舊唐書

巻081

巻081

舊唐書

原文舊唐書

卷八十一

原文卷八十一

列傳第三十一 崔敦禮 盧承慶 劉祥道 李敬玄 李義琰 孫處約 樂彥瑋 趙仁本

原文列傳第三十一 崔敦禮 盧承慶 劉祥道 李敬玄 李義琰 孫處約 樂彥瑋 趙仁本

崔敦礼、盧承慶、劉祥道、李敬玄、李義琰、孫処約、楽彦瑋、趙仁本

原文○崔敦禮 盧承慶 劉祥道 李敬玄 李義琰 孫處約 樂彥瑋 趙仁本

崔敦礼

原文崔敦禮

崔敦礼は、雍州咸陽の人で、隋の礼部尚書崔仲方の孫である。その先祖はもと博陵に居住し、代々山東の著姓であったが、魏の末に関中に移った。敦礼は本名を元礼といい、高祖こうそが改名させた。広く文史に通じ、節義を重んじ、かつて蘇子卿(蘇武)の為人を慕った。武徳年間、通事舎人に任ぜられた。九年、太宗は敦礼をして幽州に赴き廬江王李瑗を召喚させた。李瑗が挙兵して反逆し、敦礼を捕らえ、京師の事情を問うたが、敦礼は終始異なる言葉を吐かなかった。太宗はこれを聞いてその壮挙を称え、左衛郎将に遷し、良馬と黄金雑物を賜った。貞観元年、中書舎人に抜擢され、兵部侍郎に遷り、頻繁に突厥に使した。累転して霊州都督ととくとなった。二十年、兵部尚書として召し出された。また詔を奉じて回紇・鉄勒の部落を安撫した。時に延陀が辺境を侵したが、敦礼は英国公李勣とともにこれを討った。瀚海都督回紇吐迷度がその部下に殺された時、詔により敦礼は部落に赴きこれを綏輯し、その嗣子を立てて還った。敦礼は蕃情に深く通じ、凡そ奏請する事は、多く允会された。永徽四年、高季輔に代わって侍中となり、累封して固安県公とされ、なお国史を修めた。六年、光禄大夫を加えられ、柳奭に代わって中書令となり、まもなくまた兼ねて検校太子詹事となった。敦礼は老病を理由にたびたび退任を請うた。顕慶元年、太子少師に任ぜられ、なお同中書門下三品となった。勅によりその子の定襄都督府司馬崔余慶を召し出し、その病を侍らせた。まもなく卒去、年六十余。高宗は東雲龍門で哀悼の礼を挙げ、東園秘器を賜い、開府儀同三司・并へい州大都督を追贈し、昭陵に陪葬させ、賻として絹布八百段・米粟八百石を賜り、諡して昭といった。子の余慶は、官は兵部尚書に至った。敦礼の孫の貞慎は、神龍初年に兵部侍郎となった。

原文崔敦禮,雍州咸陽人,隋禮部尚書仲方孫也。其先本居博陵,世為山東著姓,魏末徙關中。敦禮本名元禮,高祖改名焉。頗涉文史。重節義,嘗慕蘇子卿之為人。武德中,拜通事舍人。九年,太宗使敦禮往幽州召廬江王瑗。瑗舉兵反,執敦禮,問京師之事,敦禮竟無異詞。太宗聞而壯之,遷左衛郎將,賜以良馬及黃金雜物。貞觀元年,擢拜中書舍人,遷兵部侍郎,頻使突厥。累轉靈州都督。二十年,征為兵部尚書。又奉詔安撫回紇、鐵勒部落。時延陀寇邊,敦禮與英國公李勣瀚海都督回紇吐迷度為其下所殺,詔敦禮往就部落綏輯之,因立其嗣子而還。敦禮深識蕃情,凡所奏請,事多允會。永徽四年,代高季輔為侍中,累封固安縣公,仍修國史。六年,加光祿大夫,代柳奭為中書令,尋又兼檢校太子詹事。敦禮以老疾屢陳乞請退。顯慶元年,拜太子少師,仍同中書門下三品。敕召其子定襄都督府司馬餘慶,使侍其疾。尋卒,年六十餘。高宗舉哀於東雲龍門,賜東園秘器,贈開府儀同三司、并州大都督,陪葬昭陵,賻絹布八百段、米粟八百碩,諡曰昭。子餘慶,官至兵部尚書。敦禮孫貞慎,神龍初為兵部侍郎。

盧承慶

原文盧承慶

盧承慶は、幽州范陽の人である。隋の武陽太守盧思道の孫である。父の赤松は、大業末年に河東県令となった。高祖と旧知があり、義師が霍邑に至ったと聞き、県を棄てて迎接し、行臺兵部郎中に任ぜられた。武徳年間、累転して率更令となり、范陽郡公に封ぜられ、まもなく卒去した。承慶は風儀が美しく、博学で才幹があり、若くして父の爵を襲った。貞観初年、秦州都督府戸曹参そうしん軍となった。河西の軍事について奏上したことにより、太宗はその明弁を奇とし、考功員外郎に抜擢した。累遷して民部侍郎となった。太宗がかつて歴代の戸口多少の数を問うた時、承慶は夏・殷以後より周・隋に至るまでを叙述し、いずれも根拠があり、太宗は久しく嗟賞した。まもなく兼ねて検校兵部侍郎とし、なお五品選事を知らせた。承慶は辞して言うには「選事の職は尚書に在り、臣が今これを掌るは、すなわち越局でございます」と。太宗は許さず、「朕は今卿を信ずる、卿何ぞ自ら信ぜざるや」と言った。ほどなく雍州別駕・尚書左丞を歴任した。永徽初年、褚遂良に陥れられ、益州大都督府長史として出された。遂良はまもなくまた承慶の雍州における旧事を求めて奏上し、これにより簡州司馬に左遷された。歳余して、洪州長史に転じた。時に高宗が汝州の温湯に行幸しようとした際、承慶を抜擢して汝州刺史とし、入朝して光禄卿となった。顕慶四年、杜正倫に代わって度支尚書となり、なお同中書門下三品となった。まもなく度支の失政に坐し、潤州刺史として出され、再び遷って雍州長史となり、銀青光禄大夫を加えられた。総章二年、李乾祐に代わって刑部尚書となり、年老いて致仕を請うたので、これを許し、なお金紫光禄大夫を加えた。三年、病没、年七十六。臨終にその子を誡めて言うには「死生の至理は、また朝に暮のあるが如し。我が終わりには、常服をもって斂おさめよ。晦朔の常饌には、牲牢を用いるな。墳の高さは認め得る程度で、広大を須いず。事が済み次第即ち葬れ、卜擇を須いず。墓中の器物は、瓷漆のみとせよ。棺有りて槨無し、務めて簡要に在れ。碑志にはただ官号・年代を記し、広く文飾を事とするな」と。幽州都督を追贈され、諡して定といった。

