀密画をめぐらし、遂に内難を清め、開元の宗臣となった。前後三度大政を執り、文学の任を掌ること凡そ三十年。文章は俊麗で、構想は精密であり、朝廷の大手筆は、皆特に中旨を承けて撰述し、天下の詞人は、これを諷誦した。特に碑文・墓誌に長け、当代で及ぶ者無し。後進を引き立てることを喜び、己の長所を善く用い、文儒の士を引き入れ、王化を輔佐し、太平の歳月が久しい中、盛時を粉飾することを志した。泰山を封じ、脽上を祠り、五陵を謁し、集賢院を開き、太宗の政を修めること、皆張説が率先した。また気節と信義を重んじ、君臣朋友の間において、大義甚だ篤かった。時に中書舍人徐堅は文学を自負し、常に集賢院學士が多くその人に非ず、所司の供する膳が余りに豊かであるとして、嘗て朝列に謂って曰く、「此輩は国家に何の益があるか、このように虚費するのは」と。将に建議してこれを罷めんとした。張説曰く、「古来帝王は功成れば、則ち奢り驕る過失あり、或いは池臺を興し、或いは声色に耽る。今、聖上は儒を崇め道を重んじ、自ら講論し、図書を刊正し、学者を詳しく招く。今の麗正書院は、天子の礼楽を司る機関、永代の規模、易え難き道なり。費やすところは細やか、益するところは大いなり。徐子の言、何ぞその狭きや」と。玄宗はこれを知り、これにより徐堅を軽んじた。張説は既に誹謗され、政事を知ることを罷められ、専ら集賢院の文史の任に当たり、軍国大事の度毎に、帝は中使を遣わして先ずその可否を訪ねた。張説は嘗て自らその父の『贈丹州刺史騭碑文』を制作し、玄宗はこれを聞いて御筆を以てその碑額を賜い、「嗚呼、積善之墓」と曰うた。文集三十巻あり。太常の謚議は「文貞」とし、左司郎中陽伯誠が駁議し、以て相応しからずとし、工部侍郎張九齢が議を立て、太常に依って定むることを請うたが、紛糾して決せず。玄宗は張説のために自ら神道碑文を制作し、御筆を以て謚を賜い「文貞」と曰うた。これにより初めて定まった。

張説の子 張均

張均・張垍は皆文を能くした。張説が中書に在った時、兄弟は既に詔勅文書の任を掌っていた。父の喪に服し喪明けして、張均は戸部侍郎に除され、兵部に転じた。二十六年、連座して貶され饒州刺史となり、太子左庶子として召され、再び戸部侍郎となった。九載、刑部尚書に遷る。自ら才名を以て宰輔となるべきとし、常に李林甫に抑えられた。李林甫が卒すると、権臣陳希烈に依附し、必ず取らんことを期した。既にして楊国忠が権力を用い、心甚だこれを憎み、陳希烈をして政事を知ることを罷めさせ、文部侍郎韋見素を引き入れて代えさせ、なお張均をして大理卿とさせた。張均は大いに失望し、意常に鬱々としていた。安禄山の乱に際し、偽命を受け中書令となり、賊の枢機を掌った。李峴・呂諲が陷賊官を条疏すると、張均は大辟に当たった。粛宗は張説に旧恩有り、特旨を以て死を免じ、合浦郡に長流した。

張説の子 張垍

張垍は、主婿たるを以て、玄宗の特に深い恩寵を受け、禁中に内宅を置くことを許され、文章を侍らせ、嘗て珍玩を賜うこと数え切れず。時に兄の張均も翰林院に供奉し、常に賜わったものを張均に示すと、張均は戯れて張垍に謂って曰く、「これは舅と婿との間柄、天子が学士に賜うるものに非ず」と。天宝中、玄宗は嘗て張垍の内宅に幸し、張垍に謂って曰く、「希烈は累ねて機務を辞する、朕その代わりを選ぶに、誰が可か」と。張垍は驚き慌てて答えず、帝即ち曰く、「吾が愛婿に過ぐる者無し」と。張垍は階を降りて陳謝した。楊国忠はこれを聞いて憎み、陳希烈が宰相を罷められるに及び、韋見素を挙げて代えさせたので、張垍は深く不満を抱いた。天宝十三年正月、范陽節度使安禄山が入朝した。時に禄山は奚・契丹を破る功を立て、特に寵異を加えられた。禄山が平章事を帯びることを求め、中書に下して擬議させた。国忠進言して曰く、「禄山は確かに軍功を立てたが、然れども眼字を識らず、制命を行えば、臣は四夷が国を軽んずるを恐る」と。玄宗は乃ち止め、左僕射を加えるのみとした。禄山が鎮に還るに及び、中官高力士を命じて浐坡にて餞別させた。還って後、帝曰く、「禄山は気が済んだか」と。力士曰く、「その深心を観るに鬱々とし、必ずや宰相の命が行われざるを知り伺っている故なり」と。帝は国忠に告げると、国忠曰く、「この議は他人知らず、必ず張垍の告げたる所なり」と。帝怒り、張垍兄弟を尽く追放した。張均を出して建安太守とし、張垍を盧溪郡司馬とし、張埱を宜春郡司馬とした。歳中に召還し、再び太常卿に遷した。

