舊唐書

巻077

巻077

舊唐書

原文舊唐書

卷七十七

原文卷七十七

列傳第二十七 韋挺 楊纂 劉德威 閻立德 柳亨 崔義玄

原文列傳第二十七 韋挺 楊纂 劉德威 閻立德 柳亨 崔義玄

韋挺

原文韋挺

韋挺は、雍州萬年の人で、隋の民部尚書韋沖の子である。若い頃に隠太子(李建成)と親しく交わり、高祖こうそが京城を平定した時、隠太子に引き立てられて隴西公府祭酒となった。武徳年間に、累進して太子左衛驃騎、検校左率となった。太子は彼を非常に厚遇し、宮臣の中で彼に比肩する者は稀であった。七年、高祖が仁智宮に避暑した際、上書して事を言上する者がおり、太子が宮臣とひそかに異端を構えていると称した。時に慶州刺史楊文幹が叛逆を企て誅殺され、その供述が東宮に及んだため、韋挺は杜淹・王珪らとともに連座して越巂に流罪となった。太宗が東宮にいた時、召し出されて主爵郎中に任じられた。貞観初め、王珪がたびたび彼を推挙したため、これによって尚書右丞に遷った。まもなく吏部侍郎を授けられ、黄門侍郎に転じ、御史大夫に進んで封ぜられ扶陽県男となった。太宗は韋挺の娘を斉王李祐の妃とした。常に房玄齢・王珪・魏徴・戴冑らとともに顧問を承け、政事について議論した。また高士廉・令狐徳棻らとともに『氏族志』を編修し、たびたび賞賜を受けた。太宗はかつて韋挺に言った、「卿が御史大夫に任じられたのは、ただ朕の意向によるものであり、左右の大臣で卿のために地歩を設ける者はなかった。卿は努めよ」と。韋挺は陳謝して言った、「臣は駑鈍の下才であり、陛下の高位を汚すには足りません。かつ臣は勲功もなく旧臣でもないのに、藩邸の故僚の上に超えて処せられています。臣は後れを願い、功を立てる者を勧めたいと思います」と。太宗は許さなかった。まもなく銀青光禄大夫に改めて授けられ、行黄門侍郎となり、兼ねて魏王李泰の府事を管掌した。時に李泰は寵愛を受けており、太子李承乾には過失が多かったため、太宗はわずかに廃立の意を抱いていた。中書侍郎杜正倫が禁中の言葉を漏洩したとして左遷され、時に韋挺もまた李泰の事に関与していたが、太宗は言った、「朕はすでに正倫を罪した。卿をさらに法に置くには忍びない」と。特にこれを赦した。まもなく太常卿に遷った。初め、韋挺が大夫であった時、馬周が監察御史であったが、韋挺は馬周が寒門の士であるとして、まったく礼をしなかった。この時、馬周は中書令となっており、太宗がふたたび韋挺を門下省に用いようとしたところ、馬周が密かに韋挺が傲慢で狠あらく、宰相の器ではないと陳べたため、遂に取りやめとなった。十九年、遼東に事を行おうとして、糧食を運ぶ者を選んだところ、馬周がまた韋挺の才は粗使に堪えると奏上したので、太宗はこれに従った。韋挺は父が隋の時に営州総管としており、高麗経略の遺文があった。そこでこれを奏上した。太宗は大いに喜び、韋挺に言った、「幽州以北、遼水に至る二千余里に州県がなく、軍の行く資糧は取る所がない。卿はこの使を為すに宜しい。ただ軍用に乏しからざるを得れば、功は小さからぬであろう」と。人部侍郎崔仁師を副使とし、自ら文武官四品十人を選んで子使とし、幽・易・平の三州の驍ぎょう勇二百人、官馬二百匹を従わせることを任せた。詔して河北諸州はみな韋挺の節度を取らせ、便宜行事を許した。太宗は自ら貂裘と中廄の馬二匹を解いて賜った。韋挺は幽州に至り、燕州司馬王安德に命じて渠を通塞を巡らせた。先ず幽州の庫物を出し、材木を買って船を造り、米を運んで進んだ。桑乾河から下って盧思台に至り、幽州を去ること八百里、王安德が帰還して言うには、「ここより外は、漕渠が壅塞している」と。韋挺は北方が寒雪であるとして、さらに進むことができず、遂に米を台の側に仮に貯蔵し、開歳(新年)に春が発するのを待って、ようやく転運に事を起こし、大兵の至るを度れば、軍糧は必ず足りると考え、馳せてこれを聞かせた。太宗は悦ばず、韋挺に詔して言った、「兵は拙速を尚び、工遅を貴ばず。朕は十九年の春に大挙しようとしたのに、今二十年の運漕を言うのは、まったく謂れがない」と。そこで繁畤令韋懷質を韋挺の所に遣わして軍糧を支度させ、渠水を検覆させた。韋懷質が還って奏上して言うには、「韋挺は先ず漕渠を視ず、すなわち工匠を集めて船を造り、米を運んで下った。盧思台に至って、初めて渠が閉ざされていることを知り、進もうとしても得ず、還ればまた水が涸れているので、便よくこれを貯蔵したが、平夷の地に通じていない。また韋挺は幽州において、日々飲会を催し、実に至公に背いている。陛下が来年出師されるとすれば、臣がこれを度るに、恐らく聖策に符しないでしょう」と。太宗は大怒し、将作少監李道裕を代わりに遣わし、なお治書侍御史唐臨に命じて駅伝を馳せて韋挺を械につけて洛陽らくように赴かせ、議に依って除名し、なお白衣の散従とさせた。前軍が蓋牟城を破った時、詔して韋挺に兵士を統率させて蓋牟を鎮守させ、漸く用いることを示した。韋挺が城を守るのは大軍から懸遠で、高麗の新城と隣接し、日夜戦闘し、鼓噪の声が絶えなかった。韋挺はその憂いに堪えず、かつ失職を不平に思い、平素から術士の公孫常と善くしていたので、常に書を送って懐く所を叙した。時に公孫常が他の事で拘束され、自縊して死に、その囊中を索めると、韋挺の書を得た。城中の危蹙を論じ、兼ねて嘆悵の辞があった。太宗は韋挺が怨望しているとして、象州刺史に謫した。歳余して卒した。年五十八。

原文韋挺,雍州萬年人,隋民部尚書沖子也。少與隱太子相善,及高祖平京城,引為隴西公府祭酒。武德中,累遷太子左衛驃騎,檢校左率。太子遇之甚厚,宮臣罕與為比。七年,高祖避暑仁智宮,會有上書言事者,稱太子與宮臣潛構異端。時慶州刺史楊文幹構逆伏誅,辭涉東宮,挺與杜淹、王珪等並坐流於越巂。及太宗在東宮,征拜主爵郎中。貞觀初,王珪數舉之,由是遷尚書右丞。俄授吏部侍郎,轉黃門侍郎,進拜御史大夫,封扶陽縣男。太宗以挺女為齊王祐妃。常與房玄齡、王珪、魏徵、戴胄等俱承顧問,議以政事。又與高士廉、令狐德棻等同修《氏族志》,累承賞賚。太宗嘗謂挺曰:「卿之任御史大夫,獨朕意耳,左右大臣無為卿地者,卿勉之哉!」挺陳謝曰:「臣駑下,不足以辱陛下高位。且臣非勳非舊,而超處籓邸故僚之上,臣願後之,以勸立功者。」太宗不許。尋改授銀青光祿大夫,行黃門侍郎,兼魏王泰府事。時泰有寵,太子承乾多過失,太宗微有廢立之意。中書侍郎杜正倫以漏洩禁中語左遷,時挺亦預泰事,太宗謂曰:「朕已罪正倫,不忍更置卿於法。」特原之。尋遷太常卿。初,挺為大夫時,馬周為監察御史,挺以周寒士,殊不禮之。至是,周為中書令,太宗嘗復欲用挺在門下,周密陳挺傲狠,非宰相器,遂寢。十九年,將有事於遼東,擇人運糧,周又奏挺才堪粗使,太宗從之。挺以父在隋為營州總管,有經略高麗遺文。因此奏之。太宗甚悅,謂挺曰:「幽州以北,遼水二千餘里無州縣,軍行資糧無所取給,卿宜為此使。但得軍用不乏,功不細矣」。以人部侍郎崔仁師為副使,任自擇文武官四品十人為子使,以幽、易、平三州驍勇二百人,官馬二百匹為從。詔河北諸州皆取挺節度,許以便宜行事。太宗親解貂裘及中廄馬二匹賜之。挺至幽州,令燕州司馬王安德巡渠通塞。先出幽州庫物,市木造船,運米而進。自桑乾河下至盧思台,去幽州八百里,逢安德還曰:「自此之外,漕渠壅塞。」挺以北方寒雪,不可更進,遂下米於台側權貯之,待開歲發春,方事轉運,度大兵至,軍糧必足,仍馳以聞。太宗不悅,詔挺曰:「兵尚拙速,不貴工遲。朕欲十九年春大舉,今言二十年運漕,甚無謂也。」乃遣繁畤令韋懷質往挺所支度軍糧,檢覆渠水。懷質還奏曰:「挺不先視漕渠,輒集工匠造船,運米即下。至盧思台,方知渠閉,欲進不得,還復水涸,乃便貯之無通平夷之區。又挺在幽州,日致飲會,實乖至公。陛下明年出師,以臣度之,恐未符聖策。」太宗大怒,令將作少監李道裕代之,仍令治書侍御史唐臨馳傳械挺赴洛陽,依議除名,仍令白衣散從。及前軍破蓋牟城,詔挺統兵士鎮蓋牟,示漸用之也。挺城守去大軍懸遠,與高麗新城鄰接,日夜戰鬥,鼓噪之聲不絕。挺不堪其憂,且不平於失職,素與術士公孫常善,乃與常書以敘所懷。會常以他事被拘,自縊而死,索其囊中,得挺書,論城中危蹙,兼有嘆悵之辭。太宗以挺怨望,謫為象州刺史。歲余卒,年五十八。

子 待價

原文子 待價

子の待價は、初め左千牛備身となった。永徽年間、江夏王李道宗が罪を得たが、待價は道宗の婿であったため、連座して左遷され盧龍府果毅となった。時に将軍辛文陵が兵を率いて高麗を招慰し、吐護真水に行き至った時、高麗がその不備を掩い、襲撃してこれを破った。待價は中郎将薛仁貴とともに詔を受けて東蕃を経略し、そこで率いる所部を以てこれを救った。文陵が苦戦し、賊が漸く退き、軍はようやく全うされた。待價は重傷を受け、流れ矢がその左足に中ったが、終にその功を言わず、足疾を以て免官して帰った。後に累進して蘭州刺史を授けられた。時に吐蕃がたびたび辺患となったため、高宗は沛はい王李賢を涼州大都督ととくとし、待價を司馬とした。まもなくまた蕭州刺史に遷り、頻りに守禦の功があり、征されて右武衛将軍に拝され、兼ねて検校右羽林軍事となった。儀鳳三年、吐蕃がまた塞を犯したため、待價はまた本官を以て検校涼州都督となり、兼ねて鎮守兵馬事を知った。まもなくまた旧職に征還され、ふたたび扶陽侯に封ぜられた。則天が朝に臨むと、吏部尚書に拝され、司空しくうを摂した。高宗の山陵を営み、功が畢わると、金紫光禄大夫を加えられ、天官尚書・同鳳閣鸞台三品に改められ、物一千段を賜り、なお一子に五品を授けられた。待價はもとより藻鑑の才がなく、武職から起り、選部に居たが、銓綜に序なく、甚だ当時に嗤われた。垂拱元年十月、ふたたび燕然道行軍大総管となり、突厥に備えた。明年の春に還った。六月、文昌右相に拝され、旧に依って同鳳閣鸞台三品となった。累ねて非据に登ったため、頗る自ら安からず、頻りに上表して職を辞したが、則天は毎度優制を降してこれを許さなかった。また表を上って官秩を削り、恩を回して父に贈ることを請うた。そこで韋挺に潤州刺史を贈った。明年、上疏して自ら戎旅の用に効することを請うた。そこで安息道行軍大総管に拝され、三十六総管を督して吐蕃を討ち、扶陽郡公に進封された。軍が寅識迦河に至り、吐蕃と合戦し、初め勝ち後に敗れた。また天寒く凍雪に属し、師人の多く死に、糧饋もまた支給に及ばず、乃ち師を旋らして弓月に至り、高昌に頓した。則天は大怒し、副将閻温古が逗留を以て法に伏し、待價は連座して除名され、繡州に配流され、まもなく卒した。

