旧唐書 巻九十一 列伝第四十一 桓彦範 敬暉 崔玄暐 張柬之 袁恕己

旧唐書

巻九十一 列伝第四十一 桓彦範 敬暉 崔玄暐 張柬之 袁恕己

桓彦範

桓彦範は、潤州曲阿の人である。祖父の法嗣は、雍王府諮議参軍・弘文館学士であった。彦範は慷慨にして俊爽であり、若くして門蔭により右翊衛に補任された。聖暦初年、累次昇進して司衛寺主簿となった。納言狄仁傑は特に彼を礼遇し、かつて言った。「足下の才識はこのようであるから、必ずや自ら遠大な地位に至るであろう。」まもなく監察御史に抜擢された。

長安三年、歴任して御史中丞に遷った。四年、司刑少卿に転じた。時に司僕卿張昌宗は、術者李弘泰に自分に天命があると占わせた罪に坐し、御史中丞宋けいは彼を収監して獄に付し、その罪を徹底的に追及するよう請うたが、則天は許さなかった。彦範が上疏して言うには、

昌宗は徳もなく才もなく、誤って恩寵を受けている。自ら粉骨砕身して、特別な恩遇に報いるべきであり、どうして禍心を包蔵し、このような占いをすることがあろうか。陛下は簪履の恩が久しいため、刑を加えるに忍びないのである。昌宗は逆乱の罪が多いため、自らその咎を招いているのである。これは皇天が怒りを降すのであり、ただ陛下が故意に誅するのではない。天に背くのは不祥である。どうか陛下に裁断を願う。その元の上奏を推し量れば、事が敗れるのを防ぐためである。事が敗れれば、すなわち上奏は終わったと言い、敗れなければ時を待って逆を為すのである。これは奸臣の詭計であり、聖心を惑わすものである。今、果たしてその謀りごとが成就しようとしているのに、陛下はどうしてこれを明察されないのか。もし昌宗にこのような占いがなければ、上奏後に再び弘泰と往来すべきではなく、なお福を修め、また厄を祓おうとしている。これは必ず成就することを期しており、元より悔いる心はない。たとえ上奏して聞かせたとしても、その実情は許し難い。これを赦すことができるならば、誰を刑することができようか。況や二度にわたり事が明らかになり、天恩がともに赦しを垂れられたのに、昌宗は自ら得策と思い、人もまた天命に応じたと考えるならば、兵甲を煩わすことなく、天下はみな従い、万方がこれをあざ笑い、陛下がその乱を成り立たせたと考えるであろう。君主がいるのに、臣下が天命を図るのは、これ逆臣である。誅さなければ、社稷は滅びる。伏して鸞台鳳閣三司に付してその罪を徹底的に究明することを請う。

上疏を奏上したが、回答はなかった。時にまた内史李嶠らが上奏して言うには、「かつて革命の時に属して、人多く節を逆らう者があり、取り調べ決断するに、刑獄は極めて厳しく、刻薄な吏が酷法をほしいままに行った。周興・丘勣・来俊臣が弾劾して家を破った者たちは、一様に雪冤して赦免を請う。」彦範はまた上奏して、文明元年以後に罪を得た人々のうち、揚・豫・博の三州および諸々の謀逆の首謀者を除き、一切赦すよう請うた。表疏は前後十回奏上し、言辞の趣旨は激切であり、この時になってようやく聞き入れられた。彦範は凡そ奏議するに、もし人主の詰責に逢えば、言葉と顔色に恐れず、ますます激しく争った。またかつて親しい者に言った。「今、すでに自ら大理の職に就いている以上、人命がかかっている。必ずや旨に順って詭弁を弄し、苟も免れようとはしない。」

この年の冬、則天が病に伏した。張易之と弟の昌宗が内閣に入って侍疾し、ひそかに逆乱を図った。鳳閣侍郎張柬之が桓彦範および中台右丞敬暉らと策を立てて彼らを誅殺しようとした。柬之は急いで彦範と暉をともに左右羽林将軍に引き抜き、禁兵を委ねて、ともにその事を図った。時に皇太子は毎度北門で起居しており、彦範と暉はこれによって謁見することができ、密かにその計画を陳べた。太子はこれに従った。神龍元年正月、彦範は敬暉および左羽林将軍李湛・李多祚・右羽林将軍楊元琰・左威衛将軍薛思行らと、左右羽林兵および千騎五百余人を率いて宮中で易之・昌宗を討ち、李湛・李多祚に命じて東宮に赴き皇太子を迎えさせた。兵が玄武門に至ると、彦範らは太子を奉じて門を斬って入り、兵士が大いに騒いだ。時に則天は迎仙宮の集仙殿にいた。易之・昌宗を廊下で斬り、またその邸宅で兄の汴州刺史昌期・司礼少卿同休を斬り、ともに首を天津橋の南に梟した。士庶でこれを見た者は、歓呼して互いに賀さない者はなく、ある者はその肉を切り刻み、一晩でことごとく尽きた。翌日、太子が即位した。彦範は功により銀青光禄大夫を加えられ、納言に拝され、勲は上柱国を賜り、譙郡公に封ぜられ、実封五百戸を賜った。また侍中に改められた。新令に従ったのである。

