旧唐書
巻九十三 列伝第四十三 婁師徳 王孝傑 唐休璟 張仁愿 薛訥 王晙
婁師徳
婁師徳は、鄭州原武の人である。弱冠にして進士に擢第し、江都尉を授けられた。揚州長史の盧承業はその才能を奇とし、嘗てこれに謂って曰く、「吾子は台輔の器なり、当に子孫を以て相托すべし、豈に官属の常礼を以て待つべきや」と。
上元の初め、累ねて監察御史を補す。時に吐蕃が塞を犯すに属し、猛士を募ってこれを討たんとし、師徳は表を抗して猛士たらんことを請う。高宗大いに悦び、特に朝散大夫を仮し、諸軍西征し、頻りに戦功有り、殿中侍御史に遷り、河源軍司馬を兼ね、並びに営田の事を知る。天授の初め、累ねて左金吾将軍を授け、兼ねて検校豊州都督と為り、仍って旧の如く営田の事を知る。則天書を降して労して曰く、「卿は素より忠勤を積み、兼ねて武略を懐く、朕の所以に襟要に寄せ、甲兵を授くる所以なり。卿の北陲に委を受けしより、軍任を総司し、霊・夏に往還し、屯田を検校し、収率既に多く、京坻遽かに積む。和糴の費に煩わず、転輸の艱しき復た無く、両軍及び北鎮の兵数年咸に支給を得たり。勤労の誠、久しくして弥だ著し、これを覧て嘉尚し、欣悦良く深し」と。
長寿元年、召して夏官侍郎・判尚書事を拝す。明年、同鳳閣鸞台平章事と為る。則天師徳に謂って曰く、「王師外に鎮するは、必ず辺境の営田に藉る、卿は須らく劬労を憚るること無く、更に使を充てて検校せよ」と。又これをもって河源・積石・懐遠等軍及び河・蘭・鄯・廓等州検校営田大使と為す。稍く秋官尚書に遷る。万歳登封元年、左粛政御史大夫に転じ、仍って並びに旧の如く政事を知る。証聖元年、吐蕃洮州を寇し、師徳に夏官尚書王孝傑とこれを討たしむ。吐蕃の大将論飲陵・賛婆と素羅汗山に戦い、官軍敗績し、師徳は原州員外司馬に貶授せらる。
万歳通天二年、入って鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事と為る。是の歳、兼ねて検校右粛政御史大夫と為り、仍って左粛政台の事を知り、王懿宗・狄仁傑と分道して河北諸州を安撫す。神功元年、納言を拝し、累ねて譙県子に封ぜらる。尋で詔して師徳に隴右諸軍大使を充てしめ、仍って検校河西営田事と為す。聖暦二年、突厥入寇し、復た検校并州長史を令し、仍って天兵軍大総管を充てしむ。是の歳九月卒す。涼州都督を贈られ、諡して貞と曰う。
初め、狄仁傑未だ相に入らざりし時、師徳嘗てこれを薦む。宰相と為るに及び、師徳の己を薦めたるを知らず、数え師徳を排し、外使を充てしむ。則天嘗て師徳の旧表を出してこれを示す。仁傑大いに慚じ、人に謂って曰く、「吾婁公に含まれること此の如し、方に婁公に逮ばざる遠きを知る」と。師徳は頗る学渉有り、器量寛厚にして、喜怒色に形せず。専ら辺任を綜ぶるより、前後三十余年、恭勤して下に接し、孜孜として怠らず。政事を知るに参ずるも、深く畏避を懐き、竟に功名を以て始終し、甚だ識者に重んぜらる。
王孝傑
王孝傑は、京兆新豊の人である。高宗の末、副総管と為り、工部尚書劉審礼に従い西征して吐蕃を討ち、大非川に戦い、賊に捕らえらる。吐蕃の賛普孝傑を見て、泣きて曰く、「貌吾が父に類す」と。厚く敬礼を加え、これにより死を免れ、尋で帰るを得。則天の時、累ねて右鷹揚衛将軍に遷る。孝傑久しく吐蕃の中に在り、その虚実を悉くす。長寿元年、武威軍総管と為り、左武衛大将軍阿史那忠節と眾を率いて吐蕃を討ち、乃ち亀茲・于闐・疏勒・碎葉の四鎮を克復して還る。則天大いに悦び、侍臣に謂って曰く、「昔貞観中貝綾し、此の蕃城を得たり、其の後西陲守らず、並びに吐蕃に陥る。今既に旧に尽く復し、辺境自然に事無し。孝傑斯の功效を建て、此の款誠を竭し、遂に足を裹き徒行し、身士卒と力を斉うす。此の如き忠懇、深く是れ嘉すべし」と。乃ち孝傑を左衛大将軍に拝す。明年、夏官尚書・同鳳閣鸞台三品に遷り、清源男に封ぜらる。延載の初め、入って瀚海道行軍総管と為り、余は故の如し。証聖の初め、又朔方道総管と為り、尋で吐蕃と戦いて敗るるに坐し免官す。
