旧唐書
巻九十四 列伝第四十四 蘇味道、李嶠、崔融、盧蔵用、徐彦伯
蘇味道
蘇味道は趙州欒城の人である。若い頃、同郷の李嶠とともに文辞で名を知られ、当時の人は蘇李と称した。弱冠にして本州より進士に挙げられた。累次転じて咸陽尉となった。吏部侍郎裴行儉は早くから彼の貴顕を予知し、大いに礼遇を加えた。突厥の阿史那都支を征討するに及んで、管記に引き立てた。孝敬皇帝の妃の父裴居道が再び左金吾将軍に登ったとき、当時の才子に謝表を作らせようと尋ね、蘇味道に託したところ、筆を執って成し遂げ、文辞道理が精密で、世に盛んに伝えられた。
延載の初め、歴任して鳳閣舎人・検校鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事に遷り、まもなく正授を加えられた。証聖元年、事に坐して集州刺史に出され、俄かに召されて天官侍郎に拝された。聖暦の初め、鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台三品に遷った。味道は上奏を巧みにし、台閣の故事に多く通じていたが、しかし前後数年にわたり宰相の位に居ながら、ついに何ら発明するところなく、ただその間を脂韋し、苟もに過ごして容れられることを取るのみであった。かつて人に謂って「事を処するには決断明白を欲せず、もし錯誤あれば必ず咎譴を貽す。ただ模棱として両端を持すべし」と言った。当時の人はこれにより「蘇模棱」と号した。
長安年中、郷里に還って父を改葬することを請い、優詔を以て州県にその葬事を供させた。味道はこれにより郷人の墓田を侵毀し、役使過度となり、憲司に弾劾され、坊州刺史に左授された。まもなく益州大都督府長史を除かれた。神龍の初め、張易之・昌宗に親附したことを以て郿州刺史に貶授された。俄かにまた益州大都督府長史となったが、行かずして卒した。享年五十八。冀州刺史を贈られた。味道は弟の太子洗馬味玄と甚だ相友愛し、味玄もし請托が諧わなければ、面と向かって凌折を加えたが、味道はこれに対し怡然として、忤いとせず、論者はこれを称えた。文集が世に行われた。
李嶠
李嶠は趙州賛皇の人で、隋の内史侍郎元操の従曾孫である。代々著姓として、父は鎮悪、襄城令であった。嶠は早く孤となり、母に事えて孝を以て聞こえた。児童の時、夢に神人が双筆を遺すあり、ここより漸く学業有り。弱冠にして進士に挙げられ、累次転じて監察御史となった。時に嶺南の邕・厳二州の首領が反叛し、兵を発して討撃するに当たり、高宗は嶠をして軍事を監せしめた。嶠はすなわち朝旨を宣べ、特にその罪を赦し、自ら獣洞に入りて招諭した。叛く者は尽く降り、よって兵を罷めて還り、高宗は甚だこれを嘉した。累遷して給事中となった。時に酷吏来俊臣が狄仁傑・李嗣真・裴宣礼等三家を構陷し、誅することを奏請した。則天は嶠と大理少卿張徳裕・侍御史劉憲にその獄を覆させた。徳裕等はその枉れるを知りながらも、罪を懼れ、並びに俊臣の奏する所に従おうとした。嶠曰く「豈にその枉濫なるを知りながら申明せざるあらんや。孔子曰く『義を見て為さざるは勇なきなり』と」乃ち徳裕等とともにその枉状を列挙し、これにより旨に忤い、潤州司馬に出された。詔して入り、鳳閣舎人に転じた。則天は深く接待を加え、朝廷に大なる手筆ある毎に、皆特に嶠にこれを為さしめた。
時に初めて右御史台を置き、天下を巡按するに当たり、嶠は上疏してその得失を陳べた。曰く、