彦範はかつて時政について数条を論じた表を上奏した。その大略は次のようである。「昔、孔子が『詩』を論じて『関雎』を始めとしたのは、后妃は人倫の根本であり、治乱の端緒であるからである。故に皇・英が降りて虞の道が興り、任・姒が帰して姫宗が盛んになった。桀は南巢に奔り、妹喜が禍の階となり、魯桓公は国を滅ぼされ、斉の媛に惑わされた。伏して見るに、陛下が毎度臨朝して政を聴かれる時、皇后は必ず帷幔を施して殿上に坐し、政事を預かって聞いておられる。臣の愚見、歴代の君主を選び、往代を詳しく求めると、帝王で婦人と謀って政に及んだ者は、国を破り身を亡ぼさず、車が転覆して道に続く者はなかった。かつ陰が陽に乗るのは天に背き、婦が夫を凌ぐのは人に背く。天に背けば不祥であり、人に背けば不義である。これによって古人は『牝鶏の晨、惟だ家の索むる』と譬えた。『易』に曰く『遂ぐる所無く、中饋に在り』。婦人は国政に預かるべからざることを言うのである。伏して願わくは、陛下に古人之言を覧り、古人之意を察し、上は社稷を重んじ、下は蒼生を念う。宜しく皇后に正殿に往きて外朝に干渉せず、専ら中宮に在り、陰教を修めることを令すべきである。そうすれば坤儀は固く、鼎命は永くあらん。」

また言うには、「臣は聞く、京師では喧喧として、道路では籍籍として、皆、胡僧慧範が仏教を仮託し、后妃を詭惑したため、禁闈に出入りし、時政を撓乱することができたと言う。陛下はまた軽騎で微行し、しばしばその室に幸し、上下媟黷して、尊厳を損なっている。臣はかつて聞く、化を興し理を致すには、必ず善を進めるによる。国を康らかに人を寧んずるには、悪を棄てるより大なるはない。故に孔子は言う。『左道を執って政を乱す者は殺し、鬼神を仮りて人を危うくする者は殺す。』と。今、慧範の罪はこれと異ならない。もし急いで誅さなければ、必ず変乱を生じるであろう。悪を除くには本を務め、邪を去るには疑うなかれ。実に天聴が早く裁貶を加えられることを願う。」疏を奏上したが聞き入れられなかった。時に墨勅により方術人鄭普思を秘書監に、葉浄能を国子祭酒に授けたが、彦範は苦言してその不可を説いた。帝は言った。「すでに用いようとする以上、すぐに止めることはできない。」彦範はまた対して言った。「陛下が龍飛して宝位に即かれて以来、急いで制を下され、『軍国の政化は、皆、貞観の故事に依る』と。昔、貞観中に魏徴・虞世南・顔師古を秘書監とし、孔穎達を国子祭酒としたことがある。普思らは方伎の庸流に至っては、どうして前の功績に比肩することができようか。臣は恐れる、物議が陛下が官に才を択ばず、濫りに天秩を私愛に加えると言うことを。どうか陛下に少し慎んで択ばれることを願う。」帝はついに聞き入れなかった。

時に韋皇后既に朝政を幹き、德靜郡王武三思又中に居て用事し、則天が彦範等に廢せられしを以て、常に深く憤怨し、又彦範等の漸く武氏を除かんことを慮り、乃ち先づ事を圖りて之を謀る。皇后韋氏既に雅く帝の信寵せらるる所となり、言ふこと從はざるなく、三思又韋氏に私通す、乃ち日夕に彦範等を讒毀す。帝竟に三思の計を用ひ、彦範を扶陽郡王に進封し、敬暉を平陽郡王に、張柬之を漢陽郡王に、崔玄暐を博陵郡王に、袁恕己を南陽郡王に封じ、並びに特進を加へ、政事を知るを罷めしむ。彦範仍て姓を韋氏と賜ひ、皇后と同じく屬籍せしめ、仍て雜彩・錦繡・金銀・鞍馬等を賜ふ。外は優崇を示すと雖も、而して實に其の權を奪へり。易州刺史趙履溫は、即ち彦範の妻兄なり。彦範易之を誅したる後、奏言して先づ履溫と共に其の事を謀れりとす、是に於て召して司農少卿に拜す。履溫之に德し、乃ち二婢を以て彦範に遺す。彦範の政事を知るを罷むるに及び、履溫又其の婢を協奪し、大いに時論の譏る所と爲る。尋で洺州刺史に出で、濠州刺史に轉ず。

二年、光祿卿・駙馬都尉王同皎、武三思の韋氏と奸通するを以て、潛かに之を誅せんと謀る。事泄れ、三思の誣構する所と爲り、同皎將に皇后韋氏を廢せんとし、彦範等其の情を知るを言ふ。乃ち彦範を瀧州司馬に貶し、敬暉を崖州司馬に、袁恕己を竇州司馬に、崔玄暐を白州司馬に、張柬之を新州司馬に貶し、並びに仍て長任を令し、勳封並びに削る。彦範仍て其の本姓桓氏に復す。

