旧唐書 列伝第二十四 劉洎 馬周 崔仁師

旧唐書

列伝第二十四 劉洎 馬周 崔仁師

劉洎

劉洎、字は思道、荊州江陵の人である。隋末、蕭銑に仕えて黄門侍郎となった。銑は嶺表の地を攻略させ、五十余城を得たが、還らぬうちに銑は敗れ、そこで得た城をもって国に帰順し、南康州都督府長史を授けられた。貞観七年、累進して給事中に任じられ、清苑県男に封ぜられた。十一年、治書侍御史に転じた。上疏して言う。

尚書省は万機を扱い、まことに政務の根本である。この選任を尋ね求めるに、授受は誠に難しい。それゆえ八座(尚書令・左右僕射・六部尚書)は文昌星に比せられ、二丞(左右丞)は管轄に準えられ、さらに曹郎(郎中・員外郎)に至っては上は列宿に応じる。もし職にふさわしからずば、位を窃むと讒りを招く。伏して見るに、近ごろ尚書省では詔勅が滞り、文案が停滞している。臣は誠に庸劣ではあるが、その源を述べさせていただきたい。貞観の初め、令・僕(尚書令・左右僕射)がまだ置かれなかった頃、当時の省務は煩雑で、今より倍以上多かった。左丞戴胄・右丞魏徴はともに吏務に通達し、質性は平直で、事を弾劾・挙奏すべき時は、何ら憚るところがなかった。陛下もまた恩慈をもって彼らを信頼され、自然と人々を粛然とさせた。百官が懈怠しなかったのは、これによるのである。杜正倫が右丞を継いだ時も、かなり部下を厳しく督励した。近ごろ綱紀が挙がらないのは、みな勲功ある者や親族がその位にあり、その品がその任にふさわしくなく、功績と勢力が互いに傾軋するからである。官僚たる者はみな、公道に従わず、たとえ自ら奮起しようとしても、まず讒謗を恐れる。それゆえ郎中は抑圧されて、ただ諮問・稟議することのみに専念し、尚書は依違して、決断することができない。あるいは上奏を憚り、故意に滞らせる。案はすでに道理が尽きているのに、なおさらに下僚に回して検討させる。去るに期限がなく、来るに遅れを責めず、一度手を経れば、すぐに年月を跨ぐ。あるいは上意を窺って実情を失い、あるいは嫌疑を避けて道理を抑える。勾当の役所は案が成立すれば事が済んだとして、是非を究めようとせず、尚書は便佞を以て奉公とし、当否を論じようとしない。互いに姑息にし、ただ事を糊塗することに務める。そもそも賢を選び能に任ずるのは、材なき者を挙げることはできず、天の仕事を人が代行するのであるから、どうして妄りに加えることができようか。懿戚や元勳に対しては、ただその礼秩を優遇し、あるいは年老いて耄及し、あるいは病を積んで智が昏んでいるならば、時宜に益するところがなく、閑逸に致すべきである。久しく賢路を妨げるのは、まことに不可である。この弊を救おうとするならば、まず四員(左右丞・左右司郎中)を精選すべきである。左右丞・左右司郎中がもしともに適材を得れば、自然と綱紀はおおよそ挙がり、また奔競の風も矯正されるであろう。ただその滞りを止めるのみではない。

上疏してほどなく、尚書右丞に任じられた。十三年、黄門侍郎に遷った。十七年、銀青光禄大夫を加授され、まもなく散騎常侍に除かれた。洎は性が疎放峻厳で敢えて言うところがあった。太宗は王羲之の書に巧みで、特に飛白を善くした。かつて三品以上の者を玄武門に宴し、帝は筆を執って飛白の字を群臣に賜った。ある者は酒に乗じて帝の手から争って取ろうとしたが、洎は御座に登って手を伸ばしてそれを得た。皆が奏して言うには、「洎が御床に登ったのは、罪は死に当たります。法に付するよう請います。」帝は笑って言うには、「昔、婕妤が輦を辞したと聞くが、今、常侍が床に登るのを見た。」まもなく黄門侍郎を摂行し、上護軍を加えられた。

太宗は議論を巧みにし、毎に公卿と古道について言及する時は、必ず詰難を往復させた。洎は上書して諫めて言う。「帝王と凡庶、聖哲と庸愚とは、上下懸隔し、比類することは絶えている。これによって知るに、至愚をもって至聖に対し、極卑をもって至尊に対し、ただ自ら奮起しようと思っても、得られないのである。陛下が恩旨を降し、慈顔を仮り、旒を凝らしてその言を聴き、襟を虚しくしてその説を納れられるのでさえ、なお群下が敢えて対揚しないことを恐れるのに、ましてや神機を動かし、天辯を縦にして、辞を飾ってその理を折り、古を援いてその議を排し、凡庶にどうして応答の階梯を与えられようか。臣は聞く、皇天は無言を以て貴しとし、聖人は不言を以て徳とし、老君は大辯は訥の如しと称し、莊生は至道は文なしと称する。これらは皆、煩わすことを欲しないのである。斉侯が書を読むと、輪扁が窃かに笑い、漢皇が古を慕うと、長孺が譏りを陳べた。これもまた労することを欲しないのである。かつ多く記憶すれば心を損ない、多く語れば気を損なう。心気内に損なわれ、形神外に労すれば、初めは覚えなくとも、後には必ず累いとなる。社稷のために自ら愛すべきであり、どうして性の好みのために自ら傷つけようか。窃かに思うに、今日の昇平は、皆陛下が力行されたことによるのであり、これを長久にしようとするには、辯博によるのではない。ただ彼の愛憎を忘れ、この取捨を慎み、毎事惇朴にして、至公でないことがなければ、貞観の初めのようでよいのである。秦政の強辯は、自矜によって人心を失い、魏文の宏才は、虚説によって衆望を損なった。これが才辯の累いであることは、明らかに知ることができる。伏して願わくは、この雄辯を略し、浩然として気を養い、あの緗図(書物)を簡略にし、淡泊として自ら怡しみ、固く万寿を南嶽に保ち、百姓を東戸(太平の世)に斉しくせられんことを。そうすれば天下幸い甚だしく、皇恩は尽きるであろう。」手詔で答えて言う。「慮なくしては下に臨むことができず、言なくしては慮を述べることができない。近ごろ談論があり、ついに煩多に至った。物を軽んじ人に驕るのは、恐らくこの道によるのであろう。形神心気は、これによって労するのではない。今、讜言を聞き、虚懐をもって改める。」時に皇太子が初めて立てられ、洎は賢を尊び道を重んずべきであると考え、上書して言う。