陛下は右台を創置し、天下を分巡し、吏人の善悪を察し、風俗の得失を観る。これ政途の綱紀、礼法の準繩にして、これに加うるは無し。然れども猶未だ折衷せざる者有り。臣請う試みにこれを論ぜん。夫れ禁網は尚疏なるべく、法令は簡なるべし。簡なれば則ち法行い易くして煩雑ならず、疏なれば則ち羅う所広くして苛碎無し。窃かに見るに、垂拱二年諸道巡察使の奏する所の科目、凡そ四十四件有り。別に格勅令に準じて察訪する者に至っては、又三十余条有り。而して巡察使は率ね三月已後に都を出で、十一月終わりに事を奏す。時限迫促し、簿書填委し、昼夜奔逐して、期限に赴かんとす。而して毎道の察する文武官、多きは二千余人に至り、少きは一千以下なり。皆須らく才行を品量し、得失を褒貶すべし。曲く行能を尽くさんと欲すれば、則ち皆暇あらず。これは敢えて職に堕ち官に慢にするに非ず、実に才有限にして力及ばざるなり。臣はその功程を量り、その節制と与にし、器を以て用に周らしめ、力を以て時に済わしめ、然る後に進退を以て責成し、得失を以て精覈すべしと望む。
又曰く、
今の察する所は、ただ漢の六条に準じ、これを推し広めれば、則ち包まざる無し。多く科目を張り、空しく簿書を費やすこと無かれ。且つ朝廷万機、事無きに非ず。機事の動くは、恒に四方に在り。是の故に冠蓋相望み、郵驛踵を継ぐ。今巡使既に出づれば、他の外州の事は悉くこれを委すべし。則ち伝驛大いに減ずべし。然らば則ち御史の職、故に閑なるを得ざるべし。自ら州を分けて統理するに非ざれば、その繁務を済す由無し。大小相兼ね、率ね十州に御史一人を置き、周年を以て限とし、その属県に親しく至り、或いは閭裏に入り、奸訛を督察し、風俗を観采せしめ、然る後に以てその実効を求め、その成功を課すべし。若しこの法果たして行わるれば、必ず大いに政化を裨益せん。且つ御史は出でて霜簡を持し、入りて天闕に奏す。その己を励み自ら修め、職を奉じ憲を存するは、他の吏に比すれば、百倍すべし。若しその奸邪を按劾し、欺隠を糾擿するは、他の吏に比すれば、十倍すべし。陛下臣の言を用い、賢能を妙択し、心膂に委ね、温言を以てこれを制し、賞罰を陳べてこれを勧めば、則ち力を尽くして死を效わざる莫からん。何の政事か理せざる、何の禁令か行わざる、何の妖孽か敢えて興さんや。
則天はこれを善とした。乃ち制を下して天下を二十道に分ち、使者に堪うる者を簡択せしめた。会に沮議する者有り、竟に行われず。尋いで天官侍郎事を知り、麟台少監に遷った。
聖暦の初め、姚崇とともに同鳳閣鸞台平章事に遷り、俄かに鸞台侍郎に転じ、旧の如く平章事とし、国史を修むるを兼ねた。久視元年、嶠の舅の天官侍郎張錫が入りて政事を知るに及び、嶠は成均祭酒に転じ、政事を知る及び史を修むるを罷め、舅甥相継いで相位に在り、当時の人はこれを栄とした。嶠は尋いで検校文昌左丞・東都留守となった。長安三年、嶠はまた本官を以て平章事とし、尋いで納言事を知った。明年、内史に遷った。嶠は後に煩劇を固く辞し、また成均祭酒を拝し、平章事は旧の如し。
長安の末、則天が白司馬阪に大像を建てんとすると、嶠は上疏してこれを諫めた。その略は曰く「臣は法王の慈敏、菩薩の護持を以て、ただ衆生を饒益せんと擬するのみで、必ずしも土木を営修するを要せずとす。伏して聞く、像に適するに、税は戸口に非ず、銭は僧尼より出ず。州県の祗承を得ずして、必ず能く済弁せず、終には須らく科率し、豈に労擾を免れんや。天下の編戸、貧弱なる者衆し。また傭力客作を以て餱糧を済わす者あり、また舎を売り田を貼して王役を供する者あり。造像の銭、見るに一十七万余貫有り。若し散施に将ち、広く貧窮を済わさば、人に一千を与えて、一十七万余戸を済わし得ん。饑寒の弊を拯い、労役の勤を省き、諸仏の慈悲の心に順い、聖君の亭育の意に沾わば、人神胥に悦び、功德窮まり無からん」疏奏して納れられず。
