舊唐書

巻093

巻093

舊唐書

原文舊唐書

卷九十三

原文卷九十三

列傳第四十三 婁師德 王孝傑 唐休璟 張仁-{愿}- 薛訥 王晙

原文列傳第四十三 婁師德 王孝傑 唐休璟 張仁-{愿}- 薛訥 王晙

婁師徳

原文婁師德

婁師徳は、鄭州原武の人である。弱冠にして進士に擢第し、江都尉を授けられた。揚州長史の盧承業はその才能を奇とし、嘗てこれに謂って曰く、「吾子は台輔の器なり、当に子孫を以て相托すべし、豈に官属の常礼を以て待つべきや」と。

原文婁師德,鄭州原武人也。弱冠,進士擢第,授江都尉。揚州長史盧承業奇其才,嚐謂之曰:「吾子台輔之器,當以子孫相托,豈可以官屬常禮待也?」

上元の初め、累ねて監察御史を補す。時に吐蕃が塞を犯すに属し、猛士を募ってこれを討たんとし、師徳は表を抗して猛士たらんことを請う。高宗大いに悦び、特に朝散大夫を仮し、諸軍西征し、頻りに戦功有り、殿中侍御史に遷り、河源軍司馬を兼ね、並びに営田の事を知る。天授の初め、累ねて左金吾将軍を授け、兼ねて検校豊州都督ととくと為り、仍って旧の如く営田の事を知る。則天書を降して労して曰く、「卿は素より忠勤を積み、兼ねて武略を懐く、朕の所以に襟要に寄せ、甲兵を授くる所以なり。卿の北陲に委を受けしより、軍任を総司し、霊・夏に往還し、屯田を検校し、収率既に多く、京坻遽かに積む。和糴の費に煩わず、転輸の艱しき復た無く、両軍及び北鎮の兵数年咸に支給を得たり。勤労の誠、久しくして弥だ著し、これを覧て嘉尚し、欣悦良く深し」と。

原文上元初,累補監察御史。屬吐蕃犯塞,募猛士以討之,師德抗表請爲猛士。髙宗大悅,特假朝散大夫,眾軍西討,頻有戰功,遷殿中侍御史,兼河源軍司馬,並知營田事。天授初,累授左金吾將軍,兼檢校豐州都督,仍依舊知營田事。則天降書勞曰:「卿素積忠勤,兼懷武略,朕所以寄之襟要,授以甲兵。自卿受委北陲,總司軍任,往還靈、夏,檢校屯田,收率既多,京坻遽積。不煩和糴之費,無復轉輸之艱,兩軍及北鎮兵數年鹹得支給。勤勞之誠,久而彌著,覽以嘉尚,欣悅良深。 」

長寿元年、召して夏官侍郎・判尚書事を拝す。明年、同鳳閣鸞台平章事と為る。則天師徳に謂って曰く、「王師外に鎮するは、必ず辺境の営田に藉る、卿は須らく劬労を憚るること無く、更に使を充てて検校せよ」と。又これをもって河源・積石・懐遠等軍及び河・蘭・鄯・廓等州検校営田大使と為す。稍く秋官尚書に遷る。万歳登封元年、左粛政御史大夫に転じ、仍って並びに旧の如く政事を知る。証聖元年、吐蕃洮州を寇し、師徳に夏官尚書王孝傑とこれを討たしむ。吐蕃の大将論飲陵・賛婆と素羅汗山に戦い、官軍敗績し、師徳は原州員外司馬に貶授せらる。

原文長壽元年,召拜夏官侍郎、判尚書事。明年,同鳳閣鸞台平章事。則天謂師德曰:「王師外鎮,必藉邊境營田,卿須不憚劬勞,更充使檢校。」又以爲河源、積石、懷遠等軍及河、蘭、鄯、廓等州檢校營田大使。稍遷秋官尚書。萬歳登封元年,轉左肅政御史大夫,仍並依舊知政事。證聖元年,吐蕃寇洮州,令師德與夏官尚書王孝傑討之,與吐蕃大將論飲陵、讚婆戰於素羅汗山,官軍敗績,師德貶授原州員外司馬。

万歳通天二年、入って鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事と為る。是の歳、兼ねて検校右粛政御史大夫と為り、仍って左粛政台の事を知り、王懿宗・狄仁傑と分道して河北諸州を安撫す。神功元年、納言を拝し、累ねて譙県子に封ぜらる。尋で詔して師徳に隴右諸軍大使を充てしめ、仍って検校河西営田事と為す。聖暦二年、突厥入寇し、復た検校并へい州長史を令し、仍って天兵軍大総管を充てしむ。是の歳九月卒す。涼州都督を贈られ、諡して貞と曰う。

原文萬歳通天二年,入爲鳳閣侍郎、同鳳閣鸞台平章事。是歳,兼檢校右肅政御史大夫,仍知左肅政台事,以與王懿宗、狄仁傑分道安撫河北諸州。神功元年,拜納言,累封譙縣子。尋詔師德充隴右諸軍大使,仍檢校河西營田事。聖曆二年,突厥入寇,復令檢校并州長史,仍充天兵軍大總管。是歳九月卒,贈涼州都督,諡曰貞。

初め、狄仁傑未だ相に入らざりし時、師徳嘗てこれを薦む。宰相と為るに及び、師徳の己を薦めたるを知らず、数え師徳を排し、外使を充てしむ。則天嘗て師徳の旧表を出してこれを示す。仁傑大いに慚じ、人に謂って曰く、「吾婁公に含まれること此の如し、方に婁公に逮ばざる遠きを知る」と。師徳は頗る学渉有り、器量寛厚にして、喜怒色に形せず。専ら辺任を綜ぶるより、前後三十余年、恭勤して下に接し、孜孜として怠らず。政事を知るに参ずるも、深く畏避を懐き、竟に功名を以て始終し、甚だ識者に重んぜらる。

原文初,狄仁傑未入相時,師德嚐薦之,及爲宰相,不知師德薦已,數排師德,令充外使。則天嚐出師德舊表示之,仁傑大慚,謂人曰:「吾爲婁公所含如此,方知不逮婁公遠矣。」師德頗有學涉,器量寬厚,喜怒不形於色。自專綜邊任,前後三十餘年,恭勤接下,孜孜不怠。雖參知政事,深懷畏避,竟能以功名始終,甚爲識者所重。

王孝傑

原文王孝傑

王孝傑は、京兆新豊の人である。高宗の末、副総管と為り、工部尚書劉審礼に従い西征して吐蕃を討ち、大非川に戦い、賊に捕らえらる。吐蕃の賛普孝傑を見て、泣きて曰く、「貌吾が父に類す」と。厚く敬礼を加え、これにより死を免れ、尋で帰るを得。則天の時、累ねて右鷹揚衛将軍に遷る。孝傑久しく吐蕃の中に在り、その虚実を悉くす。長寿元年、武威軍総管と為り、左武衛大将軍阿史那忠節と眾を率いて吐蕃を討ち、乃ち亀茲・于闐・疏勒・碎葉の四鎮を克復して還る。則天大いに悦び、侍臣に謂って曰く、「昔貞観中貝綾し、此の蕃城を得たり、其の後西陲守らず、並びに吐蕃に陥る。今既に旧に尽く復し、辺境自然に事無し。孝傑斯の功效を建て、此の款誠を竭し、遂に足を裹き徒行し、身士卒と力を斉うす。此の如き忠懇、深く是れ嘉すべし」と。乃ち孝傑を左衛大将軍に拝す。明年、夏官尚書・同鳳閣鸞台三品に遷り、清源男に封ぜらる。延載の初め、入って瀚海道行軍総管と為り、余は故の如し。証聖の初め、又朔方道総管と為り、尋で吐蕃と戦いて敗るるに坐し免官す。

