旧唐書 巻八十 列伝第三十 褚遂良 韓瑗 来済 上官儀

旧唐書

巻八十 列伝第三十 褚遂良 韓瑗 来済 上官儀

褚遂良

褚遂良は、散騎常侍褚亮の子である。大業の末、父に従って隴右におり、薛挙が帝号を僭称すると、通事舎人に任じられた。薛挙が敗れて帰国すると、秦州都督府鎧曹参軍を授けられた。貞観十年、秘書郎から起居郎に遷った。遂良は広く文史に渉猟し、特に隷書に巧みで、父の友人欧陽詢は彼を非常に重んじた。太宗がかつて侍中魏徴に言った、「虞世南が死んでから、書について論じられる者がいない」。魏徴が言った、「褚遂良は筆致が雄勁で、王逸少の体をよく会得している」。太宗は即日に召して侍書を命じた。太宗はかつて御府の金帛を出して王羲之の書跡を購求したところ、天下の者が争って古書を携えて宮闕に詣で献上したが、当時はその真偽を弁別できる者がいなかった。遂良はその出所を詳しく論じ、一つとして誤りがなかった。十五年、泰山で祭祀を行う詔があり、先ず洛陽に行幸した。その時、星が太微に孛し、郎位を犯した。遂良は太宗に言った、「陛下は乱を撥ねて正に反り、功は前代の偉業を超え、東嶽に告成しようとされるのは、天下の幸いです。しかし行幸して洛陽に至ると、彗星が現れました。これはあるいは未だ允合しないところがあるのでしょう。かつ漢の武帝は数年優柔として、ようやく岱の礼を行いました。臣の愚見、詳しく選択されることを伏して願います」。太宗は深くこれを然りとし、詔を下して封禅の事を罷めた。その年、諫議大夫に遷り、起居事を兼ねて知った。太宗がかつて問うた、「卿は起居を知っているが、何を記録するのか。大体、人君はこれを見ることができるのか」。遂良が答えて言った、「今の起居は、古の左右史であり、人君の言動を書き、かつ善悪を記して、鑑戒とし、人主が非法を行わないようにするのです。帝王がみずから史を観るとは聞きません」。太宗が言った、「朕に不善があれば、卿は必ず記すのか」。遂良が言った、「道を守るは官を守るに如かず、臣の職は筆を載せるに当たり、君の挙動は必ず記します」。黄門侍郎劉洎が言った、「仮に遂良が記さなくても、天下もまたこれを記すでしょう」。太宗はこれを然りとした。時に魏王は太宗に愛され、礼秩は嫡子のようであった。その年、太宗が侍臣に問うた、「当今、国家の何事が最も急務か」。中書侍郎岑文本が言った、「『伝』に『これを導くに徳を以てし、これを斉うるに礼を以てす』と称します。これによって言えば、礼義が急務です」。遂良が進み出て言った、「当今、四方は徳を仰ぎ、誰が敢えて非を為しましょうか。ただ太子・諸王には、定まった分けが必要です。陛下は万代の法を為して子孫に遺されるべきです」。太宗が言った、「この言は是である。朕は年五十に将ち、すでに衰怠を覚える。既に長子をして東宮の守器とし、弟および庶子の数は五十に将ち、心に常に憂慮するのは、まさにここにある。ただ古より嫡庶に良佐なく、何ぞ嘗て国家を傾敗せざらんや。公らは朕のために賢徳を捜訪し、以て儲宮に傅え、および諸王に及ぼし、皆正士を求めよ。かつ人に事えること歳久しければ、即ち分義情深く、意に非ざる窺覦は、多くここより起こる」。ここにおいて王府の官僚は四考を過ぎざるを限った。十七年、太宗が遂良に問うた、「舜は漆器を造り、禹はその俎を彫った。当時、舜・禹を諫めた者は十余人いた。食器の間のことについて、苦諫するのは何故か」。遂良が答えて言った、「彫琢は農事を害し、纂組は女工を傷つけます。奢淫を首創することは、危亡の漸です。漆器で止まなければ、必ず金で為し、金器で止まなければ、必ず玉で為します。