旧唐書
列伝第三十一
崔敦礼、盧承慶、劉祥道、李敬玄、李義琰、孫処約、楽彦瑋、趙仁本
崔敦礼
崔敦礼は、雍州咸陽の人で、隋の礼部尚書崔仲方の孫である。その先祖はもと博陵に居住し、代々山東の著姓であったが、魏の末に関中に移った。敦礼は本名を元礼といい、高祖が改名させた。広く文史に通じ、節義を重んじ、かつて蘇子卿(蘇武)の為人を慕った。武徳年間、通事舎人に任ぜられた。九年、太宗は敦礼をして幽州に赴き廬江王李瑗を召喚させた。李瑗が挙兵して反逆し、敦礼を捕らえ、京師の事情を問うたが、敦礼は終始異なる言葉を吐かなかった。太宗はこれを聞いてその壮挙を称え、左衛郎将に遷し、良馬と黄金雑物を賜った。貞観元年、中書舎人に抜擢され、兵部侍郎に遷り、頻繁に突厥に使した。累転して霊州都督となった。二十年、兵部尚書として召し出された。また詔を奉じて回紇・鉄勒の部落を安撫した。時に延陀が辺境を侵したが、敦礼は英国公李勣とともにこれを討った。瀚海都督回紇吐迷度がその部下に殺された時、詔により敦礼は部落に赴きこれを綏輯し、その嗣子を立てて還った。敦礼は蕃情に深く通じ、凡そ奏請する事は、多く允会された。永徽四年、高季輔に代わって侍中となり、累封して固安県公とされ、なお国史を修めた。六年、光禄大夫を加えられ、柳奭に代わって中書令となり、まもなくまた兼ねて検校太子詹事となった。敦礼は老病を理由にたびたび退任を請うた。顕慶元年、太子少師に任ぜられ、なお同中書門下三品となった。勅によりその子の定襄都督府司馬崔余慶を召し出し、その病を侍らせた。まもなく卒去、年六十余。高宗は東雲龍門で哀悼の礼を挙げ、東園秘器を賜い、開府儀同三司・并州大都督を追贈し、昭陵に陪葬させ、賻として絹布八百段・米粟八百石を賜り、諡して昭といった。子の余慶は、官は兵部尚書に至った。敦礼の孫の貞慎は、神龍初年に兵部侍郎となった。
盧承慶
盧承慶は、幽州范陽の人である。隋の武陽太守盧思道の孫である。父の赤松は、大業末年に河東県令となった。高祖と旧知があり、義師が霍邑に至ったと聞き、県を棄てて迎接し、行臺兵部郎中に任ぜられた。武徳年間、累転して率更令となり、范陽郡公に封ぜられ、まもなく卒去した。承慶は風儀が美しく、博学で才幹があり、若くして父の爵を襲った。貞観初年、秦州都督府戸曹参軍となった。河西の軍事について奏上したことにより、太宗はその明弁を奇とし、考功員外郎に抜擢した。累遷して民部侍郎となった。太宗がかつて歴代の戸口多少の数を問うた時、承慶は夏・殷以後より周・隋に至るまでを叙述し、いずれも根拠があり、太宗は久しく嗟賞した。まもなく兼ねて検校兵部侍郎とし、なお五品選事を知らせた。承慶は辞して言うには「選事の職は尚書に在り、臣が今これを掌るは、すなわち越局でございます」と。太宗は許さず、「朕は今卿を信ずる、卿何ぞ自ら信ぜざるや」と言った。ほどなく雍州別駕・尚書左丞を歴任した。永徽初年、褚遂良に陥れられ、益州大都督府長史として出された。遂良はまもなくまた承慶の雍州における旧事を求めて奏上し、これにより簡州司馬に左遷された。歳余して、洪州長史に転じた。時に高宗が汝州の温湯に行幸しようとした際、承慶を抜擢して汝州刺史とし、入朝して光禄卿となった。顕慶四年、杜正倫に代わって度支尚書となり、なお同中書門下三品となった。