旧唐書 許敬宗

旧唐書

許敬宗

許敬宗は、杭州新城の人であり、隋の礼部侍郎許善心の子である。その先祖は高陽から南に渡り、代々江左に仕えた。敬宗は幼い頃から文章をよくし、秀才に挙げられ、淮陽郡司法書佐に任じられ、まもなく謁者台に直り、通事舍人の事務を奏上した。江都の難に際し、善心は宇文化及に害された。敬宗は流転し、李密に投じ、密は元帥府記室とし、魏徴とともに管記となった。武徳初年、赤牒により漣州別駕に擬された。太宗はその名を聞き、召して秦府学士を補った。貞観八年、累進して著作郎に任じられ、国史修撰を兼ね、中書舎人に遷った。十年、文徳皇后が崩御し、百官は縗絰を着けた。率更令欧陽詢は容貌が醜怪で異様であり、衆人が指さすことがあったが、敬宗はそれを見て大笑いし、御史に弾劾され、左遷されて洪州都督府司馬となった。累進して給事中となり、国史修撰を兼ねた。十七年、『武徳実録』『貞観実録』の修撰が完成したことにより、高陽県男に封じられ、物八百段を賜り、権検校黄門侍郎となった。高宗が春宮にあった時、太子右庶子に遷った。十九年、太宗が自ら高麗を討伐し、皇太子が定州で国を監した際、敬宗は高士廉らとともに機要を知った。中書令岑文本が行在所で卒すると、敬宗に本官をもって中書侍郎を検校させた。太宗が駐蹕山で遼賊を大破した時、敬宗は馬前に立ち、詔書を草する旨を受け、その文辞は甚だ麗しく、深く賞賛された。先に、庶人李承乾が廃されると、宮僚の多くが官を除かれ、長らく叙用されなかった。敬宗は上表して言うには、「臣は聞く、先王は罰を慎み、その務めは刑を恤れむにあり、往哲は寛仁で、その義は過ちを宥うにあると。聖人の道は、これに過ぐるはない。窃かに見るに、廃官となった者、五品以上で、除名棄斥された者は、かなり歳月を経ている。しかし庶人(承乾)が往年、身を疑われることのない地位にあり、悖逆を包蔵し、密かに宰臣と結び、預かった奸謀は、多く宗戚に連なる。禍は慮表に生じ、萌芽を防ぐべからず、宮内の官僚は、全く関与していない。今まさに鼠を投じて器に及ぼすがごとく、誰が冤なしと言えようか。山を焚き玉を毀つは、やや遷怒に同じ。伏して先典を尋ぬれば、例に原いるべきものがある。昔、呉国の陪臣、爰絲は劉濞に坐さず、昌邑中尉、王吉は海昏侯(劉賀)に縁って免れた。これらを欒布に譬えれば、彭越に策名し、田叔に比すれば、張敖に委質したようなものである。主は凶逆をもって、その誅夷に陥り、臣は賢良をもって、その収擢を荷うた。歴代を観るに、この類は特に多い。近くは隋があり、またこの義に従った。楊勇が廃された時、罪は佞人にのみ加えられ、李綱の徒は、皆刑網に預からなかった。古今はその折衷を裁き、史籍は美談と称する。今、張玄素・令狐徳棻・趙弘智・裴宣機・蕭鈞らは、ともに節操を砥ぎ励まし、当朝に雅望があり、経学に明るく行いを修め、天下に令名を播いている。ある者は直言によって箠撲に遭い、ある者は意に忤って猜嫌を見たが、一概に雷同し、ともに天憲に罹っている。王道において、傷つくことが未だ弘まらぬことを恐れる」と。これにより玄素らは次第に叙用されるようになった。二十一年、銀青光禄大夫を加えられた。