だから諍臣は必ずその漸を諫め、その満盈に及んでは、再び諫める所が無いのです」。太宗はこれを然りとし、因って言った、「人君たるもの、万姓を憂えずして奢淫に事えるならば、危亡の機は掌を反すを待つべし」。時に皇子で幼年の者は多く都督・刺史に任じられた。遂良が上疏して言った、「昔、両漢は郡国を以て人を治め、郡の外に、諸子を分立した。土を割き疆を分ち、周の制を雑用した。皇唐の州県は、秦の法に祖依する。皇子の幼年、あるいは刺史を授けられるのは、陛下は豈に王の骨肉を以て四方を鎮捍せしめられないからでしょうか。この造制は、道は前烈より高い。臣の愚見では、少し未だ尽きないところがあります。何となれば、刺史は郡の帥であり、民はこれに仰いで安んずる。一の善人を得れば、部内は蘇息し、一の不善に遇えば、合州は労弊する。だから人君は百姓を愛恤し、常に賢を択ぶ。あるいは河潤九里と称し、京師は福を蒙り、あるいは人歌詠を興し、生ける間に祠を立てられる。漢の宣帝が言う、『我と共に理する者は、惟だ良二千石のみ』。臣の愚見では、陛下の兒子の中で年歯尚幼く、未だ人に臨むに堪えざる者は、しばらく京師に留め、経学を教えるべきです。一には天の威を畏れ、敢えて禁を犯さず、二には朝儀を見て、自然に成立する。これによって積習し、自ら人たることを知る。審かに州に臨むに堪えるとすれば、然る後に遣い出す。臣謹んで按ずるに、漢の明帝・章帝・和帝の三帝は、弟に友愛することができ、これより以降、準的と為す。諸王を封立するも、各々国土は有れども、年尚幼小なる者は、召して京師に留め、礼法を訓え、恩恵を垂れる。三帝の世に至るまで、諸王数十百人、ただ二王が稍悪いだけで、その余は和に餐し教に染まり、皆善人と為った。則ち前事は既に験あり、惟だ陛下の詳察を願います」。太宗は深くこれを納れた。その年、太子承乾が罪によって廃され、魏王泰が入って侍した。太宗は面と向かって太子に立てることを許した。因って侍臣に謂って言った、「昨日、青雀(魏王泰)が自ら我が懐に投じて言うには、『臣は今日始めて陛下と子たるを得、更生の日です。臣には唯だ一子あり、臣の百年の後、当に陛下のためにこれを殺し、国を晋王に伝えましょう』。父子の道は、故に天性に当たる。我そのこの如きを見て、甚だこれを憐れむ」。遂良が進み出て言った、「陛下は失言されました。伏して審思を願い、誤りをさせないでください。どうして陛下の百年の後、魏王が権を執って天下の主と為り、その愛子を殺し、国を晋王に伝えることができましょうか。陛下は昔、承乾を立てて太子とされながら、また魏王を寵愛し、礼数あるいは承乾を逾えるところがありました。良く嫡庶を分かたなかったので、ここに至ったのです。殷鑑遠からず、足るを以て亀鏡と為すべし。陛下今日既に魏王を立てられました。伏して陛下に別に晋王を安置されることを願い、始めて安全を得るのです」。太宗は涕泗交えて下りて言った、「我にはできない」。即日に長孫無忌・房玄齢・李勣と遂良らを召して策を定め、晋王を皇太子に立てた。時に頻りに飛雉が宮殿の内に集まった。太宗が群臣に問うた、「これは何の祥か」。答えて言った、「昔、秦の文公の時、童子が雉に化し、雌は陳倉に鳴き、雄は南陽に鳴いた。童子が言う、雄を得る者は王と為り、雌を得る者は覇と為ると。文公は遂にこれを宝鶏と為した。後漢の光武帝は雄を得て、遂に南陽より起こり四海を有した。陛下は旧く秦王に封ぜられたので、故に雄雉が秦の地に見える。これは明徳を彰表する所以です」。太宗は悦んで言った、「立身の道は、学無くしてはならず、遂良は博識で、深く重んずべきである」。尋いて太子賓客を授けた。

