旧唐書
○恆山王承乾 楚王寬 呉王恪 子成王千里 孫信安王禕
濮王泰 庶人祐 蜀王愔 蔣王惲 越王貞 子琅邪王沖
紀王慎 江王囂 代王簡 趙王福 曹王明
太宗に十四人の子あり。文徳皇后は高宗大帝・恆山王承乾・濮王泰を生む。楊妃は呉王恪・蜀王愔を生む。陰妃は庶人祐を生む。燕妃は越王貞・江王囂を生む。韋妃は紀王慎を生む。楊妃は趙王福を生む。楊氏は曹王明を生む。王氏は蔣王惲を生む。後宮は楚王寬・代王簡を生む。
恆山王承乾
恆山王承乾は、太宗の長子である。承乾殿に生まれたので、これにより名とした。武徳三年、恆山王に封ぜられる。七年、中山に転封される。太宗が即位すると、皇太子となった。時に年八歳、性質聡明で、太宗は甚だこれを愛した。太宗が諒闇(喪に服す)に居るとき、諸政務をみな聴断させ、大體をよく識った。ここより太宗が行幸するごとに、常に居守として監国させた。成長すると、声と色を好み、遊びに耽り度を過ごしたが、太宗に知られることを恐れ、その跡を見せようとしなかった。毎朝政事に臨むときは、必ず忠孝の道を言い、退朝後は、すぐに群小と褻狎した。宮臣で諫めようとする者がいれば、承乾は必ず先にその心情を推し量り、危坐して容を斂め、咎を引き自ら責めた。機微に応じて弁給し、智は非を飾るに足り、群臣は拝答に暇あらず、故に在位の者は初め皆これを明と為して察する者なかった。承乾は先に足を患い、歩行甚だ艱難であったが、魏王泰には当時の美誉があり、太宗は次第にこれを愛重した。承乾は廃立があることを恐れ、甚だこれを忌んだ。泰もまたその才能を恃み、ひそかに嫡子を奪う計略を抱いた。ここにおいて各々朋党を樹て、遂に釁隙を成した。太常の楽人で年十余歳、姿容美しく、歌舞に長じた者がおり、承乾は特に寵幸を加え、称心と号した。太宗は知って大いに怒り、称心を捕らえて殺し、称心に連坐して死んだ者また数人。承乾は泰がこの事を告げ口したと思い、怨みの心ますます甚だしかった。称心を痛悼して已まず、宮中に室を構え、その形像を立て、偶人と車馬を前に並べ、宮人に朝暮奠祭させた。承乾は数度その場所に至り、徘徊して流涕した。なお宮中に冢を起こしてこれを葬り、併せて官を贈り碑を樹て、以て哀悼を述べた。承乾はここより病と託して朝参せず、しばしば数ヶ月に及んだ。常に戸奴数十百人に命じて専ら伎楽を習わせ、胡人の椎髻を学び、綵を翦いて舞衣と為し、橦を尋ね剣を跳び、昼夜絶えず、鼓角の声は、日に外に聞こえた。
時に左庶子於志寧・右庶子孔穎達が詔を受けて輔導し、志寧は『諫苑』二十巻を撰してこれを諷し、穎達もまた多く規奏した。太宗は併せてこれを嘉し、二人に各々帛百匹・黄金十斤を賜う。以て承乾の意を励まし、なお志寧を詹事に遷す。未だ幾ばくもせず、志寧は母の憂いにより職を去り、承乾の侈縱日増しに甚だしくなった。太宗はまた志寧を起用して詹事と為し、志寧は左庶子張玄素と数度上書して切に諫めたが、承乾は併せて納れなかった。また嘗て壮士左衛副率封師進及び刺客張師政・紇干承基を召し、深く礼を尽くして賜与し、魏王泰を殺すことを命じたが、成らずして止んだ。まもなく漢王元昌・兵部尚書侯君集・左屯衛中郎将李安儼・洋州刺史趙節・駙馬都尉杜荷らと謀反し、兵を放って西宮に入らんとす。貞観十七年、斉王祐が斉州にて反す。承乾は紇干承基に謂いて曰く、「我が西の畔の宮牆は、大内より正に二十歩ばかり来たるのみ、この間は大いに親近なり、どうして斉王と並ぶことができようか」と。時に承基もまた外で斉王と連なり、獄に繋がれて死に当たったので、遂にこの事を告げた。太宗は承乾を召し、別室に幽閉した。司徒長孫無忌・司空房玄齢・特進蕭瑀・兵部尚書李勣・大理卿孫伏伽・中書侍郎岑文本・御史大夫馬周・諫議大夫褚遂良らに命じて参鞫させたところ、事みな明らかに験された。承乾を廃して庶人と為し、黔州に徙す。元昌は自尽を賜い、侯君集らは皆誅せられた。その宮僚左庶子張玄素・右庶子趙弘智・令狐徳棻・中書舍人蕭鈞は、皆才能により選用されたが、承乾が敗れた後、太宗は大義を引き以てこれを譲り、皆連坐して免官された。十九年、承乾は徙所にて卒す。太宗はこのために朝を廃し、国公の礼をもって葬った。二子、象・厥。象は官、懐州別駕に至り、厥は鄂州別駕に至る。象の子適之は、別に伝あり。
楚王寬
楚王寬は、太宗の第二子である。叔父楚哀王智雲の後を出て継ぐ。早く薨ず。貞観初年に追封され、後嗣なく、国除となる。
呉王恪
