旧唐書 巻九十二 列伝第四十二 魏元忠 韋安石 蕭至忠 宗楚客 紀処訥

旧唐書

巻九十二 列伝第四十二 魏元忠 韋安石 蕭至忠 宗楚客そうそきゃく 紀処訥

魏元忠

魏元忠は、宋州宋城の人である。本名は真宰といったが、則天武后の母の諱を避けて改めた。初め太学生となり、志気は倜儻として、挙薦を意に介さず、しばしば年調官されなかった。時に左史盩厔うちつの人江融が『九州設険図』を撰し、古今の用兵成敗のつかを備載していたが、元忠はその術を伝授された。儀鳳年中、吐蕃が頻りに辺塞を犯すと、元忠は洛陽に赴いて封事を上書し、将を命じ兵を用いることの巧拙を論じて言うには、

臣が聞くに、天下を治める柄は、二つの事柄、すなわち文と武である。されば文武の道は、二つの門戸があるとはいえ、勝を制し人を禦するに至っては、その帰するところは一つの尺度に同じ。方今、王の経略は遠く宣べられ、皇威は遠く振るい、礼楽を建てて士庶を陶冶し、軍旅を訓えて生霊を懾服せしむ。然るに武を論ずる者は弓馬を以て先とし、しかもこれを権略に稽えず、文を談ずる者は篇章を以て首とし、しかもこれを経綸に問わず。而して奔競相因り、遂に浮俗を成す。臣嘗て魏・晋の史を読み、毎に何晏・王衍の終日空を談ずるを鄙む。近く斉・梁の書を観るに、才士また少なからず、併せて何ぞ理乱に益せんや。此れより言えば、則ち陸士衡『弁亡論』を著すも、而して河橋の敗を救わず、養由基射て能く札を穿つも、而して鄢陵の奔を止めざるは、断じて知るべし。昔、趙岐禦寇の論を撰し、山濤用兵の本を陳ぶ、皆帷幄に坐して運策し、暗に孫・呉に合す。宣尼は「徳有る者は必ず言有り、仁者は必ず勇有り」と称す、則ち何平叔・王夷甫豈に同日に言うべきや。臣が聞くに、才は代に生まれ、代は実に才を須つ。何れの代か才を生ぜざる、何れの才か代を生ぜざる。故に物に求めざる有りて、未だ物無きの歳有らず、士に用いざる有りて、未だ士無きの時有らず。夫れ志有るの士は、富貴と貧賤とに在りて、皆功名に立ち、冀くは竹帛に芳を伝えんとす。故に班超筆を投げて歎き、祖逖楫を撃ちて誓う、此れ皆其の才有りて其の用を申ぶる者なり。且つ知己は逢い難く、英哲は遇い罕なり。士のえん琰を懐いて埃塵に就き、棟梁を抱いて溝壑に困る者は、則ち悠悠の流れ、直ちに此の士の貧賤を睹るのみ、安んぞ此の士の方略を知らんや。故に漢韓信を拝すれば、挙軍驚笑し、蜀魏延を用うれば、群臣觖望す。嗟乎、富貴者は善を為し易く、貧賤者は功を成し難し、此れに至るか。亦た位、立功の際に処りて、而も其の志略を展べず、身、時主に知られて、竟に其の才用を尽くさざる者あり、則ち貧賤の士焉んぞ足らんと謂わんや。漢文帝の時、魏尚・李廣並びに身辺将に任じ、位郡守たり。文帝は魏尚の賢を知らずして之を囚え、李広の才を知らずして之を用うること能わず。常に李広が生を恨んで時に逢わざるを歎き、令して高祖の日に当たらしめば、万戸侯豈に足らんと謂わんやと。夫れ李広の才気、天下に双ぶ無く、匈奴之を畏れ、「飛将」と号す、爾の時胡騎憑陵す、足りて其の用を伸ぶべし。文帝大任せず、反って其の生を恨んで時に逢わざるを歎く。近く魏尚・李広の賢を知らずして、乃ち遠く廉頗・李牧を想う。故に馮唐曰く、頗・牧有りと雖も用うること能わず、近きかな。此れより言えば、賈誼を疎斥する、復た何ぞ怪しまん。此れ則ち身、時主に知られて、竟に其の才用を尽くさざるなり。晋の羊祜計を献げて呉を平らげんとし、賈充・荀勗其の策を沮む、祜歎いて曰く「天下如意ならざること恒に十に七八を居す」と。荀・賈同じからざるに縁り、竟に大挙せず。此れ則ち位、立功の際に処りて、而も其の志略を展べ得ざるなり。而して布衣韋帯の人、一奇を懐き、一策を抱き、下に上書し、朝に進みて夕に召されるを望む、何ぞ得べけんや。臣請うらくは歴訪内外文武職事五品已上、羊祜の如き智計有り、李広の如き武藝有りて、用うると用いざるとの間に在り、其の才略を騁せしめざる者無きを得ん。伏して願わくは寛大の詔を降し、各其の志を言わしめよ。汲黯の直気をして、淮陽に臥して死せしむること無からしめ、仲舒の大才をして、位諸侯の相に屈せしむること無からしめんことを。

又曰く、

臣聞く、帝王の道は、務めて経略を崇ぶ。経略の術は、必ず英奇に仗る。国家の良将より、言うべきを得たり。李靖は突厥を破り、侯君集は高昌を滅ぼし、蘇定方は西域を開き、李勣は遼東を平らげたり。国威霊を奉ずるといえども、またその才力の致すところなり。古語にこれあり、「人に常俗無く、政に理乱あり、兵に強弱無く、将に能否あり」と。これよりこれを観るに、辺境を安んじ、功名を立てるは、良将に在り。故に趙充国は先零を征し、馮子明は南羌を討つ。皆計空しく施さず、機虚しく発せず。すなわち良将の功を立てるの験なり。然れども兵革の用は、王者の大事、存亡の係る所なり。もしその才を得て任ずれば、則ち凶を摧き暴を扼す。もしその任に非ざれば、則ち国を敗り人を殄す。北齊の段孝玄云う、「大兵を持つ者は、盤水を擎ぐが如し。傾くは俯仰の間に在り。一たび蹉跌すれば、止まらんことを求むる豈に得んや」と。これより言えば、周亞夫は壁を堅くして呉・楚を挫き、つかさど馬懿は営を閉じて葛亮を困らしむ。倶に上策と為す。これ皆戦わずして敵を却け、全軍を以て勝を制す。これ大将の戎に臨むは、智を以て本と為すを知る。漢高の英雄大度、尚お曰く「吾れ寧ろ智を闘わしむ」と。魏武の綱神冠絶、猶お孫・呉の法に依る。仮りに項籍の気、袁紹の基有りといえども、而して皆智を泯みて情に任せ、終に破滅を以てす。況んや復たその下に出ずるをや。且つ上智下愚、明暗異等、多算少謀、衆寡殊科。故に魏は柏直を用いて漢を拒ましむるに、韓信は軽くして豎子と為す。燕は慕容評を任じて秦に抗せしむるに、王猛はこれが奴才と謂う。すなわち柏直・慕容評は智勇倶に亡き者なり。夫れ中材の人、素より智略無く、一旦元帥の任に居りて、意気軒昂、自ら謂う、その鋒に当たる者は摧碎せられざる無からんと。豈に戎昭果毅、『詩』をつと(つと)め『禮』を説くの事を知らんや。故に李信は二十万の衆を以て独り鄢郢を挙げんことを求め、その後果たして秦軍を辱しむ。樊噲は十万の衆を得て匈奴に横行せんことを願い、登時に季布に折れ見ゆ。皆その事なり。当今朝廷の人を用うる、類(おおむ)ね将門の子弟を取り、また死事の家にして抽擢を蒙る者有り。この等は本より幹略見知るるに非ず。力を竭くし誠を尽くすといえども、また傾敗を免れず。これをいかんせば閫外の任に当たらしめんや。後漢の馬賢、西羌を討つに、皇甫規その必ず敗るるを陳ず。宋の文帝、王玄謨をして河南を収復せしむるに、沈慶之懸(か)けて克たざるを知る。謝玄は書生の姿を以て、苻堅天下の衆を拒ぐに、郗超その必ず勝つを明らかにす。桓温は数万の兵を提げ、万里にして成都を襲うに、劉眞長期を決取に期す。時に今古有りといえども、人事皆推すべし。験を取るは大体、その鋭志と識略を観るのみ。明者は隋(すみや)かに分かちて察し、成敗の形、昭然として自ら露わる。京房に言有り、「後の今を視るは、亦た今の古を視るが如し」と。すなわち昔賢の今哲と、意況何ぞ殊ならん。事機の際に当たるや。皆時に随いて功を立て、豈に復た賢を往代に取り、才を未来に待たんや。すなわち知ると知らざると、用うると用いざるとを論ず。夫れ功を建つる者は、その済す所を言い、その起る所を言わず。その能くする所を言い、そのかり(かり)る所を言わず。陳湯・呂蒙・馬隆・孟観、並びに貧賤より出で、勳甚だ高く済す。その家代々将帥と為るを聞かず。董仲舒曰く、「政を為すの用は、これに譬うれば琴瑟のごとし。調わざること甚だしき者は、必ず絃を解きて更に張り、乃ち鼓すべし」と。故に陰陽和せずば、士を擢げて相と為し、蠻夷龔(つつし)まずば、おわりを抜きて将と為す。すなわち更張の義なり。四海の広きを以て、億兆の衆を以て、その中に豈に卓越奇絶の士無からんや。臣未だこれを思わざるを恐る。何ぞ遠きこと有らん。