中宗が即位すると、李嶠は張易之兄弟に阿附したことにより、豫州刺史として出された。赴任せず、また通州刺史に貶せられた。数ヶ月後、召されて吏部侍郎に任じられ、讚皇県男に封ぜられた。間もなく、吏部尚書に遷り、縣公に進封された。神龍二年、韋安石に代わって中書令となった。初め、李嶠が吏部に在った時、志すところは私恩を曲げて行うことにあり、再び宰相の地位に居ることを望んで、員外官数千人を置くことを奏上した。ここに至って官僚は倍増し、府庫は減耗したので、抗表して咎を引き、辞職を請うとともに、利害十数事を陳べた。中宗は李嶠が時政の失を直言し、すぐに罷免を請うたことを以て、手製を下して慰諭し、許さず、まもなく旧職に復することを命じた。三年、また修文館大学士を加えられ、国史を監修し、趙国公に封ぜられた。景龍三年、中書令を罷め、特進として兵部尚書を守り、同中書門下三品となった。
睿宗が即位すると、懷州刺史として出され、まもなく年老いたことを以て致仕した。初め、中宗が崩御した時、李嶠は密かに上表して相王の諸子を処置し、京師に留め置かぬよう請うた。玄宗が践祚すると、宮中でその上表文を得て、侍臣に示した。ある者はこれを誅すべきを請うたが、中書令張説が言うには、「李嶠は逆順を弁えなかったとはいえ、また当時の謀であり、その主に吠えたのであって、その罪を追討すべきではない」と。上はその言に従い、制を下して曰く、「君に事える節は、危うくしても変えず、臣たるは忠なり、二心あれば赦すべからず。特進・趙国公李嶠は、往時に宗楚客・韋氏の弑逆に縁り、朕恭しく戡定を行い、揖譲の際、天命の帰する所あり。嶠は窺覦の心あり、逆順を知らず、詭計を状陳す。朕親らこれを覧る。その早くより辞学を負い、累ねて台輔に居るを以て、忍びて言わず、特にその悪を掩う。今忠邪既に弁え、具物惟れ新たなり。賞罰もし誤らば、下人何を以てか勧められん。赦令を経たりといえども、猶お放斥すべく、その老疾を矜れみ、余命を遂げしむべし。宜しく子の虔州刺史暢に随い任に赴くを聴くべし」と。まもなく盧州別駕として起用され、そこで卒した。文集五十巻あり。
崔融
崔融は、齊州全節の人である。初め、八科挙に応じて及第した。累ねて宮門丞を補し、兼ねて崇文館学士を直した。中宗が春宮に在った時、崔融を侍読と為し、兼ねて属文に侍らせ、東宮の表疏は多くその手に成った。聖曆年中、則天が嵩嶽に幸した時、崔融の撰した『啓母廟碑』を見て、深く歎美を加え、封禅が畢わると、乃ち崔融に朝観碑文を撰せしめた。魏州司功参軍より著作佐郎に擢授され、まもなく右史に転じた。聖曆二年、著作郎を除かれ、仍って右史内供奉を兼ねた。四年、鳳閣舎人に遷った。久視元年、張昌宗の意に忤い、婺州長史に左授された。間もなく、昌宗の怒り解け、また召して春官郎中と為し、制誥事を知らしめることを請うた。長安二年、再び鳳閣舎人に遷った。三年、国史修撰を兼ねた。
時に有司が関市に税を課すことを表したが、崔融は深く以て不可と為し、上疏して諫めて曰く、
伏見有司稅關市事條,不限工商,但是行人盡稅者,臣謹按《周禮》九賦,其七日“關市之賦”。竊惟市縱繁巧,關通末遊,欲令此徒止抑,所以鹹增賦稅。臣謹商度今古,料量家國,竊將為不可稅。謹件事跡如左,伏惟聖旨擇焉。往古之時,淳樸未散,公田籍而不稅,關防譏而不征。中代已來,澆風驟進,桑麻疲弊,稼穡辛勤,於是各徇通財,爭趨作巧,求徑捷之欲速,忘歲計之無餘。遂使田萊日荒,倉廩不積,蠶織休廢。弊縕闕如,饑寒猥臻,亂離斯起。先王懲其若此,所以變古隨時,依本者恒科,占末者增稅。夫關市之稅者,謂市及國門,關門者也,唯斂出入之商賈,不稅來往之行人。