臣が聞くに、四方を郊外で迎えることは、孟侯がそれによって徳を成す所以であり、三度譲って学問を始めることは、元良がこれによって貞をなす由縁である。これらは皆、君主の祭祀の尊厳を屈して、下と交わる義理を明らかにするものである。故に、草刈りの者の言葉さえも悉く推薦され、聡明な問いが広く通じ、軒庭を出ずして、天壌のことを坐して知るのである。この道に従うことによって、鴻基を永く固くする者である。そもそも太子は、宗廟の祭祀を継ぐ者であり、善悪の分かれ目に、興亡がかかっている。始めに勤めなければ、終わりに悔いることになろう。この故に、晁錯は上書して、まず政術に通ずることを命じ、賈誼は献策して、礼教を前もって知ることに務めたのである。ひそかに思うに、皇太子は孝友仁義に篤く、明らかで誠実であり、皆天与の資質から秀でており、審らかに諭す労を要しない。固より華夷ともにその徳を仰ぎ、飛ぶもの泳ぐものもその風を慕っている。されば、寝門で食事の様子を見ることは、すでに三朝において表れている。芸宮で道を論ずることは、四術において広めるべきである。春秋に富み盛んであるとはいえ、身を修めるには漸進があり、実に歳月が易く過ぎ去り、業を堕として誹りを招くことを恐れる。宴安に適することを取り、まさにここから始まろうとしている。臣は愚かで見識が短く、幸いにも侍従に加わり、離明を広めたいと思い、径術を聞きたいと願う。故事を曲げて陳べることは敢えてせず、聖徳をもって言うことを請う。伏して惟うに、陛下は聡明を誕し図録を受け、登用され歴試された。多才多藝であり、道は時を匡うることに著しく、允文允武であり、功は祭祀を継ぐことに成った。万方はすでに秩序を得、九囲は清く宴らかである。なおかつ、休むといえども休まず、日々慎み、振古に異聞を求め、当年にえい思を労される。乙夜に書を観ることは、漢帝よりも事績が高く、馬上で巻を披くことは、魏の文帝よりも勤勉である。陛下がこのように自ら励まれるのに、太子を優遊して日を棄てさせ、図書を習わせないのは、臣が理解できない一である。これに加えて、機務を暫く屏けるや、すなわち彫虫の技に寓する。天文に宝思を綜べれば、長河はその輝きを隠し、仙札に玉字を摛れば、流霞は彩りを成す。固より万代を錙銖し、百王の冠冕たり、屈原・宋玉では堂に昇るに足らず、鍾繇・張芝ではどの階を以て入室せん。陛下がこのように自ら好まれるのに、太子が悠然と静処し、篇翰を尋ねないのは、臣が理解できない二である。陛下は衆妙を歴められ、寰中に独秀されるが、なお天聴を晦まし、凡識に俯して詢ね、朝廷を聴く隙に、群官を引見し、温顔をもって降り、今古について訪ねられる。故に朝廷の是非、里閭の好悪、凡そ巨細あるものは、必ず聴覧に関わらせる。陛下がこのように自ら好まれるのに、太子を久しく入朝させて趨侍させ、正人と接しないのは、臣が理解できない三である。陛下もし無益とお考えなら、何事を労神されるのか。もし有成とお考えなら、宜しく貽厥を申し述べるべきである。蔑ろにして急がれないのは、その可なるを見ない。伏して願わくは、睿範を俯して推し、訓戒を儲君に及び、良書を授け、嘉客をもって楽しませ給え。朝に経史を披き、前蹤に成敗を観、夕に賓游に接し、当代に得失を訪う。間に書札を交わし、継いで篇章をなせば、日に未だ聞かざる所を聞き、日に未だ見ざる所を見るであろう。副徳はますます光り、群生の福となる。古の太子は、安否を問うて退き、君父に対する敬いを広める所以であり、異宮に処して、嫌疑を分かつ所以である。今、太子は一度天闈に侍すれば、動きは旬朔に及び、師傅以下は、接見する由もない。仮令、供奉に隙あって、暫く東宮に還るも、拜謁は既に疎く、且つ事は欣仰にあり、規諫の道は、固より未だ暇あらざる所である。陛下は親しく教えることができず、宮采は以て進言する由もなく、具僚あれども、竟に何を補わん。伏して願わくは、前躅に俯して循い、下流を稍々抑え、遠大の規を弘め、師友の義を展べ給え。然らば儲徽はよく茂り、帝図はここに広く、凡そ黎元に在る者、孰れか慶び頼らざらん。

この詔勅により、劉洎は岑文本と馬周とともに日を交替して東宮に赴き、皇太子と談論することとなった。太宗はかつて苑西の守監穆裕を怒り、朝堂で斬ることを命じたが、皇太子は急ぎ進諫した。太宗は司徒長孫無忌に言った。「人は長く相処すれば、自然と染まり習うものである。朕が天下を臨御して以来、虚心正直であれば、すなわち魏徵が朝夕進諫した。魏徵が亡くなってからは、劉洎、岑文本、馬周、褚遂良らがこれを継いだ。皇太子は幼い頃朕の膝元にあり、毎度朕が心から諫言を喜ぶのを見て、昔から染まって性を成したので、固より今日の諫言があるのだ。」十八年、侍中に遷った。太宗はかつて侍臣に言った。「人臣が帝王に対するには、多くは旨に順って逆らわず、甘言をもって容れられんとする。朕が今問いを発するのは、己の過ちを聞きたいからであり、卿らは朕の過失を言わねばならない。」長孫無忌、李勣、楊師道らは皆言った。「陛下の聖化によって太平が致され、臣らはその失を見ません。」劉洎が対えて言った。「陛下の教化は万古に高く、誠に無忌らの言う通りです。しかし、近頃上書した者が旨に合わない場合、あるいは面と向かって窮しく詰問され、慚じて退く者なく、これは言を進める者を奨励する道ではないかと恐れます。」太宗は言った。「卿の言う通りである。卿のために改めよう。」

