旧唐書
蘇世長(子は良嗣)
韋雲起(孫は方質)
孫伏伽・張玄素
蘇世長
蘇世長は、雍州武功の人である。祖父の彤は、後魏の直散騎常侍であった。父の振は、周の宕州刺史・建威県侯であった。周の武帝の時、世長は十余歳で、上書して事を言上した。武帝はその年少であることを以て、召して問うて曰く、「何の書を読むか」と。対えて曰く、「『孝経』・『論語』を読みます」と。武帝曰く、「『孝経』・『論語』は何を言うか」と。対えて曰く、「『孝経』に云う、『国を為す者は敢えて鰥寡を侮らず』と。『論語』に云う、『政を為すに徳を以てす』と」と。武帝はその対えを善しとし、獣門館において読書せしむ。その父が王事に没したるを以て、因って襲爵を命じ、世長は武帝の前に擗踴号泣し、武帝之が為に容を改む。隋の文帝が禅を受けると、世長はまた屡々便宜を上書し、頗る補益有り、長安令に超遷す。大業年中、都水少監となり、上江に使いして運を督む。会に江都の難起こり、世長は煬帝の為に発喪慟哭し、哀しみ路人を感ぜしむ。王世充が僭号し、署して太子太保・行台右僕射と為す。世充の兄の子弘烈及び将の豆盧褒と俱に襄陽を鎮む。時に弘烈は褒の女を娶りて妻と為し、深く相結托す。高祖は褒と旧有り、璽書を以て諭すも、従わず、頻りに使者を斬る。武徳四年、洛陽平らぎ、世長は首めて弘烈を勧めて帰降せしむ。既に京師に至るや、高祖は褒を誅し、世長を責めて来遅き故を問う。世長頓顙して曰く、「古より帝王命を受くるは、逐鹿の喩えを為す、一人之を得れば、万夫手を斂む。豈に鹿を得たる後に、同獵の徒を忿り、肉を争うの罪を問わんや。陛下は天に応じ人に順い、徳を布き恵を施す、又安んぞ管仲・雍歯の事を忘れ得んや。且つ臣は武功の士、乱離を経渉し、死亡略く尽き、惟だ臣の残命、聖朝を見るを得たり。陛下若し復た之を殺さば、是れ其の類を絶つなり。実に天恩を望み、遺種有らしめん」と。高祖は之と故有り、笑いて之を釈す。尋いで玉山屯監を授く。後に玄武門に引見し、語及び平生、恩意甚だ厚し。高祖曰く、「卿自ら諂佞か正直かと謂うや」と。対えて曰く、「臣は実に愚直なり」と。高祖曰く、「卿若し直ならば、何ぞ世充に背きて我に帰するや」と。対えて曰く、「洛陽既に平らぎ、天下一と為り、臣智窮き力屈し、始めて陛下に帰す。向使世充尚在せば、臣漢南に拠り、天意雖も帰する所有れども、人事足りて勍敵と為すべし」と。高祖大いに笑う。嘗て之を嘲りて曰く、「名は長く意は短く、口は正しく心は邪なり、忠貞を鄭国に棄て、信義を吾が家に忘る」と。世長対えて曰く、「名長意短は、実に聖旨の如し。口正心邪は、未だ詔を奉ぜず。昔竇融は河西を以て漢に降り、十世封侯せり。臣は山南を以て国に帰し、惟だ屯監を蒙るのみ」と。即日に擢びて諫議大夫に拝す。幸に従いて涇陽に校猟し、旌門に於いて禽獣を大いに獲る。高祖御営に入り、顧みて朝臣に謂いて曰く、「今日の畋は楽しむか」と。世長進みて曰く、「陛下遊猟し、万機を薄く廃し、十旬に満たず、大楽と為さず」と。高祖色変じ、既にして笑いて曰く、「狂態発するか」と。世長曰く、「臣の私計と為すは則ち狂、陛下の国計と為すは則ち忠なり」と。突厥入寇するに及び、武功郡県、多く戸口を失い、是の後詔を下して将に武功に幸して校猟せんとす。世長又諫めて曰く、「突厥初めて入り、大いに民害と為す。陛下救恤の道未だ発言せず、乃ち其の地に於いて又畋猟を縦す、仁育の心足らざる所有るのみならず、百姓供頓、将に何を以てか堪えん」と。高祖納れず。又嘗て之を披香殿に引きて、世長酒酣に、奏して曰く、「此の殿は隋の煬帝の作れるか。是れ何ぞ雕麗の若此のごときや」と。高祖曰く、「卿は諫を好むこと真に似たり、其の心実に詐なり。豈に此の殿は吾が造る所なるを知らざらんや、何ぞ須いん詭疑を設けて煬帝と言わん」と。対えて曰く、「臣は実に知らず。但だ傾宮鹿台琉璃の瓦を見るに、並びに命を受くる帝王の民を愛し用を節するの為す所に非ざるなり。若し是れ陛下の作る所ならば、誠に宜しからず。臣昔武功に在りし時、幸いに常に陪侍し、陛下の宅宇を見るに、纔かに風霜を蔽うのみ、当の此の時、亦以て足れりと為せり。今隋の侈に因り、民命に堪えず、数えて有道に帰し、而して陛下之を得たり、実に其の奢淫を懲らしめ、儉約を忘れざるを謂う。今初めて天下有り、而して隋宮の内に於いて、又雕飾を加え、其の乱を撥わんと欲するは、寧んぞ得べけんや」と。高祖深く之を然りとす。後に歴て陝州長史・天策府軍諮祭酒。秦府初めて文学館を開き、引きて学士と為す。房玄齢等一十八人と皆図画を蒙り、文学の褚亮に令して之が為に賛を為さしむ。曰く、「軍諮諧噱、超然弁悟。正色於庭、躬に匪ざるの故」と。貞観初、突厥に聘し、頡利と礼を争い、賂遺を受けず、朝廷之を称す。出でて巴州刺史と為り、舟覆きて水に溺れて卒す。世長は機弁有り学有り、博渉にして簡率、酒を嗜み、威儀無し。初め陝州に在りし時、部内多く法を犯すも、世長禁ずる能わず、乃ち躬を責めて咎を引き、自ら都街に於いて撻たる。伍伯其の詭を嫉み、鞭ちて血を見しむ。世長痛みに勝えず、大呼して走る。観者咸以て笑いと為し、議者方に其の詐を称す。
