舊唐書

巻090

巻090

舊唐書

原文舊唐書

卷九十

原文卷九十

列傳第四十 王及善 杜景儉 朱敬則 楊再思 李懷遠 豆盧欽望

原文列傳第四十 王及善 杜景儉 朱敬則 楊再思 李懷遠 豆盧欽望

王及善

原文王及善

王及善は、洺州邯鄲の人である。父は君愕。隋の大業の末、并へい州の人王君廓が邯鄲を掠奪したとき、君愕は君廓のもとに赴き説いて言った。「今、天子が統御を失い、英雄が競い起こっている。まさに遺民を慰撫し受け入れ、地勢の要害を保全し、甲を按えて時勢の変遷を見守り、衆を擁して真主に帰順すべきである。これこそ富貴を図る道である。今、足下は居るに尺土の地もなく、守るに兼旬の糧もなく、恣に残忍を行い、過ぎ行く所で掠奪する。ひそかに足下のために寒心する。」君廓が「計はどうすればよいか」と問うと、君愕は井陘の険しさを述べて、先ずそこを占拠すべきことを説いた。君廓はその言葉に従い、井陘山に屯した。一年余りして、義師が関中を平定するのに合わせ、君廓と共に配下の一万余人を率いて降伏し、大将軍に拝された。しばしば戦功により新興県公に封ぜられ、累進して左武衛将軍となった。太宗に従って遼東を征し、左屯営兵馬を兼ねて領した。高麗と駐蹕山で戦い、君愕は先鋒として陣に陷り、力戦して死んだ。太宗は深く痛悼し、左衛大将軍・幽州都督ととく・邢国公を追贈し、東園秘器を賜り、昭陵に陪葬された。

原文王及善,洺州邯鄲人也。父君愕。隋大業末,并州人王君廓掠邯鄲,君愕往說君廓曰:「方今萬乘失禦,英雄競起,誠宜撫納遺氓,保全形勝,按甲以觀時變,擁眾而歸真主,此富貴可圖也。今足下居無尺土之地,守無兼旬之糧,恣行殘忍,所過攘兌攵,竊爲足下寒心矣。」君廓曰:「計將安出?」君愕爲陳井陘之險,可先往據之。君廓從其言,乃屯井陘山。歲餘,會義師入定關中,乃與君廓率所部萬餘人來降,拜大將軍。頻以戰功封新興縣公,累遷左武衛將軍。從太宗征遼東,兼領左屯營兵馬。與高麗戰於駐蹕山,君愕先鋒陷陣,力戰而死。太宗深痛悼之,贈左衛大將軍、幽州都督、邢國公,賜東園秘器,陪葬昭陵。

及善は十四歳の時、父が王事に死したことにより、朝散大夫を授けられ、邢国公の爵を襲いだ。高宗の時、累進して左奉裕率となった。孝敬太子が春宮に居たとき、宴席で宮官に倒立を命じ、順番が及善に及んだが、及善は辞して言った。「殿下にはご自身の楽官がおります。臣は職守に当たるべきであり、これは臣の任ではありません。臣が命令に従えば、殿下の輔翼たる備えにはならないかと恐れます。」太子は謝して彼を帰らせた。高宗はこれを聞いて特に賞慰を加え、絹百匹を賜った。まもなく右千牛衛将軍に除され、高宗は言った。「朕は卿が忠謹であるゆえ、卿に三品の要職を与える。他人は搜辟されなければ朕の所に至れないが、卿は大横刀を佩びて朕の側にいる。この官の貴さを知っているか。」ほどなく病気で免ぜられたが、まもなく起用されて衛尉卿となった。

原文及善年十四,以父死王事,授朝散大夫,襲爵邢國公。高宗時,累遷左奉裕率。孝敬之居春宮,因宴集命宮官擲倒,次至及善,辭曰:「殿下自有樂官,臣止當守職,此非臣任也。臣將奉令,恐非殿下羽翼之備。」太子謝而遣之。高宗聞而特加賞慰,賜絹百匹。尋除右千牛衛將軍,高宗謂曰:「朕以卿忠謹,故與卿三品要職。他人非搜辟不得至朕所,卿佩大橫刀在朕側,知此官貴否?」俄以病免,尋起爲衛尉卿。

垂拱年中、司属卿を歴任した。当時、山東が飢饉にあったため、及善は巡撫賑給使となった。まもなく春官尚書・秦州都督に拝され、転じて益州大都督府長史となった。老病を理由に致仕を請うたが、光禄大夫を加授された。後に契丹が乱を起こし、山東が不安となったため、起用されて滑州刺史に授けられた。則天武后は言った。「辺境の賊が反乱した。卿は病気ではあるが、妻子を連れて一日三十里を行き、緩やかに歩いてそこに至り、朕のために臥してこの州を治め、黄河の通路を断ってほしい。」朝廷の得失を問うと、及善は治乱の要道を十余条備えて陳べた。則天は言った。「あれは末事であり、これが本である。卿は行ってはならない。」そこで留めて内史に拝した。

原文垂拱中,暦司屬卿。時山東饑,及善爲巡撫賑給使。尋拜春官尚書、秦州都督,轉益州大都督府長史。以老病請乞致仕,加授光祿大夫。後契丹作亂,山東不安,起授滑州刺史。則天謂曰:「邊賊反叛,卿雖疾病,可將妻子日行三十里,緩步至彼,與朕臥理此州,以斷河路也。」 因問朝廷得失,及善備陳理亂之宜十餘道,則天曰:「彼末事也,此爲本也,卿不可行。」乃留拜內史。

当時、御史中丞の来俊臣は常に飛び火のような禍で良善を陥れ、侯王将相から彼の羅織によって殺戮された者は数え切れなかった。後に俊臣は事に坐して獄に繋がれ、有司は極刑を断じたが、則天は赦そうとした。及善は執奏して言った。「俊臣は凶悪狡猾で軌道を逸し、信任する者は皆、屠販の小人であり、誅戮する者は多く名徳の君子です。臣の愚見では、もし元悪を剿絶しなければ、朝廷が動揺することを恐れ、禍はここから始まるでしょう。」則天はこれを容れた。ほどなく則天が廬陵王を追って太子に立てようとしたとき、及善はその計に賛成した。太子が立つと、また太子に外朝を行わせて人心を慰めるよう請い、則天は従った。

