舊唐書

巻088

巻088

舊唐書

原文舊唐書

卷八十八

原文卷八十八

巻八十八 列傳第三十八 韋思謙 陸元方 蘇-{瓌}-

原文巻八十八 列傳第三十八 韋思謙 陸元方 蘇-{瓌}-

巻八十八 列伝第三十八 韋思謙 陸元方 蘇瓌

原文巻八十八列傳第三十八 韋思謙 陸元方 蘇-{瓌}-

韋思謙

原文韋思謙

韋思謙は、鄭州陽武の人である。本名は仁約、字は思謙というが、その音が則天武后の父の諱に類するため、字をもって称した。その先祖は京兆より南に移り、襄陽に家を構えた。進士に挙げられ、累次補任されて応城県令となり、一年余りして調選された。思謙は官にあって、公事の微細な過失により殿(下位評価)を坐し、旧制では多く叙進されないところであった。吏部尚書の高季輔が言うには、「選部に居るようになって、今ようやくこの一人を得た。どうして小さな瑕瑾をもって大いなる徳を棄てることができようか」と。監察御史に抜擢して任じられ、これによって名を知られた。かつて人に謂って言うには、「御史が都を出るに当たって、もし山嶽を動揺させ、州県を震駭させることができなければ、まさしく職を曠むなしくするのみである」と。時に中書令の褚遂良が中書省の訳語人の土地を安値で買い取った。思謙はこれを奏上して弾劾し、遂良は左遷されて同州刺史となった。遂良が再び用いられると、思謙は進用されず、出されて清水県令となった。人に謂って言うには、「わが狂鄙の性は、雄権を仮り与えられれば、機に触れて発動する。固より身の災いとなるべきである。大丈夫たるもの、正色の地に当たっては、必ず明目張胆として国恩に報い、終に碌々たる臣となって妻子を保つことなどできぬ」と。左粛機の皇甫公義が沛はい王府長史を検校し、思謙を同府の倉曹に引き入れて言うには、「公は豈に池中の物であろうか。公を屈して数旬の客とし、以てこの府を望むのみである」と。累次遷って右司郎中となった。

原文韋思謙,鄭州陽武人也。本名仁約,字思謙,以音類則天父諱,故稱字焉。其先自京兆南徙,家於襄陽。舉進士,累補應城令,歳餘調選。思謙在官,坐公事微殿,舊制多未敘進。吏部尚書髙季輔曰:「自居選部,今始得此一人,豈以小疵而棄大德。」 擢授監察御史,由是知名。嚐謂人曰:「御史出都,若不動搖山嶽,震懾州縣,誠曠職耳。」時中書令諸遂良賤市中書譯語人地,思謙奏劾其事,遂良左授同州刺史。及遂良復用,思謙不得進,出爲淸水令。謂人曰:「吾狂鄙之性,假以雄權,觸機便發,固宜爲身災也。大丈夫當正色之地,必明目張膽以報國恩,終不能爲碌碌之臣保妻子耳。」左肅機皇甫公義檢校沛王府長史,引思謙爲同府倉曹,謂思謙曰:「公豈池中之物,屈公爲數旬之客,以望此府耳。」累遷右司郎中。

永淳の初め、尚書左丞・御史大夫を歴任した。時に武候将軍の田仁会が侍御史の張仁禕と不和で、彼を誣告して上奏した。高宗が臨軒して仁禕を問うと、仁禕は惶懼し、応対して言葉を失った。思謙は階を歴ふんで進み出て言うには、「臣は仁禕と連曹(同僚)であり、事の由縁をよく知っております。仁禕は懦弱で自ら弁明することができません。もし仁会が聖聡を眩惑し、仁禕をして非常の罪に致すならば、すなわち臣もまた君に事えることを尽くさぬことになります。どうか専らその状を対決させてください」と。弁論は縦横にわたり、音旨は明暢で、高宗は深くこれを納れた。思謙が憲司(御史台)にあった時、王公に会うごとに、未だかつて拝礼を行わなかった。ある者がこれを諫めると、答えて言うには、「雕・鶚・鷹・鸇(猛禽類)が、どうして衆禽の伴侶であろうか。どうして拝礼を設けてこれと親しむことができようか。かつ耳目の官は、固より独立すべきである」と。初めて左丞に拝された時、上奏して言うには、「陛下は官のために人を択ばれ、その人を得なければ闕(欠)く。今、美錦を惜しまず、臣にこれを製させようとされる。これは陛下が臣を知ることの深さであり、また微臣が命を尽くすべき秋であります」と。綱目を振り挙げて整え、朝廷は粛然とした。

原文永淳初,暦尚書左丞、御史大夫。時武候將軍田仁會與侍御史張仁禕不協而誣奏之。髙宗臨軒問仁禕,仁禕惶懼,應對失次。思謙暦階而進曰:「臣與仁禕連曹,頗知事由。仁禕懦而不能自理。若仁會眩惑聖聰,致仁禕非常之罪,即臣亦事君不盡矣。請專對其狀。」辭辯縱橫,音旨明暢,髙宗深納之。思謙在憲司,毎見王公,未嘗行拜禮。或勸之,答曰:「雕鶚鷹鸇,豈衆禽之偶,奈何設拜以狎之?且耳目之官,固當獨立也。」初拜左丞,奏曰:「陛下爲官擇人,非其人則闕。今不惜美錦,令臣製之,此陛下知臣之深,亦微臣盡命之秋。」振舉綱目,朝廷肅然。

則天が朝政に臨むと、宗正卿に転じ、官名が改易された際に、司属卿と改められた。光宅元年、左・右粛政台を分置し、また思謙を右粛政大夫とした。大夫は旧来、御史と抗礼(対等の礼)していたが、思謙は独り坐してその拝を受けた。ある者がこれを諫めると、思謙は言うには、「国家の班列には、自ら差等がある。どうして姑息を事とすることができようか」と。垂拱の初め、博昌県男の爵を賜り、鳳閣鸞台三品に遷った。二年、蘇良嗣に代わって納言となった。三年、上表して老いを告げ致仕を請うた。許され、なお太中大夫を加えられた。永昌元年九月、家で卒去し、幽州都督ととくを贈られた。二子あり:承慶・嗣立。

原文則天臨朝,轉宗正卿,會官名改易,改爲司屬卿。光宅元年,分置左、右肅政臺,復以思謙爲右肅政大夫。大夫舊與御史抗禮,思謙獨坐受其拜。或以爲辭,思謙曰:「國家班列,自有差等,奈何以姑息爲事耶?」垂拱初,賜爵博昌縣男,遷鳳閣鸞臺三品。二年,代蘇良嗣爲納言。三年,上表告老請致仕。許之,仍加太中大夫。永昌元年九月,卒於家,贈幽州都督。二子:承慶、嗣立。

思謙の子 承慶

原文{{--|思謙子}} 承慶

承慶は、字を延休という。少より恭謹で、継母に事えること孝行をもって知られた。弱冠にして進士に挙げられ、雍王府参軍に補せられた。府中の文翰は、皆承慶の出づるところであり、辞藻の美は一時に擅ほしいままにした。累次遷って太子司議郎となった。儀鳳四年五月、詔して皇太子賢に国を監せしめた。時に太子は頗る声色に近づき、戸奴らと款狎(親密に戯れる)した。承慶は上書して諫めて言うには、

原文承慶,字延休。少恭謹,事繼母以孝聞。弱冠舉進士,補雍王府參軍。府中文翰,皆出於承慶,辭藻之美,擅於一時。累遷太子司議郎。儀鳳四年五月,詔皇太子賢監國。時太子頗近聲色,與戸奴等款狎,承慶上書諫曰:

臣が聞くところによれば、太子とは君の副そえであり、国の本である。宗廟の重みを承け、億兆の心を繋ぐ所以であり、万国これによって貞ただしく、四海これに属望する。殿下は仁孝の徳、明睿の姿をもち、嶽の峙そびえるが如く泉の渟とどまるが如く、金の貞玉の裕ゆたかである。天皇は殿下を儲副(皇太子)に昇らせ、殿下に監撫(監国と撫民)を寄せ、照らすこと及ばざるなく、恩沢覃およばざるなからしめ、百僚に重曜の暉を仰がしめ、万姓に洊雷の響きを聞かしめようとされる。そもそも君に民なければ、その位を保つことなし。人に食なければ、その生を全うすることなし。故に孔子は言われる、「百姓足らば、君孰いずくんぞ足らざらん。百姓足らざれば、君孰んぞ足らん」と。頃年以来、頻りに水旱あり、菽粟豊かに実らず、黎庶自ら煎窮に致す。今夏は亢陽(日照り)で、米価騰踊し、貧窶の家は自ら資するものなく、朝夕遑遑として、唯だ餒饉を憂うるのみ。下人の瘼(苦しみ)は、実に哀れみ矜あわれむべく、稼穡の艱難は、詳らかに知るべきである。天皇が垂衣(無為の治)して北極に君臨し、殿下が守器(太子の位を守る)して東宮に在る、天下の尊ぶところとなり、天下の利を得る所以は、豈に上玄の幽賛のみならんや、亦た百姓の力である。百姓危うければ、則ち社稷独り安んずるを得ず。百姓乱れれば、則ち帝王独り治むるを得ず。故に古の明君は、飽きて人の飢えを知り、温かくして人の寒さを知り、常に天下を憂いとし、四海を楽しみとせず。今、関・隴の外には、凶寇憑陵し、西土の編戸(戸籍に登録された民)凋喪将に尽きんとし、干戈日用い、烽柝(のろしと木柝)薦しきりに興り、千里糧を饋おくるに労し、三農(農民)稼穡に遑いとまあらず。殿下は臣たり子たり、乃ち国たり家たり。臣たるは忠を竭くすに在り、子たるは孝を尽くすを期す。家に在りては自ら逸するべからず、国に在りては自ら康らかにするべからず。一物虧かけば、聖上常に神念を留められ、三辺或いは梗さまたげあらば、殿下豈に兢おそれ懐かざらんや。況んや養徳の秋に当たり、任情の日に非ざるに於いてをや。伏して承るに、北門の内に、造作常ならず、玩好の営むところ、或いは煩費あり。倡優雑伎、前みもとに息まず、鼓吹繁声、亟しばしばに外に聞こえ、既に聴覧を喧やかましくし、且つ宮闈を黷けがす。これに加うるに仆隸の小人、これに縁りて左右に親しむを得、亦た既に顏色を奉承すれば、能く恩光に恃托せざらんや。福を作し威を作すは、これよりせざるはなく、防慎を加えざれば、必ず愆非あり。儻もしや微かに徳音を累わずらわすことあらば、後悔して何ぞ及ばん。《書》に云う、「益なきを作して益あるものを害することなかれ」と。これらは皆な益なき事柄で、固より耽溺してこれを悦ぶべからず。臣また聞く、「高くして危うからざるは、貴を長く守る所以なり。満ちて溢れざるは、富を長く守る所以なり」と。これによって高危は慎まざるべからず、満溢は持せざるべからざるを知る。《易》に曰く、「君子終日乾乾けんけん、夕べに惕おそれて厲あやうきが若く、咎とがなし」と。敬慎というのはこれである。凡庶に在りては、これを参まじえて守り行うも、猶お高く声華を振るい、坐して栄祿を致すことができる。況んや殿下は少陽の位(太子の位)を有し、天挺の姿を有し、片善にして天下必ず聞こえ、小能にして天下咸みな服するにおいてをや。豈に尽善尽美の道を為さずして、以て可大(大きくすべき)可久(久しく保つべき)の名を取ることができようか!伏して願わくは、経書を博覧してその徳を広め、声色を屛退してその情を抑え、静默無為、恬虚寡欲、礼に非ざれば動かず、法に非ざれば言わず。居処服玩は必ず節儉に循したがい、畋獵遊娯は縦逞ほしいままとせず。正人端士は必ず引きてこれを親しみ、便僻側媚へつらいは必ず斥けてこれを遠ざけ、恵声をして遠近に溢れさせ、仁風をして内外に翔めぐらしめ、則ち以て終吉を克よく享け、利貞を長く保ち、上嗣(皇太子)の称首(第一)たり、聖人の鴻業を奉ずる者となることを。

