旧唐書
郭孝恪、張儉、蘇定方、薛仁貴、程務挺、張士貴、趙道興
郭孝恪
郭孝恪は許州陽翟の人であり、若くして志節があった。隋末、郷里の数百人を率いて李密に帰附し、密は大いに喜んで言うには、「昔より汝潁には奇士が多いと称したが、故に誤りではない」と。徐勣と共に黎陽を守らせた。後に密が敗れると、勣は孝恪を朝廷に遣わして帰順の意を表させ、陽翟郡公に封ぜられ、宋州刺史に任ぜられた。徐勣と共に武牢以東を経営させ、得た州県は選補を委ねられた。その後、竇建德が衆を率いて王世充を救援しに来ると、孝恪は青城宮において太宗に策を進めて言うには、「世充は日々逼迫し、力尽き計窮まり、首を懸け面縛するは、足を翹げて待つべし。建德は遠くより来りて虐を助け、糧運は阻絶す、これ天の喪わしむる時なり。武牢を固め、汜水に軍を屯し、機に応じて変ずれば、則ち克殄し易からん」と。太宗はその計を然りとした。建德を破り、世充を平らげた後、太宗は洛陽において諸将を集めて酒宴を開き言うには、「郭孝恪の建德を擒える謀略、王長先の龍門における米の功績は、皆諸人の右に出る」と。貝、趙、江、涇の四州刺史を歴任し、在任地において能ある名があった。入朝して太府少卿となり、左驍衛将軍に転じた。貞観十六年、累次して金紫光禄大夫を授かり、安西都護・西州刺史を行った。その地は高昌の旧都であり、士人と流配人及び鎮兵が雑居し、また砂礫に限られ、中国と隔絶していた。孝恪は誠を推し撫禦し、大いにその歓心を得た。初め、王師が高昌を滅ぼした時、高昌が捕虜とした焉耆の生口七百人を尽く返還するよう制した。焉耆王はまもなく叛いて欲穀可汗に帰し、朝貢は稀になった。孝恪に機便を窺わせ、表してこれを撃つことを請うた。孝恪を安西道行軍総管とし、歩騎三千を率いて銀山道より出て焉耆を伐った。孝恪は夜にその城を襲い、その王龍突騎支を虜にした。太宗は大いに喜び、璽書を以て労うには、「卿は焉耆を破り、その偽王を虜にし、功を立て威を行き渡らせ、深く委ねた所に副う。但し焉耆は絶域にして、地は天山に阻まれ、遠きを恃み深きを憑み、敢えて叛逆を懐く。卿は望崇く位重く、報效の情深く、遠く沙場に渉り、罰罪を行い、その堅壁を取るに、曾て崇朝を要せず、再び遊魂を廓清し、遂に遺寇無し。緬と思えば力を竭くす、必ず大いに艱辛なり。険を超えて成功す、深く嘉尚すべし」と。俄かにまた孝恪を昆丘道副大総管として龜茲を討たせ、その都城を破った。孝恪は自ら留守し、余軍は別の道より進んだ。龜茲の国相那利は衆を率いて遁逃した。孝恪は城外が未だ賓服せざるを以て、乃ち外に出て営した。ある龜茲人が来て孝恪に謂うには、「那利は相たり、人心素より帰す、今野に亡び、必ず変を為さんと思わん。城中の人、頗る異志有り、公宜しく之を備うべし」と。孝恪はこれを虞いとせず。那利らは果たして衆万余を率い、密かに城内の降胡と表裏して応じた。孝恪は警候を失い、賊将が城に入り鼓噪して、孝恪は始めて之に気づき、乃ち部下千余人を率いて城に入り、賊と合戦した。城中の人また那利に応じ、孝恪を攻めた。孝恪は力戦して入り、その王の居所に至り、旋いてまた出で、城門において戦い、流矢に中たって死んだ。孝恪の子待詔もまた同じく陣に死す。賊は竟に退走し、将軍曹継叔がまたその城を抜いた。太宗はこれを聞き、初めは孝恪が警備を加えず、以て顛覆を致したことを責め、後にはまた之を憐れみ、その家の為に哀を挙げた。高宗即位すると、安西都護・陽翟郡公を追贈し、待詔には遊撃将軍を贈り、仍って賻物三百段を賜う。孝恪は性奢侈にして、仆妾器玩、務めて極めて鮮華を尽くし、軍中に在りと雖も、床帳完具せり。嘗て行軍大総管阿史那社爾に遺すも、社爾は一も受けず。太宗はこれを聞きて曰く、「三将の優劣同じからざるなり。郭孝恪今寇虜に屠られしは、自ら伊咎を貽すと謂うべし」と。次子待封は、高宗の時、官は左豹韜衛将軍に至る。咸亨中、薛仁貴と共に兵を率いて吐蕃を討ち、大非川において戦いに敗れ、死を減じて除名せらる。少子待聘は、長安中に官は宋州刺史に至る。
