舊唐書

巻096

巻096

舊唐書

原文舊唐書

卷九十六

原文卷九十六

列傳第四十六 姚崇 宋璟

原文列傳第四十六 姚崇 宋璟

姚崇

原文姚崇

姚崇は、本名を元崇といい、陜州硤石の人である。父の善意は、貞観年間に巂州都督ととくを務めた。元崇は孝敬皇帝の挽郎となり、下筆成章科に応じて挙げられ、濮州司倉に任ぜられ、五度の転任を経て夏官郎中となった。当時、契丹が河北の数州を侵攻して陥落させ、軍務の機密文書が山積みになっていたが、元崇は流れるように分析し、すべて条理が通っていた。則天武后はこれを大いに奇異とし、破格に夏官侍郎に昇進させ、まもなく同鳳閣鸞台平章事とした。

原文姚崇,本名元崇,陜州硤石人也。父善意,貞觀中,任巂州都督。元崇爲孝敬挽郎,應下筆成章舉,授濮州司倉,五遷夏官郎中。時契丹寇陷河北數州,兵機填委,元崇剖析若流,皆有條貫。則天甚奇之,超遷夏官侍郎,又尋同鳳閣鸞臺平章事。

聖暦初年、則天武后は侍臣に言った。「かつて周興・来俊臣らが詔獄を推問したとき、朝臣は次々と互いに引き合いに出し、皆謀反を認めた。国家には法がある。朕はどうして違えようか。その中には冤罪や濫刑の疑いもあると思い、さらに近臣を獄に遣わして自ら尋問させたところ、皆自筆の供述状を得て、自白は虚偽でないと認めた。朕は疑わず、その上奏を許可した。近ごろ周興・来俊臣が死んだ後、再び謀反の者があるとは聞かない。では、以前に処刑された者の中に、冤罪や濫刑がなかったと言えるのか。」元崇は答えて言った。「垂拱年間以後、告発されて身を滅ぼし家を破られた者は、皆、枉酷な拷問により自ら誣告して死んだのです。告発する者は特にこれを功績とし、天下ではこれを羅織と呼び、漢代の党錮の禍よりも甚だしいものでした。陛下が近臣を獄に遣わして尋問させられても、近臣もまた自らの身を保つことができず、どうして軽々しく動揺させることができましょうか。尋問された者がもし翻供すれば、またその毒手に遭うことを恐れ、将軍の張虔勗・李安静らがその例です。頼むらくは上天が霊験を降し、聖情が目覚められ、凶悪な小輩を誅伐し除き去られたので、朝廷は安寧を得ました。今日以後、臣は微躯と一族百人の命を賭けて、現在の内外の官人にさらに謀反の者がないことを保証いたします。願わくは陛下は告発状を得ても、ただ収めて保管し、推問する必要はありません。もし後に証拠があり、謀反が事実であるならば、臣は知りながら告げなかった罪を受けます。」則天武后は大いに喜んで言った。「以前の宰相は皆、その事に順応して成し遂げ、朕を淫刑の主に陥れた。卿の言うことを聞くと、甚だ朕の心に合う。」その日、中使を遣わして銀千両を送り、元崇に賜った。

原文聖暦初,則天謂侍臣曰:「往者周興、來俊臣等推勘詔獄,朝臣遞相牽引,鹹承反逆,國家有法,朕豈能違。中間疑有枉濫,更使近臣就獄親問,皆得手狀,承引不虛,朕不以爲疑,即可其奏。近日周興、來俊臣死後,更無聞有反逆者,然則以前就戮者,不有冤濫耶?」元崇對曰:「自垂拱已後,被告身死破家者,皆是枉酷自誣而死。告者特以爲功,天下號爲羅織,甚於漢之黨錮。陛下令近臣就獄問者,近臣亦不自保,何敢輒有動搖?被問者若翻,又懼遭其毒手,將軍張虔勖、李安靜等皆是也。賴上天降靈,聖情發寤,誅鋤兇豎,朝廷乂安。今日已後,臣以微軀及一門百口保見在內外官更無反逆者。乞陛下得告狀,但收掌,不須推問。若後有征驗,反逆有實,臣請受知而不告之罪。」則天大悅曰:「以前宰相皆順成其事,陷朕爲淫刑之主。聞卿所説,甚合朕心。」其日,遣中使送銀千兩以賜元崇。

当時、突厥の叱利元崇が叛逆を企てたため、則天武后は元崇が彼と同名であることを望まず、そこで元之と改名させた。まもなく鳳閣侍郎に転じ、従前通り政事を知った。

原文時突厥叱利元崇構逆,則天不欲元崇與之同名,乃改爲元之。俄遷鳳閣侍郎,依舊知政事。

長安ちょうあん四年、元之は母が老齢であることを理由に、上表して職を解き養老に侍ることを請い、言葉は甚だ哀切であった。則天武后はその意に背き難く、相王府長史に任じ、政事知事を罷免し、養老を得させた。その月、また元之に夏官尚書事を兼ね知らせ、同鳳閣鸞台三品とした。元之は上言した。「臣は相王に仕えており、兵馬を知ることは不便です。臣は死を惜しむのではなく、相王に益がないことを恐れます。」則天武后はその言葉を深くもっともとし、春官尚書に改めた。この時、張易之が京城の大徳僧十人を移して定州の私置寺に配することを請うたが、僧らは苦しんで訴え、元之は停止を断じた。易之はたびたびこれを言上したが、元之は終に受け入れなかった。これによって易之の讒言を受け、司僕卿に改められ、政事知事は従前通りとし、霊武道大総管を充てさせた。

原文長安四年,元之以母老,表請解職侍養,言甚哀切,則天難違其意,拜相王府長史,罷知政事,俾獲其養。其月,又令元之兼知夏官尚書事、同鳳閣鸞臺三品。元之上言:「臣事相王,知兵馬不便。臣非惜死,恐不益相王。」則天深然其言,改爲春官尚書。是時,張易之請移京城大德僧十人配定州私置寺,僧等苦訴,元之斷停,易之屢以爲言,元之終不納。由是爲易之所譖,改爲司仆卿,知政事如故,使充靈武道大總管。

神龍元年、張柬之・桓彦範らが易之兄弟を誅殺することを謀り、ちょうど元之が軍から都に帰還したのに合わせ、遂に謀議に参与し、功によって梁県侯に封ぜられ、実封二百戸を賜った。則天武后が上陽宮に移居されると、中宗が百官を率いて閤に赴き起居し、王公以下は皆歓躍して慶賀を称えたが、元之のみは嗚咽して涙を流した。彦範・柬之が元之に言った。「今日はまさに泣く時ではない。公の禍がここから始まることを恐れる。」元之は言った。「則天武后に仕えた年月が久しく、突然これに別れを告げるに当たり、情が衷から発せられ、耐え忍ぶことのできるものではありません。昨日、公らとともに凶逆を誅する謀議に参与したのは、臣子の常道であり、どうして功を言えましょうか。今、旧主に別れを告げて悲泣するのは、また臣子の終節であり、これによって罪を得ても、実に甘んじて受けるところです。」間もなく、亳州刺史として出向し、常州刺史に転じた。

原文神龍元年,張柬之、桓彥範等謀誅易之兄弟,適會元之自軍還都,遂預謀,以功封梁縣侯,賜實封二百戸。則天移居上陽宮,中宗率百官就閤起居,王公已下皆欣躍稱慶,元之獨嗚咽流涕。彥範、柬之謂元之曰:「今日豈是啼泣時!恐公禍從此始。」元之曰:「事則天歲久,乍此辭違,情發於衷,非忍所得。昨預公誅兇逆者,是臣子之常道,豈敢言功;今辭違舊主悲泣者,亦臣子之終節,緣此獲罪,實所甘心。」無幾,出爲亳州刺史,轉常州刺史。

睿宗が即位すると、召し出して兵部尚書・同中書門下三品に任じ、まもなく中書令に転じた。当時、玄宗は東宮にあり、太平公主が朝政に干渉し、宋王成器が閑廄使となり、岐王範・薛王業は皆禁兵を掌握し、外間の議論はこれを不便とした。元之は侍中宋璟とともに密かに上奏し、公主を東都に行かせ、成器ら諸王を刺史として出させ、人心を鎮めることを請うた。睿宗がこれを公主に告げると、公主は大怒した。玄宗はそこで上疏して元之・璟らが兄弟を離間したとし、罪を加えることを請うた。そこで元之を申州刺史に貶した。再び転じて揚州長史・淮南按察使となり、政治は簡素で厳粛であり、人吏は碑を立てて徳を記念した。まもなく同州刺史に任ぜられた。先天二年、玄宗が新豊驛で講武を行うに当たり、元之を召し出して郭元振に代えて兵部尚書・同中書門下三品とし、再び紫微令に転じた。開元の尊号を避け、また名を崇と改め、梁国公に進封された。実封を固辞したため、旧封を停止し、特に新封一百戸を賜った。