子 良嗣
子の良嗣が継ぎ、高宗の時に周王府司馬に遷る。王は時に年少にして、事を挙げるに法に従わず、良嗣は正色を以て匡め諫め、甚だ敬憚せらる。王府の官属は多くその人に非ず、良嗣は文を守りて檢括し、敢えて犯す者なく、深く高宗に称せらる。荊州大都督府長史に遷る。高宗、宦者をして江に沿いて異竹を採らしめ、将に苑中に植えんとす。宦者、舟を科して竹を載せ、所在に暴を縱ふ。還りて荊州を過ぐるに、良嗣これを囚へ、因りて上疏して切に諫め、稱して「遠方に珍異を求めて以て道路を疲れしむるは、聖人の己を抑へ人を愛するの道に非ず。又小人、竊に威福を弄びて、以て皇明を虧く」と。言甚だ切直なり。疏奏す、高宗、制を下して慰勉し、遽かに竹を江中に棄てしむ。永淳中、雍州長史となる。時に關中大飢し、人相食ひ、盜賊縱横す。良嗣、政を爲すに嚴明にして、盜發するも三日の内に擒はざる莫し。則天、朝に臨み、工部尚書に遷る。尋で王德真に代はりて納言と爲り、累ねて溫國公に封ぜらる。西京留守と爲り、則天、詩を賦して餞送し、賞遇甚だ渥し。時に尚方監裴匪躬、西苑を檢校し、将に苑中の果菜を鬻ぎて以て其の利を収めんとす。良嗣これを駁して曰く「昔、公儀、魯に相たりしも、猶ほ葵を拔き織を去る能く、未だ萬乘の主の、其の果菜を鬻ぎて以て下人と利を爭ふを聞かず」と。匪躬遂に止む。幾も無く、追ひて都に入り、文昌左相・同鳳閣鸞台三品に遷る。載初元年春、文昌左相を罷め、位を特進に加へ、仍ひ舊の如く政事を知る。地官尚書韋方質と協はず、方質事に坐して誅さるべく、辭に良嗣を引くに及び、則天特に保明す。良嗣、恩に謝し拜伏して、便ち復た起つ能はず、輿にて其の家に歸り、詔して御醫張文仲・韋慈藏をして往きて疾を視しむ。其の日薨ず、年八十五。則天、朝を輟むこと三日、觀風門に哀を舉げ、百官を敕して就きて宅に赴き吊せしむ。開府儀同三司、益州都督を贈り、絹布八百段・米粟八百碩を賜ひ、兼ねて璽書を降して弔祭す。其の子踐言、太常丞、尋で酷吏に陷れられ、嶺南に配流して死す。良嗣の官爵を追削し、其の家を籍没す。景龍元年、良嗣に司空を追贈す。
踐言の子務玄、爵の溫國公を襲ぎ、開元中、邠王府長史と爲る。
韋雲起
韋雲起は、雍州萬年の人である。伯父の澄は、武徳初年に国子祭酒・綿州刺史となった。雲起は、隋の開皇年間に明経に挙げられ、符璽直長に任ぜられた。かつて奏事の際、文帝が問うて曰く、「外間に不便な事があれば、汝は言うがよい」と。時に兵部侍郎柳述が帝の側にいたが、雲起は声に応じて奏して曰く、「柳述は驕慢で豪奢であり、未だ事を経たことがなく、兵機の要は重く、その任に堪える者ではない。ただ公主の婿であるというだけで、遂に要職に居る。臣は恐れる、物議が陛下が官を賢に択ばず、濫りに天秩を私愛に加えるとし、これも不便の大なる者なり」と。帝は甚だその言を然りとし、顧みて述に謂いて曰く、「雲起の言は、汝の薬石なり、師友とすべし」と。仁寿初年、詔して在朝の文武に人を挙げさせたところ、述は乃ち雲起を挙げ、進めて通事舎人に任ぜられた。大業初年、通事謁者と改めた。また上疏して奏して曰く、「今朝廷の内には山東の人が多く、而して自ら門戸を作り、更に相剡薦し、下に附き上を罔い、共に朋党を為す。その端を抑えざれば、必ず朝政を傾けん。臣が痛心扼腕し、黙して已む能わざる所以なり。謹んで朋党の人姓名及び奸状を件の如左にす」と。煬帝は大理に推究せしめたところ、ここに左丞郎蔚之・司隸別駕郎楚之、並びに朋党に坐し、配流して漫頭赤水とし、余り免官する者九人。会に契丹が営州に入り抄掠したので、詔して雲起に突厥兵を護り往きて契丹部落を討たしむ。啓民可汗は騎二万を発し、その処分を受く。雲起は二十営に分け、四道倶に引き、営は相去ること各一里、交雑することを得ず。鼓声を聞けば行き、角声を聞けば止まり、公使に非ざれば、走馬することを得ず。三令五申の後、鼓を撃って発し、軍中に約を犯す者あれば、紇幹一人を斬り、首を持して徇らしむ。ここに突厥の将帥来りて謁するに、皆膝行して股戦い、敢えて仰ぎ視る者なし。契丹は本より突厥に事え、情に猜忌無し。雲起は既にその界に入り、突厥に詐らしめて云わしむ、柳城郡に向かい高麗と交易せんと欲すと、営中に隋使有ることを言う勿れ、敢えて漏洩する者はこれを斬ると。契丹は備えず。賊営を去ること百里、詐りて南に引き渡り、夜また退き還り、営を去ること五十里、陣を結びて宿す。契丹はこれを知らず。