太宗が遼東に征するにあたり、劉洎に高士廉、馬周とともに留まって皇太子を輔翼し定州で監国させ、なお左庶子・検校民部尚書を兼ねさせた。太宗は劉洎に言った。「朕は今遠征するが、卿に太子を輔翼させよう。社稷の安危の機は、寄せられる所が特に重い。卿は深く朕の意を識るべきである。」劉洎が進んで言った。「願わくは陛下御心配なきように。大臣に過失ある者は、臣は謹んで即時に誅します。」太宗はその妄発を以て、頗る怪しみ、言った。「君密ならざれば則ち臣を失い、臣密ならざれば則ち身を失う。卿の性は疎にして太だ健やかである。これによって敗を取ることを恐れる。深く誡慎し、以て終吉を保つべきである。」十九年、太宗が遼東から還り、定州を発ち、道中で御不例であった。劉洎と中書令馬周が入って謁見した。劉洎と馬周が出ると、褚遂良が伝えて起居を問うた。劉洎は泣いて言った。「聖体に癰を患われ、極めて憂懼すべきです。」褚遂良が誣奏して言った。「劉洎は言いました。『国家の事は慮るに足らず、正に少主を傅いて伊尹・霍光の故事を行い、大臣に異志ある者を誅すれば、自然と定まるであろう』と。」太宗の病気が癒えた後、詔してその故を問うた。劉洎は実情をもって答え、また馬周を引き合いに出して自らの潔白を明らかにした。太宗が馬周に問うと、馬周の答えは劉洎の陳べたことと異ならなかった。褚遂良がまた執拗に証言をやめなかったので、ついに劉洎に自尽を賜った。劉洎は臨終に際し、紙筆を請うて奏上したいことがあると言ったが、憲司は与えなかった。劉洎が死んだ後、太宗は憲司が紙筆を与えなかったことを知り、怒って、併せて属吏に命じた。劉洎の文集十巻は、当時に行われた。則天が臨朝すると、その子の弘業が上言して、劉洎が褚遂良の讒言によって死んだと述べた。詔してその官爵を復することを命じた。

馬周

馬周、字は賓王、清河郡茌平県の人である。幼くして孤貧であり、学を好み、特に『詩経』・『春秋伝』に精通したが、落拓として州里に敬われなかった。武徳年間、博州の助教に補せられたが、日に醇酎を飲み、講授を事としなかった。刺史の達奚恕が屡々咎責を加えたので、馬周はついに衣を払って曹・汴の地に遊び、また浚儀県令の崔賢に辱められたので、感激して西に長安へ遊んだ。新豊の旅館に宿ると、主人は諸々の商販に供するのみで馬周を顧みなかった。そこで酒一斗八升を命じ、悠然と独り酌をしたので、主人は深く異とした。京師に至り、中郎将常何の家に寄宿した。貞観五年、太宗が百官に上書して得失を言わせた。常何は武吏で経学に渉らなかったので、馬周は常何のために便宜二十余事を陳べ、これを奏上させたところ、事柄は皆旨に合った。太宗はその才能を怪しみ、常何に問うた。常何は答えて言った。「これは臣の能くする所ではなく、家客の馬周が草稿を作りました。毎度臣と語るに、未だ嘗て忠孝を意としないことはありませんでした。」太宗は即日に彼を召した。未だ到らぬ間に、使者を遣わして催促すること数四に及んだ。謁見すると、語り合って甚だ悦び、門下省に直らせた。六年、監察御史に授けられ、奉使して旨に称した。帝は常何が人を得て挙げたことを以て、帛三百匹を賜った。この年、馬周は上疏して言った。