高宗が位を嗣ぐと、于志寧に代わって礼部尚書となった。敬宗は娘を蛮酋馮盎の子に嫁がせ、多く金宝を納めたため、有司に弾劾され、左遷されて鄭州刺史となった。永徽三年、入朝して衛尉卿となり、弘文館学士を加えられ、国史修撰を兼ねた。六年、再び礼部尚書に拝され、高宗が皇后王氏を廃して武昭儀を立てようとした時、敬宗は特にその計に賛成した。長孫無忌・褚遂良・韓瑗らはともに直言して旨に忤い、敬宗と李義府は密かに誣構を加え、ともに嶺外に流されて死んだ。顕慶元年、太子賓客を加えられ、まもなく冊拝されて侍中となり、国史監修を務めた。三年、郡公に進封され、まもなくその父善心に冀州刺史を追贈した。高宗が古長安城を遊覧し、侍臣に問うて言うには、「朕が故城の旧基を観るに、宮室は百姓と雑居しているようである。秦・漢以来、幾代かここに都したか」と。敬宗は対えて言うには、「秦は咸陽に都し、郭邑は渭水に連なり跨がった。故に『渭水都を貫き、以て天河に象る』と言う。漢の恵帝に至って初めてこの城を築き、その後、苻堅・姚萇・後周がともにここに都した」と。帝はまた問うて、「昆明池は漢武帝の何年に開鑿されたか」と。敬宗は対えて言うには、「武帝は使者を遣わして西南夷に通じようとしたが、昆明の滇池に閉ざされた。昆明国を伐とうとして、故に鎬の旧沢に因り、この池を穿ち、水戦を習わせた。元狩三年の事である」と。帝はそこで敬宗に命じ、弘文館学士とともに秦・漢以来の歴代宮室の処所を具に検べさせて奏上させた。その年、李義府に代わって中書令となり、任用と待遇の重さは、当朝に比べるものがないほどであった。龍朔二年、新令に従って右相に改められ、光禄大夫を加えられた。三年、冊拝されて太子少師・同東西台三品となり、旧に依って国史監修を務めた。乾封初年、敬宗が年老いて歩行できなくなったため、特詔して司空李勣とともに、毎朝日、それぞれ小馬に乗って禁門から内省に入ることを許された。