原文時御史中丞來俊臣常以飛禍陷良善,自侯王將相被其羅織受戮者不可勝計。後俊臣坐事繫獄,有司斷以極刑,則天欲赦之。及善執奏曰:「俊臣凶狡不軌,所信任者皆屠販小人,所誅戮者多名德君子。臣愚以爲若不剿絶元惡,恐搖動朝廷,禍從此始。」則天納之。俄而則天將追廬陵王立爲太子,及善讚成其計。及太子立,又請太子外朝以慰人心,則天從之。

及善は学術はなかったが、官にあるときは常に清正をもって知られ、事に臨んではその意志を奪い難く、大臣の節操があった。当時、張易之兄弟が寵を恃み、内宴のたびに人臣の礼を失っていた。及善はしばしば奏してこれを抑えようとしたので、則天は悦ばず、及善に言った。「卿は既に高齢である。これ以上遊宴に侍するには宜しくない。ただ閤中を検校すればよい。」及善は病気を理由に一月余り休暇を請うたが、則天は全く問わなかった。及善は嘆いて言った。「豈に中書令でありながら天子が一日も会わないことがあろうか。事の成り行きは知れたものだ。」そこで上疏して骸骨を乞うたが、三度上奏しても許されなかった。聖暦二年、文昌左相に拝され、十日にして薨じた。八十二歳であった。三日間朝を廃し、益州大都督を追贈し、諡して貞といい、乾陵に陪葬された。

原文及善雖無學術,在官每以清正見知,臨事難奪,有大臣之節。時張易之兄弟恃寵,每內宴,皆無人臣之禮。及善數奏抑之,則天不悅,謂及善曰:「卿既高年,不宜更侍遊〓,但檢校閤中可也。」及善因病請假月餘,則天都不問之,及善歎曰:「豈有中書令而天子得一日不見乎?事可知矣。」乃上疏乞骸骨,三上不許。聖暦二年,拜文昌左相,旬日而薨,年八十二。廢朝三日,贈益州大都督,諡曰貞,陪葬乾陵。

杜景儉

原文杜景儉

杜景儉は、冀州武邑の人である。若くして明経に挙げられ、累進して殿中侍御史に除された。出て益州録事参軍となった。当時、隆州司馬の房嗣業が益州司馬に除されたが、除書が未だ届かないうちに、早くも視事しようとし、また僚吏を鞭打ち、これで威を示そうとした。景儉は言った。「公はこの州の司馬に任命を受けたとはいえ、州司はまだ命を受けていません。どうして数日の俸禄に頼り、九重の旨を待たず、即座に視事しようとするのですか。あまりに急ではありますまいか。」嗣業はますます怒った。景儉はまた言った。「公は今、咫尺の制書を持っているが、真偽は未だ知れません。即座に一州の権を攬ろうとすれば、誰が保証しましょうか。揚州の禍は、この類いではありませんか。」そこで左右を叱って各々罷散させると、嗣業は慚赧して止めた。ほどなく制があり、嗣業を荊州司馬に除したが、ついに志のようにはならなかった。人吏はこれについて語って言った。「録事の意、天と通ず、益州司馬威風を折る。」景儉はこれによって次第に知名となった。入朝して司賓主簿となり、転じて司刑丞となった。

原文杜景儉,冀州武邑人也。少舉明經,累除殿中侍御史。出爲益州錄事參軍。時隆州司馬房嗣業除益州司馬,除書未到,即欲視事,又鞭笞僚吏,將以示威,景儉謂曰:「公雖受命爲此州司馬,而州司未受命也。何藉數日之祿,而不待九重之旨,即欲視事,不亦急耶?」嗣業益怒。景儉又曰:「公今持咫尺之製,真僞未知,即欲攬一州之權,誰敢相保?揚州之禍,非此類耶。」乃叱左右各令罷散,嗣業慚赧而止。俄有制除嗣業荊州司馬,竟不如誌,人吏爲之語曰:「錄事意,與天通,益州司馬折威風。」景儉由是稍知名。入爲司賓主簿,轉司刑丞。

天授年中、徐有功・来俊臣・侯思止と共に制獄を専ら理め、当時の人は言った。「徐・杜に遇えば必ず生く、来・侯に遇えば必ず死す。」累進して洛州司馬となった。まもなく転じて鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事となった。則天はある時、季秋に内裏から梨花一枝を取り出して宰臣に示し、「これは何の祥瑞か」と問うた。諸宰臣は言った。「陛下の徳が草木に及び、故に秋の木が再び花を咲かせたのです。周の文王の徳が行葦に及んだとしても、これを超えることはありません。」景儉だけは言った。「謹んで『洪範五行伝』を按ずるに、『陰陽は相い倫を奪わず、これを瀆すれば即ち災となる』とあります。また『春秋』に、『冬に愆陽なく、夏に伏陰なく、春に淒風なく、秋に苦雨なし』とあります。今は既に秋で、草木は黄落しているのに、忽ちこの花を生じたのは、陰陽を瀆しているのです。臣は陛下の布教施令に、礼典を虧くところがあるのではないかと慮ります。また臣らは宰臣を忝くし、天を助けて物を理めています。理めて和せざれば、臣の罪です。」そこで再拝して謝罪すると、則天は言った。「卿は真の宰相である。」

原文天授中,與徐有功、來俊臣、侯思止專理製獄,時人稱云:「遇徐、杜者必生,遇來、侯者必死。」累遷洛州司馬。尋轉鳳閣侍郎、同鳳閣鸞台平章事。則天嘗以季秋內出梨花一枝示宰臣曰:「是何祥也?」諸宰臣曰:「陛下德及草木,故能秋木再花,雖周文德及行葦,無以過也。」景儉獨曰:「謹按《洪範五行傳》:『陰陽不相奪倫,瀆之即爲災。』又《春秋》云:『冬無愆陽,夏無伏陰,春無淒風,秋無苦雨。』今已秋矣,草木黃落,而忽生此花,瀆陰陽也。臣慮陛下布教施令,有虧禮典。又臣等忝爲宰臣,助天理物,理而不和,臣之罪也。」於是再拜謝罪,則天曰:「卿真宰相也!」