微臣は経史を読むごとに、前賢の忠孝の事跡を見るにつけ、臣は小人ながらも、ひそかに大道を希求し、巻を閉じて長く思いを馳せ、その跡を踏むことを思わないことはなかった。臣は不幸にして早く父母を失い、犬馬の養いを施すべき機会は既にない。顧みて将来なすべきことは、ただ忠義のみである。ここをもって二千里を徒歩して自ら陛下のもとに帰参した。陛下は臣の愚昧・盲目を顧みず、過分にも取り立ててくださった。ひそかに顧みるに、謝恩の機会もなく、ただ微躯と丹誠を以て、陛下の御選択を待つのみである。臣が拝見するに、大安宮は宮城の西にあり、その牆宇宮闕の規模は、紫極殿と比べれば、なお卑小である。臣が考えるに、東宮たる皇太子の御宅でさえ、なお城中にあるのに、大安宮は至尊(太上皇)の御在所でありながら、さらに城外にある。太上皇が道素に心を遊ばせ、清儉を志しておられるとはいえ、陛下が慈旨に逆らい難く、人力を愛惜されるとしても、蕃夷の朝見および四方の観聴には、不足があろう。臣は雉堞を営築し、門楼を修起し、高く顕著にするよう努め、万方の望みに応えられたい。そうすれば大孝は天下に明らかとなろう。臣はまた、明敕により二月二日に九成宮に行幸されることを拝見した。臣がひそかに考えるに、太上皇は春秋既に高く、陛下は朝夕御膳を視、晨昏起居をすべきである。今行幸される宮は京より三百余里離れており、鑾輿が動き出し、厳蹕が旬日を経るならば、旦暮に至ることはできない。太上皇がもし思慕の情を催され、直ちに陛下に会いたいと思われた時、どうして応じられようか。また車駕が今出発されるのは、本来暑さを避けるためである。それなのに太上皇はなお暑い所に留まり、陛下は自ら涼しい所に赴かれる。温凊の道について、臣はひそかに不安を覚える。しかし敕書は既に出され、事は既に成っている。速やかに帰還される期日を示され、衆人の惑いを解かれることを願う。臣はまた詔書を見た。宗室勳賢に藩部を鎮守させ、その子孫に伝え、その政を嗣がせ守らせ、大故がない限り、罷免しないというものである。臣がひそかに考えるに、陛下が封植されるのは、誠に彼らを愛し重んじ、その胤裔に承け継がせ守らせ、国とともに無窮であらしめたいからであろう。臣は詔旨の通りであるならば、陛下は彼らを安存させ富貴させる方法を考えるべきであり、それならばどうして代官を用いる必要があろうか。なぜならば、堯・舜のような父でも、なお丹朱・商均のような子がいるからである。もし幼い子供が職を嗣いだ場合、万一驕慢愚昧であれば、兆民はその災いを受け、国家はその敗亡を蒙る。まさにこれを絶とうとすれば、子文の治績はなお存する。まさにこれを留めようとすれば、欒黶の悪行は既に顕れている。現存する百姓に毒害を及ぼすよりは、むしろ既に亡き臣に恩を断たせる方が、明らかである。それでは先に愛するといったことが、かえって彼らを傷つけることになる。臣は茅土を賦与し、戸邑を世襲させ、必ず材行ある者を、器量に応じて授けるべきであると考える。そうすれば、たとえその羽翼が強くなくとも、罪過に陥ることを免れ得る。昔、漢の光武帝が功臣に吏事を任せなかったのは、その世代を終わりまで全うさせた所以であり、まことにその術を得ていたのである。願わくは陛下はこの事を深く考えられ、彼らが大恩を奉じ、子孫がその福祿を終えるようにされたい。臣はまた、聖人が天下を化するには、孝を基としないことはないと聞く。故に「孝は厳父より大なるは莫く、厳父は天に配するより大なるは莫し」といい、また「国の大事は、祀と戎とに在り」という。孔子もまた「吾祭に預からざるは祭らざるが如し」と言われた。これが聖人が祭祀を重んじる所以である。伏して考えるに、陛下が践祚されて以来、宗廟の享祀に、未だ親しく行なわれたことはない。伏して推測するに、聖情としては、ただ鑾輿を一度出すだけで、労費がやや多いため、孝思を忍んで、百姓の便を図られたのであろう。しかしそれによって一代の史書に、皇帝が廟に入る事が記されないならば、どうして子孫に謀を伝え、来葉に則を垂れることができようか。臣は知る、大孝は誠に俎豆の間に在るものではないが、聖人の人を訓えるには、己を屈して時に従うことがある。願わくは聖慈、愚かな誠意を顧み省みられたい。臣はまた、化を致す道は賢を求め官を審ぶるに在り、政を為す基は清きを揚げ濁りを激するに在ると聞く。孔子は「ただ名と器のみは、以て人に仮すべからず」と言われた。これは挙げることを慎むことが重んじられるという言葉である。臣が拝見するに、王長通・白明達は本来楽工・輿皁の雑類であり、韋槃提・斛斯正はさらに他の才能がなく、ただ馬を調教することだけを知っている。たとえその術が同輩を超え、技芸に取り得るものがあっても、しばらくは厚く錢帛を賜い、その家を富ませることはできよう。どうして士流に列し、高爵を超授することができようか。それによって朝会の位において、万国が来庭する中で、騶子・倡人が、玉を鳴らし履を曳き、朝賢君子と比肩して立ち、同坐して食することになる。臣はひそかにこれを恥じる。しかし朝命は既に下り、たとえ追うことができないとしても、朝班に在らせず、士伍に預からせないのがよいと考える。

