舊唐書

巻089

巻089

舊唐書

原文舊唐書

卷八十九

原文卷八十九

列傳第三十九 狄仁傑 王方慶 姚璹

原文列傳第三十九 狄仁傑 王方慶 姚璹

狄仁傑

原文狄仁傑

狄仁傑、字は懷英、并へい州太原の人である。祖父は孝緒、貞観年間に尚書左丞を務めた。父は知遜、夔州長史であった。仁傑が子供の時、門下の者が被害に遭い、県の役人が詰問に来た。皆が応対する中、仁傑だけは堅く坐って読書を続けた。役人が責めると、仁傑は言った。「書物の中には聖賢が揃っている。それらとまだ応対できぬのに、どうして俗吏と応対する暇があろうか。それなのに責められるとは。」後に明経に挙げられ、汴州判佐に任じられた。時に工部尚書閻立本が河南道黜陟使となっており、仁傑は役人に誣告された。立本は彼を見て謝して言った。「仲尼は『過ちを観て仁を知る』と言った。あなたはまさに海辺の明珠、東南の遺宝と言えよう。」推薦して并州都督ととく府法曹に任じた。彼の両親は河陽の別荘にいた。仁傑が并州へ赴く時、太行山に登り、南を望んで白雲が孤り飛ぶのを見て、左右の者に言った。「我が親の住む所は、この雲の下にある。」眺め佇むこと久しく、雲が動いてから行った。仁傑の孝行と友愛は人に優れ、并州にいた時、同府の法曹鄭崇質がおり、母は老いて病んでいたが、絶域への使者に充てられようとしていた。仁傑は言った。「太夫人に危篤の病があるのに、あなたが遠くへ使いに出るのは、どうして親に万里の憂いを遺せようか。」そこで長史の藺仁基の所へ行き、崇質に代わって行くことを請うた。時に仁基は司馬の李孝廉と不仲であったが、これにより言った。「我々はどうして独り恥じないでいられようか。」これによって互いの扱いが元のようになった。

原文狄仁傑字懷英,并州太原人也。祖孝緒,貞觀中尚書左丞。父知遜,夔州長史。仁傑兒童時,門人有被害者,縣吏就詰之,眾皆接對,唯仁傑堅坐讀書。吏責之,仁傑曰:「黃卷之中,聖賢備在,猶不能接對,何暇偶俗吏,而見責耶!」後以明經舉,授汴州判佐。時工部尚書閻立本爲河南道黜陟使,仁傑爲吏人誣告,立本見而謝曰:「仲尼云:『觀過知仁矣。』足下可謂海曲之明珠,東南之遺寶。」薦授并州都督府法曹。其親在河陽別業,仁傑赴并州,登太行山,南望見白雲孤飛,謂左右曰:「吾親所居,在此雲下。」瞻望佇立久之,雲移乃行。仁傑孝友絶人,在并州,有同府法曹鄭崇質,母老且病,當充使絶域。仁傑謂曰:「太夫人有危疾,而公遠使,豈可貽親萬里之憂!」乃詣長史藺仁基,請代崇質而行。時仁基與司馬李孝廉不協,因謂曰:「吾等豈獨無愧耶?」由是相待如初。

仁傑は、儀鳳年間に大理丞となり、一年で滞留していた獄訟一万七千人を裁断し、冤罪を訴える者はなかった。時に武衛大将軍権善才が誤って昭陵の柏の木を伐った罪に坐し、仁傑はその罪は免職に当たると上奏した。高宗は即座に誅すよう命じたが、仁傑はまた罪は死に当たらないと上奏した。帝は顔色を変えて言った。「善才が陵上の木を伐ったのは、朕を不孝にさせるものだ。必ず殺さねばならぬ。」左右の者が仁傑に退出を促したが、仁傑は言った。「臣は聞く、竜の逆鱗に触れ、人主に逆らうことは、古来難しいとされてきた。臣の愚見ではそうではない。桀や紂の時代ならば難しいが、堯や舜の時代ならば易しい。臣は今幸いにも堯や舜に逢い、比干の誅殺を恐れない。昔、漢の文帝の時に高廟の玉環を盗んだ者がおり、張釈之が朝廷で諫めて、罪は棄市に止めた。魏の文帝が人を移そうとした時、辛毗が裾を引いて諫め、これも採用された。そもそも明主は理をもって説得でき、忠臣は威をもって脅かすことはできない。今、陛下が臣の言葉を聞き入れられぬなら、瞑目した後、地下で張釈之や辛毗に会うのが恥ずかしい。陛下が法を定め、象魏に掲げられたのは、徒刑・流刑・死罪にそれぞれ差等があるためである。どうして極刑に当たらない罪を犯した者に、即座に死を賜れようか。法に常がなければ、万民は手足をどこに置けばよいのか。陛下がどうしても法を変えようとされるなら、どうか今日から始められよ。古人は言った。『たとえ長陵の一掬の土を盗んだとしても、陛下はどう処罰されようか。』今、陛下が昭陵の一本の柏のために一将軍を殺されるなら、千年の後、陛下をどんな君主と言われようか。これが臣が詔を奉じて善才を殺し、陛下を不道に陥れることを敢えてしない理由である。」帝の怒りは少し解け、善才はこれによって死を免れた。数日後、仁傑を侍御史に任じた。時に司農卿韋機が将作・少府の二司を兼ねており、高宗は恭陵の玄宮が狭く、葬送の具を納められないとして、機にその工事を継続完成させた。機は墓道の左右に便房を四所造り、また宿羽・高山・上陽などの宮を造り、いずれも壮麗を極めた。仁傑はその過度を奏上し、機はついに免官に坐した。左司郎中王本立が寵を恃んで権勢を振るい、朝廷は恐れ慄いた。仁傑はこれを奏上し、法寺に付するよう請うたが、高宗は特にこれを赦した。仁傑は奏上して言った。「国家は英才に乏しいとはいえ、どうして本立のような者が少ないと言えよう。陛下はどうして罪人を惜しんで王法を損なわれようか。どうしても本立を曲げて赦そうとされるなら、臣を無人の境に棄て、忠貞の将来の戒めとされてください。」本立はついに罪を得、これによって朝廷は厳粛となった。

原文仁傑,儀鳳中爲大理丞,周歳斷滯獄一萬七千人,無冤訴者。時武衞大將軍權善才坐誤斫昭陵柏樹,仁傑奏罪當免職。高宗令即誅之,仁傑又奏罪不當死。帝作色曰:「善才斫陵上樹,是使我不孝,必須殺之。」左右矚仁傑令出,仁傑曰:「臣聞逆龍鱗,忤人主,自古以爲難,臣愚以爲不然。居桀、紂時則難,堯、舜時則易。臣今幸逢堯、舜,不懼比干之誅。昔漢文時有盜高廟玉環,張釋之廷諍,罪止棄市。魏文將徙其人,辛毗引裾而諫,亦見納用。且明主可以理奪,忠臣不可以威懼。今陛下不納臣言,瞑目之後,羞見釋之、辛毗於地下。陛下作法,懸之象魏,徒流死罪,俱有等差。豈有犯非極刑,即令賜死?法既無常,則萬姓何所措其手足?陛下必欲變法,請從今日爲始。古人云:『假使盜長陵一抔土,陛下何以加之?』今陛下以昭陵一株柏殺一將軍,千載之後,謂陛下爲何主?此臣所以不敢奉制殺善才,陷陛下於不道。」帝意稍解,善才因而免死。居數日,授仁傑侍御史。時司農卿韋機兼領將作、少府二司,高宗以恭陵玄宮狹小,不容送終之具,遣機續成其功。機於埏之左右爲便房四所,又造宿羽、高山、上陽等宮,莫不壯麗。仁傑奏其太過,機竟坐免官。左司郎中王本立恃寵用事,朝廷懾懼,仁傑奏之,請付法寺,高宗特原之。仁傑奏曰:「國家雖乏英才,豈少本立之類,陛下何惜罪人而虧王法?必欲曲赦本立,請棄臣於無人之境,爲忠貞將來之誡。」本立竟得罪,由是朝廷肅然。

まもなく朝散大夫を加えられ、累遷して度支郎中となった。高宗が汾陽宮に行幸しようとした時、仁傑を行頓使に任じた。并州長史李沖玄は、道が妒女祠を通ることから、俗に盛装で通れば必ず風雷の災いが起こると言われていたので、数万人を動員して別に御道を開いた。仁傑は言った。「天子の行幸は、千乗万騎、風伯が塵を清め、雨師が道を灑ぐ。どうして妒女の害があろうか。」直ちにこれを中止させた。高宗はこれを聞き、嘆じて言った。「真の大丈夫である。」

原文尋加朝散大夫,累遷度支郎中。高宗將幸汾陽宮,以仁傑爲知頓使。并州長史李沖玄以道出妒女祠,俗云盛服過者必致風雷之災,乃發數萬人別開御道。仁傑曰:「天子之行,千乘萬騎,風伯清塵,雨師灑道,何妒女之害耶?」遽令罷之。高宗聞之,歎曰:「真大丈夫也!」

ほどなく寧州刺史に転じ、戎と夏を撫で和らげ、人々は歓心を得、郡人は碑を立ててその徳を称えた。御史郭翰が隴右を巡察し、赴く先々で多くを弾劾した。寧州の境内に入ると、古老が刺史の徳の美しさを歌う者が道に満ちた。翰は宿舎に着くと、州の役人を呼んで言った。「その境に入れば、その政は知れる。使君の美を成すことを願い、長く留まることはしない。」州人はようやく散じた。翰は朝廷に名を推薦し、冬官侍郎に徴され、江南巡撫使を充てられた。呉・楚の地の習俗には淫祠が多く、仁傑は一千七百所を廃毀するよう奏上し、夏禹・呉太伯・季札・伍員の四つの祠だけを残した。

原文俄轉寧州刺史,撫和戎夏,人得歡心,郡人勒碑頌德。御史郭翰巡察隴右,所至多所按劾。及入寧州境內,耆老歌刺史德美者盈路。翰既授館,召州吏謂之曰:「入其境,其政可知也。願成使君之美,無爲久留。」州人方散。翰薦名於朝,徵爲冬官侍郎,充江南巡撫使。吳、楚之俗多淫祠,仁傑奏毀一千七百所,唯留夏禹、吳太伯、季劄、伍員四祠。

文昌右丞に転じ、出向して豫よ州刺史となった。時に越王貞が汝南で兵を挙げて事敗れ、連座する者が六七百人、財産没収される者が五千人に及び、司刑使が刑の執行を急がせた。仁傑は彼らが誤って連座したことを哀れみ、獄事を緩め、密かに上表して奏上した。「臣は表向きに奏上しようとしたが、逆賊の弁護をするようであり、知りながら言わなければ、陛下の慈しみ恤れむお心に背く恐れがある。表を作ってはまた毀ち、思い定めかねる。この者たちは皆本心からではなく、伏してその誤りを哀れんでいただきたい。」特赦によってこれを赦し、豊州に配流した。豫州の囚人たちが寧州に宿泊した時、父老が迎えて労い、言った。「我が狄使君があなた方を生かしてくださったのだ。」互いに手を携えて碑の下で泣き、三日間斎戒してから出発した。豫州の囚人たちは流刑地に至り、また互いに碑を立てて狄君の徳を称えた。

原文轉文昌右丞,出爲豫州刺史。時越王貞稱兵汝南事敗,緣坐者六七百人,籍沒者五千口,司刑使逼促行刑。仁傑哀其詿誤,緩其獄,密表奏曰:「臣欲顯奏,似爲逆人申理;知而不言,恐乖陛下存恤之旨。表成復毀,意不能定。此輩鹹非本心,伏望哀其詿誤。」特敕原之,配流豐州。豫囚次於寧州,父老迎而勞之曰:「我狄使君活汝輩耶!」相攜哭於碑下,齋三日而後行。豫囚至流所,復相與立碑頌狄君之德。