敬宗は自ら国史を掌知し、記事を阿曲した。初め、虞世基は敬宗の父善心と共に宇文化及に害せられ、封徳彝は当時内史舎人として、その事を詳しく見ており、人に謂って曰く、「世基が誅せられる時、世南は匍匐して代わりを請うた。善心の死に際しては、敬宗が舞蹈して生を求めた」と。人はこれを口実とし、敬宗は深くこれを恨み、徳彝の伝を立てるに及んで、その罪悪を盛んに加えた。敬宗は娘を左監門大将軍の錢九隴に嫁がせたが、九隴は元は皇家の隷人である。敬宗は財を貪って婚姻し、九隴のために門閥を曲げて叙し、功績を妄りに加え、劉文静・長孫順德と同じ巻に昇せしめた。敬宗は子のために尉遅宝琳の孫女を娶り妻とし、多く賂遺を得た。宝琳の父敬徳の伝を作るに及んで、諸々の過咎を悉く隠した。太宗が『威鳳賦』を作って長孫無忌に賜うたのを、敬宗は改めて敬徳に賜うたと云う。白州の人龐孝泰は、蛮酋の凡品に過ぎず、兵を率いて高麗征伐に従ったが、賊はその懦弱を知り、襲ってこれを破った。敬宗はまたその宝貨を納め、孝泰が頻りに賊徒を破り、数万を斬獲したと称した。漢将の驍健なる者は、唯蘇定方と龐孝泰のみであり、曹継叔・劉伯英は皆その下に出るとした。虚美隠悪、かくの如し。初め、高祖・太宗両朝の実録は、敬播の修めたる所は頗る詳直であったが、敬宗はまた己の愛憎に従って曲げて事を刪改し、論者はこれを尤めた。然れども貞観以来、朝廷の修めたる『五代史』及び『晋書』・『東殿新書』・『西域図志』・『文思博要』・『文館詞林』・『累璧』・『瑶山玉彩』・『姓氏録』・『新礼』は、皆その事を総知し、前後の賞賚、数え勝つべからず。敬宗は好色にして度無し。その長子昂は頗る才藻有り、歴任して太子舎人となる。母裴氏は早く卒す。裴の侍婢に姿色有る者あり、敬宗はこれを嬖し、継室と為し、虞氏の姓を仮せしむ。昂は素よりこれと通じ、烝して絶えず、敬宗は怒りて虞氏を黜し、昂に不孝を加え、奏請して嶺外に流す。顕慶中、表して昂の還るを乞い、虔化令を除し、尋いで卒す。咸亨元年、表を抗して骸骨を乞う。詔して致仕を聴す。仍て特進を加え、俸禄は旧の如し。三年に薨ず。年八十一。高宗そのために挙哀し、朝を三日廃し、詔して文武百官に第に赴きて哭することを命じ、冊贈して開府儀同三司・揚州大都督と為し、昭陵に陪葬す。文集八十巻。太常将に謚を定めんとす。博士袁思古議して曰く、「敬宗は位を以て才に昇り、歴居して清級に居れり。然れども長子を荒徼に棄て、少女を夷落に嫁す。詩を聞き礼を学ぶは、事趨庭に絶え、納采問名は、唯だ黷貨に聞く。白圭斯に玷う、清塵を累わす有り。易名の典は、須らく実行に憑るべし。謚法を按ずるに『名と実爽なるを繆と曰う』。請う謚して『繆』と為さん」と。敬宗の孫、太子舎人彦伯その恥に勝えず、思古と大いに相忿競し、又思古は許氏と先に嫌隙有りと称し、謚官を改めんことを請う。太常博士王福畤議して曰く、「謚は飾終の称なり。得失一朝、栄辱千載。若し嫌隙実なりとせば、即ち法に合いて推繩すべし。其れ直道を虧かざれば、義奪うべからず、官侵すべからず。二、三其の徳、何を以て礼を言わん。福畤官守に忝くし、匪躬の故なり。若し風に順い意に阿い、直きを背き曲きに従わば、更に甲令虚設に是り、将に礼院人無しと謂わん。何を以て雅道を激揚し、同列を顧視せん。請う思古の謚議に依りて定めん」と。戸部尚書戴至徳福畤に謂いて曰く、「高陽公の任遇かくの如し、何を以て謚を『繆』と定むる」と。答えて曰く、「昔、晋の司空何曾薨ず。太常博士秦秀謚して繆丑公と為す。何曾は既に忠且つ孝なりしも、徒に日食万錢の故を以て、貶して繆丑と為す。況んや敬宗の忠孝は曾に逮ばず、飲食男女の累は何氏を逾えたり。而して之を謚して『繆』と為すは、許氏に負うこと無し」と。時に詔有りて尚書省五品已上に重ねて議せしむ。礼部尚書袁思敬議して称す、「謚法を按ずるに『既に過ちて能く改むるを恭と曰う』。請う謚して『恭』と曰わん」と。詔して其の議に従う。彦伯は昂の子、起家して著作郎。敬宗の末年文筆は、多く彦伯に代作せしむ。又婢妾の讒言を納れ、奏して嶺表に流す。後に赦に遇いて還り得、太子舎人を除す。早く卒す。集十巻有り。

李義府

李義府は、瀛州饒陽の人である。その祖は梓州射洪県丞となり、永泰に家す。貞観八年、剣南道巡察大使李大亮は義府の善く文を属するを以て、表してこれを薦む。対策擢第し、門下省典儀を補う。黄門侍郎劉洎・侍書御史馬周皆これを称薦し、尋いで監察御史を除す。又勅して義府に本官を以て晋王に侍するを兼ねしむ。春宮に昇るに及び、太子舎人を除し、崇賢館直学士を加え、太子司議郎来済と俱に文翰を以て知られ、時に来・李と称す。義府嘗て『承華箴』を献ず。その辞に曰く、