万歳通天年、契丹の李尽忠・孫万栄反叛し、復た孝傑を詔して白衣のまま起ちて清辺道総管と為し、兵十八万を統べてこれを討たしむ。孝傑軍東峡石谷に至り賊に遇う。道隘く、虜甚だ衆し。孝傑精鋭の士を率いて先鋒と為し、且つ戦い且つ前り、谷を出るに及び、方陣を布きて賊を捍ぐ。後軍総管蘇宏暉賊の衆を畏れ、甲を棄てて遁る。孝傑既に後継無く、賊の乗ずる所と為り、営中潰乱し、孝傑谷に堕ちて死す。兵士賊に殺され及び奔り践まれて死すること殆んど尽く。時に張説節度管記と為り、馳せて其の事を奏す。則天孝傑の敗亡の状を問う。説曰く、「孝傑忠勇敢死、乃ち誠に国に奉じ、深く寇境に入り、少を以て衆を禦ぐ。但だ後援至らざるを為す、所以に敗るるに致る」と。ここにおいて孝傑に夏官尚書を追贈し、耿国公に封ず。其の子無択を朝散大夫に拝す。使を遣わして宏暉を斬りて徇らしむ。使未だ幽州に至らざるに、而して宏暉已に功を立て罪を贖い、竟に誅を免る。開元中、無択官左驍衛将軍に至り、恩例を以て孝傑に特進を贈る。
唐休璟
唐休璟は、京兆始平の人である。曾祖規は、周の驃騎大将軍・安邑県公。祖宗は、隋の大業末に朔方郡丞と為る。時に梁師都兵を挙げ、将に城を拠せんとす。宗節を抗して従わず、乃ち害せらるる所と為る。
休璟少くして明経に擢第す。永徽中、褐を解きて呉王府典籤と為る。異材無く、調授して営州戸曹と為る。調露中、単于突厥背叛し、奚・契丹を誘扇して州県を侵掠す。後奚・羯胡又桑乾突厥と同く反す。都督周道務休璟に兵を将いて独護山にこれを撃破せしむ。斬獲甚だ衆く、超えて豊州司馬を拝す。永淳中、突厥豊州を囲む。都督崔智辯戦いて歿す。朝議豊州を罷め、百姓を霊・夏に徙さんと欲す。休璟以て不可と為し、上書して曰く、「豊州は河を控え賊を遏む、実に襟帯たり。秦・漢已来、郡県と列し、田疇良美、尤も耕牧に宜し。隋季喪乱し、堅守すること能わず、乃ち百姓を遷徙して寧・慶二州に就かしむ。致して戎羯交侵し、乃ち霊・夏を以て辺界と為す。貞観の末、始めて人を募りてこれを実む。西北の一隅、方に寧謐を得たり。今若し廃棄せば、則ち河傍の地復た賊の有する所と為り、霊・夏等州の人業に安んぜず、国家の利に非ざるなり」と。朝廷其の言に従い、豊州復た存す。
垂拱中、安西副都護に遷る。会に吐蕃焉耆を攻め破る。安息道大総管・文昌右相韋待価及び副使閻温古失利す。休璟其の余衆を収め、以て安西の土とす。西州都督に遷り、表を上りて復た四鎮を取らんことを請う。則天王孝傑を遣わし吐蕃を破り、四鎮を抜く。亦休璟の謀なり。聖暦中、司衛卿と為り、涼州都督・右粛政御史大夫を兼ね、節を隴右諸軍州大使に持つ。
久視元年(700年)の秋、吐蕃の大将麹莽布支が騎兵数万を率いて涼州を侵し、洪源谷から侵入し、昌松県を包囲しようとした。唐休璟は数千人を率いてこれを迎撃し、陣前に臨んで高所に登り、賊の衣甲が鮮やかで盛んであるのを見て、麾下に言った。「欽陵が死に、讃婆が降伏して以来、麹莽布支は新たに賊兵を知り、威武を輝かせようと欲する。故にその国中の貴臣・酋豪の子弟が皆これに従っている。人馬は精鋭ではあるが、軍事に習熟していない。我が諸君のためにこれを取ろう。」そこで甲冑を着けて先頭に立ち、賊と六度戦って六度勝利し、これを大破し、その副将二人を斬り、首級二千五百を獲て、京観を築いて帰還した。その後、休璟が朝廷に入ると、吐蕃も使者を遣わして和を請うた。宴席でたびたび休璟を窺った。則天武后がその理由を問うと、答えて言った。「往年の洪源の戦いの時、この将軍は雄猛無比で、臣下の将士を多く殺した。故に彼を識りたいと思った。」則天は大いに嘆異し、右武威・右金吾二衛大将軍に抜擢した。
