舊唐書

巻071

巻071

舊唐書

原文舊唐書

卷七十一

原文卷七十一

列傳第二十一 魏-{徵}-

原文列傳第二十一 魏-{徵}-

魏徴

原文魏徵

魏徴、字は玄成、鉅鹿郡曲城の人である。父の長賢は、北斉の屯留県令であった。徴は幼くして孤貧となり、落拓として大志を抱き、生業に従わず、出家して道士となった。書を読むことを好み、広く諸学に通じ、天下が次第に乱れるのを見て、特に縦横の説に心を寄せた。大業の末、武陽郡丞の元宝蔵が兵を挙げて李密に応じ、徴を召し出して書記の職を掌らせた。密は宝蔵の上疏を見るたびに、常に善しと称賛していたが、徴の作ったものと聞くと、すぐに召し出した。徴は十策を進めて密に仕えようとしたが、密はこれを奇異とは思ったものの用いることはなかった。王世充が洛口で密を攻めたとき、徴は密の長史鄭頲に説いて言った、「魏公(李密)はたとえ急に勝ったとしても、驍ぎょう将や鋭卒の死傷は多い。また軍に府庫がなく、功があっても賞を与えない。戦士の心は惰っており、この二つの点では敵に応じるのは難しい。深い堀を掘り高い塁を築き、日を長く引き延ばして持久するに如くはない。一ヶ月も経たぬうちに、敵の食糧は尽き、戦わずして退却させ、追撃して勝つ道である。しかも東都(洛陽らくよう)の食糧は尽き、世充の計略も窮まり、死に物狂いで戦おうとしている。いわゆる窮寇は争鋒し難いというもので、どうか戦わないよう慎重にされたい」。頲は言った、「これは老生の常談に過ぎぬ」。徴は言った、「これは奇謀深策であって、何が常談か」。そこで衣を払って立ち去った。密が敗れると、徴は密に従って降伏し、京師に至ったが、長く知られるところとならなかった。自ら山東を安輯することを請うて、秘書丞に任じられ、駅伝を駆って黎陽に至った。当時徐世勣はまだ李密のために衆を擁しており、徴は世勣に書を送って言った。

原文魏徵,字玄成,鉅鹿曲城人也。父長賢,北齊屯留令。徵少孤貧,落拓有大志,不事生業,出家爲道士。好讀書,多所通涉,見天下漸亂,尤屬意縱橫之説。大業末,武陽郡丞元寶藏舉兵以應李密,召徵使典書記。密毎見寶藏之疎,未嘗不稱善,既聞徵所爲,遽使召之。徵進十策以干密,雖奇之而不能用。及王世充攻密於洛口,徵説密長史鄭頲曰:「魏公雖驟勝,而驍將銳卒死傷多矣;又軍無府庫,有功不賞。戰士心惰,此二者難以應敵。未若深溝高壘,曠日持久,不過旬月,敵人糧盡,可不戰而退,追而擊之,取勝之道。且東都食盡,世充計窮,意欲死戰,可謂窮寇難與爭鋒,請慎無與戰。」頲曰:「此老生之常談耳!」徵曰:「此乃奇謀深策,何謂常談?」因拂衣而去。及密敗,徵隨密來降,至京師,久不見知。自請安輯山東,乃授秘書丞,驅傳至黎陽。時徐世勣尚爲李密擁眾,徵與世勣書曰:

隋末の乱離より、群雄競い逐い、州を跨ぎ郡を連ねるもの、数え切れないほどであった。魏公(李密)は叛徒より起こり、臂を奮って大呼し、四方これに応じ、万里風の如く馳せ、雲の合い霧の聚まるが如く、衆数十万に及んだ。威の及ぶところ、天下の半ばに将ち、世充を洛口に破り、化及を黎山に摧いた。まさに西は咸陽を蹈み、北は玄闕を凌ぎ、旌を瀚海に揚げ、馬を渭川に飲まんとし、翻って百勝の威をもって、奔亡の虜に敗れた。固より神器の重きは、自ら帰する所あり、力を以て争うべからざるを知る。ここをもって魏公は皇天の眷顧を思い、函谷に入って疑わなかった。公(徐世勣)は擾攘の時に生まれ、知己の遇を感じた。根本は既に抜かれ、確乎として動かず、遺散を鳩合し、一隅を据え守った。世充は乗勝の余勇をもって、その東略を止め、建徳は侮亡の勢いに乗じて、南謀することを敢えてしなかった。公の英声は、以って今古に振るうに足る。然れども誰か善き始めあって、終わりを慮い難からざる者あらん。去就の機、安危の大節。もし名を策し地を得れば、九族その余輝に廕らされ、質を委ねて人に非ざれば、一身すら自ら保つ能わず。殷鑑遠からず、公の聞見する所なり。孟賁が躊躇すれば、童子之に先んず、幾を知るは其れ神なり、終日を俟たず。今公は必争の地に処り、宜しく速やかにすべき機に乗ずるに、さらに事を遅疑し、坐して成敗を観るが如くでは、恐らくは凶狡の輩、先んじて人心を生じ、則ち公の事は去らん」。

原文自隋末亂離,群雄競逐,跨州連郡,不可勝數。魏公起自叛徒,奮臂大呼,四方響應,萬里風馳,雲合霧聚,眾數十萬。威之所被,將半天下,破世充於洛口,摧化及於黎山。方欲西蹈咸陽,北凌玄闕,揚旌瀚海,飲馬渭川,翻以百勝之威,敗於奔亡之虜。固知神器之重,自有所歸,不可以力爭。是以魏公思皇天之乃睠,入函谷而不疑。公生於擾攘之時,感知己之遇。根本已拔,確乎不動,鳩合遺散,據守一隅。世充以乘勝餘勇,息其東略;建德因侮亡之勢,不敢南謀。公之英聲,足以振於今古。然誰無善始,終之慮難。去就之機,安危大節。若策名得地,則九族廕其餘輝;委質非人,則一身不能自保。殷鑑不遠,公所聞見。孟賁猶豫,童子先之,知幾其神,不俟終日。今公處必爭之地,乘宜速之機,更事遲疑,坐觀成敗,恐凶狡之輩,先人生心,則公之事去矣。

世勣は書を得て、遂に計を定めて使いを遣わし帰国し、倉を開いて糧を運び、淮安王神通の軍に饋った。間もなく建徳が衆を悉く南下させ、黎陽を攻め陥し、徴を捕らえ、起居舎人に任じた。建徳が捕らえられると、裴矩と共に西に入関した。隠太子(李建成)はその名を聞き、直ちに洗馬に引き立て、甚だ礼遇した。徴は太宗の勲業が日に隆盛になるのを見て、常に建成に早く処置を為すよう勧めた。敗れると、太宗は召し出して言った、「汝は我が兄弟を離間したのは何故か」。徴は言った、「皇太子がもし徴の言に従っていたならば、必ずや今日の禍はなかったでしょう」。太宗は平素から彼を器としており、詹事主簿に引き立てた。践祚すると、諫議大夫に抜擢し、鉅鹿県男に封じ、河北を安輯することを命じ、便宜従事を許した。徴は磁州に至り、前宮(隠太子府)の千牛李志安と、斉王(李元吉)府の護軍李思行が枷をはめられ京師に送られるのに遇った。徴は副使の李桐客に言った、「我らが命を受けた日、前宮・斉府の左右は、皆赦免して問わないと命じられた。今また思行を送るならば、これ以外に誰が自ら疑わぬことがあろうか。ただ使いを遣わすだけでは、彼らは必ず信じない。これは毫厘の差が千里の失いとなる。かつ公家の利は、知りて為さざる無く、寧ろ身を慮うるも、国家の大計を廃すべからず。今もし思行を釈放して遣わし、その罪を問わなければ、信義の感ずる所、遠くして至らざるは無い。古より、大夫疆を出づれば、苟くも社稷に利あれば、専ら之を行う可し。況んや今日の行いは、便宜従事を許されている。主上は既に国士として待遇されたのだから、どうして国士として報いないことがあろうか」。即ち思行らを釈放して遣わし、なお上啓して聞かせた。太宗は甚だ悦んだ。

原文世勣得書,遂定計遣使歸國,開倉運糧,以饋淮安王神通之軍。俄而建德悉眾南下,攻陷黎陽,獲徵,署爲起居舍人。及建德就擒,與裴矩西入關。隱太子聞其名,引直洗馬,甚禮之。徵見太宗勳業日隆,毎勸建成早爲之所。及敗,太宗使召之,謂曰:「汝離間我兄弟,何也?」徵曰:「皇太子若從徵言,必無今日之禍。」太宗素器之,引爲詹事主簿。及踐祚,擢拜諫議大夫,封鉅鹿縣男,使安輯河北,許以便宜從事。徵至磁州,遇前宮千牛李志安、齊王護軍李思行錮送詣京師。徵謂副使李桐客曰:「吾等受命之日,前宮、齊府左右,皆令赦原不問。今復送思行,此外誰不自疑?徒遣使往,彼必不信,此乃差之毫釐,失之千里。且公家之利,知無不爲,寧可慮身,不可廢國家大計。今若釋遣思行,不問其罪,則信義所感,無遠不臻。古者,大夫出疆,苟利社稷,專之可也。況今日之行,許以便宜從事,主上既以國士見待,安可不以國士報之乎?」即釋遣思行等,仍以啟聞,太宗甚悅。

