舊唐書

巻091

巻091

舊唐書

原文舊唐書

卷九十一

原文卷九十一

列傳第四十一 桓彥-{範}- 敬暉 崔玄暐 張柬之 袁恕己| previous = 王及善 杜景儉 朱敬則 楊再思 李懷遠 豆盧欽望

原文列傳第四十一 桓彥-{範}- 敬暉 崔玄暐 張柬之 袁恕己| previous = 王及善 杜景儉 朱敬則 楊再思 李懷遠 豆盧欽望

桓彦範

原文桓彥範

桓彦範は、潤州曲阿の人である。祖父の法嗣は、雍王府諮議参軍・弘文館学士であった。彦範は慷慨にして俊爽であり、若くして門蔭により右翊衛に補任された。聖暦初年、累次昇進して司衛寺主簿となった。納言狄仁傑は特に彼を礼遇し、かつて言った。「足下の才識はこのようであるから、必ずや自ら遠大な地位に至るであろう。」まもなく監察御史に抜擢された。

原文桓彥範,潤州曲阿人也。祖法嗣,雍王府諮議參軍、弘文館學士。彥範慷慨俊爽,少以門蔭調補右翊衛。聖曆初,累除司衛寺主簿。納言狄仁傑特相禮異,嚐謂曰:「足下才識如是,必能自致遠大。」尋擢授監察御史。

長安ちょうあん三年、歴任して御史中丞に遷った。四年、司刑少卿に転じた。時に司僕卿張昌宗は、術者李弘泰に自分に天命があると占わせた罪に坐し、御史中丞宋璟は彼を収監して獄に付し、その罪を徹底的に追及するよう請うたが、則天は許さなかった。彦範が上疏して言うには、

原文長安三年,曆遷御史中丞。四年,轉司刑少卿。時司仆卿張昌宗坐遣術人李弘泰占己有天分,御史中丞宋璟請收付製獄,窮理其罪,則天不許。彥範上疏曰:

昌宗は徳もなく才もなく、誤って恩寵を受けている。自ら粉骨砕身して、特別な恩遇に報いるべきであり、どうして禍心を包蔵し、このような占いをすることがあろうか。陛下は簪履の恩が久しいため、刑を加えるに忍びないのである。昌宗は逆乱の罪が多いため、自らその咎を招いているのである。これは皇天が怒りを降すのであり、ただ陛下が故意に誅するのではない。天に背くのは不祥である。どうか陛下に裁断を願う。その元の上奏を推し量れば、事が敗れるのを防ぐためである。事が敗れれば、すなわち上奏は終わったと言い、敗れなければ時を待って逆を為すのである。これは奸臣の詭計であり、聖心を惑わすものである。今、果たしてその謀りごとが成就しようとしているのに、陛下はどうしてこれを明察されないのか。もし昌宗にこのような占いがなければ、上奏後に再び弘泰と往来すべきではなく、なお福を修め、また厄を祓おうとしている。これは必ず成就することを期しており、元より悔いる心はない。たとえ上奏して聞かせたとしても、その実情は許し難い。これを赦すことができるならば、誰を刑することができようか。況や二度にわたり事が明らかになり、天恩がともに赦しを垂れられたのに、昌宗は自ら得策と思い、人もまた天命に応じたと考えるならば、兵甲を煩わすことなく、天下はみな従い、万方がこれをあざ笑い、陛下がその乱を成り立たせたと考えるであろう。君主がいるのに、臣下が天命を図るのは、これ逆臣である。誅さなければ、社稷は滅びる。伏して鸞台鳳閣三司に付してその罪を徹底的に究明することを請う。

原文昌宗無德無才,謬承恩寵,自宜粉骨碎肌,以答殊造,豈得苞藏禍心,有此占相?陛下以簪履恩久,不忍加刑;昌宗以逆亂罪多,自招其咎。此是皇天降怒,非唯陛下故誅。違天不祥,乞陛下裁擇。原其本奏,以防事敗。事敗即言奏訖,不敗則候時爲逆。此乃奸臣詭計,疑惑聖心,今果遂其所謀,陛下何忍不察?若昌宗無此占相,奏後不合更與弘泰往還,尚令修福,復擬禳厄,此則期於必遂,元無悔心。縱雖奏聞,情實難恕,此而可舍,誰其可刑?況經兩度事彰,天恩並垂舍宥,昌宗自爲得計,人亦以爲應運,即不勞兵甲,天下皆從,萬方譏之,以爲陛下縱成其亂也。君在,臣圖天分,是爲逆臣,不誅,社稷亡矣。伏請付鸞台鳳閣三司考竟其罪。

上疏を奏上したが、回答はなかった。時にまた内史李嶠らが上奏して言うには、「かつて革命の時に属して、人多く節を逆らう者があり、取り調べ決断するに、刑獄は極めて厳しく、刻薄な吏が酷法をほしいままに行った。周興・丘勣・来俊臣が弾劾して家を破った者たちは、一様に雪冤して赦免を請う。」彦範はまた上奏して、文明元年以後に罪を得た人々のうち、揚・豫よ・博の三州および諸々の謀逆の首謀者を除き、一切赦すよう請うた。表疏は前後十回奏上し、言辞の趣旨は激切であり、この時になってようやく聞き入れられた。彦範は凡そ奏議するに、もし人主の詰責に逢えば、言葉と顔色に恐れず、ますます激しく争った。またかつて親しい者に言った。「今、すでに自ら大理の職に就いている以上、人命がかかっている。必ずや旨に順って詭弁を弄し、苟も免れようとはしない。」

原文疏奏不報。時又內史李嶠等奏稱:「往屬革命之時,人多逆節,鞫訊決斷,刑獄至嚴,刻薄之吏,恣行酷法。其周興、丘勣、來俊臣所劾破家者,並請雪免。」彥範又奏請自文明元年以後得罪人,除揚、豫、博三州及諸謀逆魁首,一切赦之。表疏前後十奏,辭旨激切,至是方見允納。彥範凡所奏議,若逢人主詰責,則辭色無懼,爭之愈厲。又嚐謂所親曰:「今既躬爲大理,人命所懸,必不能順旨詭辭,以求苟免。」

この年の冬、則天が病に伏した。張易之と弟の昌宗が内閣に入って侍疾し、ひそかに逆乱を図った。鳳閣侍郎張柬之が桓彦範および中台右丞敬暉らと策を立てて彼らを誅殺しようとした。柬之は急いで彦範と暉をともに左右羽林将軍に引き抜き、禁兵を委ねて、ともにその事を図った。時に皇太子は毎度北門で起居しており、彦範と暉はこれによって謁見することができ、密かにその計画を陳べた。太子はこれに従った。神龍元年正月、彦範は敬暉および左羽林将軍李湛・李多祚・右羽林将軍楊元琰・左威衛将軍薛思行らと、左右羽林兵および千騎五百余人を率いて宮中で易之・昌宗を討ち、李湛・李多祚に命じて東宮に赴き皇太子を迎えさせた。兵が玄武門に至ると、彦範らは太子を奉じて門を斬って入り、兵士が大いに騒いだ。時に則天は迎仙宮の集仙殿にいた。易之・昌宗を廊下で斬り、またその邸宅で兄の汴州刺史昌期・司礼少卿同休を斬り、ともに首を天津橋の南に梟した。士庶でこれを見た者は、歓呼して互いに賀さない者はなく、ある者はその肉を切り刻み、一晩でことごとく尽きた。翌日、太子が即位した。彦範は功により銀青光禄大夫を加えられ、納言に拝され、勲は上柱国を賜り、譙郡公に封ぜられ、実封五百戸を賜った。また侍中に改められた。新令に従ったのである。

原文是歲冬,則天不豫。張易之與弟昌宗入閣侍疾,潛圖逆亂。鳳閣侍郎張柬之與桓彥範及中台右丞敬暉等建策將誅之。柬之遽引彥範及暉並爲左右羽林將軍,委以禁兵,共圖其事。時皇太子每於北門起居,彥範與暉因得謁見,密陳其計,太子從之。神龍元年正月,彥範與敬暉及左羽林將軍李湛、李多祚、右羽林將軍楊元琰、左威衛將軍薛思行等,率左右羽林兵及千騎五百餘人討易之、昌宗於宮中,令李湛、李多祚就東宮迎皇太子。兵至玄武門,彥範等奉太子斬關而入,兵士大噪。時則天在迎仙宮之集仙殿。斬易之、昌宗於廓下,並就第斬其兄汴州刺史昌期、司禮少卿同休,並梟首於天津橋南。士庶見者,莫不歡叫相賀,或臠割其肉,一夕都盡。明日,太子即位,彥範以功加銀青光祿大夫,拜納言,賜勳上柱國,封譙郡公,賜實封五百戶。又改爲侍中,從新令也。