初め、越王の乱の時、宰相張光輔が軍を率いて討ち平らげた。将士は功を恃み、多くを求め取ったが、仁傑は応じなかった。光輔は怒って言った。「州将が元帥を軽んじるのか。」仁傑は言った。「河南を乱したのは、ただ一人の越王貞に過ぎない。今、一つの貞が死んで万の貞が生まれる。」光輔がその言葉を詰問すると、仁傑は言った。「明公は三十万の軍を統率し、一人の乱臣を平らげながら、兵鋒を収めず、その暴横を放任し、罪なき人の肝脳を地に塗らせた。これが万の貞でなくて何であろうか。しかも凶威に脅かされて従った者は、勢い自ら固まり難く、天兵が一時臨むや、城を乗り越えて帰順する者は万を数え、縄を垂らして降りる者が四方に小道を成した。公はどうして功を邀えようとする者を放任し、帰順した衆を殺させようとするのか。ただ冤罪の声が沸き上がり、天に徹することを恐れる。もし尚方の斬馬剣を君の頸に加えることができれば、たとえ死んでも帰する所を知る。」光輔は詰問できず、心中ひどく恨んだ。都に戻り、仁傑が不遜であると奏上し、左遷して復州刺史とした。後に召されて洛州司馬となった。

原文初,越王之亂,宰相張光輔率師討平之。將士恃功,多所求取,仁傑不之應。光輔怒曰:「州將輕元帥耶?」仁傑曰:「亂河南者,一越王貞耳。今一貞死而萬貞生。」光輔質其辭,仁傑曰:「明公董戎三十萬,平一亂臣,不戢兵鋒,縱其暴橫,無罪之人,肝腦塗地,此非萬貞何耶?且凶威協從,勢難自固,及天兵暫臨,乘城歸順者萬計,繩墜四面成蹊。公奈何縱邀功之人,殺歸降之眾?但恐冤聲騰沸,上徹於天。如得尚方斬馬劍加於君頸,雖死如歸。」光輔不能詰,心甚銜之。還都,奏仁傑不遜,左授復州刺史。入爲洛州司馬。

天授二年九月丁酉、地官侍郎・判尚書・同鳳閣鸞臺平章事に転じた。則天は言った。「卿が汝南にいた時、非常に善政があった。卿を讒言した者が誰か知りたいか。」仁傑は謝して言った。「陛下が臣に過ちがあるとされれば、臣は改めるべきです。陛下が臣に過ちがないと明らかにされれば、臣の幸いです。臣は讒言した者を知らず、皆善き友とします。どうか知らぬままにさせてください。」則天は深く嘆異した。

原文天授二年九月丁酉,轉地官侍郎、判尚書、同鳳閣鸞臺平章事。則天謂曰:「卿在汝南時,甚有善政,欲知譖卿者乎?」仁傑謝曰:「陛下以臣爲過,臣當改之;陛下明臣無過,臣之幸也。臣不知譖者,並爲善友,臣請不知。」則天深加歎異。

間もなく、来俊臣に誣告され獄に下された。当時、一問即ち承諾する者は例として死罪を減ぜられることとなっており、来俊臣は仁傑を脅迫し、一問で謀反を認めさせようとした。仁傑は嘆いて言った、「大周は革命を起こし、万物は唯新たなり、唐朝の旧臣は、甘んじて誅戮に従う。謀反は事実なり!」俊臣はそこで少し寛大に扱った。判官王徳寿が仁傑に言った、「尚書は必ず死罪を免れるでしょう。徳寿は少し階級を上げてもらいたいと思い、尚書に楊執柔を引きずり込むことを頼みたいのですが、よろしいでしょうか?」仁傑は言った、「どうやって彼を引きずり込むのか?」徳寿は言った、「尚書が春官であった時、執柔はその司員外を務めておりました、彼を引き入れることができます。」仁傑は言った、「皇天后土よ、仁傑にこのようなことを行わせるとは!」頭を柱に打ちつけ、血が顔一面に流れ、徳寿は恐れて謝罪した。謀反を認めた後、担当官はただ刑の執行を待つだけで、厳重な警備をしなくなった。仁傑は看守に頼んで筆硯を得、被りの布を裂いて冤罪を書き、綿入れの衣の中に置き、徳寿に言った、「今は暑い時節です、家人に渡して綿を抜かせてください。」徳寿はそれを見抜かなかった。仁傑の子光遠がその書状を得て、変事を告げるために持参した。則天は召見し、それを見て俊臣に問うた。俊臣は言った、「仁傑は冠帯を免ぜられず、寝起きはとても安らかです、どうして罪を認めましょうか?」則天は人を遣わして視察させたが、俊臣は急いで仁傑に巾帯をさせて使者に会わせた。そこで徳寿に仁傑の代わりに謝死表を作らせ、使者に付けて進上させた。則天は仁傑を召して、言った、「謀反を認めたのはなぜか?」答えて言った、「もしあの時謀反を認めていなければ、すでに鞭打ちで死んでいたでしょう。」「なぜ謝死表を作ったのか?」と言うと、言った、「臣にはそのような表はありません。」示されると、代わりに署名したことを知った。故に死を免れた。彭沢令に貶された。武承嗣はたびたび誅殺を奏請したが、則天は言った、「朕は生を好み殺を悪み、刑を恤むことを志す。既に大赦の詔を発した以上、再び覆すことはできない。」

原文未幾,爲來俊臣誣構下獄。時一問即承者例得減死,來俊臣逼協仁傑,令一問承反。仁傑歎曰:「大周革命,萬物唯新,唐朝舊臣,甘從誅戮。反是實!」俊臣乃少寬之。判官王德壽謂仁傑曰:「尚書必得減死。德壽意欲求少階級,憑尚書牽楊執柔,可乎?」仁傑曰:「若何牽之?」德壽曰:「尚書爲春官時,執柔任其司員外,引之可也。」仁傑曰:「皇天后土,遣仁傑行此事!」以頭觸柱,流血被面,德壽懼而謝焉。既承反,所司但待日行刑,不復嚴備。仁傑求守者得筆硯,拆被頭帛書冤,置綿衣中,謂德壽曰:「時方熱,請付家人去其綿。」德壽不之察。仁傑子光遠得書,持以告變。則天召見,覽之而問俊臣。俊臣曰:「仁傑不免冠帶,寢處甚安,何由伏罪?」則天使人視之,俊臣遽命仁傑巾帶而見使者。乃令德壽代仁傑作謝死表,附使者進之。則天召仁傑,謂曰:「承反何也?」對曰:「向若不承反,已死於鞭笞矣。」「何爲作謝死表?」曰:「臣無此表。」示之,乃知代署也。故得免死。貶彭澤令。武承嗣屢奏請誅之,則天曰:「朕好生惡殺,誌在恤刑。渙汗已行,不可更返。」

萬歳通天年間、契丹が冀州を陥落させ、河北は震動し、仁傑を徴して魏州刺史とした。前刺史の獨孤思莊は賊が来るのを恐れ、百姓をことごとく城内に追い込み、守備の具を修繕していた。仁傑が到着すると、すべてを帰農させ、言った、「賊はまだ遠方にいる、何もかくのごとくする必要はない。万一賊が来ても、我自らこれを当たる、必ずや百姓に関わることはない。」賊はこれを聞いて自ら退き、百姓は皆これを称え歌い、共に碑を立てて恩恵を記念した。間もなく幽州都督に転じた。

原文萬歳通天年,契丹寇陷冀州,河北震動,征仁傑爲魏州刺史。前刺史獨孤思莊懼賊至,盡驅百姓入城,繕修守具。仁傑既至,悉放歸農畝,謂曰:「賊猶在遠,何必如是。萬一賊來,吾自當之,必不關百姓也。」賊聞之自退,百姓咸歌誦之,相與立碑以紀恩惠。俄轉幽州都督。

神功元年、入朝して鸞臺侍郎・同鳳閣鸞臺平章事となり、銀青光禄大夫を加えられ、兼ねて納言を務めた。仁傑は、百姓が西の疏勒など四鎮を守備することにより、極めて疲弊していることを憂い、上疏して言った:

原文神功元年,入爲鸞臺侍郎、同鳳閣鸞臺平章事,加銀青光祿大夫,兼納言。仁傑以百姓西戍疏勒等四鎮,極爲凋弊,乃上疏曰:

臣は聞く、天が四夷を生み出したのは、皆先王の封疆の外にあると。故に東は滄海に拒み、西は流沙に隔たり、北は大漠を横たえ、南は五嶺に阻まれる、これ天が夷狄を限り中外を隔てる所以である。典籍に記され、声教の及ぶところ、三代でも至らなかった所を、国家はことごとく兼ね備えている。これすなわち今日の四境は、すでに夏・殷を超えているのである。詩人が太原での征伐を誇り、教化が江・漢に行き渡ったと歌うのは、それは前代の遠い辺境でありながら、国家の域内となったからである。前漢の時には、匈奴は歳毎に辺境を陥とさず、役人を殺掠した。後漢では西羌が漢中を侵し、東は三輔を寇し、河東上党に入り、ほとんど洛陽らくように至らんとした。これによって言えば、陛下の今日の領土は、漢朝をはるかに超えているのである。もしその武力を荒外に用い、功績を絶域に求め、府庫の実を尽くして、痩せた不毛の地を争うならば、その人を得ても賦を増やすに足らず、その土を獲ても耕織することはできない。ただ冠帯を着けた遠夷の称を求め、固本安人の術に努めないのは、これ秦の始皇、漢の武帝の行ったことであり、五帝・三皇の事業ではない。もし荒外を越えて限界とし、資財を尽くして欲望を逞しくするならば、ただ人力を愛さないだけでなく、天心を失う所以でもある。昔、始皇は兵を窮め武を極めて、広く地を求め、男子は野に耕すことを得ず、女子は室で蚕を飼うことを得ず、長城の下では死者が乱麻の如く、ここにおいて天下は潰れ叛いた。漢の武帝は高祖こうそ・文帝の宿憤を追い、四帝の儲蓄を頼り、ここにおいて朝鮮を定め、西域を討ち、南越を平らげ、匈奴を撃ち、府庫は空虚となり、盗賊は蜂起し、百姓は妻を嫁がせ子を売り、道路に流離する者は万を数えた。末年になって覚悟し、兵を休め役を罷め、丞相を富民侯に封じた故に、天に祐されることができたのである。昔の人が言った、「覆車と同じ軌を踏む者は未だ嘗て安らかでない。」この言葉は小さいが、大いなることを喩えることができる。近ごろ国家は頻りに歳を出て師とし、費用はますます広く、西は四鎮を守り、東は安東を守り、調発は日々に加わり、百姓は虚しく疲弊している。西域を開いて守ることは、事石田に等しく、費用は支えられず、損あって益なく、転輸は絶えず、杼軸はほとんど空である。砂漠を越え海を渡り、兵を分けて防守し、行役既に久しく、怨みと孤独も多い。昔の詩人が云う、「王事は盬やすまず、稷黍を藝うえること能わず。」「豈に帰らんと思わざらんや、此の罪罟ざいこを畏る。彼の蒸人じょうじんを念うに、涕零ていれい雨の如し。」これすなわち前代の怨み思う辞である。上これ恤めぐみとせざれば、則ち政行わずして邪気作る;邪気作れば、則ち蟲螟生じて水旱起こる。もしかくの如くならば、たとえ百神を祷祀しても、陰陽を調えることはできない。方今関東は饑饉にあり、蜀しょく・漢は逃亡し、江・淮以南では、徵求止むことなし。人業に復せざれば、則ち相率いて盗となる、本根一たび揺らげば、憂患浅からず。その所以然るものは、皆遠く方外を戍り、以て中国を竭し、蛮貊の不毛の地を争い、蒼生を子養するの道に乖くがためである。昔、漢の元帝は賈捐之の謀を納れて珠崖郡を罷め、宣帝は魏相の策を用いて車師の田を棄てた、豈に虚名を慕尚せんと欲せざらんや、労力を憚ったのである。近き貞観年中、九姓を克平し、李思摩を冊立して可汗とし、諸部を統治させたのは、夷狄は叛けば則ちこれを伐ち、降れば則ちこれを撫で、推亡固存の義を得て、遠戍労人の役無からしめたためである。これすなわち近き日の令典、辺境を経営する故事である。窃かに見るに、阿史那斛瑟羅は、陰山の貴種にして、代々沙漠に雄をなす、もし四鎮にこれを委ね、諸蕃を統治させ、可汗に封じて、寇患を防がしめれば、則ち国家には継絶の美があり、荒外には転輸の役無からん。臣の見る所によれば、四鎮を捐てて以て中国を肥やし、安東を罷めて以て遼西を実にし、軍費を遠方に省き、甲兵を塞上に並べれば、則ち恒・代の鎮重く、辺州の備実らん。況や夷狄を綏撫するは、その越逸を防ぐに蓋し、侵侮の患無ければ則ち可なり。何ぞ必ずしもその窟穴を窮め、螻蟻と計って長短を校せんや!且つ王者は外寧かならず内憂有り、政を勤めて修めざるが故なり。伏して惟うに、陛下これを度外に棄て、絶域未だ平らかならざるを以て念うこと無かれ。但だ辺兵を敕して謹んで守備し、鋭を蓄えて敵を待ち、その自ら至るを待ち、然る後にこれを撃てば、これ李牧が匈奴を制した所以である。当今の要する所は、辺城に令して守備を警め、斥候を遠くし、軍実を聚め、威武を蓄うるに若くは莫し。逸を以て労を待てば、則ち戦士の力倍し;主を以て客を禦すれば、則ち我その便を得;壁を堅くし野を清くすれば、則ち寇得る所無し。自然と賊深く入れば必ず顛躓の慮有り、浅く入れば必ず虜獲の益無し。このように数年を経れば、二虜を撃たずして服せしめることができよう。