原文睿宗即位,召拜兵部尚書、同中書門下三品,尋遷中書令。時玄宗在東宮,太平公主干預朝政,宋王成器爲閑廄使,岐王範、薛王業皆掌禁兵,外議以爲不便。元之同侍中宋璟密奏請令公主往就東都,出成器等諸王爲刺史,以息人心。睿宗以告公主,公主大怒。玄宗乃上疏以元之、璟等離間兄弟,請加罪,乃貶元之爲申州刺史。再轉揚州長史、淮南按察使,爲政簡肅,人吏立碑紀德。俄除同州刺史。先天二年,玄宗講武在新豐驛,召元之代郭元振爲兵部尚書、同中書門下三品,復遷紫微令。避開元尊號,又改名崇,進封梁國公。固辭實封,乃停其舊封,特賜新封一百戸。

先に、中宗の時、公主や外戚は皆、人を度して僧尼とすることを奏請し、また私財を出して寺を造る者もあり、富戸や強壮な丁男は皆、経営して役を避け、遠近に満ちあふれていた。この時至り、崇は上奏して言った。「仏は外に在らず、心に求むべきです。仏図澄は最も賢明であったが、全趙に益なく、羅什は多芸であったが、亡秦を救わなかった。何充・苻融は皆、敗滅に遭い、斉の襄公・梁の武帝も災殃を免れなかった。ただ心に慈悲を発し、事を行って利益とし、蒼生を安楽にさせることが、すなわち仏身です。どうして奸人を妄りに度し、正法を壊させましょうか。」上はその言葉を容れ、官司に命じて僧徒を調査させ、偽濫によって還俗させた者は一万二千余人に及んだ。

原文先是,中宗時,公主外戚皆奏請度人爲僧尼,亦有出私財造寺者,富戸強丁,皆經營避役,遠近充滿。至是,崇奏曰:「佛不在外,求之於心。佛圖澄最賢,無益於全趙;羅什多藝,不救於亡秦。何充、苻融,皆遭敗滅;齊襄、梁武,未免災殃。但發心慈悲,行事利益,使蒼生安樂,即是佛身。何用妄度奸人,令壞正法?」上納其言,令有司隱括僧徒,以偽濫還俗者萬二千餘人。

開元四年、山東に蝗蟲が大いに起こり、姚崇が奏上して言うには、「『毛詩』に云う、『彼の蟊賊を秉り、以て炎火に付す』と。また漢の光武帝の詔に曰く、『時政に順うを勉め、農桑を勧督し、彼の蝗蜮を去り、以て蟊賊に及ぼす』と。これ皆、蝗を除くの義である。蟲は既に人を畏れることを知り、駆逐し易い。また苗稼には皆地主があり、救護するには必ず労を辞さない。蝗は既に飛ぶことを知り、夜には必ず火に赴く。夜中に火を設け、火の辺りに坑を掘り、且つ焚き且つ瘞(埋め)れば、これを除いて尽くすことが出来る。時に山東の百姓は皆、香を焼き禮拜し、祭を設けて恩を祈り、眼に食う苗を見ながら、手を近づけることを敢えてしない。古より討除して得ざる者有るは、只だ人の命を用いざるのみ。但だ斉心戮力せしめれば、必ずや除くことが出来よう。」そこで御史を遣わし、分かち道を殺蝗させた。汴州刺史の倪若水が執って奏上して言うには、「蝗は天災であり、自ら徳を修むべきである。劉聰の時に除くことを得ず、害を為すこと更に深かった。」と。依然として御史を拒み、肯って命に応じなかった。姚崇は大いに怒り、牒を以て若水に報じて言うには、「劉聰は偽主であり、徳は妖に勝たず。今日の聖朝は、妖は徳に勝たず。古の良守は、蝗蟲が境を避けた。若しその徳を修めて免れることが出来るならば、彼らは豈に徳無くして然らしめたであろうか。今、坐して苗を食うを見るに、何ぞ忍んで救わざるべけんや。これによって饑饉に因り、将に何を以て自ら安んぜん。幸いに遅回せず、自ら悔吝を招くことなかれ。」若水は乃ち焚瘞の法を行い、蝗十四萬石を獲、汴渠に投じて流れ下る者は数え勝うべからざりき。時に朝廷に喧議有り、皆、蝗を駆ることを不便と為す。上聞き、復た以て崇に問う。崇曰く、「庸儒は文を執り、通変を識らず。凡そ事には経に違いて道に合う者有り、また道に反して権に適う者も有る。昔、魏の時に山東に蝗有りて稼を傷つけ、小忍びて除かざるに縁り、致して苗稼総べて尽き、人至って相食うに至る。後秦の時に蝗有り、禾稼及び草木俱に尽き、牛馬至って毛を相啖う。今、山東の蝗蟲、所在に流れ満ち、仍って極めて繁息し、実に稀聞の所なり。河北、河南は、多く貯積無し。倘や収獲せずんば、豈に流離を免れんや。事は安危に係る。膠柱すべからず。縦え除くこと尽くさずとも、猶お養いて災いを成すに勝れり。陛下は生を好み殺を悪む。此事は請う、煩わしくして勅を出さず、乞う、臣を容れて牒を出して処分せしめん。若し除くことを得ずんば、臣の在身の官爵、並びに削除を請う。」上許す。黄門監の盧懷慎、崇に謂いて曰く、「蝗は天災なり。豈に人事を以て制すべけんや。外議皆以て非と為す。又、蟲を殺すこと多すぎ、和気を傷つく。今猶お復たすべし。公、之を思え。」崇曰く、「楚王、蛭を吞み、厥の疾用て瘳ゆ。叔敖、蛇を殺し、其の福乃ち降る。趙宣は至賢なり、其の犬を用いるを恨む。孔丘は将聖なり、其の羊を愛せず。皆、人を安んずるを志し、禮を失わざるを思う。今、蝗蟲極めて盛ん。駆除すれば得べし。若し其の食を縦せば、所在皆空なり。山東の百姓、豈に餓殺すべけんや。此事は崇已に面して奏定し訖る。公、復た言を為すこと勿れ。若し人を救い蟲を殺し、因縁して禍を致さば、崇独り受けん。義、仰いで関わらず。」懷慎は既に庶事を曲げて従い、竟に敢えて崇の意に逆らわず。蝗、此れに因り亦漸く止み息む。

原文開元四年,山東蝗蟲大起,崇奏曰:「《毛詩》云:『秉彼蟊賊,以付炎火。』又漢光武詔曰:『勉順時政,勸督農桑,去彼蝗蜮,以及蟊賊。』此並除蝗之義也。蟲既解畏人,易爲驅逐。又苗稼皆有地主,救護必不辭勞。蝗既解飛,夜必赴火,夜中設火,火邊掘坑,且焚且瘞,除之可盡。時山東百姓皆燒香禮拜,設祭祈恩,眼看食苗,手不敢近。自古有討除不得者,只是人不用命,但使齊心戮力,必是可除。」乃遣御史分道殺蝗。汴州刺史倪若水執奏曰:「蝗是天災,自宜修德。劉聰時除既不得,爲害更深。」仍拒御史,不肯應命。崇大怒,牒報若水曰:「劉聰偽主,德不勝妖;今日聖朝,妖不勝德。古之良守,蝗蟲避境,若其修德可免,彼豈無德致然!今坐看食苗,何忍不救,因以饑饉,將何自安?幸勿遲回,自招悔吝。」若水乃行焚瘞之法,獲蝗一十四萬石,投汴渠流下者不可勝紀。時朝廷喧議,皆以驅蝗爲不便,上聞之,復以問崇。崇曰:「庸儒執文,不識通變。凡事有違經而合道者,亦有反道而適權者。昔魏時山東有蝗傷稼,緣小忍不除,致使苗稼總盡,人至相食;後秦時有蝗,禾稼及草木俱盡,牛馬至相啖毛。今山東蝗蟲所在流滿,仍極繁息,實所稀聞。河北、河南,無多貯積,倘不收獲,豈免流離,事系安危,不可膠柱。縱使除之不盡,猶勝養以成災。陛下好生惡殺,此事請不煩出敕,乞容臣出牒處分。若除不得,臣在身官爵,並請削除。」上許之。黃門監盧懷慎謂崇曰:「蝗是天災,豈可制以人事?外議鹹以爲非。又殺蟲太多,有傷和氣。今猶可復,請公思之。」崇曰:「楚王吞蛭,厥疾用瘳;叔敖殺蛇,其福乃降。趙宣至賢也,恨用其犬;孔丘將聖也,不愛其羊。皆誌在安人,思不失禮。今蝗蟲極盛,驅除可得,若其縱食,所在皆空。山東百姓,豈宜餓殺!此事崇已面經奏定訖,請公勿復爲言。若救人殺蟲,因緣致禍,崇請獨受,義不仰關。」懷慎既庶事曲從,竟亦不敢逆崇之意,蝗因此亦漸止息。