彦範はかつて時政について数条を論じた表を上奏した。その大略は次のようである。「昔、孔子が『詩』を論じて『関雎』を始めとしたのは、后妃は人倫の根本であり、治乱の端緒であるからである。故に皇・英が降りて虞の道が興り、任・姒が帰して姫宗が盛んになった。桀は南巢に奔り、妹喜が禍の階となり、魯桓公は国を滅ぼされ、斉の媛に惑わされた。伏して見るに、陛下が毎度臨朝して政を聴かれる時、皇后は必ず帷幔を施して殿上に坐し、政事を預かって聞いておられる。臣の愚見、歴代の君主を選び、往代を詳しく求めると、帝王で婦人と謀って政に及んだ者は、国を破り身を亡ぼさず、車が転覆して道に続く者はなかった。かつ陰が陽に乗るのは天に背き、婦が夫を凌ぐのは人に背く。天に背けば不祥であり、人に背けば不義である。これによって古人は『牝鶏の晨、惟だ家の索むる』と譬えた。『易』に曰く『遂ぐる所無く、中饋に在り』。婦人は国政に預かるべからざることを言うのである。伏して願わくは、陛下に古人之言を覧り、古人之意を察し、上は社稷を重んじ、下は蒼生を念う。宜しく皇后に正殿に往きて外朝に干渉せず、専ら中宮に在り、陰教を修めることを令すべきである。そうすれば坤儀は固く、鼎命は永くあらん。」

原文彥範嘗表論時政數條,其大略曰:「昔孔子論《詩》以《關雎》爲始,言后妃者人倫之本,理亂之端也。故皇、英降而虞道興,任、姒歸而姬宗盛。桀奔南巢,禍階妹喜,魯桓滅國,惑以齊媛。伏見陛下每臨朝聽政,皇后必施帷幔坐於殿上,預聞政事。臣愚曆選列辟,詳求往代,帝王有與婦人謀及政者,莫不破國亡身,傾輈繼路。且以陰乘陽,違天也,以婦淩夫,違人也。違天不祥,違人不義。由是古人譬以『牝雞之晨,惟家之索。』《易》曰『無攸遂,在中饋』,言婦人不得預於國政也。伏願陛下覽古人之言,察古人之意,上以社稷爲重,下以蒼生在念。宜令皇后無往正殿干預外朝,專在中宮,聿修陰教,則坤儀式固,鼎命惟永。」

また言うには、「臣は聞く、京師では喧喧として、道路では籍籍として、皆、胡僧慧範が仏教を仮託し、后妃を詭惑したため、禁闈に出入りし、時政を撓乱することができたと言う。陛下はまた軽騎で微行し、しばしばその室に幸し、上下媟黷して、尊厳を損なっている。臣はかつて聞く、化を興し理を致すには、必ず善を進めるによる。国を康らかに人を寧んずるには、悪を棄てるより大なるはない。故に孔子は言う。『左道を執って政を乱す者は殺し、鬼神を仮りて人を危うくする者は殺す。』と。今、慧範の罪はこれと異ならない。もし急いで誅さなければ、必ず変乱を生じるであろう。悪を除くには本を務め、邪を去るには疑うなかれ。実に天聴が早く裁貶を加えられることを願う。」疏を奏上したが聞き入れられなかった。時に墨勅により方術人鄭普思を秘書監に、葉浄能を国子祭酒に授けたが、彦範は苦言してその不可を説いた。帝は言った。「すでに用いようとする以上、すぐに止めることはできない。」彦範はまた対して言った。「陛下が龍飛して宝位に即かれて以来、急いで制を下され、『軍国の政化は、皆、貞観の故事に依る』と。昔、貞観中に魏徴・虞世南・顔師古を秘書監とし、孔穎達を国子祭酒としたことがある。普思らは方伎の庸流に至っては、どうして前の功績に比肩することができようか。臣は恐れる、物議が陛下が官に才を択ばず、濫りに天秩を私愛に加えると言うことを。どうか陛下に少し慎んで択ばれることを願う。」帝はついに聞き入れなかった。

原文又曰:「臣聞京師喧喧,道路籍籍,皆云胡僧慧範矯托佛教,詭惑后妃,故得出入禁闈,撓亂時政。陛下又輕騎微行,數幸其室,上下媟黷,有虧尊嚴。臣抑嚐聞興化致理,必由進善;康國寧人,莫大棄惡。故孔子曰:『執左道以亂政者殺,假鬼神以危人者殺。』今慧範之罪,不殊於此也。若不急誅,必生變亂。除惡務本,去邪勿疑,實願天聰,早加裁貶。」疏奏不納。時有墨敕授方術人鄭普思秘書監,葉淨能國子祭酒,彥範苦言其不可。帝曰:「既要用之,無容便止。」彥範又對曰:「陛下自龍飛寶位,遽下製云:『軍國政化,皆依貞觀故事。』昔貞觀中嚐以魏徵、虞世南、顏師古爲秘書監,孔穎達爲國子祭酒。至如普思等是方伎庸流,豈足以比蹤前烈?臣恐物議謂陛下官不擇才,濫以天秩加於私愛。惟陛下少加慎擇。」帝竟不納。

時に韋皇后既に朝政を幹き、德靜郡王武三思又中に居て用事し、則天が彦範等に廢せられしを以て、常に深く憤怨し、又彦範等の漸く武氏を除かんことを慮り、乃ち先づ事を圖りて之を謀る。皇后韋氏既に雅く帝の信寵せらるる所となり、言ふこと從はざるなく、三思又韋氏に私通す、乃ち日夕に彦範等を讒毀す。帝竟に三思の計を用ひ、彦範を扶陽郡王に進封し、敬暉を平陽郡王に、張柬之を漢陽郡王に、崔玄暐を博陵郡王に、袁恕己を南陽郡王に封じ、並びに特進を加へ、政事を知るを罷めしむ。彦範仍て姓を韋氏と賜ひ、皇后と同じく屬籍せしめ、仍て雜彩・錦繡・金銀・鞍馬等を賜ふ。外は優崇を示すと雖も、而して實に其の權を奪へり。易州刺史趙履溫は、即ち彦範の妻兄なり。彦範易之を誅したる後、奏言して先づ履溫と共に其の事を謀れりとす、是に於て召して司農少卿に拜す。履溫之に德し、乃ち二婢を以て彦範に遺す。彦範の政事を知るを罷むるに及び、履溫又其の婢を協奪し、大いに時論の譏る所と爲る。尋で洺州刺史に出で、濠州刺史に轉ず。

原文時韋皇后既幹朝政,德靜郡王武三思又居中用事,以則天爲彥範等所廢,常深憤怨,又慮彥範等漸除武氏,乃先事圖之。皇后韋氏既雅爲帝所信寵,言無不從,三思又私通於韋氏,乃日夕讒毀彥範等。帝竟用三思計,進封彥範爲扶陽郡王、敬暉爲平陽郡五、張柬之爲漢陽郡五、崔玄暐爲博陵郡王、袁恕己爲南陽郡王,並加特進,令罷知政事。彥範仍賜姓韋氏,令與皇后同屬籍,仍賜雜彩、錦繡、金銀、鞍馬等。雖外示優崇,而實奪其權也。易州刺史趙履溫者,即彥範之妻兄也。彥範誅易之後,奏言先與履溫共謀其事,於是召拜司農少卿。履溫德之,乃以二婢遺彥範。及彥範罷知政事,履溫又協奪其婢,大爲時論所譏。尋出爲洺州刺史,轉濠州刺史。

二年、光祿卿・駙馬都尉王同皎、武三思の韋氏と奸通するを以て、潛かに之を誅せんと謀る。事泄れ、三思の誣構する所と爲り、同皎將に皇后韋氏を廢せんとし、彦範等其の情を知るを言ふ。乃ち彦範を瀧州司馬に貶し、敬暉を崖州司馬に、袁恕己を竇州司馬に、崔玄暐を白州司馬に、張柬之を新州司馬に貶し、並びに仍て長任を令し、勳封並びに削る。彦範仍て其の本姓桓氏に復す。

原文二年,光祿卿、駙馬都尉王同皎以武三思與韋氏奸通,潛謀誅之。事泄,爲三思誣構,言同皎將廢皇后韋氏,彥範等通知其情。乃貶彥範爲瀧州司馬、敬暉崖州司馬、袁恕己竇州司馬、崔玄暐白州司馬、張柬之新州司馬,並仍令長任,勳封並削。彥範仍復其本姓桓氏。