原文盧承慶,幽州范陽人。隋武陽太守思道孫也。父赤松,大業末為河東令。與高祖有舊,聞義師至霍邑,棄縣迎接,拜行臺兵部郎中。武德中,累轉率更令,封范陽郡公,尋卒。承慶美風儀,博學有才幹,少襲父爵。貞觀初,為秦州都督府戶曹參軍。因奏河西軍事,太宗奇其明辯,擢拜考功員外郎。累遷民部侍郎。太宗嘗問曆代戶口多少之數,承慶敘夏、殷以後迄於周、隋,皆有依據,太宗嗟賞久之。尋令兼檢校兵部侍郎,仍知五品選事。承慶辭曰:“選事職在尚書,臣今掌之,便是越局。”太宗不許,曰:“朕今信卿,卿何不自信也?”俄曆雍州別駕、尚書左丞。永徽初,為褚遂良所構,出為益州大都督府長史。遂良俄又求索承慶在雍州舊事奏之,由是左遷簡州司馬。歲餘,轉洪州長史。會高宗將幸汝州之溫湯,擢承慶為汝州刺史,入為光祿卿。顯慶四年,代杜正倫為度支尚書,仍同中書門下三品。尋坐度支失所,出為潤州刺史,再遷雍州長史,加銀青光祿大夫。總章二年,代李乾祐為刑部尚書,以年老請致仕,許之,仍加金紫光祿大夫。三年,病卒,年七十六。臨終誡其子曰:“死生至理,亦猶朝之有暮。吾終,斂以常服;晦朔常饌,不用牲牢;墳高可認,不須廣大;事辦即葬,不須卜擇;墓中器物,瓷漆而已;有棺無槨,務在簡要;碑志但記官號、年代,不須廣事文飾。”贈幽州都督,諡曰定。

弟の承業もまた学識があった。貞観末年に、官は雍州長史・検校尚書左丞に至った。兄弟相次いでこの任に居り、時人はこれを栄とした。まもなく承慶の事に坐して忠州刺史に左遷された。顕慶初年、再び雍州長史となった。前後ともに能名があった。三遷して左粛機となり、兼ねて司列選事を掌り、魏県子の爵を賜った。総章年間、揚州大都督府長史の任で卒去し、洺州刺史を追贈され、諡して簡といった。承業の弟の承泰は、斉州長史となった。

原文弟承業,亦有學識。貞觀末,官至雍州長史、檢校尚書左丞。兄弟相次居此任,時人榮之。俄坐承慶事左遷忠州刺史。顯慶初,復為雍州長史。前後皆有能名。三遷左肅機,兼掌司列選事,賜爵魏縣子。總章中,卒於揚州大都督府長史,贈洺州刺史,諡曰簡。承業弟承泰,齊州長史。

承泰の子の斉卿は、長安ちょうあん初年に、雍州録事参軍となった。時に則天は雍州長史薛季旭に命じて、御史に堪え得る僚吏を択ばせた。季旭がこれを上聞すると、斉卿は長安尉の盧懐慎・李休光、万年尉の李乂・崔湜、咸陽丞の倪若水、盩厔尉の田崇辟、新豊尉の崔日用を推薦し、後いずれも大官に至った。斉卿は、開元初年に豳州刺史となった。時に張守珪が果毅であったが、斉卿は礼を以て接し、「十年の内に節度使となることを知らん」と言った。果たしてその言の如くとなり、時人は斉卿に人倫の鑑有りと謂った。斉卿は酒を好み、一斗余り飲んでも乱れず、寛厚で親しみやすく、士友はこれをもって善しとした。累遷して太子詹事となり、広陽県公に封ぜられ、まもなく卒去した。承慶の弟の孫の蔵用は、別に伝がある。

原文承泰子齊卿,長安初,為雍州錄事參軍。時則天令雍州長史薛季旭擇僚吏堪為御史者,季旭以聞,齊卿薦長安尉盧懷慎、李休光、萬年尉李乂、崔湜、咸陽丞倪若水、盩厔尉田崇辟、新豐尉崔日用,後皆至大官。齊卿,開元初為豳州刺史。時張守珪為果毅,齊卿禮接之,謂曰:“十年內當知節度。”果如其言,時人謂齊卿有人倫之鑒。齊卿好酒,飲至鬥餘不亂,寬厚可親,士友以此善之。累遷太子詹事,封廣陽縣公,尋卒。承慶弟孫藏用,別有傳。