まもなく度支の失政に坐し、潤州刺史として出され、再び遷って雍州長史となり、銀青光禄大夫を加えられた。総章二年、李乾祐に代わって刑部尚書となり、年老いて致仕を請うたので、これを許し、なお金紫光禄大夫を加えた。三年、病没、年七十六。臨終にその子を誡めて言うには「死生の至理は、また朝に暮のあるが如し。我が終わりには、常服をもって斂めよ。晦朔の常饌には、牲牢を用いるな。墳の高さは認め得る程度で、広大を須いず。事が済み次第即ち葬れ、卜擇を須いず。墓中の器物は、瓷漆のみとせよ。棺有りて槨無し、務めて簡要に在れ。碑志にはただ官号・年代を記し、広く文飾を事とするな」と。幽州都督を追贈され、諡して定といった。
弟の承業もまた学識があった。貞観末年に、官は雍州長史・検校尚書左丞に至った。兄弟相次いでこの任に居り、時人はこれを栄とした。まもなく承慶の事に坐して忠州刺史に左遷された。顕慶初年、再び雍州長史となった。前後ともに能名があった。三遷して左粛機となり、兼ねて司列選事を掌り、魏県子の爵を賜った。総章年間、揚州大都督府長史の任で卒去し、洺州刺史を追贈され、諡して簡といった。承業の弟の承泰は、斉州長史となった。
承泰の子の斉卿は、長安初年に、雍州録事参軍となった。時に則天は雍州長史薛季旭に命じて、御史に堪え得る僚吏を択ばせた。季旭がこれを上聞すると、斉卿は長安尉の盧懐慎・李休光、万年尉の李乂・崔湜、咸陽丞の倪若水、盩厔尉の田崇辟、新豊尉の崔日用を推薦し、後いずれも大官に至った。斉卿は、開元初年に豳州刺史となった。時に張守珪が果毅であったが、斉卿は礼を以て接し、「十年の内に節度使となることを知らん」と言った。果たしてその言の如くとなり、時人は斉卿に人倫の鑑有りと謂った。斉卿は酒を好み、一斗余り飲んでも乱れず、寛厚で親しみやすく、士友はこれをもって善しとした。累遷して太子詹事となり、広陽県公に封ぜられ、まもなく卒去した。承慶の弟の孫の蔵用は、別に伝がある。
劉祥道
劉祥道は、魏州観城の人である。父の林甫は、武徳初年に内史舎人となり、時に兵機は繁速で、諸事草創であったが、高祖は林甫に委ねて専らその事を典とさせ、才幹をもって称された。まもなく詔により中書令蕭瑀らとともに律令を撰定し、林甫は因って『律議』万余言を著した。久しくして、中書侍郎に抜擢され、楽平男の爵を賜った。貞観初年、再遷して吏部侍郎となった。初め、隋代において選に赴く者は、十一月を始めとし、春に至れば即ち停まり、選限が既に促迫していたため、選司は多く究め悉くさなかった。時に選人が漸く衆多となり、林甫は四時に聴選し、随到随注擬することを奏請し、当時甚だ便とされた。時に天下初めて定まり、州府及び詔使は多く赤牒をもって官を授けていたが、この時に至って停省し、尽く来りて赴集し、将に万余人に及んだ。林甫は才に随って銓擢し、皆その宜を得た。時人は林甫の典選を、隋の高孝基に比した。三年、病没し、臨終に表を上って賢を推薦し、太宗は甚だ嘉悼し、絹二百五十匹を賜った。祥道は若くして父の爵を襲った。永徽初年、中書舎人・御史中丞・吏部侍郎を歴任した。顕慶二年、黄門侍郎に遷り、なお吏部選事を知った。祥道は銓綜の術に猶お欠ける所有りとし、乃ち上疏してその得失を陳べた。その一に曰く。
