旧唐書 巻七十七 列伝第二十七 韋挺 楊纂 劉德威 閻立德 柳亨 崔義玄

旧唐書

巻七十七 列伝第二十七 韋挺 楊纂 劉德威 閻立德 柳亨 崔義玄

韋挺

韋挺は、雍州萬年の人で、隋の民部尚書韋沖の子である。若い頃に隠太子(李建成)と親しく交わり、高祖が京城を平定した時、隠太子に引き立てられて隴西公府祭酒となった。武徳年間に、累進して太子左衛驃騎、検校左率となった。太子は彼を非常に厚遇し、宮臣の中で彼に比肩する者は稀であった。七年、高祖が仁智宮に避暑した際、上書して事を言上する者がおり、太子が宮臣とひそかに異端を構えていると称した。時に慶州刺史楊文幹が叛逆を企て誅殺され、その供述が東宮に及んだため、韋挺は杜淹・王珪らとともに連座して越巂に流罪となった。太宗が東宮にいた時、召し出されて主爵郎中に任じられた。貞観初め、王珪がたびたび彼を推挙したため、これによって尚書右丞に遷った。まもなく吏部侍郎を授けられ、黄門侍郎に転じ、御史大夫に進んで封ぜられ扶陽県男となった。太宗は韋挺の娘を斉王李祐の妃とした。常に房玄齢・王珪・魏徴・戴冑らとともに顧問を承け、政事について議論した。また高士廉・令狐徳棻らとともに『氏族志』を編修し、たびたび賞賜を受けた。太宗はかつて韋挺に言った、「卿が御史大夫に任じられたのは、ただ朕の意向によるものであり、左右の大臣で卿のために地歩を設ける者はなかった。卿は努めよ」と。韋挺は陳謝して言った、「臣は駑鈍の下才であり、陛下の高位を汚すには足りません。かつ臣は勲功もなく旧臣でもないのに、藩邸の故僚の上に超えて処せられています。臣は後れを願い、功を立てる者を勧めたいと思います」と。太宗は許さなかった。まもなく銀青光禄大夫に改めて授けられ、行黄門侍郎となり、兼ねて魏王李泰の府事を管掌した。時に李泰は寵愛を受けており、太子李承乾には過失が多かったため、太宗はわずかに廃立の意を抱いていた。中書侍郎杜正倫が禁中の言葉を漏洩したとして左遷され、時に韋挺もまた李泰の事に関与していたが、太宗は言った、「朕はすでに正倫を罪した。卿をさらに法に置くには忍びない」と。特にこれを赦した。まもなく太常卿に遷った。初め、韋挺が大夫であった時、馬周が監察御史であったが、韋挺は馬周が寒門の士であるとして、まったく礼をしなかった。この時、馬周は中書令となっており、太宗がふたたび韋挺を門下省に用いようとしたところ、馬周が密かに韋挺が傲慢であら(あら)く、宰相の器ではないと陳べたため、遂に取りやめとなった。十九年、遼東に事を行おうとして、糧食を運ぶ者を選んだところ、馬周がまた韋挺の才は粗使に堪えると奏上したので、太宗はこれに従った。韋挺は父が隋の時に営州総管としており、高麗経略の遺文があった。そこでこれを奏上した。太宗は大いに喜び、韋挺に言った、「幽州以北、遼水に至る二千余里に州県がなく、軍の行く資糧は取る所がない。卿はこの使を為すに宜しい。ただ軍用に乏しからざるを得れば、功は小さからぬであろう」と。人部侍郎崔仁師を副使とし、自ら文武官四品十人を選んで子使とし、幽・易・平の三州の驍勇二百人、官馬二百匹を従わせることを任せた。詔して河北諸州はみな韋挺の節度を取らせ、便宜行事を許した。太宗は自ら貂裘と中廄の馬二匹を解いて賜った。韋挺は幽州に至り、燕州司馬王安德に命じて渠を通塞を巡らせた。先ず幽州の庫物を出し、材木を買って船を造り、米を運んで進んだ。桑乾河から下って盧思台に至り、幽州を去ること八百里、王安德が帰還して言うには、「ここより外は、漕渠が壅塞している」と。韋挺は北方が寒雪であるとして、さらに進むことができず、遂に米を台の側に仮に貯蔵し、開歳(新年)に春が発するのを待って、ようやく転運に事を起こし、大兵の至るを度れば、軍糧は必ず足りると考え、馳せてこれを聞かせた。太宗は悦ばず、韋挺に詔して言った、「兵は拙速を尚び、工遅を貴ばず。朕は十九年の春に大挙しようとしたのに、今二十年の運漕を言うのは、まったく謂れがない」と。そこで繁畤令韋懷質を韋挺の所に遣わして軍糧を支度させ、渠水を検覆させた。韋懷質が還って奏上して言うには、「韋挺は先ず漕渠を視ず、すなわち工匠を集めて船を造り、米を運んで下った。盧思台に至って、初めて渠が閉ざされていることを知り、進もうとしても得ず、還ればまた水が涸れているので、便よくこれを貯蔵したが、平夷の地に通じていない。また韋挺は幽州において、日々飲会を催し、実に至公に背いている。陛下が来年出師されるとすれば、臣がこれを度るに、恐らく聖策に符しないでしょう」と。太宗は大怒し、将作少監李道裕を代わりに遣わし、なお治書侍御史唐臨に命じて駅伝を馳せて韋挺を械につけて洛陽に赴かせ、議に依って除名し、なお白衣の散従とさせた。前軍が蓋牟城を破った時、詔して韋挺に兵士を統率させて蓋牟を鎮守させ、漸く用いることを示した。韋挺が城を守るのは大軍から懸遠で、高麗の新城と隣接し、日夜戦闘し、鼓噪の声が絶えなかった。韋挺はその憂いに堪えず、かつ失職を不平に思い、平素から術士の公孫常と善くしていたので、常に書を送って懐く所を叙した。時に公孫常が他の事で拘束され、自縊して死に、その囊中を索めると、韋挺の書を得た。城中の危蹙を論じ、兼ねて嘆悵の辞があった。太宗は韋挺が怨望しているとして、象州刺史に謫した。歳余して卒した。年五十八。