原文子待價,初為左千牛備身。永徽中,江夏王道宗得罪,待價即道宗之婿也,緣坐左遷盧龍府果毅。時將軍辛文陵率兵招慰高麗,行至吐護真水,高麗掩其不備,襲擊敗之。待價與中郎將薛仁貴受詔經略東蕃,因率所部救之。文陵苦戰,賊漸退,軍始獲全。待價被重瘡,流矢中其左足,竟不言其功,以足疾免官而歸。後累授蘭州刺史。時吐蕃屢為邊患,高宗以沛王賢為涼州大都督,以待價為司馬。俄又遷蕭州刺史,頻有守禦之功,征拜右武衛將軍,兼檢校右羽林軍事。儀鳳三年,吐蕃又犯塞,待價復以本官檢校涼州都督,兼知鎮守兵馬事。俄又征還舊職,復封扶陽侯。則天臨朝,拜吏部尚書,攝司空。營高宗山陵,功畢,加金紫光祿大夫,改為天官尚書、同鳳閣鸞台三品,賜物一千段,仍與一子五品。待價素無藻鑑之才,自武職而起,居選部,既銓綜無敘,甚為當時所嗤。垂拱元年十月,復為燕然道行軍大總管,以御突厥。明年春還。六月,拜文昌右相,依舊同鳳閣鸞台三品。既累登非據,頗不自安,頻上表辭職,則天每降優制不許之。又表請削官秩,回恩贈父,於是贈挺潤州刺史。明年,上疏請自效戎旅之用,於是拜安息道行軍大總管,督三十六總管以討吐蕃,進封扶陽郡公。軍至寅識迦河,與吐蕃合戰,初勝後敗。又屬天寒凍雪,師人多死,糧饋又不支給,乃旋師弓月,頓於高昌。則天大怒,副將閻溫古以逗留伏法,待價坐除名,配流繡州,尋卒。

弟 萬石

原文弟 萬石

弟の萬石は、頗る学業があり、特に音律を善くした。上元年間、吏部郎中から太常少卿に遷った。当時、郊廟の楽調および宴会の雑楽は、みな萬石と太史令姚玄辯が増損したもので、時人は称職であると思った。まもなくまた兼ねて吏部選事を知り、官に卒した。韋挺の従祖兄の子の安石は、別に伝がある。

原文弟萬石,頗有學業,而特善音律。上元中,自吏部郎中遷太常少卿。當時郊廟樂調及宴會雜樂,皆萬石與太史令姚玄辯增損之,時人以為稱職。尋又兼知吏部選事,卒官。挺從祖兄子安石,別有傳。

楊纂

原文楊纂

楊纂は、華州華陰の人である。祖父の儉は、周の東雍州刺史であった。父の文偉は、隋の溫州刺史であった。楊纂は経史に少し通じ、特に時務に明るかった。若い時に琅邪の顏師古・燉煌の令狐德棻と親しく交わった。大業年間、進士に挙げられ、朔方郡司法書佐を授けられたが、楊玄感の近親に連座して除名され、蒲城に家を定めた。義軍が河を渡ると、長春宮で謁見した。累ねて侍御史を授けられた。たびたび上書して事を言い、それによって召し出されて問われ、考功郎中に抜擢された。貞観初め、長安ちょうあん令となり、長安県男の爵を賜った。婦人の袁氏が妖逆を為し、人に告発され、楊纂がこれを究問したが、その情状を得られなかった。袁氏は後にまた事が発覚して誅殺され、太宗は楊纂を不忠とし、殺そうとした。中書令の溫彥博が、楊纂の過誤は死罪に至らないとし、固く諫めたので、赦免した。三度転じて吏部侍郎となった。八年、特進蕭瑀に副えて河南道巡察大使となり、蕭瑀と情が合わず、たびたび互いに表奏し、蕭瑀はこれによって罪を得た。楊纂はまもなく尚書左丞を拝した。楊纂は吏道に長じていたので、所在において皆名声と実績があった。俄かにまた吏部侍郎を除された。前後十余年にわたり選挙を司り、人倫を銓叙して、允当であると称された。しかし文雅を抑え、酷吏を進め、時勢を見て術数を任じたので、当時の論議にかなり譏られた。後に太常少卿・雍州別駕を歴任し、銀青光禄大夫を加えられた。再び尚書左丞となり、太僕卿に遷り、検校雍州別駕を兼ねた。戸部尚書に遷った。永徽初めに卒し、幽州都督を贈られ、諡して敬といった。子の守愚は、則天の時に官が雍州長史に至り、守挹は岐州刺史となった。族子に弘礼がいる。

原文楊纂,華州華陰人也。祖儉,周東雍州刺史。父文偉,隋溫州刺史。纂略涉經史,尤明時務。少與琅邪顏師古、燉煌令狐德棻友善。大業中,進士舉,授朔方郡司法書佐,坐楊玄感近屬除名,乃家於蒲城。義軍渡河,於長春宮謁見。累授侍御史。數上書言事,因被召問,擢為考功郎中。貞觀初,長安令,賜爵長安縣男。有婦人袁氏妖逆,為人所告,纂究問之,不得其狀。袁氏後又事發伏誅,太宗以纂為不忠,將殺之。中書令溫彥博以纂過誤,罪不至死,固諫,乃赦之。三遷吏部侍郎。八年,副特進蕭瑀為河南道巡察大使,與瑀情有不協,屢相表奏,瑀因以獲罪。纂尋拜尚書左丞。纂既長於吏道,所在皆有聲績。俄又除吏部侍郎。前後典選十餘載,銓敘人倫,稱為允當。然而抑文雅,進酷吏,觀時任數,頗為時論所譏。後歷太常少卿、雍州別駕,加銀青光祿大夫。復為尚書左丞,遷太僕卿,檢校雍州別駕。遷戶部尚書。永徽初卒,贈幽州都督,謚曰敬。子守愚,則天時官至雍州長史;守挹,岐州刺史。族子弘禮。

族子 弘礼

原文族子 弘禮

弘礼は、隋の尚書令しょうしょれい楊素の弟の子である。父の岳は、大業年間に万年令となり、楊素の子の玄感と折り合わず、かつて密かに上表して玄感が必ず乱を起こすと称した。玄感が誅殺された時、岳は長安で獄に繋がれていたが、帝は急いで使者を遣わして赦そうとした。使者が到着する頃には、岳はすでに留守の者に殺されており、弘礼らは従坐を免れた。高祖が禅を受けると、楊素が隋代に勲功があったので、詔して弘礼に清河郡公の封を襲封させ、太子通事舍人を拝した。貞観年間、兵部員外郎を歴任し、なお西河道行軍大総管府長史となり、三度転じて中書舍人となった。太宗が遼東に事がある時、弘礼に文武の才があるとして、兵部侍郎に抜擢し、専ら兵機の務めを司らせた。弘礼は毎度参内して謀議し、出れば則ち衆を統率して攻戦した。駐蹕の陣において、馬歩二十四軍を率い、その不意に出撃してこれを撃ち、向かう所破壊した。太宗は山下から弘礼の統率する衆を見て、人皆力を尽くし、殺戮捕獲が多く、大いにこれを壮とした。許敬宗らに謂って曰く、「越公の兒郎は、故に家風がある」と。時に諸宰相は皆定州に留まって皇太子を輔け、ただ褚遂良・許敬宗及び弘礼が行在所に在り、機務を掌知した。二十年、中書侍郎を拝した。明年、銀青光禄大夫を加えられ、まもなく司農卿に遷り、兼ねて昆丘道副大総管を充し、諸道の軍将は皆その節度を受けた。ここにおいて処月を破り、処密を降し、焉耆王を殺し、馺支部を降し、龜茲・于闐王を獲た。凱旋したが、賞を行わないうちに、太宗が晏駕した。弘礼は頗る大臣の旨に忤ったので、これによって涇州刺史に出された。永徽初め、昆丘の功を論じ、勝州都督に改めて授けられた。まもなく太府卿に遷った。四年に卒し、蘭州都督を贈られ、諡して質といった。弟に弘武がいる。

原文弘禮,隋尚書令素弟之子也。父岳,大業中為萬年令,與素子玄感不協,嘗密上表稱玄感必為亂。及玄感被誅,岳在長安繫獄,帝遽使赦之。比使至,岳已為留守所殺,弘禮等遂免從坐。高祖受禪,以楊素隋代有勳業,詔弘禮襲封清河郡公,拜太子通事舍人。貞觀中,歷兵部員外郎,仍為西河道行軍大總管府長史,三遷中書舍人。太宗有事遼東,以弘禮有文武材,擢拜兵部侍郎,專典兵機之務。弘禮每入參謀議,出則統眾攻戰。駐蹕之陣,領馬步二十四軍,出其不意以擊之,所向摧破。太宗自山下見弘禮所統之眾,人皆盡力,殺獲居多,甚壯之。謂許敬宗等曰:「越公兒郎,故有家風矣。」時諸宰相併在定州留輔皇太子,唯有褚遂良、許敬宗及弘禮在行在所,掌知機務。二十年,拜中書侍郎。明年,加銀青光祿大夫,尋遷司農卿,兼充昆丘道副大總管,諸道軍將咸受節度。於是破處月,降處密,殺焉耆王,降馺支部,獲龜茲、于闐王。凱旋,未及行賞,太宗晏駕。弘禮頗忤大臣之旨,由是出為涇州刺史。永徽初,論昆丘之功,改授勝州都督。尋遷太府卿。四年卒,贈蘭州都督,謚曰質。弟弘武。

弘礼の弟 弘武

原文弘禮弟 弘武

弘武は若い頃から修飾謹直で、武徳初め、左千牛備身を拝した。永徽年間、吏部郎中となった。孝敬帝(孝敬皇帝李弘)の初め、皇太子の為に僚采を精選し、弘武を中舍人とした。麟徳年間、東嶽に事を行おうとし、弘武は荊州司馬から抜擢されて司戎少常伯を拝した。従駕して還ると、高宗は特に弘武に命じて吏部の選人で五品以上の官を補授させ、これによって次第に親任された。後の母の栄国夫人楊氏は、弘武と同宗であることから、またこれを称え推薦し、俄かに西台侍郎に遷った。乾封二年、戴至徳・李安期らと共に東西台三品となった。政事に在っては、頗る清簡をもって称された。総章元年、官に在って卒し、汴州刺史を贈られ、諡して恭といった。