張儉
張儉は雍州新豊の人であり、隋の相州刺史・皖城公威の孫である。父植は車騎将軍・連城県公。儉は即ち高祖の従甥なり。貞観初め、軍功により累次して朔州刺史に遷る。時に頡利可汗は自ら強盛を恃み、求むる所ある毎に、輒ち書を遣わして勅と称す。辺境の諸州は、互いに承稟す。儉の至るに及んで、遂に拒んで受けず、太宗聞きて之を嘉す。儉はまた広く屯田を営み、歳に穀十万斛を致し、辺糧益々豊かになる。霜旱に遭うと、百姓を勧めて相贍わしめ、遂に饑餒を免れ、州境独り安んず。後に勝州都督を検校し、母憂の為に職を去る。儉は前に朔州に在りし時、李靖が突厥を平らげた後に属し、思結部落有りて、貧窮離散す。儉は招慰安集す。来らざる者は、或いは磧北に居り、既に親属分住し、私に相往還すとも、儉は並びに拘責せず、但だ綱紀を存し、羈縻するのみ。儉が移任するに及び、州司は其の将に叛かんと謂い、遽かに以て奏聞す。朝廷は兵を発して進討するを議し、仍って儉を起して使と為し、就きて動静を観る。儉は単馬にて誠を推し、その部落に入り、諸首領を召し、腹心を布けば、咸な匍匐啓顙して至り、便ち代州に移就す。即ち代州都督を検校せしむ。儉は遂に其の営田を勧め、毎年豊熟す。其の私蓄富実なるを慮り、驕侈を生じ易きを以て、表して和糴を請い、貯備に充てんと擬す。蕃人は喜悦し、辺軍大いに其の利を収む。営州都督に遷り、東夷校尉を兼護す。太宗将に遼東を征せんとし、儉を遣わして蕃兵を率い先んじて抄掠せしむ。儉の軍は遼西に至り、遼水の汛漲の為に、久しくして未だ渡らず。太宗は畏懦と為し、召還す。儉は洛陽に詣り謁見し、面して利害を陳べ、因りて水草の好悪、山川の険易を説く。太宗甚だ悦び、仍って行軍総管を拝し、諸蕃騎卒を兼領し、六軍の前鋒と為す。時に高麗の候者を獲る者有り、莫離支将に遼東に至らんと称す。詔して儉に兵を率い新城路より邀撃せしむ。莫離支竟に出でず。儉は因りて兵を進めて遼を渡り、建安城に趨れば、賊徒大いに潰え、数千級を斬首す。功により累次して皖城郡公に封ぜられ、賞賜甚だ厚し。その後、東夷校尉を東夷都護に改め、仍って儉を以て之と為す。永徽初め、金紫光禄大夫を加う。四年、官に卒す。年六十。諡して密と曰う。儉の兄大師は、累次軍功により官は太僕卿・華州刺史・武功県男に至る。儉の弟延師は、永徽初め、累次して左衛大将軍を授かり、范陽郡公に封ぜらる。延師は廉謹周慎にして、羽林屯兵を典すること前後三十余年、未だ嘗て過ち有らず。朝廷是を以て之を称す。龍朔三年、官に卒す。荊州都督を贈られ、諡して敬と曰い、昭陵に陪葬す。唐の制、三品已上は門に棨戟を列ぬ。儉兄弟三院、門皆戟を立て、時人之を栄しとし、号して「三戟張家」とす。
蘇定方
