旧唐書 巻七十一 列伝第二十一 魏徴

旧唐書

巻七十一 列伝第二十一 魏徴

魏徴

魏徴、字は玄成、鉅鹿郡曲城の人である。父の長賢は、北斉の屯留県令であった。徴は幼くして孤貧となり、落拓として大志を抱き、生業に従わず、出家して道士となった。書を読むことを好み、広く諸学に通じ、天しもが次第に乱れるのを見て、特に縦横の説に心を寄せた。大業の末、武陽郡丞の元宝蔵が兵を挙げて李密におうじ、徴を召し出して書記の職を掌らせた。密は宝蔵のかみ疏を見るたびに、常に善しと称賛していたが、徴の作ったものと聞くと、すぐに召し出した。徴は十策を進めて密に仕えようとしたが、密はこれを奇異とは思ったものの用いることはなかった。王世充が洛口で密を攻めたとき、徴は密の長史鄭頲に説いて言った、「魏公(李密)はたとえ急に勝ったとしても、驍や鋭卒の死傷は多い。また軍に府庫がなく、功があっても賞を与えない。戦士の心は惰っており、この二つの点では敵に応じるのは難しい。深い堀を掘り高い塁を築き、日を長く引き延ばして持久するに如くはない。一ヶ月も経たぬうちに、敵の食糧は尽き、戦わずして退却させ、撃して勝つ道である。しかも東都(洛陽)の食糧は尽き、世充の計略も窮まり、死に物狂いで戦おうとしている。いわゆる窮寇は争鋒し難いというもので、どうか戦わないよう慎重にされたい」。頲は言った、「これは老生の常談に過ぎぬ」。徴は言った、「これは奇謀深策であって、何が常談か」。そこで衣を払って立ち去った。密が敗れると、徴は密に従って降伏し、京師に至ったが、長く知られるところとならなかった。自ら山東を安輯することを請うて、秘書丞に任じられ、駅伝を駆って黎陽に至った。当時徐世勣はまだ李密のために衆を擁しており、徴は世勣に書を送って言った。

隋末の乱離より、群雄競い逐い、州を跨ぎ郡を連ねるもの、数え切れないほどであった。魏公(李密)は叛いたずらより起こり、臂を奮って大呼し、四方これに応じ、万里風の如く馳せ、雲の合い霧の聚まるが如く、衆数十万に及んだ。威の及ぶところ、天下の半ばに将ち、世充を洛口に破り、化及を黎山に摧いた。まさに西は咸陽を蹈み、北は玄闕を凌ぎ、旌を瀚海に揚げ、馬を渭川に飲まんとし、翻って百勝の威をもって、奔亡の虜に敗れた。もとより神器の重きは、自ら帰する所あり、力を以て争うべからざるを知る。ここをもって魏公は皇天の眷顧を思い、函谷に入って疑わなかった。公(徐世勣)は擾攘の時に生まれ、知己の遇を感じた。根本は既に抜かれ、確乎として動かず、遺散を鳩合し、一隅を据え守った。世充は乗勝の余勇をもって、その東略を止め、建徳は侮亡の勢いに乗じて、南謀することを敢えてしなかった。公の英声は、以って今古に振るうに足る。然れども誰か善き始めあって、終わりをおもんぱかい難からざる者あらん。去就の機、安危の大節。もし名を策し地を得れば、九族その余輝に廕らされ、質を委ねて人に非ざれば、一身すら自ら保つ能わず。殷かんが遠からず、公の聞見する所なり。孟賁が躊躇すれば、童子之に先んず、幾を知るは其れ神なり、終日を俟たず。今公は必争の地に処り、宜しく速やかにすべき機に乗ずるに、さらにつかを遅疑し、坐して成敗を観るが如くでは、恐らくは凶狡の輩、先んじて人心を生じ、のりち公の事は去らん」。

世勣は書を得て、遂に計を定めて使いを遣わし帰国し、倉を開いて糧を運び、淮安王神通の軍に饋った。間もなく建徳が衆を悉く南下させ、黎陽を攻め陥し、徴を捕らえ、起居舎人に任じた。建徳が捕らえられると、裴矩と共に西に入関した。隠太子(李建成)はその名を聞き、直ちに洗馬に引き立て、甚だ礼遇した。徴は太宗の勲業が日に隆盛になるのを見て、常に建成に早く処置を為すよう勧めた。敗れると、太宗は召し出して言った、「汝は我が兄弟を離間したのは何故か」。徴は言った、「皇太子がもし徴の言に従っていたならば、必ずや今日の禍はなかったでしょう」。太宗は平素から彼を器としており、詹事主簿に引き立てた。践祚すると、諫議大夫に抜擢し、鉅鹿県男に封じ、河北を安輯することを命じ、便宜従事を許した。徴は磁州に至り、前宮(隠太子府)の千牛李志安と、斉王(李元吉)府の護軍李思行が枷をはめられ京師に送られるのに遇った。徴は副使の李桐客に言った、「我らが命を受けた日、前宮・斉府の左右は、皆赦免して問わないと命じられた。今また思行を送るならば、これ以外に誰が自ら疑わぬことがあろうか。ただ使いを遣わすだけでは、彼らは必ず信じない。これは毫厘のたがが千里の失いとなる。かつ公家の利は、知りて為さざる無く、寧ろ身を慮うるも、国家の大計を廃すべからず。今もし思行を釈放して遣わし、その罪を問わなければ、信義の感ずる所、遠くして至らざるは無い。古より、大夫疆を出づれば、いやしくくも社稷に利あれば、専ら之を行う可し。くらんや今日の行いは、便宜従事を許されている。主上は既に国士として待遇されたのだから、どうして国士として報いないことがあろうか」。即ち思行らを釈放して遣わし、なお上啓して聞かせた。太宗は甚だ悦んだ。