劉祥道

原文劉祥道

劉祥道は、魏州観城の人である。父の林甫は、武徳初年に内史舎人となり、時に兵機は繁速で、諸事草創であったが、高祖は林甫に委ねて専らその事を典とさせ、才幹をもって称された。まもなく詔により中書令蕭瑀らとともに律令を撰定し、林甫は因って『律議』万余言を著した。久しくして、中書侍郎に抜擢され、楽平男の爵を賜った。貞観初年、再遷して吏部侍郎となった。初め、隋代において選に赴く者は、十一月を始めとし、春に至れば即ち停まり、選限が既に促迫していたため、選司は多く究め悉くさなかった。時に選人が漸く衆多となり、林甫は四時に聴選し、随到随注擬することを奏請し、当時甚だ便とされた。時に天下初めて定まり、州府及び詔使は多く赤牒をもって官を授けていたが、この時に至って停省し、尽く来りて赴集し、将に万余人に及んだ。林甫は才に随って銓擢し、皆その宜を得た。時人は林甫の典選を、隋の高孝基に比した。三年、病没し、臨終に表を上って賢を推薦し、太宗は甚だ嘉悼し、絹二百五十匹を賜った。祥道は若くして父の爵を襲った。永徽初年、中書舎人・御史中丞・吏部侍郎を歴任した。顕慶二年、黄門侍郎に遷り、なお吏部選事を知った。祥道は銓綜の術に猶お欠ける所有りとし、乃ち上疏してその得失を陳べた。その一に曰く。

原文劉祥道,魏州觀城人也。父林甫,武德初為內史舍人,時兵機繁速,庶事草創,高祖委林甫專典其事,以才幹見稱。尋詔與中書令蕭瑀等撰定律令,林甫因著《律議》萬餘言。久之,擢拜中書侍郎,賜爵樂平男。貞觀初,再遷吏部侍郎。初,隋代赴選者,以十一月為始,至春即停,選限既促,選司多不究悉。時選人漸眾,林甫奏請四時聽選,隨到注擬,當時甚以為便。時天下初定,州府及詔使多有赤牒授官,至是停省,盡來赴集,將萬餘人。林甫隨才銓擢,鹹得其宜。時人以林甫典選,比隋之高孝基。三年,病卒,臨終上表薦賢,太宗甚嘉悼之,賜絹二百五十匹。祥道少襲父爵。永徽初,曆中書舍人、御史中丞、吏部侍郎。顯慶二年,遷黃門侍郎,仍知吏部選事。祥道以銓綜之術猶有所闕,乃上疏陳其得失。其一曰:

今の選司は士を取るに当たり、多く且つ濫りを傷つけ、毎年入流する者は、数一千四百を超え、多くを傷つける。雑色の入流は、銓簡を加えず、これ濫りを傷つける。経明行修の士は、なお正人に乏しく、多くは胥徒の流れを取る、豈に皆德行有らんや。即ち知る、共に務を厘する者は、善人少なくして悪人多し。国を有つて以来、既に四十載、未だ刑措せず、豈にこれに由らざらんや。但だ先王の道に服膺する者は、奏第して然る後に選に付し、幾案の間に趨走する者は、簡便せずして便ち禄秩を加う。稽古の業は、雖も則ち知り難し、斗筲の材は、何ぞ其れ易く進む。其の雑色応に入流の人、望むらくは曹司に令して判を試み訖り、簡して四等と為し奏聞せしむ。第一等は吏部に付し、第二等は兵部に付し、次は主爵に付し、次は司勲に付す。其の行署等の私犯公坐、情状責む可き者は、赦降を経ると雖も、亦量りて三司に配し、赦降を経ざる者は、本貫に放還す。冀くは入流濫らず、官冗雑無く、且つ胥徒の輩をして、漸く勧勉を知らしめん。

原文今之選司取士,傷多且濫,每年入流,數過一千四百,傷多也。雜色入流,不加銓簡,是傷濫也。經明行修之士,猶或罕有正人,多取胥徒之流,豈能皆有德行?即知共厘務者,善人少而惡人多。有國以來,已四十載,尚未刑措,豈不由此乎?但服膺先王之道者,奏第然始付選;趨走幾案之間者,不簡便加祿秩。稽古之業,雖則難知,斗筲之材,何其易進?其雜色應入流人,望令曹司試判訖,簡為四等奏聞。第一等付吏部,第二等付兵部,次付主爵,次付司勳。其行署等私犯公坐情狀可責者,雖經赦降,亦量配三司;不經赦降者,放還本貫。冀入流不濫,官無冗雜,且令胥徒之輩,漸知勸勉。

其二に曰く、

原文其二曰:

古の選者は、官の為に人を択び、人多きを取りて官員少なしと聞かず。今官員数有り、入流限り無し。数有るを以て限り無きに供すれば、遂に九流繁総し、人歳に随ひて積む。謹みて約し、須ふ所の人に准へ、量りて年別に入流する者を支ふ。今内外文武官一品以下、九品已上、一万三千四百六十五員、大数を挙ぐれば、当に一万四千人。壮室にして仕へ、耳順にして退く、其の中数を取れば、三十年を支ふるに過ぎず。此れ則ち一万四千人、三十年にして略く尽く。若し年別に入流する者五百人、三十年を経て便ち一万五千人を得、定めて須ふる者一万三千四百六十五人、須ふる所の数に充つるに足る。況んや三十年の外、官に在る者猶ほ多し、此れ便ち余り有り、其の少なきを慮れず。今年常に入流する者、遂に一千四百を逾え、応に須ふる数を計へば、其の余両倍す。又常選放還する者、仍ほ六七千人を停め、更に復た年別に新たに加ふ、実に処置の法に非ず。

原文古之選者,為官擇人,不聞取人多而官員少。今官員有數,入流無限,以有數供無限,遂令九流繁總,人隨歲積。謹約准所須人,量支年別入流者。今內外文武官一品以下,九品已上,一萬三千四百六十五員,略舉大數,當一萬四千人。壯室而仕,耳順而退,取其中數,不過支三十年。此則一萬四千人,三十年而略盡。若年別入流者五百人,經三十年便得一萬五千人,定須者一萬三千四百六十五人,足充所須之數。況三十年之外,在官者猶多,此便有餘,不慮其少。今年常入流者,遂逾一千四百,計應須數外,其餘兩倍。又常選放還者,仍停六七千人,更復年別新加,實非處置之法。

其三に曰く、

原文其三曰:

儒は教化の本、学者の宗なり。儒教興らずんば、風俗将に替らんとす。今庠序四海に遍く、儒生三学に溢る。誘掖の方、理実に備はるも、而して奨進の道、事或は未だ周からず。但だ永徽已来、今に八載、官に在る者は善政を以て粗く聞こえ、事を論ずる者は一言を以て采る可く、光く綸音を被り、超升次を超えざる莫し。而るに儒生未だ恩の及ぶを聞かず、臣故に以て奨進の道未だ周からずと為す。

原文儒為教化之本,學者之宗。儒教不興,風俗將替。今庠序遍於四海,儒生溢於三學。誘掖之方,理實為備,而獎進之道,事或未周。但永徽已來,於今八載,在官者以善政粗聞,論事者以一言可采,莫不光被綸音,超升不次。而儒生未聞恩及,臣故以為獎進之道未周。

其四に曰く、

原文其四曰:

国家四海に富み、既に四十年、百姓官僚、秀才の挙有ること未だし。豈に今人の昔人に如かざらんや、将に薦賢の道至らざるか。寧ろ方に多士と称し、遂に斯の人を間はんや。望むらくは六品已下、爰に山谷に及び、特く綸言を降し、更に審らかに搜訪し、仍ほ量りて条例と為し、稍く優奨を加へよ。然らずんば、赫赫の辰、斯の挙遂に絶え、一代の盛事、実に朝廷の之を惜しむ。

原文國家富有四海,已四十年,百姓官僚,未有秀才之舉。豈今人之不如昔人,將薦賢之道未至?寧可方稱多士,遂間斯人。望六品已下,爰及山谷,特降綸言,更審搜訪,仍量為條例,稍加優獎。不然,赫赫之辰,斯舉遂絕,一代盛事,實為朝廷惜之。

其五に曰く、

原文其五曰:

唐・虞は三載考績し、幽明を黜陟す。両漢人を用ふるも、亦久しく其の職に居る。是を以て官に因りて氏を命じ、倉・庾の姓有り。魏・晋以来、事紀す可き無し。今の在任、四考すなはち遷る。官人秩満せんとすと知れば、必ず去就を懐ひ、百姓遷代有るを見れば、苟且無からんや。去就の人を以て、苟且の輩に臨み、移風易俗を責むるは、其れ得可けんや。望むらくは四考を経て、就任して階を加へ、八考満に至り、然る後に選を聴かしめよ。淳に還り樸に反るは、未だ必ず期すと敢てせずと雖も、故を送り新を迎ふるは、実に稍く労弊を減ず。

原文唐、虞三載考績,黜陟幽明。兩漢用人,亦久居其職。所以因官命氏,有倉、庾之姓。魏、晉以來,事無可紀。今之在任,四考即遷。官人知將秩滿,必懷去就;百姓見有遷代,能無苟且?以去就之人,臨苟且之輩,責以移風易俗,其可得乎!望經四考,就任加階,至八考滿,然後聽選。還淳反樸,雖未敢必期;送故迎新,實稍減勞弊。

其六に曰く、

原文其六曰:

尚書省二十四司及び門下中書の都事・主書・主事等、比来選補するに、皆旧任流外に刀筆の人を取る。縦ひ士流を参用せんと欲すとも、皆儔類を以て恥と為し、前後相承して、遂に故事と成る。且つ掖省崇峻、王言秘密、尚書政本、人物帰する所、而して多く胥徒を用ふるは、恐らくは未だ銓衡の理を尽くさざらん。望むらくは厘革有りて、稍く其の選を清くせん。

原文尚書省二十四司及門下中書都事、主書、主事等,比來選補,皆取舊任流外有刀筆之人。縱欲參用士流,皆以儔類為恥,前後相承,遂成故事。且掖省崇峻,王言秘密,尚書政本,人物攸歸,而多用胥徒,恐未盡銓衡之理。望有厘革,稍清其選。

明年、中書令杜正倫も亦入流人多きを言ひ、政の弊と為す。高宗祥道を遣はし正倫と詳議して其の事を議せしむ。時公卿已下、改作を憚り、事竟に行はれず。祥道尋ち礼を修むる功を以て、進みて陽城県侯に封ぜらる。四年、刑部尚書に遷り、毎に大獄を覆ふに、必ず歔欷累歎し、奏決の日、之が為に再び食はず。龍朔元年、権めて蒲州刺史を検校す。三年、兼ねて雍州長史を検校し、俄に右相に遷る。祥道性謹慎、既に宰相に居り、深く憂懼を懐く。数たび自ら老疾を陳べ、閑職に退くを請ふ。俄に司礼太常伯に転じ、政事を知るを罷む。麟徳二年、将に泰山に事有らんとす。有司議して旧礼に依るに、皆太常卿を以て亜献と為し、光禄卿を以て終献と為す。祥道駁して曰く、「昔三代に在りては、六卿位重く、故に祠を佐くるを得たり。漢・魏以来、権は台省に帰し、九卿皆常伯の属官と為る。今登封の大礼、八座を以て行事せずして、九卿を用ふるは、虚名に徇りて実事を忘るるに無からんや」と。高宗其の議に従ひ、竟に司徒しと徐王元礼を以て亜献と為し、祥道を以て終献と為す。事畢りて、進みて広平郡公に爵す。乾封元年、又表を上して骸骨を乞ふ、優制にて金紫光禄大夫を加へ、致仕を聴す。其の年卒す、年七十一、幽州都督を贈り、諡して宣と曰ふ。子斉賢爵を襲ぐ。

