卷八十八
韋思謙
韋思謙は、鄭州陽武の人である。本名は仁約、字は思謙というが、その音が則天武后の父の諱に類するため、字をもって称した。その先祖は京兆より南に移り、襄陽に家を構えた。進士に挙げられ、累次補任されて応城県令となり、一年余りして調選された。思謙は官にあって、公事の微細な過失により殿(下位評価)を坐し、旧制では多く叙進されないところであった。吏部尚書の高季輔が言うには、「選部に居るようになって、今ようやくこの一人を得た。どうして小さな瑕瑾をもって大いなる徳を棄てることができようか」と。監察御史に抜擢して任じられ、これによって名を知られた。かつて人に謂って言うには、「御史が都を出るに当たって、もし山嶽を動揺させ、州県を震駭させることができなければ、まさしく職を曠しくするのみである」と。時に中書令の褚遂良が中書省の訳語人の土地を安値で買い取った。思謙はこれを奏上して弾劾し、遂良は左遷されて同州刺史となった。遂良が再び用いられると、思謙は進用されず、出されて清水県令となった。人に謂って言うには、「わが狂鄙の性は、雄権を仮り与えられれば、機に触れて発動する。固より身の災いとなるべきである。大丈夫たるもの、正色の地に当たっては、必ず明目張胆として国恩に報い、終に碌々たる臣となって妻子を保つことなどできぬ」と。左粛機の皇甫公義が沛王府長史を検校し、思謙を同府の倉曹に引き入れて言うには、「公は豈に池中の物であろうか。公を屈して数旬の客とし、以てこの府を望むのみである」と。累次遷って右司郎中となった。
永淳の初め、尚書左丞・御史大夫を歴任した。時に武候将軍の田仁会が侍御史の張仁禕と不和で、彼を誣告して上奏した。高宗が臨軒して仁禕を問うと、仁禕は惶懼し、応対して言葉を失った。思謙は階を歴んで進み出て言うには、「臣は仁禕と連曹(同僚)であり、事の由縁をよく知っております。仁禕は懦弱で自ら弁明することができません。もし仁会が聖聡を眩惑し、仁禕をして非常の罪に致すならば、すなわち臣もまた君に事えることを尽くさぬことになります。どうか専らその状を対決させてください」と。弁論は縦横にわたり、音旨は明暢で、高宗は深くこれを納れた。思謙が憲司(御史台)にあった時、王公に会うごとに、未だかつて拝礼を行わなかった。ある者がこれを諫めると、答えて言うには、「雕・鶚・鷹・鸇(猛禽類)が、どうして衆禽の伴侶であろうか。どうして拝礼を設けてこれと親しむことができようか。かつ耳目の官は、固より独立すべきである」と。初めて左丞に拝された時、上奏して言うには、「陛下は官のために人を択ばれ、その人を得なければ闕(欠)く。今、美錦を惜しまず、臣にこれを製させようとされる。これは陛下が臣を知ることの深さであり、また微臣が命を尽くすべき秋であります」と。綱目を振り挙げて整え、朝廷は粛然とした。
思謙の子 承慶
承慶は、字を延休という。少より恭謹で、継母に事えること孝行をもって知られた。弱冠にして進士に挙げられ、雍王府参軍に補せられた。府中の文翰は、皆承慶の出づるところであり、辞藻の美は一時に擅にした。累次遷って太子司議郎となった。儀鳳四年五月、詔して皇太子賢に国を監せしめた。時に太子は頗る声色に近づき、戸奴らと款狎(親密に戯れる)した。承慶は上書して諫めて言うには、