子 待價

子の待價は、初め左千牛備身となった。永徽年間、江夏王李道宗が罪を得たが、待價は道宗の婿であったため、連座して左遷され盧龍府果毅となった。時に将軍辛文陵が兵を率いて高麗を招慰し、吐護真水に行き至った時、高麗がその不備を掩い、襲撃してこれを破った。待價は中郎将薛仁貴とともに詔を受けて東蕃を経略し、そこで率いる所部を以てこれを救った。文陵が苦戦し、賊が漸く退き、軍はようやく全うされた。待價は重傷を受け、流れ矢がその左足に中ったが、終にその功を言わず、足疾を以て免官して帰った。後に累進して蘭州刺史を授けられた。時に吐蕃がたびたび辺患となったため、高宗は沛王李賢を涼州大都督とし、待價を司馬とした。まもなくまた蕭州刺史に遷り、頻りに守禦の功があり、征されて右武衛将軍に拝され、兼ねて検校右羽林軍事となった。儀鳳三年、吐蕃がまた塞を犯したため、待價はまた本官を以て検校涼州都督となり、兼ねて鎮守兵馬事を知った。まもなくまた旧職に征還され、ふたたび扶陽侯に封ぜられた。則天が朝に臨むと、吏部尚書に拝され、司空を摂した。高宗の山陵を営み、功が畢わると、金紫光禄大夫を加えられ、天官尚書・同鳳閣鸞台三品に改められ、物一千段を賜り、なお一子に五品を授けられた。待價はもとより藻鑑の才がなく、武職から起り、選部に居たが、銓綜に序なく、甚だ当時に嗤われた。垂拱元年十月、ふたたび燕然道行軍大総管となり、突厥に備えた。明年の春に還った。六月、文昌右相に拝され、旧に依って同鳳閣鸞台三品となった。累ねて非据に登ったため、頗る自ら安からず、頻りに上表して職を辞したが、則天は毎度優制を降してこれを許さなかった。また表を上って官秩を削り、恩を回して父に贈ることを請うた。そこで韋挺に潤州刺史を贈った。明年、上疏して自ら戎旅の用に効することを請うた。そこで安息道行軍大総管に拝され、三十六総管を督して吐蕃を討ち、扶陽郡公に進封された。軍が寅識迦河に至り、吐蕃と合戦し、初め勝ち後に敗れた。また天寒く凍雪に属し、師人の多く死に、糧饋もまた支給に及ばず、乃ち師を旋らして弓月に至り、高昌に頓した。則天は大怒し、副将閻温古が逗留を以て法に伏し、待價は連座して除名され、繡州に配流され、まもなく卒した。

弟 萬石

弟の萬石は、頗る学業があり、特に音律を善くした。上元年間、吏部郎中から太常少卿に遷った。当時、郊廟の楽調および宴会の雑楽は、みな萬石と太史令姚玄辯が増損したもので、時人は称職であると思った。まもなくまた兼ねて吏部選事を知り、官に卒した。韋挺の従祖兄の子の安石は、別に伝がある。

楊纂

楊纂は、華州華陰の人である。祖父の儉は、周の東雍州刺史であった。父の文偉は、隋の溫州刺史であった。楊纂は経史に少し通じ、特に時務に明るかった。若い時に琅邪の顏師古・燉煌の令狐德棻と親しく交わった。大業年間、進士に挙げられ、朔方郡司法書佐を授けられたが、楊玄感の近親に連座して除名され、蒲城に家を定めた。義軍が河を渡ると、長春宮で謁見した。累ねて侍御史を授けられた。たびたび上書して事を言い、それによって召し出されて問われ、考功郎中に抜擢された。貞観初め、長安令となり、長安県男の爵を賜った。婦人の袁氏が妖逆を為し、人に告発され、楊纂がこれを究問したが、その情状を得られなかった。袁氏は後にまた事が発覚して誅殺され、太宗は楊纂を不忠とし、殺そうとした。中書令の溫彥博が、楊纂の過誤は死罪に至らないとし、固く諫めたので、赦免した。三度転じて吏部侍郎となった。八年、特進蕭瑀に副えて河南道巡察大使となり、蕭瑀と情が合わず、たびたび互いに表奏し、蕭瑀はこれによって罪を得た。楊纂はまもなく尚書左丞を拝した。楊纂は吏道に長じていたので、所在において皆名声と実績があった。俄かにまた吏部侍郎を除された。前後十余年にわたり選挙を司り、人倫を銓叙して、允当であると称された。しかし文雅を抑え、酷吏を進め、時勢を見て術数を任じたので、当時の論議にかなり譏られた。後に太常少卿・雍州別駕を歴任し、銀青光禄大夫を加えられた。再び尚書左丞となり、太僕卿に遷り、検校雍州別駕を兼ねた。戸部尚書に遷った。永徽初めに卒し、幽州都督を贈られ、諡して敬といった。子の守愚は、則天の時に官が雍州長史に至り、守挹は岐州刺史となった。族子に弘礼がいる。

族子 弘礼

弘礼は、隋の尚書令楊素の弟の子である。父の岳は、大業年間に万年令となり、楊素の子の玄感と折り合わず、かつて密かに上表して玄感が必ず乱を起こすと称した。玄感が誅殺された時、岳は長安で獄に繋がれていたが、帝は急いで使者を遣わして赦そうとした。使者が到着する頃には、岳はすでに留守の者に殺されており、弘礼らは従坐を免れた。高祖が禅を受けると、楊素が隋代に勲功があったので、詔して弘礼に清河郡公の封を襲封させ、太子通事舍人を拝した。貞観年間、兵部員外郎を歴任し、なお西河道行軍大総管府長史となり、三度転じて中書舍人となった。太宗が遼東に事がある時、弘礼に文武の才があるとして、兵部侍郎に抜擢し、専ら兵機の務めを司らせた。弘礼は毎度参内して謀議し、出れば則ち衆を統率して攻戦した。駐蹕の陣において、馬歩二十四軍を率い、その不意に出撃してこれを撃ち、向かう所破壊した。太宗は山下から弘礼の統率する衆を見て、人皆力を尽くし、殺戮捕獲が多く、大いにこれを壮とした。許敬宗らに謂って曰く、「越公の兒郎は、故に家風がある」と。時に諸宰相は皆定州に留まって皇太子を輔け、ただ褚遂良・許敬宗及び弘礼が行在所に在り、機務を掌知した。二十年、中書侍郎を拝した。明年、銀青光禄大夫を加えられ、まもなく司農卿に遷り、兼ねて昆丘道副大総管を充し、諸道の軍将は皆その節度を受けた。ここにおいて処月を破り、処密を降し、焉耆王を殺し、馺支部を降し、龜茲・于闐王を獲た。凱旋したが、賞を行わないうちに、太宗が晏駕した。弘礼は頗る大臣の旨に忤ったので、これによって涇州刺史に出された。永徽初め、昆丘の功を論じ、勝州都督に改めて授けられた。まもなく太府卿に遷った。四年に卒し、蘭州都督を贈られ、諡して質といった。弟に弘武がいる。