休璟は特に辺境の事情に精通しており、碣石から西に四鎮を越え、綿々と万里にわたる山川の要害を、すべて記憶することができた。長安年間(701-704年)、西突厥の烏質勒が諸蕃と不和となり、兵を挙げて相対峙し、安西道が遮断され、表奏が相次いだ。則天は休璟に命じて宰相と事勢を協議させたが、俄頃の間に奏文を草し、すぐに施行に移した。十数日後、安西諸州から兵馬の応接を請う表が届き、その行程・期日はすべて休璟が画策した通りであった。則天は休璟に言った。「卿を用いるのが遅かったことを恨む。」そこで夏官尚書・同鳳閣鸞台三品に遷した。また魏元忠および楊再思・李嶠・姚元崇・李迥秀らに言った。「休璟は辺事に精通している。卿らは十人でも彼一人には及ばない。」
まもなく太子右庶子に転じ、従前通り政事を知った。契丹が侵入したため、再び夏官尚書に任じられ、兼ねて検校幽・営等州都督、兼安東都護を拝命した。当時、中宗は春宮(皇太子)におり、休璟は出発に際し、皇太子に進啓して言った。「張易之兄弟は寵遇を蒙り、しばしば禁中で宴に侍し、情に任せて礼を失っている。人臣の道ではなく、ただ防ぎ察することを加えるべきです。」中宗が即位すると、召して輔国大将軍・同中書門下三品に任じ、酒泉郡公に封じ、顧みて言った。「卿がかつて直言したことは、朕は今も忘れていない。初め卿を召して事を計ろうとしたが、ただ遠方であることと、兼ねて北狄の憂いを抱いていたためだ。」間もなく、特進を加えられ、尚書右僕射に任じられた。この年の秋、大水があり、休璟は二度上表して自らを咎め、官を免じることを切に請うた。その辞は多く記載しない。中宗はついに允さず、手製で答えて言った。「陰陽が調わず、事は朕に属する。私門に待罪するは、来表のごときには依り難い。」まもなく中書令に遷り、京師留守を充て、俄かに検校吏部尚書を加えられた。また、宮僚としての旧縁により、実封三百戸を賜り、累ねて宋国公に封ぜられた。休璟は在任中、広く益するところはなかった。
景龍二年(708年)、家で致仕した。年齢と体力は衰えたが、進取の志はますます鋭かった。当時、尚宮の賀婁氏がかなり国政に関与し、彼女に憑依・附託する者は皆寵栄を得ていた。休璟はそこで自分の子に賀婁氏の養女を娶らせ、妻とし、これによって自らを達した。これにより起用されて太子少師・同中書門下三品となり、国史を監修し、なお宋国公に封ぜられた。休璟は八十歳を超えていたが、止足を知らず、依托して進取を求めたため、当時に嘲笑された。景雲元年(710年)、また特進に任じられ、朔方道行軍大総管を充て、突厥に備えさせた。旧封は停め、別に実封一百戸を賜った。二年、表を上って致仕を請うた。許された。禄および一品子の課はすべて全給するよう命じられた。休璟が初めて封を得た時、絹数千匹を親族に分散し、また家財数十万を以て大いに塋域を開き、礼を備えてその五服の親を葬った。当時の人はこれを称えた。延和元年(712年)七月に薨去。八十六歳。贈って荊州大都督とし、諡して忠といった。子の先慎が爵を襲い、官は陳州刺史に至った。次子の先擇は、開元年間に右金吾衛将軍となった。
張仁愿
張仁愿は、華州下邽の人である。本名は仁亶といったが、睿宗の諱(旦)と音が類するため改めた。若くして文武の才幹があり、累遷して殿中侍御史となった。当時、御史の郭霸が上表して則天は弥勒仏の身であると称し、鳳閣舎人の張嘉福と洛州人の王慶之らが武承嗣を皇太子に立てることを請うた。皆、仁愿に連名して表に署名するよう請うたが、仁愿は正色してこれを拒んだ。大いに識者に重んじられた。まもなく夏官尚書の王孝傑が吐刺軍総管となり、衆を統率して吐蕃を防ぐこととなり、詔により仁愿がこれを監することとなった。仁愿は孝傑と協調せず、人を介して事を奏上し、孝傑の軍が誣罔の状であると称した。孝傑はこれにより庶人に免ぜられ、仁愿はたちまち侍御史に遷った。
