旧唐書
列伝第四十 王及善、杜景儉、朱敬則、楊再思、李懷遠、豆盧欽望
王及善
王及善は、洺州邯鄲の人である。父は君愕。隋の大業の末、并州の人王君廓が邯鄲を掠奪したとき、君愕は君廓のもとに赴き説いて言った。「今、天子が統御を失い、英雄が競い起こっている。まさに遺民を慰撫し受け入れ、地勢の要害を保全し、甲を按えて時勢の変遷を見守り、衆を擁して真主に帰順すべきである。これこそ富貴を図る道である。今、足下は居るに尺土の地もなく、守るに兼旬の糧もなく、恣に残忍を行い、過ぎ行く所で掠奪する。ひそかに足下のために寒心する。」君廓が「計はどうすればよいか」と問うと、君愕は井陘の険しさを述べて、先ずそこを占拠すべきことを説いた。君廓はその言葉に従い、井陘山に屯した。一年余りして、義師が関中を平定するのに合わせ、君廓と共に配下の一万余人を率いて降伏し、大将軍に拝された。しばしば戦功により新興県公に封ぜられ、累進して左武衛将軍となった。太宗に従って遼東を征し、左屯営兵馬を兼ねて領した。高麗と駐蹕山で戦い、君愕は先鋒として陣に陷り、力戦して死んだ。太宗は深く痛悼し、左衛大将軍・幽州都督・邢国公を追贈し、東園秘器を賜り、昭陵に陪葬された。
及善は十四歳の時、父が王事に死したことにより、朝散大夫を授けられ、邢国公の爵を襲いだ。高宗の時、累進して左奉裕率となった。孝敬太子が春宮に居たとき、宴席で宮官に倒立を命じ、順番が及善に及んだが、及善は辞して言った。「殿下にはご自身の楽官がおります。臣は職守に当たるべきであり、これは臣の任ではありません。臣が命令に従えば、殿下の輔翼たる備えにはならないかと恐れます。」太子は謝して彼を帰らせた。高宗はこれを聞いて特に賞慰を加え、絹百匹を賜った。まもなく右千牛衛将軍に除され、高宗は言った。「朕は卿が忠謹であるゆえ、卿に三品の要職を与える。他人は搜辟されなければ朕の所に至れないが、卿は大横刀を佩びて朕の側にいる。この官の貴さを知っているか。」ほどなく病気で免ぜられたが、まもなく起用されて衛尉卿となった。
垂拱年中、司属卿を歴任した。当時、山東が飢饉にあったため、及善は巡撫賑給使となった。まもなく春官尚書・秦州都督に拝され、転じて益州大都督府長史となった。老病を理由に致仕を請うたが、光禄大夫を加授された。後に契丹が乱を起こし、山東が不安となったため、起用されて滑州刺史に授けられた。則天武后は言った。「辺境の賊が反乱した。卿は病気ではあるが、妻子を連れて一日三十里を行き、緩やかに歩いてそこに至り、朕のために臥してこの州を治め、黄河の通路を断ってほしい。」朝廷の得失を問うと、及善は治乱の要道を十余条備えて陳べた。則天は言った。「あれは末事であり、これが本である。卿は行ってはならない。」そこで留めて内史に拝した。
当時、御史中丞の来俊臣は常に飛び火のような禍で良善を陥れ、侯王将相から彼の羅織によって殺戮された者は数え切れなかった。後に俊臣は事に坐して獄に繋がれ、有司は極刑を断じたが、則天は赦そうとした。及善は執奏して言った。「俊臣は凶悪狡猾で軌道を逸し、信任する者は皆、屠販の小人であり、誅戮する者は多く名徳の君子です。臣の愚見では、もし元悪を剿絶しなければ、朝廷が動揺することを恐れ、禍はここから始まるでしょう。」則天はこれを容れた。ほどなく則天が廬陵王を追って太子に立てようとしたとき、及善はその計に賛成した。太子が立つと、また太子に外朝を行わせて人心を慰めるよう請い、則天は従った。
