旧唐書 巻七十二、列伝第二十二 虞世南 李百薬 褚亮

旧唐書

巻七十二、列伝第二十二 虞世南 李百薬 褚亮

虞世南

虞世南、字は伯施、越州餘姚の人、隋の内史侍郎世基の弟なり。祖父の検は、梁の始興王諮議、父の荔は、陳の太子中庶子、ともに重名あり。叔父の寄は、陳の中書侍郎、子なく、世南を継がせしを以て、故に字して伯施と曰う。世南は性沈静寡慾にして、篤志勤学、少時に兄世基と共に呉郡の顧野王に学び、十余年を経て、精思倦まず、或いは累旬も盥櫛せず。文を属するに善くし、常に徐陵を祖述す、陵も亦た世南が己の意を得たりと言う。又同郡の沙門智永は、王羲之の書に善くし、世南之を師とし、妙に其の体を得、是に由りて声名籍甚たり。天嘉中、荔卒す、世南尚幼く、哀毀殆ど喪に勝えず。陳の文帝其の二子の博学なるを知り、毎に中使を遣わして其の家に至り将護せしむ。服闋に及び、召されて建安王法曹参軍と為る。寄は陳宝応に陥り、閩・越の中に在り、世南喪を除くも、猶布衣蔬食す。太建末に至り、宝応破れ、寄還り、方に世南に布を釈し肉を食わしむ。至徳初、西陽王友を除く。陳滅び、世基と共に長安に入り、ともに重名あり、時人二陸に方う。時によう帝藩に在り、其の名を聞き、秦王俊と辟書を交えて至るも、母老ゆるを以て固辞し、晋王使者をして之を追わしむ。大業初、累ねて秘書郎を授けられ、起居舎人に遷る。時に世基朝に当たり貴盛にして、妻子の被服王者に擬す。世南は同居すれども、躬ら勤倹を履み、素業を失わず。隋滅び、宇文化及の弑逆の際に及び、世基は内史侍郎たり、将に誅せられんとす、世南抱持して号泣し、身を以て代わらんことを請う、化及納れず、因りて哀毀骨立す、時人之を称す。化及に従いて聊城に至り、又竇建徳に陥り、偽りに黄門侍郎を授けらる。

太宗建徳を滅ぼし、引いて秦府参軍と為す。尋いで記室に転じ、仍って弘文館学士を授けられ、房玄齢と対して文翰を掌る。太宗嘗て『列女伝』を写して屏風を装わしむるを命ず、時に本無く、世南暗に之を疏し、一字も失わず。太宗春宮に升り、太子中舎人に遷る。即位に及び、著作郎に転じ、弘文館学士を兼ぬ。時に世南年既に衰老し、表を抗して骸骨を乞う、詔して許さず。太子右庶子に遷り、固辞して拝せず、秘書少監を除く。『聖徳論』を上る、辞多く載せず。七年、秘書監に転じ、爵を永興県子に賜う。太宗其の博識を重んじ、毎に機務の隙に、之を引いて談論し、共に経史を観る。世南は容貌懦曌たりと雖も、衣に勝えざるが若くして、志性抗烈にして、毎に古先帝王の政を為す得失に論及びては、必ず規諷を存し、補益多し。太宗嘗て侍臣に謂いて曰く、「朕暇日の因り、虞世南と古今を商略す、一言の失有らば、未だ嘗て悵恨せざること無し、其の懇誠此の若きは、朕用て嘉とす。群臣皆世南の若くならば、天下何をか理めざるを憂えん」と。

八年、隴右山崩れ、大蛇屡く見え、山東及び江淮多く大水す。太宗以て世南に問う、対えて曰く、「春秋の時山崩る、晋侯伯宗を召して問う、対えて曰く、『国は山川を主とす、故に山川崩竭すれば、君之が為に挙げず、降服・乗縵・徹楽・出次・祝幣を以て礼す』と。梁山は、晋の主とする所なり、晋侯之に従う、故に害無きを得たり。漢の文帝元年、斉・楚の地二十九山同日に崩れ、水大いに出ず、郡国に来り貢献せしめず、恵を天下に施し、遠近歓洽す、亦た災と為さず。後漢の霊帝の時、青蛇御座に見ゆ。晋の恵帝の時、大蛇長さ三百歩、斉の地に見え、市を経て朝に入る。案ずるに蛇は草野に在る宜しく、市朝に入るは、以て怪と為す可き所以なり。今蛇山沢に見ゆるは、蓋し深山大沢必ず竜蛇有り、亦た怪むに足らず。又山東雨足るは、則ち其の常と雖も、然れども陰淫過ぎ久しければ、冤獄有るを恐る、宜しく繫囚を省み、庶幾くは或いは天意に当たらん。且つ妖は徳に勝たず、唯だ徳を修むるを以て変を銷す可し」と。太宗然りと以為い、因りて使者を遣わして飢餒を賑恤し、獄訟を申理し、多く原宥す。後に星虚・危に孛し、氐を歴て、百余日にして乃ち滅す。太宗群臣に謂いて曰く、「天彗星を見るは、是れ何の妖ぞ」と。世南曰く、「昔斉の景公の時に彗星見ゆ、公晏嬰に問う、対えて曰く、『池沼を穿つに深からざるを畏れず、台榭を起すに高からざるを畏れず、刑罰を行うに重からざるを畏れず、是を以て天彗を現わして公に誡むるのみ』と。景公懼れて徳を修め、後十六日にして星没す。臣聞く、『天時は地利に如かず、地利は人和に如かず』と、若し徳義修まらざれば、麟鳳を得ると雖も、終に補う無く、但だ政事闕無ければ、災星有ると雖も、何ぞ時に損せん。然れども願わくは陛下、功古人に高きを以て自ら矜伐せず、太平漸く久しきを以て自ら驕怠せず、終わりを慎むこと始めの如くせば、彗星見ゆると雖も、未だ憂うるに足らず」と。太宗容を斂めて謂いて曰く、「吾が国を撫するや、良に景公の過ち無し。但だ吾才弱冠にして義兵を挙げ、年二十四にして天下を平げ、未だ三十ならずして大位に居り、自ら謂う、三代以降、乱を撥つ主、此に臻る莫しと。重ねて薛挙の驍雄、宋金剛の鷙猛、竇建徳河北に跨り、王世充洛陽に据う、此の時に当たり、足って勍敵と為り、皆吾が為に擒えらる。家難に逢うに及び、復た意を決して社稷を安んじ、遂に九五に登り、北夷を降服す、吾頗る自矜の意有り、以て天下の士を軽んず、此れ吾が罪なり。上天変を見る、良に是の為か。秦の始皇六国を平げ、隋の煬帝四海に富み、既に驕り且つ逸し、一朝にして敗る、吾亦何ぞ自ら驕るを得ん。言此を念うに、覚えず惕焉として震懼す」と。四月、康国獅子を献ず、詔して世南之が為に賦を為さしめ、命じて之を東観に編す、辞多く載せず。後に高祖崩ず、詔有りて山陵の制度、漢の長陵の故事に准じ、務めて隆厚に従わしむ。程限既に促く、功役労弊す。世南封事を上りて諫めて曰く、

