旧唐書
巻七十三 列伝第二十三 薛収 姚思廉 顔師古 令狐徳棻 孔穎達
薛収
薛収は、字を伯褒といい、蒲州汾陰の人で、隋の内史侍郎薛道衡の子である。継父の従父薛孺に仕えて孝行で知られた。十二歳の時、文章を作ることを理解した。父が隋で非業の死を遂げたため、志を清くして仕官しなかった。大業の末、郡が秀才に推挙したが、固辞して応じなかった。義旗が上がると、首陽山に隠遁し、義挙に協力しようとした。蒲州通守の堯君素が密かに薛収の計画を知り、人を遣わして薛収の生母王氏を城内に迎え置いたので、薛収は城に戻った。後に堯君素が王世充に応じようとしたので、薛収は遂に城を越えて国(唐)に帰順した。秦王府記室の房玄齢が太宗に推薦すると、即日に召見され、経略について問われると、薛収の弁論応対は縦横にわたり、いずれも要旨に合っていた。秦王府主簿に任じられ、陝東道大行台金部郎中を判った。時に太宗は征伐を専任し、檄書や露布は多く薛収の手によるものであった。言辞は敏速で、あたかも前もって構想したかのようであり、馬上で即座に成し、かつて一字の添削もなかった。
太宗が王世充を討った時、竇建徳が兵を率いて来て抵抗した。諸将は皆、暫く退軍して賊の形勢を観るべきであると考えた。薛収のみが策を建てて言うには、「王世充は東都を占拠し、府庫は物資で満ち積もっており、その兵は皆、江淮の精鋭である。患うべきは食糧の欠乏にあり、それゆえに我らに抑えられ、戦いを求めることができないのである。竇建徳は自ら軍旅を総べ、来て我が師に抵抗する。また彼の驍雄を尽くして、奮戦決戦を期している。もし彼をここまで来るに任せれば、両寇が相連なり、河北の糧食を転じて互いに資給し合うこととなり、則ち伊・洛の間で戦闘が止まなくなる。今は兵を分けて営を守り、その溝防を深くすべきである。即ち王世充が戦おうとしても、慎んで出兵してはならない。大王自ら猛鋭を率い、先んじて成皋の険を占拠し、兵を訓練し甲を坐して、その到來を待つべきである。彼は疲弊の師をもって、我が堂堂の勢いに当たれば、一戦にして必ず打ち克つ。竇建徳が破られれば、王世充は自ら降るであろう。二旬を過ぎず、二国の君主を、麾下に面縛することができる。もし退兵して自ら守るのは、下策である。」太宗はこれを容れ、遂に竇建徳を生擒した。
東都が平定され、太宗が隋氏の宮室を見て入り、後主が人力を尽くして奢侈を逞しゅうしたことを嘆いた。薛収が進み出て言うには、「窃かに聞く、峻宇彫牆は殷の辛(紂王)が以て滅び、土階茅棟は唐の堯が以て昌えると。秦帝は阿房宮の飾りを増し、漢後(文帝)は露台の費用を罷めた。故に漢の祚は延びて秦の禍は速く、古よりこのようである。後主はかつてこれを察することができず、万乗の尊をもって、一夫の手に困じ、土崩瓦解させ、後代に譏りを取ったのは、奢侈と暴虐によるものである。」太宗はその応対を喜んだ。軍が還ると、天策府記室参軍に任じられた。太宗が初めて天策上将・尚書令を授けられた時、薛収と虞世南に並んで第一の譲表を作るよう命じ、結局薛収のものが用いられた。太宗がかつて高祖に侍って後園を遊んだ時、白魚を獲たので、薛収に献表を作るよう命じた。薛収は筆を取って立ちどころに書き上げ、再び考えを止めることがなかった。当時の人は彼の二つの表が豊かで速いことを推した。劉黒闥平定に従い、汾陰県男に封ぜられた。武徳六年、本官のまま文学館学士を兼ね、房玄齢・杜如晦と共に特に殊礼を蒙り、心腹の寄託を受けた。またかつて上書して狩猟を諫めた。太宗は手詔して言うには、「読み覧ねるに、卿の陳べる所は、実に心胆を悟らしめる。今日我を成すは、卿の力である。明珠を兼ねて乗せるも、どうして来たる言に比べられようか。当に心を誡めんとす。書にしてどうして尽くせよう!今、卿に黄金四十鋌を賜い、以て雅意に酬いる。」
七年、病に臥せった。太宗は使者を遣わして見舞わせ、道に相望んだ。間もなく命じて車に乗せて病を抱えて府に詣でさせた。太宗は親しく衣の袂で薛収を撫で、生い立ちを論じ述べて、潸然と涙を流した。間もなく卒去した。三十三歳。太宗は自ら臨んで哭し、左右を哀慟させた。薛収の従父の兄の子薛元敬に書を送って言うには、「吾は卿の叔父と共に事に当たり、ある時は軍旅の多務に、ある時は文詠の従容に、何ぞ嘗て経略に駆馳し、襟抱を款曲しなかったことがあろうか。近頃は病苦であったが、日に痊ゆることを冀っていた。どうして期せず一朝にして、忽ち万古となるのか!追い尋ねて痛み惜しみ、ますます以て傷懷する。かつ聞くに、その兒子は幼く小さく、家は徒に壁立するのみで、何れの処に安置すべきか知らないという。宜しく安撫を加え、以て吾が懷を慰むべし。」因って人をして弔祭させ、物三百段を贈った。後に、学士らの形像を遍く図らせた。太宗は嘆いて言うには、「薛収は遂に故人となった。早くその像を図らなかったことを恨む。」即位すると、顧みて房玄齢に言うには、「薛収がもし在世していれば、朕は中書令をもって処遇したであろう。」またかつて薛収が平生の如く夢に見え、また有司に勅して特にその家に粟帛を賜わしめた。貞観七年、定州刺史を追贈された。永徽六年、また太常卿を追贈され、昭陵に陪葬された。文集十巻。