延載の初め、鳳閣侍郎の周允元が景儉が李昭德に党することを奏したため、左遷されて溱州刺史となった。後に累進して司刑卿に除された。聖暦二年、再び鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事に拝された。当時、契丹が侵入し、河北の諸州は多く賊中に陥った。事が定まると、河内王武懿宗はその罪をことごとく論じようとした。景儉はこれらは皆、駆り立てられ逼迫されたもので、本心ではないと考え、悉くこれを赦すよう請うた。則天はついに景儉の議に従った。一年余りして、転じて秋官尚書となった。禁中の語を漏洩したことに坐し、左遷されて司刑少卿となり、出て并州長史となった。道中で病没し、相州刺史を追贈された。

原文延載初,爲鳳閣侍郎周允元奏景儉黨於李昭德,左遷溱州刺史。後累除司刑卿。聖暦二年,復拜鳳閣侍郎、同鳳閣鸞台平章事。時契丹入寇,河北諸州多陷賊中。及事定,河內王武懿宗將盡論其罪。景儉以爲皆是驅逼,非其本心,請悉原之。則天竟從景儉議。歲餘,轉秋官尚書。坐漏泄禁中語,左授司刑少卿,出爲并州長史。道病卒,贈相州刺史。

景儉の子 澄

原文景儉子 澄

子の澄は、頗る文藻をもって著名となり、官は鞏県尉に至った。

原文子澄,頗以文藻著名,官至鞏縣尉。

朱敬則

原文朱敬則

朱敬則は、字を少連といい、亳州永城の人である。代々孝義をもって称せられ、周より唐に至るまで、三代にわたり旌表され、門に六闕を標し、州党これを美とした。敬則は倜儻として節義を重んじ、早くより辞学をもって知名であった。三従兄と同居し、財産に異なることがなかった。また左史江融・左僕射魏元忠と特に相善くした。咸亨年中、高宗これを聞き召し見て、語り合い甚だこれを奇とし、将に擢用せんとしたが、中書舍人李敬玄に毀られたため、洹水尉を授けられた。

原文朱敬則,字少連,毫州永城人也。代以孝義稱,自周至唐,三代旌表,門標六闕,州黨美之。敬則倜儻重節義,早以辭學知名。與三從兄同居,財產無異。又與左史江融、左僕射魏元忠特相友善。咸亨中,高宗聞而召見,與語甚奇之,將加擢用,爲中書舍人李敬玄所毀,乃授洹水尉。

長寿年中、累ねて右補闕を除かれた。敬則は則天が初めて朝に臨み制を称するに当たり、天下に流言異議頗る多きを以て、是に至り既に漸く寧晏となったから、告密羅織の徒を絶つべしとし、上疏して曰く。

原文長壽中,累除右補闕。敬則以則天初臨朝稱製,天下頗多流言異議,至是既漸寧晏,宜絶告密羅織之徒,上疏曰:

則天は甚だこれを善しとした。

原文則天甚善之。

長安ちょうあん三年、累ねて正諫大夫に遷り、尋いで同鳳閣鸞台平章事となった。時に御史大夫魏元忠・鳳閣舍人張説が張易之兄弟に誣構され、将に重辟に陥らんとしたが、諸宰相に敢えて言う者なく、敬則独り抗疏して申理して曰く、「元忠・張説は素より忠正と称せられ、坐する所名無し。若し罪を得せしめば、豈に天下の望を失わざらんや」と。乃ち死を減ずるを得た。四年、老疾を以て知政事を罷むるを請い、これを許され、累ねて冬官侍郎に転じ、仍って旧の如く国史を修むるを兼ねた。張易之・昌宗嘗て画工に命じて武三思及び納言李嶠・鳳閣侍郎蘇味道・夏官侍郎李迥秀・麟台少監王紹宗等十八人の形像を図写せしめ、号して『高士図』と為し、毎に敬則を引きてその事に預からしめたが、固く辞して就かず、その高潔守正この如し。

原文長安三年,累遷正諫大夫,尋同鳳閣鸞台平章事。時御史大夫魏元忠、鳳閣舍人張說爲張易之兄弟所誣構,將陷重辟,諸宰相無敢言者,敬則獨抗疏申理曰:「元忠、張說素稱忠正,而所坐無名。若令得罪,豈不失天下之望也?」乃得減死。四年,以老疾請罷知政事,許之,累轉冬官侍郎,仍依舊兼修國史。張易之、昌宗嘗命畫工圖寫武三思及納言李嶠、鳳閣侍郎蘇味道、夏官侍郎李迥秀、麟台少監王紹宗等十八人形像,號爲《高士圖》,每引敬則預其事,固辭不就,其高潔守正如此。

神龍元年、出でて鄭州刺史となり、尋いで老を以て致仕した。二年、侍御史冉祖雍は素より敬則と協わず、乃ち誣奏して王同皎と親善なりと云い、廬州刺史に貶授された。数ヶ月を経て、代官到着し、郷里に還るに、淮南の一物も無く、唯だ乗る所の馬一匹あるのみで、諸子侄は歩行して従い帰った。敬則は然諾を重んじ、善く人と交わり、毎に人の急難を拯い、その報いを求めなかった。また嘗て三従兄と四十余年間同居し、財産に異なることがなかった。雅に知人の鑑有り、凡そ品論に在る者は、後皆その言の如し。景龍三年五月、家に卒し、年七十五。

原文神龍元年,出爲鄭州刺史,尋以老致仕。二年,侍御史冉祖雍素與敬則不協,乃誣奏云與王同皎親善,貶授廬州刺史。經數月,洎代到,還鄉里,無淮南一物,唯有所乘馬一匹,諸子侄步從而歸。敬則重然諾,善與人交,每拯人急難,不求其報。又嘗與三從兄同居四十餘年,財產無異。雅有知人之鑒,凡在品論者,後皆如其言。景龍三年五月,卒於家,年七十五。