臣聞く、古の聖帝明王が薄葬を行ったのは、崇高で光輝あるものを望まず、珍宝や器物を備えて親を厚く遇さなかったからではない。しかし、よく考えてみれば、高い墳墓と厚い塚、珍しい物をすべて備えることは、これこそ親の負担となるものであり、孝とは言えない。それゆえ深く考え遠くを慮り、質素なものに安んじて、長久万代の計とし、常情を断ち切って定めたのである。昔、漢の成帝が延陵と昌陵の二陵を造営したとき、制度は甚だ厚く、功費も甚だ多かった。諫議大夫の劉向が上書したが、その言葉は深く切実で、すべて事理に合っていた。その要約は次のようである。「孝文帝が霸陵に居たとき、悲しみに沈み、群臣を顧みて言った。『ああ、北山の石を槨とし、麻の綿を切り刻んでその間に漆を塗れば、どうして動かせようか?』張釈之が進み出て言った。『もしその中に欲しいものがあれば、南山を固めても隙間はある。もしその中に欲しいものがなければ、石の槨がなくても、何を憂えようか!』死者には終わりがないが、国家には興廃がある。釈之の言ったことは、永遠の計を為すものである。」孝文帝は悟り、遂に薄葬を行った。また漢の制度では、君主が在位中に天下の貢賦の三分の一を山陵に入れる。武帝は在位が長く、葬られる頃には陵中に物を容れる余地がなくなった。霍光は大義に暗く、奢侈が過ぎた。その後、更始帝の敗北に至り、赤眉賊が長安に入り、茂陵を破って物を取ったが、まだ尽きることはなかった。故なく百姓を集めて収奪し、盗賊のために用いるのは、甚だ無意味である。魏の文帝は首陽山の東に寿陵を営み、終制を作った。その要約は次のようである。「昔、堯は寿陵に葬られ、山を体として封樹を立てず、寝殿や園邑を立てず、棺槨は骨を蔵するに足り、衣衾は肉を朽ちさせるに足る。私はこの不食の地を営み、代が変わった後にその場所を知られないようにし、金銀銅鉄を蔵さず、すべて瓦器とする。古より今に至るまで、滅びない国はなく、発掘されない墓はない。玉匣や金縷を焼き取られ、骸骨まで共に尽きるに至っては、重ねて痛ましいことではないか!もし詔に背いて妄りに変改すれば、私は地下で屍を戮し、死して重ねて死ぬこととなり、不忠不孝である。魂に知るところがあれば、汝を福さないであろう。これを永制とし、宗廟に蔵する。」魏文帝のこの制度は、事に通達していると言えよう。もし陛下の徳が秦・漢の君主どまりであれば、臣は口を閉ざすだけで、敢えて言わない。伏して見るに、聖徳は高遠で、堯・舜でさえ及ばないところであるのに、俯して秦・漢の君主と共に奢侈に同調し、堯・舜・殷・周の節倹を捨てるのは、これが臣が特に憂える所以である。今、丘塚をこのようにするのは、その内に珍宝を蔵さなくても益がない。万代の後、ただ高い墳墓と大きな墓を見るだけで、金玉がないと言えようか?臣の愚かな考えでは、漢の文帝の霸陵は既に山勢を因んでおり、墳を築かなくても自然に高く顕著である。今、卜した地勢は平らであるから、築かざるを得ない。宜しく『白虎通』に陳べる周の制度に依り、三仞の墳とし、その方中の制度は、事々に減少すべきである。事が終わった日に、陵の側に石を刻み、丘封の大小高下の式を明らかにすべきである。明器に必要なものは、すべて瓦木とし、礼文に合わせ、一つとして金銀銅鉄を用いてはならない。万代の子孫に、皆これを遵奉させ、一通を宗廟に蔵するのは、美しいことではないか!また臣下は服用を除く三十六日間、既に霸陵に依っている。今、墳塚を築くのに、また長陵を法とするのは、恐らく適切ではない。伏して願わくは、古今を深く覧て、長久の慮りを為し、臣の赤心は、ただ万歳の後、神道が常に安らかであり、陛下の孝名が無限に揚がることを願うのみである。

上書は奏上されたが返答がなかった。世南はまた上疏して言った。「漢家では即位の初めに陵墓を営み、近いもので十余年、遠いもので五十年でようやく成就する。今、数ヶ月の間に数十年の事を造るのは、人力においても既に労多い。また漢家の大郡は五十万戸であるが、現在の人口は往時に及ばず、功役はそれと同等である。これが臣が疑いを抱く所以である。」時に公卿がまた上奏して遺詔に遵い、務めて節倹に従うことを請うた。そこでその事を下して所司に詳議させた。そこで制度は頗る減省された。