兄の子 元敬
元敬は、隋の選部侍郎薛邁の子である。文学があり、若い時、薛収及び薛収の族兄薛徳音と並び称され、当時の人は「河東三鳳」と言った。薛収を長雛とし、薛徳音を鸑鷟とし、元敬は年が最も小さいので鹓雛とした。武徳年中、元敬は秘書郎となり、太宗が召して天策府参軍とし、直記室を兼ねた。薛収と元敬は共に文学館学士となった。時に房玄齢・杜如晦らは心腹の寄託に処り、深く互いに友托したが、元敬は権勢を畏れ、遂に彼らと親しくせず、杜如晦は常に言った、「小記室は親しむべからず、疎んずべからず。」太宗が東宮に入ると、太子舎人に任じた。時に軍国の事務は東宮に総べられ、元敬は専ら文翰を掌り、称職と号された。間もなく卒去した。
薛収の子 元超
収の子は元超である。元超は早く孤児となり、九歳で汾陰男の爵位を襲封した。成長すると、学問を好み、文章を作るのが巧みであった。太宗は彼を非常に重んじ、巣剌王の娘の和静県主に娶せ、累進して太子舎人に任じられ、『晋書』の撰修に参与した。高宗が即位すると、給事中に抜擢され、時に二十六歳であった。数度上書して君臣の政体や時事の得失を述べ、高宗は皆これを嘉して受け入れた。まもなく中書舎人に転じ、弘文館学士を加えられ、国史の修撰を兼ねた。中書省に一枚の盤石があった。初め、道衡が内史侍郎であった時、嘗てこれに腰掛けて詔勅を起草したことがあり、元超はこの石を見るごとに、未だ嘗て涙を流さないことはなかった。永徽五年、母の喪に服して官を解かれた。翌年、起用されて黄門侍郎に任じられ、検校太子左庶子を兼ねた。元超は文辞に優れていた上に、寒門の俊才を引き立てることを好み、嘗て任希古・高智周・郭正一・王義方・孟利貞等十余人を上表して推薦し、これにより当時の論評は彼を称賛した。後に病を理由に饒州刺史として出された。三年、東台侍郎に任じられた。右相李義府が罪により巂州に配流された。旧制では、流人は乗馬を禁じられていたが、元超が馬を与えるよう上奏して請うたため、連座して簡州刺史に貶められた。一年余り後、西台侍郎上官儀が誅殺されると、また文章を通じて親密であったことで連座し、巂州に配流された。上元初年、赦免に遇って帰還し、正諫大夫に任じられた。三年、中書侍郎に遷り、まもなく同中書門下三品となった。時に高宗が温泉に行幸して狩猟を催し、諸蕃の酋長らも弓矢を持って従った。元超は、彼らは同族でないから、深く憂慮すべきであると考え、激しく諫める上疏をした。帝はこれを受け入れた。時に元超は特に恩遇を蒙り、常に召し入れて諸王と共に私宴に参与させられた。また、その文学と政務処理の才能を重んじ、嘗て元超に言った。「卿が中書にいる限り、確かに多くの人を頼る必要はない。」永隆二年、中書令に任じられ、太子左庶子を兼ねた。高宗が東都に行幸する際、太子が京師で国政を監理することとなり、元超を留めて太子に侍らせた。帝は出発に臨んで元超に言った。「朕が卿を留めるのは、一つの腕を失うようなものだ。しかし我が子はまだ政務に慣れておらず、関西のことは全て卿に委ねる。託すところが深いので、黙っているわけにはいかない。」そこで元超は鄭祖玄・鄧玄挺・崔融を崇文館学士として表薦した。また数度上疏して太子を諫め、高宗はこれを知って善しとし、使者を遣わして慰労し、物百段を賜った。弘道元年、病を理由に致仕を乞い、金紫光禄大夫を加えられ、致仕を許された。その年の冬に卒去した。六十二歳であった。光禄大夫・秦州都督を追贈され、乾陵に陪葬された。文集四十巻。子の曜もまた文学で知られ、聖暦年間、『三教珠英』を修し、官は正諫大夫に至った。元超の従子に稷がいる。
元超の従子 稷