今若不論商人,通取諸色,事不師古,法乃任情。悠悠末代,於何瞻仰;濟濟盛朝,自取嗤笑。雖欲憲章姬典,乃是違背《周官》。臣知其不可者一也。臣謹案《易》《係辭》稱:“庖羲氏沒,神農氏作,日中為市,致天下之人,聚天下之貨,交易而退,各得其所。” 《班志》亦云:“財者,帝王聚人守位,養成群生,奉順天德,理國安人之本也。仕農工商,四人有業。學以居位曰仕,辟士殖穀曰農,作巧成器曰工,通財鬻貨曰商。聖王量能授事,四人陳力受職。”然則四人各業久矣。今復安得動而搖之!蕭何云:“人情一定,不可復動。”班固又云:曹參相齊,齊國安集,大稱賢相。參去,屬其後相曰:“以齊獄市為寄,慎勿擾也。”後相曰:“理無大於此者乎?”參曰:“不然。夫獄市者,所以並容也,今若擾之,奸人安所容乎?吾是以先之。 ”夫獄市,兼受善惡。若窮極,奸人無所容竄;奸人無所容竄,久且為亂。秦人極刑而天下叛,孝武峻法而刑獄繁,此其效也。老子曰:“我無為而人自化,我好靜而人自正。”參欲以道化其本,不欲擾其末。臣知其不可者二也。四海之廣,九州之雜。關必據險路,市必憑要津。若乃富商大賈,豪宗惡少,輕死重義,結黨連群,喑鳴則彎弓,睚眥則挺劍。小有失意,且猶如此,一旦變法,定是相驚。乘茲困窮,或致騷動,便恐南走越,北走胡,非唯流逆齊人,亦自攪亂殊俗。又如邊徼之地,寇賊為鄰,興胡之旅,歲月相繼,倘同科賦,致有猜疑,一從散亡,何以製禁?求利雖切,為害方深。而有司上言,不識大體,徒欲益帑藏,助軍國,殊不知軍國益擾,帑藏逾空。臣知其不可者三也。孟軻又云:“古之為關也,將以禦暴;今之為關也,將以為暴。”今行者皆稅,本末同流。且如天下諸津,舟航所聚,旁通巴、漢,前指閩、越,七澤十藪,三江五湖,控引河洛,兼包淮海。弘舸巨艦,千軸萬艘,交貿往還,昧旦永日。今若江津河口,置鋪納稅,納稅則檢覆,檢覆則遲留。此津才過,彼鋪復止,非唯國家稅錢,更遭主司僦賂。船有大小,載有少多,量物而稅,觸途淹久。統論一日之中,未過十分之一,因此壅滯,必致籲嗟。一朝失利,則萬商廢業,萬商廢業,則人不聊生。其間或有輕訬任俠之徒,斬龍刺蛟之黨,鄱陽暴謔之客,富平悍壯之夫,居則藏鏹,出便竦劍。加之以重稅,因之以威脅,一旦獸窮則搏,鳥窮則攫,執事者復何以安之哉?臣知其不可者四也。五帝之初,不可詳已;三王之後,厥有著雲;秦、漢相承,典章大備至如關市之稅,史籍有文。秦政以雄圖武力,舍之而不用也;漢武以霸略英才,去之而勿取也。何則?關為禦暴之所,市為聚人之地,稅市則人散,稅關則暴興,暴興則起異圖,人散則懷不軌。夫人心莫不背善而樂禍,易動而難安。一市不安,則天下之市心搖矣;一關不安,則天下之關心動矣。況澆風久扇,變法為難,徒欲禁末流、規小利,豈知失玄默、亂大倫。魏、晉眇小,齊、隋齷齪,亦所不行斯道者也。臣知其不可者五也。今之所以稅關市者,何也?豈不以國用不足,邊寇為虞,一行斯術,冀有殷贍然也!微臣敢借前箸以籌之。伏惟陛下當聖期,禦玄籙,沉璧於洛,刻石於嵩,鑄寶鼎以窮奸,坐明堂而布政,神化廣洽,至德潛通。東夷暫驚,應時平殄;南蠻才動,計日歸降。西域五十餘國,廣輸一萬餘里,城堡清夷,亭堠靜謐。比為患者,唯苦二蕃。今吐蕃請命,邊事不起,即目雖尚屯兵,久後疑成馳柝。獨有默啜,假息孤恩,惡貫禍盈,覆亡不暇。征役日已省矣,繁費日已稀矣,然猶下明製,遵太樸,愛人力,惜人財,王侯舊封,妃主新禮,所有支料,咸令減削。此陛下以躬率先,堯、舜之用心也。且關中、河北,水旱數年,諸處逃亡,今始安輯,倘加重稅,或慮相驚。況承平歲積,薄賦日久,俗荷深恩,人知自樂。卒有變法,必多生怨,生怨則驚擾,驚擾則不安,中既不安,外何能禦?文王曰:“帝王富其人,霸王富其地,理國若不足,亂國若有餘。”古人有言:“帝王藏於天下,諸侯藏於百姓,農夫藏於庾,商賈藏於篋。”惟陛下詳之。必若師興有費,國儲多窘,即請倍算商客,加斂平人。如此則國保富強,人免憂懼,天下幸甚。臣知其不可者六也。陛下留神係表,屬想政源,冒茲炎熾,早朝晏坐。一日二日,機務不遺,先天後天,虛心密應。時政得失,小子何知,率陳瞽辭,伏紙惶懼。疏奏,則天納之,乃寢其事。