原文臣聞天生四夷,皆在先王封疆之外。故東拒滄海,西隔流沙,北橫大漠,南阻五嶺,此天所以限夷狄而隔中外也。自典籍所紀,聲教所及,三代不能至者,國家盡兼之矣。此則今日之四境,已逾於夏、殷者也。詩人矜薄伐於太原,美化行於江、漢,則是前代之遠裔,而國家之域中。至前漢時,匈奴無歳不陷邊,殺掠吏人。後漢則西羌侵軼漢中,東寇三輔,入河東上黨,幾至洛陽。由此言之,則陛下今日之士宇,過於漢朝遠矣。若其用武荒外,邀功絶域,竭府庫之實,以爭磽確不毛之地,得其人不足以增賦,獲其土不可以耕織。苟求冠帶遠夷之稱,不務固本安人之術,此秦皇、漢武之所行,非五帝、三皇之事業也。若使越荒外以爲限,竭資財以騁欲,非但不愛人力,亦所以失天心也。昔始皇窮兵極武,以求廣地,男子不得耕於野,女子不得蠶於室,長城之下,死者如亂麻,於是天下潰叛。漢武追高、文之宿憤,藉四帝之儲實,於是定朝鮮,討西域,平南越,擊匈奴,府庫空虛,盜賊蜂起,百姓嫁妻賣子,流離於道路者萬計。末年覺悟,息兵罷役,封丞相爲富民侯,故能爲天所祐也。昔人有言:「與覆車同軌者未嘗安。」此言雖小,可以喻大。近者國家頻歳出師,所費滋廣,西戍四鎮,東戍安東,調發日加,百姓虛弊。開守西域,事等石田,費用不支,有損無益,轉輸靡絶,杼軸殆空。越磧逾海,分兵防守,行役既久,怨曠亦多。昔詩人云:「王事靡盬,不能藝稷黍。」「 豈不懷歸,畏此罪罟。念彼蒸人,涕零如雨。」此則前代怨思之辭也。上不是恤,則政不行而邪氣作;邪氣作,則蟲螟生而水旱起。若此,雖禱祀百神,不能調陰陽矣。方今關東饑饉,蜀、漢逃亡,江、淮以南,徵求不息。人不復業,則相率爲盜,本根一搖,憂患不淺。其所以然者,皆爲遠戍方外,以竭中國,爭蠻貊不毛之地,乖子養蒼生之道也。昔漢元納賈捐之之謀而罷珠崖郡,宣帝用魏相之策而棄車師之田,豈不欲慕尚虛名,蓋憚勞人力也。近貞觀年中,克平九姓,冊李思摩爲可汗,使統諸部者,蓋以夷狄叛則伐之,降則撫之,得推亡固存之義,無遠戍勞人之役。此則近日之令典,經邊之故事。竊見阿史那斛瑟羅,陰山貴種,代雄沙漠,若委之四鎮,使統諸蕃,封爲可汗,遣禦寇患,則國家有繼絶之美,荒外無轉輸之役。如臣所見,請捐四鎮以肥中國,罷安東以實遼西,省軍費於遠方,並甲兵於塞上,則恒、代之鎮重,而邊州之備實矣。況綏撫夷狄,蓋防其越逸,無侵侮之患則可矣。何必窮其窟穴,與螻蟻計校長短哉!且王者外寧必有內憂,蓋爲不勤修政故也。伏惟陛下棄之度外,無以絶域未平爲念。但當敕邊兵謹守備,蓄銳以待敵,待其自至,然後擊之,此李牧所以製匈奴也。當今所要者,莫若令邊城警守備,遠斥候,聚軍實,蓄威武。以逸待勞,則戰士力倍;以主禦客,則我得其便;堅壁清野,則寇無所得。自然賊深入必有顛躓之慮,淺入必無虜獲之益。如此數年,可使二虜不擊而服矣。

仁傑はまた安東を廃し、高氏を再び君長とし、江南の転輸を停め、河北の労弊を慰め、数年之後には、人を安んじ国を富ますことができると請うた。事は行われなかったが、識者はこれを是とした。間もなく検校納言、兼右粛政臺御史大夫となった。

原文仁傑又請廢安東,復高氏爲君長,停江南之轉輸,慰河北之勞弊,數年之後,可以安人富國。事雖不行,識者是之。尋檢校納言,兼右肅政臺御史大夫。

聖曆の初め、突厥が趙州・定州などを侵掠したので、仁傑を河北道元帥に任じ、便宜を以て事に従うことを許した。突厥は掠めた男女一万余人をことごとく殺し、五回道より去った。仁傑は兵十万を総べてこれを追ったが及ばなかった。便ち仁傑を河北道安撫大使に任じた。時に河朔の民衆は多く突厥に脅迫され、賊退いた後に誅罰を恐れ、多く逃げ隠れた。仁傑は上疏して曰く、

原文聖曆初,突厥侵掠趙、定等州,命仁傑爲河北道元帥,以便宜從事。突厥盡殺所掠男女萬餘人,從五回道而去。仁傑總兵十萬追之不及。便製仁傑河北道安撫大使。時河朔人庶,多爲突厥逼脅,賊退後懼誅,又多逃匿。仁傑上疏曰:

臣が聞くに朝廷の議者は、契丹が障害をなすに当たり、初めは人の順逆を明らかにし、あるいは逼迫脅迫によるもの、あるいは自ら従うことを願うもの、あるいは偽官を受けるもの、あるいは招慰となるもの、あるいは外賊を兼ねるもの、あるいは土人であるもの、跡は異なるも心は別ならずと為す。誠に山東の雄猛は、由来気を重んじ、一顧の勢い、死に至るまで回らざるなり。近頃軍機に縁り、調発が傷つき重く、家道は悉く破れ、あるいは逃亡に至り、屋を剔ぎ田を売るも、人は売らざるに至り、内顧の生計、四壁皆空なり。重ねて官典の侵漁、事に因りて起こり、その髄脳を取るも、曾て心愧あること無し。池城を修築し、兵甲を繕造するに、州県の役使、十倍の軍機なり。官司は矜まず、必ず取るを期し、枷杖の下、痛切に肌膚を切る。事迫り情危うく、礼義に循わず、愁苦の地、その生を楽しまず。利あれば則ち帰し、且つ賒死を図る、これ乃ち君子の愧辱、小人の常行なり。人は猶お水の如し、これを壅げば則ち泉と為り、これを疏すれば則ち川と為り、通塞流れに随い、豈に常性あらんや。昔、董卓の乱、神器播遷し、及び卓誅せられ、部曲赦すこと無く、事窮まり変起こり、毒害生人を生じ、京室丘墟と化し、禾黍と為る。これは恩普く洽わず、機先に失うによる。臣この書を一読し、未だ嘗て巻を廃して歎息せざるは無し。今、罪を負うの伍は、必ず家に在らず、露宿し草行し、潜かに山沢に竄る。これを赦せば則ち出で、赦さざれば則ち狂い、山東の群盗、これに縁りて聚結す。臣は辺塵の暫く起こるは、憂いと為すに足らず、中土の安からざるを、以て事と為す。臣聞く、大国を持つ者は小道を以てすべからず、事を理むる広き者は細分を以てすべからず。人主は恢弘にして、常法に拘わらず、これを罪すれば則ち衆情恐懼し、これを恕せば則ち反側自ら安んず。伏して願わくは曲げて河北諸州を赦し、一も問うこと無からんことを。自然、人神の道暢かになり、率土歓心し、諸軍凱旋し、侵擾を得ること無からん。

原文臣聞朝廷議者,以爲契丹作梗,始明人之逆順,或因迫脅,或有願從,或受偽官,或爲招慰,或兼外賊,或是土人,跡雖不同,心則無別。誠以山東雄猛,由來重氣,一顧之勢,至死不回。近緣軍機,調發傷重,家道悉破,或至逃亡,剔屋賣田,人不爲售,內顧生計,四壁皆空。重以官典侵漁,因事而起,取其髓腦,曾無心愧。修築池城,繕造兵甲,州縣役使,十倍軍機。官司不矜,期之必取,枷杖之下,痛切肌膚。事迫情危,不循禮義,愁苦之地,不樂其生。有利則歸,且圖賒死,此乃君子之愧辱,小人之常行。人猶水也,壅之則爲泉,疏之則爲川,通塞隨流,豈有常性。昔董卓之亂,神器播遷,及卓被誅,部曲無赦,事窮變起,毒害生人,京室丘墟,化爲禾黍。此由恩不普洽,失在機先。臣一讀此書,未嘗不廢卷歎息。今以負罪之伍,必不在家,露宿草行,潛竄山澤。赦之則出,不赦則狂,山東群盜,緣茲聚結。臣以邊塵暫起,不足爲憂,中土不安,以此爲事。臣聞持大國者不可以小道,理事廣者不可以細分。人主恢弘,不拘常法,罪之則眾情恐懼,恕之則反側自安。伏願曲赦河北諸州,一無所問。自然人神道暢,率土歡心,諸軍凱旋,得無侵擾。

詔はこれに従う。軍還り、内史を授かる。

原文製從之。軍還,授內史。

聖曆三年、則天は三陽宮に幸し、王公百僚皆経て侍従すれども、唯だ仁傑に特に宅一区を賜い、当時の恩寵比ぶるもの無し。この歳六月、左玉鈐衛大将軍李楷固・右武威衛将軍駱務整、契丹の余衆を討ち、これを擒え、含樞殿に献俘す。則天大いに悦び、特に楷固に武氏の姓を賜う。楷固・務整は、並びに契丹の李盡忠の別帥なり。初め、盡忠の乱を為すや、楷固らは屡々兵を率いて官軍を陥れ、後に兵敗れて来降す。有司は極法を以て断ぜんとす。仁傑議して以て、楷固ら並びに驍ぎょう将の才あり、若しその死を恕せば、必ず能く恩を感し節を效すべしと為す。又、その官爵を授け、専征に委ぬるを奏請す。詔並びにこれに従う。及び楷固ら凱旋す、則天は仁傑を召して宴に預からしめ、因りて觴を挙げて親しく勧め、賞を仁傑に帰す。楷固に左玉鈐衛大将軍を授け、爵を燕国公と賜う。

原文聖曆三年,則天幸三陽宮,王公百僚鹹經侍從,唯仁傑特賜宅一區,當時恩寵無比。是歳六月,左玉鈐衞大將軍李楷固、右武威衞將軍駱務整討契丹餘眾,擒之,獻俘於含樞殿。則天大悅,特賜楷固姓武氏。楷固、務整,並契丹李盡忠之別帥也。初,盡忠之作亂,楷固等屢率兵以陷官軍,後兵敗來降,有司斷以極法。仁傑議以爲楷固等並有驍將之才,若恕其死,必能感恩效節。又奏請授其官爵,委以專征。製並從之。及楷固等凱旋,則天召仁傑預宴,因舉觴親勸,歸賞於仁傑。授楷固左玉鈐衞大將軍,賜爵燕國公。