邃初冥昧、元気氤氳。二儀始めて闡き、三才既に分かる。乾を司り宰を立て、震を出だして君と為る。化は淳樸に昭らかに、道は典墳に映ず。功成りて揖譲し、事は華・勲に極まる。肇めて夏啓に興り、降りて姫文に及ぶ。咸に継徳を資り、永く高芬を樹つ。百代沿襲し、千齢聖を奉ず。粤若我が後、丕に宝命を承く。允に三階を穆し、爰に七政を斉う。時に雍び化洽い、風移り俗盛ん。載せて国本を崇め、式に家慶を延ぶ。震維は徳を標し、離は体の正を警む。寄せ切に宗祧、事隆く監撫。皇なる茂則を思ひ、端輔を敬ひ詢う。業は啓・誦に光り、芸は干羽に優る。九載儒を崇め、三朝豎を問う。歴選儲儀、遺文斯に在り。望み試みに俎に登り、高く喬枝を諭す。俯きて容れ順を思ひ、礼無きは施さず。前修の盛業、来哲の通規。躬を飭み是に蹈みば、則ち叡問風馳す。志を立て或いは爽かば、則ち玄猷日虧く。尊極を恃む無かれ、修途測り難し。親賢を恃む無かれ、徳を失いて全からず。小善を軽んずる無かれ、小を積みて名自ら聞こゆ。微行を軽んずる無かれ、微を累ねて身自ら正し。佞諛類有り、邪巧方多し。其の萌絶えず、其の害必ず彰る。言を監み斯に屏えば、儲業昌なる攸り。窃かに惟うに令嗣は、前事に殊なる有り。貴を以て賢を以つてするも、長に非ず次に非ず。皇明徳を眷み、倫を超えて貳と作す。声華を懋まざれば、恩異に酬い莫し。徽烈を崇めざれば、天志に符せず。勉めて又勉め、茲に守器を光らす。下臣箴を司り、敢えて近侍に告ぐ。

太子表を上げて其の文を以てす。優詔して帛四十匹を賜い、又預め『晋書』を撰せしむ。高宗位を嗣ぎ、中書舎人に遷る。永徽二年、国史を修するを兼ね、弘文館学士を加う。高宗将に武昭儀を立てて皇后と為さんとす。義府嘗て密かに申し協賛す。尋いで擢びて中書侍郎・同中書門下三品に拝し、国史を監修し、爵を広平県男に賜う。