太宗新たに即位し、政道に励精し、数たび魏徴を臥内に引き入れ、得失を訪ねた。

魏徴は自ら国に功績無きを以て、徒に弁説を以て帷幄にまじじたるのみとし、満盈を深く懼れ、後に目疾を以て頻りに表を上りて遜位を請う。太宗曰く、「朕卿を讎虜の中より抜き、公を以て枢要の職に任じ、朕の非を見るや、未だ嘗て諫めざること無し。公独り金の鉱に在るを見ざるか、何ぞ貴ぶに足らん。良冶鍛えて器と為り、便ち人の宝と為る所と為る。朕方に自ら金に比し、卿を以て良匠と為す。卿疾有りと雖も、未だ衰老と為さず、豈に便爾ならんや」と。其の年、徴又面して遜位を請う。太宗之に違い難く、乃ち徴を特進に拝し、仍て門下の事を知らしむ。其の後又頻りに四疎を上り、以て得失を陳ぶ。其の一に曰く。

臣が観るに、古より受図膺運し、継体守文し、英傑を控御し、南面して下に臨む者は、皆厚徳を天地に配し、高明を日月に斉しくし、本枝百代、祚を伝えて窮き無からんことを欲す。然るに克終する者はすくく、敗亡相継ぐ。その故は何ぞや。求めるところその道を失うによるなり。殷鑑遠からず、言うを得べし。昔、有隋に在りて、寰宇を統一し、甲兵強盛にして四十余年、風行すること万里、威動すること殊俗に及べり。一旦挙げてこれを棄て、尽く他人の有と為る。彼のよう帝は豈に天下の治安をにくみ、社稷の長久を欲せざるや。故に桀虐を行い、以て滅亡に就かんや。その富強を恃み、後患を虞わざるなり。天下を駆りて以て欲に従い、万物を罄きて以て自ら奉り、域中の子女をり、遠方の奇異を求む。宮宇は是を飾り、台榭は是を崇め、徭役時に無く、干戈戢まらず。外には威重を示し、内には多く険忌あり。讒邪の者は必ずその福を受け、忠正の者はその生を保つこと莫し。上下相蒙り、君臣の道隔たり、人命に堪えず、率土分崩す。遂に四海の尊を以て、匹夫の手に殞ち、子孫殄滅し、天下の笑いと為る。深く痛むべしや。聖哲機に乗じ、その危溺を拯い、八柱傾きて復た正し、四維絶えて更に張る。遠くは肅しく邇くは安んじ、期月を逾えず、残を勝ち殺を去り、百年を待たず。今、宮観台榭は尽くこれに居り、奇珍異物は尽くこれを収め、姫姜淑媛は尽く側に侍し、四海九州は尽く臣妾と為れり。若し彼の亡ぶる所以を鑑み、我の得る所以を念い、日一日に慎み、休むと雖も休まず。鹿台の宝衣を焚き、阿房の広殿を毀ち、峻宇に危亡を懼れ、卑宮に安処を思わば、則ち神化潜かに通じ、無為にして理む。これ徳の上なり。若し成功毀たず、即ちその旧に仍り、その不急を除き、これを損じて又損ず。茅茨を桂棟に雑え、玉砌に参じて土階を以てし、人を使うことを悦ばしめ、その力をつくさず、常にこれに居る者の逸を念い、これを作る者の労を念い、億兆悦びて子来し、群生仰ぎて性を遂ぐれば、これ徳の次なり。若しおも聖罔念、その終わりを慎まず、締構の艱難を忘れ、天命の恃むべきを謂い、彩椽の恭儉を忽せにし、雕牆の侈靡を追い、その基に因りてこれを広め、その旧を増してこれを飾り、類に触れて長じ、止足を思わず、人の徳を見ずして労役是れ聞こゆれば、これ下たるなり。たとえば薪を負いて火を救い、湯を揚げて沸きを止むるが如く、乱を以て乱にやすえ、乱と同道す。則るべき莫く、後嗣何をか観ん。則ち人怨み神怒る。人怨み神怒れば、則ち災害必ず下り、禍乱必ず作る。禍乱既に作るに、能く身名を以て令終する者は鮮し。天に順いかわ命したる後、七百の祚を隆くし、の孫に謀を貽し、これを万世に伝うるは、得難く失い易し。念わざるべけんや。