太宗は深くこれを容れられた。まもなく侍御史に任じ、朝散大夫を加えられた。十一年、馬周はまた上疏して言った。

臣が歴代を観察するに、夏・殷から漢氏に至るまで天下を有した者は、帝位を伝え継ぎ、長い者は八百余年、短い者でもなお四、五百年続いた。いずれも徳を積み業を重ね、恩沢が人心に結びついたためである。邪な君主がなかったわけではないが、先哲ののこ徳によって免れたのである。魏・晋以降、周・隋に至るまで、長い者でも六十年を超えず、短い者はわずか二、三十年で滅亡した。まことに創業の君主が、広く恩化を施すことに努めず、当時はかろうじて自らを守るのみで、後世に遺すべき徳がなかったためである。故に帝位を継いだ君主の時代に、政教が少し衰えると、一人の者が大声をあげれば天下は土崩するのであった。今、陛下は大功をもって天下を平定されたが、積まれた徳の日は浅い。固より禹・湯・文・武の道を盛んにし、徳化を広く施し、恩沢に余裕を持たせ、子孫のために万代の基を立てることを考えねばならない。ただ政教に過失がなく、当世を保つことだけを望むべきではあるまい。しかし、古来の明王聖主は、人に応じて教えを設け、寛厳を時宜に合わせたが、要はみな自らを倹約し、人に恩を加えるこの二つに努めたのである。故にその下の者は日月のようにこれを愛し、雷霆のようにこれを畏れた。これが帝位が長く続き、禍乱が起こらなかった所以である。今、百姓は喪乱の後にあり、隋の時代と比べて十分の一にすぎない。しかるに官への供役は道路に相継ぎ、兄は出て弟は帰り、絶えることがない。遠い者は往来五、六千里、春夏秋冬、ほとんど休む時がない。陛下はたびたび恩詔を下してこれを減省せよと命じられるが、役所の仕事は廃されず、自然に人を要するので、文書を出すだけで、従来通りに使役している。臣がたびたび尋ねるに、四、五年このかた、百姓はしばしば怨嗟の言葉を口にし、陛下が自分たちを養っておられないと思っている。昔、唐堯は茅葺きの屋根に土の階段、夏禹は粗末な衣服に質素な食事であった。このようなことは今では再び行えないと臣は知っている。漢文帝は百金の費用を惜しみ、露台の工事を中止し、上書の袋を集めて宮殿の帷とし、寵愛する慎夫人の衣は地を引かなかった。景帝に至っては、錦繡や組紐が女工を妨げるとして、特に詔してこれを除かせた。これによって百姓は安楽であった。孝武帝に至っては、奢侈を極めたが、文・景の遺徳を承けたので、人心は動揺しなかった。もし高祖の後にすぐに武帝がいたならば、天下は必ず全うできなかったであろう。これは時代が近く、事跡が見えるところである。今、京師および益州などの諸所で、供奉の器物を造営し、また諸王・妃・主の服飾について、議論する者はみな倹約とは思っていない。臣は聞く、早朝から大いに顕れる(勤勉であっても)、後世になればなお怠るものである。理に基づいて法を作っても、その弊害はなお乱れるものである。陛下は若くして民間におられ、百姓の辛苦を知り、前代の成敗を目でご覧になった。それでもなおこのような有様である。皇太子は深宮に育ち、外の事柄に通じていない。すなわち、陛下が万歳の後、必ずや聖慮に憂うべきこととなるであろう。臣が歴代以来のことを探るに、ただ黎民が怨み叛き、盗賊となって集まる時、その国は即時に滅びないことはなく、人主がたとえ改悔しても、再び安泰にすることができた者はない。およそ政教を修めるには、修めることができる時に修めるべきであり、事変が起こってから後悔しても益はない。故に人主は前代の滅亡を見るたびに、その政教が失われた原因を知るが、みな自らの過失には気づかない。だから殷の紂王は夏の桀王の滅亡を笑い、周の幽王・厲王もまた殷の紂王の滅亡を笑った。隋のよう帝も大業の初めにまた斉・魏の国を失ったことを笑った。今、煬帝を見るのは、煬帝が斉・魏を見たのと同じである。故に京房が漢の元帝に言った、「臣は後世が今を見るのも、今が古を見るのと同じであろうことを恐れます」と。この言葉は戒めとせねばならない。かつて貞観の初めは、天下が荒廃し貧しく、一匹の絹でようやく一斗の米を得るほどであったが、天下は平穏であった。百姓は陛下が自分たちを深く愛し憐れんでおられることを知っていたので、人々自ら安んじ、少しも誹謗の言葉はなかった。五、六年前から、連年豊作で、一匹の絹で粟十余石を得るのに、百姓はみな陛下が自分たちを憂い憐れんでおられないと思い、怨言がある。また、今営んでいることは、多くが不急の務めだからである。古来、国の興亡は蓄積の多少によるのではなく、ただ百姓の苦楽による。かつ近事をもってこれを験すと、隋は洛口倉に貯え、李密がこれを利用した。東都には布帛を積み、王世充がこれを占拠した。西京の府庫もまた国家の用に供され、今に至るまで尽きていない。もし洛口・東都に粟帛がなかったならば、王世充・李密は必ずしも大衆を集められなかったであろう。ただ貯積することは固より有国の常事であるが、要は人が余力があってから収めるべきであり、人が労苦しているのに強いて徴収すべきであろうか。かえって敵に資するだけで、積んでも益はない。しかし、倹約をもって人を休ませることは、貞観の初めに陛下がすでに自ら行われたことである。故に今行うのは難しくない。一日これを行えば、天下は知り、歌い舞うであろう。もし人がすでに疲労しているのに使い続ければ、仮に中国に水旱の災害があり、辺境に戦乱の憂いがあり、狂狡の徒がこれに乗じてひそかに挙兵すれば、測り知れない事態が起こり、ただ聖躬が遅くまで食事や就寝を忘れるだけでは済まない。古語に言う、「人を動かすには行いをもってし、言葉をもってせず、天に応ずるには実をもってし、文飾をもってせず」と。陛下の明をもって、誠に政事に励精しようとされるなら、遠く上古の術を採る煩わしさはなく、ただ貞観の初めに及べば、天下は幸いである。昔、賈誼が漢の文帝に言った、慟哭し長嘆息すべきこと、とは、韓信が楚王となり、彭越が梁王となり、英布が淮南王となった時、文帝が天子の位に即いたならば、必ず安泰ではいられなかったであろう、ということであった。また、諸王が年少で、傅相がこれを制したからよかったが、成長した後は必ず禍乱が生じるであろう、と言った。歴代以来、みな賈誼の言葉を正しいとした。臣がひそかに観るに、今の諸将功臣、陛下とともに天下を定めた者は、みな成規を仰ぎ奉り、鷹犬の用を備えるだけで、威略が主君を震撼させ、韓信・彭越のように制御し難い者はない。そして諸王はみな年が幼少であり、たとえ成長しても、陛下の御世の間は必ず異心はないであろう。しかし、万代の後は考えねばならない。漢・晋以来、天下を乱した者は、いずれも諸王ではなかったか。みな樹立安置が適宜でなく、あらかじめ節制を加えなかったために、滅亡に至ったのである。人主はよくこのことを知っているが、ただ私愛に溺れるため、前の車が転覆したのに後の車が轍を改めないのである。今、天下の百姓は極めて少なく、諸王は甚だ多い。寵遇の恩は、厚すぎるものがある。臣の愚慮は、ただ彼らが恩を恃んで驕慢になることを憂えるだけではない。昔、魏の武帝が陳思王(曹植)を寵愛したが、文帝が即位すると、防守禁閉し、獄囚のごとくにした。先帝が恩を加えすぎたため、嗣王が疑い畏れたのである。これは武帝が寵愛したことが、かえって彼を苦しめたのである。かつ帝子はどうして富貴でないことを憂えようか。大国の租税を食み、封戸も少なくない。美衣美食の外に、さらに何を要するというのか。しかるに毎年別に優れた賜物を加え、限りがない。俚諺に言う、「貧しければ倹約を学ばずとも倹約し、富めば奢侈を学ばずとも奢侈する」、これは自然の道理である。今、大聖が創業されたのに、ただ現在の子弟を処置するだけではあるまいか。長久の法を制定し、万代に遵行させるべきである。