及善は学術はなかったが、官にあるときは常に清正をもって知られ、事に臨んではその意志を奪い難く、大臣の節操があった。当時、張易之兄弟が寵を恃み、内宴のたびに人臣の礼を失っていた。及善はしばしば奏してこれを抑えようとしたので、則天は悦ばず、及善に言った。「卿は既に高齢である。これ以上遊宴に侍するには宜しくない。ただ閤中を検校すればよい。」及善は病気を理由に一月余り休暇を請うたが、則天は全く問わなかった。及善は嘆いて言った。「豈に中書令でありながら天子が一日も会わないことがあろうか。事の成り行きは知れたものだ。」そこで上疏して骸骨を乞うたが、三度上奏しても許されなかった。聖暦二年、文昌左相に拝され、十日にして薨じた。八十二歳であった。三日間朝を廃し、益州大都督を追贈し、諡して貞といい、乾陵に陪葬された。
杜景儉
杜景儉は、冀州武邑の人である。若くして明経に挙げられ、累進して殿中侍御史に除された。出て益州録事参軍となった。当時、隆州司馬の房嗣業が益州司馬に除されたが、除書が未だ届かないうちに、早くも視事しようとし、また僚吏を鞭打ち、これで威を示そうとした。景儉は言った。「公はこの州の司馬に任命を受けたとはいえ、州司はまだ命を受けていません。どうして数日の俸禄に頼り、九重の旨を待たず、即座に視事しようとするのですか。あまりに急ではありますまいか。」嗣業はますます怒った。景儉はまた言った。「公は今、咫尺の制書を持っているが、真偽は未だ知れません。即座に一州の権を攬ろうとすれば、誰が保証しましょうか。揚州の禍は、この類いではありませんか。」そこで左右を叱って各々罷散させると、嗣業は慚赧して止めた。ほどなく制があり、嗣業を荊州司馬に除したが、ついに志のようにはならなかった。人吏はこれについて語って言った。「録事の意、天と通ず、益州司馬威風を折る。」景儉はこれによって次第に知名となった。入朝して司賓主簿となり、転じて司刑丞となった。
天授年中、徐有功・来俊臣・侯思止と共に制獄を専ら理め、当時の人は言った。「徐・杜に遇えば必ず生く、来・侯に遇えば必ず死す。」累進して洛州司馬となった。まもなく転じて鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。則天はある時、季秋に内裏から梨花一枝を取り出して宰臣に示し、「これは何の祥瑞か」と問うた。諸宰臣は言った。「陛下の徳が草木に及び、故に秋の木が再び花を咲かせたのです。周の文王の徳が行葦に及んだとしても、これを超えることはありません。」景儉だけは言った。「謹んで『洪範五行伝』を按ずるに、『陰陽は相い倫を奪わず、これを瀆すれば即ち災となる』とあります。また『春秋』に、『冬に愆陽なく、夏に伏陰なく、春に淒風なく、秋に苦雨なし』とあります。今は既に秋で、草木は黄落しているのに、忽ちこの花を生じたのは、陰陽を瀆しているのです。臣は陛下の布教施令に、礼典を虧くところがあるのではないかと慮ります。また臣らは宰臣を忝くし、天を助けて物を理めています。理めて和せざれば、臣の罪です。」そこで再拝して謝罪すると、則天は言った。「卿は真の宰相である。」
延載の初め、鳳閣侍郎の周允元が景儉が李昭德に党することを奏したため、左遷されて溱州刺史となった。後に累進して司刑卿に除された。聖暦二年、再び鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事に拝された。当時、契丹が侵入し、河北の諸州は多く賊中に陥った。事が定まると、河内王武懿宗はその罪をことごとく論じようとした。景儉はこれらは皆、駆り立てられ逼迫されたもので、本心ではないと考え、悉くこれを赦すよう請うた。則天はついに景儉の議に従った。一年余りして、転じて秋官尚書となった。禁中の語を漏洩したことに坐し、左遷されて司刑少卿となり、出て并州長史となった。道中で病没し、相州刺史を追贈された。