是の時、上初めて即位し、務めて徳政を修め、軍国の庶務、多く崇に訪う。同時の宰相盧懷慎、源乾曜等は、但だ唯諾するのみ。崇独り重任に当たり、吏道に明らかにして、断割滞ること無し。然れども其の子の光祿少卿の彜、宗正少卿の異に賓客を広く引き、饋遺を受納せしむるを縦す。此れによって時に譏らる。時に中書主書の趙誨有り、崇の親信する所と為り、蕃人の珍遺を受け、事発す。上親しく鞫問を加え、獄に下して処死す。崇、其の罪を結奏し、復た之を営救す。上此れ由りて悦ばず。其の冬、京城を曲赦し、敕文に時に誨の名を標し、決杖一百を令し、嶺南に配流す。崇是れより憂懼し、頻りに面して相位を避くるを陳べ、宋璟を薦む。皆進見を得たり。或る人洛水中に自ら代わる者を獲たり。俄かに開府儀同三司を授け、政事を知るを罷む。

原文是時,上初即位,務修德政,軍國庶務,多訪於崇,同時宰相盧懷慎、源乾曜等,但唯諾而已。崇獨當重任,明於吏道,斷割不滯。然縱其子光祿少卿彜、宗正少卿異廣引賓客,受納饋遺,由是爲時所譏。時有中書主書趙誨爲崇所親信,受蕃人珍遺,事發,上親加鞫問,下獄處死。崇結奏其罪,復營救之,上由是不悅。其冬,曲赦京城,敕文時標誨名,令決杖一百,配流嶺南。崇自是憂懼,頻面陳避相位,薦宋璟皆獲進見。有人於洛水中獲自代。俄授開府儀同三司,罷知政事。

月余り居て、玄宗将に東都に幸せんとす。而して太廟の屋壊る。上、宋璟、蘇颋を召して其の故を問う。璟等奏して言う、「陛下の三年の制未だ畢わらず、誠に行幸すべからず。凡そ災変の発するは、皆以て教誡を明らかにする所以なり。陛下宜しく大道を増崇し、以て天意に答え、且つ東都幸を停むべし。」と。上又た崇を召して問いて曰く、「朕、京邑を発するに臨み、太廟故無く崩壊す。恐らくは神靈、以て東行の不便を誡むるか。」崇対えて曰く、「太廟の殿は本、苻堅の時に造りし所、隋の文帝新都を創立し、宇文朝の故殿を移して此の廟を造る。国家又た隋氏の旧制に因る。歳月滋しく深く、朽蠹して毀つ。山に朽壊有りて尚ほ崩るるを免れず。既に久しく来たりし枯木、将に摧折すべく合う。偶に行期と相会するのみ。行に縁りて乃ち崩るるに非ず。且つ四海を家と為し、両京相接す。陛下、関中を以て甚だ豊熟せず、転運又た労費有るを以て、人の為に行幸する所以なり。豈に事無くして煩労するに非ざらんや。東都の百司已に供擬を作す。天下に信を失うべからず。臣の愚見を以てすれば、旧廟既に朽爛し、修理に堪えず。神主を太極殿に移し安置するを望み、更に新廟を改造し、以て誠敬を申べし。車駕は前の如く径ち発すべし。」上曰く、「卿の言、正に朕が意に合う。」絹二百匹を賜い、所司に令して七廟の神主を太極殿に奉らしめ、新廟を改む。車駕乃ち東都に幸す。因りて崇に五日一参を令し、仍た閤に入り供奉せしむ。甚だ恩遇を承く。後又た太子少保を除く。疾を以て拝せず。九年に薨ず。年七十二。揚州大都督を贈り、謚して文獻と曰う。

原文居月餘,玄宗將幸東都,而太廟屋壞,上召宋璟、蘇颋問其故,璟等奏言:「陛下三年之制未畢,誠不可行幸。凡災變之發,皆所以明教誡。陛下宜增崇大道,以答天意,且停幸東都。」上又召崇問曰:「朕臨發京邑,太廟無故崩壞,恐神靈誡以東行不便耶?」崇對曰:「太廟殿本是苻堅時所造,隋文帝創立新都,移宇文朝故殿造此廟,國家又因隋氏舊制,歲月滋深,朽蠹而毀。山有朽壞,尚不免崩,既久來枯木,合將摧折,偶與行期相會,不是緣行乃崩。且四海爲家,兩京相接,陛下以關中不甚豐熟,轉運又有勞費,所以爲人行幸,豈是無事煩勞?東都百司已作供擬,不可失信於天下。以臣愚見,舊廟既朽爛,不堪修理,望移神主於太極殿安置,更改造新廟,以申誠敬。車駕依前徑發。」上曰:「卿言正合朕意。」賜絹二百匹,令所司奉七廟神主於太極殿,改新廟,車駕乃幸東都。因令崇五日一參,仍入閤供奉,甚承恩遇。後又除太子少保,以疾不拜。九年薨,年七十二,贈揚州大都督,謚曰文獻。

崇先だ其の田園を分ち、諸子・姪を令して各其の分を守らしめ、仍た遺令を為して以て子孫を誡む。其の略に曰く、

原文崇先分其田園,令諸子侄各守其分,仍爲遺令以誡子孫,其略曰:

古人は言う、富貴なる者は人の怨みなりと。貴ければ神はその満つるを忌み、人はその上なるを悪む。富めば鬼はその室を覗い、虜はその財を利す。天地開闢より以来、書籍に載する所、徳薄く任重くして能く寿考にして咎無き者は、未だこれ有らざるなり。故に范蠡・疏広の輩は、止足の分を知り、前史多くこれを称す。況んや吾が才は古人に逮わずして、久しく栄寵を窃み、位は高きに逾えて益々懼れ、恩は厚きに彌りて憂いを増す。往時中書に在りし時、疾に遭いて虚憊し、終わりに懈らずと雖も、諸務多く闕く。賢を薦げて自ら代わるを、屡々誠祈有り、人の欲する所天に従い、竟に哀允を蒙る。園沼に優遊し、形骸を放浪す、人生一代、斯れ亦足れり。田巴云う、「百年の期、未だ能く至る者有らず。」王逸少云う、「俯仰の間、已に陳跡と為る。」誠に此言なるかな。比来諸の達官の身歿したる後を見るに、子孫既に覆廕を失い、多く貧寒に至り、斗尺の間、参商を競う。豈に自ら玷るのみならんや、乃ち更に先を辱しめ、曲直を論ぜず、倶に嗤毀を受く。莊田水碾は、既に衆有する所、互いに推倚し、或いは荒廃に致す。陸賈・石苞は、皆古の賢達なり、預め定分を為す所以は、将に其の後の争いを絶たんとす、吾静かにこれを思うに、深く嘆服す。昔孔子は亜聖なり、母の墓毀れて修めず。梁鴻は至賢なり、父亡びて席卷して葬る。昔楊震・趙咨・盧植・張奐は、皆当代の英達、今古に通識し、咸に遺言有り、薄葬を属す。或いは濯衣の時服、或いは単帛の幅巾、真魂身を去るを知り、速朽を貴ぶ、子孫皆成命に遵い、今に至るまで美談と為す。凡そ厚葬の家は、例として明哲に非ず、或いは流俗に溺れ、幽明を察せず、咸に奢厚を以て忠孝と為し、儉薄を以て慳惜と為し、至って亡者に戮屍暴骸の酷を致し、存者に不忠不孝の誚を陷らしむ。痛むべしかな、痛むべしかな。死者は無知、自ら糞土に同じ、何ぞ煩わしく厚葬せん、素業を傷つけしむるに。若しも知有らば、神は柩に在らず、復た何ぞ用いん君父の令に違い、衣食の資を破るを。吾が身歿したる後は、常服を以て殮るべし、四時の衣は、各一副のみ。吾が性は甚だ冠衣を愛せず、必ずや棺墓に将いるべからず、紫衣玉帯は、身に足れり、汝等これに違うこと勿れと念う。且つ神道は奢を悪み、冥塗は質を尚ぶ、若し吾が処分に違わば、吾をして地下に戮を受けしめん、汝の心安からんや。念いてこれを思え。今の佛經は、羅什の訳する所、姚興は本を執り、什と対翻す。姚興は永貴裏に浮屠を造り、府庫を傾竭し、広く荘厳を事とすれども、興の命は延びず、国も亦随って滅ぶ。又斉は山東に跨り、周は関右に据わる。周は則ち多く佛法を除きて兵威を修繕し、斉は則ち広く僧徒を置きて佛力に依憑す。及んで交戦に至り、斉氏滅亡し、国既に存せず、寺復た何ぞ有らん。福を修むるの報、何ぞ其れ蔑如なる。梁武帝は万乗を以て奴と為し、胡太后は六宮を以て入道せしむ、豈に身戮名辱のみならんや、皆以て国を亡ぼし家を破る。近日孝和皇帝は使を発して生を贖い、国を傾けて寺を造り、太平公主・武三思・悖逆庶人・張夫人等は皆人を度し寺を造り、竟に術は街に彌り、咸も戮を受け家を破るを免れず、天下の笑いと為る。經に云う、「長命を求めて長命を得、富貴を求めて富貴を得」、「刀は尋を段段に壞し、火坑は池と成る。」比来縁を求めて精進し富貴長命を得る者は誰ぞ。生前は知り易く、尚お応無きを覚ゆ、身後は究め難く、誰か征有るを見ん。且つ五帝の時は、父は子を葬らず、兄は弟を哭かず、其の仁寿を致し、夭横無きを言う。三王の代は、国祚延長し、人用いて休息す、其の人臣は則ち彭祖・老聃の類、皆遐齢を享く。此の時に当たりて、佛教未だ有らず、豈に經を抄し像を鑄くの力、齋を設け佛に施すの功ならんや。《宋書》《西域傳》に、名僧の《白黑論》を為す有り、理證明白、足りて沈疑を解く、宜しく観てこれを行え。且つ佛は覚なり、方寸に在り、仮りに萬像の広き有るとも、五蘊の中に出でず、但だ平等慈悲、善を行い悪を行わざれば、則ち佛道備わる。何ぞ必ずしも小説に溺れ、凡僧に惑わされ、仍って喻品を将い、実録と為し用い、經を抄し像を寫し、業を破り家を傾け、乃至し身を施すも亦吝るところ無からん、大惑と謂うべし。亦た亡人の為に像を造る縁有り、追福と名づく、方便の教は、則ち多端と雖も、功德は須らく自ら心を発すべく、旁ら助くるは寧んぞ応に報を得べけんや。互いに欺誑し、浸くに風俗と成り、生人を損耗し、亡者に益無し。仮りに通才達識有るとも、亦た時俗に拘らる。如来は普く慈しみ、物を利する意を存す、衆生の足らざるを損じ、豪僧の有餘を厚くす、必ず然らず。且つ死者は常なり、古来免れず、造る所の經像、何の為にか施為せん。夫れ釋迦の本法は、蒼生の大弊と為る、汝等各宜しく警策すべく、正法は心に在り、兒女子曹に效うこと勿れ、終身悟らざるなり。吾が亡びたる後は必ず此の弊法を為すべからず。若し全く正道に依る能わずんば、須らく俗情に順い、初七より終七に至るまで、任せて七僧齋を設けしむべし。若し齋に随いて須らく布施すべくんば、宜しく吾が身に縁る衣物を以て充つべく、輒く餘財を用いること得ず、益無き枉事を為すに、亦た妄りに私物を出だすこと得ず、追福の虚談に徇うべからず。道士は、本玄牝を以て宗と為し、初め趨競の教無し、而るに無識の者は僧家の利有るを慕い、佛教に約して業と為す。敬って老君の説を尋ぬるに、亦た過齋の文無く、僧例に抑えて同うすれば、之を失うこと彌に遠し。汝等鄙俗に拘ること勿れ、輒く家に屈すること勿れ。汝等身歿したる後は、亦た子孫を教えて吾が此の法に依らしむべしと云う。

原文古人云:富貴者,人之怨也。貴則神忌其滿,人惡其上;富則鬼瞰其室,虜利其財。自開辟已來,書籍所載,德薄任重而能壽考無咎者,未之有也。故范蠡、疏廣之輩,知止足之分,前史多之。況吾才不逮古人,而久竊榮寵,位逾高而益懼,恩彌厚而增憂。往在中書,遘疾虛憊,雖終匪懈,而諸務多闕。薦賢自代,屢有誠祈,人欲天從,竟蒙哀允。優遊園沼,放浪形骸,人生一代,斯亦足矣。田巴云:「百年之期,未有能至。」王逸少云:「俯仰之間,已爲陳跡。」誠哉此言。比見諸達官身亡以後,子孫既失覆廕,多至貧寒,鬥尺之間,參商是競。豈唯自玷,乃更辱先,無論曲直,俱受嗤毀。莊田水碾,既眾有之,遞相推倚,或致荒廢。陸賈、石苞,皆古之賢達也,所以預爲定分,將以絕其後爭,吾靜思之,深所嘆服。昔孔子亞聖,母墓毀而不修;梁鴻至賢,父亡席卷而葬。昔楊震、趙咨、盧植、張奐,皆當代英達,通識今古,鹹有遺言,屬以薄葬。或濯衣時服,或單帛幅巾,知真魂去身,貴於速朽,子孫皆遵成命,迄今以爲美談。凡厚葬之家,例非明哲,或溺於流俗,不察幽明,鹹以奢厚爲忠孝,以儉薄爲慳惜,至令亡者致戮屍暴骸之酷,存者陷不忠不孝之誚。可爲痛哉!可爲痛哉!死者無知,自同糞土,何煩厚葬,使傷素業。若也有知,神不在柩,復何用違君父之令,破衣食之資。吾身亡後,可殮以常服,四時之衣,各一副而已。吾性甚不愛冠衣,必不得將入棺墓,紫衣玉帶,足便於身,念爾等勿復違之。且神道惡奢,冥塗尚質,若違吾處分,使吾受戮於地下,於汝心安乎?念而思之。今之佛經,羅什所譯,姚興執本,與什對翻。姚興造浮屠於永貴裏,傾竭府庫,廣事莊嚴,而興命不得延,國亦隨滅。又齊跨山東,周據關右,周則多除佛法而修繕兵威,齊則廣置僧徒而依憑佛力。及至交戰,齊氏滅亡,國既不存,寺復何有?修福之報,何其蔑如!梁武帝以萬乘爲奴,胡太后以六宮入道,豈特身戮名辱,皆以亡國破家。近日孝和皇帝發使贖生,傾國造寺,太平公主、武三思、悖逆庶人、張夫人等皆度人造寺,竟術彌街,鹹不免受戮破家,爲天下所笑。經云:「求長命得長命,求富貴得富貴」,「刀尋段段壞,火坑變成池。」比求緣精進得富貴長命者爲誰?生前易知,尚覺無應,身後難究,誰見有征。且五帝之時,父不葬子,兄不哭弟,言其致仁壽、無夭橫也。三王之代,國祚延長,人用休息,其人臣則彭祖、老聃之類,皆享遐齡。當此之時,未有佛教,豈抄經鑄像之力,設齋施佛之功耶?《宋書》《西域傳》,有名僧爲《白黑論》,理證明白,足解沈疑,宜觀而行之。且佛者覺也,在乎方寸,假有萬像之廣,不出五蘊之中,但平等慈悲,行善不行惡,則佛道備矣。何必溺於小説,惑於凡僧,仍將喻品,用爲實錄,抄經寫像,破業傾家,乃至施身亦無所吝,可謂大惑也。亦有緣亡人造像,名爲追福,方便之教,雖則多端,功德須自發心,旁助寧應獲報?遞相欺誑,浸成風俗,損耗生人,無益亡者。假有通才達識,亦爲時俗所拘。如來普慈,意存利物,損眾生之不足,厚豪僧之有餘,必不然矣。且死者是常,古來不免,所造經像,何所施爲?夫釋迦之本法,爲蒼生之大弊,汝等各宜警策,正法在心,勿效兒女子曹,終身不悟也。吾亡後必不得爲此弊法。若未能全依正道,須順俗情,從初七至終七,任設七僧齋。若隨齋須布施,宜以吾緣身衣物充,不得輒用餘財,爲無益之枉事,亦不得妄出私物,徇追福之虛談。道士者,本以玄牝爲宗,初無趨競之教,而無識者慕僧家之有利,約佛教而爲業。敬尋老君之説,亦無過齋之文,抑同僧例,失之彌遠。汝等勿拘鄙俗,輒屈於家。汝等身沒之後,亦教子孫依吾此法云。