是の歲秋、武三思又陰に人をして皇后の穢行を疏し、天津橋に榜し、加へて廢黜せんことを請はしむ。中宗之を聞きて怒り、御史大夫李承嘉に命じて其の人を推求せしむ。承嘉三思の旨に希ひ、奏言して「彦範と敬暉・張柬之・袁恕己・崔玄暐等、人を教へ密かに此の榜を爲す。廢後を托するを名と爲すと雖も、實に君を危くせんとするの計有り、請ふらくは族滅を加へよ」と。製して承嘉の奏する所に依る。大理丞李朝隱執奏して云く「敬暉等既に鞠問を經ざれば、即ち誅夷を肆ふべからず。請ふらくは御史を差して罪を按じ、至るを待ちて、法に準ひて處分せよ」と。大理卿裴談奏して云く「敬暉等は隻に敕に據りて斷罪すべく、別に推鞫を俟つべからず、請ふらくは並びに斬り籍没せよ」と。中宗其の議を納れ、仍て彦範等五人嘗て鐵券を賜はり、以て死せずを許されたるを以て、乃ち彦範を州に長流し、敬暉を崖州に、張柬之を瀧州に、袁恕己を環州に、崔玄暐を古州に長流し、並びに終身禁錮し、子弟年十六已上の者も亦嶺外に配流す。承嘉を擢授して金紫光祿大夫と爲し、進めて襄武郡公に封ず。韋氏又特に承嘉に彩物五百段・端錦被一張を賜ふ。裴談を擢拜して刑部尚書と爲し、李朝隱を左貶して聞喜令と爲す。三思俄に又節湣太子を諷して表を抗し彦範等の三族を夷せんことを請はしむ。中宗既に前命有るを以て、其の請に依らざるも、三思猶彦範等の重ねて進用せらるるを慮り、又中書舍人崔湜の計を納れ、特に湜の姨兄嘉州司馬周利貞をして右台侍御史を攝らしめ、就きて嶺外に並びに製を矯て之を殺さしむ。彦範流所に赴き、貴州に行き至る、利貞途に於て之に遇ひ、乃ち左右をして執縛せしめ、竹槎の上に曳き、肉盡きて骨に至り、然る後に杖殺す、時に年五十四。

えい宗即位し、延和元年、並びに其の官爵を追復し、仍て特に其の子孫の實封二百戶を還す。玄宗即位し、開元六年、詔して曰く「皇輿肇建するには必ず輔佐の臣有り;天步多艱なれば、爰に經綸の業を仗る。故侍中・譙國公桓彦範、侍中・平陽郡公敬暉、中書令兼吏部尚書・漢陽郡公張柬之、特進・博陵郡公崔玄暐、中書令・南陽郡公袁恕己等は、並びに德は惟れ神降り、材は運と與に生れ、道は台嶽に協ひ、名は讖緯に書かる。帝載を寅亮し、王家に勤勞し、禹を復するの元謀に參じ、唐を升するの景命を奉ず。殂謝既に久しと雖も、而して勳烈益々彰はれ、彝鼎を撫でて功を念ひ、旂常を想ひて感を增す。故實を緬遵し、用ひて徽懿を表し、俾ち清廟に列し、明堂に登らしめ、克く從祀の儀を申し、式に疇庸の典を茂くすべし。並びに中宗孝和皇帝廟庭に配享すべく、其の子北鹹加收擢せよ」と。建中元年、重ねて司徒を贈る。

敬暉

敬暉は、絳州太平の人なり。弱冠にして明經に舉る。聖曆初、累を除して衛州刺史と爲る。時に河北新に突厥の寇有り、方に秋にして而して城を修して輟まず、暉下車して謂ひて曰く「金湯は粟なくして守らず、豈に收穫を棄てて城郭を繕ふこと有らんや」と。悉く罷散せしむ、是に由りて人吏鹹く歌詠す。再び遷りて夏官侍郎と爲り、出でて泰州刺史と爲る。大足元年、遷りて洛州長史と爲る。天後長安に幸し、暉をして副留守事を知らしむ。職に在りて清幹を以て聞こえ、璽書を以て勞勉し、物百段を賜ふ。長安三年、拜して中台右丞と爲り、銀青光祿大夫を加ふ。

神龍元年、轉じて右羽林將軍と爲る。張易之・昌宗を誅するの功を以て、金紫光祿大夫を加へ、擢拜して侍中と爲り、爵を平陽郡公に賜ひ、實封五百戶を食む。尋で進みて齊國公に封ぜらる。天後崩じ、遺製に實封を加へて通前滿七百戶と爲す。暉等唐室の中興を以て、武氏諸王咸宜しく爵を降すべしとし、上章して論奏す、是に於て諸武公に降る。武三思益々怒り、乃ち帝を諷して陽に暉等を尊び郡王と爲し、政事を知るを罷む。仍て鐵券を賜ひ、十死を恕し、朔望に趨朝せしむ。