太宗新たに即位し、政道に励精し、数たび魏徴を臥内に引き入れ、得失を訪ねた。

原文太宗新即位,勵精政道,數引徵入臥內,訪以得失。徵雅有經國之才,性又抗直,無所屈撓。太宗與之言,未嘗不欣然納受。徵亦喜逢知己之主,思竭其用,知無不言。太宗嘗勞之曰:「卿所陳諫,前後二百餘事,非卿至誠奉國,何能若是?」其年,遷尚書左丞。或有言徵阿黨親戚者,帝使御史大夫溫彥博案驗無狀,彥博奏曰:「徵爲人臣,須存形跡,不能遠避嫌疑,遂招此謗。雖情在無私,亦有可責。」帝令彥博讓徵,且曰:「自今後不得不存形跡。」他日,徵入奏曰:「臣聞君臣協契,義同一體。不存公道,唯事形跡,若君臣上下,同遵此路,則邦之興喪,或未可知。」帝瞿然改容曰:「吾已悔之。」徵再拜曰:「願陛下使臣爲良臣,勿使臣爲忠臣。」帝曰:「忠、良有異乎?」徵曰:「良臣,稷、契、咎陶是也。忠臣,龍逢、比干是也。良臣使身獲美名,君受顯號,子孫傳世,福祿無疆。忠臣身受誅夷,君陷大惡,家國並喪,空有其名。以此而言,相去遠矣。」帝深納其言,賜絹五百匹。貞觀三年,遷秘書監,參預朝政。徵以喪亂之後,典章紛雜,奏引學者校定四部書。數年之間,秘府圖籍,粲然畢備。時高昌王麹文泰將入朝,西域諸國咸欲因文泰遣使貢獻,太宗令文泰使人厭怛紇干往迎接之。徵諫曰:「中國始平,瘡痍未復,若微有勞役,則不自安。往年文泰入朝,所經州縣,猶不能供,況加於此輩。若任其商賈來往,邊人則獲其利;若爲賓客,中國即受其弊矣。漢建武二十二年,天下已寧。西域請置都護、送侍子,光武不許,蓋不以蠻夷勞弊中國也。今若許十國入貢,其使不下千人,欲使緣邊諸州何以取濟?人心萬端,後雖悔之,恐無所及。」上善其議。時厭怛紇干已發,遽追止之。後太宗幸九成宮,因有宮人還京,憩於湋川縣之官舍。俄又右僕射李靖、侍中王珪繼至,官屬移宮人於別所而舍靖等。太宗聞之,怒曰:「威福之柄,豈由靖等?何爲禮靖而輕我宮人!」即令案驗湋川官屬及靖等。徵諫曰:「靖等,陛下心膂大臣;宮人,皇后掃除之隸。論其委付,事理不同。又靖等出外,官吏訪朝廷法式,歸來,陛下問人間疾苦。靖等自當與官吏相見,官吏亦不可不謁也。至於宮人,供食之外,不合參承。若以此罪責縣吏,恐不益德音,徒駭天下耳目。」帝曰:「公言是也。」乃釋官吏之罪,李靖等亦寢而不問。尋宴於丹霄樓,酒酣。太宗謂長孫無忌曰:「魏徵、王珪,昔在東宮,盡心所事,當時誠亦可惡。我能拔擢用之,以至今日,足爲無愧古人。然徵毎諫我不從,發言輒即不應,何也?」對曰:「臣以事有不可,所以陳論,若不從輒應,便恐此事即行。」帝曰:「但當時且應,更別陳論,豈不得耶?」徵曰:「昔舜誡群臣:『爾無面從,退有後言。』若臣面從陛下方始諫,此即『退有後言』,豈是稷、契事堯、舜之意耶?」帝大笑曰:「人言魏徵舉動疎慢,我但覺嫵媚,適爲此耳。」徵拜謝曰:「陛下導之使言,臣所以敢諫,若陛下不受臣諫,豈敢數犯龍鱗?」是月,長樂公主將出降,帝以皇后所生,敕有司資送倍於永嘉長公主。徵曰:「不可。昔漢明欲封其子,云『我子豈與先帝子等?可半楚、淮陽。』前史以爲美談。天子姊妹爲長公主,子爲公主,既加『長』字,即是有所尊崇。或可情有淺深,無容禮相踰越。」上然其言,入告長孫皇后,後遣使齎錢四十萬、絹四百匹,詣徵宅以賜之。尋進爵郡公。七年,代王珪爲侍中,尚書省滯訟有不決者,詔徵評理之。徵性非習法,但存大體,以情處斷,無不悅服。初,有詔遣令狐德棻、岑文本撰《周史》,孔穎達、許敬宗撰《隋史》,姚思廉撰《梁》、《陳史》,李百藥撰《齊史》。徵受詔總加撰定,多所損益,薦在簡正。《隋史》序論,皆徵所作、《梁》、《陳》、《齊》各爲總論,時稱良史。史成,加左光祿大夫,進封鄭國公,賜物二千段。

魏徴は自ら国に功績無きを以て、徒に弁説を以て帷幄に参じたるのみとし、満盈を深く懼れ、後に目疾を以て頻りに表を上りて遜位を請う。太宗曰く、「朕卿を讎虜の中より抜き、公を以て枢要の職に任じ、朕の非を見るや、未だ嘗て諫めざること無し。公独り金の鉱に在るを見ざるか、何ぞ貴ぶに足らん。良冶鍛えて器と為り、便ち人の宝と為る所と為る。朕方に自ら金に比し、卿を以て良匠と為す。卿疾有りと雖も、未だ衰老と為さず、豈に便爾ならんや」と。其の年、徴又面して遜位を請う。太宗之に違い難く、乃ち徴を特進に拝し、仍て門下の事を知らしむ。其の後又頻りに四疎を上り、以て得失を陳ぶ。其の一に曰く。

原文徵自以無功於國,徒以辯説,遂參帷幄,深懼滿盈,後以目疾頻表遜位。太宗曰:「朕拔卿於讎虜之中,任公以樞要之職,見朕之非,未嘗不諫。公獨不見金之在礦也,何足貴哉?良冶鍛而爲器,便爲人所寶,朕方自比於金,以卿爲良匠。卿雖有疾,未爲衰老,豈得便爾?」其年,徵又面請遜位,太宗難違之,乃拜徵特進,仍知門下事。其後又頻上四疎,以陳得失。其一曰:

臣が観るに、古より受図膺運し、継体守文し、英傑を控御し、南面して下に臨む者は、皆厚徳を天地に配し、高明を日月に斉しくし、本枝百代、祚を伝えて窮き無からんことを欲す。然るに克終する者は鮮く、敗亡相継ぐ。その故は何ぞや。求めるところその道を失うによるなり。殷鑑遠からず、言うを得べし。昔、有隋に在りて、寰宇を統一し、甲兵強盛にして四十余年、風行すること万里、威動すること殊俗に及べり。一旦挙げてこれを棄て、尽く他人の有と為る。彼の煬帝は豈に天下の治安を悪み、社稷の長久を欲せざるや。故に桀虐を行い、以て滅亡に就かんや。その富強を恃み、後患を虞わざるなり。天下を駆りて以て欲に従い、万物を罄きて以て自ら奉り、域中の子女を采り、遠方の奇異を求む。宮宇は是を飾り、台榭は是を崇め、徭役時に無く、干戈戢まらず。外には威重を示し、内には多く険忌あり。讒邪の者は必ずその福を受け、忠正の者はその生を保つこと莫し。上下相蒙り、君臣の道隔たり、人命に堪えず、率土分崩す。遂に四海の尊を以て、匹夫の手に殞ち、子孫殄滅し、天下の笑いと為る。深く痛むべしや。聖哲機に乗じ、その危溺を拯い、八柱傾きて復た正し、四維絶えて更に張る。遠くは肅しく邇くは安んじ、期月を逾えず、残を勝ち殺を去り、百年を待たず。今、宮観台榭は尽くこれに居り、奇珍異物は尽くこれを収め、姫姜淑媛は尽く側に侍し、四海九州は尽く臣妾と為れり。若し彼の亡ぶる所以を鑑み、我の得る所以を念い、日一日に慎み、休むと雖も休まず。鹿台の宝衣を焚き、阿房の広殿を毀ち、峻宇に危亡を懼れ、卑宮に安処を思わば、則ち神化潜かに通じ、無為にして理む。これ徳の上なり。若し成功毀たず、即ちその旧に仍り、その不急を除き、これを損じて又損ず。茅茨を桂棟に雑え、玉砌に参じて土階を以てし、人を使うことを悦ばしめ、その力を竭さず、常にこれに居る者の逸を念い、これを作る者の労を念い、億兆悦びて子来し、群生仰ぎて性を遂ぐれば、これ徳の次なり。若し惟聖罔念、その終わりを慎まず、締構の艱難を忘れ、天命の恃むべきを謂い、彩椽の恭儉を忽せにし、雕牆の侈靡を追い、その基に因りてこれを広め、その旧を増してこれを飾り、類に触れて長じ、止足を思わず、人の徳を見ずして労役是れ聞こゆれば、これ下たるなり。譬えば薪を負いて火を救い、湯を揚げて沸きを止むるが如く、乱を以て乱に易え、乱と同道す。則るべき莫く、後嗣何をか観ん。則ち人怨み神怒る。人怨み神怒れば、則ち災害必ず下り、禍乱必ず作る。禍乱既に作るに、能く身名を以て令終する者は鮮し。天に順い革命したる後、七百の祚を隆くし、厥の孫に謀を貽し、これを万世に伝うるは、得難く失い易し。念わざるべけんや。