万歳通天二年(697年)、監察御史の孫承景が清辺軍を監し、戦いから帰還し、戦図を描いて奏上した。毎陣必ず承景が自ら矢石に当たり、先鋒として賊を防ぐ様子を画いた。則天は嘆じて言った。「御史がかくも誠を尽くすことができるとは!」右粛政台御史中丞に抜擢し、仁愿に命じて承景の配下の立功者を叙録させた。仁愿は都を発つ前に、まず承景に対陣の勝敗の様子を問うた。承景は実際には行っていなかったので、問われると皆答えることができず、また虚偽に功状を増やしていた。仁愿は朝廷で承景の上を欺く罪を奏上した。そこで承景は崇仁令に左遷され、仁愿は粛政台御史中丞・検校幽州都督に抜擢された。ちょうど突厥の默啜が侵入し、趙・定を攻め落とし、衆を擁して幽州に戻ってきた。仁愿は兵を率いて城を出て邀撃し、流れ矢が手に当たった。賊もまた引き退いた。則天は使者を遣わして労問し、医薬を賜った。累遷して并州大都督府長史となった。
神龍二年(706年)、中宗が京に還ると、仁愿を左屯衛大将軍とし、兼ねて検校洛州長史とした。当時、都城では穀物が高価で、盗賊が非常に多かった。仁愿は一切を捕獲し、杖殺した。死体が府門に積み重なり、遠近震慴し、敢えて犯す者はいなかった。初め、高宗の時に賈敦頤が洛州刺史となり、やはり政績があり、仁愿とともに一時の最たる者であった。故に当時の人はこれについて語って言った。「洛州には前の賈に後の張あり、京兆の三王に匹敵す。」このように称賛された。
三年(707年)、突厥が侵入した。朔方軍総管の沙吒忠義が賊に敗れた。詔により仁愿が御史大夫を摂り、忠義に代わって衆を統率した。仁愿が軍に至った時には賊衆は既に退いていたが、そこでその後を追跡し、夜襲して大破した。以前、朔方軍の北は突厥と河を以て境界とし、河北岸に拂雲神祠があった。突厥が侵入する時は、必ずまず祠に詣でて祭酹し福を求め、そこで馬を放牧し兵を整えてから河を渡った。当時、突厥の默啜は衆を尽くして西の突騎施の娑葛を撃っていた。仁愿は虚に乗じて漠南の地を奪取し、河北に三受降城を築き、首尾相応じて、その南寇の路を絶つことを請うた。太子少師の唐休璟は、両漢以来、皆北は黄河を守っており、今、寇境に城を築くのは、人を労し功を費やすことを恐れ、終には賊虜の所有となると考え、不便であると建議した。仁愿は固く請うて止まず、中宗はついにこれに従った。仁愿は表を上って、年満ちた鎮兵を留めてその工事を助けさせた。当時、咸陽の兵二百余人が逃げ帰った。仁愿はこれをことごとく捕え、一時に城下で斬った。軍中は股慄し、役夫は力を尽くし、六十日で三城がともに完成した。拂雲祠を中城とし、東・西の両城とそれぞれ四百余里離れ、皆津済(渡河点)を占拠し、遥かに相応接し、北に地を三百余里拓き、牛頭朝那山の北に烽候一千八百所を置いた。これより後、突厥は山を越えて放牧することができず、朔方は再び寇掠されることがなくなり、鎮兵数万人を減らすことができた。
仁愿が初めて三城を築いたとき、壅門や卻敵・戦格の設備を設けなかった。ある人が問うて言うには、「これは辺境の城で賊を防ぐところであるのに、守備のためのものを設けないのは、どういうわけか」と。仁愿は言う、「兵は攻め取ることを貴び、退いて守るのはよろしくない。賊がここに至れば、ただちに力を合わせて出撃し、振り返って城を望む者があってもなお斬らねばならぬ。どうして守備の設備を設けて、退却しようとする心を生じさせようか」と。その後、常元楷が朔方軍総管となって、初めて壅門を築いて賊に備えた。議論する者はこれによって仁愿を重んじ、元楷を軽んじたのである。仁愿が朔方にいたとき、監察御史の張敬忠・何鸞、長安尉の寇泚、鄠県尉の王易從、始平主簿の劉體微を奏上して用い、軍事を分掌させ、太子文学の柳彦昭を管記とし、義烏尉の晁良貞を隨機とした。敬忠らはいずれも文吏として著名で、多くは大官に至り、当時は仁愿に人を見抜く鑑識があると称された。