呉王恪は、太宗の第三子である。武徳三年、蜀王に封ぜられ、益州大都督を授かるが、幼年のため任地に赴かず。十年、また呉王に転封される。十二年、累ねて安州都督を授かる。職に赴かんとするに及び、太宗は書を以てこれを誡めて曰く、「我は君として兆庶に臨み、万邦を表正す。汝は地は茂親に居り、寄る所は惟だ籓屏なり。橋梓の道を勉め思い、間・平の徳に善く倣え。義を以て事を制し、礼を以て心を制せよ。三風十愆は、慎まざるべからず。かくの如くすれば則ち盤石を克く固くし、維城を永く保たん。外には君臣の忠有り、内には父子の孝有り。宜しく自ら志を励まし、以て日新を勖むべし。汝方に膝下に違い、淒恋何ぞ已まん。汝に珍玩を遺わんと欲すれど、驕奢を益すを恐る。故にこの一言を誡め、以て庭訓と為す」と。高宗即位すると、司空・梁州都督に拝される。恪の母は、隋の煬帝の女である。恪はまた文武の才あり、太宗は常にその己に類することを称えた。既に名望素より高く、甚だ物情の向かう所となった。長孫無忌は高宗を輔立してより、深く忌み嫉んだ。永徽年中、房遺愛の謀反に会い、遂に事に因って恪を誅し、以て衆望を絶ち、海内これを冤とした。子四人あり、仁・瑋・琨・璄、皆嶺表に流される。
まもなく恪を追封して鬱林王と為し、併せて廟を立てる。また仁を封じて鬱林県侯と為す。永昌元年、襄州刺史を授かる。州事を知らず、後に名を千里と改む。天授の後、唐・廬・許・衛・蒲の五州刺史を歴任す。時に皇室諸王で徳望ある者は、必ず誅戮に遭うが、惟だ千里は褊躁にして才なく、また数度符瑞の事を進献したので、則天朝に竟に禍を免れた。長安三年、嶺南安撫討撃使を充て、歴遷して右金吾将軍となる。中興の初め、進封して成王と為り、左金吾大将軍に拝され、兼ねて益州大都督を領し、またその父を追贈して司空と為す。三年、また広州大都督・五府経略安撫大使を領す。節愍太子が武三思を誅すに当たり、千里はその子天水王禧と左右数十人を率いて右延明門を斫り、三思の党与である宗楚客・紀処訥らを殺さんとす。太子の兵敗するに及び、千里は禧らと連坐して誅せられ、なおその家を籍没し、姓を蝮氏に改む。睿宗即位し、詔して曰く、「故左金吾衛大将軍成王千里は、国を保ち人を安んじ、克く忠義を成し、凶丑を除かんと願い、翻って誅夷に陥る。永く淪没を言えば、良く深く痛悼す。宜しく旧班を復し、用いて新寵を加うべし。旧官に還すべし」と。また姓を復することを令す。
瑋は早卒す。中興の初め、追封して朗陵王と為す。子𥙆、本名は褕、出て蜀王愔の後を継ぐ。景龍四年、銀青光禄大夫・秘書少監を加えられる。開元十三年、改封して広漢郡王・太僕卿同正員と為り、薨ず。
李琨は則天朝において淄州・衛州・宋州・鄭州・梁州・幽州の六州刺史を歴任し、有能な名声があった。聖暦年間、嶺南の獠が反乱を起こすと、詔勅により李琨を招慰使とし、辺境の地を安んじて集めることに、大いに適切な処置を得た。長安二年、在官のまま死去し、司衛卿を追贈された。神龍初年、張掖郡王を追贈された。開元十七年、子の李禕が貴顕となったことにより、工部尚書を追贈され、吳王に追封された。
李璄は中興の初めに歸政郡王に封ぜられ、宗正卿を歴任したが、李千里の事件に連座して南州司馬に貶せられ、死去した。
李琨の子は李禕である。李禕は幼少より志操があり、母に仕えること甚だ謹み深く、弟の李祗らを撫育して友愛をもって称えられた。景龍四年、太子僕となり、徐州別駕を兼ね、銀青光禄大夫を加えられた。幼少にして江王李囂の後を継ぎ、嗣江王に封ぜられた。景雲元年、再び徳州・蔡州・衢州等の刺史となった。開元の後、累遷して蜀州・濮州等の刺史となった。政治は清廉厳格と号され、人吏は畏れてこれに服した。次第に信任を受け、朝廷に入って光禄卿となり、将作大匠に遷った。母の喪に服して官を去ったが、喪中に起用されて瀛州刺史を授けられた。また上表して固く喪に服し終えることを請い、許された。十二年、信安郡王に改封された。十五年、喪が明けると、左金吾衛大將軍・朔方節度副大使・知節度事に任ぜられ、御史大夫を兼ねて摂行した。まもなく礼部尚書に遷り、なおも朔方軍節度使を充てた。先に、石堡城が吐蕃に占拠され、河西地方を侵擾していた。詔勅により李禕は河西・隴右の軍と協議してこれを奪取することとなった。李禕が軍中に到ると、兵士を総率し、期日を定めてこれを攻撃した。ある者が言うには、「この城は険阻な地に拠り、また吐蕃が大切にしている。今、全軍を率いて深く入れば、賊は必ず力を併せて防ぎ守るであろう。事がもし成功しなければ、退却すれば狼狽する。軍を抑えて慎重を期し、形勢を観るに如くはない」と。李禕は言う、「人臣の節義として、どうして艱難危険を憚ろうか。もし衆寡敵せずと期せられるならば、我は死をもってこれに継ごう。もし国家に利あらば、この身を何ぞ惜しまん」と。ここにおいて諸将を督率し、道を倍して兼行し進み、力を併せてこれを攻撃し、ついに石堡城を抜き、斬首し捕虜を得、また糧食・武器・器械を獲ること、その数甚だ多かった。なお兵を分けて守りを据え、賊の通路を遮断した。上(玄宗)はこれを聞いて大いに喜び、石堡城を振武軍と改称し、これより河州・隴州の諸軍は遊弈して千余里の地を拓いた。十九年、契丹の衙官可突干がその王邵固を殺し、部落を率いて突厥に降った。玄宗は忠王を河北道行軍元帥として奚及び契丹の両蕃を討たせ、李禕をその副将とした。忠王は遂に行かなかったので、李禕は戸部侍郎裴耀卿ら諸副将を率い、分道して兵を統率し范陽の北より出撃し、大いに両蕃の衆を破り、その酋長を生擒し、余党は山谷に逃げ込んだ。