原文臣觀自古受圖膺運,繼體守文,控御英傑,南面臨下,皆欲配厚德於天地,齊高明於日月,本枝百代,傳祚無窮。然而克終者鮮,敗亡相繼,其故何哉?所以求之失其道也。殷鑑不遠,可得而言。昔在有隋,統一寰宇,甲兵強盛,四十餘年,風行萬里,威動殊俗;一旦舉而棄之,盡爲他人之有。彼煬帝豈惡天下之治安,不欲社稷之長久,故行桀虐,以就滅亡哉?恃其富強,不虞後患。驅天下以從欲,罄萬物以自奉,采域中之子女,求遠方之奇異。宮宇是飾,台榭是崇,徭役無時,干戈不戢。外示威重,內多險忌。讒邪者必受其福,忠正者莫保其生。上下相蒙,君臣道隔,人不堪命,率土分崩。遂以四海之尊,殞於匹夫之手,子孫殄滅,爲天下笑,深可痛哉!聖哲乘機,拯其危溺,八柱傾而復正,四維絶而更張。遠肅邇安,不逾於期月;勝殘去殺,無待於百年。今宮觀台榭,盡居之矣;奇珍異物,盡收之矣;姬姜淑媛,盡侍於側矣;四海九州,盡爲臣妾矣。若能鑑彼之所以亡,念我之所以得,日慎一日,雖休勿休。焚鹿台之寶衣,毀阿房之廣殿,懼危亡於峻宇,思安處於卑宮,則神化潛通,無爲而理,德之上也。若成功不毀,即仍其舊,除其不急,損之又損。雜茅茨於桂棟,參玉砌以土階,悅以使人,不竭其力,常念居之者逸,作之者勞,億兆悅以子來,群生仰而遂性,德之次也。若惟聖罔念,不慎厥終,忘締構之艱難,謂天命之可恃。忽彩椽之恭儉,追雕牆之侈靡,因其基以廣之,增其舊而飾之。觸類而長,不思止足,人不見德,而勞役是聞,斯爲下矣。譬之負薪救火,揚湯止沸,以亂易亂,與亂同道,莫可則也,後嗣何觀,則人怨神怒;人怨神怒,則災害必下,而禍亂必作。禍亂既作,而能以身名令終者,鮮矣!順天革命之後,隆七百之祚,貽厥孫謀,傳之萬世,難得易失,可不念哉

その二に曰く、

原文其二曰:

臣聞く、木の長きを求むる者は、必ずその根本を固くし、流の遠きを欲する者は、必ずその泉源を浚い、国の安きを思う者は、必ずその徳義を積むと。源深からずして豈に流の遠きを望まんや、根固からずして何をか木の長きを求めん。徳厚からずして国の治を思うは、下愚に在りと雖も、その不可なるを知る。況や明哲においてをや。人君、神器の重きに当たり、域中の大なるに居り、将に極天の峻を崇め、無疆の休を永く保たんとす。安きに居りて危うきを思わず、貪を戒めて儉を以てせず、徳その厚きに処せず、情その欲に勝たざれば、これ亦た根を伐って木の茂るを求め、源を塞いで流の長きを欲する者なり。凡そ百の元首、天の景命を承け、殷憂にして道著わさざるは莫く、功成りて徳衰うるは莫からず。善く始むる者は実に繁く、能く終わるを克つ者は蓋し寡し。豈にこれを取るは易くしてこれを守るは難きや。昔これを取るに有り余り、今これを守るに足らず。何ぞや。夫れ殷憂に在れば必ず誠を竭くして以て下に待ち、志を得て後は則ち情を縦にして以て物に傲る。誠を竭くすれば則ち胡越一体と為り、物に傲れば則ち骨肉行路と為る。これを厳刑を以て董め、威怒を以て振うと雖も、終に苟も免れて仁を懐かず、貌恭にして心服せず。怨み大なるに在らず、畏るべきは惟れ人なり。舟を載せ舟を覆すは、深く慎むべき所なり。奔車朽索、その忽せにすべけんや。人に君たる者、誠に能く欲すべきを見れば則ち知足を思いて以て自ら戒め、将に作す所有らば則ち知止を思いて以て人を安んじ、高危を念えば則ち謙沖を思いて以て自ら牧し、満溢を懼れば則ち江海を思いて百川に下り、盤遊を楽しまば則ち三驅を思いて以て度と為し、懈怠を恐るれば則ち始めを慎み終わりを敬するを思い、壅蔽を慮れば則ち虚心を思いて以て下を納れ、讒邪を想えば則ち身を正すを思いて以て悪を黜き、恩の加うる所は則ち喜びに因りて謬賞する無きを思い、罰の及ぶ所は則ち怒りに因りて濫刑する無きを思う。この十思を総べ、この九徳を弘め、能を簡びてこれを任じ、善を択びてこれに従う。則ち智者はその謀を尽くし、勇者はその力を竭くし、仁者はその恵を播き、信者はその忠を効す。文武争いて馳せ、君臣事無く、以て豫よ游の楽を尽くし、以て松喬の寿を養うべし。琴を鳴らし拱を垂れて、言わずして化す。何ぞ必ずしも神を労し思を苦しめ、下に代わって職を司り、聰明の耳目を役し、無為の大道を虧かんや。

原文臣聞求木之長者,必固其根本;欲流之遠者,必浚其泉源;思國之安者,必積其德義。源不深而豈望流之遠,根不固而何求木之長?德不厚而思國之治,雖在下愚,知其不可,而況於明哲乎!人君當神器之重,居域中之大,將崇極天之峻,永保無疆之休。不念於居安思危,戒貪以儉;德不處其厚,情不勝其欲,斯亦伐根以求木茂,塞源而欲流長者也。凡百元首,承天景命,莫不殷憂而道著,功成而德衰。有善始者實繁,能克終者蓋寡,豈其取之易而守之難乎?昔取之而有餘,今守之而不足,何也?夫在殷憂必竭誠以待下,既得志則縱情以傲物。竭誠則胡越爲一體,傲物則骨肉爲行路。雖董之以嚴刑,振之以威怒,終苟免而不懷仁,貌恭而不心服。怨不在大,可畏惟人。載舟覆舟,所宜深慎。奔車朽索,其可忽乎?君人者,誠能見可欲則思知足以自戒,將有所作則思知止以安人,念高危則思謙沖而自牧,懼滿溢則思江海而下百川,樂盤遊則思三驅以爲度,恐懈怠則思慎始而敬終,慮壅蔽則思虛心以納下,想讒邪則思正身以黜惡,恩所加則思無因喜以謬賞,罰所及則思無因怒而濫刑。總此十思,弘茲九德,簡能而任之,擇善而從之。則智者盡其謀,勇者竭其力,仁者播其惠,信者效其忠。文武爭馳,君臣無事,可以盡豫游之樂,可以養松喬之壽,鳴琴垂拱,不言而化。何必勞神苦思,代下司職,役聰明之耳目,虧無爲之大道哉!