安禄山の乱に際し、玄宗が蜀に幸すと、宰相韋見素・楊国忠・御史大夫魏方進等が従い、朝臣多く至らざりき。咸陽に次ぎ、帝は高力士に謂って曰く、「昨日慌ただしく京を離れ、朝官の詣る所を知らず、今日誰か至るべき者あらん」と。力士曰く、「張垍兄弟は世々国恩を受け、又戚属に連なり、必ず先ず至るべし。房琯は素より宰相の望有り、深く禄山に器とされ、必ずや此れ来らず」と。帝曰く、「事は未だ測るべからず」と。この日、房琯至り、帝大いに悦び、因って張均・張垍を問うと、房琯曰く、「臣が京を離るる時、亦その宅を過ぎ、共に行かんと約すれど、張均報じて云う『既に城南にて馬を取れり』と。その趣向を観るに、来る意切ならず」と。既にして張均兄弟は果たして禄山の偽命を受け、張垍は陳希烈と賊の宰相となり、張垍は賊中に死す。

附 陳希烈

陳希烈は宋州の人である。玄学に精通し、書物で読まぬものはなかった。開元の中頃、玄宗が経義に留意し、褚無量・元行沖が没して後、希烈と鳳翔の人馮朝隱を得て、常に禁中で『老子』『易経』を講じた。累遷して秘書少監に至り、張九齢に代わって集賢院の事を専ら判じた。玄宗が凡そ撰述するものは、必ず希烈の手を経た。李林甫は上(玄宗)の眷待が深く異なることを知り、また温和で裕福で制し易いとして、乃ち引きいて宰相とし、同知政事とし、相行うこと甚だ歓んだ。而して林甫が位に居ること日久しく、陰謀奸画は以て自らを固うするに足るとは雖も、亦希烈が佐佑唱和する力である。累遷して兵部尚書・左相を兼ね、潁川郡開国公に封ぜられ、寵遇は林甫に侔った。林甫が死するに及んで、楊国忠が権を執り、元来忌み嫉んでいた。乃ち韋見素を引いて同列とし、希烈の知政事を罷めて、太子太師を守らせた。希烈は恩を失い、心頗る怏怏とした。禄山の乱に、張垍・達奚珣と共に賊の機衡を掌った。六等の定罪に、希烈は斬に当たり、粛宗は上皇(玄宗)が元来遇したことを以て、家に於いて死を賜うた。

史臣曰く

史臣曰く、劉徐公(劉幽求)は不羈の材を負い、抵巇の運に逢い、遂に能く命を奮い策を決し、力を扶けて中興し、朝には徒步の人たりしが、夕には公侯の位に据わり、苟も死を軽んじ利を重んぜず、不義の富を恥じざらざれば、安んぞ此に及ばんや。郭代公(郭元振)・張燕公(張説)は逢掖を解いて将壇に登り、貔虎の師を駆り、獯戎の臂を断ち、いた(いた)って衡軸に居り、克く隆平を致す、武を緯とし文を経とすと謂うべく、惟だ申と甫のみ。惜しいかな、均(韋均)・垍(張垍)は速やかならんことを務め、賊廷に節を失う。武徳已来、賢相と称せられる者は、房(玄齢)・杜(如晦)・姚(崇)・宋(璟)の四公、皆無頼の子弟に遭い先業を汚圮せしめ、独り燕国の不幸のみに非ず。希烈は柔にして智多く、名理に長ず、竟に名に死す。所謂る離婁其の眉睫を見ずと、夫の平叔(何晏)・太初(夏侯玄)と、同じく膏肓なるのみ。

賛に曰く、箕子・微子は紂を去り、閎夭・散宜生は昌(文王)を扶く。謀い義に近からず、旋踵して亡ぶ。幽求は令ならず、道済(姚崇)は允に臧し。偉なるかな郭侯(郭元振)、勲徳煌煌たり。