弘礼の弟 弘武

弘武は若い頃から修飾謹直で、武徳初め、左千牛備身を拝した。永徽年間、吏部郎中となった。孝敬帝(孝敬皇帝李弘)の初め、皇太子の為に僚采を精選し、弘武を中舍人とした。麟徳年間、東嶽に事を行おうとし、弘武は荊州司馬から抜擢されて司戎少常伯を拝した。従駕して還ると、高宗は特に弘武に命じて吏部の選人で五品以上の官を補授させ、これによって次第に親任された。後の母の栄国夫人楊氏は、弘武と同宗であることから、またこれを称え推薦し、俄かに西台侍郎に遷った。乾封二年、戴至徳・李安期らと共に東西台三品となった。政事に在っては、頗る清簡をもって称された。総章元年、官に在って卒し、汴州刺史を贈られ、諡して恭といった。

弘武の子 元亨・元禧・元禕

子の元亨は、則天の時に司府少卿となり、元禧は尚食奉御となった。元禧は頗る医術があり、則天に任用された。かつて張易之の意に忤い、易之が密かに奏上して元禧は楊素兄弟の後裔であり、楊素父子は隋に逆節があり、子孫は供奉すべきでないとした。則天は乃ち制を下して曰く、「隋の尚書令楊素は、昔本朝に在りて、早くより殊遇を荷った。凶邪の徳を稟け、諂佞の才を懐き、君上を惑乱し、骨肉を離間した。冢嫡を揺るがし、豈に唯だ掘蠱の禍のみならんや?後主を誘扇し、遂に請蹯の釁を成す。隋室の喪亡は、蓋し惟れ僻が多いによるが、その萌兆を究めれば、実にこれに由る。生けては不忠の人、死しては不義の鬼、身は倖いに免れたれども、子は竟に族誅せらる。斯れは奸逆の謀、是れ其の庭訓、険薄の行、遂に門風と成る。刑戮加うるも、枝胤なお在り、豈に復た近侍に肩随し、朝行に歯跡せしむべけんや?朕は百王を接統し、四海に恭臨し、上は賢佐を嘉し、下は賊臣を捍ぎ、常に万機の余に従容し、千載の外に褒貶せんと欲す。況んや年代未だ遠からず、耳目の存する所なるをや?其の楊素及び兄弟子孫は、並びに京官及び侍衛に任ずることを令すべからず」と。ここにおいて元亨を左遷して睦州刺史とし、元禧を資州長史とし、元禧の弟の緱氏令元禕を梓州司馬とした。張易之が誅殺された後、元亨らは皆復た京職に任じられ、元亨は斉州刺史に至り、元禧は台州刺史、元禕は宣州刺史となった。

劉德威

劉德威は、徐州彭城の人である。父の子將は、隋の毗陵郡通守であった。德威は姿形が魁偉で、大いに幹略をもって称せられた。大業の末、左光祿大夫裴仁基に従い淮左の賊を討ち、手ずから賊帥李青珪を斬り、その首を行在所に伝送した。後に仁基とともに李密に帰順し、密は平素よりその名を聞いていたので、麾下の兵を与え、懐州に鎮守せしめた。武徳元年、密が王世充と戦って敗れ朝廷に入ると、德威もまた率いる所部を率いて密に随い帰順した。高祖はこれを嘉し、左武候将軍を授け、滕県公に封じた。劉武周が南侵すると、詔して德威に兵を統率させてこれを撃たしめ、また并州総管府司馬を判じた。まもなく裴寂が介州で軍律を失い、斉王元吉が并州を棄てて朝廷に還ると、德威を留めて留府の事を総知せしめた。元吉が出たばかりで、武周はすでに城下に至り、百姓は相率いて賊に投じた。武周は德威を捕らえ、その本兵を率いて浩州に往き招慰せしめよと命じた。德威は自ら抜け出して朝廷に帰り、高祖はみずから労問し、兼ねて賊中の虚実及び晋・絳諸部の利害を陳べると、高祖はことごとく嘉納した。彭城県公に改封した。まもなく、検校大理少卿となった。竇建德を擒えるのに従い、王世充を平らげるのに功があり、刑部侍郎に転じ、散騎常侍を加えられ、平寿県主を妻とした。貞観初め、大理・太僕の二卿を歴任し、金紫光禄大夫を加えられた。まもなく出て綿州刺史となり、廉平をもって著称し、百姓はそのために碑を立てた。まもなく検校益州大都督府長史となった。十一年、ふたたび大理卿を授けられた。太宗はかつてこれに問うて曰く、「近ごろ刑網やや密なり、その過ちいずくにか在るや」と。德威は奏言して曰く、「誠に主上に在り、臣下によるにあらず。人主寛を好めば則ち寛にし、急を好めば則ち急にするなり。律文に失入は三等を減じ、失出は五等を減ず。今は則ちこれに反し、失入すれば則ち無辜、失出すれば便ち大罪を獲る。これをもって吏は各自愛し、競って深文を執るなり、教えて然らしむるにあらず、罪を畏るるの致すところなり。陛下ただ急を捨て給わば、則ち『寧ろ経に失うとも』、今日に復た行わるべし」と。太宗は深くこれを然りとした。数年して、刑部尚書に遷り、兼ねて検校雍州別駕となった。十七年、駅伝を馳せて済州に往き斉王祐を推問して還る途中、濮州に至り、祐が長史権万紀を殺したと聞き、德威は済州に入り拠り、使者を遣わして以て聞かしめた。詔して德威に便ち河南兵馬を発し、以て経略を申べしめんとしたが、母の憂いに遭い罷めた。十八年、起用されて遂州刺史となり、三転して同州刺史となった。永徽三年に卒す。年七十一。礼部尚書・幽州都督を贈られ、諡して襄と曰い、献陵に陪葬した。德威は閨門友穆にして、物に接するに寛平、得たる財貨は多く以て宗親に分かち贍した。子の審禮が爵を襲った。

子 審禮

審禮は、幼くして母を喪い、祖母の元氏に養われた。隋の末、德威が裴仁基に従い討撃したとき、道路通ぜず。審禮は弱冠に至らず、郷里より自ら元氏を負い載せ、江を渡り乱を避けた。天下定まるに及び、始めて西に入り長安に至った。元氏もし疾あれば、審禮は必ずみずから湯薬を嘗め、元氏は顧みて孫に謂いて曰く、「我が児孝順、幽微に貫徹す、吾一たび顧念すれば、宿疾頓に軽し」と。貞観中、左驍衛郎将を歴任した。父の憂いに服し職を去った。葬に及んで、跣足して車に随い、流血地に灑ぎ、行路これを称した。服闋して当に爵を襲うべきところ、累表して弟に譲るも、朝議許さず。永徽中、累遷して将作大匠となり、兼ねて検校燕然都護、彭城郡公を襲封した。審禮は父の歿すること久しといえども、なお悲慕已まず、父の時の僚旧を見れば必ず嗚咽流涕した。母の鄭氏は早く亡く、継母の平寿県主に事え、少しでも疾あれば憂懼容色に形し、終夕寐ず。継母の男延景を撫で、友愛甚だ篤し。得たる禄俸は、皆母の処に送り、以て延景の費に資す。しかるに審禮の妻子は飢寒に処し、晏然として未だ嘗て介意せず。再従同居し、家に異爨なく、合門二百余口、人に間言なし。稍く遷りて工部尚書となり、兼ねて検校左衛大將軍となった。儀鳳二年、吐蕃涼州を寇す。審禮を行軍総管と命じ、中書令李敬玄と合勢して討撃せしめた。青海にて賊に遇う。敬玄後期して至らず、審禮事敗れ、賊に執らる。永隆二年、蕃中に卒す。工部尚書を贈られ、諡して僖と曰う。延景は、官陝州刺史に至り、えい宗の初め、后父として追贈され尚書右僕射となった。