太宗は後に頗る狩猟を好んだ。世南は上疏して諫めて言った。「臣聞く、秋の獮と冬の狩は、恒典である。隼を射ち禽に従うことは、前誥に備わる。伏して惟うに、陛下は聴覧の余辰に因り、天道に順って殺伐し、将に自ら班掌を摧き、親しく皮軒に御し、猛獣の窟穴を窮め、逸材を林藪に尽くさんとす。凶を夷げ暴を剪り、以て黎元を衛い、革を収め羽を擢ぎ、以て軍器を充し、旗を挙げ獲を效し、以て前古に式らんとす。然れども黄屋の尊、金輿の貴、八方の徳を仰ぎ、万国の心を繫ぐところ、清道して行くも、猶お銜橛を戒む。これは重慎防微し、社稷の為である。それ故に馬卿は前に直諫し、張昭は後に色を変えた。臣誠に微浅であるが、敢えてこの義を忘れようか?且つ天の弧星畢は、既に多く殪し、禽を頒ち獲を賜うも、皇恩亦薄い。伏して願わくは、時に獵車を息め、且つ長戟を韜め、芻蕘の請を拒まず、涓澮の流を降納し、袒裼徒摶は、群下に任せ、則ち百王に范を貽し、万代に永く光らしめよ。」その犯して隠さざる有るは、多くこの類である。太宗はこれによって益々親しく礼遇した。嘗て世南に五絶有りと称した。一に德行、二に忠直、三に博学、四に文辞、五に書翰。十二年、また表を上って致仕を請うた。優詔を以てこれを許し、仍って銀青光禄大夫・弘文館学士を授け、禄賜防閣は、並びに京官職事と同じ。尋いで卒す。年八十一。太宗は別次に於いて哀を挙げ、甚だ慟哭した。東園秘器を賜い、昭陵に陪葬し、礼部尚書を贈り、謚して文懿と曰う。手勅を魏王泰に下して曰く。「虞世南は我に於いて、猶お一体の如し。遺を拾い闕を補い、一日も暫く忘れず、実に当代の名臣、人倫の准的である。吾に小失有れば、必ず顔を犯してこれを諫む。今その雲亡す。石渠・東観の中、復た人無し。痛惜豈に言えんや!」未だ幾ばくもなく、太宗は詩一篇を為し、往古の興亡の道を追述し、既にして嘆いて曰く。「鐘子期死し、伯牙復た琴を鼓さず。朕がこの詩、将に何を以てか示さん?」起居郎褚遂良に命じてその霊帳に詣り、読み終えてこれを焚かしめ、世南の神識の感悟を冀った。後数年、太宗は夜夢に之を見る。平生の如き有り。翌日、制を下して曰く。「礼部尚書・永興文懿公虞世南は、德行淳備し、文は辞宗たり、夙夜心を尽くし、志は忠益に在り。奄に物化に従い、倏に歳序を移す。昨因りて夜夢に、忽ち其人を睹し、兼ねて讜言を進むること、平生の日の如し。遺美を追懐し、良く悲嘆を増す。宜しく冥助を資し、朕が旧を思う情を申すべし。可らく其の家に於いて五百僧の齋を設け、並びに天尊像一区を造るべし。」また勅して其の形を凌煙閣に図らしむ。集三十巻有り。褚亮に命じて之が序を為さしむ。世南の子昶、官は工部侍郎に至る。

李百薬

李百薬は、字を重規といい、定州安平の人で、隋の内史令・安平公李徳林の子である。幼少の頃は病気が多く、祖母の趙氏がわざと百薬と名付けた。七歳で文章を作ることができた。父の友人である斉の中書舎人陸乂と馬元熙がかつて徳林を訪ねて宴を開いた時、徐陵の文章を読む者がいて、「既に成周の禾を取り、将に琅邪の稻を刈らんとす」と言ったが、皆その故事を知らなかった。百薬はその時傍らに侍っていたが、進み出て言った、「『伝』に『鄅人、稻を藉る』とある。杜預の『注』に『鄅国は琅邪開陽に在り』と云う」。乂らは大いに驚き、彼を異才と認めた。開皇の初め、東宮通事舎人に任じられ、太子舎人に転じ、東宮学士を兼ねた。その才能を嫉んで誹謗する者がいたため、病と称して免職を願い出た。十九年、仁寿宮に召し出され、父の爵位を継ぐことを命じられた。左僕射楊素と吏部尚書牛弘はその才能を特に愛で、上奏して礼部員外郎に任じさせ、皇太子楊勇もまた召して東宮学士とした。詔により五礼を修定し、律令を制定し、陰陽書を撰することを命じられた。台内の奏議文表は、多く百薬の撰によるものであった。時に煬帝が揚州に出鎮した際、かつて彼を召したが、百薬は病気を理由に赴かず、煬帝は大いに怒り、即位すると、桂州司馬として出された。沈法興に捕らえられ、掾に任じられた。その後、州を廃して郡を置いたため、職を解かれて郷里に帰った。大業五年、魯郡臨泗府歩兵校尉に任じられた。九年、会稽に戍守として赴いた。まもなく建安郡丞に任じられ、赴任の途上烏程に至った時、江都の難(煬帝殺害)が起こり、また沈法興が李子通に撃破され、子通もまた彼を中書侍郎・国子祭酒に任じた。杜伏威が子通を攻め滅ぼすと、また百薬を行台考功郎中とした。彼を讒言する者がいたため、伏威は彼を囚えたが、百薬は『省躬賦』を著してその心情を表し、伏威もまた彼に罪のないことを知り、復職を命じた。伏威が江南を領有すると、高祖(李淵)は使者を遣わして招撫し、百薬は伏威に入朝を勧め、伏威はこれに従い、その行台僕射輔公祏と百薬を留守とし、京師に赴いた。長江を渡り歴陽に至ると、狐疑して後悔し、百薬を害そうとし、石灰酒を飲ませたため、激しい下痢をしたが、持病がすべて治った。伏威は百薬が死ななかったことを知り、公祏に書を送って百薬を殺すよう命じたが、伏威の養子王雄誕の保護により難を免れた。公祏が反乱すると、また百薬を吏部侍郎に任じた。高祖に対して百薬を讒言する者がおり、百薬が最初に杜伏威に入朝を説き、また輔公祏とともに反乱したと云った。高祖は大いに怒った。公祏が平定された時、伏威が公祏に送った百薬殺害命令の書状を得て、高祖の怒りはやや解け、涇州に配流した。