また言う。

天下を治める者は、人を本とす。百姓を安楽にさせようとすれば、ただ刺史・県令にある。県令は既に多く、皆が賢であることはできない。もし各州に良刺史を得れば、その境は蘇息する。天下の刺史が悉く聖意にかなえば、陛下は岩廊の上に端拱して、百姓は安んじないことを慮ることはない。古来、郡守・県令は皆、賢徳を妙選し、宰相に擢升しようとする時は、必ずまず民に臨むことで試し、あるいは二千石から丞相に入った。今、朝廷は内官のみを重んじ、県令・刺史はその選を軽んじている。刺史は多くが武夫の勲功者か、あるいは京官で不称職な者が、ようやく外任となる。そして折衝都尉・果毅都尉のうち、身体強壮な者は、まず中郎将に入り、その次にようやく州任に補される。辺遠の地は、用人をさらに軽んじ、その材が宰位に堪え、德行をもって称えられ擢用される者は、十に一もいない。百姓が未だ安んじないのは、おそらくこのためである。

上疏が奏上されると、太宗は久しく善しと称された。

先に、京城の諸街では、毎朝暮れに人を遣わして呼ばせて衆を警めた。馬周は諸街に鼓を置き、毎回打って衆を警め、呼ばせるのを止めさせたことを奏上した。時に人々はこれを便利とし、太宗はますます賞労を加えた。やがて給事中に拝された。十二年、中書舎人に転じた。周は機弁があり、よく敷奏し、事端を深く識り、動くこと中らざるはなかった。太宗は嘗て曰く、「我、馬周に於いて、暫く見ざれば便ちこれを思う」と。中書侍郎岑文本、親しい者に謂いて曰く、「吾、馬君の事を論ずるを見ること多し。事類を援引し、古今を揚榷し、要を挙げ蕪を刪ぎ、文を会し理を切る。一字も加うべからず、一言も減ずべからず。これを聴くこと靡靡として、人をして倦みを亡わしむ。昔の蘇秦・張儀・終軍・賈誼、正にこれに応ずるのみ。然れども鳶肩火色、騰上すること必ず速く、恐らく久しからざるを」と。十五年、治書侍御史に遷り、兼ねて諫議大夫を知り、また兼ねて検校晋王府長史を加う。王が皇太子となると、中書侍郎に拝され、兼ねて太子右庶子となる。十八年、中書令に遷り、旧に依り兼ねて太子右庶子。周は既に両宮の職を兼ね、処事精密にして、甚だ当時の誉を得た。太宗が遼東を伐つに当たり、皇太子は定州に監守し、周と高士廉・劉洎を留めて皇太子を輔けしむ。太宗還りて、本官を以て吏部尚書を摂す。二十一年、銀青光禄大夫を加う。太宗は嘗て神筆を以て周に飛白書を賜いて曰く、「鸞鳳凌雲すとも、必ず羽翼を資とす。股肱の寄、誠に忠良に在り」と。周は消渇の病に罹り、年を経て癒えず。時に駕は翠微宮に幸し、勝地を勅求して、周の為に宅を起す。名医中使、相望んで絶えず、毎に尚食をして膳を供えしめ、太宗は躬ら薬を調え、皇太子は親しく臨みて疾を問う。周は臨終に、陳べし事表の草稿一帙を索め、手ずからこれを焚き、慨然として曰く、「管仲・晏嬰は君の過を彰かにし、身後の名を求む。吾はこれを為さず」と。二十二年に卒す。年四十八。太宗はこの為に挙哀し、幽州都督を贈り、昭陵に陪葬す。高宗即位し、尚書右僕射・高唐県公を追贈す。垂拱年中、高宗廟庭に配享す。子の載、咸亨年中累遷して吏部侍郎となり、選補に善くし、今に於いてこれを称す。雍州長史にて卒す。