景儉の子 澄
子の澄は、頗る文藻をもって著名となり、官は鞏県尉に至った。
朱敬則
朱敬則は、字を少連といい、亳州永城の人である。代々孝義をもって称せられ、周より唐に至るまで、三代にわたり旌表され、門に六闕を標し、州党これを美とした。敬則は倜儻として節義を重んじ、早くより辞学をもって知名であった。三従兄と同居し、財産に異なることがなかった。また左史江融・左僕射魏元忠と特に相善くした。咸亨年中、高宗これを聞き召し見て、語り合い甚だこれを奇とし、将に擢用せんとしたが、中書舍人李敬玄に毀られたため、洹水尉を授けられた。
長寿年中、累ねて右補闕を除かれた。敬則は則天が初めて朝に臨み制を称するに当たり、天下に流言異議頗る多きを以て、是に至り既に漸く寧晏となったから、告密羅織の徒を絶つべしとし、上疏して曰く。
則天は甚だこれを善しとした。
長安三年、累ねて正諫大夫に遷り、尋いで同鳳閣鸞台平章事となった。時に御史大夫魏元忠・鳳閣舍人張説が張易之兄弟に誣構され、将に重辟に陥らんとしたが、諸宰相に敢えて言う者なく、敬則独り抗疏して申理して曰く、「元忠・張説は素より忠正と称せられ、坐する所名無し。若し罪を得せしめば、豈に天下の望を失わざらんや」と。乃ち死を減ずるを得た。四年、老疾を以て知政事を罷むるを請い、これを許され、累ねて冬官侍郎に転じ、仍って旧の如く国史を修むるを兼ねた。張易之・昌宗嘗て画工に命じて武三思及び納言李嶠・鳳閣侍郎蘇味道・夏官侍郎李迥秀・麟台少監王紹宗等十八人の形像を図写せしめ、号して『高士図』と為し、毎に敬則を引きてその事に預からしめたが、固く辞して就かず、その高潔守正この如し。
神龍元年、出でて鄭州刺史となり、尋いで老を以て致仕した。二年、侍御史冉祖雍は素より敬則と協わず、乃ち誣奏して王同皎と親善なりと云い、廬州刺史に貶授された。数ヶ月を経て、代官到着し、郷里に還るに、淮南の一物も無く、唯だ乗る所の馬一匹あるのみで、諸子侄は歩行して従い帰った。敬則は然諾を重んじ、善く人と交わり、毎に人の急難を拯い、その報いを求めなかった。また嘗て三従兄と四十余年間同居し、財産に異なることがなかった。雅に知人の鑑有り、凡そ品論に在る者は、後皆その言の如し。景龍三年五月、家に卒し、年七十五。
敬則は嘗て魏・晋以来の君臣成敗の事を採り、『十代興亡論』を著した。また前代の文士が五等を論じて廃する者は、秦を以て失と為すも、事未だ折衷せずとし、乃ち『五等論』を著して曰く。
当時の賢者はこれを是とした。
敬則が知政事の時、毎に用人を以て先と為した。桂州の蛮叛するに、裴懐古を薦め;鳳閣舍人の缺けるに、魏知古を薦め;右史の缺けるに、張思敬を薦めた。則天は人を知ると為した。