また嘗て『諭善箴』を作って太子に献じた。太子はこれを善しとし、賜物甚だ厚かった。承慶はまた、人の用心が多く擾濁浮躁で、衝和の境に至ることが稀であるとして、『霊台賦』を著してその志を広め、辞多く載せず。
調露の初め、東宮が廃され、出て烏程令となり、風化大いに行わる。長壽の中、累遷して鳳閣舍人となり、兼ねて天官の選事を掌る。承慶は文を属するに迅捷にして、軍國の大事と雖も、下筆すれば輒ち成り、未だ草稿を嘗めず。尋で大臣の旨に忤うに坐し、出て沂州刺史となる。未だ幾ばくもせず、詔して舊職に復し、前に依りて天官の選事を掌る。久しくして、病を以て免ぜられ、改めて太子諭德を授けられる。後に豫、虢等州の刺史を歴任し、頗る聲績著しく、制書して褒美す。長安の初め、入りて司僕少卿となり、轉じて天官侍郎となり、兼ねて國史を修す。承慶は天授以來、三たび天官の選事を掌り、銓授平允にして、海内之を稱す。尋で鳳閣侍郎、同鳳閣鸞臺平章事に拜し、仍舊として兼ねて國史を修す。神龍の初め、張易之の弟昌宗を推すに附きて失實に坐し、配流して嶺表に流される。時に易之等既に誅せられ、承慶は巾を去り帶を解きて罪を待つ。時に赦書を草せんと欲し、衆議以爲く承慶に如くは無しと、乃ち承慶を召して之を爲さしむ。承慶は神色撓まず、筆を援りて成し、辭甚だ典美にして、當時咸く之を歎服す。歳餘りして、起用されて辰州刺史を授けられるも、未だ之に赴かず、入りて秘書員外少監となり、兼ねて國史を修す。尋で『則天實録』を修するの功を以て、爵を扶陽縣子に賜ひ、物五百段を賚はる。又『則天皇后紀聖文』を製撰し、中宗善しと稱し、特く銀靑光祿大夫を加ふ。俄かに黃門侍郎を授けられ、仍舊として兼ねて國史を修すも、未だ拜せずして卒す。中宗傷悼すること久しく、乃ち其の弟相州刺史嗣立を召して葬事に赴かしめ、仍て黃門侍郎に拜し、兄の位を繼がしむ。其の用ひらるること此の如し。秘書監を贈り、諡して温と曰ふ。子長裕、膳部員外郎。
思謙の子 嗣立
嗣立は、承慶の異母弟なり。母王氏、承慶に遇すること甚だ嚴しく、毎に杖罰有れば、嗣立必ず衣を解きて代はらんことを請ふ。母聽かず、輒ち自ら杖す。母之を察し知り、漸く恩貸を加ふ。議者晉の王祥、王覽に比す。少くして進士に舉げられ、累補して雙流令となり、政に殊績有り、蜀中の最と爲る。三遷して萊蕪令となる。會ふに承慶鳳閣舍人より疾を以て職を去る。則天嗣立を召して謂ひて曰く、「卿の父往日嘗て朕に謂ひて曰く『臣兩男有り、忠孝にして、陛下に事へるに堪ふ』と。卿兄弟職を效ふるより、卿の父の言ふが如し。今卿に鳳閣舍人を授け、卿兄弟自ら相替代せしむ」と。即日に鳳閣舍人に遷す。
時に學校頽廢し、刑法濫酷なり。嗣立上疏して諫めて曰く、