原文明年,中書令杜正倫亦言入流人多,為政之弊。高宗遣祥道與正倫詳議其事。時公卿已下,憚於改作,事竟不行。祥道尋以修禮功,進封陽城縣侯。四年,遷刑部尚書,每覆大獄,必歔欷累歎,奏決之日,為之再不食。龍朔元年,權檢校蒲州刺史。三年,兼檢校雍州長史,俄遷右相。祥道性謹慎,既居宰相,深懷憂懼。數自陳老疾,請退就閑職。俄轉司禮太常伯,罷知政事。麟德二年,將有事於泰山。有司議依舊禮,皆以太常卿為亞獻,光祿卿為終獻。祥道駁曰:“昔在三代,六卿位重,故得佐祠。漢、魏以來,權歸臺省,九卿皆為常伯屬官。今登封大禮,不以八座行事,而用九卿,無乃徇虛名而忘實事乎!”高宗從其議,竟以司徒徐王元禮為亞獻,祥道為終獻。事畢,進爵廣平郡公。乾封元年,又上表乞骸骨,優制加金紫光祿大夫,聽致仕。其年卒,年七十一,贈幽州都督,諡曰宣。子齊賢襲爵。

子斉賢

原文子齊賢

斉賢、初め侍御史より出でて晋州司馬と為る。高宗其の方正を聞き、甚だ之を礼す。時将軍史興宗嘗て帝に従ひ苑中にて弋獵し、因りて言ふ、晋州好鷂を出す、劉斉賢見る司馬と為る、請ふ使はして之を捕はしめんと。帝曰く、「劉斉賢豈に鷂を覓むる人ならんや。卿何を以て之を此く待つや」と。遂に止む。斉賢後ち章懐太子の名を避け、名を景先と改む。永淳中、累遷して黄門侍郎・同中書門下平章事と為る。則天朝に臨む、裴炎に代はりて侍中と為る。及び裴炎獄に下り、景先鳳閣侍郎胡元範と与に抗詞して其の反せざるを明らかにす。則天甚だ之を怒る。炎既に誅死せしめらる。景先左遷して普州刺史と為り、未だ到らざるに、又貶授して吉州長史と為る。永昌年、酷吏の為に陥れられ、獄に繋がれ、自縊死す。仍ほ其の家を籍没す。景先自ら祖・父三代皆両省侍郎及び典選と為り、又叔父吏部郎中応道・従父弟礼部侍郎令植等八人、前後吏部郎中員外と為り、唐已来、其の比有ること無しと云ふ。

原文齊賢,初自侍御史出為晉州司馬,高宗聞其方正,甚禮之。時將軍史興宗嘗從帝於苑中弋獵,因言晉州出好鷂,劉齊賢見為司馬,請使捕之。帝曰:“劉齊賢豈是覓鷂人耶!卿何以此待之?”遂止。齊賢後避章懷太子名,改名景先。永淳中,累遷黃門侍郎、同中書門下平章事。則天臨朝,代裴炎為侍中。及裴炎下獄,景先與鳳閣侍郎胡元範抗詞明其不反,則天甚怒之。炎既誅死,景先左遷普州刺史,未到,又貶授吉州長史。永昌年,為酷吏所陷,系於獄,自縊死,仍籍沒其家。景先自祖、父三代皆為兩省侍郎及典選,又叔父吏部郎中應道、從父弟禮部侍郎令植等八人,前後為吏部郎中員外,有唐已來,無有其比云。

李敬玄

原文李敬玄

李敬玄は、亳州譙県の人である。父の孝節は、穀州長史であった。敬玄は群書を博覧し、特に五礼に精通していた。貞観の末、高宗が東宮にあった時、馬周が推薦して、崇賢館に召し入れられ、兼ねて侍読に預かり、なお御書を借りて読んだ。敬玄は風格が高峻で、犯しがたい色があったが、請謁に勤め、寒暑を避けず、馬周や許敬宗らは皆推薦して名声を広めた。乾封の初め、累進して西台舎人・弘文館学士となった。総章二年、累転して西台侍郎、兼太子右中護・同東西台三品、兼検校司列少常伯となった。当時、員外郎の張仁祎に時務の才があり、敬玄は曹事を彼に委ねた。仁祎は初めて姓歴を作り、状様・銓歴などの程式を改修し、処事に勤労したが、遂に心疾で卒した。敬玄は仁祎の法に依り、選挙を典すること累年、銓綜に秩序があった。永徽以後、選人が転じて多くなり、その任に当たる者は、称職と聞くことが稀であったが、敬玄が選挙を掌ると、天下その能を称えた。選挙に預かる者は年に一万余人、毎に街衢でこれを見て、その姓名を知らぬ者はなかった。放たれて訴える者があれば、即ち口頭でその書判の失錯及び身に負う殿累を陳べ、少しも差違がなかった。当時の人は皆その強記に服し、敢えて欺く者はいなかった。選人に杭州参軍の徐太玄という者がいた。初め任にあった時、同僚の張惠が贓を犯して死罪に至った。太玄はその母の老いを哀れみ、獄に詣でて自ら陳べ、惠と共に受けしと称した。惠の贓数は既に少なかったので、遂に死罪を減じられ、太玄もまた坐して免官となり、十数年も調任されなかった。敬玄はこれを知って大いに嘆賞し、鄭州司功参軍に抜擢して授けた。太玄はこれによって知名となり、後に官は秘書少監・申王師に至り、徳行をもって当時に重んぜられた。敬玄の賞鑑は、多くこの類であった。咸亨二年、中書侍郎を授けられ、その他は全て元の通りであった。三年、銀青光禄大夫を加えられ、行吏部侍郎となり、旧に依り兼太子右庶子・同中書門下三品であった。四年、国史を監修した。上元二年、吏部尚書に拝され、なお旧に依り兼太子左庶子、国史監修・同中書門下三品であった。敬玄は久しく選部に居たので、人多くこれに附いた。前後三度娶ったが、皆山東の士族であった。また趙郡李氏と合譜したので、台省の要職は、多くその同族婚媾の家であった。高宗は知って悦ばなかったが、なおその過ちを顕わさなかった。儀鳳元年、劉仁軌に代わって中書令となった。調露二年、吐蕃が入寇した。仁軌は先に敬玄と協わなかったので、遂に奏請して敬玄に西辺を鎮守させた。敬玄は自ら素より辺将の才でないとし、固く辞した。高宗はこれに謂って曰く、「仁軌がもし朕を必要とするなら、朕は即ち自ら往く。卿は辞すべからず」と。遂に敬玄を洮河道大総管とし、兼安撫大使とし、なお検校鄯州都督とし、兵を率いて吐蕃を防禦させた。戦おうとする時、副将の工部尚書劉審礼が先鋒としてこれを撃った。敬玄は賊が至ったと聞き、狼狽して退却した。審礼は既に継援がなく、遂に陣に没した。俄かに詔があり、敬玄を鄯州に留めて防禦させた。敬玄は累表して疾を称し、還って医療を乞うた。許された。既に入見すると、疾を験するに重くなく、高宗はその詐妄を責め、またその前後の愆失を積み、衡州刺史に貶授した。稍々遷って揚州大都督府長史となった。永淳元年に卒した。年六十八。兗州都督を贈られた。『礼論』六十巻・『正論』三巻・文集三十巻を撰した。子の思沖は、神龍の初め、累進して工部侍郎・左羽林軍将軍となり、節湣太子に従って武三思を誅しようとしたが、事敗れて殺され、その家は籍没された。敬玄の弟の元素もまた吏才があり、初め武徳令となった。当時、懐州刺史の李文暕が金銀を調率して常満尊を造り献上しようとした。百姓は甚だこれに疲弊し、官吏は敢えて異議を唱える者はいなかった。元素は抗詞して固く執り、文暕はその制度を損じ、家財をもってこれを営んだ。延載元年、文昌左丞より遷って鳳閣侍郎・鳳閣鸞台平章事となり、銀青光禄大夫を加えられた。万歳通天二年、洛州録事参軍の綦連耀と交結した罪に坐し、武懿宗に陥れられて殺された。神龍の初めに雪免された。