睿宗即位し、嘗て侍臣に謂いて曰く、「神龍以来、李多祚・王同皎並びに旧官を復し、韋月将・燕欽融咸に褒贈有り、知らず更に何人か有りて、尚ほ冤抑を抱くや」と。吏部尚書劉幽求対えて曰く、「故鄭州刺史朱敬則は、往昔則天朝に正諫大夫・知政事を任じ、忠貞義烈、天下の推する所と為る。神龍の時、宗楚客・冉祖雍等に誣構され、左授して廬州刺史と為る。長安年中、嘗て臣に謂いて云く、『相王必ず期を膺けて命を受くべし、当に須らく節を尽くしてこれに事うべし』と。韋氏の篡逆紀を干するに及び、臣遂に危を見て難に赴き、翼戴して興暦を輔けしは、則天その事を誘うと雖も、亦是れ敬則の先んじて啓くの心なり。今陛下龍興して宝位に即くに、凶党就戮し、敬則尚ほ泉壤に冤を銜み、未だ昭雪を蒙らず。況んや復た事符先覚、誠に即ち嘉すべし」と。睿宗これを然とし、敬則に秘書監を贈り、諡して元と曰う。
楊再思
楊再思は、鄭州原武の人である。少くして明経に挙げられ、玄武尉を授かった。使を充てて京師に詣り、客舎に止まった。会うこと盗その囊装を窃むに、再思邂逅これに遇い、盗者は伏罪したが、再思これに謂いて曰く、「足下当に貧匱を苦しむべく、ここに至りて行い無し。速やかに去りて声を作すなかれ、恐らくは他人の擒と為らん。幸いに公文を留め、余財尽く以て相遺す」と。盗者は斎して去り、再思初めその事を言わず、仮貸して帰った。累ねて天官員外郎に遷り、左右粛政台御史大夫を歴任した。延載初め、鸞台侍郎を守り、同鳳閣鸞台平章事となった。証聖初め、鳳閣侍郎に転じ、前の如く同平章事とし、太子右庶子を兼ねた。尋いで内史に遷り、弘農県男より累ねて封ぜられ鄭国公に至った。
再思は三主に歴事してより、知政十余年、未だ嘗て薦達する所無し。人となり巧佞邪媚にして、能く人主の微旨を得、主意の欲せざる所は必ずこれに因りてこれを毀ち、主意の欲する所は必ずこれに因りてこれを誉めた。然れども恭慎畏忌し、未だ嘗て物に忤わず。或る者再思に謂いて曰く、「公名高く位重し、何を為してか屈折この如きや」と。再思曰く、「世路艱難、直なる者は禍を受く。苟もこの如くせずんば、何を以てかその身を全うせんや」と。長安末、昌宗既に法司に鞫せられ、司刑少卿桓彦範その職を断解した。昌宗俄に又抗表して冤を称し、則天意将に昌宗を申理せんとし、廷に宰臣に問いて曰く、「昌宗は国に功有りや否や」と。再思対えて曰く、「昌宗往昔合練神丹するに因り、聖躬これを服して効有り、此れ実に莫大の功なり」と。則天甚だ悦び、昌宗竟に職を復するを得た。時人は彦範を貴びて再思を賤しめた。時に左補闕戴令言『両脚野狐賦』を作りてこれを譏刺したが、再思これを聞き甚だ怒り、令言を出して長社令と為し、朝士尤も嗤笑を加えた。再思が御史大夫の時、張易之の兄司礼少卿同休嘗て公卿大臣に奏請して司礼寺に宴せしめ、その会に預かる者皆尽く酔い極めて歓んだ。同休戯れて曰く、「楊内史の面は高麗に似たり」と。再思欣然とし、紙を剪りて自ら巾に貼るを請い、却って紫袍を披き、高麗舞を為し、頭を縈わせ手を舒べ、挙動節に合い、満座嗤笑した。又易之の弟昌宗は姿貌を以て寵幸を見たが、再思又これを諛って曰く、「人言う六郎の面は蓮花に似たりと;再思は蓮花は六郎に似たりと為す、六郎が蓮花に似たるに非ざるなり」と。その傾巧取媚この如し。
長安四年、本官を以て京兆府長史を検校し、又検校揚州大都督府長史に遷った。中宗即位し、戸部尚書を拝し、中書令を兼ね、侍中に転じ、宮僚を以て鄭国公に封ぜられ、実封三百戸を賜った。又冊順天皇后使と為り、物五百段を賜い、鞍馬これに称した。時に武三思将に王同皎を誣殺せんとし、再思は吏部尚書李嶠・刑部尚書韋巨源と並びに制を受けてその獄を考按したが、竟にその枉を発明することができず、同皎をして死に至らしめ、衆これを冤とした。再思俄に又中書令・吏部尚書と為った。景龍三年、尚書右僕射に遷り、光禄大夫を加えられた。その年薨じ、特進・并州大都督を贈られ、乾陵に陪葬し、諡して恭と曰う。子の植、植の子の献は、並びに司勲員外郎と為った。再思の弟季昭は考功郎中と為り、温玉は戸部侍郎と為った。