既に明けて、倶に発し、騎を馳せてこれを襲い、その男女四万口を尽く獲る。女子及び畜産は半ばを以て突厥に賜い、余りは将に入朝せしめんとし、男子は皆これを殺す。煬帝は大いに喜び、百官を集めて曰く、「雲起は突厥を用いて契丹を平げ、行師奇譎にして、才文武を兼ね、また朝に立っては謇諤たり。朕今自らこれを挙ぐ」と。治書御史に擢でる。雲起は乃ち奏劾して曰く、「内史侍郎虞世基は、職枢要を典とし、寄任隆重なり。御史大夫裴蘊は、特蒙殊寵し、内外を維持す。今四方変を告ぐるも、奏聞せず、賊の数実に多きも、或いは減らして少なしと言う。陛下既に賊少なきを聞き、兵を発すること多からず、衆寡懸殊にして、往くも皆克つこと莫く、故に官軍をして利を失わしめ、賊党日に滋す。此れにして縄せざれば、害将に大ならん。請う有司に付し、その罪を詰正せしめよ」と。大理卿鄭善果奏して曰く、「雲起は名臣を詆訾し、言う所実ならず、朝政を毀り、妄りに威権を作す」と。ここに由りて左遷して大理司直とす。煬帝が揚州に幸するに、雲起は長安に帰ることを告げ、義旗の関に入るに属し、長楽宮に於いて謁見す。義寧元年、司農卿を授け、陽城県公に封ぜらる。武徳元年、上開府儀同三司を加授され、農圃監事を判ず。是歳、大いに兵を発して王世充を討たんと欲す。雲起上表して諫めて曰く、「国家は喪乱の後を承け、百姓流離し、未だ安養を蒙らず、頻年に熟せず、関内飢えに阻まる。京邑初めて平ぎ、物情未だ附かず、鼠窃狗盗、猶お国の憂いと為す。盩厔司竹、余氛未だ殄ぜず。藍田・谷口、群盗実に多し。朝夕間を伺い、極めて国の害と為す。京城の内と雖も、毎夜賊発す。北に師都有り、胡寇を連結す。斯れ乃ち国家の腹心の疾なり。此れを捨てて図らずして、兵を函・洛に窺わば、若し師出の後、内盗虚に乗じ、一旦変有らば、禍小さからず。臣謂う、王世充は遠く千里を隔て、山川懸絶し、害を為す能わず。余力有るを待ち、方にこれを討つべし。今内難未だ弭がず、且つ宜しく度外に弘むべし。臣が愚見の如くは、請う暫く兵を戢え、務めて穡し農を勧め、人を安んじ衆を和す。関中の小盗、自然に寧息せん。秦川の将卒、勇を賈うに余り有り。三年の後、一挙にして便ち定まれり。今速からんと欲すと雖も、臣恐らくは未だ可ならずと」と。乃ちこれに従う。会に突厥が入寇するに、詔して雲起に総領せしめて豳・寧已北九州の兵馬を、便宜に事を行わしむ。四年、西麟州刺史を授け、司農卿は故の如し。尋いで趙郡王孝恭に代わりて夔州刺史と為り、転じて遂州都督と為り、夷獠を懐柔し、皆衆心を得たり。益州行台民部尚書に遷り、尋いで行台兵部尚書に転ず。行台僕射竇軌は多く殺戮を行い、また妄りに獠の反を奏し、兵を集め得んことを冀う。此れに因りて威を作し、その凶暴を肆にす。雲起は多く執して従わず。雲起また私産を営み、生獠と交通し、以てその利を規る。軌もまた衆に対してこれを言う。ここに由りて隙を構え、情相猜貳す。隠太子の死するや、勅して軌の息を遣わし馳驛して益州に詣り軌に報ぜしむ。軌は乃ち雲起の弟慶儉・堂弟慶嗣及び親族並びに東宮に事うるを疑い、その状を聞けば或いは将に変を為さんことを慮り、先ず備えを設けて後にこれを告ぐ。雲起果たして信ぜず、問うて曰く、「詔書は何処に在るか」と。軌曰く、「公は建成の党なり。今詔を奉ぜず、同じく反するは明らかなり」と。遂に執してこれを殺す。初め、雲起の年少の時、師事して太学博士王頗にす。頗は毎にこれと時に言及びして、甚だ嘉嘆し、乃ちこれに謂いて曰く、「韋生の識悟かくの如し、必ず自ら富貴を取らん。然れども剛腸にして悪を嫉み、終に当に此れを以て身を害せん」と。竟に頗の言の如し。子の師実、垂拱初年、官は華州刺史・太子少詹事に至り、扶陽郡公に封ぜらる。
師実の子の方質は、則天の初め鸞台侍郎・地官尚書・同鳳閣鸞台平章事となった。時に『垂拱格式』を改修するに、方質は多く損益し、甚だ時人に称せらる。俄かに武承嗣・三思が朝に当たり用事す。諸宰相皆これに傾附す。方質は疾みて仮す。承嗣等が宅に詣り疾を問うに、方質は床に拠りてこれが為に礼せず。左右云う、「権貴に踞して見ゆれば、恐らくは危禍を招かん」と。方質曰く、「吉凶は命なり。大丈夫豈に節を折り曲げて近戚に事え、以て苟も免れんことを求むべきや」と。尋いで酷吏周興・来子珣の構うる所と為り、配流して儋州とし、仍ってその家を籍没す。尋いで卒す。神龍初年に雪免せらる。
孫伏伽
孫伏伽は、貝州武城の人である。大業の末、大理寺史より累補して萬年県法曹となった。武徳元年、初めて三事を以て上諫す。その一に曰く、