今の選司は士を取るに当たり、多く且つ濫りを傷つけ、毎年入流する者は、数一千四百を超え、多くを傷つける。雑色の入流は、銓簡を加えず、これ濫りを傷つける。経明行修の士は、なお正人に乏しく、多くは胥徒の流れを取る、豈に皆德行有らんや。即ち知る、共に務を厘する者は、善人少なくして悪人多し。国を有つて以来、既に四十載、未だ刑措せず、豈にこれに由らざらんや。但だ先王の道に服膺する者は、奏第して然る後に選に付し、幾案の間に趨走する者は、簡便せずして便ち禄秩を加う。稽古の業は、雖も則ち知り難し、斗筲の材は、何ぞ其れ易く進む。其の雑色応に入流の人、望むらくは曹司に令して判を試み訖り、簡して四等と為し奏聞せしむ。第一等は吏部に付し、第二等は兵部に付し、次は主爵に付し、次は司勲に付す。其の行署等の私犯公坐、情状責む可き者は、赦降を経ると雖も、亦量りて三司に配し、赦降を経ざる者は、本貫に放還す。冀くは入流濫らず、官冗雑無く、且つ胥徒の輩をして、漸く勧勉を知らしめん。
其二に曰く、
古の選者は、官の為に人を択び、人多きを取りて官員少なしと聞かず。今官員数有り、入流限り無し。数有るを以て限り無きに供すれば、遂に九流繁総し、人歳に随ひて積む。謹みて約し、須ふ所の人に准へ、量りて年別に入流する者を支ふ。今内外文武官一品以下、九品已上、一万三千四百六十五員、大数を挙ぐれば、当に一万四千人。壮室にして仕へ、耳順にして退く、其の中数を取れば、三十年を支ふるに過ぎず。此れ則ち一万四千人、三十年にして略く尽く。若し年別に入流する者五百人、三十年を経て便ち一万五千人を得、定めて須ふる者一万三千四百六十五人、須ふる所の数に充つるに足る。況んや三十年の外、官に在る者猶ほ多し、此れ便ち余り有り、其の少なきを慮れず。今年常に入流する者、遂に一千四百を逾え、応に須ふる数を計へば、其の余両倍す。又常選放還する者、仍ほ六七千人を停め、更に復た年別に新たに加ふ、実に処置の法に非ず。
其三に曰く、
儒は教化の本、学者の宗なり。儒教興らずんば、風俗将に替らんとす。今庠序四海に遍く、儒生三学に溢る。誘掖の方、理実に備はるも、而して奨進の道、事或は未だ周からず。但だ永徽已来、今に八載、官に在る者は善政を以て粗く聞こえ、事を論ずる者は一言を以て采る可く、光く綸音を被り、超升次を超えざる莫し。而るに儒生未だ恩の及ぶを聞かず、臣故に以て奨進の道未だ周からずと為す。
其四に曰く、
国家四海に富み、既に四十年、百姓官僚、秀才の挙有ること未だし。豈に今人の昔人に如かざらんや、将に薦賢の道至らざるか。寧ろ方に多士と称し、遂に斯の人を間はんや。望むらくは六品已下、爰に山谷に及び、特く綸言を降し、更に審らかに搜訪し、仍ほ量りて条例と為し、稍く優奨を加へよ。然らずんば、赫赫の辰、斯の挙遂に絶え、一代の盛事、実に朝廷の之を惜しむ。
其五に曰く、
唐・虞は三載考績し、幽明を黜陟す。両漢人を用ふるも、亦久しく其の職に居る。是を以て官に因りて氏を命じ、倉・庾の姓有り。魏・晋以来、事紀す可き無し。今の在任、四考すなはち遷る。官人秩満せんとすと知れば、必ず去就を懐ひ、百姓遷代有るを見れば、苟且無からんや。去就の人を以て、苟且の輩に臨み、移風易俗を責むるは、其れ得可けんや。望むらくは四考を経て、就任して階を加へ、八考満に至り、然る後に選を聴かしめよ。淳に還り樸に反るは、未だ必ず期すと敢てせずと雖も、故を送り新を迎ふるは、実に稍く労弊を減ず。