原文王孝傑,京兆新豐人也。髙宗末,爲副總管,從工部尚書劉審禮西討吐蕃,戰於大非川,爲賊所獄。吐蕃讚普見孝傑,垂泣曰:「貌類吾父。」厚加敬禮,由是免死,尋得歸。則天時,累遷右鷹揚衛將軍。孝傑久在吐蕃中,悉其虛實。長壽元年,爲武威軍總管,與左武衛大將軍阿史那忠節率眾以討吐蕃,乃克復龜茲、於闐、疏勒、碎葉四鎮而還。則天大悅,謂侍臣曰:「昔貞觀中貝綾,得此蕃城,其後西陲不守,並陷吐蕃。今既盡復於舊,邊境自然無事。孝傑建斯功效,竭此款誠,遂能裹足徒行,身與士卒齊力。如此忠懇,深是可嘉。」乃拜孝傑爲左衛大將軍。明年,遷夏官尚書、同鳳閣鸞台三品,封淸源男。延載初,入爲瀚海道行軍總管,餘如故。證聖初,又爲朔方道總管,尋坐與吐蕃戰敗免官。

万歳通天年、契丹の李尽忠・孫万栄反叛し、復た孝傑を詔して白衣のまま起ちて清辺道総管と為し、兵十八万を統べてこれを討たしむ。孝傑軍東峡石谷に至り賊に遇う。道隘く、虜甚だ衆し。孝傑精鋭の士を率いて先鋒と為し、且つ戦い且つ前り、谷を出るに及び、方陣を布きて賊を捍ぐ。後軍総管蘇宏暉賊の衆を畏れ、甲を棄てて遁る。孝傑既に後継無く、賊の乗ずる所と為り、営中潰乱し、孝傑谷に堕ちて死す。兵士賊に殺され及び奔り践まれて死すること殆んど尽く。時に張説節度管記と為り、馳せて其の事を奏す。則天孝傑の敗亡の状を問う。説曰く、「孝傑忠勇敢死、乃ち誠に国に奉じ、深く寇境に入り、少を以て衆を禦ぐ。但だ後援至らざるを為す、所以に敗るるに致る」と。ここにおいて孝傑に夏官尚書を追贈し、耿国公に封ず。其の子無択を朝散大夫に拝す。使を遣わして宏暉を斬りて徇らしむ。使未だ幽州に至らざるに、而して宏暉已に功を立て罪を贖い、竟に誅を免る。開元中、無択官左驍ぎょう衛将軍に至り、恩例を以て孝傑に特進を贈る。

原文萬歳通天年,契丹李盡忠、孫萬榮反叛,復詔孝傑白衣起爲淸邊道總管,統兵十八萬以討之。孝傑軍至東峽石穀遇賊,道隘,虜甚眾,孝傑率精銳之士爲先鋒,且戰且前,及出穀,布方陣以捍賊。後軍總管蘇宏暉畏賊眾,棄甲而遁。孝傑既無後繼,爲賊所乘,營中潰亂,孝傑墮穀而死,兵士爲賊所殺及奔踐而死殆盡。時張說爲節度管記,馳奏其事。則天問孝傑敗亡之狀,說曰:「孝傑忠勇敢死,乃誠奉國,深入寇境,以少禦眾,但爲後援不至,所以致敗。」於是追贈孝傑夏官尚書,封耿國公。拜其子無擇爲朝散大夫。遣使斬宏暉以徇。使未至幽州,而宏暉已立功贖罪,竟免誅。開元中,無擇官至左驍衛將軍,以恩例贈孝傑特進。

唐休璟

原文唐休璟

唐休璟は、京兆始平の人である。曾祖規は、周の驃騎大将軍・安邑県公。祖宗は、隋の大業末に朔方郡丞と為る。時に梁師都兵を挙げ、将に城を拠せんとす。宗節を抗して従わず、乃ち害せらるる所と為る。

原文唐休璟,京兆始平人也。曾祖規,周驃騎大將軍、安邑縣公。祖宗,隋大業末爲朔方郡丞。時爲梁師都舉兵,將據城,宗抗節不從,乃爲所害。

休璟少くして明経に擢第す。永徽中、褐を解きて呉王府典籤と為る。異材無く、調授して営州戸曹と為る。調露中、単于突厥背叛し、奚・契丹を誘扇して州県を侵掠す。後奚・羯胡又桑乾突厥と同く反す。都督周道務休璟に兵を将いて独護山にこれを撃破せしむ。斬獲甚だ衆く、超えて豊州司馬を拝す。永淳中、突厥豊州を囲む。都督崔智辯戦いて歿す。朝議豊州を罷め、百姓を霊・夏に徙さんと欲す。休璟以て不可と為し、上書して曰く、「豊州は河を控え賊を遏む、実に襟帯たり。秦・漢已来、郡県と列し、田疇良美、尤も耕牧に宜し。隋季喪乱し、堅守すること能わず、乃ち百姓を遷徙して寧・慶二州に就かしむ。致して戎羯交侵し、乃ち霊・夏を以て辺界と為す。貞観の末、始めて人を募りてこれを実む。西北の一隅、方に寧謐を得たり。今若し廃棄せば、則ち河傍の地復た賊の有する所と為り、霊・夏等州の人業に安んぜず、国家の利に非ざるなり」と。朝廷其の言に従い、豊州復た存す。

原文休璟少以明經擢第。永徽中,解褐吳王府典簽,無異材,調授營州戸曹。調露中,單於突厥背叛,誘扇奚、契丹侵掠州縣,後奚、羯胡又與桑乾突厥同反。都督周道務遣休璟將兵擊破之於獨護山,斬獲甚眾,超拜豐州司馬。永淳中,突厥圍豐州,都督崔智辯戰歿。朝議欲罷豐州,徙百姓於靈、夏,休璟以爲不可,上書曰:「 豐州控河遏賊,實爲襟帶,自秦、漢已來,列爲郡縣,田疇良美,尤宜耕牧。隋季喪亂,不能堅守,乃遷徙百姓就寧、慶二州,致使戎羯交侵,乃以靈、夏爲邊界。貞觀之末,始募人以實之,西北一隅,方得寧謐。今若廢棄,則河傍之地復爲賊有,靈、夏等州人不安業,非國家之利也。」朝廷從其言,豐州復存。

垂拱中、安西副都護に遷る。会に吐蕃焉耆を攻め破る。安息道大総管・文昌右相韋待価及び副使閻温古失利す。休璟其の余衆を収め、以て安西の土とす。西州都督に遷り、表を上りて復た四鎮を取らんことを請う。則天王孝傑を遣わし吐蕃を破り、四鎮を抜く。亦休璟の謀なり。聖暦中、司衛卿と為り、涼州都督・右粛政御史大夫を兼ね、節を隴右諸軍州大使に持つ。

原文垂拱中,遷安西副都護。會吐蕃攻破焉耆,安息道大總管、文昌右相韋待價及副使閻溫古失利,休璟收其餘眾,以安西土。遷西州都督,上表請復取四鎮。則天遣王孝傑破吐蕃,拔四鎮,亦休璟之謀也。聖曆中,爲司衛卿,兼涼州都督、右肅政御史大夫,持節隴右諸軍州大使。

久視元年(700年)の秋、吐蕃の大将麹莽布支が騎兵数万を率いて涼州を侵し、洪源谷から侵入し、昌松県を包囲しようとした。唐休璟は数千人を率いてこれを迎撃し、陣前に臨んで高所に登り、賊の衣甲が鮮やかで盛んであるのを見て、麾下に言った。「欽陵が死に、讃婆が降伏して以来、麹莽布支は新たに賊兵を知り、威武を輝かせようと欲する。故にその国中の貴臣・酋豪の子弟が皆これに従っている。人馬は精鋭ではあるが、軍事に習熟していない。我が諸君のためにこれを取ろう。」そこで甲冑を着けて先頭に立ち、賊と六度戦って六度勝利し、これを大破し、その副将二人を斬り、首級二千五百を獲て、京観を築いて帰還した。その後、休璟が朝廷に入ると、吐蕃も使者を遣わして和を請うた。宴席でたびたび休璟を窺った。則天武后がその理由を問うと、答えて言った。「往年の洪源の戦いの時、この将軍は雄猛無比で、臣下の将士を多く殺した。故に彼を識りたいと思った。」則天は大いに嘆異し、右武威・右金吾二衛大将軍に抜擢した。