臣聞く、古の先哲の王は学官を立て、国子を教え掌るに六徳・六行・六藝をもってし、三教備わりて人道畢る。《礼記》に曰く「人を化し俗を成すは、必ず学に由る」と。学の人のためにするや、その用蓋し博し。故に太学を立てて国に教え、庠序を設けて邑に化し、王の諸子・卿大夫士の子及び国の俊選皆これに造る。八歳にして小学に入り、十五にして太学に入る。春秋には《礼》《楽》を以て教え、冬夏には《詩》《書》を以て教う。ここをもって教え洽くして化流れ、行い成りて悖らず。天子より以て庶人に至るまで、学を須いずして成る者あらざるなり。国家永淳以来、二十余載、国学廃散し、胄子衰缺し、時に儒学の官を軽んじ、章句の選を存するもの莫し。貴門の後進、競いて僥倖を以て班を升り、寒族の常流、復た凌替に因りて業を弛む。試験の際、秀茂罕に登り、これを駆りて人に臨ましむるに、何を以て政に従わんや。また垂拱の後、文明辰に在り、盛典鴻休、日書月至し、際会を因藉し、入仕尤も多し。これに讒邪凶党来俊臣の属を加う。妄りに威権を執り、恣に枉陷を行い、正直の伍、死亡を憂いとし、道路目を以てし、人固き志無く、執って撓まざるの懐を有するもの罕にして、至公の節に殉ずるもの少なく、偸安苟免し、聊か以て歳を卒う。遂に綱領振わず、請托公行し、選挙の曹、弥に渝濫を長ず。班に随うに少しく経術の士、職を摂るに多く庸瑣の才、徒に猛暴を以て相誇り、罕に能く淸惠自ら勗む。海内の黔首をして騒然として安からず、州県の官僚、貪鄙未だ息まずして、事必ず理に循い、俗康寧に致らんことを望むは、得べからざるなり。陛下誠に能く明制を下し、徳音を発し、広く庠序を開き、大いに学校を敦め、三館の生徒、即ち令を追いて集め、王公以下子弟、別に仕進を求むるを容れず、皆国学に入り、訓典に服膺せしむ。館廟を崇飾し、儒師を尊尚し、奠菜の儀を盛んに陳べ、講説の会を宏敷き、士庶の観聴をして発揚する所有らしめ、道徳を弘奨すること、ここに在り。すなわち四海の内、靡然として風に向い、頸を延べ足を挙げ、咸向かう所を知らん。然る後に衡鏡を審かに持ち、良能を妙に択び、これを以て人に臨み、これを寄せて俗を調う。すなわち官侵暴の政無く、人安楽の心有り、人に居れば則ち相与に業を楽しみ、百姓は則ち皆桑梓を恋い、豈に復たその逃散して貧窶なるを憂えんや。今天下の戸口、亡逃過半し、租調既に減じ、国用足らず。人を理むるの急、尤も茲に切る。故に学を務むるの源を知るは、豈に唯だ身を潤し徳を進むるのみならんや。将に人を誨え国を利するに以てせんとす、これを務めざるべけんや。臣聞く、堯・舜の日、その衣冠を画き、文・景の時、幾刑措に致す。茲れ千載を暦て、以て美談と為す。臣伏して惟うに、陛下睿哲欽明、神を窮め化を知り、軒・昊已降、これと京ぶもの莫し。独り往の論法、或いは未だ善を尽くさず、皆主司の奸凶に由り、視聴を惑乱す。尋で陛下聖察、これを具に詳らかにす、然れども竟にその本源を顕わし、その前事を明らかにし、天下万姓をして陛下の本心を識らしむる能わず、尚お四海に冤を銜むの人多く、九泉に痛みを抱くの鬼有らしむ。臣誠に愚暗、大綱を識らず、請う陛下の為に始末を言いてその事をせん。揚・豫の後、刑獄漸く興り、用法の伍、窮竟に務め、連坐相牽き、数年絶えず。遂に巨奸大猾隙を伺い間を乗じ、内に豺狼の心を苞み、外に鷹鸇の跡を示し、陰図潜結し、共に相影会し、似是の言を構え、赦さざるの罪を成す。皆深く巧詆を為し、恣に楚毒を行い、人痛みに勝えず、便ち自ら誣うるを乞い、公卿士庶、頸を連ねて戮せらる。道路籍籍、辜に非ざるを知るといえども、鍛練既に成り、弁占皆合す。