その三に曰く、

原文其三曰:

臣が聞くに、『書経』に曰く、「明徳慎罰、惟れ刑恤あわれむべし」と。『礼記』に云う、「上かみの為すに易やすく事つかえ、下しもの為すに易く知らしむれば、則ち刑煩わずらわしからず。上多く疑えば則ち百姓惑い、下知り難ければ則ち君長労す」と。夫れ上易事、下易知、君長労せず、百姓惑わず。故に君一徳有れば、臣二心無し。上忠厚の誠を播ひろめ、下股肱の力を竭つくせば、然る後に太平の基墜おちず、「康やすきかな」の詠起る。当今、道華夷に被おおわれ、功宇宙に高し。服さざる無く、遠きに至らざる無し。然れども言は尚たっとぶに簡大かんだいを以てし、志は明察に在り。刑賞の本は、善を勧め悪を懲らすに在り。帝王の天下と画一かくいつを為す所以は、親疎貴賤を以て軽重せざるなり。今の刑賞は、必ずしも尽く然らず。或いは申屈しんくつは好悪に在り、軽重は喜怒に由る。喜に遇えば則ち其の刑を法中に矜あわれみ、怒に逢えば則ち其の罪を事外に求む。好む所は則ち皮を鑽きり其の毛羽を出だし、悪む所は則ち垢を洗い其の瘢痕はんこんを求む。瘢痕求め可ければ、則ち刑斯ここに濫みだる。毛羽出だす可ければ、則ち賞典謬あやまる。刑濫れば則ち小人の道長じ、賞謬れば則ち君子の道消ゆ。小人の悪懲らさず、君子の善勧めずして、治安刑措けいそを望むは、聞かざる所なり。且つ夫れ豫暇よか清談は、皆孔・老を敦尚とんしょうす。威怒の至る所は、則ち申・韓に法を取る。直道を行い、三黜さんちゅつ無きに非ず。危き人を以て自ら安んずるは、蓋し亦多し。故に道德の旨未だ弘ひろからず、刻薄の風已すでに扇あおる。夫れ上風既に扇れば、則ち下百端を生じ、人競いて時に趨おもむけば、則ち憲章一ならず。王度に稽かんがえば、実に君道を虧かく。昔、州黎しゅうれい上下其の手を為し、楚国の法遂に差たがう。張湯軽重其の心を為し、漢朝の刑以て弊やぶる。人臣の頗僻はへきにして、猶お其の欺罔きもうを申のぶる能わざるに、況んや人君の高下を以て、将はた何を以て其の手足を措おかんや。睿聖の聡明を以てし、幽微にして燭てらさざる無し。豈に神達せざる有り、智通ぜざる有らんや。其の安んずる所に安んじて、恤刑を以て念と為さず。其の楽しむ所を楽しみて、遂に先笑の変を忘る。禍福相倚よりそい、吉凶同域、唯人の召す所なり、安んぞ思わざる可けんや。頃者けいしゃ責罰稍ようやく多く、威怒微かすかに厲はげし。或いは以て供給贍たらず、或いは以て人欲に従わず。皆治を致すの急務に非ず、実に驕奢の漸ややなり。是れ貴は驕と期せずして驕自ら来り、富は奢と期せずして奢自ら至るを知る。徒いたずらに語るに非ず。且つ我が代わる所、実に有隋に在り。隋氏乱亡の源は、聖明の臨照する所なり。隋氏の甲兵を以てし、当今の士馬に況くらぶ。隋氏の府蔵を以てし、今日の資儲に譬たとう。隋氏の戸口を以てし、今時の百姓に校くらぶ。長を度はかり大を計れば、曾かつて何の等級ぞ。然るに隋氏は富強を以てして喪敗し、之を動かすなり。我は貧寡を以てして安寧し、之を静しずむるなり。静むれば則ち安く、動かせば則ち乱る。人は皆之を知る。隠れて見難く、微にして察し難きに非ず。鮮すくなく平易の途を蹈み、多く覆車の轍に遵したがう。何ぞや。安にして危うきを思わず、治にして乱るるを念わず、存して亡ぶるを慮おもんぱからざるに在るが所致なり。昔、隋氏の未だ乱れざる時、自ら必ず乱れ無しと謂う。隋氏の未だ亡びざる時、自ら必ず亡びずと謂う。所以に甲兵屡しばしば動き、徭役息やまず、身将まさに戮辱りくじょくせられんとするに至りて、竟ついに其の滅亡の由る所を悟らず。哀しまざる可けんや。夫れ形の美悪を鑑かんがみるには、必ず止水に就く。国の安危を鑑みるには、必ず亡国を取る。『詩経』に曰く、「殷鑑遠からず、夏后の世に在り」と。又曰く、「柯えを伐る柯を伐る、其の則のり遠からず」と。臣願わくは、当今の動静、隋氏を以て鑑と為して思わば、則ち存亡治乱、知るを得ん。若し其の危うき所以を思わば、則ち安し。其の乱るる所以を思わば、則ち治まる。其の亡ぶる所以を思わば、則ち存す。存亡の在る所は、嗜欲を節して人に従う。畋游でんゆうの娛を省はぶき、靡麗びれいの作を息やめ、不急の務を罷やめ、偏聴の怒を慎む。忠厚に近づき、便佞べんねいを遠ざけ、悦耳の邪説を杜ふさぎ、苦口の忠言を聴く。易進の人を去り、難得の貨を賤いやしむ。堯・舜の誹謗を采とり、禹・湯の罪己を追おう。十家の産を惜しみ、百姓の心に順う。近く諸身に取り、恕を以て物に待つ。労謙を思いて以て益を受け、自ら満たずして以て損を招かず。動有れば則ち庶類以て和し、言を出だせば則ち千里斯ここに応ず。上徳を前載に超え、風声を後昆に樹たつ。此れ聖哲の宏規、帝王の盛業、能事斯ここに畢おわり、慎守に在るのみ。夫れ之を守るは則ち易く、之を取るは実に難し。既に其の難き所以を得たり。豈に其の易き所以を保たざらんや。其れ或いは之を保つこと固からずんば、則ち驕奢淫泆いんいつ之を動かすなり。終わりを慎むこと始めの如くせんには、勉めざる可けんや。『易経』に云う、「君子は安くして危うきを忘れず、存して亡ぶるを忘れず、治まって乱るるを忘れず。是を以て身安くして国家保つ可し」と。誠に斯の言、深く察せざる可からず。伏して惟おもうに、陛下善を欲するの志、昔時に減ぜず。過を聞きて必ず改むるは、曩日じょうじつに少すこし虧けたり。若し当今の無事を以てし、疇昔ちゅうせきの恭儉を行わば、則ち尽善尽美、固もとより称するを得る無し。

原文臣聞《書》曰:「明德慎罰,惟刑恤哉!」《禮》云:「爲上易事,爲下易知,則刑不煩矣。上多疑則百姓惑,下難知則君長勞矣。」夫上易事,下易知,君長不勞,百姓不惑。故君有一德,臣無二心;上播忠厚之誠,下竭股肱之力,然後太平之基不墜,「康哉」之詠斯起。當今道被華夷,功高宇宙,無思不服,無遠不臻。然言尚於簡大,志在於明察,刑賞之本,在乎勸善而懲惡。帝王之所以與天下爲畫一,不以親疎貴賤而輕重者也。今之刑賞,未必盡然。或申屈在乎好惡,輕重由乎喜怒。遇喜則矜其刑於法中,逢怒則求其罪於事外;所好則鑽皮出其毛羽,所惡則洗垢求其瘢痕。瘢痕可求,則刑斯濫矣;毛羽可出,則賞典謬矣。刑濫則小人道長,賞謬則君子道消。小人之惡不懲,君子之善不勸,而望治安刑措,非所聞也。且夫豫暇清談,皆敦尚於孔、老;威怒所至,則取法於申、韓。直道而行,非無三黜,危人自安,蓋亦多矣。故道德之旨未弘,刻薄之風已扇。夫上風既扇,則下生百端,人競趨時,則憲章不一,稽之王度,實虧君道。昔州黎上下其手,楚國之法遂差;張湯輕重其心,漢朝之刑以弊。人臣之頗僻,猶莫能申其欺罔,況人君之高下,將何以措其手足乎!以睿聖之聰明,無幽微而不燭,豈神有所不達,智有所不通哉?安其所安,不以恤刑爲念;樂其所樂,遂忘先笑之變。禍福相倚,吉凶同域,唯人所召,安可不思?頃者責罰稍多,威怒微厲,或以供給不贍,或以人不從欲,皆非致治之所急,實乃驕奢之攸漸。是知貴不與驕期而驕自來,富不與奢期而奢自至,非徒語也。且我之所代,實在有隋,隋氏亂亡之源,聖明之所臨照。以隋氏之甲兵,況當今之士馬;以隋氏之府儲藏,譬今日之資儲;以隋氏之戸口,校今時之百姓。度長計大,曾何等級?然隋氏以富強而喪敗,動之也;我以貧寡而安寧,靜之也。靜之則安,動之則亂,人皆知之,非隱而難見也,微而難察也。鮮蹈平易之途,多遵覆車之轍,何哉?在於安不思危,治不念亂,存不慮亡之所致也。昔隋氏之未亂,自謂必無亂;隋氏之未亡,自謂必不亡。所以甲兵屢動,徭役不息,至於身將戮辱,竟未悟其滅亡之所由也,可不哀哉!夫鑑形之美惡,必就於止水;鑑國之安危,必取於亡國。《詩》曰:「殷鑑不遠,在夏後之世。」又曰:「伐柯伐柯,其則不遠。」臣願當今之動靜,思隋氏以爲鑑,則存亡治亂,可得而知。若能思其所以危,則安矣;思其所以亂,則治矣;思其所以亡,則存矣。存亡之所在,節嗜欲以從人。省畋游之娛,息靡麗之作,罷不急之務,慎偏聽之怒。近忠厚,遠便佞,杜悅耳之邪説,聽苦口之忠言。去易進之人,賤難得之貨。采堯、舜之誹謗,追禹、湯之罪己,惜十家之產,順百姓之心。近取諸身,恕以待物。思勞謙以受益,不自滿以招損。有動則庶類以和,出言而千里斯應,超上德於前載,樹風聲於後昆。此聖哲之宏規,帝王之盛業,能事斯畢,在乎慎守而已。夫守之則易,取之實難,既得其所以難,豈不能保其所以易?其或保之不固,則驕奢淫泆動之也。慎終如始,可不勉歟!《易》云:「君子安不忘危,存不忘亡,治不忘亂,是以身安而國家可保。」誠哉斯言,不可以不深察也。伏惟陛下欲善之志,不減於昔時,聞過必改,少虧於曩日。若能以當今之無事,行疇昔之恭儉,則盡善盡美,固無得而稱焉。