初め、暉彦範等と張易之兄弟を誅せし時、洛州長史薛季昶暉に謂ひて曰く「二凶は除かるると雖も、産・祿猶ほ在り。兵勢に因りて武三思の屬を誅し、王室を匡正し、以て天下を安んぜんことを請ふ」と。暉張柬之と屢陳して不可とし、乃ち止む。季昶歎じて曰く「吾死する所を知らず」と。翌日、三思韋後の助に因り、潛かに宮中に入り、内に相事を行ひ、國政を反易し、天下の患と爲る、時議此を以て咎を暉に歸す。暉等既に政柄を失ひ、三思に制せられ、暉每に床を推して嗟惋し、或は指を彈じて血を出す。柬之歎じて曰く「主上疇昔英王と爲りし時、素より勇烈と稱す、吾諸武を留むるは、冀くは自ら誅鋤せんことを耳。今事勢已に去り、復た何の道を知らんや」と。

三思は既に深く憤り嘆き、許州司功参軍の鄭愔が元来暉らに廃黜されたことを以て、因みに上表して其の罪状を陳述せしむ。中宗詔して曰く、「則天大聖皇后、往時憂労に因り不豫にて、凶豎権を弄ぶ。暉等は因り甲兵を興し、妖孽を鏟除す。朕其の労効を録し、寵労を極めて備ふ。自ら勳は一時に高しと謂ひ、遂に権を四海に傾けんと欲し、威福を擅に作り、国章を軽侮し、道に悖り義を棄つること、斯れより甚しきは莫し。然れども其の薄効を収め、猶ほ隠忍と為し、其に郡王の重きを錫し、特進の栄を以て優ふ。謂はざりき、溪壑の志は殊に盈満し難く、既に大権を失ひ、多く怨望を懐く。乃ち王同皎と内禁を窺覘し、潜かに相謀り結び、更に権兵を絳闕にし、椒宮を廃せんと図る。険跡醜辞、視を驚かし聴を駭かす。属に帝図始めて啓くに、務めて狴牢を静めんとす。以て久しく含容と為し、未だ能く諸を遐邇に暴せず。同皎の法に伏してより、釁跡弥に彰る。倘し其の発明無くんば、何を以て茲の悖乱を懲せん。其の巨逆を跡づくれば、合せて厳誅を置くべし。縁に其の昔微功を立てしを以て、所以に特に寛宥に従ふ。咸しく宜しく貶降し、出でて遐藩に佐くべし。暉は崖州司馬とすべく、柬之は新州司馬とすべく、恕己は竇州司馬とすべく、玄暐は白州司馬とすべく、並びに員外に置く」と。暉崖州に到り、竟に周利貞に殺さる。睿宗即位し、五王の官爵を追復し、暉に秦州都督を贈り、諡して肅湣と曰ふ。建中初、重ねて太尉を贈る。

曾孫元膺、開成三年、試みの太子通事舍人より河南県丞となる。

崔玄暐

崔玄暐は、博陵安平の人なり。父行謹、胡蘇令と為る。本名は曄、字の下体に則天の祖諱有り、乃ち玄暐と改む。少くして学行有り、深く叔父秘書監行功に器重せらる。龍朔中、明経に挙げられ、累ねて庫部員外郎を補す。其の母盧氏嘗て之を誡めて曰く、「吾れ姨兄屯田郎中辛玄馭の云ふを見るに、『兒子宦に従ふ者、人来りて貧乏して存すること能はずと云ふは、此れ是好消息なり。若し貲貨充足し、衣馬軽肥と聞くは、此れ悪消息なり』と。吾れ常に此言を重んじ、確論と為す。比に親表中仕宦する者を見るに、多く錢物を将て其の父母に上る。父母但だ喜悦を知るのみにて、竟に此の物何れの所より来るかを問はず。必ず是れ祿俸の餘資ならば、誠に亦善事なり。其の如く非理に得たるは、此れ盗賊と何の別か有らん。縦ひ大咎無くとも、独り内に心に愧ぢざらんや。孟母魚鮓の饋を受ざるは、蓋し此れの為なり。汝今祿俸に坐して食らふ、榮幸已に多し。若し其れ忠清なること能はざれば、何を以て天を戴き地を履まん。孔子云く、『日に三性の養を殺すと雖も、猶ほ不孝と為す』と。又曰く、『父母は唯其の疾を之れ憂ふ』と。宜しく身を修め已を潔くし、吾が此の意を累はすこと勿れ」と。玄暐母氏の教誡を遵奉し、清謹を以て称せらる。尋で天宮郎中を授けられ、鳳閣舍人に遷る。

長安元年、超拜して天官侍郎と為る。毎に介然自ら守り、請謁を都て絶ち、頗る執政者に忌まる。転じて文昌左丞と為る。月餘を経て、則天謂ひて曰く、「卿の職を改めて以来、選司大いに罪過有り。或ひは令史乃ち齋を設けて自ら慶ぶと聞く。此れ盛んに貪悪を為さんと欲するのみ。今卿を要して旧任に復せしむ」と。又た天官侍郎を除し、雜彩七十段を賜ふ。三年、鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事に拜し、太子左庶子を兼ぬ。四年、鳳閣侍郎に遷り、銀青光祿大夫を加へ、仍舊として政事を知る。先づ是れ、来俊臣・周興等良善を誣陷し、爵賞を冀図し、因縁して籍没する者数百家。玄暐固より其の枉状を陳す。則天乃ち感悟し、鹹く雪免に従ふ。