原文弘武少修謹,武德初,拜左千牛備身。永徽中,為吏部郎中。孝敬初,為皇太子精擇僚采,以弘武為中舍人。麟德中,將有事於東嶽,弘武自荊州司馬擢拜司戎少常伯。從駕還,高宗特令弘武補授吏部選人五品已上官,由是漸見親委。後母榮國夫人楊氏,以與弘武同宗,又稱薦之,俄遷西台侍郎。乾封二年,與戴至德、李安期等同東西台三品。及在政事,頗以清簡見稱。總章元年,卒於官,贈汴州刺史,謚曰恭。

弘武の子 元亨・元禧・元禕

原文弘武子 元亨、元禧、元禕

子の元亨は、則天の時に司府少卿となり、元禧は尚食奉御となった。元禧は頗る医術があり、則天に任用された。かつて張易之の意に忤い、易之が密かに奏上して元禧は楊素兄弟の後裔であり、楊素父子は隋に逆節があり、子孫は供奉すべきでないとした。則天は乃ち制を下して曰く、「隋の尚書令楊素は、昔本朝に在りて、早くより殊遇を荷った。凶邪の徳を稟け、諂佞の才を懐き、君上を惑乱し、骨肉を離間した。冢嫡を揺るがし、豈に唯だ掘蠱の禍のみならんや?後主を誘扇し、遂に請蹯の釁を成す。隋室の喪亡は、蓋し惟れ僻が多いによるが、その萌兆を究めれば、実にこれに由る。生けては不忠の人、死しては不義の鬼、身は倖いに免れたれども、子は竟に族誅せらる。斯れは奸逆の謀、是れ其の庭訓、険薄の行、遂に門風と成る。刑戮加うるも、枝胤なお在り、豈に復た近侍に肩随し、朝行に歯跡せしむべけんや?朕は百王を接統し、四海に恭臨し、上は賢佐を嘉し、下は賊臣を捍ぎ、常に万機の余に従容し、千載の外に褒貶せんと欲す。況んや年代未だ遠からず、耳目の存する所なるをや?其の楊素及び兄弟子孫は、並びに京官及び侍衛に任ずることを令すべからず」と。ここにおいて元亨を左遷して睦州刺史とし、元禧を資州長史とし、元禧の弟の緱氏令元禕を梓州司馬とした。張易之が誅殺された後、元亨らは皆復た京職に任じられ、元亨は斉州刺史に至り、元禧は台州刺史、元禕は宣州刺史となった。

原文子元亨,則天時為司府少卿;元禧,尚食奉御。元禧頗有醫術,為則天所任。嘗忤張易之之意,易之密奏元禧是楊素兄弟之後,素父子在隋有逆節,子孫不合供奉。則天乃下制曰:「隋尚書令楊素,昔在本朝,早荷殊遇。稟凶邪之德,懷諂佞之才,惑亂君上,離間骨肉。搖動冢嫡,寧唯掘蠱之禍?誘扇後主,卒成請蹯之釁。隋室喪亡,蓋惟多僻,究其萌兆,實此之由。生為不忠之人,死為不義之鬼,身雖倖免,子竟族誅。斯則奸逆之謀,是其庭訓;險薄之行,遂成門風。刑戮雖加,枝胤仍在,豈可復肩隨近侍,齒跡朝行?朕接統百王,恭臨四海,上嘉賢佐,下捍賊臣,常欲從容於萬機之餘,褒貶於千載之外,況年代未遠,耳目所存者乎?其楊素及兄弟子孫,並不得令任京官及侍衛。」於是左貶元亨為睦州刺史,元禧為資州長史,元禧弟緱氏令元禕為梓州司馬。張易之誅後,元亨等皆復任京職,元亨至齊州刺史,元禧台州刺史,元禕宣州刺史。

劉德威

原文劉德威

劉德威は、徐州彭城の人である。父の子將は、隋の毗陵郡通守であった。德威は姿形が魁偉で、大いに幹略をもって称せられた。大業の末、左光祿大夫裴仁基に従い淮左の賊を討ち、手ずから賊帥李青珪を斬り、その首を行在所に伝送した。後に仁基とともに李密に帰順し、密は平素よりその名を聞いていたので、麾下の兵を与え、懐州に鎮守せしめた。武徳元年、密が王世充と戦って敗れ朝廷に入ると、德威もまた率いる所部を率いて密に随い帰順した。高祖はこれを嘉し、左武候将軍を授け、滕県公に封じた。劉武周が南侵すると、詔して德威に兵を統率させてこれを撃たしめ、また并へい州総管府司馬を判じた。まもなく裴寂が介州で軍律を失い、斉王元吉が并州を棄てて朝廷に還ると、德威を留めて留府の事を総知せしめた。元吉が出たばかりで、武周はすでに城下に至り、百姓は相率いて賊に投じた。武周は德威を捕らえ、その本兵を率いて浩州に往き招慰せしめよと命じた。德威は自ら抜け出して朝廷に帰り、高祖はみずから労問し、兼ねて賊中の虚実及び晋・絳諸部の利害を陳べると、高祖はことごとく嘉納した。彭城県公に改封した。まもなく、検校大理少卿となった。竇建德を擒えるのに従い、王世充を平らげるのに功があり、刑部侍郎に転じ、散騎常侍さんきじょうじを加えられ、平寿県主を妻とした。貞観初め、大理・太僕の二卿を歴任し、金紫光禄大夫を加えられた。まもなく出て綿州刺史となり、廉平をもって著称し、百姓はそのために碑を立てた。まもなく検校益州大都督府長史となった。十一年、ふたたび大理卿を授けられた。太宗はかつてこれに問うて曰く、「近ごろ刑網やや密なり、その過ちいずくにか在るや」と。德威は奏言して曰く、「誠に主上に在り、臣下によるにあらず。人主寛を好めば則ち寛にし、急を好めば則ち急にするなり。律文に失入は三等を減じ、失出は五等を減ず。今は則ちこれに反し、失入すれば則ち無辜、失出すれば便ち大罪を獲る。これをもって吏は各自愛し、競って深文を執るなり、教えて然らしむるにあらず、罪を畏るるの致すところなり。陛下ただ急を捨て給わば、則ち『寧ろ経に失うとも』、今日に復た行わるべし」と。太宗は深くこれを然りとした。数年して、刑部尚書に遷り、兼ねて検校雍州別駕となった。十七年、駅伝を馳せて済州に往き斉王祐を推問して還る途中、濮州に至り、祐が長史権万紀を殺したと聞き、德威は済州に入り拠り、使者を遣わして以て聞かしめた。詔して德威に便ち河南兵馬を発し、以て経略を申べしめんとしたが、母の憂いに遭い罷めた。十八年、起用されて遂州刺史となり、三転して同州刺史となった。永徽三年に卒す。年七十一。礼部尚書・幽州都督を贈られ、諡して襄と曰い、献陵に陪葬した。德威は閨門友穆にして、物に接するに寛平、得たる財貨は多く以て宗親に分かち贍した。子の審禮が爵を襲った。

原文劉德威,徐州彭城人也。父子將,隋毗陵郡通守。德威姿貌魁偉,頗以干略見稱。大業末,從左光祿大夫裴仁基討賊淮左,手斬賊帥李青珪,傳首於行在所。後與仁基同歸李密,密素聞其名,與麾下兵,令於懷州鎮守。武德元年,密與王世充戰敗入朝,德威亦率所部隨密歸款。高祖嘉之,授左武候將軍,封滕縣公。及劉武周南侵,詔德威統兵擊之,又判并州總管府司馬。俄而裴寂失律於介州,齊王元吉棄并州還朝,留德威總知留府事。元吉才出,武周已至城下,百姓相率投賊。武周獲德威,令率其本兵往浩州招慰。德威自拔歸朝,高祖親勞問之,兼陳賊中虛實及晉、絳諸部利害,高祖皆嘉納之。改封彭城縣公。未幾,檢校大理少卿。從擒建德,平世充,皆有功,轉刑部侍郎,加散騎常侍,妻以平壽縣主。貞觀初,歷大理、太僕二卿,加金紫光祿大夫。俄出為綿州刺史,以廉平著稱,百姓為之立碑。尋檢校益州大都督府長史。十一年,復授大理卿。太宗嘗問之曰:「近來刑網稍密,其過安在?」德威奏言:「誠在主上,不由臣下。人主好寬則寬,好急則急,律文失入減三等,失出減五等。今則反是,失入則無辜,失出便獲大罪。所以吏各自愛,競執深文,非有教使之然,畏罪之所致耳。陛下但舍所急,則『寧失不經』復行於今日矣。」太宗深然之。數歲,遷刑部尚書,兼檢校雍州別駕。十七年,馳驛往濟州推齊王祐還,至濮州,聞祐殺長史權萬紀,德威入據濟州,遣使以聞。詔德威便發河南兵馬,以申經略,會遭母憂而罷。十八年,起為遂州刺史,三遷同州刺史。永徽三年卒,年七十一。贈禮部尚書、幽州都督,謚曰襄,陪葬獻陵。德威閨門友穆,接物寬平,所得財貨,多以分贍宗親。子審禮襲爵。

子 審禮

原文子 審禮

審禮は、幼くして母を喪い、祖母の元氏に養われた。隋の末、德威が裴仁基に従い討撃したとき、道路通ぜず。審禮は弱冠に至らず、郷里より自ら元氏を負い載せ、江を渡り乱を避けた。天下定まるに及び、始めて西に入り長安に至った。元氏もし疾あれば、審禮は必ずみずから湯薬を嘗め、元氏は顧みて孫に謂いて曰く、「我が児孝順、幽微に貫徹す、吾一たび顧念すれば、宿疾頓に軽し」と。貞観中、左驍衛郎将を歴任した。父の憂いに服し職を去った。葬に及んで、跣足して車に随い、流血地に灑ぎ、行路これを称した。服闋して当に爵を襲うべきところ、累表して弟に譲るも、朝議許さず。永徽中、累遷して将作大匠となり、兼ねて検校燕然都護、彭城郡公を襲封した。審禮は父の歿すること久しといえども、なお悲慕已まず、父の時の僚旧を見れば必ず嗚咽流涕した。母の鄭氏は早く亡く、継母の平寿県主に事え、少しでも疾あれば憂懼容色に形し、終夕寐ず。継母の男延景を撫で、友愛甚だ篤し。得たる禄俸は、皆母の処に送り、以て延景の費に資す。しかるに審禮の妻子は飢寒に処し、晏然として未だ嘗て介意せず。再従同居し、家に異爨なく、合門二百余口、人に間言なし。稍く遷りて工部尚書となり、兼ねて検校左衛大將軍となった。儀鳳二年、吐蕃涼州を寇す。審禮を行軍総管と命じ、中書令李敬玄と合勢して討撃せしめた。青海にて賊に遇う。敬玄後期して至らず、審禮事敗れ、賊に執らる。永隆二年、蕃中に卒す。工部尚書を贈られ、諡して僖と曰う。延景は、官陝州刺史に至り、睿宗の初め、后父として追贈され尚書右僕射となった。