其の四に曰く。

原文其四曰:

臣聞く、国を為すの基は、必ず徳礼に資り、君子の保つ所は、惟だ誠信に在るのみと。誠信立てば則ち下に二心無く、徳礼形あらわれれば則ち遠人斯に格いたる。然らば則ち徳礼誠信は、国の大綱にして、父子君臣に在りて、斯須しばらくも廃すべからざるなり。故に孔子曰く、「君臣を使うに礼を以てし、臣君に事うるに忠を以てす」と。又曰く、「古より皆死有り、人信無くんば立たず」と。文子曰く、「同じき言にして信あれば、信は言の前に在り;同じき令にして行なわれれば、誠は令の外に在り」と。然らば則ち言にして行なわれざれば、言信無きなり;令にして従わざれば、令誠無きなり。信無きの言、誠無きの令は、上と為れば則ち国を敗り、下と為れば則ち身を危うくす。顛沛はいてんぱいの中に在りと雖も、君子の為さざる所なり。王道休明きゅうめいなるより以来、十有餘年、威海外に加わり、萬国来庭し、倉稟そうりん日々に積み、土地日々に広し。然るに道徳益々厚からず、仁義益々博からざるは、何ぞや。下を待つ情、未だ誠信に尽きざるに由るなり。善始の勤め有りと雖も、克終の美を見ざる故なり。其の由来する所は漸くにして、一朝一夕の故に非ず。昔、貞観の始め、善を聞けば驚くが若く、五六年の間、猶諫に従うを悦びたり。茲ここより厥その後、漸く直言を悪にくみ、或いは強いて勉むるも、時に容るる所あれど、復た曩さきの豁如かつじょたるに非ず。謇諤けんがくの士は、稍々龍鱗を避け、便佞の徒は、肆ほしいままに其の巧辯を逞たくましうす。同心なる者を朋党と謂い、告訐こくけつする者を至公と謂い、強直なる者を擅権せんけんと謂い、忠讜ちゅうとうなる者を誹謗と謂う。之を朋党と謂えば、忠信と雖も疑わしむべく;之を至公と謂えば、矯偽きょうぎと雖も咎とが無し。強直なる者は擅権の議を畏れ、忠讜なる者は誹謗の尤とがを慮る。竊斧せっぷの疑いを生じ、投杼とうちょの惑いを致すに至りては、正人其の言を尽くすを得ず、大臣之と諍いさかう能わず。視聴を熒惑けいわくし、大道に鬱ふさがり、化を妨げ徳を損なう、其れ茲に在るか。故に孔子、利口の邦家を覆すを悪むは、蓋けだし此れが為なり。且つ君子小人は、貌同じくして心異なり。君子は人の悪を掩おおい、人の善を揚げ、難に臨みて苟いやしくも免るる無く、身を殺して以て仁を成す。小人は不仁を恥じず、不義を畏れず、唯だ利の在る所、人を危うくして以て自ら安んず。夫れ苟も人を危うくするに在らば、則ち何の至らざる所かあらん。今将に致治を求めんと欲すれば、必ず之を君子に委ね;事得失有れば、或いは之を小人に訪う。其の君子を待つや、則ち敬して疎んじ;小人に遇うや、必ず軽んじて狎なれ親しむ。狎れば則ち言尽くさざる無く、疎ければ則ち情或いは通ぜず。是れ誉毀よきは小人に在り、刑罰は君子に加わり、実に興喪の在る所、亦た安危の繫かかる所、慎まざるべけんや。夫れ中智の人、豈に小慧無からんや、然れども才は国を経るに非ず、慮は遠きに及ばず。力を竭し誠を尽くすと雖も、猶お傾敗を免れず;況んや内に奸利を懐き、顔を承うけて旨に順う、其の患禍を為す、亦た深からずや。故に孔子曰く、「君子或いは不仁なる者有り、小人にして仁なる者を見ざるなり」と。然らば則ち君子も小悪無き能わず、悪積もらざれば、正道を妨げず;小人或いは時に小善有り、善積もらざれば、以て忠を立つるに足らず。今之を善人と謂いて、復た其の信無きを慮うは、直き木を立てて其の影の直からざるを疑うに何ぞ異ならん。精神を竭し、思慮を労すと雖も、其の不可なること亦た已すでに明らかなり。夫れ君能く礼を尽くし、臣忠を竭くすを得るは、必ず内外私無く、上下相信うに在り。上信ぜざれば則ち以て下を使う無く、下信ぜざれば則ち以て上に事うる無し。信の義と為す、大なるかな。故に天の之を祐たすくるより、吉にして利ならざる無し。昔、斉の桓公、管仲に問うて曰く、「吾爵に酒腐らしめ、俎そに肉腐らしめんと欲す、霸はに害無からんや」と。管仲曰く、「此れ極めて其の善き者に非ざれども、然れども亦た霸に害無し」と。公曰く、「何如いかにしてか霸を害せん」と。曰く、「人を知る能わざるは、霸を害すなり;知りて用うる能わざるは、霸を害すなり;用いて信ぜざるは、霸を害すなり;既に信じて又小人をして之に参まじわらしむるは、霸を害すなり」と。晋の中行穆伯ちゅうこうぼくはく、鼓こを攻むるに、年を経て下す能わず。饋間倫きかんりん曰く、「鼓の嗇夫しょくふ、間倫之を知る。請う、士大夫を疲れさすこと無くして鼓を得ん」と。穆伯応えず。左右曰く、「一戟を折らず、一卒を傷つけずして、鼓を得べし。君何を為してか取らざる」と。穆伯曰く、「間倫が人と為りや、佞にして仁ならず。若し間倫之を下さば、吾賞せざるべからず。之を賞するは、是れ佞人を賞するなり。佞人志を得ば、是れ晋国の士をして仁を捨てて佞を為さしむるなり。鼓を得ると雖も、将た何を用いん」と。夫れ穆伯は列国の大夫、管仲は覇者の佐たすけ、猶お信任を慎み、佞人を遠避する此の如し。況んや四海の大君と為り、千齢の上聖に応おうじて、巍巍ぎぎたる盛徳をして、復た将に間然かんぜんする所有らしむべけんや。若し君子小人の是非雑まじわらざらしめんと欲せば、必ず之を徳を以て懐なつけ、信を以て待ち、義を以て厲まし、礼を以て節し、然る後に善を善とし悪を悪とし、罰を審らかにし賞を明らかにせば、則ち小人其の佞邪を絶ち、君子自ら強いて息まず。無為の化、何ぞ遠からんや。善を善として進むる能わず、悪を悪として去る能わず、罰有罪に及ばず、賞有功に加わらざれば、則ち危亡の期、或いは保つべからず。永く祚胤そいんを錫たまわんと将た何をか望まん。