則天の季年、宋璟張昌宗の不軌を謀るを劾奏す。玄暐亦た屡に讜言有り。則天乃ち法司に令して其の罪を正断せしむ。玄暐の弟升時に司刑少卿と為り、又た大辟を置くを請ふ。其の兄弟の正を守ること此の如し。是の時、則天不豫にて、宰相召見を得ざること累月。疾少く間あるに及び、玄暐奏言して曰く、「皇太子・相王仁明孝友、足らく以て親しく湯藥に侍すべし。宮禁事重し、伏して願はくは異姓の出入を令さざらんことを」と。則天曰く、「深く卿が厚意を領す」と。尋で張易之を誅するに預かりし功を以て、擢拜して中書令と為り、博陵郡公に封ぜらる。中宗将に方術人鄭普思を秘書監に授けんとす。玄暐切に諫む。竟に納れず。尋で爵を進めて王と為し、実封四百戸を賜ひ、益州大都督府長史を検校し、都督事を知るを兼ぬ。其の後累貶せられ、白州司馬を授けらる。道に在りて病卒す。建中初、太子太師を贈る。

玄暐は弟升と甚だ相友愛す。諸子弟孤貧なる者、多く躬自撫養教授し、頗る當時に称せらる。升は官至り尚書左丞。玄暐少時頗る詩賦に属す。晚年以て己が長とせざる所と為し、乃ち復た構思せず、唯だ經籍に志を篤くし、述作を事と為す。撰する所《行己要範》十卷、《友義傳》十卷、《義士傳》十五卷、訓注《文館辭林策》二十卷、並びに代に行はる。

子璩、頗る文學を以て知名、官歴中書舍人・禮部侍郎。璩の子渙、自ら傳有り。

曾孫郢、開成三年、商州防禦判官兼殿中侍御史より、入りて監察御史と為る。

張柬之

張柬之、字は孟將、襄州襄陽の人なり。少くして太學生を補し、經史に涉獵し、尤よ《三禮》を好む。國子祭酒令狐德棻甚だ之を重んず。進士擢第し、累ねて青城丞を補す。永昌元年、賢良を以て征試せられ、同時に策する者千餘人、柬之獨り當時第一と為り、擢拜して監察御史と為る。

聖曆初、累遷して鳳閣舍人と為る。時弘文館直學士王元感著論して云く、「三年の喪は、合せて三十六月なり」と。柬之著論して之を駁して曰く、

三年の喪は二十五月、改めることなき典である。謹んで『春秋』を案ずるに、「魯の僖公三十三年十二月乙巳、公薨ず。」「文公二年冬、公子遂斉に如きて幣を納る。」とある。『左傳』に「礼なり」と曰う。杜預の注に云う、「僖公の喪はこの年の十一月に終わり、幣を納るは十二月に在り。士の婚禮、納采・納徵には、皆玄纁束帛有り、諸侯は則ちこれを納幣と謂う。蓋し公は太子たり、既に婚禮を行えり」と。故に『傳』は礼なりと称するなり。『公羊傳』に曰う、「幣を納るは書せず、此れ何を以てか書す。喪に娶るを譏るなり。三年の外に在るに何を以てか譏る。三年の内には婚を図らず」と。何休の注に云う、「僖公は十二月を以て薨ず、この冬に至るまで未だ二十五月に満たず、納采・問名・納吉は、皆三年の内に在り、故に譏るなり」と。何休は公十二月に薨ず、この冬十二月に至って纔かに二十四月、二十五月に非ず、是れ未だ三年ならずして婚を図るなりとす。按ずるに『經』に「十二月乙巳公薨ず」と書す。杜預は『長曆』を以て推すに、乙巳は十一月十二日、十二月に非ず、十二月と書すは、是れ『經』の誤りなり。「文公元年四月、我が君僖公を葬る」と、『傳』に曰う、緩なりと。諸侯は五月にして葬る、若し十二月に薨ずれば、即ち是れ五月、緩なりと謂うべからず。明らかに十一月に薨ずるを知る。故に注に僖公の喪はこの年に終わり、十二月に至って二十五月に満つとす。故に丘明の『傳』に曰う、礼なりと。此れに拠りて推歩すれば、杜の考校は、豈に公羊の能く逮うる所ならんや、況んや丘明は親しく『經』を仲尼に受けたるをや。且つ二『傳』何・杜の争う所は、唯だ一月を争い、一年を争わず。其の二十五月にして喪を除くは、由来別無し。此れ則ち『春秋』三年の喪、二十五月の明驗なり。