軍が還ると、李禕は功により開府儀同三司を加えられ、関内支度・営田等使を兼ね、採訪処置使を兼ね、なお二人の子に官を賜った。李禕は既に勲績があったが、執政者はその功を妬み、そのため賞は厚くなく、当時の人々に甚だ嘆かれた。二十二年、兵部尚書に遷り、朝廷に入って朔方節度大使となった。久しくして、事に坐して衢州刺史に出された。まもなく滑州・懷州の二州刺史を歴任した。天宝初年、太子少師に任ぜられ、年老いているため致仕を聴された。二年、太子太師に遷ったが、任官の制書が下った時、病により薨じ、年八十余であった。上はこれを聞いて久しく痛惜した。李禕は家に居て厳格で、諸子を善く訓育し、皆良い評判を得た。三子あり、李峘・李嶧・李峴、皆高官に至り、別に伝がある。
李祗は神龍年間に嗣吳王に封ぜられた。景雲元年、銀青光禄大夫を加えられた。天宝十四載、東平太守となった。安祿山が反乱を起こし、衆を率いて黄河を渡り、その凶威甚だ盛んで、河南の陳留・滎陽・霊昌等の郡は皆賊に陥落した。李祗は兵を起こして王事に勤め、玄宗はこれを壮とした。十五載二月、李祗を霊昌太守に任じ、また左金吾大將軍・河南都知兵馬使とした。その月、また御史中丞・陳留太守を兼ね、持節して河南道節度採訪使を充てることとし、本官は元の通りとした。五月、詔して太僕卿とし、御史大夫虢王李巨を遣わしてこれを代えさせた。
濮王李泰
濮王李泰は、字を惠褒といい、太宗の第四子である。幼少より文章を綴ることを善くした。武德三年、宜都王に封ぜられた。四年、衛王に進封され、衛懐王李霸の後を継いだ。貞観二年、越王に改封され、揚州大都督を授けられた。五年、左武候・大都督を兼領したが、いずれも任地には赴かなかった。八年、雍州牧・左武候大將軍に任ぜられた。七年、鄜州大都督に転じた。十年、魏王に徙封され、遙かに相州都督を領し、その他の官は元の通りとした。太宗は李泰が士を好み文学を愛するので、特に王府に別に文学館を置くことを許し、自ら学士を引召するに任せた。また李泰は腰腹が大きく、趨走拝礼がやや難しかったので、また小輿に乗って朝所に至ることを許した。その寵愛と特別な扱いはこのようなものであった。十二年、司馬蘇勖が、古来名王は多く賓客を引き、著述を以て美とすることを以て、李泰に勧めて奏請して『括地志』を撰修させた。李泰はそこで著作郎蕭德言・秘書郎顧胤・記室参軍蔣亞卿・功曹参軍謝偃らを奏引して王府で修撰させた。十四年、太宗は李泰の延康坊の邸宅に行幸し、これにより雍州及び長安の大辟罪以下の者を特赦し、延康坊の百姓は当年の租賦を免じ、また李泰の府の官僚に帛を差等を付けて賜った。十五年、李泰が『括地志』の撰修を終え、上表して献上すると、詔して秘閣に付することを命じ、李泰に物一万段を賜り、蕭德言らにも皆賜物を加給した。まもなくまた毎月李泰に料物を給すること、皇太子を超えるものがあった。諫議大夫褚遂良が上疏して諫めて言うには、
昔、聖人は礼を制定し、嫡子を尊び庶子を卑しんだ。これを儲君と呼び、その道は睿極(天子)に次ぐ。その崇重たる所以は、用いる物を計らず、貨幣財帛は王者とこれを共にする。庶子は身分が卑しいので、例とすることはできない。これは嫌疑の兆しを塞ぎ、禍乱の源を除くためである。而して先王は必ず人情を本とし、それから法を制定し、国家ある以上は必ず嫡庶があることを知る。然れども庶子はたとえ愛するといえども、超越することは許されず、嫡子は正体であるから、特に尊崇を加えねばならない。もし親しむべき者を疎んじ、尊ぶべき者を卑しむならば、佞巧の奸が機に乗じて動き、私恩が公を害し、志を惑わし国を乱すことになる。伏して惟うに、陛下の功業は邃古を超え、道は百王に冠たり、号令を発すること、世の法となる。一日に万機あれど、あるいは未だ尽く美ならず、臣の職は諫諍にあり、黙して容れるわけにはいかない。伏して見るに、儲君の料物が、かえって魏王より少ないことは、朝野の見聞する所、是とせざる所である。『伝』に曰く、「臣聞く、子を愛するには義方を以てこれを教う」と。忠孝恭儉、これが義方というものである。昔、漢の竇太后及び景帝は遂に梁孝王を驕恣させ、四十余城を封じ、苑は方三百里に及び、大いに宮室を営み、複道が望みに満ち、財を積むこと巨万を数え、出入りには警蹕し、少し意に適わないことがあると、病を発して死んだ。宣帝もまた淮陽憲王を驕恣させ、ほとんど敗れるところであったが、退譲の臣を輔弼として、辛うじて免れることができた。且つ魏王は既に新たに出閣したばかりである。伏して願わくは常に礼則を存し、耳を提げて言い聞かせ、且つ倹節を示し、自ら後月に加え歳を増すことを可とすべし。師傅を妙に選び、その成敗を示し、既に謙儉を以てこれを敦め、また文学を以てこれを勧む。忠のみ孝のみ、これによりてこれを奨励し、道徳を以て礼に斉しくせしめて、乃ち良器となす。これこそ聖人の教えというもので、厳しくしなくても成るのである。