蘇定方は冀州武邑の人である。父の邕は大業の末年に、郷里の数千人を率いて本郡のために賊を討った。定方は驍勇で力強く、胆気は並ぶ者なく、十余歳の時、父に従って討捕に加わり、先陣を切って敵陣に突入した。父が亡くなると、郡守はまた定方に兵を率いるよう命じ、賊の首領張金稱を郡の南で破り、自ら金稱を斬り、また楊公卿を郡の西で破り、二十余里にわたって追撃し、多くを殺し捕らえ、郷里の人々は彼に頼った。後に竇建徳に仕え、建徳の将軍高雅賢は彼を大いに愛し、養子とした。雅賢はやがてまた劉黒闥のために城邑を攻め落とされ、定方は常に戦功を立てた。黒闥と雅賢が死ぬと、定方は郷里に帰った。貞観の初め、匡道府折衝となり、李靖に従って磧口で突厥の頡利を襲撃した。靖は定方に二百騎を率いて前鋒となるよう命じ、霧に乗じて進軍し、賊から一里ほど離れたところで、突然霧が晴れ、その牙帳を望見した。駆け寄って掩殺し、数十百人を殺した。頡利と隋の公主は狼狽して散り散りに逃げ、残りの者は伏し拝み、靖の軍が到着すると、遂にすべて降伏した。軍が帰還すると、左武候中郎将を授けられた。永徽年間、左衛勲一府中郎将に転じ、左衛大將軍程知節に従って賀魯を征討し、前軍総管となった。鷹娑川に至ると、突厥の二万騎が来て防ぎ、総管蘇海政がこれと戦い、互いに前進と後退を繰り返した。やがて突厥の別部鼠尼施らがまた二万余騎を率いて続いて到着した。定方はちょうど馬を休めており、一つの小嶺を隔てて、知節から十里ほど離れたところにいたが、塵埃が上がるのを見て、五百騎を率いて馳せ往きこれを撃ち、賊の衆は大いに潰走し、二十里にわたって追撃し、千五百余人を殺し、馬二千匹を獲、死んだ馬や捨てられた甲冑兵器は山野に連なり、数え切れなかった。副大総管王文度はその功を妬み、知節に言った。「賊を破ったとは言え、官軍にも死傷がある。これは勝敗を決する法に過ぎず、どうしてこのようなことをするのか。今後はただ方陣を組んで、輜重をすべて陣中に納め、四方に隊列を布き、人馬に甲冑を着せ、賊が来たら即ち戦い、万全を保つべきである。軽率に動いて、損傷を招くようなことをしてはならない。」また別に聖旨を奉じたと偽って、知節が勇を恃んで軽敵するので、文度がその節制を行うようにと言い、遂に軍を収めて深入りを許さなかった。終日馬に跨り甲冑を着て陣を組んでいたため、馬は多くが痩せ死にし、士卒は疲労し、戦う志がなくなった。定方は知節に言った。「本来は賊を討つために来たのに、今は自ら守るばかりで、馬は飢え兵は疲れ、賊に逢えば即ち敗れる。このように臆病では、どうして功を立てられようか。また公は大将であり、閫外のことは自ら専断することを許されないのに、別に軍副を遣わして、その号令を専らにするなど、道理として必ずそうではない。文度を囚縛し、急ぎ上表して奏上すべきである。」知節は従わなかった。恒篤城に至ると、胡人が降伏してきた。文度はまた言った。「我が軍が帰還する頃には、彼らはまた賊となるだろう。皆殺しにして、その資財を取る方がよい。」定方は言った。「そうすれば、自ら賊となるようなもので、どうして反逆者を討伐したと言えようか。」文度は従わなかった。分捕り品を分ける時、ただ定方だけは何も取らなかった。軍が帰還すると、文度は死罪に処せられ、後に除名された。翌年、定方を行軍大総管に抜擢し、また賀魯を征討し、任雅相、回紇の婆潤を副将とした。金山の北から、処木昆部落を目指して進み、これを大破した。その俟斤懶獨祿が衆一万余帳を率いて降伏してきたので、定方はこれを慰撫し、その千騎を発して突騎施部に進んだ。賀魯は胡祿屋闕啜、懾舍提暾啜、鼠尼施処半啜、処木昆屈律啜、五弩失畢の兵馬を率い、衆十万近くで、官軍を防ぎに来た。定方は回紇及び漢兵一万余人を率いてこれを撃ち、賊は定方の兵が少ないと侮り、四方から包囲した。定方は歩卒に原に拠り、槊を集めて外向きにさせ、自ら漢騎を率いて北原に陣を布いた。賊は先に歩軍を撃ったが、三度突撃しても入れず、定方は勢いに乗じてこれを撃ち、賊は遂に大いに潰走し、三十里にわたって追撃し、人馬数万を殺した。翌日、兵を整えて再び進んだ。