その二に曰く、

臣聞く、木の長きを求むる者は、必ずその根本を固くし、流の遠きを欲する者は、必ずその泉源を浚い、国の安きを思う者は、必ずその徳義を積むと。源深からずして豈に流の遠きを望まんや、根固からずして何をか木の長きを求めん。徳厚からずして国の治を思うは、下愚に在りと雖も、その不可なるを知る。況や明哲においてをや。人君、神器の重きに当たり、域中の大なるに居り、将に極天の峻を崇め、無疆の休を永く保たんとす。安きに居りて危うきを思わず、貪を戒めて儉を以てせず、徳その厚きに処せず、情その欲に勝たざれば、これ亦た根を伐って木の茂るを求め、源を塞いで流の長きを欲する者なり。凡そ百の元首、天の景命をけ、殷憂にして道著わさざるは莫く、功成りて徳衰うるは莫からず。善く始むる者は実に繁く、能く終わるを克つ者はけだし寡し。豈にこれを取るは易くしてこれを守るは難きや。昔これを取るに有り余り、今これを守るに足らず。何ぞや。夫れ殷憂に在れば必ず誠を竭くして以て下に待ち、志を得て後は則ち情を縦にして以て物に傲る。誠を竭くすれば則ち胡越一体と為り、物に傲れば則ち骨肉行路と為る。これを厳刑を以て董め、威怒を以て振うと雖も、終に苟も免れて仁をなつかず、貌恭にして心服せず。怨み大なるに在らず、畏るべきは惟れ人なり。舟を載せ舟を覆すは、深く慎むべき所なり。奔車朽索、その忽せにすべけんや。人に君たる者、誠に能く欲すべきを見れば則ち知足を思いて以て自ら戒め、将に作す所有らば則ち知止を思いて以て人を安んじ、高危を念えば則ち謙沖を思いて以て自ら牧し、満溢を懼れば則ち江海を思いて百川に下り、盤遊を楽しまば則ち三驅を思いて以てはかと為し、懈怠を恐るれば則ち始めを慎み終わりを敬するを思い、壅蔽を慮れば則ち虚心を思いて以て下を納れ、讒邪を想えば則ち身を正すを思いて以て悪を黜き、恩の加うる所は則ち喜びに因りて謬賞する無きを思い、罰の及ぶ所は則ち怒りに因りてみだ刑する無きを思う。この十思を総べ、この九徳をひろめ、能を簡びてこれを任じ、善を択びてこれに従う。則ち智者はその謀を尽くし、勇者はその力を竭くし、仁者はその恵をひろき、信者はその忠を効す。文武争いて馳せ、君臣事無く、以て豫游の楽を尽くし、以て松喬の寿を養うべし。琴を鳴らし拱を垂れて、言わずして化す。何ぞ必ずしも神を労し思を苦しめ、下に代わって職を司り、聰明の耳目を役し、無為の大道をかんや。