原文久視元年秋,吐蕃大將麹莽布支率騎數萬寇涼州,入自洪源穀,將圍昌鬆縣。休璟以數千人往擊之,臨陣登髙,望見賊衣甲鮮盛,謂麾下曰:「自欽陵死,讚婆降,麹莽布支新知賊兵,欲曜威武,故其國中貴臣酋豪子弟皆從之。人馬雖精,不習軍事,吾爲諸君取之。」乃被甲先登,與賊六戰六克,大破之,斬其副將二人,獲首二千五百級,築京觀而還。是後休璟入朝,吐蕃亦遣使來請和,因宴屢覘休璟。則天問其故,對曰:「往歳洪源戰時,此將軍雄猛無比,殺臣將士甚眾,故欲識之。」則天大加歎異,擢拜右武威、右金吾二衛大將軍。

休璟は特に辺境の事情に精通しており、碣石から西に四鎮を越え、綿々と万里にわたる山川の要害を、すべて記憶することができた。長安ちょうあん年間(701-704年)、西突厥の烏質勒が諸蕃と不和となり、兵を挙げて相対峙し、安西道が遮断され、表奏が相次いだ。則天は休璟に命じて宰相と事勢を協議させたが、俄頃の間に奏文を草し、すぐに施行に移した。十数日後、安西諸州から兵馬の応接を請う表が届き、その行程・期日はすべて休璟が画策した通りであった。則天は休璟に言った。「卿を用いるのが遅かったことを恨む。」そこで夏官尚書・同鳳閣鸞台三品に遷した。また魏元忠および楊再思・李嶠・姚元崇・李迥秀らに言った。「休璟は辺事に精通している。卿らは十人でも彼一人には及ばない。」

原文休璟尤諳練邊事,自碣石西逾四鎮,綿亙萬里,山川要害,皆能記之。長安中,西突厥烏質勒與諸蕃不和,舉兵相持,安西道絕,表奏相繼。則天令休璟與宰相商度事勢,俄頃間草奏,便遣施行。後十餘日,安西諸州表請兵馬應接,程期一如休璟所畫。則天謂休璟曰:「恨用卿晚。」因遷夏官尚書、同鳳閣鸞台三品。又謂魏元忠及楊再思、李嶠、姚元崇、李迥秀等曰:「休璟諳練邊事,卿等十不當一也。」

まもなく太子右庶子に転じ、従前通り政事を知った。契丹が侵入したため、再び夏官尚書に任じられ、兼ねて検校幽・営等州都督、兼安東都護を拝命した。当時、中宗は春宮(皇太子)におり、休璟は出発に際し、皇太子に進啓して言った。「張易之兄弟は寵遇を蒙り、しばしば禁中で宴に侍し、情に任せて礼を失っている。人臣の道ではなく、ただ防ぎ察することを加えるべきです。」中宗が即位すると、召して輔国大将軍・同中書門下三品に任じ、酒泉郡公に封じ、顧みて言った。「卿がかつて直言したことは、朕は今も忘れていない。初め卿を召して事を計ろうとしたが、ただ遠方であることと、兼ねて北狄の憂いを抱いていたためだ。」間もなく、特進を加えられ、尚書右僕射に任じられた。この年の秋、大水があり、休璟は二度上表して自らを咎め、官を免じることを切に請うた。その辞は多く記載しない。中宗はついに允さず、手製で答えて言った。「陰陽が調わず、事は朕に属する。私門に待罪するは、来表のごときには依り難い。」まもなく中書令に遷り、京師留守を充て、俄かに検校吏部尚書を加えられた。また、宮僚としての旧縁により、実封三百戸を賜り、累ねて宋国公に封ぜられた。休璟は在任中、広く益するところはなかった。

原文尋轉太子右庶子,依舊知政事。以契丹入寇,復拜夏官尚書,兼檢校幽,營等州都督,兼安東都護。時中宗在春宮,將行,進啟於皇太子曰:「張易之兄弟幸蒙寵遇,數侍宴禁中,縱情失禮。非人臣之道,惟加防察。」中宗即位,召拜輔國大將軍、同中書門下三品,封酒泉郡公,顧謂曰:「卿曩日直言,朕今不忘。初欲召卿計事,但以遐遠,兼懷北狄之憂耳。」未幾,加特進,拜尚書右僕射。是歳秋,大水,休璟兩上表自咎,請免官甚切,辭多不載。中宗竟不允,手製答曰:「陰陽乖爽,事屬在予,待罪私門,難依來表。」尋遷中書令,充京師留守,俄加檢校吏部尚書。又以宮僚之舊,賜實封三百戸,累封宋國公。休璟在任,無所弘益。

景龍二年(708年)、家で致仕した。年齢と体力は衰えたが、進取の志はますます鋭かった。当時、尚宮の賀婁氏がかなり国政に関与し、彼女に憑依・附託する者は皆寵栄を得ていた。休璟はそこで自分の子に賀婁氏の養女を娶らせ、妻とし、これによって自らを達した。これにより起用されて太子少師・同中書門下三品となり、国史を監修し、なお宋国公に封ぜられた。休璟は八十歳を超えていたが、止足を知らず、依托して進取を求めたため、当時に嘲笑された。景雲元年(710年)、また特進に任じられ、朔方道行軍大総管を充て、突厥に備えさせた。旧封は停め、別に実封一百戸を賜った。二年、表を上って致仕を請うた。許された。禄および一品子の課はすべて全給するよう命じられた。休璟が初めて封を得た時、絹数千匹を親族に分散し、また家財数十万を以て大いに塋域を開き、礼を備えてその五服の親を葬った。当時の人はこれを称えた。延和元年(712年)七月に薨去。八十六歳。贈って荊州大都督とし、諡して忠といった。子の先慎が爵を襲い、官は陳州刺史に至った。次子の先擇は、開元年間に右金吾衛将軍となった。

原文景龍二年,致仕於家,年力雖衰,進取彌銳。時尚宮賀婁氏頗關預國政,憑附者皆得寵榮,休璟乃爲其子娶賀婁氏養女爲妻,因以自達。由是起爲太子少師、同中書門下三品,監修國史,仍封宋國公。休璟年逾八十,而不知止足,依托求進,爲時所譏。景雲元年,又拜特進,充朔方道行軍大總管,以備突厥,停其舊封,別賜實封一百戸。二年,表請致仕。許之。祿及一品子課並令全給。休璟初得封時,以絹數千匹分散親族,又以家財數十萬大開塋域,備禮葬其五服之親,時人稱之。延和元年七月薨,年八十六,贈荊州大都督,諡曰忠。子先慎襲爵,官至陳州刺史。次子先擇,開元中爲右金吾衛將軍。

張仁愿

原文張仁愿

張仁愿は、華州下邽の人である。本名は仁亶といったが、睿宗の諱(旦)と音が類するため改めた。若くして文武の才幹があり、累遷して殿中侍御史となった。当時、御史の郭霸はが上表して則天は弥勒仏の身であると称し、鳳閣舎人の張嘉福と洛州人の王慶之らが武承嗣を皇太子に立てることを請うた。皆、仁愿に連名して表に署名するよう請うたが、仁愿は正色してこれを拒んだ。大いに識者に重んじられた。まもなく夏官尚書の王孝傑が吐刺軍総管となり、衆を統率して吐蕃を防ぐこととなり、詔により仁愿がこれを監することとなった。仁愿は孝傑と協調せず、人を介して事を奏上し、孝傑の軍が誣罔の状であると称した。孝傑はこれにより庶人に免ぜられ、仁愿はたちまち侍御史に遷った。