崔仁師

崔仁師は、定州安喜の人である。武徳初年、制挙に応じ、管州録事参軍に授けられた。五年、侍中陳叔達が仁師の才が史職に堪えると薦め、右武衛録事参軍に進拝され、梁・魏等の史書編修に預かった。貞観初年、再び殿中侍御史に遷る。時に青州に逆謀の事が発し、州県は反党を追捕し、俘囚獄に満ちた。詔して仁師にその事を按覆せしむ。仁師は州に至り、悉く杻械を去り、なお飲食湯沐を与えてこれを寛慰し、ただその魁首十余人を坐せしめ、余は皆これを原免した。奏報に及んで、詔使将に往きてこれを決せんとす。大理少卿孫伏伽、仁師に謂いて曰く、「この獄の徒侶極めて衆く、而して足下が雪免する者多し。人は皆生を好み、誰か肯て死を譲らん。今既に命に臨む、甘心せざるを恐れ、深く足下の為に憂う」と。仁師曰く、「嘗て獄を理むるの体は、必ず仁恕を務むと聞く。故に人を殺し足を刖つも、亦皆礼有りと称す。豈に身の安を求め、枉れるを知りて申理せざらんや。若し一介の暗短を以て、ただ十囚の命を得易くするも、亦願う所なり」と。伏伽慚じて退く。及び勅使青州に至り更に訊うるに、諸囚皆曰く、「崔公仁恕にして、事枉濫すること無し。伏して罪を請う」と。皆異辞無し。仁師後ち度支郎中となり、嘗て支庶の財物数千言を奏す。手に本を執らず。太宗これを怪しみ、黄門侍郎杜正倫に本を齎らせしむ。仁師対して唱え、一も差殊無し。太宗大いにこれを奇とした。時に校書郎王玄度が『尚書』・『毛詩』に注し、孔・鄭の旧義を毀り、上表して旧注を廃し、己の注する所を行わんことを請う。詔して礼部に諸儒を集めて詳議せしむ。玄度口弁にして、諸博士皆これを詰うる能わず。郎中許敬宗は秘閣に付してその書を蔵することを請い、河間王孝恭は特に孔・鄭と並行することを請う。仁師は玄度の穿鑿経に由らざるを以て、乃ちその大義に合わざるを条し、駁奏してこれを罷めんことを請う。詔竟に仁師の議に依り、玄度遂に廃す。十六年、給事中に遷る。時に刑部は『賊盗律』に反逆に縁坐する兄弟の官に没するを軽しと為し、死に従うことを改めんことを請い、八座に詳議することを奏請す。右僕射高士廉・吏部尚書侯君集・兵部尚書李勣等は重きに従うことを議請し、民部尚書唐儉・礼部尚書江夏王道宗・工部尚書杜楚客等は旧に依り改めざることを議請す。時に議者は漢及び魏・晋の謀反は皆三族を夷すを以てし、咸く士廉等の議に依らんと欲す。仁師独り駁して曰く、「羲・農の世より以降、爰に唐・虞に及び、或いは言を設けて人犯さず、或いは像を画いて下禁を知る。三代の盛、辜に泣き網を解く。父子兄弟、罪相及ばず。咸く至理に臻り、俱に首と称せらる。その世乱るるに及び、獄訟滋く煩し。周の季年、その弊に勝えず。烈火は子産に原り、峭澗は安於に起る。韓・季・申・商、急刻を争い持ち、参夷相坐、此に始まる。秦その法を用い、遂に土崩に至る。漢高の務むる所寛大、未だ尽く善しと為さず。文帝の存する所仁厚、仍多く涼徳有り。遂に新垣を族滅せしめ、韓信・彭越を菹醢にす。良史に見譏され、過刑と謂わる。魏・晋より隋に至るまで、損有り益有り。凝脂猶お密にして、秋荼尚お煩し。皇上爰に至仁を発し、茲の刑憲を念い、前王の令典を酌み、往代の嘉猷を探り、弊を革し苛を蠲き、大にすべく久しうすべし。仍く綸綍を降し、これを九区に頒つ。故に断獄数簡にして、手足措く所有り、刑清く化洽き、安からざる無し。忽ち暴秦の酷法を以て、隆周の中典と為し、惻隠の情に乖き、惟行の令に反す。進退参詳するも、その可なるを見ず。且つ父子は天属、昆季は同気。その父子を誅すれば、足りてその心を累す。此れを顧みずして、何をか兄弟を愛せん。既に法を改めんと欲すれば、請う更に審量せよ」と。竟に仁師の駁議に従う。後ち仁師密かに魏王を立てて太子と為さんことを奏請し、旨に忤い、鴻臚少卿に転じ、民部侍郎に遷る。遼征の役、詔して太常卿韋挺に海運を知らしめ、仁師を副と為し、仁師又別に河南水運を知る。仁師は水路険遠を以て、遠州の輸する所時に海に至らざるを恐れ、遂に便宜に事に従い、近海の租賦を遞発して以て転輸に充つ。及び韋挺は壅滞して期を失い、名を除かれて民と為り、仁師は運夫の逃走を奏せざるを以て、坐して官を免ぜらる。既に志を得ず、遂に『体命賦』を作りて以てその情を暢う。辞多く載せず。太宗還りて中山に至り、中書舎人に起す。尋いで兼ねて検校刑部侍郎を加う。太宗翠微宮に幸す。仁師『清暑賦』を上りて以て諷す。太宗善しと称し、帛五十段を賜う。二十二年、中書侍郎に遷り、機務に参知す。時に仁師甚だ恩遇を承け、中書令褚遂良頗るこれを忌嫉す。会に伏閣上訴する者有り、仁師奏せず。太宗は仁師の上を罔くすを以てし、遂に龔州に配す。赦に会いて還る。永徽初年、起して簡州刺史を授けられ、尋いで卒す。年六十余。神龍初年、子の挹が国子祭酒と為るに因り、恩例にて同州刺史を贈る。挹の子は湜。

崔湜

崔湜は若くして文辞で名を知られ、進士に挙げられ、累進して左補闕に転じ、『三教珠英』の編纂に参与し、殿中侍御史に遷った。神龍初年、考功員外郎に転じた。時に桓彦範・敬暉らが既に国政を執るや、武三思の讒言による離間を恐れ、崔湜を耳目として引き入れ、その動静を探らせた。まもなく中宗は功臣を疎んじ忌むようになり、三思への恩寵は次第に厚くなったので、崔湜はかえって桓・敬らの計議を密かに三思に告げた。ほどなく中書舎人に遷った。桓・敬らが嶺外に流された時、崔湜はまた三思に説いて、彼らを皆殺しにするのが適当であり、そうすれば帰還の望みを絶てると言った。三思が誰を使者にすべきかと問うと、崔湜の従兄の周利貞は以前桓・敬らに憎まれており、侍御史から嘉州司馬に出されていたので、崔湜は彼を推挙してこの任に充てた。桓・敬らは利貞が来ると聞き、多く自殺した。三思は利貞を引き立てて御史中丞とした。崔湜は景龍二年に兵部侍郎に遷り、父の挹は礼部侍郎となり、父子ともに尚書省の次官を務めたことは、唐が建って以来なかったことである。時に昭容上官氏がしばしば外宅に出たので、崔湜は彼女に付き従った。これにより中宗は崔湜を非常に厚遇し、まもなく吏部侍郎を拝命し、ほどなく中書侍郎・同中書門下平章事に転じた。鄭愔とともに選事を掌ったが、選考が順序を失い、御史李尚隠に弾劾され、鄭愔は流罪に処せられて嶺表に配流され、崔湜は左遷されて江州司馬となった。上官昭容が密かに安楽公主と共に曲げて取り成したので、中宗は鄭愔を江州司馬とし、崔湜には襄州刺史を授けた。まもなく、召されて尚書左丞となった。韋庶人が臨朝すると、再び中書侍郎・同中書門下三品となった。睿宗が即位すると、出されて華州刺史となり、まもなくまた太子詹事を拝命した。初め、崔湜は景龍年中に献策して南山に新道を開き、商州への水陸の運送を通じさせ、役夫数万を動員し、死者は十の三四に及んだ。なお旧道を厳重に封鎖し、旅人の通行を禁じ、開いた新路を通じさせたが、結局夏の大雨で水流に衝かれ、崩壊して通じなくなった。この時に至り、崔湜の山路開削の功績を追論し、銀青光禄大夫を加えられた。まもなく太平公主に引き立てられ、再び中書門下三品に遷った。先天元年、中書令を拝し、劉幽求と権力を争って不和となり、劉幽求を陥れて嶺表に流させた。なお広州都督周利貞に逗留を理由に殺すよう促したが、果たせずに止んだ。時に父の挹は年老いて、累次戸部尚書を除かれて致仕した。挹は性来貪欲で、人の請託を受け、しばしば公事で崔湜に干渉したが、崔湜は多く違えて拒絶し従わず、大いに当時の論評に嗤われた。玄宗が東宮にいた時、しばしばその邸を訪れ、恩情は非常に密接であった。崔湜が太平公主に私的に付き従うと、当時の人は皆彼のことを恐れた。門客の陳振鷺が『海鷗賦』を献じて諷したが、崔湜は善しと称したものの、心では実は喜ばなかった。帝が蕭至忠らを誅殺しようとした時、崔湜を召して腹心に託そうとしたが、崔湜の弟の滌が崔湜に言った。「主上がもし何か問われたら、隠してはなりません。」崔湜は従わず、帝に拝謁した時、問いに対する答えが帝の意に適わなかった。蕭至忠らが誅殺された後、崔湜は連座して嶺外に流された。時に新興王李晉も連座して誅殺され、刑に臨んで嘆いて言った。「この事の首謀は崔湜にあり、今私が死に就くのに崔湜は生き延びるとは、なんという冤罪であろうか。」まもなく担当官庁が奏上して、宮人元氏が崔湜と密かに謀って毒を進めたと自供したと言うので、崔湜を追って死を賜った。初め、崔湜は張説と不和であり、張説が当時中書令であったので、議する者は張説が陥れたのだと考えた。時に崔湜は尚書右丞盧蔵用とともに配流され同行したが、崔湜は蔵用に言った。「私の弟(崔滌)が恩寵を受けているので、あるいは寛大な処置を期待できるかもしれない。」そこで遅滞して速やかに進まなかった。荊州に至った時、講堂で鏡を照らす夢を見て言った。「鏡は明らかな象である。私は君主に明らかにされるであろう。」占夢の張由に告げると、答えて言った。「講堂は法を受ける所、鏡は文字で『立って金を見る』となり、これは吉兆ではない。」その日、追って来た使者が到着し、駅舎で縊り殺された。時に四十三歳であった。崔湜は姿形が美しく、早くから才名があった。弟の液・滌および従兄の蒞は、いずれも文才があった。清要の職に居り、私的な宴席の折には、自らを東晋の王導・謝安の家に比した。人に言った。「我が一門および出身・歴官は、いずれも第一でなかったことはない。丈夫たるものはまず要路を占めて人を制すべきであり、どうして黙って人に制せられようか。」この故に進取を止めず、良き終わりを遂げなかった。