原文臣聞太子者,君之貳,國之本也。所以承宗廟之重,係億兆之心,萬國以貞,四海屬望。殿下以仁孝之德,明睿之姿,嶽峙泉渟,金貞玉裕。天皇升殿下以儲副,寄殿下以監撫,欲使照無不及,恩無不覃,百僚仰重曜之暉,萬姓聞洊雷之響。夫君無民,無以保其位;人非食,無以全其生。故孔子曰:「百姓足,君孰與不足;百姓不足,君孰與足?」自頃年已來,頻有水旱,菽粟不能豐稔,黎庶自致煎窮。今夏亢陽,米價騰踴,貧窶之室,無以自資,朝夕遑遑,唯憂餒饉。下人之瘼,實可哀矜,稼穡艱難,所宜詳悉。天皇所以垂衣北極,殿下所以守器東宮,爲天下之所尊,得天下之所利者,豈唯上玄之幽讚,亦百姓之力也。百姓危,則社稷不得獨安。百姓亂,則帝王不能獨理。故古之明君,飽而知人饑,温而知人寒,毎以天下爲憂,不以四海爲樂。今關、隴之外,凶寇憑淩,西土編,凋喪將盡,干戈日用,烽柝薦興,千里有勞於饋糧,三農不遑於稼穡。殿下爲臣爲子,乃國乃家。爲臣在於竭忠,爲子期於盡孝。在家不可以自逸,在國不可以自康。一物有虧,聖上毎留神念;三邊或梗,殿下豈不兢懷。況當養德之秋,非是任情之日。伏承北門之内,造作不常,玩好所營,或有煩費。倡優雜伎,不息於前,鼓吹繁聲,亟聞於外,既喧聽覽,且黷宮闈。兼之仆隸小人,縁此得親左右,亦既奉承顏色,能不恃托恩光。作福作威,莫不由此,不加防愼,必有愆非。儻使微累德音,於後悔之何及?《書》云:「不作無益害有益。」此皆無益之事,固不可耽而悅之。臣又聞「髙而不危,所以長守貴;滿而不溢,所以長守富。」是知髙危不可不愼,滿溢不可不持。《易》曰:「君子終日乾乾,夕惕若厲,無咎。 」敬愼之謂也。在於凡庶,參守而行之,猶可以髙振聲華,坐致榮祿。況殿下有少陽之位,有天挺之姿,片善而天下必聞,小能而天下咸服,豈可不爲盡善盡美之道,以取可大可久之名哉!伏願博覽經書以廣其德,屛退聲色以抑其情。靜默無爲,恬虚寡欲,非禮勿動,非法不言。居處服玩,必循節儉;畋獵遊娯,不爲縱逞。正人端士,必引而親之;便僻側媚,必斥而遠之。使惠聲溢於遠近,仁風翔於内外,則可以克享終吉,長保利貞,爲上嗣之稱首,奉聖人之鴻業者矣。

また嘗て『諭善箴』を作って太子に献じた。太子はこれを善しとし、賜物甚だ厚かった。承慶はまた、人の用心が多く擾濁浮躁で、衝和の境に至ることが稀であるとして、『霊台賦』を著してその志を広め、辞多く載せず。

原文又嘗爲《諭善箴》以獻太子。太子善之,賜物甚厚。承慶又以人之用心,多擾濁浮躁,罕詣衝和之境,乃著《靈臺賦》以廣其誌,辭多不載。

調露の初め、東宮が廃され、出て烏程令となり、風化大いに行わる。長壽の中、累遷して鳳閣舍人となり、兼ねて天官の選事を掌る。承慶は文を属するに迅捷にして、軍國の大事と雖も、下筆すれば輒ち成り、未だ草稿を嘗めず。尋で大臣の旨に忤うに坐し、出て沂州刺史となる。未だ幾ばくもせず、詔して舊職に復し、前に依りて天官の選事を掌る。久しくして、病を以て免ぜられ、改めて太子諭德を授けられる。後に豫よ、虢等州の刺史を歴任し、頗る聲績著しく、制書して褒美す。長安ちょうあんの初め、入りて司僕少卿となり、轉じて天官侍郎となり、兼ねて國史を修す。承慶は天授以來、三たび天官の選事を掌り、銓授平允にして、海内之を稱す。尋で鳳閣侍郎、同鳳閣鸞臺平章事に拜し、仍舊として兼ねて國史を修す。神龍の初め、張易之の弟昌宗を推すに附きて失實に坐し、配流して嶺表に流される。時に易之等既に誅せられ、承慶は巾を去り帶を解きて罪を待つ。時に赦書を草せんと欲し、衆議以爲く承慶に如くは無しと、乃ち承慶を召して之を爲さしむ。承慶は神色撓まず、筆を援りて成し、辭甚だ典美にして、當時咸く之を歎服す。歳餘りして、起用されて辰州刺史を授けられるも、未だ之に赴かず、入りて秘書員外少監となり、兼ねて國史を修す。尋で『則天實録』を修するの功を以て、爵を扶陽縣子に賜ひ、物五百段を賚はる。又『則天皇后紀聖文』を製撰し、中宗善しと稱し、特く銀靑光祿大夫を加ふ。俄かに黃門侍郎を授けられ、仍舊として兼ねて國史を修すも、未だ拜せずして卒す。中宗傷悼すること久しく、乃ち其の弟相州刺史嗣立を召して葬事に赴かしめ、仍て黃門侍郎に拜し、兄の位を繼がしむ。其の用ひらるること此の如し。秘書監を贈り、諡して温と曰ふ。子長裕、膳部員外郎。

原文調露初,東宮廢,出爲烏程令,風化大行。長壽中,累遷鳳閣舍人,兼掌天官選事。承慶屬文迅捷,雖軍國大事,下筆輒成,未嘗起草。尋坐忤大臣旨,出爲沂州刺史。未幾,詔復舊職,依前掌天官選事。久之,以病免,改授太子諭德。後暦豫、虢等州刺史,頗著聲績,制書褒美。長安初,入爲司仆少卿,轉天官侍郎,兼修國史。承慶自天授以來,三掌天官選事,銓授平允,海内稱之。尋拜鳳閣侍郎、同鳳閣鸞臺平章事,仍依舊兼修國史。神龍初,坐附推張易之弟昌宗失實,配流嶺表。時易之等既伏誅,承慶去巾解帶而待罪。時欲草赦書,衆議以爲無如承慶者,乃召承慶爲之。承慶神色不撓,援筆而成,辭甚典美,當時鹹歎服之。歳餘,起授辰州刺史,未之任,入爲秘書員外少監,兼修國史。尋以修《則天實録》之功,賜爵扶陽縣子,賚物五百段。又製撰《則天皇后紀聖文》,中宗稱善,特加銀靑光祿大夫。俄授黃門侍郎,仍依舊兼修國史,未拜而卒。中宗傷悼久之,乃召其弟相州刺史嗣立令赴葬事,仍拜黃門侍郎,令繼兄位,其見用如此。贈秘書監,諡曰温。子長裕,膳部員外郎。

思謙の子 嗣立

原文{{--|思謙子}} 嗣立

嗣立は、承慶の異母弟なり。母王氏、承慶に遇すること甚だ嚴しく、毎に杖罰有れば、嗣立必ず衣を解きて代はらんことを請ふ。母聽かず、輒ち自ら杖す。母之を察し知り、漸く恩貸を加ふ。議者晉の王祥、王覽に比す。少くして進士に舉げられ、累補して雙流令となり、政に殊績有り、蜀しょく中の最と爲る。三遷して萊蕪令となる。會ふに承慶鳳閣舍人より疾を以て職を去る。則天嗣立を召して謂ひて曰く、「卿の父往日嘗て朕に謂ひて曰く『臣兩男有り、忠孝にして、陛下に事へるに堪ふ』と。卿兄弟職を效ふるより、卿の父の言ふが如し。今卿に鳳閣舍人を授け、卿兄弟自ら相替代せしむ」と。即日に鳳閣舍人に遷す。

原文嗣立,承慶異母弟也。母王氏,遇承慶甚嚴,毎有杖罰,嗣立必解衣請代,母不聽,輒私自杖,母察知之,漸加恩貸,議者比晉從王祥、王覽。少舉進士,累補雙流令,政有殊績,爲蜀中之最。三遷萊蕪令。會承慶自鳳閣舍人以疾去職,則天召嗣立謂曰:「卿父往日嚐謂朕曰『臣有兩男忠孝,堪事陛下。』自卿兄弟效職,如卿父言。今授卿鳳閣舍人,令卿兄弟自相替代。」即日遷鳳閣舍人。

時に學校頽廢し、刑法濫酷なり。嗣立上疏して諫めて曰く、

原文時學校頽廢,刑法濫酷,嗣立上疎諫曰:

臣聞く、古の先哲の王は学官を立て、国子を教え掌るに六徳・六行・六藝をもってし、三教備わりて人道畢おわる。《礼記》に曰く「人を化し俗を成すは、必ず学に由る」と。学の人のためにするや、その用蓋し博し。故に太学を立てて国に教え、庠序を設けて邑に化し、王の諸子・卿大夫士の子及び国の俊選皆これに造る。八歳にして小学に入り、十五にして太学に入る。春秋には《礼》《楽》を以て教え、冬夏には《詩》《書》を以て教う。ここをもって教え洽あまねくして化流れ、行い成りて悖もとらず。天子より以て庶人に至るまで、学を須もちいずして成る者あらざるなり。国家永淳以来、二十余載、国学廃散し、胄子衰缺し、時に儒学の官を軽んじ、章句の選を存するもの莫し。貴門の後進、競いて僥倖を以て班を升り、寒族の常流、復た凌替に因りて業を弛む。試験の際、秀茂罕まれに登り、これを駆りて人に臨ましむるに、何を以て政に従わんや。また垂拱の後、文明辰に在り、盛典鴻休、日書月至し、際会を因藉し、入仕尤も多し。これに讒邪凶党来俊臣の属を加う。妄りに威権を執り、恣ほしいままに枉陷を行い、正直の伍、死亡を憂いとし、道路目を以てし、人固き志無く、執って撓たわまざるの懐を有するもの罕まれにして、至公の節に殉ずるもの少なく、偸安苟免し、聊いささか以て歳を卒おう。遂に綱領振わず、請托公行し、選挙の曹、弥いよいよに渝濫を長ず。班に随うに少しく経術の士、職を摂るに多く庸瑣の才、徒いたずらに猛暴を以て相誇り、罕に能く淸惠自ら勗つとむ。海内の黔首をして騒然として安からず、州県の官僚、貪鄙未だ息まずして、事必ず理に循い、俗康寧に致らんことを望むは、得べからざるなり。陛下誠に能く明制を下し、徳音を発し、広く庠序を開き、大いに学校を敦つとめ、三館の生徒、即ち令を追いて集め、王公以下子弟、別に仕進を求むるを容れず、皆国学に入り、訓典に服膺せしむ。館廟を崇飾し、儒師を尊尚し、奠菜の儀を盛んに陳べ、講説の会を宏敷ひろくしき、士庶の観聴をして発揚する所有らしめ、道徳を弘奨すること、ここに在り。すなわち四海の内、靡然として風に向い、頸を延べ足を挙げ、咸みな向かう所を知らん。然る後に衡鏡を審かに持ち、良能を妙に択び、これを以て人に臨み、これを寄せて俗を調う。すなわち官侵暴の政無く、人安楽の心有り、人に居れば則ち相与に業を楽しみ、百姓は則ち皆桑梓を恋い、豈に復たその逃散して貧窶なるを憂えんや。今天下の戸口、亡逃過半し、租調既に減じ、国用足らず。人を理おさむるの急、尤も茲に切せまる。故に学を務むるの源を知るは、豈に唯だ身を潤し徳を進むるのみならんや。将に人を誨え国を利するに以てせんとす、これを務めざるべけんや。臣聞く、堯・舜の日、その衣冠を画き、文・景の時、幾ほとほと刑措に致す。茲これ千載を暦へて、以て美談と為す。臣伏して惟うに、陛下睿哲欽明、神を窮め化を知り、軒・昊已降、これと京ならぶもの莫し。独り往の論法、或いは未だ善を尽くさず、皆主司の奸凶に由り、視聴を惑乱す。尋ついで陛下聖察、これを具つぶさに詳つまびらかにす、然れども竟にその本源を顕わし、その前事を明らかにし、天下万姓をして陛下の本心を識らしむる能わず、尚お四海に冤を銜ふくむの人多く、九泉に痛みを抱くの鬼有らしむ。臣誠に愚暗、大綱を識らず、請う陛下の為に始末を言いてその事をせん。揚・豫の後、刑獄漸く興り、用法の伍、窮竟に務め、連坐相牽き、数年絶えず。遂に巨奸大猾隙を伺い間を乗じ、内に豺狼の心を苞つつみ、外に鷹鸇の跡を示し、陰図潜結し、共に相影会し、似是の言を構え、赦さざるの罪を成す。皆深く巧詆を為し、恣に楚毒を行い、人痛みに勝えず、便ち自ら誣しうるを乞い、公卿士庶、頸を連ねて戮せらる。道路籍籍せきせき、辜つみに非ざるを知るといえども、鍛練既に成り、弁占皆合す。縦たとい皋陶を以て理と為し、於公を以て刑を定むとも、すなわち宮を汚し柩を毀つを謂いて、猶未だ責を塞ぐに足らずと謂わん。陛下仁慈哀念、獄を恤あわれみ死を緩ゆるすといえども、辞状を覧るに及びて、便ち已に周密、皆これを勘鞫情を得たりと謂い、是れその実犯なりとし、縦い寛捨せんと欲すとも、その法を如何せん。ここに於いて小は乃ち身誅、大は則ち族滅し、相縁り共に坐する者、言うに勝えず。これ豈に宿構の仇嫌、将に報復を申さんとし、皆苟も功効を成し、官賞を自ら求むるに図るや。当時に称伝し、羅織と謂う。その中刑に陷り罪を得る者、敏識通材有りといえども、告言せらるる者に被告せられて便ち枉抑に遭い、心徒いたずらにその冤酷を痛むれども、口もって以て自ら明らかにする能わず。或いは誅夷を受け、或いは竄殛に遭い、並び甘心して分を引き、これに赴くこと帰するが如し。故に法を弄び文を徒にするは、人を傷つくる実に甚だしきを知る。頼むらくは陛下特ことに聖察を回らし、昭然として詳究せらる。周興・丘勣の類、弘義・俊臣の徒、皆相次いで伏誅し、事遐邇に暴あらわれ、朝野慶泰し、再び陽和を睹るが若し。且つ仁傑・元忠の如きは、倶に枉陷に罹り、勘鞫せらるるの際、亦皆已に自ら誣う。向むかしし陛下の至明に非ずんば、省察を垂れたまわざりせば、則ち菹醢の戮、已にその身に及び、忠を聖代に輸おくらんことを望む、安んぞ復た得べけんや。陛下これを擢して升し、各良輔と為し、国の棟幹、この二人を称す。何ぞ乃ち前は非にして後は是なるや。誠に枉陷と甄明とに由るのみ。但だ往の罪を得る者多く並びにこの流れに在るを恐るれば、則ち向時の冤者のその数甚だ衆し。昔一の孝婦を殺すも、尚或いは災を降す。而るに濫する者蓋し多し、寧く怨気無からんや。怨気上達すれば則ち水旱興る所となり、歳登らんことを望むは、得べからざるなり。倘もしし陛下天地の大徳を弘め、雷雨の深仁を施し、罪を削刻の徒に帰し、恩を枉濫の伍に降す。垂拱已来、大辟罪已下、常赦の原ゆるさざる所の者、罪の軽重無く、一に皆原洗し、昭蘇を被らしむ。法に伏せるの輩、官爵を追還し、累に縁るの徒、普く恩造に沾うるおわしむ。かくの如くすれば則ち天下この陷る所の罪、元もとより陛下の意に非ず、咸虐吏の辜なるを知らん。幽明歓欣すれば則ち和気に感通し、和気下降すれば則ち風雨時にし、風雨時にすれば則ち五穀豊稔し、歳既に稔れば人亦安し。太平の美、亦何ぞ遠からんや。伏して願わくは陛下深く察せんことを。

原文臣聞古先哲王立學官,掌教國子以六德、六行、六藝,三教備而人道畢矣。《禮記》曰:「化人成俗,必由學乎。」學之於人,其用蓋博。故立太學以教於國,設庠序以化於邑,王之諸子、卿大夫士之子及國之俊選皆造焉。八歳入小學,十五入太學。春秋教以《禮》、《樂》,冬夏教以《詩》、《書》。是以教洽而化流,行成而不悖。自天子以至於庶人,未有不須學而成者也。國家自永淳已來,二十餘載,國學廢散,胄子衰缺,時輕儒學之官,莫存章句之選。貴門後進,競以僥幸升班;寒族常流,復因淩替弛業。考試之際,秀茂罕登,驅之臨人,何以從政?又垂拱之後,文明在辰,盛典鴻休,日書月至,因藉際會,入仕尤多。加以讒邪凶黨來俊臣之屬,妄執威權,恣行枉陷,正直之伍,死亡爲憂,道路以目,人無固誌,罕有執不撓之懷,殉至公之節,偸安苟免,聊以卒歳。遂使綱領不振,請托公行,選舉之曹,彌長渝濫。隨班少經術之士,攝職多庸瑣之才,徒以猛暴相誇,罕能淸惠自勗。使海内黔首,騷然不安,州縣官僚,貪鄙未息,而望事必循理,俗致康寧,不可得也。陛下誠能下明製,發德音,廣開庠序,大敦學校,三館生徒,即令追集。王公已下子弟,不容別求仕進,皆入國學,服膺訓典。崇飾館廟,尊尚儒師,盛陳奠菜之儀,宏敷講説之會,使士庶觀聽,有所發揚,弘獎道德,於是乎在。則四海之内,靡然向風,延頸舉足,鹹知所向。然後審持衡鏡,妙擇良能,以之臨人,寄之調俗。則官無侵暴之政,人有安樂之心,居人則相與樂業,百姓則皆戀桑梓,豈復憂其逃散而貧窶哉!今天下戸口,亡逃過半,租調既減,國用不足。理人之急,尤切於茲。故知務學之源,豈唯潤身進德而已?將以誨人利國,可不務之哉!臣聞堯、舜之日,畫其衣冠;文、景之時,幾致刑措。暦茲千載,以爲美談。臣伏惟陛下睿哲欽明,窮神知化,自軒、昊已降,莫之與京。獨有往之論法,或未盡善,皆由主司奸凶,惑亂視聽。尋而陛下聖察,具詳之矣,然竟未能顯其本源,明其前事,令天下萬姓識陛下本心,尚使四海多銜冤之人,九泉有抱痛之鬼。臣誠愚暗,不識大綱,請爲陛下始末而言其事。揚、豫之後,刑獄漸興,用法之伍,務於窮竟,連坐相牽,數年不絶。遂使巨奸大猾伺隙乘間,内苞豺狼之心,外示鷹鸇之跡,陰圖潛結,共相影會,構似是之言,成不赦之罪。皆深爲巧詆,恣行楚毒,人不勝痛,便乞自誣,公卿士庶,連頸受戮。道路籍籍,雖知非辜,而鍛練已成,辯占皆合。縱皋陶爲理,於公定刑,則謂汙宮毀柩,猶未塞責。雖陛下仁慈哀念,恤獄緩死,及覽辭狀,便已周密,皆謂勘鞫得情,是其實犯,雖欲寬舍,其如法何?於是小乃身誅,大則族滅,相縁共坐者,不可勝言。此豈宿構仇嫌,將申報復,皆圖苟成功效,自求官賞。當時稱傳,謂爲羅織。其中陷刑得罪者,雖有敏識通材,被告言者便遭枉抑,心徒痛其冤酷,口莫能以自明。或受誅夷,或遭竄殛,並甘心引分,赴之如歸。故知弄法徒文,傷人實甚。賴陛下特回聖察,昭然詳究。周興、丘勣之類,弘義、俊臣之徒,皆相次伏誅,事暴遐邇,而朝野慶泰,若再睹陽和。且如仁傑、元忠,倶罹枉陷,被勘鞫之際,亦皆已自誣。向非陛下至明,垂以省察,則菹醢之戮,已及其身,欲望輸忠聖代,安可復得!陛下擢而升之,各爲良輔,國之棟幹,稱此二人。何乃前非而後是哉?誠由枉陷與甄明爾。但恐往之得罪者多並此流,則向時之冤者其數甚衆。昔殺一孝婦,尚或降災。而濫者蓋多,寧無怨氣!怨氣上達則水旱所興,欲望歳登,不可得也。倘陛下弘天地之大德,施雷雨之深仁,歸罪於削刻之徒,降恩於枉濫之伍。自垂拱已來,大辟罪已下,常赦所不原者,罪無輕重,一皆原洗,被以昭蘇。伏法之輩,追還官爵,縁累之徒,普沾恩造。如此則天下知此所陷罪,元非陛下之意,鹹是虐吏之辜。幽明歡欣,則感通和氣;和氣下降,則風雨以時;風雨以時,則五穀豐稔;歳既稔矣,人亦安矣。太平之美,亦何遠哉!伏願陛下深察。

まもなく秋官侍郎に遷り、三たび鳳閣侍郎を経て、同鳳閣鸞臺平章事となった。長安年間、則天武后はたまたま宰相らと州県の官吏について議し、納言李嶠・夏官尚書唐休璟らが奏上して言うには、「臣らは誤って大任を担いながら、兵乱を止息させ、倉庫府庫を豊かに満たすことができず、戸籍人口にはなお逃亡者がおり、官吏は貪濁を免れず、陛下をして朝廷に臨んで憂い歎かせ、しばしばこれを言わしめ、日夜慚愧し恐れ、身の置き所を知りません。伏して思うに、当今の要務は、富国安民に過ぎるものはありません。富国安民の方策は、刺史を選ぶことにあります。ひそかに朝廷の世論を見るに、内官を重んじ外職を軽んじない者はなく、毎回牧伯を除授するごとに、皆再三抗弁し訴えます。近頃派遣される外任は、多くは貶降や累罪の人であり、風俗が澄まないのは、実にこれに由来します。今、台閣寺監において、賢良を精選し、大州を分掌させ、共に諸々の治績を安んじさせたいと望みます。臣らは近侍の職を止め、率先して百官の列に加わり、国を憂い民を救うことに務め、少しでも補益があればと願います」と。則天は言った、「卿らは鸞臺鳳閣に在るが、誰がこの任に就くか」と。嗣立が率先して答えて言うには、「臣は庸愚の身でありながら、誤って賞抜擢を受け、内に機密を掌るは、臣の堪えるところではありません。外台の任を引き継ぐに及ばず、まさに節を尽くすべきであり、もし採録を垂れられれば、臣はこの行を願います」と。ここにおいて嗣立は本官を帯びて検校汴州刺史となった。

原文尋遷秋官侍郎,三過鳳閣侍郎、同鳳閣鸞臺平章事。長安中,則天嚐與宰臣議及州縣官吏,納言李嶠、夏官尚書唐休璟等奏曰:「臣等謬膺大任,不能使兵革止息,倉府殷盈,戸口尚有逋逃,官人未免貪濁,使陛下臨朝軫歎,屢以爲言,夙夜慚惶,不知啓處。伏思當今要務,莫過富國安人。富國安人之方,在擇刺史。竊見朝廷物議,莫不重内官,輕外職,毎除授牧伯,皆再三披訴。比來所遣外任,多是貶累之人,風俗不澄,實由於此。今望於臺閣寺監,妙簡賢良,分典大州,共康庶績。臣等請輟近侍,率先具僚,務在憂國濟人,庶當有所補益。」則天曰:「卿等處鸞臺鳳閣,誰爲此行?」嗣立率先對曰:「臣以庸愚,謬膺獎擢,内掌機密,非臣所堪。承乏外臺,庶當盡節,倘垂采録,臣願此行。」於是嗣立帶本官檢校汴州刺史。