太宗はまた魏王泰に武徳殿に入居することを命じたが、侍中魏徴が上奏して言うには、「伏して見ますに、勅旨により魏王泰を武徳殿に移住させるとのこと。この殿は内裏にあり、場所は広く閑静で、参内や奉仕の往来には極めて便利で近い。しかし魏王は陛下の愛子であり、陛下は常にその安全を願い、何事にもその驕りや奢侈を抑え、嫌疑を受けるような場所には置かれませんでした。今この殿に移れば、東宮の西に位置し、かつて海陵王(李元吉)が住んだ所で、当時の人々はこれを不可としました。時と事柄は異なるとはいえ、なお人々の噂を恐れます。また、王の本心も安らかではあるまい。すでに寵愛を畏れることができたのであれば、伏して願わくはその美事を成し遂げさせてください。明朝は朔日であり、あるいは直接申し上げられないかもしれません。愚かな考えに疑念があり、安んじて寝ることもできず、軽率にご聴覚を煩わせ、深く慄き恐れます」と。太宗はその言葉を容れた。
時に皇太子承乾は足に病を抱え、魏王泰は密かに嫡子の地位を奪おうとする意思を抱き、駙馬都尉柴令武・房遺愛ら二十余人を招き、厚く贈り物を与えて腹心として頼った。黄門侍郎韋挺・工部尚書杜楚客が相次いで魏王泰の府の事務を代行し、二人はともに泰のために朝臣と結びつき、賄賂の取り次ぎを行った。文武の群官はそれぞれに付託を受け、自ら朋党をなした。承乾はその侵奪を恐れ、密かに人を遣わし、魏王泰府の典簽を詐称させて玄武門に赴き、泰の名で封事を進上させた。太宗がこれを省覧すると、その文書はすべて泰の罪状を述べており、太宗はその詐りであると知って捕らえようとしたが、得られなかった。十七年、承乾が敗れると、太宗は面と向かって譴責した。承乾は言う、「臣は貴くして太子たり、さらに何を求めましょう。ただ泰に謀られそうになったため、特に朝臣とともに身の安全を図る道を謀ったのです。不逞の輩が、ついに臣に不軌の事を教えました。今もし泰を太子とすれば、いわゆるその計略の中に落ちるというものです」と。太宗はそこで侍臣に言う、「承乾の言うことももっともである。我もし泰を立てれば、すなわち儲君の位が求め得られるものとなってしまう。泰が立てば、承乾・晋王はともに存命できまい。晋王が立てば、泰と承乾はともに無事であろう」と。そこで泰を将作監に幽閉し、詔を下して言うには、
朕聞く、品物を生育するは、天地より大なるは莫く、愛敬極まり無きは、君親より重きは莫しと。是の故に臣たるは忠を尽くすことを貴び、これを損なう者は罰せられ、子たるは孝を行うに在り、これに違う者は必ず誅せられる。大なるはすなわちこれを市朝に肆し、小なるはすなわち終に黜辱を貽す。雍州牧・相州都督・左武候大将軍魏王泰は、朕が愛子にして、実に心を鍾愛する所なり。幼にして聡明で、頗る文学を好み、恩遇は崇重の極みに及び、爵位は寵章を超えた。聖哲の誡めを思わず、自ら驕僭の咎を構え、讒諛の言に惑い、離間の説を信じた。承乾は長嫡として居りながら、久しく病いに纏われているのを以て、密かに宗を代える望みを抱き、孝義の則を思わなかった。承乾はその侵奪を恐れ、泰もまた日に猜阻を増し、争って朝士と結び、競って凶人を引き入れた。ついに文武の官をして、それぞれに付託せしめ、親戚の内において、朋党に分かたしめた。朕は公道を志し、偏りの無きを義とし、その巨きなる罪を明らかにし、両者ともに廃黜に処す。ただ四海に則を作すのみならず、また百代に範を貽す所以なり。泰の雍州牧・相州都督・左武候大将軍を解き、降封して東萊郡王とせよ。
太宗はそこで侍臣に言う、「今より後、太子が道に背き、藩王が嗣位を窺う者は、両者ともに棄てる。これを子孫に伝え、永き制とせよ」と。まもなく泰を順陽王に改封し、均州の鄖郷県に移住させた。太宗は後に、かつて泰が上表した文書を持って近臣に言う、「泰の文辞は美しく麗しい、まさに才士ではないか。我が心中、泰を思うことは、卿らも知っている。しかし社稷の計のため、恩寵を断ち切り、外に居ることを責めたのも、また両全の策であった」と。二十一年、濮王に進封した。高宗が即位すると、泰のために開府し僚属を置き、車服や羞膳を特に優異に加えた。永徽三年、鄖郷で薨去した。三十五歳。太尉・雍州牧を追贈し、諡して恭といった。文集二十巻。子に欣・徽の二人。欣は嗣濮王に封ぜられ、徽は新安郡王に封ぜられた。欣は、則天武后の初めに酷吏の獄に陥り、昭州別駕に貶せられて卒した。子の嶠、本名は餘慶、中興(中宗復位)の初めに嗣濮王に封ぜられた。景雲元年、銀青光禄大夫を加えられた。開元十二年、国子祭酒・同正員となった。王守一の妹婿であったことで邵州別駕に貶せられ、鄧州別駕に移され、後にその爵位を回復した。
庶人祐