其六に曰く、
尚書省二十四司及び門下中書の都事・主書・主事等、比来選補するに、皆旧任流外に刀筆の人を取る。縦ひ士流を参用せんと欲すとも、皆儔類を以て恥と為し、前後相承して、遂に故事と成る。且つ掖省崇峻、王言秘密、尚書政本、人物帰する所、而して多く胥徒を用ふるは、恐らくは未だ銓衡の理を尽くさざらん。望むらくは厘革有りて、稍く其の選を清くせん。
明年、中書令杜正倫も亦入流人多きを言ひ、政の弊と為す。高宗祥道を遣はし正倫と詳議して其の事を議せしむ。時公卿已下、改作を憚り、事竟に行はれず。祥道尋ち礼を修むる功を以て、進みて陽城県侯に封ぜらる。四年、刑部尚書に遷り、毎に大獄を覆ふに、必ず歔欷累歎し、奏決の日、之が為に再び食はず。龍朔元年、権めて蒲州刺史を検校す。三年、兼ねて雍州長史を検校し、俄に右相に遷る。祥道性謹慎、既に宰相に居り、深く憂懼を懐く。数たび自ら老疾を陳べ、閑職に退くを請ふ。俄に司礼太常伯に転じ、政事を知るを罷む。麟徳二年、将に泰山に事有らんとす。有司議して旧礼に依るに、皆太常卿を以て亜献と為し、光禄卿を以て終献と為す。祥道駁して曰く、「昔三代に在りては、六卿位重く、故に祠を佐くるを得たり。漢・魏以来、権は台省に帰し、九卿皆常伯の属官と為る。今登封の大礼、八座を以て行事せずして、九卿を用ふるは、虚名に徇りて実事を忘るるに無からんや」と。高宗其の議に従ひ、竟に司徒徐王元礼を以て亜献と為し、祥道を以て終献と為す。事畢りて、進みて広平郡公に爵す。乾封元年、又表を上して骸骨を乞ふ、優制にて金紫光禄大夫を加へ、致仕を聴す。其の年卒す、年七十一、幽州都督を贈り、諡して宣と曰ふ。子斉賢爵を襲ぐ。
子斉賢
斉賢、初め侍御史より出でて晋州司馬と為る。高宗其の方正を聞き、甚だ之を礼す。時将軍史興宗嘗て帝に従ひ苑中にて弋獵し、因りて言ふ、晋州好鷂を出す、劉斉賢見る司馬と為る、請ふ使はして之を捕はしめんと。帝曰く、「劉斉賢豈に鷂を覓むる人ならんや。卿何を以て之を此く待つや」と。遂に止む。斉賢後ち章懐太子の名を避け、名を景先と改む。永淳中、累遷して黄門侍郎・同中書門下平章事と為る。則天朝に臨む、裴炎に代はりて侍中と為る。及び裴炎獄に下り、景先鳳閣侍郎胡元範と与に抗詞して其の反せざるを明らかにす。則天甚だ之を怒る。炎既に誅死せしめらる。景先左遷して普州刺史と為り、未だ到らざるに、又貶授して吉州長史と為る。永昌年、酷吏の為に陥れられ、獄に繋がれ、自縊死す。仍ほ其の家を籍没す。景先自ら祖・父三代皆両省侍郎及び典選と為り、又叔父吏部郎中応道・従父弟礼部侍郎令植等八人、前後吏部郎中員外と為り、唐已来、其の比有ること無しと云ふ。
李敬玄
