旧唐書
巻八十八 列伝第三十八 韋思謙 陸元方 蘇瓌
韋思謙
韋思謙は、鄭州陽武の人である。本名は仁約、字は思謙というが、その音が則天武后の父の諱に類するため、字をもって称した。その先祖は京兆より南に移り、襄陽に家を構えた。進士に挙げられ、累次補任されて応城県令となり、一年余りして調選された。思謙は官にあって、公事の微細な過失により殿(下位評価)を坐し、旧制では多く叙進されないところであった。吏部尚書の高季輔が言うには、「選部に居るようになって、今ようやくこの一人を得た。どうして小さな瑕瑾をもって大いなる徳を棄てることができようか」と。監察御史に抜擢して任じられ、これによって名を知られた。かつて人に謂って言うには、「御史が都を出るに当たって、もし山嶽を動揺させ、州県を震駭させることができなければ、まさしく職を曠しくするのみである」と。時に中書令の褚遂良が中書省の訳語人の土地を安値で買い取った。思謙はこれを奏上して弾劾し、遂良は左遷されて同州刺史となった。遂良が再び用いられると、思謙は進用されず、出されて清水県令となった。人に謂って言うには、「わが狂鄙の性は、雄権を仮り与えられれば、機に触れて発動する。固より身の災いとなるべきである。大丈夫たるもの、正色の地に当たっては、必ず明目張胆として国恩に報い、終に碌々たる臣となって妻子を保つことなどできぬ」と。左粛機の皇甫公義が沛王府長史を検校し、思謙を同府の倉曹に引き入れて言うには、「公は豈に池中の物であろうか。公を屈して数旬の客とし、以てこの府を望むのみである」と。累次遷って右司郎中となった。
永淳の初め、尚書左丞・御史大夫を歴任した。時に武候将軍の田仁会が侍御史の張仁禕と不和で、彼を誣告して上奏した。高宗が臨軒して仁禕を問うと、仁禕は惶懼し、応対して言葉を失った。思謙は階を歴(ふ)んで進み出て言うには、「臣は仁禕と連曹(同僚)であり、事の由縁をよく知っております。仁禕は懦弱で自ら弁明することができません。もし仁会が聖聡を眩惑し、仁禕をして非常の罪に致すならば、すなわち臣もまた君に事えることを尽くさぬことになります。どうか専らその状を対決させてください」と。弁論は縦横にわたり、音旨は明暢で、高宗は深くこれを納れた。思謙が憲司(御史台)にあった時、王公に会うごとに、未だかつて拝礼を行わなかった。ある者がこれを諫めると、答えて言うには、「雕・鶚・鷹・鸇(猛禽類)が、どうして衆禽の伴侶であろうか。どうして拝礼を設けてこれと親しむことができようか。かつ耳目の官は、固より独立すべきである」と。初めて左丞に拝された時、上奏して言うには、「陛下は官のために人を択ばれ、その人を得なければ闕(欠)く。今、美錦を惜しまず、臣にこれを製させようとされる。これは陛下が臣を知ることの深さであり、また微臣が命を尽くすべき秋であります」と。綱目を振り挙げて整え、朝廷は粛然とした。
則天が朝政に臨むと、宗正卿に転じ、官名が改易された際に、司属卿と改められた。光宅元年、左・右粛政台を分置し、また思謙を右粛政大夫とした。大夫は旧来、御史と抗礼(対等の礼)していたが、思謙は独り坐してその拝を受けた。ある者がこれを諫めると、思謙は言うには、「国家の班列には、自ら差等がある。どうして姑息を事とすることができようか」と。垂拱の初め、博昌県男の爵を賜り、鳳閣鸞台三品に遷った。二年、蘇良嗣に代わって納言となった。三年、上表して老いを告げ致仕を請うた。許され、なお太中大夫を加えられた。永昌元年九月、家で卒去し、幽州都督を贈られた。二子あり:承慶・嗣立。
思謙の子 承慶
承慶は、字を延休という。少より恭謹で、継母に事えること孝行をもって知られた。弱冠にして進士に挙げられ、雍王府参軍に補せられた。府中の文翰は、皆承慶の出づるところであり、辞藻の美は一時に擅(ほしいまま)にした。累次遷って太子司議郎となった。儀鳳四年五月、詔して皇太子賢に国を監せしめた。時に太子は頗る声色に近づき、戸奴らと款狎(親密に戯れる)した。承慶は上書して諫めて言うには、
臣が聞くところによれば、太子とは君の副(そえ)であり、国の本である。宗廟の重みを承け、億兆の心を繋ぐ所以であり、万国これによって貞(ただ)しく、四海これに属望する。殿下は仁孝の徳、明睿の姿をもち、嶽の峙(そび)えるが如く泉の渟(とど)まるが如く、金の貞(かたく)玉の裕(ゆたか)である。天皇は殿下を儲副(皇太子)に昇らせ、殿下に監撫(監国と撫民)を寄せ、照らすこと及ばざるなく、恩沢覃(およ)ばざるなからしめ、百僚に重曜の暉を仰がしめ、万姓に洊雷の響きを聞かしめようとされる。そもそも君に民なければ、その位を保つことなし。人に食なければ、その生を全うすることなし。故に孔子は言われる、「百姓足らば、君孰(いずく)んぞ足らざらん。百姓足らざれば、君孰んぞ足らん」と。頃年以来、頻りに水旱あり、菽粟豊かに実らず、黎庶自ら煎窮に致す。今夏は亢陽(日照り)で、米価騰踊し、貧窶の家は自ら資するものなく、朝夕遑遑として、唯だ餒饉を憂うるのみ。下人の瘼(苦しみ)は、実に哀れみ矜(あわれ)むべく、稼穡の艱難は、詳らかに知るべきである。天皇が垂衣(無為の治)して北極に君臨し、殿下が守器(太子の位を守る)して東宮に在る、天下の尊ぶところとなり、天下の利を得る所以は、豈に上玄の幽賛のみならんや、亦た百姓の力である。百姓危うければ、則ち社稷独り安んずるを得ず。百姓乱れれば、則ち帝王独り治むるを得ず。故に古の明君は、飽きて人の飢えを知り、温かくして人の寒さを知り、常に天下を憂いとし、四海を楽しみとせず。今、関・隴の外には、凶寇憑陵し、西土の編戸(戸籍に登録された民)凋喪将に尽きんとし、干戈日用い、烽柝(のろしと木柝)薦(しきり)に興り、千里糧を饋(おく)るに労し、三農(農民)稼穡に遑(いとま)あらず。殿下は臣たり子たり、乃ち国たり家たり。臣たるは忠を竭くすに在り、子たるは孝を尽くすを期す。家に在りては自ら逸するべからず、国に在りては自ら康らかにするべからず。