十七年、重ねて崇に太子太保を贈る。

原文十七年,重贈崇太子太保。

崇の長子 彜

原文崇長子 彜

崇の長子彜は、開元初め光祿少卿。

原文崇長子彜,開元初光祿少卿。

崇の次子 異

原文崇次子 異

次子異は、坊州刺史。少子弈は、少にして修謹、開元末、禮部侍郎・尚書右丞と為る。天寶元年、右相牛仙客薨ず、彜の男閎は侍御史・仙客の判官たり、仙客の疾亟めるを見て、逼りて仙客の表を為らしめ、弈及び兵部侍郎盧奐を以て宰相と為し己に代わらんことを請わしむ。其の妻因りて中使に奏す、玄宗聞きて之を怒り、閎は死を決し、弈は出でて永陽太守と為り、奐は臨淄太守と為る。

原文次子異,坊州刺史。少子弈,少而修謹,開元末,爲禮部侍郎、尚書右丞。天寶元年,右相牛仙客薨,彜男閎爲侍御史、仙客判官,見仙客疾亟,逼爲仙客表,請以弈及兵部侍郎盧奐爲宰相代己。其妻因中使奏之,玄宗聞而怒之,閎決死,弈出爲永陽太守,奐爲臨淄太守。

崇の玄孫 合

原文崇玄孫 合

玄孫合は、進士第に登り、武功尉を授かり、監察御史に遷り、位は給事中に終わる。

原文玄孫合,登進士第,授武功尉,遷監察御史,位終給事中。

宋璟

原文宋璟

宋璟は、邢州南和の人、其の先は廣平より徙まる、後魏の吏部尚書弁の七代の孫なり。父は玄撫、璟の貴きを以て、邢州刺史を贈らる。璟は少にして耿介大節有り、博學、文翰に工なり。弱冠にして進士に挙げられ、累轉して鳳閣舍人と為る。官に当たりて正色す、則天甚だ之を重んず。長安年中、幸臣張易之、御史大夫魏元忠に不順の言有りと誣構し、鳳閣舍人張説を引いて之を證せしむ。説将に御前に入りて対覆せんとす、惶惑迫懼す、璟之に謂いて曰く、「名義は至重、神道は欺き難し、必ず邪に党して正を陷れ、以て苟免を求むべからず。若し犯顏に縁りて流貶せらるれば、芬芳多し。或いは不測に至らば、吾必ず閤を叩きて子を救わん、将に子と同死せん。努力せよ、万代の瞻仰、此の挙に在り。」説其の言に感ず。及び入るに及びて、乃ち元忠を保明し、竟に死を免るるを得たり。

原文宋璟,邢州南和人,其先自廣平徙焉,後魏吏部尚書弁七代孫也。父玄撫,以璟貴,贈邢州刺史。璟少耿介有大節,博學,工於文翰。弱冠舉進士,累轉鳳閣舍人。當官正色,則天甚重之。長安中,幸臣張易之誣構御史大夫魏元忠有不順之言,引鳳閣舍人張說令證之。說將入於御前對覆,惶惑迫懼,璟謂曰:「名義至重,神道難欺,必不可黨邪陷正,以求茍免。若緣犯顏流貶,芬芳多矣。或至不測,吾必叩閤救子,將與子同死。努力,萬代瞻仰,在此舉也。」說感其言。及入,乃保明元忠,竟得免死。

宋璟はまもなく左御史臺中丞に遷った。張易之と弟の昌宗はますます横暴になり、朝廷の者たちは皆これに阿った。昌宗は密かに相工の李弘泰を引き入れて吉凶を占わせ、その言葉が不遜に及んだため、密告された。璟は朝廷で上奏し、その事実を徹底的に究明するよう請うた。則天は「易之らはすでに自ら奏上している。罪を加えることはできない」と言った。璟は「易之らの事が露見して自ら陳述したのであれば、その情状は赦し難く、しかも謀反大逆の罪は、自首によって免罪されることはありません。御史臺で取り調べるよう命じ、国法を明らかにすべきです。易之らは長くご任用を受け、格別の恩寵を蒙っております。臣は必ずや言葉を発すれば禍が従うことを知っておりますが、しかし義に心を激せられ、たとえ死んでも悔いはありません」と言った。則天は不機嫌になった。内史の楊再思は勅旨に逆らうことを恐れ、急いで勅令を宣して璟を退出させようとした。璟は「天子の御顔は咫尺の間にあり、臣は直接に徳音を奉じております。宰臣が勝手に王命を宣する必要はありません」と言った。則天の怒りはやや解け、ついに易之らを御史臺に収監し、取り調べようとした。間もなく特別の勅令があってこれを赦免し、さらに易之らに璟のもとへ行って謝罪するよう命じた。璟は拒絶して会おうとせず、「公事は公に言うべきものである。もし私的に会えば、法に私情はないことになる」と言った。

原文璟尋遷左御史臺中丞。張易之與弟昌宗縱恣益橫,傾朝附之。昌宗私引相工李弘泰觀占吉兇,言涉不順,為飛書所告。璟廷奏請窮究其狀,則天曰:「易之等已自奏聞,不可加罪。」璟曰:「易之等事露自陳,情在難恕,且謀反大逆,無容首免。請勒就御史臺勘當,以明國法。易之等久蒙驅使,分外承恩,臣必知言出禍從,然義激於心,雖死不恨。」則天不悅。內史楊再思恐忤旨,遽宣敕令璟出。璟曰:「天顏咫尺,親奉德音,不煩宰臣擅宣王命。」則天意稍解,乃收易之等就臺,將加鞫問。俄有特敕原之,仍令易之等詣璟辭謝,璟拒而不見,曰:「公事當公言之,若私見,則法無私也。」

璟はかつて朝堂で宴会に侍っていた。当時、易之兄弟は皆列卿であり、位は三品であったが、璟の本来の階位は六品で下座にいた。易之は平素から璟を恐れており、その気を引こうと、空いた上座を指して璟に拱手して言った。「貴公は第一人者であるのに、どうして下座におられるのか」。璟は「才能劣り品階卑し。張卿が私を第一人者とお思いになるのは、どういうわけか」と言った。当時、朝廷の列位の者は皆、二張が内寵を受けているため、官名で呼ばず、易之を五郎、昌宗を六郎と呼んでいた。天官侍郎の鄭善果が璟に言った。「中丞はどうして五郎を卿と呼ぶのか」。璟は「官によって言えば、正に卿と呼ぶべきである。もし親しい間柄ならば、張五と呼ぶべきだ。足下は易之の家奴ではないのに、何の郎ということがあろうか。鄭善果はなんと懦弱なことか」と言った。その剛直さは皆このようなものであった。これ以後、易之らは常に事に乗じて璟を傷つけようとしたが、則天はその事情を察知し、結局璟は難を免れた。

原文璟嘗侍宴朝堂,時易之兄弟皆為列卿,位三品,璟本階六品,在下。易之素畏璟,妄悅其意,虛位揖璟曰:「公第一人,何乃下座?」璟曰:「才劣品卑,張卿以為第一人,何也?」當時朝列,皆以二張內寵,不名官,呼易之為五郎,昌宗為六郎。天官侍郎鄭善果謂璟曰:「中丞奈何呼五郎為卿?」璟曰:「以官言之,正當為卿;若以親故,當為張五。足下非易之家奴,何郎之有?鄭善果一何懦哉!」其剛正皆此類也。自是易之等常欲因事傷之,則天察其情,竟以獲免。

神龍元年、吏部侍郎に遷った。中宗は璟の正直さを嘉し、さらに諫議大夫・内供奉を兼ねさせ、仗下の後に朝廷の得失を言上させた。まもなく黄門侍郎に任じられた。当時、武三思は寵を恃んで権勢を握り、かつて璟に請託したことがあった。璟は厳しい顔色で彼に言った。「当今は天子に政権を返還されたのであり、王は侯として邸に退くべきです。どうしてなお朝廷の政事に干渉することができましょうか。王はただ呂産・呂禄の事を見ないのですか」。間もなく京兆の人韋月将が上書して、三思が密かに宮中と通じ、禍患の兆しとなろうとしていることを訴えた。三思は役人に唆して月将が大逆不道であると奏上させ、中宗は特に誅殺を命じた。璟は執奏してその罪状を審理した上で、法典を明らかにすべきであると請い、月将は結局極刑を免れ、嶺南に配流されて死んだ。