ここにおいて胡祿屋ら五弩失畢はすべて衆を率いて降伏し、賀魯はただ処木昆屈律啜と数百騎で西に逃げた。残りの五咄六は賀魯の敗北を聞き、それぞれ南道から歩真に降伏した。ここにおいて西蕃はすべて平定された。ただ賀魯と咥運がその牙内の残りの衆を率いて奔ったので、定方はこれを追い、また伊麗水上で大戦し、殺し捕らえることほぼ尽くした。賀魯と咥運は十余騎で夜に迫って逃亡したので、定方は副将蕭嗣業に追捕を命じ、石国に至ってこれを捕らえて帰還した。高宗が軒に臨むと、定方は戎服を着て賀魯を操り献上し、その地を州県とし、西海に極めた。定方は功により左驍衛大將軍に遷り、刑国公に封ぜられ、また子の慶節を武邑県公に封じた。やがて思結の闕俟斤都曼が先に諸胡を鎮めていたが、その部衆及び疏勒、朱俱般、葱嶺の三国を擁して再び叛いた。詔により定方を安撫大使とし、兵を率いて討伐させた。葉葉水に至ると、賊は馬頭川を守っていた。そこで精兵一万人、馬三千匹を選んで馳せ掩襲し、一日一夜に三百里を行き、翌朝城西十里に至った。都曼は大いに驚き、兵を率いて城門の外で防戦したが、賊軍は敗北し、退いて馬保城を守り、王師はその門に進んで駐屯した。夜に入り、諸軍が次第に到着し、四方から包囲し、木を伐って攻撃の具とし、城下に布列した。都曼は免れられないと悟り、面縛して門を開き出降した。捕虜を連れて東都に帰還すると、高宗は乾陽殿に御し、定方は都曼特勒を操り献上した。葱嶺以西はすべて平定された。功により邢州鉅鹿の真邑五百戸を加増された。顕慶五年、太原に行幸に従い、制により熊津道大総管を授けられ、師を率いて百済を討った。定方は城山から海を渡り、熊津江口に至ると、賊は兵を屯めて江を守っていた。定方は東岸に登り、山に乗って陣を布き、これと大戦し、帆を揚げて海を覆い、相次いで到着した。賊軍は敗北し、死者数千人、残りは奔り散った。潮が満ちて上るのに遇い、船を連ねて江に入り、定方は岸上に陣を擁し、水陸ともに進み、楫を飛ばし鼓噪して、直ちに真都に向かった。城から二十里ほど離れたところで、賊は国を挙げて防ぎに来たが、大戦してこれを破り、殺し捕虜にした者一万余人、追撃して城郭内に入った。その王義慈及び太子隆は北境に奔り、定方は進んでその城を包囲した。義慈の次子泰が自立して王となった。嫡孫の文思は言った。「王と太子はともに城を出たが、身は健在である。叔父が兵馬を総べ、即ち擅に王となる。仮に漢兵が退いたとしても、我が父子は全うされないだろう。」遂にその左右を率いて城から投下し、百姓もこれに従い、泰は止めることができなかった。定方は兵卒に命じて城に登り旗幟を建てさせた。ここにおいて泰は門を開き頓顙した。その大将禰植がまた義慈を連れて降伏し、太子隆並びに諸城主も皆ともに降伏の意を示した。百済はすべて平定され、その地を六州に分けた。義慈及び隆、泰らを捕虜として東都に献上した。定方は前後して三国を滅ぼし、皆その主を生け捕りにした。賞賜された珍宝は数え切れず、なおその子慶節を尚輦奉御に任じ、定方はやがて左武衛大將軍に遷った。乾封二年に卒去、七十六歳。高宗はこれを聞いて悲しみ惜しみ、侍臣に言った。「蘇定方は国に功があり、例によって褒賞贈官されるべきであったのに、卿らが言わなかったため、遂に哀栄が及ばなかった。このことを言い及ぶと、思わず嘆き悼まずにはいられない。」急いで詔を下して幽州都督を追贈し、諡して莊といった。
薛仁貴