ほどなく、嗣立の兄承慶が入朝して政事を知ることとなり、嗣立は成均祭酒に転じ、兼ねて検校魏州刺史となった。また洺州刺史に移った。まもなく承慶に連座して饒州長史に左遷された。一年余りして、太僕少卿に徴され、兼ねて吏部選事を掌った。神龍二年、相州刺史となった。承慶が卒すると、代わって黄門侍郎となり、太府卿に転じ、修文館学士を加えられた。

原文無幾,嗣立兄承慶入知政事,嗣立轉成均祭酒,兼檢校魏州刺史。又徙洺州刺史。尋坐承慶左授饒州長史。歳餘,徴爲太仆少卿,兼掌吏部選事。神龍二年,爲相州刺史。及承慶卒,代爲黃門侍郎,轉太府卿,加修文館學士。

景龍三年、兵部尚書・同中書門下三品に転じた。当時、中宗は寺観を立派に飾り立て、また封邑を濫りに食む者が多く、国家の財用は虚しく枯渇していた。嗣立は上疏して諫めて言うには、

原文景龍三年,轉兵部尚書、同中書門下三品。時中宗崇飾寺觀,又濫食封邑者衆,國用虚竭。嗣立上疎諫曰:

臣が聞くに、国に九年の儲えなく、家に三年の蓄えなければ、家はその家にあらず、国はその国にあらず。故に知る、国を立て家を立てるは、皆儲蓄に資することを。夫れ水旱の災いは、陰陽の運数に関し、人の智力の及ぶところにあらず。堯は大水に遭い、湯は大旱に遭う。すなわち知る、仁聖の君も免れざる所なり。この時に当たりて困弊に至らざるは、積むによるなり。今、陛下の倉庫の内は、比来やや空竭し、尋常の用度も一年を支えず。もし水旱あれば、人を賑給すべく、徴発は時に動き、兵は資装を要す。すなわち将に何をもってかこれに備えん。その倉庫実ならざるに縁り、政化を妨ぐる者は、触類して是なり。臣窃かに見るに、比者寺観を営造する、その数極めて多く、皆宏博を取らんと務め、競って環麗を崇む。大なるものは費耗百十万、小なるものも尚お三五万余を用う。略計すれば、用いる資財動かずして千万已上に至る。木石を転運し、人牛止まず、人功を廃し、農務を害す。事既に急ならず、時に怨谘多し。故に『書』に曰く、「益なきを作さずして有益を害せば、功乃ち成る。異物を貴ばずして用物を賤しめば、民乃ち足る」と。誠にこの言、虚談にあらず。且つ玄旨秘妙は、空寂に帰す。苟も心を修め慧を定めざれば、諸法皆な有為に渉る。至りて土木雕刻等の功に至っては、唯だ人力を殫竭するのみ。但だ相誇りて壮麗を学ぶのみにして、豈に身心を降伏するに関らんや。且つ凡そ功を興す所は、皆な掘鑿を須う。蟄虫土中に在り、種類実に多し。毎日殺傷し、動かずして万計に盈つ。連年この如くすれば、損害知るべし。聖人慈悲を心とす。豈に須らくこの事を行わんとする理あらんや。然らざるの理、皎として目前に在り。世俗の衆僧、その旨を通ぜず、府庫の空竭を慮わず、聖人の憂労を思わず、広く福田を樹つるは、即ち是れ法教を増修するなりと謂う。もし水旱災と為り、人饑餒に至り、夷狄梗を作し、兵資糧無くんば、陛下龍象雲の如く、伽藍概日たりとも、豈に万分の一を裨し、元元の苦を救わんや。道法に於いて既に乖き、生人に於いて極めて損なり。陛下豈に深くこれを思わざるべけんや。臣窃かに見るに、食封の家、その数甚だ衆し。昨戸部に略問うに、六十余万丁を用うと云う。一丁両匹とすれば、即ち是一百二十万已上なり。臣頃に太府に在りて、毎年の庸調絹の数を知る。多きも百万を過ぎず、少なきは則ち七八十万已来なり。諸封家に比すれば、入る所全く少なし。もし虫霜旱澇あらば、曾て半ば在らず。国家の支供、何をもってか取給せん。臣聞く、茅土を封じ、山河を裂くは、皆な業経綸に著り、功草昧に申し、然る後に宗廟の享に配し、帯礪の恩を承く。皇運の初め、功臣共に天下を定む。当時食封する才に上三二十家、今尋常の特恩を以て、遂に百家已上に至る。国家の租賦、大半私門に帰す。私門は則ち資用余り有り、国家は則ち支計足らず。余り有れば則ち或いは奢侈を致し、足らざれば則ち坐して憂危を致す。国を制するの方、豈に得たりと謂わんや。封戸の物、諸家自ら徴す。或いは官典、或いは奴仆、多く勢を挟み威を騁し、州県を凌突す。凡そ封戸たる者は、侵擾に勝えず。或いは物を輸するに裹頭を多く索め、或いは相知りて中物を取らんと要す。百姓怨歎し、遠近共に知る。復た貨易を将うるに因り、転た更に釁を生じ、徴打紛紛として、曾て寧息せず。貧乏の百姓、何をもってか克く堪えん。もし必ず丁物を限りて太府に送り、封家は但だ左蔵に於いて請受し、輒ち自ら征催せざるを得ざれば、則ち必ず侵擾を免れ、人蘇息を冀わん。臣又聞く、官を設け職を分ち、事を量りて吏を置く。これは本より人を理めて務めてこれを安んずるに在り。故に『書』に曰く、「官人に在り、人を安んずるに在り。官人は則ち哲、人を安んずるは則ち恵。能く哲にして恵ならば、何ぞ歓兜を憂えん、何ぞ有苗を畏れん」と。是れ官その人を得て、天下自ら理まることを明らかにするなり。古え人を取るには、必ず先ず郷曲の誉を採り、然る後に州郡に辟す。州郡に声有りて、然る後に五府に辟す。才五府に著りて、然る後に天朝に升す。此れは則ち一人を用うるに、択ぶ所甚だ悉く、一士を擢ぐに、歴る所甚だ深し。孔子曰く、「譬えば美錦有り、人をして製するを学ばしむべからず」と。此れ人を用うるに審択せざるべからざることを明らかにするなり。その才を得て用うれば則ち理まり、その才に非ざれば則ち乱る。理乱の設くる所、焉ぞ深くこれを択ばざらんや。今の人を取るは、この道に異なり。多く未だ甚だ試効せずして、即ち頓に遷擢に至る。夫れ趨競は人の常情、僥倖は人の趣く所。而今務めて進むに僥倖を避けざる者は、踵を接ぎ肩を比し、文武の列に布く。文有る者を用いて内外を理むれば、則ち回邪贓汙上下敗乱の憂有り。武有る者を用いて軍戎を将うれば、則ち庸懦怯弱師旅喪亡の患あり。補授限り無く、員闕供えず、遂に員外に官を置き、数倍正闕す。曹署の典吏は祗承に困しみ、府庫の倉儲は資奉に竭く。国家の大事、豈にこれより甚だしきあらんや。古え爵を懸けて士を待つ。唯だ才ある者のみこれを得る。もし無才を用いれば、則ち有才の路塞がる。賢人君子の所以に跡を遁れ声を銷し、常に歎恨を懐く者なり。且つ賢人君子は、正直の道を守り、僥倖の門を遠ざく。もし僥倖開かば、則ち賢者は復た出づることを得ず。賢者遂に退かば、もし人安く化洽かならんことを求めんと欲すれば、復た得べからず。人もし安からずんば、国将に危うからん。陛下安んぞ深くこれを慮わざらんや。又た刺史・県令は、人を理むるの首なり。近年已来、簡択を存せず。京官に犯有り及び声望下る者、方に州を牧さんと遣わす。吏部選人、暮年手筆無き者、方に県令に擬す。この風久しく扇ぎ、上下同しく知る。これを以て人を理めんと欲すれば、何をもってか化に率いん。今歳豊稔に非ず、戸口流亡し、国用空虚し、租調減削す。陛下これを以て留念せずんば、将に何をもってか国を理めん。臣望むらくは、明製を下し、具に前事を論じ、有司をして改換簡択せしめ、天下の刺史・県令は、皆な才能有り称望ある者を取って充てしめん。今已往より、応に遷除すべき諸曹侍郎・両省・両台及び五品已上の清望官は、先ず刺史・県令の中に選び用いよ。牧宰人を得れば、天下大いに理まり、万姓欣然たり。豈に太平の楽事ならずや。唯だ陛下詳しく択ばんことを。

原文臣聞國無九年之儲,家無三年之蓄,家非其家,國非其國。故知立國立家,皆資於儲蓄矣。夫水旱之災,關之陰陽運數,非人智力所能及也。堯遭大水,湯遭大旱,則知仁聖之君所不能免,當此時不至於困弊者,積也。今陛下倉庫之内,比稍空竭,尋常用度,不支一年。倘有水旱,人須賑給,徴發時動,兵要資裝,則將何以備之?其縁倉庫不實,妨於政化者,觸類而是。臣竊見比者營造寺觀,其數極多,皆務取宏博,競崇環麗。大則費耗百十萬,小則尚用三五萬餘,略計都用資財,動至千萬已上。轉運木石,人牛不停,廢人功,害農務,事既非急,時多怨谘。故《書》曰:「不作無益害有益,功乃成;不貴異物賤用物,民乃足。 」誠哉此言,非虚談也。且玄旨秘妙,歸於空寂,苟非修心定慧,諸法皆渉有爲。至如土木雕刻等功,唯是殫竭人力,但學相誇壯麗,豈關降伏身心。且凡所興功,皆須掘鑿,蟄蟲在土,種類實多。毎日殺傷,動盈萬計,連年如此,損害可知。聖人慈悲爲心,豈有須行此事,不然之理,皎在目前。世俗衆僧,未通其旨,不慮府庫空竭,不思聖人憂勞,謂廣樹福田,即是增修法教。倘水旱爲災,人至饑餒,夷狄作梗,兵無資糧,陛下雖有龍象如雲,伽藍概日,豈能裨萬分之一,救元元之苦哉!於道法既有乖,在生人極爲損,陛下豈可不深思之!臣竊見食封之家,其數甚衆。昨略問戸部,雲用六十餘萬丁,一丁兩匹,即是一百二十萬已上。臣頃在太府,知毎年庸調絹數,多不過百萬,少則七八十萬已來,比諸封家,所入全少。倘有蟲霜旱澇,曾不半在,國家支供,何以取給?臣聞自封茅土,裂山河,皆須業著經綸,功申草昧,然後配宗廟之享,承帶礪之恩。皇運之初,功臣共定天下,當時食封才上三二十家,今以尋常特恩,遂至百家已上。國家租賦,太半私門,私門則資用有餘,國家則支計不足。有餘則或致奢侈,不足則坐致憂危,製國之方,豈謂爲得?封戸之物,諸家自徴,或是官典,或是奴仆,多挾勢騁威,淩突州縣。凡是封戸,不勝侵擾,或輸物多索裹頭,或相知要取中物,百姓怨歎,遠近共知。復有因將貨易,轉更生釁,徴打紛紛,曾不寧息,貧乏百姓,何以克堪!若必限丁物送太府,封家但於左藏請受,不得輒自征催,則必免侵擾,人冀蘇息。臣又聞設官分職,量事置吏,此本於理人而務安之也。故《書》曰「 在官人,在安人。官人則哲,安人則惠。能哲而惠,何憂乎歡兜,何畏乎有苗」者也!是明官得其人,而天下自理矣。古者取人,必先采鄕曲之譽,然後辟於州郡;州郡有聲,然後辟於五府;才著五府,然後升之天朝。此則用一人所擇者甚悉,擢一士所暦者甚深。孔子曰:「譬有美錦,不可使人學製。」此明用人不可不審擇也。用得其才則理,非其才則亂,理亂所設,焉可不深擇之哉!今之取人,有異此道。多未甚試效,即頓至遷擢。夫趨競者人之常情,僥幸人之所趣。而今務進不避僥幸者,接踵比肩,布於文武之列。有文者用理内外,則有回邪贓汙上下敗亂之憂;有武者用將軍戎,則有庸懦怯弱師旅喪亡之患。補授無限,員闕不供,遂至員外置官,數倍正闕。曹署典吏,困於祗承,府庫倉儲,竭於資奉。國家大事,豈甚於此!古者懸爵待士,唯有才者得之,若任用無才,則有才之路塞,賢人君子所以遁跡銷聲,常懷歎恨者也。且賢人君子,守於正直之道,遠於僥幸之門,若僥幸開,則賢者不可復出矣。賢者遂退,若欲求人安化洽,復不可得也。人若不安,國將危矣,陛下安可不深慮之!又刺史、縣令,理人之首。近年已來,不存簡擇。京官有犯及聲望下者,方遣牧州;吏部選人,暮年無手筆者,方擬縣令。此風久扇,上下同知,將此理人,何以率化?今歳非豐稔,戸口流亡,國用空虚,租調減削。陛下不以此留念,將何以理國乎?臣望下明製,具論前事,使有司改換簡擇,天下刺史、縣令,皆取才能有稱望者充。自今已往,應有遷除諸曹侍郎、兩省、兩臺及五品已上淸望官,先於刺史、縣令中選用。牧宰得人,天下大理,萬姓欣欣然,豈非太平樂事哉!唯陛下詳擇。