是の歲秋、武三思又陰に人をして皇后の穢行を疏し、天津橋に榜し、加へて廢黜せんことを請はしむ。中宗之を聞きて怒り、御史大夫李承嘉に命じて其の人を推求せしむ。承嘉三思の旨に希ひ、奏言して「彦範と敬暉・張柬之・袁恕己・崔玄暐等、人を教へ密かに此の榜を爲す。廢後を托するを名と爲すと雖も、實に君を危くせんとするの計有り、請ふらくは族滅を加へよ」と。製して承嘉の奏する所に依る。大理丞李朝隱執奏して云く「敬暉等既に鞠問を經ざれば、即ち誅夷を肆ふべからず。請ふらくは御史を差して罪を按じ、至るを待ちて、法に準ひて處分せよ」と。大理卿裴談奏して云く「敬暉等は隻に敕に據りて斷罪すべく、別に推鞫を俟つべからず、請ふらくは並びに斬り籍没せよ」と。中宗其の議を納れ、仍て彦範等五人嘗て鐵券を賜はり、以て死せずを許されたるを以て、乃ち彦範を州に長流し、敬暉を崖州に、張柬之を瀧州に、袁恕己を環州に、崔玄暐を古州に長流し、並びに終身禁錮し、子弟年十六已上の者も亦嶺外に配流す。承嘉を擢授して金紫光祿大夫と爲し、進めて襄武郡公に封ず。韋氏又特に承嘉に彩物五百段・端錦被一張を賜ふ。裴談を擢拜して刑部尚書と爲し、李朝隱を左貶して聞喜令と爲す。三思俄に又節湣太子を諷して表を抗し彦範等の三族を夷せんことを請はしむ。中宗既に前命有るを以て、其の請に依らざるも、三思猶彦範等の重ねて進用せらるるを慮り、又中書舍人崔湜の計を納れ、特に湜の姨兄嘉州司馬周利貞をして右台侍御史を攝らしめ、就きて嶺外に並びに製を矯て之を殺さしむ。彦範流所に赴き、貴州に行き至る、利貞途に於て之に遇ひ、乃ち左右をして執縛せしめ、竹槎の上に曳き、肉盡きて骨に至り、然る後に杖殺す、時に年五十四。

原文是歲秋,武三思又陰令人疏皇后穢行,榜於天津橋,請加廢黜。中宗聞之怒,命御史大夫李承嘉推求其人。承嘉希三思旨,奏言:「彥範與敬暉、張柬之、袁恕己、崔玄暐等教人密爲此榜。雖托廢後爲名,實有危君之計,請加族滅。」製依承嘉所奏。大理丞李朝隱執奏云:「敬暉等既未經鞫問,不可即肆誅夷。請差御史按罪,待至,準法處分。」大理卿裴談奏云:「敬暉等隻合據敕斷罪,不可別俟推鞫,請並處斬籍沒。」中宗納其議,仍以彥範等五人嚐賜鐵券,許以不死,乃長流彥範於州,敬暉於崖州,張柬之於瀧州,袁恕己於環州,崔玄暐於古州,並終身禁錮,子弟年十六已上者亦配流嶺外。擢授承嘉金紫光祿大夫,進封襄武郡公。韋氏又特賜承嘉彩物五百段、端錦被一張。擢拜裴談爲刑部尚書,左貶李朝隱爲聞喜令。三思俄又諷節湣太子抗表請夷彥範等三族。中宗以既有前命,不依其請。三思猶慮彥範等重被進用,又納中書舍人崔湜之計,特令湜姨兄嘉州司馬周利貞攝右台侍御史,就嶺外並矯製殺之。彥範赴流所,行至貴州,利貞遇之於途,乃令左右執縛,曳於竹槎之上,肉盡至骨,然後杖殺,時年五十四。

睿宗即位し、延和元年、並びに其の官爵を追復し、仍て特に其の子孫の實封二百戶を還す。玄宗即位し、開元六年、詔して曰く「皇輿肇建するには必ず輔佐の臣有り;天步多艱なれば、爰に經綸の業を仗る。故侍中・譙國公桓彦範、侍中・平陽郡公敬暉、中書令兼吏部尚書・漢陽郡公張柬之、特進・博陵郡公崔玄暐、中書令・南陽郡公袁恕己等は、並びに德は惟れ神降り、材は運と與に生れ、道は台嶽に協ひ、名は讖緯に書かる。帝載を寅亮し、王家に勤勞し、禹を復するの元謀に參じ、唐を升するの景命を奉ず。殂謝既に久しと雖も、而して勳烈益々彰はれ、彝鼎を撫でて功を念ひ、旂常を想ひて感を增す。故實を緬遵し、用ひて徽懿を表し、俾ち清廟に列し、明堂に登らしめ、克く從祀の儀を申し、式に疇庸の典を茂くすべし。並びに中宗孝和皇帝廟庭に配享すべく、其の子北鹹加收擢せよ」と。建中元年、重ねて司徒しとを贈る。

原文睿宗即位,延和元年,並追復其官爵,仍特還其子孫實封二百戶。玄宗即位,開元六年,詔曰:「 皇輿肇建必有輔佐之臣;天步多艱,爰仗經綸之業。故侍中、譙國公桓彥範,侍中、平陽郡公敬暉,中書令兼吏部尚書、漢陽郡公張柬之,特進、博陵郡公崔玄暐,中書令、南陽郡公袁恕己等,並德惟神降,材與運生,道協台嶽,名書讖緯。寅亮帝載,勤勞王家,參復禹之元謀,奉升唐之景命。雖殂謝既久,而勳烈益彰,撫彝鼎以念功,想旂常而增感。緬遵故實,用表徽懿,俾列在清廟,登於明堂,克申從祀之儀,式茂疇庸之典。並可配享中宗孝和皇帝廟庭,其子北鹹加收擢。」建中元年,重贈司徒。

敬暉

原文敬暉

敬暉は、絳州太平の人なり。弱冠にして明經に舉る。聖曆初、累を除して衛州刺史と爲る。時に河北新に突厥の寇有り、方に秋にして而して城を修して輟まず、暉下車して謂ひて曰く「金湯は粟なくして守らず、豈に收穫を棄てて城郭を繕ふこと有らんや」と。悉く罷散せしむ、是に由りて人吏鹹く歌詠す。再び遷りて夏官侍郎と爲り、出でて泰州刺史と爲る。大足元年、遷りて洛州長史と爲る。天後長安に幸し、暉をして副留守事を知らしむ。職に在りて清幹を以て聞こえ、璽書を以て勞勉し、物百段を賜ふ。長安三年、拜して中台右丞と爲り、銀青光祿大夫を加ふ。

原文敬暉,絳州太平人也。弱冠舉明經。聖曆初,累除衛州刺史。時河北新有突厥之寇,方秋而而修城不輟,暉下車謂曰:「金湯非粟而不守,豈有棄收獲而繕城郭哉?」悉令罷散,由是人吏鹹歌詠之。再遷夏官侍郎,出爲泰州刺史。大足元年,遷洛州長史。天後幸長安,令暉知副留守事。在職以清幹著聞;璽書勞勉,賜物百段。長安三年,拜中台右丞,加銀青光祿大夫。

神龍元年、轉じて右羽林將軍と爲る。張易之・昌宗を誅するの功を以て、金紫光祿大夫を加へ、擢拜して侍中と爲り、爵を平陽郡公に賜ひ、實封五百戶を食む。尋で進みて齊國公に封ぜらる。天後崩じ、遺製に實封を加へて通前滿七百戶と爲す。暉等唐室の中興を以て、武氏諸王咸宜しく爵を降すべしとし、上章して論奏す、是に於て諸武公に降る。武三思益々怒り、乃ち帝を諷して陽に暉等を尊び郡王と爲し、政事を知るを罷む。仍て鐵券を賜ひ、十死を恕し、朔望に趨朝せしむ。

原文神龍元年,轉右羽林將軍。以誅張易之、昌宗功,加金紫光祿大夫,擢拜侍中,賜爵平陽郡公,食實封五百戶。尋進封齊國公。天後崩,遺製加實封通前滿七百戶。暉等以唐室中興,武氏諸王咸宜降爵,上章論奏,於是諸武降爲公。武三思益怒,乃諷帝陽尊暉等爲郡王,罷知政事。仍賜鐵券,恕十死,朔望趨朝。