太宗はその才能と名声を重んじ、貞観元年、召して中書舎人に任じ、安平県男の爵位を賜った。詔を受けて『五礼』及び律令を修定し、『斉書』を撰する。二年、礼部侍郎に任じられた。朝廷で諸侯封建を行おうと議論すると、百薬は『封建論』を上奏して言った。

臣聞く、国を経営し民を庇うは、王者の常の制なり。主を尊び上を安んずるは、人情の本の道なり。治定の規を闡明せんと思い、長世の業を弘めんとする者は、万古不易、百慮同帰す。然れども命暦には賒促の殊あり、邦家には理乱の異あり、遠く載籍を観れば、これを論ずること詳かなり。皆、周はその数を過ぎ、秦は期に及ばずと云う。存亡の理は、郡国に在り。夏殷の長久を監み、黄唐の並建に遵い、維城盤石、深根固本とし、王綱弛廃すと雖も、枝幹相い持つ。故に逆節生ぜず、宗祀絶えざらしむ。秦氏は師古の訓に背き、先王の道を棄て、華を践み険に恃み、侯を罷めて守を置く。子弟には尺土の邑無く、兆庶には共治の憂い罕なり。故に一夫が沢に号すれば、七廟の祀隳つ。臣以為るに、古より皇王、宇内に君臨する者は、上玄の命を受けて帝録に名を飛ばさざるは莫し。締構は興王の運に遇い、殷憂は啓聖の期に属す。魏武の携養の資、漢高の徒役の賤と雖も、意に覬覦あるのみならず、これを推しても去ること能わざるなり。若しその獄訟帰せず、菁華已に竭きれば、帝堯の光四表に被り、大舜の上七政に斉うと雖も、情に揖讓を存するのみならず、これを守るも固くすべからざるなり。放勳・重華の徳を以てすら、尚その後を克昌せしめず。是れ知る、祚の長短は必ず天時に在り、政の盛衰は人事に関わる。隆周は代を卜すること三十、年を卜すること七百、淪胥の道斯に極まるも、文武の器猶存す。斯れ則ち亀鼎の祚、已に杳冥に懸定せられたるなり。南征して返らず、東遷して逼を避け、禋祀線の如く、郊畿守らずに至るは、此れ凌夷の漸にして、封建に累あるなり。暴秦は運短く閏余、数百六に鐘す。受命の主は、徳禹湯に異なり、継世の君は、才啓誦に非ず。仮令い李斯・王綰の輩、四履を盛んに開き、将閭・子嬰の徒、俱に千乗を啓くも、豈に帝子の勃興を逆らい、龍顔の基命に抗せんや。然らば則ち得失成敗、各々由有り。而して著述の家は、多く常轍を守り、古今に情を亡くし、澆淳に理を蔽わること莫からず。百王の季を以て、三代の法を行わんと欲す。天下五服の内、尽く諸侯を封じ、王畿千乗の間、俱に采地と為す。是れ結繩の化を以て、虞夏の朝に行い、象刑の典を以て、劉曹の末を治めんとす。紀綱既に紊るれば、断じて知るべし。船を鍥りて剣を求むるは、未だ其の可なるを見ず。柱を膠して文を成すは、弥に惑う所多し。徒らに鼎を問い隧を請うて、霸王の師を懼るる有るを知り、白馬素車、復た藩籬の援無きを知る。望夷の釁、未だ甚だしからずと悟らず、羿浞の災に比す。高貴の殃、寧ろ申繒の酷に異ならんや。乃ち欽明昏乱、自ら安危を革む。固より守宰公侯を以て、興廃を成すに非ず。且つ数世の後、王室浸く微なり。始めは藩屏よりして、仇敵と化す。家は俗を殊にし、国は政を異にし、強は弱を凌ぎ、衆は寡を暴にす。疆場彼此、干戈日々に尋ぬ。狐駘の役、女子尽く髽す。崤陵の師、只輪返らず。斯れ蓋し一隅を略挙するのみ、其の余数うべからず。陸士衡方に規規然として云う、「嗣王其の九鼎を委ね、凶族其の大邑を据う。天下晏然として、乱を待つに治を以てす」と。何ぞ斯の言の謬れるや。而して官を設け職を分ち、賢を任せ能を使い、循吏の才を以て、共治の寄に膺る。郡を刺し竹を分つは、何れの代にか人無からん。地或いは祥を呈し、天宝を愛せず、民父母と称し、政神明に比するに至る。曹元首方に区区然として称す、「人と其の楽を共にする者は、人必ず其の憂を憂え、人と其の安を同うする者は、人必ず其の危を拯う」と。豈に侯伯に委すれば則ち其の安危を同うし、牧宰に任すれば則ち其の憂楽を殊にするを容れんや。何ぞ斯の言の妄れるや。封君列国は、慶門の資を藉り、其の先業の艱難を忘れ、其の自然の崇貴を軽んず。世淫虐を増し、代驕侈を益すこと莫からず。離宮別館よりして、漢を切って雲を凌ぎ、或いは人力を刑して将に尽きんとし、或いは諸侯を召して共に楽しむ。陳霊は則ち君臣礼に悖り、共に徴舒を侮る。衛宣は則ち父子麀を聚め、終に寿・朔を誅す。乃ち己の為に治を思うと云う、豈に是の如くならんや。内外の群官は、朝廷より選び、士庶を擢びて之を任じ、水鏡を澄まして之を鑑とす。年労は其の階品を優し、考績は其の黜陟を明らかにす。進取事切にして、砥礪情深し。或いは俸禄私門に入らず、妻子官舎に之かず。条を頒つ貴きも、食は火を挙げず。符を剖く重きも、衣は唯だ葛を補う。南郡太守は、布を敝て身を裹い、萊蕪県長は、塵凝りて甑に生ず。専ら利を図り物を為すと云う、何ぞ其れ爽なるや。総じて之を言えば、爵は世及に非ず、賢を用うるの路斯に広し。民は定主無く、下に附するの情固からず。此れ愚智の辨する所、安んぞ惑うべけんや。国を滅ぼし君を弑し、常を乱し紀を幹るが如きは、春秋二百年の間、略々寧歳無し。次睢咸に秩し、遂に玉帛の名を用う。魯道蕩として、毎に衣裳の会に等し。縦え西漢哀平の際、東洛桓霊の時と雖も、下吏淫暴、必ず此に至らず。政を為すの理は、一言を以て之を蔽うべし。伏して惟うに、陛下は紀を握り天を御し、期に膺り聖を啓き、億兆の焚溺を救い、氛昆を寰区に掃う。創業垂統、二儀に配して徳を立て、号を発し令を施し、万物を妙として言と為す。独り宸衷を照らし、永く前古を懐い、将に五等を復して旧制を修め、万国を建てて諸侯を親しまんとす。窃に漢魏以還、余風の弊未だ尽きず、勳華既往、至公の道斯に革まる。況んや晉氏は馭を失い、宇県崩離す。後魏時に乗じ、華夷雑処す。重ねて関河分阻し、呉楚懸隔す。文を習う者は長短縦横の術を学び、武を習う者は尽く干戈戦争の心にあり。畢く狙詐の階と為り、弥に澆浮の俗を長ず。開皇運に在り、外家に因藉す。群英を駆御し、雄猜の数を任す。坐して時運を移すも、克定の功に非ず。年二紀を逾え、民徳を見ず。大業文を嗣ぎ、世道交喪す。一時の人物、地を掃うて将に尽きんとす。天の神武を縦え、寇虐を削平すと雖も、兵威息まず、労止未だ康ならず。陛下聖慈に仰順し、宝歴を嗣膺してより、治を致すに情深く、前王を綜核す。至道は名無しと雖も、言象の紀する所、梗概を略陳すれば、実に庶幾す。愛敬蒸蒸として、労して倦まず、大舜の孝なり。内豎に安を訪い、親しく御膳を嘗むるは、文王の徳なり。毎に憲司罪を讞し、尚書獄を奏するに、大小必ず察し、枉直咸ず申す。断趾の法を挙げ、大辟の刑を易うるは、仁心隠惻、幽顕に貫徹し、大禹の辜に泣くなり。正色直言し、虚心受納し、鄙陋を簡にせず、芻蕘を棄てず、帝堯の諫を求むるなり。名教を弘奨し、学徒を勧勵し、既に明経を青紫に擢び、将に碩儒を卿相に升さんとす、聖人の善く誘うなり。群臣、宮中暑湿にして、寝膳或いは乖うを以て、御を高明に徙し、一小閣を営まんことを請う。遂に家人の産を惜しみ、竟に子来の願を抑え、陰陽の感ずる所を吝しまずして、卑陋の居を安んず。去歳荒儉、普く天饑饉し、喪乱甫爾にして、倉廩空虚なり。聖情矜愍し、勤めて恵恤を加う。竟に一人も路に流離せず、猶且つ藜藿を食啖し、簨弶を撤するを楽しまず。言必ず淒動し、貌癯瘠を成す。公旦は重訳を喜び、文命は其の即序を矜る。陛下は毎に四夷款附し、万里仁に帰すれば、必ず退きて進省を思う。神を凝らし慮を動かし、妄りに中国を労して遠方を事とせんことを恐れ、万古の英声を藉りずして、一時の茂実を存せんとす。心憂労に切にして、跡游幸を絶つ。毎旦朝を視し、聴受倦まず。智は万物に周り、道は天下を済う。朝を罷むるの後、名臣を引進し、是非を討論し、肝膈を尽くす。唯だ政事に及び、更に異辞無し。才に日昃に及び、才学の士を命じ、清閑を賜い、典籍を高談し、文詠を雑え、玄言を間う。乙夜に疲れを忘れ、中宵寐ず。此の四道、独り往初を邁る。斯れ実に生民以来、一人のみ。茲の風化を弘め、四方に昭示すれば、信に以て期月の間、天壤を弥綸すべし。而して淳粹尚お阻まれ、浮詭未だ移らず。此れ習の永久による、卒変に難し。斫雕朴を成し、質を以て文に代え、刑措の教一行し、登封の礼雲わく畢らんを待ち、然る後に疆理の制を定め、山河の賞を議せんは、未だ晚しと為さず。《易》に称す、「天地盈虚、時に消息す、況んや人をや」と。美なるかな、斯の言や。