また曰く、

臣は聞く、賞は礼の基、罰は刑の本なりと。故に礼が崇ければ謀夫はその能を竭くし、賞が厚ければ義士はその死を軽んじ、刑が正しければ君子はその心を勗め、罰が重ければ小人はその過ちを懲らす。されば賞罰は、軍国の綱紀、政教の薬石なり。綱紀が挙がれば衆務自ら理まり、薬石が行われれば文武命を用う。かの吐蕃は蟻の如く結び蜂の如く聚まるも、元より敵にあらず、薛仁貴・郭待封は閫外の寄せを受け、命を奉じて専ら征し、熊羆を激励して機に乗じ掃撲する能わず。敗軍の後、また禍を転じて福と為し、事に因りて功を立てる能わず、遂に甲を棄て師を喪い、身を脱して走る。幸いに寛政に逢い、罪は削除に止まる。国家の綱は舟を呑むも漏らす、何ぞこれに過ぎんや。天皇は旧恩を念い、その後効を収めんとす。当今朝廷に少なきは、豈にこの一二人のみならんや。且つ賞もって善を勧めざるを止善と謂い、罰もって悪を懲らさざるを縦悪と謂う。仁貴は自ら海東に力を宣べ、功は尺寸も無く、坐して金帛を玩び、貨を瀆して厭うこと無し。今また誅せずんば、悪を縦すること更に甚だし。臣は疎賤を以て、事に干うるに非ざれども、豈に天皇の君臣を間わんと欲し、仁貴に厚薄を生ぜんとするや。直ちに刑賞一たび虧けば、百年復たず。区区の懐うところ、実にここに在り。古人云う、「国に賞罰無くんば、堯・舜と雖も化を為す能わず」と。今罰行わるること能わず、賞もまた信じ難し。故に人間の議う者は皆言う、「近日の征行は、虚しく賞格有りて其事無し」と。良く中才の人大体をらず、賞賜勲庸を恐れて倉庫を傾竭し、錐刀に留意して、これをもって国を益せんとするに由る。目前の近利にしたがい、経久の遠図を忘るるは、所謂毫厘を錯てば千里を失うものなり。且つ黔首は微なりと雖も、得志を以て欺くべからず。恩沢を瞻望すれば、必ず事に因りて心を生ず。既に因る所あれば、須らく実を以てこれに応ずべし。豈に信ぜざるの令を懸け、虚賞の科を設けんや。比者師出でて功無きは、未だ必ずしもこれに由らざるに非ず。文子に曰く、「同じく言いて信あれば、信は言の前に在り。同じく令して行わるれば、誠は令の外に在り」と。故に商君は木を移して信を表し、曹公は髪を割いて法を明らかにす。豈に礼ならんや、然る由有るなり。蘇定方の遼東を定め、李勣の平壌を破りしより、賞は絶えて行われず、勲はなおって淹滞し、数年紛紜として真偽相雑り、縦え沙汰を加うるも、未だ澄きよに至らず。臣は吏の法を奉ぜず、慢り自ら京師よりす。偽勲の由る所は、主司の過ちなり。その則り遠からず、近く尚書省の中に在り。一の台郎を斬り、一の令史を戮するを聞かずして、天下に知聞せしめば、天皇何ぞ遠くを照らして近くを照らさざるを得んや。神州は化の首、万国共に尊び、文昌は政の本、四方是れ則り、軌物風を宣べ、理乱の攸在り。臣は是を以て披露已まず、死を冒して言を尽くす。且つ明鏡は形を照らす所以、往事は今を知る所以。臣は識古を稽えず、請う近事を以てこれを言わん。貞観年中、万年県尉司馬玄景は文を舞わし智を飾り、以て乾没を邀え、太宗その奸詐を審らかにし、これを都市に棄つ。及び高麗を征するや、総管張君乂は賊を撃ちて進まず、これを旗下に斬る。臣は偽勲の罪は玄景より多く、仁貴等の敗は君乂より重しとす。向使薛仁貴・郭待封を早く誅せば、則ち自余の諸将、豈に敢えて後に利を失せんや。韓子に云う、「慈父多に敗子有り、厳家に格虜無し」と。この言は小なりと雖も、以て大を喩うべし。公孫弘に言有り、「人主の病は広大ならざるに在り、人臣の病は節儉ならざるに在り」と。臣は天皇の病の広大ならざるに在るを恐る。過ちは慈父に在り、これ亦日月の一蝕なり。又今の将吏は、率多く貪暴にして、務むる所は唯狗馬、求むる所は唯財物、趙奢・呉起の金を散じ士を養うの風無し。縦え行軍すとも、悉く是れこの属なり。臣は吐蕃の平らぐこと、未だ旦夕に望むべからざるを恐る。

帝は甚だこれを歎異し、秘書省正字を授け、中書省に直らしめ、仗内供奉を命ず。尋いで監察御史を除く。

文明年、殿中侍御史に遷る。その年、徐敬業が揚州に拠り乱を作す。左玉鈐衛大将軍李孝逸が軍を督してこれを討つ。則天は詔して元忠にその軍事を監せしむ。孝逸が臨淮に至るや、偏将雷仁智が敬業の先鋒に敗れ、敬業また潤州を攻め陥し、兵を回して孝逸を拒ぐ。孝逸その鋒を懼れ、甲を按じて敢えて進まず。元忠孝逸に謂いて曰く、「朝廷は公が王室の懿親なるを以て、故に閫外の事を委ぬ。天下の安危、実に一決に資す。且つ海内承平日久しく、忽ち狂狡を聞けば、注心傾耳せざる莫く、その誅を俟つ。今大軍留まりて進まずんば、則ち遠近の望みを解く。万一朝廷更に他の将を命じて公に代わらば、その将何の辞を以て逗撓の罪を逃れん。幸いに速やかに兵を進めて大効を立てよ。然らずんば、則ち禍難至らん」と。孝逸その言を然りとし、乃ち士卒を部勒して進討を図る。

時に敬業は下阿溪に屯し、敬業の弟敬猷は偏師を率いて淮陰を逼る。元忠は先ず敬猷を撃たんことを請う。諸将皆曰く、「敬業を先に攻むるに如かず。敬業敗れば、則ち敬猷は戦わずして擒らる。若し敬猷を撃たば、則ち敬業兵を引いてこれを救わん。是れ腹背敵を受くるところなり」と。元忠曰く、「然らず。賊の勁兵精卒は、尽く下阿に在り。蟻聚して来たり、利は一決に在り。万一捷を失えば、則ち大事去らん。敬猷は本より博徒に出で、戦闘に習わず。その衆寡弱く、人情動かし易し。大軍これに臨めば、その勢い必ず克つ。敬猷を克つこと既にして、我れ乗勝して進まん。彼若し淮陰を救わんと引かば、程を計れば則ち及ばず、又我れの進みて江都を掩わんことを恐れ、必ず我れを中路に邀えん。彼は則ち労倦し、我れは則ち逸を以てこれを持ち、これを破ること必せり。譬えば獣を逐うるが如し。弱き者先ず擒らる。豈に必ず擒らるべき弱獣を捨て、難敵の強兵に趨くべけんや。恐らくは未だ可ならざるべし」と。孝逸これに従い、乃ち兵を引いて敬猷を撃ち、一戦にしてこれを破る。敬猷は身を脱して遁る。孝逸乃ち進軍し、敬業と溪を隔てて相拒む。前軍総管蘇孝祥が賊に破られ、孝逸また懼れ、退かんと欲す。初め、敬業が下阿に至るや、流星その営に墜ち、ここに至りて群烏陣上に飛び噪く。元忠曰く、「これを験すれば、即ち賊敗の兆なり。風順い荻乾けば、火攻の利あり」と。固く決戦を請い、乃ち敬業を平らぐ。元忠は功を以て司刑正に擢でられ、稍く洛陽令に遷る。

尋いで周興の獄に陥り、市に詣で将に刑せられんとす。則天は元忠に討平敬業の功有るを以て、特に死を免じて貴州に配流す。時に勅を承くる者将に市に至らんとして、先ず伝呼を令す。監刑者急ぎ元忠を釈して起たしむ。元忠曰く、「勅の虚実を知らず、豈に造次すべけんや」と。徐ろに宣勅を待ち、然る後始めて起ち謝す。観者皆その臨刑にして神色撓がざるを歎ず。聖暦元年、召して侍御史を授け、御史中丞に擢で拝す。又来俊臣・侯思止に陥れられ、再び嶺表に流される。復た還り、御史中丞を授かる。元忠は前後三たび流され、当時人多くその無罪を称す。則天嘗てこれに謂いて曰く、「卿累ねて謗鑠を負う、何ぞや」と。対えて曰く、「臣は猶お鹿のごとし。羅織の徒は、猟者の有るが如く、苟くも臣が肉を須いて羹を作らんとす。この輩は臣を殺して以て達を求めんとす。臣また何の辜か有らん」と。