庶人祐は、太宗の第五子である。武徳八年、宜陽王に封ぜられ、その年に楚王に改封された。貞観二年、燕王に転封され、累遷して豳州都督となった。十年、斉王に改封され、斉州都督を授けられた。その舅の尚乗直長陰弘智が祐に言うには、「王には兄弟が多いので、陛下が百年の後になられたならば、必ず武士を自ら助けねばならない」と。そこでその妻の兄の燕弘信を引いて祐に謁見させた。祐は彼を厚く遇し、金帛を多く賜って、ひそかに剣士を募らせた。初め、太宗は子弟が成長したので、法度に背くことを憂慮し、長史・司馬には必ず正人を選んだ。王に過ちがあれば、皆上奏させた。ところが祐は群小に溺れ、特に弋猟を好んだ。長史薛大鼎がたびたび諫めたが聞き入れず、太宗は大鼎が輔導の術がないとして、ついに罪に坐して免官した。権万紀は以前に呉王恪の長史であったが、正直な節操があり、万紀を祐の長史として、これを匡正させた。万紀は祐の非法を見て、常に顔色を犯して厳しく諫めた。昝君謨・梁猛彪という者がおり、ともに善く騎射することを以て祐に寵愛された。万紀が急に諫めたが受け入れられず、ついに彼らを斥逐したが、祐はひそかに招き寄せ、親昵することますます甚だしかった。太宗は彼が悔い改められぬことを憂慮し、たびたび書を以て祐を責め譴責した。万紀はともに罪を得ることを恐れ、祐に言うには、「王は帝の愛子であり、陛下は王が改悔することを望んでおられるので、教訓を加えられたのである。もし身を整えて過ちを引き受けられれば、万紀が入ってこれを言上いたします」と。祐はこれにより付表して謝罪した。万紀が既に到着し、祐は必ず改過できると述べた。太宗の気持ちは少し解け、万紀を賜って諭し、なお祐の前の過ちを以て、勅書を下して誡めた。祐は万紀が労をねぎらわれて自分だけが責められたと聞き、己を売ったと思い、心中甚だ平らかでなかった。万紀の性質はまた偏狭で、専ら厳急を以てこれを維持し、城門の外には祐を出させず、所有の鷹犬をことごとく解放させ、また君謨・猛彪を斥逐して、祐と相見えることを許さなかった。祐および君謨はこれにより怒りを抱き、万紀を謀殺しようとした。ちょうど事が洩れ、万紀はことごとく捕らえて獄に繋ぎ、駅伝を発して奏聞した。十七年、詔して刑部尚書劉徳威を遣わしてこれを按問させ、ともに祐および万紀を追って入京させた。祐は大いに恐れ、まもなく万紀が詔を奉じて先に行くと、祐は燕弘信の兄弘亮を遣わして道で追い射殺させた。既に万紀を殺すと、君謨らは祐を勧めて起兵させ、城中の男子で十五歳以上の者を召し、偽って上柱国・開府儀同三司に任じ、官庫の物を開いて賞を行った。百姓を駆り立てて城に入れ、甲兵を繕った。官司を置き、その官に拓東王・拓西王の号があった。詔して兵部尚書李勣と劉威に便道より兵を発して討たせた。祐は毎夜弘亮ら五人を引いて妃と対し宴楽し、志を得たりと思った。戯笑の隙に、官軍のことに言及すると、弘亮は言うには、「憂えるに及ばず。右手に酒を持って啖い、左手に刀を以てこれを払う」と。祐は弘亮を愛信し、これを聞いて甚だ楽しんだ。太宗は手詔して祐に言うには、「吾は常に汝に小人に近づくなと誡めたが、正にこのためである。汝は素より誠徳に背き、重ねて邪言に惑わされ、自ら禍を招いて覆滅を取った。痛ましいことよ、なんと愚かなことか。ついには梟となり獍となり、孝を忘れ忠を忘れ、斉の郊を擾乱し、無罪の者を誅夷した。維城の固きを去り、積薪の危きに就き、盤石の親を壊し、尋戈の釁となった。かつ礼に背き義に違うことは、天地の容れざるところであり、父を棄て君を逃れることは、人神の共に怒るところである。かつては吾が子であったが、今は国の仇敵となった。万紀は生きては忠烈、死しては義に妨げず。汝は生きては賊臣、死しては逆鬼である。彼は嘉声衰えず、爾は悪跡窮まりなし。吾は鄭叔・漢戾がともに猖獗したと聞くが、どうして子を生んで自らこれを行うことを期したであろうか。吾が上は皇天に慚じ、下は后土に愧じ、嘆惋すること甚だしいのは、また何を言うべきか知らぬ」と。太宗は書を書き終え、これがために涙を流した。時に李勣らの兵は未だ斉の境に至らず、青・淄など数州の兵はともに祐の命に従わず、祐はまた檄を諸県に伝えたが、これも従わなかった。ある者が祐に勧めて城中の子女を虜にして豆子〓に走り込み盗賊となろうとしたが、計未だ決せずして兵曹杜行敏が祐を捕らえようと謀り、兵士多く従うことを願った。この夜、ついに垣を穿って入り、祐は弘亮ら五人とともに甲を披き弦を引き、室に入って自らを固めた。行敏は兵を列ねてこれを囲み、祐に言うには、「かつては帝子であったが、今は国賊となった。行敏は国のために賊を討つので、さらに顧みるところなく、王が速やかに降らなければ、灰燼となるであろう」と。薪草を命じて積み焚かんとし、祐はついに出て就擒し、余党ことごとく誅殺に伏した。行敏は祐を京師に送り、内省で死を賜い、庶人に貶された。国は除かれた。まもなく国公の礼を以て葬った。
蜀王愔