原文李敬玄,亳州譙人也。父孝節,穀州長史。敬玄博覽群書,特善五禮。貞觀末,高宗在東宮,馬周啟薦之,召入崇賢館,兼預侍讀,仍借御書讀之。敬玄雖風格高峻,有不可犯之色,然勤於造請,不避寒暑,馬周及許敬宗等皆推薦延譽之。乾封初,曆遷西臺舍人、弘文館學士。總章二年,累轉西臺侍郎,兼太子右中護、同東西臺三品,兼檢校司列少常伯。時員外郎張仁祎有時務才,敬玄以曹事委之。仁祎始造姓曆,改修狀樣、銓曆等程式,處事勤勞,遂以心疾而卒。敬玄因仁祎之法,典選累年,銓綜有序。自永徽以後,選人轉多,當其任者,罕聞稱職,及敬玄掌選,天下稱其能。預選者歲有萬餘人,每於街衢見之,莫不知其姓名。其被放有訴者,即口陳其書判失錯及身負殿累,略無差殊。時人咸服其強記,莫之敢欺。選人有杭州參軍徐太玄者,初在任時,同僚有張惠犯贓至死,太玄哀其母老,乃詣獄自陳與惠同受。惠贓數既少,遂得減死,太玄亦坐免官,不調十餘年。敬玄知而大嗟賞之,擢授鄭州司功參軍,太玄由是知名,後官至秘書少監、申王師,以德行為時所重。敬玄賞鑒,多此類也。咸亨二年,授中書侍郎,餘並如故。三年,加銀青光祿大夫,行吏部侍郎,依舊兼太子右庶子、同中書門下三品。四年,監修國史。上元二年,拜吏部尚書,仍依舊兼太子左庶子,監修國史、同中書門下三品。敬玄久居選部,人多附之。前後三娶,皆山東士族。又與趙郡李氏合譜,故臺省要職,多是其同族婚媾之家。高宗知而不悅,然猶不彰其過。儀鳳元年,代劉仁軌為中書令。調露二年,吐蕃入寇,仁軌先與敬玄不協,遂奏請敬玄鎮守西邊。敬玄自以素非邊將之才,固辭。高宗謂曰:“仁軌若須朕,朕即自往,卿不得辭也。”竟以敬玄為洮河道大總管,兼安撫大使,仍檢校鄯州都督,率兵以禦吐蕃。及將戰,副將工部尚書劉審禮先鋒擊之。敬玄聞賊至,狼狽卻走。審禮既無繼援,遂沒於陣。俄有詔留敬玄於鄯州防禦,敬玄累表稱疾,乞還醫療。許之。既入見,驗疾不重,高宗責其詐妄,又積其前後愆失,貶授衡州刺史。稍遷揚州大都督府長史。永淳元年卒,年六十八,贈兗州都督。撰《禮論》六十卷、《正論》三卷、文集三十卷。子思沖,神龍初,曆工部侍郎、左羽林軍將軍,從節湣太子誅武三思,事敗見殺,籍沒其家。敬玄弟元素,亦有吏才,初為武德令。時懷州刺史李文暕將調率金銀造常滿〓尊以獻,百姓甚弊之,官吏無敢異議者。元素抗詞固執,文暕乃損其制度,以家財營之。延載元年,自文昌左丞遷鳳閣侍郎、鳳閣鸞臺平章事,加銀青光祿大夫。萬歲通天二年,坐與洛州錄事參軍綦連耀交結,為武懿宗所陷,被殺,神龍初雪免。