時に薛延陀が使いを遣わして婚姻を請うた。太宗は娘を妻とすべく許し、その財聘を納めたが、既にして与えなかった。遂良が上疏して言った、

臣は聞く、信は国の根本であり、百姓の帰するところである。それゆえ文王は枯骨に許しを与えて違わず、仲尼は食を去って信を存せしめた。延陀は往年はただ一の俟斤に過ぎなかったが、神兵の北指に値し、沙塞を蕩平し、狼山・瀚海、万里蕭條たり。陛下は兵を外に加えながら恩は内より起こし、余寇の奔波を以て、須らく酋長を立てるべしとし、璽書と鼓纛を与え、可汗に立てた。その恩光を懐き、天を仰いで極まりなし。而して余方の戎狄、聞知せざるはなく、以て共に和風を沐し、同じく恩信を餐す。頃者、頻年に遣使し、大国に婚姻を請う。陛下また鴻私を降し、その姻媾を許した。ここにおいて吐蕃に報じ、思摩に告げ、中国に示し、五尺の童子も人皆これを知る。ここにおいて北門に御幸し、その献食を受け、時に百僚は笏を端にし、戎夷は左衽し、虔しく歓宴を奉じ、皆徳音を承け、口歌し手舞し、楽を以て終日を終う。百官会畢、また各々言有り、咸く陛下が百姓の安寧を得んと欲し、辺境の交戦を欲せず、遂に一女を惜しまずして可汗に妻せんとし、含生に預かる所以のもの、以て徳を感ぜしむと為す。今一朝にして進退の意を生じ、改悔の心有り、臣は国家の為にこの声聴を惜しむ。君子は物に於いて色を失わず、人に於いて口を失わず。晋の文公は原を囲み、三日の糧を命じ、原降らず、去るを命ず。諜出でて曰く「原将に降らんとす」と。軍吏、これを待つを請う。公曰く「信は国の宝なり、民の庇なり。原を得て信を失わば、何を以てか之を庇わん」と。陛下は意表に生意を慮り、言前に信在り。今者事に臨み、忽然として乖殊す。惜しむ所尤も少なく、失う所滋く多し。情既に通ぜず、方に嫌隙を生ず。一方は以て相畏忌し、辺境は風塵無からざるを得ず。西州・朔方、能く労擾無からんや。彼の胡は主の欺かるるを以て心に怨み、此の士は此の信無きを以て慚を懐く。以て戎兵を訓え、以て軍事を励ますべからず。伏して惟うに、陛下は聖徳神功を以て、四表を廓清す。君として天下に臨むより、十有七載、仁恩を以て庶類を結び、信義を以て戎夷を撫す。欣然とせざるはなく、之に負うて力無し。その見在の人、皆厚徳に報いんと思い、その生む胤嗣もまた陛下の子孫に報いんと望む。今者一の公主を得て之に配し、以て陛下の信を成す。始め有りて終わり有り、其れ唯聖人か。且つ又龍沙以北、部落算うる無し。中国之を撃つも、終に尽くす能わず。亦た由らくは、可北敗れ、芮芮興り、突厥亡び、延陀盛んなるが如し。時に古人の外を虚にし内を実にするを以て、之を懐くるに徳を以てし、悪は夷に在りて華に在らず、信を失うは彼に在りて此に在らず。伏して惟うに、陛下の聖徳は涯無く、威霊は遠く震い、遂に高昌を平げ、吐渾を破り、延陀を立て、頡利を滅ぼす。刑を軽くし賦を薄くし、庶事壅げ無く、菽粟豊かに賤く、祥符累ねて臻る。此れ則ち堯・舜・禹・湯も陛下に及ばざること遠し。伏して願わくは旁らに愷悌を垂れ、広く茲に含育せしめ、而して常に絶域を嗔り、遠籓に意有ること無からんことを。偃伯して文を興すの道に非ず、戈を止めて武と為すの義に非ず。臣は庸暗を以て、左右に忝く居り、敢えて瞽言を献じ、戦懼に勝えず。

時に太宗は親征して高麗を征伐せんと欲し、顧みて侍臣に謂いて曰く「高麗の莫離支、その王を賊殺し、その人を虐用す。夫れ師を出して弔伐すは、機便に乗ずべし。今その弑虐に因りて之を誅するは甚だ易し」と。遂良対えて曰く「陛下の兵機神算、人知る能わざる所なり。昔、隋末乱離し、手ずから寇乱を平ぐ。及び北狄辺を侵し、西蕃礼を失うに及び、陛下将を命じて之を撃たんと欲す。群臣苦諫せざるは無く、陛下独断して進討し、卒に並びに誅夷す。海内の人、徼外の国、威を畏れて懾伏す、此の挙の為なり。今、陛下将に師を興して遼東に赴かんとす。臣の意熒惑す。何となれば、陛下の神武、前代の人君に比ぶるに非ず。兵既に遼を渡れば、期を指して克捷すべし。万一差跌あらば、以て遠方に威を示す無く、若し再び忿兵を発せば、則ち安危測り難し」と。太宗深く之を然りとす。兵部尚書李勣曰く「近者、延陀辺を犯す。陛下必ず追撃せんと欲す。此時、陛下魏徴の言を取れば、遂に機会を失う。若し聖策の如くせば、延陀一人として生還する者無く、五十年間疆場事無かるべし」と。帝曰く「誠に卿の言の如し。魏徴の誤計による耳。朕は一計の当たらずを以て之を尤とせず。後良算有らば、安んぞ謀を矢せん」と。ここにおいて勣の言に従い、渡遼の師を経画す。遂良は太宗の三韓に鋭意するを以て、その遺悔を懼れ、翌日上疏して諫めて曰く。