稷は進士に挙げられ、累進して中書舎人に転じた。時に従祖兄の曜が正諫大夫であり、稷と共に文辞の学で知られ、共に両省(中書省・門下省)に在り、当時に称された。景龍末、諫議大夫・昭文館学士となった。古を好み博雅で、特に隷書に巧みであった。貞観・永徽の頃より、虞世南・褚遂良の書跡を当時の人々は宗仰したが、その後これを継ぐ者は稀であった。稷の外祖父魏徴の家は図書典籍が豊富で、虞・褚の旧跡が多くあり、稷は鋭意に模倣に精を出し、筆致は雄勁で麗しく、当時これに及ぶ者はなかった。また画を善くし、古跡を広く探求した。睿宗が藩王であった時、小学(文字学)に留意しており、稷はそこで特に招き引きされ、まもなくまたその子の伯陽をして仙源公主に娶せた。睿宗が即位すると、累進して中書侍郎に任じられ、蘇頲等と共に詔勅の起草を掌った。まもなく中書侍郎崔日用と共に政事に参与した。睿宗が鐘紹京を中書令とした時、稷は礼譲するよう勧め、機会を得て帝に言上した。「紹京は元来才望がなく、胥吏の出身であり、功勲はあっても、立派な徳行は聞こえておりません。一朝にして宰相の首班に抜擢され、百官の長とされますと、清濁が混同され、聖朝の衆目が注がれる美事を失うことを臣は恐れます。」帝はその言葉を是とし、紹京が上表して辞譲したため、戸部尚書に転じさせた。稷はまた帝の面前で崔日用を面罵し、互いに欠点を言い立てたため、これにより政事参与を罷められ、左散騎常侍に遷り、工部・礼部の二尚書を歴任した。睿宗を輔佐した功績により晋国公に封ぜられ、実封三百戸を賜り、太子少保に任じられた。睿宗は常に稷を宮中に召し入れて諸政務の決裁に参与させ、その恩遇は比べるものがないほどであった。竇懷貞が誅殺されると、稷はその謀議を知っていたとして、万年県の獄中で賜死された。子の伯陽は、公主を娶ったことにより右千牛衛将軍・駙馬都尉に任じられ、また功績により安邑郡公に封ぜられ、別に実封四百戸を賜った。父が死ぬと、特例で連座を免れ、晋州員外別駕に左遷された。まもなく嶺南に配流され、道中で自殺した。伯陽の子の談は、開元十六年、常山公主を娶り、駙馬都尉・光禄員外卿に任じられたが、十日ほどで急死した。
姚思廉
姚思廉は、字を簡之といい、雍州萬年の人である。父の察は、陳の吏部尚書であった。隋に入り、太子内舎人・秘書丞・北絳公を歴任し、儒学と史学を兼ね備え、三代(陳・隋・唐)に重んじられた。陳が滅びると、察は呉興より初めて関中に移った。思廉は幼少より父より漢史を学び、家業をことごとく伝え受け継ぎ、勤勉に学び寡欲で、家人や産業について言及したことはなかった。陳において揚州主簿となり、隋に入って漢王府参軍となったが、父の喪に服し職を解かれた。初め、察は陳において梁・陳二史を修撰しようとしたが、完成せず、臨終に思廉にその志を継ぎ完成させるよう命じた。継母の喪に服し、墓の傍らに廬を結び、憔悴は人一倍であった。喪が明けると、河間郡司法書佐に補せられた。思廉は上表して父の遺言を陳べ、詔により『梁史』『陳史』の続成を許された。煬帝はまた起居舎人崔祖浚とともに『区宇図志』を修撰するよう命じた。後に代王侑の侍読となった。時に義師が京城を陥落させると、侑の府の官僚は逃げ惑ったが、ただ思廉のみが王に侍し、その側を離れなかった。兵士が殿上に登ろうとした時、思廉は声を張り上げて言った。「唐公(李淵)が義兵を挙げたのは、もとより王室を匡正するためである。卿らは王に対して無礼があってはならぬ。」一同はその言葉に服し、そこで階下に並んだ。高祖(李淵)はこれを聞いてその義を認め、侑を扶けて順陽閣の下まで行くことを許し、思廉は涙を流して拝礼して去った。見物人は皆嘆じて言った。「忠烈の士である。仁者に勇ありとは、このことを言うのであろうか。」高祖が禅譲を受けると、秦王文学に任じられた。後に太宗が徐円朗を征討した時、思廉は洛陽におり、太宗はかつてゆったりと隋の滅亡の事について語り、慨然として嘆じて言った。「姚思廉は兵刃を恐れず、大節を明らかにした。古人に求めても、どうしてこれ以上に加えることができようか。」そこで品物三百段を送って与え、書状に「節義の風を想い、故にこの贈り物がある」と記した。まもなく文学館学士に引き立てられた。太宗が春宮(皇太子)に入ると、太子洗馬に転じた。貞観初年、著作郎・弘文館学士に転じた。その肖像を描き、『十八学士図』に列ね、文学の褚亮にその賛を作らせ、「志苦しく精勤し、言を紀し実録す。危に臨み義に殉じ、余風俗を励ます」と記した。三年、また詔を受けて秘書監魏徴とともに梁・陳二史を撰修した。思廉はまた謝炅ら諸家の梁史を採り父の書を継ぎ完成させ、併せて陳の事跡を推究し、博く綜覧して顧野王の修めた旧史を削り加え、『梁書』五十巻・『陳書』三十巻を撰成した。魏徴はその総論を裁定したが、編次や筆削は全て思廉の功績であり、彩絹五百段を賜り、通直散騎常侍を加えられた。思廉は藩邸(秦王府)時代からの旧臣として、深く礼遇され、政治に得失があれば、常に密かに上奏するよう遣わされ、思廉もまた直言して隠すところがなかった。