蜀王愔は、太宗の第六子である。貞観五年、梁王に封ぜられた。七年、襄州刺史を授けられた。十年、蜀王に改封され、益州都督に転じた。十三年、実封八百戸を賜い、岐州刺史を除かれた。愔は常に理に非ずして所部の県令を毆撃し、また畋猟に度なく、たびたび非法を行った。太宗は怒って言うには、「禽獣は調伏すれば、人に馴らすことができる。鉄石は鐫煉すれば、方円の器とすることができる。愔の如きに至っては、かつて禽獣鉄石にも及ばないのか」と。ついに封邑および国官の半ばを削り、虢州刺史に貶した。二十三年、実封を加えて満千戸とした。愔は州においてたびたび遊猟し、禾稼を避けず、深く百姓に怨まれた。典軍楊道整が馬を叩いて諫めると、愔は引きずってこれを捶った。永徽元年、御史大夫李乾祐に弾劾された。高宗は荊王元景らに言うには、「先朝は櫛風沐雨し、四方を平定し、遠近粛清し、車書混一した。上天が禍を降し、奄かに万邦を棄てられた。朕は洪業を纂承し、朽木を馭するに均しく懼れ、王と共に戚しみ同憂し、家のため国のためである。蜀王は畋猟に度なく、黎庶を侵擾し、県令・典軍は無罪にして罰せられた。阿諛すればすなわち喜び、意に忤えば便ち瞋る。このように官に居て、どうしてともに百姓を治められようか。歴観古来の諸王、もし能く動いて礼度に遵えば、則ち慶は子孫に流れ、条章に違越すれば、則ち誅罰は踵を旋らさず。愔は法司に弾劾されたが、朕は実にこれを恥ず」と。帝はまた楊道整を引見して労勉し、匡道府折衝都尉に拝し、絹五十匹を賜った。愔を黄州刺史に貶した。四年、恪と謀逆に坐し、庶人に黜けられ、巴州に徙居した。まもなく涪陵王に改めた。乾封二年に薨じた。咸亨初め、その爵土を復し、益州大都督を贈り、昭陵に陪葬し、謚して悼といった。子璠を封じて嗣蜀王とし、永昌年に配流して帰誠州で死んだ。神龍初め、呉王恪の孫朗陵王瑋の子榆を以て嗣蜀王とした。
蔣王惲
蔣王惲は、太宗の第七子である。貞観五年、郯王に封ぜられる。八年、洺州刺史を授かる。十年、蔣王に改封され、安州都督となり、実封八百戸を賜る。二十三年、実封を加えて満千戸となる。永徽三年、梁州都督を除かれる。惲は安州において、多くの器物や服玩を造り、また行こうとする時には、四百両の遞車があった。州県はその労役に堪えず、有司に弾劾されるが、帝は特にこれを宥す。後に遂州・相州の二州刺史を歴任する。上元年、ある人が闕に詣でて惲の謀反を誣告し、惲は惶懼して自殺し、司空・荊州大都督を贈られ、昭陵に陪葬される。子の煒が嗣ぎ、沂州刺史を歴任し、垂拱年中に則天に害せられる。子の銑は早卒する。神龍初年、銑の子の紹宗を嗣蔣王に封ずる。景龍二年、銀青光禄大夫を加えられる。開元初年、太子家令同正員として卒す。子の欽福が嗣ぎ、率更令・同正員となる。天宝初年に官を削られ、錦州に安置される。十二載、南郡長史同正となる。惲の子の煌は、蔡国公である。煌の孫の之芳は、幼より令誉あり、五言詩をよくし、宗室に推される。開元末に駕部員外郎となる。天宝十三載、安禄山が奏して范陽司馬とする。禄山が逆を起こすと、自ら抜けて西京に帰り、右司郎中を授かり、工部侍郎・太子右庶子を歴任する。広徳元年、兵革未だ清まらず、吐蕃また辺を犯し、原州・会州を侵軼す。乃ち之芳を御史大夫を兼ねて吐蕃に使わし、境上に留められ、二年にして帰る。礼部尚書を除かれ、尋いで太子賓客に改まる。惲の子に休道あり。道の子の琚は、本名を思順という。中興の時、嗣趙王に封ぜられ、銀青光禄大夫を加えられる。開元十二年、中山郡王に改封され、右領軍将軍となる。
越王貞
越王貞は、太宗の第八子である。貞観五年、漢王に封ぜられる。七年、徐州都督を授かる。十年、原王に改封され、尋いで越王に徙封され、揚州都督を拝し、実封八百戸を賜る。十七年、相州刺史に転ずる。二十三年、実封を加えて満千戸となる。永徽四年、安州都督を授かる。咸亨年中、また相州刺史に転ずる。貞は少より騎射を善くし、頗る文史に渉り、吏幹を兼ねる。所在において或いは偏に讒言を受け、官僚に正直なる者は多く貶退せられ、また諸僮豎を縦して部人を侵暴せしむ。ここにより人はその才を伏してその行いを鄙しむ。則天の臨朝に及び、太子太傅を加えられ、蔡州刺史を除かれる。則天が称制してより、貞は韓王元嘉・魯王霊夔・霍王元軌及び元嘉の子の黄国公譔・霊夔の子の范陽王藹・元軌の子の江都王緒並びに貞の長子の博州刺史琅邪王沖らと、密かに匡復の志あり。垂拱三年七月、譔が謬書を作り貞に与えて云う、「内人の病漸く重し、早く療すべきを恐る。若し今冬に至らば、痼疾と成るを恐る。宜しく早く手を下し、仍いで速やかに相報すべし。」この歳、則天は明堂の成るを以て、将に大享の礼を行わんとし、皇宗を追って集まらしむ。元嘉、因りて遞相に語りて云う、「大享の際、神皇必ず人を遣わして諸王の密を告げ、因りて大いに誅戮を行い、皇家の子弟遺種無からん。」譔、遂に詐りて皇帝の璽書を為り沖に与えて云う、「朕は幽縶せらる。王等宜しく各々我を救抜すべし。」沖は博州に在り、また偽りて皇帝の璽書を為りて云う、「神皇は李家の社稷を傾け、国祚を武氏に移さんと欲す。」遂に長史蕭徳琮らに命じて士卒を召募せしめ、分かちて韓・魯・霍・越・紀などの五王に報じ、各々兵を起こして応接せしめ、以て神都に赴かしむ。