初め、暉彦範等と張易之兄弟を誅せし時、洛州長史薛季昶暉に謂ひて曰く「二凶は除かるると雖も、産・祿猶ほ在り。兵勢に因りて武三思の屬を誅し、王室を匡正し、以て天下を安んぜんことを請ふ」と。暉張柬之と屢陳して不可とし、乃ち止む。季昶歎じて曰く「吾死する所を知らず」と。翌日、三思韋後の助に因り、潛かに宮中に入り、内に相事を行ひ、國政を反易し、天下の患と爲る、時議此を以て咎を暉に歸す。暉等既に政柄を失ひ、三思に制せられ、暉每に床を推して嗟惋し、或は指を彈じて血を出す。柬之歎じて曰く「主上疇昔英王と爲りし時、素より勇烈と稱す、吾諸武を留むるは、冀くは自ら誅鋤せんことを耳。今事勢已に去り、復た何の道を知らんや」と。

原文初,暉與彥範等誅張易之兄弟也,洛州長史薛季昶謂暉曰:「二凶雖除,產、祿猶在。請因兵勢誅武三思之屬,匡正王室,以安天下。」暉與張柬之屢陳不可,乃止。季昶歎曰:「吾不知死所矣。」翌日,三思因韋後之助,潛入宮中,內行相事,反易國政,爲天下所患,時議以此歸咎於暉。暉等既失政柄,受製於三思,暉每推床嗟惋,或彈指出血。柬之歎曰:「主上疇昔爲英王時,素稱勇烈,吾留諸武,冀自誅鋤耳。今事勢已去,知復何道。」

三思は既に深く憤り嘆き、許州司功参軍の鄭愔が元来暉らに廃黜されたことを以て、因みに上表して其の罪状を陳述せしむ。中宗詔して曰く、「則天大聖皇后、往時憂労に因り不豫にて、凶豎権を弄ぶ。暉等は因り甲兵を興し、妖孽を鏟除す。朕其の労効を録し、寵労を極めて備ふ。自ら勳は一時に高しと謂ひ、遂に権を四海に傾けんと欲し、威福を擅に作り、国章を軽侮し、道に悖り義を棄つること、斯れより甚しきは莫し。然れども其の薄効を収め、猶ほ隠忍と為し、其に郡王の重きを錫し、特進の栄を以て優ふ。謂はざりき、溪壑の志は殊に盈満し難く、既に大権を失ひ、多く怨望を懐く。乃ち王同皎と内禁を窺覘し、潜かに相謀り結び、更に権兵を絳闕にし、椒宮を廃せんと図る。険跡醜辞、視を驚かし聴を駭かす。属に帝図始めて啓くに、務めて狴牢を静めんとす。以て久しく含容と為し、未だ能く諸を遐邇に暴せず。同皎の法に伏してより、釁跡弥に彰る。倘し其の発明無くんば、何を以て茲の悖乱を懲せん。其の巨逆を跡づくれば、合せて厳誅を置くべし。縁に其の昔微功を立てしを以て、所以に特に寛宥に従ふ。咸しく宜しく貶降し、出でて遐藩に佐くべし。暉は崖州司馬とすべく、柬之は新州司馬とすべく、恕己は竇州司馬とすべく、玄暐は白州司馬とすべく、並びに員外に置く」と。暉崖州に到り、竟に周利貞に殺さる。睿宗即位し、五王の官爵を追復し、暉に秦州都督ととくを贈り、諡して肅湣と曰ふ。建中初、重ねて太尉を贈る。

原文三思既深憤惋,以許州司功參軍鄭愔素被暉等廢黜,因令上表陳其罪狀。中宗詔曰:「則天大聖皇后,往以憂勞不豫,凶豎弄權。暉等因興甲兵,鏟除妖孽,朕錄其勞效,備極寵勞。自謂勳高一時,遂欲權傾四海,擅作威福,輕侮國章,悖道棄義,莫斯之甚。然收其薄效,猶爲隱忍,錫其郡王之重,優以特進之榮。不謂溪壑之誌,殊難盈滿,既失大權,多懷怨望。乃與王同皎窺覘內禁,潛相謀結,更欲權兵絳闕,圖廢椒宮,險跡醜辭,驚視駭聽。屬以帝圖伊始,務靜狴牢,所以久爲含容,未能暴諸遐邇。自同皎伏法,釁跡彌彰,倘若無其發明,何以懲茲悖亂?跡其巨逆,合置嚴誅。緣其昔立微功,所以特從寬宥,咸宜貶降,出佐遐藩。暉可崖州司馬,柬之可新州司馬,恕己可竇州司馬,玄暐可白州司馬,並員外置。」暉到崖州,竟爲周利貞所殺。睿宗即位,追復五王官爵,贈暉秦州都督,諡曰肅湣。建中初,重贈太尉。

曾孫元膺、開成三年、試みの太子通事舍人より河南県丞となる。

原文曾孫元膺,開成三年,自試太子通事舍人爲河南縣丞。

崔玄暐

原文崔玄暐

崔玄暐は、博陵安平の人なり。父行謹、胡蘇令と為る。本名は曄、字の下体に則天の祖諱有り、乃ち玄暐と改む。少くして学行有り、深く叔父秘書監行功に器重せらる。龍朔中、明経に挙げられ、累ねて庫部員外郎を補す。其の母盧氏嘗て之を誡めて曰く、「吾れ姨兄屯田郎中辛玄馭の云ふを見るに、『兒子宦に従ふ者、人来りて貧乏して存すること能はずと云ふは、此れ是好消息なり。若し貲貨充足し、衣馬軽肥と聞くは、此れ悪消息なり』と。吾れ常に此言を重んじ、確論と為す。比に親表中仕宦する者を見るに、多く錢物を将て其の父母に上る。父母但だ喜悦を知るのみにて、竟に此の物何れの所より来るかを問はず。必ず是れ祿俸の餘資ならば、誠に亦善事なり。其の如く非理に得たるは、此れ盗賊と何の別か有らん。縦ひ大咎無くとも、独り内に心に愧ぢざらんや。孟母魚鮓の饋を受ざるは、蓋し此れの為なり。汝今祿俸に坐して食らふ、榮幸已に多し。若し其れ忠清なること能はざれば、何を以て天を戴き地を履まん。孔子云く、『日に三性の養を殺すと雖も、猶ほ不孝と為す』と。又曰く、『父母は唯其の疾を之れ憂ふ』と。宜しく身を修め已を潔くし、吾が此の意を累はすこと勿れ」と。玄暐母氏の教誡を遵奉し、清謹を以て称せらる。尋で天宮郎中を授けられ、鳳閣舍人に遷る。

原文崔玄暐,博陵安平人也。父行謹,爲胡蘇令。本名曄,以字下體有則天祖諱,乃改爲玄暐。少有學行,深爲叔父秘書監行功所器重。龍朔中,舉明經,累補庫部員外郎。其母盧氏嚐誡之曰:「吾見姨兄屯田郎中辛玄馭云:『兒子從宦者,有人來雲貧乏不能存,此是好消息。若聞貲貨充足,衣馬輕肥,此惡消息。』吾常重此言,以爲確論。比見親表中仕宦者,多將錢物上其父母,父母但知喜悅,竟不問此物從何而來。必是祿俸餘資,誠亦善事。如其非理所得,此與盜賊何別?縱無大咎,獨不內愧於心?孟母不受魚鮓之饋,蓋爲此也。汝今坐食祿俸,榮幸已多,若其不能忠清,何以戴天履地?孔子云:『雖日殺三性之養,猶爲不孝。』又曰:『父母惟其疾之憂。』持宜修身潔已,勿累吾此意也。」玄暐遵奉母氏教誡,以清謹見稱。尋授天宮郎中,遷鳳閣舍人。

長安元年、超拜して天官侍郎と為る。毎に介然自ら守り、請謁を都て絶ち、頗る執政者に忌まる。転じて文昌左丞と為る。月餘を経て、則天謂ひて曰く、「卿の職を改めて以来、選司大いに罪過有り。或ひは令史乃ち齋を設けて自ら慶ぶと聞く。此れ盛んに貪悪を為さんと欲するのみ。今卿を要して旧任に復せしむ」と。又た天官侍郎を除し、雜彩七十段を賜ふ。三年、鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事に拜し、太子左庶子を兼ぬ。四年、鳳閣侍郎に遷り、銀青光祿大夫を加へ、仍舊として政事を知る。先づ是れ、来俊臣・周興等良善を誣陷し、爵賞を冀図し、因縁して籍没する者数百家。玄暐固より其の枉状を陳す。則天乃ち感悟し、鹹く雪免に従ふ。

原文長安元年,超拜天官侍郎。每介然自守,都絶請謁,頗爲執政者所忌。轉文昌左丞。經月餘,則天謂曰:「自卿改職以來,選司大有罪過。或聞令史乃設齋自慶,此欲盛爲貪惡耳。今要卿復舊任。」又除天官侍郎,賜雜彩七十段。三年,拜鸞台侍郎、同鳳閣鸞台平章事,兼太子左庶子。四年,遷鳳閣侍郎,加銀青光祿大夫,仍依舊知政事。先是,來俊臣、周興等誣陷良善,冀圖爵賞,因緣籍沒者數百家。玄暐固陳其枉狀,則天乃感悟,鹹從雪免。