審禮の子 易從

審禮の子易從は、岐州司兵参軍を歴任した。審禮の吐蕃に没するや、詔して易從の蕃に入りこれを省みることを許す。審禮の卒するに及び、易從は号哭し、昼夜止まず、毀瘠礼を過ぐ。吐蕃その志行を哀しみ、その父の屍柩を還し、易從は徒跣万里、扶護して彭城に帰り、朝野の嗟賞する所となった。後に彭州長史・任城男を歴任した。永昌中、徐敬貞に誣構せられて遇害に坐す。易從は官に在り仁恕、刑せられんとするに及び、人吏遠近なく奔走し、競って衣を解き相率いて功德を造り、以て長史のために福を祈り、州人これに従う者十余万。その人の愛する所、かくの如し。易從の子升は、開元中、中書舎人・太子右庶子となった。

審禮の従弟 延嗣

審禮の従父弟延嗣は、文明年に潤州司馬となり、徐敬業の乱を属す。敬業衆を率いて潤州を攻む。延嗣は刺史李思文とともに固守して降らず。まもなく城陥ち、敬業延嗣を執り、これを邀えて降ることを令す。辞して曰く、「延嗣世に国恩を蒙り、当に効命を思うべし、州城守らず、多く朝廷に負う。終に苟免偷生し、以て宗族を累すべからず、豈に一身の故を以て、千載の辱となさんや。今日の事、死を得るを幸とす」と。敬業大いに怒り、これを斬らんとす。その党の魏思温これを救い免れさせ、乃ちこれを江都の獄に囚う。まもなく賊敗れ、竟に裴炎の近親なるを以て、功を叙せられず、遷りて梓州長史となり、再転して汾州刺史として卒す。宗族刺史に至る者二十余人。

閻立德

閻立德は雍州萬年の人で、隋の殿内少監閻毗の子である。その先祖は馬邑から関中に移った。閻毗は初め工芸で名を知られ、立德と弟の立本は早くから家業を伝えた。武徳年間に累進して尚衣奉御となり、立德の造った袞冕・大裘など六服および腰輿・傘扇は、みな典式に依り、当時の人はこれを称えた。貞観初年、歴任して将作少匠となり、太安県男に封ぜられた。高祖が崩ずると、立德は山陵を営む功により、将作大匠に抜擢された。貞観十年、文徳皇后が崩ずると、また司空を摂行させ、昭陵を営ませた。怠慢の罪に坐して解職した。まもなく起用されて博州刺史となった。十三年、再び将作大匠となった。十八年、高麗征伐に従い、軍旅が遼沢に至ると、東西二百余里にわたって泥濘があり、人馬通ぜず。立德は道を埋め橋を造り、兵に留滞の妨げがなかった。太宗は大いに喜んだ。まもなく詔を受けて翠微宮および玉華宮を造営し、みな意に適い、賞賜は甚だ厚かった。まもなく工部尚書に遷った。二十三年、司空を摂行し、太宗の山陵を営み護った。事が終わり、公に進封された。顕慶元年に卒し、吏部尚書・并州都督を贈られた。子の玄邃は、官は司農少卿に至った。玄邃の子知微は、聖暦初年、歴任して右豹韜衛将軍となった。時に突厥の默啜が娘を請うて和親を求め、則天は淮陽王武延秀をしてその娘を迎えに行かせ、知微に春官尚書を摂行させて虜廷に送り届けさせた。默啜は延秀が皇室の諸王でないとし、大いに怒り、遂に別の場所に拘禁し、知微とともに衆を率いて恒岳道より趙・定二州を攻め陥れた。知微は一年余りを経て突厥の地より還ったが、則天は彼が賊に随って入寇したとして、百官にその肉を切り取らせ、その後斬り、併せてその三族を誅滅した。

弟の立本

立本は、顕慶年間に累進して将作大匠となり、後に立德に代わって工部尚書となり、兄弟が相代わって八座となったので、当時の論はこれを栄誉とした。総章元年、右相に遷り、博陵県男の爵を賜わった。立本は応務の才はあったが、特に図画を善くし、写眞に巧みであった。『秦府十八学士図』および貞観年間の『凌煙閣功臣図』は、ともに立本の筆跡で、当時の人はみなその妙を称えた。太宗はかつて侍臣学士と春苑で舟を浮かべたことがあり、池中に異鳥がいて、波に随ってゆったりと泳いでいた。太宗はこれを賞賛し、たびたび座中の者に詠を作らせ、立本を召してこれを描かせた。時に閣外で伝呼して云う、「画師閻立本。」と。時にすでに主爵郎中であったが、奔走して流汗し、池の側に俯伏し、手に丹粉を揮い、座の賓客を仰ぎ見て、愧赧に堪えなかった。退いてその子に戒めて曰く、「我は少くより書を読むことを好み、幸いに面牆を免れ、情に縁って筆を染め、頗る儕流に及んだ。ただ丹青をもって知られ、躬みて厮役の務めに従うこと、辱これより大なるは莫し。汝宜しく深く戒め、この末伎を習うことなかれ。」と。立本は性の好むところであり、止めようとしてもできなかった。右相となってからは、左相姜恪と対して枢密を掌った。恪はすでに将軍を歴任し、塞外に功を立てたが、立本はただ図画を善くするのみで、宰輔の器ではなかった。故に当時の人は『千字文』をもって語って曰く、「左相は沙漠に威を宣べ、右相は丹青に誉れを馳す。」と。咸亨元年、百官が旧名に復し、中書令と改めた。四年に卒した。