初め、沖は諸王と連謀す。沖の先発するに及びて応ずる者莫く、惟だ貞は父子の故を以て、独り兵を挙げてこれに応ず。尋いで兵を遣わして上蔡県を破る。沖の敗れたるを聞き、恐懼し、鎖を索めて自ら拘え馳驛して闕に詣で謝罪せんとす。会うところ、その署する新蔡令傅延慶が勇士二千余人を得たるにより、貞遂に拒敵の意あり。乃ちその衆に宣言して曰く、「琅邪王は已に魏・相数州を破り、兵を聚めて二十万に至り、朝夕に即ち到らん。爾宜しくこれを勉めよ。」属県の兵を征して七千人に至り、五営に分かつ。貞自ら中営と為り、その親しむ汝陽県丞裴守徳を大将軍・内営総管に署し、趙成美を左中郎将と為り左営を押さしめ、閭弘道を右中郎将と為り右営を押さしめ、安摩訶を郎将・後軍総管と為り、王孝志を右将軍・前軍総管と為る。また蔡州長史韋慶礼を銀青光禄大夫と為り、その府司馬を行わしむ。凡そ九品已上の官五百余人を署す。道士及び僧に命じて諸経を転読せしめ、以て事の集まるを祈り、家僮・戦士咸に符を帯びて兵を辟く。その署する官は皆迫脅して従わしめ、本より闘志無く、惟だ裴守徳のみ実にこれと同ず。守徳は驍勇にして騎射を善くし、貞将に事を起こさんとす、便ち女の良郷県主を以てこれに妻せ、而して爪牙心腹の任に委ぬ。
則天は左豹韜衛大将軍麹崇裕を中軍大総管とし、夏官尚書岑長倩を後軍大総管と命じ、兵十万を率いてこれを討たしめ、仍いで鳳閣侍郎張光輔を諸軍節度とす。ここにおいて制して貞及び沖の属籍を削り、姓を虺氏に改む。崇裕らの軍、蔡州城東四十里に至る。貞は少子の規及び裴守徳に命じて拒戦せしむ。規らの兵潰えて帰る。貞大いに懼れ、門を閉じて自ら守る。裴守徳、閣を排して入り、王の在る所を問う。意、貞を殺して自ら購わんと欲するなり。官軍、州城に進逼す。貞の家僮、悉く力を尽くして衛う。貞曰く、「事即ち此の如し、豈に戮辱を受くべきや、当に須らく自ら計るべし。」貞乃ち薬を飲んで死す。家僮方に始めて一時に散じ、仗を捨てて就擒す。規もまたその母を縊って自殺し、守徳は良郷県主を携えてまた別所に同じく縊死す。麹崇裕、貞父子及び裴守徳らを斬り、首を東都に伝え、闕下に梟す。貞の兵を起こすこと凡そ二十日にして敗る。貞の蔡州に在りし時、数え奏して所部の租賦を免じ以て人心を結び、家僮千人、馬数千匹あり、外は畋獵を托し、内は実に武備を習う。嘗て城西の水門橋に游び、水に臨みて自ら鑑みるに、その首を見ず。心甚だこれを悪む。未だ幾ばくもせずして禍に及ぶ。神龍初年、爵土を追復し、子の沖とともに旧姓に復す。初め、貞将に兵を起こさんとし、書を作りて寿州刺史・駙馬都尉趙瑰に与えて曰く、「佇ちて義兵を総べ、来たりて貴境に入らん。」瑰甚だ喜び、また兵を率いて相応ずるを許す。瑰の妻は常楽長公主、高祖の第七女、和思皇后の母なり。その使に謂いて曰く、「我がために越王に報ぜよ。その進むに与してその退くに与せず。爾ら諸王もし男児ならば、応に許時未だ挙動せざるに至るべからず。我れ常に耆老の云うを見る、隋文帝周室を篡奪せんとし、尉遅迥は周家の外甥なり、猶よく相州に兵を起こし、突厥に連結す。天下風を聞き、響応せざる莫し。況んや爾ら諸王は並びに国家の懿親、宗社は是れ托する所、豈に尉遅迥の恩に感じて節を効し、生を捨てて義を取るを学ばざらんや。夫れ臣子と為り、若し国家を救わば則ち忠と為り、救わざれば則ち逆と為る。諸王は須らく匡救を以て急と為すべく、虚しく生を浪し死し、後代に笑を取るべからず。」貞らの敗るるに及び、瑰と公主もまた誅せらる。
沖は、貞の長子である。文学を好み、騎射に長け、密州・済州・博州の三州刺史を歴任し、いずれも能ある名があった。初め、沖は博州で五千余人を募り、黄河を渡って済州を攻めようとし、まず武水県を取ろうとした。県令の郭務悌は魏州に赴いて援軍を請い、魏州莘県令の馬玄素が兵千七百人を率いて途中でこれを迎え撃とうとしたが、力が敵わないことを恐れ、先に武水城に入り、門を閉ざして守りを固めた。沖はそこで車上に草を積み、火を放って南門を焼き、火に乗じて突入しようと図った。火がまだ上がらないうちに、南風が甚だ急であったが、火が燃え上がると、急に北風に変わった。城門に至らないうちに、積んだ草はすでに焼け尽き、衝の軍はこれによって気力を喪った。堂邑丞の董玄寂が沖のために兵仗を統帥していたが、沖が武水を攻撃すると、玄寂は言った、「琅邪王が国家と交戦するとは、これは謀反である」と。沖はこれを聞き、玄寂を斬って衆に示した。兵衆は恐れて草沢に散り入り、制止することができず、ただ家僮や側近数十人に過ぎなかった。そこで退いて博州城に逃げ込んだが、守門者に殺された。則天は左金吾将軍の丘神勣を清平道行軍大総管に任じて沖を討たせたが、兵が未だ至らないうちに、沖はすでに死んでおり、首は東都に伝えられ、闕下に梟首された。沖の起兵は凡そ七日で敗れた。沖の三弟:倩は、常山公に封ぜられ、常州別駕を歴任し、父兄と連謀した罪に坐して誅殺された。