一物虧(か)けば、聖上常に神念を留められ、三辺或いは梗(さまた)げあらば、殿下豈に兢(おそ)れ懐かざらんや。況んや養徳の秋に当たり、任情の日に非ざるに於いてをや。伏して承るに、北門の内に、造作常ならず、玩好の営むところ、或いは煩費あり。倡優雑伎、前(みもと)に息まず、鼓吹繁声、亟(しばしば)に外に聞こえ、既に聴覧を喧(やかま)しくし、且つ宮闈を黷(けが)す。これに加うるに仆隸の小人、これに縁りて左右に親しむを得、亦た既に顏色を奉承すれば、能く恩光に恃托せざらんや。福を作し威を作すは、これよりせざるはなく、防慎を加えざれば、必ず愆非あり。儻(もし)や微かに徳音を累(わずら)わすことあらば、後悔して何ぞ及ばん。《書》に云う、「益なきを作して益あるものを害することなかれ」と。これらは皆な益なき事柄で、固より耽溺してこれを悦ぶべからず。臣また聞く、「高くして危うからざるは、貴を長く守る所以なり。満ちて溢れざるは、富を長く守る所以なり」と。これによって高危は慎まざるべからず、満溢は持せざるべからざるを知る。《易》に曰く、「君子終日乾乾(けんけん)、夕べに惕(おそ)れて厲(あやう)きが若く、咎(とが)なし」と。敬慎というのはこれである。凡庶に在りては、これを参(まじ)えて守り行うも、猶お高く声華を振るい、坐して栄祿を致すことができる。況んや殿下は少陽の位(太子の位)を有し、天挺の姿を有し、片善にして天下必ず聞こえ、小能にして天下咸(みな)服するにおいてをや。豈に尽善尽美の道を為さずして、以て可大(大きくすべき)可久(久しく保つべき)の名を取ることができようか!伏して願わくは、経書を博覧してその徳を広め、声色を屛退してその情を抑え、静默無為、恬虚寡欲、礼に非ざれば動かず、法に非ざれば言わず。居処服玩は必ず節儉に循(したが)い、畋獵遊娯は縦逞(ほしいまま)とせず。正人端士は必ず引きてこれを親しみ、便僻側媚(へつらい)は必ず斥けてこれを遠ざけ、恵声をして遠近に溢れさせ、仁風をして内外に翔(めぐ)らしめ、則ち以て終吉を克(よ)く享け、利貞を長く保ち、上嗣(皇太子)の称首(第一)たり、聖人の鴻業を奉ずる者となることを。
また嘗て『諭善箴』を作って太子に献じた。太子はこれを善しとし、賜物甚だ厚かった。承慶はまた、人の用心が多く擾濁浮躁で、衝和の境に至ることが稀であるとして、『霊台賦』を著してその志を広め、辞多く載せず。
調露の初め、東宮が廃され、出て烏程令となり、風化大いに行わる。長壽の中、累遷して鳳閣舍人となり、兼ねて天官の選事を掌る。承慶は文を属するに迅捷にして、軍國の大事と雖も、下筆すれば輒ち成り、未だ草稿を嘗めず。尋で大臣の旨に忤うに坐し、出て沂州刺史となる。未だ幾ばくもせず、詔して舊職に復し、前に依りて天官の選事を掌る。久しくして、病を以て免ぜられ、改めて太子諭德を授けられる。後に豫、虢等州の刺史を歴任し、頗る聲績著しく、制書して褒美す。長安の初め、入りて司僕少卿となり、轉じて天官侍郎となり、兼ねて國史を修す。承慶は天授以來、三たび天官の選事を掌り、銓授平允にして、海内之を稱す。尋で鳳閣侍郎、同鳳閣鸞臺平章事に拜し、仍舊として兼ねて國史を修す。神龍の初め、張易之の弟昌宗を推すに附きて失實に坐し、配流して嶺表に流される。時に易之等既に誅せられ、承慶は巾を去り帶を解きて罪を待つ。時に赦書を草せんと欲し、衆議以爲く承慶に如くは無しと、乃ち承慶を召して之を爲さしむ。承慶は神色撓まず、筆を援りて成し、辭甚だ典美にして、當時咸く之を歎服す。歳餘りして、起用されて辰州刺史を授けられるも、未だ之に赴かず、入りて秘書員外少監となり、兼ねて國史を修す。尋で『則天實録』を修するの功を以て、爵を扶陽縣子に賜ひ、物五百段を賚はる。又『則天皇后紀聖文』を製撰し、中宗善しと稱し、特く銀靑光祿大夫を加ふ。俄かに黃門侍郎を授けられ、仍舊として兼ねて國史を修すも、未だ拜せずして卒す。中宗傷悼すること久しく、乃ち其の弟相州刺史嗣立を召して葬事に赴かしめ、仍て黃門侍郎に拜し、兄の位を繼がしむ。其の用ひらるること此の如し。秘書監を贈り、諡して温と曰ふ。子長裕、膳部員外郎。
思謙の子 嗣立
嗣立は、承慶の異母弟なり。母王氏、承慶に遇すること甚だ嚴しく、毎に杖罰有れば、嗣立必ず衣を解きて代はらんことを請ふ。母聽かず、輒ち自ら杖す。母之を察し知り、漸く恩貸を加ふ。議者晉の王祥、王覽に比す。少くして進士に舉げられ、累補して雙流令となり、政に殊績有り、蜀中の最と爲る。三遷して萊蕪令となる。會ふに承慶鳳閣舍人より疾を以て職を去る。則天嗣立を召して謂ひて曰く、「卿の父往日嘗て朕に謂ひて曰く『臣兩男有り、忠孝にして、陛下に事へるに堪ふ』と。卿兄弟職を效ふるより、卿の父の言ふが如し。今卿に鳳閣舍人を授け、卿兄弟自ら相替代せしむ」と。即日に鳳閣舍人に遷す。
時に學校頽廢し、刑法濫酷なり。嗣立上疏して諫めて曰く、
臣聞く、古の先哲の王は学官を立て、国子を教え掌るに六徳・六行・六藝をもってし、三教備わりて人道畢(おわ)る。《礼記》に曰く「人を化し俗を成すは、必ず学に由る」と。学の人のためにするや、その用蓋し博し。故に太学を立てて国に教え、庠序を設けて邑に化し、王の諸子・卿大夫士の子及び国の俊選皆これに造る。八歳にして小学に入り、十五にして太学に入る。春秋には《礼》《楽》を以て教え、冬夏には《詩》《書》を以て教う。ここをもって教え洽(あまね)くして化流れ、行い成りて悖(もと)らず。天子より以て庶人に至るまで、学を須(もち)いずして成る者あらざるなり。国家永淳以来、二十余載、国学廃散し、胄子衰缺し、時に儒学の官を軽んじ、章句の選を存するもの莫し。貴門の後進、競いて僥倖を以て班を升り、寒族の常流、復た凌替に因りて業を弛む。試験の際、秀茂罕(まれ)に登り、これを駆りて人に臨ましむるに、何を以て政に従わんや。また垂拱の後、文明辰に在り、盛典鴻休、日書月至し、際会を因藉し、入仕尤も多し。これに讒邪凶党来俊臣の属を加う。