義府の容貌は温和で恭しく、人と語る時は必ず嬉怡として微笑むが、褊狭で猜忌深く陰険であった。権要の地位に処してからは、人に己に附かせんと欲し、少しでも意に逆らう者があれば、直ちに傾け陥れることを加えた。故に当時の人は、義府の笑いの中に刀ありと言い、またその柔らかくして物を害するをもって、これを「李猫」とも謂った。顕慶元年、本官を以て太子右庶子を兼ね、爵を進めて侯となす。洛州の婦人淳于氏あり、姦淫の罪に坐して大理に繋がれた。義府その姿色を聞き、大理丞畢正義に嘱して別宅の婦と為らしめ、特にその罪を雪がしめた。卿段宝玄その故を疑い、急ぎ状を以て聞かせた。詔してその事を按ぜしむるを令す。正義惶懼して自縊して死す。侍御史王義方、廷に奏して義府の犯状を言い、因りてその初め容貌が劉洎・馬周に幸せられ、これにより進み得たことを言い、言詞猥褻であった。帝怒り、義方を出して萊州司戸と為し、而して義府の奸濫の罪を問わず。義府云く、「王御史妄りに相弾奏す、愧なきこと得んや」と。義方対えて云く、「仲尼魯の司寇と為ること七日、少正卯を両観の下に誅す。義方御史に任ずること旬に六日あり、奸邪を双闕の前に去ること能わず、実に以て愧と為す」と。尋いで太子左庶子を兼ぬ。二年、崔敦礼に代わりて中書令と為り、兼ねて検校御史大夫、国史を監修し、学士は並びに旧の如し。尋いで太子賓客を加え、進みて河間郡公に封ぜらる。三年、又その父徳晟を追贈して魏州刺史と為し、諸子の孩抱の者は並びに清官に列し、詔して甲第を造らしむ。栄寵これに比ぶるもの莫し。而して義府貪冒にして厭うこと無く、母・妻及び諸子・女婿と共に官を売り獄を鬻ぎ、その門市の如し。多く腹心を引き、広く朋党を樹て、朝野を傾動せしむ。初め、杜正倫中書侍郎と為り、義府は時に典儀に任ず。是に至りて乃ち正倫と共に中書令と為る。正倫は毎に先進を以て自ら処し、義府に下らず。而して中書侍郎李友益密かに正倫と共に義府を図議し、更に相伺察す。義府知りて密かに人をして封じてその事を奏せしむ。正倫と義府、上の前に訟う。各々曲直あり。上は大臣の和せざるを以て、両方を責め、左に義府を貶して普州刺史と為し、正倫を横州刺史と為し、友益は配流して峰州とす。四年、復た義府を召して吏部尚書・同中書門下三品を兼ねしむ。自余の官封は旧の如し。龍朔元年、母憂に丁りて職を去る。二年、起復して司列太常伯・同東西台三品と為る。義府尋いでその祖父を改葬することを請い、墓を永康陵の側に営む。三原令李孝節、私に丁夫・車牛を課し、その土を載せ墳を築かしむ。昼夜息まず。ここにおいて高陵・櫟陽・富平・雲陽・華原・同官・涇陽等七県、孝節の故を以て、已むを得ざるを懼れ、悉く丁車を課して役に赴かしむ。高陵令張敬業、恭勤にして怯懦、その労に堪えず、作所に死す。王公已下、争って贈遺を致す。その羽儀・導従・轜輶・器服、並びに窮極奢侈なり。又会葬の車馬・祖奠の供帳、灞橋より三原に属すること七十里の間、相継ぎて絶えず。武德已来、王公の葬送の盛なること、未だ嘗て有らざるなり。義府は本より藻鑑の才無く、武后の勢いに怙り、専ら官を売ることを事とす。銓序失次し、人多く怨讟す。時に殷王初めて出閣す。又義府を以て王府長史を兼ねしむ。三年、右相に遷り、殷王府長史仍って選事を知るは並びに旧の如し。義府、入れば則ち諂言して自ら媚び、出れば則ちその奸宄を肆にす。百僚之を畏れ、敢えてその過を言う者無し。帝頗るその罪失を知り、従容として義府に誡めて云く、「卿の兒子・女婿皆謹慎ならず、多く罪過を作すと聞く。我も亦卿の為に掩覆し、未だ即ち公言せず。卿誡勖すべし、此の如くならしむるなかれ」と。義府勃然として色を変え、腮頸俱に起り、徐かに曰く、「誰か陛下に此れを道くや」と。上曰く、「但だ我言は是の如し。何ぞ須いん我の従い得る所を問わんや」と。義府睆然として、殊に咎を引かず、緩歩して去る。上亦之を優容す。初め、五礼の儀注は前代より相沿い、吉凶畢く挙ぐ。太常博士蕭楚材・孔志約、皇室の凶礼を以て凶事を預備するは、臣子の宜しく言う所に非ずとす。義府深く然りとす。ここにおいて悉く刪して焚く。義府貴しと為りし後、又自ら言う、本趙郡に出づと。始めて諸李と昭穆を叙す。而して無頼の徒苟く合し、その権勢を藉り、拜伏して兄叔と為る者甚だ衆し。給事中李崇德初め亦同譜して昭穆を叙す。及び義府出でて普州刺史と為るに及びて、遂に即ち除削す。義府聞きて之を銜む。及び重ねて宰相と為るに及びて、乃ち人をしてその罪を誣構せしめ、竟に獄に下りて自殺す。初め、貞観中、太宗吏部尚書高士廉・御史大夫韋挺・中書侍郎岑文本・礼部侍郎令狐徳棻等及び四方の士大夫門閥に諳練する者に命じ、『氏族志』を修めしむ。百巻を勒成し、升降去取、時に允当と称す。諸州に頒下し、永式として蔵む。義府その家代名無きを恥じ、乃ち奏して此の書を改め、専ら礼部郎中孔志約・著作郎楊仁卿・太子洗馬史玄道・太常丞呂才に委ねて重修せしむ。志約等遂に格を立てて云く、「皇朝五品の官を得る者は、皆士流に升る」と。ここにおいて兵卒軍功を以て五品に致る者、尽く書限に入り、更に名づけて『姓氏録』と為す。これにより搢紳士大夫多く甄叙せらるるを恥じ、皆此の書を号して「勲格」と為す。義府仍って奏して天下の『氏族志』の本を収めて之を焚かしむ。関東魏・斉の旧姓、皆淪替すと雖も、猶相矜尚し、自ら婚姻を為す。義府子の為に婚を求め得ず、乃ち奏して隴西李等七家、相与に婚姻を為すことを得ざらしむ。