則天の季年、宋璟張昌宗の不軌を謀るを劾奏す。玄暐亦た屡に讜言有り。則天乃ち法司に令して其の罪を正断せしむ。玄暐の弟升時に司刑少卿と為り、又た大辟を置くを請ふ。其の兄弟の正を守ること此の如し。是の時、則天不豫にて、宰相召見を得ざること累月。疾少く間あるに及び、玄暐奏言して曰く、「皇太子・相王仁明孝友、足らく以て親しく湯藥に侍すべし。宮禁事重し、伏して願はくは異姓の出入を令さざらんことを」と。則天曰く、「深く卿が厚意を領す」と。尋で張易之を誅するに預かりし功を以て、擢拜して中書令と為り、博陵郡公に封ぜらる。中宗将に方術人鄭普思を秘書監に授けんとす。玄暐切に諫む。竟に納れず。尋で爵を進めて王と為し、実封四百戸を賜ひ、益州大都督府長史を検校し、都督事を知るを兼ぬ。其の後累貶せられ、白州司馬を授けらる。道に在りて病卒す。建中初、太子太師を贈る。

原文則天季年,宋璟劾奏張昌宗謀爲不軌,玄暐亦屢有讜言,則天乃令法司正斷其罪。玄暐弟升時爲司刑少卿,又請置以大辟。其兄弟守正如此。是時,則天不豫,宰相不得召見者累月。及疾少間,玄暐奏言:「皇太子、相王仁明孝友,足可親侍湯藥。宮禁事重,伏願不令異姓出入。」則天曰:「深領卿厚意。」尋以預誅張易之功,擢拜中書令,封博陵郡公。中宗將授方術人鄭普思爲秘書監,玄暐切諫,竟不納。尋進爵爲王,賜實封四百戶,檢校益州大都督府長史,兼知都督事。其後被累貶,授白州司馬,在道病卒。建中初,贈太子太師。

玄暐は弟升と甚だ相友愛す。諸子弟孤貧なる者、多く躬自撫養教授し、頗る當時に称せらる。升は官至り尚書左丞。玄暐少時頗る詩賦に属す。晚年以て己が長とせざる所と為し、乃ち復た構思せず、唯だ經籍に志を篤くし、述作を事と為す。撰する所《行己要範》十卷、《友義傳》十卷、《義士傳》十五卷、訓注《文館辭林策》二十卷、並びに代に行はる。

原文玄暐與弟升甚相友愛。諸子弟孤貧者,多躬自撫養教授,頗爲當時所稱。升,官至尚書左丞。玄暐少時頗屬詩賦,晚年以爲非己所長,乃不復構思,唯篤誌經籍,述作爲事。所撰《行己要範》十卷、《友義傳》十卷、《義士傳》十五卷、訓注《文館辭林策》二十卷,並行於代。

子璩、頗る文學を以て知名、官歴中書舍人・禮部侍郎。璩の子渙、自ら傳有り。

原文子璩,頗以文學知名,官曆中書舍人、禮部侍郎。璩子渙,自有傳。

曾孫郢、開成三年、商州防禦判官兼殿中侍御史より、入りて監察御史と為る。

原文曾孫郢,開成三年,自商州防禦判官兼殿中侍御史,入爲監察御史。

張柬之

原文張柬之

張柬之、字は孟將、襄州襄陽の人なり。少くして太學生を補し、經史に涉獵し、尤よ《三禮》を好む。國子祭酒令狐德棻甚だ之を重んず。進士擢第し、累ねて青城丞を補す。永昌元年、賢良を以て征試せられ、同時に策する者千餘人、柬之獨り當時第一と為り、擢拜して監察御史と為る。

原文張柬之,字孟將,襄州襄陽人也。少補太學生,涉獵經史,尤好《三禮》,國子祭酒令狐德棻甚重之。進士擢第,累補青城丞。永昌元年,以賢良征試,同時策者千餘人,柬之獨爲當時第一,擢拜監察御史。

聖曆初、累遷して鳳閣舍人と為る。時弘文館直學士王元感著論して云く、「三年の喪は、合せて三十六月なり」と。柬之著論して之を駁して曰く、

原文聖曆初,累遷鳳閣舍人。時弘文館直學士王元感著論云:「三年之喪,合三十六月。」柬之著論駁之曰:

三年の喪は二十五月、改めることなき典である。謹んで『春秋』を案ずるに、「魯の僖公三十三年十二月乙巳、公薨ず。」「文公二年冬、公子遂斉に如きて幣を納る。」とある。『左傳』に「礼なり」と曰う。杜預の注に云う、「僖公の喪はこの年の十一月に終わり、幣を納るは十二月に在り。士の婚禮、納采・納徵には、皆玄纁束帛有り、諸侯は則ちこれを納幣と謂う。蓋し公は太子たり、既に婚禮を行えり」と。故に『傳』は礼なりと称するなり。『公羊傳』に曰う、「幣を納るは書せず、此れ何を以てか書す。喪に娶るを譏るなり。三年の外に在るに何を以てか譏る。三年の内には婚を図らず」と。何休の注に云う、「僖公は十二月を以て薨ず、この冬に至るまで未だ二十五月に満たず、納采・問名・納吉は、皆三年の内に在り、故に譏るなり」と。何休は公十二月に薨ず、この冬十二月に至って纔かに二十四月、二十五月に非ず、是れ未だ三年ならずして婚を図るなりとす。按ずるに『經』に「十二月乙巳公薨ず」と書す。杜預は『長曆』を以て推すに、乙巳は十一月十二日、十二月に非ず、十二月と書すは、是れ『經』の誤りなり。「文公元年四月、我が君僖公を葬る」と、『傳』に曰う、緩なりと。諸侯は五月にして葬る、若し十二月に薨ずれば、即ち是れ五月、緩なりと謂うべからず。明らかに十一月に薨ずるを知る。故に注に僖公の喪はこの年に終わり、十二月に至って二十五月に満つとす。故に丘明の『傳』に曰う、礼なりと。此れに拠りて推歩すれば、杜の考校は、豈に公羊の能く逮うる所ならんや、況んや丘明は親しく『經』を仲尼に受けたるをや。且つ二『傳』何・杜の争う所は、唯だ一月を争い、一年を争わず。其の二十五月にして喪を除くは、由来別無し。此れ則ち『春秋』三年の喪、二十五月の明驗なり。

原文三年之喪,二十五月,不刊之典也。謹案《春秋》:「魯僖公三十三年十二月乙巳,公薨。」「文公二年冬,公子遂如齊納幣。」《左傳》曰「禮也。」杜預注云:「僖公喪終此年十一月,納幣在十二月。士婚禮,納采納徵,皆有玄纁束帛,諸侯則謂之納幣。蓋公爲太子,已行婚禮。」故《傳》稱禮也。《公羊傳》曰:「 納幣不書,此何以書?譏喪娶。在三年之外何以譏?三年之內不圖婚。」何休注云:「僖公以十二月薨,至此冬未滿二十五月,納采、問名、納吉,皆在三年之內,故譏。」何休以公十二月薨,至此冬十二月才二十四月,非二十五月,是未三年而圖婚也。按《經》書「十二月乙巳公薨」,杜預以《長曆》推乙巳是十一月十二日,非十二月,書十二月,是《經》誤。「文公元年四月,葬我君僖公」,《傳》曰,緩也。諸侯五月而葬,若是十二月薨,即是五月,不得言緩。明知是十一月薨,故注僖公喪終此年,至十二月而滿二十五月,故丘明《傳》曰,禮也。據此推步,杜之考校,豈公羊之所能逮,況丘明親受《經》於仲尼乎?且二《傳》何、杜所爭,唯爭一月,不爭一年。其二十五月除喪,由來無別。此則《春秋》三年之喪,二十五月之明驗也。