四年、司礼少卿を除き、なお知制誥を兼ねる。時に張易之兄弟は文学の士を多く招き集め、融は納言李嶠・鳳閣侍郎蘇味道・麟台少監王紹宗らとともに文才をもって節を降ろしてこれに事えた。易之が誅せられると、融は左遷されて袁州刺史となった。まもなく召されて国子司業に拝され、国史の修撰を兼ねた。神龍二年、『則天実録』の編纂に参与して完成した功により、清河県子に封ぜられ、物五百段を賜り、璽書をもって褒め称えられた。融の文章は典雅華麗で、当時これに比肩するものは稀であり、朝廷が必要とする『洛出宝図頌』・『則天哀冊文』および諸々の大手筆は、すべて手勅をもって融に託された。哀冊文を撰するにあたり、思慮を凝らし苦しんだため、病を発して卒した。時に年五十四。侍読の恩により、衛州刺史を追贈され、諡して文といった。文集六十巻がある。
二子、禹錫と翹は、開元年中、相次いで中書舎人となった。
盧蔵用
盧蔵用、字は子潜、度支尚書承慶の姪孫である。父の敬は当時に名があり、官は魏州司馬に至った。蔵用は若くして文辞学芸をもって著名となった。初め進士に挙げられて選ばれたが、官に就かず、『芳草賦』を著して意を表した。まもなく終南山に隠居し、辟穀・練気の術を学んだ。
長安年中、召されて左拾遺に拝された。時に則天は万安山に興泰宮を営まんとし、蔵用は上疏して諫めて言うには、
臣愚かではあるが時勢の変化に通じないものの、ひそかに書を読んだことがあり、古来帝王の事跡を多く見聞する。臣は聞く、土階三尺、茅茨を翦らず、采椽を斫らざるは、唐堯の徳なり;宮室を卑くし、飲食を菲くし、溝洫に力を尽くすは、大禹の行いなり;中人十家の産を惜しみ、露台の造作を罷むるは、漢文の明なり、と。いずれも名を末永く垂れ、帝皇の盛業たり。これ克く物に殉うことを念い、博く施して衆を済い、仁恕に至ったからではあるまいか。今、陛下は高台深宇、離宮別館を崇められ、すでにまた多い。さらに人の力を窮めて土木に事えさせれば、議者が陛下を人を憂えず己を奉ることに務めるとすることを臣は恐れる。かつ近年以来、年穀はしばしば登ったとはいえ、百姓には蓄えがない。陛下は西に幸し東に巡り、人は未だ休息せず、土木の役は歳月として空しからず。陛下はこの時に乗じて徳を施し教化を布かず、さらに広く宮苑を造営されれば、人は容易に堪え難いと臣は恐れる。今、左右の近臣は多く順旨を忠とし、朝廷の具僚は皆忤うことを患いとしている。ついに陛下は百姓が生業を失うことを知らず、また左右が陛下の仁を傷つけていることも知らないのである。臣は聞く、忠臣は死亡の患いを避けず、君を仁に納れ、明主は切直の言を悪まず、名を千載に垂れる、と。陛下が誠に明恕の制を発し、人を労することを口実とされれば、天下は必ず陛下が人力を惜しみ己を苦しめるとするであろう。小臣は固陋にして、忌諱を識らず、敢えて死を冒して上聞する。乞うらくは臣のこの章を下し、執事者とその可否を議せしめられよ。そうすれば天下幸いである。
神龍年中、累遷して起居舎人となり、知制誥を兼ね、まもなく中書舎人に遷った。蔵用は常に世俗に禁忌が多いことが至理に背くとし、『析滞論』を著してその事を暢達させた。その文に曰く、