李義琰

原文李義琰

李義琰は、魏州昌楽の人で、常州刺史玄道の族孫である。その先は隴西より山東に徙り、世々著姓であった。父の玄徳は、癭陶令であった。義琰は若くして進士に挙げられ、累補して太原尉となった。当時、李勣が并州都督であったが、僚吏は皆風を望んで慴懼したが、義琰は独り廷で曲直を折し、勣は甚だこれを礼した。義琰は、麟徳中に白水令となり、能名があり、司刑員外郎に拝された。上元中、累遷して中書侍郎となり、また太子右庶子・同中書門下三品を授けられた。当時、天后が国政に預かっていた。高宗は嘗て詔を下して後に国事を摂知させようとしたが、義琰は中書令の郝処俊と固く争い、不可と為し、事は遂に止んだ。義琰は身長八尺、博学多識で、高宗が毎に顧問するに、言は皆切直であった。章懐太子が廃された時、高宗は官僚を慰勉し、罪を全て赦し、その位に復させた。庶子の薛元超らは皆舞蹈して恩を謝したが、義琰は独り罪を引いて涕泣し、当時の論はこれを美とした。義琰の宅には正寝がなかった。弟の義璡が司功参軍であったので、堂材を市って送った。義璡が来覲した時、義琰はこれに謂って曰く、「吾を以て国相と為す、豈に愧じを懐かざらんや?更に美室を営むは、是れ吾が禍を速めるなり。此れ豈に我を愛するの意ならんや」と。義璡曰く、「凡そ人仕えて丞尉と為れば、即ち第宅を営む。兄は官高く禄重し、豈に卑陋を以て下を逼すべけんや」と。義琰曰く、「事は全遂し難く、物は両興せず。既に貴仕有り、又その宇を広くす。若し令徳無くんば、必ずその殃を受く。吾はこれを欲せざるに非ず、戾を獲るを懼るるなり」と。遂に営構せず、その木は霖雨に腐らされて棄てられた。義琰は後に父母を改葬し、舅氏にその旧塋を移させた。高宗は知って怒りて曰く、「豈に身枢要に在りて、外家を凌蔑すべきや。この人は更に政事を知るべからず」と。義琰は聞いて自ら安からず、足疾を以て上疏して骸骨を乞うた。乃ち銀青光禄大夫を授け、致仕を聴された。乃ち東都の田裏に帰らんとし、公卿以下は通化門外で祖餞した。当時の人はこれを漢の二疏に比した。垂拱の初め、起用されて懐州刺史となった。義琰は自ら則天の意を失ったとし、禍の及ぶを恐れ、固く拝辞しなかった。四年、家に卒した。義琰の従祖弟の義琛は、永淳の初め、雍州長史となった。当時、関輔は大飢饉で、高宗は貧人を商・鄧に散じて食を逐わせた。義琛は黎人の流転を恐れ、これによって還らずと為し、固くこれを争った。これによって旨に忤い、梁州都督に出され、転じて岐州刺史となり、良吏と称された。官に卒した。

原文李義琰,魏州昌樂人,常州刺史玄道族孫也。其先自隴西徙山東,世為著姓。父玄德,癭陶令。義琰少舉進士,累補太原尉。時李勣為并州都督,僚吏皆望風懾懼,義琰獨廷折曲直,勣甚禮之。義琰,麟德中為白水令,有能名,拜司刑員外郎。上元中,累遷中書侍郎,又授太子右庶子、同中書門下三品。時天後預知國政,高宗嘗欲下詔令後攝知國事,義琰與中書令郝處俊固爭,以為不可,事竟寢。義琰身長八尺,博學多識,高宗每有顧問,言皆切直。章懷太子之廢也,高宗慰勉官僚,盡舍罪,令復其位。庶子薛元超等皆舞蹈謝恩,義琰獨引罪涕泣,時論美之。義琰宅無正寢,弟義璡為司功參軍,乃市堂材送焉。及義璡來覲,義琰謂曰:“以吾為國相,豈不懷愧?更營美室,是速吾禍,此豈愛我意哉!”義璡曰:“凡人仕為丞尉,即營第宅,兄官高祿重,豈宜卑陋以逼下也?”義琰曰:“事難全遂,物不兩興。既有貴仕,又廣其宇,若無令德,必受其殃。吾非不欲之,懼獲戾也。”竟不營構,其木為霖雨所腐而棄之。義琰後改葬父母,使舅氏移其舊塋,高宗知而怒曰:“豈以身在樞要,淩蔑外家,此人不可更知政事。”義琰聞而不自安,以足疾上疏乞骸骨,乃授銀青光祿大夫,聽致仕。乃將歸東都田裏,公卿已下祖餞於通化門外,時人以比漢之二疏。垂拱初,起為懷州刺史。義琰自以失則天意,恐禍及,固辭不拜。四年,卒於家。義琰從祖弟義琛,永淳初,為雍州長史。時關輔大饑,高宗令貧人散於商、鄧逐食。義琛恐黎人流轉,因此不還,固爭之。由是忤旨,出為梁州都督,轉岐州刺史,稱為良吏。卒官。

高宗の時の宰相には、また孫処約・楽彦瑋・趙仁本がいた。皆名跡がある。

原文高宗時宰相,又有孫處約、樂彥瑋、趙仁本。並有名跡。

(附)孫処約

原文附孫處約

孫處約は、汝州郟城の人である。貞観年間に、斉王李祐の記室となった。李祐が既に道を失うと、處約はたびたび上書してこれを諫めた。李祐が誅殺された後、太宗は自らその家の文書を検分し、處約の諫書を得て、大いに嘆賞した。累進して中書舎人となった。その年、中書令杜正倫が奏上して更に一人の舎人を授け、處約と共に制誥を知るよう請うたが、高宗は言った、「處約一人で我が事を弁ずるに足る。何ぞ多きを須いんや」と。處約は『太宗実録』の編修に参与して完成した功により、物七百段を賜った。三度転じて中書侍郎となり、李勣・許敬宗と共に国政を知った。まもなく中宮の諱を避けて、名を茂道と改めた。事に坐して左遷され司礼少常伯となった。顕慶年間に、少司成に拝され、老病を理由に致仕を請うたところ、許され、まもなく卒した。子の佺は、睿宗の時に左羽林大将軍となり、契丹を征討して戦死した。