縦い皋陶を以て理と為し、於公を以て刑を定むとも、すなわち宮を汚し柩を毀つを謂いて、猶未だ責を塞ぐに足らずと謂わん。陛下仁慈哀念、獄を恤み死を緩すといえども、辞状を覧るに及びて、便ち已に周密、皆これを勘鞫情を得たりと謂い、是れその実犯なりとし、縦い寛捨せんと欲すとも、その法を如何せん。ここに於いて小は乃ち身誅、大は則ち族滅し、相縁り共に坐する者、言うに勝えず。これ豈に宿構の仇嫌、将に報復を申さんとし、皆苟も功効を成し、官賞を自ら求むるに図るや。当時に称伝し、羅織と謂う。その中刑に陷り罪を得る者、敏識通材有りといえども、告言せらるる者に被告せられて便ち枉抑に遭い、心徒にその冤酷を痛むれども、口もって以て自ら明らかにする能わず。或いは誅夷を受け、或いは竄殛に遭い、並び甘心して分を引き、これに赴くこと帰するが如し。故に法を弄び文を徒にするは、人を傷つくる実に甚だしきを知る。頼むらくは陛下特に聖察を回らし、昭然として詳究せらる。周興・丘勣の類、弘義・俊臣の徒、皆相次いで伏誅し、事遐邇に暴われ、朝野慶泰し、再び陽和を睹るが若し。且つ仁傑・元忠の如きは、倶に枉陷に罹り、勘鞫せらるるの際、亦皆已に自ら誣う。向し陛下の至明に非ずんば、省察を垂れたまわざりせば、則ち菹醢の戮、已にその身に及び、忠を聖代に輸らんことを望む、安んぞ復た得べけんや。陛下これを擢して升し、各良輔と為し、国の棟幹、この二人を称す。何ぞ乃ち前は非にして後は是なるや。誠に枉陷と甄明とに由るのみ。但だ往の罪を得る者多く並びにこの流れに在るを恐るれば、則ち向時の冤者のその数甚だ衆し。昔一の孝婦を殺すも、尚或いは災を降す。而るに濫する者蓋し多し、寧く怨気無からんや。怨気上達すれば則ち水旱興る所となり、歳登らんことを望むは、得べからざるなり。倘し陛下天地の大徳を弘め、雷雨の深仁を施し、罪を削刻の徒に帰し、恩を枉濫の伍に降す。垂拱已来、大辟罪已下、常赦の原さざる所の者、罪の軽重無く、一に皆原洗し、昭蘇を被らしむ。法に伏せるの輩、官爵を追還し、累に縁るの徒、普く恩造に沾わしむ。かくの如くすれば則ち天下この陷る所の罪、元より陛下の意に非ず、咸虐吏の辜なるを知らん。幽明歓欣すれば則ち和気に感通し、和気下降すれば則ち風雨時にし、風雨時にすれば則ち五穀豊稔し、歳既に稔れば人亦安し。太平の美、亦何ぞ遠からんや。伏して願わくは陛下深く察せんことを。
まもなく秋官侍郎に遷り、三たび鳳閣侍郎を経て、同鳳閣鸞臺平章事となった。長安年間、則天武后はたまたま宰相らと州県の官吏について議し、納言李嶠・夏官尚書唐休璟らが奏上して言うには、「臣らは誤って大任を担いながら、兵乱を止息させ、倉庫府庫を豊かに満たすことができず、戸籍人口にはなお逃亡者がおり、官吏は貪濁を免れず、陛下をして朝廷に臨んで憂い歎かせ、しばしばこれを言わしめ、日夜慚愧し恐れ、身の置き所を知りません。伏して思うに、当今の要務は、富国安民に過ぎるものはありません。富国安民の方策は、刺史を選ぶことにあります。ひそかに朝廷の世論を見るに、内官を重んじ外職を軽んじない者はなく、毎回牧伯を除授するごとに、皆再三抗弁し訴えます。