臣聞く、国家有る者は譬えば身の如し。両京は心腹に等しく、四境は手足の方なり。他方絶域は、身外に在るが若し。臣近く坐下に於いて、口敕を伏して奉り、臣下に布語し、自ら遼を伐たんと欲すと云う。臣数夜思量すれども、その理に達せず。高麗王は陛下の立てし所、莫離支輒ちその主を殺す。陛下逆を討ち地を収む、斯れ実に機に乗ずるなり。関東は陛下の徳沢に頼り、久しく征戦無し。但だ二、三の勇将を命じ、四、五万の兵を発し、飛石軽梯、回掌の如く取るべし。夫れ聖人の作有るは、必ず常規を履み、貴ぶは能く凶乱を克平し、才傑を駕馭するに在り。惟うに陛下は両儀の道を弘め、三五の風を扇ぎ、人物を提厲して、皆思うに命を效せしむ。昔、侯君集・李靖、所謂る庸夫、猶お能く万里の高昌を掃い、千載の突厥を平ぐ。皆是れ陛下の発蹤指示、声は聖明に帰す。臣旁らに史籍を求め、近代に訖るまで、人の主として自ら遼を伐つは無く、人臣往きて征するは則ち有り。漢朝は則ち荀彘・楊僕、魏代は則ち毋丘儉・王頎。司馬懿は猶お人臣たり、慕容真は僭号の子、皆その主の為に長駆して高麗に至り、その人民を虜にし、城壘を削平す。陛下の功は天地に同じく、美化は古昔を包む。自ら当に百王を超邁すべく、豈に止めて六子に俯同せんのみならんや。陛下昔、寇逆を翦平し、大いに爪牙有り。年歯未だ衰えず、猶お任用に堪う。匪唯だ陛下の使う所、亦た何の行にしてか克たざらん。方今、太子新たに立ち、年実に幼少。自余の籓屏は、陛下の知る所。今一旦金湯の全を棄て、遼海の外に渡らんとす。臣忽ち三思し、煩愁並びに集まる。大魚は巨海に依り、神龍は川泉に据わる。此れ人君の軽くして遠ざかるべからざるを謂うなり。且つ長遼の左、或いは霖淫に遇わば、水潦波を騰え、平地数尺。夫れ帯方・玄菟、海途深渺、万乗の宜しく行践すべからざる所。東京・太原、中地と謂う。東捴して以て声勢と為すべく、西指して以て延陀を摧くに足る。その西京に於ける、逕路遠からず。その節度と為し、以て軍謀を設け、莫離支の頸を系ぎ、皇家の廟に献ず。此れ実に安全の上計に処り、社稷の根本なり。特ち天慈を乞い、一たび省察を垂れたまわんことを。

太宗は受け入れなかった。十八年、黄門侍郎に拝され、朝政に参画し総括した。高麗の莫離支が使者を遣わして白金を貢いだので、遂良は太宗に言うには、「莫離支は主君を虐殺し、九夷の容れるところではない。陛下がこれに兵を起こし、まさに弔伐の事を行おうとされるのは、遼山の人々のために主辱の恥を報いようとなさるのである。古より、君を弑した賊を討つには、その賂を受け取らない。昔、宋の督が魯君に郜の鼎を遺し、桓公が太廟でこれを受けたとき、臧哀伯が諫めて言うには、『人君たる者は徳を明らかにし違を塞ぐ。今、徳を滅ぼし違を立て、その賂器を太廟に置けば、百官がこれを象り、また何を誅せんとするか。武王が商を克ち、九鼎を洛邑に遷したとき、義士すらなおこれを非とした。ましてや違乱の賂器を明らかにし、これを太廟に置くこと、いかんせん』と。そもそも『春秋』の書は、百王が法を取るものである。もし臣ならざる者の筐篚を受け、弑逆の朝貢を納れて、これを過ちとせずば、何をもって伐つことを致さん。臣は謂う、莫離支の献ずるものは、自ら受くべからずと。」太宗はこれを受け入れ、その使者を官吏に属させた。