太宗が九成宮に行幸しようとした時、思廉は諫めて言った。「離宮への遊幸は、秦の始皇帝・漢の武帝の行いであり、もとより堯・舜・禹・湯のなすところではありません。」言葉は甚だ切実であった。太宗は諭して言った。「朕は気疾があり、暑さになるとたちまち激しくなる。もとより遊覧賞玩を好む心情ではない。」そこで帛五十匹を賜った。九年、散騎常侍に任じ、爵を豊城県男に賜った。十一年に卒去した。太宗は深く悼み惜しみ、一日朝を廃し、太常卿を追贈し、諡を康とし、昭陵に葬地を賜った。子の処平は、官は通事舎人に至った。処平の子の璹・珽は、別に伝がある。
顔師古
顔籀は、字を師古といい、雍州萬年の人で、斉の黄門侍郎之推の孫である。その先祖はもと琅邪に居住し、代々江左に仕えた。之推に至り、周・斉に歴事し、斉が滅びて初めて関中に居住した。父の思魯は学芸をもって称され、武徳初年に秦王府記室参軍となった。師古は幼少より家業を伝え、群書を博覧し、特に詁訓に精通し、文を綴ることを善くした。隋の仁寿年間、尚書左丞李綱に推薦され、安養尉に任じられた。尚書左僕射楊素は師古が若年で容貌が瘠せているのを見て、言った。「安養は煩劇な県である。どうしてその任に堪えられようか。」師古は言った。「鶏を割くのに何ぞ牛刀を用いん。」素はその応対を奇とした。官に着任すると果たして幹理をもって聞こえた。時に薛道衡が襄州総管であり、高祖(李淵)と旧知であり、またその才能を喜び、文を綴る時、しばしば彼に瑕疵を指摘させ、甚だ親昵した。まもなく事に坐して免官され、長安に帰り、十年間任用されず、家は貧しく、教授を業とした。
義兵が起こると、師古は長春宮に謁見し、朝散大夫を授けられた。京城平定に従い、敦煌公府文学に任じられ、起居舎人に転じ、さらに中書舎人に遷り、機密を専ら掌った。当時軍国の事務多く、凡そ制誥は全てその手で成された。師古は政理に通達し、冊奏の巧みさは当時及ぶ者なかった。太宗が践祚すると、中書侍郎に抜擢され、琅邪県男に封ぜられた。母の喪により職を去った。喪が明けると、再び中書侍郎となった。一年余りして、事に坐して免官された。太宗は経籍が聖人から久しく遠ざかり、文字に誤謬があるとして、師古に秘書省で『五経』を考定するよう命じ、師古は多くを釐正し、完成すると上奏した。太宗はまた諸儒を遣わして重ねて詳議させたが、当時諸儒は伝習すること久しく、皆共に非とした。師古はすなわち晋・宋以来の古今の版本を引き、言葉に従って明らかに答え、援引根拠は詳細明白で、皆その意表に出るものであり、諸儒は嘆服しない者はいなかった。そこで兼ねて通直郎・散騎常侍とし、その定めた書を天下に頒布し、学者に習わせた。貞観七年、秘書少監に任じ、専ら刊正を司った。所有する奇書難字で、衆人が共に惑うものは、疑いに随って剖析し、曲折を尽くしてその源を明らかにした。この時多く後進の士を引いて讎校させたが、師古は素流(寒門)を抑え、先ず貴勢(高門)を重んじ、富商大賈をも引き入れたため、世論はその賄賂を受け取ったと称し、これにより郴州刺史として出された。未だ赴任せず、太宗はその才を惜しみ、言った。「卿の学識は、確かに称すべきところがある。しかし事親と居官において、清論に許されていない。今のこの任は、卿自らが招いたものである。朕は卿がかつて任用されたことを思い、遠く棄てるに忍びない。深く自ら戒め励ますがよい。」そこで再び秘書少監とした。師古は既にその才を恃み、また早くから駆策(任用)され、累ね任用されたが、頻りに罪譴を受けるに及び、意気甚だ喪沮した。ここより門を閉ざして静かに守り、賓客を杜絶し、志を園亭に放ち、葛巾野服であった。しかし古蹟及び古器を捜求し、耽好して止まなかった。まもなくまた詔を受けて博士らとともに『五礼』を撰定し、十一年に『礼』が完成し、爵を子に進めた。時に承乾が東宮にあり、師古に班固『漢書』の注を命じ、解釈は詳細明白で、深く学者に重んじられた。承乾が表を奉って上進すると、太宗は秘閣に編入するよう命じ、師古に物二百段・良馬一匹を賜った。十五年、太宗は詔を下し、泰山に事を行おうとし、所司と公卿及び諸儒博士が儀注を詳定した。太常卿韋挺・礼部侍郎令狐徳棻が封禅使となり、その儀を参考したが、時に論者は競って異端を唱えた。師古は上奏して言った。「臣が撰定した『封禅儀注書』は十一年春にあり、当時諸儒が参詳し、適中であると認めました。」そこで詔して公卿にその可否を定めさせたが、多くは師古の説に従った。しかしながら事は遂に行われなかった。師古はまもなく秘書監・弘文館学士に遷った。十九年、東巡に従駕し、途中で病没した。六十五歳。諡を戴といった。文集六十巻がある。その注した『漢書』及び『急就章』は、世に広く行われた。永徽三年、師古の子揚庭が符璽郎となり、また表を奉って師古の撰した『匡謬正俗』八巻を上進した。高宗は詔して秘書閣に付し、なお揚庭に帛五十匹を賜った。