聖暦二年(六九九年)、鳳閣侍郎・同鳳閣鸞臺平章事に抜擢され、検校并州長史を兼ねた。間もなく銀青光禄大夫を加えられ、左粛政臺御史大夫に転じ、検校洛州長史を兼ねた。その政治は清廉厳正と称された。長安年間(七〇一~七〇四年)、相王(後の睿宗)が并州元帥となると、元忠はその副官となった。当時、奉宸令張易之がその家奴をして百姓を暴行させていたが、元忠はこれを鞭打ち殺したので、権豪といえども畏敬憚らぬ者はなかった。時に突厥と吐蕃がたびたび辺境を侵犯したので、元忠はいずれも大総管としてこれを防いだ。元忠は軍中にあっては、ただ慎重に自らを守るのみで、ついに何も攻略することはなかったが、しかしまた敗北することもなかった。

中宗が皇太子であった時、元忠は検校太子左庶子を務めた。当時、張易之・張昌宗の権勢と寵愛は日に日に盛んとなり、朝廷を傾けてこれに阿附する者が多かった。元忠はかつて則天武后に奏上して言った、「臣は先帝(高宗)のご眷顧を受け、陛下の厚恩を蒙りながら、忠を尽くして死節に殉じず、小人をして君側に侍らせております。これは臣の罪でございます」。則天はこれを喜ばなかった。易之・昌宗はこれにより怒りを抱いた。則天が病気になった折に、彼らは元忠と司礼丞高戩がひそかに謀って「主上は老いられた。我々は太子を擁して天下に号令すべきである」と言ったと誣告した。則天はその言葉に惑わされ、元忠を詔獄に下し、太子・相王および諸宰相を召し出し、昌宗と元忠らを殿前で対質させたが、議論は繰り返されて決着しなかった。昌宗はさらに鳳閣舎人張説を引き出して、元忠を証言させるよう求めた。説は初め偽って承諾したが、則天が説を召して問いただすと、説は確かに元忠はそのような言葉を発していないと断言した。則天はようやく元忠が誣告されたことを悟ったが、昌宗のためを慮り、特に端州高要尉に左遷した。

中宗が即位すると、その日に駅伝で元忠を召し寄せ、衛尉卿・同中書門下三品に任じた。十日後、さらに兵部尚書に転じ、知政事の職はもとのままとした。まもなく侍中に進み、検校兵部尚書を兼ねた。時に則天が崩御し、中宗は喪に服して政務を多く見ず、軍国の大政をただ元忠に委ねること数日に及んだ。間もなく中書令に転じ、光禄大夫を加授され、累進して斉国公に封ぜられ、国史監修を務めた。神龍二年(七〇六年)、元忠は武三思・祝欽明・徐彦伯・柳衝・韋承慶・崔融・岑羲・徐堅らとともに『則天皇后実録』二十巻を撰した。文集一百二十巻を編纂して奏上した。中宗はこれを称賛し、元忠に物千段を賜い、さらにその子で衛王府諮議参軍の魏升を任城県男に封じた。当時、元忠は特に寵栄を蒙り、朝廷で権勢を振るった。初め元忠が則天朝で宰相となった時、議する者はその公正清廉を認めていた。この時に再び政事に参与すると、天下の人はこぞって首を延ばし心を傾けて、何か有益なことを広めてくれることを期待した。しかし元忠は権豪に親しく阿附し、寒門の俊才を抑圧し棄てたので、ついに善を賞し悪を罰し、時政を修めることができず、議する者はこれをもって元忠を軽んじた。四年(七〇八年)秋、唐けいに代わって尚書右僕射・兼中書令となり、引き続き兵部尚書の職務を管掌し、国史監修を務めた。間もなく、元忠は郷里に帰って墓参りすることを請うた。特に錦袍一領・銀千両を賜い、さらに千騎四人を与えてその左右に侍らせ、手詔を下して言った、「錦を衣て昼に遊ぶは、この日に在り;金を散じて恵みを敷くは、まさにこの時に属す」。元忠は郷里に至ると、ついにその銀を自ら蔵してしまい、何ら施しを行わなかった。帰還すると、帝はまた白馬寺に行幸してこれを迎え労った。その恩遇はこのようなものであった。

この時、安楽公主がひそかに節湣太子(重俊)を廃し、自分を皇太女に立てるよう請うたことがあった。中宗が元忠に問うと、元忠は固く不可と称したので、取りやめになった。まもなく左僕射に転じ、その他の職務はもとのままとした。元忠はまた武三思が専権を振るうことを憎み、心に常に憤慨し、これを誅殺しようと考えた。三年(七〇七年)秋、節湣太子が兵を起こして三思を誅殺しようとした時、元忠および左羽林大将軍李多祚らは皆ひそかにこれに参与した。太子は三思を斬った後、さらに兵を率いて宮闕に赴き、韋后を廃して庶人とするよう請おうとしたが、永守門で元忠の子である太仆少卿魏升に会い、協力して自分に従うよう求めた。太子の兵が玄武楼の下に至ると、多祚らは躊躇して戦わず、元忠もまた両端を持していたため、これにより成功せず、升は乱兵に殺された。中宗は元忠に寇を平定した功績があり、また元来高宗・天後(則天武后)に礼遇されていたことを考慮し、ついに升のことを累とせず、もとのように委任した。

この時、三思の党おおむである兵部尚書宗楚客と侍中紀処訥らがまた元忠および升を証拠立てて、元来節湣太子と共謀して逆を企てたとし、その三族を誅するよう請うたが、中宗は許さなかった。元忠は恐れて自ら安からず、上表して固く致仕を請うた。手製により左僕射を解くことを聴し、特進・斉国公として家で致仕させ、なお朔望の朝参を許した。楚客らはまた右衛郎将姚庭筠を御史中丞に引き立て、元忠を弾劾上奏させたため、これにより渠州員外司馬に左遷された。侍中楊再思・中書令李嶠は皆楚客の意に従い、元忠の罪を確定させようとしたが、ただ中書侍郎蕭至忠のみが正論を唱えて寛大に宥すべきであると言った。楚客は大いに怒り、また給事中冉祖雍と楊再思をして上奏させて言わせた、「元忠はすでに逆を犯した縁故により、内地の官職を再び授けるべきではない」。そこで思州務川尉に左遷された。まもなく、楚客はまた御史袁守一に上奏させて言わせた、「則天がかつて三陽宮でご不豫の折、内史狄仁傑が陛下(中宗)に監国を請うた時、元忠が密かに上奏して不可と申しました。これに拠れば、元忠が逆心を抱いて久しいことが分かります。伏して厳罰を加えられるよう請います」。中宗は楊再思らに言った、「朕が考えるに、これは守一の大いなる誤りである。人臣が主に事えるには、必ず一心でなければならぬ。どうして主上に少しでも不安があれば、すぐに太子に政務を知らせようとするなどということがあろうか。これは狄仁傑が私的な恩恵を施そうとしたのであって、元忠に過失があったとは見えない。守一は前の事柄を借りて元忠を羅織しているのであって、道理に合うものではない」。楚客らはようやく止めた。元忠は涪陵に至る途中で死去した。享年七十余。

景龍四年(七一〇年)、尚書左僕射・斉国公・本州刺史を追贈され、さらに所司に命じて霊輿を郷里まで送らせた。えい宗が即位すると、詔を下して定陵に陪葬させた。景雲三年(七一二年)、また詔を下して言った、「故左僕射・斉国公魏元忠は、代々人望に叶い、時に国の良臣と称された。三朝に仕えて、いずれも誠効を展べた。晩年に遷謫されたのは、甚だしくその罪に非ず。宜しく特にその子である著作郎魏晃に実封一百戸を還付すべきである」。開元六年(七一八年)、諡して貞といった。二子は升・晃。

韋安石

韋安石は、京兆府萬年県の人で、周(北周)の大司空・鄖国公韋孝寬のかつ孫である。祖父の韋津は、大業末年に民部侍郎となった。よう帝が江都に行幸した際、韋津に命じて段達・元文都らとともに洛陽に留守し、引き続き検校民部尚書事を務めさせた。李密が東都を脅かすと、韋津は上東門外で防戦した。敗北し、李密に囚われたが、王世充が文都らを殺害した時、韋津だけはその難を免れた。李密が敗れると、東都に帰り、世充が僭号を称すると、深く信任された。洛陽が平定されると、高祖(李淵)は韋津と旧知の間柄であったので、諫議大夫に召し出し、検校黄門侍郎を兼ねさせた。陵州刺史として出向し、その地で死去した。父の韋琬は、成州刺史となった。叔父の韋琨は、戸部侍郎となった。琨の弟の韋遂は、倉部員外郎となった。