太宗は高昌を滅ぼした後、毎年千余人を徴発してその地を防遏させた。遂良が上疏して言うには、

臣が聞くに、古の哲後は必ずまず華夏に事えて後に夷狄に及び、徳化を広めることを務めて遐荒に事えず。これにより周の宣王は薄伐して境に至りて止まり、始皇は遠く塞を築いて中国は分離した。漢の武帝は文・景の聚財を負い、士馬の余力を玩び、初めて西域に通じ、初めて校尉を置く。軍旅連ねて出でること、将に三十年。また宛城に天馬を得、安息に蒲萄を採る。しかるに海内は虚竭し、生人は所を失い、租は六畜に及び、算は舟車に至り、これにより凶年に因り、盗賊並び起こり、搜粟都尉桑弘羊また主の意を希い、士卒を遣わして遠く輪台に田し、城を築いて西域を威す。帝は翻然として追悔し、情は中より発し、輪台の野を棄て、哀痛の詔を下す。人神感悦し、海内乃ち康し。向使武帝また弘羊の言を用いば、天下の生霊皆尽きしであろう。これにより光武の中興は、葱嶺を踰えず、孝章の即位には、都護来帰す。陛下は高昌を誅滅し、威を西域に加え、その鯨鯢を収めて州県となす。然らば則ち王師初発の歳、河西供役の年、芻を飛ばし粟を挽き、十室九空、数郡蕭然として、五年復せず。陛下は歳に千余人を遣わして遠く屯戍に事えしめ、終年離別、万里帰を思う。去る者の資装は、自ら営弁を須い、既に菽粟を売り、その機杼を傾く。経途の死亡は、またその外に在り、兼ねて罪人を遣わし、その防遏を増す。彼の罪人は、販肆に生まれ、終朝惰業、禁を犯し公に違う。ただ辺城を擾らすに止まり、実に行陣に益無し。遣わす所の内、また逃亡有り、官司捕捉し、国のために事を生ず。高昌の途路は、沙磧千里、冬の風は冰冽、夏の風は焚くが如し。行人去来し、これに遇えば多く死す。『易』に云う、「安きを忘れず危うきを忘れず、理を忘れず乱を忘れず。」設令張掖塵飛び、酒泉烽挙がば、陛下豈に高昌の一人の菽粟を得て事に及ばんや。終には隴右諸州を発し、星馳電撃せざるを得ん。斯れに由りて言えば、この河西は心腹に方び、かの高昌は他人の手足、豈に中華を糜費して、無用に事えしめんや。『書』に曰く、「益なきを作さずして益を害せず。」その此れを謂うか。陛下の道は先天に映じ、威は外無く行わる。頡利を沙塞に平げ、吐渾を西海に滅ぼす。突厥の余落には、可汗を立て、吐渾の遺氓には、更に君長を樹つ。また高昌を立てるは、前例無きに非ず。これ所謂罪有りてこれを誅し、既に伏してこれを立つ。四海百蛮、誰か聞見せざらん、蠕動懷生、威を畏れ徳を慕う。宜しく高昌に立てるべき者を択びてこれを立て、首領を征給し、本国に遣還せしめ、洪恩を負戴して、長く籓翰たらしむべし。中国は擾らず、既に富み且つ寧く、子孫に伝えて、永世を貽す。

二十年、太宗は寝殿の側に別に一院を置き、太子に居らしめ、決して東宮に往かせなかった。遂良がまた上疏して諫めて言うには、

臣が聞くに、周の世は安否を問うて三至すれば必ず退き、漢の儲君は視膳して五日にして乃ち来る。前賢の作法は、規模弘遠なり。礼に曰く、「男子十年にして外傅に出で就き、外に宿して、書計を学ぶ。」然らば則ち古の達者は、豈に慈心無からんや。この私愛を減じて、成立せしめんと欲するなり。凡人すら猶おかくの如く、況んや君の世子においてをや。自ら春に誦し夏に弦すべく、師傅に親近し、人間の庶事を体し、君臣の大道に適い、翹足延首する者をして、皆善声を聆かしむべし。献歳の陽春有るが若く、玄天の日月有るが如く、この懿徳を弘めて、乃ち元良と作す。伏して惟うに、陛下は道は三才を育み、功は九有を包み、親しく太子を樹つるに、欣欣然とせざるは莫し。既に昏を廃し明を立つと云う以上は、須らく天下の瞻望に称すべく、しかるに教成の道は、実に深く乖闕す。膝下を離れず、常に宮内に居り、保傅の説は暢かならず、経籍の談は蔑如たり。且つ朋友は深く交うべからず、深く交えば必ず怨み有り。父子は滞愛すべからず、滞愛すれば或いは愆を生ず。伏して願わくは遠く殷・周を覧み、近く漢・魏に遵い、頓に革むべからず、事は階漸を須う。嘗て旬日を計り、半ばは宮に還し、専ら学芸を以て身を潤し、芳声を天下に布かしめよ。然らば則ち微臣たとえ死すとも、猶お生年と曰わん。

太宗はこれに従った。

遂良は前後諫奏し及び便宜を陳ぶる書数十上し、多く採納を見た。その年、銀青光禄大夫を加えられた。二十一年、本官を以て大理卿を検校し、尋いで父憂に丁り解かれた。明年、旧職に起復し、俄かに中書令に拝された。