妄りに威権を執り、恣(ほしいまま)に枉陷を行い、正直の伍、死亡を憂いとし、道路目を以てし、人固き志無く、執って撓(たわ)まざるの懐を有するもの罕(まれ)にして、至公の節に殉ずるもの少なく、偸安苟免し、聊(いささ)か以て歳を卒(お)う。遂に綱領振わず、請托公行し、選挙の曹、弥(いよいよ)に渝濫を長ず。班に随うに少しく経術の士、職を摂るに多く庸瑣の才、徒(いたずら)に猛暴を以て相誇り、罕(まれ)に能く淸惠自ら勗(つと)む。海内の黔首をして騒然として安からず、州県の官僚、貪鄙未だ息まずして、事必ず理に循い、俗康寧に致らんことを望むは、得べからざるなり。陛下誠に能く明制を下し、徳音を発し、広く庠序を開き、大いに学校を敦(つと)め、三館の生徒、即ち令を追いて集め、王公以下子弟、別に仕進を求むるを容れず、皆国学に入り、訓典に服膺せしむ。館廟を崇飾し、儒師を尊尚し、奠菜の儀を盛んに陳べ、講説の会を宏敷(ひろくし)き、士庶の観聴をして発揚する所有らしめ、道徳を弘奨すること、ここに在り。すなわち四海の内、靡然として風に向い、頸を延べ足を挙げ、咸(みな)向かう所を知らん。然る後に衡鏡を審かに持ち、良能を妙に択び、これを以て人に臨み、これを寄せて俗を調う。すなわち官侵暴の政無く、人安楽の心有り、人に居れば則ち相与に業を楽しみ、百姓は則ち皆桑梓を恋い、豈に復たその逃散して貧窶なるを憂えんや。今天下の戸口、亡逃過半し、租調既に減じ、国用足らず。人を理(おさ)むるの急、尤も茲に切(せま)る。故に学を務むるの源を知るは、豈に唯だ身を潤し徳を進むるのみならんや。将に人を誨え国を利するに以てせんとす、これを務めざるべけんや。臣聞く、堯・舜の日、その衣冠を画き、文・景の時、幾(ほとほと)刑措に致す。茲(こ)れ千載を暦(へ)て、以て美談と為す。臣伏して惟うに、陛下睿哲欽明、神を窮め化を知り、軒・昊已降、これと京(なら)ぶもの莫し。独り往の論法、或いは未だ善を尽くさず、皆主司の奸凶に由り、視聴を惑乱す。尋(つい)で陛下聖察、これを具(つぶさ)に詳(つまび)らかにす、然れども竟にその本源を顕わし、その前事を明らかにし、天下万姓をして陛下の本心を識らしむる能わず、尚お四海に冤を銜(ふく)むの人多く、九泉に痛みを抱くの鬼有らしむ。臣誠に愚暗、大綱を識らず、請う陛下の為に始末を言いてその事をせん。揚・豫の後、刑獄漸く興り、用法の伍、窮竟に務め、連坐相牽き、数年絶えず。遂に巨奸大猾隙を伺い間を乗じ、内に豺狼の心を苞(つつ)み、外に鷹鸇の跡を示し、陰図潜結し、共に相影会し、似是の言を構え、赦さざるの罪を成す。皆深く巧詆を為し、恣(ほしいまま)に楚毒を行い、人痛みに勝えず、便ち自ら誣(し)うるを乞い、公卿士庶、頸を連ねて戮せらる。道路籍籍(せきせき)、辜(つみ)に非ざるを知るといえども、鍛練既に成り、弁占皆合す。縦(たと)い皋陶を以て理と為し、於公を以て刑を定むとも、すなわち宮を汚し柩を毀つを謂いて、猶未だ責を塞ぐに足らずと謂わん。陛下仁慈哀念、獄を恤(あわれ)み死を緩(ゆる)すといえども、辞状を覧るに及びて、便ち已に周密、皆これを勘鞫情を得たりと謂い、是れその実犯なりとし、縦(たと)い寛捨せんと欲すとも、その法を如何せん。ここに於いて小は乃ち身誅、大は則ち族滅し、相縁り共に坐する者、言うに勝えず。これ豈に宿構の仇嫌、将に報復を申さんとし、皆苟も功効を成し、官賞を自ら求むるに図るや。当時に称伝し、羅織と謂う。その中刑に陷り罪を得る者、敏識通材有りといえども、告言せらるる者に被告せられて便ち枉抑に遭い、心徒(いたずら)にその冤酷を痛むれども、口もって以て自ら明らかにする能わず。或いは誅夷を受け、或いは竄殛に遭い、並び甘心して分を引き、これに赴くこと帰するが如し。故に法を弄び文を徒(いたずら)にするは、人を傷つくる実に甚だしきを知る。頼むらくは陛下特(こと)に聖察を回らし、昭然として詳究せらる。周興・丘勣の類、弘義・俊臣の徒、皆相次いで伏誅し、事遐邇に暴(あら)われ、朝野慶泰し、再び陽和を睹るが若し。且つ仁傑・元忠の如きは、倶に枉陷に罹り、勘鞫せらるるの際、亦皆已に自ら誣う。向(むかし)し陛下の至明に非ずんば、省察を垂れたまわざりせば、則ち菹醢の戮、已にその身に及び、忠を聖代に輸(おく)らんことを望む、安んぞ復た得べけんや。陛下これを擢して升し、各良輔と為し、国の棟幹、この二人を称す。何ぞ乃ち前は非にして後は是なるや。誠に枉陷と甄明とに由るのみ。但だ往の罪を得る者多く並びにこの流れに在るを恐るれば、則ち向時の冤者のその数甚だ衆し。昔一の孝婦を殺すも、尚或いは災を降す。而るに濫する者蓋し多し、寧く怨気無からんや。怨気上達すれば則ち水旱興る所となり、歳登らんことを望むは、得べからざるなり。倘(もし)し陛下天地の大徳を弘め、雷雨の深仁を施し、罪を削刻の徒に帰し、恩を枉濫の伍に降す。垂拱已来、大辟罪已下、常赦の原(ゆる)さざる所の者、罪の軽重無く、一に皆原洗し、昭蘇を被らしむ。法に伏せるの輩、官爵を追還し、累に縁るの徒、普く恩造に沾(うるお)わしむ。かくの如くすれば則ち天下この陷る所の罪、元(もと)より陛下の意に非ず、咸(みな)虐吏の辜(つみ)なるを知らん。幽明歓欣すれば則ち和気に感通し、和気下降すれば則ち風雨時にし、風雨時にすれば則ち五穀豊稔し、歳既に稔れば人亦安し。太平の美、亦何ぞ遠からんや。伏して願わくは陛下深く察せんことを。