温は、その朋党を告発して事実を得たため、死罪を減じられて嶺南に流され、まもなく卒した。神龍初年、侍中の敬暉らが、沖父子が皇室を翼戴し、義をもって社稷を存しようとしたことを理由に、その官爵を復するよう請うたが、武三思が昭容の上官氏に中宗の手詔を代作させて許さなかった。開元四年、詔して爵土を追復し、礼を備えて改葬するよう命じた。太常が謚議を奏して言うには、「故越王貞は、往時に宗社を匡さんと願い、夙に呂氏を誅する謀いを懐き、乃心王国にして、非劉氏を撃つ議を用いた。これによって罪を得、上は聖心を悼ませた。謹んで謚法を按ずるに『死して君を忘れざるを敬と曰う』とある。謚して敬と為すことを請う」と。これに従った。五年、詔を下して言うには、「九族を以て親しみ、よくその教えを敦くす。百代必ず祀り、まさにその徳を竟わす。故蔡州刺史・越王貞は、心を執って回らず、事に臨んで能く断ず。粤に藩国より自り、王家に勤む。弘道の後、宝図将に缺けんとす。劉章の漢を輔くるを懐い、鄭武の周を翊くすを追う。遂に能く身を顧みず奮い立ち、率先して義を唱う。英謀未だ克たずと雖も、忠節多くす。嗣絶え国除かれ、年二紀を逾え、奠享淪廃し、甚だ憫むところなり。永く興継を言い、式に典冊を備えん。貞の侄孫、故許王の男、左監門衛将軍・夔国公琳を封じて嗣越王と為し、以てその祀を奉ぜしむ。仍って官をして碑を立たしむ」と。琳はまもなく卒し、国は除かれた。
紀王慎
紀王慎は、太宗の第十子である。貞観五年、申王に封ぜられた。七年、秦州都督を授けられた。十年、紀王に改封され、実封八百戸を賜った。十七年、襄州刺史に遷り、善政をもって聞こえ、璽書をもって労勉され、百姓はそのために碑を立てた。二十三年、実封を加えて満千戸とした。永徽元年、左衛大将軍に拝された。二年、荊州都督を授けられ、累ねて刑州刺史を除かれた。文明元年、太子太師を加授され、貝州刺史に転じた。慎は少より学を好み、文史に長じ、皇族の中で越王貞と斉名し、当時の人は紀・越と号した。初め、貞が事を起こそうとした時、慎は同謀することを肯わなかった。貞が敗れた後、慎もまた獄に下された。臨刑の際に放免され、姓を虺氏に改め、なお檻車に載せられて嶺表に配流され、蒲州に至る途中で卒した。慎の長子、和州刺史東平王の続が最も知名で、早く卒した。次子の沂州刺史義陽王の琮、楚国公の睿、遂州別駕襄郡公の秀、広化郡公の献、建平郡公の欽ら五人、垂拱年中に並び遇害し、家属は嶺南に徙された。中興の初め、官爵を追復し、礼をもって改葬するよう命じた。慎の少子の鉄誠を封じて嗣紀王とし、後に名を澄と改めた。景雲元年、銀青光禄大夫を加えられた。開元初め、徳州・瀛州・冀州の三州刺史・左驍衛将軍を歴任し、薨じた。子の行同が嗣ぎ、天宝年中に右賛善大夫、同正員となった。
江王囂
江王囂は、太宗の第十一子である。貞観五年に封を受け、六年に薨じ、謚して殤といった。
代王簡
代王簡は、太宗の第十二子である。貞観五年に封を受け、その年に薨じ、後嗣なく、国は除かれた。
趙王福
趙王福は、太宗の第十三子である。貞観十三年に封を受け、隠太子建成の後を嗣いだ。十八年、秦州都督を授けられ、実封八百戸を賜った。二十三年、右衛大将軍を加えられ、累ねて梁州都督を授けられた。咸亨元年に薨じ、司空・并州都督を贈られ、昭陵に陪葬された。中興の初め、蔣王惲の孫の思順を封じて嗣趙王とした。
曹王明
曹王明は、太宗の第十四子である。貞観二十一年に封を受けた。二十三年、実封八百戸を賜い、まもなく加えて満千戸とした。顕慶年中、梁州都督を授けられ、後に虢州・蔡州・蘇州の三州刺史を歴任した。詔して巢剌王元吉の後を継がしめた。永崇年中、庶人賢と通謀した罪に坐し、零陵王に降封され、黔州に徙された。都督の謝祐が旨に阿り、脅迫して自殺させた。帝は深くこれを悼み、黔府の官僚は皆坐して免職となった。景雲元年、明の喪柩は京師に帰り、昭陵に陪葬された。二子あり、南州別駕零陵王の俊と黎国公の傑で、垂拱年中に並び遇害した。中興の初め、傑の子の胤を封じて嗣曹王とした。胤の叔父の備が南州より還り、また備を封じて嗣曹王・衛尉少卿・同正員とし、胤は遂に封を停められた。後に備が忠州の叛獠を招慰したが、賊に没し、また胤を封じて王・銀青光禄大夫・右武衛将軍とした。卒し、子の戢が嗣ぎ、左衛率府中郎将となった。卒し、子の皋が嗣いだ。皋は自ら伝がある。
【贊】
史臣が曰く、太宗の諸子の中で、呉王恪と濮王泰が最も賢かった。皆才高く弁悟であったが、長孫無忌に忌み嫉まれ、父子を離間され、たちまち豺狼の如きものとされ、無忌は家を破られたが、これ陰禍の報いではなかろうか。武后は王室を斫喪し、ひそかに鼎を移した。越王貞父子は痛憤し、義をもって全きを図らなかった。室を毀る悲しみ、『鴟鴞』の詩、傷ましいことよ。斉の祐の妄作に比べれば、豈に同年の語たるべきや。
贊して曰く、子弟藩を作し、磐石城を維ぐ。驕侈敗を取る、身に令名無し。沖・譔憤発し、死を視ること生の如し。承乾・斉祐、愚弟庸兄。