臣聞く、天子に諍臣有れば、道無きも其の天下を失わず;父に諍子有れば、道無きも不義に陥らざるなり。故に云う、子は父に諍わざるべからず、臣は君に諍わざるべからずと。此れを以て言えば、臣の君に事うるは、猶お子の父に事うるが故なり。隋の後主の天下を失う所以は、何ぞや?只だ其の過ちを聞かざるを為すのみ。当時直言の士無きに非ず、君の諫を受けず、自ら徳は唐堯に盛んにして、功は夏禹を過ぐと謂い、窮侈極欲して、以て其の心を恣にす。天下の士、肝脳地に塗れ、戸口減耗し、盗賊日滋すも、而して覚知せざる者は、皆朝臣の敢えて之を告げざるに由るなり。向使ひ厳父の法を修め、直言の路を開き、賢を選び能に任じ、賞罰中を得ば、人々業を楽み、誰か能く動揺せしめんや?所以に前朝の好んで変更を為し、古訓に師せざる者は、只だ天其の咎を誘い、将に以て今の聖唐を開かんと為すなり。陛下龍挙して晉陽に起ち、天下響應し、計旋踵せずして、大位遂に隆し。陛下唐の天下を得る易きを以て、隋の之を失う難からざるを知らざる勿れ。陛下貴きこと天子たり、富むこと天下を有ち、動けば則ち左史之を書き、言えば則ち右史之を書く。既に竹帛に拘わるるを為す、何ぞ恣情に慎まざるを得んや?凡そ搜狩有るは、須らく四時に順うべし、既に天に代わりて理むるに、安んぞ時に非ずして妄りに動かんや?陛下二十日に龍飛し、二十一日に鷂雛を献ずる者有り、此れ乃ち前朝の弊風、少年の事務、何ぞ忽ち今日之を行わんや!又聞く、相国参軍事盧牟子琵琶を献じ、長安県丞張安道弓箭を献じ、頻りに賞労を蒙る。但し「普天の下、王土に非ざる莫く;率土の濱、王臣に非ざる莫し」、陛下必ず欲する所有らば、何を求めて得ざらん?陛下の少き所は、豈に此の物ならんや!願わくは陛下臣が愚忠を察せられよ、則ち天下幸甚なり。
其二に曰く、
百戲散楽は、本より正声に非ず、隋の末に有りて、大いに崇用を見る、此れを淫風と謂い、改めざるべからず。近くは、太常官司人間に於いて婦女の裙襦五百余具を借り、以て散妓の服に充て、云う五月五日に玄武門に於いて遊戲せんと擬すと。臣窃かに思審す、実に皇猷を損ない、亦た厥の子孫に貽り謀り、後代の法と為すに非ざるなり。故に《書》に云う「小怨を以て傷無しと為して去らざる無かれ」と。小より大に至るを恐るるが故なり。《論語》に云う「鄭声を放ち、佞人を遠ざけよ」と。又云う「楽すれば則ち《韶》を舞わす」と。此れを以て言えば、散妓は定めて功成の楽に非ざるなり。臣が愚見の如くは、請う並びに之を廃せよ。則ち天下勝えず幸甚なり。
其三に曰く、
臣聞く、性相近くして習相遠し、其の好む所に相染うを以てす。故に《書》に云う「治と道を同じくすれば罔弗興び、乱と事を同じくすれば罔弗亡ぶ」と。此れを以て言えば、興乱其れ斯に在るか!皇太子及び諸王等の左右の群僚は、択ばずして之に任ずべからざるなり。臣が愚見の如くは、但だ是れ義無きの人、及び先来無頼にして、家門邕睦すること能わず;及び奢華馳獵馭射を好み、専ら慢游狗馬・声色歌舞を作す人の類は、親しみ近づくべからざるなり。此等は只だ耳目を悦ばしめ、駆馳に備うるに足れり、拾遺補闕に至りては、決して為す能わざるなり。臣歴に往古を窺い、下りて近代を観るに、子孫孝ならず、兄弟離間するに至るは、左右の之を乱さざる莫し。願わくは陛下妙に賢才を選び、以て皇太子の僚友と為せよ、此くの如く即ち盤石を克隆し、永く維城を固くせん。
高祖之を覧めて大いに悦び、詔を下して曰く「秦は其の過ちを聞かざるを以て亡び、典籍豈に先誡無からんや?臣僕諂諛す、故に之を覚えざるなり。漢高祖反正し、諫に従うこと流るるが如し。洎乎文・景業を継ぎ、宣・元緒を承く、斯の道に由らずして、孰れか景祚を隆んぜん?周・隋の季、忠臣舌を結び、一言邦を喪す、諒に深く誡むるに足る。永く此に言い、常に深く嘆息す。朕毎に寡薄を惟み、恭しく宝命を膺け、性を天道と与にする能わざるも、庶幾くは力を勉め、常に弼諧を冀い、以て不逮を匡えんとす。而るに群公卿士、罕に直言を進めず、将に虚受の懐を申さんとすれども、物未だ諭せず。万年県法曹孫伏伽、至誠慷慨にして、詞義懇切、得失を指陳し、回避する所無し。不次の挙無くんば、何を以て利行の益を貽さん!伏伽既に諒直を懐けり、宜しく憲司に処すべし、治書侍御史と為すべし。仍て遠近に頒示し、朕が意を知らしめよ」と。兼ねて帛三百匹を賜う。時に軍国多事、賦斂繁重、伏伽屡たび奏請して改革を請う、高祖並びに之を納る。二年、高祖裴寂に謂いて曰く「隋末無道、上下相蒙り、主は則ち驕矜し、臣は惟だ諂佞す。上過ちを聞かず、下忠を尽くさず、至って社稷を傾危せしめ、身匹夫の手に死す。朕乱を撥きて反正し、志は人を安んずるに在り、乱を平ぐるは武臣に任じ、成を守るは文吏に委ね、庶幾くは各器能を展べ、以て不逮を匡えんとす。比毎に虚心接待し、冀くは讜言を聞かんとす。然れども惟だ李綱善く忠款を尽くし、孫伏伽誠直と謂うべく、余人猶お弊風を踵き、俯首するのみ、豈に朕の望む所ならんや!」と。及び王世充・竇建德を平げ、天下を大赦し、既にして其の党与を責め、並びに配遷を令す。伏伽表を上りて諫めて曰く、