まもなく秋官侍郎に遷り、三たび鳳閣侍郎を経て、同鳳閣鸞臺平章事となった。長安年間、則天武后はたまたま宰相らと州県の官吏について議し、納言李嶠・夏官尚書唐休璟らが奏上して言うには、「臣らは誤って大任を担いながら、兵乱を止息させ、倉庫府庫を豊かに満たすことができず、戸籍人口にはなお逃亡者がおり、官吏は貪濁を免れず、陛下をして朝廷に臨んで憂い歎かせ、しばしばこれを言わしめ、日夜慚愧し恐れ、身の置き所を知りません。伏して思うに、当今の要務は、富国安民に過ぎるものはありません。富国安民の方策は、刺史を選ぶことにあります。ひそかに朝廷の世論を見るに、内官を重んじ外職を軽んじない者はなく、毎回牧伯を除授するごとに、皆再三抗弁し訴えます。近頃派遣される外任は、多くは貶降や累罪の人であり、風俗が澄まないのは、実にこれに由来します。今、台閣寺監において、賢良を精選し、大州を分掌させ、共に諸々の治績を安んじさせたいと望みます。臣らは近侍の職を止め、率先して百官の列に加わり、国を憂い民を救うことに務め、少しでも補益があればと願います」と。則天は言った、「卿らは鸞臺鳳閣に在るが、誰がこの任に就くか」と。嗣立が率先して答えて言うには、「臣は庸愚の身でありながら、誤って賞抜擢を受け、内に機密を掌るは、臣の堪えるところではありません。外台の任を引き継ぐに及ばず、まさに節を尽くすべきであり、もし採録を垂れられれば、臣はこの行を願います」と。ここにおいて嗣立は本官を帯びて検校汴州刺史となった。
ほどなく、嗣立の兄承慶が入朝して政事を知ることとなり、嗣立は成均祭酒に転じ、兼ねて検校魏州刺史となった。また洺州刺史に移った。まもなく承慶に連座して饒州長史に左遷された。一年余りして、太僕少卿に徴され、兼ねて吏部選事を掌った。神龍二年、相州刺史となった。承慶が卒すると、代わって黄門侍郎となり、太府卿に転じ、修文館学士を加えられた。
景龍三年、兵部尚書・同中書門下三品に転じた。当時、中宗は寺観を立派に飾り立て、また封邑を濫りに食む者が多く、国家の財用は虚しく枯渇していた。嗣立は上疏して諫めて言うには、
臣が聞くに、国に九年の儲えなく、家に三年の蓄えなければ、家はその家にあらず、国はその国にあらず。故に知る、国を立て家を立てるは、皆儲蓄に資することを。夫れ水旱の災いは、陰陽の運数に関し、人の智力の及ぶところにあらず。堯は大水に遭い、湯は大旱に遭う。すなわち知る、仁聖の君も免れざる所なり。この時に当たりて困弊に至らざるは、積むによるなり。今、陛下の倉庫の内は、比来やや空竭し、尋常の用度も一年を支えず。もし水旱あれば、人を賑給すべく、徴発は時に動き、兵は資装を要す。すなわち将に何をもってかこれに備えん。その倉庫実ならざるに縁り、政化を妨ぐる者は、触類して是なり。臣窃かに見るに、比者寺観を営造する、その数極めて多く、皆宏博を取らんと務め、競って環麗を崇む。大なるものは費耗百十万、小なるものも尚お三五万余を用う。略計すれば、用いる資財動かずして千万已上に至る。木石を転運し、人牛止まず、人功を廃し、農務を害す。事既に急ならず、時に怨谘多し。故に『書』に曰く、「益なきを作さずして有益を害せば、功乃ち成る。異物を貴ばずして用物を賤しめば、民乃ち足る」と。誠にこの言、虚談にあらず。且つ玄旨秘妙は、空寂に帰す。苟も心を修め慧を定めざれば、諸法皆な有為に渉る。至りて土木雕刻等の功に至っては、唯だ人力を殫竭するのみ。但だ相誇りて壮麗を学ぶのみにして、豈に身心を降伏するに関らんや。且つ凡そ功を興す所は、皆な掘鑿を須う。蟄虫土中に在り、種類実に多し。毎日殺傷し、動かずして万計に盈つ。連年この如くすれば、損害知るべし。聖人慈悲を心とす。豈に須らくこの事を行わんとする理あらんや。然らざるの理、皎として目前に在り。世俗の衆僧、その旨を通ぜず、府庫の空竭を慮わず、聖人の憂労を思わず、広く福田を樹つるは、即ち是れ法教を増修するなりと謂う。もし水旱災と為り、人饑餒に至り、夷狄梗を作し、兵資糧無くんば、陛下龍象雲の如く、伽藍概日たりとも、豈に万分の一を裨し、元元の苦を救わんや。道法に於いて既に乖き、生人に於いて極めて損なり。陛下豈に深くこれを思わざるべけんや。臣窃かに見るに、食封の家、その数甚だ衆し。昨戸部に略問うに、六十余万丁を用うと云う。一丁両匹とすれば、即ち是一百二十万已上なり。臣頃に太府に在りて、毎年の庸調絹の数を知る。多きも百万を過ぎず、少なきは則ち七八十万已来なり。諸封家に比すれば、入る所全く少なし。もし虫霜旱澇あらば、曾て半ば在らず。国家の支供、何をもってか取給せん。臣聞く、茅土を封じ、山河を裂くは、皆な業経綸に著り、功草昧に申し、然る後に宗廟の享に配し、帯礪の恩を承く。皇運の初め、功臣共に天下を定む。当時食封する才に上三二十家、今尋常の特恩を以て、遂に百家已上に至る。国家の租賦、大半私門に帰す。私門は則ち資用余り有り、国家は則ち支計足らず。余り有れば則ち或いは奢侈を致し、足らざれば則ち坐して憂危を致す。国を制するの方、豈に得たりと謂わんや。封戸の物、諸家自ら徴す。或いは官典、或いは奴仆、多く勢を挟み威を騁し、州県を凌突す。凡そ封戸たる者は、侵擾に勝えず。或いは物を輸するに裹頭を多く索め、或いは相知りて中物を取らんと要す。百姓怨歎し、遠近共に知る。復た貨易を将うるに因り、転た更に釁を生じ、徴打紛紛として、曾て寧息せず。貧乏の百姓、何をもってか克く堪えん。もし必ず丁物を限りて太府に送り、封家は但だ左蔵に於いて請受し、輒ち自ら征催せざるを得ざれば、則ち必ず侵擾を免れ、人蘇息を冀わん。臣又聞く、官を設け職を分ち、事を量りて吏を置く。これは本より人を理めて務めてこれを安んずるに在り。故に『書』に曰く、「官人に在り、人を安んずるに在り。官人は則ち哲、人を安んずるは則ち恵。能く哲にして恵ならば、何ぞ歓兜を憂えん、何ぞ有苗を畏れん」と。是れ官その人を得て、天下自ら理まることを明らかにするなり。古え人を取るには、必ず先ず郷曲の誉を採り、然る後に州郡に辟す。州郡に声有りて、然る後に五府に辟す。才五府に著りて、然る後に天朝に升す。此れは則ち一人を用うるに、択ぶ所甚だ悉く、一士を擢ぐに、歴る所甚だ深し。孔子曰く、「譬えば美錦有り、人をして製するを学ばしむべからず」と。此れ人を用うるに審択せざるべからざることを明らかにするなり。その才を得て用うれば則ち理まり、その才に非ざれば則ち乱る。理乱の設くる所、焉ぞ深くこれを択ばざらんや。今の人を取るは、この道に異なり。多く未だ甚だ試効せずして、即ち頓に遷擢に至る。