弟 相時
師古の弟相時もまた学業があった。武徳年間、房玄齢らとともに秦府学士となった。貞観年間、累進して諫議大夫となり、遺漏を補い欠失を正し、諫臣の風格があった。まもなく礼部侍郎に転じた。相時は病弱で疾病が多く、太宗は常に医薬を賜るよう命じた。性質は仁愛で兄弟仲が良く、師古が没すると、哀慕の情に耐えずして没した。師古の叔父游秦は、武徳初めに累進して廉州刺史となり、臨沂県男に封ぜられた。当時劉黒闥が平定されたばかりで、人々は多く強暴で礼を欠き、風俗はまだ安定していなかったが、游秦は管内を慰撫し、敬譲の風が大いに広まった。邑里では歌った、「廉州の顔有道、性行は荘・老と同じ。人を愛すること赤子の如く、時ならぬ草を殺さず」。高祖は璽書を下して労い励ました。まもなく鄆州刺史に任ぜられ、官にて没した。『漢書決疑』十二巻を撰し、学者に称賛された。後に師古が『漢書』を注釈する際にも、多くその義を取ったのである。
令狐徳棻
令狐徳棻は、宜州華原の人で、隋の鴻臚少卿令狐熙の子である。先祖は燉煌に居住し、代々河西の右族であった。徳棻は広く文史に渉猟し、早くから名を知られた。大業末、薬城長となったが、世の乱れを理由に就任しなかった。義旗が建つと、淮安王李神通が太平宮を占拠し、総管を自称し、徳棻を記室参軍とした。高祖が関中に入ると、大丞相府記室に直された。武徳元年、起居舎人に転じ、大いに親遇された。五年、秘書丞に遷り、侍中陳叔達らとともに詔を受けて『芸文類聚』を撰した。高祖が徳棻に問うて言う、「近ごろ、男子の冠、婦人の髻が競って高大となっているのは、何故か」。答えて言う、「人の身において、冠は上飾りであり、それゆえ古人はこれを君主に譬えた。昔、東晋の末、君弱く臣強く、江左の士女は皆、衣は小さく裳は大きかった。宋の武帝が正位についた後、君主の徳は尊厳となり、衣服の制度もやがて変改された。これが近事の証左である」。高祖はこれを肯った。当時は喪乱の余波を受け、経籍が亡逸していたので、徳棻は遺書の購募を奏請した。銭帛を重ねて与え、楷書を増員し、繕写させた。数年の間に、群書はほぼ揃った。徳棻はかつて高祖に穏やかに言上した、「ひそかに見るに、近代以来、多く正史がなく、梁・陳及び斉にはまだ文籍がある。周・隋に至っては大業の離乱に遭い、多く遺闕がある。当今はまだ耳目に接し、なお憑るべきものがあるが、もしさらに十数年後となれば、恐らく事跡は湮滅するでしょう。陛下は既に隋より禅譲を受け、また周氏の暦数を承け、国家の二祖(高祖・太宗)の功業は、ともに周の時に在ります。もし文史が存しなければ、何をもって今古に鑑を遺すことができましょうか。臣の愚見では、併せてこれらを修めるよう請います」。高祖はその奏を肯い、詔を下して言う、
司典は言を序し、史官は事を記し、得失を考論し、変通を究め尽くす。それによって義類を裁成し、悪を懲らしめ善を勧め、前古を多く識り、将来に鑑を遺すのである。伏羲より以降、周・秦に及び、両漢は伝緒し、三国は天命を受け、晋・宋に至るまで、載籍は備わっている。魏が南遷して以来、機に乗じて運を撫で、周・隋は禅代し、歴世相仍いた。梁氏は邦を称し、淮海に跨り据え、斉は鼎を遷し、陳は皇宗を建て、みな自ら正朔を命じ、歳祀を綿歴し、各々徽号を殊にし、礼儀を刪定した。発跡開基し、終わりを受けて代を告げるに至り、嘉謀善政、名臣奇士、立言して績を著わすもの、時に乏しくなかった。しかしながら簡牘は未だ編まれず、紀伝ともに闕け、炎涼既に積もり、謡俗は遷訛した。余烈遺風は、たちまちにして将に墜んとす。朕は図を握り宇を馭し、長く世を治め人を養い、まさに典謨を立て、永く憲則を垂れんとす。かの湮落を顧み、用い深く軫悼し、撰次を懐くこと、実に良直に資る。中書令蕭瑀・給事中王敬業・著作郎殷聞礼は魏史を修すべし、侍中陳叔達・秘書丞令狐徳棻・太史令庾儉は周史を修すべし、兼中書令封徳彝・中書舎人顔師古は隋史を修すべし、大理卿崔善為・中書舎人孔紹安・太子洗馬蕭徳言は梁史を修すべし、太子詹事裴矩・兼吏部郎中祖孝孫・前秘書丞魏徴は斉史を修すべし、秘書監竇璡・給事中欧陽詢・秦王文学姚思廉は陳史を修すべし。務めて詳核を加え、旧聞を博く採り、義は不刊に在り、書法は隠すことなかれ。