原文神龍元年,遷吏部侍郎。中宗嘉璟正直,仍令兼諫議大夫、內供奉,仗下後言朝廷得失。尋拜黃門侍郎。時武三思恃寵執權,嘗請托於璟,璟正色謂之曰:「當今復子明辟,王宜以侯就第,何得尚幹朝政?王獨不見產、祿之事乎?」俄有京兆人韋月將上書訟三思潛通宮掖,將為禍患之漸,三思諷有司奏月將大逆不道,中宗特令誅之。璟執奏請按其罪狀,然後申明典憲,月將竟免極刑,配流嶺南而死。

中宗が西京に行幸した際、璟に権検校并へい州長史を命じたが、まだ赴任しないうちに、また本官のまま検校貝州刺史を兼ねさせた。当時、河北はたびたび水害に遭い、百姓は飢えていた。三思の封邑は貝州にあり、専使を派遣してその租賦を徴収したが、璟はまた拒絶して与えなかった。このため三思に排斥されることとなった。また杭・相二州刺史を歴任し、在官中は清廉厳格で、人吏で犯す者はなかった。

原文中宗幸西京,令璟權檢校并州長史,未行,又帶本官檢校貝州刺史。時河北頻遭水潦,百姓饑餒,三思封邑在貝州,專使征其租賦,璟又拒而不與,由是為三思所擠。又歷杭、相二州刺史,在官清嚴,人吏莫有犯者。

中宗が崩御すると、洛州長史に任じられた。睿宗が即位すると、吏部尚書・同中書門下三品に遷った。玄宗が皇太子であった時、また右庶子を兼ね、銀青光禄大夫を加えられた。先に、外戚および諸公主が朝政に干渉し、請託がますます甚だしくなっていた。崔湜・鄭愔が相次いで選挙を掌ったが、権門に制せられ、九流の秩序が乱れ、あらかじめ二年分の官欠員を注擬に用いても足りず、さらに比冬の選人を置いたため、士庶の嘆きを大いに買った。ここに至り、璟は侍郎の李乂・盧從願らとともに大いに前の弊害を改革し、取捨は公平妥当で、銓綜に秩序があった。

原文中宗晏駕,拜洛州長史。睿宗踐祚,遷吏部尚書、同中書門下三品。玄宗在春宮,又兼右庶子,加銀青光祿大夫。先是,外戚及諸公主干預朝政,請托滋甚。崔湜、鄭愔相次典選,為權門所制,九流失敘,預用兩年員闕註擬,不足,更置比冬選人,大為士庶所嘆。至是,璟與侍郎李乂、盧從願等大革前弊,取舍平允,銓綜有敘。

当時、太平公主が玄宗に対して不利を謀り、かつて光範門内で輦に乗って執政者を待ち受け、それとなくほのめかした。一同は皆顔色を失った。璟は声高に言った。「東宮は天下に対して大功があり、真の宗廟社稷の主である。どうして異議がありえようか」。そこで姚崇とともに上奏して、公主を東都に就かせるよう請うた。玄宗は恐れ、上表して璟らに罪を加えるよう請うたため、ついに璟は楚州刺史に貶せられた。間もなく、魏・兗・冀三州刺史、河北按察使を歴任した。幽州都督・兼御史大夫に遷った。まもなく国子祭酒に任じられ、東都留守を兼ねた。一年余りして京兆尹に転じ、また御史大夫に任じられたが、事に坐して睦州刺史に出され、広州都督に転じ、さらに五府経略使となった。広州の旧来の習俗では、皆竹や茅で屋根を葺いていたため、たびたび火災があった。璟は人々に瓦を焼かせ、店舗を改造させた。これ以後、延焼の災いは再びなくなり、人々は皆その恩恵を懐き、頌を立ててその政績を記念した。

原文時太平公主謀不利於玄宗,嘗於光範門內乘輦伺執政以諷之,眾皆失色。璟昌言曰:「東宮有大功於天下,真宗廟社稷之主,安得有異議!」乃與姚崇同奏請令公主就東都。玄宗懼,抗表請加璟罪於等,乃貶璟為楚州刺史。無幾,歷魏、兗、冀三州刺史,河北按察使。遷幽州都督、兼御史大夫。尋拜國子祭酒,兼東都留守。歲餘,轉京兆尹,復拜御史大夫,坐事出為睦州刺史,轉廣州都督,仍為五府經略使。廣州舊俗,皆以竹茅為屋,屢有火災。璟教人燒瓦,改造店肆,自是無復延燒之患,人皆懷惠,立頌以紀其政。

開元初年、刑部尚書に召し出されて任じられた。四年、吏部尚書に遷り、黄門監を兼ねた。翌年、官名が改易され、侍中となり、累ねて広平郡公に封ぜられた。その秋、天子は東都に行幸し、永寧の崤谷に宿泊した。馳道が狭隘で、車騎が停滞して混雑した。河南尹の李朝隠と知頓使の王怡はともに隊伍の統制を誤り、上はその官爵を剥奪するよう命じた。璟が入奏して言った。「陛下は御年若く、まさに巡狩を行われようとしているところです。ただちに道が狭隘であるということで、二臣を罪に落とされました。臣はひそかに、将来人々が艱難を被ることを恐れます」。そこで天子は急いでこれを赦すよう命じた。璟は言った。「陛下が彼らを責められ、臣の言葉によって赦されるのであれば、過ちは上に帰し、恩恵は下から出ることになります。どうかしばらく朝廷で待罪させ、その後詔を下してその職を回復させてください。そうすれば進退がその度をえるでしょう」。上は深くこれを良しとした。間もなくまた璟と中書侍郎の蘇颋に、皇子の制名と封邑、および公主らの邑号を定めるよう命じた。璟らは上奏して言った。「王子たちは三十余国に封ぜられようとしております。周の麟趾、漢の犬牙など、それらは何と足りましょう、これこそ盛大であります。臣らはひそかに、郯王・郟王などに傍らに古い邑の字があるのを見て、類推して選択し、謹んで三十国の国名を列挙いたします。また、王子で先に名がある者は、皆上に『嗣』の字を付けました。また、公主の邑号についても、三十の美名を選択し、いずれも文が意を害せず、言葉は十分に体裁を定めております。また、臣らに別に佳名一つと美邑号一つを撰ぶよう命じられましたが、七子を均しく養うことは、百王の至仁であります。今もし同等に別封すれば、あるいは母の寵愛や子への愛によって、骨肉の間柄に、人が言い難いことが生じるかもしれません。天地の中には、典に常度があります。昔、袁盎が慎夫人の席を下げたところ、文帝はついにこれを容れられ、慎夫人もまた嫌とは思われず、その久長の計を得たことを美しまれました。臣らは敢えて同じものを進上し、別封はいたしません。上は覆載に偏りのない徳を顕彰されるでしょう」。上はこれを称嘆した。

原文開元初,征拜刑部尚書。四年,遷吏部尚書,兼黃門監。明年,官名改易,為侍中,累封廣平郡公。其秋,駕幸東都,次永寧之崤谷,馳道隘狹,車騎停擁,河南尹李朝隱、知頓使王怡並失於部伍,上令黜其官爵。璟入奏曰:「陛下富有春秋,方事巡狩,一以墊隘,致罪二臣,竊恐將來人受艱弊。」於是遽令舍之。璟曰:「陛下責之,以臣言免之,是過歸於上而恩由於下。請且使待罪於朝,然後詔復其職,則進退得其度矣。」上深善之。俄又令璟與中書侍郎蘇颋為皇子制名及封邑,並公主等邑號。璟等奏曰:「王子將封三十余國,周之麟趾,漢之犬牙,彼何足雲,於斯為盛。竊以郯、郟王等傍有古邑字,臣等以類推擇,謹件三十國名。又王子先有名者,皆上有『嗣』字,又公主邑號,亦選擇三十美名,皆文不害意,言足定體。又令臣等別撰一佳名及一美邑號者。七子均養,百王至仁,今若同等別封,或緣母寵子愛,骨肉之際,人所難言,天地之中,典有常度。昔袁盎降慎夫人之席,文帝竟納之,慎夫人亦不以為嫌,美其得久長之計。臣等故同進,更不別封,上彰覆載無偏之德。」上稱嘆之。