夫れ趨競は人の常情、僥倖は人の趣く所。而今務めて進むに僥倖を避けざる者は、踵を接ぎ肩を比し、文武の列に布く。文有る者を用いて内外を理むれば、則ち回邪贓汙上下敗乱の憂有り。武有る者を用いて軍戎を将うれば、則ち庸懦怯弱師旅喪亡の患あり。補授限り無く、員闕供えず、遂に員外に官を置き、数倍正闕す。曹署の典吏は祗承に困しみ、府庫の倉儲は資奉に竭く。国家の大事、豈にこれより甚だしきあらんや。古え爵を懸けて士を待つ。唯だ才ある者のみこれを得る。もし無才を用いれば、則ち有才の路塞がる。賢人君子の所以に跡を遁れ声を銷し、常に歎恨を懐く者なり。且つ賢人君子は、正直の道を守り、僥倖の門を遠ざく。もし僥倖開かば、則ち賢者は復た出づることを得ず。賢者遂に退かば、もし人安く化洽かならんことを求めんと欲すれば、復た得べからず。人もし安からずんば、国将に危うからん。陛下安んぞ深くこれを慮わざらんや。又た刺史・県令は、人を理むるの首なり。近年已来、簡択を存せず。京官に犯有り及び声望下る者、方に州を牧さんと遣わす。吏部選人、暮年手筆無き者、方に県令に擬す。この風久しく扇ぎ、上下同しく知る。これを以て人を理めんと欲すれば、何をもってか化に率いん。今歳豊稔に非ず、戸口流亡し、国用空虚し、租調減削す。陛下これを以て留念せずんば、将に何をもってか国を理めん。臣望むらくは、明製を下し、具に前事を論じ、有司をして改換簡択せしめ、天下の刺史・県令は、皆な才能有り称望ある者を取って充てしめん。今已往より、応に遷除すべき諸曹侍郎・両省・両台及び五品已上の清望官は、先ず刺史・県令の中に選び用いよ。牧宰人を得れば、天下大いに理まり、万姓欣然たり。豈に太平の楽事ならずや。唯だ陛下詳しく択ばんことを。
疏奏すれども納れられず。
嗣立は韋庶人の宗属とは疎遠であったが、中宗は特に属籍に編入するよう命じ、これにより特に顧みられ賞された。嗣立は驪山に別荘を営み、中宗は自ら行幸し、詩序を自作して従官に詩を賦させ、絹二千匹を賜った。そこで嗣立を逍遙公に封じ、その居所を清虚原幽棲谷と名付けた。韋氏が敗れると、乱兵に害されかけたが、寧王憲は嗣立が従母の夫であるとして救護し免れた。睿宗が践祚すると、中書令に任じられた。まもなく、許州刺史として出された。睿宗を定冊尊立した功により、実封一百戸を賜った。開元初め、国子祭酒として入朝した。先に、中宗の遺制で睿宗が政を輔くこととなったが、宗楚客・韋温らが草稿を改削し、嗣立は当時政事府に在ったが、これを正すことができなかった。この時、憲司に弾劾され、岳州別駕に左遷された。久しくして、陳州刺史に遷った。時に河南道巡察使・工部尚書劉知柔が嗣立の清潔で昇進に値する様子を上奏したが、詔命が下る前に、開元七年に卒し、兵部尚書を追贈され、諡を孝といった。中書門下がまた奏上して言うには、「嗣立は衣冠の内にあって、夙に才名を表し、兄弟の間では特に和睦と称された。恩を承けて事に歴し、位は宰臣に列した。中年に正身できず、凶戚に近づいたため、憲司に糾弾され、これにより出貶された。その始めを循れば、終には吉人である。瑕を棄てて衆望に従うべきである。贈物一百段を請う。」と。これに従った。
嗣立と承慶はともに学行で並び称された。長寿年間、嗣立が承慶に代わって鳳閣舎人となった。長安三年、承慶が嗣立に代わって天官侍郎となり、間もなくまた嗣立に代わって政事を知った。承慶が卒すると、嗣立がまた代わって黄門侍郎となり、前後四職が相代わった。また父子三人、皆宰相に至った。唐が興って以来、これに比ぶものはない。嗣立の子は三人、孚・恒・濟、皆知名である。孚は累遷して左司員外郎に至った。恒は開元初めに碭山令となった。政は寛恵で、人吏に愛された。時に車駕が東巡し、県は供帳を担当したが、山東の州県は皆準備できないことを恐れ、鞭撲に務めたが、恒だけは杖罰せずに事を全て済ませ、遠近に称された。御史中丞宇文融は恒の姑の子であり、密かに恒に経済の才があると推薦し、己の官秩を回授するよう請い、そこで殿中侍御史に抜擢された。度支左司等員外・太常少卿・給事中を歴任した。二十九年、隴右道河西黜陟使となった。恒が河西に至った時、節度使蓋嘉運は中貴を恃み托し、公然と法に背き、偽って功労を叙したので、恒は抗表してこれを弾劾するよう請い、人々は彼の身を危ぶんだ。そこで陳留太守として出されたが、赴任せずに卒し、時人は甚だ傷み惜しんだ。濟は早くから辞翰で聞こえた。開元初め、鄄城令に補された。時に密かに玄宗に奏上する者があった。「今年の吏部の選叙は甚だ濫りで、県令は材にあらず、全く簡択していない。」と。県令が謝官する日に、殿庭に引入れ、安人の策一道を問うた。試者は二百余人で、濟の策だけが第一で、紙に書かない者もあった。濟を醴泉令に抜擢し、二十余人は旧官に戻し、四五十人は帰って習読させ、侍郎盧従願・李朝隠は刺史に貶された。濟は醴泉に至り、簡易を以て政とし、人々に称された。三遷して庫部員外郎となった。二十四年、尚書戸部侍郎となった。累年して転じて太原尹となった。『先徳詩』四章を製し、祖・父の行いを述べ、辞致は高雅であった。天宝七載、また河南尹となり、尚書左丞に遷った。三代が省轄となり、衣冠はこれを栄とした。濟は従容雅度で、莅む所では人々に善政を推され、後に馮翊太守として出された。
陸元方
陸元方は蘇州呉県の人である。代々著姓であった。曾祖の琛は、陳の給事中黄門侍郎であった。伯父の柬之は、書に巧みで知名で、官は太子司議郎に至った。元方は明経に挙げられ、また八科挙に応じ、累転して監察御史となった。則天が革命すると、元方をして嶺外を安輯させた。海を渡らんとする時、風濤が甚だ壮で、舟人は帆を挙げることを敢えなかった。元方は言う、「我は命を受けて私無し、神豈に我を害せんや」と。急いで渡るよう命じると、やがて風濤は果たして止んだ。使い還って旨に称し、殿中侍御史に除かれた。その月に即ち鳳閣舎人に擢拜され、なお侍郎事を判じた。俄かに来俊臣に陥れられると、則天は手勅で特赦した。長寿二年、再び鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事に遷った。延載初め、また鳳閣侍郎を加えられた。証聖初め、内史李昭徳が罪を得ると、元方が昭徳に附会したとして、綏州刺史に貶された。まもなくまた春官侍郎となり、また天官侍郎・尚書左丞に転じ、まもなく鸞台侍郎・平章事に拝された。則天が嘗て外事を問うと、対えて言う、「臣は宰臣の位を備え、大事あれば即ち奏し、人間の碎務は、敢えて聖覧を煩わさず」と。これにより旨に忤い、太子右庶子を責授され、政事を知ることを罷められた。まもなく文昌左丞に転じ、病卒した。