太宗はついにその議に従った。四年、太子右庶子を授けられる。五年、左庶子の於志寧・中允の孔穎達・舍人の陸敦信とともに弘教殿で侍講した。時に太子は典籍にかなり留意していたが、閑暇の後は遊戯が過度であり、百薬は『賛道賦』を作ってこれを諷したが、その文辞は多く載せない。太宗はこれを見て使者を遣わし百薬に告げて言うには、「朕は皇太子のところで卿の献上した賦を見たが、古来の儲貳(皇太子)の事をことごとく述べて太子を戒めており、まことに典要である。朕が卿を選んで太子を輔弼させたのは、正にこの事のためであり、大いに委任にふさわしい。ただ善く始めて終わりを全うすることを要するのみである」と。よって彩物五百段を賜う。しかし太子はついに悟らずして廃された。十年、『斉史』の撰述が完成したことにより、散騎常侍を加えられ、行太子左庶子となり、物四百段を賜う。まもなく宗正卿を除かれる。十一年、『五礼』及び律令の撰述が完成したことにより、爵を進めて子とされる。後数年を経て、年老いたことを理由に固く致仕を請い、許される。太宗はかつて『帝京篇』を制作し、百薬に命じてこれに並び作らせた。上はその巧みさを嘆賞し、手詔して曰く、「卿は何と身は老いて才は壮んなり、歯は宿(老)いて意は新たなることか」と。二十二年に卒す。八十四歳。諡して康という。百薬は名臣の子として、才と行いが相継ぎ、四海の名流、宗仰せざるはなかった。藻思は沈鬱にして、特に五言詩に長じ、樵童や牧豎に至るまで、皆これを吟諷した。性は後進を引き立てることを好み、提げ奨めて倦むことがなかった。得た俸禄は多く親族や朋党に分け与えた。また至性は人に過ぎ、初め父母の喪に侍して郷里に還る時、徒跣で単衣のまま数千里を行き、服闋して数年を経ても、容貌は毀悴して、当時に称された。及び懸車して老いを告げると、怡然として自得し、池を穿ち山を築き、文酒談賞して、平生の志を舒べた。文集三十巻あり。子に安期がいる。