原文臣聞爲國之基,必資於德禮;君子所保,惟在於誠信。誠信立則下無二心,德禮形則遠人斯格。然則德禮誠信,國之大綱,在於父子君臣,不可斯須而廢也。故孔子曰:「君使臣以禮,臣事君以忠。」又曰:「自古皆有死,人無信不立。」文子曰:「同言而信,信在言前;同令而行,誠在令外。」然則言而不行,言不信也;令而不從,令無誠也。不信之言,無誠之令,爲上則敗國,爲下則危身,雖在顛沛之中,君子所不爲也。自王道休明,十有餘載,威加海外,萬國來庭,倉稟日積,土地日廣。然而道德未益厚,仁義未益博者,何哉?由乎待下之情未盡於誠信,雖有善始之勤,未睹克終之美故也。其所由來者漸,非一朝一夕之故。昔貞觀之始,聞善若驚,暨五六年間,猶悅以從諫。自茲厥後,漸惡直言,雖或勉強,時有所容,非復曩時之豁如也。謇諤之士,稍避龍鱗;便佞之徒,肆其巧辯。謂同心者爲朋黨,謂告訐者爲至公,謂強直者爲擅權,謂忠讜者爲誹謗。謂之朋黨,雖忠信而可疑;謂之至公,雖矯偽而無咎。強直者畏擅權之議,忠讜者慮誹謗之尤。至於竊斧生疑,投杼致惑,正人不得盡其言,大臣莫能與之諍。熒惑視聽,鬱於大道,妨化損德,其在茲乎?故孔子惡利口之覆邦家,蓋爲此也。且君子小人,貌同心異。君子掩人之惡,揚人之善,臨難無苟免,殺身以成仁。小人不恥不仁,不畏不義,唯利之所在,危人以自安。夫苟在危人,則何所不至。今將求致治,必委之於君子;事有得失,或訪之於小人。其待君子也,則敬而疎;遇小人也,必輕而狎。狎則言無不盡,疎則情或不通。是譽毀在於小人,刑罰加於君子,實興喪所在,亦安危所繫,可不慎哉!夫中智之人,豈無小慧,然才非經國,慮不及遠,雖竭力盡誠,猶未免於傾敗;況內懷奸利,承顏順旨,其爲患禍,不亦深乎?故孔子曰:「君子或有不仁者焉,未見小人而仁者。」然則君子不能無小惡,惡不積,無妨於正道;小人或時有小善,善不積,不足以立忠。今謂之善人矣,復慮其有不信,何異夫立直木而疑其影之不直乎?雖竭精神,勞思慮,其不可亦已明矣。夫君能盡禮,臣得竭忠,必在於內外無私,上下相信。上不信則無以使下,下不信則無以事上。信之爲義,大矣哉!故自天祐之,吉無不利。昔齊桓公問於管仲曰:「吾欲酒腐於爵,肉腐於俎,得無害於霸乎?」管仲曰:「此極非其善者,然亦無害霸也。」公曰:「何如而害霸乎?」曰:「不能知人,害霸也;知而不能用,害霸也;用而不能信,害霸也;既信而又使小人參之,害霸也。」晉中行穆伯攻鼓,經年而不能下,饋間倫曰:「鼓之嗇夫,間倫知之,請無疲士大夫而鼓可得。」穆伯不應。左右曰:「不折一戟,不傷一卒,而鼓可得,君奚爲不取?」穆伯曰:「間倫之爲人也,佞而不仁。若間倫下之,吾不可以不賞。賞之,是賞佞人也。佞人得志,是使晉國之士舍仁而爲佞,雖得鼓,將何用之?」夫穆伯列國大夫,管仲霸者之佐,猶慎於信任,遠避佞人也如此,況乎爲四海之大君,應千齡之上聖,而可使巍巍之盛德,復將有所間然乎?若欲令君子小人是非不雜,必懷之以德,待之以信,厲之以義,節之以禮,然後善善而惡惡,審罰而明賞,則小人絶其佞邪,君子自強不息。無爲之化,何遠之有?善善而不能進,惡惡而不能去,罰不及於有罪,賞不加於有功,則危亡之期,或未可保。永錫祚胤,將何望哉?

太宗、手詔を以て嘉美し、優に之を納れたり。嘗て長孫無忌に謂いて曰く、「朕即位の初め、上書する者或いは言う『人主は必ず威権を独り運らし、群下に委任すべからず』と;或いは兵を耀かがやかし武を振るい、四夷を懾服しょうふくせんと欲す。唯だ魏徵のみ朕を勧めて『革かわを偃やめて文を興し、徳を布き恵を施し、中国既に安んずれば、遠人自ら服す』と。朕其の語に従う、天下大いに寧んず。絶域の君長、皆来朝貢し、九夷重訳ちょうやくして、道に相望む。此れ皆魏徵の力なり」と。

原文太宗手詔嘉美,優納之。嘗謂長孫無忌曰:「朕即位之初,上書者或言『人主必須威權獨運,不得委任群下』;或欲耀兵振武,懾服四夷。唯有魏徵勸朕『偃革興文,布德施惠,中國既安,遠人自服』。朕從其語,天下大寧。絶域君長,皆來朝貢,九夷重譯,相望於道。此皆魏徵之力也。」

太宗はかつて上封する者が多く、事実に近くないことを嫌い、罷免し責めようとした。魏徴が奏上して言うには、「古には誹謗の木を立て、己の過ちを聞こうとした。今の封事は、誹謗の木の流れである。陛下が得失を聞こうと思われるなら、ただ彼らに陳述することを恣にさせるべきである。もし言うことが正しければ、陛下に益がある。もし正しくなければ、国家に損いはない。」太宗は言った、「この言葉は正しい。」そして労をねぎらい彼らを帰した。後に太宗が洛陽宮におり、積翠池に幸し、群臣を宴し、酒が酣になると各々一事を賦した。太宗は『尚書』を賦して言った、「日が傾いて百篇を玩び、燈に臨んで『五典』を披く。夏の康は既に逸豫し、商の辛もまた流湎す。情を恣にする昏主多く、己に克つ明君鮮し。身を滅ぼすは累悪に資り、名を成すは積善による。」魏徴は西漢を賦して言った、「降を受くるは軹道に臨み、長を争うは鴻門に趣く。伝を駆るは渭橋の上にあり、兵を観るは細柳の屯にあり。夜宴は柏谷を経、朝游は杜原に出づ。終に叔孫の礼を藉り、方に皇帝の尊を知る。」太宗は言った、「魏徴は毎度言うに、必ず礼をもって我を約す。」まもなく『五礼』を修定したことにより、一子を封じて県男とすべきところ、孤兄の子叔慈に譲ることを請うた。太宗は愴然として言った、「卿のこの心は、俗を励ますことができる。」遂にこれを許した。十二年、礼部尚書王珪が奏言して言うには、「三品以上の者が途上で親王に遇うと、皆車から降り、法に違って敬意を表し、儀礼の準則に背いている。」太宗は言った、「卿らは皆自ら尊貴であり、我が子を卑しむのか。」魏徴が進み出て言うには、「古より今に至るまで、親王の班次は三公の下である。今三品は皆天子の列卿及び八座の長であり、王のために車から降りることは、王の当に受くべきところではない。故事に求めれば、則ち拠るべきものなし。今に行えば、また国の法に背く。」太宗は言った、「国家が太子を立てる所以は、君となすことを擬するためである。然らば人の修短は、老少に在らず、仮に太子がなければ、則ち母弟が次に立つ。これをもって言えば、どうして我が子を軽んずることができようか。」魏徴は言った、「殷の家は質を尚び、兄終わりて弟及ぶの義あり。周以降より、嫡を立てるには必ず長を以てし、これをもって庶孽の窺覦を絶ち、禍乱の源本を塞ぎ、国を持つ者の深く慎むところである。」ここにおいて遂に王珪の奏を可とした。時に皇孫が誕育したので、公卿を召して宴を賜り、太宗は侍臣に謂って言った、「貞観以前、我に従って天下を平定し、艱険に周旋したのは、房玄齢の功であり、譲る所なし。貞観以後、我に尽くし、忠讜を献納し、国を安んじ民を利し、顔を犯して正しく諫め、朕の違を匡した者は、ただ魏徴のみである。古の名臣、何を以てかこれに加えよう。」ここにおいて親しく佩刀を解いて二人に賜った。