景龍二年、左衛大将軍・同中書門下三品に任じられ、累ねて韓国公に封ぜられた。春に朝廷に帰還し、秋に再び軍を督いて辺境を備えた。中宗は詩を賦して餞別し、賞賜は数えきれなかった。まもなく鎮軍大将軍を加えられた。睿宗が即位すると、老齢を理由に致仕したが、特に禄俸を全額支給し、また兵部尚書に任じ、光禄大夫を加えられたが、依然として致仕の身であった。開元二年に卒去し、太子少傅を追贈され、傅物二百段が賜られ、五品官一人を監護使とした。子の之輔は、開元初めに趙州刺史となった。
薛訥
薛訥は、絳州萬泉の人で、左武衛大将軍仁貴の子である。藍田令となったとき、富商の倪氏が御史台で私債の処理を求め、中丞の来俊臣がその財貨を受け取り、義倉の米数千石を出して与えるよう判決した。訥は言う、「義倉はもともと水旱に備えるための蓄えである。どうして衆人の命を絶って、一家の財産を助けようか」と。ついに上申して与えなかった。ちょうど俊臣が罪を得たので、その事は行われなかった。その後、突厥が河北に侵入したとき、則天は訥が将門であることから、左武威衛将軍・安東道経略を摂行させた。出発に際し、同明殿で召見して語りかけると、訥は奏上して言う、「醜虜が横暴なのは、廬陵(中宗)を口実としているからです。今、制を下して皇太子に立てられましたが、外の議論はなお定まらない恐れがあります。もしこの命が変わらなければ、狂った賊は自然に服従するでしょう」と。則天はその言葉を深くもっともとした。まもなく幽州都督に任じられ、安東都護を兼ねた。転じて并州大都督府長史となり、検校左衛大将軍を兼ねた。長く辺鎮の任に当たり、累ねて戦功があった。
玄宗が即位し、新豊で武を講じたとき、訥は左軍節度となった。時に元帥と礼官が罪を得て、諸部もまたかなり順序を失った。ただ訥と解琬の軍だけは動じなかった。玄宗は軽騎を遣わして訥らを召したが、軍門に至っても、みな入ることができなかった。礼が終わると、上は大いに慰労を加えた。
時に契丹及び奚が突厥と連合し、しばしば辺境の患いとなったので、訥は建議して出師して討つことを請うた。開元二年夏、詔して左監門将軍杜賓客・定州刺史崔宣道らとともに衆二万を率い、檀州道から出て契丹らを討たせた。杜賓客は、時は炎暑に属し、将兵が戈甲を負い、資糧を携えて賊の境に深く入れば、勝利を収めるのは難しいと考えた。中書令姚元崇もまたそう考えた。訥ひとりが言う、「夏の月は草が茂り、子羊や子牛が生息する時期で、糧食の蓄えを費やすことなく、漸次進むこともできます。一挙に国の威霊を振るうべきで、機会を失うべきではありません」と。当時の議論はみな不便であると考えた。玄宗はまさに四夷を威服させようとしていたので、特に訥に同紫微黄門三品を命じ、兵を総べて奚・契丹を撃たせた。議論する者はようやくやんだ。六月、軍は灤河に至り、賊に遭遇した。時はすでに蒸し暑く、諸将は計画を誤り、ことごとく契丹らに覆滅された。訥は身を脱して逃れ、罪を崔宣道及び蕃将の李思敬ら八人に帰し、詔してことごとく斬らせ、特に杜賓客の罪を免じた。制を下して言う、「并州大都督府長史兼検校左衛大将軍・和戎大武等諸軍州節度大使・同紫微黄門三品薛訥は、戎を総べ辺を防ぎ、建議を首唱した。敵情を察するに暗く、戦いを交えるに軽率で、我が王師を張り、虜の境に敗北させた。その過去を観るに、しばしば忠誠を尽くし、常に主君に報い、義を見て身を忘れようとした。特に厳刑を緩め、来たるべき効験を期す。その罪を赦し、すべての官爵等はことごとく除削せよ」と。