則天又た将に大像を造らんとし、用功数百万、天下の僧尼に令して毎日人ごとに一銭を出ださしめ、以てこれを助成せしむ。仁傑上疏して諫めて曰く、

原文則天又將造大像,用功數百萬,令天下僧尼每日人出一錢,以助成之。仁傑上疏諫曰:

臣聞く、政を為すの本は、必ず先ず人事なり。陛下は群生の迷謬を矜み、溺喪して帰する所無きを、像教を兼ねて行わしめ、相を睹て善を生ぜしめんと欲す。塔廟を必ず崇奢せしめんと為すに非ず、豈に僧尼を皆須らく檀施せしめんとするや。栰を得て尚お捨つ、而るに況んやその余をや。今の伽藍は、制宮闕に過ぎ、奢を窮め壮を極め、画繢工を尽くし、宝珠は綴飾に殫き、環材は輪奐に竭く。工は鬼を使わず、止むるは役人に在り、物は天より来たらず、終に須らく地より出づ、百姓を損せずして、将た何を以てか求めん。生ずるに時有り、之を用うるに度無く、編戸の奉ずる所、常に充たさざるが若く、痛切に肌膚を切り、箠楚を辞せず。遊僧の一説、禍福を矯陳し、発を翦ぎ衣を解き、仍おその少なきを慚ず。亦た骨肉を離間し、事路人に均しく、身自ら妻を納れ、彼我無しと謂う。皆仏法に托し、生人を詿誤す。裏陌動もすれば経坊有り、闤闠亦た精舍を立つ。化誘倍急にして、官征に切なり;法事の須うる所、製敕に厳し。膏腴の美業、倍して其の多きを取り;水碾の莊園、数亦た少からず。逃丁罪を避け、並びに法門に集い、名無きの僧、凡そ幾万有り、都下検括して、已に数千を得たり。且つ一夫耕さざれば、猶おその弊を受く、浮食する者眾く、又た人財を劫う。臣毎に思惟し、実に悲痛と為す所なり。往くに江表に在りし時、像法盛んに興り、梁武・簡文、施すに限り無し。及びその三淮沸浪し、五嶺煙を騰ぐるに至る。列刹衢に盈ち、危亡の禍を救う無く;緇衣路を蔽う、豈に勤王の師有らんや!比年已来、風塵屡擾し、水旱節せず、征役稍繁し。家業先ず空しく、瘡痍未だ復せず、此時に役を興すは、力未だ堪えざる所なり、伏して惟うに聖朝、功德無量なり、何ぞ必ずしも大像を営み、以て労費を名と為さん。僧錢を斂むるも、百未だ一を支えず。尊容既に広し、露居すべからず、百層を以て覆うも、尚お遍からざるを憂え、自余の廓廡、全く無きを得ず。又た云う、国財を損せず、百姓を傷つけずと、此を以て主に事うるは、尽忠と謂うべけんや?臣今思惟し、兼ねて眾議を采り、咸く以て如来の教を設くるは、慈悲を以て主と為し、下群品を済うは、応に本心なるべし、豈に人を労して以て虚飾を存せんと欲せんやと為す。当今事有り、辺境未だ寧からず、宜しく征鎮の徭を寛め、不急の費を省くべし。設令雇作せしむるも、皆利に趨くを以てし、既に田時を失えば、自然本を棄つ。今稼を樹えざれば、来歳必ず饑え、役其の中に在り、以て給するを得難し。況んや官助無くんば、義成るを得ず、若し官財を費やし、又た人力を尽くさば、一隅難有れば、将た何を以てか之を救わん!

原文臣聞爲政之本,必先人事。陛下矜群生迷謬,溺喪無歸,欲令像教兼行,睹相生善。非爲塔廟必欲崇奢,豈令僧尼皆須檀施?得栰尚舍,而況其餘。今之伽藍,製過宮闕,窮奢極壯,畫繢盡工,寶珠殫於綴飾,環材竭於輪奐。工不使鬼,止在役人,物不天來,終須地出,不損百姓,將何以求?生之有時,用之無度,編戸所奉,常若不充,痛切肌膚,不辭箠楚。遊僧一説,矯陳禍福,翦發解衣,仍慚其少。亦有離間骨肉,事均路人,身自納妻,謂無彼我。皆托佛法,詿誤生人。裏陌動有經坊,闤闠亦立精舍。化誘倍急,切於官征;法事所須,嚴於製敕。膏腴美業,倍取其多;水碾莊園,數亦非少。逃丁避罪,並集法門,無名之僧,凡有幾萬,都下檢括,已得數千。且一夫不耕,猶受其弊,浮食者眾,又劫人財。臣每思惟,實所悲痛。往在江表,像法盛興,梁武、簡文,舍施無限。及其三淮沸浪,五嶺騰煙。列刹盈衢,無救危亡之禍;緇衣蔽路,豈有勤王之師!比年已來,風塵屢擾,水旱不節,征役稍繁。家業先空,瘡痍未復,此時興役,力所未堪,伏惟聖朝,功德無量,何必要營大像,而以勞費爲名。雖斂僧錢,百未支一。尊容既廣,不可露居,覆以百層,尚憂未遍,自餘廓廡,不得全無。又雲不損國財,不傷百姓,以此事主,可謂盡忠?臣今思惟,兼采眾議,鹹以爲如來設教,以慈悲爲主,下濟群品,應是本心,豈欲勞人,以存虛飾?當今有事,邊境未寧,宜寬征鎮之徭,省不急之費。設令雇作,皆以利趨,既失田時,自然棄本。今不樹稼,來歳必饑,役在其中,難以取給。況無官助,義無得成,若費官財,又盡人力,一隅有難,將何救之!

則天乃ちその役を罷む。この歳九月、病卒す。則天その為に哀を挙げ、朝を三日廃し、文昌右相を贈り、諡して文惠と曰う。

原文則天乃罷其役。是歳九月,病卒,則天爲之舉哀,廢朝三日,贈文昌右相,諡曰文惠。

仁傑は常に賢を挙ぐることを意とし、その引抜く所の桓彥範・敬暉・竇懷貞・姚崇ら、公卿に至る者数十人。初め、則天嘗て仁傑に問うて曰く、「朕は一の好漢を要して任使せんとす、有るか」と。仁傑曰く、「陛下は何の任使を為さるるや」と。則天曰く、「朕は将相を以て待たんと欲す」と。対えて曰く、「臣料るに陛下若し文章資歴を求めば、則ち今の宰臣李嶠・蘇味道も亦た文吏と為るに足れり。豈に文士齷齪にして、奇才を得て之を用い、以て天下の務を成さんことを思わざらんや」と。則天悦びて曰く、「これ朕が心なり」と。仁傑曰く、「荊州長史張柬之、その人老いりと雖も、真の宰相の才なり。且つ久しく遇わず、若し之を用いば、必ず国家に節を尽くすべし」と。則天乃ち召して洛州司馬に拝す。他日、又た賢を求む。仁傑曰く、「臣前に張柬之を言えり、猶お未だ用いられず」と。則天曰く、「已に之を遷せり」と。対えて曰く、「臣これを相として薦む、今洛州司馬と為るは、之を用うるに非ず」と。又た秋官侍郎に遷し、後竟に相として召す。柬之果たして能く中宗を興復す、蓋し仁傑の推薦によるなり。

原文仁傑常以舉賢爲意,其所引拔桓彥範、敬暉、竇懷貞、姚崇等,至公卿者數十人。初,則天嘗問仁傑曰:「朕要一好漢任使,有乎?」仁傑曰:「陛下作何任使?」則天曰:「朕欲待以將相。」對曰:「臣料陛下若求文章資歴,則今之宰臣李嶠、蘇味道亦足爲文吏矣。豈非文士齷齪,思得奇才用之,以成天下之務者乎?」則天悅曰:「此朕心也。」仁傑曰:「荊州長史張柬之,其人雖老,真宰相才也。且久不遇,若用之,必盡節於國家矣。」則天乃召拜洛州司馬。他日,又求賢。仁傑曰:「臣前言張柬之,猶未用也。」則天曰:「已遷之矣。」對曰:「臣薦之爲相,今爲洛州司馬,非用之也。」又遷爲秋官侍郎,後竟召爲相。柬之果能興復中宗,蓋仁傑之推薦也。

仁傑はかつて魏州刺史を務め、人吏は彼のために生祠を建立した。その職を去った後、その子景暉が魏州司功参軍となり、甚だ貪暴で、人々に憎まれたため、仁傑の祠を毀損した。長子光嗣は、聖暦初年に司府丞となり、則天は宰相に各々尚書郎一人を挙げるよう命じたところ、仁傑は光嗣を推薦した。地官員外郎に任じられ、職務に当たって称職であったので、則天は喜んで言うには、「祁奚が内に挙げて、果たしてその人を得た」と。開元七年、汴州刺史より転じて揚州大都督府長史となり、贓罪に坐して歙州別駕に貶せられて卒した。

原文仁傑嘗爲魏州刺史,人吏爲立生祠。及去職,其子景暉爲魏州司功參軍,頗貪暴,爲人所惡,乃毀仁傑之祠。長子光嗣,聖曆初爲司府丞,則天令宰相各舉尚書郎一人,仁傑乃薦光嗣。拜地官員外郎,蒞事稱職,則天喜而言曰:「祁奚內舉,果得其人。」開元七年,自汴州刺史轉揚州大都督府長史,坐贓貶歙州別駕卒。

初め、中宗が房陵に在った時、吉頊・李昭德は皆匡復の讜言があったが、則天には復辟の意が無かった。ただ仁傑のみが毎回従容として奏対し、子母の恩情を以て言わないことはなく、則天も次第に省悟し、遂に中宗を召還して、再び儲貳とした。初め、中宗が房陵より宮中に還った時、則天は彼を帳中に匿い、仁傑を召して廬陵のことを言わせた。仁傑は慷慨して敷奏し、言葉を発すれば涕涙が流れ、則天は急いで中宗を出して仁傑に言うには、「卿に儲君を還す」と。仁傑は階を降りて泣きながら賀した後、既にして奏して言うには、「太子が宮中に還られても、人々は知る者が無く、物議は安んじて是非を審らかにするだろうか」と。則天はこれを然りとし、乃ち再び中宗を龍門に置き、礼を具えて迎え帰らせ、人々の感情は悦んだ。仁傑の前後における匡復の奏対は、凡そ数万言に及び、開元中、北海太守李邕がこれを撰して『梁公別伝』とし、その言辞を備載した。中宗が返正すると、司空しくうを追贈され、睿宗は梁国公に追封した。仁傑の族曾孫に兼謨がいる。

原文初,中宗在房陵,而吉頊、李昭德皆有匡復讜言,則天無復辟意。唯仁傑每從容奏對,無不以子母恩情爲言,則天亦漸省悟,竟召還中宗,復爲儲貳。初,中宗自房陵還宮,則天匿之帳中,召仁傑以廬陵爲言。仁傑慷慨敷奏,言發涕流,遽出中宗謂仁傑曰:「還卿儲君。」仁傑降階泣賀,既已,奏曰:「太子還宮,人無知者,物議安審是非?」則天以爲然,乃復置中宗於龍門,具禮迎歸,人情感悅。仁傑前後匡復奏對,凡數萬言,開元中,北海太守李邕撰爲《梁公別傳》,備載其辭。中宗返正,追贈司空;睿宗追封梁國公。仁傑族曾孫兼謨。