李敬玄は、亳州譙県の人である。父の孝節は、穀州長史であった。敬玄は群書を博覧し、特に五礼に精通していた。貞観の末、高宗が東宮にあった時、馬周が推薦して、崇賢館に召し入れられ、兼ねて侍読に預かり、なお御書を借りて読んだ。敬玄は風格が高峻で、犯しがたい色があったが、請謁に勤め、寒暑を避けず、馬周や許敬宗らは皆推薦して名声を広めた。乾封の初め、累進して西台舎人・弘文館学士となった。総章二年、累転して西台侍郎、兼太子右中護・同東西台三品、兼検校司列少常伯となった。当時、員外郎の張仁祎に時務の才があり、敬玄は曹事を彼に委ねた。仁祎は初めて姓歴を作り、状様・銓歴などの程式を改修し、処事に勤労したが、遂に心疾で卒した。敬玄は仁祎の法に依り、選挙を典すること累年、銓綜に秩序があった。永徽以後、選人が転じて多くなり、その任に当たる者は、称職と聞くことが稀であったが、敬玄が選挙を掌ると、天下その能を称えた。選挙に預かる者は年に一万余人、毎に街衢でこれを見て、その姓名を知らぬ者はなかった。放たれて訴える者があれば、即ち口頭でその書判の失錯及び身に負う殿累を陳べ、少しも差違がなかった。当時の人は皆その強記に服し、敢えて欺く者はいなかった。選人に杭州参軍の徐太玄という者がいた。初め任にあった時、同僚の張惠が贓を犯して死罪に至った。太玄はその母の老いを哀れみ、獄に詣でて自ら陳べ、惠と共に受けしと称した。惠の贓数は既に少なかったので、遂に死罪を減じられ、太玄もまた坐して免官となり、十数年も調任されなかった。敬玄はこれを知って大いに嘆賞し、鄭州司功参軍に抜擢して授けた。太玄はこれによって知名となり、後に官は秘書少監・申王師に至り、徳行をもって当時に重んぜられた。敬玄の賞鑑は、多くこの類であった。咸亨二年、中書侍郎を授けられ、その他は全て元の通りであった。三年、銀青光禄大夫を加えられ、行吏部侍郎となり、旧に依り兼太子右庶子・同中書門下三品であった。四年、国史を監修した。上元二年、吏部尚書に拝され、なお旧に依り兼太子左庶子、国史監修・同中書門下三品であった。敬玄は久しく選部に居たので、人多くこれに附いた。前後三度娶ったが、皆山東の士族であった。また趙郡李氏と合譜したので、台省の要職は、多くその同族婚媾の家であった。高宗は知って悦ばなかったが、なおその過ちを顕わさなかった。儀鳳元年、劉仁軌に代わって中書令となった。調露二年、吐蕃が入寇した。仁軌は先に敬玄と協わなかったので、遂に奏請して敬玄に西辺を鎮守させた。敬玄は自ら素より辺将の才でないとし、固く辞した。高宗はこれに謂って曰く、「仁軌がもし朕を必要とするなら、朕は即ち自ら往く。卿は辞すべからず」と。遂に敬玄を洮河道大総管とし、兼安撫大使とし、なお検校鄯州都督とし、兵を率いて吐蕃を防禦させた。戦おうとする時、副将の工部尚書劉審礼が先鋒としてこれを撃った。敬玄は賊が至ったと聞き、狼狽して退却した。審礼は既に継援がなく、遂に陣に没した。俄かに詔があり、敬玄を鄯州に留めて防禦させた。敬玄は累表して疾を称し、還って医療を乞うた。許された。既に入見すると、疾を験するに重くなく、高宗はその詐妄を責め、またその前後の愆失を積み、衡州刺史に貶授した。稍々遷って揚州大都督府長史となった。永淳元年に卒した。年六十八。兗州都督を贈られた。『礼論』六十巻・『正論』三巻・文集三十巻を撰した。子の思沖は、神龍の初め、累進して工部侍郎・左羽林軍将軍となり、節湣太子に従って武三思を誅しようとしたが、事敗れて殺され、その家は籍没された。敬玄の弟の元素もまた吏才があり、初め武徳令となった。当時、懐州刺史の李文暕が金銀を調率して常満尊を造り献上しようとした。百姓は甚だこれに疲弊し、官吏は敢えて異議を唱える者はいなかった。元素は抗詞して固く執り、文暕はその制度を損じ、家財をもってこれを営んだ。延載元年、文昌左丞より遷って鳳閣侍郎・鳳閣鸞台平章事となり、銀青光禄大夫を加えられた。万歳通天二年、洛州録事参軍の綦連耀と交結した罪に坐し、武懿宗に陥れられて殺された。神龍の初めに雪免された。