疏奏すれども納れられず。

原文疎奏不納。

嗣立は韋庶人の宗属とは疎遠であったが、中宗は特に属籍に編入するよう命じ、これにより特に顧みられ賞された。嗣立は驪り山に別荘を営み、中宗は自ら行幸し、詩序を自作して従官に詩を賦させ、絹二千匹を賜った。そこで嗣立を逍遙公に封じ、その居所を清虚原幽棲谷と名付けた。韋氏が敗れると、乱兵に害されかけたが、寧王憲は嗣立が従母の夫であるとして救護し免れた。睿宗が践祚すると、中書令に任じられた。まもなく、許州刺史として出された。睿宗を定冊尊立した功により、実封一百戸を賜った。開元初め、国子祭酒として入朝した。先に、中宗の遺制で睿宗が政を輔くこととなったが、宗楚客・韋温らが草稿を改削し、嗣立は当時政事府に在ったが、これを正すことができなかった。この時、憲司に弾劾され、岳州別駕に左遷された。久しくして、陳州刺史に遷った。時に河南道巡察使・工部尚書劉知柔が嗣立の清潔で昇進に値する様子を上奏したが、詔命が下る前に、開元七年に卒し、兵部尚書を追贈され、諡を孝といった。中書門下がまた奏上して言うには、「嗣立は衣冠の内にあって、夙に才名を表し、兄弟の間では特に和睦と称された。恩を承けて事に歴し、位は宰臣に列した。中年に正身できず、凶戚に近づいたため、憲司に糾弾され、これにより出貶された。その始めを循れば、終には吉人である。瑕を棄てて衆望に従うべきである。贈物一百段を請う。」と。これに従った。

原文嗣立與韋庶人宗屬疎遠,中宗特令編入屬籍,由是顧賞尤重。賞於驪山構營別業,中宗親往幸焉,自製詩序,令從官賦詩,賜絹二千匹。因封嗣立爲逍遙公,名其所居爲淸虚原幽棲穀。韋氏敗,幾爲亂兵所害,寧王憲以嗣立是從母之夫,救護免之。睿宗踐祚,拜中書令。尋日,出爲許州刺史。以定冊尊立睿宗之功,賜實封一百戸。開元初,入爲國子祭酒。先是,中宗遺製睿宗輔政,宗楚客、韋温等改削槁草,嗣立時在政事府,不能正之。至是爲憲司所劾,左遷岳州別駕。久之,遷陳州刺史。時河南道巡察使、工部尚書劉知柔奏嗣立淸白可陟之狀,詔命未下,開元七年卒,贈兵部尚書,諡曰孝。中書門下又奏:「嗣立衣冠之内,夙表才名;兄弟之間,特稱和睦。承恩暦事,位列宰臣。中年以不能正身,頗近凶戚,爲憲司糾劾,因茲出貶。若循其始,終是吉人,宜棄其瑕,以從衆望。請贈物一百段。」從之。

嗣立と承慶はともに学行で並び称された。長寿年間、嗣立が承慶に代わって鳳閣舎人となった。長安三年、承慶が嗣立に代わって天官侍郎となり、間もなくまた嗣立に代わって政事を知った。承慶が卒すると、嗣立がまた代わって黄門侍郎となり、前後四職が相代わった。また父子三人、皆宰相に至った。唐が興って以来、これに比ぶものはない。嗣立の子は三人、孚・恒・濟、皆知名である。孚は累遷して左司員外郎に至った。恒は開元初めに碭山令となった。政は寛恵で、人吏に愛された。時に車駕が東巡し、県は供帳を担当したが、山東の州県は皆準備できないことを恐れ、鞭撲に務めたが、恒だけは杖罰せずに事を全て済ませ、遠近に称された。御史中丞宇文融は恒の姑の子であり、密かに恒に経済の才があると推薦し、己の官秩を回授するよう請い、そこで殿中侍御史に抜擢された。度支左司等員外・太常少卿・給事中を歴任した。二十九年、隴右道河西黜陟使となった。恒が河西に至った時、節度使蓋嘉運は中貴を恃み托し、公然と法に背き、偽って功労を叙したので、恒は抗表してこれを弾劾するよう請い、人々は彼の身を危ぶんだ。そこで陳留太守として出されたが、赴任せずに卒し、時人は甚だ傷み惜しんだ。濟は早くから辞翰で聞こえた。開元初め、鄄城令に補された。時に密かに玄宗に奏上する者があった。「今年の吏部の選叙は甚だ濫りで、県令は材にあらず、全く簡択していない。」と。県令が謝官する日に、殿庭に引入れ、安人の策一道を問うた。試者は二百余人で、濟の策だけが第一で、紙に書かない者もあった。濟を醴泉令に抜擢し、二十余人は旧官に戻し、四五十人は帰って習読させ、侍郎盧従願・李朝隠は刺史に貶された。濟は醴泉に至り、簡易を以て政とし、人々に称された。三遷して庫部員外郎となった。二十四年、尚書戸部侍郎となった。累年して転じて太原尹となった。『先徳詩』四章を製し、祖・父の行いを述べ、辞致は高雅であった。天宝七載、また河南尹となり、尚書左丞に遷った。三代が省轄となり、衣冠はこれを栄とした。濟は従容雅度で、莅む所では人々に善政を推され、後に馮翊太守として出された。

原文嗣立、承慶倶以學行齊名。長壽中,嗣立代承慶爲鳳閣舍人。長安三年,承慶代嗣立爲天官侍郎,頃之又代嗣立知政事。及承慶卒,嗣立又代爲黃門侍郎,前後四職相代。又父子三人,皆至宰相。有唐已來,莫與爲比。嗣立三子:孚、恒、濟,皆知名。孚,累遷至左司員外郎。恒,開元初爲碭山令。爲政寬惠,人吏愛之。會車駕東巡,縣當供帳,時山東州縣皆懼不辦,務於鞭撲,恒獨不杖罰而事皆濟理,遠近稱焉。御史中丞宇文融,即恒之姑子也,嚐密薦恒有經濟之才,請以己之官秩回授,乃擢拜殿中侍御史。暦度支左司等員外、太常少卿、給事中。二十九年,爲隴右道河西黜陟使。恒至河西時,節度使蓋嘉運恃托中貴,公爲非法,兼偽敘功勞,恒抗表請劾之,人代其懼。因出爲陳留太守,未行而卒,時人甚傷惜之。濟,早以辭翰聞。開元初,調補鄄城令。時有人密奏玄宗:「今歳吏部選敘太濫,縣令非材,全不簡擇。」及縣令謝官日,引入殿庭,問安人策一道,試者二百餘人,獨濟策第一,或有不書紙者。擢濟爲醴泉令,二十餘人還舊官,四五十人放歸習讀,侍郎盧從願、李朝隱貶爲刺史。濟至醴泉,以簡易爲政,人用稱之。三遷爲庫部員外郎。二十四年,爲尚書戸部侍郎。累歳轉太原尹。製《先德詩》四章,述祖、父之行,辭致髙雅。天寶七載,又爲河南尹,遷尚書左丞。三代爲省轄,衣冠榮之。濟從容雅度,所蒞人推善政,後出爲馮翊太守。

陸元方

原文陸元方

陸元方は蘇州呉県の人である。代々著姓であった。曾祖の琛は、陳の給事中黄門侍郎であった。伯父の柬之は、書に巧みで知名で、官は太子司議郎に至った。元方は明経に挙げられ、また八科挙に応じ、累転して監察御史となった。則天が革命すると、元方をして嶺外を安輯させた。海を渡らんとする時、風濤が甚だ壮で、舟人は帆を挙げることを敢えなかった。元方は言う、「我は命を受けて私無し、神豈に我を害せんや」と。急いで渡るよう命じると、やがて風濤は果たして止んだ。使い還って旨に称し、殿中侍御史に除かれた。その月に即ち鳳閣舎人に擢拜され、なお侍郎事を判じた。俄かに来俊臣に陥れられると、則天は手勅で特赦した。長寿二年、再び鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事に遷った。延載初め、また鳳閣侍郎を加えられた。証聖初め、内史李昭徳が罪を得ると、元方が昭徳に附会したとして、綏州刺史に貶された。まもなくまた春官侍郎となり、また天官侍郎・尚書左丞に転じ、まもなく鸞台侍郎・平章事に拝された。則天が嘗て外事を問うと、対えて言う、「臣は宰臣の位を備え、大事あれば即ち奏し、人間の碎務は、敢えて聖覧を煩わさず」と。これにより旨に忤い、太子右庶子を責授され、政事を知ることを罷められた。まもなく文昌左丞に転じ、病卒した。

原文陸元方,蘇州呉縣人。世爲著姓。曾祖琛,陳給事中黃門侍郎。伯父柬之,以工書知名,官至太子司議郎。元方舉明經,又應八科舉,累轉監察御史。則天革命,使元方安輯嶺外。將渉海,時風濤甚壯,舟人莫敢舉帆。元方曰:「我受命無私,神豈害我?」遽命之濟,既而風濤果息。使還稱旨,除殿中侍御史。即以其月擢拜鳳閣舍人,仍判侍郎事。俄爲來俊臣所陷,則天手敕特赦之。長壽二年,再遷鸞臺侍郎、同鳳閣鸞臺平章事。延載初,又加鳳閣侍郎。證聖初,内史李昭德得罪,以元方附會昭德,貶綏州刺史。尋復爲春官侍郎,又轉天官侍郎、尚書左丞,尋拜鸞臺侍郎、平章事。則天嚐問以外事,對曰:「臣備位宰臣,有大事即奏,人間碎務,不敢以煩聖覽。」由是忤旨,責授太子右庶子,罷知政事。尋轉文昌左丞,病卒。

元方は官にあって清謹であり、再び宰相となると、則天が遷除を行おうとする毎に、必ず密封して進上し、嘗てその私恩を露わにしなかった。臨終に、前後の草奏を悉く取り出して焚くよう命じ、且つ言う、「我が人に陰徳を施すこと多し、その後は庶幾く福衰えざらん」と。また書一匣あり、常に自ら緘封し、家人に見る者無かったが、卒して之を見ると、前後の勅書であり、その慎密この如しであった。越州都督を追贈された。開元十八年、また揚州大都督を追贈された。子に象先あり。