原文太宗嘗嫌上封者眾,不近事實,欲加黜責。徵奏曰:「古者立誹謗之木,欲聞己過。今之封事,謗木之流也。陛下思聞得失,祗可恣其陳道。若所言衷,則有益於陛下;若不衷,無損於國家。」太宗曰:「此言是也。」並勞而遣之。後太宗在洛陽宮,幸積翠池,宴群臣,酒酣各賦一事。太宗賦《尚書》曰:「日昃玩百篇,臨燈披《五典》。夏康既逸豫,商辛亦流湎。恣情昏主多,克己明君鮮。滅身資累惡,成名由積善。」徵賦西漢曰:「受降臨軹道,爭長趣鴻門。驅傳渭橋上,觀兵細柳屯。夜宴經柏谷,朝游出杜原。終藉叔孫禮,方知皇帝尊。」太宗曰:「魏徵毎言,必約我以禮也。」尋以修定《五禮》,當封一子爲縣男,請讓孤兄子叔慈。太宗愴然曰:「卿之此心,可以勵俗。」遂許之。十二年,禮部尚書王珪奏言:「三品以上遇親王於途,皆降乘,違法申敬,有乖儀准。」太宗曰:「卿輩皆自崇貴,卑我兒子乎?」徵進曰:「自古迄茲,親王班次三公之下。今三品皆曰天子列卿及八座之長,爲王降乘,非王所宜當也。求諸故事,則無可憑;行之於今,又乖國憲。」太宗曰:「國家所以立太子者,擬以爲君也。然則人之修短,不在老少,設無太子,則母弟次立。以此而言,安得輕我子耶?」徵曰:「殷家尚質,有兄終弟及之義;自周以降,立嫡必長,所以絶庶孽之窺覦,塞禍亂之源本,有國者之所深慎。」於是遂可珪奏。會皇孫誕育,召公卿賜宴,太宗謂侍臣曰:「貞觀以前,從我平定天下,周旋艱險,玄齡之功,無所與讓。貞觀之後,盡心於我,獻納忠讜,安國利民,犯顏正諫,匡朕之違者,唯魏徵而已。古之名臣,何以加也!」於是親解佩刀以賜二人。

魏徴は戴聖の『礼記』が編次が倫を失しているとして、遂に『類礼』二十巻を撰し、類を以て相従い、その重復を削り、先儒の訓注を採り、善を択びこれに従い、精を研ぎ思を覃ね、数年にして畢った。太宗はこれを見て善しとし、物一千段を賜い、数本を写して太子及び諸王に賜い、なお秘府に蔵した。

原文徵以戴聖《禮記》編次不倫,遂爲《類禮》二十捲,以類相從,削其重復,采先儒訓注,擇善從之,研精覃思,數年而畢。太宗覽而善之,賜物一千段,録數本以賜太子及諸王,仍藏之秘府。

先に、使者を西域に遣わして葉護可汗を立てたが、未だ帰還せず、また使者を多く遣わして金銀帛を携え諸国を歴て馬を買わせた。魏徴が諫めて曰く、「今、可汗を立てることを名目とし、可汗は未だ定まらず、すなわち諸国に赴いて馬を買う。彼らは必ずや意図は馬を買うことにあり、専ら可汗を立てることに専念せざるものと為すべし。可汗が立てられ得たとしても、則ち甚だ恩を懐かしむこと無からん。諸蕃これを聞き、以て中国は義を薄くし利を重んずるものと為し、未だ必ずしも馬を得ずして、義を失わん。昔、漢の文帝に千里の馬を献ずる者有りき。曰く、『吾が凶行は日に三十里、吉行は五十里、鑾輿は前に在り、属車は後に在り、吾独り千里の馬に乗りて将に何れの処にか之かん』と。乃ちその道里の費を賞してこれを返した。漢の光武帝に千里の馬及び宝剣を献ずる者有りき。馬は以て鼓車を駕し、剣は以て騎士に賜う。陛下の凡そ施為する所は、皆三王を遥かに超え越えたり。奈何ぞこの事に至りて、孝文・光武の下に為らんと欲するや。又、魏の文帝、西域の大珠を求めて買わんと欲す。蘇則曰く、『若し陛下の恵み四海に及べば、則ち求めずして自ずから至る。求めてこれを得たりとも、貴ぶに足らざるなり』と。陛下、縦え漢文の高行を慕わずとも、蘇則の言を畏れざるべけんや」と。太宗その言を納れて止めた。時に公卿大臣並びに封禅を請う。唯だ魏徴のみ以て不可と為す。太宗曰く、「朕、卿に極言せしめんと欲す。豈に功高からずや。徳厚からずや。諸夏未だ治安せずや。遠夷、義を慕わずや。嘉瑞至らずや。年穀登らずや。何を以てか不可と為す」と。対えて曰く、「陛下の功は則ち高し。然れども民未だ恵を懐かず。徳は厚しと雖も、沢未だ滂流せず。諸夏安しと雖も、未だ以て事を供するに足らず。遠夷、義を慕うと雖も、以てその求に供する無し。符瑞は臻ると雖も、網羅猶密なり。積年の豊稔と雖も、倉廩尚虚し。これ臣の窃かに未だ可ならずと謂う所以なり。臣、遠く譬える能わず、且つ人を借りて喩えん。今、人ありて十年の長患有り、療治して且つ癒えんとす。この人は応に皮骨僅かに存するのみ。便ち米一石を負わせ、日に百里を行かしめんと欲す。必ず得べからず。隋氏の乱は、十年に止まらず。陛下これを為す良医たり。疾苦は已に乂安すと雖も、未だ甚だ充実せず。天地に告成せんとす。臣窃かに疑い有り。且つ陛下東封せば、万国咸く萃まる。要荒の外、奔走せざる莫し。今、伊・洛より以東、海岱に至るまで、灌莽巨沢、蒼茫千里、人煙断絶し、鶏犬聞こえず、道路蕭条として、進退艱阻す。豈に彼の夷狄を引き、以て虚弱を示すべけんや。財を竭くして賞せんも、未だ遠人の望を厭わず。重ねて給復を加うるも、百姓の労を償わず。或いは水旱の災、風雨の変に遇わば、庸夫横議し、悔ゆるも追うべからず。豈に独り臣の懇誠のみならん、亦た輿人の誦有り」と。太宗奪う能わず。是れより後、右僕射欠け、これを拝せんと欲す。魏徴固く譲る。乃ち止む。皇太子承乾、徳業を修めず、魏王泰、寵愛日隆く、内外の庶僚、並びに疑議有り。太宗聞きてこれを悪み、侍臣に謂いて曰く、「当今の朝臣、忠謇なるは魏徴に逾る無し。我、皇太子に傅せしめ、以て天下の望を絶たん」と。十六年、太子太師を拝し、門下省事を知ること旧の如し。魏徴自ら疾有りと陳ぶ。詔答えて曰く、「漢の太子、四皓を助けと為す。我の公に頼むは、即ちその義なり。公の疾病を知る。臥してこれを護るべし」と。その年、綿惙を称す。中使相望む。魏徴の宅は先に正寝無し。太宗、小殿を為さんと欲し、その材を輟きて魏徴の為に営構す。五日にして成る。中使を遣わして素褥布被を齎しこれを賜い、その尚ぶ所に遂う。病篤に及び、輿駕再びその第に幸す。これを撫して流涕し、言わんと欲する所を問う。魏徴曰く、「嫠は緯を恤れずして宗周の亡びを憂う」と。後数日、太宗夜夢みるに魏徴平生の若し。旦に及びて魏徴薨ずと奏す。時に年六十四。太宗親臨して慟哭し、朝を廃すること五日。司空しくう・相州都督ととくを贈り、謚して文貞と曰う。羽葆鼓吹・班剣四十人を給し、賻として絹布千段・米粟千石を賜い、昭陵に陪葬す。将に祖載せんと及ぶに、魏徴の妻裴氏曰く、「魏徴平生儉素なり。今、一品の礼を以て葬る。羽儀甚だ盛んなり。亡者の志に非ず」と。悉く辞して受けず。竟に布車を以て柩を載せ、文彩の飾り無し。太宗苑西楼に登り、喪を望みて哭す。詔して百官をして郊外に送出せしむ。帝親しく碑文を制し、並びに石に書す。その後追思已まず、その実封九百戸を賜う。嘗て臨朝して侍臣に謂いて曰く、「夫れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正すべし。古を以て鏡と為せば、以て興替を知るべし。人を以て鏡と為せば、以て得失を明らかにすべし。朕常にこの三鏡を保ち、以て己が過ちを防ぐ。今魏徴殂逝し、遂に一鏡を亡う。魏徴亡き後、朕人を遣わしてその宅に至り、その書函に就きて表一紙を得たり。始め表草を立てしに、字皆識り難し。唯だ前に数行有り、稍々分弁すべし。云く、『天下の事、善有り悪有り。善人を任ずれば則ち国安く、悪人を用いれば則ち国乱る。公卿の内、情に愛憎有り。憎む者は唯だその悪を見、愛する者は唯だその善を見る。愛憎の間、詳慎すべき所なり。若し愛してその悪を知り、憎んでその善を知り、邪を去るに疑わず、賢を任ずるに貳せずんば、以て興すべし』と。その遺表此の如し。然れども朕これを思うに、恐らくはこの事を免れざらん。公卿侍臣、これを笏に書き、知りて必ず諫めよ」と。魏徴の状貌は中人を逾えず。而して素より胆智有り。毎に顔を犯して進諫す。王の赫怒するに逢うと雖も、神色移らず。嘗て密かに中書侍郎杜正倫及び吏部尚書侯君集に宰相の材有るを薦む。魏徴卒したる後、正倫は罪を以て黜せられ、君集は逆を犯して誅せらる。太宗始めて魏徴が阿党するを疑う。魏徴又自ら前後諫諍の言辞往復を録して以て史官起居郎褚遂良に示す。太宗これを知り、愈よ悦ばず。先に衡山公主をその長子叔玉に降嫁せんことを許す。ここに於いて手詔して婚を停む。その家の漸く衰ゆるを顧みる。魏徴四子、叔琬・叔璘・叔瑜。