客が言う、「天道は玄微にして、神理は幽化す。聖人はこれに法象し、衆庶はこれによりて運行す。故に大撓は甲子を造り、容成は律暦を著し、黄公は変を裁し、玄女は謨を啓く。八門は時に禦し、六神は事に直す。これに従う者は則ち兵強く国富み、これに違う者は則ち将弱く朝危し。影響に同じくし、符契に合するが如し。先生もまた嘗てこれを聞くか」と。主人が言う、「何ぞその然るを為さんや。子の謂う所は曲学の習う所、需昧の守る所にして、徒に偏方の詭説を識るのみで、未だ亨衢の通論を究めず。蓋し『易』に曰く『先天違わず』、『伝』に称す『人神の主』と。範囲過ぎず、三才虚中する所以なり。進退邪ならず、百王外無き所以なり。故に曰く、『国の将に興らんとするは人に聴き、将に亡ぼんとするは神に聴く』と。又曰く、『禍福門無く、唯だ人の召す所なり。人釁無ければ、妖自ら作らず』と。是れより言えば、得喪興亡は、並びに人事に関し、吉凶悔吝は、天時に渉らず。且つ皇天親無く、唯だ徳を輔く。不善を為す者は、天これに殃を降す。高宗徳を修め、桑穀以て変ず。宋君過を引き、法星退舎す。これ天道人の従う所以なり。古の政を為す者は、刑獄濫らざれば則ち人寿し、賦斂蠲省すれば則ち人富み、法令常有れば則ち国静か、賞罰中を得れば則ち兵強し。礼は士の帰する所、賞は士の死する所なり。礼賞倦まずすれば、則ち士先を争う。苟も此の途に違わば、時に卜して刑を行い、日を択して令を出だすと雖も、必ず成功無からん。叔世より遷訛し、俗多く徼幸を事とし、怪力を競い称え、詭言を争い誦し、政教を屈して孤虚に就き、信賞を棄てて推歩に従う。前史に附会し、旧経を変易し、空文に依托して、征拠と為す。軍を覆し将を敗る者は、則ち隠秘して聞こえず。偶同幸中する者は、則ち共相文飾す。豈に唯だ徳の惑を増すのみならん、亦た学人の是を自らするなり。嗚呼、習俗訛謬、一に此れに至るか。昔、甲子に興師す、成功の日に非ず。往亡を用いて事とす、製勝の辰に異なり。人事苟くも修まれば、何れの往か済わざらん。環城自ら守り、陣を接して重囲すに至りては、地形に闕無く、天道に乖かず。若し兵強く将智く、粟積み城堅しと雖も、復た屡々魁剛を転じ、頻りに太歳を移し、坐して白虎を推し、行いて貪狼を計るも、自ら符難斗の祥に、多く蟻附の困を貽す。故に曰く、賢を任じ能を使えば、則ち時日を俟たずして事利あり。法を明らかにし令を審らかにすれば、則ち卜筮せずして事吉なり。労を養い功を賞すれば、則ち祷祠せずして福を得。これ所謂、天時は地利に如かず、地利は人和に如かず。太公雨を犯すは、天時に逆らうなり。韓信水を背くは、地利に乖くなり。並びに人事を存し、倶に大業を成す。樹を削って龐涓を斬り、火を挙げて張郃を屠るは、必ずしも暗に歳徳に同じくし、冥に日遊に会し、倶に三門を運び、並びに四殺を占うに非ず。杜郵にて剣を歯むは、抑も唯だ計の沮るるにあり。垓下に悲歌すは、実に剚印の階なり。若し並びに厭勝を資り、良図を事とせざれば、則ち長平尽く坑すも、固より恒に済うべく、襄城噍る無くとも、亦た常に保つべし。是れ知る、拘りて多く忌むは、終に大功を喪い、百姓能と与るは、必ず小数を遺す。金鶏玉鶴、方に楚国の殃を為し、『万畢』『枕中』、適に淮南の禍を構う。符を刻みて盗を指すは、反って更に身を亡ぼし、髪を被りて神を邀うは、翻って夷族を招く。嗟乎、威斗赭鞭、赤伏の運を禳わず、城を築き罔を断つも、何ぞ素霊の哭を救わん。火災験せず、裨灶天を窺う力無く、超乗凶に階り、王孫徳を観るに監を取る。九征九変、是れ長途と曰う。人謀鬼謀、良く有道に帰す。此れ並びに経史の陳跡、賢聖の通規なり。仁遠からんや、詎んぞ宜しく滞執すべけんや」と。