原文元方在官淸謹,再爲宰相,則天將有遷除,毎行以訪之,必密封以進,未嘗露其私恩。臨終,取前後草奏悉命焚之,且曰:「吾陰德於人多矣,其後庶幾福不衰矣。」又有書一匣,常自緘封,家人莫有見者,及卒視之,乃前後敕書,其愼密如此。贈越州都督。開元十八年,又贈揚州大都督。子象先。

元方の子 象先

原文{{--|元方子}} 象先

象先は本名を景初といった。少くして器量有り、制挙に応じ、揚州参軍に拝された。秩満して調選する時、吉頊が吏部侍郎であり、洛陽らくよう尉に擢授しようとしたが、元方も当時吏部に在り、固辞して敢えて当たらなかった。頊は言う、「官の為に人を択ぶは、至公の道なり。陸景初の才望高雅、常流の及ぶ所に非ず、実に吏部の子として妄りに推薦するに非ず」と。竟に奏してこれを授けた。左台監察御史に遷り、殿中に転じ、中書侍郎を歴任して授けられた。

原文象先,本名景初。少有器量,應製舉,拜揚州參軍。秩滿調選,時吉頊爲吏部侍郎,擢授洛陽尉,元方時亦爲吏部,固辭不敢當。頊曰:「爲官擇人,至公之道。陸景初才望髙雅,非常流所及,實不以吏部之子妄推薦也。」竟奏授之。遷左臺監察御史,轉殿中,暦授中書侍郎。

景雲二年冬、同中書門下平章事となり、国史を監修した。初め、太平公主が中書侍郎崔湜を引いて政事を知らせようとし、密かにこれを告げたが、湜は固く象先に譲り、主はこれを許さず、湜は因ってまた辞を請うた。主は急ぎ睿宗に言い、乃ち並びに拝した。象先は清浄寡欲で、細務を意に介せず、言論は高遠で、雅く時賢に服せられた。湜は毎に人に謂う、「陸公は人に一等を加う」と。太平公主は当時既に権を用い、同時の宰相蕭至忠・岑羲及び湜等は皆これに傾附したが、唯象先は孤立し、嘗て造謁しなかった。先天二年、至忠等が誅せられると、象先は独りその難を免れた。保護の功により兗国公に封ぜられ、実封二百戸を賜い、銀青光禄大夫を加えられた。時に至忠等の枝党を窮討し、連累する者稍々衆かったが、象先は密かに申理し、全済すること甚だ多かった。然れども嘗て言及せず、当時知る者無かった。

原文景雲二年冬,同中書門下平章事,監修國史。初,太平公主將引中書侍郎崔湜知政事,密以告之,湜固讓象先,主不許之,湜因亦請辭。主遽言於睿宗,乃並拜焉。象先淸淨寡欲,不以細務介意,言論髙遠,雅爲時賢所服。湜毎謂人曰:「陸公加於人一等。」太平公主時既用事,同時宰相蕭至忠、岑義及湜等鹹傾附之,唯象先孤立,未嘗造謁。先天二年,至忠等伏誅,象先獨免其難。以保護功封兗國公,賜實封二百戸,加銀靑光祿大夫。時窮討至忠等枝黨,連累稍衆,象先密有申理,全濟甚多,然未嘗言及,當時無知之者。

その年、益州大都督府長史として出向し、なお剣南道按察使を兼ねた。在官中は寛仁を以て政をなすことを務め、司馬の韋抱眞が言うには、「明公には少し杖罰を行い、威名を立てられたい。さもなくば、恐らく下人が怠惰となり、懼れるところがなくなるでしょう」と。象先は曰く、「政をなす者は理に適えばそれでよい、何ぞ必ずしも厳刑を以て威を立てん。人を損ない己を益するは、恐らく仁恕の道に非ざるべし」と。ついに抱眞の言に従わなかった。累遷して河中尹となった。六年、河中府を廃し、旧に従って蒲州とし、象先は刺史となり、なお河東道按察使を兼ねた。かつて小人が罪を犯したことがあったが、ただ言葉で示して遣わした。録事が申し上げて曰く、「この例は杖刑に当たるべきです」と。象先は曰く、「人情は相去ること遠からず、これは豈に吾が言を解せざらんや。もし必ず杖を行わねばならぬなら、即ち汝より始めるべきである」と。録事は慚懼して退いた。象先はかつて人に謂って曰く、「天下は本来自ら事無く、ただ庸人のこれを擾わすのみ、始めて繁雑となるのである。ただ源においてこれを静めれば、則ちまた何ぞ簡ならざるを憂えん」と。前後刺史として、その政は一の如く、人吏皆これを懐かしみ思った。按察使が停められ、太子詹事として入朝し、工部尚書を歴任した。十年冬、吏部選事を掌り、また刑部尚書を加えられ、継母の喪により官を免ぜられた。十三年、同州刺史として起復し、まもなく太子少保に遷った。二十四年に卒し、七十二歳、尚書左丞相を贈られ、諡して文貞といった。

原文其年,出爲益州大都督府長史,仍爲劍南道按察使。在官務以寬仁爲政,司馬韋抱眞言曰:「望明公稍行杖罰,以立威名。不然,恐下人怠墮,無所懼也。」象先曰:「爲政者理則可矣,何必嚴刑樹威。損人益己,恐非仁恕之道。」竟不從抱眞之言。暦遷河中尹。六年,廢河中府,依舊爲蒲州,象先爲刺史,仍爲河東道按察使。嚐有小人犯罪,但示語而遣之。録事白曰:「此例當合與杖。」象先曰:「人情相去不遠,此豈不解吾言?若必須行杖,即當自汝爲始。」録事慚懼而退。象先嚐謂人曰:「天下本自無事,隻是庸人擾之,始爲繁耳。但當靜之於源,則亦何憂不簡。」前後爲刺史,其政如一,人吏鹹懷思之。按察使停,入爲太子詹事,暦工部尚書。十年冬,知吏部選事,又加刑部尚書,以繼母憂免官。十三年,起復同州刺史,尋遷太子少保。二十四年卒,年七十二,贈尚書左丞相,諡曰文貞。

象先の弟景倩は、監察御史を歴任した。景融は、大理正・滎陽けいよう郡太守・河南尹・兵吏部侍郎・左右丞・工部尚書・東都留守・襄陽郡太守・陳留郡太守を歴任し、いずれも採訪使を兼ねた。景獻は、殿中侍御史・屯田員外郎を歴任した。景裔は、河南令・庫部郎中となった。皆美誉があった。僧一行が若い時、かつて象先の兄弟と親しく交わり、常に人に謂って曰く、「陸氏の兄弟は皆才行あり、古の荀・陳も以て加うる所なし」と。その当時に称せられることこのようであった。

原文象先弟景倩,暦監察御史。景融,暦大理正、滎陽郡太守、河南尹、兵吏部侍郎、左右丞、工部尚書、東都留守、襄陽郡太守、陳留郡太守,並兼采訪使。景獻,暦殿中侍御史、屯田員外郎。景裔,河南令、庫部郎中。皆有美譽。僧一行少時,嚐與象先昆弟相善,常謂人曰:「陸氏兄弟皆有才行,古之荀、陳,無以加也。」其爲當時所稱如此。

元方の従叔の餘慶は、陳の右軍将軍珣の孫である。若い時、知名の士陳子昂・宋之問・盧蔵用・道士司馬承禎・道人法成らと交遊し、才学は子昂らに及ばないが、風流強弁は彼らを超えていた。累遷して中書舎人となった。則天はかつて引き入れて詔を草させたが、餘慶は惶惑し、晩に至るまでついに一言も措くことができず、左司郎中に責授された。累除して大理卿・散騎常侍さんきじょうじ・太子詹事となった。老疾を以て致仕し、まもなく卒した。象先の四代孫。文宗太和四年、釈褐参軍文学に除された。

原文元方從叔餘慶,陳右軍將軍珣孫也。少與知名之士陳子昂、宋之問、盧藏用、道士司馬承禎、道人法成等交遊,雖才學不逮子昂等,而風流強辯過之。累遷中書舍人。則天嚐引入草詔,餘慶惶惑,至晩竟不能措一辭,責授左司郎中。累除大理卿、散騎常侍、太子詹事。以老疾致仕,尋卒。象先四代孫。文宗太和四年,除釋褐參軍文學。

蘇瓌

原文蘇瓌

蘇瓌、字は昌容、京兆武功の人、隋の尚書右僕射威の曾孫である。祖父の夔は、隋の鴻臚卿。父の亶は、貞観中に台州刺史となった。瓌は弱冠で本州より進士に挙げられ、累授して豫王府録事参軍となった。長史の王德眞・司馬の劉禕之は皆これを器重した。長安年中、累遷して揚州大都督府長史となった。揚州の地は衝要に当たり、富商大賈多く、珠翠珍怪の産あり、前長史の張潜・於辯機は皆これを数万に致したが、ただ瓌は挺身して去った。神龍初年、尚書右丞として入朝し、法律に明習し、台閣の故事に多く識ることを以て、特命により律・令・格・式を刪定させた。まもなく銀青光禄大夫を加えられた。この年、再遷して戸部尚書となり、計帳を奏上し、管轄する戸は時に六百一十五万六千百四十一であった。

原文蘇瓌,字昌容,京兆武功人,隋尚書右僕射威曾孫也。祖夔,隋鴻臚卿。父亶,貞觀中台州刺史。瓌弱冠本州舉進士,累授豫王府録事參軍。長史王德眞、司馬劉禕之皆器重之。長安中,累遷揚州大都督府長史。揚州地當衝要,多富商大賈,珠翠珍怪之産,前長史張潛、於辯機皆致之數萬,唯瓌挺身而去。神龍初,入爲尚書右丞,以明習法律,多識臺閣故事,特命刪定律、令、格、式。尋加銀靑光祿大夫。是歳,再遷戸部尚書,奏計帳,所管戸時有六百一十五萬六千一百四十一。

まもなく侍中を加えられた。淮陽県子に封ぜられ、西京留守を充てた。時に秘書員外監の鄭普思が妖逆を謀り、雍・岐二州の妖党が大いに起こった。瓌は普思を収めて獄に繫ぎ、考訊した。普思の妻第五氏は鬼道を以て韋庶人に寵愛され、禁中に居止していた。これにより中宗は特勅を以て瓌を慰諭し、普思の罪を釈放せよと命じた。瓌は上言して普思が幻惑することを述べ、罪は赦すべからずとした。中宗が京に至ると、また面陳してその状を述べた。尚書左僕射の魏元忠が奏して曰く、「蘇瓌は長者であり、その忠懇この如し、願わくは陛下これを察せられたい」と。帝は乃ち普思を儋州に配流し、その党は皆誅した。瓌は吏部尚書に遷り、淮陽県侯に進封された。

原文尋加侍中。封淮陽縣子,充西京留守。時秘書員外監鄭普思謀爲妖逆,雍、岐二州妖黨大發,瓌收普思繫獄考訊之。普思妻第五氏以鬼道爲韋庶人所寵,居止禁中,由是中宗特敕慰諭瓌,令釋普思之罪。瓌上言普思幻惑,罪當不赦。中宗至京,又麵陳其狀。尚書左僕射魏元忠奏曰:「蘇瓌長者,其忠懇如此,願陛下察之。」帝乃配流普思於儋州,其黨並誅。瓌遷吏部尚書,進封淮陽縣侯。