『尚書・伊訓』に云う、「成湯既に没し、太甲元年、惟れ元祀十有二月、伊尹先王に祀り、嗣王を奉じて厥の祖を祗見す」と。孔安國の注に云う、「湯は元年十一月を以て崩ず」と。此れに拠れば、則ち二年十一月小祥、三年十一月大祥なり。故に『太甲』中篇に云う、「惟れ三祀十有二月朔、伊尹冕服を以て嗣王を奉じて亳に帰る」と。是れ十一月大祥、訖りて十二月朔日に、王の冕服を加えて吉として亳に帰るなり。是れ孔の言う「湯元年十一月」の明驗なり。『顧命』に云う、「四月哉生魄、王懌せず」と、是れ四月十六日なり。「翌日乙丑、王崩ず」と、是れ十七日なり。「丁卯、冊を作るを命ず」と、是れ十九日なり。「越えて七日癸酉、伯相材を須うるを士に命ず」と、是れ四月二十五日なり。則ち成王崩じて康王麻冕黼裳に至るまで、中間に十月有り、康王方に始めて廟を見る。則ち湯の崩ずるは十一月に在り、淹停して殮を訖え、方に始めて十二月、其の祖を祗見すを知る。『顧命』は廟を見て訖り、諸侯廟門を出でて俟つ。『伊訓』に「厥の祖を祗見し、侯甸群後鹹に在り」と言う。則ち崩ずる及び廟を見るは、殷・周の礼並びに同じ。此れ周の殷礼に因り、損益知るべし。元年以前に、別に一年有るべからず。此れ『尚書』三年の喪、二十五月の明驗なり。

『禮記三年問』に云う、「三年の喪は、二十五月にして畢り、哀痛未だ盡きず、思慕未だ忘れず、然れども服を以て是れに断つ者は、豈に死を送るに已む有り、生に復するに節有らざらんや」と。又『喪服四製』に云う、「変じて宜きに従う、故に大祥には素琴を鼓し、人に終わるを告ぐ」と。又『間傳』に云う、「期にして小祥、菜果を食う。又期にして大祥、醯醬有り。中月にして禫、酒肉を食う」と。又『喪服小記』に云う、「再期の喪は、三年なり。期の喪は、二年なり。九月七月の喪は、三時なり。五月の喪は、二時なり。三月の喪は、一時なり」と。此れ『禮記』三年の喪、二十五月の明驗なり。

『儀禮士虞禮』に云う、「期にして小祥。又期にして大祥。中月にして禫、是の月吉祭す」と。此の礼は周公の製する所、則ち『儀禮』三年の喪、二十五月の明驗なり。

此の四驗は、並びに礼經の正文、或いは周公の製する所、或いは仲尼の述ぶる所、吾子豈に『禮記』戴聖の修むる所を以て、輒ち排毀せんと欲すべけんや。漢初高堂生『禮』を傳う、既に周備せず、宣帝の時少傅後蒼淹中孔壁の得る所の五十六篇に因りて『曲台記』を著し、以て弟子戴德・戴聖・慶溥の三人に授く。正經及び孫卿の述ぶる所に合するに、並びに相符會す。学官に列し、年代已久し。今端無く異論を構造す、既に依據無く、深く歎息すべし。其の二十五月は、先儒考校し、唯だ鄭康成『儀禮』の「中月にして禫」に注し、「中月は一月を間う、死より禫に至るまで凡そ二十七月」とす。又禫を解して云う、「澹澹然たる平安の意を言うなり」と。今皆二十七月にして常に復すは、鄭の議に従うなり。月を逾えて禫に入り、禫既に常に復すれば、則ち二十五月を以て喪を免るるとなす。二十五月・二十七月、其の議本同じ。

窃かに子の父母に於ける喪は、終身の痛み有り、創巨なる者は日久しく、痛み深き者は愈遲し、豈徒に歳月のみならんや。故に練にして慨然たる者は、蓋し悲慕の懷未だ盡きず、而して踴擗の情已に歇むなり。祥にして廓然たる者は、蓋し哀傷の痛み已に除かれ、而して孤邈の念更に起るなり。此れ皆情の致す所、豈に外飾ならんや。故に『記』に曰う、三年の喪は、義隙を過ぐるに同じ、先王其の中製を立て、以て文理を成す。是を以て祥すれば則ち縞帶素紕、禫すれば則ち佩かざる所無し。今吾子將に情に徇いて禮を棄てんとす、實に乖僻なり。夫れ縗麻の服を棄て、錦縠の衣を襲うは、行道の人も皆忍びず、直に禮を以て之を節する、奈何すべからざるなり。故に由も過製して姉の服する能わず、鯉も過期して其の母を哭する能わず。夫れ豈に懷わざらんや、名教己を逼るを懼るるなり。若し孔・鄭・何・杜の徒は、並びに命代に挺生し、來裔を範模し、宮牆積仞、未だ易く窺うべからず。但だ鑽仰して休まず、當に漸く勝境に入るべく、詎んぞ終年矻矻として労し、虚しく莠言を肆うすべけんや。請う所有の先儒を掎擿するは、願く且つ時を以て消息せんことを。

時に人以て柬之の駁す所、頗る禮典に合すとす。

是歳、突厥の默啜表を上りて言う、女有り請う和親すと。則天盛意を以て之を許し、淮陽郡王延秀をして之を娶らしめんと欲す。柬之奏して曰く、「古より天子夷狄の女を求めて娶り、以て中國の王に配する無し」と。表入り、頗る其の旨に忤う。神功初、出でて合州刺史と為り、尋いで転じて蜀州刺史と為る。旧例、毎歳兵募五百人を差して姚州に往きて鎮守せしむ。路山險を越え、死者甚だ多し。柬之表を上りて其の弊を論じて曰く。