柳亨

柳亨は蒲州解の人で、魏の尚書左僕射柳慶の孫である。父の旦は、隋の太常少卿・新城県公であった。亨は、隋末に熊耳・王屋二県の長を歴任し、李密に陥った。密が敗れて帰国し、累進して駕部郎中を授けられた。亨は容貌魁偉で、高祖は甚だこれを愛重し、特に殿中監竇誕の女を妻とさせた。これは帝の外孫である。三遷して左衛中郎将となり、寿陵県男に封ぜられた。間もなく、譴責により出されて邛州刺史となった。散騎常侍を加えられ、代わられて還り、数年任用されなかった。兄の葬儀に際し、太宗が南山に遊幸しているのに遇い、召見されて語り、頗る哀れみ憐れまれた。数日後、北門で引見され、深く誨め奨励され、銀青光禄大夫を拝し、光禄少卿を行った。太宗はたびたびこれを戒めて曰く、「卿とは旧親であり、情素兼ねて宿る。卿は人と交遊過多である。今この職を授ける。宜しく簡静を存すべし。」と。亨は性、射猟を好み、饕湎の名があった。この後は頗る自ら勖励し、賓客を杜絶し、身を約して節倹し、職事に勤めた。太宗もまたこれをもって称えた。二十三年、太廟を修める功により、金紫光禄大夫を加えられた。久しくして、太常卿を拝し、万歳宮に従幸し、岐州刺史を検校した。永徽六年に卒し、礼部尚書・幽州都督を贈られ、諡して敬といった。

族子の范

亨の族子の范は、貞観年間に侍御史となった。時に呉王恪が畋猟を好み、居人を損なったので、范はこれを弾劾した。太宗は侍臣に因って謂いて曰く、「権万紀は我が児に事え、匡正することができず、その罪は死に合う。」と。范が進みて曰く、「房玄齢は陛下に事え、なお畋猟を諫め止めることができません。どうして独り万紀を罪とすることができましょうか。」と。太宗は大いに怒り、衣を払って入った。久しくして、独り范を引いて謂いて曰く、「どうして逆に我を折ることができるか。」と。范は曰く、「臣は聞く、主聖なれば臣直しと。陛下は仁明であられます。臣どうして愚直を尽くさないことがありましょうか。」と。太宗の意は乃ち解けた。范は、高宗の時に歴任して尚書右丞・揚州大都督府長史となった。

兄の子の奭

亨の兄の子の奭。奭の父の則は、隋の左衛騎曹で、使いとして高麗に卒した。奭は蕃に入って喪柩を迎え、哀号礼を逾え、深く夷人に慕われた。貞観年間、累進して中書舎人となった。後に外生女が皇太子妃となったので、抜擢されて兵部侍郎を拝した。妃が皇后となると、奭はまた中書侍郎に遷った。永徽三年、褚遂良に代わって中書令となり、なお国史を監修した。まもなくして后は次第に疏遠猜忌されるようになり、奭は憂懼し、頻りに上疏して枢密の任を辞することを請い、吏部尚書に転じた。及んで后が廃されると、累貶して愛州刺史となった。まもなく許敬宗・李義府に誣構され、奭がひそかに宮掖に通じ、毒を盛ることを謀り、また褚遂良らと朋党を結んで扇動したと云い、罪は大逆に当たるとした。高宗は使者を愛州に遣わしてこれを殺し、その家を籍没した。奭は既にその罪で死んだのではないので、甚だ当時の人に傷痛とされた。神龍初年、則天の遺制により、褚遂良・韓瑗らとともに官爵を還された。子孫親属で当時縁坐した者は、みな赦免された。

孫の渙

開元初年、亨の孫の渙が中書舎人となり、上表して曰く、「臣の堂伯祖の奭は、明慶三年に去り、褚遂良ら五家とともに譴責誅戮されました。遺制により雪冤されましたが、子孫は亡没し尽くしています。ただ曾孫の無忝のみが、龔州に貫籍し、雪冤されて多年になりますが、なお遠竄と同じです。陛下が自ら宇県に臨まれて以来、優政必ず被り、鴻恩は泉壌に及び、大造は亡絶に加えられました。先天以後、頻りに詔勅を降し、かつて宰相を任じた家は、ともにその淪滞を収めることを許されました。況んや臣の伯祖は往時に執政を叨り、犯すところなくして誅せられ、藁窆なお故郷と隔たり、後嗣遂に蛮服に編されています。臣が号訴を申さざれば、義安んじ難し。伏して乞う、臣の伯祖をして郷里に還葬せしめ、その曾孫無忝を本貫に放帰せしめられんことを。」と。疏が奏上され、勅して奭を還葬させ、官が霊輿を造り駅伝で還した。無忝は後に歴任して潭州都督となった。

渙の弟の澤

渙の弟の澤は、景雲年間に右率府鎧曹参軍となった。先に、姚元之・宋けいが政事を知り、中宗朝の斜封官数千員を停めることを奏請した。元之らが出て刺史となると、太平公主がまた特にこのことを言い、勅して総べて旧職に復させることを命じた。澤は上疏して諫めて曰く、

臣聞く、薬毒ならざれば、以て疾を蠲うべからず。詞切ならざれば、以て過を補うべからず。ここをもって甘旨を習う者は、摂養の方に非ず。諛佞に邇く者は、危殆を積むの本なり。臣は実に愚朴にして、志は剛勵を懐き、政の当たらず、事の直ならざるを聞けば、常に慷慨として心に関し、夢寐に憤を懐く。毎に身を殉げて諫め、死に伏して争わんことを願う。ただ社稷に利し、君上に便あるに於いては、禍を蒙り難を被ると雖も、身を殺して悔いざらんとす。窃かに見るに、神龍以来、群邪孽を作し、法網振わず、綱維大いに紊れ、実に内寵の命を専らにし、外嬖の権を擅にし、貴に因り寵に憑り、官を売り爵を鬻ぐに由る。硃紫の栄は、僕妾の口より出で、賞罰の命は、章程の典に乖く。妃主の門は、商賈に同じく、挙選の署は、実に阛阓に均し。屠販の子は、悉く邪に由りて官を忝くし、黜斥の人、咸く奸に因りて進を冒す。天下乱れ、社稷幾く危うきに、陛下の聰明神武に頼り、其の将に墜んとするを拯う。此れ陛下の耳目の親しく撃つ所、固より永く炯誡と為すべし。臣聞く、法を理に作りて、猶其の乱るるを恐る。法を乱に作りて、誰か之を救わん。只だ斜封の官を授くるが如きは、皆是れ僕妾の汲引にして、先帝を迷謬し、目前の朝を昧ます。豈に孝和の情の憐れむ所、心の愛する所ならんや。陛下初めに即位せし時、姚元之・宋璟の計を納れ、以て咸く之を黜すを令す。頃日已来、又た之を叙すを令す。将に斜封の人を棄つるに忍びずと謂わんと為すか、先帝の意違うべからずと為すか。若し斜封の人を棄つるに忍びずと為さば、是れ韋月将・燕欽融の流も亦褒贈すべからず、李多祚・鄭克義の徒も亦清雪すべからざるなり。陛下何ぞ此れに於いて忍ぶ能わずして、独り彼れに於いて忍ぶ能うや。善悪を定めず、反覆相攻たしめ、君子の道消え、小人の道長くし、邪を為す者利を獲、正を為す者冤を銜ましむ。奈何ぞ人を導きて非を為さしめ、人を勧めて僻を為さしむる。将に何を以てか風俗を懲め、将に何を以てか奸邪を止めん。今海内咸く称す、太平公主、胡僧慧范に令して曲く此の輩を引き、将に陛下に誤り有らんとすと。謗議耳に盈ち、咨嗟衢に満つ。故に語に曰く、「姚・宋相と為れば、邪正に如かず。太平用事すれば、正邪に如かず」と。『書』に曰く、「偏無く陂無く、王の義に遵い、反無く側無く、王道正直なり」と。臣恐るらくは、因循して、近きに流れて遠きに致し、小を積みて大と為し、微を累ねて高きを起すを。何ぞ傷つくと言うなかれ、其の禍将に長からん。何ぞ害有りと言うなかれ、其の禍将に大ならん。又た賞罰の典、紀綱謬らず、天秩礼有り、君爵功有り。怒りに因りて以て妄りに罰すべからず、喜びに因りて以て妄りに賞すべからず。伏して見るに、尚医奉御彭君慶、邪巫の小道を以て、三品を超授せらる。奈何ぞ名器を軽用し、其の才に非ざるを加えん。昔、公主子の為に郎を求めしに、明帝許さず。今、聖朝私愛し、賞憸人に及ぶ。董狐亡びずんば、豈に隠す所あらんや。臣聞く、一人を賞して千万人悦ばば之を賞し、一人を罰して千万人勧まば之を罰すと。臣未だ聖朝の妄罰を睹ざるも、已に聖朝の妄賞を睹たり。『書』に曰く、「官私暱に及ばず、惟れ其の能のみ。爵悪徳に及ばず、惟れ其の賢のみ」と。臣恐るらくは、近習の人其の先容を為し、陛下に謬り有らんことを。惟れ陛下熟思して之を察せられんことを。往者は諫むべからざるも、来者は猶追うべし。請謁の路を杜ぎ、恩幸の門を塞ぎ、前非を鑑誡し、後悔を累ねざらんことを願う。画一の法を申し、不二の刑を明らかにし、詢わざる謀は用いず、稽えざる言は応ぜず。則ち天下の化、人間に無く、日新の徳、天鑑遠からず。