景龍三年、尚書右僕射・同中書門下三品に転じ、許国公に進封された。この年、南郊に拝せんとし、国子祭酒の祝欽明が庶人の旨を希い、皇后を亜献とし、安楽公主を終献とすることを建議した。瓌は深くその議を非とし、かつて御前において欽明を面折した。帝は悟ったが、ついに欽明の奏した所に従った。公卿大臣で初めて官を拝する者は、例として食を献ずることを許され、「焼尾」と称した。瓌が僕射を拝した時は何も献じなかった。後に侍宴の際、将作大匠の宗晉卿が曰く、「僕射を拝して竟に焼尾せず、豈に喜ばざるや」と。帝は黙然とした。瓌が奏して曰く、「臣聞く、宰相は陰陽を調え、天に代わって物を理する者なりと。今粒食踊貴し、百姓足らず、臣は宿衞えいの兵に至っては三日食を得ざる者あるを見る。臣愚にして職に称せず、故に敢えて焼尾せざるなり」と。この年六月、唐休璟と並び監修国史を加えられた。

原文景龍三年,轉尚書右僕射、同中書門下三品,進封許國公。是歳,將拜南郊,國子祭酒祝欽明希庶人旨,建議請皇后爲亞獻,安樂公主爲終獻。瓌深非其議,嚐於御前麵折欽明,帝雖悟,竟從欽明所奏。公卿大臣初拜官者,例許獻食,名爲「燒尾」。瓌拜僕射無所獻。後因侍宴,將作大匠宗晉卿曰:「拜僕射竟不燒尾,豈不喜耶?」帝默然。瓌奏曰:「臣聞宰相者,主調陰陽,代天理物。今粒食踴貴,百姓不足,臣見宿衞兵至有三日不得食者。臣愚不稱職,所以不敢燒尾。」是歳六月,與唐休璟並加監修國史。

四年、中宗が崩じ、秘して喪を発さず、韋庶人は諸宰相韋安石・韋巨源・蕭至忠・宗楚客・紀處訥・韋温・李嶠・韋嗣立・唐休璟・趙彦昭及び瓌ら十九人を禁中に召し入れて会議した。初め、遺制は韋庶人に少主を輔け政事を知らせ、安国相王に太尉を授け参謀輔政させた。中書令の宗楚客が温に謂って曰く、「今は皇太后の臨朝を請うべく、相王の輔政を停めるべきである。且つ皇太后と相王とは嫂叔通問せざるの地に居り、儀注を為すこと甚だ難く、理全く不可なり」と。瓌のみ正色してこれを拒ぎ、楚客らに謂って曰く、「遺制は先帝の意なり、安んぞ更改せんや」と。楚客及び韋温は大いに怒り、遂に相王の輔政を削って宣行した。この月、韋氏敗れ、相王即ち帝位に即き、詔を下して曰く、「尚書右僕射・同中書門下三品・監修国史・許国公蘇瓌は、周旋近密より以来、枢機を損益し、謀猷成り、匡讚忌憚なし。頃者遺恩顧托し、先意昭明せしむ。奸回動揺し、内外危逼するに、独り讜議を申し、実に邪謀を挫く。況んや藩邸の僚属、旧を念うに殷なるのみ。徳無くんば報いず、抑々令典なり。尚書左僕射とすべし、余は故の如し。 」

原文四年,中宗崩,秘不發喪,韋庶人召諸宰相韋安石、韋巨源、蕭至忠、宗楚客、紀處訥、韋温、李嶠、韋嗣立、唐休璟、趙彦昭及瓌等十九人入禁中會議。初,遺製遣韋庶人輔少主知政事,授安國相王太尉參謀輔政。中書令宗楚客謂温曰:「今須請皇太后臨朝,宜停相王輔政。且皇太后於相王居嫂叔不通問之地,甚難爲儀注,理全不可。」瓌獨正色拒之,謂楚客等曰:「遺製是先帝意,安可更改!」楚客及韋温大怒,遂削相王輔政而宣行焉。是月,韋氏敗,相王即帝位,下詔曰:「尚書右僕射、同中書門下三品、監修國史、許國公蘇瓌,自周旋近密,損益樞機,謀猷有成,匡讚無忌。頃者遺恩顧托,先意昭明,奸回動搖,内外危逼,獨申讜議,實挫邪謀。況藩邸僚屬,念殷惟舊,無德不報,抑惟令典。可尚書左僕射,餘如故。 」

景雲元年、老病により太子少傅に転ず。この歳十一月に薨じ、司空しくう・荊州大都督を贈られ、諡して文貞と曰う。瓌は臨終に薄葬を遺令し、祖載の日に及んで、官に儀仗を給する外、ただ布車一乗あるのみ、論者これを称す。開元二年、詔を下して曰く、「疇庸賞善は、百王の先とする所なり。追還飾終は、千載の同徳なり。故尚書左丞相・太子少傅・贈司空・荊州大都督・許國文貞公瓌は、正を履み道を体し、外は方にして内は直く、心を悉くして上に奉じ、身を卑くして礼を率い、帷幄を協賛し、三朝に塩梅の任あり。臺袞を燮諧し、九命して社稷の臣と為る。先朝晏駕し、釁宮掖に起こり、国は製を称するの奸を擅にし、人は旒を綴ぐの懼を懐く。凶威孔だ熾にして、宗祀幾くか傾かんとす。顧命遺恩、太皇輔政し、逆臣刊削し、韋氏朝に臨む。遂に能く首に昌言を発し、侃然として正色し、諸を視聴に列ね、朝野に暴く。鬆檟已に遠しと雖も、風烈猶存す。誠節を緬懐し、良く深く耿歎す。実封一百戸を賜うべし」と。四年、詔して徐國公劉幽求と共に睿宗廟庭に配享す。十七年、司徒しとを加贈す。

原文景雲元年,以老疾轉太子少傅。是歳十一月薨,贈司空、荊州大都督,諡曰文貞。瓌臨終遺令薄葬,及祖載之日,官給儀仗外,唯有布車一乘,論者稱焉。開元二年,下詔曰:「疇庸賞善,百王攸先;追還飾終,千載同德,故尚書左丞相、太子少傅、贈司空、荊州大都督、許國文貞公,瓌履正體道,外方内直,悉心奉上,卑身率禮。協讚帷幄,三朝有鹽梅之任;燮諧臺袞,九命爲社稷之臣。先朝晏駕,釁起宮掖,國擅稱製之奸,人懷綴旒之懼。凶威孔熾,宗祀幾傾。顧命遺恩,太皇輔政,逆臣刊削,韋氏臨朝。遂能首發昌言,侃然正色,列諸視聽,暴於朝野。鬆檟已遠,風烈猶存,緬懷誠節,良深耿歎。可賜實封一百戸。」四年,詔與徐國公劉幽求配享睿宗廟庭。十七年,加贈司徒。

瓌の子 頲

原文{{--|瓌子}} 頲

瓌の子頲は、少にして俊才有り、一覧千言。弱冠にして進士に挙げられ、烏程尉を授かり、累遷して左臺監察御史となる。長安年中、詔して頲に来俊臣等の旧獄を按覆せしむ。頲は皆その枉を申明し、これにより冤を雪ぐる者甚だ衆し。

原文瓌子頲,少有俊才,一覽千言。弱冠舉進士,授烏程尉,累遷左臺監察御史。長安中,詔頲按覆來俊臣等舊獄,頲皆申明其枉,由此雪冤者甚衆。

神龍年中、累遷して給事中となり、修文館学士を加え、俄かに中書舍人を拝す。尋で頲の父同中書門下三品となり、父子同じく枢密を掌る。時に以て栄と為す。機事塡委し、文誥は皆頲の手より出づ。中書令李嶠歎じて曰く、「舍人の思ひ湧泉の如し、嶠の及ぶ所に非ず」と。俄に太常少卿に遷る。景雲年中、瓌薨じ、詔して頲を起復して工部侍郎と為し、銀青光禄大夫を加う。頲抗表固く辞し、辞理懇切なり。詔してその終制を許す。服闋して職に就き、父の爵許國公を襲ぐ。玄宗宰臣に謂ひて曰く、「工部侍郎より中書侍郎を得る者有りや」と。対へて曰く、「賢を任じ能を用うるは、臣等の及ぶ所に非ず」と。玄宗曰く、「蘇頲は中書侍郎たるべく、仍て政事食を供せしむべし」と。明日、知制誥を加う。政事食有るは、頲より始まる。頲入りて謝す。玄宗曰く、「常に卿を用ひんと欲す。毎に好官闕有れば、即ち宰相の論及ぶを望む。宰相は皆卿の故人なりと雖も、卒に言ふ者無し。朕卿が為に歎息す。中書侍郎は、朕極めて重惜す。陸象先歿して後、朕毎に之を思ふに、卿に出づる者無し」と。時に李乂紫微侍郎と為り、頲と対して文誥を掌る。他日、上頲に謂ひて曰く、「前朝に李嶠・蘇味道有り、之を蘇・李と謂ふ。今卿及び李乂有り、亦之に譲らず。卿の製する所の文誥は、一本を録して封進すべく、題して云ふ『臣某撰』と。朕留中して披覧せんと要す」と。その礼遇此の如し。玄宗靖陵に碑を建てんと欲す。頲諫めて曰く、「帝王及び后に神道碑無し。且つ事古に師ひず、動くこと皆法に非ず。若し靖陵独り建つれば、陛下祖宗の陵皆追造を須ふべし」と。玄宗その言に従ひて止む。

原文神龍中,累遷給事中,加修文館學士,俄拜中書舍人。尋而頲父同中書門下三品,父子同掌樞密,時以爲榮。機事塡委,文誥皆出頲手。中書令李嶠歎曰:「舍人思如湧泉,嶠所不及也。」俄遷太常少卿。景雲中,瓌薨,詔頲起復爲工部侍郎,加銀靑光祿大夫。頲抗表固辭,辭理懇切,詔許其終制。服闋就職,襲父爵許國公。玄宗謂宰臣曰:「有從工部侍郎得中書侍郎否?」對曰:「任賢用能,非臣等所及。」玄宗曰:「蘇頲可中書侍郎,仍供政事食。」明日,加知制誥。有政事食,自頲始也。頲入謝,玄宗曰:「常欲用卿,毎有好官闕,即望宰相論及。宰相皆卿之故人,卒無言者,朕爲卿歎息。中書侍郎,朕極重惜,自陸象先歿後,朕毎思之,無出卿者。」時李乂爲紫微侍郎,與頲對掌文誥。他日,上謂頲曰:「前朝有李嶠、蘇味道,謂之蘇、李;今有卿及李乂,亦不讓之。卿所製文誥,可録一本封進,題云『臣某撰』,朕要留中披覽。」其禮遇如此。玄宗欲於靖陵建碑,頲諫曰:「帝王及後,無神道碑,且事不師古,動皆不法。若靖陵獨建,陛下祖宗之陵皆須追造。」玄宗從其言而止。

開元四年、紫微侍郎・同紫微黄門平章事に遷り、侍中宋璟と同知政事と為る。璟剛正にして、裁断する所多し。頲は皆その美に順従す。若し上前に旨を承け、敷奏及び応対するには、則ち頲之を助け、相得て甚だ悦ぶ。璟嘗て人に謂ひて曰く、「吾蘇家父子と、前後同時に宰相と為る。僕射は長厚にして、誠に国器なり。若し可を献げ否を替へ、臣節を罄尽し、吏事を断割し、至公私無きは、即ち頲その父を過ぐ」と。八年、礼部尚書を除き、政事を罷む。俄に益州大都督府長史事を知る。前司馬皇甫恂庫物を破り新様錦を織りて以て進む。頲一切之を罷む。或ひは頲に謂ひて曰く、「公今遠に在り、豈に聖意を忤ふを得んや」と。頲曰く、「明主は私愛を以て至公を奪はず。豈に遠近を以て忠臣の節を間易せんや」と。竟に奏して之を罷む。巂州蛮酋苴院私に吐蕃と連謀し、将に内寇せんとす。頲その間諜を獲る。将士咸に出兵して之を討たんことを請ふ。頲従はず。乃ち書を作り並びに間諜を以て苴院に送る。苴院慚悔し、竟に入寇せず。