蕭瑀らは詔を受けたが、数年を経ても、ついに完成できずに中止となった。貞観三年、太宗は再び修撰を命じ、そこで徳棻に秘書郎岑文本とともに周史を修めさせ、中書舎人李百薬に斉史を修めさせ、著作郎姚思廉に梁・陳史を修めさせ、秘書監魏徴に隋史を修めさせ、尚書左僕射房玄齢とともに諸代史の総監とした。衆議は魏史には既に魏収・魏彦の二家があり、すでに詳備しているとして、遂に修めなかった。徳棻はまた奏上して殿中侍御史崔仁師を引きいて周史の修撰を補佐させ、徳棻はなおも梁・陳・斉・隋諸史の類会を総知した。武徳以来の創修撰の源は、徳棻に始まるのである。六年、累進して礼部侍郎となり、国史の修撰を兼ね、彭陽男の爵を賜った。十年、周史の修撰により絹四百匹を賜った。十一年、『新礼』が完成し、爵を子に進めた。また『氏族志』の撰成により、帛二百匹を賜った。十五年、太子右庶子に転じた。承乾が敗れると、例に随って除名された。十八年、起用されて雅州刺史となったが、公事により免官となった。まもなく詔があり『晋書』を改めて撰することとなり、房玄齢が徳棻を奏上して修撰に参与させた。当時同修は十八人おり、ともに徳棻を首と推し、その体制は多く彼の決するところを取った。書が完成すると、秘書少監に任ぜられた。
永徽元年、また詔を受けて律令を撰定し、再び礼部侍郎となり、弘文館学士を兼ね、国史及び『五代史志』の監修を務めた。まもなく太常卿に遷り、弘文館学士を兼ねた。当時高宗が即位したばかりで、政道に心を留め、かつて宰臣及び弘文館学士を中華殿に召して問うて言う、「何が王道であり、何が霸道か。またどちらが先でどちらが後か」。徳棻は答えて言う、「王道は徳に任せ、霸道は刑に任せます。三王以上は、皆王道を行いました。ただ秦のみが覇術に任じ、漢はこれを雑えて行い、魏・晋以下は、王・覇ともに失いました。もしこれを用いようとすれば、王道が最も優れておりますが、これを行うことは難しいのです」。高宗は言う、「今行われている政の中で、何が要か」。徳棻は答えて言う、「古く政を行うには、その心を清くし、その事を簡かにすることを以て本としました。当今天下は憂いなく、年穀は豊かに実り、賦斂は薄く、征役は少ない。これは古道に合致します。政の要道は、これに過ぎるものはありません」。高宗は言う、「政道は無為に尚ぶものはない」。また問うて言う、「禹・湯は何によって興り、桀・紂は何によって亡んだか」。徳棻は答えて言う、「『伝』に称える、『禹・湯は己を罪し、その興ること勃焉たり;桀・紂は人を罪し、その亡ぶること忽焉たり』。二主(桀・紂)は妹喜・妲己に惑い、諫者を誅戮し、砲烙の刑を造った。これがその亡ぶる所以です」。高宗は大いに喜び、罷まった後、各々に繒彩を賜った。四年、国子祭酒に遷り、貞観十三年以後の実録の修撰の功により、物四百段を賜り、崇賢館学士を兼ねて授けられた。まもなくまた『高宗実録』三十巻を撰し、爵を公に進めた。龍朔二年、表を上して致仕を請い、許され、なお金紫光禄大夫を加えられた。乾封元年、家にて卒した。年八十四。諡は憲。徳棻は暮年特に著述に勤しみ、国家に修撰あるごとに、参預しないことはなかった。
武徳以後より、鄧世隆、顧胤、李延壽、李仁實ありて前後国史を修撰し、頗る当時に称せらる。
鄧世隆
鄧世隆は、相州の人なり。大業の末、王世充の兄の子太、河陽を守り、世隆を引いて賓客と為し、大いに親遇を見る。太宗洛陽を攻むるに及び、書を遣わして太を諭す。世隆、書を覆して、言辞不遜なり。洛陽平らぎし後、世隆罪を懼れ、姓名を変じ、自ら隠玄先生と号し、白鹿山に竄る。貞観初、征して国子主簿を授け、崔仁師、慕容善行、劉顗、庾安禮、敬播等と倶に修史学士と為る。世隆宿罪を負い、猶自ら安からず。太宗之を聞き、房玄齢を遣わして之を諭して曰く、「爾王太の為に書を作す、誠に重罪に合うべし。但だ各其の主の為にするに過ぎず、朕に於て豈に悪きことあらんや。朕今天子と為る、何ぞ匹夫の過を追責せん。爾宜しく坦然たりて、危懼を懐くこと勿れ」と。著作佐郎を擢授し、衛尉丞を歴る。初め、太宗武功を以て海内を定め、風に櫛り雨に沐し、詩書に暇あらず。嗣業に及び、忠良を進引し、精鋭を思政に鋭む。数年之後、道隆平を致し、遂に聴覧の暇に、文史に情を留む。事を叙べ懐を言うに、時に構属有り、天才宏麗にして、興托玄遠なり。貞観十三年、世隆上疏して御集の編録を請う。太宗竟に之を許さず。世隆又隋代の旧事を采り、撰して『東都記』三十巻と為す。著作郎に遷る。尋いで卒す。
顧胤