李懐遠
李懷遠は、邢州柏仁の人である。早くに孤兒となり貧しくして、学問を好み、文章を作ることに長じていた。同族の者で、高い蔭位を貸そうとする者がいたが、懷遠はついにこれを拒み、退いて歎息して言うには、「人の勢いに乗ずることは、高士の為すところではない。蔭を借りて官を求めるなど、どうしてわが本来の志であろうか」と。間もなく、四科挙に応じて及第し、累進して司禮少卿に任じられた。外任として邢州刺史となったが、それが故郷であるため、固辞して就任せず、改めて冀州刺史を授けられた。ほどなく揚州・益州等の大都督府長史を歴任し、赴任しないうちに、また同州刺史を授けられた。在職中は清廉簡素で称えられた。中央に召されて太子左庶子となり、兼ねて太子賓客を務め、右散騎常侍・春官侍郎を歴任した。大足年間、鸞台侍郎に昇進し、まもなく同鳳閣鸞台平章事となった。一年余りして、銀青光祿大夫を加えられ、秋官尚書に任じられ、兼ねて檢校太子左庶子を務め、平郷縣男の爵位を賜った。長安四年、老齢を理由に辞職を願い出て、秋官尚書を解くことを許され、正しく太子左庶子に任じられ、まもなく太子賓客を授けられた。神龍初年、左散騎常侍・兵部尚書・同中書門下三品に任じられ、金紫光祿大夫を加えられ、趙郡公に進封され、特に実封三百戸を賜った。ほどなく病気により致仕を請い、許された。中宗が京師に行幸しようとしたとき、また本官のまま東都留守を務めるよう命じられた。
懷遠は長く栄位に居ながら、ますます簡素・質素を尊び、庭園や邸宅を改築することはなかった。常に緩やかな歩みの馬に乗っていた。左僕射豆盧欽望が言うには、「公はこれほど栄貴でありながら、どうして駿馬を買って乗らないのか」と。答えて言うには、「この馬は幸いにも驚いて転ぶことがなく、別に求める必要はない」と。聞いた者は誰もが歎美しなかった。神龍二年八月に卒去すると、中宗は特に錦の衾を賜って殯に充て、一日朝政を停め、自ら文を作ってこれを祭り、侍中を追贈し、諡して成といった。子に景伯がいる。
懷遠の子 景伯
景伯は、景龍年間に給事中となり、また諫議大夫に昇進した。中宗がかつて侍臣と朝集使を宴に招き、酒が酣になったとき、それぞれに『回波辭』を作るよう命じた。皆こびへつらう言葉を作り、また自ら栄位を求めた。次に景伯の番になると、言うには、「回波の時に酒の杯、微臣の職は箴規に在り。侍宴すでに三爵を過ぎ、喧嘩は恐らく儀に非ず」と。中宗は快く思わなかったが、中書令蕭至忠がこれを称えて言うには、「これは真の諫官である」と。景雲年間、累進して右散騎常侍となり、まもなく老病により致仕した。開元年間に卒去した。子に彭年がいる。
景伯の子 彭年
彭年には吏才があり、事柄を分析するのに巧みで、当時に称えられた。開元年間、考功員外郎・知挙を歴任し、また中書舍人・給事中・兵部侍郎に昇進した。天寶初年、また吏部侍郎となり、右相李林甫と親しかった。山東の名族を慕って婚姻関係を結び、彼らを清要な官職に引き立てて、自らの家門を大きくした。選考を管轄すること七年、後に贓汙の罪で御史中丞宋渾に弾劾され、遠流となって嶺南の臨賀郡に流された。数か月後、宋渾とその弟の宋恕もまた贓罪で獄に下され、詔により宋渾は嶺南高要郡に、宋恕は南康郡に流された。天寶十二載、彭年を起用して濟陰太守とし、また馮翊太守に転じ、中央に入って中書舍人・給事中・吏部侍郎となった。十五載、玄宗が蜀に行幸したとき、賊が西京を陥落させた。彭年は賊に捕らえられ、脅迫されて偽官を授けられ、憂憤してうつうつと志を得ず、韋斌に次いで卒去した。両京が回復した後、優詔を下して彭年に禮部尚書を追贈した。