原文審禮,少喪母,為祖母元氏所養。隋末,德威從裴仁基討擊,道路不通。審禮年未弱冠,自鄉里負載元氏,渡江避亂。及天下定,始西入長安。元氏若有疾,審禮必親嘗湯藥,元氏顧謂孫曰:「我兒孝順,貫徹幽微,吾一顧念,宿疾頓輕。」貞觀中,歷左驍衛郎將。丁父憂去職。及葬,跣足隨車,流血灑地,行路稱之。服闋當襲爵,累表讓弟,朝議不許。永徽中,累遷將作大匠,兼檢校燕然都護,襲封彭城郡公。審禮父歿雖久,猶悲慕不已,每見父時僚舊,必嗚咽流涕。母鄭氏早亡,事繼母平壽縣主,稍疾輒憂懼形於容色,終夕不寐。撫繼母男延景,友愛甚篤。所得祿俸,皆送母處,以資延景之費;而審禮妻子處飢寒,晏然未嘗介意。再從同居,家無異爨,合門二百餘口,人無間言。稍遷工部尚書,兼檢校左衛大將軍。儀鳳二年,吐蕃寇涼州,命審禮為行軍總管,與中書令李敬玄合勢討擊。遇賊於青海,敬玄後期不至,審禮事敗,為賊所執。永隆二年,卒於蕃中。贈工部尚書,謚曰僖。延景,官至陝州刺史,睿宗初,以後父追贈尚書右僕射。

審禮の子 易從

原文審禮子 易從

審禮の子易從は、岐州司兵参軍を歴任した。審禮の吐蕃に没するや、詔して易從の蕃に入りこれを省みることを許す。審禮の卒するに及び、易從は号哭し、昼夜止まず、毀瘠礼を過ぐ。吐蕃その志行を哀しみ、その父の屍柩を還し、易從は徒跣万里、扶護して彭城に帰り、朝野の嗟賞する所となった。後に彭州長史・任城男を歴任した。永昌中、徐敬貞に誣構せられて遇害に坐す。易從は官に在り仁恕、刑せられんとするに及び、人吏遠近なく奔走し、競って衣を解き相率いて功德を造り、以て長史のために福を祈り、州人これに従う者十余万。その人の愛する所、かくの如し。易從の子升は、開元中、中書舎人・太子右庶子となった。

原文審禮子易從,歷位岐州司兵參軍。審禮之沒吐蕃,詔許易從入蕃省之。及審禮卒,易從號哭,晝夜不止,毀瘠過禮。吐蕃哀其志行,還其父屍柩,易從徒跣萬里,扶護歸彭城,為朝野之所嗟賞。後歷彭州長史、任城男。永昌中,坐為徐敬貞所誣構遇害。易從在官仁恕,及將刑,人吏無遠近奔走,競解衣相率造功德,以為長史祈福,州人從之者十餘萬。其為人所愛如此。易從子升,開元中,為中書舍人、太子右庶子。

審禮の従弟 延嗣

原文審禮從弟 延嗣

審禮の従父弟延嗣は、文明年に潤州司馬となり、徐敬業の乱を属す。敬業衆を率いて潤州を攻む。延嗣は刺史李思文とともに固守して降らず。まもなく城陥ち、敬業延嗣を執り、これを邀えて降ることを令す。辞して曰く、「延嗣世に国恩を蒙り、当に効命を思うべし、州城守らず、多く朝廷に負う。終に苟免偷生し、以て宗族を累すべからず、豈に一身の故を以て、千載の辱となさんや。今日の事、死を得るを幸とす」と。敬業大いに怒り、これを斬らんとす。その党の魏思温これを救い免れさせ、乃ちこれを江都の獄に囚う。まもなく賊敗れ、竟に裴炎の近親なるを以て、功を叙せられず、遷りて梓州長史となり、再転して汾州刺史として卒す。宗族刺史に至る者二十余人。

原文審禮從父弟延嗣,文明年為潤州司馬,屬徐敬業作亂,率眾攻潤州,延嗣與刺史李思文固守不降。俄而城陷,敬業執延嗣,邀之令降,辭曰:「延嗣世蒙國恩,當思效命,州城不守,多負朝廷。終不能苟免偷生,以累宗族,豈以一身之故,為千載之辱?今日之事,得死為幸。」敬業大怒,將斬之,其黨魏思溫救之獲免,乃囚之於江都獄。俄而賊敗,竟以裴炎近親,不得敘功,遷為梓州長史,再轉汾州刺史卒。宗族至刺史者二十餘人。

閻立德

原文閻立德

閻立德は雍州萬年の人で、隋の殿内少監閻毗の子である。その先祖は馬邑から関中に移った。閻毗は初め工芸で名を知られ、立德と弟の立本は早くから家業を伝えた。武徳年間に累進して尚衣奉御となり、立德の造った袞冕・大裘など六服および腰輿・傘扇は、みな典式に依り、当時の人はこれを称えた。貞観初年、歴任して将作少匠となり、太安県男に封ぜられた。高祖が崩ずると、立德は山陵を営む功により、将作大匠に抜擢された。貞観十年、文徳皇后が崩ずると、また司空を摂行させ、昭陵を営ませた。怠慢の罪に坐して解職した。まもなく起用されて博州刺史となった。十三年、再び将作大匠となった。十八年、高麗征伐に従い、軍旅が遼沢に至ると、東西二百余里にわたって泥濘があり、人馬通ぜず。立德は道を埋め橋を造り、兵に留滞の妨げがなかった。太宗は大いに喜んだ。まもなく詔を受けて翠微宮および玉華宮を造営し、みな意に適い、賞賜は甚だ厚かった。まもなく工部尚書に遷った。二十三年、司空を摂行し、太宗の山陵を営み護った。事が終わり、公に進封された。顕慶元年に卒し、吏部尚書・并州都督を贈られた。子の玄邃は、官は司農少卿に至った。玄邃の子知微は、聖暦初年、歴任して右豹韜衛将軍となった。時に突厥の默啜が娘を請うて和親を求め、則天は淮陽王武延秀をしてその娘を迎えに行かせ、知微に春官尚書を摂行させて虜廷に送り届けさせた。默啜は延秀が皇室の諸王でないとし、大いに怒り、遂に別の場所に拘禁し、知微とともに衆を率いて恒岳道より趙・定二州を攻め陥れた。知微は一年余りを経て突厥の地より還ったが、則天は彼が賊に随って入寇したとして、百官にその肉を切り取らせ、その後斬り、併せてその三族を誅滅した。

原文閻立德,雍州萬年人,隋殿內少監毗之子也。其先自馬邑徙關中。毗初以工藝知名,立德與弟立本,早傳家業。武德中,累除尚衣奉御,立德所造袞冕大裘等六服並腰輿傘扇,咸依典式,時人稱之。貞觀初,歷遷將作少匠,封太安縣男。高祖崩,立德以營山陵功,擢為將作大匠。貞觀十年,文德皇后崩,又令攝司空,營昭陵。坐怠慢解職。俄起為博州刺史。十三年,復為將作大匠。十八年,從征高麗,及師旅至遼澤,東西二百餘里泥淖,人馬不通。立德填道造橋,兵無留礙。太宗甚悅。尋受詔造翠微宮及玉華宮,咸稱旨,賞賜甚厚。俄遷工部尚書。二十三年,攝司空,營護太宗山陵。事畢,進封為公。顯慶元年卒,贈吏部尚書、并州都督。玄邃子,官至司農少卿。玄邃子知微,聖歷初,歷位右豹韜衛將軍。時突厥默啜有女請和親,則天令淮陽王武延秀往納其女,命知微攝春官尚書送赴虜廷。默啜以延秀非皇室諸王,大怒,遂拘之別所,與知微率眾自恆岳道攻陷趙、定二州。知微經歲余自突厥所還,則天以其隨賊入寇,令百官臠割,然後斬之,並夷其三族。

弟の立本

原文弟 立本

立本は、顕慶年間に累進して将作大匠となり、後に立德に代わって工部尚書となり、兄弟が相代わって八座となったので、当時の論はこれを栄誉とした。総章元年、右相に遷り、博陵県男の爵を賜わった。立本は応務の才はあったが、特に図画を善くし、写眞に巧みであった。『秦府十八学士図』および貞観年間の『凌煙閣功臣図』は、ともに立本の筆跡で、当時の人はみなその妙を称えた。太宗はかつて侍臣学士と春苑で舟を浮かべたことがあり、池中に異鳥がいて、波に随ってゆったりと泳いでいた。太宗はこれを賞賛し、たびたび座中の者に詠を作らせ、立本を召してこれを描かせた。時に閣外で伝呼して云う、「画師閻立本。」と。時にすでに主爵郎中であったが、奔走して流汗し、池の側に俯伏し、手に丹粉を揮い、座の賓客を仰ぎ見て、愧赧に堪えなかった。退いてその子に戒めて曰く、「我は少くより書を読むことを好み、幸いに面牆を免れ、情に縁って筆を染め、頗る儕流に及んだ。ただ丹青をもって知られ、躬みて厮役の務めに従うこと、辱これより大なるは莫し。汝宜しく深く戒め、この末伎を習うことなかれ。」と。立本は性の好むところであり、止めようとしてもできなかった。右相となってからは、左相姜恪と対して枢密を掌った。恪はすでに将軍を歴任し、塞外に功を立てたが、立本はただ図画を善くするのみで、宰輔の器ではなかった。故に当時の人は『千字文』をもって語って曰く、「左相は沙漠に威を宣べ、右相は丹青に誉れを馳す。」と。咸亨元年、百官が旧名に復し、中書令と改めた。四年に卒した。

原文立本,顯慶中累遷將作大匠,後代立德為工部尚書,兄弟相代為八座,時論榮之。總章元年,遷右相,賜爵博陵縣男。立本雖有應務之才,而尤善圖畫,工於寫真。《秦府十八學士圖》及貞觀中《凌煙閣功臣圖》,並立本之跡也,時人咸稱其妙。太宗嘗與侍臣學士泛舟於春苑,池中有異鳥,隨波容與。太宗擊賞,數詔座者為詠,召立本令寫焉。時閣外傳呼云:「畫師閻立本。」時已為主爵郎中,奔走流汗,俯伏池側,手揮丹粉,瞻望座賓,不勝愧赧。退誡其子曰:「吾少好讀書,倖免面牆,緣情染翰,頗及儕流。唯以丹青見知,躬廝役之務,辱莫大焉!汝宜深誡,勿習此末伎。」立本為性所好,欲罷不能也。及為右相,與左相姜恪對掌樞密。恪既歷任將軍,立功塞外;立本唯善於圖畫,非宰輔之器。故時人以《千字文》為語曰:「左相宣威沙漠,右相馳譽丹青。」咸亨元年,百司復舊名,改為中書令。四年卒。

柳亨

原文柳亨

柳亨は蒲州解の人で、魏の尚書左僕射柳慶の孫である。父の旦は、隋の太常少卿・新城県公であった。亨は、隋末に熊耳・王屋二県の長を歴任し、李密に陥った。密が敗れて帰国し、累進して駕部郎中を授けられた。亨は容貌魁偉で、高祖は甚だこれを愛重し、特に殿中監竇誕の女を妻とさせた。これは帝の外孫である。三遷して左衛中郎将となり、寿陵県男に封ぜられた。間もなく、譴責により出されて邛州刺史となった。散騎常侍を加えられ、代わられて還り、数年任用されなかった。兄の葬儀に際し、太宗が南山に遊幸しているのに遇い、召見されて語り、頗る哀れみ憐れまれた。数日後、北門で引見され、深く誨め奨励され、銀青光禄大夫を拝し、光禄少卿を行った。太宗はたびたびこれを戒めて曰く、「卿とは旧親であり、情素兼ねて宿る。卿は人と交遊過多である。今この職を授ける。宜しく簡静を存すべし。」と。亨は性、射猟を好み、饕湎の名があった。この後は頗る自ら勖励し、賓客を杜絶し、身を約して節倹し、職事に勤めた。太宗もまたこれをもって称えた。二十三年、太廟を修める功により、金紫光禄大夫を加えられた。久しくして、太常卿を拝し、万歳宮に従幸し、岐州刺史を検校した。永徽六年に卒し、礼部尚書・幽州都督を贈られ、諡して敬といった。