百薬の子、安期。

安期は幼くして聡明で弁舌に優れ、七歳で文章を作ることを理解した。初め、百薬が大業末に出て桂州司馬となり、太湖に至った時、逆賊に遇い、白刃を加えようとした。安期は跪き泣いて父の命に代わることを請うた。賊は哀れんでこれを釈放した。貞観初め、累転して符璽郎となる。『晋書』の編纂に参預して完成し、主客員外郎を除かれる。永徽年中、中書舎人に遷る。また李義府らと武徳殿内で書を修め、再転して黄門侍郎となる。龍朔年中、司列少常伯となり、軍国の事に参ずる。泰山に事有り、詔して安期に朝覲壇の碑文を作らせる。安期は前後三度選部(吏部)を務め、当時大いに称された。時に高宗はしばしば侍臣を引見し、賢良を進めないことを責めた。衆皆対えるものなく、ただ安期が進み出て言うには、「臣聞く、聖帝明王は、賢を求めることに労し、任使することに逸するものなしと。仮に堯・舜が己を苦しめて癯瘠し、賢を用いることができなければ、終には王化も行われないでしょう。夏・殷以来、歴たる国数十、皆賢良に委ねて、共に理を致しました。かつ十室の邑といえども必ず忠信あり、況んや今天下は至って広大で、英彦無きにあらず。ただ近来公卿が推薦引き立てると、すぐに囂謗に遭い、朋党と為すとされます。沈屈する者は未だ申さず、在位する者は既に損なわれ、それゆえ人は苟くも免れんと思い、競って緘黙するのです。若し陛下が虚己して招き納れ、務めて搜訪し、親讎を忌まず、唯能を用いるならば、讒毀も既に入らず、誰か敢えて忠誠を竭さざらん。これ皆事は陛下に由るもので、臣等の能く致すところではございません」と。高宗は深くその言を然りとする。まもなく検校東台侍郎・同東西台三品となり、出でて荊州大都督府長史となる。咸亨初めに卒す。徳林より安期に至る三世、皆制誥を掌る。安期の孫の羲仲、また中書舎人となる。

褚亮

褚亮、字は希明、杭州銭塘の人。曾祖の湮は梁の御史中丞。祖の蒙は太子中舎人。父の玠は陳の秘書監。皆前史に著名である。その先祖は陽翟より徙り居す。亮は幼くして聡敏で学を好み、文章を作ることを善くした。博覧して至らざるところなく、目に経るものは必ず心に記した。名賢と遊ぶことを喜び、特に談論を善くした。十八歳の時、陳の僕射徐陵に詣でる。陵は文章について商榷し、深くこれを異とした。陳の後主はこれを聞き召し見て、詩を賦させた。江総及び諸辞人が在座し、推して善しとせざるはなかった。禎明初め、尚書殿中侍郎となる。陳滅び、隋に入り東宮学士となる。大業年中、太常博士を授けられる。時に煬帝は宗廟を改め置かんとし、亮は奏議して曰く。

謹んで『礼記』を按ずるに、「天子七廟、三昭三穆、太祖の廟と合わせて七つなり」とある。鄭玄の『注』に曰く、「これは周の制なり。七とは、太祖及び文王・武王の祧(遠祖の廟)と、親廟四つなり。殷は則ち六廟、契及び湯と二昭二穆なり。夏は則ち五廟、太祖なく、禹と二昭二穆のみなり」と。玄はまた『礼』に拠りて、「王者はその祖の出づる所を禘し、四廟を立てる」とす。鄭玄の義を案ずるに、天子は唯だ四親廟を立て、始祖と合わせて五つとなす。周は文王・武王を受命の祖とし、特に二祧を立て、これ七廟となす。王肅が『礼記』に注して曰く、「尊者は尊統上にあり、卑者は尊統下にあり。故に天子七廟、諸侯五廟なり。其れ殊功異徳有る者は、太祖に非ざれども毀たず、七廟の数に在らず」と。王肅の説を案ずるに、天子七廟は百代の言なり。また『王制』に拠れば天子七廟、諸侯五廟、大夫三廟、二を降して差と為す。是れ則ち天子は四親廟を立て、また高祖の父、高祖の祖父、太祖を立てて七つと為す。周は文王・武王・姜嫄有りて合せて十廟と為す。漢の世は諸帝の廟各々立ち、迭毀の義無し。元帝の時に至り、貢禹・匡衡の徒始めて其の礼を議し、高帝を太祖と為し、四親を立て、是れ五廟と為す。唯だ劉歆は以て天子七廟、諸侯五廟、降殺以て両の義と為し、七は其の正法にして常数とす可しと為す。宗は此の数に在らず、功徳有れば則ち之を宗し、予め数と為して設くる可からずと。是れを以て班固は「諸儒の議を考論するに、劉歆博にして旧し」と称す。光武即位し、高廟を洛陽に建つ。乃ち南頓君以上四廟を立て、祖宗に就いて七つと為す。魏の初めに至り、高堂隆は鄭学を為し、親廟四つを立てるを議し、太祖武帝猶ほ四親の内に在り、乃ち太祖及び二祧を虚しく置きて後世を待つ。景初の間に至り、乃ち王肅に依り更に六廟を立て、二世祖四親に就いて六廟と為す。晋の武帝禅を受け、宗祀を博く議し、文帝以上より六世の親祖征西府君に至り、而して宣帝も亦た昭穆に序せられ、未だ太祖に昇らず、故に祭は六世に止まる。江左中興し、賀循礼を知り、寢廟の議に至るまで、皆魏・晋の旧事に依る。宋の武帝初め受命して王と為り、諸侯に依り親廟四つを立て、即位の後、五世祖相国掾府君、六世祖右北平府君を祠り増し、六廟に止まり、身没して主昇し、亦た昭穆に従い、猶ほ太祖の位の如し。降りて斉・梁に及び、守りて革めず、宗を加え迭毀し、礼旧に違わず。臣又た按ずるに、姬周は太祖已下より、皆別に廟を立て、禘祫に至りては、俱に太祖に合食す。是れを以て炎漢の初め、諸廟各々立ち、歳時の常享も亦た処に随いて祭り、用うる所の廟楽は皆功徳に像りて歌舞す。光武に至りて乃ち総べて一堂を立て、而して群主室を異にす。斯れ則ち新たに寇乱を承け、約省に従わんと欲するなり。此れ已来より、因循して変ぜず。皇隋の太祖武元皇帝は仁風潜かに暢き、至沢傍らに通じ、昆・彭の勳を以て、稷・契の緒を開く。高祖文皇帝はえい哲玄覧し、神武期に応じ、乱を撥ぎて正に返し、遠く肅しく邇く安んじ、命を受けて基を開き、統を垂れて聖嗣と為り、鴻名三代に冠たり、宝祚七百に伝わる。文明の運に当たり、祖宗の礼を定む。且つ損益同じからず、沿襲趣きを異にし、時の王の制する所、以て法を垂るる可し。歴代已来より、親しく王・鄭の二義を用う。若し其の旨帰を尋ね、優劣を校するに、康成は唯だ周代を論じ、経通を謂うに非ず。子雍は皇王を総貫し、事長遠を兼ぬ。今古典に拠り、七廟を崇建し、受命の廟は宜しく別に廟を立て、百世の後の祧は毀たざるの法とす可きを請う。鑾駕親奉するに至りては、孝享を高廟に申べ、有司事を行うには、誠敬を群主に竭す。夫れ規模則とす可く、厳祀遵い易くし、功有るを表し明徳を彰し、大いに古に復して能く変ずるを貴ぶ。臣又た按ずるに、周人の廟を立つるも、亦た処置の文無く、冢人の職に拠りて之を言えば、先王中に居り、昭穆を以て左右と為す。阮忱の撰する所の『礼図』も、亦た此の義に従う。漢京の諸廟は既に遠く、又た禘祫を序せず。今若し周制に依らば、理未だ安からず、漢儀を雑用すれば、事全く采る難し。謹んで詳しく別図を立てて之に附す。