七年、開府儀同三司の王皎が卒去し、墳墓を築こうとしたとき、皎の子で駙馬都尉の守一が、かつての昭成皇后の父竇孝諶の故事と同じく、その墳の高さを五丈一尺とするよう請うた。璟と蘇颋は一様に礼式に従うよう請い、上は初めこれに従った。翌日、また孝諶の旧例に準ずるよう命じた。璟らは上言して言った。

原文七年,開府儀同三司王皎卒,及將築墳,皎子駙馬都尉守一請同昭成皇后父竇孝諶故事,其墳高五丈一尺。璟及蘇颋請一依禮式,上初從之。翌日,又令準孝諶舊例。璟等上言曰:

およそ倹約は徳のうちでも恭順なるもの、奢侈は悪のうちでも甚だしきものである。高い墳丘は昔の賢者が戒めたところ、厚葬は君子が非とする実態である。古の者は墓を作って墳丘は作らず、これがその道であった。およそ人の子たるもの、哀悼して送る際には、礼制を思うことがない。ゆえに周公・孔子は斉衰・斬衰・緦麻・袒免の差等を設け、衣衾・棺槨の法度を定め、賢者はこれに従い、私情を果たさなかった。また蒼梧の野(舜の葬地)、驪り山の徒(始皇陵の労働者)は、善悪が区別され、図史に記載されている。衆人が皆奢侈に努める中で独りこれを改めうる、これこそ至孝の要道というものである。中宮(皇后)がもしこれを言上するならば、この道理は固く諭すことができる。外では竇太尉(竇抗)の墳が甚だ高い、手本とすること遠からず、などと言う者がある。仮に往時に極言がなく、その事が偶々行われたとしても、それは一時の令であって、常の法式ではない。また貞観年間、文徳皇后が生んだ女長楽公主を嫁がせるに当たり、儀注を長公主より加えるよう奏請したところ、魏徴が諫めて言うには、『皇帝の姑姉は長公主、皇帝の女は公主であり、既に「長」の字がある以上、公主より高くあるべきである。長公主より加えることは、甚だ不可である』と。漢明帝の故事を引き、『群臣が皇子を封じて王としようとした時、帝は「朕の子がどうして先帝の子と等しくできようか」と言われた』と。時に太宗はこれを嘉して受け入れられた。文徳皇后は中使を降して魏徴に謝意を伝えさせた。これは乾坤(天地、ここでは皇帝・皇后)が輔佐する間に、余裕綽々たるものであった。どうして韋庶人(中宗の皇后韋氏)の父に王位を追贈し、勝手に陵墓を作り、禍が踵を返す間もなく、天下の笑いものとなったことと同日に言えようか。すなわち顔を犯し耳に逆らうことと、意に阿り旨に順うことは、同じ日に論じることはできない。況や令に記載され、あらかじめ綱紀と為し、情は窮まりなきものゆえ、これに制度を設け、人によって動揺せず、法を愛憎によって変えない。近ごろ金科玉条というのは、まさにこのことを言うのである。近来、蕃夷の輩や都市の閑人が、次々に奢侈を以て互いに高め合い、礼儀を意に介さない。今、后父の寵愛、開府の栄誉、金穴玉衣の資財をもって、物の少なきを憂えず、高墳大寝の労役をもって、人のなきを畏れない。百事皆官より出で、一朝にして成すこともできる。しかるに臣らが区区としてやまずに聞かせるのは、朝廷の政を成し、国母の徳を崇め、教化を寰区に浸透させ、名声を竹帛に輝かせたいと考えるからである。もし中宮の情が奪いがたく、陛下も苦しんで違えることができなければ、即ち一品に準じて陪陵に葬られるべき者の、墳高三丈以上四丈以下という規定に降り、勅を以て陪陵の例と同じくするならば、極めて高低得宜となるであろう。

原文夫儉,德之恭;侈,惡之大。高墳乃昔賢所誡,厚葬實君子所非。古者墓而不墳,蓋此道也。凡人子於哀送之際,則不以禮制為思。故周、孔設齊斬緦免之差,衣衾棺槨之度,賢者俯就,私懷不果。且蒼梧之野,驪山之徒,善惡分區,圖史所載。眾人皆務奢靡而獨能革之,斯所謂至孝要道也。中宮若以為言,則此理固可敦諭。在外或云竇太尉墳甚高,取則不遠者。縱令往日無極言,其事偶行,令出一時,故非常式。又貞觀中文德皇后嫁所生女長樂公主,奏請儀註加於長公主,魏征諫云:「皇帝之姑姊為長公主,皇帝之女為公主,既有『長』字,合高於公主。若加於長公主,事甚不可。」引漢明故事云:「群臣欲封皇子為王,帝曰:『朕子豈敢與先帝子等。』」時太宗嘉納之。文德皇后奏降中使致謝於征。此則乾坤輔佐之間,綽有余裕。豈若韋庶人父追加王位,擅作邦陵,禍不旋踵,為天下笑。則犯顏逆耳,阿意順旨,不可同日而言也。況令之所載,預作紀綱,情既無窮,故為之制度,不因人以搖動,不變法以愛憎。頃謂金科玉條,蓋以此也。比來蕃夷等輩及城市閑人,遞以奢靡相高,不將禮儀為意。今以後父之寵,開府之榮,金穴玉衣之資,不憂少物;高墳大寢之役,不畏無人。百事皆出於官,一朝亦可以就。而臣等區區不已以聞,諒欲成朝廷之政,崇國母之德,化浹寰區,聲光竹素。倘中宮情不可奪,陛下不能苦違,即準一品合陪陵葬者,墳高三丈已上,四丈已下,降敕將同陪陵之例,即極是高下得宜。

上(玄宗)は璟らに言われた、「朕は常に何事につけても身を正して綱紀を成そうと欲する。妻子に至っては、情に私があるわけではあるまい。しかし人が言い難いことも、またここにある。卿らはよく再三堅く執り、朕の美事を成し遂げた。万代の後、我が史策を光揚するに足る」。かくて使者を遣わし彩絹四百匹を賜い、分かち与えさせた。

原文上謂璟等曰:「朕每事常欲正身以成綱紀,至於妻子,情豈有私?然人所難言,亦在於此。卿等乃能再三堅執,成朕美事,足使萬代之後,光揚我史策。」乃遣使賫彩絹四百匹分賜之。

先に、朝集使が毎年春に帰還する際、多くが改転(転任・昇進)し、常例としていた。璟は一切これを留め還らせるよう奏請し、僥倖を求める道を絶った。また悪銭を禁断し、使者を発して分道し検査・没収・銷毀させたが、士庶の怨みをかなり招いた。まもなく璟を開府儀同三司に授け、知政事を罷免した。明年、京兆の人権梁山が逆を構えて誅せられ、制を下して河南尹王怡に伝車を馳せて長安に往かせ、その枝党を窮めさせた。怡は拘禁する者が極めて多く、久しく決断できなかった。そこで詔して璟に京兆留守を兼ねさせ、併せてその獄を審理覆按させた。璟が到着すると、元謀の数人だけを罪とし、その他、梁山が詐って婚礼と称し借り受けたことで罪を得た者及び脅従した者は、ことごとく奏上して赦した。十二年、車駕また東巡し、璟は再び留守となった。上は出発に臨み、璟に言われた、「卿は国の元老、朕の股肱耳目である。今洛邑に巡幸しようとしている。別れて時を経るにあたり、すべての嘉謨嘉猷を、相告ぐべきである」。璟はそこで得失を極言した。特に彩絹などを賜い、なお手制して言われた、「進言した言葉を、座右に書き記し、出入りするごとに観覧し省みて、以て終身を戒めよう」。そのように重んぜられた。まもなくまた吏部尚書を兼ねた。十七年、尚書右丞相に遷り、張説・源乾曜と同日に官を拝した。勅して太官に饌を設けさせ、太常に楽を奏させ、尚書都省において百官を大会した。玄宗は詩を賦して褒め述べ、自ら書写して与えられた。

原文先是,朝集使每至春將還,多有改轉,率以為常,璟奏請一切勒還,絕其僥求之路。又禁斷惡錢,發使分道檢括銷毀之,頗招士庶所怨。俄授璟開府儀同三司,罷知政事。明年,京兆人權梁山構逆伏誅,制河南尹王怡馳傳往長安窮其枝黨。怡禁系極眾,久之未能決斷,乃詔璟兼京兆留守,並按覆其獄。璟至,惟罪元謀數人,其余緣梁山詐稱婚禮因假借得罪及脅從者,盡奏原之。十二年,駕又東巡,璟復為留守。上臨發,謂璟曰:「卿國之元老,為朕股肱耳目。今將巡洛邑,為別歷時,所有嘉謨嘉猷,宜相告也。」璟因極言得失,特賜彩絹等,仍手制曰:「所進之言,書之座右,出入觀省,以誡終身。」其見重如此。俄又兼吏部尚書。十七年,遷尚書右丞相,與張說、源乾曜同日拜官。敕太官設饌,太常奏樂,於尚書都省大會百僚。玄宗賦詩褒述,自寫與之。