顧胤は、蘇州呉の人なり。祖は越、陳の給事黄門侍郎。父は覧、隋の秘書学士。胤、永徽中起居郎に歴遷し、兼ねて国史を修む。『太宗実録』二十巻を撰成し、功を以て朝散大夫を加え、弘文館学士を授かる。武徳、貞観両朝の国史八十巻を撰成するを以て、朝請大夫を加え、餘杭県男に封ぜられ、帛五百段を賜う。龍朔三年、司文郎中に遷る。尋いで卒す。胤又『漢書古今集』二十巻を撰し、代に行わる。子は琮、長安中天官侍郎、同鳳閣鸞台平章事と為る。
李延壽
李延壽は、本隴西の著姓にして、世相州に居る。貞観中、累ねて太子典膳丞、崇賢館学士を補し、嘗て詔を受けて著作佐郎敬播と同しく『五代史志』を修め、又『晋書』の撰に預かり、尋いで御史台主簿に転じ、兼ねて直国史と為る。延壽嘗て『太宗政典』三十巻を撰して表上す。符璽郎に歴遷し、兼ねて国史を修め、尋いで卒す。調露中、高宗嘗て其の撰する所の『政典』を観て、嘆美すること久しく、秘閣に蔵するを令し、其の家に帛五十段を賜う。延壽又嘗て宋、斉、梁、陳及び魏、斉、周、隋等八代の史を刪補し、之を『南北史』と謂い、凡そ一百八十巻、頗る代に行わる。
李仁實
李仁実は、魏州頓丘の人なり。官左史に至る。嘗て『格論』三巻、『通歴』八巻、『戎州記』を著し、並びに時に行わる。
孔穎達
孔穎達は、字は仲達、冀州衡水の人なり。祖は碩、後魏の南台丞。父は安、斉の青州法曹参軍。穎達八歳にして学に就き、日に千余言を誦す。長ずるに及び、尤も『左氏伝』、『鄭氏尚書』、『王氏易』、『毛詩』、『礼記』に明るく、兼ねて算暦を善くし、属文に解す。同郡の劉焯海内に名重く、穎達其の門に造る。焯初め之を礼せず、穎達疑滞を質さんことを請う。多く其の意表に出づ。焯容を改めて之を敬す。穎達固く辞して帰らんとす。焯固く留むるも可ならず。家に還り、教授を以て務めと為す。隋の大業初、明経高第に挙げられ、河内郡博士を授かる。時に煬帝諸郡の儒官を征して東都に集め、国子秘書学士をして之と論難せしむ。穎達最も優る。時に穎達少年なりしも、先輩の宿儒之に屈するを恥じ、潜かに刺客を遣わして之を図る。礼部尚書楊玄感之を家に舎す。是に由りて免るることを獲。太学助教を補す。隋の乱に属し、武牢に避地す。太宗王世充を平らげ、引いて秦府文学館学士と為す。武徳九年、擢て国子博士を授く。貞観初、曲阜県男に封ぜられ、給事中に転ず。時に太宗初めて即位し、庶政に心を留む。穎達数たび忠言を進め、益々親待を見る。太宗嘗て問うて曰く、「『論語』に云う、『能を以て不能に問い、多を以て寡に問い、有ること無きが若く、実くこと虚しきが若し』とは、何の謂いぞや」と。穎達対えて曰く、「聖人教を設くるは、人の謙光を欲するなり。己れ能有りと雖も、自ら矜大せず、仍え就不能の人に就きて能事を求訪す。己れの才芸多くと雖も、猶以て少なしと為し、仍え就寡少の人に就きて更に益す所を求む。己れの有ると雖も、其の状無きが若し。己れの実くと雖も、其の容虚しきが若し。唯だ匹庶のみに非ず、帝王の徳も亦当に此くの如くすべし。夫れ帝王は内に神明を蘊み、外は玄黙を須う。深くして測るべからず、度りて知るべからざらしむ。『易』に『蒙を以て正を養い、明夷を以て衆に蒞る』と称す。若し其の位尊極に居り、聰明を炫耀し、才を以て人に凌ぎ、非を飾り諫を拒まば、則ち上下情隔たり、君臣道乖く。古より滅亡するもの、此れよりせざるは莫し」と。太宗深く其の対を善しとす。六年、累ねて国子司業を除く。歳余り、太子右庶子に遷り、仍え国子司業を兼ぬ。諸儒と暦及び明堂を議し、皆穎達の説に従う。又魏徴と『隋史』を撰成し、位を散騎常侍に加う。十一年、又朝賢と『五礼』を修定し、所有の疑滞、咸く之に諮決す。書成り、爵を進めて子と為し、物三百段を賜う。庶人承乾、『孝経義疏』を撰せしむるを令す。穎達文に因りて意を見し、更に規諷の道を広む。学者之を称す。太宗穎達の東宮に在りて数たび匡諫有るを以て、左庶子於志寧と各黄金一斤、絹百匹を賜う。十二年、国子祭酒を拝し、仍え東宮に侍講す。十四年、太宗国学に幸して釈奠を観、穎達に命じて『孝経』を講ぜしむ。既に畢り、穎達『釈奠頌』を上す。手詔して褒美す。後、承乾法度を循わず。穎達毎に顔を犯して進諫す。承乾の乳母遂安夫人謂いて曰く、「太子成長す、何ぞ宜しく屡々面折を致すべきや」と。穎達対えて曰く、「国の厚恩を蒙る、死して恨む所無し」と。諫諍愈々切なり。承乾納るる能わず。先ず是れ、顔師古、司馬才章、王恭、王琰等の諸儒と詔を受けて『五経』の義訓を撰定し、凡そ一百八十巻、名づけて『五経正義』と曰う。太宗詔を下して曰く、「卿等博く古今を綜べ、義理該洽し、前儒の異説を考へ、聖人の幽旨に符し、実に不朽と為す」と。国子監に付して施行せしめ、穎達に物三百段を賜う。時に又太学博士馬嘉運有りて穎達の撰する所の『正義』を駁す。詔して更に詳定を令す。功竟に未だ就かず。十七年、年老を以て致仕す。十八年、凌煙閣に図形し、賛して曰く、「道光列第、風伝闕裡。精義霞開、掞辞飈起」と。二十二年卒す。昭陵に陪葬し、太常卿を贈り、謚して憲と曰う。