敬則は嘗て魏・晋以来の君臣成敗の事を採り、『十代興亡論』を著した。また前代の文士が五等を論じて廃する者は、秦を以て失と為すも、事未だ折衷せずとし、乃ち『五等論』を著して曰く。

原文敬則嘗采魏、晉已來君臣成敗之事,著《十代興亡論》。又以前代文士論廢五等者,以秦爲失,事未折衷,乃著《五等論》曰:

当時の賢者はこれを是とした。

原文當時賢者是之。

敬則が知政事の時、毎に用人を以て先と為した。桂州の蛮叛するに、裴懐古を薦め;鳳閣舍人の缺けるに、魏知古を薦め;右史の缺けるに、張思敬を薦めた。則天は人を知ると為した。

原文敬則知政事時,每以用人爲先。桂州蠻叛,薦裴懷古;鳳閣舍人缺,薦魏知古;右史缺,薦張思敬。則天以爲知人。

睿宗即位し、嘗て侍臣に謂いて曰く、「神龍以来、李多祚・王同皎並びに旧官を復し、韋月将・燕欽融咸に褒贈有り、知らず更に何人か有りて、尚ほ冤抑を抱くや」と。吏部尚書劉幽求対えて曰く、「故鄭州刺史朱敬則は、往昔則天朝に正諫大夫・知政事を任じ、忠貞義烈、天下の推する所と為る。神龍の時、宗楚客・冉祖雍等に誣構され、左授して廬州刺史と為る。長安年中、嘗て臣に謂いて云く、『相王必ず期を膺けて命を受くべし、当に須らく節を尽くしてこれに事うべし』と。韋氏の篡逆紀を干するに及び、臣遂に危を見て難に赴き、翼戴して興暦を輔けしは、則天その事を誘うと雖も、亦是れ敬則の先んじて啓くの心なり。今陛下龍興して宝位に即くに、凶党就戮し、敬則尚ほ泉壤に冤を銜み、未だ昭雪を蒙らず。況んや復た事符先覚、誠に即ち嘉すべし」と。睿宗これを然とし、敬則に秘書監を贈り、諡して元と曰う。

原文睿宗即位,嘗謂侍臣曰:「神龍已來,李多祚、王同皎並復舊官,韋月將、燕欽融咸有褒贈,不知更有何人,尚抱冤抑?」吏部尚書劉幽求對曰:「故鄭州刺史朱敬則,往在則天朝任正諫大夫、知政事,忠貞義烈,爲天下所推。神龍時,被宗楚客、冉祖雍等誣構,左授廬州刺史。長安年中,嘗謂臣云:『相王必膺期受命,當須盡節事之。』及韋氏篡逆干紀,臣遂見危赴難,翼戴興暦,雖則天誘其事,亦是敬則先啟之心。今陛下龍興寶位,凶黨就戮,敬則尚銜冤泉壤,未蒙昭雪。況復事符先覺,誠即可嘉。」睿宗然之,贈敬則秘書監,諡曰元。

楊再思

原文楊再思

楊再思は、鄭州原武の人である。少くして明経に挙げられ、玄武尉を授かった。使を充てて京師に詣り、客舎に止まった。会うこと盗その囊装を窃むに、再思邂逅これに遇い、盗者は伏罪したが、再思これに謂いて曰く、「足下当に貧匱を苦しむべく、ここに至りて行い無し。速やかに去りて声を作すなかれ、恐らくは他人の擒と為らん。幸いに公文を留め、余財尽く以て相遺す」と。盗者は斎して去り、再思初めその事を言わず、仮貸して帰った。累ねて天官員外郎に遷り、左右粛政台御史大夫を歴任した。延載初め、鸞台侍郎を守り、同鳳閣鸞台平章事となった。証聖初め、鳳閣侍郎に転じ、前の如く同平章事とし、太子右庶子を兼ねた。尋いで内史に遷り、弘農県男より累ねて封ぜられ鄭国公に至った。

原文楊再思,鄭州原武人也。少舉明經,授玄武尉。充使詣京師,止於客舍。會盜竊其囊裝,再思邂逅遇之,盜者伏罪,再思謂曰:「足下當苦貧匱,至此無行。速去勿作聲,恐爲他人所擒。幸留公文,餘財盡以相遺。」盜者齋去,再思初不言其事,假貸以歸。累遷天官員外郎,暦左右肅政台御史大夫。延載初,守鸞台侍郎、同鳳閣鸞台平章事。證聖初,轉鳳閣侍郎,依前同平章事,兼太子右庶子。尋遷內史,自弘農縣男累封至鄭國公。

再思は三主に歴事してより、知政十余年、未だ嘗て薦達する所無し。人となり巧佞邪媚にして、能く人主の微旨を得、主意の欲せざる所は必ずこれに因りてこれを毀ち、主意の欲する所は必ずこれに因りてこれを誉めた。然れども恭慎畏忌し、未だ嘗て物に忤わず。或る者再思に謂いて曰く、「公名高く位重し、何を為してか屈折この如きや」と。再思曰く、「世路艱難、直なる者は禍を受く。苟もこの如くせずんば、何を以てかその身を全うせんや」と。長安末、昌宗既に法司に鞫せられ、司刑少卿桓彦範その職を断解した。昌宗俄に又抗表して冤を称し、則天意将に昌宗を申理せんとし、廷に宰臣に問いて曰く、「昌宗は国に功有りや否や」と。再思対えて曰く、「昌宗往昔合練神丹するに因り、聖躬これを服して効有り、此れ実に莫大の功なり」と。則天甚だ悦び、昌宗竟に職を復するを得た。時人は彦範を貴びて再思を賤しめた。時に左補闕戴令言『両脚野狐賦』を作りてこれを譏刺したが、再思これを聞き甚だ怒り、令言を出して長社令と為し、朝士尤も嗤笑を加えた。再思が御史大夫の時、張易之の兄司礼少卿同休嘗て公卿大臣に奏請して司礼寺に宴せしめ、その会に預かる者皆尽く酔い極めて歓んだ。同休戯れて曰く、「楊内史の面は高麗に似たり」と。再思欣然とし、紙を剪りて自ら巾に貼るを請い、却って紫袍を披き、高麗舞を為し、頭を縈わせ手を舒べ、挙動節に合い、満座嗤笑した。又易之の弟昌宗は姿貌を以て寵幸を見たが、再思又これを諛って曰く、「人言う六郎の面は蓮花に似たりと;再思は蓮花は六郎に似たりと為す、六郎が蓮花に似たるに非ざるなり」と。その傾巧取媚この如し。