原文張仁愿,華州下邽人也。本名仁亶,以音類睿宗諱改焉。少有文武材幹,累遷殿中侍御史。時有御史郭霸上表稱則天是彌勒佛身,鳳閣舍人張嘉福與洛州人王慶之等請立武承嗣爲皇太子,皆請仁愿連名署表,仁愿正色拒之,甚爲有識所重。尋而夏官尚書王孝傑爲吐刺軍總管,統眾以禦吐蕃,詔仁愿往監之。仁愿與孝傑不協,因人奏事,稱孝傑軍誣罔之狀。孝傑由是免爲庶人,仁愿遽遷侍御史。

万歳通天二年(697年)、監察御史の孫承景が清辺軍を監し、戦いから帰還し、戦図を描いて奏上した。毎陣必ず承景が自ら矢石に当たり、先鋒として賊を防ぐ様子を画いた。則天は嘆じて言った。「御史がかくも誠を尽くすことができるとは!」右粛政台御史中丞に抜擢し、仁愿に命じて承景の配下の立功者を叙録させた。仁愿は都を発つ前に、まず承景に対陣の勝敗の様子を問うた。承景は実際には行っていなかったので、問われると皆答えることができず、また虚偽に功状を増やしていた。仁愿は朝廷で承景の上を欺く罪を奏上した。そこで承景は崇仁令に左遷され、仁愿は粛政台御史中丞・検校幽州都督に抜擢された。ちょうど突厥の默啜が侵入し、趙・定を攻め落とし、衆を擁して幽州に戻ってきた。仁愿は兵を率いて城を出て邀撃し、流れ矢が手に当たった。賊もまた引き退いた。則天は使者を遣わして労問し、医薬を賜った。累遷して并州大都督府長史となった。

原文萬歳通天二年,監察御史孫承景監淸邊軍,戰還,書戰圖以奏。每陣必畫承景躬當矢石、先鋒禦賊之狀,則天歎曰:「御史乃能盡誠如此!」擢拜右肅政台中丞,令仁愿敘錄承景下立功人。仁愿未發都,先問承景對陣勝負之狀。承景身實不行,問之皆不能對,又虛增功狀。仁愿廷奏承景罔上之罪,於是左遷崇仁令,擢仁愿爲肅政台中丞、檢校幽州都督。會突厥默啜入寇,攻陷趙、定,擁眾回至幽州,仁愿勒兵出城邀擊之,流矢中手,賊亦引退。則天遣使勞問,賜以醫藥。累遷并州大都督府長史。

神龍二年(706年)、中宗が京に還ると、仁愿を左屯衛大将軍とし、兼ねて検校洛州長史とした。当時、都城では穀物が高価で、盗賊が非常に多かった。仁愿は一切を捕獲し、杖殺した。死体が府門に積み重なり、遠近震慴し、敢えて犯す者はいなかった。初め、高宗の時に賈敦頤が洛州刺史となり、やはり政績があり、仁愿とともに一時の最たる者であった。故に当時の人はこれについて語って言った。「洛州には前の賈に後の張あり、京兆の三王に匹敵す。」このように称賛された。

原文神龍二年,中宗還京,以仁愿爲左屯衛大將軍,兼檢校洛州長史。時都城穀貴,盜竊甚眾,仁愿一切皆捕獲杖殺之。積屍府門,遠近震懾,無敢犯者。初,髙宗時賈敦頤爲洛州刺史,亦有政績,與仁愿皆爲一時之最。故時人爲之語曰:「洛州有前賈後張,可敵京兆三王。」其見稱如此。

三年(707年)、突厥が侵入した。朔方軍総管の沙吒忠義が賊に敗れた。詔により仁愿が御史大夫を摂り、忠義に代わって衆を統率した。仁愿が軍に至った時には賊衆は既に退いていたが、そこでその後を追跡し、夜襲して大破した。以前、朔方軍の北は突厥と河を以て境界とし、河北岸に拂雲神祠があった。突厥が侵入する時は、必ずまず祠に詣でて祭酹し福を求め、そこで馬を放牧し兵を整えてから河を渡った。当時、突厥の默啜は衆を尽くして西の突騎施の娑葛を撃っていた。仁愿は虚に乗じて漠南の地を奪取し、河北に三受降城を築き、首尾相応じて、その南寇の路を絶つことを請うた。太子少師の唐休璟は、両漢以来、皆北は黄河を守っており、今、寇境に城を築くのは、人を労し功を費やすことを恐れ、終には賊虜の所有となると考え、不便であると建議した。仁愿は固く請うて止まず、中宗はついにこれに従った。仁愿は表を上って、年満ちた鎮兵を留めてその工事を助けさせた。当時、咸陽の兵二百余人が逃げ帰った。仁愿はこれをことごとく捕え、一時に城下で斬った。軍中は股慄し、役夫は力を尽くし、六十日で三城がともに完成した。拂雲祠を中城とし、東・西の両城とそれぞれ四百余里離れ、皆津済(渡河点)を占拠し、遥かに相応接し、北に地を三百余里拓き、牛頭朝那山の北に烽候一千八百所を置いた。これより後、突厥は山を越えて放牧することができず、朔方は再び寇掠されることがなくなり、鎮兵数万人を減らすことができた。

原文三年,突厥入寇。朔方軍總管沙吒忠義爲賊所敗。詔仁愿攝御史大夫,代忠義統眾。仁愿至軍而賊眾已退,乃躡其後,夜掩大破之。先,朔方軍北與突厥以河爲界,河北岸有拂雲神祠。突厥將入寇,必先詣祠祭酹求福,因牧馬料兵而後渡河。時突厥默啜盡眾西擊突騎施娑葛,仁愿請乘虛奪取漠南之地,於河北築三受降城,首尾相應,以絕其南寇之路。太子少師唐休璟以爲兩漢已來,皆北守黃河,今於寇境築城,恐勞人費功,終爲賊虜所有,建議以爲不便。仁愿固請不已,中宗竟從之。仁愿表留年滿鎮兵以助其功。時咸陽兵二百餘人逃歸,仁愿盡擒之,一時斬於城下,軍中股慄,役者盡力,六旬而三城俱就。以拂雲祠爲中城,與東、西兩城相去各四百餘里,皆據津濟,遙相應接,北拓地三百餘里,於牛頭朝那山北置烽候一千八百所。自是突厥不得度山放牧,朔方無復寇掠,減鎮兵數萬人。

仁愿が初めて三城を築いたとき、壅門や卻敵・戦格の設備を設けなかった。ある人が問うて言うには、「これは辺境の城で賊を防ぐところであるのに、守備のためのものを設けないのは、どういうわけか」と。仁愿は言う、「兵は攻め取ることを貴び、退いて守るのはよろしくない。賊がここに至れば、ただちに力を合わせて出撃し、振り返って城を望む者があってもなお斬らねばならぬ。どうして守備の設備を設けて、退却しようとする心を生じさせようか」と。その後、常元楷が朔方軍総管となって、初めて壅門を築いて賊に備えた。議論する者はこれによって仁愿を重んじ、元楷を軽んじたのである。仁愿が朔方にいたとき、監察御史の張敬忠・何鸞、長安尉の寇泚、鄠県尉の王易從、始平主簿の劉體微を奏上して用い、軍事を分掌させ、太子文学の柳彦昭を管記とし、義烏尉の晁良貞を隨機とした。敬忠らはいずれも文吏として著名で、多くは大官に至り、当時は仁愿に人を見抜く鑑識があると称された。

原文仁愿初建三城,不置壅門及卻敵、戰格之具。或問曰:「此邊城禦賊之所,不爲守備,何也?」仁愿曰:「兵貴在攻取,不宜退守。寇若至此,即當並力出戰,回顧望城,猶須斬之,何用守備生其退恧之心也?」其後常元楷爲朔方軍總管,始築壅門以備寇,議者以此重仁愿而輕元楷焉。仁愿在朔方,奏用監察御史張敬忠、何鸞、長安尉寇、泚、鄠縣尉王易從、始平主簿劉體微分判軍事,太子文學柳彥昭爲管記,義烏尉晁良貞爲隨機。敬忠等皆以文吏著稱,多至大官,時稱仁愿有知人之鑒。