その三に曰く、

臣が聞くに、『書経』に曰く、「明徳慎罰、惟れ刑恤あわれ(あわれ)むべし」と。『礼記』に云う、「上(かみ)の為すに易(やす)く事(つか)え、下(しも)の為すに易く知らしむれば、則ち刑煩(わずら)わしからず。上多く疑えば則ち百姓惑い、下知り難ければ則ち君長労す」と。夫れ上易事、下易知、君長労せず、百姓惑わず。故に君一徳有れば、臣二心無し。上忠厚の誠を播(ひろ)め、下股肱の力を竭(つく)せば、然る後に太平の基墜(お)ちず、「康(やす)きかな」の詠起る。当今、道華夷におお(おお)われ、功宇宙に高し。服さざる無く、遠きに至らざる無し。然れども言は尚(たっと)ぶに簡大かんだい(かんだい)を以てし、志は明察に在り。刑賞の本は、善を勧め悪を懲らすに在り。帝王の天下と画一(かくいつ)を為す所以は、親疎貴いやを以て軽重せざるなり。今の刑賞は、必ずしも尽く然らず。或いは申屈しんくつ(しんくつ)は好悪に在り、軽重は喜怒に由る。喜に遇えば則ち其の刑を法中に矜(あわれ)み、怒に逢えば則ち其の罪を事外に求む。好む所は則ち皮を(き)り其の毛羽を出だし、悪む所は則ち垢を洗い其の瘢痕(はんこん)を求む。瘢痕はんこん求め可ければ、則ち刑斯ここ(ここ)に濫(みだ)る。毛羽出だす可ければ、則ち賞典謬あやま(あやま)る。刑濫れば則ち小人の道長じ、賞謬れば則ち君子の道消ゆ。小人の悪懲らさず、君子の善勧めずして、治安刑措(けいそ)を望むは、聞かざる所なり。且つ夫れ豫暇よか(よか)清談は、皆孔・老を敦尚(とんしょう)す。威怒の至る所は、則ち・韓に法を取る。直道を行い、三黜さんちゅつ(さんちゅつ)無きに非ず。危き人を以て自ら安んずるは、蓋し亦多し。故に道德の旨未だ弘(ひろ)からず、刻薄の風已すで(すで)に扇(あお)る。夫れ上風既にあおれば、則ち下百端を生じ、人競いて時におもむ(おもむ)けば、則ち憲章一ならず。王度に稽(かんが)えば、実に君道を虧(か)く。昔、州黎(しゅうれい)上下其の手を為し、楚国の法遂に差(たが)う。張湯軽重其の心を為し、漢朝の刑以て弊(やぶ)る。人臣の頗僻はへき(はへき)にして、猶お其の欺罔(きもう)を申(の)ぶる能わざるに、況んや人君の高下を以て、将(は)た何を以て其の手足を(お)かんや。睿聖の聡明を以てし、幽微にして燭(てら)さざる無し。豈に神達せざる有り、智通ぜざる有らんや。其の安んずる所に安んじて、恤刑を以て念と為さず。其の楽しむ所を楽しみて、遂に先笑の変を忘る。禍福相倚よりそ(よりそ)い、吉凶同域、唯人の召す所なり、安んぞ思わざる可けんや。頃者(けいしゃ)責罰稍ようや(ようや)く多く、威怒微(かす)かにはげ(はげ)し。或いは以て供給贍(た)らず、或いは以て人欲に従わず。皆治を致すの急務に非ず、実に驕奢のやや(やや)なり。是れ貴は驕と期せずして驕自ら来り、富は奢と期せずして奢自ら至るを知る。徒(いたずら)に語るに非ず。且つ我が代わる所、実に有隋に在り。隋氏乱亡の源は、聖明の臨照する所なり。隋氏の甲兵を以てし、当今の士馬に況(くら)ぶ。隋氏の府蔵を以てし、今日の資儲に譬(たと)う。隋氏の戸口を以てし、今時の百姓にくら(くら)ぶ。長を度(はか)り大を計れば、かつ(かつ)て何の等級ぞ。然るに隋氏は富強を以てして喪敗し、之を動かすなり。我は貧寡を以てして安寧し、之を静(しず)むるなり。しずむれば則ち安く、動かせば則ち乱る。人は皆之を知る。隠れて見難く、微にして察し難きに非ず。鮮(すく)なく平易の途を蹈み、多く覆車の轍に遵(したが)う。何ぞや。安にして危うきを思わず、治にして乱るるを念わず、存して亡ぶるを慮(おもんぱか)らざるに在るが所致なり。昔、隋氏の未だ乱れざる時、自ら必ず乱れ無しと謂う。隋氏の未だ亡びざる時、自ら必ず亡びずと謂う。所以に甲兵屡(しばしば)動き、徭役息(や)まず、身将(まさ)戮辱りくじょく(りくじょく)せられんとするに至りて、竟(つい)に其の滅亡の由る所を悟らず。哀しまざる可けんや。夫れ形の美悪を鑑(かんが)みるには、必ず止水に就く。国の安危を鑑みるには、必ず亡国を取る。『詩経』に曰く、「殷鑑遠からず、夏后の世に在り」と。又曰く、「柯(え)を伐るを伐る、其の則(のり)遠からず」と。臣願わくは、当今の動静、隋氏を以て鑑と為して思わば、則ち存亡治乱、知るを得ん。若し其の危うき所以を思わば、則ち安し。其の乱るる所以を思わば、則ち治まる。其の亡ぶる所以を思わば、則ち存す。存亡の在る所は、嗜欲を節して人に従う。畋游(でんゆう)の娛をはぶ(はぶ)き、靡麗(びれい)の作を(や)め、不急の務を罷(や)め、偏聴の怒を慎む。忠厚に近づき、便佞べんねい(べんねい)を遠ざけ、悦耳の邪説を杜(ふさ)ぎ、苦口の忠言を聴く。易進の人を去り、難得の貨を賤(いや)しむ。堯・舜の誹謗を采(と)り、禹・湯の罪己を追(お)う。十家の産を惜しみ、百姓の心に順う。近く諸身に取り、恕を以て物に待つ。労謙を思いて以て益を受け、自ら満たずして以て損を招かず。動有れば則ち庶類以て和し、言を出だせば則ち千里斯(ここ)に応ず。上徳を前載に超え、風声を後昆に(た)つ。此れ聖哲の宏規、帝王の盛業、能事斯(ここ)(お)わり、慎守に在るのみ。夫れ之を守るは則ち易く、之を取るは実に難し。既に其の難き所以を得たり。豈に其の易き所以を保たざらんや。其れ或いは之を保つこと固からずんば、則ち驕奢淫泆(いんいつ)之を動かすなり。終わりを慎むこと始めの如くせんには、勉めざる可けんや。『易経』に云う、「君子は安くして危うきを忘れず、存して亡ぶるを忘れず、治まって乱るるを忘れず。是を以て身安くして国家保つ可し」と。誠に斯の言、深く察せざる可からず。伏して惟(おも)うに、陛下善を欲するの志、昔時に減ぜず。過を聞きて必ず改むるは、曩日(じょうじつ)すこ(すこ)し虧(か)けたり。若し当今の無事を以てし、疇昔ちゅうせき(ちゅうせき)の恭儉を行わば、則ち尽善尽美、固(もと)より称するを得る無し。