仁傑の族曾孫に兼謨がいる。

原文仁傑族曾孫 兼謨

兼謨は進士第に登った。祖父は郊、父は邁で、仕官はいずれも微賤であった。兼謨は元和末年に解褐して襄陽推官となり、校書郎を試みられ、言行剛正で、使府に知名であった。憲宗は彼を召して左拾遺とし、累ねて上書して事を言い、尚書郎を歴任した。長慶・太和年中、鄭州刺史を歴任し、治行を以て称せられ、入朝して給事中となった。開成初年、度支左蔵庫が妄りに漬汚縑帛等の贓罪を破ったが、文宗は事が赦前にあることを以って問わなかった。兼謨は敕書を封還したので、文宗は彼を召して諭して言うには、「卿の職を挙げることを嘉するが、然れども朕は既にその長官を赦したので、典吏も亦宥すべきである。然れども事によっては不可なこともあるから、卿は封敕を以って艱しとすることなかれ」と。御史中丞に遷った。謝日の際、文宗は顧みて彼に言うには、「御史臺は朝廷の綱紀であり、臺綱が正しければ朝廷は治まり、朝廷が正しければ天下は治まる。凡そ法を執る者は、大抵畏忌顧望を心とし、職業はこれによって挙がらない。卿は梁公の後裔であり、自ずから家法がある。豈にまた常々の心たるべきや」と。兼謨は謝して言うには、「朝法が或いは中を得ないことがあれば、臣は固より心を悉くして弾奏いたします」と。時に江西観察使呉士矩が定額を違えて軍士に加給し、官銭数十万を破った。兼謨は奏して言うには、「観察使は陛下の土地を守り、陛下の詔条を宣べ、戎に臨んで軍を賞するには、州に定数がある。然るに士矩は与奪を己に由り、盈縮を自ら専らにし、只一方に弊を貽すのみならず、必ずや諸軍の援例を致すでしょう。法司に下し、正しく朝典を行わせることを請います」と。士矩は坐して蔡州別駕に貶せられた。兼謨は尋いで兵部侍郎に転じた。明年、検校工部尚書・太原尹となり、河東節度使を充てた。会昌年中、累ねて方鎮を歴任し、卒した。

原文兼謨,登進士第。祖郊、父邁,仕官皆微。兼謨元和末解褐襄陽推官,試校書郎,言行剛正,使府知名。憲宗召爲左拾遺,累上書言事,歴尚書郎。長慶、太和中,歴鄭州刺史,以治行稱,入爲給事中。開成初,度支左藏庫妄破漬汙縑帛等贓罪,文宗以事在赦前不理。兼謨封還敕書,文宗召而諭之曰:「嘉卿舉職,然朕已赦其長官,典吏亦宜在宥。然事或不可,卿勿以封敕爲艱。」遷御史中丞。謝日,文宗顧謂之曰:「御史臺朝廷綱紀,臺綱正則朝廷理,朝廷正則天下理。凡執法者,大抵以畏忌顧望爲心,職業由茲不舉。卿梁公之後,自有家法,豈復爲常常之心哉!」兼謨謝曰:「朝法或未得中,臣固悉心彈奏。」會江西觀察使吳士矩違額加給軍士,破官錢數十萬計。兼謨奏曰:「觀察使守陛下土地,宣陛下詔條,臨戎賞軍,州有定數。而士矩與奪由己,盈縮自專,不唯貽弊一方,必致諸軍援例。請下法司,正行朝典。」士矩坐貶蔡州別駕。兼謨尋轉兵部侍郎。明年,檢校工部尚書、太原尹,充河東節度使。會昌中,累歴方鎮,卒。

王方慶

原文王方慶

王方慶は、雍州咸陽の人である。周の少司空石泉公王褒の曾孫である。その先祖は琅邪より南渡し、丹陽に居住して、江左の冠族となった。王褒が北徙して関中に入り、初めて咸陽に家を定めた。祖父の鼒は、隋の衛尉丞であった。伯父の弘譲は美名があり、貞観年中に中書舎人となった。父の弘直は、漢王元昌の友となり、畋獵に度が無かったので、乃ち上書して切諫し、その要旨は次の如くである。「宗子が維城の托たる所以は、邦家の業を固くするためである。大王には任城の戦克の効が無く、行いには河間の楽善の誉れが無く、爵は五等高く、邑は千室富み、極施の洪慈に答え、無疆の永祚を保つことを思うべきである。その計は、徳を修め、『詩』『礼』を冠履し、史伝を畋獵することに在り。古人の成敗の由る所を覧、既往の存亡の異跡を鑑とし、前を覆して後を戒め、安に居りて危を慮うべきである。奈何ぞ騎を列ねて斉に駆け、壟畝に交横し、野に遊客有り、巷に居人無からしむるや。衆庶の憂を貽し、一情の楽を逞うし、禽に従いて息まず、実に寒心を用うる」と。元昌は書を覧て急ぎ止めた。次第に疏斥され、転じて荊王友となった。龍朔年中に卒した。

原文王方慶,雍州咸陽人也,周少司空石泉公褒之曾孫也。其先自琅邪南度,居於丹陽,爲江左冠族。褒北徙入關,始家咸陽焉。祖鼒,隋衞尉丞。伯父弘讓,有美名,貞觀中爲中書舍人。父弘直,爲漢王元昌友,畋獵無度,乃上書切諫,其略曰:「夫宗子維城之托者,所以固邦家之業也。大王功無任城戰克之效,行無河間樂善之譽,爵高五等,邑富千室,當思答極施之洪慈,保無疆之永祚。其爲計者,在乎修德,冠屨《詩》《禮》,畋獵史傳。覽古人成敗之所由,鑒既往存亡之異跡,覆前戒後,居安慮危。奈何列騎齊驅,交橫壟畝,野有遊客,巷無居人。貽眾庶之憂,逞一情之樂,從禽不息,實用寒心。」元昌覽書而遽止。漸見疏斥,轉荊王友。龍朔中卒。

方慶は十六歳で、起家して越王府参軍となった。かつて記室の任希古に就いて『史記しき』・『漢書かんじょ』を受けた。希古が遷って太子舎人となると、方慶はそれに従って卒業した。永淳年中、累遷して太僕少卿となった。則天が臨朝すると、広州都督に拝された。広州は地が南海に際し、毎年崑崙人が船に乗って珍物を以て中国と交市した。旧都督の路元睿がその貨を冒って求めたため、崑崙人は刃を懐いて彼を殺した。方慶は任に在ること数載、秋毫も犯さなかった。又管内諸州の首領は、旧来多く貪縦であり、百姓で府に詣でて冤を称える者があっても、府官は先に首領の参餌を受けたため、未だ嘗て鞫問しなかった。方慶は乃ち府僚を集めて止め、その交往を絶ち、縦暴な首領は悉くこれを糾した。これによって境内は清粛となった。当時の議者は、唐以来、広州を治める者で方慶の右に出る者無しとした。制有りてこれを褒めて言うには、「朕は卿が歴職著称なるを以て、故にこの官を授く。既に美化遠聞し、実に朝寄に副う。令して卿に雑采六十段並びに瑞錦等の物を賜い、以て善政を彰す」と。

原文方慶年十六,起家越王府參軍。嘗就記室任希古受《史記》、《漢書》。希古遷爲太子舍人,方慶隨之卒業。永淳中,累遷太仆少卿。則天臨朝,拜廣州都督。廣州地際南海,每歳有昆侖乘舶以珍物與中國交市。舊都督路元睿冒求其貨,昆侖懷刃殺之。方慶在任數載,秋毫不犯。又管內諸州首領,舊多貪縱,百姓有詣府稱冤者,府官以先受首領參餉,未嘗鞫問。方慶乃集止府僚,絶其交往,首領縱暴者悉繩之,由是境內清肅。當時議者以爲有唐以來,治廣州者無出方慶之右。有制褒之曰:「朕以卿歴職著稱,故授此官,既美化遠聞,實副朝寄。令賜卿雜采六十段,並瑞錦等物,以彰善政也。」

証聖元年、召されて洛州長史に拝され、尋いで銀青光禄大夫を加えられ、石泉県男に封ぜられた。万歳登封元年、転じて并州長史となり、琅邪県男に封ぜられた。未だ行かず、鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事に遷った。俄かに鳳閣侍郎に転じ、旧に依って政事を知った。

原文證聖元年,召拜洛州長史,尋加銀青光祿大夫,封石泉縣男。萬歳登封元年,轉并州長史,封琅邪縣男。未行,遷鸞臺侍郎、同鳳閣鸞臺平章事。俄轉鳳閣侍郎,依舊知政事。

神功元年七月、清辺道大総管建安王攸宜が契丹を破り凱還し、この月に闕に詣でて俘虜を献じようとした。内史王及善は、将軍が城に入るには例として軍楽があるが、今上孝明高皇帝の忌月であるから、備えはするが奏すべきでないと考えた。方慶は奏して言うには、「臣が礼経を按ずるに、但だ忌日有りて忌月無し。晋の穆帝が后を納れるに、九月九日を用いたが、これは康帝の忌月であった。時に疑いを抱いて定まらず、太常に下し、礼官荀訥が議して称えるには、『礼には只忌日有りて忌月無し。若し忌月有らば、即ち忌時・忌歳有り、益々理拠無し』と。当時は訥の議に従った。軍楽は軍容であり、常のものとは等しからず、臣は振作することは事に於いて嫌うべきでないと謂います」と。則天はこれに従った。則天はかつて万安山玉泉寺に幸し、山径が危懸なるを以て、腰輿に御して登ろうとした。方慶は諫めて言うには、「昔漢の元帝が嘗て廟を祭り、便門を出て、楼船に御しようとした時、光禄勲張猛が奏して言うには、『船に乗るは危く、橋に就くは安し』と。元帝は乃ち橋に従った。これ即ち前代の旧事である。今山径は危険にし、石路は曲狭で、上を瞻れば目を駭かし、下を視れば心を寒からしむ。楼船に比べれば、安危等しからず。陛下は蒸人の父母たるに、奈何ぞこの畏塗を践まれるか。伏して輿を停め蹕を駐めんことを望む」と。則天はその言を納めて止めた。この年、石泉子に改封された。

原文神功元年七月,清邊道大總管建安王攸宜破契丹凱還,欲以是月詣闕獻俘。內史王及善以爲將軍入城,例有軍樂,既今上孝明高皇帝忌月,請備而不奏。方慶奏曰:「臣按禮經,但有忌日,而無忌月。晉穆帝納後,用九月九日,是康帝忌月,於時持疑不定。下太常,禮官荀訥議稱:『禮隻有忌日,無忌月。若有忌月,即有忌時、忌歳,益無理據。』當時從訥所議。軍樂是軍容,與常不等,臣謂振作於事無嫌。」則天從之。則天嘗幸萬安山玉泉寺,以山逕危懸,欲禦腰輿而上。方慶諫曰:「昔漢元帝嘗祭廟,出便門,禦樓船,光祿勳張猛奏曰:『乘船危,就橋安。』元帝乃從橋,即前代舊事。今山徑危險,石路曲狹,上瞻駭目,下視寒心,比於樓船,安危不等。陛下蒸人父母,奈何踐此畏塗?伏望停輿駐蹕。」則天納其言而止。是歳,改封石泉子。