薛仁貴は絳州龍門の人である。貞観の末、太宗がみずから遼東を征伐したとき、仁貴は将軍張士貴に謁して応募し、従軍を願い出た。安地に至ると、郎将劉君昂が賊に包囲されて危急に陥っていたので、仁貴は救援に向かい、馬を躍らせてまっしぐらに進み、手ずから賊将を斬り、その首を馬鞍に懸けた。賊はみな恐れ伏し、仁貴はここに名を知られるようになった。大軍が安地城を攻めたとき、高麗の莫離支は将高延壽・高惠真を遣わして兵二十五万を率いて来て防戦し、山に依って陣営を結んだ。太宗は諸将に命じて四方からこれを撃たせた。仁貴は自ら驍勇を恃み、奇功を立てんと欲し、そこでその服色を変え、白衣を着て戟を握り、腰に弓を張り、大声で呼びながら先に突入し、向かうところ前を阻むものなく、賊はことごとく敗走した。大軍がこれに乗じ、賊は大いに潰えた。太宗は遠くからこれを見て、使者を走らせて先鋒の白衣の者が誰であるかを問わせ、特に引見し、馬二匹・絹四十匹を賜い、遊撃将軍・雲泉府果毅に抜擢し、なお北門長上を命じ、併せて生口十人を賜った。軍が還ると、太宗は言った、「朕の旧将はみな老いて、閫外の任に堪えず、しばしば驍雄を抜擢しようと思うが、卿に及ぶ者はいない。朕は遼東を得たことを喜ばず、卿を得たことを喜ぶのである。」まもなく右領軍郎将に遷り、もとのまま北門長上となった。
永徽五年、高宗が萬年宮に行幸したとき、甲夜に山水が急に至り、玄武門に衝突し、宿衛の者は散り走った。仁貴は言った、「天子に急があるのに、どうして死を恐れようか。」そこで門の桄に登って叫び呼び、宮内を驚かせた。高宗は急いで出て高い所に乗り移ったが、間もなく水が寝殿に入った。上は仁貴に使者を遣わして言った、「卿の呼び声に頼って、ようやく溺れることを免れた。忠臣のあることを初めて知った。」ここに御馬一匹を賜った。蘇定方が賀魯を討ったとき、仁貴は上疏して言った、「臣は聞く、兵を出すに名なくしては、事は成らず、その賊たることを明らかにしてこそ、敵は伏すことができると。今、泥熟は素より幹を仗り、賀魯に服さず、賊に破られ、その妻子を虜われた。漢兵が賀魯の諸部落において泥熟らの家口を得て、賤しい者に充てようとしているが、これを取り調べて送り返し、なお賜賚を加えるべきである。これすなわちその枉って破られたことを憐れみ、百姓に賀魯が賊であることを知らしめ、陛下の徳沢の広く及ぶことを知らしめるものである。」高宗はその言をよしとし、泥熟の家口を取り調べて送り返させた。ここにおいて泥熟らは軍に随って死節を尽くさんと請うた。
顕慶二年、詔して仁貴を程名振の副とし遼東を経略させ、貴端城において高麗を破り、三千級を斬首した。明年、また梁建方・契何力とともに遼東において高麗の大将溫沙門と横山で戦い、仁貴は単騎で先に突入し、弦に応じて倒れない者はなかった。高麗に善射の者がおり、石城の下で十余人を射殺したので、仁貴は単騎でまっすぐに衝きかかり、その賊は弓矢をともに失い、手を挙げることができず、生け捕りにした。間もなくまた辛文陵とともに黒山で契丹を破り、契丹王阿卜固および諸首領を捕らえて東都に赴いた。功により河東県男に封ぜられた。まもなくまた兵を率いて天山で九姓突厥を撃つことになり、出発に際し、高宗は内から甲を出し、仁貴に試させた。上は言った、「古の善射の者に、七重の札を貫く者がいた。卿はまず五重を射よ。」仁貴は射てこれを貫いた。高宗は大いに驚き、さらに堅い甲を取って賜った。当時、九姓は十余万の衆を有し、驍健数十人を遣わして来て挑戦したので、仁貴は三矢を放ち、三人を射殺した。残りの者はたちまち下馬して降伏を請うた。仁貴は後患とならんことを恐れ、ともに坑に埋めて殺した。さらに磧北に進んで余衆を安撫し、その偽葉護兄弟三人を捕らえて還った。軍中に歌った、「将軍三箭定天山、戦士長歌入漢関。」九姓はこれより衰弱し、再び辺境の患いとなることはなかった。