景龍年中、吏部侍郎となる。蔵用は性挺特無く、多く権要に逼せられ、頗る公道を隳す。又黄門侍郎に遷り、昭文館学士を兼ね、工部侍郎・尚書右丞に転ず。先天年中、太平公主に托附したるに坐し、嶺表に配流す。開元初、起きて黔州都督府長史と為り、都督事を判ずるを兼ねるも、行かずして卒す。年五十余。集二十巻有り。
蔵用は篆隸に工にし、琴棋を好み、当時多能の士と称せらる。少く陳子昂・趙貞固と友善し、二人並びに早く卒す。蔵用其の子を厚く撫で、時に称せらる。然れども初め隠居の時、貞儉の操有り、少室・終南二山に往来し、時人「随駕隠士」と称す。及び朝に登り、趑趄詭佞にして、専ら権貴に事え、奢靡淫縱す。此れを以て世に譏せらる。
徐彥伯
徐彥伯は、兗州瑕丘の人なり。少くより文章を以て名を擅にし、河北道安撫大使薛元超表を上りてこれを薦む。対策擢第し、累転して蒲州司兵参軍となる。時に司戸韋暠は判事に善くし、司士李亙は翰札に工なり。而して彥伯は文辞雅美を以てす。時人これを「河中三絶」と謂う。
彥伯は聖暦年中累除して給事中となる。時に王公卿士多く言語慎まず、密かに酷吏周興・来俊臣等の陷るる所と為る。彥伯乃ち『枢機論』を著して代に誡む。其の辞に曰く。
『書経』に曰く、「口は羞を起こし、甲冑は戎を起こす」と。また云う、「位を斉(ととの)え、口を度(はか)れ」と。『易経』に曰く、「言語を慎み、飲食を節せよ」と。また云う、「其の言を出すに善ければ、千里之に応ず。其の言を出すに善からざれば、千里之に違う」と。『礼記』もまた云う、「言うべくして行うべからざるは、君子は言わず。行うべくして言うべからざるは、君子は行わず」と。嗚呼、先聖は言の大なることを知り、言の急なることを知り、精微を以て之を勧め、典謨を以て之を告げ、礼経を以て之を防ぐ。名教を守る者は、何ぞ其の詁訓を修めずして其の糟粕を服せんや。故に曰く、「言語は君子の枢機なり。動けば則ち物応じ、物応ずれば則ち得失の兆見る」と。之を得る者は江海も比隣の如く、之を失う者は肝膽も楚・越の如し。然る後に否泰栄辱の言に係るを知る。夫れ言は徳の柄なり、行の主なり、志の端なり、身の文なり。既に身を済すべく、亦身を覆すべし。故に中庸は其の心を鏤(ちりば)め、右階は其の背に銘す。南容は白圭に復し、箕子は洪範に疇(はか)る。良に以て有り。是を以て瑕玷を掎摭(きしょく)し、躁競を参詳し、無常を審らかにして以て乱の階と為らしめ、密ならざるを将(も)って以て危を致さしむ。利は口より生じ、森然として邦を覆すの説。道は衷より出でず、変じて彼の如簧の刺と為る。之を懼れざるべけんや。其れ邪正を識るに暗く、形朕を慮るに微にして、金湯の龠(かぎ)を破り、禍乱の根を封じ、詀讘(てんしょう)を用いて全計と為し、号詉(ごうどう)を以て令徳と為す有らん。至りて梧宮の問答、荊・齊の以て奔命する所以。韓・魏の肘を加うる、智伯の以て危残する所以。蔡侯の息媯を繩(ただ)す、亟(しばしば)甲兵の罰を招く。鄭曼の宗卿を図る、而して鼎鑊の誅を受く。史遷の軽く議す、終に蠶室に下る。張紘の説く、更に龍淵に齒(お)る。凡そ此の過言、其の流れ一に匪(あら)ず。或いは糞土に穢(けが)れ、或いは動いて刀剣と成り、或いは其の心を苟且にし、或いは其の吻を脂膏す。邪を挟みて蠱(こ)を作し、之を守りて懈(おこた)らず。往きて輒ち的を破り、之を去りて弥(いよいよ)遠し。亦た韓廬の音を聚(あつ)め、釐(らい)も群吠するを異とすべし。死を得るを幸いと為し、何ぞ循名の立つ有らんや。復た伯玉の顔を沮(くじ)き、元凱に謝を追うも、蔣濟の恨を貽(のこ)し、王陵に誉を失うも、犀首の季章に没齒し、曹瞞の劉主に齚舌(さくぜつ)する、当に何ぞ及ばんや。