司馬才章
司馬才章は、魏州貴郷の人である。父の烜は、広く『五経』に通じ、緯候をよくした。才章は幼少にしてその学業を受け継いだ。隋の末年に郡博士となり、貞観六年、左僕射房玄齢がこれを推薦し、たびたび召し出されて問われ、抜擢されて国子助教に任じられ、議論は該博で通暁し、学者はこれを称えた。
王恭
王恭は、滑州白馬の人である。幼少より篤く学び、広く『六経』に通じた。常に郷里で教授し、弟子は遠方より数百人集まった。貞観初年、召されて太学博士に任じられ、その講ずる『三礼』は、いずれも別に義証を立て、非常に精緻で博識であった。蓋文懿・文達らは皆当時の大儒であったが、推挙することは稀で、『三礼』を講ずるごとに、必ず先達の義を挙げて、また恭の説を暢達にした。
馬嘉運
馬嘉運は、魏州繁水の人である。幼少にして出家して沙門となり、『三論』に明るかった。後に還俗し、専ら儒業に精を出し、特に論難を得意とした。貞観初年、累次して越王東閣祭酒に任じられた。まもなく、罷免されて帰郷し、白鹿山に隠居した。十一年、召されて太学博士に任じられ、兼ねて弘文館学士となり、『文思博要』の編纂に参与した。嘉運は、穎達の撰した『正義』が甚だ繁雑であるとして、常にこれを指摘し、諸儒もまた允当であると称した。高宗が春宮に居た時、崇賢館学士に引き立てられた。たびたび洗馬秦暐とともに殿中で侍講し、甚だ礼遇された。十九年、国子博士に遷り、卒した。
賛
史臣が曰く、唐の徳は勃興し、英儒が間断なく現れ、天命を助け力を合わせたのは、実にその人ありき。薛収はその謀略を左右し、経綸を謀り雅道を守ったが、不幸にして短命であり、我が良士を失った。上(太宗)が「恨むらくは図形せざること、もし在らば、当に中書令をもってこれを処せん」と述べたことにより、その才能を知ることができる。元敬は文藻に明敏であったが、権勢を畏れ、ついに房・杜と親しまず、深沈で至って慎重であった。これもまた優れていると言えようか。元超は父の風望を頼り、宏略を輔弼したが、確かにその罪ではなく、再び流罪に遷された。大任に登ると、益々嘉謀があり、多くの才能を引き立て、弘大な受け入れを隆盛にした。その恩を感ずる重さは、時にこれを聞くことがあろうか。始めあり終わりあり、それ殆ど庶幾からんか。稷は名家より出で、大用に及んだが、自ら謀叛の禍を招いた。貞亮を以てすればどうであろうか。姚思廉は篤学で寡欲であり、家父より漢史を受け継ぎ、果たして明義を執り、大節に臨んで奪うべからざるものがあった。筆削して書を成し、箴規して聖を輔けた。その命世を言えば、また当に仁と言うべきであろうか。師古は家に儒風を籍し、経義に該博であり、史策に詳註し、典礼を探測するに至っては、清明が身に在り、天に才格があった。しかしながら三黜の負い目は、ついに時の譏りを受けた。孔子が「才難」と言ったが、その然らざるがあろうか。令狐徳棻は貞度をもって時に応じ、問いに待つに平直であった。旧史を徴し、新礼を修め、もって国風を暢達にし、治乱を弁じ、王覇を談じ、もって帝業を資けた。「元首明らかなれば、股肱良し」とは、これを言うのであろうか。鄧世隆は国史に時の誉れがあり、固より諒直であった。その返書が不遜であったのは、何と知らざること甚だしいことか。上疏して御集の編纂を請うたのは、その輔弼の直さであろうか。顧胤の清芬は、彝範を観るに足り、積善の余慶は、その子ありと言えようか。李延寿は史学を研考し、修撰・刪補をなし、よく大典を成し、これを班・馬に比すれば、何れの代に人無からん。仁実の採集は、また次ぐものである。孔穎達は風格高爽で、幼少より聞こえがあり、深遠な道理を探り明敏であり、辨析応対は、天に通才があった。人道は盈ちるを悪む、必ず毀訐あり。『正義』が炳煥たるに及んで、乃ち異人であった。その指摘があっても、また何ぞ明らかさを損なうことがあろうか。司馬才章は時に崇儒を籍し、明核に業を致し、王恭は声教を弘闡し、礼学を研詳にし、馬嘉運は達識自ら通じ、よく典雅を成した。並びに才用に符し、丹青を潤色した。その繁雑を指摘するのは、蓋し備えを求める者である。
賛して曰く、河東の三鳳、俱に瑞を黄図にす。棻は良史たり、穎は実に名儒なり。経を解して窮まらず、顔を希うの徒なり。瀛洲に登り館に入る、その盛んなることや。