韋安石は明経の科挙に応じて挙げられ、累次昇進して乾封尉に任ぜられ、蘇良嗣は大いに彼を礼遇した。永昌元年、三度転任して雍州司兵となり、良嗣は当時文昌左相であったが、安石に言うには、「大材は大用を要す、何ぞ徒らに州県に労せんや」と。特に則天武后に推薦し、膳部員外郎・永昌令・并州司馬に抜擢して任じた。則天は手製を下して労うに、「卿が彼の地にありて、諸事に心を留め、善政は能官に表れ、仁明は鎮撫に顕る。かくの如く職に称うるは、深く朕が懐を慰む」と言った。まもなく并州刺史に任ぜられ、さらに徳州・鄭州の二州刺史を歴任した。安石は性格が重厚で、言葉少なく笑わず、政治は清く厳しく、所在の人民・官吏ともに皆畏れ憚った。久視年間、文昌右丞に遷り、まもなく鸞臺侍郎・同鳳閣鸞臺平章事に任ぜられ、太子左庶子を兼ねた。長安三年、神都留守となり、天官・秋官の二尚書事を兼ねて判った。後に崔神慶らとともに侍読となり、まもなく納言事を知った。この年、さらに検校中臺左丞を加えられ、太子左庶子・鳳閣鸞臺三品を兼ねたことは従前の通りであった。

当時、張易之兄弟および武三思は皆寵を恃んで権勢を用い、安石はしばしば彼らを挫き辱めたので、大いに易之らに憎まれた。かつて内殿で宴を賜わった際、易之は蜀の商人宋霸子ら数人を引き連れて前に出て博戯をした。安石が上疏して奏上し、「蜀の商人らは賤しき類い、この筵に登るに預かるべからず」と言い、左右を顧みてこれを追い出させたので、座中の者は皆顔色を失った。則天は安石の言葉が直であるとして、深く慰労し励ました。当時、鳳閣侍郎陸元方が座にあり、退いて人に告げて言うには、「これこそ真の宰相であり、我々の及ぶところではない」と。則天がかつて興泰宮に行幸した際、近道を取ろうとしたが、安石が奏上して言うには、「千金の子もなお堂に垂れる戒めあり、万乗の尊きは軽々しく危険に乗ずべからず。この道は板築初めて成り、自然の堅固さなく、鑾駕これを通らば、臣ら敢えて罪を請わざらんや」と。則天は即座に輦を返させた。安石はまもなくまた易之らの罪状を挙げて奏上した。初めに勅が下り、安石および夏官尚書唐休璟に推問させたが、未だ終わらぬうちに事態が変わった。四年、出向して揚州大都督府長史となった。

神龍初年、召されて刑部尚書に任ぜられた。この年、さらに吏部尚書に遷り、再び政事を知った。まもなく張柬之に代わって中書令となり、鄖国公に封ぜられ、かつて宮僚(太子の官僚)であったことを以て、実封三百戸を賜わり、また相王府長史を兼ねた。まもなく戸部尚書に転じ、再び侍中となり、国史を監修した。中宗と韋庶人はかつて正月十五日の夜にその邸宅に行幸し、賜わった品々は数え切れなかった。また中宗がかつて安楽公主の城西の池館に行幸した際、公主は舟楫を備え、楼船に乗るよう請うたが、安石が諫めて言うには、「軽舟に乗り、不測のものに乗ずるは、臣、帝王の事にあらざるを恐る」と。そこで止めた。

睿宗が践祚すると、太子少保に任ぜられ、郇国公に改封された。まもなくまた侍中・中書令を歴任した。景雲二年、開府儀同三司を加えられた。当時、太平公主と竇懐貞らは密かに異図を抱き、安石を引き入れてその事に参与させようとした。公主はしばしば子婿の唐晙を使わして安石を邸宅に招いたが、安石はついに拒んで行かなかった。睿宗が密かに安石を召し出して言うには、「朝廷が東宮(太子)に傾いていると聞くが、卿はどうして察知しないのか」と。安石が答えて言うには、「陛下、何ぞ亡国の言を得んや。これは必ずや太平の計略でございます。太子は社稷に大功あり、仁明孝友、天下に称せられております。願わくは陛下、讒言を信じて惑わされませぬように」と。睿宗は驚いて言うには、「朕は知った。卿は言うな」と。太平は簾の中でこれを盗み聞き、そこで流言をでっち上げ、彼を尋問させようとしたが、郭元振の保護により免れた。まもなく尚書左僕射に遷り、太子賓客を兼ね、従前の通り同中書門下三品となったが、崇寵を仮り与えられたものの、実はその権力を奪われた。その冬、政事知ることを罷め、特進に任ぜられ、東都留守を充てた。太常主簿李元澄は、すなわち安石の子婿であったが、その妻が病死した。安石の夫人薛氏は、元澄が以前寵愛した婢が厭勝(呪い)で殺したのではないかと疑った。その婢はとっくに転嫁していたが、薛氏は人を使わして捕らえ、捶ち打って死なせた。これにより御史中丞楊茂謙に弾劾され、出向して蒲州刺史となった。間もなく、青州刺史に転じた。

安石が初め蒲州にいた時、太常卿薑皎が何か請託をしたが、安石はこれを拒絶したので、皎は大いに怒った。開元二年、皎の弟の晦が御史中丞となり、安石らが宰相であった時、ともに中宗の遺詔を受け、宗楚客・韋温が相王(睿宗)の輔政の言葉を削除したのに、安石がその事を正すことができなかったとして、侍御史洪子輿に挙劾させた。子輿は事が赦令を経ているとして、固く不可と称した。監察御史郭震が皎らの意を迎え、越次してこれを奏上した。そこで詔を下して言うには、「青州刺史韋安石・太子賓客韋嗣立・刑部尚書趙彦昭らは、往昔先朝において、曲く厚賞を蒙り、幸会に因縁し、久しく廟堂に在り、朋党比周し、行路に聞こえたり。景龍の末、長蛇禍を縱し、倉卒の間、人神憤怨す。未だかって生を捨て義を取り、直道昌言するを聞かず、遂に太上皇(睿宗)の輔政の辞を削り、韋氏の臨朝の策を用う。比来常に隠忍し、復た崇班を以てし、将に愧畏を期し、稍く前悪を懲らさんとすれども、尚お邪に款回し、苟くも栄寵に安んず。宜しく謫官の典に従い、以て君に事うるの節を励ますべし。安石は沔州別駕とすべく、嗣立は岳州別駕とすべく、彦昭は袁州別駕とすべく、並びに員外に置く」と。安石が沔州に到着すると、晦はまた奏上して言うには、「安石はかつて定陵の造作を検校し、官物を隠して己に入れた」と。勅符が州に下り、贓物を徴収した。安石は嘆いて言うには、「これはただ我が死を要するのみ」と。憤激して卒去した。享年六十四。開元十七年、蒲州刺史を追贈された。天宝初年、子の貴いことを以て、開府儀同三司・尚書左僕射・郇国公を追贈され、諡して文貞といった。二子の陟・斌は、ともに早くから知名であった。

安石の子 韋陟

韋陟は字を殷卿といい、代々関中の著姓であり、人物・衣冠(士大夫)は代々栄え盛んであった。安石は晩年に子を得、并州司馬となった時に初めて陟と斌を生み、ともに幼少より聡明で、常童とは大いに異なっていた。陟は幼い頃から風采・標格が整い峻厳で、独立して群れず、安石は特に彼を愛した。神龍二年、安石が中書令となった時、陟は十歳で、温王府東閣祭酒に任ぜられ、朝散大夫を加えられ、累次昇進して秘書太堂丞となった。文彩があり、隷書をよくし、文人・秀士はすでにその門に遊んだ。開元初年、父の喪に服し、喪に過ぎた礼を行った。ここから門を閉ざして出ず、八年間、弟の斌と互いに励まし合い、典籍を探求し、昼夜を分かたず、文華は当代にあり、ともに盛名があった。当時、才名ある士の王維・崔顥・盧象らは、常に陟と唱和し遊び交わった。広平宋公(宋璟)は陟を見て嘆じて言うには、「盛徳の遺範は、尽くここに在り」と。洛陽令を歴任し、吏部郎中に転じた。張九齢は一代の文宗であり、中書令となって、陟を引き立てて中書舎人とし、孫逖・梁渉とともに文誥を対掌し、当時の人はこれを美談とした。

後に礼部侍郎となった。韋陟は後輩を引き立てることを好み、特に文章に明るく、たとえ文士の後進であっても、その才能を熟知しない者はなかった。従来の試験官は、受験者の採否をすべて一つの試験の出来だけで決め、科目に登第させても、その才能を十分に発揮させていなかった。韋陟はまず受験者の過去の実績を問い、さらに挙人に自分が得意とする詩文を通達させ、試験の一日前に試させて、その長所を知った上で、通常の方式に従って試験を行い、わずかな長所も見逃さず、その評判は巷に満ちた。後に吏部侍郎となったが、常に選人(官職候補者)が他人の名を冒用して官職に就くことを憂い、欠員が少なく、有能な人材を登用することが非常に難しいこと、正規の選考ルートの者が押しのけられ、不正に集まった者が進出することを嘆いた。韋陟は剛直で悪を憎み、風采は厳正であり、選人は彼に何か欠点があるのではないかと疑い、事件の声を聞いては徹底的に詰問し、自白しない者はなかった。毎年、数百人の欠員を補充し、滞留している者を待たせ、常に親しい者に言った。「私に選考の任を一二年間預けてくれれば、選ぶべき人材はいなくなるだろう」。