景龍二年、左衛大将軍・同中書門下三品に任じられ、累ねて韓国公に封ぜられた。春に朝廷に帰還し、秋に再び軍を督いて辺境を備えた。中宗は詩を賦して餞別し、賞賜は数えきれなかった。まもなく鎮軍大将軍を加えられた。睿宗が即位すると、老齢を理由に致仕したが、特に禄俸を全額支給し、また兵部尚書に任じ、光禄大夫を加えられたが、依然として致仕の身であった。開元二年に卒去し、太子少傅を追贈され、傅物二百段が賜られ、五品官一人を監護使とした。子の之輔は、開元初めに趙州刺史となった。

原文景龍二年,拜左衛大將軍、同中書門下三品,累封韓國公。春還朝,秋復督軍備邊。中宗賦詩祖餞,賞賜不可勝紀。尋加鎮軍大將軍。睿宗即位,以老致仕,特全給祿俸,又拜兵部尚書,加光祿大夫,依舊致仕。開元二年卒,贈太子少傅,傅物二百段,命五品官一人爲監護使。子之輔,開元初爲趙州刺史。

薛訥

原文薛訥

薛訥は、絳州萬泉の人で、左武衛大将軍仁貴の子である。藍田令となったとき、富商の倪氏が御史台で私債の処理を求め、中丞の来俊臣がその財貨を受け取り、義倉の米数千石を出して与えるよう判決した。訥は言う、「義倉はもともと水旱に備えるための蓄えである。どうして衆人の命を絶って、一家の財産を助けようか」と。ついに上申して与えなかった。ちょうど俊臣が罪を得たので、その事は行われなかった。その後、突厥が河北に侵入したとき、則天は訥が将門であることから、左武威衛将軍・安東道経略を摂行させた。出発に際し、同明殿で召見して語りかけると、訥は奏上して言う、「醜虜が横暴なのは、廬陵(中宗)を口実としているからです。今、制を下して皇太子に立てられましたが、外の議論はなお定まらない恐れがあります。もしこの命が変わらなければ、狂った賊は自然に服従するでしょう」と。則天はその言葉を深くもっともとした。まもなく幽州都督に任じられ、安東都護を兼ねた。転じて并州大都督府長史となり、検校左衛大将軍を兼ねた。長く辺鎮の任に当たり、累ねて戦功があった。

原文薛訥,絳州萬泉人也,左武衛大將軍仁貴子也。爲藍田令,有富商倪氏於御史台理其私債,中丞來俊臣受其貨財,斷出義倉米數千石以給之。訥曰:「義倉本備水旱,以爲儲蓄,安敢絕眾人之命,以資一家之產?」竟報上不與。會俊臣得罪,其事乃不行。其後突厥入寇河北,則天以訥將門,使攝左武威衛將軍、安東道經略。臨行,於同明殿召見與語,訥因奏曰:「醜虜恁淩,以盧陵爲辭。今雖有制升儲,外議猶恐未定。若此命不易,則狂賊自然款伏。」則天深然其言。尋拜幽州都督,兼安東都護。轉并州大都督府長史,兼檢校左衛大將軍。久當邊鎮之任,累有戰功。

玄宗が即位し、新豊で武を講じたとき、訥は左軍節度となった。時に元帥と礼官が罪を得て、諸部もまたかなり順序を失った。ただ訥と解琬の軍だけは動じなかった。玄宗は軽騎を遣わして訥らを召したが、軍門に至っても、みな入ることができなかった。礼が終わると、上は大いに慰労を加えた。

原文玄宗即位,於新豐講武,訥爲左軍節度。時元帥與禮官得罪,諸部頗亦失序。唯訥及解琬之軍不動。玄宗令輕騎召訥等,至軍門,皆不得入。禮畢,上甚加慰勞。

時に契丹及び奚が突厥と連合し、しばしば辺境の患いとなったので、訥は建議して出師して討つことを請うた。開元二年夏、詔して左監門将軍杜賓客・定州刺史崔宣道らとともに衆二万を率い、檀州道から出て契丹らを討たせた。杜賓客は、時は炎暑に属し、将兵が戈甲を負い、資糧を携えて賊の境に深く入れば、勝利を収めるのは難しいと考えた。中書令姚元崇もまたそう考えた。訥ひとりが言う、「夏の月は草が茂り、子羊や子牛が生息する時期で、糧食の蓄えを費やすことなく、漸次進むこともできます。一挙に国の威霊を振るうべきで、機会を失うべきではありません」と。当時の議論はみな不便であると考えた。玄宗はまさに四夷を威服させようとしていたので、特に訥に同紫微黄門三品を命じ、兵を総べて奚・契丹を撃たせた。議論する者はようやくやんだ。六月、軍は灤河に至り、賊に遭遇した。時はすでに蒸し暑く、諸将は計画を誤り、ことごとく契丹らに覆滅された。訥は身を脱して逃れ、罪を崔宣道及び蕃将の李思敬ら八人に帰し、詔してことごとく斬らせ、特に杜賓客の罪を免じた。制を下して言う、「并州大都督府長史兼検校左衛大将軍・和戎大武等諸軍州節度大使・同紫微黄門三品薛訥は、戎を総べ辺を防ぎ、建議を首唱した。敵情を察するに暗く、戦いを交えるに軽率で、我が王師を張り、虜の境に敗北させた。その過去を観るに、しばしば忠誠を尽くし、常に主君に報い、義を見て身を忘れようとした。特に厳刑を緩め、来たるべき効験を期す。その罪を赦し、すべての官爵等はことごとく除削せよ」と。

原文時契丹及奚與突厥連和,屢爲邊患,訥建議請出師討之。開元二年夏,詔與左監門將軍杜賓客、定州刺史崔宣道等率眾二萬,出檀州道以討契丹等。杜賓客以爲時屬炎暑,將土負戈甲,齎資糧,深入寇境,恐難爲製勝。中書令姚元崇亦以爲然。訥獨曰:「夏月草茂,羔犢生息之際,不費糧儲,亦可漸進。一舉振國威靈,不可失也。」時議鹹以爲不便。玄宗方欲威服四夷,特令訥同紫微黃門三品,總兵擊奚、契丹,議者乃息。六月,師至灤河,遇賊,時既蒸暑,諸將失計會,盡爲契丹等所覆。訥脫身走免,歸罪於崔宣道及蕃將李思敬等八人,詔盡令斬之,特免杜賓客之罪。下製曰:「并州大都督府長史兼檢校左衛大將軍、和戎大武等諸軍州節度大使、同紫微黃門三品薛訥,總戎禦邊,建議爲首。暗於料敵,輕於接戰,張我王師,衄之虜境。觀其疇昔,頗常輸罄,每欲資忠報主,見義忘身。特緩嚴刑,俾期來效,宜赦其罪,所有官爵等並從除削。」

その年八月、吐蕃の大将坌達延・乞力徐らが衆十万を率いて臨洮軍を寇し、さらに進んで蘭州及び渭州の渭源県を寇し、群牧を掠めて去った。詔して訥に白衣のまま左羽林将軍を摂行させ、隴右防禦使とし、太仆少卿王晙らとともに兵を率いて邀撃させた。十月、訥は衆を率いて渭源に至り、武階駅で賊と戦い、王晙と犄角の勢いで挟み撃ちにし、賊衆を大破した。敗走する敵を洮水まで追撃し、また長城堡で戦い、豊安軍使王海賓が先鋒として力戦して死んだ。将士は勢いに乗じて進撃し、またこれを破り、殺獲一万人、その将六指郷彌洪を生け捕りにし、掠め取られた羊馬をことごとく回収し、その器械を獲ること数えきれなかった。時に詔があって十二月に親征して吐蕃を討とうとしていたが、訥らが勝利したと聞き、玄宗は大いに喜び、親征を取りやめた。王海賓を左金吾衛大将軍に追贈し、物三百段・粟三百石を賜い、その幼子を忠嗣と名付け、朝散大夫に任じた。紫微舍人倪若水を遣わし、ただちに功績を記録させ、訥を左羽林軍大将軍に任じ、再び平陽郡公に封じ、また子の暢を朝散大夫に任じた。まもなくまた涼州鎮軍大総管を充てた。ほどなく老齢を理由に、特に致仕を許された。八年に卒去し、年七十余、太常卿を追贈され、諡して昭定といった。訥は沈勇で寡言、大敵に臨んでますます壮であった。訥の弟楚玉は、開元年間に幽州大都督府長史となり、不称職として代えられて卒去した。