乾封の初め、高麗の大将泉男生が衆を率いて内附したので、高宗は将軍龐同善・高等を遣わしてこれを迎接させた。男生の弟男建が国人を率いて同善らを迎撃したので、詔して仁貴に兵を統率させて後援とした。同善らが新城に至ると、夜に賊に襲われた。仁貴は驍勇を率いて救援に赴き、数百級を斬首した。同善らがさらに金山に進むと、賊に敗れ、高麗は勝ちに乗じて進んだ。仁貴が横からこれを撃ち、賊衆は大敗し、五万余級を斬首した。ここにその南蘇・木底・蒼岩などの三城を抜き、初めて男生と相会した。高宗は手勅を下してこれを労い、言った、「金山の大陣、凶党は実に多し。卿は身を士卒に先んじ、奮って命を顧みず、左に衝き右に撃ち、向かうところ前を阻むものなく、諸軍勇を賈い、これにより克捷した。宜しく善く功業を建て、この令名を全うすべし。」仁貴は勝ちに乗じて二千人を率いて扶餘城を攻め、諸将はみな兵少ないと言ったが、仁貴は言った、「主将の善く用いるに在るのであって、多きに在るのではない。」そこで先鋒として進み、賊衆が来て防ぐと、迎え撃って大破し、殺獲一万余人、ここに扶餘城を抜いた。扶餘川の四十余城は風に乗じて震え恐れ、たちまち降伏した。仁貴は海に沿って地を略し、李勣と平壤城で大いに軍を会した。高麗が降伏すると、詔して仁貴に兵二万人を率いさせ劉仁軌とともに平壤に留守し、なお右威衛大将軍を授け、平陽郡公に封じ、兼ねて検校安東都護とした。治所を新城に移し、孤老を撫恤し、幹能ある者には才に随って任用し、忠孝節義にはみな旌表を加えた。高麗の士衆はみな欣然として教化を慕った。
咸亨元年、吐蕃が寇したので、また仁貴を邏娑道行軍大総管とした。将軍阿史那道真・郭待封らを率いてこれを撃った。待封はかつて鄯城鎮守であり、仁貴の下にあることを恥じ、しばしば節度に違った。軍が大非川に至り、烏海に向かって出発しようとしたとき、仁貴は待封に言った、「烏海は険遠で、車行は艱澀である。もし輜重を引けば、事機を失い、賊を破って即時に戻っても、また転運が煩わしい。あそこは瘴気が多いので、久しく留まるべきではない。大非嶺の上は柵を置くに足る。二万人を留めて両柵を作り、輜重などはみな柵内に留め、我らは軽鋭を率いて倍道し、その整わざるを掩い、即時に撲滅しよう。」仁貴は先に行き、河口で賊に遇い、これを撃破し、斬獲することほぼ尽くし、その牛羊一万余頭を収め、烏海城に戻って後援を待った。待封はついに仁貴の命に従わず、輜重を率いて進んだ。烏海に至るころ、吐蕃二十余万が衆を尽くして来て救援し、邀撃して待封を敗走させ山に趨らせ、軍糧および輜重はともに賊に掠められた。仁貴はついに退軍して大非川に屯した。吐蕃はさらに衆四十余万を加えて来て防戦し、官軍は大敗し、仁貴はついに吐蕃の大将論欽陵と和を約した。仁貴は歎いて言った、「今年は庚午の歳、軍行は歳に逆らう。これが鄧艾が蜀に死した所以である。我が敗れたる所以を知った。」仁貴は除名に坐した。
やがて高麗の衆が相次いで再び叛き、詔して薛仁貴を起用して鶏林道総管とし、以てこれを経略せしむ。上元年中、事に坐して象州に徙され、赦に会して帰る。高宗その功を思い、開耀元年、再び召見し、謂いて曰く、「往時九成宮に水害に遭い、卿無くば已に魚と為るべかりし。卿また北伐して九姓を撃ち、東撃して高麗を破り、漢北・遼東咸に声教に遵うは、並びに卿の力なり。卿過ち有りと雖も、豈に相忘るべけんや。人云う、卿烏海城下に自ら賊を撃たず、致して利を失わしむと、朕の恨む所は、唯此の一事のみ。