その年八月、吐蕃の大将坌達延・乞力徐らが衆十万を率いて臨洮軍を寇し、さらに進んで蘭州及び渭州の渭源県を寇し、群牧を掠めて去った。詔して訥に白衣のまま左羽林将軍を摂行させ、隴右防禦使とし、太仆少卿王晙らとともに兵を率いて邀撃させた。十月、訥は衆を率いて渭源に至り、武階駅で賊と戦い、王晙と犄角の勢いで挟み撃ちにし、賊衆を大破した。敗走する敵を洮水まで追撃し、また長城堡で戦い、豊安軍使王海賓が先鋒として力戦して死んだ。将士は勢いに乗じて進撃し、またこれを破り、殺獲一万人、その将六指郷彌洪を生け捕りにし、掠め取られた羊馬をことごとく回収し、その器械を獲ること数えきれなかった。時に詔があって十二月に親征して吐蕃を討とうとしていたが、訥らが勝利したと聞き、玄宗は大いに喜び、親征を取りやめた。王海賓を左金吾衛大将軍に追贈し、物三百段・粟三百石を賜い、その幼子を忠嗣と名付け、朝散大夫に任じた。紫微舍人倪若水を遣わし、ただちに功績を記録させ、訥を左羽林軍大将軍に任じ、再び平陽郡公に封じ、また子の暢を朝散大夫に任じた。まもなくまた涼州鎮軍大総管を充てた。ほどなく老齢を理由に、特に致仕を許された。八年に卒去し、年七十余、太常卿を追贈され、諡して昭定といった。訥は沈勇で寡言、大敵に臨んでますます壮であった。訥の弟楚玉は、開元年間に幽州大都督府長史となり、不称職として代えられて卒去した。
王晙
王晙は、滄州景城の人で、家を洛陽に移した。祖父の有方は、岷州刺史であった。晙は弱冠で明経に及第し、累遷して殿中侍御史となり、朝散大夫を加えられた。時に朔方軍元帥魏元忠が賊を討って失利し、罪を副将の韓思忠に帰して、誅するよう奏請した。晙は、思忠はすでに偏裨の将であり、命令は己によるものではなく、また勇智があって惜しむべきであり、無辜を独り殺すべきでないと考え、朝廷で議論して争った。思忠はついに釈放され、晙もまたこれによって渭南令に出された。
景龍末、累転して桂州都督となった。桂州には旧来、屯兵があり、常に衡州・永州などの糧食を運んで供給していたが、晙は初めて羅郭を改築し、屯兵と転運を廃止するよう奏上した。また江水を堰き止め、屯田数千頃を開き、百姓はこれを頼った。まもなく上疏して郷里に帰り墓参りすることを請うたが、州の人が朝廷に赴いて晙の留任を請うたので、勅を下して言う、「あの州はかつて寇盗のため、戸口が凋残し、任に材を失したので、このようになったのだ。卿は事を処理するに強く成し遂げ、遠近を寧静にし、城を築き農に務めて利益はすでに広く、隠れたる者を糾め安んじ集めて、復業する者が多い。政が成るのを待ち、この黎庶を安んずべきであり、百姓がまた表を奉って請うているので、来るには及ばない」と。晙は州にさらに一年留まり、州の人は碑を立ててその政を称えた。再転して鴻臚大卿となり、朔方軍副大総管を充て、安西大都護を兼ね、豊安・定遠・三城及び側近の軍はみな晙の節度を受けた。後に太仆少卿・隴右群牧使に転じた。
開元二年、吐蕃の精兵十万が臨洮軍を寇す。晙は率いる所部二千人をして鎧を巻き行程を倍加し、臨洮の両軍と合勢してこれを拒ぐ。賊は大来穀口に営す。吐蕃の将坌達延また兵を率いて継ぎ至る。晙はすなわち奇兵七百人を出し、これに蕃服を着せ、夜襲す。相去ること五里、鼓角を置き、前者に寇に遇えば大呼し、後者は鼓を撃ちてこれに応ずることを令す。賊衆大いに懼れ、伏兵あるを疑い、自ら相殺傷し、死者万計。俄にして右羽林将軍薛訥を摂し衆を率いて吐蕃を邀撃し、武階穀に至り、大来穀を去ること二十里、賊に隔てらる。晙は兵を率いて訥の軍を迎う。賊は兵を両軍の間に置き、連亘すること数十里。晙は夜に壮士を出し枚を銜ませてこれを撃つ。賊また大いに潰く。すなわち訥と軍を合し、その余衆を掩い、奔るを追いて洮水に至り、殺獲勝げて数うべからず、掠めし牧馬を尽く収めて還る。功により銀青光禄大夫を加えられ、清源県男に封ぜられ、原州都督を兼ね、仍ちその子班を朝散大夫に拝す。尋いで并州大都督府長史を除く。明年、突厥の默啜、九姓に殺さる。その下の酋長多く款塞して投降す。これを河曲の内に置く。俄にして小殺継ぎ立ち、降者漸く叛く。晙上疏して曰く、