臣聞く、王言に戯れ無し、是れ自古の格言;食を去りて信を存す、旧典に聞く。故に《書》に云う「爾信無からば、朕食言せず」と。又《論語》に云う、一言口を出せば、駟も舌に及ばずと。此れを以て論ずれば、言の口を出すは、慎まざるべからざるなり。伏して惟うに、陛下区宇に光臨し、群生を覆育し、率土の濱、誰か臣妾に非ざらん。絲綸一たび発すれば、万方に信を取らしめ、之を聞く者疑わず、之を見る者惑わざらしむ。陛下今月二日雲雨の制を発し、黔黎に光被し、間然する所無く、公私頼むに蒙る。既に常赦免れざるも、皆赦除すと云う、此れ直ちに其の罪有るを赦すのみに非ず、亦た天下と断当し、其の更新を許すなり。此れを以て言えば、但だ赦後は、即ち便ち事無し。何に因りて王世充及び建德の部下、赦後に乃ち之を遷さんと欲するや?此れは陛下自ら本心に違い、下人を遣わさんと欲して若為くんば取則せん?若し子細に推尋せんと欲せば、逆城の内、人誰か罪無からん?故に《書》に云う「厥の渠魁を殲し、脅従は罔治せよ」と。若し渠魁を論ずれば、世充等を首と為す、渠魁尚お免る、脅従何の辜か有らん?且つ古人云う「蹠の狗堯に吠ゆるは、蓋し其の主に非ざるなり」と。東都城内及び建徳の部下に於いては、乃ち陛下と小故旧を積み、編髮の友朋有るも、猶尚有人敗後始めて至る者有り。此等豈に陛下を忘れんや、皆壅せらるるに由ると云うなり。此れを以て言えば、外自ら疏なる者は、窃かに罪無しと謂う。又《書》に云う「之を知るは艱しからず、之を行うは惟だ艱し」と。上古以来、何の代に君無からん、所以に只だ堯・舜の善を称するは、何ぞや?直ちに天子と為る者は実に難く、善名得難きが故なり。往者天下未だ平らかならず、威権須らく機に応じて作すべし;今四方既に定まり、法を設くるは須らく人と之を共にすべし。但だ法は、陛下自ら之を作り、還た之を守り、天下の百姓をして信じて之を畏れしむべし。今自ら信無きを為し、兆人を遣わさんと欲して若為くんば信畏せん?故に《書》に云う「偏無く党無ければ、王道蕩蕩たり;党無く偏無ければ、王道平平たり」と。賞罰の行わるるは、貴賤に達し、聖人法を製するは、親疏を限せず。臣が愚見の如くは、世充・建德の下の偽官、赦を経て責情を免くべく、配遷せんと欲する者は、請う並びに之を放て、則ち天下幸甚なり。
また上表して諫官を置くことを請うたが、高祖は皆これを受け入れた。
太宗が即位すると、楽安県男の爵位を賜った。貞観元年、大理少卿に転じた。太宗がかつて馬射を行ったとき、伏伽は上書して諫めて言うには、「臣は聞く、千金の子は堂の端に坐せず、百金の子は衡に倚りて立たずと。これによって言えば、天下の主が危険を踏み危難に乗ずることはできないのは明らかである。臣はまた聞く、天子の居るところは禁衛九重、その動くときは出には警蹕を設け入には蹕を清むと。これは極めてその居処を尊ぶためではなく、社稷と生民のための大計である。故に古人は言う、『一人に慶あれば、兆人のこれに頼る』と。臣は窃かに聞く、陛下がなお自ら走馬して射帖し、近臣を楽しませておられると。これは禁なくして危険に乗ずることであり、窃かに陛下が取られないことを願う。なぜか。一つには史冊を輝かすものではなく、二つには顕揚に足りず、また聖体を導き養う所以でもなく、後代に範を垂れることもできない。これはただ少年の諸王の務めるところであり、既に天子となられた今日、なおこれを行われるべきであろうか。陛下たとえ自らを軽んじようとも、社稷と天下はどうなさるおつもりか。臣の愚見では、窃かに不可と考える」と。太宗はこれを見て大いに喜んだ。五年、囚人を奏上するのに誤り失があったため免官された。まもなく起用されて刑部郎中となり、累進して大理少卿に至り、民部侍郎に転じた。十四年、大理卿に任ぜられ、後に出て陝州刺史となった。永徽五年、年老いて致仕した。顕慶三年に卒した。
張玄素
張玄素は蒲州虞郷の人である。隋の末年に景城県の戸曹となった。竇建徳が景城を攻め落とすと、玄素は捕らえられ、殺されようとしたとき、県民千余人が号泣してその命に代わることを請い、言うには、「この人はかくも清廉で慎み深い。今もし殺せば、天が無いことになる。大王は天下を定めようとされるなら、深く礼を加えて接し、四方を招くべきである。どうして殺して善人を離散させようとするのか」と。建徳は急いで釈放を命じ、治書侍御史に任じようとしたが、固辞して受けなかった。江都が守られなくなると、また召して黄門侍郎に任じ、ようやく命に応じた。建徳が平定されると、景城都督府録事参軍を授けられた。太宗はその名を聞き、即位すると召し出して政道について問うた。答えて言うには、「臣が観るに、古来隋室ほどに喪乱の甚だしいことはなかった。