原文柳亨,蒲州解人,魏尚書左僕射慶之孫也。父旦,隋太常少卿、新城縣公。亨,隋末歷熊耳、王屋二縣長,陷於李密。密敗歸國,累授駕部郎中。亨容貌魁偉,高祖甚愛重之,特以殿中監竇誕之女妻焉,即帝之外孫也。三遷左衛中郎將,封壽陵縣男。未幾,以譴出為邛州刺史。加散騎常侍,被代還,數年不調。因兄葬,遇太宗游於南山,召見與語,頗哀矜之。數日,北門引見,深加誨獎,拜銀青光祿大夫,行光祿少卿。太宗每誡之曰:「與卿舊親,情素兼宿,卿為人交遊過多,今授此職,宜存簡靜。」亨性好射獵,有饕湎之名。此後頗自勖勵,杜絕賓客,約身節儉,勤於職事。太宗亦以此稱之。二十三年,以修太廟功,加金紫光祿大夫。久之,拜太常卿,從幸萬年宮,檢校岐州刺史。永徽六年卒,贈禮部尚書、幽州都督,謚曰敬。

族子の范

原文族子 范

亨の族子の范は、貞観年間に侍御史となった。時に呉王恪が畋猟を好み、居人を損なったので、范はこれを弾劾した。太宗は侍臣に因って謂いて曰く、「権万紀は我が児に事え、匡正することができず、その罪は死に合う。」と。范が進みて曰く、「房玄齢は陛下に事え、なお畋猟を諫め止めることができません。どうして独り万紀を罪とすることができましょうか。」と。太宗は大いに怒り、衣を払って入った。久しくして、独り范を引いて謂いて曰く、「どうして逆に我を折ることができるか。」と。范は曰く、「臣は聞く、主聖なれば臣直しと。陛下は仁明であられます。臣どうして愚直を尽くさないことがありましょうか。」と。太宗の意は乃ち解けた。范は、高宗の時に歴任して尚書右丞・揚州大都督府長史となった。

原文亨族子范,貞觀中為侍御史。時吳王恪好畋獵,損居人,范奏彈之。太宗因謂侍臣:「權萬紀事我兒,不能匡正,其罪合死。」范進曰:「房玄齡事陛下,猶不能諫止畋獵,豈可獨罪萬紀?」太宗大怒,拂衣而入。久之,獨引范謂曰:「何得逆折我?」范曰:「臣聞主聖臣直,陛下仁明,臣敢不盡愚直。」太宗意乃解。范,高宗時歷位尚書右丞、揚州大都督府長史。

兄の子の奭

原文兄子 奭

亨の兄の子の奭。奭の父の則は、隋の左衛騎曹で、使いとして高麗に卒した。奭は蕃に入って喪柩を迎え、哀号礼を逾え、深く夷人に慕われた。貞観年間、累進して中書舎人となった。後に外生女が皇太子妃となったので、抜擢されて兵部侍郎を拝した。妃が皇后となると、奭はまた中書侍郎に遷った。永徽三年、褚遂良に代わって中書令となり、なお国史を監修した。まもなくして后は次第に疏遠猜忌されるようになり、奭は憂懼し、頻りに上疏して枢密の任を辞することを請い、吏部尚書に転じた。及んで后が廃されると、累貶して愛州刺史となった。まもなく許敬宗・李義府に誣構され、奭がひそかに宮掖に通じ、毒を盛ることを謀り、また褚遂良らと朋党を結んで扇動したと云い、罪は大逆に当たるとした。高宗は使者を愛州に遣わしてこれを殺し、その家を籍没した。奭は既にその罪で死んだのではないので、甚だ当時の人に傷痛とされた。神龍初年、則天の遺制により、褚遂良・韓瑗らとともに官爵を還された。子孫親属で当時縁坐した者は、みな赦免された。

原文亨兄子奭。奭父則,隋左衛騎曹,因使卒於高麗。奭入蕃迎喪柩,哀號逾禮,深為夷人所慕。貞觀中,累遷中書舍人。後以外生女為皇太子妃,擢拜兵部侍郎。妃為皇后,奭又遷中書侍郎。永徽三年,代褚遂良為中書令,仍監修國史。俄而後漸見疏忌,奭憂懼,頻上疏請辭樞密之任,轉為吏部尚書。及後廢,累貶愛州刺史。尋為許敬宗、李義府所構,雲奭潛通宮掖,謀行鴆毒,又與褚遂良等朋黨構扇,罪當大逆。高宗遣使就愛州殺之,籍沒其家。奭既死非其罪,甚為當時之所傷痛。神龍初,則天遺制,與褚遂良、韓瑗等並還官爵。子孫親屬當時緣坐者,咸從曠蕩。

孫の渙

原文孫 渙

開元初年、亨の孫の渙が中書舎人となり、上表して曰く、「臣の堂伯祖の奭は、明慶三年に去り、褚遂良ら五家とともに譴責誅戮されました。遺制により雪冤されましたが、子孫は亡没し尽くしています。ただ曾孫の無忝のみが、龔州に貫籍し、雪冤されて多年になりますが、なお遠竄と同じです。陛下が自ら宇県に臨まれて以来、優政必ず被り、鴻恩は泉壌に及び、大造は亡絶に加えられました。先天以後、頻りに詔勅を降し、かつて宰相を任じた家は、ともにその淪滞を収めることを許されました。況んや臣の伯祖は往時に執政を叨り、犯すところなくして誅せられ、藁窆なお故郷と隔たり、後嗣遂に蛮服に編されています。臣が号訴を申さざれば、義安んじ難し。伏して乞う、臣の伯祖をして郷里に還葬せしめ、その曾孫無忝を本貫に放帰せしめられんことを。」と。疏が奏上され、勅して奭を還葬させ、官が霊輿を造り駅伝で還した。無忝は後に歴任して潭州都督となった。

原文開元初,亨孫渙為中書舍人,表曰:「臣堂伯祖奭,去明慶三年,與褚遂良等五家同被譴戮。雖蒙遺制蕩雪,而子孫亡沒並盡。唯有曾孫無忝,見貫龔州,蒙雪多年,猶同遠竄。陛下自臨宇縣,優政必被,鴻恩及於泉壤,大造加於亡絕。先天已後,頻降絲綸,曾任宰相之家,並許收其淪滯。況臣伯祖往叨執政,無犯受誅,藁窆尚隔故鄉,後嗣遂編蠻服。臣不申號訴,義所難安。伏乞許臣伯祖還葬鄉里,其曾孫無忝放歸本貫。」疏奏,敕令奭歸葬,官造靈輿遞還。無忝後歷位潭州都督。

渙の弟の澤

原文渙弟 澤

渙の弟の澤は、景雲年間に右率府鎧曹参そうしん軍となった。先に、姚元之・宋璟が政事を知り、中宗朝の斜封官数千員を停めることを奏請した。元之らが出て刺史となると、太平公主がまた特にこのことを言い、勅して総べて旧職に復させることを命じた。澤は上疏して諫めて曰く、

原文渙弟澤,景雲中為右率府鎧曹參軍。先是,姚元之、宋璟知政事,奏請停中宗朝斜封官數千員。及元之等出為刺史,太平公主又特為之言,有敕總令復舊職。澤上疏諫曰:

臣聞く、薬毒ならざれば、以て疾を蠲うべからず。詞切ならざれば、以て過を補うべからず。ここをもって甘旨を習う者は、摂養の方に非ず。諛佞に邇く者は、危殆を積むの本なり。臣は実に愚朴にして、志は剛勵を懐き、政の当たらず、事の直ならざるを聞けば、常に慷慨として心に関し、夢寐に憤を懐く。毎に身を殉げて諫め、死に伏して争わんことを願う。ただ社稷に利し、君上に便あるに於いては、禍を蒙り難を被ると雖も、身を殺して悔いざらんとす。窃かに見るに、神龍以来、群邪孽を作し、法網振わず、綱維大いに紊れ、実に内寵の命を専らにし、外嬖の権を擅にし、貴に因り寵に憑り、官を売り爵を鬻ぐに由る。硃紫の栄は、僕妾の口より出で、賞罰の命は、章程の典に乖く。妃主の門は、商賈に同じく、挙選の署は、実に阛阓に均し。屠販の子は、悉く邪に由りて官を忝くし、黜斥の人、咸く奸に因りて進を冒す。天下乱れ、社稷幾く危うきに、陛下の聰明神武に頼り、其の将に墜んとするを拯う。此れ陛下の耳目の親しく撃つ所、固より永く炯誡と為すべし。臣聞く、法を理に作りて、猶其の乱るるを恐る。法を乱に作りて、誰か之を救わん。只だ斜封の官を授くるが如きは、皆是れ僕妾の汲引にして、先帝を迷謬し、目前の朝を昧ます。豈に孝和の情の憐れむ所、心の愛する所ならんや。陛下初めに即位せし時、姚元之・宋璟の計を納れ、以て咸く之を黜すを令す。頃日已来、又た之を叙すを令す。将に斜封の人を棄つるに忍びずと謂わんと為すか、先帝の意違うべからずと為すか。若し斜封の人を棄つるに忍びずと為さば、是れ韋月将・燕欽融の流も亦褒贈すべからず、李多祚・鄭克義の徒も亦清雪すべからざるなり。陛下何ぞ此れに於いて忍ぶ能わずして、独り彼れに於いて忍ぶ能うや。善悪を定めず、反覆相攻たしめ、君子の道消え、小人の道長くし、邪を為す者利を獲、正を為す者冤を銜ましむ。奈何ぞ人を導きて非を為さしめ、人を勧めて僻を為さしむる。将に何を以てか風俗を懲め、将に何を以てか奸邪を止めん。今海内咸く称す、太平公主、胡僧慧范に令して曲く此の輩を引き、将に陛下に誤り有らんとすと。謗議耳に盈ち、咨嗟衢に満つ。故に語に曰く、「姚・宋相と為れば、邪正に如かず。太平用事すれば、正邪に如かず」と。『書』に曰く、「偏無く陂無く、王の義に遵い、反無く側無く、王道正直なり」と。臣恐るらくは、因循して、近きに流れて遠きに致し、小を積みて大と為し、微を累ねて高きを起すを。何ぞ傷つくと言うなかれ、其の禍将に長からん。何ぞ害有りと言うなかれ、其の禍将に大ならん。又た賞罰の典、紀綱謬らず、天秩礼有り、君爵功有り。怒りに因りて以て妄りに罰すべからず、喜びに因りて以て妄りに賞すべからず。伏して見るに、尚医奉御彭君慶、邪巫の小道を以て、三品を超授せらる。奈何ぞ名器を軽用し、其の才に非ざるを加えん。昔、公主子の為に郎を求めしに、明帝許さず。今、聖朝私愛し、賞憸人に及ぶ。董狐亡びずんば、豈に隠す所あらんや。臣聞く、一人を賞して千万人悦ばば之を賞し、一人を罰して千万人勧まば之を罰すと。臣未だ聖朝の妄罰を睹ざるも、已に聖朝の妄賞を睹たり。『書』に曰く、「官私暱に及ばず、惟れ其の能のみ。爵悪徳に及ばず、惟れ其の賢のみ」と。臣恐るらくは、近習の人其の先容を為し、陛下に謬り有らんことを。惟れ陛下熟思して之を察せられんことを。往者は諫むべからざるも、来者は猶追うべし。請謁の路を杜ぎ、恩幸の門を塞ぎ、前非を鑑誡し、後悔を累ねざらんことを願う。画一の法を申し、不二の刑を明らかにし、詢わざる謀は用いず、稽えざる言は応ぜず。則ち天下の化、人間に無く、日新の徳、天鑑遠からず。