『尚書・伊訓』に云う、「成湯既に没し、太甲元年、惟れ元祀十有二月、伊尹先王に祀り、嗣王を奉じて厥の祖を祗見す」と。孔安國の注に云う、「湯は元年十一月を以て崩ず」と。此れに拠れば、則ち二年十一月小祥、三年十一月大祥なり。故に『太甲』中篇に云う、「惟れ三祀十有二月朔、伊尹冕服を以て嗣王を奉じて亳に帰る」と。是れ十一月大祥、訖りて十二月朔日に、王の冕服を加えて吉として亳に帰るなり。是れ孔の言う「湯元年十一月」の明驗なり。『顧命』に云う、「四月哉生魄、王懌せず」と、是れ四月十六日なり。「翌日乙丑、王崩ず」と、是れ十七日なり。「丁卯、冊を作るを命ず」と、是れ十九日なり。「越えて七日癸酉、伯相材を須うるを士に命ず」と、是れ四月二十五日なり。則ち成王崩じて康王麻冕黼裳に至るまで、中間に十月有り、康王方に始めて廟を見る。則ち湯の崩ずるは十一月に在り、淹停して殮を訖え、方に始めて十二月、其の祖を祗見すを知る。『顧命』は廟を見て訖り、諸侯廟門を出でて俟つ。『伊訓』に「厥の祖を祗見し、侯甸群後鹹に在り」と言う。則ち崩ずる及び廟を見るは、殷・周の礼並びに同じ。此れ周の殷礼に因り、損益知るべし。元年以前に、別に一年有るべからず。此れ『尚書』三年の喪、二十五月の明驗なり。

原文《尚書·伊訓》云:「成湯既沒,太甲元年,惟元祀十有二月,伊尹祀於先王,奉嗣王祗見厥祖。」孔安國注云:「湯以元年十一月崩。」據此,則二年十一月小祥,三年十一月大祥。故《太甲》中篇云:「惟三祀十有二月朔,伊尹以冕服奉嗣王歸於亳。」是十一月大祥,訖十二月朔日,加王冕服吉而歸亳也。是孔言「湯元年十一月」之明驗。《顧命》云:「四月哉生魄,王不懌」,是四月十六日也。「翌日乙丑,王崩」,是十七日也。「丁卯,命作冊度」,是十九日也。「越七日癸酉,伯相命士須材」,是四月二十五日也。則成王崩至康王麻冕黼裳,中間有十月,康王方始見廟。則知湯崩在十一月,淹停至殮訖,方始十二月,祗見其祖。《顧命》見廟訖,諸侯出廟門俟,《伊訓》言「祗見厥祖,侯甸群後鹹在』,則崩及見廟,殷、周之禮並同。此周因於殷禮,損益可知也。不得元年以前,別有一年。此《尚書》三年之喪,二十五月之明驗也。

『禮記三年問』に云う、「三年の喪は、二十五月にして畢り、哀痛未だ盡きず、思慕未だ忘れず、然れども服を以て是れに断つ者は、豈に死を送るに已む有り、生に復するに節有らざらんや」と。又『喪服四製』に云う、「変じて宜きに従う、故に大祥には素琴を鼓し、人に終わるを告ぐ」と。又『間傳』に云う、「期にして小祥、菜果を食う。又期にして大祥、醯醬有り。中月にして禫、酒肉を食う」と。又『喪服小記』に云う、「再期の喪は、三年なり。期の喪は、二年なり。九月七月の喪は、三時なり。五月の喪は、二時なり。三月の喪は、一時なり」と。此れ『禮記』三年の喪、二十五月の明驗なり。

原文《禮記三年問》云:「三年之喪,二十五月而畢,哀痛未盡,思慕未忘,然而服以是斷之者,豈不送死有已,復生有節?」又《喪服四製》云:「變而從宜,故大祥鼓素琴,告人以終。」又《間傳》云:「期而小祥,食菜果。又期而大祥,有醯醬。中月而禫,食酒肉。」又《喪服小記》云:「再期之喪,三年也。期之喪,二年也。九月七月之喪,三時也。五月之喪,二時也。三月之喪,一時也。」此《禮記》三年之喪,二十五月之明驗也。

『儀禮士虞禮』に云う、「期にして小祥。又期にして大祥。中月にして禫、是の月吉祭す」と。此の礼は周公の製する所、則ち『儀禮』三年の喪、二十五月の明驗なり。

原文《儀禮士虞禮》云:「期而小祥。又期而大祥。中月而禫,是月也吉祭。」此禮周公所製,則《儀禮》三年之喪,二十五月之明驗也。

此の四驗は、並びに礼經の正文、或いは周公の製する所、或いは仲尼の述ぶる所、吾子豈に『禮記』戴聖の修むる所を以て、輒ち排毀せんと欲すべけんや。漢初高堂生『禮』を傳う、既に周備せず、宣帝の時少傅後蒼淹中孔壁の得る所の五十六篇に因りて『曲台記』を著し、以て弟子戴德・戴聖・慶溥の三人に授く。正經及び孫卿の述ぶる所に合するに、並びに相符會す。学官に列し、年代已久し。今端無く異論を構造す、既に依據無く、深く歎息すべし。其の二十五月は、先儒考校し、唯だ鄭康成『儀禮』の「中月にして禫」に注し、「中月は一月を間う、死より禫に至るまで凡そ二十七月」とす。又禫を解して云う、「澹澹然たる平安の意を言うなり」と。今皆二十七月にして常に復すは、鄭の議に従うなり。月を逾えて禫に入り、禫既に常に復すれば、則ち二十五月を以て喪を免るるとなす。二十五月・二十七月、其の議本同じ。

原文此四驗者,並禮經正文,或周公所製,或仲尼所述,吾子豈得以《禮記》戴聖所修,輒欲排毀?漢初高堂生傳《禮》,既未周備,宣帝時少傳後蒼因淹中孔壁所得五十六篇著《曲台記》,以授弟子戴德、戴聖、慶溥三人,合以正經及孫卿所述,並相符會。列於學官,年代已久。今無端構造異論,既無依據,深可歎息。其二十五月,先儒考校,唯鄭康成注《儀禮》「中月而禫」,以「中月間一月,自死至禫凡二十七月」。又解禫云:「言澹澹然平安之意也。」今皆二十七月復常,從鄭議也。逾月入禫,禫既復常,則二十五月爲免喪矣。二十五月、二十七月,其議本同。

窃かに子の父母に於ける喪は、終身の痛み有り、創巨なる者は日久しく、痛み深き者は愈遲し、豈徒に歳月のみならんや。故に練にして慨然たる者は、蓋し悲慕の懷未だ盡きず、而して踴擗の情已に歇むなり。祥にして廓然たる者は、蓋し哀傷の痛み已に除かれ、而して孤邈の念更に起るなり。此れ皆情の致す所、豈に外飾ならんや。故に『記』に曰う、三年の喪は、義隙を過ぐるに同じ、先王其の中製を立て、以て文理を成す。是を以て祥すれば則ち縞帶素紕、禫すれば則ち佩かざる所無し。今吾子將に情に徇いて禮を棄てんとす、實に乖僻なり。夫れ縗麻の服を棄て、錦縠の衣を襲うは、行道の人も皆忍びず、直に禮を以て之を節する、奈何すべからざるなり。故に由も過製して姉の服する能わず、鯉も過期して其の母を哭する能わず。夫れ豈に懷わざらんや、名教己を逼るを懼るるなり。若し孔・鄭・何・杜の徒は、並びに命代に挺生し、來裔を範模し、宮牆積仞、未だ易く窺うべからず。但だ鑽仰して休まず、當に漸く勝境に入るべく、詎んぞ終年矻矻として労し、虚しく莠言を肆うすべけんや。請う所有の先儒を掎擿するは、願く且つ時を以て消息せんことを。

原文竊以子之於父母喪也,有終身之痛,創巨者日久,痛深者愈遲,豈徒歲月而已乎?故練而慨然者,蓋悲慕之懷未盡,而踴擗之情已歇;祥而廓然者,蓋哀傷之痛已除,而孤邈之念更起。此皆情之所致,豈外飾哉。故《記》曰:三年之喪,義同過隙,先王立其中製,以成文理。是以祥則縞帶素紕,禫則無所不佩。今吾子將徇情棄禮,實爲乖僻。夫棄縗麻之服,襲錦縠之衣,行道之人,皆不忍也,直爲節之以禮,無可奈何。故由也不能過製爲姊服,鯉也不能過期哭其母。夫豈不懷,懼名教逼己也。若孔、鄭、何、杜之徒,並命代挺生,範模來裔,宮牆積仞,未易可窺。但鑽仰不休,當漸入勝境,詎勞終年矻矻,虛肆莠言?請所有掎擿先儒,願且以時消息。

時に人以て柬之の駁す所、頗る禮典に合すとす。

原文時人以柬之所駁,頗合於禮典。

是歳、突厥の默啜表を上りて言う、女有り請う和親すと。則天盛意を以て之を許し、淮陽郡王延秀をして之を娶らしめんと欲す。柬之奏して曰く、「古より天子夷狄の女を求めて娶り、以て中國の王に配する無し」と。表入り、頗る其の旨に忤う。神功初、出でて合州刺史と為り、尋いで転じて蜀しょく州刺史と為る。旧例、毎歳兵募五百人を差して姚州に往きて鎮守せしむ。路山險を越え、死者甚だ多し。柬之表を上りて其の弊を論じて曰く。