これはその君が自ら専断し、その法が日に乱れたからではないか。もし君主が上で虚心に受け、臣下が下で過ちを補えば、どうしてここに至ったであろうか。また万乗の重きをもって、さらに自ら庶務を専断し、一日に十事を断じて五条も当たらず、当たったものは確かに善いが、当たらなかったものはどうするのか。況や一日万機、すでに多く欠失があり、日を継ぎ月を重ねて累年に至れば、乖謬既に多く、滅亡を待つのみである。もし広く賢良を任用し、高く居て深く視、百官が職を奉じれば、誰が敢えてこれに犯されようか。臣はまた隋末の沸騰を観るに、天下に及び、天下を争う者は十数人に過ぎず、その他は皆邑を保ち身を全うし、有道に帰することを思っていた。これによって知るに、人が主に背いて乱を為そうとする者は少なく、ただ人君がこれを安んじられないために、遂に乱に至るのである。陛下もし近く危亡を覧て、一日慎むこと一日のごとくならば、堯舜の道もどうしてこれに加えられようか」と。太宗はその答えを善しとし、侍御史に抜擢して任じ、まもなく給事中に遷った。貞観四年、詔して士卒を発し洛陽宮の乾陽殿を修築し、巡幸に備えようとした。玄素は上書して諫めて言うには、
微臣窃かに考えるに、秦始皇が君たる所以は、周室の余勢と六国の盛勢を藉り、万葉に伝えようとしたが、その子の代に亡んだのは、まさに嗜欲を逞しくし、天に逆らい人を害したからである。これによって知るに、天下は力で勝つべからず、神祇は親しみ恃むべからず、ただ儉約を弘め、賦斂を薄くし、終わりを始めの如く慎むことによって、永く固く保つことができる。今まさに百王の末を承け、凋弊の余に属する時、必ずや礼制によってこれを節すべきであり、陛下は身をもって先んずべきである。東都には未だ幸する期がなく、何ぞ補葺を須いよう。諸王は今皆出藩しており、また営構を須いる。興発漸く多くなるは、疲れた人々の望むところであろうか。これが一に不可である。陛下が初めて東都を平定されたとき、層楼広殿は皆撤去せよと命じられ、天下は一致して同心に至徳を欣び仰いだ。どうして初めはその侈靡を憎み、今になってその雕麗を襲うことがあろうか。これが二に不可である。毎度音旨を承るも、未だ即座に巡幸されない。これは不急の務めを事とし、虚費の労を成すことである。国に二年分の蓄積が無いのに、何ぞ両都の壮麗を用いよう。労役過度であれば、怨讟起こらんとす。これが三に不可である。百姓は乱離の後を承け、財力は凋み尽き、天恩の含育によってかろうじて存立しているが、飢寒はなお切実で、生計は未だ安からず、三五年の間には恐らく平復しないであろう。どうして未だ幸せざる都を営み、疲れた人々の力を奪おうとするのか。これが四に不可である。昔、漢高祖が洛陽に都せんとしたとき、婁敬の一言によって即日に西駕した。地が土中で貢賦の均しいことを知らなかったわけではないが、ただ形勝が関内に及ばないからである。伏して惟うに、陛下が凋弊の人を化し、澆漓の俗を革されることは、日尚浅く、未だ甚だ淳和ではない。事柄を斟酌すれば、どうして東幸できようか。これが五に不可である。臣はまたかつて隋室が殿を造ったときのことを見たが、楹棟は宏壮で、大木は近隣にあるものではなく、多くは豫章から採って来た。二千人が一柱を曳き、その下に轂を施したが、皆生鉄で作られており、もし木輪を用いれば、直ちに火が出た。鉄轂は既に用いられ、一二里行くごとに破損し、なお数百人が別に鉄轂を携えて従い、終日でも三二十里進むに過ぎなかった。略計して一柱で既に数十万の功を用い、その他の費用はまたこれを過ぎた。臣は聞く、阿房宮が成れば秦人は散り、章華台が成れば楚の衆は離れ、乾陽殿が完工すれば隋人は解体すると。かつ陛下の今時の功力は、隋の日に比べてどうか。瘡痍の人を役し、亡隋の弊を襲う、これによって言えば、恐らくは煬帝よりも甚だしい。深く願わくは陛下がこれを考えられ、由余に笑われることなきを。そうすれば天下幸甚である。
太宗は言った、「卿は朕が煬帝に及ばないと言うが、桀や紂と比べてどうか」。答えて言うには、「もしこの殿がついに興されれば、いわゆる乱に同帰するということです。かつ陛下が初めて東都を平定されたとき、太上皇は大殿高門は皆焼き払うべきと勅されましたが、陛下は瓦木が用に足りるとして、焼くべきでないと請い、貧しい人々に賜おうとされました。事は行われませんでしたが、天下は一致して至徳を謳歌しました。今もし旧制に従えば、すなわち隋の役が復興することになります。五六年の間に、趣向が頓に異なること、どうして子孫に示し、四海に光を敷くことができましょうか」。太宗は嘆いて言った、「朕は考えず、遂にここに至った」。顧みて房玄齢に言った、「洛陽は土中にあり、朝貢の道が均しいので、朕は故に修営し、百姓の便を図ろうとした。今玄素が上表したことは、実に依るべきであり、後日必ず事理によって行う必要があれば、露坐することもまた何の苦しみがあろうか。すべての作役は宜しく即座に停めるべし。しかし卑しい者が尊い者に干すことは、古来容易ならざることであり、その忠直でなければ、どうしてこのようでありえようか。彩二百匹を賜うべし」。侍中魏徴は嘆じて言った、「張公が事を論ずるや、遂に天を回す力あり。仁人の言うこと、その利博大なりと言えよう」。累進して太子少詹事となり、右庶子に転じた。