原文臣聞藥不毒,不可以蠲疾;詞不切,不可以補過。是以習甘旨者,非攝養之方;邇諛佞者,積危殆之本。臣實愚朴,志懷剛勵,或聞政之不當,事之不直,常慷慨關心,夢寐懷憤。每願殉身以諫,伏死而爭。但利於社稷,有便於君上,雖蒙禍被難,殺身不悔也。竊見神龍以來,群邪作孽,法網不振,綱維大紊,實由內寵專命,外嬖擅權,因貴憑寵,賣官鬻爵。硃紫之榮,出於僕妾之口;賞罰之命,乖於章程之典。妃主之門,有同商賈;舉選之署,實均阛阓。屠販之子,悉由邪而忝官;黜斥之人,咸因奸而冒進。天下為亂,社稷幾危,賴陛下聰明神武,拯其將墜。此陛下耳目之所親擊,固可永為炯誡者也。臣聞作法於理,猶恐其亂,作法於亂,誰能救之?只如斜封授官,皆是僕妾汲引,迷謬先帝,昧目前朝,豈是孝和情之所憐,心之所愛?陛下初即位時,納姚元之、宋璟之計,所以咸令黜之。頃日已來,又令敘之。將謂為斜封之人不忍棄也,以為先帝之意不可違也?若斜封之人不忍棄也,是韋月將、燕欽融之流亦不可褒贈也,李多祚、鄭克義之徒亦不可清雪也。陛下何不能忍於此而獨能忍於彼?使善惡不定,反覆相攻,使君子道消,小人道長,為邪者獲利,為正者銜冤,奈何導人以為非,勸人以為僻?將何以懲風俗,將何以止奸邪?今海內咸稱太平公主令胡僧慧范曲引此輩,將有誤於陛下矣。謗議盈耳,咨嗟滿衢,故語曰:「姚、宋為相,邪不如正。太平用事,正不如邪。」《書》曰:「無偏無陂,遵王之義,無反無側,王道正直。」臣恐因循,流近致遠,積小為大,累微起高。勿謂何傷,其禍將長;勿謂何害,其禍將大。又賞罰之典,紀綱不謬,天秩有禮,君爵有功,不可因怒以妄罰,不可因喜以妄賞。伏見尚醫奉御彭君慶,以邪巫小道,超授三品,奈何輕用名器,加非其才?昔公主為子求郎,明帝不許;今聖朝私愛,賞及憸人。董狐不亡,豈有所隱?臣聞賞一人而千萬人悅者賞之,罰一人而千萬人勸者罰之。臣雖未睹聖朝之妄罰,已睹聖朝之妄賞矣,《書》曰:「官不及私暱,惟其能;爵罔及惡德,惟其賢。」臣恐近習之人為其先容,有謬於陛下也。惟陛下熟思而察之。雖往者不可諫,而來者猶可追。願杜請謁之路,塞恩幸之門,鑑誡前非,無累後悔。申畫一之法,明不二之刑,不詢之謀勿庸,無稽之言勿應,則天下之化,人無間焉,日新之德,天鑑不遠。

沢は後に選に参じ、会うに敕令有りて選人上書して事を陳べ、将に収擢を加えんとす。沢又た上書して曰く。

原文澤後參選,會有敕令選人上書陳事,將加收擢,澤又上書曰:

近ごろ韋氏は邪悪で、奸臣らも共に悪をなした。賞罰は乱れ弛み、綱紀は乱れ、政治は賄賂によって成り立ち、官職は寵愛によって進み、正しいことを言う者は罪を得、特異な行いをする者は疑われ、天下は心を寒くし、まさに救いようがなかった。神明が徳を助け、宗廟が霊を降し、天が罪ある者を討ち、人々は保たれた。陛下は聡明な謀略で神聖であり、勇智に優れ聡明で、既に危うかった宗廟を安んじ、溺れんとする民衆を救われた。今、眉の白い老人や背の曲がった老人らは、歓喜して躍り上がり、聖朝の撫育を望み、聖朝の徳音を聞いている。今、陛下は煩わしさを除き徭役を減らし、法を明らかにし徳を挙げられ、万国は喜び楽しみ、家々は共に慶んでいる。臣はまた聞く、危うい者はその存続を保ち、乱れた者はその治め方を持つという。伏して思うに、陛下が安泰の時にも危険を忘れず、治まっている時にも乱れを忘れず、存続している時にも滅亡を忘れられれば、天の心を享受し、国家は長く保たれるであろう。『詩経』に言う、「初めなきはないが、終わりをよく全うする者は少ない。」伏して思うに、陛下はその終わりを慎み、その初めを修められ、礼に合わぬものは見ず、礼に合わぬことは行わないようにされたい。『書経』に言う、「徳は小さくても、万国は慶ぶ。不徳は大きくなくても、その宗廟を墜とす。」これは非常に畏れるべきであり、非常に恐れるべきである。伏して思うに、陛下はこれを慎まれたい。驕りと奢侈は親族や貴人から起こり、綱紀は寵愛された者によって乱れる。願わくば陛下が親族や貴人に対してこれを禁じられれば、天下は風に従うであろう。寵愛された者に対してこれを制すれば、天下の法は明らかになるであろう。『詩経』に言う、「寡妻に刑(模範)を示し、兄弟に及び、家国を治める。」もし親族や貴人がこれを行っても禁じず、寵愛された者が妨げても従うならば、これは政治が常でなく、命令が一貫しないことであり、そうすれば奸詐がここから起こり、暴乱が生じる。たとえ厳しい刑罰や峻烈な制度を設け、朝に施行し夕に殺戮しても、法は行われないであろう。たとえ陛下が彼らを親しみ愛されても、彼らを安んじ福を与えるには及ばない。寵愛と禄が過ぎれば、罪の始まりであり、安んじることではない。驕りと奢侈の淫らさは、危険の根源であり、福を与えることではない。前の事を忘れなければ、後の教訓となる。伏して願うには、陛下が俊哲を精選して求め、朝夕に教えを受け入れられることである。たとえ耳に逆らい、心に誤っている者があっても、すぐに罰せず、しばらく道理によってはかり、自らを省みるようにされたい。たとえ木のように朴訥で逆らいを忌む者でも、直を以て恕し、諫諍の道を開かれたい。あるいは耳に順い、身に都合の良い者があっても、すぐに賞せず、道理に合わぬ点を求め、典籍の教えに照らして検討されたい。徳に合わない者は、必ず法によって処置し、へつらいの行いを防がれたい。陛下に淫らな技巧を恥じ知らせる者がいれば、すぐに罷免すれば、淫らな技巧は止むであろう。陛下に忠直な意見を進める者がいれば、すぐに賞すれば、忠直な意見は進むであろう。臣はまた聞く、富に生まれる者は驕り、貴に生まれる者は傲る。石碏が言う、「臣は聞く、子を愛するには、義の道を教え、邪に入らせず、驕奢淫逸は、自ら邪に入る所以である。」『書経』に言う、「安逸に淫らせず、遊楽に遊ばせず。」穆王は命じて言う、「実に前後左右の位ある士に頼り、過ちを正し誤りを糾し、その非なる心を正す。」今、皇太子の宮が初めて建てられ、王府が初めて開かれ、僚友に至るまで、必ず妙なる選択を要する。今、驕奢の後の流れはまだ変わらず、怠惰な遊びの楽しみは、余風がなお存するかもしれない。小人や幸臣は、意に合いやすい。奇技や淫らな技巧は、多く心に適う。臣は恐れる、非徳に慣れ親しむと、ますます怠惰になることを。『書経』に言う、「慎んで汝の僚属を選べ、巧言令色の者を用いるな、ただ吉士たれ。僕臣が正しければ、その君主も正しくなる。僕臣が諂えば、その君主は自ら聖と思い上がる。」伏して願うには、温良で博聞の士、恭儉で忠鯁な人を採り、東宮および諸王府の官に任じ、さらに東宮に拾遺補闕の職を量って置くことを請う。朝夕に講論させ、出入りに従わせ、訓誥を授け、互いに修めて及ばぬところを補わせられたい。臣はまた聞く、馳せ騒ぎ狩猟にふけることは、人を狂わせる。名教の中には、自ずから楽しみの地がある。以前からの貴戚は、礼による者は少ない。ある者は打球や鼓を打ち、技芸に親しみ、ある者は鷹を飛ばし犬を走らせ、沢や藪を遊び回る。これは甚だ道に外れ、徳を進め業を修める根本ではない。『書経』に言う、「内に色に荒み、外に禽獣に荒む。」また言う、「丹硃の傲りのようであってはならぬ、ただ怠惰な遊びを好む。家で群れをなして淫らにし、その世を絶つ。」伏して思うに、陛下が謀訓を降し、学業を敦め勤めさせ、好悪を示し、成敗を陳べ、義をもって事を制し、礼をもって心を制し、未だ萌さぬうちに図り、未だ有らざるうちに慮れば、福禄は長く享受し、国と共に栄えるであろう。臣はまた聞く、富は驕りを期さないのに驕り自ら至り、驕りは罪を期さないのに罪自ら至り、罪は死を期さないのに死自ら至る。この言葉は真実であり、この至誠は明らかである。近ごろの韋庶人、安楽公主、武延秀らは、貴いと言え、寵愛されたと言え、権力は君主に等しく、威勢は天下を震わせた。しかし奢侈に頼り徳を滅ぼし、神は怒り人は見捨てた。これは愛しすぎ、富ませすぎ、礼で節せず、法で防がなかったからではないか。ついに吉を凶に転じ、福を禍に変えた。諺に言う、「千人が指させば、病なくして自ら死ぬ。」その通りではないか。『書経』に言う、「殷の鑑は遠からず、かの夏王にある。」今、陛下は何を勧められるか、皇祖の謀訓の則りではないか。今、陛下は何を懲とされるか、孝和帝の寵任の甚だしさではないか。『礼記』に言う、「愛する者でもその悪を知り、憎む者でもその善を知る。」慎まざるを得ない。寵愛の心は免れないが、その甚だしきを去り、礼節によって間を置き、適度であればよい。今、諸王、公主、駙馬も、陛下が親愛される者である。枉(曲がり)を矯める道は、その初めにあり、鑑戒の意味は、遠くを取らない。過ちを見て善に務めさせ、寵愛にあって危険を思わせ、日夜敬虔に、その徳を修めさせられたい。『孝経』に言う、「上にいて驕らなければ、高くても危うくなく、それゆえ貴を長く守る。節度を制し度を謹めば、満ちても溢れず、それゆえ富を長く守る。富貴がその身を離れなければ、その後その社稷を保つことができる。」『書経』に言う、「官刑によって制し、位ある者に警めよ。敢えて常に宮中で舞い、室で酣歌するがあれば、これを巫風という。敢えて貨色に殉じ、常に遊猟するがあれば、これを淫風という。敢えて聖言を侮り、忠直に逆らい、耆徳を遠ざけ、頑童と親しむがあれば、これを乱風という。この三風十愆のうち、卿士が一つでも身にあれば、家は必ず喪われる。邦君が一つでも身にあれば、国は必ず亡ぶ。」これは甚だ畏れるべきであり、甚だ恐れるべきである。伏して思うに、陛下は必ず察して明らかにし、必ず信じて勧められたい。奢り僭上で驕り怠る者があれば、その禄封を削り、朴素で業を修める者には紳服を賜う。その非なる心を勧め、命に奉じさせ、久しくしてこれを忽せにさせず、遠くしてこれを墜とさせないようにされたい。臣は聞く、知ることは難しくないが、行うことは難しいと。また言う、「その徳を常にすれば、その位を保つ。その徳が常でなければ、九有(天下)は亡びる。」伏して思うに、陛下はこれを慎まれたい。前の車の覆るは、実に明らかな証拠である。先王の誡めは、終わりを吉とすることができる。もし陛下が伊尹の訓えを奉じ、傅説の命を崇め、無益なことを作らず、私門を開かず、刑に差がなく賞に濫りがなければ、ただ徳を輔け、ただ人を懐け、天禄は永く終わり、大福は集まるであろう。もし陛下が精一の徳を忘れ、恩幸の門を開き、爵賞に差があり、刑罰が当たらなければ、忠臣正士もまた語らなくなるであろう。