原文其年八月,吐蕃大將坌達延、乞力徐等率眾十萬寇臨洮軍,又進寇蘭州及渭州之渭源縣,掠群牧而去。詔訥白衣攝左羽林將軍,爲隴右防禦使,與大仆少卿王晙等率兵邀擊之。十月,訥領眾至渭源,遇賊戰於武階驛,與王晙掎角夾攻之,大破賊眾。追奔至洮水,又戰於長城堡,豐安軍使王海賓先鋒力戰死之。將士乘勢進擊,又敗之,殺獲萬人,擒其將六指鄉彌洪,盡收其所掠羊馬,並獲其器械,不可勝數。時有詔將以十二月親征吐蕃,及聞訥等克捷,玄宗大悅,乃停親征。追贈王海賓左金吾衛大將軍,賜物三百段、粟三百石,名其稚子爲忠嗣,拜朝散大夫。命紫微舍人倪若水往,即便敘錄功狀,拜訥爲左羽林軍大將軍,復封平陽郡公,仍拜子暢朝散大夫。俄又充涼州鎮軍大總管。尋以年老,特聽致仕。八年卒,年七十餘,贈太常卿,諡曰昭定。訥沉勇寡言,臨大敵而益壯。訥弟楚玉,開元中,爲幽州大都督府長史,以不稱職見代而卒。

王晙

原文王晙

王晙は、滄州景城の人で、家を洛陽らくように移した。祖父の有方は、岷州刺史であった。晙は弱冠で明経に及第し、累遷して殿中侍御史となり、朝散大夫を加えられた。時に朔方軍元帥魏元忠が賊を討って失利し、罪を副将の韓思忠に帰して、誅するよう奏請した。晙は、思忠はすでに偏裨の将であり、命令は己によるものではなく、また勇智があって惜しむべきであり、無辜を独り殺すべきでないと考え、朝廷で議論して争った。思忠はついに釈放され、晙もまたこれによって渭南令に出された。

原文王晙,滄州景城人,徙家於洛陽。祖有方,岷州刺史。晙弱冠明經擢第,曆遷殿中侍御史,加朝散大夫。時朔方軍元帥魏元忠討賊失利,歸罪於副將韓思忠,奏請誅之。晙以思忠既是偏裨,製不由已,又有勇智可惜,不可獨殺非辜,乃廷議爭之。思忠竟得釋,而晙亦由是出爲渭南令。

景龍末、累転して桂州都督となった。桂州には旧来、屯兵があり、常に衡州・永州などの糧食を運んで供給していたが、晙は初めて羅郭を改築し、屯兵と転運を廃止するよう奏上した。また江水を堰き止め、屯田数千頃を開き、百姓はこれを頼った。まもなく上疏して郷里に帰り墓参りすることを請うたが、州の人が朝廷に赴いて晙の留任を請うたので、勅を下して言う、「あの州はかつて寇盗のため、戸口が凋残し、任に材を失したので、このようになったのだ。卿は事を処理するに強く成し遂げ、遠近を寧静にし、城を築き農に務めて利益はすでに広く、隠れたる者を糾め安んじ集めて、復業する者が多い。政が成るのを待ち、この黎庶を安んずべきであり、百姓がまた表を奉って請うているので、来るには及ばない」と。晙は州にさらに一年留まり、州の人は碑を立ててその政を称えた。再転して鴻臚大卿となり、朔方軍副大総管を充て、安西大都護を兼ね、豊安・定遠・三城及び側近の軍はみな晙の節度を受けた。後に太仆少卿・隴右群牧使に転じた。

原文景龍未,累轉爲桂州都督。桂州舊有屯兵,常運衡、永等州糧以饋之,晙始改築羅郭,奏罷屯兵及轉運。又堰江水,開屯田數千頃,百姓賴之。尋上疏請歸鄉拜墓,州人詣闕請留晙,乃下敕曰:「彼州往緣寇盜,戸口凋殘,委任失材,乃令至此。卿處事強濟,遠邇寧靜,築城務農,利益已廣,隱括綏緝,復業者多。宜須政成,安此黎庶,百姓又有表請,不須來也。」晙在州又一年,州人立碑以頌其政。再轉鴻臚大卿,充朔方軍副大總管,兼安西大都護,豐安、定遠、三城及側近軍並受晙節度。後轉太仆少卿、隴右群牧使。

開元二年、吐蕃の精兵十万が臨洮軍を寇す。晙は率いる所部二千人をして鎧を巻き行程を倍加し、臨洮の両軍と合勢してこれを拒ぐ。賊は大来穀口に営す。吐蕃の将坌達延また兵を率いて継ぎ至る。晙はすなわち奇兵七百人を出し、これに蕃服を着せ、夜襲す。相去ること五里、鼓角を置き、前者に寇に遇えば大呼し、後者は鼓を撃ちてこれに応ずることを令す。賊衆大いに懼れ、伏兵あるを疑い、自ら相殺傷し、死者万計。俄にして右羽林将軍薛訥を摂し衆を率いて吐蕃を邀撃し、武階穀に至り、大来穀を去ること二十里、賊に隔てらる。晙は兵を率いて訥の軍を迎う。賊は兵を両軍の間に置き、連亘すること数十里。晙は夜に壮士を出し枚を銜ませてこれを撃つ。賊また大いに潰く。すなわち訥と軍を合し、その余衆を掩い、奔るを追いて洮水に至り、殺獲勝げて数うべからず、掠めし牧馬を尽く収めて還る。功により銀青光禄大夫を加えられ、清源県男に封ぜられ、原州都督を兼ね、仍ちその子班を朝散大夫に拝す。尋いで并州大都督府長史を除く。明年、突厥の默啜、九姓に殺さる。その下の酋長多く款塞して投降す。これを河曲の内に置く。俄にして小殺継ぎ立ち、降者漸く叛く。晙上疏して曰く、

原文開元二年,吐蕃精甲十萬寇臨洮軍,晙率所部二千人卷甲倍程,與臨洮兩軍合勢以拒之。賊營於大來穀口,吐蕃將坌達延又率兵繼至。晙乃出奇兵七百人,衣之蕃服,夜襲之。相去五里,置鼓角,令前者遇寇大呼,後者擊鼓以應之。賊眾大懼,疑有伏兵,自相殺傷,死者萬計。俄而攝右羽林將軍薛訥率眾邀擊吐蕃,至武階穀,去大來穀二十里,爲賊所隔。晙率兵迎訥之軍,賊置兵於兩軍之間,連亙數十里。晙夜出壯士銜枚擊之,賊又大潰。乃與訥合軍,掩其餘眾,追奔至洮水,殺獲不可勝數,盡收所掠牧馬而還。以功加銀青光祿大夫,封淸源縣男,兼原州都督,仍拜其子班爲朝散大夫。尋除并州大都督府長史。明年,突厥默啜爲九姓所殺,其下酋長多款塞投降,置之河曲之內。俄而小殺繼立,降者漸叛。晙上疏曰:

突厥は時に乱離に属し、以て款塞し降附す。その部落と有するは、仇嫌有るに非ず、情は北風に異なり、理固より明らかなり。その釁を養い成せば、悔ゆると雖も何をか追わん。今者、河曲の中に降虜を安置す。この輩は生梗にして、実に処置難し。日月漸く久しく、奸詐ますます深く、辺の間隙を窺い、必ず患難と為らん。今降者の部落有り、軍州の進止を受けず、輒ち兵馬を動かし、屡に傷殺有り。勝州の左側を詢問すれば、損せらるること五百余人。私に烽鋪を置き、潜かに抗拒と為り、公私の行李、頗る危懼に実す。北虜もし或いは南牧せば、降戸必ずこれと連衡せん。臣、蕃に没して帰る人に問うに云う、却って逃るる者甚だ衆し、南北の信使、委曲を通伝す。この輩の降人、翻って細作と成る。倘や余燼を収め合わし、来たりて軍州を逼らば、虜騎は恁淩し、胡兵は応接し、表裏に敵有り、進退に援無し。復た韓・彭の勇、孫・呉の策有ると雖も、その製勝を令せば、その必ずせんこと可ならんや。秋冬の際に至るを望み、朔方軍に令して兵馬を盛んに陳べしめ、その禍福を告げ、繒帛の利を啗ましめ、麋鹿の饒を示し、その魚米の郷を説き、その畜牧の地を陳べしむ。併せて淮南・河南の寛郷に分配安置し、仍ち程糧を与え、配所に送致すべし。復た一時の労弊有ると雖も、必ず久長の安穩を得ん。二十年の外、漸く淳風に染み、将に以て兵に充てんとす、皆勁卒と為らん。もし北狄の降者を以て南中に安置すべからずとせば、則ち高麗の俘虜は沙漠の曲に置き、西域の編氓は青・徐の右に散ず。唯だ利を視るのみ、務めて疆埸を安んず。何ぞ独り降胡のみ、移徙すべからざらんや。近者、辺に在る将士、爰に安蕃の使人に及び、多く諛辞を作し、実に対せず。或いは北虜破滅すと言い、或いは降戸安静すと言う。志すところ自ら功效を言わんと欲し、邦家に以て徇うる有るに非ず。伏して願わくはこの利口を察し、この遠慮を行い、辺荒清晏、黎元幸甚ならんことを。臣、留住の議を料るに、謀者は故事に遵うと云い、必ず降戸の輩は旧く河曲の中に置く、昔年既に康寧を得たり、今日還って応に穩便なるべしと言わん。但だ時同じくして事異なり、先典の伝うる所なり。往者頡利破亡し、辺境寧謐す。降戸の輩、復た他心無く、以て多く歳年を歴るも、この類皆動靜無し。今虜見未だ破滅せず、降戸私に使を往来し、或いは北虜の威を畏れ、或いは北虜の恵を懐い、又た北虜の戚属なり。夫れ豈に親疏を識らざらんや。昔年に比せば、安んぞ同日に同日ならんや。臣、その中に頗る三策有るを料る。若し兵馬を盛んに陳べ、散じて分配を令せば、内に精兵の実を獲、外に黠虜の謀を袪り、暫く労して永く安んず。これ上策なり。若し多く士卒を屯し、広く備擬を為し、亭障の地、蕃・漢相参われば、費甚だしく人労す。これ下策なり。若しこれを朔塞に置き、その来往に任せ、信息を通伝し、禍胎を結成せば、これ策無きなり。伏して願わくはこの三者を察し、その善悪、利害の状を詳らかにせんことを。長短尋ぬべし。縦え遷移に因り、或いは逃叛を致すとも、但だ移し得る者有らば、即ち是れ今日の良図なり。河氷を留めて待たば、恐らくは即ち変有らん。臣、天沢を蒙り、叨んで重鎮に居る。耳に逆らえども行いに利あれば、敢えて言を尽くさざらんや。

原文突厥時屬亂離,所以款塞降附。其與部落,非有仇嫌,情異北風,理固明矣,養成其釁,雖悔何追。今者,河曲之中,安置降虜,此輩生梗,實難處置。日月漸久,奸詐逾深,窺邊間隙,必爲患難。今有降者部落,不受軍州進止,輒動兵馬,屢有傷殺。詢問勝州左側,被損五百餘人。私置烽鋪,潛爲抗拒,公私行李,頗實危懼。北虜如或南牧,降戸必與連衡。臣問沒蕃歸人雲,卻逃者甚眾,南北信使,委曲通傳,此輩降人,翻成細作。倘收合餘燼,來逼軍州,虜騎恁淩,胡兵應接,表裏有敵,進退無援。雖復韓、彭之勇,孫、吳之策,令其製勝,其可必乎!望至秋冬之際,令朔方軍盛陳兵馬,告其禍福,啗以繒帛之利,示以麋鹿之饒,說其魚米之鄉,陳其畜牧之地。並分配淮南、河南寬鄉安置,仍給程糧,送至配所。雖復一時勞弊,必得久長安穩。二十年外,漸染淳風,將以充兵,皆爲勁卒。若以北狄降者不可南中安置,則髙麗俘虜置之沙漠之曲,西域編氓散在青、徐之右,唯利是視,務安疆埸,何獨降胡,不可移徙。近者,在邊將士,爰及安蕃使人,多作諛辭,不爲實對。或言北虜破滅,或言降戸安靜,誌欲自言功效,非有以徇邦家。伏願察斯利口,行茲遠慮,邊荒淸晏,黎元幸甚。臣料留住之議,謀者雲遵故事,必言降戸之輩,舊置河曲之中,昔年既得康寧,今日還應穩便。但同時異事,先典攸傳。往者頡利破亡,邊境寧謐,降戸之輩,無復他心,所以多曆歳年,此類皆無動靜。今虜見未破滅,降戸私使往來,或畏北虜之威,或懷北虜之惠,又是北虜戚屬,夫豈不識親疏,將比昔年,安可同日!臣料其中頗有三策。若盛陳兵馬,散令分配,內獲精兵之實,外袪黠虜之謀,暫勞永安,此上策也。若多屯士卒,廣爲備擬,亭障之地,蕃、漢相參,費甚人勞,此下策也。若置之朔塞,任之來往,通傳信息,結成禍胎,此無策也。伏願察斯三者,詳其善惡,利害之狀,長短可尋。縱因遷移,或致逃叛,但有移得之者,即是今日良圖,留待河冰,恐即有變。臣蒙天澤,叨居重鎮,逆耳利行,敢不盡言。

疏奏未だ報いず、降虜果たして叛く。勅して晙に并州兵を帥い西して河を済み以てこれを討たしむ。晙はすなわち間行倍道し、夜を以て晝に継ぎ、甲を巻き幕を舍ててこれに趨る。夜、山中に於いて忽ち風雪甚だ盛んなるに遇う。晙は期を失わんことを恐れ、天を仰ぎ誓いて曰く、「晙若し君に事えて忠ならず、罪有るを討たずば、明霊の殛する所、固より自らこれを当つべし。而して士衆何の辜ぞ、その艱苦を令せんや。若し誠心忠烈にして、天監孔明ならば、当に雪を止め風を回らし、以て戎事を済すべし」と。言い訖りて、風回りて雪止む。時に叛する者両道に分かる。その東に在る者、晙追い及びて、一千五百余人を殺し、一千四百余人を生獲し、駝馬牛羊甚だ衆し。晙は功により左散騎常侍さんきじょうじに遷り、節を持ち朔方道行軍大総管と為り、尋いで御史大夫に遷る。

原文疏奏未報,降虜果叛,敕晙帥并州兵西濟河以討之。晙乃間行倍道,以夜繼晝,卷甲舍幕而趨之。夜於山中忽遇風雪甚盛,晙恐失期,仰天誓曰:「晙若事君不忠,不討有罪,明靈所殛,固自當之,而士眾何辜,令其艱苦!若誠心忠烈,天監孔明,當止雪回風,以濟戎事。」言訖,風回而雪止。時叛者分爲兩道,其在東者,晙追及之,殺一千五百餘人,生獲一千四百餘人,駝馬牛羊甚眾。晙以功遷左散騎常侍、持節朔方道行軍大總管,尋遷御史大夫。

