卷九十五
皇帝憲・恵荘太子捴・恵文太子範・恵宣太子業・隋王隆悌
睿宗に六人の子あり。昭成順聖皇后竇氏は玄宗を生み、粛明順聖皇后劉氏は譲皇帝を生み、宮人柳氏は恵荘太子を生み、崔孺人は恵文太子を生み、王徳妃は恵宣太子を生み、後宮は隋王隆悌を生む。
譲皇帝 憲
時に太平公主が密かに異図を抱き、姚元之・宋璟らは成器と申王成義を刺史として出させ、謀る者の心を絶つよう請うた。これにより成器は司徒として蒲州刺史を兼ねた。玄宗はかつて大きな被と長い枕を作らせ、成器らと共に兄弟の親愛の情を伸ばそうとした。睿宗はこれを知って大いに喜び、累次賞賛した。
玄宗は既に兄弟に篤く、讒言がその間を交えて構えても、友愛は初めの如くであった。憲は特に恭謹で畏慎し、かつて時政に干渉し議したり、人と交わり結んだりすることなく、玄宗は特に彼を信頼し重用した。かつて憲及び岐王範らに書を送って言うには、「昔、魏文帝の詩に云う、『西山一何高、高処殊無極。上有両仙童、不飲亦不食。賜我一丸薬、光耀有五色。服薬四五日、身軽生羽翼』と。朕は毎々服薬して羽翼を求めることを思うが、いずくんぞ骨肉の兄弟、天が生んだ羽翼に如かんや!陳思王(曹植)は超世の才あり、経綸の務を輔佐するに堪えたが、その朝謁を絶ち、遂に憂死させた。魏の祚は未だ終わらざるに、司馬宣王の奪う所に遭う。豈に神丸の効あらんや!虞舜は至聖であり、象の傲りの過ちを拾てて九族を親しみ、九族既に睦まじく、百姓を平章す。これ帝王の軌則であり、今より数千歳、天下は善に帰す。朕は未だ嘗て寝食を廃して欽嘆せざるはなく、頃に余暇に因り、仙経を妙選してこの神方を得たり。古老云う『これを服すれば必ず験あり』と。今この薬を分かち、願わくは兄弟らと共に長齢を保ち、永く限り無からんことを」と。
憲は、開元九年に太常卿を兼ねた。十四年、太常卿を停め、従前の通り開府儀同三司となった。二十一年、再び太尉に任ぜられた。二十八年冬、憲が病臥すると、上は中使に医薬及び珍膳を送らせ、路上に相望み、僧崇一が憲を治療して稍々癒えた。上は大いに悦び、特に緋袍魚袋を賜い、崇一を賞して異遇を与えた。時に申王らは皆先に薨じ、唯憲のみが存命であったため、上は特に恩貸を加えた。毎年憲の誕生日には、必ずその邸宅に幸し、時を移して宴楽した。平素より酒酪及び異饌などを賜わぬ日なく、尚食総監及び四方より進献あるものは、食べて稍々甘美とすれば、即ち皆分かちてこれを賜うた。憲はかつて年末に記録を史館に付すよう奏請し、毎年数百紙に及んだ。
二十九年冬、京城は甚だ寒く、凝霜が樹を封じた。時に学者は『春秋』の「雨木冰」とはこれであるとし、また樹介とも名付け、その象が介冑に似ていると言った。憲はこれを見て嘆いて言うには、「これは俗に樹稼というものである。諺に『樹稼、達官怕』とある。必ず大臣がこれに当たるであろう。吾は死ぬであろう」と。十一月に薨じ、時に六十三歳。上はこれを聞き、号泣して声を失い、左右皆涙を掩った。翌日、制を下して言うには、