元方は官にあって清謹であり、再び宰相となると、則天が遷除を行おうとする毎に、必ず密封して進上し、嘗てその私恩を露わにしなかった。臨終に、前後の草奏を悉く取り出して焚くよう命じ、且つ言う、「我が人に陰徳を施すこと多し、その後は庶幾く福衰えざらん」と。また書一匣あり、常に自ら緘封し、家人に見る者無かったが、卒して之を見ると、前後の勅書であり、その慎密この如しであった。越州都督を追贈された。開元十八年、また揚州大都督を追贈された。子に象先あり。
元方の子 象先
象先は本名を景初といった。少くして器量有り、制挙に応じ、揚州参軍に拝された。秩満して調選する時、吉頊が吏部侍郎であり、洛陽尉に擢授しようとしたが、元方も当時吏部に在り、固辞して敢えて当たらなかった。頊は言う、「官の為に人を択ぶは、至公の道なり。陸景初の才望高雅、常流の及ぶ所に非ず、実に吏部の子として妄りに推薦するに非ず」と。竟に奏してこれを授けた。左台監察御史に遷り、殿中に転じ、中書侍郎を歴任して授けられた。
景雲二年冬、同中書門下平章事となり、国史を監修した。初め、太平公主が中書侍郎崔湜を引いて政事を知らせようとし、密かにこれを告げたが、湜は固く象先に譲り、主はこれを許さず、湜は因ってまた辞を請うた。主は急ぎ睿宗に言い、乃ち並びに拝した。象先は清浄寡欲で、細務を意に介せず、言論は高遠で、雅く時賢に服せられた。湜は毎に人に謂う、「陸公は人に一等を加う」と。太平公主は当時既に権を用い、同時の宰相蕭至忠・岑羲及び湜等は皆これに傾附したが、唯象先は孤立し、嘗て造謁しなかった。先天二年、至忠等が誅せられると、象先は独りその難を免れた。保護の功により兗国公に封ぜられ、実封二百戸を賜い、銀青光禄大夫を加えられた。時に至忠等の枝党を窮討し、連累する者稍々衆かったが、象先は密かに申理し、全済すること甚だ多かった。然れども嘗て言及せず、当時知る者無かった。
その年、益州大都督府長史として出向し、なお剣南道按察使を兼ねた。在官中は寛仁を以て政をなすことを務め、司馬の韋抱眞が言うには、「明公には少し杖罰を行い、威名を立てられたい。さもなくば、恐らく下人が怠惰となり、懼れるところがなくなるでしょう」と。象先は曰く、「政をなす者は理に適えばそれでよい、何ぞ必ずしも厳刑を以て威を立てん。人を損ない己を益するは、恐らく仁恕の道に非ざるべし」と。ついに抱眞の言に従わなかった。累遷して河中尹となった。六年、河中府を廃し、旧に従って蒲州とし、象先は刺史となり、なお河東道按察使を兼ねた。かつて小人が罪を犯したことがあったが、ただ言葉で示して遣わした。録事が申し上げて曰く、「この例は杖刑に当たるべきです」と。象先は曰く、「人情は相去ること遠からず、これは豈に吾が言を解せざらんや。もし必ず杖を行わねばならぬなら、即ち汝より始めるべきである」と。録事は慚懼して退いた。象先はかつて人に謂って曰く、「天下は本来自ら事無く、ただ庸人のこれを擾わすのみ、始めて繁雑となるのである。ただ源においてこれを静めれば、則ちまた何ぞ簡ならざるを憂えん」と。前後刺史として、その政は一の如く、人吏皆これを懐かしみ思った。按察使が停められ、太子詹事として入朝し、工部尚書を歴任した。十年冬、吏部選事を掌り、また刑部尚書を加えられ、継母の喪により官を免ぜられた。十三年、同州刺史として起復し、まもなく太子少保に遷った。二十四年に卒し、七十二歳、尚書左丞相を贈られ、諡して文貞といった。
象先の弟景倩は、監察御史を歴任した。景融は、大理正・滎陽郡太守・河南尹・兵吏部侍郎・左右丞・工部尚書・東都留守・襄陽郡太守・陳留郡太守を歴任し、いずれも採訪使を兼ねた。景獻は、殿中侍御史・屯田員外郎を歴任した。景裔は、河南令・庫部郎中となった。皆美誉があった。僧一行が若い時、かつて象先の兄弟と親しく交わり、常に人に謂って曰く、「陸氏の兄弟は皆才行あり、古の荀・陳も以て加うる所なし」と。その当時に称せられることこのようであった。
元方の従叔の餘慶は、陳の右軍将軍珣の孫である。若い時、知名の士陳子昂・宋之問・盧蔵用・道士司馬承禎・道人法成らと交遊し、才学は子昂らに及ばないが、風流強弁は彼らを超えていた。累遷して中書舎人となった。則天はかつて引き入れて詔を草させたが、餘慶は惶惑し、晩に至るまでついに一言も措くことができず、左司郎中に責授された。累除して大理卿・散騎常侍・太子詹事となった。老疾を以て致仕し、まもなく卒した。象先の四代孫。文宗太和四年、釈褐参軍文学に除された。
蘇瓌
蘇瓌、字は昌容、京兆武功の人、隋の尚書右僕射威の曾孫である。祖父の夔は、隋の鴻臚卿。父の亶は、貞観中に台州刺史となった。瓌は弱冠で本州より進士に挙げられ、累授して豫王府録事参軍となった。長史の王德眞・司馬の劉禕之は皆これを器重した。長安年中、累遷して揚州大都督府長史となった。揚州の地は衝要に当たり、富商大賈多く、珠翠珍怪の産あり、前長史の張潜・於辯機は皆これを数万に致したが、ただ瓌は挺身して去った。神龍初年、尚書右丞として入朝し、法律に明習し、台閣の故事に多く識ることを以て、特命により律・令・格・式を刪定させた。まもなく銀青光禄大夫を加えられた。この年、再遷して戸部尚書となり、計帳を奏上し、管轄する戸は時に六百一十五万六千百四十一であった。