二十三年、太宗は寝疾し、遂良及び長孫無忌を召して臥内に入れ、これに謂いて曰く、「卿等の忠烈は、朕が心に簡在す。昔、漢武は霍光に寄せ、劉備は葛亮に托せり。朕の後事は、一に卿に委ぬ。太子は仁孝、卿の悉くする所なり。須らく誠を尽くして輔佐し、永く宗社を保て。」また顧みて太子に謂いて曰く、「無忌・遂良在り、国家の事、汝憂うること無かれ。」仍って遂良に詔を草せしめた。高宗即位し、爵を河南県公に賜う。永徽元年、郡公に進封された。尋いで事に坐して同州刺史に出された。三年、征されて吏部尚書・同中書門下三品に拝され、国史を監修し、光禄大夫を加えられた。その月、また太子賓客を兼ねた。四年、張行成に代わって尚書右僕射となり、旧に依って政事を知った。

六年、高宗は皇后王氏を廃し、昭儀武氏を立てて皇后とせんとし、太尉長孫無忌、司空李勣、尚書左僕射於志寧及び遂良を召してその事を籌議せしむ。将に入らんとするに、遂良、無忌等に謂ひて曰く、「上意中宮を廃せんと欲す、必ず其の事を議せん、遂良今諫を陳べんと欲す、衆意如何」と。無忌曰く、「明公須らく極言すべし、無忌請ふ継がんことを」と。及入るに、高宗発言に難し、再三顧みて無忌に謂ひて曰く、「莫大の罪、絶嗣より甚しきは莫し。皇后胤息無く、昭儀子有り、今立てて皇后とせんと欲す、公等以て如何と為すや」と。遂良曰く、「皇后名家より出で、先朝娶りたまへる所、伏して先帝に事へ、婦徳に愆無し。先帝豫せず、陛下の手を執りて臣に語りて曰く、『我が好兒好婦、今将に卿に付す』と。陛下親しく徳音を承け、言猶ほ耳に在り。皇后此より愆有りと聞かず、恐らくは廃すべからず。臣今曲から従ふことを敢へず、上は先帝の命に違ひ、特ち願はくは再三思審せられんことを。愚臣上聖顔に忤ふ、罪万死に合ふ、但願はくは先朝の厚恩に負かざらんことを、何ぞ性命を顧みんや」と。遂良笏を殿陛に致して曰く、「此の笏を還し奉る」と。仍ち巾を解き頭を叩きて血を流す。帝大いに怒り、引き出ださしむ。長孫無忌曰く、「遂良先朝の顧命を受け、罪有りと雖も刑を加へず」と。翌日、帝李勣に謂ひて曰く、「武昭儀を冊立するの事、遂良固執して従はず。遂良既に顧命の大臣を受く、事若し不可ならば、当に且く止むべし」と。勣対へて曰く、「此れ乃ち陛下の家事、外人に問ふに合はず」と。帝乃ち昭儀を立てて皇后と為し、遂良を左遷して潭州都督とす。顕慶二年、転じて桂州都督と為す。未だ幾もせず、又貶して愛州刺史と為す。明年、官に卒す、年六十三。

遂良卒して後二歳余り、許敬宗・李義府奏言して長孫無忌の構へし逆謀は、並びに遂良の搧動する所なりとし、乃ち官爵を追削し、子孫を配流して愛州とす。弘道元年二月、高宗遺詔して本郡に放還す。神龍元年、則天遺制して遂良及び韓瑗の爵位を復す。

韓瑗

韓瑗は、雍州三原の人なり。祖紹は、隋の太僕少卿。父仲良は、武徳初め大理少卿と為り、詔を受けて郎楚之等と律令を掌定す。仲良高祖に言ひて曰く、「周代の律、其の属三千、秦法已来、約す五百。若し遠く周制に依らば、繁紊更に多し。且つ官吏至公なれば、自ら法を奉ずべし、苟も己に徇はば、豈に刑名を顧みんや。請ふ寛簡を崇くし、以て惟新の望に允ならんことを」と。高祖之を然りとす。是に於て『開皇律』を采定して之を行ひ、時に以て便と為す。貞観中、位は刑部尚書・秦州都督府長史・潁川県公に至る。瑗少より節操有り、博学にして吏才有り。貞観中、累ねて兵部侍郎に至り、父の潁川公を襲ぐ。永徽三年、黄門侍郎を拝す。四年、中書侍郎来済と皆同中書門下三品と為り、国史を監修す。五年、銀青光禄大夫を加ふ。六年、侍中に遷り、其の年太子賓客を兼ぬ。時に高宗王皇后を廃せんと欲す、瑗涕泣して諫めて曰く、「皇后は是れ陛下籓府に在りし時先帝娶りたまへる所、今愆過無く、行はんと欲す廃黜を、四海の士、誰か惕然たらざらんや。且つ国家屡に廃立有り、長久の術に非ず。願はくは陛下社稷の大計を為し、臣の愚を以てし、采察を垂れざること無からんことを」と。帝納れず。明日、瑗又諫め、悲泣して自勝へず。帝大いに怒り、促ち令して引き出ださしむ。尋いで尚書左僕射褚遂良旨に忤ひて左授され潭州都督と為る、瑗復上疏して之を理めて曰く。