豆盧欽望
豆盧欽望は、京兆萬年の人である。曾祖父の通は、隋の相州刺史・南陳郡公であった。祖父の寬は、すなわち隋文帝の甥である。大業末年、梁泉令となった。高祖が関中を平定すると、寬は郡守の蕭瑀とともに豪族を率いて京師に赴き、これにより累進して殿中監に任じられ、また詔によりその子の懷讓が萬春公主を娶った。高祖は、寬の曾祖父の萇が魏の太和年間に例として単姓を称していたことから、この時に至って寬を盧氏に改めさせた。貞観年間、禮部尚書・左衛大將軍を歴任し、芮國公に封じられた。永徽元年に卒去し、特進・并州都督を追贈され、昭陵に陪葬され、諡して定といった。またその姓を豆盧氏に復した。父の仁業は、高宗の時に左衛將軍となった。
欽望は、則天の時に累進して司賓卿となった。長壽二年、宗秦客に代わって内史となった。当時李昭德もまた内史であり、権力を握って事を行っていた。欽望は同時の宰相韋巨源・陸元方・蘇味道・杜景儉らとともに、曲げてこれに従った。證聖元年、昭德が事に坐して左遷され涪陵尉となると、則天は欽望らが正しく執ることができなかったとして、また司刑少卿皇甫文備が欽望が昭德に附会し、上を欺き下に附したと上奏したため、欽望を左遷して趙州刺史とし、韋巨源は右丞から鄜州刺史に、陸元方は秋官侍郎から綏州刺史に、蘇味道は鳳閣侍郎から集州刺史とした。その年、欽望は中央に入って司禮卿となり、秋官尚書に昇進し、芮國公に封じられた。外任として河北道宣勞使となった。ほどなく廬陵王が再び皇太子となると、欽望を皇太子宮尹とした。聖暦二年、文昌右相・同鳳閣鸞台三品に任じられ、まもなく太子賓客を授けられ、政事を知ることを停められた。
中宗が即位すると、欽望が東宮の旧臣であったため、尚書左僕射・知軍國重事に任じ、兼ねて檢校安國相王府長史、兼中書令・知兵部事・監修國史を務めた。
欽望は両朝にわたって宰相となり、前後十余年に及んだが、張易之兄弟および武三思父子はいずれも専権で驕り高ぶり、逆乱を図っていた。欽望はただ己の身を慎むだけで、これを匡正することができず、このことで世に譏りを受けた。神龍二年、開府儀同三司に任じられた。景龍三年五月、致仕を願い出る上表をしたが、許されなかった。十一月に卒去し、八十余歳であった。司空・并州大都督を追贈され、諡して元といい、東園秘器を賜り、乾陵に陪葬された。則天の時、宰相にはまた張光輔・史務滋・崔元綜・周允元らがおり、いずれも名声と事績があった。
附 張光輔
張光輔は、京兆の人である。若い頃から明晰で弁が立ち、吏務の才能があった。累進して司農少卿・文昌右丞となった。越王貞を討伐平定した功績により、鳳閣侍郎・知政事に任じられた。永昌元年、納言に昇進した。十日ほどで、また内史に任じられた。いずれも名声があった。その年、洛州司馬房嗣業・洛陽令張嗣明が、徐敬業の弟の敬真とひそかに交結した罪に坐した。敬真は流刑地の繡州から逃げ帰り、北へ向かって突厥に投じ、胡虜を引き入れて寇掠しようとした。洛陽の地を通過する際、嗣業・嗣明の二人が衣服と食糧を与えて送り出した。定州まで行ったところ、人に気づかれた。嗣業は獄中で自縊死した。嗣明と敬真は多くの海内の知人を引き合いに出し、死を緩めようとした。嗣明は、光輔が豫州を征した日に、私的に讖緯や天文を説き、ひそかに両端を懐き、成敗を観望していたと称した。光輔はこれにより誅殺され、家族は籍没された。