今西辺静かならず、瓜・沙の路絶ゆ、卿豈に高枕して郷邑に安んじ、朕が為に指揮せざるべけんや」と。ここに於いて起用して瓜州長史に授け、尋いで右領軍衛将軍を拝し、代州都督を検校し、又兵を率いて突厥の元珍等を雲州に於いて撃ち、首級万余を斬り、生口二万余人・駱駝馬牛羊三万頭余を獲る。賊仁貴の復た起用されて将と為るを聞き、素より其の名を憚り、皆奔散し、敢えて之に当たらざりき。其の年、仁貴病卒す、年七十、左驍衛将軍を贈られ、官に霊輿を造り、並びに家口に伝を給して郷に還す。子訥、別に伝有り。
程務挺
程務挺は、洺州平恩の人なり。父名振、大業末、竇建徳に仕えて普楽令と為り、甚だ能名有り、諸賊其の境を犯す敢えず。尋いで建徳を棄てて国に帰し、高祖遥かに永年令を授け、仍って兵を率いて河北を経略せしむ。名振夜に鄴県を襲い、其の男女千余人を俘えて以て帰る。鄴を去ること八十里、婦人に乳汁有る者九十余人を閲し、悉く放ち遣わす。鄴人其の仁恕に感じ、為に斎を設け、以て其の恩に報ゆ。建徳の敗るるに及び、始めて任に之く。俄にして劉黒闥洺州を陥とし、名振復た刺史陳君賓と自ら抜けて朝に帰す。母潘・妻李、路に於いて賊に掠められ、黒闥に没す。名振又太宗に従い黒闥を討つ。時に黒闥冀・貝・滄・瀛等の州に於いて水陸糧を運び、以て官軍に拒ぐ。名振千余人を率いて邀撃し、尽く其の舟車を毀つ。黒闥之を聞きて大いに怒り、遂に名振の母・妻を殺す。黒闥平らぐに及び、名振手ずから黒闥を斬ることを請い、其の首を以て母を祭る。名振功を以て営州都督府長史を拝し、東郡公に封ぜられ、物二千段・黄金三百両を賜う。累ねて洺州刺史に転ず。太宗将に遼東を征せんとし、名振を召して経略の事を問う。名振初めに対して旨を失う。太宗色を動かして之を詰む。名振酬対して弁に逾ゆ。太宗意解け、左右に謂いて曰く、「房玄齢常に我が前に在りて、毎に別に余人を瞋るを見るに、猶顔色主無し。名振生平我を見ず、向來責譲すれども、詞理縦横す、亦奇士なり」と。即日に右驍衛将軍を拝し、平壌道行軍総管を授く。前後沙卑城を攻め、独山陣を破るに、皆少を以て衆を撃ち、名将と称せらる。永徽六年、累ねて除して営州都督、東夷都護を兼ぬ。又兵を率いて高麗を貴端水に破り、其の新城を焚き、殺獲甚だ衆し。後に歴て晋・蒲二州刺史と為る。龍朔二年卒す。右衛大将軍を贈られ、諡して烈と曰う。
務挺少くより父に従い征討し、勇力を以て聞こえ、右領軍衛中郎将に遷る。永隆中、突厥の史伏念反叛し、定襄道行軍総管李文柬・曹懐舜・竇義昭等相次いで戦敗す。又詔して礼部尚書裴行儉に兵を率いて之を討たしめ、務挺副将と為り、仍って豊州都督を検校す。時に伏念金牙山に屯す。務挺副総管唐玄表と兵を引いて先ず之を逼る。伏念支うる能わざるを懼れ、遂に間道より行儉に降り、伏念に不死を許す。中書令裴炎、伏念の務挺等の兵勢を懼れて降るは、行儉の功に非ずと為し、伏念遂に誅せらる。務挺功を以て右衛将軍に遷り、平原郡公に封ぜらる。永淳二年、綏州城平県人白鉄余、部落稽の党を率いて県城を拠りて反し、偽りに尊号を称し、百官を署し、又進みて綏息を寇し、人吏を殺掠し、村落を焚焼す。詔して務挺と夏州都督王方翼に之を討たしむ。務挺其の城を進攻し、之を抜き、白鉄余を生擒し、尽く其の余党を平らぐ。又功を以て左驍衛大将軍・検校左羽林軍を拝す。嗣聖初、右領軍大将軍・検校右羽林軍張虔勖と同しく則天の密旨を受け、兵を帥いて殿庭に入り、中宗を廃して廬陵王と為し、豫王を立てて皇帝と為す。則天朝に臨み、累ねて賞賜を受け、特だ其の子斉之を尚乗奉御に拝す。務挺泣いて請いて回らせて其の弟に授けしむ。