原文開元四年,遷紫微侍郎、同紫微黃門平章事,與侍中宋璟同知政事。璟剛正,多所裁斷,頲皆順從其美;若上前承旨、敷奏及應對,則頲爲之助,相得甚悅。璟嘗謂人曰:「吾與蘇家父子,前後同時爲宰相。僕射長厚,誠爲國器;若獻可替否,罄盡臣節,斷割吏事,至公無私,即頲過其父也。」八年,除禮部尚書,罷政事。俄知益州大都督府長史事。前司馬皇甫恂破庫物織新樣錦以進,頲一切罷之。或謂頲曰:「公今在遠,豈得忤聖意?」頲曰:「明主不以私愛奪至公,豈以遠近間易忠臣節也!」竟奏罷之。巂州蠻酋苴院私與吐蕃連謀,將爲内寇,頲獲其間諜,將士咸請出兵討之,頲不從,乃作書並間諜以送苴院,苴院慚悔,竟不敢入寇。

十三年、駕に従ひ東封す。玄宗頲に令して朝覲碑文を撰ましむ。俄に又吏部選事を知る。頲性廉倹、得る所の俸禄、尽く諸弟に推し与へ、或ひは親族に散ず。家に余資無し。十五年卒す。年五十八。初め、優贈の製未だ出でず。起居舍人韋述上疏して曰く、「臣伏して見るに、貞観・永徽の時、毎に公卿大臣薨卒する有れば、皆朝を輟み哀を挙ぐ。以て終始の恩を成し、君臣の義を厚くす。上に旌賢録旧の徳有り、下に生栄死哀の美有り。史冊に列し、以て将来に示す。昔智悼子卒し、平公宴楽す。杜蒯一言、言ひて始めて感悟す。春秋その盛烈を載せ、礼経以て美談と為す。今古の旧事、昭然として睹るべし。臣伏して見るに、故礼部尚書蘇頲は、累葉輔弼し、代々忠清を伝ふ。頲又軒陛に伏事すること二十余載、入りて謀猷に参じ、出でて藩牧を総ぶ。誠績斯に著しく、操履虧く所無し。天憖遺せず、奄に聖代に違ふ。伏して願くは陛下帷蓋の旧を思ひ、股肱の親を念ひ、先朝の盛典を修め、晋平の遠跡を鑒み、之が為に朝を輟み哀を挙げ、以て同体の義を明らかにせん。使はくは、歿者は泉壤に徳を荷ひ、存者は周行に節を尽くさしめ、凡百卿士、孰か幸甚ならざらん。臣官記事に忝くす。君挙必ず書す。敢へて旧典を申し、上宸扆を黷す。恩貸の降るを希ひ、俯して詳擇を垂れたまはんことを」と。即日洛城南門に於て哀を挙げ、朝を両日輟む。尚書右丞相を贈り、諡して文憲と曰う。及び葬日の、玄宗咸宜宮に遊び、将に出獵せんとす。頲の喪出づるを聞き、愴然として曰く、「蘇頲今日葬る。吾豈に娯遊を忍びんや」と。中路にて宮に還る。頲の弟 詵・冰・乂。

原文十三年,從駕東封,玄宗令頲撰朝覲碑文。俄又知吏部選事。頲性廉儉,所得俸祿,盡推與諸弟,或散之親族,家無餘資。十五年卒,年五十八。初,優贈之製未出,起居舍人韋述上疎曰:「臣伏見貞觀、永徽之時,毎有公卿大臣薨卒,皆輟朝舉哀,所以成終始之恩,厚君臣之義。上有旌賢録舊之德,下有生榮死哀之美,列於史冊,以示將來。昔智悼子卒,平公宴樂,杜蒯一言,言始感悟。《春秋》載其盛烈,禮經以爲美談,今古舊事,昭然可睹。臣伏見故禮部尚書蘇頲,累葉輔弼,代傳忠淸。頲又伏事軒陛二十餘載,入參謀猷,出總藩牧。誠績斯著,操履無虧,天不憖遺,奄違聖代。伏願陛下思帷蓋之舊,念股肱之親,修先朝之盛典,鑒晉平之遠跡,爲之輟朝舉哀,以明同體之義。使歿者荷德於泉壤,存者盡節於周行,凡百卿士,孰不幸甚。臣官忝記事,君舉必書,敢申舊典,上黷宸扆,希降恩貸,俯垂詳擇。」即日於洛城南門舉哀,輟朝兩日,贈尚書右丞相,諡曰文憲。及葬日,玄宗遊咸宜宮,將出獵,聞頲喪出,愴然曰:「蘇頲今日葬,吾寧忍娯遊。」中路還宮。頲弟詵、冰、乂。

瓌の子 詵

原文{{--|瓌子}} 詵

詵は、歴て右司郎中・給事中・徐州刺史を授かる。是に先立ち、給事中を拝する時、頲中書侍郎と為り、表を上りて詵の授かる所を譲る。玄宗曰く、「古来内挙親を避けざる有りや」と。頲曰く、「晋の祁奚是なり」と。玄宗曰く、「若然らば、則ち朕蘇詵を用ふるに、何ぞ屡言するを得ん。近日卿父子猶同じく中書に在り。兄弟何の不得有らん。卿の言至公に非ず」と。

原文詵,歴授右司郎中、給事中、徐州刺史。先是,拜給事中時,頲爲中書侍郎,上表讓詵所授。玄宗曰:「古來有内舉不避親乎?」頲曰:「晉祁奚是也。」玄宗曰:「若然,則朕用蘇詵,何得屢言?近日卿父子猶同在中書,兄弟有何不得?卿言非至公也。」

瓌の子 冰

原文{{--|瓌子}} 冰

冰は、虞部郎中と為る。

原文冰,爲虞部郎中。

瓌の子 乂

原文{{--|瓌子}} 乂

乂は、職方郎中と為る。

原文乂,爲職方郎中。

瓌の従父兄 幹

原文{{--|瓌從父兄}} 幹

韋幹は、韋瓌の従父兄である。父の韋勗は、武徳年間に秦王府文学館学士となった。貞観年間、南康公主を尚めとり、駙馬都尉に拝され、累進して魏王李泰の府司馬となった。韋勗は博学で美名があり、李泰に大いに重んぜられた。そこで李泰に勧めて文学館を開かせ、才名ある士を引き入れ、『括地志』を撰修させた。後に吏部郎・太子左庶子を歴任し、卒した。韋幹は若くして明経により累次授けられて徐王府記室参軍となった。徐王は狩猟を好んだが、韋幹は毎度これを諫めて止めさせた。垂拱年間、魏州刺史に累遷した。当時河北は饑饉に遭い、旧来の官吏は苛酷であったため、百姓は多く逃散していた。韋幹はそこで姦吏を督察し、農桑を勧めることに務めた。これにより逃散した者たちは皆帰って来て旧業に復し、良牧と称された。召されて右羽林将軍に拝され、まもなく冬官尚書に遷った。酷吏の来俊臣は平素より彼を忌み嫉んでおり、遂に韋幹が魏州において琅邪王李衝と私書を往復したと誣奏し、これにより獄に繋がれて鞫訊を受け、韋幹は憤りを発して卒した。

原文幹,瓌從父兄也。父勗,武德中爲秦王府文學館學士。貞觀中,尚南康公主,拜駙馬都尉,累選魏王泰府司馬。勗既博學有美名,甚爲泰所重。因勸泰請開文學館,引才名之士,撰《括地志》。後歴吏部郎、太子左庶子,卒。幹少以明經累授徐王府記室參軍。徐王好畋獵,幹毎諫止之。垂拱中,歴遷魏州刺史。時河北饑饉,舊吏苛酷,百姓多有逃散。幹乃督察姦吏,務勸農桑,由是逃散者皆來復業,稱爲良牧。召拜右羽林將軍,尋遷冬官尚書。酷吏來俊臣素忌嫉之,遂誣奏幹在魏州與琅邪王衝私書往復,因繫獄鞫訊,幹發憤而卒。

韋瓌の四代孫、韋翔。

原文{{--|瓌四代孫}} 翔

韋瓌の四代孫韋翔は、文宗の太和四年、文学参軍に初めて任じられた。

原文瓌四代孫翔,文宗太和四年,釋褐文學參軍。

史臣が曰く。

原文史臣曰

史臣が曰く。韋思謙は初め州県の官より奮起して雲霄に昇り、綱紀を保持して権豪を避けず、国に報いるに妻子を忘れることができた。自ら強いて止まず、剛毅にして仁に近し、まことにこれ有りと言えよう。高季輔・皇甫公義は、人を知る者と言えよう。かつ福善には余慶あり、徴無しとは謂わず、二人の子(韋承慶・韋嗣立)は堂を構え、ともに宰相の列に並び、文は皆経世済民に通じ、政は明能を尽くした。これに加えて、韋承慶は危うきに臨み、筆を染めて曾て恐悚とせず、韋嗣立は用いられて、封を襲ぎながらも逍遙を墜とさなかった。父の風を辱めず、祖の徳に恥じず、諡して温、諡して孝、易名すること何ぞ愧じようか。陸元方は博学大度、再び鈞衡(宰相の職)を践み、則天の時に当たり、忠貞無きに非ざれば、黜責を受けることは無く、綏州の任に就き、抑えてまた何ぞ慚じようか。その海を渡るに私無く、狂風自ずから止み、臨終に草稿を焚き、温樹(口外せぬこと)始めて顕わるを見よ。故に知る、正は以て神明を動かし、徳は以て家代を延ばすことを。陸象先は益々人品高く、特に相才著しく、全済の名有り、孤立して禍無し。陸景倩・陸景融・陸景献・陸景裔らは皆清列に居り、魯に後有るに非ずや(陸氏の後裔が栄える)。蘇瓌について、孔子は云う、「其の室に居り、其の言を出すに善ければ、則ち千里の外之に応ず、況んや其れ邇き者をや」と。また「言行は君子の枢機、枢機の発するは、栄辱の主なり」と。中宗が世を棄て、韋氏が権を奪わんとした時、謀に預かる者十九人、皆異議を生じたが、蘇瓌は大節を志に存し、独り讜言を発した。その後、善悪は顕著に現れ、黜陟は明らかに著わされた。聖人の言、ここに験せられたのである。蘇頲は唯公を以て相たり、倹を以て家を承け、李嶠は之を湧泉と許し、宋璟は其の父を過ぐると称した。艱難の際、節操回らず、善く始めて令よく終わり、先後ともに愧ずること無し。

原文史臣曰:韋思謙始以州縣,奮於煙霄,持綱不避於權豪,報國能忘於妻子。自強不息,剛毅近仁,信有之矣!髙季輔、皇甫公義,可謂知人矣!且福善餘慶,不謂無徴,二子構堂,倶列相輔,文皆經濟,政盡明能。加以承慶方危,染翰而曾非恐悚;嗣立見用,襲封而罔墜逍遙。無忝父風,寧慚祖德,諡温諡孝,何愧易名?陸元方博學大度,再踐鈞衡,當則天時,非有忠貞,應無黜責,綏州之任,抑又何慚!觀其濟海無私,狂風自止,臨終焚槁,温樹始彰。故知正可以動神明,德可以延家代。象先益髙人品,尤著相才,全濟有名,孤立無禍。景倩、景融、景獻、景裔等鹹居淸列,得非有後於魯乎?蘇瓌,孔子云:「居其室,出其言善,則千里之外應之,況其邇者乎!」又「言行君子之樞機,樞機之發,榮辱之主也」。當中宗棄代,韋氏奪權,預謀者十有九人,咸生異議,瓌-{志}-存大節,獨發讜言。其後善惡顯彰,黜陟明著。聖人之言,驗於斯矣。頲唯公是相,以儉承家,李嶠許之湧泉,宋璟稱其過父。艱難之際,節操不回,善始令終,先後無愧。

賛して曰く。善人君子、忠を懐き正を秉る。尽く文章に富み、咸く諫諍を推す。明廷に愧じず、重柄に慚じ無し。子子孫孫、余慶を演承す。

原文讚曰:善人君子,懷忠秉正。盡富文章,咸推諫諍。豈愧明廷,無慚重柄。子子孫孫,演承餘慶。