其の四に曰く。

臣聞く、国を為すの基は、必ず徳礼に資り、君子の保つ所は、惟だ誠信に在るのみと。誠信立てば則ち下に二心無く、徳礼形あらわれれば則ち遠人斯にいた(いた)る。然らば則ち徳礼誠信は、国の大綱にして、父子君臣に在りて、斯須(しばらく)も廃すべからざるなり。故に孔子曰く、「君臣を使うに礼を以てし、臣君に事うるに忠を以てす」と。又曰く、「古より皆死有り、人信無くんば立たず」と。文子曰く、「同じき言にして信あれば、信は言の前に在り;同じき令にして行なわれれば、誠は令の外に在り」と。然らば則ち言にして行なわれざれば、言信無きなり;令にして従わざれば、令誠無きなり。信無きの言、誠無きの令は、上と為れば則ち国を敗り、下と為れば則ち身を危うくす。顛沛てんぱい(てんぱい)の中に在りと雖も、君子の為さざる所なり。王道休明(きゅうめい)なるより以来、十有餘年、威海外に加わり、萬国来庭し、倉稟そうりん(そうりん)日々に積み、土地日々に広し。然るに道徳益々厚からず、仁義益々博からざるは、何ぞや。下を待つ情、未だ誠信に尽きざるに由るなり。善始の勤め有りと雖も、克終の美を見ざる故なり。其の由来する所は漸(ようや)くにして、一朝一夕の故に非ず。昔、貞観の始め、善を聞けば驚くが若く、五六年の間、猶諫に従うを悦びたり。ここ(ここ)より厥(そ)の後、漸く直言を悪(にく)み、或いは強いて勉むるも、時に容るる所あれど、復た曩(さき)豁如かつじょ(かつじょ)たるに非ず。謇諤(けんがく)の士は、稍々龍鱗を避け、便佞(べんねい)の徒は、肆(ほしいまま)に其の巧辯をたくま(たくま)しうす。同心なる者を朋党と謂い、告訐(こくけつ)する者を至公と謂い、強直なる者を擅権せんけん(せんけん)と謂い、忠讜(ちゅうとう)なる者を誹謗と謂う。之を朋党と謂えば、忠信と雖も疑わしむべく;之を至公と謂えば、矯偽きょうぎ(きょうぎ)と雖も咎(とが)無し。強直なる者は擅権の議を畏れ、忠讜ちゅうとうなる者は誹謗のとが(とが)を慮る。竊斧(せっぷ)の疑いを生じ、投杼とうちょ(とうちょ)の惑いを致すに至りては、正人其の言を尽くすを得ず、大臣之と諍(いさか)う能わず。視聴を熒惑けいわく(けいわく)し、大道に鬱(ふさ)がり、化を妨げ徳を損なう、其れ茲(ここ)に在るか。故に孔子、利口の邦家を覆すを悪(にく)むは、蓋(けだ)し此れが為なり。且つ君子小人は、貌同じくして心異なり。君子は人の悪を掩(おお)い、人の善を揚げ、難に臨みて苟(いやしく)も免るる無く、身を殺して以て仁を成す。小人は不仁を恥じず、不義を畏れず、唯だ利の在る所、人を危うくして以て自ら安んず。夫れ苟(もし)も人を危うくするに在らば、則ち何の至らざる所かあらん。今将に致治を求めんと欲すれば、必ず之を君子に委ね;事得失有れば、或いは之を小人に訪う。其の君子を待つや、則ち敬して疎んじ;小人に遇うや、必ず軽んじて(な)れ親しむ。狎れば則ち言尽くさざる無く、疎ければ則ち情或いは通ぜず。是れ誉毀(よき)は小人に在り、刑罰は君子に加わり、実に興喪の在る所、亦た安危のかか(かか)る所、慎まざるべけんや。夫れ中智の人、豈に小慧無からんや、然れども才は国を経るに非ず、慮は遠きに及ばず。力を竭(つく)し誠を尽くすと雖も、猶お傾敗を免れず;況んや内に奸利を懐き、顔を承(う)けて旨に順う、其の患禍を為す、亦た深からずや。故に孔子曰く、「君子或いは不仁なる者有り、小人にして仁なる者を見ざるなり」と。然らば則ち君子も小悪無き能わず、悪積もらざれば、正道を妨げず;小人或いは時に小善有り、善積もらざれば、以て忠を立つるに足らず。今之を善人と謂いて、復た其の信無きを慮うは、直き木を立てて其の影の直からざるを疑うに何ぞ異ならん。精神を竭し、思慮を労すと雖も、其の不可なること亦た已(すで)に明らかなり。夫れ君能く礼を尽くし、臣忠を竭くすを得るは、必ず内外私無く、上下相信うに在り。上信ぜざれば則ち以て下を使う無く、下信ぜざれば則ち以て上に事うる無し。信の義と為す、大なるかな。故に天の之をたす(たす)くるより、吉にして利ならざる無し。昔、斉の桓公、管仲に問うて曰く、「吾爵に酒腐らしめ、俎(そ)に肉腐らしめんと欲す、霸に害無からんや」と。管仲曰く、「此れ極めて其の善き者に非ざれども、然れども亦た霸に害無し」と。公曰く、「何如いか(いか)にしてか霸を害せん」と。曰く、「人を知る能わざるは、霸を害すなり;知りて用うる能わざるは、霸を害すなり;用いて信ぜざるは、霸を害すなり;既に信じて又小人をして之に参(まじ)わらしむるは、霸を害すなり」と。晋の中行穆伯ちゅうこうぼくはく(ちゅうこうぼくはく)、鼓(こ)を攻むるに、年を経て下す能わず。饋間倫きかんりん(きかんりん)曰く、「鼓の嗇夫(しょくふ)、間倫之を知る。請う、士大夫を疲れさすこと無くしてを得ん」と。穆伯応えず。左右曰く、「一戟を折らず、一卒を傷つけずして、鼓を得べし。君何を為してか取らざる」と。穆伯曰く、「間倫が人と為りや、佞にして仁ならず。若し間倫之を下さば、吾賞せざるべからず。之を賞するは、是れ佞人を賞するなり。佞人志を得ば、是れ晋国の士をして仁を捨てて佞を為さしむるなり。鼓を得ると雖も、将(は)た何を用いん」と。夫れ穆伯は列国の大夫、管仲は覇者の佐(たすけ)、猶お信任を慎み、佞人を遠避する此の如し。況んや四海の大君と為り、千齢の上聖に応(おう)じて、巍巍(ぎぎ)たる盛徳をして、復た将に間然かんぜん(かんぜん)する所有らしむべけんや。若し君子小人の是非雑(まじ)わらざらしめんと欲せば、必ず之を徳を以て懐(なつ)け、信を以て待ち、義を以て厲(はげ)まし、礼を以て節し、然る後に善を善とし悪を悪とし、罰を審らかにし賞を明らかにせば、則ち小人其の佞邪を絶ち、君子自ら強いて息(や)まず。無為の化、何ぞ遠からんや。善を善として進むる能わず、悪を悪として去る能わず、罰有罪に及ばず、賞有功に加わらざれば、則ち危亡の期、或いは保つべからず。永く祚胤(そいん)たま(たま)わんと将(は)た何をか望まん。