位を譲ることができ、呉の太伯となり、存命の時はその節を成し、没したならばその賢を表すべきであり、非凡なる称は徳を顕彰するに在る。故に太尉・寧王李憲は、純粋なる霊を孕み、大雅に応える。孝悌の極みは、誠実に基づき、仁和の深さは外からの奨めによるものではない。礼度に従い、文儒を尊ぶ。謙虚に自らを修め、善を楽しむ。両献王に比べて光り、『二南』と合して徳を成す。方鎮に出て臨み、朝廷に入って台階に配し、ますます忠勤を励まし、周慎を聞く。まさに永く藩屏となり、邦家を輔けるべきであった。思いがけず逝去し、忽然と没し、兄弟の痛みは、震慟甚だ深し。王は朕の長兄にして、王位を嗣ぐべきであったが、朕が先朝の叡略を奉じ、宗社の危険を定め、推して居らず、朕に主鬯を請い、また慈旨を承けて、敢えて固く違えなかった。さもなければ、宸極の尊は、どうして薄徳の身に帰せようか。このような盛んな行い、易名はこれに依拠し、大号でなければ、どうして優れた功業に副えようか。諡法に按ずるに、功を推して善を尚ぶを「譲」と曰い、徳性寛柔を「譲」と曰う。謹んで追諡して譲皇帝と曰い、宜しく所司に命じて日を選び礼を備え冊命すべきである。
李憲の長子汝陽郡王李璡また上表して懇ろに辞し、先人の意志を盛んに陳べ、謙退して帝号に当たることを敢えず、手制して許さず。
李隆基白す:一代の兄弟、一朝の存歿、家人の礼、これをもって情を申し、言を興して感思し、悲涕交わる。大哥は孝友、近古に比類なく、嘗て五王と号し、同じく邸第を開く。遠く童幼より、長成に至るまで。出ずれば同じく遊び、学べば同じく業とし、事は形影均しく、相い随わざるはなかった。頃に国歩艱危を以て、義に克定を資し、先帝御極し、日月照臨す。大哥は嫡長、儲貳に当たるべきであったが、功を以て譲られ、薄躬に在り。既に紫宸を嗣ぎ守り、万機の事を総べ、朝を聴くの暇、懐いを展ぶことを得たり。十数年の間、棣華凋落し、手足と謂うは、唯だ大哥のみ。今また淪亡し、眇然として対するもの無し、これをもって感慕すれば、何の恨みかこれに如かん。然れどもその初め人を生みしより、誰か殂謝せざらんや?貴ぶところは徳行を光昭し、崇高を示すに在り、徳を立て名を立て、これ不朽と為す。大哥の事跡、身は歿すれど譲りは存す、故に冊して譲皇帝と曰い、神の昭格、この寵栄に当たるべし。況んや庭訓家を伝え、李璡ら譲りを申すは、善く先志を述べ、実に遺風有り、その美を成すなり。恭しく惟うに緒言、恍焉として在るが如く、翰墨に寄せ、悲しみ自ら勝えず。また制して李憲の妃元氏を追贈して恭皇后と為し、橋陵の側に祔葬す。将に葬らんとするに及び、上は中使を遣わし李璡らに勅して務めて儉約せしめ、送終の物は皆な衆に見せしむ。所司は諸陵の旧例に依り、壙内に千味の食を置くことを請う。監獲使・左僕射裴耀卿奏して曰く、「尚食の料る水陸等の味一千余種、毎色瓶に盛り、蔵内に安んずるは、皆な非時の瓜果及び馬牛驢犢麞鹿等の肉並びに諸薬酒三十余色なり。儀注礼料、皆な拠る所無し。臣、礼司の料るに拠れば、奠祭相次ぎ、事備わらざる無く、典制分明なり。天恩毎に譲帝の志を申し、務めて儉約せしめ、礼の外に数を加うるは、窃かに安からざるを恐る。又た非時の物、馬犢驢等並びに野味魚雁鵝鷗の属、用いる銖両、動もすれば皆な宰殺し、盛夏の胎養は、聖情の禁ずる所なり。又た什物を造作するを須い、動もすれば千計に逾え、市井に征め求むるは、実に煩労と謂うべし。千味供えずとも、礼闕くる所無し。伏して望むらくは礼に依り減省し、以て折衷を取らんことを。」制してこれに従う。発引に及び、時に大雨に属し、上は慶王李沢以下に命じて泥中を歩送すること十数里、制してその墓を号して恵陵と為す。
李憲は凡そ十子:李璡・李嗣荘・李琳・李璹・李珣・李瑀・李玢・李珽・李琯・李璀等十人、官を歴任し封を襲ぐ。李璡は汝陽郡王に封ぜられ、太僕卿を歴任し、賀知章・褚庭誨と詩酒の交わりを為す。天宝初め、父の喪に服し終え、特進を加えられる。九載に卒し、太子太師を贈られる。李嗣荘は済陰郡王に封ぜられ、早世す。李琳は嗣寧王に封ぜられ、秘書員外監を歴任す。玄宗に従って蜀郡に幸し、至徳二載に卒す。