突厥は時に乱離に属し、以て款塞し降附す。その部落と有するは、仇嫌有るに非ず、情は北風に異なり、理固より明らかなり。その釁を養い成せば、悔ゆると雖も何をか追わん。今者、河曲の中に降虜を安置す。この輩は生梗にして、実に処置難し。日月漸く久しく、奸詐ますます深く、辺の間隙を窺い、必ず患難と為らん。今降者の部落有り、軍州の進止を受けず、輒ち兵馬を動かし、屡に傷殺有り。勝州の左側を詢問すれば、損せらるること五百余人。私に烽鋪を置き、潜かに抗拒と為り、公私の行李、頗る危懼に実す。北虜もし或いは南牧せば、降戸必ずこれと連衡せん。臣、蕃に没して帰る人に問うに云う、却って逃るる者甚だ衆し、南北の信使、委曲を通伝す。この輩の降人、翻って細作と成る。倘や余燼を収め合わし、来たりて軍州を逼らば、虜騎は恁淩し、胡兵は応接し、表裏に敵有り、進退に援無し。復た韓・彭の勇、孫・呉の策有ると雖も、その製勝を令せば、その必ずせんこと可ならんや。秋冬の際に至るを望み、朔方軍に令して兵馬を盛んに陳べしめ、その禍福を告げ、繒帛の利を啗ましめ、麋鹿の饒を示し、その魚米の郷を説き、その畜牧の地を陳べしむ。併せて淮南・河南の寛郷に分配安置し、仍ち程糧を与え、配所に送致すべし。復た一時の労弊有ると雖も、必ず久長の安穩を得ん。二十年の外、漸く淳風に染み、将に以て兵に充てんとす、皆勁卒と為らん。もし北狄の降者を以て南中に安置すべからずとせば、則ち高麗の俘虜は沙漠の曲に置き、西域の編氓は青・徐の右に散ず。唯だ利を視るのみ、務めて疆埸を安んず。何ぞ独り降胡のみ、移徙すべからざらんや。近者、辺に在る将士、爰に安蕃の使人に及び、多く諛辞を作し、実に対せず。或いは北虜破滅すと言い、或いは降戸安静すと言う。志すところ自ら功效を言わんと欲し、邦家に以て徇うる有るに非ず。伏して願わくはこの利口を察し、この遠慮を行い、辺荒清晏、黎元幸甚ならんことを。臣、留住の議を料るに、謀者は故事に遵うと云い、必ず降戸の輩は旧く河曲の中に置く、昔年既に康寧を得たり、今日還って応に穩便なるべしと言わん。但だ時同じくして事異なり、先典の伝うる所なり。往者頡利破亡し、辺境寧謐す。降戸の輩、復た他心無く、以て多く歳年を歴るも、この類皆動靜無し。今虜見未だ破滅せず、降戸私に使を往来し、或いは北虜の威を畏れ、或いは北虜の恵を懐い、又た北虜の戚属なり。夫れ豈に親疏を識らざらんや。昔年に比せば、安んぞ同日に同日ならんや。臣、その中に頗る三策有るを料る。若し兵馬を盛んに陳べ、散じて分配を令せば、内に精兵の実を獲、外に黠虜の謀を袪り、暫く労して永く安んず。これ上策なり。若し多く士卒を屯し、広く備擬を為し、亭障の地、蕃・漢相参われば、費甚だしく人労す。これ下策なり。若しこれを朔塞に置き、その来往に任せ、信息を通伝し、禍胎を結成せば、これ策無きなり。伏して願わくはこの三者を察し、その善悪、利害の状を詳らかにせんことを。長短尋ぬべし。縦え遷移に因り、或いは逃叛を致すとも、但だ移し得る者有らば、即ち是れ今日の良図なり。河氷を留めて待たば、恐らくは即ち変有らん。臣、天沢を蒙り、叨んで重鎮に居る。耳に逆らえども行いに利あれば、敢えて言を尽くさざらんや。
疏奏未だ報いず、降虜果たして叛く。勅して晙に并州兵を帥い西して河を済み以てこれを討たしむ。晙はすなわち間行倍道し、夜を以て晝に継ぎ、甲を巻き幕を舍ててこれに趨る。夜、山中に於いて忽ち風雪甚だ盛んなるに遇う。晙は期を失わんことを恐れ、天を仰ぎ誓いて曰く、「晙若し君に事えて忠ならず、罪有るを討たずば、明霊の殛する所、固より自らこれを当つべし。而して士衆何の辜ぞ、その艱苦を令せんや。若し誠心忠烈にして、天監孔明ならば、当に雪を止め風を回らし、以て戎事を済すべし」と。言い訖りて、風回りて雪止む。時に叛する者両道に分かる。その東に在る者、晙追い及びて、一千五百余人を殺し、一千四百余人を生獲し、駝馬牛羊甚だ衆し。晙は功により左散騎常侍に遷り、節を持ち朔方道行軍大総管と為り、尋いで御史大夫に遷る。