原文再思自暦事三主,知政十餘年,未嘗有所薦達。爲人巧佞邪媚,能得人主微旨,主意所不欲,必因而毀之,主意所欲,必因而譽之。然恭慎畏忌,未嘗忤物。或謂再思曰:「公名高位重,何爲屈折如此?」再思曰:「世路艱難,直者受禍。苟不如此,何以全其身哉!」長安末,昌宗既爲法司所鞫,司刑少卿桓彥範斷解其職。昌宗俄又抗表稱冤,則天意將申理昌宗,廷問宰臣曰:「昌宗於國有功否?」再思對曰:「昌宗往因合練神丹,聖躬服之有效,此實莫大之功。」則天甚悅,昌宗竟以復職。時人貴彥範而賤再思也。時左補闕戴令言作《兩腳野狐賦》以譏刺之,再思聞之甚怒,出令言爲長社令,朝士尤加嗤笑。再思爲御史大夫時,張易之兄司禮少卿同休嘗奏請公卿大臣宴於司禮寺,預其會者皆盡醉極歡。同休戲曰:「楊內史面似高麗。」再思欣然,請剪紙自貼於巾,卻披紫袍,爲高麗舞,縈頭舒手,舉動合節,滿座嗤笑。又易之弟昌宗以姿貌見寵幸,再思又諛之曰:「人言六郎面似蓮花;再思以爲蓮花似六郎,非六郎似蓮花也。」 其傾巧取媚也如此。

長安四年、本官を以て京兆府長史を検校し、又検校揚州大都督府長史に遷った。中宗即位し、戸部尚書を拝し、中書令を兼ね、侍中に転じ、宮僚を以て鄭国公に封ぜられ、実封三百戸を賜った。又冊順天皇后使と為り、物五百段を賜い、鞍馬これに称した。時に武三思将に王同皎を誣殺せんとし、再思は吏部尚書李嶠・刑部尚書韋巨源と並びに制を受けてその獄を考按したが、竟にその枉を発明することができず、同皎をして死に至らしめ、衆これを冤とした。再思俄に又中書令・吏部尚書と為った。景龍三年、尚書右僕射に遷り、光禄大夫を加えられた。その年薨じ、特進・并州大都督を贈られ、乾陵に陪葬し、諡して恭と曰う。子の植、植の子の献は、並びに司勲員外郎と為った。再思の弟季昭は考功郎中と為り、温玉は戸部侍郎と為った。

原文長安四年,以本官檢校京兆府長史,又遷檢校揚州大都督府長史。中宗即位,拜戸部尚書,兼中書令,轉侍中,以宮僚封鄭國公,賜實封三百戸。又爲冊順天皇后使,賜物五百段,鞍馬稱是。時武三思將誣殺王同皎,再思與吏部尚書李嶠、刑部尚書韋巨源並受製考按其獄,竟不能發明其枉,致同皎至死,眾冤之。再思俄復爲中書令、吏部尚書。景龍三年,遷尚書右僕射,加光祿大夫。其年薨,贈特進、并州大都督,陪葬乾陵,諡曰恭。子植、植子獻,並爲司勳員外郎。再思弟季昭爲考功郎中,溫玉爲戸部侍郎。

李懐遠

原文李懷遠

李懷遠は、邢州柏仁の人である。早くに孤兒となり貧しくして、学問を好み、文章を作ることに長じていた。同族の者で、高い蔭位を貸そうとする者がいたが、懷遠はついにこれを拒み、退いて歎息して言うには、「人の勢いに乗ずることは、高士の為すところではない。蔭を借りて官を求めるなど、どうしてわが本来の志であろうか」と。間もなく、四科挙に応じて及第し、累進して司禮少卿に任じられた。外任として邢州刺史となったが、それが故郷であるため、固辞して就任せず、改めて冀州刺史を授けられた。ほどなく揚州・益州等の大都督府長史を歴任し、赴任しないうちに、また同州刺史を授けられた。在職中は清廉簡素で称えられた。中央に召されて太子左庶子となり、兼ねて太子賓客を務め、右散騎常侍さんきじょうじ・春官侍郎を歴任した。大足年間、鸞台侍郎に昇進し、まもなく同鳳閣鸞台平章事となった。一年余りして、銀青光祿大夫を加えられ、秋官尚書に任じられ、兼ねて檢校太子左庶子を務め、平郷縣男の爵位を賜った。長安四年、老齢を理由に辞職を願い出て、秋官尚書を解くことを許され、正しく太子左庶子に任じられ、まもなく太子賓客を授けられた。神龍初年、左散騎常侍・兵部尚書・同中書門下三品に任じられ、金紫光祿大夫を加えられ、趙郡公に進封され、特に実封三百戸を賜った。ほどなく病気により致仕を請い、許された。中宗が京師に行幸しようとしたとき、また本官のまま東都留守を務めるよう命じられた。

原文李懷遠,邢州柏仁人也。早孤貧好學,善屬文。有宗人欲以高蔭相假者,懷遠竟拒之,退而歎曰:「因人之勢,高士不爲;假蔭求官,豈吾本誌?」未幾,應四科舉擢第,累除司禮少卿。出爲邢州刺史,以其本鄉,固辭不就,改授冀州刺史。俄暦揚、益等州大都督府長史,未行,又授同州刺史。在職以清簡稱。入爲太子左庶子,兼太子賓客,暦遷右散騎常侍、春官侍郎。大足年,遷鸞台侍郎,尋同鳳閣鸞台平章事。歲餘,加銀青光祿大夫,拜秋官尚書,兼檢校太子左庶子,賜爵平鄉縣男。長安四年,以老辭職,聽解秋官尚書,正除太子左庶子,尋授太子賓客。神龍初,除左散騎常侍、兵部尚書、同中書門下三品,加金紫光祿大夫,進封趙郡公,特賜實封三百戸。俄以疾請致仕,許之。中宗將幸京師,又令以本官知東都留守。