近頃派遣される外任は、多くは貶降や累罪の人であり、風俗が澄まないのは、実にこれに由来します。今、台閣寺監において、賢良を精選し、大州を分掌させ、共に諸々の治績を安んじさせたいと望みます。臣らは近侍の職を止め、率先して百官の列に加わり、国を憂い民を救うことに務め、少しでも補益があればと願います」と。則天は言った、「卿らは鸞臺鳳閣に在るが、誰がこの任に就くか」と。嗣立が率先して答えて言うには、「臣は庸愚の身でありながら、誤って賞抜擢を受け、内に機密を掌るは、臣の堪えるところではありません。外台の任を引き継ぐに及ばず、まさに節を尽くすべきであり、もし採録を垂れられれば、臣はこの行を願います」と。ここにおいて嗣立は本官を帯びて検校汴州刺史となった。
疏奏すれども納れられず。
嗣立は韋庶人の宗属とは疎遠であったが、中宗は特に属籍に編入するよう命じ、これにより特に顧みられ賞された。嗣立は驪山に別荘を営み、中宗は自ら行幸し、詩序を自作して従官に詩を賦させ、絹二千匹を賜った。そこで嗣立を逍遙公に封じ、その居所を清虚原幽棲谷と名付けた。韋氏が敗れると、乱兵に害されかけたが、寧王憲は嗣立が従母の夫であるとして救護し免れた。睿宗が践祚すると、中書令に任じられた。まもなく、許州刺史として出された。睿宗を定冊尊立した功により、実封一百戸を賜った。開元初め、国子祭酒として入朝した。先に、中宗の遺制で睿宗が政を輔くこととなったが、宗楚客・韋温らが草稿を改削し、嗣立は当時政事府に在ったが、これを正すことができなかった。この時、憲司に弾劾され、岳州別駕に左遷された。久しくして、陳州刺史に遷った。時に河南道巡察使・工部尚書劉知柔が嗣立の清潔で昇進に値する様子を上奏したが、詔命が下る前に、開元七年に卒し、兵部尚書を追贈され、諡を孝といった。中書門下がまた奏上して言うには、「嗣立は衣冠の内にあって、夙に才名を表し、兄弟の間では特に和睦と称された。恩を承けて事に歴し、位は宰臣に列した。中年に正身できず、凶戚に近づいたため、憲司に糾弾され、これにより出貶された。その始めを循れば、終には吉人である。瑕を棄てて衆望に従うべきである。贈物一百段を請う。」と。これに従った。
陸元方
元方は官にあって清謹であり、再び宰相となると、則天が遷除を行おうとする毎に、必ず密封して進上し、嘗てその私恩を露わにしなかった。臨終に、前後の草奏を悉く取り出して焚くよう命じ、且つ言う、「我が人に陰徳を施すこと多し、その後は庶幾く福衰えざらん」と。また書一匣あり、常に自ら緘封し、家人に見る者無かったが、卒して之を見ると、前後の勅書であり、その慎密この如しであった。越州都督を追贈された。開元十八年、また揚州大都督を追贈された。子に象先あり。
元方の子 象先
象先は本名を景初といった。少くして器量有り、制挙に応じ、揚州参軍に拝された。秩満して調選する時、吉頊が吏部侍郎であり、洛陽尉に擢授しようとしたが、元方も当時吏部に在り、固辞して敢えて当たらなかった。頊は言う、「官の為に人を択ぶは、至公の道なり。陸景初の才望高雅、常流の及ぶ所に非ず、実に吏部の子として妄りに推薦するに非ず」と。竟に奏してこれを授けた。左台監察御史に遷り、殿中に転じ、中書侍郎を歴任して授けられた。