時に制があり、毎月一日に明堂において告朔の礼を行ふ。司礼博士辟閭仁諝が奏議し、その要旨は曰く、「経史の正文には、天子が毎月告朔することはなく、ただ『礼記・玉藻』に云ふ、『天子は南門の外にて朔を聴く』と。その毎月告朔するは、諸侯の礼なり。臣謹んで按ずるに『礼論』及び『三礼義宗』、『江都集礼』、『貞観礼』、『顕慶礼』並びに『祠令』には、天子が毎月告朔することなし。若し明堂無きを以て故に告朔の礼無しと為し、明堂有れば即ち告朔に合すとすれば、則ち周・秦には明堂有りて而も天子が毎月告朔すること無し。臣等参求するに、既に其の礼無ければ、非を習ふべからず、以て天子の尊きにして諸侯の礼を用ふるは」と。方慶また奏議し、その要旨は曰く、「明堂は、天子が政を布く宮なり。謹んで按ずるに『穀梁伝』に云ふ、『閏は、月に附する余日の謂ひ、天子は以て朔を告げず』『礼に非ず。閏は以て時を正し、時は以て事を作し、事は以て生を厚くす、人の道は是れに在り。閏朔を告げざるは、時政を棄つるなり』と。臣此の文に拠れば、則ち天子閏月も亦た朔を告ぐ。寧そ他月にして其の礼を廃せんや。先儒の旧説に、天子行事、一年に十八度明堂に入る。大享は卜を問はず、一入なり;毎月告朔、十二入なり;四時に気を迎ふ、四入なり;巡狩の年、一入なり。今礼官の議は唯歳首の一入のみ、先儒と既に異なり、臣に在りて敢へて同じからず。宋朝の何承天其の文を纂集し、以て『礼論』と為す、編次を加ふと雖も、事は則ち闕如たり。梁代の崔霊恩『三礼義宗』を撰す、但だ前儒を捃摭し、故事に因循するのみ。隋の煬帝学士に命じて『江都集礼』を撰せしむ、隻だ旧礼を抄撮し、更に異文無し。『貞観』、『顕慶礼』及び『祠令』に告朔を言はざるは、蓋し歴代伝はらざるを為す、故に其の文乃ち闕く。各縁由有り、以て拠とすに足らず。今礼官引きて明証と為す、臣に在りて誠に疑有り」と。則天また春官に令して広く衆儒を集め、方慶・仁諝の奏議を取らしめ、以て得失を定めしむ。時に成均博士呉揚善・太学博士郭山惲等奏して曰く、「『周礼』及び『三伝』に按ずるに、皆天子告朔の礼有り、秦『詩』、『書』を滅ぼし、是れに由りて告朔の礼廃す。望むらくは方慶の議に依らん」と。制有りて之に従ふ。

原文時有制,每月一日於明堂行告朔之禮。司禮博士辟閭仁諝奏議,其略曰:「經史正文,無天子每月告朔之事,唯《禮記·玉藻》云:『天子聽朔於南門之外。』其每月告朔者,諸侯之禮也。臣謹按《禮論》及《三禮義宗》、《江都集禮》、《貞觀禮》、《顯慶禮》及《祠令》,無天子每月告朔之事。若以爲無明堂故無告朔之禮,有明堂即合告朔,則周、秦有明堂而無天子每月告朔之事。臣等參求,既無其禮,不可習非,以天子之尊而用諸侯之禮。」方慶又奏議,其略曰:「明堂,天子布政之宮也。謹按《穀梁傳》云:『閏者,附月之餘日,天子不以告朔。』『非禮也。閏以正時,時以作事,事以厚生,生人之道,於是乎在矣。不告閏朔,棄時政也。』臣據此文,則天子閏月亦告朔矣。寧有他月而廢其禮乎?先儒舊説,天子行事,一年十八度入明堂矣。大享不問卜,一入也;每月告朔,十二入也;四時迎氣,四入也;巡狩之年,一入也。今禮官議唯歳首一入耳,與先儒既異,在臣不敢同。宋朝何承天纂集其文,以爲《禮論》,雖加編次,事則闕如。梁代崔靈恩撰《三禮義宗》,但捃摭前儒,因循故事而已。隋煬帝命學士撰《江都集禮》,隻抄撮舊禮,更無異文。《貞觀》、《顯慶禮》及《祠令》不言告朔者,蓋爲歴代不傳,所以其文乃闕。各有緣由,不足依據。今禮官引爲明證,在臣誠實有疑。」則天又令春官廣集眾儒,取方慶、仁諝所奏議,以定得失。時成均博士吳揚善、太學博士郭山惲等奏:「按《周禮》及《三傳》,皆有天子告朔之禮,秦滅《詩》、《書》,由是告朔禮廢。望依方慶議。」有制從之。

則天方慶の家に書籍多きを以て、嘗て右軍の遺跡を訪求せり。方慶奏して曰く、「臣が十代従伯祖羲之の書、先づ四十余紙有り、貞観十二年、太宗購求せしに、先臣並びに已に之を進む。唯だ一卷見今在る有り。又臣が十一代祖導・十代祖洽・九代祖珣・八代祖曇首・七代祖僧綽・六代祖仲宝・五代祖騫・高祖規・曾祖褒、並びに九代三従伯祖晋中書令献之已下二十八人の書を進む、凡そ十卷」と。則天武成殿に御して群臣に示し、仍て中書舎人崔融に令して『宝章集』を為さしめ、以て其の事を叙せしめ、復た方慶に賜ふ、当時甚だ以て栄と為す。

原文則天以方慶家多書籍,嘗訪求右軍遺跡。方慶奏曰:「臣十代從伯祖羲之書,先有四十餘紙,貞觀十二年,太宗購求,先臣並已進之。唯有一卷見今在。又進臣十一代祖導、十代祖洽、九代祖珣、八代祖曇首、七代祖僧綽、六代祖仲寶、五代祖騫、高祖規、曾祖褒,並九代三從伯祖晉中書令獻之已下二十八人書,共十卷。」則天禦武成殿示群臣,仍令中書舍人崔融爲《寶章集》,以敘其事,復賜方慶,當時甚以爲榮。

方慶また挙げて曰く、「令に杖す『期喪・大功未だ葬せざれば、朝賀に預からず;未だ喪終はらざれば、宴会に預からず』と。比来朝官礼法を遵ばず、身に哀容有りて、朝会に陪預し、手舞ひ足蹈み、公然と憲章に違ひ、名教既に虧け、実に皇化を玷す。伏して望むらくは令式を申明し、更に禁断せんことを」と。之に従ふ。方慶漸く老疾を以て、閑逸に従はんことを乞ふ、乃ち麟台監修国史を授く。及び中宗立って東宮と為るに及び、方慶兼ねて検校太子左庶子と為る。

原文方慶又舉:「令杖『期喪、大功未葬,不預朝賀;未終喪,不預宴會。』比來朝官不遵禮法,身有哀容,陪預朝會,手舞足蹈,公違憲章,名教既虧,實玷皇化。伏望申明令式,更禁斷。」從之。方慶漸以老疾,乞從閑逸,乃授麟臺監修國史。及中宗立爲東宮,方慶兼檢校太子左庶子。

聖暦二年一日、則天季冬に講武せんと欲す、有司稽緩して、孟春に延入す。方慶上疏して曰く、「謹んで按ずるに『礼記月令』に、『孟冬の月、天子将帥に命じて講武し、射禦角力を習はしむ』と。此れは三時に農を務め、一時に武を講じ、以て射禦を習ひ、才力を角校するは、蓋し王者の常事、安にして危うきを忘れざるの道なり。『孟春の月、兵を称ふべからず』と。兵は、甲冑干戈の総名なり。兵は金性、木を克す、春は盛徳木に在り、而して金を挙げて以て盛徳を害し、生気に逆らふ。『孟春冬令を行へば、則ち水潦敗と為り、雪霜大摯し、首種入らず』と。蔡邕『月令章句』に云ふ、『太陰新たに休み、少陽尚ほ微なり、而して冬令を行ひて以て水気を導く、故に水潦至りて生物を敗るなり。雪霜大摯するは、陽を折る者なり。太陰時に幹し、雨雪して霜と為る、故に大いに首種を傷む。首種は、宿麦を謂ふ、麦は秋に種く、故に首種と謂ふ。入は、収なり、春沍寒に傷まれるを為す、故に夏に至りて麦成長せず』と。今孟春に講武するは、是れ冬令を行ふ、以て陰政陽気を犯し、発生の徳を害す。臣恐らくは水潦物を敗り、霜雪稼を損じ、夏麦登らず、収入する所無からんと。伏して天恩の時令に違はざるを望み、孟冬に至りて教習し、以て天道に順はんことを」と。手製を以て答へて曰く、「比久しく太平に属し、多年を歴る、人皆戦を廃し、並びに悉く文を学ぶ。今者兵威を整ふるを用ふ、故に教習せしむ。卿春に冬令を行へば、則ち水潦敗と為り、金を挙げて木を傷めば、則ち便ち発生を害すと。循りて覧る所陳、深く典礼に合す、若し此の請に違はば、乃ち月令虚行と為らん。直言を佇ち啓き、用て来表に依らん」と。是歳、正しく太子左庶子を授け、石泉公に封じ、余並びに故の如く、俸料職事三品に同じく、兼ねて皇太子の読書に侍す。方慶また上言して曰く、「謹んで史籍の載する所に按ずるに、人臣人主に言ひ及び上表するに、未だ皇太子の名を称する者無し。当に太子皇儲と為る、其の名尊重、敢へて指斥せず、故に言はざるなり。晋の尚書僕射山濤啓事に、皇太子と称して而も名を言はず。濤は中朝の名士、必ず典故に詳し、其の名を称せざるは、応に憑準有るべし。朝官尚ほ猶ほ然り、宮臣帰するは則ち疑はず。今東宮の殿及び門の名、皆触犯有り、事に臨み論啓するに、回避甚だ難し。孝敬皇帝太子たる時、弘教門を改めて崇教門と為す;沛はい王皇太子と為るに、崇賢館を改めて崇文館と為す。皆名諱を避け、以て典礼に遵ふ。此れ即ち成例、以て軌模と為すに足る。伏して天恩旧式に因循し、司に付して改換せしめんことを望む」と。製して之に従ふ。

原文聖曆二年一日,則天欲季冬講武,有司稽緩,延入孟春。方慶上疏曰:「謹按《禮記月令》:『孟冬之月,天子命將帥講武,習射禦角力。』此乃三時務農,一時講武,以習射禦,角校才力,蓋王者常事,安不忘危之道也。『孟春之月,不可以稱兵。』兵者,甲胄干戈之總名。兵金性,克木,春盛德在木,而舉金以害盛德,逆生氣。『孟春行冬令,則水潦爲敗,雪霜大摯,首種不入。』蔡邕《月令章句》云:『太陰新休,少陽尚微,而行冬令以導水氣,故水潦至而敗生物也。雪霜大摯,折陽者也。太陰幹時,雨雪而霜,故大傷首種。首種,謂宿麥也,麥以秋種,故謂之首種。入,收也,春爲沍寒所傷,故至夏麥不成長也。』今孟春講武,是行冬令,以陰政犯陽氣,害發生之德。臣恐水潦敗物,霜雪損稼,夏麥不登,無所收入也。伏望天恩不違時令,至孟冬教習,以順天道。」手製答曰:「比爲久屬太平,多歴年載,人皆廢戰,並悉學文。今者用整兵威,故令教習。卿以春行冬令,則水潦爲敗,舉金傷木,則便害發生。循覽所陳,深合典禮,若違此請,乃月令虛行。佇啟直言,用依來表。」是歳,正授太子左庶子,封石泉公,餘並如故,俸料同職事三品,兼侍皇太子讀書。方慶又上言:「謹按史籍所載,人臣與人主言及上表,未有稱皇太子名者。當爲太子皇儲,其名尊重,不敢指斥,所以不言。晉尚書僕射山濤啟事,稱皇太子而不言名。濤中朝名士,必詳典故,其不稱名,應有憑準。朝官尚猶如此,宮臣歸則不疑。今東宮殿及門名,皆有觸犯,臨事論啟,回避甚難。孝敬皇帝爲太子時,改弘教門爲崇教門;沛王爲皇太子,改崇賢館爲崇文館。皆避名諱,以遵典禮。此即成例,足爲軌模。伏望天恩因循舊式,付司改換。」製從之。

長安ちょうあん二年五月卒す、袞州都督を贈られ、諡して貞と曰ふ。中宗即位し、宮僚の旧を以て、吏部尚書を追贈す。方慶博学にして著述を好み、撰する所雑書凡そ二百余卷。尤も『三礼』に精しく、好事の者多く之に詢訪す。毎に酬答する所、咸く典拠有り、故に時人編次し、名づけて『礼雑答問』と曰ふ。書を聚むること甚だ多く、秘閣に減ぜず、図画に至るまで、亦た多く異本なり。諸子其の業を守る能はず、卒後尋いで亦た散亡す。長子光輔、開元中官潞州刺史に至る。少子晙、書に工にして名を知られ、尤も琴棋を善くす、而して性多く厳整、官殿中侍御史に至る。