まもなく侍中を加えられた。淮陽県子に封ぜられ、西京留守を充てた。時に秘書員外監の鄭普思が妖逆を謀り、雍・岐二州の妖党が大いに起こった。瓌は普思を収めて獄に繫ぎ、考訊した。普思の妻第五氏は鬼道を以て韋庶人に寵愛され、禁中に居止していた。これにより中宗は特勅を以て瓌を慰諭し、普思の罪を釈放せよと命じた。瓌は上言して普思が幻惑することを述べ、罪は赦すべからずとした。中宗が京に至ると、また面陳してその状を述べた。尚書左僕射の魏元忠が奏して曰く、「蘇瓌は長者であり、その忠懇この如し、願わくは陛下これを察せられたい」と。帝は乃ち普思を儋州に配流し、その党は皆誅した。瓌は吏部尚書に遷り、淮陽県侯に進封された。
景龍三年、尚書右僕射・同中書門下三品に転じ、許国公に進封された。この年、南郊に拝せんとし、国子祭酒の祝欽明が庶人の旨を希い、皇后を亜献とし、安楽公主を終献とすることを建議した。瓌は深くその議を非とし、かつて御前において欽明を面折した。帝は悟ったが、ついに欽明の奏した所に従った。公卿大臣で初めて官を拝する者は、例として食を献ずることを許され、「焼尾」と称した。瓌が僕射を拝した時は何も献じなかった。後に侍宴の際、将作大匠の宗晉卿が曰く、「僕射を拝して竟に焼尾せず、豈に喜ばざるや」と。帝は黙然とした。瓌が奏して曰く、「臣聞く、宰相は陰陽を調え、天に代わって物を理する者なりと。今粒食踊貴し、百姓足らず、臣は宿衞の兵に至っては三日食を得ざる者あるを見る。臣愚にして職に称せず、故に敢えて焼尾せざるなり」と。この年六月、唐休璟と並び監修国史を加えられた。
四年、中宗が崩じ、秘して喪を発さず、韋庶人は諸宰相韋安石・韋巨源・蕭至忠・宗楚客・紀處訥・韋温・李嶠・韋嗣立・唐休璟・趙彦昭及び瓌ら十九人を禁中に召し入れて会議した。初め、遺制は韋庶人に少主を輔け政事を知らせ、安国相王に太尉を授け参謀輔政させた。中書令の宗楚客が温に謂って曰く、「今は皇太后の臨朝を請うべく、相王の輔政を停めるべきである。且つ皇太后と相王とは嫂叔通問せざるの地に居り、儀注を為すこと甚だ難く、理全く不可なり」と。瓌のみ正色してこれを拒ぎ、楚客らに謂って曰く、「遺制は先帝の意なり、安んぞ更改せんや」と。楚客及び韋温は大いに怒り、遂に相王の輔政を削って宣行した。この月、韋氏敗れ、相王即ち帝位に即き、詔を下して曰く、「尚書右僕射・同中書門下三品・監修国史・許国公蘇瓌は、周旋近密より以来、枢機を損益し、謀猷成り、匡讚忌憚なし。頃者遺恩顧托し、先意昭明せしむ。奸回動揺し、内外危逼するに、独り讜議を申し、実に邪謀を挫く。況んや藩邸の僚属、旧を念うに殷なるのみ。徳無くんば報いず、抑々令典なり。尚書左僕射とすべし、余は故の如し。 」
景雲元年、老病により太子少傅に転ず。この歳十一月に薨じ、司空・荊州大都督を贈られ、諡して文貞と曰う。瓌は臨終に薄葬を遺令し、祖載の日に及んで、官に儀仗を給する外、ただ布車一乗あるのみ、論者これを称す。開元二年、詔を下して曰く、「疇庸賞善は、百王の先とする所なり。追還飾終は、千載の同徳なり。故尚書左丞相・太子少傅・贈司空・荊州大都督・許國文貞公瓌は、正を履み道を体し、外は方にして内は直く、心を悉くして上に奉じ、身を卑くして礼を率い、帷幄を協賛し、三朝に塩梅の任あり。臺袞を燮諧し、九命して社稷の臣と為る。先朝晏駕し、釁宮掖に起こり、国は製を称するの奸を擅にし、人は旒を綴ぐの懼を懐く。凶威孔だ熾にして、宗祀幾くか傾かんとす。顧命遺恩、太皇輔政し、逆臣刊削し、韋氏朝に臨む。遂に能く首に昌言を発し、侃然として正色し、諸を視聴に列ね、朝野に暴く。鬆檟已に遠しと雖も、風烈猶存す。誠節を緬懐し、良く深く耿歎す。実封一百戸を賜うべし」と。四年、詔して徐國公劉幽求と共に睿宗廟庭に配享す。十七年、司徒を加贈す。
瓌の子 頲
瓌の子頲は、少にして俊才有り、一覧千言。弱冠にして進士に挙げられ、烏程尉を授かり、累遷して左臺監察御史となる。長安年中、詔して頲に来俊臣等の旧獄を按覆せしむ。頲は皆その枉を申明し、これにより冤を雪ぐる者甚だ衆し。
神龍年中、累遷して給事中となり、修文館学士を加え、俄かに中書舍人を拝す。尋で頲の父同中書門下三品となり、父子同じく枢密を掌る。時に以て栄と為す。機事塡委し、文誥は皆頲の手より出づ。中書令李嶠歎じて曰く、「舍人の思ひ湧泉の如し、嶠の及ぶ所に非ず」と。俄に太常少卿に遷る。景雲年中、瓌薨じ、詔して頲を起復して工部侍郎と為し、銀青光禄大夫を加う。頲抗表固く辞し、辞理懇切なり。詔してその終制を許す。服闋して職に就き、父の爵許國公を襲ぐ。玄宗宰臣に謂ひて曰く、「工部侍郎より中書侍郎を得る者有りや」と。対へて曰く、「賢を任じ能を用うるは、臣等の及ぶ所に非ず」と。玄宗曰く、「蘇頲は中書侍郎たるべく、仍て政事食を供せしむべし」と。明日、知制誥を加う。政事食有るは、頲より始まる。頲入りて謝す。玄宗曰く、「常に卿を用ひんと欲す。毎に好官闕有れば、即ち宰相の論及ぶを望む。宰相は皆卿の故人なりと雖も、卒に言ふ者無し。朕卿が為に歎息す。中書侍郎は、朕極めて重惜す。陸象先歿して後、朕毎に之を思ふに、卿に出づる者無し」と。時に李乂紫微侍郎と為り、頲と対して文誥を掌る。他日、上頲に謂ひて曰く、「前朝に李嶠・蘇味道有り、之を蘇・李と謂ふ。今卿及び李乂有り、亦之に譲らず。卿の製する所の文誥は、一本を録して封進すべく、題して云ふ『臣某撰』と。朕留中して披覧せんと要す」と。その礼遇此の如し。玄宗靖陵に碑を建てんと欲す。頲諫めて曰く、「帝王及び后に神道碑無し。且つ事古に師ひず、動くこと皆法に非ず。若し靖陵独り建つれば、陛下祖宗の陵皆追造を須ふべし」と。玄宗その言に従ひて止む。