太宗、手詔を以て嘉美し、優に之を納れたり。嘗て長孫無忌に謂いて曰く、「朕即位の初め、上書する者或いは言う『人主は必ず威権を独り運らし、群下に委任すべからず』と;或いは兵を耀かがや(かがや)かし武を振るい、四夷を懾服(しょうふく)せんと欲す。唯だ魏徵のみ朕を勧めて『革(かわ)を偃(や)めて文を興し、徳を布き恵を施し、中国既に安んずれば、遠人自ら服す』と。朕其の語に従う、天下大いに寧んず。絶域の君長、皆来朝貢し、九夷重訳ちょうやくして、道に相望む。此れ皆魏徵の力なり」と。

太宗はかつて上封する者が多く、事実に近くないことを嫌い、免し責めようとした。魏徴が奏上して言うには、「古には誹謗の木を立て、己の過ちを聞こうとした。今の封事は、誹謗の木の流れである。陛下が得失を聞こうと思われるなら、ただ彼らに陳述することを恣にさせるべきである。もし言うことが正しければ、陛下に益がある。もし正しくなければ、国家に損いはない。」太宗は言った、「この言葉は正しい。」そして労をねぎらい彼らを帰した。後に太宗が洛陽宮におり、積翠池に幸し、群臣を宴し、酒が酣になると各々一事を賦した。太宗は『たっと書』を賦して言った、「日が傾いて百篇を玩び、燈に臨んで『五典』を披く。夏のやすは既に逸豫し、商の辛もまた流湎す。情を恣にする昏主多く、己に克つ明君鮮し。身を滅ぼすは累悪に資り、名を成すは積善による。」魏徴は西漢を賦して言った、「降を受くるは軹道に臨み、長を争うは鴻門に趣く。伝を駆るは渭橋の上にあり、兵を観るは細柳の屯にあり。夜宴は柏谷を経、朝游はふさ原に出づ。終に叔孫の礼を藉り、方に皇帝の尊を知る。」太宗は言った、「魏徴は毎度言うに、必ず礼をもって我を約す。」まもなく『五礼』を修定したことにより、一子を封じて県男とすべきところ、孤兄の子叔慈に譲ることを請うた。太宗は愴然として言った、「卿のこの心は、俗を励ますことができる。」遂にこれを許した。十二年、礼部尚書王珪が奏言して言うには、「三品以上の者が途上で親王に遇うと、皆車から降り、法に違って敬意を表し、儀礼の準則に背いている。」太宗は言った、「卿らは皆自ら尊貴であり、我が子を卑しむのか。」魏徴が進み出て言うには、「古より今に至るまで、親王の班次は三公の下である。今三品は皆天子の列卿及び八座の長であり、王のために車から降りることは、王の当に受くべきところではない。故事に求めれば、則ち拠るべきものなし。今に行えば、また国の法に背く。」太宗は言った、「国家が太子を立てる所以は、君となすことを擬するためである。然らば人の修短は、老少に在らず、仮に太子がなければ、則ち母弟が次に立つ。これをもって言えば、どうして我が子を軽んずることができようか。」魏徴は言った、「殷の家は質を尚び、兄終わりて弟及ぶの義あり。周以降より、嫡を立てるには必ず長を以てし、これをもって庶孽の窺覦を絶ち、禍乱の源本を塞ぎ、国を持つ者の深く慎むところである。」ここにおいて遂に王珪の奏を可とした。時に皇孫が誕育したので、公卿を召して宴を賜り、太宗は侍臣に謂って言った、「貞観以前、我に従って天下を平定し、艱険に周旋したのは、房玄齢の功であり、譲る所なし。貞観以後、我に尽くし、忠讜を献納し、国を安んじ民を利し、顔を犯して正しく諫め、朕の違を匡した者は、ただ魏徴のみである。古の名臣、何を以てかこれに加えよう。」ここにおいて親しく佩刀を解いて二人に賜った。