原文是歲,突厥默啜表言有女請和親,則天盛意許之,欲令淮陽郡王延秀娶之。柬之奏曰:「自古無天子求娶夷狄女以配中國王者。」表入,頗忤其旨。神功初,出爲合州刺史,尋轉蜀州刺史。舊例,每歲差兵募五百人往姚州鎮守,路越山險,死者甚多。柬之表論其弊曰:

臣がひそかに考えるに、姚州は、古の哀牢の旧国である。絶域の荒外にあり、山は高く水は深く、人が生まれて以来、後漢に至るまで、中国と交通しなかった。前漢の唐蒙が夜郎・滇・筰を開いたが、哀牢は服従しなかった。光武帝の末年になって初めて内属を請い、漢は永昌郡を置いてこれを統治し、その塩・布・毯・罽の税を収めて、中土の利とした。その国は西は大秦に通じ、南は交趾に通じ、奇珍異宝を進貢し、歳時欠かさなかった。劉備が巴蜀はしょくを占拠した時、常に甲兵が不足していた。劉備が死ぬと、諸葛亮は五月に瀘水を渡り、その金銀塩布を収めて軍儲を増し、張伯岐に命じてその精鋭の兵卒を選び武備を増強させた。故に『蜀志』は、亮の南征以後、国は富饒となり、甲兵充足すと称えている。これによって言えば、前代に郡を置いたのは、その利が頗る深かったのである。今や塩布の税は供せず、珍奇の貢は入らず、戈戟の用は戎行に実せず、宝貨の資は大国に輸せず、空しく府庫を竭き、平人を駆り率いて、蛮夷に役せられ、肝脳地に塗れている。臣はひそかに国家のため惜しむ。

原文臣竊按姚州者,古哀牢之舊國。絶域荒外,山高水深,自生人以來,洎於後漢,不與中國交通。前漢唐蒙開夜郎滇筰,而哀牢不附。至光武季年,始請內屬,漢置永昌郡以統理之,乃收其鹽布毯罽之稅,以利中土。其國西通大秦,南通交趾,奇珍異寶,進貢歲時不闕。劉備據有巴蜀,常以甲兵不充。及備死,諸葛亮五月渡瀘,收其金銀鹽布以益軍儲,使張伯岐選其勁卒搜兵以增武備。故《蜀志》稱自亮南征之後,國以富饒,甲兵充足。由此言之,則前代置郡,其利頗深。今鹽布之稅不供,珍奇之貢不入,戈戟之用不實於戎行,寶貨之資不輸於大國,而空竭府庫,驅率平人,受役蠻夷,肝腦塗地,臣竊爲國家惜之。

昔、漢は得利既に多しとして、博南山を歴り、蘭倉水を渉り、更に博南・哀牢の二県を置いた。蜀人は愁怨し、行く者は歌を作って曰く、「博南を歴り、蘭津を越え、蘭蒼を渡りて、他人の為す」と。蓋し漢が珍奇塩布の利を貪り、蛮夷に駆り役せられることを讒ったのである。漢がその利を得ても、人は尚怨歌を詠んだ。今、国儲を減耗し、費用日増し、陛下の赤子をして身を野草に膏し、骸骨帰らず、老母幼子、千里の外に哀号して祭を望ましむる。国家には絲髪の利無く、百姓は終身の酷を受けている。臣はひそかに国家のため痛む。

原文昔漢以得利既多,曆博南山,涉蘭倉水,更置博南、哀牢二縣。蜀人愁怨,行者作歌曰:「曆博南,越蘭津,渡蘭蒼,爲他人。」蓋譏漢貪珍奇鹽布之利,而爲蠻夷之所驅役也。漢獲其利,人且怨歌。今減耗國儲,費用日廣,而使陛下之赤子身膏野草,骸骨不歸,老母幼子,哀號望祭於千里之外。於國家無絲發之利,在百姓受終身之酷。臣竊爲國家痛之。

往時、諸葛亮が南中を破り、その渠率をして自ら統領せしめ、漢官を置かず、また兵を留めて鎮守せしめなかった。人がその故を問うと、亮は官を置き兵を留めるに三不易有りと言った。大意は、官を置けば夷漢雑居し、猜嫌必ず起こる。兵を留めれば糧を運び、患い更に重し。忽ち若し反叛すれば、労費更に多し。ただ粗かに紀綱を設ければ、自然安定す、というものである。臣はひそかに亮のこの策は、羈縻蛮夷の術を妙に得たものと考える。

原文往者,諸葛亮破南中,使其渠率自相統領,不置漢官,亦不留兵鎮守。人問其故,亮言置官留兵有三不易。大意以置官夷漢雜居,猜嫌必起;留兵運糧,爲患更重;忽若反叛,勞費更多。但粗設紀綱,自然安定。臣竊以亮之此策,妙得羈縻蠻夷之術。

今、姚府に置かれた官は、既に辺を安んじ寇を静める心無く、また葛亮の且つ縦ち且つ擒える伎も無い。ただ詭謀狡算を知り、恣りに情を割き剝ぎ、貪叨劫掠し、積もりて常と為すのみである。酋渠を扇動し、朋党を遺し成し、支を折り諂い笑い、蛮夷に媚びを取り、跪き伏し趨るに、復た慚恥無し。子弟を提げ挈し、凶愚を嘯き引き、蒲博に聚い会し、一擲累万。剣南の逋逃、中原の亡命、二千余戸有り、彼の州に散在し見え、専ら掠奪を以て業と為す。姚州は元より龍朔中、武陵県主簿石子仁が奏して置きし所、後に長史李孝讓・辛文協並びに群蛮に殺さる。前朝、郎将趙武貴を遣わして討撃せしむるも、貴及び蜀兵は時に応じて破敗し、噍類遺す無し。又、将軍李義総等を遣わして征せしむるも、郎将劉惠基は陣に戦死し、その州は乃ち廃せらる。臣はひそかに諸葛亮が官を置き兵を留めるに三不易有りと称えたその言の、乃ち験有ることを思う。垂拱四年に至り、蛮郎将王善宝・昆州刺史爨乾福又た州を置くことを請い、奏して言うに、所有の課税は、自ら姚府管内より出で、更に蜀中を労擾せずと。及び州を置く後、録事参軍李棱は蛮に殺さる。延載中、司馬成琛が瀘南に鎮七所を置くことを奏請し、蜀兵を遣わして防守せしむ。此れより蜀中騒擾し、今に至るも息まず。

原文今姚府所置之官,既無安邊靜寇之心,又無葛亮且縱且擒之伎。唯知詭謀狡算,恣情割剝,貪叨劫掠,積以爲常。扇動酋渠,遺成朋黨,折支諂笑,取媚蠻夷,拜跪趨伏,無復慚恥。提挈子弟,嘯引凶愚,聚會蒲博,一擲累萬。劍南逋逃,中原亡命,有二千餘戶,見散在彼州,專以掠奪爲業。姚州本龍朔中武陵縣主簿石子仁奏置之,後長史李孝讓、辛文協並爲群蠻所殺。前朝遣郎將趙武貴討擊,貴及蜀兵應時破敗,噍類無遺。又使將軍李義總等往征,郎將劉惠基在陣戰死,其州乃廢。臣竊以諸葛亮稱置官留兵有三不易,其言乃驗。至垂拱四年,蠻郎將王善寶、昆州刺史爨乾福又請置州,奏言所有課稅,自出姚府管內,更不勞擾蜀中。及置州後,錄事參軍李棱爲蠻所殺。延載中,司馬成琛奏請於瀘南置鎮七所,遣蜀兵防守,自此蜀中騷擾,於今不息。

且つ姚府は総管五十七州、巨猾遊客、数え勝たず。国家が官を設け職を分つは、本と俗を化し奸を妨げんとするに在り。無恥無厭、狼籍此の如し。今、夷夏を問わず、負罪並びに深く、道路の劫殺を見るも、禁止能わず。恐らくは一旦驚擾すれば、禍い転じて大とならん。伏して姚州を省罷し、巂府に隷せしめ、歳時朝覲し、蕃国と同からしむることを乞う。瀘南の諸鎮も亦皆悉く廃し、瀘北に関を置き、百姓自ら蕃に入るを奉使するに非ざれば、交通往来を許さず。巂府の兵選を増し、清良の宰牧を択びて以てこれを統理せしむ。臣愚、将に穩便たらんとす。