開元四年、紫微侍郎・同紫微黄門平章事に遷り、侍中宋璟と同知政事と為る。璟剛正にして、裁断する所多し。頲は皆その美に順従す。若し上前に旨を承け、敷奏及び応対するには、則ち頲之を助け、相得て甚だ悦ぶ。璟嘗て人に謂ひて曰く、「吾蘇家父子と、前後同時に宰相と為る。僕射は長厚にして、誠に国器なり。若し可を献げ否を替へ、臣節を罄尽し、吏事を断割し、至公私無きは、即ち頲その父を過ぐ」と。八年、礼部尚書を除き、政事を罷む。俄に益州大都督府長史事を知る。前司馬皇甫恂庫物を破り新様錦を織りて以て進む。頲一切之を罷む。或ひは頲に謂ひて曰く、「公今遠に在り、豈に聖意を忤ふを得んや」と。頲曰く、「明主は私愛を以て至公を奪はず。豈に遠近を以て忠臣の節を間易せんや」と。竟に奏して之を罷む。巂州蛮酋苴院私に吐蕃と連謀し、将に内寇せんとす。頲その間諜を獲る。将士咸に出兵して之を討たんことを請ふ。頲従はず。乃ち書を作り並びに間諜を以て苴院に送る。苴院慚悔し、竟に入寇せず。
十三年、駕に従ひ東封す。玄宗頲に令して朝覲碑文を撰ましむ。俄に又吏部選事を知る。頲性廉倹、得る所の俸禄、尽く諸弟に推し与へ、或ひは親族に散ず。家に余資無し。十五年卒す。年五十八。初め、優贈の製未だ出でず。起居舍人韋述上疏して曰く、「臣伏して見るに、貞観・永徽の時、毎に公卿大臣薨卒する有れば、皆朝を輟み哀を挙ぐ。以て終始の恩を成し、君臣の義を厚くす。上に旌賢録旧の徳有り、下に生栄死哀の美有り。史冊に列し、以て将来に示す。昔智悼子卒し、平公宴楽す。杜蒯一言、言ひて始めて感悟す。春秋その盛烈を載せ、礼経以て美談と為す。今古の旧事、昭然として睹るべし。臣伏して見るに、故礼部尚書蘇頲は、累葉輔弼し、代々忠清を伝ふ。頲又軒陛に伏事すること二十余載、入りて謀猷に参じ、出でて藩牧を総ぶ。誠績斯に著しく、操履虧く所無し。天憖遺せず、奄に聖代に違ふ。伏して願くは陛下帷蓋の旧を思ひ、股肱の親を念ひ、先朝の盛典を修め、晋平の遠跡を鑒み、之が為に朝を輟み哀を挙げ、以て同体の義を明らかにせん。使はくは、歿者は泉壤に徳を荷ひ、存者は周行に節を尽くさしめ、凡百卿士、孰か幸甚ならざらん。臣官記事に忝くす。君挙必ず書す。敢へて旧典を申し、上宸扆を黷す。恩貸の降るを希ひ、俯して詳擇を垂れたまはんことを」と。即日洛城南門に於て哀を挙げ、朝を両日輟む。尚書右丞相を贈り、諡して文憲と曰う。及び葬日の、玄宗咸宜宮に遊び、将に出獵せんとす。頲の喪出づるを聞き、愴然として曰く、「蘇頲今日葬る。吾豈に娯遊を忍びんや」と。中路にて宮に還る。頲の弟 詵・冰・乂。
瓌の子 詵
詵は、歴て右司郎中・給事中・徐州刺史を授かる。是に先立ち、給事中を拝する時、頲中書侍郎と為り、表を上りて詵の授かる所を譲る。玄宗曰く、「古来内挙親を避けざる有りや」と。頲曰く、「晋の祁奚是なり」と。玄宗曰く、「若然らば、則ち朕蘇詵を用ふるに、何ぞ屡言するを得ん。近日卿父子猶同じく中書に在り。兄弟何の不得有らん。卿の言至公に非ず」と。
瓌の子 冰
冰は、虞部郎中と為る。
瓌の子 乂
乂は、職方郎中と為る。
瓌の従父兄 幹
韋幹は、韋瓌の従父兄である。父の韋勗は、武徳年間に秦王府文学館学士となった。貞観年間、南康公主を尚り、駙馬都尉に拝され、累進して魏王李泰の府司馬となった。韋勗は博学で美名があり、李泰に大いに重んぜられた。そこで李泰に勧めて文学館を開かせ、才名ある士を引き入れ、『括地志』を撰修させた。後に吏部郎・太子左庶子を歴任し、卒した。韋幹は若くして明経により累次授けられて徐王府記室参軍となった。徐王は狩猟を好んだが、韋幹は毎度これを諫めて止めさせた。垂拱年間、魏州刺史に累遷した。当時河北は饑饉に遭い、旧来の官吏は苛酷であったため、百姓は多く逃散していた。韋幹はそこで姦吏を督察し、農桑を勧めることに務めた。これにより逃散した者たちは皆帰って来て旧業に復し、良牧と称された。召されて右羽林将軍に拝され、まもなく冬官尚書に遷った。酷吏の来俊臣は平素より彼を忌み嫉んでおり、遂に韋幹が魏州において琅邪王李衝と私書を往復したと誣奏し、これにより獄に繋がれて鞫訊を受け、韋幹は憤りを発して卒した。
韋瓌の四代孫、韋翔。
韋瓌の四代孫韋翔は、文宗の太和四年、文学参軍に初めて任じられた。
史臣が曰く。
史臣が曰く。韋思謙は初め州県の官より奮起して雲霄に昇り、綱紀を保持して権豪を避けず、国に報いるに妻子を忘れることができた。自ら強いて止まず、剛毅にして仁に近し、まことにこれ有りと言えよう。高季輔・皇甫公義は、人を知る者と言えよう。かつ福善には余慶あり、徴無しとは謂わず、二人の子(韋承慶・韋嗣立)は堂を構え、ともに宰相の列に並び、文は皆経世済民に通じ、政は明能を尽くした。これに加えて、韋承慶は危うきに臨み、筆を染めて曾て恐悚とせず、韋嗣立は用いられて、封を襲ぎながらも逍遙を墜とさなかった。父の風を辱めず、祖の徳に恥じず、諡して温、諡して孝、易名すること何ぞ愧じようか。陸元方は博学大度、再び鈞衡(宰相の職)を践み、則天の時に当たり、忠貞無きに非ざれば、黜責を受けることは無く、綏州の任に就き、抑えてまた何ぞ慚じようか。その海を渡るに私無く、狂風自ずから止み、臨終に草稿を焚き、温樹(口外せぬこと)始めて顕わるを見よ。故に知る、正は以て神明を動かし、徳は以て家代を延ばすことを。陸象先は益々人品高く、特に相才著しく、全済の名有り、孤立して禍無し。陸景倩・陸景融・陸景献・陸景裔らは皆清列に居り、魯に後有るに非ずや(陸氏の後裔が栄える)。蘇瓌について、孔子は云う、「其の室に居り、其の言を出すに善ければ、則ち千里の外之に応ず、況んや其れ邇き者をや」と。また「言行は君子の枢機、枢機の発するは、栄辱の主なり」と。中宗が世を棄て、韋氏が権を奪わんとした時、謀に預かる者十九人、皆異議を生じたが、蘇瓌は大節を志に存し、独り讜言を発した。その後、善悪は顕著に現れ、黜陟は明らかに著わされた。聖人の言、ここに験せられたのである。蘇頲は唯公を以て相たり、倹を以て家を承け、李嶠は之を湧泉と許し、宋璟は其の父を過ぐると称した。艱難の際、節操回らず、善く始めて令く終わり、先後ともに愧ずること無し。
賛して曰く。善人君子、忠を懐き正を秉る。尽く文章に富み、咸く諫諍を推す。明廷に愧じず、重柄に慚じ無し。子子孫孫、余慶を演承す。