古の聖王、諫鼓を立て謗木を設くるは、冀くは逆耳の言を聞き、苦口の議を甘んじ、大化を発揚し、洪猷を裨益し、令誉を将来に垂れ、休声を不朽に播かんと欲する者なり。伏して詔書を見るに褚遂良を以て潭州都督と為すと、臣夙夜之を思い、用て感激を増す。臣識は知遠に慙じ、業は通経に謝す、載せて愚情を撫す、誠に未だ可からずと為す。遂良運昇平に偶ひ、道前烈に昭なり、束髮より宦に従ひ、方に累稔に淹る。趨りて陛下に侍し、俄に歳年を歴る、涓滴の愆を聞かず、常に勤労の効を睹る。忠誠を早歳に竭くし、直道を茲年に罄くす。国に体りて家を忘れ、身を捐てて物に徇ふ、風霜其の操、鉄石其の心。誠に皇明に重くすべく、詎に曩昔に専ら方ならんや。且つ先帝之を帷幄に納れ、之を心膂に寄す、徳は水石に逾ぎ、義は舟車に冠たり、公家の利、言ふ可からざる無し。及び悲四海に纏ひ、八音を遏密し、忠を国家に竭くし、親しく顧托を承け、一徳二無く、千古懍然たり。此れ臣の言を待たず、陛下備へて之を知る。臣嘗て此の心有り、未だ敢て聞奏せず。且つ万姓業を失ひ、旰食して労を忘れ、一物安からず、納隍軫慮す、微細に在りて、寧んぞ過差を得んや。況んや社稷の旧臣、陛下の賢佐、罪状を聞かず、朝廷に斥去し、内外の氓黎、咸に挙措を嗟く。其の近日言事を観るに、誠懇切に披く、詎んぞ肯て陛下の徳を後にして、堯・舜に異ならしめ、陛下の過を懼れて、史冊に塵せしめんや。而して乃ち深く厚謗に遭ひ、重く丑言を負ふ、以て志士の心を痛め、陛下の明を損ふべし。臣聞く、晋武弘裕にして、劉毅の誅を貽さず、漢祖深仁にして、周昌の直を恚みずと。而して遂良遷せられ、已に寒暑を経、陛下に違忤し、其の罰塞ぐ。伏して願はくは無辜を纟面鑑し、稍く非罪を寛め、微款を俯矜し、以て人情に順はんことを。

疏奏す、帝瑗に謂ひて曰く、「遂良の情、朕も亦之を知る。然れども其の悖戾上を犯すを以て、此を責む、朕豈に過有らんや、卿の言何ぞ是の如く深きや」と。瑗対へて曰く、「遂良は社稷の忠臣と謂ふ可し、臣諛佞の輩を以てし、蒼蠅白を点じ、忠貞を損陷するを恐る。昔微子去りて而して殷国以て亡び、張華死せずして而して綱紀乱れず、国の謝せんと欲するや、善人其れ衰ふ。今陛下四海に富み、八紘清泰す、忽ち旧臣を駆逐し、而して省察を垂れざる乎。伏して願はくは彼の覆車に違ひ、以て往過を収め、事君に勧誡を垂れ、則ち群生幸甚ならん」と。帝竟に納れず。瑗言用ひられざるを以て、憂憤して表を上り、請ふ田裡に帰らんことを、詔して許さず。顕慶二年、許敬宗・李義府皇后の旨を希ひ、誣奏して瑗と褚遂良潜かに謀りて軌に不なるを、桂州用武の地を以てするを故に、遂良に桂州刺史を授け、実に以て外援と為すと。是に於て更に遂良を貶して愛州刺史と為し、瑗を左授して振州刺史と為す。四年、官に卒す、年五十四。明年、長孫無忌死す、敬宗等又奏して瑗と無忌通謀するを、使いを遣はして之を殺さしむ。及び使至るに、瑗已に死す、更に棺を発き屍を験して還り、其の家を籍没し、孫を配徙して嶺表とす。神龍元年、則天遺制して令す其の官爵を復せしむ。