象先の弟景倩は、監察御史を歴任した。景融は、大理正・滎陽郡太守・河南尹・兵吏部侍郎・左右丞・工部尚書・東都留守・襄陽郡太守・陳留郡太守を歴任し、いずれも採訪使を兼ねた。景獻は、殿中侍御史・屯田員外郎を歴任した。景裔は、河南令・庫部郎中となった。皆美誉があった。僧一行が若い時、かつて象先の兄弟と親しく交わり、常に人に謂って曰く、「陸氏の兄弟は皆才行あり、古の荀・陳も以て加うる所なし」と。その当時に称せられることこのようであった。
元方の従叔の餘慶は、陳の右軍将軍珣の孫である。若い時、知名の士陳子昂・宋之問・盧蔵用・道士司馬承禎・道人法成らと交遊し、才学は子昂らに及ばないが、風流強弁は彼らを超えていた。累遷して中書舎人となった。則天はかつて引き入れて詔を草させたが、餘慶は惶惑し、晩に至るまでついに一言も措くことができず、左司郎中に責授された。累除して大理卿・散騎常侍・太子詹事となった。老疾を以て致仕し、まもなく卒した。象先の四代孫。文宗太和四年、釈褐参軍文学に除された。
蘇瓌
蘇瓌、字は昌容、京兆武功の人、隋の尚書右僕射威の曾孫である。祖父の夔は、隋の鴻臚卿。父の亶は、貞観中に台州刺史となった。瓌は弱冠で本州より進士に挙げられ、累授して豫王府録事参軍となった。長史の王德眞・司馬の劉禕之は皆これを器重した。長安年中、累遷して揚州大都督府長史となった。揚州の地は衝要に当たり、富商大賈多く、珠翠珍怪の産あり、前長史の張潜・於辯機は皆これを数万に致したが、ただ瓌は挺身して去った。神龍初年、尚書右丞として入朝し、法律に明習し、台閣の故事に多く識ることを以て、特命により律・令・格・式を刪定させた。まもなく銀青光禄大夫を加えられた。この年、再遷して戸部尚書となり、計帳を奏上し、管轄する戸は時に六百一十五万六千百四十一であった。
四年、中宗が崩じ、秘して喪を発さず、韋庶人は諸宰相韋安石・韋巨源・蕭至忠・宗楚客・紀處訥・韋温・李嶠・韋嗣立・唐休璟・趙彦昭及び瓌ら十九人を禁中に召し入れて会議した。初め、遺制は韋庶人に少主を輔け政事を知らせ、安国相王に太尉を授け参謀輔政させた。中書令の宗楚客が温に謂って曰く、「今は皇太后の臨朝を請うべく、相王の輔政を停めるべきである。且つ皇太后と相王とは嫂叔通問せざるの地に居り、儀注を為すこと甚だ難く、理全く不可なり」と。瓌のみ正色してこれを拒ぎ、楚客らに謂って曰く、「遺制は先帝の意なり、安んぞ更改せんや」と。楚客及び韋温は大いに怒り、遂に相王の輔政を削って宣行した。この月、韋氏敗れ、相王即ち帝位に即き、詔を下して曰く、「尚書右僕射・同中書門下三品・監修国史・許国公蘇瓌は、周旋近密より以来、枢機を損益し、謀猷成り、匡讚忌憚なし。頃者遺恩顧托し、先意昭明せしむ。奸回動揺し、内外危逼するに、独り讜議を申し、実に邪謀を挫く。況んや藩邸の僚属、旧を念うに殷なるのみ。徳無くんば報いず、抑々令典なり。尚書左僕射とすべし、余は故の如し。 」
瓌の子 頲
瓌の子頲は、少にして俊才有り、一覧千言。弱冠にして進士に挙げられ、烏程尉を授かり、累遷して左臺監察御史となる。長安年中、詔して頲に来俊臣等の旧獄を按覆せしむ。頲は皆その枉を申明し、これにより冤を雪ぐる者甚だ衆し。