附 史務滋
史務滋は、宣州溧陽の人である。累進して内史となった。天授年間、雅州刺史劉行實およびその弟の渠州刺史行瑜・尚衣奉禦行感、ならびに兄の子の左鷹揚將軍虔通が、いずれも侍御史來子珣に謀反の罪を誣告されて誅殺された。また盱眙で彼らの父の左監門大將軍伯英の棺柩を破壊した。初め、務滋はもともと行感と親密であり、その反状を鎮めようと考えていた。則天は怒り、俊臣にこれを審理させた。務滋は刑に陥れられることを恐れ、自殺した。
崔元綜を附載する。
崔元綜は、鄭州新鄭の人である。祖父の君肅は、武徳年間に黄門侍郎・鴻臚卿を務めた。元綜は、天授年間に累進して秋官侍郎となった。長寿元年、鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事に遷った。元綜は政事に勤勉で、中書省に在る時は必ず帯を締めて夜遅くまで勤め、休み臥すことはなかった。細かい行いを清潔に好み、辛い物を口にしないこと二十余年であった。外見は謹厚を示すも、内心は深刻で薄情であり、詔を受けて獄を審理する時は必ず毛を分けて疵を求め、重い刑に陥れた。この故に人多くは畏れてこれを卑しんだ。翌年、罪を得て振州に配流され、朝野これを称慶せざるはなかった。間もなく赦されて還り、再び監察御史に拝された。中宗の時、累進して尚書左丞・蒲州刺史となり、老病を以て致仕した。晚年は摂養導引の術を好み、年九十余で卒した。
周允元を附載する。
周允元は、豫州の人である。弱冠にして進士に挙げられた。延戴初年、累進して左粛政御史中丞となり、俄かに鳳閣鸞台平章事を除かれた。嘗て諸宰臣と共に侍宴した時、則天皇帝は各々に書伝中の善言を述べさせた。允元は曰く、「其の君の堯・舜に如かざるを恥ず」と。武三思はこの言葉に指斥有りと為し、糾してこれを駁した。則天は曰く、「この言を聞くは以て誡めと為すに足り、豈に特ち過ちと為さんや」と。証聖元年に卒し、貝州刺史を贈られた。則天は七言詩を作りてこれを傷み、又自ら繕写し、時に以て栄えと為した。
史官曰く
史官曰く、王及善は孝敬皇帝の東宮に在りて、誠に職を奉ずる能くあり。俊臣の獄に下るに当たり、力を尽くして凶を除くを諫め、是れ濫りに賢良に及ぶを憂え、而して羽翼を明らかに彰さんと欲し、興復の志、心無しと謂うべからず。杜景儉は五刑濫り有るも、済活を心と為し、四気和せざるも、罪を己に帰し、則天これを「真の宰相」と謂う。然れども李昭德に柔順なるに奈何、剛を吐くの過ち無きに非ざるなり。朱敬則は文学称え有り、節行愧ずる無く、諫諍果決、推択精真、苟も古今を洞鑒し、王霸を深く識らざれば、何を由りてか其の高論を立つるを得ん。惜しいかな、相たる時を得ざりしを。楊再思は佞みて貴きを取り、苟くも身を全うするを以てし、不善を掩いて自ら欺き、十目十手無しと謂う。李懷遠は名を仮蔭に苟くせず、貴きを故郷に衒わず、陋居を改めず、常に劣駟に乗る、亦一時の善き者なり。然れども躬を匪とするの道は、未だこれを聞かず。豆盧欽望・張光輔・史務滋・崔元綜・周允元等は、或いは片言有り、小善無きに非ず、大用に登る、具臣と謂うべし。
賛に曰く
賛に曰く、及善は職を奉ず、智力無きに非ず。景儉は権に当たり、賢ならずと謂うべからず。雄文高節、少連絶たるを為す。道を守り貧に安んずる、懷遠仁に当たる。欽望の属、片善何ぞ足らん。諂媚の再思、只だ宜しく遄速すべし。