臣がひそかに考えるに、姚州は、古の哀牢の旧国である。絶域の荒外にあり、山は高く水は深く、人が生まれて以来、後漢に至るまで、中国と交通しなかった。前漢の唐蒙が夜郎・滇・筰を開いたが、哀牢は服従しなかった。光武帝の末年になって初めて内属を請い、漢は永昌郡を置いてこれを統治し、その塩・布・毯・罽の税を収めて、中土の利とした。その国は西は大秦に通じ、南は交趾に通じ、奇珍異宝を進貢し、歳時欠かさなかった。劉備が巴蜀を占拠した時、常に甲兵が不足していた。劉備が死ぬと、諸葛亮は五月に瀘水を渡り、その金銀塩布を収めて軍儲を増し、張伯岐に命じてその精鋭の兵卒を選び武備を増強させた。故に『蜀志』は、亮の南征以後、国は富饒となり、甲兵充足すと称えている。これによって言えば、前代に郡を置いたのは、その利が頗る深かったのである。今や塩布の税は供せず、珍奇の貢は入らず、戈戟の用は戎行に実せず、宝貨の資は大国に輸せず、空しく府庫を竭き、平人を駆り率いて、蛮夷に役せられ、肝脳地に塗れている。臣はひそかに国家のため惜しむ。

昔、漢は得利既に多しとして、博南山を歴り、蘭倉水を渉り、更に博南・哀牢の二県を置いた。蜀人は愁怨し、行く者は歌を作って曰く、「博南を歴り、蘭津を越え、蘭蒼を渡りて、他人の為す」と。蓋し漢が珍奇塩布の利を貪り、蛮夷に駆り役せられることを讒ったのである。漢がその利を得ても、人は尚怨歌を詠んだ。今、国儲を減耗し、費用日増し、陛下の赤子をして身を野草に膏し、骸骨帰らず、老母幼子、千里の外に哀号して祭を望ましむる。国家には絲髪の利無く、百姓は終身の酷を受けている。臣はひそかに国家のため痛む。

往時、諸葛亮が南中を破り、その渠率をして自ら統領せしめ、漢官を置かず、また兵を留めて鎮守せしめなかった。人がその故を問うと、亮は官を置き兵を留めるに三不易有りと言った。大意は、官を置けば夷漢雑居し、猜嫌必ず起こる。兵を留めれば糧を運び、患い更に重し。忽ち若し反叛すれば、労費更に多し。ただ粗かに紀綱を設ければ、自然安定す、というものである。臣はひそかに亮のこの策は、羈縻蛮夷の術を妙に得たものと考える。

今、姚府に置かれた官は、既に辺を安んじ寇を静める心無く、また葛亮の且つ縦ち且つ擒える伎も無い。ただ詭謀狡算を知り、恣りに情を割き剝ぎ、貪叨劫掠し、積もりて常と為すのみである。酋渠を扇動し、朋党を遺し成し、支を折り諂い笑い、蛮夷に媚びを取り、跪き伏し趨るに、復た慚恥無し。子弟を提げ挈し、凶愚を嘯き引き、蒲博に聚い会し、一擲累万。剣南の逋逃、中原の亡命、二千余戸有り、彼の州に散在し見え、専ら掠奪を以て業と為す。姚州は元より龍朔中、武陵県主簿石子仁が奏して置きし所、後に長史李孝讓・辛文協並びに群蛮に殺さる。前朝、郎将趙武貴を遣わして討撃せしむるも、貴及び蜀兵は時に応じて破敗し、噍類遺す無し。又、将軍李義総等を遣わして征せしむるも、郎将劉惠基は陣に戦死し、その州は乃ち廃せらる。臣はひそかに諸葛亮が官を置き兵を留めるに三不易有りと称えたその言の、乃ち験有ることを思う。垂拱四年に至り、蛮郎将王善宝・昆州刺史爨乾福又た州を置くことを請い、奏して言うに、所有の課税は、自ら姚府管内より出で、更に蜀中を労擾せずと。及び州を置く後、録事参軍李棱は蛮に殺さる。延載中、司馬成琛が瀘南に鎮七所を置くことを奏請し、蜀兵を遣わして防守せしむ。此れより蜀中騒擾し、今に至るも息まず。

且つ姚府は総管五十七州、巨猾遊客、数え勝たず。国家が官を設け職を分つは、本と俗を化し奸を妨げんとするに在り。無恥無厭、狼籍此の如し。今、夷夏を問わず、負罪並びに深く、道路の劫殺を見るも、禁止能わず。恐らくは一旦驚擾すれば、禍い転じて大とならん。伏して姚州を省罷し、巂府に隷せしめ、歳時朝覲し、蕃国と同からしむることを乞う。瀘南の諸鎮も亦皆悉く廃し、瀘北に関を置き、百姓自ら蕃に入るを奉使するに非ざれば、交通往来を許さず。巂府の兵選を増し、清良の宰牧を択びて以てこれを統理せしむ。臣愚、将に穩便たらんとす。