原文長安二年五月卒,贈袞州都督,諡曰貞。中宗即位,以宮僚之舊,追贈吏部尚書。方慶博學好著述,所撰雜書凡二百餘卷。尤精《三禮》,好事者多詢訪之。每所酬答,鹹有典據,故時人編次,名曰《禮雜答問》。聚書甚多,不減秘閣,至於圖畫,亦多異本。諸子莫能守其業,卒後尋亦散亡。長子光輔,開元中官至潞州刺史。少子晙,工書知名,尤善琴棋,而性多嚴整,官至殿中侍御史。

姚璹

原文姚璹

姚璹は、字を令璋といい、散騎常侍さんきじょうじ思廉の孫である。幼くして孤児となり、弟妹を養育して友愛の名があった。経史に広く通じ、才弁があった。永徽年間に明経に及第した。累進して太子宮門郎を補任された。司議郎孟利貞らとともに詔を受けて『瑤山玉彩』の書を撰し、書が完成すると、秘書郎に遷った。調露年間に、累進して中書舍人に至り、吳興縣男に封ぜられた。則天が朝政に臨むと、夏官侍郎に遷った。従父弟の敬節が徐敬業の乱に連座したことで、桂州都督府長史に貶ぜられた。時に則天は符瑞を殊の外好み、璹は嶺南に至り、山川草木のうち、名号に「武」の字があるものを探し求め、すべてこれが国姓に応じるものとして、その事を列挙して奏上した。則天は大いに喜び、召して天官侍郎に拝した。選補に巧みで、当時の人に称賛された。

原文姚璹,字令璋,散騎常侍思廉之孫也。少孤,撫弟妹以友愛稱。博涉經史,有才辯。永徽中明經擢第。累補太子宮門郎。與司議郎孟利貞等奉令撰《瑤山玉彩》書,書成,遷秘書郎。調露中,累遷至中書舍人,封吳興縣男。則天臨朝,遷夏官侍郎。坐從父弟敬節同徐敬業之亂,貶桂州都督府長史。時則天雅好符瑞,璹至嶺南,訪諸山川草樹,其名號有「武」字者,皆以爲上膺國姓,列奏其事。則天大悅,召拜天官侍郎。善於選補,時人稱之。

長壽二年、文昌左丞・同鳳閣鸞臺平章事に遷った。永徽以後、左史・右史は対仗して旨を承けることはできたが、仗下後の謀議には、皆参与して聞くことができなかった。璹は、帝王の謀略訓戒は、暫しも記述がなくてはならず、もし宰相から宣示されなければ、史官は記すことができないと考えた。そこで表を上って、仗下で言う軍国政要を、宰相一人が専ら知って撰録し、時政記と号して、毎月史館に封送することを請うた。宰相が時政記を撰することは、璹に始まる。この年九月、事に坐して司賓少卿に転じ、政事を知ることを罷められた。延載初年、納言に擢拝された。有司が璹の従父弟が法を犯したことを理由に、奏上して侍臣となるのに適さないと述べた。璹は上言して、「昔、王敦が兵を挙げて順を犯したが、王導はなお枢機を典じ、嵇康は晉朝に誅戮されたが、嵇紹は晉室に忠であった。窃かに前古を思うに、尚疑わず、今聖恩を奉ずるに、どうして臣下によることがあろうか。必ずや体例に背くというなら、伏して甘んじて屏退に従うことを請う」と言った。則天は、「これは我が意である、卿また何を言うか。ただ忠を尽くすべく、浮説を聴くことなかれ」と言った。

原文長壽二年,遷文昌左丞、同鳳閣鸞臺平章事。自永徽以後,左、右史雖得對仗承旨,仗下後謀議,皆不預聞。璹以爲帝王謨訓,不可暫無紀述,若不宣自宰相,史官無從得書。乃表請仗下所言軍國政要,宰相一人專知撰錄,號爲時政記,每月封送史館。宰相之撰時政記,自璹始也。是歳九月,坐事轉司賓少卿,罷知政事。延載初,擢拜納言。有司以璹從父弟犯法,奏言不合更爲侍臣。璹上言:「昔王敦稱兵犯順,王導仍典樞機;嵇康戮於晉朝,嵇紹忠於晉室。竊惟前古,尚不爲疑;今奉聖恩,豈由臣下。必以體例有乖,伏請甘從屏退。」則天曰:「此乃我意,卿復何言!但當盡忠,無聽浮説。」

時に武三思が蕃夷の酋長を率い、端門外に天樞を造り、字を刻んで功を紀し、周の徳を頌えることを請うた。璹は督作使となった。證聖初年、璹は秋官尚書・同平章事を加えられた。この年、明堂が災いに遭い、則天は躬を責めて正殿を避けようとした。璹は奏上して、「これは実に人火であって、天災というべきではありません。成周の宣榭に至っては、卜代は愈々隆盛し、漢武の建章宮は、盛徳は弥が永く続きました。臣はまた『弥勒下生経』に見えるところ、弥勒が成仏する時、七宝の台は須臾のうちに散壊するとあります。この無常の相を観て、便ち正覚の因と為ります。故に聖人の道は、縁に随って化を示し、方便の利は、広く多くを済うことを知ります。これに由らしむべく、義はここに存します。況んや今の明堂は、布政の所であって、宗廟の地ではなく、陛下が正殿を避けられるのは、礼として得たものではありません」と言った。左拾遺劉承慶が廷上で奏して、「明堂は宗祀の所であり、今既に焚かれた以上、陛下は朝を輟めて過ちを思うべきです」と言った。璹はまた前の議論を堅持して争い、則天は遂に璹の奏に依った。先に璹に天樞の監造を命じていたが、この時功によって爵一等を賜うべきところであった。璹は表を上って父に一官を回贈することを請い、その父の豫州司戸参軍処平を追贈して博州刺史とした。天後が嵩嶽を封ぜんとするに及び、璹に命じて総じて儀注の撰を知らしめ、併せて封禅副使を充てさせた。また明堂を重ねて造るに及び、また璹に命じて使を充てて督作させ、功によって銀青光禄大夫を加えられた。

原文時武三思率蕃夷酋長,請造天樞於端門外,刻字紀功,以頌周德,璹爲督作使。證聖初,璹加秋官尚書、同平章事。是歳,明堂災,則天欲責躬避正殿,璹奏曰:「此實人火,非曰天災。至如成周宣榭,卜代愈隆;漢武建章,盛德彌永。臣又見《彌勒下生經》雲,當彌勒成佛之時,七寶臺須臾散壞。睹此無常之相,便成正覺之因。故知聖人之道,隨緣示化,方便之利,博濟良多。可使由之,義存於此。況今明堂,乃是布政之所,非宗廟之地,陛下若避正殿,於禮未爲得也。」左拾遺劉承慶廷奏云:「明堂宗祀之所,今既被焚,陛下宜輟朝思過。」璹又持前議以爭之,則天乃依璹奏。先令璹監造天樞,至是以功當賜爵一等。璹表請回贈父一官,乃追贈其父豫州司戸參軍處平爲博州刺史。天後將封嵩嶽,命璹總知撰儀注,並充封禪副使。及重造明堂,又令璹充使督作,以功加銀青光祿大夫。

時に大石国の使が獅子を献上することを請うた。璹は上疏して諫めて、「獅子は猛獣で、ただ肉を食うのみです。遠く碎葉から神都に至るまで、肉は既に得難く、調達は労費となります。陛下は百姓を心と為し、一物の失われることを慮り、鷹犬を蓄えず、漁猟を総て停められました。殺さざるを運らして大慈を闡き、生を好むを垂れて至徳を敷き、凡そ飛蠢動くもの、仁恩に感荷せざるはありません。どうして自ら身を菲薄にして、獣に厚く資給することを容れ、至理に求めて、必ずや然らざるを得ましょうか」と言った。疏が奏上されると、直ちに来使を停めた。また九鼎が初めて成った時、制令で黄金千両をもってこれを塗ることにした。璹は進諫して、「そもそも鼎は神器であり、貴ぶところは質朴自然にあり、別に浮飾を仮る必要はありません。臣がその状を見るに、先ず五彩の輝煥があり、その間に錯雑しており、どうして金色を待って、初めて炫耀とするものでしょうか」と言った。則天はまたこれに従った。

原文時有大石國使請獻獅子,璹上疏諫曰:「獅子猛獸,唯止食肉,遠從碎葉,以至神都,肉既難得,檢爲勞費。陛下以百姓爲心,慮一物有失,鷹犬不蓄,漁獵總停。運不殺以闡大慈,垂好生以敷至德,凡在飛蠢動,莫不感荷仁恩。豈容自菲薄於身,而厚資給於獸,求之至理,必不然乎。」疏奏,遽停來使。又九鼎初成,製令黃金千兩塗之。璹進諫曰:「夫鼎者神器,貴在質樸自然,無假別爲浮飾。臣觀其狀,先有五彩輝煥,錯雜其間,豈待金色,方爲炫耀?」則天又從之。

間もなく契丹が塞を犯すに属し、梁王武三思を榆関道安撫大使とし、璹を副使としてこれに備えさせた。帰還後、事に坐し、神功初年に左遷して益州大都督府長史に任ぜられた。蜀中の官吏は多く貪暴であり、璹は屡々摘発し、奸悪の隠れる所がなかった。則天はこれを嘉し、璽書を降して労って、「厳霜の下に、貞松の奇を擅にするを知り、疾風の前に、勁草の貴きを知る。物既に此れ有り、人も亦宜しく然るべし。卿は早く朝恩に荷い、委任斯くの如く重し。中に居て相と作り、弘益已に多く、辺を防ぎ兵を訓うるに、心力俱に尽くす。歳寒に改むること無く、終始渝ること無し。乃ち蜀中を眷みしに、氓俗殷雑にして、久しく良守を缺き、侵漁に弊れ、政は賄を以て成り、人措く足無し。是を用て卿を命じて出鎮せしめ、茲に存養を寄す。果たよく轡を攬めて澄清し、車を下して整肅す。吏敢えて犯さず、奸容るる所無く、前後糾擿する所、蓋し一縷に非ず。貪残の伍は、列城に跡を屏い、剽奪の儔は、外境に形を遁る。詎ぞ期月を労して、此の黎元を康んぜん、言を徳声に念い、良く深く嘉尚す。宜しく琅邪の化を布くべく、当に豫州を以て法と為すべし」と言った。則天はまた嘗て侍臣に謂って、「凡そ長官たるもの、能く自ら身を清くするは甚だ易く、僚吏を清く得るは甚だ難し。姚璹に至っては、兼ねるというべし」と言った。

原文尋屬契丹犯塞,命梁王武三思爲榆關道安撫大使、璹爲副使以備之。及還,坐事,神功初左授益州大都督府長史。蜀中官吏多貪暴,璹屢有發擿,奸無所容。則天嘉之,降璽書勞之曰:「夫嚴霜之下,識貞鬆之擅奇,疾風之前,知勁草之爲貴。物既有此,人亦宜哉。卿早荷朝恩,委任斯重。居中作相,弘益已多,防邊訓兵,心力俱盡。歳寒無改,終始不渝。乃眷蜀中,氓俗殷雜,久缺良守,弊於侵漁,政以賄成,人無措足。是用命卿出鎮,寄茲存養。果能攬轡澄清,下車整肅。吏不敢犯,奸無所容,前後糾擿,蓋非一緒。貪殘之伍,屏跡於列城;剽奪之儔,遁形於外境。詎勞期月,康此黎元,言念德聲,良深嘉尚。宜布琅邪之化,當以豫州爲法。」則天又嘗謂侍臣曰:「凡爲長官,能清自身者甚易,清得僚吏者甚難。至於姚璹,可謂兼之矣。」

時に新都丞朱待辟が贓罪に坐して死に至り、逮捕されて獄に繋がれた。待辟は平素より沙門の理中と親しく、密かに諸々の不逞の徒と結び、待辟を因って璹を殺すことを名目とし、巴蜀はしょくを拠って乱を為さんと図った。人が密かに表を上ってこれを告げたので、制令で璹にその獄を按じさせた。璹は深くこれを執り、事が疑似に渉る者は引き出して誅殺し、僅かに千数を数えた。則天はまた洛州長史宋元爽・御史中丞霍献可らに命じて重ねて詳覆させたが、また発明する所がなかった。獄に繋がれた数百人は、酷毒に耐えず、互いに附会して、反状に就かせた。このため籍没された者はまた五十余家、その他反逆を知ったと称して配流された者も十八九に及び、道路の人はこれを冤んだ。監察御史袁恕己がその事を劾奏した。則天は初め璹と恕己に対定させ、また間もなく推問を罷めることを命じた。俄かに地官尚書に拝した。歳余りして、冬官尚書に転じ、仍って西京留守となった。長安年間、累表して骸骨を乞うたので、制を聴いて致仕を許し、爵を進めて伯とした。官名が旧に復するに遇い、工部尚書となった。神龍元年に卒し、遺令で薄葬を命じ、越州都督を贈られ、諡して成といった。