原文且姚府總管五十七州,巨猾遊客,不可勝數。國家設官分職,本以化俗妨奸,無恥無厭,狼籍至此。今不問夷夏,負罪並深,見道路劫殺,不能禁止,恐一旦驚擾,爲禍轉大。伏乞省罷姚州,使隸巂府,歲時朝覲,同之蕃國。瀘南諸鎮,亦皆悉廢,於瀘北置關,百姓自非奉使入蕃,不許交通往來。增巂府兵選,擇清良宰牧以統理之。臣愚將爲穩便。

疏を奏す。則天、納れず。

原文疏奏,則天不納。

後に累ねて荊州大都督府長史に拝せらる。長安中、召されて司刑少卿と為り、秋官侍郎に遷る。時に夏官尚書姚崇が霊武軍使と為り、将に行かんとす。則天、外司に堪えて宰相と為るべき者を挙げよと令す。崇対えて曰く、「張柬之は沈厚謀有り、能く大事を断つ。且つその人年老いり。惟れ陛下急ぎ之を用いよ」と。則天、登時に召見し、尋いで同鳳閣鸞台平章事と為す。未だ幾ばくもせず、鳳閣侍郎に遷り、仍って政事を知る。及び張易之兄弟を誅するに、柬之その事の首謀と為る。中宗即位し、功を以て擢て天官尚書・鳳閣鸞台三品に拝し、漢陽郡公に封じ、実封五百戸を食む。未だ幾ばくもせず、中書令に遷り、国史を監修す。月余りして、漢陽郡王に進封し、特進を加授せられ、政事を知るを罷むるを令す。

原文後累拜荊州大都督府長史。長安中,召爲司刑少卿,遷秋官侍郎。時夏官尚書姚崇爲靈武軍使,將行,則天令舉外司堪爲宰相者。崇對曰:「張柬之沉厚有謀,能斷大事,且其人年老,惟陛下急用之。」則天登時召見,尋同鳳閣鸞台平章事。未幾,遷鳳閣侍郎,仍知政事。及誅張易之兄弟,柬之首謀其事。中宗即位,以功擢拜天官尚書、鳳閣鸞台三品,封漢陽郡公,食實封五百戶,未幾,遷中書令,監修國史。月餘,進封漢陽郡王,加授特進,令罷知政事。

その年秋、柬之表を上りて襄州に帰り疾を養わんことを請う。之を許し、仍って特ちに襄州刺史を授け、又た其の子漪を著作郎に拝し、父の任に随うを令す。上親しく詩を賦して祖道し、又た群公に令して定鼎門外に餞送せしむ。柬之襄州に至り、郷親旧交罪に抵る者有れば、必ず深文法を致し、縱捨する所無し。其の子漪、功を立てしを恃み、毎に諸の少長を見るに、礼を以て接せず。時議以て荊楚の剽性を易うる能わざるなりと為す。尋いで武三思に構えられ、新州司馬に貶授せらる。柬之新州に至り、憤恚して卒す。年八十余。景雲元年、製して曰く、「徳を褒め功を紀すは、事典冊に華やかなり。終を飾り遠を追うは、理名教に光りたり。故吏部尚書張柬之は、興運を翼戴し、帝道を謨明し、経綸謇諤、風範猶存す。往きて回邪に属し、釁咎を構成し、辜無く放逐せられ、荒遐に淪没す。言い勳賢を念えば、良く深く軫悼す。宜しく寵贈を加え、式ち幽泉を賁すべし。中書令を贈り、漢陽郡公に封ずべし」と。建中初、又た司徒を贈る。

原文其年秋,柬之表請歸襄州養疾。許之,仍特授襄州刺史,又拜其子漪爲著作郎,令隨父之任。上親賦詩祖道,又令群公餞送於定鼎門外。柬之至襄州,有鄉親舊交抵罪者,必深文致法,無所縱舍。其子漪恃以立功,每見諸少長,不以禮接,時議以爲不能易荊楚之剽性焉。尋爲武三思所構,貶授新州司馬。柬之至新州,憤恚而卒,年八十餘,景雲元年,製曰:「褒德紀功,事華典冊;飾終追遠,理光名教。故吏部尚書張柬之翼戴興運,謨明帝道,經綸謇諤,風範猶存。往屬回邪,構成釁咎,無辜放逐,淪沒荒遐。言念勳賢,良深軫悼,宜加寵贈,式賁幽泉。可贈中書令,封漢陽郡公。」建中初,又贈司徒。

玄孫璟、開成二年、宜城尉より遷りて寿安尉と為る。

原文玄孫璟,開成二年,自宜城尉遷壽安尉。

袁恕己

原文袁恕己

袁恕己は、滄州東光の人なり。長安中、歴遷して司刑少卿と為り、兼ねて相王府司馬事を知る。敬暉等将に張易之兄弟を誅せんとす。恕己その謀議に預かり、又た相王に従い南衙兵仗を統率し、以て非常に備う。事定まるに及び、銀青光禄大夫を加えられ、行中書侍郎・同中書門下三品と為り、南陽郡公に封じ、実封五百戸を食む。将作少匠楊務廉は素より工巧を以て用いられ見ゆ。中興初、恕己其の更に遊娛侈靡の端を啓かんことを恐れ、中宗に言いて曰く、「務廉九卿の位に致り、歳年積もり有り。苦言嘉謀、紀すに足る無し。毎に宮室営構するに、必ず其の侈を務む。若し之を斥けざれば、何を以てか広く聖徳を昭らかにせん」と。是れより務廉を左授して陵州刺史と為す。恕己俄ちに擢て中書令に拝せられ、仍って特進を加えられ、南陽郡王に封じられ、政事を知るを罷む。則天崩じ、遺製に実封を加えて満七百戸と為す。後に敬暉等と累ねて貶黜に遭い、環州に流さる。尋いで周利貞に逼せられ、野葛汁数升を飲む。恕己常に黄金を服し、毒餌発し、憤悶し、手を以て地を掘り、土を取りて食らう。爪甲殆んど尽き、竟に死せず。乃ち撃ちて之を殺す。建中初、太子太傅を贈る。

原文袁恕己,滄州東光人也。長安中,曆遷司刑少卿,兼知相王府司馬事。敬暉等將誅張易之兄弟,恕己預其謀議,又從相王統率南衙兵仗,以備非常。及事定,加銀青光祿大夫,行中書侍郎、同中書門下三品,封南陽郡公,食實封五百戶。將作少匠楊務廉素以工巧見用,中興初,恕己恐其更啟遊娛侈靡之端,言於中宗曰:「務廉致位九卿,積有歲年,苦言嘉謀,無足可紀。每宮室營構,必務其侈,若不斥之,何以廣昭聖德?」由是左授務廉陵州刺史。恕己俄擢拜中書令,仍加特進,封南陽郡王,罷知政事。則天崩,遺製加實封滿七百戶。後與敬暉等累遭貶黜,流於環州。尋爲周利貞所逼,飲野葛汁數升,恕己常服黃金,餌毒發,憤悶,以手掘地,取土而食,爪甲殆盡,竟不死,乃擊殺之。建中初,贈太子太傅。

曾孫徳文、進士に挙げらる。開成三年、秘書省校書郎を授けらる。

原文曾孫德文,舉進士,開成三年,授秘書省校書郎。

史臣曰く

原文史臣曰

史臣曰く、昔、夫差が越に入り、勾踐は會稽に保つ。子胥の言を聽かずして、甬東の歎有り。此の五王は凶を除き正に返り、計を得て功を成す。是の時に當たり、彥範・敬暉は兵を握り勢を全うし、三思・攸暨其の黨半ば殲せらる。若し季昶の言に從はば、寧ぞ利貞の禍有らんや。蓋し心に忍びざるを懷き、遽かに後圖を失ひ、黜削流移す。理固然なり。且つ蔓を芟りて本を拔く能はず、謀を建てて尚ほ微を防ぐに欠く。死すること即ち辜無しと雖も、禍は自ら掇むに由る。斷を失ひて亂を召す、亦た宜ならずや。

原文史臣曰:昔夫差入越,勾踐保於會稽,不聽子胥之言,而有甬東之歎。此五王除凶返正,得計成功。當是時,彥範、敬暉握兵全勢,三思、攸暨其黨半殲,若從季昶之言,寧有利貞之禍?蓋以心懷不忍,遽失後圖,黜削流移,理固然也。且芟蔓而不能拔本,建謀而尚欠防微,死即無辜,禍由自掇。失斷召亂也,不亦宜哉!

贊して曰く、嗟彼の五王、有唐に忠なり。火木に在るを知り、其の傷無きを謂ふ。禍發して既に克ち、勢摧けて當ふ可からず。何事か敏ならず、身を周るの防。

原文贊曰:嗟彼五王,忠於有唐。知火在木,謂其無傷。禍發既克,勢摧靡當。何事不敏,周身之防。