来済

来済は揚州江都の人、隋の左翊衛大将軍栄国公護の子である。宇文化及の難に遭い、一家はことごとく害された。済は幼くして家難に逢い、流離して艱難を嘗めたが、篤く志して学を好み、文辞に優れ、談論を善くし、特に時務に通暁した。進士に挙げられ、貞観年間に累次転じて通事舎人となった。太子承乾が敗れた時、太宗は侍臣に言った、「どうやって承乾を処置しようか」と。群臣は敢えて答えず、済が進み出て言った、「陛下は上には慈父たることを失わず、下には天寿を全うさせ得るならば、それで善いでしょう」と。帝はその言を容れた。まもなく考功員外郎に任じられた。十八年、初めて太子司議郎を置き、人望ある者を妙選したところ、遂に済をこれに任じ、なお崇賢館直学士を兼ねさせた。ほどなく中書舎人に遷り、令狐徳棻らと共に『晋書』を撰した。永徽二年、中書侍郎に拝され、弘文館学士を兼ね、国史を監修した。四年、同中書門下三品となった。五年、銀青光禄大夫を加えられ、国史編修の功により南陽県男に封ぜられ、物七百段を賜った。六年、中書令・検校吏部尚書に遷った。時に高宗は昭儀武氏を宸妃に立てようとしたが、済は密かに上表して諫めて言った、「宸妃という号は古来なく、事は成り難いでしょう」と。武皇后が既に立つと、済らは自ら安からず恐れた。後に抗表して済の忠公を称し、賞慰を加えるよう請うたが、心では実にこれを憎んだ。顕慶元年、太子賓客を兼ね、爵を侯に進め、中書令はもとの通りとした。二年、また太子詹事を兼ねた。ほどなく許敬宗らが済と褚遂良が朋党を結んで扇動したと奏上し、台州刺史に左遷された。五年、庭州刺史に転じた。龍朔二年、突厥が侵入したので、済は兵を総べてこれを防ぎ、その衆に言った、「私はかつて刑網に掛かり、赦されて性命を蒙った。身をもって責めを塞ぎ、特に国恩に報いん」と。遂に甲冑を脱がず賊に赴き、陣に没した。時に年五十三、楚州刺史を贈られ、霊輿を給して郷里に送還させた。文集三十巻あり、世に行われる。

兄 亙

済の兄の亙は学行があり、済と共に名を並べた。上元年間に、官は黄門侍郎・同中書門下三品に至った。

上官儀

上官儀は本来陝州陝の人である。父の弘は隋の江都宮副監で、江都に家を定めた。大業の末、弘は将軍陳稜に殺され、儀は幼かったが、隠れて難を免れた。そこで私度して沙門となり、仏典に心を遊ばせ、特に『三論』に精通し、経史にも広く渉猟し、文章を作ることを善くした。貞観初め、楊仁恭が都督となり、深く礼遇した。進士に挙げられた。太宗はその名を聞き、召して弘文館直学士に授けた。累次遷って秘書郎となった。時に太宗は大いに文章を好み、しばしば儀に草稿を見させ、また多く継和を命じ、凡そ宴集があるごとに、儀は常に参預した。まもなくまた『晋書』の撰述に参預して完成し、起居郎に転じ、級を加えられ帛を賜った。高宗が位を嗣ぐと、秘書少監に遷った。龍朔二年、銀青光禄大夫・西台侍郎・同東西台三品を加えられ、弘文館学士はもとの通り兼ねた。本来は詞彩をもって自ら通達し、五言詩に巧みで、綺錯婉媚を本とすることを好んだ。儀は貴顕となったので、当時多くその体を倣う者がおり、世人は上官体と呼んだ。儀は頗る才を恃み勢いに任せたので、当時に憎まれた。麟徳元年、宦官王伏勝が梁王忠と共に罪に当たり、許敬宗が儀と忠が通謀したと誣告したので、遂に獄に下されて死に、家族は籍没された。子の庭芝は歴任して周王府属となった。儀と共に殺された。庭芝に娘があり、中宗の時に昭容となり、しばしば帝に侍って制誥を草したので、故に儀を中書令・秦州都督・楚国公に追贈し、庭芝を黄門侍郎・岐州刺史・天水郡公に追贈し、なお礼をもって改葬させた。

史臣曰

史臣が言う。褚河南(遂良)が上書して事を言うのは、勤勉にして経世の遠略あり。魏徴・王珪の後、骨鯁の風采、落落として王佐の器を負う者は、ほとんどその人を得難い。名臣の事業は、河南にこれあり。昔、斉人が女楽を贈って仲尼は去り、戎王が妓に溺れて由余は奔った。婦人の言は、聖哲すらその禍に罹かることを恐れる。ましてや二佞(李義府・許敬宗)が衡軸の地に据わり、正人の魑魅たることをや。古の志士仁人は、一言期すれば、死してもこれを悔いない。ましてや君臣の間、孤を託する寄託を受けながら、利害禍福によって平生の言を忘れることがあろうか。韓(瑗)・来(済)諸公は、死を守って善道を求め、福を求めても心を回らさざる者と言えよう。

贊に言う。褚公(遂良)の言は、和楽愔愔たり、鐘石虡に在りて、動けば雅音を成す。二猘(李義府・許敬宗)双吠え、三賢(遂良・韓瑗・来済)一心たり。人は皆観望す、我は浮沈せず。