懷遠は長く栄位に居ながら、ますます簡素・質素を尊び、庭園や邸宅を改築することはなかった。常に緩やかな歩みの馬に乗っていた。左僕射豆盧欽望が言うには、「公はこれほど栄貴でありながら、どうして駿馬を買って乗らないのか」と。答えて言うには、「この馬は幸いにも驚いて転ぶことがなく、別に求める必要はない」と。聞いた者は誰もが歎美しなかった。神龍二年八月に卒去すると、中宗は特に錦の衾を賜って殯に充て、一日朝政を停め、自ら文を作ってこれを祭り、侍中を追贈し、諡して成といった。子に景伯がいる。

原文懷遠雖久居榮位,而彌尚簡率,園林宅室,無所改作。常乘款段馬,左僕射豆盧欽望謂曰:「公榮貴如此,何不買駿馬乘之?」答曰:「此馬幸免驚蹶,無假別求。」聞者莫不歎美。神龍二年八月卒,中宗特賜錦被以充斂,輟朝一日,親爲文以祭之,贈侍中,諡曰成。子景伯。

懷遠の子 景伯

原文懷遠子 景伯

景伯は、景龍年間に給事中となり、また諫議大夫に昇進した。中宗がかつて侍臣と朝集使を宴に招き、酒が酣になったとき、それぞれに『回波辭』を作るよう命じた。皆こびへつらう言葉を作り、また自ら栄位を求めた。次に景伯の番になると、言うには、「回波の時に酒の杯、微臣の職は箴規に在り。侍宴すでに三爵を過ぎ、喧嘩は恐らく儀に非ず」と。中宗は快く思わなかったが、中書令蕭至忠がこれを称えて言うには、「これは真の諫官である」と。景雲年間、累進して右散騎常侍となり、まもなく老病により致仕した。開元年間に卒去した。子に彭年がいる。

原文景伯,景龍中爲給事中,又遷諫議大夫。中宗嘗宴侍臣及朝集使,酒酣,令各爲《回波辭》。眾皆爲謅佞之辭,及自要榮位。次至景伯,曰:「回波爾時酒卮,微臣職在箴規。侍宴既過三爵,喧嘩竊恐非儀。」中宗不悅,中書令蕭至忠稱之曰:「此真諫官也。」景雲中,累遷右散騎常侍,尋以老疾致仕。開元中卒。子彭年。

景伯の子 彭年

原文景伯子 彭年

彭年には吏才があり、事柄を分析するのに巧みで、当時に称えられた。開元年間、考功員外郎・知挙を歴任し、また中書舍人・給事中・兵部侍郎に昇進した。天寶初年、また吏部侍郎となり、右相李林甫と親しかった。山東の名族を慕って婚姻関係を結び、彼らを清要な官職に引き立てて、自らの家門を大きくした。選考を管轄すること七年、後に贓汙の罪で御史中丞宋渾に弾劾され、遠流となって嶺南の臨賀郡に流された。数か月後、宋渾とその弟の宋恕もまた贓罪で獄に下され、詔により宋渾は嶺南高要郡に、宋恕は南康郡に流された。天寶十二載、彭年を起用して濟陰太守とし、また馮翊太守に転じ、中央に入って中書舍人・給事中・吏部侍郎となった。十五載、玄宗が蜀しょくに行幸したとき、賊が西京を陥落させた。彭年は賊に捕らえられ、脅迫されて偽官を授けられ、憂憤してうつうつと志を得ず、韋斌に次いで卒去した。両京が回復した後、優詔を下して彭年に禮部尚書を追贈した。

原文彭年有吏才,工於剖析,當時稱之。開元中,暦考功員外郎、知舉,又遷中書舍人、給事中、兵部侍郎。天寶初,又爲吏部侍郎,與右相李林甫善。慕山東著姓爲婚姻,引就清列,以大其門。典銓管七年,後以贓汙爲御史中丞宋渾所劾,長流領南臨賀郡。累月,渾及第恕又以贓下獄,詔渾流嶺南高要郡,恕流南康郡。天寶十二載,起彭年爲濟陰太守,又遷馮翊太守,入爲中書舍人、給事中、吏部侍郎。十五載,玄宗幸蜀,賊陷西京。彭年沒於賊,脅授僞官,憂憤忽忽不得志,與韋斌相次而卒。及克復兩京,優製贈彭年爲禮部尚書。

豆盧欽望

原文豆盧欽望

豆盧欽望は、京兆萬年の人である。曾祖父の通は、隋の相州刺史・南陳郡公であった。祖父の寬は、すなわち隋文帝の甥である。大業末年、梁泉令となった。高祖こうそが関中を平定すると、寬は郡守の蕭瑀とともに豪族を率いて京師に赴き、これにより累進して殿中監に任じられ、また詔によりその子の懷讓が萬春公主を娶った。高祖は、寬の曾祖父の萇が魏の太和年間に例として単姓を称していたことから、この時に至って寬を盧氏に改めさせた。貞観年間、禮部尚書・左衛大將軍を歴任し、芮國公に封じられた。永徽元年に卒去し、特進・并州都督を追贈され、昭陵に陪葬され、諡して定といった。またその姓を豆盧氏に復した。父の仁業は、高宗の時に左衛將軍となった。

原文豆盧欽望,京兆萬年人也。曾祖通,隋相州刺史、南陳郡公。祖寬,即隋文帝之甥也。大業末,爲梁泉令。及高祖定關中,寬與郡守蕭瑀率豪右赴京師,由是累授殿中監,仍詔其子懷讓尚萬春公主。高祖以寬曾祖萇魏太和中例稱單姓,至是改寬爲盧氏。貞觀中,暦遷禮部尚書、左衛大將軍,封芮國公。永徽元年卒,贈特進、并州都督,陪葬昭陵,諡曰定。又復其姓爲豆盧氏。父仁業,高宗時爲左衛將軍。