崔液

崔液は特に五言詩の作に巧みで、崔湜は常に感嘆して「海子は我が家の亀鑑である」と言った。海子は崔液の幼名である。官は殿中侍御史に至ったが、兄の配流に連座し、郢州の胡履虚の家に逃げ隠れた。『幽徴賦』を作って意を表し、文辞は甚だ典雅麗わしかった。赦令に遇って還る途中、病を得て卒した。友人裴耀卿がその遺文を集めて十巻の文集とした。

崔論

崔液の子の崔論は、吏務の才能で称された。天宝年中、櫟陽令から司勲員外郎・濛陽太守に遷った。乾元の後、名だたる郡を歴任し、いずれも治績で称された。大暦末、元載が罪により誅殺されると、朝廷はようやく埋もれた人材を振り起こし、崔論を同州刺史に遷した。まもなく、黜陟使の庾何に糾弾され、免官された。議する者は庾何の挙奏が深刻に過ぎるとし、再び崔論を衢州刺史に起用した。任期が満ちると、揚州・楚州の間に寓居した。徳宗は旧族で高齢であることを以て、大理卿を授けて致仕させ、卒した。

崔滌

崔液の弟の崔滌は、弁智に富み、諧謔を善くし、平素より玄宗と親密であった。兄の崔湜が太平公主の党として誅殺されると、玄宗は常に彼を思い、故に崔滌を一層厚く遇し、秘書監に用いた。禁中に出入りし、諸王と侍宴する際に席を譲らず、座が寧王の上にあることもあった。後に名を澄と賜った。東封から還ると、金紫光禄大夫を加えられ、安喜県子に封ぜられた。開元十四年に卒し、兗州刺史を追贈された。

史臣曰

史臣が言う。劉洎は初め上疏の切直さによって、高位顕官に至った。大綱を提げ帯を整え、聖主に嘉謀を諮り、国士の談論をかり(かり)て、廊廟の器を体現した。ああ、枢機の発動は栄辱の主であり、一言慎まざれば、ついに誣奏に陥った。君主・親族が甚だ悔いたとしても、駟馬も舌に及ばず、まことに悲しむに足る。馬周は時運に乗じ、天性は深沈であり、主君を悟らせて微言を談じ、忠を尽くし孝を本とし、沖虚な識見と広大な度量は、あたかも高遠な境地に及んだかのようであった。『詩経』に言う「嘉楽君子、顕顕令徳」。惜しいかな中寿にて、天が遺(のこ)さざるか。崔仁師は史才によって進用され、その刊正褒貶は、雅に詳明を得ていた。仁恕を本とし、冤濫を正すことについては、その事績は見るべきものがある。穿鑿の注を沮み、重きに従う刑罰を止めることについては、その言は甚だ直であった。『書経』に「疑わしき謀は成すなかれ」とあるのに、魏王(李泰)の立太子を請うたのは、惑わされていたのではないか。機務に参与するに及んで、ついに嫉妬を招き、上を欺く名目は、やはり由緒があったのである。崔湜の徳は、祖先からますます遠ざかり、勢いは恃むべきもの、進取には害なしと考え、人臣の極位に至っても、心に止足を知らなかった。『海鷗賦』を覧て、知りながら戒めず、荊州の夢に至っては、人は免れぬと知った。『易経』に言う「節せざるの嗟き、また誰を咎れんや」。

贊して言う。駿馬が造父に逢えば、一日に千里を行く。英主が賢を取るには、階陛に拘わらず。賓王(馬周)は徒歩より、劉洎は賊吏より。文皇(太宗)に一見せられ、皆相位に登る。

原本を確認する(ウィキソース):旧唐書 巻074