魏徴は戴聖の『礼記』が編次が倫を失しているとして、遂に『類礼』二十巻を撰し、類を以て相従い、その重復を削り、先儒の訓注を採り、善を択びこれに従い、精を研ぎ思を覃ね、数年にして畢った。太宗はこれを見て善しとし、物一千段を賜い、数本を写して太子及び諸王に賜い、なお秘府に蔵した。

先に、使者を西域に遣わして葉護可汗を立てたが、未だ帰還せず、また使者を多く遣わして金銀帛を携え諸国を歴て馬を買わせた。魏徴が諫めて曰く、「今、可汗を立てることを名目とし、可汗は未だ定まらず、すなわち諸国に赴いて馬を買う。彼らは必ずや意図は馬を買うことにあり、専ら可汗を立てることに専念せざるものと為すべし。可汗が立てられ得たとしても、則ち甚だ恩を懐かしむこと無からん。諸蕃これを聞き、以て中国は義を薄くし利を重んずるものと為し、未だ必ずしも馬を得ずして、義を失わん。昔、漢の文帝に千里の馬を献ずる者有りき。曰く、『吾が凶行は日に三十里、吉行は五十里、鑾輿は前に在り、属車は後に在り、吾独り千里の馬に乗りて将に何れの処にか之かん』と。乃ちその道里の費を賞してこれを返した。漢の光武帝に千里の馬及び宝剣を献ずる者有りき。馬は以て鼓車を駕し、剣は以て騎士に賜う。陛下の凡そ施為する所は、皆三王を遥かに超え越えたり。奈何ぞこの事に至りて、孝文・光武の下に為らんと欲するや。又、魏の文帝、西域の大珠を求めて買わんと欲す。蘇則曰く、『若し陛下の恵み四海に及べば、則ち求めずして自ずから至る。求めてこれを得たりとも、貴ぶに足らざるなり』と。陛下、縦え漢文の高行を慕わずとも、蘇則の言を畏れざるべけんや」と。太宗その言を納れて止めた。時に公卿大臣並びに封禅を請う。唯だ魏徴のみ以て不可と為す。太宗曰く、「朕、卿に極言せしめんと欲す。豈に功高からずや。徳厚からずや。諸夏未だ治安せずや。遠夷、義を慕わずや。嘉瑞至らずや。年穀登らずや。何を以てか不可と為す」と。対えて曰く、「陛下の功は則ち高し。然れども民未だ恵を懐かず。徳は厚しと雖も、沢未だ滂流せず。諸夏安しと雖も、未だ以て事を供するに足らず。遠夷、義を慕うと雖も、以てその求に供する無し。符瑞は臻ると雖も、網羅猶密なり。積年の豊稔と雖も、倉廩尚虚し。これ臣の窃かに未だ可ならずと謂う所以なり。臣、遠く譬える能わず、且つ人を借りて喩えん。今、人ありて十年の長患有り、療治して且つ癒えんとす。この人は応に皮骨僅かに存するのみ。便ち米一石を負わせ、日に百里を行かしめんと欲す。必ず得べからず。隋氏の乱は、十年に止まらず。陛下これを為す良医たり。疾苦はすでに乂安すと雖も、未だ甚だ充実せず。天地に告成せんとす。臣窃かに疑い有り。且つ陛下東封せば、万国咸く萃まる。要荒の外、奔走せざる莫し。今、伊・洛より以東、海岱に至るまで、灌莽巨沢、蒼茫千里、人煙断絶し、鶏犬聞こえず、道路蕭条として、進退艱阻す。豈に彼の夷狄を引き、以て虚弱を示すべけんや。財を竭くして賞せんも、未だ遠人の望を厭わず。重ねて給復を加うるも、百姓の労を償わず。或いは水旱の災、風雨の変に遇わば、庸夫横議し、悔ゆるも追うべからず。豈に独り臣の懇誠のみならん、亦た輿人の誦有り」と。太宗奪う能わず。是れより後、右僕射欠け、これを拝せんと欲す。魏徴固く譲る。乃ち止む。皇太子承乾、徳業を修めず、魏王泰、寵愛日隆く、内外の庶僚、並びに疑議有り。太宗聞きてこれを悪み、侍臣に謂いて曰く、「当今の朝臣、忠謇なるは魏徴に逾る無し。我、皇太子に傅せしめ、以て天下の望を絶たん」と。十六年、太子太師を拝し、門下省事を知ること旧の如し。魏徴自ら疾有りと陳ぶ。詔答えて曰く、「漢の太子、四皓を助けと為す。我の公に頼むは、即ちその義なり。公の疾病を知る。臥してこれを護るべし」と。その年、綿惙を称す。中使相望む。魏徴の宅は先に正寝無し。太宗、小殿を為さんと欲し、その材を輟きて魏徴の為に営構す。五日にして成る。中使を遣わして素褥布被を齎しこれを賜い、その尚ぶ所に遂う。病篤に及び、輿駕再びその第に幸す。これを撫して流涕し、言わんと欲する所を問う。魏徴曰く、「嫠は緯を恤れずして宗周の亡びを憂う」と。後数日、太宗夜夢みるに魏徴平生の若し。旦に及びて魏徴薨ずと奏す。時に年六十四。太宗親臨して慟哭し、朝を廃すること五日。司空・相州都督を贈り、謚して文貞と曰う。羽葆鼓吹・班剣四十人を給し、賻として絹布千段・米粟千石を賜い、昭陵に陪葬す。将に祖載せんと及ぶに、魏徴の妻裴氏曰く、「魏徴平生儉素なり。今、一品の礼を以て葬る。羽儀甚だ盛んなり。亡者の志に非ず」と。悉く辞して受けず。ついに布車を以て柩を載せ、文彩の飾り無し。太宗苑西楼に登り、喪を望みて哭す。詔して百官をして郊外に送出せしむ。帝親しく碑文を制し、並びに石に書す。その後追思已まず、その実封九百戸を賜う。嘗て臨朝して侍臣に謂いて曰く、「夫れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正すべし。古を以て鏡と為せば、以て興替を知るべし。人を以て鏡と為せば、以て得失を明らかにすべし。朕常にこの三鏡を保ち、以て己が過ちを防ぐ。今魏徴殂逝し、遂に一鏡を亡う。魏徴亡き後、朕人を遣わしてその宅に至り、その書函に就きて表一紙を得たり。始め表草を立てしに、字皆識り難し。唯だ前に数行有り、稍々分弁すべし。云く、『天下の事、善有り悪有り。善人を任ずれば則ち国安く、悪人を用いれば則ち国乱る。公卿の内、情に愛憎有り。憎む者は唯だその悪を見、愛する者は唯だその善を見る。愛憎の間、詳慎すべき所なり。若し愛してその悪を知り、憎んでその善を知り、邪を去るに疑わず、賢を任ずるに貳せずんば、以て興すべし』と。その遺表此の如し。然れども朕これを思うに、恐らくはこの事を免れざらん。公卿侍臣、これを笏に書き、知りて必ず諫めよ」と。魏徴の状貌は中人を逾えず。而して素より胆智有り。毎に顔を犯して進諫す。王の赫怒するに逢うと雖も、神色移らず。嘗て密かに中書侍郎杜正倫及び吏部尚書侯君集に宰相の材有るを薦む。魏徴卒したる後、正倫は罪を以て黜せられ、君集は逆を犯して誅せらる。太宗始めて魏徴が阿党するを疑う。魏徴又自ら前後諫いさかの言辞往復を録して以て史官起居郎褚遂良に示す。太宗これを知り、愈よ悦ばず。先に衡山公主をその長子叔玉に降嫁せんことを許す。ここに於いて手詔して婚を停む。その家の漸く衰ゆるを顧みる。魏徴四子、叔琬・叔璘・叔瑜。