原文頃者韋氏險诐,奸臣同惡。賞罰紊弛,綱紀紛綸,政以賄成,官因寵進,言正者獲戾,行殊者見疑,海內寒心,實將莫救。賴神明佑德,宗廟降靈,天討有罪,人用不保,陛下睿謀神聖,勇智聰明,安宗廟於已危,拯黎庶於將溺。今尨眉鮐背,歡欣踴躍,望聖朝之撫輯,聽聖朝之德音。今陛下蠲煩省徭,法明德舉,萬邦愷樂,室家胥慶。臣又聞危者保其存也,亂者有其理也。伏惟陛下安不忘危,理不忘亂,存不忘亡,則克享天心,國家長保矣。《詩》曰:「罔不有初,鮮克有終。」伏惟陛下慎厥終,修其初,非禮勿視,非禮勿動。《書》曰:「惟德罔小,萬邦惟慶,惟不德罔大,墜厥宗。」甚可畏也,甚可懼也,伏惟陛下慎之哉!夫驕奢起於親貴,綱紀亂於寵幸。願陛下禁之於親貴,則天下隨風矣;制之於寵幸,則天下法明矣。《詩》曰:「刑於寡妻,至於兄弟,以御於家邦。」若親貴為之而不禁,寵幸撓之而見從,是政之不常,令之不一,則奸詐斯起,暴亂生焉。雖嚴刑峻制,朝施暮戮,而法不行矣。縱陛下親之愛之,莫若安之福之。寵祿之過,罪之漸也,非安之也;驕奢之淫,危之本也,非福之也。前事不忘,後之師也,伏願陛下精求俊哲,朝夕納誨。縱有逆於耳、謬於心者,無速之罰,姑籌之以道,省於厥躬。雖木朴忌忤,願恕之以直,開諫諍之路也。或有順於耳、便於身者,無急之賞,當求諸非道,稽之典訓。其不協於德,必置之以法,用杜側媚之行也。有羞淫巧於陛下者,遽黜之,則淫巧息矣;有進忠讜於陛下者,遽賞之,則忠讜進矣。臣又聞生於富者驕,生於貴者傲。石碏曰:「臣聞愛子,教之以義方,不納於邪,驕奢淫逸,所自邪也。」《書》曰:「罔淫於逸,罔游於樂。」穆王有命,「實賴前後左右有位之士,繩愆糾謬,格其非心。」今儲宮肇建,王府初啟,至於僚友,必惟妙擇。今驕奢之後,流波未變;慢游之樂,餘風或存。夫小人幸臣,易合於意;奇伎淫巧,多適於心。臣恐狎於非德,茲為愈怠。《書》曰:「慎簡乃僚,無以巧言令色,其惟吉士。僕臣正,厥後克正;僕臣諛,厥後自聖。」伏願采溫良博聞之士,恭儉忠鯁之人,任以東宮及諸王府官,仍請東宮量署拾遺補闕之職。令朝夕講論,出入時從,授以訓誥,交修不迨。臣又聞馳騁畋獵,令人發狂。名教之中,自有樂地。承前貴戚,鮮克由禮。或打球擊鼓,比周伎術;或飛鷹奔犬,盤遊藪澤。此甚為不道,非進德修業之本也。《書》曰:「內作色荒,外作禽荒。」又曰:「無若丹硃傲,惟慢游是好。朋淫於家,用殄厥世。」伏惟陛下誕降謀訓,敦勤學業,示之以好惡,陳之以成敗,以義制事,以禮制心,圖之於未萌,慮之於未有,則福祿長享,與國並休矣。臣又聞富不與驕期而驕自至,驕不與罪期而罪自至,罪不與死期而死自至。信矣斯語,明哉至誡!頃韋庶人、安樂公主、武延秀等可謂貴矣,可謂寵矣,權侔人主,威震天下。然怙侈滅德,神怒人棄。豈不謂愛之太極,富之太多,不節之以禮,不防之以法,終轉吉為凶,變福為禍。諺曰:「千人所指,無病自死。」不其然歟?《書》曰:「殷鑑不遠,在彼夏王。」今陛下何勸,豈非皇祖謀訓之則也?今陛下何懲,豈非孝和寵任之甚也?《禮》曰:「愛而知其惡,憎而知其善。」可不慎哉!夫寵愛之心則不免,去其太甚,閒之禮節,適則可矣。今諸王、公主、駙馬,亦陛下之所親愛也。矯枉之道,在於厥初,鑑誡之義,其取不遠。使觀過務善,居寵思危,庶夙夜惟寅,聿修厥德。《經》曰:「在上不驕,高而不危,所以長守貴也;制節謹度,滿而不溢,所以長守富也。富貴不離其身,然後能保其社稷。」《書》曰:「制於官刑,警於有位。敢有常舞於宮,酣歌於室,時謂巫風;敢有徇於貨色,常於游畋,時謂淫風;敢有侮聖言,逆忠直,遠耆德,比頑童,時謂亂風。惟茲三風十愆,卿士有一於身,家必喪;邦君有一於身,國必亡。」甚可畏也,甚可懼也!伏惟陛下必察而明之,必信而勸之。有奢僭驕怠者,削其祿封;樸素修業者,錫以紳服。以勖其非心,使其奉命,無使久而忽之,無使遠而墜之。臣聞非知之艱,行之惟艱。又曰:「常厥德,保厥位,厥德匪常,九有以亡。」伏惟陛下慎之哉!前車之覆,實惟明證;先王之誡,可以終吉。若陛下奉伊尹之訓,崇傅說之命,不作無益,不啟私門,刑不差,賞不濫,則惟德是輔,惟人之懷,天祿永終,景福是集。儻陛下忘精一之德,開恩幸之門,爵賞有差,刑罰不當,則忠臣正士,亦不復談矣。

睿宗はこれを見て善しとし、中書省に重ねて詳議させ、監察御史に抜擢任命した。開元年中に、累進して太子右庶子となった。鄭州刺史として出向したが、赴任せずに病死し、兵部侍郎を追贈された。

原文睿宗覽而善之,令中書省重詳議,擢拜監察御史。開元中,累遷太子右庶子。出為鄭州刺史,未行病卒,贈兵部侍郎。

崔義玄

原文崔義玄

崔義玄は貝州武城の人である。大業の末、李密のもとに身を寄せたが、初めは用いられなかった。義玄は群鼠が洛水を渡るのを見、また矛の刃に花文があるのを見て、親しい者に言った。「これは王敦の敗亡の兆しである。」時に黄君漢が柏崖を守拠していた。義玄は赴いてこれを説き、「機を見て行動すべく、終日を待つに及ばない。今、群盗蜂起し、九州は分断され、神器の帰するところは必ず有徳の者にある。唐公は秦京を領有し、名は符籙に応じている。これこそ真の主である。足下は孤城を独立させているが、寇恂・竇融の策に従い、時を失わず誠意を示して帰順し、封侯を得るべきである。」君漢はこれを認め、直ちに義玄と共に帰国した。懐州総管府司馬に任ぜられた。世充が将軍高毗を遣わして河内を侵掠すると、義玄はこれを撃破し、多くの城堡を陥落させた。君漢が子女と金帛を分け与えようとしたが、義玄は全て拒絶して受け取らず、功により清丘県公に封ぜられた。後に太宗に従って世充を討ち、しばしば計策を献じ、太宗は多くこれを採用した。東都が平定されると、隰州都督府長史に転じた。貞観初年、左司郎中を歴任し、韓王府長史を兼ね、州府の事を行った。友人孟神慶とは志好は異なるが、それぞれ剛直をもって府幕を匡正し、王は共にこれを信任した。永徽初年、累遷して婺州刺史となった。時に睦州の女子陳碩真が兵を挙げて反乱し、その党の童文宝に徒衆四千人を率いさせて婺州を急襲させた。義玄が軍を督して防戦しようとした時、百姓の間に訛言があり、碩真はかつて天に昇り、その兵馬を犯す者は一族皆殺しに遭うというので、衆は皆恐れおののいた。司功参軍崔玄籍が義玄に言うには、「順を仗って兵を起こしてもなお成し得ないのに、これは妖言妄説であり、どうして長く続けられようか。」義玄はこれを正しいと思い、玄籍を先鋒に命じ、義玄は兵を率いて続いて進軍し、下淮戌に至り、その間諜二十余人を捕らえた。夜に流星が賊の陣営に墜ちた。義玄は言った。「これは賊が滅びる兆しである。」翌朝進撃し、自ら士卒に先んじた。左右が盾で矢を防ごうとしたが、義玄は言った。「刺史ですら矢を避けようとするなら、誰が命を捨てて戦おうか。」これにより士卒は力を合わせ、数百級を斬首し、残りは全て帰順を許した。進軍して睦州の境界に至り、帰順する者は万を数えた。碩真が平定されると、義玄は功により御史大夫に任ぜられた。義玄は若い頃から章句の学を愛し、『五経』の大義で、先儒が疑うところや音韻が明らかでない点について、諸家を兼ね採り、全てを解釈し、傍らに証拠を引き、それぞれ条疏をなした。この時、高宗は義玄に命じて『五経』正義を討論させ、諸博士らと是非を詳らかに定めさせたが、事は遂に成らなかった。高宗が皇后武氏を立てるにあたり、義玄はその謀に協力し賛成した。長孫無忌らが罪を得ると、皆義玄が中旨を承けてこれを糾弾した。顕慶元年、蒲州刺史として出向した。まもなく卒去。七十一歳。幽州都督を追贈され、諡して貞といった。則天の時、その功を思い、重ねて揚州大都督を追贈し、その家に実封二百戸を賜った。