時に突厥{{PUA|〓}}夾跌部落及び仆固都督勺磨等、受降城の左右に散在して居止し、且つ謀りて突厥を引き共に表裏と為し、軍城を陥れて叛かんとす。晙、因りて入奏し、密かにこれを誅することを請う。八年秋、晙、{{PUA|〓}}夾跌等の党与八百余人を中受降城に誘いてこれを誅す。ここに由りて乃ち晙に兵部尚書を授け、復た朔方軍大総管を充す。
九年、蘭池州の胡、賦役に苦しみ、降虜の余燼を誘い、夏州を攻めて反叛す。詔して隴右節度使・羽林将軍郭知運に晙と相知りてこれを討たしむ。晙奏す、「朔方軍の兵自ら余力有り。その郭知運は本軍に還ることを請う」と。未だ報いずして知運の兵至り、晙と頗る相協わず。晙の招撫する降者、知運は兵を縦ってこれを撃つ。賊は晙の売る所と為すを以て、皆相率いて叛走す。晙は進んで清源県公に封ぜられ、仍ち御史大夫を兼ぬ。俄にして賊衆復た相結聚す。晙は坐して梓州刺史に左遷せらる。十年、太子詹事を拝し、累ねて中山郡公に封ぜらる。車駕の北巡に属し、晙を以て吏部尚書と為し、太原尹を兼ぬ。十一年夏、張説に代わりて兵部尚書・同中書門下三品と為り、胡を破るの功を追録し、金紫光禄大夫を加えられ、仍ち朔方軍節度大使を充す。その年冬、上親しく郊祀し、晙を追って京に赴かしめ、以て大礼に会せしむ。晙は時に氷壮に属するを以て、恐らくは虜騎隙に乗じて入寇せんとし、表を以て赴かずと辞し、手勅を以て慰勉せられ、仍ち衣一副を賜う。会うところ許州刺史王喬の家奴、喬と晙の潜かに謀りて逆を構うるを告ぐ。勅して侍中源乾曜・中書令張説にその状を鞫らしむ。晙は既に反状無く、乃ち詔を違えて追いに到らざるを以て、蘄州刺史に左遷せらる。十四年、累ねて戸部尚書に遷り、復た朔方軍節度使と為る。二十年卒す。年七十余。尚書左丞相を贈られ、諡して忠烈と曰う。
往年、魏元忠が張易之・昌宗に陥れられ、左遷されて高要尉となった時、王晙は密かに上書してその冤罪を明らかにした。宋璟は当時鳳閣舎人であったが、王晙に言うには、「魏公はまさに全うされようとしているが、あなたは厳然として理を主張して坐している。恐らくあなたは狼狽することになろう」と。王晙は言うには、「魏公は忠義にして罪を得た。私は義に激せられており、たとえ困窮しても恨みはない」と。宋璟は嘆いて言うには、「私は魏公の冤罪を申し立てることができず、朝廷に深く負うところがある」と。王晙は気概と容貌が雄壮で、当時の人は彼に熊虎の状ありと言った。しかし義を慕い奮い立つことは、古人の風があり、部下を統御するに整然として厳しく、人吏は畏れてこれを愛した。王晙の死後、信安王李禕が幽州で奚を討って勝利を報告し、上奏して称えるに、軍士たちが皆、王晙が蕃将の高昭と兵馬を率いて先鋒となり賊を討つのを見たという。上はこれを聞き、しばらく嘆き驚いた。戸部郎中楊伯城が上疏し、王晙らの墳墓に特に封域を増修し、酌量して表彰を加え、使者を降して饗祭を行い、その子孫を優遇することを請うた。玄宗は使者を遣わしてその家廟に祭らせ、さらにその子に官秩を与えた。
史臣が曰く
史臣が曰く、婁師徳は召しに応じて慷慨した、これ勇なり。仁傑を推薦して任用させた、これ忠なり。仁傑にそれを知らせなかった、これ公なり。営田して軍を贍った、これ智なり。恭勤して下に接した、これ和なり。政事に参知して、功名に終わりあり、これは人の難きところである。また何ぞ将相たるに愧じることがあろうか。王孝傑、唐休璟、張仁願、薛訥、王晙らは、皆武幹を韜晦し、しばしば辺功を立てた。しかし孝傑は再び擒えるに失し、休璟は余行に虧いた。先に敗れて後に勝つ、薛訥何ぞ慚じることがあろう。雪を止めて風を回す、王晙は掩い難し。仁願の操り行うところ、中否相兼ねたり。
賛
賛に曰く、物を拯うの心、色に形わらず。将相の材、人何をもって測る。臣に終始あり、功に爽忒なし。多く忌む梁公、自ら慚徳を招く。唐・張・訥・晙、善く陣し能く師す。共に戎虜を服し、辺陲を憂えず。