李義琰
李義琰は、魏州昌楽の人で、常州刺史玄道の族孫である。その先は隴西より山東に徙り、世々著姓であった。父の玄徳は、癭陶令であった。義琰は若くして進士に挙げられ、累補して太原尉となった。当時、李勣が并州都督であったが、僚吏は皆風を望んで慴懼したが、義琰は独り廷で曲直を折し、勣は甚だこれを礼した。義琰は、麟徳中に白水令となり、能名があり、司刑員外郎に拝された。上元中、累遷して中書侍郎となり、また太子右庶子・同中書門下三品を授けられた。当時、天后が国政に預かっていた。高宗は嘗て詔を下して後に国事を摂知させようとしたが、義琰は中書令の郝処俊と固く争い、不可と為し、事は遂に止んだ。義琰は身長八尺、博学多識で、高宗が毎に顧問するに、言は皆切直であった。章懐太子が廃された時、高宗は官僚を慰勉し、罪を全て赦し、その位に復させた。庶子の薛元超らは皆舞蹈して恩を謝したが、義琰は独り罪を引いて涕泣し、当時の論はこれを美とした。義琰の宅には正寝がなかった。弟の義璡が司功参軍であったので、堂材を市って送った。義璡が来覲した時、義琰はこれに謂って曰く、「吾を以て国相と為す、豈に愧じを懐かざらんや?更に美室を営むは、是れ吾が禍を速めるなり。此れ豈に我を愛するの意ならんや」と。義璡曰く、「凡そ人仕えて丞尉と為れば、即ち第宅を営む。兄は官高く禄重し、豈に卑陋を以て下を逼すべけんや」と。義琰曰く、「事は全遂し難く、物は両興せず。既に貴仕有り、又その宇を広くす。若し令徳無くんば、必ずその殃を受く。吾はこれを欲せざるに非ず、戾を獲るを懼るるなり」と。遂に営構せず、その木は霖雨に腐らされて棄てられた。義琰は後に父母を改葬し、舅氏にその旧塋を移させた。高宗は知って怒りて曰く、「豈に身枢要に在りて、外家を凌蔑すべきや。この人は更に政事を知るべからず」と。義琰は聞いて自ら安からず、足疾を以て上疏して骸骨を乞うた。乃ち銀青光禄大夫を授け、致仕を聴された。乃ち東都の田裏に帰らんとし、公卿以下は通化門外で祖餞した。当時の人はこれを漢の二疏に比した。垂拱の初め、起用されて懐州刺史となった。義琰は自ら則天の意を失ったとし、禍の及ぶを恐れ、固く拝辞しなかった。四年、家に卒した。義琰の従祖弟の義琛は、永淳の初め、雍州長史となった。当時、関輔は大飢饉で、高宗は貧人を商・鄧に散じて食を逐わせた。義琛は黎人の流転を恐れ、これによって還らずと為し、固くこれを争った。これによって旨に忤い、梁州都督に出され、転じて岐州刺史となり、良吏と称された。官に卒した。
高宗の時の宰相には、また孫処約・楽彦瑋・趙仁本がいた。皆名跡がある。
(附)孫処約