陰陽占候の者杜元紀が李義府のために望気を行い、「お住まいの邸宅には獄気がある。積み立てた銭二千万を発散させれば厭勝できる」と言う。義府はこれを信じ、聚斂を更に急ぎ切迫させた。義府が母の喪に服している時、朔望に哭仮を与えるとの制があったが、義府はしばしば微服して元紀と共に未明に城東を出て、古い塚に登り候望し、哀礼をことごとく廃した。ここにおいて人々は皆、彼が災いを窺い覗き、ひそかに異図を抱いていると言った。義府はまたその子右司議郎李津を遣わし、長孫無忌の孫の長孫延を召して、「貴君のために一官を得よう。数日のうちに詔書が出るであろう」と言った。五日経つと、果たして延に司津監を授け、そこで延から銭七百貫を取った。ここにおいて右金吾倉曹参軍楊行穎が上表して義府の罪状を言上し、制を下して司刑太常伯劉祥道に侍御詳刑と共にその事を対推させ、なお司空李勣にこれを監させた。推按すること皆実あり、ここにおいて制を下して言う、「右相・行殷王府長史・河間郡公李義府は、禁中の語を洩らし、寵授の朝恩を売り、占候の人と交わり、朔望の哀礼を軽んじた。邪を蓄え貨を黷し、実に衣冠を玷し、悪を稔らせ賢を嫉み、政道を載せて虧いた。特に任使多年の故を以て、未だ忍びず便ち重罰を加えず、宜しく遐棄に従い、以て朝倫を粛すべし。名を除き長流巂州とすべし。その子太子右司議郎李津は、専ら権門に恃み、忌憚を懐くこと稀にして、姦淫を務めとし、賄賂に厭きることなく、交遊は非所にして、機密を潜かに報じ、また宜しく明罰を加え、荒裔に屏跡すべし。名を除き長流振州とすべし。」義府の次子率府長史李洽・千牛備身李洋・子婿少府主簿柳元貞らは、皆恃んで贓を受け、併せて名を除き長流延州とした。朝野慶びを称えざるなく、時に人のこれがために語るに、「今日巨唐の年、還た四凶の族を誅す」と。四凶とは、洽及び柳元貞ら四人を言う。あるいは『河間道行軍元帥劉祥道銅山大賊李義府を破る露布』を作り、これを通衢に榜示した。義府は先に多く人の奴婢を取り、敗れるに及んで、一時に奔散し、各々その家に帰った。『露布』に「奴婢を混ぜて乱れ放ち、各々家を識りて競い入る」と称するは、これを謂うのである。乾封元年、大赦があったが、長流人は還ることを許されず、義府は憂憤して発病し卒した。年五十余。文集三十巻、代に伝わる。また『宦遊記』二十巻を著す。尋いで亡失した。義府の流放後より、朝士は常に憂懼し、彼の復来を恐れたが、その死を聞くに及んで、ここにおいて始めて安んじた。