孔子曰く、「予は言無からんと欲す」と。又云う、「終身善を為すも一言之を敗つ、惜しむべし」と。老子も亦云う、「多言は数窮す」と。又云う、「聰明深察にして死に近きは、人を議する者なり」と。何ぞ聖人の深思偉慮、漸を杜ぎ萌を防ぐの至らんや。夫れ言うべからずして言う者を狂と曰い、言うべくして言わざる者を隠と曰う。舌を鉗(と)じ黙を拱(こま)ねて、何ぞ彼此の懷を通ぜん。囊を括して処りて、孰(たれ)か謨明の訓を啓かん。則ち上に言う者は、下の聴く所なり。下に言う者は、上の用うる所なり。睿哲の言は猶天地の如く、人は覆燾(ふくとう)して生ず。大雅の言は猶鍾鼓の如く、人は考撃して楽しむ。以て亀鏡と作すは、姬公の言なり。出でて金石と為るは、曾子の言なり。其の家邦を存するは、國僑の言なり。立って朽ちざるは、臧孫の言なり。是を徳音と謂い、我が宗極に詣(いた)り、天下に満ち、厥の後昆に貽(のこ)す。殷宗は之を酒醴に甘んじ、孫卿は之を琴瑟に諭す。闕里は四時より重く、郢都は千乗を軽し。豈に韙(よ)からずや、豈に休(よ)からずや。但だ世猷を楙(さか)んに探り、丕訓を克(よ)く念い、審らかに思いて応え、精く慮りて動く。其の心を謀りて後に発し、其の交を択びて後に談ず。非党に蹙趨せず、詭遇に屏営せず。先王の至徳に非ざれば敢えて行わず、先王の法言に非ざれば敢えて道わず。其の諜諜(ちょうちょう)の緒を翦(き)り、其の炎炎の勢を撲(う)つ。自然に介爾(かいじ)の景福、茲の純嘏(じゅんか)を錫(たま)わば、則ち悔吝何の由にか生じ、怨悪何の由にか至らん。孔子曰く、「終日行いて已が患を遺さず、終日言いて已が憂を遺さず」と。此の如くにして乃ち以て言うべし。之を戒めよ、之を戒めよ。
神龍元年、太常少卿に遷り、国史の修撰を兼ね、則天実録の編修に預かり成るを以て、高平県子に封ぜられ、物五百段を賜う。未だ幾ばくもせず、衛州刺史として出で、善政を以て聞こえ、璽書を以て労勉す。俄(しばらく)して蒲州刺史に転じ、工部侍郎として入り、尋いで衛尉卿を除かれ、昭文館学士を兼ねる。景龍三年、中宗親しく南郊に拝し、彦伯南郊賦を作りて献じ、辞甚だ典美なり。景雲初め、銀青光禄大夫を加えられ、右散騎常侍・太子賓客に遷り、仍(なお)昭文館学士を兼ねる。先天元年、疾を以て骸骨を乞う、之を許す。開元二年卒す。
彦伯は寡嫂に事えること甚だ謹み、諸の侄を撫するに己が子に同じくす。晚年より文を属するに及び、強澀の体を好みて為し、頗る後進に效せらる。文集二十巻有り、時に行わる。
史臣曰く。
史臣曰く、才は智より出で、行は性より出づ。故に文章の巧拙は、智の深浅に由り、行義の詭実は、性の善悪に由る。然らば則ち智性は之を気に稟(う)け、之を強(し)いてせしむべからず。蘇味道・李嶠等、倶に輔相と為り、各穹崇の処に処る。其の章疏の能を観るに、奥贍無きに非ず。弼諧の道を以て験するに、貞純有る罔(な)し。故に狄仁傑言有りて曰く、「蘇・李は足る文吏と為る」と。齷齪たる者に非ずや。模棱の病、尤も足る可く譏る。崔融・盧藏用・徐彦伯等、文学の功、蘇・李に譲らず。常を守るの道有るを知りて、応変の機無し。規諫の深きは、崔の盧・徐に比する、稍(やや)優れり。
贊して曰く。
贊して曰く、房・杜・姚・宋、倶に大功を立つ。咸に二族を以てし、譚(かたり)て美風と為す。蘇・李の文学、一代の雄。輔弼に慚有り、之を称する豈に同じからんや。凡そ人言有りと雖も、必ずしも徳有らず。崔と盧・徐、皆翰墨を攻む。文は尚ぶに堪うと雖も、義は則る可き無し。位を備え常を守る、斯の言罔(まこと)に忒わず。