二十年、年老いたことを以て上表して言う、「臣は聞く、力足らざる者は、老いてますます衰え、心に主なき者は、病んで特に廃れると。臣は昔その言葉を聞き、今自らにこれを験す。況んや兼ねているものを、どうして為しえようか。臣は幽介(微賤)より抜擢され、盛明の世に属することを欽仰し、才は人に及ばず、芸は国を経るものではない。また久しく駆策(任用)を受け、歴参し試用され、命は時に偶い、栄は歳を積んで、遂に再び台座(宰相の座)に昇り、三たび冢司(尚書省長官)に入り、階を進めて開府と為り、封を増して本郡とした。歴任した中外の官は、既に彜章(常典)を乱し、端揆(宰相)の位に至っては、左に名職を忝くする。何となれば、丞相は官師の長であり、任は昔時重く、愚臣は衰朽の余り、他日に用いるに慚じる。位はますます盛んになるが、人は次第に微になる。その然ることを尽く知りながら、どうして居ることができようか。かつて僶俛して政に従い、蒼黄として言わず、実に覆載(天地)の徳を懐き、涓塵の効を竭くさんことを冀った。今、積み重なった衰弱が疲憊となり、沈錮して癒えず、耳目はますます昏く、手足は多く廃る。顧みて倒れ落ちることを思い、どうして宿心を遂げられようか。どうして苟も大名に徇い、なお重祿に屍位し、章綬を留め、闕庭に上らないでいられようか。儀刑これに背き、礼法何を設けん。伏して惟うに、陛下は能を審らかにして授け、官を為して択び、臣の懇切な言葉を察し、臣の及ばざるを憐れみ、罷めて私第に帰らせ、衡門(貧家の門)に疾を養わせ、上は官に対する誹謗を止め、下は死すべき所を知らしめ給え。そうすれば全きを帰する望みは、愚臣に在り、老を養う恩は、聖代に成る。日暮れて途遠く、天高くして聴き卑し。軒墀(宮殿の階段)を瞻望し、伏して深く感恋す。謹んで表を奉り陳乞して聞かせる」。手勅を以てこれを許し、なお禄俸を全額給することを命じられた。璟はそこで退いて東都の私第に帰り、人事を屏絶し、医薬に就いた。二十二年、車駕東都に幸す。璟は路左で迎え謁した。上は栄王に親しく労問させ、これより頻りに使者を遣わして薬餌を送らせた。二十五年に薨じ、年七十五。太尉を追贈し、諡して文貞といった。

原文二十年,以年老上表曰:「臣聞力不足者,老則更衰;心無主者,疾而尤廢。臣昔聞其語,今驗諸身,況且兼之,何能為也。臣自拔跡幽介,欽屬盛明,才不逮人,藝非經國。復以久承驅策,歷參試用,命偶時來,榮因歲積。遂使再升臺座,三入冢司,進階開府,增封本郡。所更中外,已紊彜章,逮居端揆,左叨名職。何者?丞相官師之長,任重昔時;愚臣衰朽之余,用慚他日。位則愈盛,人則浸微,盡知其然,何居而可?頃僶俯從政,蒼黃不言,實懷覆載之德,冀竭涓塵之效。今積羸成憊,沈錮莫瘳,耳目更昏,手足多廢。顧惟殞越,寧遂宿心?安可以茍徇大名,仍屍重祿,且留章綬,不上闕庭。儀刑此乖,禮法何設?伏惟陛下審能以授,為官而擇,察臣之懇詞,矜臣之不逮,使罷歸私第,養疾衡門,上弭官謗,下知死所。則歸全之望,獲在愚臣;養老之恩,成於聖代。日暮途遠,天高聽卑,瞻望軒墀,伏深感戀。謹奉表陳乞以聞。」手敕許之,仍令全給祿俸。璟乃退歸東都私第,屏絕人事,以就醫藥。二十二年,駕幸東都,璟於路左迎謁,上遣榮王親勞問之,自是頻遣使送藥餌。二十五年薨,年七十五,贈太尉,謚曰文貞。

子の昇は、天宝初めに太僕少卿。次いで尚は、漢東太守。次いで渾は、右相李林甫と親しく、諫議大夫・平原太守・御史中丞・東京采訪使に引き立てられた。次いで恕は、都官郎中・劍南采訪判官。権勢に依り頼み、頗る貪暴であった。渾は平原において、一年分の庸調を重ねて徴収した。東畿采訪使として、また河南尉楊朝宗に命じて影で妻鄭氏を娶らせた。鄭氏は薛稷の外孫で、姉は宗婦(一族の婦人)であり、寡居して美色があった。渾には妻があったが、朝宗に聘わせて渾がこれを納れ、朝宗を赤尉(京兆府・河南府の尉)に奏した。恕は劍南において、雒県令崔珪がいた。恕の表兄で、妻が美しかった。恕は誘って私通し、かえって珪を貶官した。また刺客李晏を養った。九載に至り、共に人に発覚され、贓私それぞれ数万貫に及んだ。林甫が奏上して、璟の子渾は東京の臺で推問させ、恕は本使の劍南で推問させたところ、皆実状があった。渾は嶺南高要郡に流罪、恕は海康郡に流罪。尚はその年にまた人にその贓を訟えられ、臨海長史に貶せられた。その子の華・衡は、官に居て皆贓罪に坐り、相次いで流貶された。その後、渾は赦に会い、量移して東陽郡下に至ったが、請托と過分な要求、及び人吏を使役し、その資課(財物)を求め、人はその弊に堪えず、これを訟え、潯江郡に配流された。しかし兄弟は皆酒宴と戯れを好み、俳優雑戯にふけり、衡が最も粗野で危険であり、広平(宋璟の封爵)の風教は、もはや存しなかった。広徳の後、渾は太子諭徳に除されたが、物議に薄められ、乃ち江嶺に留まり寓居して卒した。

原文子昇,天寶初太仆少卿。次尚,漢東太守。次渾,與右相李林甫善,引為諫議大夫、平原太守、御史中丞、東京采訪使。次恕,都官郎中、劍南采訪判官,依倚權勢,頗為貪暴。渾在平原,重征一年庸調。作東畿采訪使,又使河南尉楊朝宗影娶妻鄭氏。鄭氏即薛稷外孫,姊為宗婦,孀居有色,渾有妻,使朝宗聘而渾納之,奏朝宗為赤尉。恕在劍南,有雒縣令崔珪,恕之表兄,妻美,恕誘而私之,而貶珪官。又養刺客李晏。至九載,並為人所發,贓私各數萬貫。林甫奏稱璟子渾就東京臺推,恕就本使劍南推,皆有實狀,渾流嶺南高要郡,恕流海康郡。尚,其載又為人訟其贓,貶臨海長史。其子華、衡,居官皆坐贓,相次流貶。其後渾會赦,量移至東陽郡下,請托過求,及役使人吏,求其資課,人不堪其弊,訟之,配流潯江郡。然兄弟盡善飲謔,俳優雜戲,衡最粗險,廣平之風教,無復存矣。廣德後,渾除太子諭德,為物議薄之,乃留寓於江嶺卒。

【史評】

原文【史評】

史臣曰く、艱危を履めば則ち良臣を見易くし、平定に処すれば則ち賢相を彰かしめ難し。故に房・杜は創業の功を預かり、儔匹すべからず。而して姚・宋は武・韋二后を経て、政乱れ刑淫なり、頗る履む所中に渉り、声跡を全うすることを克し、抑も愧ずる無からんか。

原文史臣曰:履艱危則易見良臣,處平定則難彰賢相。故房、杜預創業之功,不可儔匹。而姚、宋經武、韋二後,政亂刑淫,頗涉履於中,克全聲跡,抑無愧焉。

【贊】

原文【贊】

贊に曰く、姚・宋用いに入り、刑政多端なり。政を為すこと匪易く、刑を防ぐこと益難し。諫諍は猛を以てし、施張は寛を用う。其の道有らざれば、将に何を以てか安からん。

原文贊曰:姚、宋入用,刑政多端。為政匪易,防刑益難。諫諍以猛,施張用寬。不有其道,將何以安?