時に突厥〓夾跌部落及び仆固都督勺磨等、受降城の左右に散在して居止し、且つ謀りて突厥を引き共に表裏と為し、軍城を陥れて叛かんとす。晙、因りて入奏し、密かにこれを誅することを請う。八年秋、晙、〓夾跌等の党与八百余人を中受降城に誘いてこれを誅す。ここに由りて乃ち晙に兵部尚書を授け、復た朔方軍大総管を充す。

原文時突厥〓夾跌部落及仆固都督勺磨等散在受降城左右居止,且謀引突厥共爲表裏,陷軍城而叛。晙因入奏,密請誅之。八年秋,晙誘〓夾跌等黨與八百餘人於中受降城誅之,由是乃授晙兵部尚書,復充朔方軍大總管。

九年、蘭池州の胡、賦役に苦しみ、降虜の余燼を誘い、夏州を攻めて反叛す。詔して隴右節度使・羽林将軍郭知運に晙と相知りてこれを討たしむ。晙奏す、「朔方軍の兵自ら余力有り。その郭知運は本軍に還ることを請う」と。未だ報いずして知運の兵至り、晙と頗る相協わず。晙の招撫する降者、知運は兵を縦ってこれを撃つ。賊は晙の売る所と為すを以て、皆相率いて叛走す。晙は進んで清源県公に封ぜられ、仍ち御史大夫を兼ぬ。俄にして賊衆復た相結聚す。晙は坐して梓州刺史に左遷せらる。十年、太子詹事を拝し、累ねて中山郡公に封ぜらる。車駕の北巡に属し、晙を以て吏部尚書と為し、太原尹を兼ぬ。十一年夏、張説に代わりて兵部尚書・同中書門下三品と為り、胡を破るの功を追録し、金紫光禄大夫を加えられ、仍ち朔方軍節度大使を充す。その年冬、上親しく郊祀し、晙を追って京に赴かしめ、以て大礼に会せしむ。晙は時に氷壮に属するを以て、恐らくは虜騎隙に乗じて入寇せんとし、表を以て赴かずと辞し、手勅を以て慰勉せられ、仍ち衣一副を賜う。会うところ許州刺史王喬の家奴、喬と晙の潜かに謀りて逆を構うるを告ぐ。勅して侍中源乾曜・中書令張説にその状を鞫らしむ。晙は既に反状無く、乃ち詔を違えて追いに到らざるを以て、蘄州刺史に左遷せらる。十四年、累ねて戸部尚書に遷り、復た朔方軍節度使と為る。二十年卒す。年七十余。尚書左丞相を贈られ、諡して忠烈と曰う。

原文九年,蘭池州胡苦於賦役,誘降虜餘燼,攻夏州反叛,詔隴右節度使、羽林將軍郭知運與晙相知討之。晙奏:「朔方軍兵自有餘力,其郭知運請還本軍。」未報,而知運兵至,與晙頗不相協。晙所招撫降者,知運縱兵擊之,賊以爲晙所賣,皆相率叛走。晙進封淸源縣公,仍兼御史大夫。俄而賊眾復相結聚,晙坐左遷梓州刺史。十年,拜太子詹事,累封中山郡公。屬車駕北巡,以晙爲吏部尚書,兼太原尹。十一年夏,代張說爲兵部尚書、同中書門下三品,追錄破胡之功,加金紫光祿大夫,仍充朔方軍節度大使。其年冬,上親郊祀,追晙赴京,以會大禮。晙以時屬冰壯,恐虜騎乘隙入寇,表辭不赴,手敕慰勉,仍賜衣一副。會許州刺史王喬家奴告喬與晙潛謀構逆,敕侍中源乾曜、中書令張說鞫其狀。晙既無反狀,乃以違詔追不到,左遷蘄州刺史。十四年,累遷戸部尚書,復爲朔方軍節度使。二十年卒,年七十餘,贈尚書左丞相,諡曰忠烈。

往年、魏元忠が張易之・昌宗に陥れられ、左遷されて高要尉となった時、王晙は密かに上書してその冤罪を明らかにした。宋璟は当時鳳閣舎人であったが、王晙に言うには、「魏公はまさに全うされようとしているが、あなたは厳然として理を主張して坐している。恐らくあなたは狼狽することになろう」と。王晙は言うには、「魏公は忠義にして罪を得た。私は義に激せられており、たとえ困窮しても恨みはない」と。宋璟は嘆いて言うには、「私は魏公の冤罪を申し立てることができず、朝廷に深く負うところがある」と。王晙は気概と容貌が雄壮で、当時の人は彼に熊虎の状ありと言った。しかし義を慕い奮い立つことは、古人の風があり、部下を統御するに整然として厳しく、人吏は畏れてこれを愛した。王晙の死後、信安王李禕が幽州で奚を討って勝利を報告し、上奏して称えるに、軍士たちが皆、王晙が蕃将の高昭と兵馬を率いて先鋒となり賊を討つのを見たという。上はこれを聞き、しばらく嘆き驚いた。戸部郎中楊伯城が上疏し、王晙らの墳墓に特に封域を増修し、酌量して表彰を加え、使者を降して饗祭を行い、その子孫を優遇することを請うた。玄宗は使者を遣わしてその家廟に祭らせ、さらにその子に官秩を与えた。

原文往歳,魏元忠爲張易之、昌宗所構,左授髙要尉,晙密狀申明之。宋璟時爲鳳閣舍人,謂晙曰:「魏公且全矣,子須威嚴而坐理,恐子之狼狽也。」晙曰:「魏公忠而獲罪,晙爲義所激,顛沛無恨。」璟歎曰:「璟不能申魏公之枉,深負朝廷矣。」晙氣貌雄壯,時人謂之有熊虎之狀。然慕義激勵,有古人之風,禦下整肅,人吏畏而愛之。晙卒後,信安王禕於幽州討奚告捷,奏稱軍士鹹見晙與蕃將髙昭領兵馬先軍討賊,上聞而嗟異久之。戸部郎中楊伯城上疏,請晙等墳特乞增修封域,量加表異,降使饗祭,優其子孫。玄宗乃遣使就其家廟祭,仍如其子官秩。

史臣が曰く

原文史臣曰

史臣が曰く、婁師徳は召しに応じて慷慨した、これ勇なり。仁傑を推薦して任用させた、これ忠なり。仁傑にそれを知らせなかった、これ公なり。営田して軍を贍った、これ智なり。恭勤して下に接した、これ和なり。政事に参知して、功名に終わりあり、これは人の難きところである。また何ぞ将相たるに愧じることがあろうか。王孝傑、唐休璟、張仁願、薛訥、王晙らは、皆武幹を韜晦し、しばしば辺功を立てた。しかし孝傑は再び擒えるに失し、休璟は余行に虧いた。先に敗れて後に勝つ、薛訥何ぞ慚じることがあろう。雪を止めて風を回す、王晙は掩い難し。仁願の操り行うところ、中否相兼ねたり。

原文史臣曰:婁師德應召而慷愾,勇也;薦仁傑而入用,忠也;不使仁傑知之,公也;營田贍軍,智也;恭勤接下,和也;參知政事,功名有卒,是人之難也,又何愧於將相乎!王孝傑,唐休璟、張仁愿、薛訥、王晙等,皆韜武幹,亟立邊功。然孝傑失於再擒,休璟虧於餘行。先敗後勝,薛訥何慚;止雪回風,王晙難掩;仁愿操履,中否相兼。

賛

原文贊

賛に曰く、物を拯うの心、色に形わらず。将相の材、人何をもって測る。臣に終始あり、功に爽忒なし。多く忌む梁公、自ら慚徳を招く。唐・張・訥・晙、善く陣し能く師す。共に戎虜を服し、辺陲を憂えず。

原文贊曰:拯物之心,不形於色。將相之材,人何以測。臣有始終,功無爽忒。多忌梁公,自招慚德。唐、張、訥、晙,善陣能師。共服戎虜,不憂邊陲。