原文崔義玄,貝州武城人也。大業末,往依李密,初不見用。義玄見群鼠渡洛,又槊刃有花文,謂所親曰:「此王敦敗亡之兆也。」時黃君漢守據柏崖,義玄往說之曰:「見機而作,不俟終日。今群盜蜂起,九州幅裂,神器所歸,必在有德。唐公據有秦京,名應符籙,此真主也。足下孤城獨立,宜遵寇恂、竇融之策,及時歸誠,以取封侯也。」君漢然之,即與義玄歸國。拜懷州總管府司馬。世充遣將高毗侵掠河內,義玄擊敗之,多下城堡。君漢將分子女金帛與之,義玄皆拒而不受,以功封清丘縣公。後從太宗討世充,屢獻籌策,太宗頗納用之。東都平,轉隰州都督府長史。貞觀初,歷左司郎中,兼韓王府長史,行州府事。與友人孟神慶雖志好不同,各以介直匡正府幕,王並委任之。永徽初,累遷婺州刺史。屬睦州女子陳碩真舉兵反,遣其黨童文寶領徒四千人掩襲婺州。義玄將督軍拒戰,時百姓訛言碩真嘗升天,犯其兵馬者無不滅門,眾皆兇懼。司功參軍崔玄籍言於義玄曰:「起兵仗順,猶且不成,此乃妖誑,豈能得久?」義玄以為然,因命玄籍為先鋒,義玄率兵繼進,至下淮戌,擒其間諜二十餘人。夜有流星墜賊營,義玄曰:「此賊滅之征也。」詰朝進擊,身先士卒,左右以盾蔽箭,義玄曰:「刺史尚欲避箭,誰肯致死?」由是士卒戮力,斬首數百級,余悉許其歸首。進兵至睦州界,歸降萬計。及碩真平,義玄以功拜御史大夫。義玄少愛章句之學,《五經》大義,先儒所疑及音韻不明者,兼采眾家,皆為解釋,傍引證據,各有條疏。至是,高宗令義玄討論《五經》正義,與諸博士等詳定是非,事竟不就。高宗之立皇后武氏,義玄協贊其謀。及長孫無忌等得罪,皆義玄承中旨繩之。顯慶元年,出為蒲州刺史。尋卒,年七十一,贈幽州都督,謚曰貞。則天時思其功,重贈揚州大都督,賜其家實封二百戶。

子に神基あり。

原文子 神基

子の神基が爵を襲った。長寿年間、司賓卿・同鳳閣鸞台平章事となった。宰相となって一月余りで、酷吏に陥れられ、死刑を減じられて流刑に処せられた。後に次第に任用され、中宗の初め、大理卿となった。

原文子神基襲爵。長壽中,為司賓卿、同鳳閣鸞台平章事。為相月餘,為酷吏所陷,減死配流。後漸錄用,中宗初,為大理卿。

神基の弟に神慶あり。

原文神基弟 神慶

神基の弟神慶。神慶は明経に挙げられ、則天の時、累遷して萊州刺史となった。朝廷に入った際、億歳殿で待制し、奏事が意にかなった。則天は神慶が歴任した職に皆善政があり、またその父がかつて輔佐の勲功があったことを重んじ、大いに賞慰し、抜擢して并州長史に任じた。そして言った。「并州は朕の故郷であり、また軍馬もある。近頃人選したが、卿に及ぶ者はいない。前後の長史は皆尚書からこれを務めてきた。その任が重いからこそ、卿に授けるのである。」自ら按行図を作り、日を選んで派遣した。神慶が州に到着すると、豪富が偽って銭文を改める詔勅を作り、文書が州に下ると、穀物麦が暴騰し、百姓は驚き騒いだ。神慶はこれを執奏し、不便であるとし、則天は詔を下してこれを褒賞した。以前より、并州には東西二城があり、汾水を隔てていたが、神慶が初めて城を築いて接続させ、毎年防御兵数千人を省き、辺州は大いに便利とした。まもなく兄の神基が獄に下され死刑に当たった。神慶は都に馳せ参じ事を告げ、召見を得た。則天は神基の推問状を出して示した。神慶は状に基づいて申し立て、神基はついに死刑を減じられ、神慶も連座して貶され歙州司馬を授けられた。長安年間、累転して礼部侍郎となり、しばしば上疏して時政の利害を陳べ、則天は常に嘉納した。太子右庶子に転じ、魏県子の爵を賜った。時に突厥の使者が入朝した。儀注によれば、太子は朝参に参与すべきであり、先に勅書を下すことになっていた。神慶は上疏して言った。「伏して考えるに、五品以上が亀を佩びるのは、別勅で徴召される際、詐りがあるのを恐れ、内から亀符を出して合わし、それから応命するためである。まして太子は元良にして国の根本、万方が瞻仰する所であり、古来徴召には皆玉契を用いた。これは誠に重慎の極み、萌芽を防ぐ慮りである。先ごろ突厥の使者が謁見するに当たり、太子は朝参に参与すべきであったが、ただ文符が宮中に下っただけで、勅を下して処分したことはなかった。今人は淳化を享け、内外同心であるが、古人は未萌の前に事を慮り、長く悔吝の咎のないようにした。まして太子は至って重く、深く戒め慎まざるを得ない。臣の愚見によれば、太子は既に陛下と異なる宮におられるので、伏して望むに、太子を召される毎に、予め来日を報じ、朔望の朝参でない場合、別に喚ぶ必要があるならば、墨勅及び玉契を降されることを。」則天は大いにこれを認めた。まもなく神慶と詹事祝欽明に命じて、交代で東宮で侍読させた。やがて司刑・司礼二卿を歴任した。神慶はかつて詔を受けて張昌宗を推問したが、結局その罪を寛大にした。神龍初年、昌宗らが誅せられると、神慶は連座して欽州に流された。まもなく卒去。七十余歳。翌年、敬暉らが罪を得ると、昌宗に連座して流貶された者は例によって皆雪免され、神慶に幽州都督を追贈した。

原文神基弟神慶。神慶,明經舉,則天時,累遷萊州刺史。因入朝,待制於億歲殿,奏事稱旨。則天以神慶歷職皆有美政,又其父嘗有翊贊之勳,甚賞慰之,擢拜并州長史。因謂曰:「并州,朕之枌榆,又有軍馬,比日簡擇,無如卿者。前後長史,皆從尚書為之,以其委重,所以授卿也。」因自為按行圖,擇日而遣之。神慶到州,有豪富偽作改錢文敕,文書下州,穀麥踴貴,百姓驚擾。神慶執奏,以為不便,則天下制褒賞之。先是,并州有東西二城,隔汾水,神慶始築城相接,每歲省防禦兵數千人,邊州甚以為便。尋而兄神基下獄當死,神慶馳赴都告事,得召見。則天出神基推狀以示之,神慶據狀申理,神基竟得減死,神慶亦緣坐貶授歙州司馬。長安中,累轉禮部侍郎,數上疏陳時政利害,則天每嘉納之。轉太子右庶子,賜爵魏縣子。時有突厥使入朝,准儀注,太子合預朝參,先降敕書。神慶上疏曰:「伏以五品已上所以佩龜者,比為別敕徵召,恐有詐妄,內出龜合,然後應命。況太子元良國本,萬方所瞻,古來徵召皆用玉契,此誠重慎之極,防萌之慮。昨緣突厥使見,太子合預朝參,直有文符下宮,曾不降敕處分。今人稟淳化,內外同心,然古人慮事於未萌之前,所以長無悔吝之咎。況太子至重,不可不深為誡慎。以臣愚見,太子既與陛下異宮,伏望每召太子,預報來日,非朔望朝參,應須別喚,望降墨敕及玉契。」則天甚然之。尋令神慶與詹事祝欽明更日於東宮侍讀。俄歷司刑、司禮二卿。神慶嘗受詔推張昌宗,而竟寬其罪。神龍初,昌宗等伏誅,神慶坐流於欽州。尋卒,年七十餘。明年,敬暉等得罪,緣昌宗被流貶者例皆雪免,贈神慶幽州都督。

開元年間、神慶の子の琳らは皆高官に至り、一族従兄弟数十人が、省闥に奔走し奏上した。毎年の家宴では、組珮が輝き映え、一つの榻に笏を置き、その上に重ねて積んだ。開元・天宝の間、中外の族属に緦麻の喪がなく、その福禄の昌盛はこのようであった。東都の私第の門に、琳と弟の太子詹事珪・光禄卿瑤が、共に棨戟を列ね、当時「三戟崔家」と号された。琳の官位は太子少保で終わった。

原文開元中,神慶子琳等皆至大官,群從數十人,趨奏省闥。每歲時家宴,組珮輝映,以一榻置笏,重疊於其上。開元、天寶間,中外族屬無緦麻之喪,其福履昌盛如此。東都私第門,琳與弟太子詹事珪、光祿卿瑤,俱列棨戟,時號「三戟崔家」。琳位終太子少保。

史臣が言う。周・隋以来、韋氏は代々立派な人物を出し、盛んな冠族となったが、安石が継いで、ついにその門を大きくした。挺は才を恃んで物に傲り、確かに長者の風を欠き、賓王はこれに不仁をもって報い、君子と議論することは難しい。議者は、堯・舜には過分の称美があり、桀・紂には過分の悪評があると言う。一つ凶徳とされれば、群悪の帰するところとなるからである。楊素父子は隋の祚を傾覆し、醜い評判が流布し、弘礼・弘武のような正士であっても、元亨兄弟はついに凶族として追放された。古人が善道を守って死ぬのは、無為ではないのである。徳威の奏議は刑名の要を練り、長秋卿に任じられたのは、美事である。審礼は仁孝であり、治行は世の範とすべきであったが、ついに禍いに遭った。悲しいことだ。二閻は曲学に甚だ巧みで、構想は精巧であったが、芸は下位に成り、戒めを垂れるのは当然である。柳氏は世に謇諤と称され、奭・澤には正人の風采があり、忠規を献納する者もいた。義玄は武后に附麗し、神慶は穢臣を寛大に放任し、代々邪曲を積み、ついに傾敗に至った。当然である。

原文史臣曰:周、隋已來,韋氏世有令人,郁為冠族,而安石嗣立,竟大其門。挺恃才傲物,固虧長者之風,賓王報之以不仁,難與議乎君子矣!議者以堯、舜有溢美,桀、紂有溢惡,蓋以一為凶德,則群惡所歸。楊素父子,傾覆隋祚,醜聲流聞,雖弘禮、弘武之正士,而元亨兄弟,竟以凶族竄逐。古人守死善道,不無為也。德威奏議,練刑名之要,俾長秋卿,美哉!審禮仁孝,治行可為世范,卒與禍會,悲夫!二閻曲學甚工,措思精巧,藝成而下,垂誡宜然。柳氏世稱謇諤,奭、澤有正人風彩,忠規獻納,抑有人焉。義玄附麗武後,神慶寬縱穢臣,弈世纖邪,以至傾敗,宜哉!

賛して言う。韋子驕矜、終に功名を損なう。楊家悪を積み、宗門擯落す。閻は芸をもって辱められ、劉は孝をもって過ちを犯す。二崔は能吏たりとも、行い取るに足らざるなり。

原文贊曰:韋子驕矜,終損功名。楊家積惡,宗門擯落。閻以藝辱,劉以孝愆。二崔能吏,行無取焉。