欽望は、則天の時に累進して司賓卿となった。長壽二年、宗秦客に代わって内史となった。当時李昭德もまた内史であり、権力を握って事を行っていた。欽望は同時の宰相韋巨源・陸元方・蘇味道・杜景儉らとともに、曲げてこれに従った。證聖元年、昭德が事に坐して左遷され涪陵尉となると、則天は欽望らが正しく執ることができなかったとして、また司刑少卿皇甫文備が欽望が昭德に附会し、上を欺き下に附したと上奏したため、欽望を左遷して趙州刺史とし、韋巨源は右丞から鄜州刺史に、陸元方は秋官侍郎から綏州刺史に、蘇味道は鳳閣侍郎から集州刺史とした。その年、欽望は中央に入って司禮卿となり、秋官尚書に昇進し、芮國公に封じられた。外任として河北道宣勞使となった。ほどなく廬陵王が再び皇太子となると、欽望を皇太子宮尹とした。聖暦二年、文昌右相・同鳳閣鸞台三品に任じられ、まもなく太子賓客を授けられ、政事を知ることを停められた。

原文欽望,則天時累遷司賓卿。長壽二年,代宗秦客爲內史。時李昭德亦爲內史,執權用事,欽望與同時宰相韋巨源、陸元方、蘇味道、杜景儉等並委曲從之。證聖元年,昭德坐事,左遷涪陵尉,則天以欽望等不能執正,又爲司刑少卿皇甫文備奏欽望附會昭德,罔上附下,乃左遷欽望爲趙州刺史,韋巨源自右丞爲鄜州刺史,陸元方自秋官侍郎爲綏州刺史,蘇味道自鳳閣侍郎爲集州刺史。其年,欽望入爲司禮卿,遷秋官尚書,封芮國公。出爲河北道宣勞使。俄而廬陵王復爲皇太子,以欽望爲皇太子宮尹。聖暦二年,拜文昌右相、同鳳閣鸞台三品,尋授太子賓客,停知政事。

中宗が即位すると、欽望が東宮の旧臣であったため、尚書左僕射・知軍國重事に任じ、兼ねて檢校安國相王府長史、兼中書令・知兵部事・監修國史を務めた。

原文中宗即位,以欽望宮僚舊臣,拜尚書左僕射、知軍國重事,兼檢校安國相王府長史,兼中書令、知兵部事、監修國史。

欽望は両朝にわたって宰相となり、前後十余年に及んだが、張易之兄弟および武三思父子はいずれも専権で驕り高ぶり、逆乱を図っていた。欽望はただ己の身を慎むだけで、これを匡正することができず、このことで世に譏りを受けた。神龍二年、開府儀同三司に任じられた。景龍三年五月、致仕を願い出る上表をしたが、許されなかった。十一月に卒去し、八十余歳であった。司空しくう・并州大都督を追贈され、諡して元といい、東園秘器を賜り、乾陵に陪葬された。則天の時、宰相にはまた張光輔・史務滋・崔元綜・周允元らがおり、いずれも名声と事績があった。

原文欽望作相兩朝,前後十餘年,張易之兄弟及武三思父子皆專權驕縱,圖爲逆亂。欽望獨謹其身,不能有所匡正,以此獲譏於代。神龍二年,拜開府儀。景龍三年五月,表請氣骸,不許。十一月卒,年八十餘。贈司空、并州大都督,諡曰元,賜東園秘器,陪葬乾陵。則天時,宰相又有張光輔、史務滋、崔元綜、周允元等,並有名績。

附 張光輔

原文附 張光輔

張光輔は、京兆の人である。若い頃から明晰で弁が立ち、吏務の才能があった。累進して司農少卿・文昌右丞となった。越王貞を討伐平定した功績により、鳳閣侍郎・知政事に任じられた。永昌元年、納言に昇進した。十日ほどで、また内史に任じられた。いずれも名声があった。その年、洛州司馬房嗣業・洛陽らくよう令張嗣明が、徐敬業の弟の敬真とひそかに交結した罪に坐した。敬真は流刑地の繡州から逃げ帰り、北へ向かって突厥に投じ、胡虜を引き入れて寇掠しようとした。洛陽の地を通過する際、嗣業・嗣明の二人が衣服と食糧を与えて送り出した。定州まで行ったところ、人に気づかれた。嗣業は獄中で自縊死した。嗣明と敬真は多くの海内の知人を引き合いに出し、死を緩めようとした。嗣明は、光輔が豫よ州を征した日に、私的に讖緯や天文を説き、ひそかに両端を懐き、成敗を観望していたと称した。光輔はこれにより誅殺され、家族は籍没された。

原文張光輔者,京兆人也。少明辯,有吏幹。累遷司農少卿、文昌右丞。以討平越王貞之功,拜鳳閣侍郎、知政事。永昌元年,遷納言。旬日,又拜內史。皆有名。其年,洛州司馬房嗣業、洛陽令張嗣明坐與徐敬業弟敬真陰相交結。敬真自流所繡州逃歸,將北投突厥,引虜入寇。途經洛下,嗣業、嗣明二人給其衣糧而遣之。行至定州,爲人所覺。嗣業於獄中自縊死。嗣明與敬真多引海內相識,冀緩其死。嗣明稱光輔征豫州日,私說圖識天文,陰懷兩端,顧望以觀成敗。光輔由是被誅,家口籍沒。

附 史務滋

原文附 史務滋

史務滋は、宣州溧陽の人である。累進して内史となった。天授年間、雅州刺史劉行實およびその弟の渠州刺史行瑜・尚衣奉禦行感、ならびに兄の子の左鷹揚將軍虔通が、いずれも侍御史來子珣に謀反の罪を誣告されて誅殺された。また盱眙で彼らの父の左監門大將軍伯英の棺柩を破壊した。初め、務滋はもともと行感と親密であり、その反状を鎮めようと考えていた。則天は怒り、俊臣にこれを審理させた。務滋は刑に陥れられることを恐れ、自殺した。