議未だ行わられず、尋で楊玄感と旧有りて坐し、左遷されて西海郡司戸と為る。時に京兆郡博士潘徽も亦た筆札を以て玄感に礼せられ、降されて威定県主簿と為る。当時寇盗縦横し、六親相保つ能わず。亮は同行し、隴山に至り、徽病に遇いて終わる。亮親しく棺を加えて斂め、路側に瘞し、慨然として傷懷し、遂に詩を隴樹に題す。好事者皆伝写し諷誦し、信宿にして京邑に遍くす。薛挙隴西に号を僭し、亮を以て黄門侍郎と為し、機務を之に委ぬ。挙滅びるに及び、太宗亮の名を聞き、深く礼接を加え、因りて従容自ら陳ぶ。太宗大いに悦び、物二百段・馬四匹を賜う。従いて京師に還り、秦王文学を授く。

時に高祖は寇乱が漸く平定されたことを以て、毎冬狩猟を行った。褚亮は上疏して諫めて曰く、「臣は聞く、堯は鼓を設けて諫言を納れ、舜は木を立てて箴言を求め、盛んなる昌隆の風を克くし、昇平の道を致すと。伏して惟うに、陛下は千祀の期に応じ、百王の弊を拯い、天下を平一し、帝業に劬労し、旰食して政を思い、寝食を廃して人を憂う。農隙の余りを用い、冬狩の礼に遵う。獲車の游践する所、虞旗の渉歴する所、網は唯一面、禽は三駆に止まり、広成の狩士を縦し、上林の手搏を観る。斯れ固より畋弋の常規にして、皇王の壮観なり。至りて猛獣に親しく逼るに及んでは、臣窃かに之を惑う。何となれば、筋力驍悍にして、爪牙軽捷なり。連弩一発も、未だ必ずしも其の凶心を挫かず、長戟才た捴るも、能く其の憤気に当たらず。孟賁左に抗し、夏育前に居ると雖も、卒然驚軼して、事は慮表に生ず。もし或いは林叢に近く起り、未だ坑谷を填めずして、属車の後乗を駭かし、官騎の清塵を犯すことあらんか。小臣怯懦にして、私に懐に顫慄す。陛下は至聖の資を以て、将来の教を垂れ、情を降して下を納れ、直言を隔てること無し。臣叨かに明時に逢い、籓邸に遊宦し、身漸く栄渥に漸み、日用知らず、敢えて天造に縁り、丹懇を冒して陳す」と。高祖は甚だ之を納れた。太宗は征伐有る毎に、亮は常に侍従し、軍中の宴筵には必ず歓賞に預かり、従容として諷議し、裨益する所多かった。又杜如晦等十八人と共に文学館学士となり、太宗が春宮に入居するに及び、太子舎人を除かれ、太子中允に遷った。貞観元年、弘文館学士となる。九年、員外散騎常侍を進授され、陽翟県男に封ぜられ、通直散騎常侍を拝し、学士は元の如し。十六年、侯に進爵し、食邑七百戸。後に致仕して家に帰った。太宗が遼東に幸するに当たり、亮の子遂良は黄門侍郎であり、詔して遂良に亮に謂わしめて曰く、「昔年師旅の際、卿は常に幕に入りしが、今茲の遐伐に、君は已に懸車す。倏忽の間に、三十載を移す、疇昔を眷言すれば、我が労如何んぞ!今遂良をして東行せしむるに、公の朕に於けるを想うに、一児を膝下に惜しまざる耳、故に離意を陳べしめ、善く居りて食を加えよ」と。亮は表を奉じて謝を陳べた。及び寝疾に及び、詔して医薬を遣わして救療せしめ、中使候問絶えず。卒す時年八十八。太宗は甚だ之を悼惜し、一日朝を視ず、太常卿を贈り、昭陵に陪葬し、謚して康と曰う。長子遂賢は、雍王友を守る。次子遂良は、自ら伝有り。