沢は後に選に参じ、会うに敕令有りて選人上書して事を陳べ、将に収擢を加えんとす。沢又た上書して曰く。

近ごろ韋氏は邪悪で、奸臣らも共に悪をなした。賞罰は乱れ弛み、綱紀は乱れ、政治は賄賂によって成り立ち、官職は寵愛によって進み、正しいことを言う者は罪を得、特異な行いをする者は疑われ、天下は心を寒くし、まさに救いようがなかった。神明が徳を助け、宗廟が霊を降し、天が罪ある者を討ち、人々は保たれた。陛下は聡明な謀略で神聖であり、勇智に優れ聡明で、既に危うかった宗廟を安んじ、溺れんとする民衆を救われた。今、眉の白い老人や背の曲がった老人らは、歓喜して躍り上がり、聖朝の撫育を望み、聖朝の徳音を聞いている。今、陛下は煩わしさを除き徭役を減らし、法を明らかにし徳を挙げられ、万国は喜び楽しみ、家々は共に慶んでいる。臣はまた聞く、危うい者はその存続を保ち、乱れた者はその治め方を持つという。伏して思うに、陛下が安泰の時にも危険を忘れず、治まっている時にも乱れを忘れず、存続している時にも滅亡を忘れられれば、天の心を享受し、国家は長く保たれるであろう。『詩経』に言う、「初めなきはないが、終わりをよく全うする者は少ない。」伏して思うに、陛下はその終わりを慎み、その初めを修められ、礼に合わぬものは見ず、礼に合わぬことは行わないようにされたい。『書経』に言う、「徳は小さくても、万国は慶ぶ。不徳は大きくなくても、その宗廟を墜とす。」これは非常に畏れるべきであり、非常に恐れるべきである。伏して思うに、陛下はこれを慎まれたい。驕りと奢侈は親族や貴人から起こり、綱紀は寵愛された者によって乱れる。願わくば陛下が親族や貴人に対してこれを禁じられれば、天下は風に従うであろう。寵愛された者に対してこれを制すれば、天下の法は明らかになるであろう。『詩経』に言う、「寡妻に刑(模範)を示し、兄弟に及び、家国を治める。」もし親族や貴人がこれを行っても禁じず、寵愛された者が妨げても従うならば、これは政治が常でなく、命令が一貫しないことであり、そうすれば奸詐がここから起こり、暴乱が生じる。たとえ厳しい刑罰や峻烈な制度を設け、朝に施行し夕に殺戮しても、法は行われないであろう。たとえ陛下が彼らを親しみ愛されても、彼らを安んじ福を与えるには及ばない。寵愛と禄が過ぎれば、罪の始まりであり、安んじることではない。驕りと奢侈の淫らさは、危険の根源であり、福を与えることではない。前の事を忘れなければ、後の教訓となる。伏して願うには、陛下が俊哲を精選して求め、朝夕に教えを受け入れられることである。たとえ耳に逆らい、心に誤っている者があっても、すぐに罰せず、しばらく道理によってはかり、自らを省みるようにされたい。たとえ木のように朴訥で逆らいを忌む者でも、直を以て恕し、諫諍の道を開かれたい。あるいは耳に順い、身に都合の良い者があっても、すぐに賞せず、道理に合わぬ点を求め、典籍の教えに照らして検討されたい。徳に合わない者は、必ず法によって処置し、へつらいの行いを防がれたい。陛下に淫らな技巧を恥じ知らせる者がいれば、すぐに罷免すれば、淫らな技巧は止むであろう。陛下に忠直な意見を進める者がいれば、すぐに賞すれば、忠直な意見は進むであろう。臣はまた聞く、富に生まれる者は驕り、貴に生まれる者は傲る。石碏が言う、「臣は聞く、子を愛するには、義の道を教え、邪に入らせず、驕奢淫逸は、自ら邪に入る所以である。」『書経』に言う、「安逸に淫らせず、遊楽に遊ばせず。」穆王は命じて言う、「実に前後左右の位ある士に頼り、過ちを正し誤りを糾し、その非なる心を正す。」今、皇太子の宮が初めて建てられ、王府が初めて開かれ、僚友に至るまで、必ず妙なる選択を要する。今、驕奢の後の流れはまだ変わらず、怠惰な遊びの楽しみは、余風がなお存するかもしれない。小人や幸臣は、意に合いやすい。奇技や淫らな技巧は、多く心に適う。臣は恐れる、非徳に慣れ親しむと、ますます怠惰になることを。『書経』に言う、「慎んで汝の僚属を選べ、巧言令色の者を用いるな、ただ吉士たれ。僕臣が正しければ、その君主も正しくなる。僕臣が諂えば、その君主は自ら聖と思い上がる。」伏して願うには、温良で博聞の士、恭儉で忠鯁な人を採り、東宮および諸王府の官に任じ、さらに東宮に拾遺補闕の職を量って置くことを請う。朝夕に講論させ、出入りに従わせ、訓誥を授け、互いに修めて及ばぬところを補わせられたい。臣はまた聞く、馳せ騒ぎ狩猟にふけることは、人を狂わせる。名教の中には、自ずから楽しみの地がある。以前からの貴戚は、礼による者は少ない。ある者は打球や鼓を打ち、技芸に親しみ、ある者は鷹を飛ばし犬を走らせ、沢や藪を遊び回る。これは甚だ道に外れ、徳を進め業を修める根本ではない。『書経』に言う、「内に色に荒み、外に禽獣に荒む。」また言う、「丹硃の傲りのようであってはならぬ、ただ怠惰な遊びを好む。家で群れをなして淫らにし、その世を絶つ。」伏して思うに、陛下が謀訓を降し、学業を敦め勤めさせ、好悪を示し、成敗を陳べ、義をもって事を制し、礼をもって心を制し、未だ萌さぬうちに図り、未だ有らざるうちに慮れば、福禄は長く享受し、国と共に栄えるであろう。臣はまた聞く、富は驕りを期さないのに驕り自ら至り、驕りは罪を期さないのに罪自ら至り、罪は死を期さないのに死自ら至る。この言葉は真実であり、この至誠は明らかである。近ごろの韋庶人、安楽公主、武延秀らは、貴いと言え、寵愛されたと言え、権力は君主に等しく、威勢は天下を震わせた。しかし奢侈に頼り徳を滅ぼし、神は怒り人は見捨てた。これは愛しすぎ、富ませすぎ、礼で節せず、法で防がなかったからではないか。ついに吉を凶に転じ、福を禍に変えた。諺に言う、「千人が指させば、病なくして自ら死ぬ。」その通りではないか。『書経』に言う、「殷の鑑は遠からず、かの夏王にある。」今、陛下は何を勧められるか、皇祖の謀訓の則りではないか。今、陛下は何を懲とされるか、孝和帝の寵任の甚だしさではないか。『礼記』に言う、「愛する者でもその悪を知り、憎む者でもその善を知る。」慎まざるを得ない。寵愛の心は免れないが、その甚だしきを去り、礼節によって間を置き、適度であればよい。今、諸王、公主、駙馬も、陛下が親愛される者である。枉(曲がり)を矯める道は、その初めにあり、鑑戒の意味は、遠くを取らない。過ちを見て善に務めさせ、寵愛にあって危険を思わせ、日夜敬虔に、その徳を修めさせられたい。『孝経』に言う、「上にいて驕らなければ、高くても危うくなく、それゆえ貴を長く守る。節度を制し度を謹めば、満ちても溢れず、それゆえ富を長く守る。富貴がその身を離れなければ、その後その社稷を保つことができる。」『書経』に言う、「官刑によって制し、位ある者に警めよ。敢えて常に宮中で舞い、室で酣歌するがあれば、これを巫風という。敢えて貨色に殉じ、常に遊猟するがあれば、これを淫風という。敢えて聖言を侮り、忠直に逆らい、耆徳を遠ざけ、頑童と親しむがあれば、これを乱風という。この三風十愆のうち、卿士が一つでも身にあれば、家は必ず喪われる。邦君が一つでも身にあれば、国は必ず亡ぶ。」これは甚だ畏れるべきであり、甚だ恐れるべきである。伏して思うに、陛下は必ず察して明らかにし、必ず信じて勧められたい。奢り僭上で驕り怠る者があれば、その禄封を削り、朴素で業を修める者には紳服を賜う。その非なる心を勧め、命に奉じさせ、久しくしてこれを忽せにさせず、遠くしてこれを墜とさせないようにされたい。臣は聞く、知ることは難しくないが、行うことは難しいと。また言う、「その徳を常にすれば、その位を保つ。その徳が常でなければ、九有(天下)は亡びる。」伏して思うに、陛下はこれを慎まれたい。前の車の覆るは、実に明らかな証拠である。先王の誡めは、終わりを吉とすることができる。もし陛下が伊尹の訓えを奉じ、傅説の命を崇め、無益なことを作らず、私門を開かず、刑に差がなく賞に濫りがなければ、ただ徳を輔け、ただ人を懐け、天禄は永く終わり、大福は集まるであろう。もし陛下が精一の徳を忘れ、恩幸の門を開き、爵賞に差があり、刑罰が当たらなければ、忠臣正士もまた語らなくなるであろう。