神龍年中、累遷して給事中となり、修文館学士を加え、俄かに中書舍人を拝す。尋で頲の父同中書門下三品となり、父子同じく枢密を掌る。時に以て栄と為す。機事塡委し、文誥は皆頲の手より出づ。中書令李嶠歎じて曰く、「舍人の思ひ湧泉の如し、嶠の及ぶ所に非ず」と。俄に太常少卿に遷る。景雲年中、瓌薨じ、詔して頲を起復して工部侍郎と為し、銀青光禄大夫を加う。頲抗表固く辞し、辞理懇切なり。詔してその終制を許す。服闋して職に就き、父の爵許國公を襲ぐ。玄宗宰臣に謂ひて曰く、「工部侍郎より中書侍郎を得る者有りや」と。対へて曰く、「賢を任じ能を用うるは、臣等の及ぶ所に非ず」と。玄宗曰く、「蘇頲は中書侍郎たるべく、仍て政事食を供せしむべし」と。明日、知制誥を加う。政事食有るは、頲より始まる。頲入りて謝す。玄宗曰く、「常に卿を用ひんと欲す。毎に好官闕有れば、即ち宰相の論及ぶを望む。宰相は皆卿の故人なりと雖も、卒に言ふ者無し。朕卿が為に歎息す。中書侍郎は、朕極めて重惜す。陸象先歿して後、朕毎に之を思ふに、卿に出づる者無し」と。時に李乂紫微侍郎と為り、頲と対して文誥を掌る。他日、上頲に謂ひて曰く、「前朝に李嶠・蘇味道有り、之を蘇・李と謂ふ。今卿及び李乂有り、亦之に譲らず。卿の製する所の文誥は、一本を録して封進すべく、題して云ふ『臣某撰』と。朕留中して披覧せんと要す」と。その礼遇此の如し。玄宗靖陵に碑を建てんと欲す。頲諫めて曰く、「帝王及び后に神道碑無し。且つ事古に師ひず、動くこと皆法に非ず。若し靖陵独り建つれば、陛下祖宗の陵皆追造を須ふべし」と。玄宗その言に従ひて止む。
開元四年、紫微侍郎・同紫微黄門平章事に遷り、侍中宋璟と同知政事と為る。璟剛正にして、裁断する所多し。頲は皆その美に順従す。若し上前に旨を承け、敷奏及び応対するには、則ち頲之を助け、相得て甚だ悦ぶ。璟嘗て人に謂ひて曰く、「吾蘇家父子と、前後同時に宰相と為る。僕射は長厚にして、誠に国器なり。若し可を献げ否を替へ、臣節を罄尽し、吏事を断割し、至公私無きは、即ち頲その父を過ぐ」と。八年、礼部尚書を除き、政事を罷む。俄に益州大都督府長史事を知る。前司馬皇甫恂庫物を破り新様錦を織りて以て進む。頲一切之を罷む。或ひは頲に謂ひて曰く、「公今遠に在り、豈に聖意を忤ふを得んや」と。頲曰く、「明主は私愛を以て至公を奪はず。豈に遠近を以て忠臣の節を間易せんや」と。竟に奏して之を罷む。巂州蛮酋苴院私に吐蕃と連謀し、将に内寇せんとす。頲その間諜を獲る。将士咸に出兵して之を討たんことを請ふ。頲従はず。乃ち書を作り並びに間諜を以て苴院に送る。苴院慚悔し、竟に入寇せず。
瓌の子 詵
詵は、歴て右司郎中・給事中・徐州刺史を授かる。是に先立ち、給事中を拝する時、頲中書侍郎と為り、表を上りて詵の授かる所を譲る。玄宗曰く、「古来内挙親を避けざる有りや」と。頲曰く、「晋の祁奚是なり」と。玄宗曰く、「若然らば、則ち朕蘇詵を用ふるに、何ぞ屡言するを得ん。近日卿父子猶同じく中書に在り。兄弟何の不得有らん。卿の言至公に非ず」と。
瓌の子 冰
冰は、虞部郎中と為る。
瓌の子 乂
乂は、職方郎中と為る。
瓌の従父兄 幹