韋陟の家柄は豪華で、早くから清要な官職に就き、侍女や宦官、左右に侍る者は十数人おり、衣服・書物・薬・食事にはすべて担当者がいて、車馬や奴僕の勢いは王家の邸宅に匹敵した。自ら才能・家柄・人望をもって、三公の位を当然のものとし、簡素で尊貴であることを自ら処世の姿勢とし、後進を善く導き受け入れたが、同列の朝廷の要人たちは、彼らを軽蔑していた。道義をもって知り合った者には、貴賤の隔てなく、布衣韋帯(質素な服装)の士人には、常に席を空け、履を履き違えて出迎えたので、当時の人々はこのことを称賛した。

李林甫は彼を忌み嫌い、襄陽太守に左遷し、兼ねて本道採訪使とし、さらに陳留採訪使に改め、また銀青光禄大夫を加えた。天宝年間に郇国公の爵位を襲封したが、親族の連座で鍾離太守に貶され、さらに義陽太守に重ねて貶された。まもなく河東太守に移り、本道採訪使を兼任した。

十二年に考課(官吏の勤務評定)が行われ、華清宮にいた。右相楊国忠は彼の才能と声望を憎み、宰相の地位に就くことを恐れ、河東の人呉象之を引き入れて言った。「お前は人を使って韋陟を告発させることができるか。そうすればお前を御史に取り立てよう」。象之は「できます」と答えた。そこで韋陟が御史中丞吉温と結託し、朝廷を陥れようと謀っていると告発させ、さらに韋陟の甥の韋元志を誘ってこれを証言させた。韋陟は罪に坐して桂州桂嶺尉に貶され、まだ任地に赴かないうちに、さらに昭州平楽尉に貶された。

ちょうど安禄山が反乱を起こし、洛陽が陥落し、韋陟の愛弟の韋斌が賊の手中に落ちた。楊国忠は韋陟が賊と通じているとでっち上げようと、密かに役人や兵卒に彼の住居を監視させ、脅迫して韋陟を憂死させようとした。その地の豪族が韋陟を勧めて言った。「昔、張燕公(張説)が流罪になった時、陳氏に匿われて危難を免れました。詔勅がもし来ても、誰が取り次ぎましょうか。千里の軽舟で、しばらく渓谷の洞窟に身を潜め、事態が静まるのを待ってから出てくる方が、よろしいのではありませんか」。韋陟は慨然としてこれに応えて言った。「私は国朝(唐朝)に対する信義を積み重ねてきたのは、一代のことではない。況や平素から抱いている心に、神理に背くところはない。運命がこうなったのだから、どうして刑罰を逃れられようか。燕公の謀(張説の故事)は、厚意には誠に愧じるが、従うことはできない」。そこでその者を謝して帰らせ、堅く臥して動かなかった。

一年余り経って、潼関が陥落し、粛宗が霊武で即位すると、韋陟は呉郡太守に起用され、江南東道採訪使を兼ねた。まだ郡に到着しないうちに、粛宗は宦官の賈遊厳に手詔を持たせて彼を追わせた。鳳翔に到着する前に、ちょうど江東で永王(李璘)が勝手に兵を起こしたので、韋陟に招諭を命じ、御史大夫に任じ、江東節度使を兼ねさせた。韋陟は季広琛が永王に従って長江を下ったのは本意ではなく、罪を恐れて出奔し、行く先が定まっていないと考え、上表して広琛を丹陽太守・兼御史中丞・縁江防禦使に任じるよう請い、不安な者を安心させた。そこで淮南節度使高適、淮西節度使来瑱らとともに安州に至った。韋陟は高適、来瑱に言った。「今、中原は未だ回復せず、江淮は動揺し、人心の安否は、まさに今日にかかっている。もし盟約を結んで信義を示し、四方に知らしめ、三帥が心を合わせ、万里を隔てて力を同じくすることを明らかにしなければ、事を成すのは難しい」。韋陟は来瑱を地主として推し、そこで盟書を作り、壇に登って衆に誓って言った。「淮西節度使兼御史大夫来瑱、江東節度使御史大夫韋陟、淮南節度使御史大夫高適らは、国の威命を奉じ、それぞれ方隅を鎮め、三つの辺境を糾合し、凶悪な者を除き、好悪を同じくし、異なる志はない。この盟に背く者は、命を落とし族を滅ぼす。皇天后土、祖宗の神明、まことにこの言葉を照覧あれ」。韋陟らの言葉は慷慨として、血と涙ともに流れ、三軍は感激し、涙を流さない者はなかった。その後、江南では碑を建てて忠烈を記念した。

まもなく、詔勅があって韋陟に行在所(皇帝の所在)に赴くよう命じた。韋陟は季広琛が恩命を受けたとはいえ、なおためらいがあり、後に変事が起こり、禍が自分に及ぶことを恐れ、まず広琛を招き慰めてから徴召に応じようと考え、使者を発して上表し、その緊急性を切に述べた。韋陟は歴陽に馳せ至り、広琛に会い、恩旨を宣べ、労い行賞し、韋陟は私の馬数匹を彼に賜って、その疑念と恐れを和らげた。その日に行在所に赴き、粛宗に謁見すると、粛宗は深く彼を重んじ、御史大夫に任じた。拾遺の杜甫が上表して房琯には大臣の器量があり、真の宰相の才であると論じ、聖朝が容れないのは、その言辞が迂遠で荒唐無稽であると述べたので、粛宗は崔光遠に韋陟及び憲部尚書顔真卿とともにこれを審問させた。韋陟は入奏して言った。「杜甫が論じた房琯の件は、たとえ貶黜されても、諫臣の大礼を失っていません」。上(粛宗)はこれによって彼を疎んじた。当時、朝臣が列を作るのに整わないことが多く、ついには班頭(列の先頭)同士が互いに泣き叫ぶ者さえいたので、韋陟の御史大夫を罷免し、顔真卿が代わり、韋陟を吏部尚書に任じた。その後、政事を執る寵臣は皆、後から初めて用いられた者で、風向きをうかがって畏れ忌み、韋陟の道(政治方針)はついに行われなかった。同族の者が墓の柏を伐ったのに、制止できなかった罪に坐し、絳州刺史に左遷された。乾元二年、太常卿として朝廷に入った。呂諲が再び宰相となると、韋陟を礼部尚書・東京留守に推薦し、尚書省事を判じ、兼ねて東京畿観察処置等使とした。逆賊史思明が河洛に迫ると、副元帥李光弼が河陽を守ることを議し、韋陟に東京の官属を率いて関中に入り避難するよう命じ、兵を陝州に守らせた。詔勅があって吏部尚書に遷し、留守は元の通りとし、永楽に留まるよう命じ、京師に至ることを許さず、李光弼が河洛を回復するのを待って、韋陟に前のように留守を務めさせた。

韋陟は早くから宰相の器と見込まれていたが、時に李林甫・楊國忠に排斥された。中原に兵乱が起こり、天下の事態が切迫すると、陟は常に自ら経世の才を負うと称し、後進の誹謗に遭い、明主に疑われ、常に鬱々として志を得ず、乃ち嘆いて言うには、「我が道はここに窮まったか、志あれど伸びず、これ天命にあらざるや」と。ここに病気にかかり、上元元年八月、虢州で卒した。時に六十五歳。荊州大都督を追贈された。永泰元年、詔して曰く、「忠を尽くした臣は、死してもその任を廃さず、上に奉ずる節操は、行いに固より私なし。終わりを飾ることを思えば、抑々恒常の典である。故金紫光禄大夫・吏部尚書・兼御史大夫・東京留守を充て・兼ねて留司尚書省事を判じ・東京畿観察処置使・上柱國・郇國公韋陟は、篤実で敏捷、直情で方正、端厳で峻整、典禮を広く敷き、人倫を表正し、学は通儒に冠たり、文は大雅を含む。近ごろ旧徳に諮り謀り、成周を保釐し、かの郊圻を眷顧し、その慎固を資とした。然るに凶胡の残醜、河洛に密邇し、命じて陝・虢に居らしめ、時に俟って剪除せんとした。才たるや喉舌の栄を加えられ、にわかに霜露の疾に嬰る。まさに眉寿を克享するを期し、その瘳ゆることを冀ったに、ここに奄然として殂歿す。まことに深く震悼す。車に昇らせて復するは、以て三禭の恩を申べく、牖に在りて紳を加うるは、宜しく八座の寵を崇くすべし。尚書左僕射を贈るべし」と。太常博士程皓が諡を「忠孝」と議した。刑部尚書顔眞卿は、忠とは身を以て国に許し、危きを見て命を致すもの、孝とは晨昏色養し、庭闈に楽しみを取るもの、二行殊なる難を合わせて「忠孝」と成すは合わない、と考えた。主客員外郎帰崇敬がまたこれを駁し、議論紛然として止まなかった。右僕射郭英乂はその体を達せず、太常の状に従うことを請うて奏上した。陟の子は韋允。