初め太宗は寇乱を平定した後、儒学に留意し、乃ち宮城の西に文学館を起して、四方の文士を待った。ここに於いて、大行台司勲郎中杜如晦、記室考功郎中房玄齢及び于志寧、軍諮祭酒蘇世長、天策府記室薛収、文学褚亮・姚思廉、太学博士陸徳明・孔穎達、主簿李玄道、天策倉曹李守素、記室参軍虞世南、参軍事蔡允恭・顔相時、著作佐郎摂記室許敬宗・薛元敬、太学助教蓋文達、軍諮典籤蘇勗を以て、並びに本官を以て文学館学士を兼ねしめた。及び薛収が卒すると、復た東虞州録事参軍劉孝孫を征して館に入れた。尋いで其の状貌を図り、其の名字・爵里を題し、乃ち亮に命じて之が像賛を作らしめ、『十八学士写眞図』と号し、之を書府に蔵して、礼賢の重きを彰わした。諸学士には並びに珍膳を給し、三番に分かれて、更に閣下に直宿し、軍国の務め静まる毎に、参謁帰休すれば、即ち便ち引見し、墳籍を討論し、前載を商略した。館に入るに預かる者は、時に傾慕せられ、之を「瀛洲に登る」と謂った。顔相時の兄は師古、蘇勗の兄の子は干。

附 劉孝孫

劉孝孫は、荊州の人である。祖父の貞は、周の石台太守。孝孫は弱冠にして知名となり、当時の辞人虞世南・蔡君和・孔徳紹・庾抱・庾自直・劉斌等と山水に登臨し、文会を結んだ。大業末、王世充に没し、世充の弟偽杞王辯が行台郎中に引いた。洛陽平定に及び、辯は面縛して帰国し、衆皆離散したが、孝孫は猶攀援号慟して、遠郊まで追送し、時人は之を義とした。武徳初、虞州録事参軍を歴任し、太宗は秦府学士に召した。貞観六年、著作佐郎・呉王友に遷る。嘗て歴代の文集を採り、王の為に『古今類序詩苑』四十巻を撰す。十五年、本府諮議参軍に遷る。尋いで太子洗馬に遷るも、未だ拝せずして卒す。

附 李玄道

李玄道は、本は隴西の人であるが、世々鄭州に居り、山東の冠族となった。祖父の瑾は、魏の著作佐郎。父の行之は、隋の都水使者。玄道は隋に仕えて斉王府属となる。李密が洛口を拠るに及び、記室に引かれた。密が破れるに及び、王世充に執われた。是の時、同じく凶俘に遇う者は皆死を懼れ、曙に達するも寐ず、唯玄道のみ顔色自若として曰く、「死生は命に有り、憂いて能く了うるに非ず」と。同じく拘わる者は雅に其の識量を推した。世充に見えるに及び、挙措其の常を改めず。世充は素より其の名を知り、益々之を重んじ、縛を釈いて著作佐郎と為した。東都平定に及び、太宗は秦王府主簿・文学館学士に召した。貞観元年、累遷して給事中となり、姑臧県男に封ぜられる。時に王君廓が幽州都督たり、朝廷は其の武将にして時事に習わざるを以て、玄道を幽州長史に拝し、以て府事を維持せしむ。君廓は州に在りて屡々非法を為し、玄道は数え正議を以て之を裁した。嘗て又玄道に一婢を遺わす、玄道婢の由る所を問うに、云う本良家の子、君廓に掠められたると、玄道因りて之を放遣す、君廓は甚だ悦ばず。後に君廓の入朝に遇い、房玄齢は即ち玄道の従甥なり、玄道書を附す、君廓私に発き、草字を識らず、其の己を謀るを疑い、懼れて奔叛す、玄道坐して巂州に流される。未幾征還され、常州刺史と為る。職に在りて清簡、百姓之に安んず、太宗詔を下して褒美し、綾彩を以て賜う。三年、表して致仕を請い、銀青光禄大夫を加えられ、禄を以て第に帰り、尋いで卒す。子の雲将、知名。官は尚書左丞に至る。

附 李守素

李守素は、趙州の人、代々山東の名族と為る。太宗が王世充を平ぐるに及び、文学館学士に征され、天策府倉曹参軍に署せられる。守素は尤も譜学に工なり、晋宋已降より、四海の士流及び諸勲貴華戎の閥閲に至るまで、詳しく究めずと云うこと無く、当時「行譜」と号された。嘗て虞世南と共に人物を談じ、江左・山東を言えば、世南は猶相酬対すれども、北地の諸侯を言うに及んでは、次第流るるが如く、其の世業を顕わし、皆援証有り、世南は但だ掌を撫って笑い、復た能く答えること無く、嘆じて曰く、「行譜定めて畏る可し」と。許敬宗因りて世南に謂いて曰く、「李倉曹は善く人物を談ずるを以て、乃ち此の名を得たり、美事と為すと雖も、然れども雅目に非ず。公既に言成って准的と為す、宜しく当に之を改むる有るべし」と。世南曰く、「昔任彦升は経籍を美談し、梁代に『五経笥』と称せらる。今倉曹を目して『人物誌』と為す可し」と。貞観初に卒す。

史臣曰く

史臣曰く、劉并州(劉琨)に言あり、「和氏の璧は、郢握に独り耀くに非ず、夜光の珠は、何ぞ専ら隋掌に玩ぶに止まらんや。天下の宝は、固より天下と共にすべきなり」と。虞永興(虞世南)の建德に従い、李安平(李百薬)の公祏を佐け、褚陽翟(褚亮)の薛挙に依るは、蓋し大渇すれば泉を択んで飲む能わず、大暑すれば蔭を択んで息う能わざるが如きのみ。其の飲憩する所を識らざるに非ず。文皇帝(太宗)三辰を掲げて天下を燭するに及び、群賢霧集し、人の奉ずる所、方に天池に鱗を躍らせ、春山に価を擅にして、一代の至宝と為る。則ち托する所の勢異なるなり。隋掌郢握、何ぞ常ならんや。二虞(虞世基・世南)昆仲、文章隋唐の際に炳蔚たり。褚河南(褚遂良)父子、箴規献替、貞観永徽の間に洋溢す。所謂代に人あり、而して三家尤も盛なり。

賛に曰く、猗なるかな文皇、蒼昊を蕩滌す。十八文星、連輝炳耀す。虞・褚の筆、動くこと神有るが若し。安平の什、老いて弥新なり。

原本を確認する(ウィキソース):旧唐書 巻072