原文先是,遣使詣西域立葉護可汗,未還,又遣使多齎金銀帛歷諸國市馬。徵諫曰:「今以立可汗爲名,可汗未定,即詣諸國市馬,彼必以爲意在市馬,不爲專意立可汗。可汗得立,則不甚懷恩。諸蕃聞之,以爲中國薄義重利,未必得馬,而失義矣。昔漢文有獻千里馬者,曰:吾凶行日三十里,吉行五十里,鑾輿在前,屬車在後,吾獨乘千里馬將安之?乃賞其道里所費而返之。漢光武有獻千里馬及寶劍者,馬以駕鼓車,劍以賜騎士。陛下凡所施爲,皆邈逾三王之上,奈何至於此事,欲爲孝文、光武之下乎?又魏文帝欲求市西域大珠,蘇則曰:『若陛下惠及四海,則不求自至,求而得之,不足爲貴也。』陛下縱不能慕漢文之高行,可不畏蘇則之言乎?」太宗納其言而止。時公卿大臣並請封禪,唯徵以爲不可。太宗曰:「朕欲卿極言之。豈功不高耶?德不厚耶?諸夏未治安耶?遠夷不慕義耶?嘉瑞不至耶?年谷不登耶?何爲而不可?」對曰:「陛下功則高矣,而民未懷惠;德雖厚矣,而澤未滂流;諸夏雖安,未足以供事;遠夷慕義,無以供其求;符瑞雖臻,〓羅猶密;積歳豐稔,倉廩尚虛,此臣所以竊謂未可。臣未能遠譬,且借喻於人。今有人十年長患,療治且愈,此人應皮骨僅存,便欲使負米一石,日行百里,必不可得。隋氏之亂,非止十年,陛下爲之良醫,疾苦雖已乂安,未甚充實,告成天地,臣竊有疑。且陛下東封,萬國咸萃,要荒之外,莫不奔走。今自伊、洛以東,暨乎海岱,灌莽巨澤,蒼茫千里,人煙斷絶,雞犬不聞,道路蕭條,進退艱阻,豈可引彼夷狄,示以虛弱?竭財以賞,未厭遠人之望;重加給復,不償百姓之勞。或遇水旱之災,風雨之變,庸夫橫議,悔不可追。豈獨臣之懇誠,亦有輿人之誦。」太宗不能奪。是後,右僕射缺,欲拜之,徵固讓乃止。及皇太子承乾不修德業,魏王泰寵愛日隆,內外庶僚,並有疑議。太宗聞而惡之,謂侍臣曰:「當今朝臣忠謇,無逾魏徵,我遣傅皇太子,用絶天下之望。」十六年,拜太子太師,知門下省事如故。徵自陳有疾,詔答曰:「漢之太子,四皓爲助,我之賴公,即其義也。知公疾病,可臥護之。」其年,稱綿惙,中使相望。徵宅先無正寢,太宗欲爲小殿,輟其材爲徵營構,五日而成,遣中使齎素褥布被而賜之,遂其所尚也。及病篤,輿駕再幸其第,撫之流涕,問所欲言,徵曰:「嫠不恤緯而憂宗周之亡。」後數日,太宗夜夢徵若平生,及旦而奏徵薨,時年六十四。太宗親臨慟哭,廢朝五日,贈司空、相州都督,謚曰文貞。給羽葆鼓吹、班劍四十人,賻絹布千段、米粟千石,陪葬昭陵。及將祖載,徵妻裴氏曰:「徵平生儉素,今以一品禮葬,羽儀甚盛,非亡者之志。」悉辭不受,竟以布車載柩,無文彩之飾。太宗登苑西樓,望喪而哭,詔百官送出郊外。帝親制碑文,並爲書石。其後追思不已,賜其實封九百戸。嘗臨朝謂侍臣曰:「夫以銅爲鏡,可以正衣冠;以古爲鏡,可以知興替;以人爲鏡,可以明得失。朕常保此三鏡,以防己過。今魏徵殂逝,遂亡一鏡矣!徵亡後,朕遣人至宅,就其書函得表一紙,始立表草,字皆難識,唯前有數行,稍可分辯,云:『天下之事,有善有惡,任善人則國安,用惡人則國亂。公卿之內,情有愛憎,憎者唯見其惡,愛者唯見其善。愛憎之間,所宜詳慎,若愛而知其惡,憎而知其善,去邪勿疑,任賢勿貳,可以興矣。』其遺表如此,然在朕思之,恐不免斯事。公卿侍臣,可書之於笏,知而必諫也。」徵狀貌不逾中人,而素有膽智,毎犯顏進諫,雖逢王赫斯怒,神色不移。嘗密薦中書侍郎杜正倫及吏部尚書侯君集有宰相之材。徵卒後,正倫以罪黜,君集犯逆伏誅,太宗始疑徵阿黨。徵又自録前後諫諍言辭往復以示史官起居郎褚遂良,太宗知之,愈不悅。先許以衡山公主降其長子叔玉,於是手詔停婚,顧其家漸衰矣。徵四子,叔琬、叔璘、叔瑜。

叔玉は爵の国公を襲ぎ、官は光禄少卿に至る。叔瑜は潞州刺史に至り、叔璘は礼部侍郎、則天の時に酷吏に殺さる。神龍初年、継いで叔玉の子膺を封じて鄭国公と為す。

原文叔玉襲爵國公,官至光祿少卿;叔瑜至潞州刺史,叔璘禮部侍郎,則天時爲酷吏所殺。神龍初,繼封叔玉子膺爲鄭國公。

叔瑜の子華、開元初年太子右庶子。

原文叔瑜子華,開元初太子右庶子。

史臣曰く

原文史臣曰

史臣曰く、臣嘗て漢史『劉更生伝』を読み、その上書して王氏の権を擅にし、恐らくは運祚を移さんことを論じ、漢の成帝悟らず、更生伊郁に徘徊し、極言して禍患を顧みざるを見る。何ぞ匡益忠尽なること此の如きや。更生の時に当たりては、諫むる者甚だ多し。谷永・楊興の上言の如きは、図りて奸利を為し、賊臣と鄕導を為す。梅福・王吉の言は、古道に近しと雖も、未だ事情に切れず。則ち諫を納れ賢を任ずるは、詎んぞ容易ならんや。臣嘗て『魏公故事』を閲し、文皇と政術を討論し、往復応対すること、凡そ数十万言。その過ちを匡え違いを弼え、能く近く取りて譬え、博く約して類を連ね、皆前代の諍臣の至らざる所なり。その実は道義に根ざし、律度として発す。身正しくして心勁し、上は時主に負けず、下は権幸に阿らず、中は親族を侈らず、外は朋党を為さず、時に逢うて以て節を改めず、位を図りて以て忠を売らず。載する所の章疏四篇は、万代の王者の法と為すべし。漢の劉向・魏の徐邈・晋の山濤・宋の謝朏の如きは、才は則ち才なり。文貞の雅道に比すれば、遺行有らざらんや。前代の諍臣、一人のみ。

原文史臣曰:臣嘗讀漢史《劉更生傳》,見其上書論王氏擅權,恐移運祚,漢成不悟,更生徘徊伊郁,極言而不顧禍患,何匡益忠盡也如此!當更生時,諫者甚多。如谷永、楊興之上言,圖爲奸利,與賊臣爲鄕導,梅福、王吉之言,雖近古道,未切事情。則納諫任賢,詎宜容易!臣嘗閱《魏公故事》,與文皇討論政術,往復應對,凡數十萬言。其匡過弼違,能近取譬,博約連類,皆前代諍臣之不至者。其實根於道義,發爲律度,身正而心勁,上不負時主,下不阿權幸,中不侈親族,外不爲朋黨,不以逢時改節,不以圖位賣忠。所載章疎四篇,可爲萬代王者法。雖漢之劉向、魏之徐邈、晉之山濤、宋之謝朏,才則才矣,比文貞之雅道,不有遺行乎?前代諍臣,一人而已。

賛

原文贊

賛に曰く、智者は諫めず、諫むる者は或いは智ならず。智者は言を尽くせば、国家の利なり。鄭公(魏徴)は節に達し、才は経済に周し。太宗之を用い、子孫世を長くす。

原文贊曰:智者不諫,諫或不智。智者盡言,國家之利。鄭公達節,才周經濟。太宗用之,子孫長世。