時に承乾は春宮に居り、頗る遊猟を以て学を廃す。玄素上書して諫めて曰く、「臣聞く、皇天は親無く、惟だ徳是れ輔く。苟くも天道に違わば、人神同じく棄つ。然れども古の三駆の礼は、殺すを教えんと欲するに非ず、将に百姓の為に害を除かんとす。故に湯は一面を羅し、天下仁に帰す。今苑中の娛獵は、名は遊猟に異なると雖も、若し之を行ふに常無くば、終に雅度を虧かす。且つ傅説曰く、『学びて古に師せざれば、説の聞く所に匪ず。』然らば則ち道を弘むるは古を学ぶに在り、古を学ぶは必ず師訓を資とす。既に恩詔を奉じて、孔穎達に侍講せしむ。望むらくは数たび存問して、以て万一を補はんことを。仍りて博く名行有る学士を遣はし、兼ねて朝夕侍奉せしむ。聖人の遺教を覧、既に行はれたる往事を察し、日に其の足らざる所を知り、月に其の能くする所を忘るること無からしむ。此れ則ち善を尽くし美を尽くす、夏啓・周誦、焉んぞ言ふに足らんや。夫れ人上たる者は、其の善を求めざる者未だ有らず。但だ性を以て情に勝たず、耽惑して乱を成す。耽惑既に甚だしければ、忠言遂に塞がる。是を以て臣下苟くも順ひ、君道漸く虧く。古人言有り、『小悪を以て去らずと為すこと勿れ、小善を以て為さずと為すこと勿れ。』故に禍福の来るは、皆漸より起るを知る。殿下地は儲両に居り、須らく広く嘉猷を樹つべし。既に好畋の淫有り、何を以て斯の匕鬯を主たんや。終りを慎むこと始めの如くすれば、猶ほ漸衰を懼る。始め尚ほ慎まず、終り将に何を以て安んぜんや」と。尋で又た太子少詹事を兼ぬ。十三年、又た上書して諫めて曰く、「臣聞く、周公は大聖の材を以てすら、猶ほ髮を握り飧を吐き、白屋を引納す。況や後の聖賢、敢へて斯の道を軽んぜんや。是を以て礼は皇太子の入学して歯胄を行ふを制し、太子をして君臣・父子・長幼の道を知らしめんと欲す。然れども君臣の義・父子の親・尊卑の序・長幼の節は、之を用ふるに方寸の内に在り、之を弘むるに四海の外に在りて、皆行ひを因りて以て遠く聞こえ、言を仮りて以て光被す。伏して惟ふに殿下の睿質既に隆し、尚ほ学文を須ひて以て其の表を飾るべし。孔穎達・趙弘智等の至れるは、惟だ宿徳の鴻儒なるに非ず、亦た政要に達するを兼ぬ。望むらくは数たび侍講を得しめて、物理を開釈し、古を覧て今を諭し、睿徳に暉を増さしめんことを。而して彫蟲の小伎の流は、只だ時に命じて追随せしめ、以て博弈に代ふるのみ。若し其の騎射畋游・酣歌戲玩、以て耳目を悦ばしめ、終に心神を穢すは、漸染既に久しく、必ず情性を移す。古人言有り、『心は万事の主たり、動いて節無ければ即ち乱る。』臣恐らくは殿下の徳を敗るの源、此れに在らんと。承乾並びに納るる能はざりき。太宗玄素の東宮に在りて頻りに進諫有るを知り、十四年、擢で銀青光禄大夫を授け、行って太子左庶子と為す。時に承乾久しく朝に坐せず、玄素諫めて曰く、「宮内に止むる所は婦人のみ。樊姬の徒の如き、与に聖徳を弘益する者有るを知らず。若し遂に賢哲無くば、便ち是れ嬖倖を親しみ、忠良を遠ざく。人徳を見ず、何を以て三善を光敷せん。且つ宮儲の寄は、国に於て重し。是を以て広く群僚を置き、以て睿徳を輔く。今乃ち動もすれば時月を経て、宮臣を見ず。納誨既に疎く、将に何を以て闕を補はん」と。承乾其の数たび諫むるを嫉み、戸奴を遣はして夜に馬撾を以て之を撃たしむ。殆ど死に至る。承乾又た嘗て宮中に於て鼓を撃ち、声外に聞こゆ。玄素閣を叩きて請見し、極言切諫す。承乾乃ち宮内の鼓を出だし、玄素に対し之を毀つ。是の歳、太宗嘗て朝に対し玄素に歴官の由を問ふ。玄素既に刑部令史より出づ。甚だ以て慚恥す。諫議大夫褚遂良上疏して曰く、「臣聞く、君子は人に言を失はず、聖主は臣に戯言せず。言へば則ち史之を書し、礼之を成し、楽之を歌ふ。上に居りて能く其の臣を礼すれば、臣始めて能く力を尽くして以て其の上に奉ず。近代宋孝武軽言肆口し、朝臣を侮弄し、其の門戸を攻めて、乃ち狼狽に至る。良史之を書して、是に非ずと為す。陛下昨見て張玄素に問ひて云く、『隋に何の官に任ぜしか』と。奏して云く、『県尉』と。又問ひて云く、『未だ県尉と為さざる以前は』と。奏して云く、『流外』と。又問ひて云く、『何の曹司に在りしか』と。