睿宗はこれを見て善しとし、中書省に重ねて詳議させ、監察御史に抜擢任命した。開元年中に、累進して太子右庶子となった。鄭州刺史として出向したが、赴任せずに病死し、兵部侍郎を追贈された。

崔義玄

崔義玄は貝州武城の人である。大業の末、李密のもとに身を寄せたが、初めは用いられなかった。義玄は群鼠が洛水を渡るのを見、また矛の刃に花文があるのを見て、親しい者に言った。「これは王敦の敗亡の兆しである。」時に黄君漢が柏崖を守拠していた。義玄は赴いてこれを説き、「機を見て行動すべく、終日を待つに及ばない。今、群盗蜂起し、九州は分断され、神器の帰するところは必ず有徳の者にある。唐公は秦京を領有し、名は符籙に応じている。これこそ真の主である。足下は孤城を独立させているが、寇恂・竇融の策に従い、時を失わず誠意を示して帰順し、封侯を得るべきである。」君漢はこれを認め、直ちに義玄と共に帰国した。懐州総管府司馬に任ぜられた。世充が将軍高毗を遣わして河内を侵掠すると、義玄はこれを撃破し、多くの城堡を陥落させた。君漢が子女と金帛を分け与えようとしたが、義玄は全て拒絶して受け取らず、功により清丘県公に封ぜられた。後に太宗に従って世充を討ち、しばしば計策を献じ、太宗は多くこれを採用した。東都が平定されると、隰州都督府長史に転じた。貞観初年、左司郎中を歴任し、韓王府長史を兼ね、州府の事を行った。友人孟神慶とは志好は異なるが、それぞれ剛直をもって府幕を匡正し、王は共にこれを信任した。永徽初年、累遷して婺州刺史となった。時に睦州の女子陳碩真が兵を挙げて反乱し、その党の童文宝に徒衆四千人を率いさせて婺州を急襲させた。義玄が軍を督して防戦しようとした時、百姓の間に訛言があり、碩真はかつて天に昇り、その兵馬を犯す者は一族皆殺しに遭うというので、衆は皆恐れおののいた。司功参軍崔玄籍が義玄に言うには、「順を仗って兵を起こしてもなお成し得ないのに、これは妖言妄説であり、どうして長く続けられようか。」義玄はこれを正しいと思い、玄籍を先鋒に命じ、義玄は兵を率いて続いて進軍し、下淮戌に至り、その間諜二十余人を捕らえた。夜に流星が賊の陣営に墜ちた。義玄は言った。「これは賊が滅びる兆しである。」翌朝進撃し、自ら士卒に先んじた。左右が盾で矢を防ごうとしたが、義玄は言った。「刺史ですら矢を避けようとするなら、誰が命を捨てて戦おうか。」これにより士卒は力を合わせ、数百級を斬首し、残りは全て帰順を許した。進軍して睦州の境界に至り、帰順する者は万を数えた。碩真が平定されると、義玄は功により御史大夫に任ぜられた。義玄は若い頃から章句の学を愛し、『五経』の大義で、先儒が疑うところや音韻が明らかでない点について、諸家を兼ね採り、全てを解釈し、傍らに証拠を引き、それぞれ条疏をなした。この時、高宗は義玄に命じて『五経』正義を討論させ、諸博士らと是非を詳らかに定めさせたが、事は遂に成らなかった。高宗が皇后武氏を立てるにあたり、義玄はその謀に協力し賛成した。長孫無忌らが罪を得ると、皆義玄が中旨を承けてこれを糾弾した。顕慶元年、蒲州刺史として出向した。まもなく卒去。七十一歳。幽州都督を追贈され、諡して貞といった。則天の時、その功を思い、重ねて揚州大都督を追贈し、その家に実封二百戸を賜った。