安石の子 韋斌

韋斌は、景雲の初め、安石が宰輔であった時に、太子通事舍人を授かった。早くから行いを整え、文芸を尚び、容止は厳厲、大臣の体有り、兄の陟と齊名した。開元十七年、司徒薛王李業が娘の平恩県主の為に婚を求め、斌の才地を以て奏上して配偶させた。秘書丞に遷る。天寶の初め、國子司業に轉じ、徐安貞・王維・崔顥ら當代の辭人は、特に推挹した。天寶の中ごろ、中書舍人に拜し、兼ねて集賢院學士となる。兄の陟は先に中書舍人となり、間もなく禮部侍郎に遷った。陟が南省に在り、斌また文誥を掌った。太常少卿に改める。天寶五載、右相李林甫が刑部尚書韋堅を構陷し、斌は親族に連座して巴陵太守に貶せられ、臨安太守に移り、銀青光禄大夫を加えられた。斌が五品を授かった時、兄の陟は河東太守、堂兄の韋由は右金吾將軍、韋縚は太子少師であり、四人同時に戟を列ね、衣冠の盛んなる、これに比ぶもの稀であった。

十四載、安祿山が反し、洛陽を陥落させると、斌は賊に捕らえられ、偽って黃門侍郎を授けられたが、憂憤して卒した。兩京を克復した後、肅宗乾元元年、秘書監を追贈された。安石の兄の韋叔夏は別に傳がある。從父兄の子に韋抗、從祖兄の子に韋巨源。

從父兄の子 韋抗

韋抗は、弱冠で明經に挙げられ、累轉して吏部郎中となり、清謹を以て著稱された。景雲の初め、永昌令となり、威刑を務めずして政令肅一たり。都輦の繁劇なるに、前後政を爲す者、寬猛中を得るもの、抗の如きは無かった。間もなく、右臺御史中丞に遷る。人吏、闕に詣でて留まることを請うたが、許されず、因って通衢に碑を立て、その遺惠を紀した。開元三年、左庶子より出でて益州長史となる。四年、入朝して黃門侍郎となる。

八年、河曲の叛胡康待賓が徒を擁して亂を爲す。詔して抗に節を持ち慰撫せしむ。抗は元より武略無く、寇に憚られず。路に在りて遲留し敢えて進まず、因って馬より墜ちて疾と稱し、竟に賊の所に至らずして還った。俄かに本官を以て檢校鴻臚卿と爲り、王晙に代わって御史大夫となり、兼ねて京畿を按察す。時に抗の弟の韋拯は萬年令、兄弟同じく本部を領し、時人これを榮しとした。尋いで御史を非其人に薦めたことを以て、出でて安州都督となり、轉じて蒲州刺史となる。十一年、入朝して大理卿となり、その年陸象先に代わって刑部尚書となり、尋いでまた吏部選事を分掌す。十四年に卒す。抗は歴職清儉を以て自ら守り、産業を務めず、及んで終わるに、喪事殆ど給する能わず。玄宗その貧しきを聞き、特令して靈輿を給し、遞送して還鄕せしむ。太子少傅を贈り、諡して貞と曰う。抗が京畿按察使であった時、奉天尉梁升卿・新豐尉王倕・金城尉王冰・華原尉王燾を判官及び度支使に挙げたが、その後升卿ら皆名位通顯し、時人以て抗に知人の鑒有りとす。

從祖兄の子 韋巨源

韋巨源は、周の京兆尹韋總の曾孫なり。祖父の韋匡伯は、祖の爵である鄖國公を襲い、すみやに入って舒國公に改封され、官は尚衣奉御に至る。巨源は則天の時に累遷して司賓少卿となり、轉じて司府卿・文昌右丞・同鳳閣鸞臺平章事となる。三年、夏官侍郎に轉じ、前の如く平章事たり。吏才有り、省内の文案を勾覆し、符を下して徴剥す。下より怨苦せられると雖も、然も亦頗るその利を収む。證聖の初め、出でて鄜州刺史となり、尋いで地官尚書・神都留守を拜す。長安二年、詔して入朝せしめ刑部尚書に轉じ、又た太子賓客を加えられ、再び神都留守と爲る。

神龍の初め、入朝して工部尚書を拜し、同安縣子に封ぜられる。又た吏部尚書・同中書門下三品に遷り、郇縣伯に進封される。時に安石は中書令たり、巨源は近屬なるを以て、政事を知るを罷められる。巨源は尋いで侍中・中書令に遷り、舒國公に進封され、韋后の三等親に附入され、兄弟として敘せられ、屬籍に編まれる。是の歳、巨源は制を奉じ唐休璟・李懷遠・祝欽明・蘇環等と『垂拱格』及び『格後敕』を定め、前後計二十巻、頒下して施行す。時に武三思は先に實封數千戸を貝州に有す。時に大水に属し、刺史宋璟は租庸及び封丁並びに合せて捐免すべしと議す。巨源は穀稼は湮沈せられると雖も、その蠶桑は見在す、庸調を輸することを勒すべしと爲す。ここに由って河朔の戸口頗る多く流散す。

景龍二年、順天翊聖皇后の衣箱の中の裙の上に五色の雲起こり、久しくして方や歇む。巨源は非常の佳瑞と爲し、布告天下することを請う。許される。中宗また畫工に令してその狀を圖らしめ以て百僚に示し、仍って大赦天下し、内外五品已上の官の母妻各々封邑を加う。時に中宗は即ち雅に符瑞を信じ、巨源またその妖妄を贊成す。是の歳、星墜ちて雷の如く、野雉皆雊く。咎征此の若きも、巨源の言有るを聞かず。蓋し韋皇后と繼いで源流を敘し、官爵に佞媚し、その開導を疑わしめ、以て則天に踵らしむ。時に驍衞將軍迦葉志忠・太常少卿鄭愔・兵部尚書宗楚客・右補闕趙延禧等有り、或いは相諭し、或いは表章を上し、謬説して符祥とし、朋黨して媚を取り、識者嗟憤す。

景龍三年、尚書左僕射に拝され、旧に依り政事を知る。未だほとんばくもせず、また尚書令・同中書門下三品に拝され、旧に依り国史の監修を務む。時に国家南郊に事有らんとし、而して巨源は韋后の旨を希い、祝欽明の議に協同し、皇后合に郊祀を助くべしと言い、竟に皇后を以て亜献と為し、巨源を終献と為し、また大臣の女を以て斎娘と為す。及び韋庶人の難に及び、家人巨源に逃匿を令すも、巨源曰く「吾れ国の大臣なり、豈に難を聞きて赴かざるを得んや」と。乃ち出で、都街に至り、乱兵に殺さる。時に年八十。

睿宗即位し、特進・荊州大都督を贈らる。太常博士李処直、巨源の諡を議して「昭」と曰う。戸部員外郎李邕之を駁して曰く「三思之を引いて相と為し、阿韋之に托けて親と為す。功無くして封ぜられ、徳無くして祿せらる。同族に於いては則ち正しき安石を醜とし、他人に於いては則ち邪なる楚客に附く。之を諡して『昭』と曰うは、良に当たらずと恐る」と。初め、巨源と安石と迭りに宰相と為り、時人以て情相協わずと為す。故に邕此を以て之を称す。処直仍り固く請うて前の諡に依りて定めんとす。邕また駁して曰く。

夫れ古の諡は、勧沮に在りて、将に小人の業を杜せんとし、君子の風を長ぜんことを冀う。故に善を為す者は存すと雖も貴仕せずして、没して余名有り。此れ賢達の節をぐ所以なり。悪を為す者は生くると雖も幸い有るも、死して懲らす所を懐く。此れ回邪の心を易うる所以なり。嗚呼、巨源嘗て未だ斯れを察せず、而して乃ち義を聞きて従わず、悪と相済い、罔上の志を蓄え、群凶の謀に協う。苟くも聖朝に容れられ、厚祿を貪りくらむ。自ら宰臣の貴を以て、崇朝せずして害を賈う者は、固より鬼得て之を誅するなり。彼は則ち匹夫の微にして、命を受けずして刑を行う者は、固より人得て之を誅するなり。幽明の憤り、断然として知るべく、天地の心、此よりして見る。頃者皇運中興し、功臣政を翼く。時序未だ幾ばくもせず、邪逆権を執り、奸慝なる者は私門に於いて爵を拝し、忠正なる者は藩郡に於いて黜降せらる。巨源此の際、事を用うること方に殷し。且つ阿韋に何の親有りて、昆季と結ばん。国家に何の力有りて、累ねて大官をかたじけなうす。此れ則ち中人に暗通し、武氏に附会し、城社の固きに托け、皇家の基を乱す。其の罪一なり。又た国の大事は、祀と戎に在り、礼経に酌み、郊祭に陳ぶ。将に以て天地に対越し、祖宗を光揚し、即ち成功を告げ、以て海内を観んとす。れ昔亜献は、婦人の聞こえず。阿韋無君の忱を蓄え、自達の意を懐き、潜かに帝位を図り、皇孫を議啄し、壇に升り儀を擬し、明命を拝賜し、将に家事に預からんとし、国章を守ること無し。巨源跡を前に創め、悖逆後に演成す。時に礼部侍郎徐堅・太常博士唐紹・蔣欽緒・彭景直並びに之を言うも従わず。其の罪二なり。又た上天弔わず、先帝毒に遇い、禍を悔ゆる徴無く、阿韋将に篡せんとす。計を画す未だ果たさず、逆心尚お揺らぎ、周章夷猶し、倉卒迷謬す。ここにおいて太平公主陳謨を矯め、上官昭容遺詔を紿きて草す。故に今上輔政し、阿韋参謀するを得る。将に大業垂成せんとして、休命中絶する者は、職に巨源韋温の足を躡み、楚客巨源の耳に附くに由る。梟声遽に発し、狼顧相驚き、以て阿韋朝に臨み、以て韋温国に当たらしむ。其の罪三なり。又た人を邦の本と為し、財実に人を聚む。其の財を奪えば則ち人心自ずから離れ、其の人無ければ則ち国本何を恃まん。巨源屡く台輔を践み、専ら勾徴を行い、条章を廃越し、侵刻を崇尚し、怨を天下に樹て、生霊を剝害し、兆庶流離し、戸口減耗す。況や三思の食邑を以て、往きて貝州に在り。時に久陰に属し、災多雨に逢う。租庸捐免し、申令昭明なり。今に独り然るに匪ず、古より易わらず。三思其の封物を慮り、巨源此の異端を啓く。以て稼穡湮沈すと雖も、菽粟無くとも、蚕桑織紝は、庸調を輸すべしと為す。致して河朔の黎人、海隅の士女、其の郷井を去り、其の子孫を鬻ぎ、饑寒身に切にして、朝夕奔命す。其の罪四なり。但だ巨源は華宗に長じ、累代に仕え、万国の相と作り、具瞻の地に処り、日月の輝を蔽い、丘山の重責を負う。今乃ち妄りに褒述を加う、安くぞ謗を分かたんや。