原文孫處約者,汝州郟城人也。貞觀中,為齊王祐記室。祐既失德,處約數上書諫之。祐既誅,太宗親檢其家文疏,得處約諫書,甚嗟賞之。累轉中書舍人。其年,中書令杜正倫奏請更授一舍人,與處約同知制誥,高宗曰:“處約一人足辦我事,何須多也。”處約以預修《太宗實錄》成,賜物七百段。三遷中書侍郎,與李勣、許敬宗同知國政。尋避中宮諱,改名茂道。坐事左轉司禮少常伯。顯慶中,拜少司成,以老疾請致仕,許之,尋卒。子佺,睿宗時為左羽林大將軍,征契丹戰歿。

(附)楽彦瑋

原文附樂彥瑋

楽彦瑋は、雍州長安の人である。顕慶年間に、給事中となった。時に故侍中劉洎の子が闕に詣でて上言し、洎が貞観末に褚遂良に誣えられて冤死したと称し、冤罪を雪ぐことを請うた。中書侍郎李義府もまたこれを支持した。高宗が近臣に問うと、衆は義府の意を迎え、皆その冤罪を言上した。彦瑋のみが進み出て言った、「劉洎は大臣なり。挙措は軌度に合すべきである。人主が暫し不豫よであっても、豈に即ち国に背かんと擬すべけんや。先朝が責めたところは、未だ不適ではなかった。且つ国君に過挙は無し。若し洎の罪を雪ぐとすれば、豈に先帝の用刑不当と謂うべけんや」と。その言を然し、遂にその事を止めた。彦瑋はまもなく丁憂に服し、起復されて唐州刺史となった。入朝して辞する際、高宗はその言の直なるを覚えており、再び東台舎人に拝した。累進して西台侍郎・同東西台三品となった。乾封元年、劉仁軌に代わって大司憲となり、官名が旧に復すると、御史大夫に改められた。上元三年に卒し、秦州都督を贈られた。永昌年間、子の思晦が貴んだことにより、重ねて揚州大都督を贈られた。思晦は、則天の時に官は鸞台侍郎に至り、兼ねて検校天官尚書・同鳳閣鸞台三品となり、酷吏に殺された。

原文樂彥瑋者,雍州長安人。顯慶中,為給事中。時故侍中劉洎之子詣闕上言,洎貞觀末為褚遂良所譖枉死,稱冤請雪,中書侍郎李義府又左右之。高宗以問近臣,眾希義府之旨,皆言其枉。彥瑋獨進曰:“劉洎大臣,舉措須合軌度,人主暫有不豫,豈得即擬負國?先朝所責,未是不愜。且國君無過舉,若雪洎之罪,豈可謂先帝用刑不當乎?”然其言,遂寢其事。彥瑋尋丁憂,起為唐州刺史。及入辭,高宗記其言直,復拜東臺舍人。累遷西臺侍郎、同東西臺三品。乾封元年,代劉仁軌為大司憲,官名復舊,改為御史大夫。上元三年卒,贈秦州都督,永昌年,以子思晦貴,重贈揚州大都督。思晦,則天時官至鸞臺侍郎,兼檢校天官尚書、同鳳閣鸞臺三品,為酷吏所殺。

(附)趙仁本

原文附趙仁本

趙仁本は、陝州河北の人である。貞観年間に、累進して殿中侍御史となった。義寧以来の詔勅を全て自ら手で纂録し、事に臨んでは皆暗記しており、当時大いに敬服された。時に勅命があり、一人の御史を遠方に派遣することとなり、同僚たちは互いに辞退し託けあっていたが、仁本は越次して行くことを請い、治書侍御史馬周に言った、「君の禄を食む者は、君の事に死す。たとえ跋渉艱険すとも、敢えて辞すべからず」と。帰還すると、事また旨に称い、吏部員外郎に抜擢された。乾封年間に、歴任して東台侍郎・同東西台三品となり、まもなく司列少常伯に転じ、知政事は元の如くであった。時に許敬宗が右相であり、頗る権勢を任せていたが、仁本はその請託を拒んだため、遂に敬宗に陥れられ、俄かに尚書左丞を授けられ、知政事を罷免された。咸亨初年に官のまま卒した。

原文趙仁本者,陝州河北人也。貞觀中,累轉殿中侍御史。自義寧已來,詔敕皆手自纂錄,臨事皆暗記之,甚為當時所伏。會有敕差一御史遠使,同列遞相辭托,仁本越次請行,言於治書侍御史馬周曰:“食君之祿,死君之事。雖復跋涉艱險,所不敢辭也。”及回,事又稱旨,擢吏部員外郎。乾封中,曆遷東臺侍郎、同東西臺三品,尋轉司列少常伯,知政事如故。時許敬宗為右相,頗任權勢,仁本拒其請托,遂為敬宗所構,俄授尚書左丞,罷知政事。咸亨初卒官。

史臣曰

原文史臣曰

史臣論じて曰く、崔・盧の数公は、皆忠清文行をもって、枢要の位に至った。恪恭として懈らず、名位を保ち、誠に所謂持盈守成、太平の君子というべきである。然れども敬玄が太玄を擢げたことは、能く善を挙ぐる者と謂うべし。義琰は腐材を用いて第宅を営まず、儉徳有ると謂うべし。彦瑋は独り奸臣を遏ぎ、仁本は遠使に当たることを請い、終に輔相に昇ったことは、亦た宜ならずや。

原文史臣論曰:崔、盧數公,皆以忠清文行,致位樞要。恪恭匪懈,以保名位,誠所謂持盈守成,太平之君子。然敬玄之擢太玄,可謂能舉善者矣。義琰腐材而不營第舍,可謂有儉德矣。彥瑋獨遏奸臣,仁本請當遠使,終升輔相,不亦宜乎!

賛して曰く、盧・劉の両族は、奕世の名卿なり。二李・二楽は、俱に公清と号す。権臣に独り抗し、美第を営まず。これを以て輔弼と為す、徳声に愧じること無し。

原文贊曰:盧、劉兩族,奕世名卿。二李、二樂,俱號公清。權臣獨抗,美第不營。以茲輔弼,無愧德聲。