疏を奏す。則天、納れず。

後に累ねて荊州大都督府長史に拝せらる。長安中、召されて司刑少卿と為り、秋官侍郎に遷る。時に夏官尚書姚崇が霊武軍使と為り、将に行かんとす。則天、外司に堪えて宰相と為るべき者を挙げよと令す。崇対えて曰く、「張柬之は沈厚謀有り、能く大事を断つ。且つその人年老いり。惟れ陛下急ぎ之を用いよ」と。則天、登時に召見し、尋いで同鳳閣鸞台平章事と為す。未だ幾ばくもせず、鳳閣侍郎に遷り、仍って政事を知る。及び張易之兄弟を誅するに、柬之その事の首謀と為る。中宗即位し、功を以て擢て天官尚書・鳳閣鸞台三品に拝し、漢陽郡公に封じ、実封五百戸を食む。未だ幾ばくもせず、中書令に遷り、国史を監修す。月余りして、漢陽郡王に進封し、特進を加授せられ、政事を知るを罷むるを令す。

その年秋、柬之表を上りて襄州に帰り疾を養わんことを請う。之を許し、仍って特ちに襄州刺史を授け、又た其の子漪を著作郎に拝し、父の任に随うを令す。上親しく詩を賦して祖道し、又た群公に令して定鼎門外に餞送せしむ。柬之襄州に至り、郷親旧交罪に抵る者有れば、必ず深文法を致し、縱捨する所無し。其の子漪、功を立てしを恃み、毎に諸の少長を見るに、礼を以て接せず。時議以て荊楚の剽性を易うる能わざるなりと為す。尋いで武三思に構えられ、新州司馬に貶授せらる。柬之新州に至り、憤恚して卒す。年八十余。景雲元年、製して曰く、「徳を褒め功を紀すは、事典冊に華やかなり。終を飾り遠を追うは、理名教に光りたり。故吏部尚書張柬之は、興運を翼戴し、帝道を謨明し、経綸謇諤、風範猶存す。往きて回邪に属し、釁咎を構成し、辜無く放逐せられ、荒遐に淪没す。言い勳賢を念えば、良く深く軫悼す。宜しく寵贈を加え、式ち幽泉を賁すべし。中書令を贈り、漢陽郡公に封ずべし」と。建中初、又た司徒を贈る。

玄孫璟、開成二年、宜城尉より遷りて寿安尉と為る。

袁恕己

袁恕己は、滄州東光の人なり。長安中、歴遷して司刑少卿と為り、兼ねて相王府司馬事を知る。敬暉等将に張易之兄弟を誅せんとす。恕己その謀議に預かり、又た相王に従い南衙兵仗を統率し、以て非常に備う。事定まるに及び、銀青光禄大夫を加えられ、行中書侍郎・同中書門下三品と為り、南陽郡公に封じ、実封五百戸を食む。将作少匠楊務廉は素より工巧を以て用いられ見ゆ。中興初、恕己其の更に遊娛侈靡の端を啓かんことを恐れ、中宗に言いて曰く、「務廉九卿の位に致り、歳年積もり有り。苦言嘉謀、紀すに足る無し。毎に宮室営構するに、必ず其の侈を務む。若し之を斥けざれば、何を以てか広く聖徳を昭らかにせん」と。是れより務廉を左授して陵州刺史と為す。恕己俄ちに擢て中書令に拝せられ、仍って特進を加えられ、南陽郡王に封じられ、政事を知るを罷む。則天崩じ、遺製に実封を加えて満七百戸と為す。後に敬暉等と累ねて貶黜に遭い、環州に流さる。尋いで周利貞に逼せられ、野葛汁数升を飲む。恕己常に黄金を服し、毒餌発し、憤悶し、手を以て地を掘り、土を取りて食らう。爪甲殆んど尽き、竟に死せず。乃ち撃ちて之を殺す。建中初、太子太傅を贈る。

曾孫徳文、進士に挙げらる。開成三年、秘書省校書郎を授けらる。

史臣曰く

史臣曰く、昔、夫差が越に入り、勾踐は會稽に保つ。子胥の言を聽かずして、甬東の歎有り。此の五王は凶を除き正に返り、計を得て功を成す。是の時に當たり、彥範・敬暉は兵を握り勢を全うし、三思・攸暨其の黨半ば殲せらる。若し季昶の言に從はば、寧ぞ利貞の禍有らんや。蓋し心に忍びざるを懷き、遽かに後圖を失ひ、黜削流移す。理固然なり。且つ蔓を芟りて本を拔く能はず、謀を建てて尚ほ微を防ぐに欠く。死すること即ち辜無しと雖も、禍は自ら掇むに由る。斷を失ひて亂を召す、亦た宜ならずや。

贊して曰く、嗟彼の五王、有唐に忠なり。火木に在るを知り、其の傷無きを謂ふ。禍發して既に克ち、勢摧けて當ふ可からず。何事か敏ならず、身を周るの防。