原文時新都丞朱待辟坐贓至死,逮捕繫獄。待辟素善沙門理中,陰結諸不逞,因待辟以殺璹爲名,擬據巴蜀爲亂。人密表告之者,製令璹按其獄。璹深持之,事涉疑似引而誅死者,僅以千數。則天又令洛州長史宋元爽、御史中丞霍獻可等重加詳覆,亦無所發明。逮繫獄數百人,不勝酷毒,遞相附會,以就反狀。因此籍沒者復五十餘家,其餘稱知反配流者亦十八九,道路冤之。監察御史袁恕己劾奏其事。則天初令璹與恕己對定,又尋令罷推。俄拜地官尚書。歳餘,轉冬官尚書,仍西京留守。長安中,累表乞骸骨,製聽致仕,進爵爲伯。遇官名復舊,爲工部尚書。神龍元年卒,遺令薄葬,贈越州都督,諡曰成。

璹の弟に珽がいる。

原文璹弟 珽

弟の珽は、若くして学を好み、勤苦をもって自立した。明経に挙げられ、累進して定・汴・滄・虢・豳の五州刺史を除かれ、銀青光禄大夫を加えられ、秦州刺史に転じた。善政をもって聞こえ、璽書で褒美され、絹百匹を賜った。神龍元年、累封して宣城郡公となり、三遷して太子詹事に至り、仍って左庶子を兼ねた。時に節湣太子が事を挙げて法に従わず、班は前後上書して進諫した。今四事を載せる。

原文弟珽,少好學,以勤苦自立。舉明經,累除定、汴、滄、虢、豳等五州刺史,加銀青光祿大夫,轉秦州刺史。以善政有聞,璽書褒美,賜絹百匹。神龍元年,累封宣城郡公,三遷太子詹事,仍兼左庶子。時節湣太子舉事不法,班前後上書進諫。今載四事:

その一に曰く、臣は賈誼の言うところを聞くに、「天下の端士、孝悌博聞有道術の者を選び、太子と居処出入を共にさせよ。故に太子は正事を見、正言を聞き、正道を行い、左右前後皆正人なり。夫れ正人と習い居するは、正ならざるを得ず、不正の人と習い居するは、不正ならざるを得ず。太子既に冠して成人し、保傅の厳しきを免るれば、則ち記過の史あり。徹膳の宰あり、進善の旌あり、誹謗の木あり、敢諫の鼓あり、瞽史箴を誦し、大夫謀を進む。故に習いと智と共に長じ、化と心と共に成る。夫れ教え得て左右正しければ、則ち太子正し。太子正しければ天下定まる」と。臣またこれを聞く、木は縄に従えば則ち正しく、後は諫に従えば則ち聖なり。善く古を言う者は、以て今に験する所以なり。伏して惟うに殿下は睿徳洪深にして、天姿聡敏、近代の成敗、前古の安危、懸鑒を心に在らざるは莫く、動きて典礼に合す。臣は庸朽を以て、濫りに輔弼に居り、虚しく耳目を備え、叨りに股肱に預かり、輒ち塵露を薦め、庶幾くは山海に裨益せん。伏して惟うに内に作坊を置き、工巧宮闈の内、禁衞えいの所に入るを得、或いは言語内より出で、或いは事状外に通ず。小人無知、軽重を識らず、因りて詐偽を為し、徽猷を玷す有り。臣は望む、並びに所司に付し、以て宮内の造作を停めんことを。もし或いは要須役造あらば、猶望む宮外に安置し、庶幾くは工匠宮禁に出入せざらんことを。

原文其一曰:臣聞賈誼曰:「選天下之端士,孝悌博聞有道術者,使與太子居處出入。故太子見正事,聞正言,行正道,左右前後皆正人也。夫習與正人居之,不能無正;習與不正人居之,不能無不正。太子既冠成人,免於保傅之嚴,則有記過之史。徹膳之宰,進善之旌,誹謗之木,敢諫之鼓,瞽史誦箴,大夫進謀,故習與智長,化與心成。夫教得而左右正,則太子正矣;太子正而天下定矣。」臣又聞之,木從繩則正,後從諫則聖。善言古者,所以驗於今。伏惟殿下睿德洪深,天姿聰敏,近代成敗,前古安危,莫不懸鑒在心,動合典禮。臣以庸朽,濫居輔弼,虛備耳目,叨預股肱,輒薦塵露,庶裨山海。伏以內置作坊,工巧得入宮闈之內、禁衞之所,或言語內出,或事狀外通,小人無知,不識輕重,因爲詐偽,有玷徽猷。臣望並付所司,以停宮內造作。如或要須役造,猶望宮外安置,庶得工匠不於宮禁出入。其二曰:臣聞漢文帝身衣弋綈,足履革舄;齊高帝欄檻用銅者,皆易以鐵。經侯帶玉具劍環珮以過魏,太子不視,經侯曰:「魏國亦有寶乎?」太子曰:「主信臣忠,魏之寶也。」經侯委劍珮而去。太子使追還之,謂曰:「珠玉珍玩,寒不可衣,饑不可食,無遺我賊。」經侯杜門不出。臣觀聖賢經籍,務以簡素爲貴;皇王政化,皆以菲薄爲德。伏惟殿下留心恭儉,靡尚浮奢。臣愚猶望損之又損之,居簡以行簡,減省造作,節量用度。其三曰:臣聞銀牖銅樓,宮闈嚴秘,門閤來往,皆有簿歴。殿下時有所須,唯門司宣令,或恐奸偽之輩,因此妄爲增減,脫有文狀舛錯,事理便即差違。且近日呂升之便乃代署宣敕,伏賴殿下睿敏,當即覺其奸偽,自餘臣下庸淺,豈能深辨真虛?望墨令及覆事行下,並用內印印畫署之後,冀得免有詐假,乃是長久規模。臣又聞之,忠臣事君,有犯而無隱;明主馭下,納諫以進德。故《書》云:「有言逆於誌,必求諸道;有言順於心,必求諸非道。」伏惟殿下仁明昭著,聖敬日躋,探幽洞微,窮神索隱。事之善惡,毫厘靡差;理有危疑,錙銖無爽。臣以庸謬,叨侍春闈,職居獻替,豈敢緘默!其四曰:臣聞聖人不專其德,賢智必有所師。故曰:與善人言,如入芝蘭之室,久自芬芳;與不善人言,如火銷膏,不覺而盡。今司經見無學士,供奉未有侍讀,伏望時因視膳,奏請置人。所冀講席談筵,務盡忠規之道;披文擿句,方資審諭之勤。臣又聞臣之事主,必盡乃誠;君之進賢,務求忠讜。伏惟殿下養德儲闈,以端靜爲務;恭膺守器,以學業爲先。經所以立行修身,史所以諳識成敗。雅誥既習,忠孝乃成,傳記方通,安危斯辨。知父子君臣之道,識古今鑒戒之規,經史爲先,斯乃急務。至於工巧造作,僚吏直司,實爲末事,無足勞慮。臣以庸淺,獻替是司,臣而不言,負譴聖日,言而獲罪,是所甘心。伏願留意經書,簡略細事,一蒙采納,萬殞無辭。乞降儲明,俯矜狂瞽。

上疏が奏上されると、太子は善しと称したが、結局改悛しなかった。太子が敗れると、詔を下してその宮中を捜索させたところ、班の諫書が得られたので、中宗はその切直さを嘉した。時に宮臣は皆貶黜されたが、ただ班のみが右散騎常侍に擢拜された。歳余りして、秘書監に遷った。

原文疏奏,太子雖稱善,竟不悛革。太子敗,詔遣索其宮中,得班諫書,中宗嘉其切直。時宮臣皆貶黜,唯班擢拜右散騎常侍。歳餘,遷秘書監。

睿宗が即位すると、累次にわたって戸部尚書を授けられ、太子賓客に転じた。先天二年、金紫光禄大夫を加えられ、再び戸部尚書に拝された。班は兄弟の璹とともに、数年の間に共に定州刺史・戸部尚書となり、当時の人々はこれを栄誉とした。開元二年に卒し、年七十四。班はかつてその曾祖父の察が撰した『漢書訓纂』が、後世の『漢書』に注を施す者の多くによって名氏を隠没され、己の説としようとするのを、班は乃ち『漢書紹訓』四十巻を撰し、以て旧義を発明し、世に行われた。

原文睿宗即位,累授戸部尚書,轉太子賓客。先天二年,加金紫光祿大夫,復拜戸部尚書。班與兄弟璹,數年間俱爲定州刺史、戸部尚書,時人榮之。開元二年卒,年七十四。班嘗以其曾祖察所撰《漢書訓纂》,多爲後之注《漢書》者隱沒名氏,將爲己説;班乃撰《漢書紹訓》四十卷,以發明舊義,行於代。

史臣曰く

原文史臣曰

史臣が曰く、天子に諍臣七人あれば、たとえ無道であっても天下を失わない。廬陵王をして復位せしめ、唐の国祚を中興せしめたのは、諫諍は狄公に由る。一人をもって蔽う。或いは曰く、これを称え過ぎる、と。答えて曰く、革命の時に当たり、朋邪甚だ衆く、誠を推し力を竭くし、身を致し家を忘るる者でなければ、誰かこれに与ることができようか。仁傑は流死を避けず、骨鯁彰かに有り、たとえ好殺無辜に逢うとも、能く終に大義を畏れしむ。竟に天下を存せしめた。豈に然らざらんや。王方慶は南海を幹城し、東宮を羽翼し、臺閣樞機、功を済えざる無し。所謂君子は器ならず、というものなり。苟も文学に非ざれば、斯れ焉くんぞ斯れを取らん。璹は成都に布政し、始めと終わりと侔わず。相国として上章し、或いは否み或いは中る。且つ明堂を焚きて正殿を避くるは、固より諍い何ぞ多からん。唐頌を黜けて天樞を立てるは、一言措くに非ず。況んや妄りに符瑞を求むるは、已に忠貞を失い、楚茅を精択するも、過咎を裨う難し。その徳を常にせず、承羞を畏れず。班は規諫に才有り、牧守多く善く、儲幄の任、人を得たりと謂うべし。

原文史臣曰:天子有諍臣七人,雖無道不失其天下。致廬陵復位,唐祚中興,諍由狄公,一人以蔽。或曰:許之太甚。答曰:當革命之時,朋邪甚眾,非推誠竭力,致身忘家者,孰能與於此乎!仁傑流死不避,骨鯁有彰,雖逢好殺無辜,能使終畏大義。竟存天下,豈不然乎!王方慶幹城南海,羽冀東宮,臺閣樞機,無不功濟,所謂君子不器者也。苟非文學,斯焉取斯。璹成都布政,始卒不侔;相國上章,或否或中。且焚明堂而避正殿,固諍何多;黜唐頌而立天樞,一言非措。矧乃妄求符瑞,已失忠貞;精擇楚茅,難裨過咎。不常其德,罔畏承羞。班規諫有才,牧守多善,儲幄之任,可謂得人。

贊

原文贊

賛して曰く、顔を犯し旨に忤ひて、政を返し危きを扶く。是の人雜事、狄能く之を有つ。終に武氏を替へ、唐の基を克復す。功の大なること莫く、人師と為る無し。方慶の才、周旋して特立す。璹も亦無常にして、珽は能く操執す。

原文贊曰:犯顏忤旨,返政扶危。是人雜事,狄能有之。終替武氏,克復唐基。功之莫大,人無以師。方慶之才,周旋特立。璹也無常,珽能操執。