則天之を嘉し、制を下して褒美し、乃ち其の弟原州司馬務忠を太子洗馬に拝す。又明年、務挺を以て左武衛大将軍・単于道安撫大使と為し、軍を督して以て突厥に禦わしむ。務挺綏禦に善くし、威信大いに行わる。偏裨已下、力を尽くさざる無し。突厥甚だ之を憚り、相率いて遁走し、敢えて辺に近づかず。裴炎獄に下るに及び、務挺密に表して之を申理す。此れ由りて旨に忤う。務挺素より唐之奇・杜求仁と善し。或いは言を構えて務挺と裴炎・徐敬業皆潜かに相応接すとす。則天左鷹揚将軍裴紹業を遣わして就きて軍に之を斬らしめ、其の家を籍没す。突厥務挺の死を聞き、所在宴楽して相慶し、仍って務挺の為に祠を立て、毎に出師攻戦するに即ち祈祷す。
貞観・永徽の間、軍将又張士貴・趙道興有り、状跡録す可し。
張士貴
張士貴は、虢州盧氏の人なり。本名忽聿、騎射に善く、膂力人に過ぐ。大業末、衆を聚めて盗と為り、城邑を攻剽し、遠近之を患い、「忽聿賊」と号す。高祖書を降して之を招懐す。士貴統ぶる所を以て款を送り、右光禄大夫を拝す。累ねて戦功有り、爵を新野県公に賜う。東都平定に従い、虢州刺史を授く。高祖之に謂いて曰く、「卿に衣錦して晝遊せしめんと欲す」と。尋いで入りて右武候将軍と為る。貞観七年、反獠を破りて還る。太宗之を労いて曰く、「公親しく矢石に当たり、士卒の先と為るを聞く。古の名将と雖も、何を以てか之に加えん!朕嘗て身を以て国に報ずる者は、性命を顧みずと聞くも、但だ其の語を聞くのみ、未だ其の実を聞かず。公に於いて之を見る」と。後に累ねて左領軍大将軍に遷り、改めて虢国公に封ぜらる。顕慶初卒す。荊州都督を贈られ、昭陵に陪葬す。
趙道興
趙道興は、甘州酒泉の人なり。隋の右武候大将軍趙才の子なり。道興、貞観初歴ねて左武候中郎将に遷り、宿衛に明閑し、称職と号せらる。太宗嘗て之に謂いて曰く、「卿の父隋の武候将軍と為り、甚だ当官の誉有り。卿今弓冶を克く伝う、家声を墜とさずと謂う可し」と。因りて右武候将軍を授け、爵を天水県子に賜う。其の父の時の廨宇、仍って旧のまま改めず。時人栄えと為す。道興嘗て自ら其の庁事を指して曰く、「此れは趙才将軍の庁なり、還た趙才将軍の児をして坐せしむ」と。朝野に笑われ、口実と為りて伝わる。儀鳳中、累ねて左金吾衛大将軍に遷る。文明年、老病を以て家に致仕す。子交、亦た金吾将軍と為り、凡そ三代金吾を執る、時に称せらる。
史臣曰く
史臣曰く、孝恪は機鈐果毅にして、草昧の際に協し、勲を樹て策を建つるに、傑世の風有り。然れども奢を務むるを恒と為し、既に善を尽くさず、衆を挙げて律を失う、其れ惑わざるか。張公の経略は、天然の才度有り、穡を務め分を勧め、和を董て成績有り、惜しい哉中寿、其の才未だ尽きず。刑国公の神略は翕張し、雄謀は戡定し、屯難を輔平し、始終業を成す。封を疏し位を陟るも、未だ茂典を暢せず、蓋し闕如なり。仁貴は驍悍壮勇にして、一時の傑と為り、至忠大略、勃然として立つ有り。噫、待封協せず、以て全略を敗る。孔子曰く、「与に立つ可く、未だ与に権す可からず。」上明命を加え、竟に功を立つるに致る、臣を知る者は君なり、信なる哉。務挺は勇力驍果、固より父風有り、英概時を輔け、克く洪烈を継ぐ。然れども苟くも廃立に預かり、竟に讒構に陷る。古の言に曰く、「悪の来るや、火の原に燎るが如く、向邇す可からず。」其れ是れを謂うか。士貴・道興は、時に逢いて効を立て、義勇を尽くすを得て、以て其の成るを観る。而して父の風概を継ぎ、三代金を執る、亦た美ならずや。
讚して曰く、五将雄雄として、倶に辺功を立つ。張・蘇の二族、功名始終す。郭・薛・務挺、功を徼り命を奮う。則を垂れて辺を窮む、兵に常勝無し。