当時は李邕の議に従わざりしも、論ずる者は之を是とす。巨源と安石及び則天時の文昌右相待價とは、並びに五服の親なり。自余近属大官に至る者数十人。

附 趙彦昭

趙彦昭は、甘州張掖の人なり。父武孟、初め馳騁佃獵を以て事と為す。嘗て肥鮮を獲て以て母に遺す。母泣いて曰く「汝読書せずして佃獵かくの如し、吾れ望み無し」と。竟に其の膳を食わず。武孟感激して勤学し、遂に経史に博通す。進士に挙げられ、官は右臺侍御史に至り、『河西人物志』十巻を撰す。

彦昭は少にして文辞を以て知名なり。中宗の時、累遷して中書侍郎・同中書門下三品となり、国史を兼修し、修文館学士を充つ。景龍四年、金城公主出でて吐蕃の讚普に降嫁す。中宗彦昭を命じて使と為す。彦昭既に外使を充つるを以て、其の寵を失わんことを恐れ、殊に悦ばず。司農卿趙履温私かに謂いて曰く「公は国の宰輔にして、一介の使と為る、亦た鄙ならずや」と。彦昭曰く「計将に安くか出ださん」と。履温因りて陰に安楽公主に托けて密奏し之を留めしむ。中宗乃ち左驍衞大将軍楊矩を遣わし彦昭に代えて往かしむ。

睿宗の時、出でて涼州都督と為り、政を為すこと清厳にして、将士已下皆動足股慄す。又た宋州刺史と為り、入りて吏部侍郎と為り、又た刑部尚書・関内道持節巡辺使・検校左御史臺大夫と為る。

彦昭は素より郭元振・張説と友善なり。及び蕭至忠等誅を伏すに及び、元振・説等彦昭先だて嘗て密かに其の事を図れりと称す。乃ち功を以て刑部尚書に遷し、耿国公に封ぜられ、実封一百戸を賜う。殿中侍御史郭震奏す「彦昭は女巫趙五娘の左道を以て常を乱し、諸姑と托けて、潜かに相影援す。既に提挈に因り、乃ち台階を践む。車を駆って門を造り、婦人の服を著け、妻を携えて就き謁し、猶子の情を申す。時に於いて南憲の直臣、霜憲を以て劾す。暫く微貶を加え、旋って寵秩に登る。悪を同じくして相済う、一に此に至る。乾坤交泰し、宇宙再清す。貶削を加えずんば、法将に安くか措かん。請う紫微黄門に付し、法に準じて処分せんことを」と。俄にして姚崇相に入り、甚だ彦昭の為人を悪む。此に由りて累貶して江州別駕と為り、卒す。

蕭至忠

蕭至忠は、秘書少監徳言の曾孫なり。少く仕えて畿尉と為り、清謹を以て称さる。嘗て友人と路隅に期す。会て風雪凍冽す。諸人皆奔避して宇下に就く。至忠曰く「寧んぞ人と期して安きを求め信を失わんや」と。独り去らず。衆咸く歎服す。神龍初め、武三思権を擅にす。至忠之に附き、吏部員外より擢びて御史中丞に拝せらる。吏部侍郎に遷り、仍り御史中丞を兼ぬ。武三思の勢を恃み、選を掌るに忌憚無く、請謁杜絶し、威風大に行わる。尋いで中書侍郎に遷り、中書令を兼ぬ。

節湣太子が武三思を誅殺した後、武三思の党与である宗楚客・紀處訥きしょとつが侍御史冉祖雍に命じて上奏させた。「安國相王及び鎭國太平公主もまた太子と共謀して挙兵したので、収監して獄に付すことを請う。」中宗は蕭至忠を召してその事を審理させたところ、至忠は涙を流して奏上した。「陛下は四海を富有し、貴きこと天子たるに、どうして一弟一妹を保つことができず、人の誣告に遭われましょうか。宗廟社稷の存亡は、まさにここにあります。臣は愚昧ではありますが、ひそかに陛下のなさらぬことを願います。《漢書》に云う。『一尺の布も、尚お縫うべく、一斗の粟も、尚お舂くべし、兄弟二人相容れず。』願わくは陛下にこの言葉を詳しくお察しください。かつて則天皇后が相王を太子に立てようとされた時、王は幾日も食事をとらず、陛下を迎えることを請われました。固く譲られた誠意は、天下に伝説となり、冉祖雍らの上奏したことがすべて虚構であることを十分に明らかにしております。」帝は深くその言葉を容れてやめた。まもなく黄門侍郎・同中書門下平章事に転じた。至忠は上疏して時政を述べた。曰く、

臣は聞く、王者は職を列ね司を分ち、人のために治を求む。治を求むの道は、必ず賢を用いるにあり。その人を得れば則ち公務はよく修まり、その才にあらざれば則ちその官は空しきが如し。官が空しければ則ち事は廃れ、事が廃れれば則ち人は害される。次第に衰微に至るのは、多くこれによる。近ごろ選曹が職を授け、政事官に人を任ずるに、あるいは異才を昇進させ、多くは徳による進用ではない。皆、貴要に依り憑き、互いに粉飾し、苟くも得さえすればそれでよしとし、かつて遠大な図りはなく、上下相い蒙り、誰か言及せんとする者があろうか。臣は聞く、官爵は公器なり、恩幸は私恵なり。ただ金帛を以て富ませ、粱肉を以て食わせ、私的な恩沢を存するのみであるべきである。もし公器を私用に供すれば、則ち公議行われず、労する人は心を解く。小なる私情を以て至公を妨げれば、則ち私的な請託の門が開かれ、正しい言路は絶える。佞人が次々に進み、君子の道は消え、日ごとに削られ月ごとに減らされ、ついに凋弊を見るのは、官がその人を得ないためである。昔、漢の館陶公主が子のために郎官を求めた時、明帝は言われた。「郎官は上は列宿に応じ、出でては百里を宰する。もしその人にあらざれば、則ち人がその殃を受ける。」ただ十万の銭を賜うたのみであった。これこそ至公の道を損なわず、恩私の情を廃することなく、良史が直筆して美談とし、今に至るも称えて口を絶たない所以である。当今、列位は既に広く、冗員は倍増し、求めは飽くことなく、日月を追って数が増す。陛下は計り知れぬ恩沢を降され、近戚は際限なき請願をなし、官を売って己を利し、法を売って私に殉ずる。台寺の内には、朱紫(高官)が満ち満ち、官の秩はますます軽く、恩賞はますます頻繁である。利を貪る輩は、冒して進み廉恥の隅を知らず、方正高雅の流れは、難きを知って分を斂め丘隴(隠棲)に退く。才ある者は用いられず、用いられる者は才なく、この二つの事が相対して、十のうち五つはある。故に人は効力を尽くさず、官はその人を得ず、治を求めようとするも、実にまた難しいことである。臣ひそかに見るに、宰相及び近侍の要官の子弟は、多く美爵に居り、これらは皆勢要の親戚で、才芸に乏しく、互いに嘱託し、虚しく官栄を践んでいる。《詩》に云う。「東人の子は、職は労するも賚わらず。西人の子は、粲粲たる衣服。私人之子は、百僚是れ試す。或いは其の酒を以てし、其の漿を以てせず。壥壥たる佩遂は、其の長を以てせず。」これは王政が平らかでなく、衆官が職を廃し、私家の子が栄班に列ねて試みられ、任に堪えぬ人が、ただその飾りの佩玉を長くするのみであると言うのである。臣愚かにも伏して願う、陛下に居安きに危うきを思うの義を思い起こし、弦を改め張りを易えるの道を行わんことを。爵賞を愛惜し、材識を審らかに量り、官に虚しく授けることなく、人必ず官たるに足り、大雅を枢近に進め、小子を閑僻に退け、政令を一にし、威恩を信をもってし、私が公を害せず、情が法を撓ませず、そうすれば天下幸いである。臣伏して見るに、永徽の故事では、宰相の子弟は多く外職に居た。これはただ強宗を抑え大族を分かつためだけでなく、また不肖を退け賢才を択ぶためでもあった。伏して願う、陛下に遠く旧典を稽え、近く先聖に遵い、特に明勅を降し、宰相以下及び諸司長官の子弟を、並びに外官に改授させ、四方に職を分かち、共に百姓を寧んじ、表裏相統べ、遐邇乂安ならしめんことを。