叔玉は爵の国公を襲ぎ、官は光禄少卿に至る。叔瑜は潞州刺史に至り、叔璘は礼部侍郎、則天の時に酷吏に殺さる。神龍初年、継いで叔玉の子膺を封じて鄭国公と為す。

叔瑜の子華、開元初年太子右庶子。

史臣曰く

史臣曰く、臣嘗て漢史『劉更生伝』を読み、その上書して王氏の権を擅にし、恐らくは運祚を移さんことを論じ、漢の成帝悟らず、更生伊郁に徘徊し、極言して禍患を顧みざるを見る。何ぞ匡益忠尽なること此の如きや。更生の時に当たりては、諫むる者甚だ多し。谷永・楊興の上言の如きは、図りて奸利を為し、賊臣と鄕導を為す。梅福・王吉の言は、古道に近しと雖も、未だ事情に切れず。則ち諫を納れ賢を任ずるは、詎んぞ容易ならんや。臣嘗て『魏公故事』を閲し、文皇と政術を討論し、往復応対すること、凡そ数十万言。その過ちを匡え違いを弼え、能く近く取りて譬え、博く約して類を連ね、皆前代の諍臣の至らざる所なり。その実は道義に根ざし、律度として発す。身正しくして心勁し、上は時主に負けず、下は権幸に阿らず、中は親族を侈らず、外は朋党を為さず、時に逢うて以て節を改めず、位を図りて以て忠を売らず。載する所の章疏四篇は、万代の王者の法と為すべし。漢の劉向・魏の徐邈・晋の山濤・宋の謝朏の如きは、才は則ち才なり。文貞の雅道に比すれば、遺行有らざらんや。前代の諍臣、一人のみ。

賛に曰く、智者は諫めず、諫むる者は或いは智ならず。智者は言を尽くせば、国家の利なり。鄭公(魏徴)は節に達し、才は経済に周し。太宗之を用い、子孫世を長くす。

原本を確認する(ウィキソース):旧唐書 巻071