上元元年、大赦があり、義府の妻子は洛陽に還ることができた。如意元年、則天武后は義府と許敬宗・御史大夫崔義玄・中書舎人王徳儉・大理正侯善業・大理丞袁公瑜ら六人が、永徽の中に翊賛の功があったとして、義府に揚州大都督を、義玄に益州大都督を、徳儉に魏州刺史を、公瑜に江州刺史を追贈した。長安元年、また義府の子左千牛衛将軍李湛及び敬宗の諸子に実封各三百戸を、義玄の子司賓卿崔基・徳儉の子殿中監王璇に実封各二百五十戸を、善業の子太子右庶子侯知一・公瑜の子殿中丞袁忠臣に実封各二百戸を賜った。えい宗が即位し、景雲元年、併せて義府ら六家の実封を停めた。

少子 李湛

義府の少子李湛は、六歳の時、父の貴により周王文学を授けられた。神龍初年、累遷して右散騎常侍となり、河間郡公の封を襲いだ。時に鳳閣侍郎張柬之が張易之兄弟を誅せんとし、ここにおいて湛を引きいて左羽林将軍とし、敬暉らと共に皇太子に啓請し、将に易之兄弟を誅す意を備え陳べさせた。太子はこれを許した。兵を発するに及んで、湛は右羽林大将軍李多祚らと共に東宮に詣で皇太子を迎えたが、拒んで時に出ず、湛は進み啓して言う、「逆豎は道に反し常を乱し、将に不軌を図らんとし、宗社の危敗は実に須臾に在り。湛ら諸将は南衙の執事と期を剋して誅翦せんとす。伏して願わくは殿下暫く玄武門に至り、以て衆望に副わんことを。」太子曰く、「凶豎の悖乱は、誠に誅夷に合う。然れども聖躬不豫にて、驚動有らんことを慮る。公等暫く止め、以て後図を俟て。」湛曰く、「諸将は家族を棄て、共に宰相同心戮力し、社稷を匡輔せんとす。殿下奈何ぞ其の懇誠を哀しまずして、之を鼎鑊に陷れんと欲するや。湛らの微命は、惜しむに足らざるも、殿下速やかに出で自ら止遏せよ。」太子ここにおいて馳馬して路に就く。湛は従って玄武門に至り、関を斬って入り、率いる所の兵を以て直ちに則天の寝る長生殿に至り、環繞して侍衛した。ここにおいて奏す、「臣ら令を奉じて逆賊易之・昌宗を誅せんとす。漏洩有らんことを恐れ、遂に預め奏することを獲ず、輒ち兵を禁掖に陳ぶ。是れ臣らの死罪なり。」則天湛に謂いて曰く、「卿も亦た易之を誅す軍将なるか。我汝父子に恩少なからず、何ぞ是に至るや。」則天は上陽宮に移り就くに因り、湛を留めて宿衛させた。中宗が即位し、右羽林大将軍を拝し、趙国公に進封し、実封を加えて前に通じ満五百戸とした。頃くして、また左散騎常侍を授け、累転して左領軍衛大将軍となった。開元初年に卒した。崔義玄は別に伝がある。

史臣曰く

史臣曰く、許高陽は武徳の際、既に文皇の入館の賓たり、垂三十年、位列曹尹を過ぎず。而して馬周・劉洎は羈旅徒步より起り、六七年の間、皆宰執に登る。其の行実を考うるに、則ち高陽の文学宏奥は、周・洎以て之を過ぐる無し。然れども太宗の任遇相殊なるは、良に高陽は才優にして行薄きが故なり。及び嗣君の沖暗に属し、嬖妾の奸邪に阿附し、豺狼に窺図し権軸を窺う。人の凶険、一に斯に至る。仲尼の所謂「周公の才有りと雖も、以て観るに足らず」なり。義府は才思精密、所謂「猩猩能く言う」、鄙しいかな。

賛して曰く

賛して曰く、貞観の文士、高陽・河間。図形学館に、染翰書山。身を進むるは筆を以てし、位を得るは奸に由る。虎に翼を傅うれば、即ち又た胡顔ならん。