上疏は容れられなかった。

翌年、韋巨源に代わって侍中となり、依然として史書の編修に当たった。まもなく中書令に遷った。当時、宗楚客・紀處訥はひそかに奸計を抱き、自ら朋党を樹て、韋巨源・楊再思・李嶠は皆唯々諾々として自らを全うするのみで、匡正するところがなかった。至忠はその間にあって、かなり正道を保ち、当時の議論は一致して彼を重んじた。中宗もまた言った。「諸宰相の中で、至忠が最も我を憐れんでくれる。」韋庶人はまた亡き弟で贈汝南王の韋洵と、至忠の亡き娘との冥婚を行わせて合葬した。韋氏が敗れた時、至忠は墓を発き、その娘の柩を持ち帰った。人々はこれをもって彼を嘲笑した。至忠はまた娘を韋庶人の舅である崔從礼の子に嫁がせた。婚礼の日、中宗が蕭氏側の婚主となり、韋庶人が崔氏側の婚主となった。当時の人はこれを「天子が娘を嫁がせ、皇后が嫁を娶る」と言った。

睿宗が即位し、景雲初め、出て晉州刺史となり、甚だ有能な名声があった。当時、太平公主が権勢を振るい、至忠はひそかに間使を遣わして意を伝え、京職に入ることを求めた。韋氏を誅殺した際、至忠の一子が千牛を務めていたが、乱兵に殺された。公主は至忠がこれによって怨望を抱き、共に事を謀ることができると期待し、即座にその請いを容れた。召して刑部尚書・右御史大夫に拝し、再び吏部尚書に遷った。先天二年、再び中書令となった。この年、至忠は竇懷貞・魏知古・崔湜・陸象先・柳衝・徐堅・劉子玄らと共に『姓族係録』二百巻を撰成し、詔により爵を加え物を賜うことそれぞれ差等があった。

間もなく、左僕射竇懷貞・侍中岑羲及び至忠、並びに戸部尚書李晉・太子少保薛稷・左散騎常侍賈膺福・左羽林大将軍常元楷・右羽林将軍李慈らが太平公主と謀反を企てたことが露見し、至忠は急いで山寺に逃げ込んだ。数日後、捕らえられて誅殺され、その家は籍没された。至忠は清廉倹約で己を律していたが、簡約をもって自ら高しとし、かつて賓客を接待せず、得た俸禄もまた賑施することはなかった。籍没された時、財帛が甚だ豊かであったため、これによって声望は頓に絶えた。

弟の元嘉は工部侍郎、広微は工部員外郎。

附 宗楚客

宗楚客は、蒲州河東の人で、則天武后の従父姉の子である。兄の秦客は、垂拱年間にひそかに則天に革命を勧めて帝と称させ、これによって累遷して内史となった。後に楚客及び弟の晉卿しんけいと共に奸贓の事が発覚し、嶺外に配流された。秦客は死に、楚客らはまもなく追い還された。楚客は累遷して夏官侍郎・同鳳閣鸞臺平章事となった。神龍初め、太僕卿となった。武三思が権勢を振るうと、楚客を引き立てて兵部尚書・同中書門下三品とし、晉卿は累遷して将作大匠となった。節湣太子が武三思を殺した後、兵敗して鄠県に逃れた時、楚客は使者を遣わして追撃させて斬らせ、その首をもって三思及び崇訓の喪柩を祭らせた。韋庶人及び安楽公主は特に親信を加え、間もなく中書令に遷った。楚客は表面上は韋氏に附いていたが、かつて別に異図があり、侍中紀處訥と共に朋党をなしたので、当時の人は宗・紀と呼んだ。

景龍年間、西突厥の娑葛と阿史那忠節が不和で、たびたび互いに侵擾し、西陲が安らかでなかった。安西都護郭元振は忠節を内地に移すことを奏請したが、楚客は晉卿・處訥らとそれぞれ忠節から多額のまいないまいないを受け取り、兵を発して娑葛を討つことを奏請し、元振の奏請を容れなかった。娑葛はこれを知って大いに怒り、挙兵して寇し、甚だ辺境の患いとなった。ここにおいて監察御史崔琬が楚客らを弾劾して奏上した。曰く、

臣は聞く、四牡しぼ(しぼ)項領(こうりょう)にして良御乗らず、二心君に事(つか)へば明罰捨てずと。謹みて案ずるに、宗楚客(そうそきゃく)、紀處訥(きしょとつ)等は、性は惟(こ)險詖けんぴ(けんぴ)にして、志は溪壑(けいがく)を越え、幸ひに聖主に遭逢し、累(しばしば)殊榮を忝(かたじけな)くし、愷悌がいてい(がいてい)の恩を承け、弼諧(ひっかい)の地に居る。刻意に操を砥(と)ぎ、國を憂ふること家の如くし、微效涓塵(けんじん)を以て川嶽をおぎな(おぎな)ふ能はず。遂に乃ち專ら威福を作し、敢へて朋黨を樹て、君無きの心有り、大臣の節を闕(か)く。ひそ(ひそ)かに獫狁(けんいん)に通じ、賄(まいない)を納れて貲(はか)らず、公に頑凶を引き、賂(まいない)を受けて限り無し。醜問(しゅうぶん)充斥し、穢行わいこう(わいこう)昭彰なり。且つ境外の交はり、情狀測り難し、今娑葛(さかつ)反叛し、邊鄙安からず、此の賊臣に由りて、中國に怨みを取る。之を論ずる者は禍を懼れて舌を結び、之を語る者は罪を避けて口を(と)む。但だ晉卿(しんけい)は昔榮職に居り、素より忠誠を闕き、しばしば(しばしば)嚴刑に抵(ふ)れ、皆貨をけが(けが)すに由る。今又叨忝(とうてん)し、頻りに殊恩を(む)し、厚祿重權、朝に當りて比ぶる莫し。曾(かつ)悛改しゅんかい(しゅんかい)無く、仍(なお)贓私に徇(したが)ふ。此れを容すべくんば、孰(いず)れか恕すべからざらん。臣謬あやま(あやま)って直指に參し、義は邪に觸るるに在り、巨蠹(きょと)を除き請ひ、以て天造に答へん。楚客、處訥、晉卿等驕恣跋扈きょうしばっこ(きょうしばっこ)、人神疾(にく)むを同ふし、天誅を加へずんば、なん(なん)ぞ王度を淸(きよ)めん。並びに收禁を請ひ、差して三司に推鞫すいくせしむ。

舊制、大臣御史の對仗に劾彈せらるる者有らば、即ち俯僂ふろう(ふろう)して趨出し、朝堂に立ちて罪を待つ。楚客更に鰓(えら)(た)して色を作し進み、自ら執性忠鯁にして、琬(えん)の誣奏せらるるを言ふ。中宗竟に其の事を窮核すること能はず、遽かに琬と楚客等をして義兄弟を結ばしめて以て之を和解せしむ。韋氏敗れ、楚客と晉卿等皆伏誅す。

附 紀處訥

紀處訥は、秦州上邽じょうき(じょうき)の人なり。武三思の妻の姉を娶り、是に由りて累(しばしば)遷りて太府卿と爲る。神龍中、嘗て穀貴なるに因り、中宗處訥を召し親しく其の故を問ふ。武三思太史事を知る右驍衞將軍迦葉志忠かしょうしちゅう(かしょうしちゅう)、太史令傅孝忠(ふこうちゅう)ふう(ふう)して奏言せしむ、「其の夜攝提星(せっていせい)太微に入り、帝座に至る。此れ則ち王者と大臣私に相接し、大臣能く忠を納るる故に、斯の應有るなり」と。帝然りと爲し、敕を降して處訥を褒述し、衣一副、彩六十段を賜ふ。幾ど無く、進み拜して侍中と爲り、楚客等と同時に伏誅す。

史官曰

史官曰く、大帝・孝和の朝、政己に由らず、則天位に在りて已に綴旒ていりゅう(ていりゅう)を絶ち、韋後晨を司(つかさど)りて前蹤覆轍ふくてつ(ふくてつ)す。是の時に當りて、奸邪黨有り、宰執容を求め、之に順へば則ち其の名彰(あら)はるるを惡み、之に逆らへば則ち其の禍及ぶを憂ふ。身を存し理を致さむと欲するは、中智常才の能くする所に非ざるなり。況んや元忠・安石・巨源・至忠・彦昭等の行純一に非ず、存亡を識(し)ることを昧(くら)くし、利に徇ひ榮を貪り、始め有りて卒(おわり)無く、其の死を得ざる、宜なるかな。楚客・晉卿・處訥等讒諂並び進み、威虐貫盈(かんえい)し、刑を逃れしめざるは、政正と謂ふ可し。

贊して曰く、唐の重臣と爲り、唐の重祿を食む。顛危てんきを持せずんば、富貴何ぞ足らん。二宗・一紀、讒邪酷毒。前の數公と、死して辱を知らず。