恵荘太子 李捴
恵文太子 李範
李範は学問を好み書に巧みで、風雅に文章の士を愛し、士は貴賤を問わず、皆礼を尽くして接待した。閻朝隠・劉庭琦・張諤・鄭繇と詩篇を唱和し、また多く書画古跡を集めて、当時に称された。時に上は王公を禁約し、外人と交結することを許さなかった。駙馬都尉裴虚己は李範と遊宴した罪に坐し、兼ねて讖緯の書を私かに挟んでいたため、嶺外に配流された。万年尉劉庭琦・太祝張諤は皆李範と飲酒賦詩した罪に坐し、庭琦は雅州司戸に、諤は山茌丞に貶黜された。しかし上は李範を疎外することはなく、恩情は初めの如くで、左右に謂って「我が兄弟の友愛は天より来るもので、必ず異なる心はない。ただ趨競の輩が強いて托附するだけである。我は終に些細な事を以て兄弟を責めることはない」と言った。時に王毛仲らは元来微賤の出身で、皆朝廷に崇貴して傾き、諸王が会う毎に仮に立って待遇したが、李範だけは彼らを見て顔色を正した。十四年、病で薨去した。上は甚だ慟哭し、三日間朝を輟め、そのために追福を行い、手ずから『老子経』を書き、累旬にわたり膳を徹した。百官が上表して慰めた後、ようやく常に復した。開元十四年、工部尚書・摂太尉盧従願に命じて冊を贈り、王を惠文太子と追贈し、橋陵に陪葬させた。
一子の瑾は、河東郡王に封ぜられ、官は太僕卿に至った。酒色に耽り、ついに暴卒し、太子少師を贈られた。
惠宣太子 李業
初め、李業の母は早くに亡くなり、従母の賢妃が親しく養育した。この時になって、賢妃を迎え出して外宅に住まわせ、甚だ謹んで仕えた。李業の同母妹の淮陽・涼国の二公主もまた早くに卒したので、李業はその子を撫愛して、己が子を超えるほどであった。上は李業が孝友であることを以て、特に親愛を加えた。李業がかつて病気になった時、上は親しく祈祷し、病が癒えると、車駕をその邸に幸せし、酒宴を設けて楽しみ、改めて初生の歓びとした。玄宗は詩を賦して「昔は漳濱に臥すを見て、人事に違わんとすと言えり。今は誕慶の日に逢い、猶お学仙より帰るを謂う。棠棣の花重ねて満ち、鴒原の鳥再び飛ぶ」と詠んだ。その恩意はこのようなものであった。
瑗は楽安郡王、〓易は宗正卿・滎陽郡王、琄は嗣薛王に封ぜられ、珍は嗣岐王となった。琄は金紫光禄大夫・鴻臚卿同正員となった。天宝五載、舅の刑部尚書韋堅が右相李林甫に誣構された罪に坐し、夷陵郡別駕長任に貶された。母は琄に従い、ついに憂い死した。七載、琄は夜郎に安置され、後に南浦郡に移された。十四載、安祿山が反乱を起こすと、西京に赴いた。
隋王 隆悌
史臣曰く
史臣が曰く、天下を得てこれを治むる者は、その道舒にして変あり、天下を譲りて退く者は、その道巻にして常に存す。何ぞや。飛龍天に在りとは、舒なり、亢龍悔い有りとは、変なり。譲皇帝は或は躍るに咎無きを守り、労謙に終わり吉なるに利し、その用光有り、その聞朽ちること莫し。恵荘・恵文・恵宣・隋王等は、或は常を守りて免るることを獲、終に皇枝を保ち、或は望を過ぎて羞を含み、竟に青史に塵す。略陽公信は魁偉の状に起ち、図謀の心を起こす、福は善にし禍は淫にす、宜なるかな令ならざる。
賛に曰く、謙にして益を受け、譲りて以て賢を成す。唐属の美は、憲その先を得たり。長は震に居らず、剛は乾に乗らず。譲の大なる者は、胡ぞかくのごときにか比せん。捴・範已降、同気連枝。性習何ぞ遠からん、革ならざれば即ち睽なり。善有り悪有り、禍福欺かず。