孫處約は、汝州郟城の人である。貞観年間に、斉王李祐の記室となった。李祐が既に道を失うと、處約はたびたび上書してこれを諫めた。李祐が誅殺された後、太宗は自らその家の文書を検分し、處約の諫書を得て、大いに嘆賞した。累進して中書舎人となった。その年、中書令杜正倫が奏上して更に一人の舎人を授け、處約と共に制誥を知るよう請うたが、高宗は言った、「處約一人で我が事を弁ずるに足る。何ぞ多きを須いんや」と。處約は『太宗実録』の編修に参与して完成した功により、物七百段を賜った。三度転じて中書侍郎となり、李勣・許敬宗と共に国政を知った。まもなく中宮の諱を避けて、名を茂道と改めた。事に坐して左遷され司礼少常伯となった。顕慶年間に、少司成に拝され、老病を理由に致仕を請うたところ、許され、まもなく卒した。子の佺は、睿宗の時に左羽林大将軍となり、契丹を征討して戦死した。
(附)楽彦瑋
楽彦瑋は、雍州長安の人である。顕慶年間に、給事中となった。時に故侍中劉洎の子が闕に詣でて上言し、洎が貞観末に褚遂良に誣えられて冤死したと称し、冤罪を雪ぐことを請うた。中書侍郎李義府もまたこれを支持した。高宗が近臣に問うと、衆は義府の意を迎え、皆その冤罪を言上した。彦瑋のみが進み出て言った、「劉洎は大臣なり。挙措は軌度に合すべきである。人主が暫し不豫であっても、豈に即ち国に背かんと擬すべけんや。先朝が責めたところは、未だ不適ではなかった。且つ国君に過挙は無し。若し洎の罪を雪ぐとすれば、豈に先帝の用刑不当と謂うべけんや」と。その言を然し、遂にその事を止めた。彦瑋はまもなく丁憂に服し、起復されて唐州刺史となった。入朝して辞する際、高宗はその言の直なるを覚えており、再び東台舎人に拝した。累進して西台侍郎・同東西台三品となった。乾封元年、劉仁軌に代わって大司憲となり、官名が旧に復すると、御史大夫に改められた。上元三年に卒し、秦州都督を贈られた。永昌年間、子の思晦が貴んだことにより、重ねて揚州大都督を贈られた。思晦は、則天の時に官は鸞台侍郎に至り、兼ねて検校天官尚書・同鳳閣鸞台三品となり、酷吏に殺された。
(附)趙仁本
趙仁本は、陝州河北の人である。貞観年間に、累進して殿中侍御史となった。義寧以来の詔勅を全て自ら手で纂録し、事に臨んでは皆暗記しており、当時大いに敬服された。時に勅命があり、一人の御史を遠方に派遣することとなり、同僚たちは互いに辞退し託けあっていたが、仁本は越次して行くことを請い、治書侍御史馬周に言った、「君の禄を食む者は、君の事に死す。たとえ跋渉艱険すとも、敢えて辞すべからず」と。帰還すると、事また旨に称い、吏部員外郎に抜擢された。乾封年間に、歴任して東台侍郎・同東西台三品となり、まもなく司列少常伯に転じ、知政事は元の如くであった。時に許敬宗が右相であり、頗る権勢を任せていたが、仁本はその請託を拒んだため、遂に敬宗に陥れられ、俄かに尚書左丞を授けられ、知政事を罷免された。咸亨初年に官のまま卒した。
史臣曰
史臣論じて曰く、崔・盧の数公は、皆忠清文行をもって、枢要の位に至った。恪恭として懈らず、名位を保ち、誠に所謂持盈守成、太平の君子というべきである。然れども敬玄が太玄を擢げたことは、能く善を挙ぐる者と謂うべし。義琰は腐材を用いて第宅を営まず、儉徳有ると謂うべし。彦瑋は独り奸臣を遏ぎ、仁本は遠使に当たることを請い、終に輔相に昇ったことは、亦た宜ならずや。
賛して曰く、盧・劉の両族は、奕世の名卿なり。二李・二楽は、俱に公清と号す。権臣に独り抗し、美第を営まず。これを以て輔弼と為す、徳声に愧じること無し。