玄素将に閣門を出でんとし、殆ど歩を移す能はず、精爽頓に尽き、色死灰に類す。朝臣之を見て、多く驚怪する所有り。大唐創めて暦を立て、官を任ずるに才を以てす。卜祝庸保も、能を量りて使用す。陛下玄素を礼重し、頻年任使し、擢で三品を授け、皇儲を翼賛せしむ。自ら群臣に対し、更に其の門戸を窮め、昔日の殊恩を棄て、一朝の愧恥を成すべからず。人君の臣下を御するや、礼義を以て之を導き、恵沢を以て之を駆り、其の玄天を負戴し、臣節を罄輸せしむるも、猶ほ徳礼加はらず、人自ら励まざるを恐る。若し故無く忽略し、其の羞慚せしめ、懐に鬱結し、衷心楽しまずして、其の節を伏し義に死するを責むるは、其れ得可けんや」と。書奏す。太宗遂良に謂ひて曰く、「朕も亦た此の問を悔ゆ。今卿の疏を得て、深く我心に会す」と。承乾既に徳を敗る日増し、玄素又た上書して諫めて曰く、
臣は聞く、孔子が云う、「能く近きを取りて譬うるは、仁の方なりと謂うべきなり」と。然れども『書経』『伝記』に載せる所のものは、その言或いは遠く、近き事を尋ね覧れば、得失ここに存す。周の武帝が山東を平定し、宮室を卑くし食を菲くして、以て海内を安んずるに至りては。太子贇は挙措に端なく、穢れたる徳日々に著し。烏丸軌その不可なるを知り、具に武帝に言う。武帝は慈仁にして、その漸く改まるを望む。践祚に及ぶに至りては、狂暴にして情を肆にし、区宇崩離し、宗祀覆滅す。即ち隋の文帝の代わる所のこれなり。文帝は周の衰弱に因り、女資に憑藉す。天下に大功無きといえども、然れども徳を布き仁を行い、足らく万姓の頼む所と為す。勇は太子と為り、能く近く君父の節儉に遵うことなく、而して務めて驕侈にす。今の山池の遺蹟は、即ち殿下の親しく睹る所のこれなり。この時も亦た君親の恩を恃み、自ら泰山の固きを謂う。豈に邪臣敢えてその説を進むるを知らんや。向使ひ動静常有り、進退度に合い、君子に親しみ、小人を疎んじ、浮華を捨て、恭儉を尚ばば、邪臣有りてこれを間うとも、何ぞ能く慈父の隙を致さん。豈に積徳未だ弘からず、令聞著わさず、讒言一たび至りて、遂にその禍を成すに由らざらんや。窃かに惟うに、皇儲の寄する所、荷戴殊に重し。もしその積徳弘からずんば、何を以て成業を嗣ぎ守らん。聖上は殿下に親しきは則ち父子、事は家国を兼ね、用うべき所の物を、節限せず。恩旨未だ六旬を逾えずして、用物已に七万を過ぐ。驕奢の極み、孰かこれに過ぐると云わん。龍楼の下には、惟だ工匠を聚むるのみ。望苑の内には、賢良を睹ること無し。今孝敬を言えば則ち視膳問安の礼を闕き、恭順を語れば則ち君父慈訓の方に違ひ、風声を求めれば則ち学を愛し道を好むの実無く、挙措を観れば則ち因縁誅戮の罪有り。宮臣正士は、未だ嘗て側に在らず。群邪淫巧は、昵近深宮す。愛好する者は皆游手雑色、施与する者は併せて図画彫鏤。外に在りて瞻仰すれば、已にこの失有り。中に居りて隠密なれば、寧んぞ勝て計はんや。宣猷禁門は、閛闠に異ならず。朝に入り暮に出で、穢声已に遠し。臣は徳音日々に損ずるを以て、頻りに諫書を上る。爾来より、縦逸尤も甚だし。右庶子趙弘智は経明行修し、当今の善士なり。臣毎に奏請し、数たび召し進めて、之と談論せんことを望み、庶幾くば徽猷を広めん。令旨反って猜嫌有り、臣の妄りに相推引すと謂う。善に従うこと流るるが如くするも、尚お逮ばざるを恐る。非を飾り諫を拒めば、必ず敗損を招かん。方に閉塞の源を崇め、欽明の術を慕わず。睿哲の資を抱くといえども、終に罔念の咎に罹らん。古人云う、「苦薬は病に利あり、苦言は行いに利あり」と。伏して惟うに、安きに居りて危きを思ひ、日一日に慎まんことを。
書入るも、承乾納れず、乃ち刺客を遣わして将に屠害を加えんとす。俄かに宮廃せらるるに属し、玄素例に随ひて史を除かる。十八年、起して潮州刺史を授け、転じて鄧州刺史と為る。永徽中、年老を以て致仕す。龍朔三年、銀青光禄大夫を加授す。麟徳元年卒す。
史臣曰く
史臣曰く、伏伽は高祖に疏を上り、玄素は太宗に言を進む。疏賤より以て至尊に干し、切直を懐きて以て正理を明らかにす。至難と謂うべきなり。既にして並びに抽奨を見、咸く顧遇を蒙る。自ら下情忠到ならずんば、躬を匪るの節を效し、上聴聰明ならずんば、流るるが如きの美を致さずんば、孰か能く此に至らんや。『書経』に曰く、「木は縄に従えば則ち正しく、後は諫に従えば則ち聖なり」と。これを斯に謂う。世長は幼くして聰悟、長じて能く規諫す。雲起は朋党を屏絶し、驕豪を罔避す。歴覧言行、咸く観るべき有り。然れども雲起は吐茹方無く、世長は終に詭詐を成す。その令ならざるも宜なるかな。方に諸す孫・張の二子に、知及ばざるを知る。
賛して曰く、言は身の文なり、義を感じて身を忘る。忠膽有らざれば、安んぞ軽く逆鱗せん。蘇・韋は果して俊なり、伽・素は忠純なり。主を悟らし失を匡し、猗なるかな諍臣。