原文史務滋者,宣州溧陽人。累至內史。天授中,雅州刺史劉行實及弟渠州刺史行瑜、尚衣奉禦行感,並兄子左鷹揚將軍虔通,並爲侍御史來子珣誣以謀反誅。又於盱眙毀其父左監門大將軍伯英棺柩。初,務滋素與行感周密,意俗寢其反狀。則天怒,令俊臣鞫之,務滋恐被陷刑,乃自殺。

崔元綜を附載する。

原文附 崔元綜

崔元綜は、鄭州新鄭の人である。祖父の君肅は、武徳年間に黄門侍郎・鴻臚卿を務めた。元綜は、天授年間に累進して秋官侍郎となった。長寿元年、鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事に遷った。元綜は政事に勤勉で、中書省に在る時は必ず帯を締めて夜遅くまで勤め、休み臥すことはなかった。細かい行いを清潔に好み、辛い物を口にしないこと二十余年であった。外見は謹厚を示すも、内心は深刻で薄情であり、詔を受けて獄を審理する時は必ず毛を分けて疵を求め、重い刑に陥れた。この故に人多くは畏れてこれを卑しんだ。翌年、罪を得て振州に配流され、朝野これを称慶せざるはなかった。間もなく赦されて還り、再び監察御史に拝された。中宗の時、累進して尚書左丞・蒲州刺史となり、老病を以て致仕した。晚年は摂養導引の術を好み、年九十余で卒した。

原文崔元綜者,鄭州新鄭人也。祖君肅,武德中黃門侍郎、鴻臚卿。元綜,天授中累轉秋官侍郎。長壽元年,遷鸞台侍郎、同鳳閣鸞台平章事。元綜勤於政事,每在中書,必束帶至晚,未嘗休偃。好潔細行,薰辛不暦口者二十餘年。雖外示謹厚,而情深刻薄,每受製鞫獄,必披毛求疵,陷於重辟。以此故人多畏而鄙之。明年,犯罪配流振州,朝野莫不稱慶。尋赦還,復拜監察御史。中宗時,累遷尚書左丞、蒲州刺史,以老疾致仕。晚年好攝養導引之術,年九十餘卒。

周允元を附載する。

原文附 周允元

周允元は、豫州の人である。弱冠にして進士に挙げられた。延戴初年、累進して左粛政御史中丞となり、俄かに鳳閣鸞台平章事を除かれた。嘗て諸宰臣と共に侍宴した時、則天皇帝は各々に書伝中の善言を述べさせた。允元は曰く、「其の君の堯・舜に如かざるを恥ず」と。武三思はこの言葉に指斥有りと為し、糾してこれを駁した。則天は曰く、「この言を聞くは以て誡めと為すに足り、豈に特ち過ちと為さんや」と。証聖元年に卒し、貝州刺史を贈られた。則天は七言詩を作りてこれを傷み、又自ら繕写し、時に以て栄えと為した。

原文周允元者,豫州人也。弱冠舉進士。延戴初,累轉左肅政御史中丞,俄除鳳閣鸞台平章事。嘗與諸宰臣侍宴,則天令各述書傳中善言。允元曰:「恥其君不如堯、舜。」武三思以爲語有指斥,糾而駁之。則天曰:「聞此言足以爲誡,豈特將爲過耶?」證聖元年卒,贈貝州刺史。則天爲七言詩以傷之,又自繕寫,時以爲榮。

史官曰く

原文史官曰

史官曰く、王及善は孝敬皇帝の東宮に在りて、誠に職を奉ずる能くあり。俊臣の獄に下るに当たり、力を尽くして凶を除くを諫め、是れ濫りに賢良に及ぶを憂え、而して羽翼を明らかに彰さんと欲し、興復の志、心無しと謂うべからず。杜景儉は五刑濫り有るも、済活を心と為し、四気和せざるも、罪を己に帰し、則天これを「真の宰相」と謂う。然れども李昭德に柔順なるに奈何、剛を吐くの過ち無きに非ざるなり。朱敬則は文学称え有り、節行愧ずる無く、諫諍果決、推択精真、苟も古今を洞鑒し、王霸はを深く識らざれば、何を由りてか其の高論を立つるを得ん。惜しいかな、相たる時を得ざりしを。楊再思は佞みて貴きを取り、苟くも身を全うするを以てし、不善を掩いて自ら欺き、十目十手無しと謂う。李懷遠は名を仮蔭に苟くせず、貴きを故郷に衒わず、陋居を改めず、常に劣駟に乗る、亦一時の善き者なり。然れども躬を匪とするの道は、未だこれを聞かず。豆盧欽望・張光輔・史務滋・崔元綜・周允元等は、或いは片言有り、小善無きに非ず、大用に登る、具臣と謂うべし。

原文史官曰:王及善在孝敬東宮,誠能奉職。當俊臣下獄,力諫除凶,是憂濫及賢良,而欲明彰羽翼,興復之誌,不謂無心。杜景儉五刑有濫,濟活爲心,四氣不和,歸罪在己,則天謂曰「真宰相。」然奈柔順李昭德,不無吐剛之過也。朱敬則文學有稱,節行無愧,諫諍果決,推擇精真,苟非洞鑒古今,深識王霸,何由立其高論哉?惜乎相不得時矣。楊再思佞而取貴,苟以全身,掩不善而自欺,謂無十目十手也。李懷遠名不苟於假蔭,貴不衒於故鄉,無改陋居,常乘劣駟,亦一時之善矣。然匪躬之道,未之聞也。豆盧欽望、張光輔、史務滋、崔元綜、周允元等,或有片言,非無小善,登於大用,可謂具臣。

賛に曰く

原文贊

賛に曰く、及善は職を奉ず、智力無きに非ず。景儉は権に当たり、賢ならずと謂うべからず。雄文高節、少連絶たるを為す。道を守り貧に安んずる、懷遠仁に当たる。欽望の属、片善何ぞ足らん。諂媚の再思、只だ宜しく遄速すべし。

原文贊曰:及善奉職,非無智力。景儉當權,不謂不賢。雄文高節,少連爲絶。守道安貧,懷遠當仁。欽望之屬,片善何足。諂媚再思,隻宜遄速。