子に神基あり。

子の神基が爵を襲った。長寿年間、司賓卿・同鳳閣鸞台平章事となった。宰相となって一月余りで、酷吏に陥れられ、死刑を減じられて流刑に処せられた。後に次第に任用され、中宗の初め、大理卿となった。

神基の弟に神慶あり。

神基の弟神慶。神慶は明経に挙げられ、則天の時、累遷して萊州刺史となった。朝廷に入った際、億歳殿で待制し、奏事が意にかなった。則天は神慶が歴任した職に皆善政があり、またその父がかつて輔佐の勲功があったことを重んじ、大いに賞慰し、抜擢して并州長史に任じた。そして言った。「并州は朕の故郷であり、また軍馬もある。近頃人選したが、卿に及ぶ者はいない。前後の長史は皆尚書からこれを務めてきた。その任が重いからこそ、卿に授けるのである。」自ら按行図を作り、日を選んで派遣した。神慶が州に到着すると、豪富が偽って銭文を改める詔勅を作り、文書が州に下ると、穀物麦が暴騰し、百姓は驚き騒いだ。神慶はこれを執奏し、不便であるとし、則天は詔を下してこれを褒賞した。以前より、并州には東西二城があり、汾水を隔てていたが、神慶が初めて城を築いて接続させ、毎年防御兵数千人を省き、辺州は大いに便利とした。まもなく兄の神基が獄に下され死刑に当たった。神慶は都に馳せ参じ事を告げ、召見を得た。則天は神基の推問状を出して示した。神慶は状に基づいて申し立て、神基はついに死刑を減じられ、神慶も連座して貶され歙州司馬を授けられた。長安年間、累転して礼部侍郎となり、しばしば上疏して時政の利害を陳べ、則天は常に嘉納した。太子右庶子に転じ、魏県子の爵を賜った。時に突厥の使者が入朝した。儀注によれば、太子は朝参に参与すべきであり、先に勅書を下すことになっていた。神慶は上疏して言った。「伏して考えるに、五品以上が亀を佩びるのは、別勅で徴召される際、詐りがあるのを恐れ、内から亀符を出して合わし、それから応命するためである。まして太子は元良にして国の根本、万方が瞻仰する所であり、古来徴召には皆玉契を用いた。これは誠に重慎の極み、萌芽を防ぐ慮りである。先ごろ突厥の使者が謁見するに当たり、太子は朝参に参与すべきであったが、ただ文符が宮中に下っただけで、勅を下して処分したことはなかった。今人は淳化を享け、内外同心であるが、古人は未萌の前に事を慮り、長く悔吝の咎のないようにした。まして太子は至って重く、深く戒め慎まざるを得ない。臣の愚見によれば、太子は既に陛下と異なる宮におられるので、伏して望むに、太子を召される毎に、予め来日を報じ、朔望の朝参でない場合、別に喚ぶ必要があるならば、墨勅及び玉契を降されることを。」則天は大いにこれを認めた。まもなく神慶と詹事祝欽明に命じて、交代で東宮で侍読させた。やがて司刑・司礼二卿を歴任した。神慶はかつて詔を受けて張昌宗を推問したが、結局その罪を寛大にした。神龍初年、昌宗らが誅せられると、神慶は連座して欽州に流された。まもなく卒去。七十余歳。翌年、敬暉らが罪を得ると、昌宗に連座して流貶された者は例によって皆雪免され、神慶に幽州都督を追贈した。

開元年間、神慶の子の琳らは皆高官に至り、一族従兄弟数十人が、省闥に奔走し奏上した。毎年の家宴では、組珮が輝き映え、一つの榻に笏を置き、その上に重ねて積んだ。開元・天宝の間、中外の族属に緦麻の喪がなく、その福禄の昌盛はこのようであった。東都の私第の門に、琳と弟の太子詹事珪・光禄卿瑤が、共に棨戟を列ね、当時「三戟崔家」と号された。琳の官位は太子少保で終わった。

史臣が言う。周・隋以来、韋氏は代々立派な人物を出し、盛んな冠族となったが、安石が継いで、ついにその門を大きくした。挺は才を恃んで物に傲り、確かに長者の風を欠き、賓王はこれに不仁をもって報い、君子と議論することは難しい。議者は、堯・舜には過分の称美があり、桀・紂には過分の悪評があると言う。一つ凶徳とされれば、群悪の帰するところとなるからである。楊素父子は隋の祚を傾覆し、醜い評判が流布し、弘礼・弘武のような正士であっても、元亨兄弟はついに凶族として追放された。古人が善道を守って死ぬのは、無為ではないのである。徳威の奏議は刑名の要を練り、長秋卿に任じられたのは、美事である。審礼は仁孝であり、治行は世の範とすべきであったが、ついに禍いに遭った。悲しいことだ。二閻は曲学に甚だ巧みで、構想は精巧であったが、芸は下位に成り、戒めを垂れるのは当然である。柳氏は世に謇諤と称され、奭・澤には正人の風采があり、忠規を献納する者もいた。義玄は武后に附麗し、神慶は穢臣を寛大に放任し、代々邪曲を積み、ついに傾敗に至った。当然である。

賛して言う。韋子驕矜、終に功名を損なう。楊家悪を積み、宗門擯落す。閻は芸をもって辱められ、劉は孝をもって過ちを犯す。二崔は能吏たりとも、行い取るに足らざるなり。

原本を確認する(ウィキソース):旧唐書 巻077