韋幹は、韋瓌の従父兄である。父の韋勗は、武徳年間に秦王府文学館学士となった。貞観年間、南康公主を尚り、駙馬都尉に拝され、累進して魏王李泰の府司馬となった。韋勗は博学で美名があり、李泰に大いに重んぜられた。そこで李泰に勧めて文学館を開かせ、才名ある士を引き入れ、『括地志』を撰修させた。後に吏部郎・太子左庶子を歴任し、卒した。韋幹は若くして明経により累次授けられて徐王府記室参軍となった。徐王は狩猟を好んだが、韋幹は毎度これを諫めて止めさせた。垂拱年間、魏州刺史に累遷した。当時河北は饑饉に遭い、旧来の官吏は苛酷であったため、百姓は多く逃散していた。韋幹はそこで姦吏を督察し、農桑を勧めることに務めた。これにより逃散した者たちは皆帰って来て旧業に復し、良牧と称された。召されて右羽林将軍に拝され、まもなく冬官尚書に遷った。酷吏の来俊臣は平素より彼を忌み嫉んでおり、遂に韋幹が魏州において琅邪王李衝と私書を往復したと誣奏し、これにより獄に繋がれて鞫訊を受け、韋幹は憤りを発して卒した。
韋瓌の四代孫、韋翔。
韋瓌の四代孫韋翔は、文宗の太和四年、文学参軍に初めて任じられた。
史臣が曰く。
史臣が曰く。韋思謙は初め州県の官より奮起して雲霄に昇り、綱紀を保持して権豪を避けず、国に報いるに妻子を忘れることができた。自ら強いて止まず、剛毅にして仁に近し、まことにこれ有りと言えよう。高季輔・皇甫公義は、人を知る者と言えよう。かつ福善には余慶あり、徴無しとは謂わず、二人の子(韋承慶・韋嗣立)は堂を構え、ともに宰相の列に並び、文は皆経世済民に通じ、政は明能を尽くした。これに加えて、韋承慶は危うきに臨み、筆を染めて曾て恐悚とせず、韋嗣立は用いられて、封を襲ぎながらも逍遙を墜とさなかった。父の風を辱めず、祖の徳に恥じず、諡して温、諡して孝、易名すること何ぞ愧じようか。陸元方は博学大度、再び鈞衡(宰相の職)を践み、則天の時に当たり、忠貞無きに非ざれば、黜責を受けることは無く、綏州の任に就き、抑えてまた何ぞ慚じようか。その海を渡るに私無く、狂風自ずから止み、臨終に草稿を焚き、温樹(口外せぬこと)始めて顕わるを見よ。故に知る、正は以て神明を動かし、徳は以て家代を延ばすことを。陸象先は益々人品高く、特に相才著しく、全済の名有り、孤立して禍無し。陸景倩・陸景融・陸景献・陸景裔らは皆清列に居り、魯に後有るに非ずや(陸氏の後裔が栄える)。蘇瓌について、孔子は云う、「其の室に居り、其の言を出すに善ければ、則ち千里の外之に応ず、況んや其れ邇き者をや」と。また「言行は君子の枢機、枢機の発するは、栄辱の主なり」と。中宗が世を棄て、韋氏が権を奪わんとした時、謀に預かる者十九人、皆異議を生じたが、蘇瓌は大節を志に存し、独り讜言を発した。その後、善悪は顕著に現れ、黜陟は明らかに著わされた。聖人の言、ここに験せられたのである。蘇頲は唯公を以て相たり、倹を以て家を承け、李嶠は之を湧泉と許し、宋璟は其の父を過ぐると称した。艱難の際、節操回らず、善く始めて令く終わり、先後ともに愧ずること無し。
賛して曰く。善人君子、忠を懐き正を秉る。尽く文章に富み、咸く諫諍を推す。明廷に愧じず、重柄に慚じ無し。子子孫孫、余慶を演承す。